ひとり私のかんがへてゐることは、
もえあがるやうな大東京の夜景です、
かかるすばらしい都會に住んでゐる人たちは、
さかんなもりあがる群集をして、
いつも磨かれたる大街道で押しあひ、
入りこみたる建築と建築との家竝のあひだにすべりこむ、
そこにはさびしい裏町の通りがあり、
ゆがんだ酒場バアーの軒がごたごたと混みあつてゐる、
だぶだぶとながれる不潔な掘割、
煤煙ですすぼけたその附近の悲しい空氣、
そしてせまくるしい往來では、
いつも醉つぱらつた勞働者の群が混雜してゐる、
また一方には立派な大市街、
ぴかぴか光る會社の眞鍮扉錠ドアハンドル
紳士のステツキ、磨いた靴、石の敷石、歩道の竝木、
窓、窓、窓、窓、中央停車場ステーシヨンホテルの窓、
また一方はにぎやかな大通、
むらがる花のやうな美人の群、疾行するもの、
馬車、自働車、人力車、無數の電車、
淺草公園雷門、カフエ、劇場、音樂、理髮師、淫賣、家主、學生、大人に子供、
ああ、愉快なるメリイゴーラウンド、※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)轉木馬の上の東京大幻想樂フアンタジイ
すべてこれらの愉快なもの、運動するもの、酒をのむところ、きたないところ、さびしいところ、混雜したところ、深酷なもの、入りくんだもの、不思議なもの、日のあたるところのもの、日のあたらないところのもの、あかるくしてたのしいもの、くらくして悲しみにたへがたいもの、
ありとあらゆる官能のよろこびとそのなやみと、
ありとあらゆる近代の思想とその感情と、
およそありとあらゆる『人間的なるもの』のいつさいはこの都會の中心にある。
けれどもここにはなにがあるか、
遠く都會をはなれたここの田舍には何があるか、
ああ、ここには風がある、
はてしもなくひろがつた大空がある、
たかく盛りあがつた土壤がある。
森がある、
畑がある、
村落がある、
そして農人たちの眠つたい生活がある、
ああ、私のゐるこの田舍のさびしさにはたへられない、
みよ、あの遠い山脈には夕ぐれの野火がふるへてゐる、
ここのもろこし畑はひからびて風にざわざわ鳴る、
ここには人氣のないまつすぐの國道がある、
みじめな古ぼけた市街がある、
その市街はがらんどうで夜なんかはまつくらです、
ここの女たちはきめがあらくて色がくろい、
ここには文明がない、
ここには人間的なるものはなんにもない。
ここには自然がある、
おそろしく大きな手もつけられない自然がある、
田舍のすべてのものの上におほひかぶさつてゐる重くるしい陰鬱な自然である、
ああ、自然、
なんといふ冷酷な意地のわるい言葉であらう、
ああまたなんといふ恐ろしさで、
この自然が私の心の上にのりかかつてくることであらう、
私のたましひはその重みにくろずみ、
くるしくたへがたく土壤の下にすすりなきをするむぐらもちのやうだ、
そのいきづまるやうな陰氣なたましひ、
ひろびろとした曠野の中にふるへてゐるひとつの病みたるこころね、
こゑをかぎりにさけびをあげるひとつの生命、
ひとつの高き樹木のうへにひろがる無限の空、
無限にひろがりゆく青ざめたるひとつの感情、
ああ、じつになんといふ恐ろしさで、
この陰鬱な自然が私にのりかかつてくることか、
みよ、みよ、その鐵板のやうな重たさが、
私のいのちをまつかうから押しつぶし、
か弱い神經の纖維をがりがりとかじりつめる、
ああはやこの恐ろしい自然は私のいのちの骨までもがりがりと食ひ盡す、
食ひ殺す。
私はかなしい瞳をあげて、ときどき遠方の空を思ふのです、
かしこに晴れたる青空あり、
その下には無數の建築、無數の家根、
遠く大東京の雜鬧はおほなみのやうな快よいひびきをたてて居るではないか、
ああ心よいまはかがやく青空のかなたにのがれいでよ、
そしてやすらかに安住の道をもとめてあるけよ、
見知らぬ人間の群と入り混みたる建築の日影をもとめて、
いつもその群集の保護の下にあれよ、
ああ、わがこころはなになればかくもみじめな恐れにふるへ、
いつも脱獄をしてきた囚徒のやうに、
見も知らぬ群集の列をもとめてまぎれ歩かうとするのか、
このふるへる、みすぼらしい鴉のやうな心よ、
しきりに田舍の自然をおそれる青ざめたるそのひとつの感情よ、
いまも私のかんがへてゐることは、
盛りあがるやうな大東京の雜鬧と、そのあてもなき群集のながれゆくひとつの悲しき方角です。
――郷里にて――

底本:「萩原朔太郎全集 第三卷」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月30日初版第1刷発行
   1986(昭和62)年12月10日補訂版第1刷発行
入力:kompass
校正:小林繁雄
2011年7月24日作成
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