目次
 刑事弁護士の尾形博士は法廷から戻ると、久しぶりにゆっくりとした気分になって晩酌の膳にむかった。庭の新緑はいつか青葉になって、月は中空にかかっていた。
 うっすらと化粧をした夫人が静かに入って来て、葡萄酒の瓶をとりあげ、
「ずいぶん、お疲れになったでしょう?」と上眼使いに夫を見上げながら、ワイン・グラスになみなみと酒を注いだ。
「うむ。だが、――長い間の責任をすましたので、肩の荷を下したように楽々した」
「そうでしょう? 今日の弁論、とても素晴らしかったんですってね。私、傍聴したかった。霜山弁護士さんが先刻おいでになって、褒めていらしたわ、あんな熱のこもった弁論を聴くのは全く珍らしい事だ、あれじゃたとえ被告が死刑の判決を下されたって、満足して、尾形君に感謝を捧げながら冥土へ行くだろうって、仰しゃっていらしたわ」
「霜山君はお世辞がいいからなアハ……。しかし、少しでも被告の罪が軽くなってくれればねえ、僕はそればっかり祈っている」
「あなたに救われた被告は今日までに随分おおぜいあるんでしょうねえ。刑事弁護士なんて云うと恐い人のように世間では思うらしいけれど、ほんとは人を助ける仕事で、仏様のようなものなんですからね」
「その代り金にならないよ。だから、いつでもピイピイさ」と笑った。
「殺人犯だの、強盗だのなんかにはあんまりお金持ちはいないんですものねえ、でも、あなたは金銭にかえがたい喜びがあるから、と、いつも仰しゃいますが、減刑になったなんて聞くと私まで胸がすうっとしますわ。その人のために弁護なさるあなたの身になったらどんなに愉快だろうと思いますのよ」と云っているところに、玄関のベルが臆病らしくチリッと鳴った、まるで爪か、指先でもちょっと触れたように。
「おやッ」と夫人は口の中でつぶやいた。
 ふたりは何という事なしに眼を見合せたのだった。すると、こんどはややしっかりしたベルの音がした。
 夫人は小首を傾げて、
「普通のお客様のようじゃないわね、きっと何かまた」と、云いながら席を起って行ったが、間もなく引返して来ると、まるでおびえたような顔をして、
「何んだか、気味が悪いのよ。まるで幽霊のような女の人が、しょんぼりと立っていてね、薄暗い蔭の方へ顔を向けているので、年頃も何もまるで分らないけれど、みなりは迚も立派なの。正面まともに私の顔も見ないで、先生に折入ってお願いしたい事がありまして夜中伺いましたって、この御紹介状を差出したんですが、その手がまたぶるぶると震るえて、その声ったらまるで泣いているよう、――」
 博士はその紹介状を受取って、封をきり、眼を通していたが、
「不思議な人からの紹介だな」と云って、ぽいと夫人の手へ投げた。
「まあ、ミシェル神父様からの御紹介状ですのねえ、あなた、神父様御存じなの?」
「うむ。僕は若い頃熱心な天主教徒だったんだよ。いまは大なまけだが――、しかし、形式的のつとめこそ怠っているが、心は昔と少しも変らない信者なんだ。二十何年前僕はミシェル神父様の手で洗礼をさずけて頂いた。しかし、よくまあ神父様は覚えていられたものだなあ」と、博士は愉快そうに起って、自ら玄関に訪問客を迎え、横手の応接室に通した。
「どんな御用件なんでしょうか?」と、ゆったりと煙草に火を点けた。
 女は夫人の言葉通りに小刻みに体を震わせながら、暗い隅に腰かけて顔も上げ得ないのだった。三十か、あるいは四五にもなっているかも知れないが、痩せた青い顔に憂慮と不安のいろが漂い、神経質らしい太い眉を深く寄せている。紹介状には川島浪子とだけ書いてあって、人妻か未亡人か、どういう身分の婦人であるかがまるでわからなかった。夜中、殊に突然飛び込んで来る客には何かしら深い事情のある人が多かったので、彼は心の中で仔細があるなとうなずいた。
 ややしばらくしてから、婦人は低い声で、
「お願いがあって、突然上りまして」と云って、面を伏せた。
「神父様の御紹介状にはただお名前だけしか書いてありません、委しい事は御当人から直接訊いてくれ、と、ありますが――」
「はい。私はある小さな会社の重役をつとめている者の妻でございます。思いあまったことがありまして、教会へ告白にまいりましたところ、神父様が、先生にお縋りしてみよと仰しゃいましたので、恥を忍んでまいりました」と、割合にはっきりした口調で云って、はじめて顔を上げ、正面から彼を見た。その顔をじいと見ていた博士は、
「あッ、あなたは――」思わずおどろきの叫び声をあげて、
「秋田さん秋田浪子さんじゃありませんか?」
「先生、よく覚えていて下さいました」と、彼女は淋しくほほ笑んだ。
「随分変られましたな、すっかりお見それしてしまった、川島さんだなどと仰しゃるもんだから、なおわからなかったんです」
「でも、私、川島へ再婚したんですの」
「秋田さんなら、何も御紹介状をお持ちになる必要もなかった」
「だって、もうお忘れになったろうと思って、――先生と御交際させて頂いていたのはもう二十年も音の事ですもの」
「何十年たったって、あなたを忘れるなんて――」そんなことがあって、どうするものかと、つい口の先まで出かかったのをぐっと呑み込んで、
「いくら健忘症の僕でも、あの頃のことだけは忘れませんよ」
「じゃあ、いまでも怒っていらっしゃる? 私が結婚したことを――」
 博士は烈しく首を振って、
「いいや。決して、――あなたは僕のような貧乏書生と結婚しては幸福になれないからいやだとはっきり云ってくれたから、僕は反って思い切れたんですよ。間もなく浪子さんが金持の後妻になったと聞いた時、その方があなたのためには幸福なんだろうと思って、祝福していた位ですもの、そのかたとは?」
「死別しました。先妻の息子が相続人だったので、私は離婚して川島と再婚しました」
「それで、――あなたは幸福に暮らしていられるんでしょうな」と云ったが、みなりこそ立派だが、見違えるほど面瘻れした彼女を見ては幸福な生活をしている者とはどうしたって思われなかった。
 彼女は悲しげに少時しょんぼりとうなだれていたが、
「先生は、今朝の新聞を御らんになりましたか?」
 と、きっと顔を上げて訊いた。
「見ましたが?」
「あの、――ある青年が、あやまって赤ン坊を殺した記事をお読みになったでしょう?」
 博士はうなずいて、
「無意識のうちに殺したという、あの事件ですか?」
「私、その事で先生にお縋りに上ったんですの」
「すると、あの青年は?」
「私の従弟ですの」
「なるほど、あなたの旧姓と同じですね、秋田弘とか云いましたね」
「父の弟の息子です。秀才だったのですが、大学を出る一年前に応召して、戦争に行ってからすっかり人間が変ってしまいました。終戦と同時に帰還しましたが、もう大学へかえる気持ちもなく、それかと云って就職もせず、働く気もないという風で、前途に希望を全く失ってしまい、毎日ただぶらぶらと遊んでその日その日を送っているというようなので、親も段々愛想をつかし、最近では小遣銭にも不自由しておりましてね、度々私のところへ無心を云いに来るようになりました」
「ちょいと待って下さい」
 博士はベルを鳴らして、夫人に今朝の新聞を持って来させ、もう一度その記事に眼を通してから、びっくりしたように、
「殺人はあなたの家で行われたんですか?」
「そうなんです」
「ふうむ」
 彼は始めてこの訪問の容易ならぬことを知ったのだった。
「して、その赤ン坊は?」
「私の子なんですの」
「えッ? あなたのお子さんが殺されたんだと仰しゃるんですか?」
「ええ。ですけれど、――先生、弘さんは可哀想な青年なんですのよ。私、自分の赤ン坊が殺されたんですけれど、弘さんを恨む気にはなれません、それで、――それで実は私、先生にお願いするんです。どうぞ、あのひとを救ってやって下さいませ」と云って、手を合せ、
「あの、先生、弘さんは死刑になるんでございましょう?」とおろおろ声で訊くのだった。
「さあ」
「もしも、弘さんが死刑にでもなるようでしたら、――私は生きていられませんの。あんまり可哀想で、――どうぞ、お願いです、助けてやって――」
 と、婦人は縋りつかないばかりに嘆願するのだった。
「と、いって、僕がどうしようもないじゃありませんか。犯行がこうはっきりしていて、あなたの家を訪問し、あなたの赤ン坊を殺した、それをあなたは目撃していたが、どうにもとめようがなかった、というのでしょう?」
「新聞に書いてあるのはそれだけです、が、それにはいろいろとわけがありまして――」
「そのわけというのをすっかり話してみて下さい。その上で、僕の力に及ぶことなら何んとでもして上げますから」
「ほんとにお願いします。恐らく私が先生にお願いすることの、これが最初で最後だろうと思います。先生、私の涙のお願い、きいて下さいね」と云って、婦人はむせび泣くのだった。
「よろしい。その代り何もかもありのままを云って下さい。少しでもかくしたりしてはいけませんよ。嘘が交じると困ることになりますからね」
「決して、誓って嘘は申しません、かくしだてもいたしません、すっかり洗いざらいお話しいたしてしまいますわ」


 浪子は興奮した心を鎮めるように、胸に手を当てて、瞑目やや久しゅうしてから、静かに口をきった。
「何から申上げていいかわかりませんが、まず私共の家庭の状態を一通り聞いて頂きます。川島は先刻も云ったように会社の重役で、極く派手好きな道楽者なのでございます。親譲りの財産があるところから会社の株を買い、そのおかげで重役の椅子についているのですが、手腕があるというわけではありません。金使いは至って綺麗な方ですから、私は金銭の苦労をしたことはありませんが、人間の幸福は決して金のあるなしではない、という事をしみじみ感じたのは再婚した翌年だったのでございます」
 博士は微笑して、
「金持ちを撰んだあなただったじゃありませんか?」
「若かったんですわ。考えが浅かったんです。夫は道楽者で、私と結婚する前から一人の女がありました、その女はカフェのマダムだったんだそうですが、夫は会社の近くに家を持たせ、会社への往復には必ず立ちよるという風で、その事を知らなかったのは私ばかり、会社の人達をはじめ誰一人知らない者はありませんでした。みんなは私よりもその妾の方へおべっかをつかい、奥様々々と云っていました」
「とかくそんなものですよ。金持ちというものは、――実際には正妻より妾の方が勢力があるものと定っていますからね」
「私はまるで床の間の置物で、世間へ体裁をつくるための妻だったのです。私は面白くない月日を送るようになりました。恰度昨年の今頃ですわ、ふとした機会から妾が姙娠したことを聞き込みました」
「あなたのお子さんは?」
「私には子どもはありません。妾に姙娠までされてはもう私は手も足も出ない、どうしたものか、一層身を退いて夫と別れようかとも思いましたが、考えてみるとそれは妾に負けたことになり、損をするのは私ばかり、私がいなくなれば、もっけの幸いと家へ乗り込み正妻になおるのは火を見るより明らかです。厭でもここは頑張らなくつちゃ、妾なんか家へ入れてたまるものか、と私は思い返しましたのですが――」
「それが当然ですよ」
「やはり夫の愛が私から去っているのを感じないわけにはゆきません。彼の外泊は近頃ではあたりまえの事のようになってしまいました。夫は最初私に妾のある事をひしがくしにしていたものです、私が利口者か、世間を知っている者かだったら、ひしがくしにしているのをほじくりもしなかったでしょうし、素知らぬ顔で見て見ぬふりもしていたでしょうが、私は嫉妬にかられて何の考えもなく、何もかも知っているぞ、と、云って、夫が閉口しているのを見て痛快がっていたものです」
「一時は胸がせいせいして愉快だったでしょうが、結果はよくなかったでしょう?」
「悪るかったことを後に知りました。濡れぬうちこそ露をもいとえで、男は知れたとなると開き直る者だということを私は知りませんでした。夫はもう平気で私の前で妾ののろけも云うし、私と比較して妾の事を褒めたりするのです、私はひどく侮辱されたような気がして、その度に夫と喧嘩をし、口論の絶え間がなかったんです。そのうちに玉のような女の子が生れたとききました。気に入っている女に出来た自分の子です、彼はもう殆ど家へは帰らず、妾の処に入り浸ってしまいました」
「川島さんもそれではあまりにあなたを踏みつけにした仕方です。一家の主婦としての立場も考えて上げなければ、それでは召使などの手前あなたの面目が立ちませんなあ」と博士は同情に堪えないという風だった、見違えるほど瘻れてしまったといい、憂いに沈む眼差しといい、苦境に喘いでいるのがありありと見えて、彼は痛ましく思ったのだった。
「赤ン坊が生れてから間もなくの事でしたが私に取っては偶然に湧いた幸運、夫にとっては悲運とでも申しましょうか、妾に若い男があるという噂がたったのです。夫が詰問したところ事実であることがわかり、それが原因でふたりの仲が気拙くなり、夫の熱もだんだん冷めてゆくように見えました。ある日夫は云い辛そうに、赤ン坊を引き取ってくれるならば妾と手を切ると申しました。この機会を逃がしては、と、私は早速承知いたしました。すると、妾はただ引取ってもらうだけでは困る、入籍して相続人にしてほしいと申出たのです」
「なかなかのしっかり者ですね。勿論それもあなたは承知されたのでしょう?」
「はい。そして妾と手を切らせました。どうせ道楽者の事ですから、妻一人を守るというわけにはまいりませんが、私としてはその妾と別れてくれるということが嬉しかったんです。妾の方は手切金をたんまり貰えば、という位のところだったんでしょうが、夫の方はとても未練があったのです。しかし、二度と夫に会わないということと、赤ン坊に会わないという条件で話が纏まりました。吉日を撰んで赤ン坊を私が引き取りにまいったのです」
「その赤ン坊ですね? 殺されたのは?」
「そうですの。私の子ではありませんが、十ヶ月も育てたのですから、実子と変りはありません、とても可愛かったのですよ」
「御主人の方は?」
「眼の中へ入れても痛くないというほどの可愛がり方なのです。愛子と名づけまして、夫は愛子のあるために女道楽も大分下火になりましたので、私も安心して、いい事をしたと喜んでおりましたが、夫は別れた妾がよほど気に入っていたものと見えて、何とかしてよりが戻したいらしかったのです。実は妾の心をいつまでも惹きつけておく手段に愛子を手許に引き取ったのだという事が、私にも段々わかるようになりました。会わない約束の妾とも時々内緒で会っているらしい様子もあります」
「それじゃまんまとあなたは一杯喰った、欺されたようなものではありませんか」
「うまく相続人の地位にまで据えたりして、と、思うと腸が煮えくりかえるほど腹が立ちました。赤ン坊一人育てるということは、先生、容易ならぬ苦労でございます。その苦労を私一人に背負わせて、――ほんとに口惜しくなります」
「そして将来妾が公然と現われて来たとしても、自分の生んだ子が相続人になっているんですから強いですよ」
「ほんとに私はつまらない立ちばになってしまったのです。私は怏々として楽しまぬ日を送るようになりました。それに同情してくれたのが従弟の弘さんなのでございます」と云って、溜め息を吐き、
「弘さんの事を少し申上げなければなりません、新聞にもあります通り精神異常者なのでしょう。幼さい時から頭もよく学校の成績もよくって利口者だったので、両親に非常に可愛がられ気儘に育ちましたが、ひどい疳癪持かんしゃくもちで、自分の思うことが通らないと気狂いのように暴れ狂うという癖がありましたの」
「我儘なんですね」
「弘さんが怒ったとなると、みんな逃げ出したものです。怒るとまるで人が変ったようになり、眼を釣り上げ、顔は蒼白というよりはむしろはくぼくでも塗ったように白っちゃけてしまうのです。烈しい一時の発作のようなもので、発作中にやったことは後で何を訊いてみても覚えていません。ある時のこと弘さんがひどく怒りまして、庭に遊んでいた鶏の首をひねって殺したんですが、意識を取り戻してから鶏の死んでいるのを見て、誰が殺したんだと云って大変悲しがりました、犬の子を絞め殺したこともありました。一時の発作ですから、気が鎮まるとけろりとして、平常と少しも違わぬ優しい弘さんになるんですの」
「恥しいから、記憶がないように云っているのではありませんか?」
「いいえ、発作中の事は全く知らないらしゅうございます。二重人格とも違いますし、ジキルとハイドのようなのとも違います。余り変なので私の懇意な精神科の医者にその話をしましたら、それは意識喪失症状で、精神病の一種なのだと申されました。そう申せば弘さんの母方の親類には発狂して座敷牢で死んだ婦人もありますし、彼の母親もひどいヒステリーで、いく度も自殺しかけたことがありました」
「精神病の血統なんですな」
「弘さんは戦争に行ってからは一層気が荒くなり、発作を起す数も多くなりました。将来に希望もなく、何も信じる事の出来なくなった弘さんが、毎日遊び暮らしているのですから忽ちお金に窮してしまい、私へ無心を云いに来るようになりました。私は自分の愚痴を聞いてもらえるし、同情してもくれるので、主人には内緒で小遣を与えておりました。が、段々無心が烈しくなり、額も多くなるので私も少し困り始めました」
「働けるのに働かない、という人が一番困りますよ」
「主人に云えばなまけ者に小遣なんかやるナと申されます。私が与えなければどこからもお金の出どころがないのを知っていますから仕方なく、お金の代りに衣類を渡して、これを売りなさい、と申すような事も度々ありました。弘さんはその度に浪子姉さんにすまない、と云って、眼に涙を浮べるのです。心はほんとにやさしい人なのですが、何かひどいショックを受けたり、激怒したりすると発作を起してしまうのです。何という可哀想な情けない病気を持っているのでしょうか、これだけお話ししたら、弘さんの性格もほぼ御想像がつくことと存じます」


 彼女は言葉を続けて、
「愛子は日一日と可愛くなります。夫は家へ帰るのは赤ン坊を見るためで、愛子をあやしたり、抱いたりしています。愛子を中心としての話ばかりで、赤ン坊を離しては私達の夫婦関係というものは全く水のような冷めたいものになってしまうのです。それもまた私にとっては淋しい、つまらないものだったのです」
「しかし、赤ン坊がいるからまだいいのですよ」
「そうかも知れませんが、ある日、夫は縁側に出て愛子をあやしていましたが、突然ぎゅっと抱きしめ、頬ずりしながら、妾の名をよんだのです。私はハッとして、眼がくらくらとしました。ああ、夫は赤ン坊を通して彼女を愛撫している、と思うとむらむらとして、いきなり愛子を引ったくってしまいました。夫は不機嫌な顔をしてむうっと黙り込んでいました」[#「いました」」は底本では「いました。」]
「気まりが悪かったんでしょうよ」
「私はそういう雰囲気にいるのが辛く、何とかして夫の心を和げようと思い、この子のおかげで毎日が楽しい、子どものない夫婦なんてつまらないでしょうねえ、と申すと、ふふん、子どものない妻なんか他人と同じだ、と、ぷつんと云って外へ出てしまいました。私はその言葉が頭にこびりついて離れませんでした。何年連れ添っても子どものない私は彼から見たら他人なのだ、そこへゆくと妾の方は別れても他人ではないのだろう、と口惜しくって、胸が燃えるようでした」[#「ようでした」」は底本では「ようでした。」]
「男という者は勝手な事を云いますからね」
「それに愛子の顔が妾にそっくりで、眼つきだの、笑う口許だの、実に生き写しなのです。あの憎い妾に似ていると思うと、可愛さよりも憎らしくなるものですのねえ。愛くるしい眼をじいッと見詰めていると、いつかそれが赤ン坊でなくほんものの妾の顔に見えたりして、この眼で夫を惑わせたか、蕾のような赤い唇を見ると、夫の心を吸い寄せた憎い唇――と、思わず口尻を捻り上げて泣かせたりしました」と云って、彼女は虚のような声で笑った。
 博士はいかにも興味深くその話に聞き入っていたが、
「愛子さんをいじめたりしては、なお御主人との間が拙くなるじゃありませんか」
「でもあんまりよく似ているんで、憎らしくなってしまいますわ。そして、恰度昨日の事なんですが」と云いかけて、身震るいしながら「夫と愛子の事で喧嘩したあとで、私はまだ興奮からさめきらず、むしゃくしゃ腹を立てているところへ弘さんがやって来たんです。また無心だな、この男も私に同情するような顔をして痛めつけに来るんだ、と癪にさわり――」
「無理もないな」
「で、私は突っかかるような調子で、またお金を貰いに来たの? と云うと、弘さんは恥しそうに顔をぱっと赤くしました。今日は駄目よ。そういつもいつも柳の下に泥鰌はいないわよ、ちっと河岸を変えたらどう? ときめつけてやりました」
 博士は口許にちょっと笑いを浮べた。
「弘さんは何か口の中でぶつぶつ云っていましたが、丁寧に頭を下げて、すみませんが、今日は退っぴきならない事で金が要るのです。その金がないと僕は詐欺になるんです、どうぞもう一度だけ助けて下さい。拝みます。としおれ返って頼むのです。私は威丈高になって、何の真似? 拝んだりして乞食みたいだわ。あんたが詐欺になろうと烏になろうと私の知った事っちゃない。同情してやればつけ上って、来る度にお金々々なんだから、ほんとにいやんなっちまう。帰って頂戴よ。と呶鳴りつけてやりました」
「驚いたでしょう? あなたの権幕に――」
「弘さんはべそを掻くような顔をして部屋を出ました。襖を閉めるか閉めないに、私はまた声を張り上げて、お金が出ないと分ったらもう来まいよ、あの乞食は、――と、悪口を浴びせて、やっと、溜飲を下げたものです。すると、ガタンと何か襖に打つかる音がしました。振り向いて見ると、襖を蹴倒した弘さんが仁王立ちになって私を見下している、両の拳を握りしめ、歯をきりきりと鳴らし、眼を釣り上げているんです。発作だ! これから暴れ始めるんだな、狂った牡牛のように、――と思うとぞッと頭から水をかけられたように総毛立ちました」その有様をまのあたりに見るように震るえて、
「弘さんの顔はまるでお面を被ぶったように無表情になっているのを見ると、思わず私は愛子を抱いて身を退きました。同時に自分の云い過ぎを後悔したのです。弘さん、私が悪るかった、堪忍して頂戴、お金を上げるから、と云いました、が、金という言葉が一層彼の憤りの火に油をそそいだ結果になりました。金が欲しさに戻ったと思うのか、と云うや、いきなりそこにあった人形を叩きつけ、力を込めて手足をばらばらに引きちぎりました。その凄まじい権幕に私は夢中で庭へ飛び降りて逃げ出しました」
「愛子さんをどうしました」
「残して来た事に気がついて、引返したのです、が、ああ、先生、その時の私の驚きと恐怖はとても御想像がつきますまい。私は縁側に両手を突いたまま、釘づけになったように身動きも出来なかったのです。弘さんは赤ン坊の首を両手でしめつけていたんです、それから人形と同じように手足をちぎろうとしているのを見て、私は狂気のように彼に武者振りつき愛子を奪い近しましたが、その時はもう赤ン坊はぐったりとなって、死んでいました。その物音に馳け込んで来た女中は直ぐに派出所へ走ったのです。そして、先生、弘さんは殺人犯としてその場からひかれて行ったのです」
 博士はたまりかねたように、
「浪子さん、よくわかりました。が、どうぞほんとの話をして下さい」と云った。
「え? 何を仰しゃるの? 先生、これが嘘偽わりのないほんとの話なんですわ」
「あなたは何故抱いていた赤ン坊を残して、一人で庭へ逃げたんでしょう?」
「?」
「正直な話を聞かないと、助けたいと思っても助けられなくなる場合が沢山あるんです」
 浪子は黙って、うつむいた。
「引返して来て、あなたは赤ン坊を奪ったと仰しゃる。そんな馬鹿なことはあり得ませんよ。あなたは弘さんの狂暴になるのを承知している、故意に赤ン坊を残して逃げたと云われても文句ありませんね」
「飛んでもない。私はあんまり恐しかったので、気が転倒してしまって――」
「僕から云わせると、あなたは赤ン坊の顔が妾にそっくりで、それを見ていると憎くなると仰しゃった、その時已にあなたは手こそ下さないが、心には充分殺意を生じていたのだ、と、私は見ているんです」
「ああ恐しい、そんなこと、――先生、もう何も仰しゃらないで下さい。私はそんな悪い女じゃありません」
「なら何故ほんとの話をなさらないんです。せめて僕にだけ、――僕を信用して僕にだけ真実を語って下さるならば、僕は誓ってそれを漏らしもしないし、永久の秘密として葬ると同時に、弘さんのために極力尽力もしましょうし、また、あなたをも救って上げます。あなたをも、但し、――あなたが強情を張って、飽くまで自分に都合のよいような創作話をされるならば、この弁護はお断りいたすほかありません」ときっぱりと云った。
 浪子は憤然としていたが、やがて、彼の足許にひれ伏すように両手をついて、
「すみません。先生まで欺こうとした私は何というお馬鹿さんでしょう。先生、私は神父様へは真実の告白をしました。赤ン坊を殺したのは私です。にっこりと笑ったあの顔、――あああの顔が、こんな罪をつくってしまったのです。あまりにも妾に似ていたので憎悪の念がむらむらと湧き、その羽二重のような柔かい頸に手が触れると、あとはもう何もわからなくなってしまいました。気がついた時、赤ン坊は死んでいたのです、そこへ弘さんがやって来たので私は愛子を戸棚にかくしました。極度に興奮していたのと、弘さんに見られなかったかという不安とで、私は気狂いのようになり、無茶苦茶に悪口を彼に浴びせかけたのです。すると果して彼は怒り、意識喪失になったので、これ幸いと赤ン坊を弘さんの傍へ置いて、彼が夢中の裡にしめ殺したものとしたのです。ところが、警官に連行される時、弘さんが私の耳にささやいたのです。僕は浪子姉さんの境遇に心から同情してるんだ、姉さんがあんまり可哀想だから罪は僕が背負って行く、僕の好意を無にしてはいけませんよ。僕は最初から廊下で、すっかり見ていた。今日だけは僕は正気だった、意識喪失症状なんか起しちゃいなかった、あれは僕の芝居です。浪子姉さん、どうぞ幸福に暮らして下さい。と申したのです。私の罪をきて裁かれる彼の事を思いますと、私は一層自首しようかとも考えますが、それでは弘さんの心に反く事にもなりますし、ああ、どうしたらよろしいのでございましょう」浪子は身をもだえて泣き伏した。
「約束通り、僕はいまの話は聞き流して永久に忘れてしまいますよ。ね? そして、極力弘さんを救う事に努力しましょう。意識喪失者は精神病患者ですからね。なあに、気狂いは何をするか知れませんよアハ……」

底本:「大倉子探偵小説選」論創社
   2011(平成23)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「ロック 三巻六号」
   1948(昭和23)年10月号
初出:「ロック 三巻六号」
   1948(昭和23)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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