窓帷カーテンをあけて、みつ子は窓から庭を見降した。やはらかな朝の日射が、ふかぶかと花壇の草花にふりそゝいでゐる。
 姉はカーネーシヨンの花が好きだつた。花壇の隅に美しく咲き誇つてゐる桃色の花を眺めながら、みつ子は姉のことをしきりに想ひつゞけた。きらきらと映へた外光はもの懐しく流れてゐる。
 姉様がお嫁に行つてしまつてから、もう一年たつたのだ。みつ子は今更のやうにそんなことを考へた。行つた当座は少くも、一週に一度は必ず手紙を寄越したけれど、それもいつの間にか怠り勝になつたと見へて……。
「あゝさうだ。」と、みつ子は恰も突然何かを見出したやうに点頭いた。……「ふた月ばかり前に絵葉書をたつた一枚寄したきりなんだ。」
 今更そんなことは考へて見る程のこともないのだが、ふとさう想ひ出して見ると、みつ子は何だか姉が恨めしく思はれてならなかつた。別れるとき、あんなにも堅く、ふたりで涙をこぼして約束したにもかゝはらず……「お姉様もずゐぶんだわ!」とみつ子は思はずには居られなかつた。
 お姉様が居なくなつたら、此方はどんなに淋しいか? 私はどんなにつまらないか? 夫等それらのことは姉様の方が余程よく承知してゐる筈なのに――等とみつ子は、それからそれへと、とりとめもなく姉の幻を追つてゐるうちに、いつか涙が頬を伝ひ初めてゐたのに、自分は気が付かなかつた。
 みつ子は気がくしや/\してしまつて、じれつたさうに窓際を離れた。さうしてソファの中にぐつたりと身を落した。幾らでも泣けさうな気がする。無暗に口惜しくてたまらなかつた。
「此の間うちから病気になつて了つて、毎日/\苦しい/\日ばかりを送りつゞけてゐます。」――そんな手紙を書いて姉を驚かせてやらうかしら、などゝみつ子は考へた。――「食物も少しも進みません、外へ出て遊ぶ気もしません、このまゝの日が続いて行つたら、しまひに私は……」と、そこまで考へて行つたみつ子は、その次の言葉を想像して、思はずプツと笑ひ出してしまつた。あゝ、私は何といふ我儘な子だらう、何といふ嫌な子だらうと思つた。さう気附くと、みつ子は急に恥かしくてたまらなくなつた。みつ子は自分で自分の口をギユツと抓つた。――さうすると、また可笑しくなつた。慌てゝ立ち上つたみつ子は、室の中をあつちへ行つたりこつちへ行つたり、あはたゞしく歩きまはつた。
「みつ子! みつ子!」
 奥の方で母の声がした。――みつ子はハツと思つた。わけもなく頬のあつくなつて来るのが自分に感ぜられた。……まア、私は何といふ意久地なしだらう、と思つたが、どうしても返辞が出来なかつた。
「みつ子! みつ子!」
 みつ子の胸はどきどきと鳴つてゐた。何だかワツと声を挙げて泣き出してしまひたいやうな気持になつた。呼ばれた時に返辞をしないといつも叱られるのだつた。また、返辞をしないことは、大へんに悪いことであるといふことも、みつ子自身にはよく解つてゐた。
「みつ子! みつ子!」
 みつ子は何だか消えてでもなくなりたいやうな気がした。――ぼんやりして、また窓に凭りかゝつて花壇を眺めてゐた。微風があるのか、草花が軽くゆれてゐた。みつ子は眼ばたきもしないで、その草花を見詰めてゐた。
「何ですね。お前こんなところにゐたの? さつきからお母さんが、あんなに呼んでゐたのが聞えなかつたの?」
 この声に驚いてみつ子が振り返つて見ると、母がニコニコ笑ひながら立つてゐた。みつ子は安心したやうな気がした。それにしても母は何故笑つてゐるのかしら――そんなことをみつ子はふいと思つた。
「聞えなかつたの?」
「えゝ、聞えませんでしたわ。」と、うつかりみつ子は嘘をついてしまつて、「アツ、いけない!」と気が付いたので「御免なさい!」と付け加へた。
「聞えなかつたのなら、そりや仕方がないけれど、さつきからお母さんは随分呼んでゐたんですよ。――お前どうかしたの? お腹でも痛いの?」
「いゝえ!」とみつ子は慌てゝ云つた。それで何となくきまりが悪いので、あまえるやうに笑つた。
「お母さん、何か御用なの?」
「御用があるから、呼んだんぢやありませんかね。――ちよつとお母さんのお部屋にいらつしやい。」
 みつ子は何だか不安な気がした。叱られるのぢやないかしら、と思つた。さうして何かこの他に叱られるやうなことがありはしなかつたかしら、と考へて見た。――然し別にありさうにも思へなかつた。
「御用つて何ですの、お母さん?」
「まアいゝから一寸いらつしやいよ。いゝものをあげますから。」と云ひながら母は出て行つた。
 みつ子は急に嬉しくなつて、パタパタと足音をたてゝ、母のあとから廊下を駆けて行つた。
 居間に入つて見ると、小包が二つ程あつた。その一つには岡村みつ子様と姉の字で書いてあつた。みつ子は直ぐにあけて見たかつたが、わざとおとなしくして、母がそれを渡して呉れる迄黙つてゐた。
「それ、姉様からあなたによ、何だか自分で開けて御覧!」
 みつ子がそれを開いて見ると、中から出て来たのは香水だつた。――組合せ香水とかといふので、七いろばかりの綺麗なハイカラな香水の瓶が、行儀よくづらりと並んでゐた。調合器が付いてゐて、何でも自分の好きな香ひを調合してつかふやうになつてゐた。ヘリオトロープ、ヴアイオレツト、ムゲツト、……一つ一つみつ子はレツテルの横文字を読んで見た。もう一つ別の箱に一寸立派な香水吹きが入つてゐた。「みつ子様へ、京都の姉より」と箱の中のカードに書いてあつた。
「お母さん、お手紙は?」とみつ子は直ぐに訊ねた。
「お母さんにだけ来たのよ。姉様はね、此の聞から加減が悪くてやすんでゐるんですつて。それでみつ子にも手紙を書きたいのだが、書けないから、よくそのことを私から云つて呉れつて、さう云つてよこしたのよ。」
 母の言葉をきいてみつ子は急に悲しくなつて、ワツと声をあげて泣き出してしまつた。別に心配する程ではないのだから……と母にさんざ慰められたが、容易にみつ子はだまらなかつた。自分が余りにわが儘なことばかりを想つてゐたことが、みつ子は恥しくてならなかつたのである。
 それにしてもみつ子は、姉の身がにはかに案ぜられてならなくなつた。一刻前とはまるで反対に、なつかしい姉のことを、心ゆくばかり想つて、凝つとしてゐられない位だつた。
 香水の箱を抱へてみつ子は自分の室に戻ると、直ぐに姉にあてゝ、長い/\お見舞の手紙を書きはじめたが、さてどう書いたら、この心配な自分の心、姉のことばかりを懐しく思つてゐる自分のあたゝかい心――が現はせるか? としきりに考へた。どんな文字を用ひても、この心のまゝは伝へられないやうな気がした。――いつそ止めてしまはうか、と思つて、一旦ペンを擱いて、また慌てゝそれを取り上げた。
 とう/\みつ子は一行も書けなかつた。母に頼んで、いつそあしたでも直ぐに京都まで行かうかしら、その方が余程早手廻しだ、と思つた。……「それがいゝ/\。」とみつ子は躍りあがつた。――みつ子はもうそれに決めてしまつて、姉にあつたら、先づ何と云はう……そのことばかりを考へはじめてゐた。みつ子の心は、いつの間にかすつかり明るくなつてゐた。
 軽い疲れを覚へたみつ子は、うつとりとした心になつて、テーブルから離れてまたさつきの窓の処へ来た。金色の陽に溶けさうに咲いてゐる草花は、丁度みつ子の心のとほりに明るく、みつ子の瞳に映つた。
 みつ子はテーブルの上から一輪挿を取つて、窓枠の日当りに置いた。それにはカーネーシヨンの花が挿してあつた。みつ子はその花に、そつと唇をふれて見た。かすかな花弁の冷たさが胸にまで快くひゞいた。
 みつ子は何心なく、姉から今送られた香水吹を、手持無沙汰を紛らすために取りあげて見た。――さうしてスポイトを軽く指先でおして見た。
 日当りのいゝ窓に置かれたカーネーシヨンの花に、香水の霧がさんさんと降り灑いだ。金色の陽の光りと香水のしぶきと、薄紅色の花の香とが巧に溶け合つて、みつ子の瞳に不思議な恍惚を覚へさせた。

 みつ子は面白くなつて、尚もしきりに香水を吹きかけた。
 ふとみつ子が見ると、花の蔭に、乱れ飛んだ黄金色の日光の渦巻の一端に、小さな香水の虹が小人島のそれのやうに、ほんのりと浮かびあがつてゐた。
 みつ子は驚いて、香水の虹を凝と見詰めた。虹はすぐに消へた。

底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「少女 第一〇九号(新年号)」時事新報社
   1921(大正10)年12月8日発行
初出:「少女 第一〇九号(新年号)」時事新報社
   1921(大正10)年12月8日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月6日作成
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