学問上の閲歴のようなものを書けという『思想』の編輯部からの話があった。これまでもあちこちから同じことをしばしば勧められたが、いつも書く気になれなかった。人に語るほどの閲歴もないし、久しい前のことは記憶もはっきりせず、その上に、じぶんのことを書くのは書きにくくもあるので、筆をとりかねたのである。それに、ぼくがいくらか学問上のしごとをしたとするにしても、その大部分は一般の学界とはほとんどかかりあいのないものであったから、ぼくの閲歴はぼくだけの閲歴であって、それによって学界の動向などが知られるわけでもなく、従ってそれを書くことに大した意味はない、という理由もあった。しかし書かないことを固執するにも及ぶまいから、思い出されることを思い出すままに少しばかり書いてみることにする。
 学問上の論文らしいものを書いたのは明治時代の末からであるが、書物の形でそれを公にしたのは、『朝鮮歴史地理』と『神代史の新しい研究』とがはじめであって、いずれも大正二(一九一三)年の出版である。しかし、かなり前から長い間かかってしたしごとをまとめたものは、大正五(一九一六)年から十(一九二一)年までに四巻を出した『文学に現はれたる我が国民思想の研究』である。それから後にも、『古事記』や『書紀』についてのかんがえや日本の上代史上のいくつかの問題を取扱ったものを書いたことはあるが、大正時代の末ころから後のおもな著作は、シナ思想に関するものであって、初から単行本で出したものもあるが、その多くは、『東洋学報』とか『東洋文庫論叢』とか、または東大文学部出版の名義になっている『満鮮地理歴史研究報告』とか、または早大のぼくの研究室から出した『東洋思想研究』とか、そういうもので発表した。それで、どうしてこういうようなしごとをするようになったかということであるが、それには『国民思想の研究』のことから始めるのが便宜であろう。
『国民思想の研究』という書名は、出版まぎわにつけたものであるし、ああいう形でああいうものを書こうという構想のほぼまとまったのも、大正のはじめのころであったろうと思うが、手をつけはじめたのは、それよりも十二、三年前のことである。たしか明治三十三(一九〇〇)年であったように記憶するが、その前の二、三年ほどの間、地方の中学の教師をしていたのを、この年に東京に帰って獨逸学協会学校につとめることになった。同じようなしごとではあるが、いくらか新しい気分にもなったので、この機会に明治維新のことを、主として思想の方面について、少し考えてみようと思いついた。どうしてそういうことを思いついたかは忘れたが、フクチ オウチの『幕府衰亡論』、キムラ カイシュウの『三十年史』、タナベ レンシュウの『幕末外交談』、その他、旧幕臣たちの著書を読んでいたので、それに誘われたところがあったのであろうか。トガワという人の『幕末小史』や『旧幕府』という月刊雑誌の出たのも、このころであったかと思うが、もしそうならば、それらもいくらかの刺戟になったかも知れぬ。あるいはまたいわゆる勤王論のような立ちばからのみ維新を考えることに物足らぬ感じを、前からもっていたようにも思われるので、そういうことから導かれたところがあったかとも考えられる。何れにしても、じぶんのことながらはっきりは思い出されぬ。それはともかくも、そのころには幕末期における幕府のしごと、特にヨウロッパの文物を学び取ろうとして努力したことに、最も多く興味がひかれ、その方面に関係のある書物で手に入り易いものをいろいろ読んでみた。ところが、何につけても疑問が起って、わからないことばかり出て来た。そうして、もっと広くその時代の、またさかのぼってエド時代の初期からの、文化上社会上の情勢を知らなくては、小さい疑問も解けないことに、だんだん気がついて来た。それで、そういうことを知るために役にたちそうな書物を何によらず読んでみることにしたが、そのころには、版本でも現代式の活字本の覆刻が少ししかできていず、また写本のままで伝わっているものが多かったので、読みたいものを手がるに手に入れることができなかった。勿論、珍本とか人の知らないようなものとかも読もうとしたのではなく、だれでも一応は読むべきはずの、ごくありふれた本を見ようとしたのであるが、貧乏生活をしていたので、そういう書物を買う余裕すらもなかったのである。それで、ウエノの図書館を利用する外に方法がないと思い、学校から帰ると、夜にかけて、殆ど毎日のようにそこに通った。三十三年から三十六年ころまでそれが続いたように思う。図書館が音楽学校の前にあって、小さな木造の閲覧室をもっていたころのことである。ただいわゆるエド文学に関するものは、活字の覆刻本がかなり出ていたので、そういうものだけはどうかこうかじぶんの書物でまにあわせることができた。
 ここでしばらくこの時から十年あまり前のことをふりかえってみる。ぼくは明治二十三(一八九〇)年に東京に出て来て、今の早大の前身である東京専門学校の政治科に入り、一年半ばかりいて、翌二十四年にそこを卒業したことになっている。数え年で十八、九の時であったし、そのころの学校も学校であったから、学問というようなことは何もわからなかった。ところが、そのころ博文館から『日本文学全書』というものが出、版元は忘れたが近松や西鶴芭蕉などの廉価な覆刻本もいくらかずつ現われて来たので、そういうものをぼつぼつ読んでいるうちに、学校の講義などよりはその方がずっとおもしろくなった。それからひきつづいて『日本歌学全書』というものも出版せられるようになり、『源氏』の『湖月抄』もオオサカあたりの書林からか出たので、それらをつぎつぎに読んでいった。これは二十五、六年ころのことであったろうか。独りでかってに読んだのだから、わからぬところもあり、誤解していることも多かったであろうが、とにかくこういうようにして、いろいろの古典やエド時代の文学を少しばかりのぞいて見ることができた。宣長の『古訓古事記』や『書紀』の本文を始めて読んだのも同じころであったが、今から思うと、これらは何のことかわからずに読むことだけをしたものらしい。ぼくは日本の古典などの講義をだれからもきいたことがない。シナのも、小学校時代の外は、同様である。人に交わることが殆どなかったので、こういうことについて話しあう友人というようなものもたなかった。ただかねてから『国民之友』とか『日本人』とかいうような雑誌は見ていたし、文学雑誌では鴎外の『しがらみ草紙』を特に愛読していたので、そういうものが、古典などを読むにも、おのずから何ほどかの助けとなったであろう。
 こんなことをしているうちに、そのころ学習院の新進教授であったシラトリ クラキチ先生のお宅にときどきうかがうようになった。先生は大学を出られてからまだ二、三年か三、四年かにしかならず、研究の方向もまだはっきりきまってはいられなかった時であったと思うが、いつも学問上の話をせられ、お頼みすると学習院の書物を借り出して来て貸して下された。その時分、ぼくは歴史にいくらか興味をもっていたではあろうが、それは、古典などを読むにつれて昔のことに或る親しみを覚えた、という程度のことであったらしい。もっとも、そのころ世に出た歴史に関する書物を少しは読んだように思うが、それによって何を知ったかは全くおぼえていない。『史学雑誌』とかタグチ ウキチの編纂していた『史海』とかを見てはいたようであるが、特殊の問題を取扱った論文などは、読んでもよくわからなかったろうし、『国史眼』というものも買ったことは思い出せるが、それを通読したかどうかは忘れている。それからヨウロッパのものでは、たしか著者をフィッシャアといったかと思うが、かなり程度の高い学校の教科書として書かれたものらしかった『世界史』を読んだ。ぶあつなものであったが、書きかたがごたごたしていて、歴史の大すじが却ってつかみにくかったかと思う。特殊のものとしてはマコレイの『イギリス史』を読もうとしたが、ことばづかいがむつかしくてよくわからず、少しばかりでやめてしまった。歴史とはいえないものであるが、カアライルの『英雄崇拝論』を或る感激をもって読んだのは、このころのことであった。このくらいのことしか思い出せない。(まだ東京へ出ない前のことであったが、タグチの『支那開化小史』を読んで、これはおもしろい本だと思ったことを、記憶している。)要するに、学問として歴史を研究しようというような考ができていたのではなく、何かの学問を専門的に研究しようというような考を起すまでには、まだあたまが進んでおらず、気のむくままに手ごろな本を読んでいただけのことである。シュヴェグラアの『哲学史』のイギリス語訳をほねをおって読んだのも、このころであったように思うが、それを読むだけの素養などはなかったに違いないから、読むには読んでも実は何もわからなかったであろう。専門学校で心理学の概論めいた講義を聞いて、それをおもしろく思い、それに誘われてそのころ世に出た心理学に関する書物を二つ三つ読んだことはあるが、哲学史などの講義はなかったようであるから、どうしてこんなものを読もうとしたか、それすらおぼえていない。こんなような読みかたをしていたのである。しかし、シラトリ先生とたびたびお話をするようになってから、学問の匂いとでもいうようなものが、かすかながらに感ぜられたと共に、その学問の一つとして歴史に心がひかれるようにもなって来た。
 ところが、二十八(一八九五)年であったかと思うが、先生の中等学校で使う西洋史の教科書の編述のお手つだいをすることになった。先生はそういうものを書くことを好まれず、またそのひまももたれなかったが、或る書肆しょしの懇請をことわりきれず、それを引きうけられたのであった。そのころによい教科書がなかったからのことであったらしいが、あるいは、ぼくに一つのしごとをさせようという心づかいが、それに含まれていたかとも思う。ぼくはそれまでは、ヨウロッパの歴史についての知識は殆どないといってもよいほどに貧弱であったので、このしごとのためには、急いでいろいろの書物を読まねばならなかった。どんなものを読んだか、二、三の外は、はっきり記憶していないし、書物の名は思い出されても、この時に読んだのか、その前か後かにであったか、たしかでないものもあるが、その時のぼくとしては読むにほねのおれるものを、かなり多く読み、あとから考えると、どうして短い時間にあれだけの書物を見たかと思われるほどに、勉強はしたらしい。先生の編述の方針としては、これまでの西洋史の教科書は、記載せられた一々の歴史的事実の間に脈絡がよくとれていないきらいがあるから、大勢の動いてゆく道すじがそれによって説明のできるような組みたてにすること、文芸学術などの文化史上の事実が軽くまた歴史の大勢と離して取扱ってあるから、それを歴史の動きの一つとして叙述すること、東洋また日本との関係が殆ど記してないから、それに力を入れて書くこと、などがそのおもな点であったから、何を読むにも、それに適応する知識を得ることに注意したようにおぼえている。大学の学生時代に聴かれたリースの講義の筆記を先生から借りて通読したのも、この時のことであったかと思う。それで、いよいよ書く段になると、先生の立てられた大体の構想によって、ぼくが草稿を作り、月に二、三回ぐらいずつ先生のお宅にうかがってその検討を乞い、訂正すべきところは訂正し、疑問のあるところは更にそれに関係のある書物を読んで考えなおす、というようにして、ともかくもかなりぶあつなものを書き上げた。出版せられたのは三十年の半ばころであったかと思う。後から見ると、全体が蕪雑でもあり、筆を執ったぼくの知識の足らぬために、著者としての先生の名をはずかしめることになりはしなかったかと気づかわれもしたが、書いた時には、ぼくとしてはせい一ぱいのしごとであった。
 このしごとはぼくにとっては大きな意味のあることであった。教科書の上に明かには書き現わされていなかったと思うが、ごく大ざっぱにではあるけれども、世界の歴史の動きの大すじが、その時のぼくの浅薄な知識の程度で、一とおりわかったように思ったことの外に、政治、経済、社会、宗教、または文芸や学術などの、種々の現象が互にはたらきあって一つの歴史の動きとなっていること、世界は一つの世界であって、多くの民族はその間に、多かれ少かれ、また直接間接に、何らかのつながりがあると共に、民族によってそれぞれの特殊性をもっていること、などを、ぼんやりながら知ったのは、そのおかげであった。また或る歴史上の事件について、今まで普通に行われていた考がまちがっていたり、それとは違った見解があったりすることが、いくらかわかっても来た。こういうようなあたりまえのことが、そのころまだじぶんで研究するということを知らなかったぼくには、新しい発見であった。それから特殊のこととしては、ダットとかいうインド人の書いた『古代インド文明史』を読んだために、それに導かれてインドの文化に興味をもつようになった、というようなこともある。(興味をもったとはいっても、ヨウロッパ人の書いたものや翻訳したもの、または漢訳仏典を、ほんのわずかばかり、おりにふれて読むようになった、というだけのことである。)こういうことを数えあげるとなおいろいろあろうが、一々は思い出されぬ。が、ともかくもこのしごとをしたことによって、いつのまにか歴史というものに親しむようになった。
 さて、このしごとが一応かたづいてから二、三年ほどの間、地方の中学の教師をつとめ、それから東京に帰ったことは、前にいったとおりである。中学では歴史とか地理とかいうものを受持っていたと思うが、その間に、どんなものを読んだかは、殆ど忘れてしまった。ただ自然科学に関する知識があまりなかったので、いくらかでもそれを得ようと思ったこと、フランス革命に関するものを一つ二つ読んだこと、などをおぼえているのみである。
 ここで話をもとにもどす。エド時代の書物を読みあさっているうちに、いろいろのことがらについて、じぶんだけの考のようなものが、ぼんやりした形においてであるが、いくらかずつ思いうかべられて来た。そうしてそれには、普通にいわれているのとは違ったところがあることに、気がついて来た。一つの例を挙げると、そのころニトベ氏の『武士道』が現われて世間の評判となり、それが武士道についての定説のようにいわれたので、それを読んでみると、ぼくの考とはかなり大きな違いのあることがわかった。しかしぼくの考は、武士道というものを特に問題として研究した結果をいうのではなく、いろいろのものを読んでいるうちに、いつとなくそう感じて来たというような性質のものであった。そのころに思いうかべられたことは、みな同じようなものであり、学問上の見解などといい得られるものではなかった。エド時代の生活状態やその全体の動きというようなことについても、じぶんなりに何ほどかの考がおぼろげにできて来たようであるが、これもまた同様である。しかし後に『国民思想の研究』の「平民文学の時代」で書いたことの大すじは、ほぼこのころに一おうの形を成したように思う。
 ところが、エド時代のことをもっとよく知ろうとすると、それより前の時代に溯って考えねばならぬことになり、それを考えることになると、更にその前に溯らねばならず、結局は上代まで溯ってゆくことになるので、実際はそう一々時代の逆の順序に従ってしたのではないが、ほぼこういうふうにして、読んだり考えたりするようになった。そうしておしまいに『古事記』や『書紀』までたどりつくことになったのである。後世の学者の書いたいろいろの古典の注釈を、古典を読むために読まず、時代々々の学者の考を知るために読んだことになっているのも、こういう順序をとったからのことであろうと思う。もっとも、宣長の『古事記伝』などは、この最後の段階に入ってはじめて精細に読んだので、それはこの書の注釈のしかたのためであったらしい。三十七、八(一九〇四―五)年ころから後の数年間は、おもにこんなことをして過したようである。このころになると古書の新刊や覆刻がさかんに行われたので、後世のものでもまだ読まなかったものが容易に読み得られ、前には大ざっぱに読んだりぬきよみをしたりしたものが、こまかにまた全篇を通読することができるようになったから、そういうものをくりかえして読むこともした。
 同じころのもう一つのしごとは、西洋というかヨウロッパというか、そちらの方面の文芸とそれに現われている思想との知識を、一ととおりでも得ようとして、それに関する書物を読むことであった。語学は、その才がないのと教師につかなかったのと努力が足らなかったのとで、何をはじめてみてもものにならず、イギリス文のものすら、どうなりこうなり曲りなりにというほどの程度で、一応の意義がわかるくらいの力しかもっていなかったが、とにかく、おもにイギリス人の著作や翻訳で、文学史芸術史文芸評論の類や、いくらかの古典を読むには読んだ。(ぼくの読んだ西洋のものは、いわゆる歴史家の著述よりは、こういうものの方が多かった。)勿論、ありふれた知識を常識的に得ただけのことであり、その理解のしかたも極めてうわつらのものではあったが、それに費した時間と力とはかなり多かったと思う。読んだことはあとからあとから忘れてしまうので、そのままの形では殆ど頭に残らなかったが、ただそれによってぼくの思想を養うには何ほどかのやくにはたったと思う。これと関聯したことであるが、そのころ西洋の音楽をきくことのできる唯一の機関であった明治音楽会の演奏を欠かさず聴きにいったことも、思い出される。この音楽会では第二部として日本の俗曲を演奏することになっていたので、いろいろのそういうもの、たまには平家琵琶などをさえきくことができた。宮内省の楽部の雅楽の演奏、九段の能楽堂で演ぜられた能や狂言も、できるだけ見にいったことを附記しておく。歌舞伎はたびたびは見なかったが、これは費用がかかるからであった。造形芸術の方では、博物館やときどき開かれる展覧会などのおかげをこうむった外、『国華』のようなもので複製品を見ることを楽しんだ。
 こんなことをしているうちに、ぼくの学問に新しい道の開かれる一つの機会が来た。四十(一九〇七)年のことであったと思うが、そのころ東京帝大の教授であられたシラトリ先生が、満鉄から費用を出させて、その社内に満韓史の研究室を作られたので、そのおてつだいをすることになった。シナの書物は少しは読んでいたので、それに親しみをもっていたし、現代シナのことをも知ろうとして、康有為や梁啓超がヨコハマで出していた何とかいう紅い表紙の雑誌などを読んでもいたが、満洲とか朝鮮とかいうことは、あまりに縁遠い気がして、そういう方面の研究はできそうにもなかった。ただ始めて地方の中学の教師となった時に、東洋史の教科書に朝鮮のことが書いてあったけれども、あまりわかりにくい書きかたがしてあったので、日本とシナとの中間にはさまっている朝鮮の地位ということを主題とした、この半島の歴史の大すじを簡単に書いてみて、それを生徒に話したことがある。日清戦争後まもない時であったので、こういうことをしてみたかったのであろうが、この主題は、やはりシラトリ先生からうけた示唆がもとになったものであったと思う。『東国通鑑』を学校で買ってもらって、それを主なる資料とし、日本とシナとのことについては、一々原典を見たのではなく、何かの編纂ものによったのであろうが、その書物の何であったかは忘れてしまった。勿論、研究したのでも何でもなく、ありふれた知識をただ少しばかり系統だててじぶんの頭に入れてみようとしたのみのことであったから、その時分のこととしても、まちがいが多かったに違いない。朝鮮についてはこれだけの縁はあるが、それも十年も前のことであったし、満洲のことは何も知らなかったのである。しかし、獨逸学協会学校の方はやめていたし、これは学問的のしごとでもあったので、研究員として満鉄から嘱託しょくたくせられるのではなく、シラトリ先生の私的の助手のような形で、それに参加することにした。前にいった『朝鮮歴史地理』はぼくのこのしごとの結果なのである。ぼくはこの時はじめて特殊の問題についての学問的研究、特に原典批評の方法をさとるようになったといってよい。それと共に、日本の歴史を知るについてシナと朝鮮との史籍を用いねばならぬことを、前々よりも痛切に感じたのである。後に記紀のことを考えるようになったのは、これらのことに誘われたところが多い。それからもう一つは、この満韓史研究は十年計画だということであったので、ぼくはぼく自身のしごととして、日本の文学思潮史とでもいうようなものを、やはり十年計画でまとめてみようということを思いたったのである。新しい道の開かれる機会が来たというのは、この意味でのことである。
 そこで、これまでエド時代のことから次第に溯って上代のことに及んで来たのを、今度は上代から始めて近代に下ってゆくという順序で、改めて考えてみること、できるならばおもな書物をもう一度読みなおすことを、企てた。ところが上代のことを考えるには、世界の諸民族の神話や、上代の宗教民俗、社会組織など、そういうことに関する現代の学問的研究の状況を一わたり頭に入れてかからねばならぬと考えたので、始めのうちは、それらのことについての書物を読むのに、かなり多くの時間と力とを用いることになった。さて、こういうようにして、明治維新ころまでの文学思潮の変遷についての一応の見当が、どうかこうかついて来たようであったから、こころみにその初期の部分を書いてみようとしたのが、大正のはじめのころであったかと思う。ところが、書きかけてみると、また考えなおさねばならぬことがいろいろ起って来たり、どういう形でどういう書きかたをすべきかに迷いもしたり、そういうことで筆が進まず、どれだけか書いたものを一たん反古ほごにしてしまった。そうして更に初から書きなおしたのが、多分、二年か三年かのことであったろう。そうして四年のいつころであったか、ともかくも「貴族文学の時代」一篇を書きあげ、引きつづいて「武士文学の時代」に手をつけた。そうして「貴族文学の時代」は五年になって世に出すことができた。それから六年に「武士文学の時代」を、八年と十年とに「平民文学の時代」の上巻と中巻とを出した。ところが、その下巻とすることになった明治維新を中心としての一時代の部分は、今なお書かないままでいる。こういうものを書くようになったのは、大正十年からは二十年あまりも前に、維新のことを考えてみようとしたのがそもそもの発端であり、それから引きつづいたしごとであったのに、その最初の出発点まで立ちもどらずして、しごとが中絶したのである。これにはいろいろの事情があったので、出版した書肆が破産したり大震災のために紙型が焼けたりしたことも、その一つであるが、ぼく自身にすべきことが他の方面に生じ、興味の中心がむしろそちらに移ったからでもある。
 満鉄における満鮮史の研究は、大正元年だか二年だかに、会社の事情でうちきりとなり、東京帝大の文学部の名で研究報告を続刊し、その出版費を会社から提供する、という形でわずかにその生命をつなぐことができた。それでぼくも毎年その報告に何かの論文を載せることになり、始めのうちは満洲史上のいくつかの問題を取扱ったものを、そのために書いた。ところが、そういうことをしているうちに、シナ人の思想とか生活態度とかいうことから考えてかからねば、何につけてもほんとうのことがわからぬように思われて来たので、次第に問題をその方に移すようになった。『国民思想の研究』を書いていても、もっとよくシナ思想を知らなくてはならぬことが考えられたので、それもまたこのことを助けた。それから大正六年だか七年だかからワセダ大学で講義をすることになったが、その主題は日本のことであったけれども、シナ文化シナ思想との交渉ということに一つの重点を置いた。これらの事情から、ぼくのしごとの半分またはそれより多くが、シナのこと、特にその古典の研究、に費されるようになって来たのである。それと共に一方では、記紀などの日本の古典をもう少し深く考えてみたいと思ってその方にも少からぬ力を分けた。それで、『国民思想の研究』の最後の一巻を書くことは、おのずからあとまわしになったのである。従ってこの著作に関する話はひとまずこれできりあげる。
 ここで少しくいいそえておく。むかし東京専門学校に、わずかの期間、学生として籍を置きはしたが、その後は学校とは何の関係もなく、名がワセダ大学と変ってからも同様であった。そこの教授諸氏とも何の交渉がなく、面識ある方すらも殆どなかったのである。だから、そういうワセダ大学の講義をひきうけることになろうとは、思ってもみたこともなかった。学校のことをいうと、学問の方ではむしろ帝大の方にいくらかのつながりがあったともいわれよう。しかしそれとても、ときどきそこの東洋史の学会に出席したり、書いたものをシラトリ先生の主宰していられた『東洋学報』に載せたりする、という程度のことであって、国史国文学または漢学の方面には、何の接触もなかった。ぼくは世間でいう私学のものでも官学のものでもなく、ただのぼくであった。学問についていう限りでは、それに私学も官学もないはずであるが、実際ぼくは、そういう別けへだてのあるように感じたことは、一度もない。ワセダに講義をもつことになった後でも、この点は同じであった。ぼくの関係している方面で、ワセダに学問上の特色または伝統というようなものがあったかどうかは知らぬが、よしあったとするにしても、ぼくはそういうことには気もつかず、またそういうものを作ってゆこうという考もなかった。
 ワセダの講義は初めのうちは史学科の学生に対してしたのであったが、いつころからかシナ思想に関する特殊問題を取扱った講義をするようになったので、哲学科の学生にもそれをきかせることになり、それが縁となって次には、シナ哲学の講座を担任することになり、史学科とは離れてしまった。大正の末か昭和時代に入ってからかのことと思う。シナ哲学という名は好ましくはなかったが、名などはどうでもよいと思って、それを引うけることにしたので、それから後はぼくの専攻はシナ哲学だということにせられた。事実、大正の末期から後に世に出した論稿や著書は、シナ思想に関するものがその大部分であった。日本のことを忘れたのではなく、『古事記』や『書紀』やその他の古典についての、また上代史上のいろいろの問題に対する、考を時おり世に問いもしたが、最も多く力を費したのは、シナ思想に関することであった。一つのことを考えると、それが縁となって次から次へ新しい問題が起って来るので、次ぎ次ぎにそれを考えることになって来たのである。日本のことについてもこの点は同じであった。従ってぼくのしごとは学界の趨向すうこうにも世間の風潮にもかかわりはなく、ぼくひとりの心の動いてゆくままにしたことである。ただその考えかたは、思想を単に思想として取扱うのではなく、それを実生活との関聯において、また歴史的変化ということに力点を置いて、考えると共に、研究の一つの方法として原典の批判をすることに気をつけた。それがために、ぼくの考はどれもこれもこれまでの通説とは違ったところの多いものとなった。従って、シナのことをいえば漢学者のきげんにさわり、仏教のことをいえば仏教家から、日本のことをいえば国学者や神道先生から、叱られる、あるいは変なことをいうとだけ思われる、というようなありさまであったらしい。しかしぼくはそういうことにはさして気もつかなかったし、いくらか気がついても気にはかけなかった。もともと通説に対して意識的に異議をたてようとしたのではなく、儒教や仏教や神道そのものに反抗しようとしたのでもない。ただそういうものを研究の対象とし、自由な態度、自由な考えかたで、それを取扱った結果が、おのずからこれまでの通説とは違った帰結に到着したまでのことである。
 以上はぼくのしごとについての、いわば外部的な閲歴である。どうしてここにいったような態度をとることになったか、また著作の上に現われている思想とか気分とか物ごとの見かた取扱いかたとが、どうしてそういうようになって来たか、ということになると、考えてみればいくらかはその来歴のたどられることもなくはないような気もするが、それを一々いうことはむつかしく、もっと切実には、じぶんながらはっきりしないといったほうが当っていよう。もし何かいうことができるとするならば、それは若い時からして来たしごとが長い間にいつのまにかそういう態度をとらせ、そういう気分そういう思想をもたせることになって来たのだ、ということであろう。つまりぼく自身のしごとそのものがぼくの考を次第に作って来たのである。これからさきのことはわからぬが、これまでのことについては、こういっておくより外にしかたがない。ワセダの講義は昭和十五(一九四〇)年にやめたが、それから後もぼくのしごと、ぼくの態度、ぼくの気分には、何のかわりもない。
『思想』編輯部の求められることにあてはまるかどうか知らぬがこれで一応の責をふさぐことにする。平凡なしごと平凡な生活をして来たのであるから、実はことごとしく閲歴などといい得ることがないのである。その平凡な生活のうちでも、ぼく自身としては、しごとの上でわりあいに重要な時期であったと思う大正の末期から後のことについては、却って叙述が粗略になったが、これは何か書こうとすれば著作の内容にふれねばならず、そうしてそれは簡単には書けないことであるのと、その来歴については、上にいったようなことしかいい得られないのとのためである。書き終って読みかえしてみると、もう少し書いてもよかったと思うことが、ないでもないような気もするが、今はこれだけにしておく。

底本:「津田左右吉歴史論集」岩波文庫、岩波書店
   2006(平成18)年8月17日第1刷
底本の親本:「思想 三一九」
   1951(昭和26)年1月
初出:「思想 三一九」
   1951(昭和26)年1月
入力:坂本真一
校正:門田裕志
2012年5月8日作成
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