昔、独逸ドイツのある貴族の家に大へんに可愛らしい、さうして美しい少年がありました。両親が非常に厳格だつたので、少年は無暗に外へ遊びに出ることが出来ませんでした。然し御殿のやうに立派な少年の室には、あらゆる書物や遊び道具がすつかり備へられてあつたから退屈をするやうな事は決してなかつたのです。遊び相手の召使も大勢居たけれど、何故か彼はそれ等の人達にとりまかれて、若様、若様とちやほや騒がれるよりも、天気のよい日には裏の花園へ出て昆虫を採集したり、雨の降つた日には自分の室で本を読んだり、母から買つて貰つた人形芝居を、独りでもてあそんだりすることが好きでした。
 彼は人形芝居を操ることが日増に上手になり、王様や道化や女王などが、彼の心の儘に自由に動くやうになりました。人形を操つてゐると、何となく自分はある大きな力を持つた神様にでもなつたかのやうな気持になるのでした。何故なら、泣かせようと思へば直ぐに泣くし、喜ばせようと思へば手と足との糸を引きさへすれば、人形は飛び上つて喜ぶからです。
 ――人間の世界もこれと同じやうなものだ。自分は今この人形達の凡べての力を持つてゐる王なのだ。若し自分が大人になつて、世間の人々を此の人形と同じやうに操ることが出来たら、自分は世界の王様になれる筈だ――こんなことを彼は時々考へました。
 それがだんだんに上手になつて、終ひには、たゞ泣かせたり笑はせたりばかりしてゐるだけでは満足が出来なくなつた彼は、或日のこと一所懸命になつてある芝居の筋書を作つて見ました。さうしてその筋書通りに人形を操つて見ましたが、自分としては非常に嬉しく満足しました。

 ある日のこと少年は、人形芝居の遊びにも疲れて、窓に倚つて外を眺めて居りました。花園の花に陽炎が静かにもえてゐる、美しい天気の日でした。
 垣の向ふに一軒の古い見すぼらしい家がありました。壁はくづれかゝつてゐたけれど、青々した蔦葛が一ぱいにそれを覆つてゐるので、却つて美しく見えました。窓の上には古風な文字で歌が書き付けられてあつて、その下には鉛色の筧の端が竜の頭になつてゐて、そこから銀色に映えた清水が、ハラハラとこばれてゐました。
 ふと見ると、その窓側の露台バルコニーに、古びた長椅子の上に、真鍮のボタンの付いてゐる上衣を着た一人の老人が腰掛けてゐました。老人は木の間から洩れて来る日光に浴しながら、仮髪かつらの縫ひとりをしてゐるらしく見えました。
 老人と少年との視線が出逢つた時、老人はニツコリと微笑みました。その時少年は、今迄嘗て感じた事のない静かな喜びが、胸に迫つて来るのに気が附きました。
 いつのことだつたか、その時は何気なく聞いてゐたので、少しも気に留まらなかつたが、母が「お隣のお爺さんはあゝして年中たつたひとりで暮してゐるのですよ。さぞ寂しいことだらうと皆が云つてゐるのだがね。けれども子もなし親類もないといふのだから、どうすることも出来ない……」と云つたことを、ふと思ひ出しました。
 ――これから僕はお爺さんの処へ遊びに行かう、と彼は急に思ひ立つて、窓から離れました。さうして人形芝居の道具を抱へて、花園を越えて老人の窓の下へ駆けて行きました。
「お爺さん!」と彼は大きな声で呼びました。
「オヤ、これはお隣りの若様じやありませんか。どうしてまた今日は……」
「僕、お爺さんと遊ばう。」
「これはどうも恐れ入りました。ではどうぞお爺さんと一緒に遊んでやつて下さい。私はひとりぽつちで毎日退屈してゐるのです。」
 そこで少年は老人が降して呉れた梯子を昇つて露台バルコニーへ上り、老人の椅子の傍に立つて、
「ね、お爺さん、僕、今日人形芝居の道具を持つて来たの。僕は大へんに上手なのですから、今からやつて見せて上げませう。」
 少年は細やかな手際で、自分で作つた詩を歌ひながら人形を踊らせました。老人は手を打つて喜びました。
 夕暮の帷が露台の欄干に湿つた頃になつて、お母様が御心配なさるといけないから、と老人に促されて、少年はやつと家へ帰りました。
 それからといふもの、少年は毎日この老人の窓を訪れました。老人はその昔市長を勤めたことのある偉い人だつたのですが、妻に早く死別れて後は、たつたひとりぽつちになつて了つたので、この小さな古い家に移つて、寂しく世を送つてゐるのでした。だから老人の家はこはれかゝつてゐたけれど、室の中には大へんに立派な銀の燭台やら……世に在つた当時の名残を偲ばるゝ道具が沢山ありました。老人は詩を作ることが大へん上手でした。で、人形芝居を少年が演つて了つた後では、必ず詩の話をしてくれました。ホーマー物語とかライン河の伝説だとかは非常に少年を喜ばせました。
「お爺さん、僕は貴方のお蔭で大へんに偉くなりました。僕は始終美しい夢を想つて居ります。僕はその夢をどうにかして詩に現はし度いとばかり望んで居りました。けれど僕には歌へませんでした。で僕は人形の力を借りて自分のとりとめもない夢を眼の前に現はさうとしたのです。然し今では、僕は自由に自分の想つてゐることを詩に歌ふことが出来るやうになりました。僕はもうこんなまどろかしい人形などをもて遊ぶ必要はなくなりました。僕の想ひはあの花園の薔薇のやうに輝かしく開きました。お爺さん、どうも有り難う、僕は心から感謝いたします。
 それに就いて僕はお爺さんにお願ひがあります。僕はこの人形芝居の道具をお爺さんに捧げ度いと思ふのです。僕はもうこんなものは不必要になつて了つたのですから、僕が持つてゐたならば屹度何処かに失してしまふかも知れません。
 お爺さん、どうかこの人形を可愛がつて下さい。僕はだんだんに大きくなつてゆきます。幼い日の記憶はこれより他にはないのです。どうかこれを僕だと思つて、あの戸棚の中にしまつて置いて下さい。」と、ある時少年は老人に向つて云ひました。老人は少年の申出でを大へんに喜んで、「私は私の家の宝物と一緒にこれをしまつて置きます。」と云ひました。
 それから数年程経つて老人は、八十何歳かで没くなりましたが、もうその頃は少年は都へ出て大学へ入つて居りました。少年(今は青年)は暑中休暇で帰省してゐましたが、ある日の事窓に倚つて、老人のことを思ひ出してゐると、老人のい筈のあの古い家の中で何かがやがやしてゐるので、不思議に思つて近づいて見ると、老人の家の道具が丁度競売に附されてゐるところでした。もう大概の品物は片附いた頃、戸棚の奥から立派な風呂敷に包んだ箱が出て来ました。人々は何が入つてゐるだらうと眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりました。するとその中からはもう大分古くなつた人形芝居の道具が出て来ました。人々はお腹を抱へて笑ひました。老人はどういふ気でこんなつまらない物を大切に蔵つて置いたのだらう、と云つて訝りました。それでも商人は一応台の上に立つて買手を求めましたが、勿論たゞでも貰ひ手のあらう筈がありません。
 この様子を蔭から、凝と視詰めてゐた少年の眼からは、ハラハラと涙がこぼれました。
「僕が買ひます。百円で僕が買ひます。」
 人々は、あの少年は気狂ひぢやないのかしらと冷笑しましたが、少年は頓着なくそれを抱へて、夢中で家へ駆け帰りました。泣いても泣いても涙が止まりませんでした。

          *

 少年はやがて立派な紳士になりました、間もなく独逸の総理大臣になりました。

 この少年の名前こそ人々の誰れでもが知つてゐるところの政治家で、文豪であるゲーテなのであります。世界の文芸史上に与へた彼の不朽の傑作「フアウスト」は、今も昔も変りなく私達の胸に新らしい輝きを与へて居ります。

底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「少年 第二〇四号(歴史小説号 八月号)」時事新報社
   1920(大正9)年7月8日発行
初出:「少年 第二〇四号(歴史小説号 八月号)」時事新報社
   1920(大正9)年7月8日発行
※底本には「首相(そうりだいじん)の思出」とルビがついています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月26日作成
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