私は今日、町はづれのお不動様の近くに、用事があつて出掛けたが、用事の済んだのは夕暮れで、道傍の草むらには、秋も終りに近い虫の声が散らばつていた。そんな時間にも、まだお不動様へお詣りの群が切れ/″\につゞいて来るのであつた。
 四、五十歳位の女の人が多く、皆、肩から斜に白い襷を掛け、それには津山不動講と書いてあつた。
 そして私も岡山県津山市で生れたのだ。
 私もこの人達と同じ年配だから、この中には、あの城山の下の小学校で、私と机を並べた人が居るかも知れない。そう思つて私は、あとから/\続いて来る顔を、ジロジロ見ながら歩いた。
 あの小学校の上の城跡からは、時の鐘が一時間毎に、ゆつくりと鳴りひゞいた。城山の古い松の木には、おびただしい鴉が住んでいて、今日のような、いわし雲の空には、日暮れになると、胡麻をまいたように群れ騒いだ。小学生の私達は、その声をあとにして、思い/\に家に帰つたものだ。私はよごれ果てた都会人だが、ふるさとのこの人達の中に、四十年前の私の、幼な顔を発見して呉れる人はいないだらうか。私はふるさとの言葉を聞こうと、すれちがう度に耳を澄ましたが、秋の日暮れの旅先で、馴れない乗り物と人の群れに疲れ果てた人々は、言葉すくなに、重い足取りで坂道を上つて来るのであつた。
 私の母は、この人達の年配で、この人達の町で死んで逝つた。丁度、秋の終りの、時刻も今頃であつた。私はいつのまにか、この老婆達の中に、母のおもかげを求めていたのだが、私自身、すでに母の死んだ年齢に達しているのだから、秋の虫の鳴く坂の曲り角で、ぱつたり母と顔を合せたら、それは奇妙な対面となるにちがいないのだ。
 母もこの老婆達のように、信心深い人であつた。
 町の黒住教の信者で、毎月のお詣りの晩には、母子二人暮の戸締りをしたあと、幼い私を連れて講社へ行つた。講社は河のほとりの「カンゴク」と呼ばれた刑務所のはずれにあつた。子供の私には、刑務所の黒い高い長い塀に続いて、神様がいるのが不思議であつた。講社では、私は母の教える通りにカシワ手を打ち、母について「ノリト」を唱えた。「ノリト」の意味は勿論判らなかつたが、恐ろしい、気味の悪い言葉に満ちていた。
「ノリト」のあとには説教があつた。説教が初まると、私は必ず居眠りを初め、揺り起された時には、何時も母の膝に顔を埋めていた。私はあまり、丈夫な子供ではなかつたから、説教のあとで、よくオマジナイをして貰つた。
 老人の講師が、先づカシワ手をポン/\と打ち、手に息を吹き掛け、その手で私の顔や腹を撫でて呉れた。
 老人のてのひらは、女のようにやわらかであつた。
 講社から帰るのは、何時も夜が更けてからであつた。
 山国の秋の夜更けは風が寒く、暗い人通りの絶えた道に、母と私の下駄の音だけがひゞいた。歩きながら私は、ともすれば居眠りをした。寒い夜には、母は袂の中に私の頭を入れて呉れた、私は眠つた頭を袂の中に預けてぐら/\居眠りながら歩いたが、母は「そら、向うに焼餅屋の提灯が見えて来た」と云つて私を袂ごとゆさぶつた。赤い提灯をぶら下げた、その屋台で、おじいさんが、鉄板の上に、焼きざましの、しわの寄つた餡餅を並べて売つていた。母はいつも一つ買つて私に持たせた。かぶりつくと、薄い餅の皮の中から、まだ熱い餡が、トロ/\と口の中にひろがるのであつた。
 そんな事を思ひ出しながら、私はふるさとの老婆の最後のうしろ姿をふりかえつた。
 とう/\知つた顔に合わず、呼びとめられもせず、また私の方から「私も津山の生れです」と名乗りもしなかつた。

底本:「日本の名随筆72 夜」作品社
   1988(昭和63)年10月25日第1刷発行
   1999(平成11)年4月30日第7刷発行
底本の親本:「西東三鬼読本(俳句臨時増刊号)」角川書店
   1980(昭和55)年4月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月31日作成
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