もう三年ばかり前のことであるが、小宮こみや先生の紹介で鈴木三重吉すずきみえきち氏の未亡人の方から、『赤い鳥』に昔出ていた通俗科学の話をまとめて、一冊の本にしたいから、その校訂をしてくれというお話があった。
 三重吉氏の『赤い鳥』が、児童文学とも称すべき新しい境地をひらいて、児童の情操教育に偉大な足跡をのこしたことは、今更のべ立てるまでもない。しかし三重吉氏は、『赤い鳥』で単に文芸方面の仕事だけをのこしたのではなくて、あの中には、毎月一篇いっぺんずつ児童向きの科学教育の文章がのっていたのである。それは天文、物理、地球物理、化学、工学、動物学、植物学、医学などの広い範囲にわたっていて、当時の新進の若い科学の研究者たちに依頼して書いてもらったものであった。それに三重吉氏が筆を入れて、文章の体裁をととのえたものであった。
 三重吉氏の仕事には敬意をもっていたので、とにかくその原稿を見せてもらった。ところが、その大部分のものは、さすがに若い研究者の人たちが書いたものだけに、ちゃんとしたものばかりで、これならば立派な本になりそうな気がした。それに文章も三重吉氏の筆がはいっているだけに、全体がととのって、すっきりした調子が出ていた。それで私は喜んで、その仕事を引き受けることにした。
 この執筆者たちは、今は立派な一流の学者になっておられて、名前を言えば、だれでも知っている人が多い。しかし『赤い鳥』ではそれがほとんど全部変名になっていて、随分意外な方が、意外な題目で書いておられるのもちょっと面白かった。
 ところで、この話をもって来られた時に「この中に、たしか寺田てらだ先生が変名で書かれたものがあるはずだ」という話があった。私は大変興味をもって、それを心探しの気持で、ずっと読んで行った。その一篇は勿論もちろんすぐ分った。それは、八条年也はちじょうとしやという名前で出ていて、題は「茶碗の湯」というのであった。
 恐しいもので、この「茶碗の湯」を数行よみかけたら、これは寺田先生以外には誰も書けないものだとすぐ直観された。それは、文章の良い悪いなどの問題では勿論なく、また内容が高級で表現が平易であるなどということを超越したものであった。強いて言えば、それは芸が身についた人の芸談にあるような生きた話であった。
「茶碗の湯」は全部で、印刷にして六ページくらいの短いものである、しかしその中には、先生が一杯の熱い湯のはいった茶碗を手にして、物理学の全体を説き明かして行かれる姿が出ていた。
「第一に湯の面からは白い湯気が立っています」。この茶碗を日当りの良い縁側えんがわへ持ち出して、湯気に日光をあてながら、黒い布をその向うに置いて、すかして見る。すると「湯気の中に、にじのような、赤や青の色がついています。これは白い薄雲が月にかかったときに見えるのと似たようなものです」。
 先生は、この色については「またいつか別のときにしましょう」と言っておられるが、この現象は小水滴による光の廻折かいせつによるもので、その色を見ると、水滴の大体の大きさが分るのである。C・T・R・ウィルソンが有名な「ウィルソン霧函きりばこ」の実験を初めてやった時に、この現象を利用して、その霧函の中の霧のしずくの大きさを推定している。「ウィルソン霧函」というのは、特殊な方法によって、急にその函の内部に霧が出来るような条件を与える装置である。空気中にちりが全然ない時には、霧の出来るべき条件になっても、即ち水蒸気が沢山にあっても、霧にはならない。しかしその時に空気中にイオン(空気の分子が電気をもったもの)があると、そのイオンが中心になって、霧の粒が出来るのである。そのことは理論的にも実験的にもよく分っている。
 イオンというのは、分子程度の大きさのものであるから、それ自身はどういう方法によっても、到底人間の眼には見えないものである。しかし今の方法によって、それがしんになって霧粒が出来ると、その霧粒は、強い光でてらしてやれば、光って肉眼にも見える。それで霧粒の出来たことから、その位置に、イオンがあったことが分るのである。
 ところが、この頃は誰にも耳馴染みみなじみの宇宙線とか、電子とかいうものは、空気中を走る時に、空気の分子と衝突して、それをイオンにする性質がある。それで例えば宇宙線が「ウィルソン霧函」の中を通った瞬間には、その通った道に沢山のイオンが出来ている。その時に装置をはたらかすと、そのイオンを芯にした霧が出来るので、その道が白い線となって眼に見えるのである。
 電子や分子程度の大きさのものの運動の状態が、このようにして、人間の眼に見えることになったのである。「ウィルソン霧函」が、現在世界の物理学の主流となっている原子物理学の領域ではたしている任務の重さが十分理解されるであろう。この霧函の発明がなかったならば、原子物理学は、現在の進歩をなし得なかったと言うことが出来る。そういう風に考えると、茶碗の湯の湯気を作っている霧の粒も案外に重要な意味をもっているのである。
 このイオンが霧の粒の芯になるのは、空気中にこまかちりが殆んどない時に限るのである。それはイオンよりも塵の方が霧粒の芯になる作用が強いからである。それで普通の空気中に水蒸気が余分にある場合には、塵の方が霧を作ることになる。先生は「茶碗の湯」で次にこの問題をとりあげておられる。
「その芯になるものは通例、顕微鏡でも見えないほどの、非常に細い塵のようなものです。空気中にはそれが自然に沢山浮游ふゆうしているのです。」地表から蒸発した水蒸気を沢山含んだ空気が温められると、上昇して行く。そして上空のつめたい所へ行くと、霧の出来る条件になる。大気中には普通この眼に見えない細い塵が沢山あるので、それを芯として霧粒が出来る。それが即ち雲なのである。それで「空気中に浮んでいた雲が消えてしまった跡には、今言った塵のようなものばかりが残っていて、飛行機などで横からすかして見ると、丁度けむりひろがっているように見える」ことがある。
「茶碗から上る湯気」は顕微鏡にも見えない細い塵や、更に進んでは分子や電子の世界までを、われわれにのぞかせてくれるばかりではない。それはまた真夏のひるさがり、山野を圧して襲来するあの豪壮な雷雨の模型とも見ることが出来る。
「湯気が上るときにはいろいろの渦が出来」る。線香の烟を見ていると、初めは真直まっすぐに立ちのぼって行くが、ある高さになると、その上は烟がゆらゆらとゆれるが、あれは空気中に渦が出来るからである。「茶碗の湯気などの場合だと、もう茶碗のすぐ上から大きな渦が出来て、それが、かなり早く廻りながら上って行く」のは、誰でも一日に二回や三回は必ず見ている現象である。
 この現象が少し大きくなると、庭先などに出来る小規模な竜巻たつまきになる。「春先などのぽかぽか暖かい日には、前日雨でも降って土のしめっているところへ日光が当って、そこから白い湯気が立つことが」よくある。そういう時に注意して見ていると、「湯気は、縁の下や垣根の隙間すきまから冷い風が吹き込むたびに、横になびいてはまた立ち上ります。そして時々大きな渦が出来、それが丁度竜巻のようなものになって」くるくると庭先の片隅で廻転することがある。そういう時には落葉や紙切れなどが、ひらひらと何回も地上近いところで廻っているのをよく見かける。米国のフロリダ地方などでよく起るところの、家を持ち去ってしまうような大竜巻も、原理はこれと似たものである。
 ところが、自然ではこの渦はもっと大仕掛おおじかけになることがある。
「陸地の上のどこかの一地方が日光のために特別に温められると、そこだけは、地面から蒸発する水蒸気が特に多く」なる。「そういう地方のそばに、割合に冷い空気におおわれた地方があると、前に言った地方の、暖かい空気が上って行くあとへ、入れ代りにまわりの冷い空気が下から吹き込んで来て、大きな渦が出来」ることがある。この渦が雷雨の一つの型であって、こうして出来た上昇気流が、電気の分離を生じ、あのすさまじい電光になり、またひょうを降らすのである。
 茶碗の湯気は、随分沢山のことをわれわれに教えてくれるのであるが、茶碗の中にある湯の方も、それに劣らず、色々の重大な物理法則を、毎日われわれに示している。
 夕食のぜんがすんで、白い茶碗に熱い湯を入れてもらう。あかるい電燈でんとうの下で、この湯の中を覗きこむと、茶碗の底に色々な形のゆらゆらした光のひもが見えることには、気のついている人もかなりあるであろう。しかしこの現象が春日の下のかげろうと同じ現象であり、更に進んでは、大砲のたまに対する空気の抵抗や、飛行機のプロペラの研究に利用されていることは、知らない人が多いであろう。
 熱い湯を茶碗に入れて、ふたをしないで置いた場合に、それがだんだん冷えるのは、主として湯の表面からである。水が水蒸気になる時には、一グラムについて、五百何十カロリーという莫大ばくだい潜熱せんねつを奪うことは、中学校や女学校で習った通りである。湯の表面から蒸発のおこる場合には、ほんの少しの条件のちがいで、著しい差があるので、湯の表面上で一様には起らない。それで湯の表面の「冷え方がどこも同じではないので、ところどころに特別につめたいむらが出来」る。「そういう部分からは冷えた水が下へ降りる。そのまわりの割合に熱い表面の水がそのあとへ向って流れる。それが、降りた水のあとへ届く時分には冷えてまたそこから下へ降りる。こんな風にして湯の表面には水の降りているところと昇っているところとが方々に出来る」ので、一杯の茶碗の湯の中でも、比較的熱い湯とぬるい湯とがいろいろに入り乱れているのである。
 こういう液体の中へ光がはいって行く場合を考えて見ると、光の屈折率は水の温度によってことなるので、ある部分は丁度レンズのような作用をして光を集め、他の部分はそのかげになるようなことが起るのが普通である。それで茶碗の底には、色々な形のゆらゆら動く光の紐が見えるのである。
 かげろうは、温かい空気がすじになって上って行く時に起るので、その空気の流れのむらが光を折り曲げるために生ずる現象であることは、大抵の人は知っているであろう。茶碗の湯の場合も実はそれと全く同じ原理なのである。
「このような水や空気のむらを非常に鮮明に見えるように工夫」したものが、いわゆるシュリーレン法あるいは影写真の方法である。これらの方法で写真をとると、わずかばかり空気や液体の屈折率のちがった部分がはっきり写真にとれるのである。
 鉄砲の弾が空中をとんで行く場合には、その前面の空気をしつけ、また後方には沢山の細い渦が出来る。空気が圧縮されると光の屈折率がちがうので、この場合に前に言った方法で写真をとると、鉄砲の弾がどういう風にして空気を押し分けてとんで行くかという様子がはっきり写真にとれるのである。飛行機のプロペラが空気を切っている模様も全く同様にして見ることが出来る。
 空気の圧縮の状態は、鉄砲の弾のような激しい場合でなく、普通の音の場合でも、この方法でよく見ることが出来るのである。音は空気が圧縮と膨脹とを交互にうけた波、即ち縦波たてなみである。それで音を出しながらこの方法で瞬間写真をとると、音波の形をはっきり見ることも出来る。更に面白いのは、この方法で活動写真をとることである。ウーファの文化映画『見えない気流』を見られた方々は、十分にその面白さをあじわわれたことであろう。
「茶碗の湯」の話はまだ尽きない。それは、「湖水や海の水が、冬になって表面から冷えて行くときにはどんな流れが起るか」という問題にも関聯かんれんし、また飛行家にとって重大な問題である突風の解釈にも導かれ、更に進んでは海陸風や山谷風、また大東亜の空を吹く季節風にまでも、拡張されて行くのである。
 昔の仙人は、一つのつぼの中に森羅万象しんらばんしょうの姿を見たというが、一杯の茶碗の湯の中にも、全宇宙の法則があるということも出来よう。ただ「茶碗の湯」の中に全物理学の姿を見ることの出来るような人は、なかなかいない。
 この頃のように、急に科学普及が叫ばれ、生活の科学化、家庭の科学化が論ぜられる時になると、私たちは、今更のように寺田先生の亡くなられたことを感ずるのである。今生きておられてもまだ六十五歳のはずである。「僕は今に停年になったら、本を書いて、物理学というものはどういうものであるかということを、物理学者に教えてやるんだ」と、いつか先生がこっそり気焔きえんをあげておられたことがあった。
(昭和十七年六月一日)

底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1988(昭和63)年9月16日第1刷発行
   2011(平成23)年1月6日第26刷発行
底本の親本:「樹氷の世界」甲鳥書林
   1943(昭和18)年
初出:「婦人之友」
   1942(昭和17)年6月1日
※表題は底本では、「「茶碗(ちゃわん)の湯」のことなど」となっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月4日作成
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