目次
 玄奘三蔵法師が或日、孫悟空に向つて、
「汝の勇と智は天上天下に許されてゐる、天の魔も地の鬼も、汝の黒一毛にも及ばない。かゝる大智大勇と非凡な妖術とを有しながら、何故天下を領せんとせず、仏門に帰つて、それも余が如き力量もなく妖術も弁へぬ小法師に従うてゐるのか、その理由がきゝ度いのだ。」と問うた。すると悟空は立処に、
「勇や智は如何程あらうとも、それはこの身が存命の間だけに限られたもので御座いませう。悟空の身が滅びた時には、天地を破る此如意棒も棄てられた縫針にならねばなりません――。
 のみならず悟空の智はもとより猿の智で御座います。」と悲しさうに答へた。
「ならば、汝は天地に説いて万世に遺さうと望むのか。」
「どういたしまして。
 私は卑しい猿で御座います。決して説く力は持ちません。」
「説く力量の無いことを自分でよく承知してゐるのか。」
「はい、よく承知いたして居ります。」
「ハッ……ッ。」玄奘は突如、呵々と打ち笑つた。
「祖師様!」と、こゝで悟空は、今迄の調子は諄々としてたゞ己が持つてゐる「あきらめ」を苦もなく答へてゐるのであつたが、悲痛な声に一変して、(こんなくだらない事は他人に取つては、まるで取るに足りない愚なことで、自分もそれはよく知つてゐるのだから、と思ふ度毎に同時に打ち消してはゐたのだつたが、この瞬間にはその臆病な愚かな理性を忘れてしまつて……)「祖師様」と叫んだ。「何をお笑ひになりますか。悟空は勇あつて説く術を知らざるを真心から悲しんでお訴へ申してゐるのではありませんか。」――。
 悟空は涙を流してゐた、が、ふと、恥入るやうな体で、而も玄奘の顔を凝と瞶めながら、「それとも、この猿奴の悲しむ顔付が可笑しうてお笑ひになるので御座いますか。」と息を殺して玄奘の顔を見上げてゐる……。
「何で汝の顔などを笑ふものか。」と玄奘が答へると、
 ……悟空の悲嘆の色は、みるまに消えて、
「それでは何の為に。」と追求はしたが、今の愚問を冷静に玄奘が聞いてゐる事と、同時に己の顔の醜さを笑はれたのではないと云ふ事が解かつたので、もう先の問答など、どうでもいゝやうな気がした程安心し落着いて了つた。(が、安心し乍らも、何とまあ俺は他合もない奴なのだらうかな、と思つてゐた。)
「汝の云ふ事が余りに矛盾してゐるから可笑しうなつたのだ。説くことを求めぬ者が、何も非凡な妖術を押へて他人の許に従うてゐる用はないではないか。汝の妖術が汝一代で滅するといふことを知つてゐるならば、思ふが儘に暴れ廻つて悪魔共を征服し、悟空の王国を建てるは容易なことではないか。」
「若し私が猿でなかつたら必ず王になつてお目にかけますが。」
「然し汝よりも数等醜い妖魔共が到る処に王となつて、ほしいまゝ快楽けらくに耽つてゐるではないか。」
「それは私もよく存じて居ります。然し私が思ひますには、悪魔共がいくら王座にをさまつてゐても、あの見苦しい姿体と顔貌の所有者である以上は到底心からの満足を得てゐる者ではなからう、と信ずるのであります。」
「汝は美女に愛さるゝのが本望なのか。」
「決して左様なことはありません、私は自分の姿の醜さを知つてゐる限り、寧ろ心に邪淫を思ふ時は恐ろしくてなりません。」
「では何のために生きてゐるのか。説くも求めず快楽も求めず、一生従者で犬の如くに死んでもかまはないのか。」
「仕方がない、と思つて居ります。」
「何故。」
「私は犬と同様なのです。なまじ猿が通力などを得たことが、反つて異様な醜さを赤裸にしたやうなものです。私は私自身が如何に不幸な運命の下に生れたかをよく存じて居ります。私は山猿で居度う御座いました。」
「……」玄奘は悟空の胸を察して、美しい眼瞼を伏せて黙した。悟空は卑しげな眼を窃に挙げて、恍惚として玄奘の顔を眺めるのであつた。
 稍暫く経つて、「祖師様!」とまた悟空は悲しげに叫んだ。
「私の真心を申し上げてしまひますから決してお笑ひ下さいますな、愚かな従者をお持ちになつた祖師様、祖師様のお嘆きは悟空の罪で御座います。――私は、今申し上げた通りこれと云つて何の望みもありませんが、実はその……私は、……。
 私は祖師様の、どうぞお許し下さい、その美しい眼、麗はしいかんばせ、黒い毛の一本もない真白いお姿、整つた五体……それが何よりも羨しいのです。で、私は、たゞかうして祖師様のお顔を拝してゐられることだけが私の唯一の快楽なのです。」悟空は額を地に伏せて涙ながらに云つた。
「さうか。」玄奘は冷やかに答へた。
「私は、今迄随分と衆生を済度して参りました、がかう申し上げたらお怒りも御座いませうが、私は決して仏教に帰依する者として動いたのでありません。
 せめて私の卑しい悲しみに、あはれな喜びを与へたいがために――醜い悪魔共を征服して、私より美しい凡ての人間を救つて来たのです。若し悪魔の方がより美しかつたら決して私は彼等の敵とならなかつたで御座いませう。」
「私は汝を責めぬ。汝の正直を讚へる。如何なる慾から出たかは知らぬこと、兎に角汝は衆生を済度してゐることは事実だ。衆生のために栴檀功徳仏を希うて苦しみ給うた大釈尊も、万物の喜悦を見られ度いがためになされたのだ。吾も万難を犯して西天竺へ行くはみな本心から出た慾なのだ。(かう云はれても悟空には少しも解らなかつた、釈尊の心も師の心も想像出来なかつた。)何か慾がなくて動くことの出来るものではない。衆生済度に働きながらも尚その裏に動く慾心を正直に悔ゆるところは他人の真似の出来ぬ徳であらう。」玄奘は説き続けたが、悟空の悲しみの色は消えさうにもなかつた。終ひには「こりやどうも、おだてられてゐるのだか、憐れまれてゐるのだか、讚められてゐるのだか、或は度し難き馬鹿と見限られてしまつたのか、いや屹度さうに違ひない。」となど思つたりした。

 貞観の十三年、玄奘法師の一行は、朱紫といふ世にも稀な美しい国に着いて、この城に宿ることになつた。この国は不思議な国なのであつた。白い川、緑の山、年中晴れ渡つた青い空……囀る小鳥の赤い翼、水底の青い砂に踊る小魚の白い腹……、で朱紫国は、これは又奇怪の国々のみを遍歴して大概のものに驚かされることの無い玄奘の一行だつたが、
「夢だ、夢だ、夢でなけりやこんな麗はしい可憐な国のあらう筈が無い。」と呆然として、計らずもその滞留を永引かせてしまつたのであつた。
 更にまた驚く可き事には、此国の人々は凡て、男と女の区別が決して出来ない程美しく優しく何れも夢の国の人々の如くに色が白くて小胆なのである。だから孫悟空、猪八戒、沙悟浄等の恐ろしく怪しげな旅人を見ては、子供のやうに戦き目を伏せぬ者は一人もなかつた。道端に立ち並んだ巴旦杏樹の蔭に慄へてゐる女のやうな男や、朱欄の階楼に蒼然として立竦んで居る美しい戦士などが、丁度祭礼か何かで街を飾り付けた人形のやうに其処にも此処にも見られた。
 八戒と悟浄は是等の意久地の無い人達を見て、その驚くのを反つて痛快がつて凄い顔をして脅やかした。それだのに悟空だけは日頃の豪胆にも似ず、どうしたことか、(余りその変りやうが甚だしいので、傍の者には彼の心中が解らなかつた。)悲しいげに、さうして羨しげに、街の人々の様子を眺めてゐるばかりだつた。……「俺の力が強ければ強い程、俺はこの国の人々にはかなはないのだ。」溜息と共に胸で呟いたのだつたが、知らぬ間にその言葉が口に洩れたのだらう。
「何を云つてるのだ。こんな面白い処が何処にあるものか。景色は絵よりも綺麗だし、其処に済む人々がまた人形より小心で美しいし、ね、全くさうぢやないか、――そら/\見給へ/\、また彼処で、そら、お前の強さうな顔を見て立竦んでる兵隊が、まあどうだらう三四十人もゐるぢやないか、えゝ。」と云ふ八戒の声がしたので、悟空は何か秘密でも洩してしまつたやうにハッと思つたが、こんな場合普段なら直ぐに好い加減な冗談に紛らせてしまつたが、この時は、然し、冗談に紛らさうと努めなければならぬ程八戒は悟空の腹の底を悟つたのではなかつたが、悟空はもうそんな小さな意地立などを考へる勇気すら無くなつて、
「頼むから俺の顔が強さうだなどと云ふのは止めて呉れ。俺は強ひて弱さうに見せかけてゐるのだが、それでも彼等は俺を一番怖ろしいがつてゐるのだ。」と顔を顰めて八戒の言葉を避けた。同時に八戒達が如何にも淡々として決して人の気持などを邪推することなく易々と会話を運んで行くのを、己が身に引きくらべて悲しんだ。――それだのに自分は彼等から常に洒脱と軽妙と才智と豪放とを讚へられてゐる、お前程さつぱりした者はない、と云はれてゐる、「決して俺はそんなのぢやないのだ。全く俺は嘘はついた事はない、が結果はいつも俺の心と反対なものとなつて他人に響いてゐるらしい。と云ふと何か俺には腹にたくらみでもあるやうにも見ゆるけれど、それはない、自分の思つてゐるだけの事は常に他人に白状してゐる、誤解されたと思つた事も一つもない。それだのに俺は常に悲しい孤独ばかりを感じてゐる。理由はそれも明かなのだ。つまり俺は僕自身に考ふべき一つの謎をも持つてゐない事をも嘆いてゐるのだ。嗚呼、何故俺は山猿でゐなかつたのだらう。何故俺は「妖術」だの「考へる事」などの自由を知つてしまつたのだらう。」悟空は近頃になつて、ともすればこんなやうなことを思つて、思ふそばから思ふことを悲しむやうなことが多かつた。
「悟空は全く偉いよ。」と八戒が云つた。「弱い者は飽くまでも救はうとしてゐる。それでこそ法師の供だ。」
「――」悟空は答へる言葉を知らなかつた、今が今思つてゐる事は余り馬鹿々々しい事で堪らなかつた。

「如何程景色の勝れた美しい国だからとて、さう長くもゐられまい。それもいゝが、愚図々々してゐる間に吾々までが此処の人々のやうに女々しくなつてしまつては大変だから。」
 玄奘は三人の従者を顧みて促した。八戒と悟浄は立処に出発を申し出たが、悟空は朱紫国から離れ度くなかつた。「此処の人々のやうに女々しくなつては大変だ。」と玄奘が云つたが、悟空はその言葉が嬉しくて堪らなかつた。「矢張り師の考へてゐる事は俺達とは違ふ。」と悟空はつくづくと感心した。朱紫国の人々のやうになる事が出来たらどんなに嬉しい事だらう、此処の人々のやうになる、などといふ事は俺は悪寐にも考へなかつた。先の日に一行は或る女国に立寄つた事があつた。その時も玄奘は「女国に入つたら何よりも謹む可きは色だ、色に溺れぬ事だ、女からの誘ひに決して陥つてはならぬ。」と云つた、その時悟空は「人並に俺のやうな者でも女の誘惑に遇ふやうに見ゆるのかしら、だまされると解つてゐても関はないから、若しも俺を笑顔で迎へてくれる女があつたら、まあ俺はどんなに喜ぶだらう、屹度再び師の傍へなど帰る事はなからうな。」などと、反つて玄奘の言葉から自惚れを起して、「御懸念には及びません。」とは云ひながらも得々として女国へ入つた。(今ふとその時と同じやうな悦びに打れた。)女国では案の条、悟空が一番持てなかつた。その時悟空は玄奘に憎みさへ感じたものだつた。仕方が無く他の二人よりも先に帰つて来ると、玄奘は悟空を大変にいさぎよしとした。八戒と悟浄はどんなに叱られる事だらう、とせめてもそれを楽しみに悟空は朝までまんじりともしなかつたが、明方頃二人の者がきまりが悪さうにコソコソと帰つて来た、玄奘はたつた一言「それは仕方がない、心だけ奪はれねばそれでいい、だが大切な道に進まうとしてゐるのだから以後は謹むがよい。」と云つた切りだつた。その時蔭の方で溜息をついた時の心持は、いつまで経つても悟空は忘れられなかつた。
 怖れらるゝ自分は何よりも悲しいことだが、他人の異様な顔貌を怖れるやうな美しい臆病な身分の人達が、更に羨ましく恋しく、醜い自分の面相を曝物にして置いても、悟空は、どうしても朱紫国に止つてゐたかつた。
「然し私が思ひますには、早吾々が城に止ること数十日の長きに渡りましたが、吾々は未だ一度も国王に拝謁しないではありませんか。この儘去つては礼の儀に外れるかと存ぜられますが。」悟空は早速の思ひつきで師になじると、(自分ですらその早業に驚いた程だつた。)玄奘もこの言葉には従はざるを得なかつた。
「国王は目下難病の由で如何なる名医名薬も効めなく、何人にも謁しないさうではありませんか。」悟浄は、予てその由を聞き知つてゐたので、王の平癒の日の解らぬのを案じて、此儘出発しようとすすめた。
「礼の道は破ることは出来ない。」と玄奘は決然と云ひはしたが、目当のないことで、思へば愁へずにはゐられなかつた。
「その御心配は御無用。」悟空は常の如き元気に立戻つて、「拙者は神仙に授かつた秘薬を存じて居ります。それを用ふれば如何なる難病も立処に癒ること請合ひでございます。」と頓智よく、軽々と云つた。
「汝はそのやうな名薬の処方を存ずるのか。早速与へたがいゝだらう。功徳の道に心を砕く者が何故もつと早く申し出なかつたか。」
 悟空はギョッとした。
「いえ/\、その処方なるものが非常に難しいので、一粒はよく不治の難病を治し二粒は以て悪鬼を殺し三粒は即ち天の雲を掌に呼んで飛雲に駆ることが出来得るところの名薬には相違御座いませんが、材料を得るのにちよつと骨が折れるのです、実は金丸と称するもので御座いまして、巴豆の細末と大黄の一両宛に鍋臍カサイ灰を混じて、是を白馬の尿いばりと、さうして、未だ地上の何物にも触れぬ天の雨水を層雲の上で受けた無根水とで練り固めるので御座います。ところが余の物は大概集るとしても、私達が此国に入つて以来一度も雨が降らないのであります、で無根水を得ることが出来ません。それに思案をしてゐるのであります。」
「それで毎日此間中から悲しげな顔をして考へ込んでゐたのだな。初めて解つた。」八戒と悟浄は悟空の慈悲心に抜目のないのを賞讚した。
「まあ、さうだ。」悟空は仕方なく答へた、また嘘を吐いてしまつた、と思つた。けれど朱紫国王は、その美しさの点に於ても朱紫の王たるべく十分である、といふ噂を聞いてゐた。その美しい王の手を取ることが出来るかと思へば、どんな嘘偽りをなしても、何でもない、と思つた。「療法も知つてゐるには違ひないのだから、まあいゝさ。」と思つた。「それよりも、あゝ、さうして、あの麗はしい人民達は王の病の平癒を知つたら、どんなにか悦んで歌ふことだらう、川のほとりで、或はあの青々と若草の生ひ茂つた小山の上で。艶麗な市民、いつも俺に泣顔ばかり見せてゐる市民達の悦びの吟唱が聞き度いのだ。俺の顔を見ても、その時こそは今程俺を怖れぬやうになるだらう、兎に角、若し俺がこの市民達に異様な化物として扱はれなくなつたら、俺はそれだけで十分満足するのだ。愛されようなどといふ自惚れは、すつかりあきらめてゐる、俺は自分の顔を湖水に写して見る時と同じやうに人々から恐怖さるゝ時に、もうそれは悲しみ尽した。
 私の煩悩はそれ程頼りないものになつてゐるのです。それで未だ卑しい猿は、それだけのものにさへすがつてゐずにはゐられないのです。師よ、どうぞ許して下さい。」こんなことを胸に浮べながら悟空は奥殿の方へ導かれて行つた。怪しげな顔を一目でも直接に王に見せたら、王は必ず気絶してしまふに違ひないのであるから、悟空は立派な頭布を頤まで被つて、決して上は向かないといふ約束で出掛けたのである。長い廻廊を幾つも曲つてだんだんに王の寝室が近づいて来る、と思はるゝと悟空は胸の動悸が次第に昂まるのを覚えた。それにつれて、今迄胸に繰り返してゐたところの、良心の為に言訳の為の言訳めいた心も消えて行くのであつた。頭布の裏の赤い更紗が眼にぶつかつて具合が悪いので、俯向いて歩いて行くと、如何にも哀れつぽい引かれ者でもあるかのやうにトボトボと隠見する自分の履の先が見えた。ちよつと、またこゝで軽い自責を感じたので、朱欄の下へ眼を向けると、其処には沢山の海棠の花が葉と共に咲き乱れてゐた、歩調につれて花の群は帯のやうに走つてゐた。――「何だ馬鹿が。」ふと悟空は、どういふわけかそんな気がして、無い心を叱るやうな気持ちで呟くと、頭布で顔を覆はれてゐる為か赤裸な大胆な気持が起きて、到底明るみでは考へることすら許されぬ様々な卑しい空想に思ふ様耽つて、舌など出したりした――殺人、掠奪、姦淫、こんな光景は第一番に浮んだ……。
「此処が王の寝所であります。」といふ声で、悟空はいつの間にか目前の目的を忘れてゐたかのやうに、我(どつちがほんとの我心だか解らない位だつた。)にかへつた。
「では必ずともに頭布はお脱ぎ遊ばさぬやうに。」この言葉は何度も注意されて「それを承知で来たのに。」と、ふと悟空は「何だ、馬鹿にしてゐやがる。王や王妃の顔が見られない位ならいつそ診察も断らうか。」といふ気がした。が、今更引戻すわけにも行かなかつたので、返事もせずに渋々と寝所の中に進んだ。胸をワクワクさせて怖る怖る歩いて来た時の気持は、急にどこかへ消え去つてしまつて、心からの仁者になつたやうな気がして傲然と座つた。嘗て経験した事もない安らかな落着いた気分も出た。「仁を感ずると共にかくも衒傲の気を起すとは、何たる貪慾の勝つた浅ましい心だらう。」とも思つた。
 然し次の瞬間には、悟空のかゝる安価な理性も無智な妄想も……悉く、立処に消え去つてしまつたのであつた、悟空は失神してゆく己が心を取り止めることが出来なかつた、王の手に触れた最初の瞬間なのである、王の手は白珊瑚の如くに美しかつた、白瑪瑙の如き艶を持つてゐた。たゞそれだけなのである。
 悟空が打ち眺めた王の手のあたりには、密香竜涎の香りが、晩春の紫の霞の如くふわりと包んで、薄紅に染つた爪の先で静かに咽んでゐた――あはれな悟空の想像では、この美しい手を透して王の美しさを想ふことは到底望まれぬことだつた。悟空の耽美の心の最後の形式ですら、王の指先にすら及んでゐなかつたのである。悟空の空想が如何に低い範囲で渦巻いてゐたかは悟空自身にも直ぐに解つた。
 王は錦繍の蓐に凭つて、恋病ひの女郎のやうに恥しげに悟空にその手を任せて居た。
 悟空はいつ迄たつても王の手を放さうとしない、果は玩具に戯るゝやうにさすつてみたり、一本一本指を数へてみたりし始めた。王は、治療さるゝといふこと以上に、大分不気味になつて、早く止めればよい、と願つて居た。けれど悟空は仲々止めない。王は目を閉ぢて辛うじて我慢しながら、首垂れて居ると、ふと、手の甲に針を刺されたやうな痛痒を感じた、ハッ……として思はず顔を上げると、悟空は頭布の中へ王の手を抱へ込んで、チクチクとその手を舐めて居るのだつた。――驚いて、王は手を引いた途端、魂は飛んでしまつた、一瞬のひらめきではあつたが、ニヤニヤと気味悪く微笑んでゐる、怖ろしい悟空の顔を瞥見した。――「キヤッ!」と叫んだ王は夢我夢中でその手をふところに押へて、緋の衣をサツと蹴つたかと見ると、煙のやうな心と動作とで逃げ去つてしまつた。王は奥殿深く沈んでしまつたが、それからといふものは恰で死人のやうになつて、その上真白な五体には火の様な熱が駆け回り、総身の筋肉は縮緬の様にブルブルと震へてゐる不思議な状態に陥つたのである。
 悟空は残念で堪らなかつたが、さうして居る場合でないと傍の者にせきたてられて、不性無性に薬の調合に取り掛つた。意を決して数万里の上空に駆つて無根水を得て戻つた、「つまらないな。」と思ひながら。
(悟空には王の病源病状は先にその病床に入つて其処の空気に触れただけで直ちに了解が出来て居たのであつた。即ち、王は何か極めて不慮な出来事に出会つてその驚愕の余りに、肺と肝との位置が転倒して、その日上夜間断なく泣き暮して居たが為に、肝の下に位する涙袋なるものが枯れてしまつたのである。)と明言した。この診断を聞いて感嘆したのは城の役人共だつた、その通りだつたから。
 朱紫国王の皇后と聞けば無論三国に随一の美女であることは言を俟たない。皇后は王に比ぶべき絶世の美人であつた。王と皇后との恋が如何に濃艶であるかといふ事実も勿論当然の結果として、これも言を俟たない。
「こゝ朱紫国の南千里の一隅に麒麟山といふ山があつて其処には賽太歳大王と称する怪物の魔城があつた。この悪魔は煙火砂の鈴といふ怖ろしい宝物を持つてゐた。火と煙と砂とを自由に呑吐する鈴で、三界の悪魔も聖者も決してこの鈴には敵さないのである。朱紫国からは毎年三人の侍女を大王へ捧げなければならなかつた。滞ふれば忽ち国中を火にされてしまふからである。あはれな朱紫国へ、怖ろしい悲報が達した。后金聖を賽太歳から望まれたのである。火と金聖皇后とは、縦令全土を火の海に化されやうとも、非道な所望に代ふべくもなく、ひと夜二人の恋人は相抱いて城を落ち延びようと逃げ出したのだつたが、麒麟山に炎ゆる火柱の光りに照されて、皇后は其儘妖怪に囚はれてしまつたのである。以来、王の嘆きは涙に明けて涙に暮れ、南の空に紅雲の蟠るを眺めてはヒイヒイと声を上げて泣き続けて来たのである。」――と、いふやうな事柄を侍臣の一人は悟空の誤りのない診断に感じて具さに話した上「どうにかならぬものでせうか。」と心配さうに尋ねた。
 悟空はこの物語を聞いて、何か心に浮んだところがあるらしくニヤリと笑つた。烏金丸を王にすゝめると奇病は即座に回復したが、皇后を想ふ恋々の情は更に烈しく湧き上つて、身の置き処もなく悶え狂うた、「病で死んだ方がよかつた。」と叫んだ、その声が絹を裂くやうに鋭く静かな城中に冴え渡つた。――「王が若し私にもう一度会ふたら、皇后を救つてやるからと伝へて見よ。」と悟空は近侍の者へ告げた。
 これを聞いて王は此上もなく悦んだ、貴い医薬で難病を救つて貰つた上に、命よりも大切な皇后を取り戻して呉れるとは、何たる慈悲の深いお方であらう、世の人とは思へぬ有難い使ひだ、朱紫国全土を捧げても感謝し切れない――と思つた王は、同時に悟空の姿を想ひ出した、――人間の姿にやつした奇怪な猿が巧みに発する言葉附、さうしてその奇怪な体内には恐ろしい妖力を持つてゐるのか、と思へば反つてその醜さも余外に大きく思はれて……あんな猿にも人を恋するやうな慾望があるのかしら! と思つたら、一途に慄然としてしまつた。王は眼を袖で覆うて悟空に面会した。
 悟空は、艶かしい王の姿が帷の影にゆらぐと、尋ねあぐんだ恋人がはにかんでゐるのだ、とさへまたたく間想像すると、唇がワクワクと震へて堪らなかつた。
(王の顔が見度いばつかりに皇后を救つてやる、とは云つたが、それは全くの出任せで未だ悪魔を退治して后を助け出さうとする真実の決心も計画も勿論定めてはなかつた。
 たゞ、美しい王から美しい后の救助を涙ながらに依頼される、頼まれるといふことだけで王の心に取り入つたことが嬉しかつた。実際悟空には、他人が持つてゐる臆病の心といふものが羨しくて堪らなかつた――。此上もなく懦弱で臆病で艶麗な王の命令で神通蛮勇の猿が悪魔と戦ふ……それが為に悪魔に斃されてしまつても、ちよつとでもいゝから王が親しみの色を示して呉れたら、本望だ、と思つた。)
 悟空は王のくつの下にうづくまつてねちねちとしながら、玉座の上から漂うて来る何とも云へぬ香気に、眼を細めて加けに魚のやうに口を開けて、ぐつたりとしてしまつた。
 だらけた沼泥の塊りのやうな異様な獣が、足の下に毯の如くにうづくまつてゐる様子をチラリと見ると王は、今にも嘔吐を催し度い程気持が悪く、で、決してその方を見ないやうに力めてゐても、何かかう擽つたい糸のやうなもので引つぱり付けられるかのやうに思はれて、気が遠くなりさうになつた。
「悟空とやら、私は汝の望みに依つてはわが王国全土を与へても、私は感謝し切れない。」かう云つたら悟空が喜んで引下つてしまふだらうと思つた王は漸くの思ひで云つた。
 ――そんな美しい恋人(悟空は朱紫国をかう云つた。)を貰つて……あゝ俺は、俺を怖るゝ恋人から何故解脱出来ないのだらう、俺が若しこの国の王となつたら市民は悉く、俺の優しい心も知らないで、先づ俺の顔を怖れて皆な病になつてしまふ、王様戯談云つてはいけません、それとも若しや王様の眼にはそれほどこの私が醜くも怖ろしくも見えないだらうか、さう云へば俺の眼附も丸々としてゐてちよつと可愛い……いけない、いけない、そんなことを思ふまい……。
「いえ、私は仏に仕へる者、決して国や金……いえいえ何の賞与など望むものではありません。」と答へて、こりやほんとに俺は偉いぞ、とも思つた、が直ぐにそんな心は消えて、悟空は動かうともせず王の足許へ次第ににじり寄つた。
「――」さて王は困惑した、此上はどんな貴重なものでも関はないから悟空の望みを尋ねて一刻も早く面前を下げてしまひたかつた。「慾のない奴だ、さればと云うてこの重大な願ひを果してもらふ上からは、王としてその儘に置くことは出来ぬ、何なりと一つ所望を申して呉れ。」
 悟空には王の声が魅力のある音楽よりも甘く響いた、貴重な宝石に口を触れてゐるやうな喜も感ぜられた、それよりも王がこれだけの文句を左程怖れてゐる様子もなく自分の前で云つたのが嬉しかつた。
 悟空は暫くの間、たゞ無暗と愉快さうにもじもじして居たが再三王に追求せられて、漸くのことで口を開いた、如何にも恥しげにニヤニヤと笑ひながら両手で抱へた頭を恰も微風にゆられてゐるが如くにして、それでも未だ口まで出かゝつた言葉が容易に発すべく決心がつかぬらしく見えたが、やつとのことで、
「えゝ……」と諛ふやうに笑つて「私は一つの望みがないのでもありませんが……少々それが申し憎いので。」と云つた。
「何なりと早く申したらよからう。」
「実は、その、……私は――その、実は、王様と……」と云ふと総身をゾクゾクと震はせた。「その、実は、たゞかうしていつ迄もお話がして居たいので御座います。」と云ひ終るや滑稽極まる亀の子のやうにして畳に顔を圧しつけてしまつた。この刹那に孫悟空は、全くの野獣に返つてしまつたのであつた。思慮分別、奇智奸計の全く欠けた畜生の一匹になつて、浅ましい卑猥な赤裸々の姿になつて転げてしまつた。神通力や妖術や豪気はおろか悲しみさへ忘れ得た心底からの山猿に変つてしまつたのである。四肢を延ばし稀めて醜い姿でだらしもなく転げ回つた。見る者は悉く目を伏せた。王は昏倒して玉座から倒れ落ちた。猿はそつと王の側へ匍ひ寄つた。

 暫く経つて彼が尻の毛を一本抜いて、フッと吹くと再び元の孫悟空に返つた。身には元通りな衣が纏はれ、頭上には燦たる金環が輝いて居た。同時に近臣達も目が醒め、王も蘇生した、が王は失神した如く蒼然としてゐてただピツカリと目を開いてゐるばかりで、口をきくことは勿論動くことすら出来なかつた。
 すると悟空の心臓には常に倍した偕々勃焉の血潮が蘇り、口腔からは燦々たる火気をフーフーと吐いて奮然と立ち上つた。
「王様、王様、御安心なさいませ。直ぐに悟空が皇后様を取り戻して参ります。」と云ふがいなや後をも振り向かずに、窓側へ駈け寄ると、耳から引出した金箍棒を二三遍ビュービューと唸らせた、かと見れば忽ち掌に飛雲を起し、と天につらなる白雲へ飛び乗つて、雲程万里鵬の勢ひで南の方麒麟山の空へ駆つた。
 悟空の後姿を彫像のやうに動かず凝視して居た王の白蝋の顔には、この時初めて薄いゑみが刻まれた。

 雲に乗つた悟空は、王の美しさから皇后の美しさばかりを想つた、が王の指先の美に打たれてそれ以上の美しさを想像することの出来なかつた想像で、どうして皇后の美しさを想ふことが出来るであらう。頭の中には、如何程焦つても、ただ真白な雲のやうな煙りが漂ふばかりである。
 王様の御命令で私は皇后様をお救ひ申しに参つたので御座います、と云つたら皇后は喜びの余り俺に噛り付くであらう、この俺に、この孫悟空に……と思つた悟空は嬉しさの余り自分の手に力一杯喰ひ付いたりした。……「俺は屹度其儘朱紫国へは帰らないであらう、こんな長い道中を厭なこつた。」とも思つた。
 風を蹴つて駆けて行く悟空は竜神の如く早かつた。間もなく如意棒の先端が麒麟山の一角に達した。早速門番の小悪魔を殺して偽門番に化けた。聞く所に依ると皇后は、「西牢」に深く鎖されて居るとのこと、賽太歳は三つの鈴を虎の皮の袋に蔵して片時も離さず腰にしてゐるとのことが解つた。
 或日悟空は虱に化けて大王の許へ忍んだ、なる程鈴は虎の皮の袋へ収めて大王の腰に堅く結び付けられてゐる、で悟空は虎の皮の中へもぐり込んだ。姿はもう見えぬであらうから探るのは今だ、と思つて非常な勢ひで毛の間を駆け回つた、黄と黒とで斑な地に眼を押し付けて駈けるので稍もすると目が回つて、危く大王の膝へ落ちさうにもなつた。
「世の中には随分多くの美男美女が居る。俺はいつも云ふとほりこの三つの鈴を得ることばかりに苦しんで来た、さうして今やつと成功した、俺の前には、即ち俺はこの貴重な鈴を持つてゐるばかりでどんな美しい女をも自由にする事が出来る……宝程有り難い物はまたとあるまい。」こんな事を賽太歳が云つてゐる、そつと悟空が見ると大王は数名の美女を従へて酒を飲んでゐるのだつた、物を云ふ度に醜い大王の鼻と唇がだらしもなく動く……「何だ馬鹿々々しい、貴様はそんな偉さうな事を云つてるが、この宮殿の女といふ女は一人だつて貴様に惚れてゐる者はないではないか、貴様は未だ女に愛されるといふ愉快を知らないからだ、貴様は悉くの女が自分のもののやうに思つてゐるが、貴様は未だ女がほんたうに心を許すといふ味を知らないのだ。だから貴様は偉さうなことは云ふものの貴様が焦つてゐるのは常に女のことにばかりではないか。」悟空はこんな事を思ひながら袋の口に止つた。
「然し王様、金聖はどうなさるのですか。」と一人の侍女が云つた。
「あれか、あれはどうしても俺の云ふことを諾かぬ愚な女だ。」
 馬鹿々々しいことを云つてゐやがると思つた悟空は滑稽で堪らなかつた。
「で、俺はもうあの女が憎くなつた。明朝は西の空へ竜車を駆つて火の鈴で焼き殺してしまふのだ。」
 鈴を持つてゐる事くらゐで、己の醜さも知らずにこんな自信が持てるのか、と思ふと、悟空は寧ろ賽太歳のおめでたさが羨しい位だつた。

 朝になると賽太歳は車を駆つて西の空に昇つた、さうして火の鈴を取り上げて、(二つの他の鈴は袋の儘傍の従者にその間だけ持せて置いて)――。
「如何に艶麗無比な金聖皇后と雖も、賽太歳の力の前には、風に吹かるゝ朝露のごとく滅亡するであらう。」と叫ぶやカラカラと打ち笑つて、猛火を雨のごとくに降りそゝいだ。
 二つの鈴を持つた従者は、悟空が化けた従者だつた。悟空は立処に、巽の空へ飛んで、無茶苦茶に煙砂の鈴を振つた、これが自然の運命なのだ、と思ふと悟空はちよつとまた寂しい気がした。皇后を焼かうとした火は忽ち大王の群に覆ひかぶさつた、麒麟山百万の化物は一匹も残らず焼け死んでしまつた。
 二つの鈴を、汚れたものでもあるかのやうに悟空は奈落の谷へ投げ棄てゝ、時を移さず牢へ走つた。金聖皇后は気絶して室の片隅に斃れてゐた。暗闇の土牢で、小さな窓が一つ空いてゐて其処からの光りが僅に薄い光線を投げてゐる。皇后は丁度その窓下に倒れてゐるので一筋の光りが水のやうに白い皇后の顔を浮ばせてゐた。金襴の衣が薄紫に漂うてゐた。
 悟空には、王と皇后とが見定めが付かなかつた。たゞ王の時よりも、皇后とたつた二人ぎりで牢の中に居るのだ、といふ事が意識されただけ嬉しさも多かつた。―― ――此間王の前で感じたと同様な快感に打たれた。その時の通りになつた。
 皇后の顔を拝んでしまつた悟空は、もう此上動くことすら欲しなかつた。長い間の血を見る程な悪戦苦闘も皇后を一瞥しただけで容易に報いられた。この儘野猿に帰つて、律師の破門を蒙つても何でもない、と思つた、寧ろその方が希ふところ位だつた。
 さうしてゐる間に、不図また悟空の胸に新しい希望が涌いた。――直ぐに朱紫城へ帰らうとした。勿論それは王から賞与を得度い為でもなく、玄奘から智勇を賞して貰ひたい為でもなく、八戒や市民に豪気を誇りたいが為でもない。
 どちらが王でどちらが鼻后であるか決して見分けのつかぬ程美しいところの恋人同士が再会を喜び合ふ姿と、到底帰らぬと思つてゐた皇后が計らずも戻つて来たのに喜ぶ市民達の笑顔が見度かつたのだ、たゞそれだけのことだつた。「皇后を迎へた王と市民の喜びの流観ながしめは、俺の方にも見せて呉れるだらう、ちよつとぐらゐ。」こんなことを思つた。
 再び悟空の全身には溢るゝばかりに勇しい血潮が涌き上つた。十日間山野を抜渉し、二十日間に十万里の空を往復して漸く烏金丸を作ることが出来た。
 その一粒を皇后に含ませると直ぐに蘇生した。眼を開くや否や后は王の名を連呼して泣いた。声までが王のそれと寸分違はぬ甘味と艶と可憐さとを含んでゐた。「なんとまあ不可思議な現象であらう。」とさう悟空は思ふと、好奇心さへ浮んで来るやうだつた。
 朱紫城を出てから半歳にして、皇后を伴つた悟空は城へ戻つた。

 悟空の頭へ手をあて、その勇を讚へた玄奘の眼には賞讚と感謝の涙が露のやうに宿つてゐた。
「偉い/\。」と叫んで八戒と悟浄は悟空を讚へるの余りに両手に抱き上げた。
「さあ、ゆつくりと休んで呉れ。」
「いやいや、まあ……」と悟空は、何故か(と八戒達は思はずには居られなかつた程)顔を赤らめて恥しさうに笑つてゐるばかりなのであつた。「そんなに讚めて呉れては反つて困るよ。」と云つて悟空は、俺は俺の為のみに快楽のみを求めて、君達よりも余程面白い思ひをして来たのだよ、と云はうとしたが八戒や悟浄にそんな事を云つたつて始まらないと思つたので止めた。
「讚へずには居られない。」と二人は云つた。
「さうか。」稍傲然と答へた悟空は、窓下の花にヒラヒラと踊つてゐる蝶をフッと吹き殺した。

 王と后とは死んだ如く喜びに疲れて幾日も幾日も口もきけず身動きもせず、玉座に二人抱き合つた儘生人形のやうにかたくなつてゐた。
 玉座を訪れた悟空は、対に並んだ王と后の繍履の下に手をついて、これもかたくなつてゐたが、二人の顔をひと目見上げるや、……感極つてハラハラと涙を流して、再びひれ伏して動かなかつた。
 折から街の彼方では美しい市民達が声をそろへて、朗かな調子を澄んだ空と青い小山と白い川の流れとに和して歌ふ喜びの歌が、春の川を音もなく降る陽炎のやうに、静かに静かに而もうら甘く、悟空の耳にも流れ込んだ。

「闘戦勝仏」とは孫悟空が大釈尊に遵奉した難行苦行と衆生の為に功徳を施した豪気と智勇とを讚へられて賜つたところの有難い戒名なのである。
(七年八月作)

底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「十三人 第二巻第十号(十月号 創刊壱週年記念号)」十三人社
   1920(大正9)年10月1日発行
初出:「十三人 第二巻第十号(十月号 創刊壱週年記念号)」十三人社
   1920(大正9)年10月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月26日作成
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