あらすじ
「貧しき信徒」は、病に伏した「私」が、様々な風景や出来事を通して、生命や死、そして信仰について深く思索する詩集です。自然の移ろい、家族との触れ合い、そして自身の病と向き合う中で、彼の内面は繊細かつ力強く揺れ動き、読者の心を深く揺さぶります。苦悩と希望、そして愛と死が織りなす、壮絶で美しい詩の世界を、ぜひ体感してみてください。
ゆうぐれ
瞳をひらけば
ふるさとの母うえもまた
とおくみひとみをひらきたまいて
かわゆきものよといいたもうここちするなり

月に照らされると
月のひかりに
こころがうたれて
いもの洗ったのや
すすき豆腐とうふをならべたくなる
お月見だお月見だとさわぎたくなる

花がふってくると思う
花がふってくるとおもう
この てのひらにうけとろうとおもう

つまらないから
あかるいのなかにたってなみだを
ながしていた

こころがたかぶってくる
わたしが花のそばへいって咲けといえば
花がひらくとおもわれてくる

ひかりとあそびたい
わらったり
いたり
つきとばしあったりしてあそびたい

けしきが
あかるくなってきた
母をつれて
てくてくあるきたくなった
母はきっと
重吉よ重吉よといくどでもはなしかけるだろう

とうもろこしに風が鳴る
死ねよと 鳴る
死ねよとなる
死んでゆこうとおもう

こどもが せきをする
このせきなおそうとおもうだけになる
じぶんの顔が
おおきな顔になったような気がして
こどもの上におおいかぶさろうとする

おおぞらを
びんびんと ひびいてゆこう

菊のをとり
きくの芽をすてる
うつくしくすてる

わたしの
かたわらにたち
わたしをみる
美しくみる

路をみれば
こころ おどる

かなかなが 鳴く
こころは
むらがりおこり
やがて すべられて
ひたすらに おさなく 澄む

山吹を おもえば
水のごとし

こころ
うつくしき日は
やぶれたるを
やぶれたりとなせど かなしからず
妻を よび
をよびて
かたりたわむる

にくしみに
花さけば
こころ おどらん

夜になると
からだも心もしずまってくる
花のようなものをみつめて無造作むぞうさにすわっている

日はあかるいなかへ沈んではゆくが
みているわたしの胸をうってしずんでゆく

秋になると
果物はなにもかも忘れてしまって
うっとりとのってゆくらしい

秋だ
草はすっかり色づいた
壁のところへいって
じぶんのきもちにききいっていたい

湯あがりの桃子は赤いねまきを着て
おしゃべりしながら
ふとんのあたりをねまわっていた
まっなからだの上したへ手と足とがとびだして
くるっときりょうのいい顔をのせ
ひょこひょこおどっていたが
もうしずかな障子しょうじのそばへねむっている

ながいことんでいて
ふと非常に気持がよいので
人の見てないとこでふざけてみた

癩病らいびょうの男が
基督キリストのところへ来ておがんでいる
旦那だんな
おめえ様がなおしてやってくれべいとせえ思やあ
わしの病気ゃすぐ癒りまさあ
旦那なおしておくんなせい
拝むから 旦那 癒してやっておくんなせい 旦那
基督は悲しいお顔をなさった
そしてその男のからだへさわって
よし さあきよくなれ
とお言いになると
見ているまに癩病が癒った

おとなしくしてると
花花が咲くのねって 桃子が言う

木にって人を見ている

こころが美しくなると
そこいらが
明るく かるげになってくる
どんな不思議がうまれても
おどろかないとおもえてくる
はやく
不思議がうまれればいいなあとおもえてくる

ねころんでいたらば
うまのりになっていた桃子が
そっとせなかへ人形をのせていってしまった
うたをうたいながらあっちへいってしまった
そのささやかな人形のおもみがうれしくて
はらばいになったまま
胸をふくらませてみたりつぼめたりしていた

こどもが
せっせっ せっせっ とあるく
すこしきたならしくあるく
そのくせ
ときどきちらっとうつくしくなる

かなしみと
わたしと
足をからませて たどたどとゆく

草をむしれば
あたりが かるくなってくる
わたしが
草をむしっているだけになってくる

ちいさい童が
むこうをむいてとんでゆく
たもとを両手でひろげて かけてゆく
みていたらば
わくわくと たまらなくなってきた

雨が すきか
わたしはすきだ
うたを うたおう

蟻のごとく
ふわふわふわ とゆくべきか
おおいなる蟻はかるくゆく

大山とんぼを 知ってるか
くろくて おおきくて すごいようだ
きょう
昼 ひなか
くやしいことをきいたので
赤んぼをいてでたらば
大山とんぼが みちにうかんでた
みし みし とあっちへゆくので
わたしもぐんぐんくっついていった

虫が鳴いてる
いま ないておかなければ
もう駄目だめだというふうに鳴いてる
しぜんと
涙がさそわれる

あさがおを 見
死をおもい
はかなきことをおもい

萩がすきか
わたしはすきだ
持って 遊ぼうか

西瓜をくおう
西瓜のことをかんがえると
そこだけ明るく 光ったようにおもわれる
はやく 喰おう

ふと
とって 投げた
こうじんむしをみていたらば
そのせなかは青く
はかないきもちになってしまった

桃子
とうちゃんはね
早くくなってお前と遊びたいよ

すずめをみていると
わたしは雀になりたくなった

さすがにもう春だ
気持も
とりとめの無いくらいゆるんできた
でも彼処あそこにふるえながらたちのぼる
陽遊のような我慢しきれぬおもいもある

ほんとによく晴れた朝だ
桃子は窓をあけて首をだし
桃ちゃん いい子 いい子うよ
桃ちゃん いい子 いい子うよって歌っている

梅を見にきたらば
まだ少ししか咲いていず
こまかい枝がうすうす光っていた

おおひどい風
もう子供はねている
わたしは吸入器を組み立ててくれる妻のほうをみながら
ほんとに早くくなりたいと思った

からだが悪いので
自分のまわりが
ぐるっと薄くなったようでたよりなく
桃子をそばへ呼んで話しをしていた

日をまともに見ているだけで
うれしいと思っているときがある

ながい間からだが悪るく
うつむいて歩いてきたら
夕陽ゆうひにつつまれたひとつの小石がころがっていた

原へねころがり
なんにもない空を見ていた

まして
自分のからだの弱いこと
妻のこと子供達の行末ゆくすえのことをかんがえ
ぼろぼろ涙が出てとまらなかった

黒い犬が
のっそり縁側えんがわのとこへ来てわたしを見ている

綺麗な桜の花をみていると
そのひとすじの気持ちにうたれる

自分が
この着物さえもいで
乞食こじきのようになって
神の道にしたがわなくてもよいのか
かんがえの末は必ずここへくる

悲しく投げやりな気持でいると
ものに驚かない
冬をうつくしいとだけおもっている

冬の日はうすいけれど
明るく
涙も出なくなってしまったわたしをいたわってくれる

日がひかりはじめたとき
森のなかをみていたらば
森の中に祭のように人をすいよせるものをかんじた

あの夕焼のしたに
妻や桃子たちも待っているだろうと
明るんだ道をたのしく帰ってきた

地はうつくしい気持をはりきってらえていた
その気持を草にも花にもけなかった
とうとう肉をみせるようにはげしい霜をだした

葉は赤くなり
うつくしさにえず落ちてしまった
地はつめたくなり
霜をだして死ぬまいとしている

うすらの空をみれば
日のところがあかるんでいる
その日をゆびさしたくなる
心はむなしく日をゆびさしたくなる

窓をあけて雨をみていると
なんにもらないから
こうしておだやかなきもちでいたいとおもう

くろずんだ木をみあげると
むこうではわたしをみおろしている
おまえはまた懐手ふところでしているのかといってみおろしている

あかるい秋がやってきた
しずかな障子のそばへすりよって
おとなしい子供のように
じっとあたりのけはいをたのしんでいたい

桐の木がすきか
わたしはすきだ
桐の木んとこへいこうか

わたしをぬぐうてしまい
そこのとこへひかるような人をたたせたい

はっきりと
もう秋だなとおもうころは
色色なものが好きになってくる
あかるい日なぞ
大きな木のそばへ行っていたいきがする

冬は
夜になると
うっすらした気持になる
お化けでも出そうな気がしてくる

冬になって
こんな静かな日はめったにない
桃子をつれて出たらば
櫟林くぬぎばやしのはずれで
子供はひとりでに踊りはじめた
両手をくくれたあごのあたりでまわしながら
毛糸の真紅しんく頭巾ずきんをかぶって首をかしげ
しきりにひょこんひょこんやっている
ふくらんで着こんだ着物に染めてある
鳳凰ほうおうの赤い模様があかるい
きつく死をみつめたわたしのこころは
桃子がおどるのを見てうれしかった

この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美くしさに耐えかね
琴はしずかに鳴りいだすだろう

秋はあかるくなりきった
この明るさの奥に
しずかな響があるようにおもわれる

霧がみなぎっている
あさ日はあがったらしい
つつましく心はたかぶってくる

心のくらい日に
ふるさとは祭のようにあかるんでおもわれる

おかがあって
はたけが あって
ほそい木が
ひょろひょろっと まばらにはえてる
まるいような
春の ひるすぎ
きたないこどもが
くりくりと
めだまをむいて こっちをみてる

この 豚だって
かわいいよ
こんな 春だもの
いいけしきをすって
むちゅうで あるいてきたんだもの

もじゃもじゃの 犬が
桃子の
うんこを くってしまった

柿の葉は うれしい
死んでもいいといってるふうな
みずからをみする
その ようすがいい

めを つぶれば
あつい
なみだがでる

あの 雲は くも
あのまつばやしも くも

あすこいらの
ひとびとも
雲であればいいなあ

さびしいから
お銭を いじくってる

はつ夏の
さむいひかげに田圃たんぼがある
そのまわりに
ちさい ながれがある
草が 水のそばにはえてる
みいんな いいかたがたばかりだ
わたしみたいなものは
顔がなくなるようなきがした

天というのは
あたまのうえの
みえる あれだ
神さまが
おいでなさるなら あすこだ
ほかにはいない

ひかりがこぼれてくる
秋のひかりは地におちてひろがる
このひかりのなかで遊ぼう

月にてらされると
ひとりでに遊びたくなってくる
そっと涙をながしたり
にこにこしたりしておどりたくなる

かなしみを乳房ちぶさのようにまさぐり
かなしみをはなれたら死のうとしている

ふるさとの川よ
ふるさとの川よ
よいおとをたててながれているだろう

ふるさとの山をむねにうつし
ゆうぐれをたのしむ

どこかに
本当に気にいった顔はないのか
その顔をすたすたっと通りぬければ
じつにいい世界があるような気がする

いま日が落ちて
赤い雲がちらばっている
桃子と往還おうかんのところでながいこと見ていた

みんなが遊ぶような気持でつきあえたら
そいつが一番たのしかろうとおもえたのが気にいって
火鉢の灰をらしてみた

桃子
また外へ出て
赤いいばらをとって来ようか

ながいこと考えこんで
きれいにあきらめてしまって外へ出たら
夕方ちかい樺色かばいろの空が
つめたくはりつめた
雲のあいだに見えてほんとにうれしかった

死ぬことばかり考えているせいだろうか
枯れたかやのかげに
赤いようなものを見たとおもった

人を殺すような詩はないか

息吹き返させる詩はないか

ナーニ 死ぬものかと
の髪の毛をなぜてやった

赤いシドメのそばへ
にょろにょろと
青大将を考えてみな

がさめたように
梅にも梅自身の気持がわかって来て
そう思っているうちに花が咲いたのだろう
そして
寒い朝しもができるように
みずからの気持がそのままにおいにもなるのだろう

雨は土をうるおしてゆく
雨というもののそばにしゃがんで
雨のすることをみていたい

風はひゅうひゅう吹いて来て
どこかで静まってしまう

雪がふっているとき
木の根元をみたら
面白おもしろ小人こびとがふざけているような気がする

神様 あなたに会いたくなった

夢の中の自分の顔と言うものを始めて見た
発熱がいくにちもつづいた夜
わたしはキリストを念じてねむった
一つの顔があらわれた
それはもちろん
現在の私の顔でもなく
おさない時の自分の顔でもなく
いつも心にえがいている
最も気高けだかい天使の顔でもなかった
それよりももっとすぐれた顔であった
その顔が自分の顔であるということはおのずから分った
顔のまわりは金色きんいろをおびた暗黒であった
翌朝よくちょうがさめたとき
別段熱はさがっていなかった
しかし不思議ふしぎに私の心は平らかだった

底本:「八木重吉詩集」白凰社
   1969(昭和44)年9月20日第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:丹羽倫子
1998年8月20日公開
2011年2月15日修正
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