皐月あやめさくころ。思ふどち二人三人かいつらねて、堀切の里にいきけり。「むさしや」といふ家のはなれを借りて根合せならねど、あやめの歌合といふを試みけり。
あやめは、池のこのもかのもに咲き誇れり。池には舟板橋を渡せり。人人袖ふりあひてゆきちがふ。一しきり風立ちて、えならぬ薫はおばしま近く通ひつ。
北の屋蔭の苔むしたる井筒に、新調の洋服涼しげなる若人二人、巴里形の麥藁帽子見よげにかぶりて、細き櫻のステツキを手すさびに振り上げ、花もまだきなる紫陽花の葉を叩きつ、あやめを隔ててこなた、うちまもり給へるなりけり。これを見て、梅津の君は、あやめも知らぬ戀人は、このわたりにはあらじかし。と忍びやかにうち出でさせ給へるに、言の葉なくて、玉枝の君はうち笑みおはしぬ。南の窓は田園の遙けきながめにて、垣根に近き駒紫蘇の花、今ぞ日光をうけて、くれなゐの色滴らむばかりなる。
隣の座敷は殿方ばかりにて、ビール又は正宗の空壜を作るによねんなし。下樣の繩暖簾とはことかはりて、醉うても聞き苦しきいさかひはなけれど、苟めの物語も高聲になり、默してやみなんことも笑ひさざめき、座中自ら春を生ずる自らはよけれど、他人の閑を破るはにくし。さはいへ、禍を隣人に及ぼすといふにもあらず。下田先生の所謂、女徳のなよよかなるいはれにて、宥さばゆるせよかし。
此時三つ斗りなる兒の、小く太りたるが、大きなる大人の下駄を引きずりて、縁先近く參りたる、覺束なき足もとなり。呼びよせて、菓子など與ふれば、喜びて、片言交りに物よく言ひたるいとらうたし。この兒の母か、三十あまりの品よき女房、おくれて參りたる。妾を見てしとやかにゐやなし、許させ給へ、この子の振舞を。いかなる人にも遠慮なきこそ子供なれ。こよや、お孃樣にお禮申し上げよ、とて輕く頭をおしやりたるもをかし。とかく物うち語りて、ちとこなたの、窶舍にも下りさせ給へ。同じ庭なれど亦おもむきも異りて、と愛嬌を殘して歸りゆく。
あまり遲くならば、歸りがけの途のほども心もとなし。とて虚しくなりし菓子皿の上に、白かねの錢、二つ三つ置きて、門を出でぬ。
二足三足歩むほどに、をみな、あわただしげに呼ばふ。何事ぞとみかへれば、あやめの花束、手にさげて參りたり。家苞に參らせん、と思ふほどに、はや出でさせ給ひにければ、と云ひさして、根もとをこなたに向けて、三把ばかり出だしけり。各一つづつ取りて、堀切橋てふ粗かなる橋の袂に來りける。
夕月榛の木原に上りて、空は水の如し。日はしばし、鐘が淵の杜を焦がして、八百代小田にうつろひしが、次第に光淡くなりもてゆきて、をちこちに蛙の聲聲聞え、下ゆく水も音冴えたり。
玉枝の君は、足もいたくなりぬ。車に乘らばや、といふを、梅津の君は冷笑ひて、風にも堪へぬ御細腰は、さもこそ、といへば、おんみこそといふ。いなとよ、妾は柳は柳なれど、加賀の千代の句近し、おんみは河内の國玉越の里の柳、楊枝にけづりてもなよよかなり。妾はこの譬のをかしさに笑へば玉枝の君もうちほほゑむ。人を楊枝にし給ひつるよ、とせん方なげなり。
かくて、墨田堤を水神に出でにしころは、日は全く暮れたり。乘合船の河蒸汽を棧橋に出でて待つに、結びて放つ青柳の絲もなく、鳥さへ今は塒にかへりし。夕風さと袂をはらひて、波立ち騷ぐ音のみしるし。片破月上りかかれど光よわく、遠き千住は更にもいはず、向うの岸さへ定かならず。遙か河下に星の如くまたたくは淺草の人家なめり。梅津の君も今は物もいはで彳めるを、玉枝の君と妾とは目見合せてをり、さすがに恐しからぬにもあらず。折しもおもての方にあたりて、高やかに罵る聲す。切符賣る家の闇きらんぷの火影に見れば、先きほど隣室にてなやみし、醉ひしれたるをのこなりけり。惡しきものに逢ひけるよ、と思ふまもなく、つかつかと歩みよりて、なつかしげに物言はるるに、こはけれど遁れゆくべきにあらず。敬して遠ざくるとかやいへば、よきほどにあひしらひて、言葉交はすほど、船つきぬ。嬉しさ限りなし。梅津玉枝の御二方は、西施の顰をみそかに開かせ給ひぬらん。
船は中流に出でて走る。潮入時なりければ、流を下るが却りて水に逆らふなりけり。乘客いと多くて掛腰にさへ餘りて、彳める人もあるを、あはれさち多きわがみどちかな。まづ二人は席を得たり。殘る一人席なくて困じけるを、かの醉ひしれたるまめ男、自らは千鳥足の危きをも顧みず、數ならぬ妾に席を讓り賜はりしは、さきのにくさ、恐しさも忘れさりていとど嬉しかりき、この人なからましかば、わが足は棒になりてそれより石に化りなまし。かくて午後七時家にかへりぬ。暗き燈の下、思ひ出だすまにまにかくなんかいつけつ。

底本:「萩原朔太郎全集 第三卷」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月30日初版1刷発行
   1986(昭和61)年12月10日補訂版1刷発行
入力:kompass
校正:小林繁雄
2011年6月5日作成
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