一つの事件の解決がつくと、S夫人はまるで人間が変ったように朗かになる。それが難しい事件であればあるほど、すんだあとは上機嫌だ。
「また何か変ったお話、聞かせて下さいましな」
 そういう時を狙っては、彼女からいろいろ面白い話を聞いた。
 S夫人はテーブルの上のチェリー・ブランデーの瓶をとって、美しいカット・グラスにいで自分も呑み、私にもすすめながら云った。
「上流の家庭内に起った事件というものは、よく、うやむやのうちに葬り去られて、その真相は永久に、社会の表面にはあらわれずじまいに終ってしまう、というようなことが沢山ありましょう。このお話もその一つですが」
 と云いながら椅子を離れて隣室の書斎へ行ったが、少時しばらくすると一冊のスクラップ・ブックを持って帰って来た。夫人はその中ほどを開いて私の前に置いた。私は思わず目をみはって云った。
「まあ! お美しい方! 御結婚のお写真でございますね、何方どちらさんでございます?」
「麻布の御木井みきい男爵ですの。御木井合名会社の社長さん御夫妻ですよ」
「若い社長さんですこと!」
「ああいう大富豪になるとなかなか面倒なものと見えて、代々総家の相続人が社長の椅子に座ることにきまっているらしいんですの。その新聞には昭和七年と書いてありますから、その時多分新郎の御木井武雄さんが二十七歳、新婦の綾子さんが二十二歳だったんですわね」
「新夫人はどちらから?」
「政友会の山科さんのお嬢さんです。山科さんは以前南洋方面にも大分目をつけていた関係上、私の夫とも相当親しくしていらしたので、夫が亡くなりますと間もなく、山科さんから招かれて、私は綾子さんの家庭教師になり、一年ばかり山科家の家族達と一緒に暮したことがございました。それは綾子さんと武雄さんとが結婚されるずっと以前のことなのです。さあそろそろお話の本筋に入りましょうかね」
 S夫人はチェリー・ブランデーを一口呑んでから、静かな語調で話し始めた。
「綾子さんが武雄さんと結婚するそうだ、そんな噂を耳にした時から、私は不満で不満でたまらなかったのです。どうぞまあ噂だけであって欲しいと希っていたほどでしたから、お祝いにもまいりませんでしたし、遂々とうとう披露会にも出席いたしませんでした。処が翌朝の新聞には麗々しく二人の写真までこの通り出ていたので、すっかり気を悪くしてしまいました。
 何故この結婚をそんなにまで不愉快に思うかというには理由があるのです。綾子さんは武雄さんの実兄で、御木井男爵家の嫡男文夫さんの妻だった人なのです。しかも二人は相思の仲だったのですもの、その文夫さんが亡くなって、まだ一年も経たないのにもう弟さんと結婚する。何だか厭じゃありませんか。しかも文夫さんは病気で亡くなったのではありません。綾子さんと結婚して四日目の披露会の当日自殺したのです。
 私は二人の写真を見てから不愉快になって、事務所に出るのにはまだ早いけれど、お天気もいいしするからともかくも外へ出ようと思って、アパートの自動昇降機を降りました。私はその頃アパートに住んで居りました。扉を明けて出ようとすると、そこに大きな男が立っていまして、危ぶなく突き当るところでした。
『ご免ん遊ばせ』
 軽く云ってすれ違いながら、ふとその男の顔を見たんです。黒い大きな眼鏡と黒いマスク、前のめりに被った帽子、それで顔の大半はかくされていますが、左の目の下から頬へかけて大きな切疵の跡があって、そのためでしょう口が少し曲っているんです。どうも人相のよくない、気味の悪い人だ、身装みなりは悪くありませんが、どう見たって善良な紳士とは見えません。しかし身装なんかは後になってから憶い出した事で、一と目見た瞬間あのゾッとした感じは忘れられませんでした。大カバンを右手にぶら下げ、左手にも二つ三つの包を抱えていました。このアパートを借りた新客には違いないんですが、こんな相客は有り難くないと心に思いながら外へ出ました。
 私は電車に乗ってからも、今見た男が気になってなりませんでした。何階にいるのか知ら、あんな人が隣室にでも引越して来たら、早速逃げ出してしまわなければならないなどと考えながら、銀座で電車を乗換えましたら今度は座席が空いていません。仕方なく入口に立っていますと三越前から一人の老婦人が乗りました。ふと顔を合せると、それは思いがけないおかじさんでした。
 お梶さんは御木井家の老女で、文夫さんの乳母だった人でございます。文夫さんの亡くなったいまは主に綾子さんの世話をしていると聞いて居ました。ああした大家の奥向を取締っているひとだけに、まことに上品で、私はどこかいいところの奥様かと思いました。先方でも逸早いちはやく私を見ると直ぐ傍へ来て、丁寧に頭を下げました。
『綾子さんもおからだがお定まりになってようございましたね』
 仕方なく、お祝いともつかぬこんなことを申しました。するとお梶さんは厭な顔をしてじっと私を見て居ましたが、やがて不平そうに申しました。
『先生までそんな事を思召おぼしめしてらっしゃるんでございますか? それじゃ余りでございますわ。綾子様がお可哀想でございます』
 お梶さんは何だか話したそうな素振でしたが、電車の中では何ともしようがないので、
『どこかでお茶でもおのみになりませんか?』
 誘いかけてみますと、喜んで直ぐ同意いたしました。
 お梶さんは自分の姉さんが急病のため、四五日宿下りしていたが、病人も快くなったし綾子さんの事が気になるので、明日あたりはお屋敷へ帰る積りだと申しました。今日は病人からの頼まれで買物に出たのだといいました。
 二人は連れ立って、静かな喫茶店を撰んで入りました。
『綾子様はほんとにお可哀想でございますよ。先生、毎日泣き通していらっしゃいます』
『そんなに武雄さんをお嫌いだったんですかねえ、それほどとも見えなかったけれど――』
『先生は本当のいきさつを御承知ないからでございます。どういうものか武雄様は、文夫様と綾子様とがお親しくなると同じ頃から綾子様にお附き纏いになって、誰もいないと眼の色変えていろいろ仰しゃるんでございますよ。とても怖くって、文夫様があんなにご親切でなかったら、とても綾子様は武雄様が怖くって、御木井のお邸へお嫁様には入らっしゃらなかったでございましょう。御婚約がお出来になってからだって、武雄様は幾度も隙を狙ってはくどいていらっしゃるんです。それを存じて居ますのは私一人でございます。ほんとを申すと綾子様は文夫様がお亡くなりになりました後、山科様の方へお帰りになっておしまいになればおよろしゅうございましたんです。私も随分それをおすすめいたしましたが、何分、お実家さと様のお母様がさぬ仲でいらっしゃいましょう? 綾子様は御自分は死ぬより行途ゆくみちはないと仰しゃっていらっしゃいました位でございますから――』
 お梶さんは涙ぐんでいい続けるのでございました。
『ちょっと考えますと、只今のようになりますのがいい解決でございますからね。せっかく御木井家と山科家との御縁が結ばれたのでございますから、これを放したくないというお考えが両家におありになるのも御尤もでございます。文夫様がお亡くなり遊ばし、武雄様がお跡をおとりになる、恰度お年頃もいいし、武雄様にも異議がおありにならないといえば、御再婚は四方八方好都合じゃございませんか。綾子様のお考えなんて聴いて上げようとも遊ばさずに、お話はずんずん進んでしまったのでございます』
『綾子さんがそんなにも武雄さんを嫌ってらしたことは、誰も知らなかったんですか?』
『武雄様御自身はようく御承知でございます。あとは私位のものでございます。私がお口出し出来ます身分でもございませんし、実は綾子様には決して御承知遊ばしますな、どんなことがあっても、お嫌いなものを無理押しつけにおされになってはいけません。と申上げていたのでございますけれど――。そのうちお実家様のお母様は御相談に入らっしゃいました。それも文夫様と余りお仲がおよろしかったから、そのためにお気がお進みにならないのだろうとの御懸念で、お見えになったのでございます。どうせ行く行くはこうなるのだからと、御説得なすったそうで、綾子様としては文夫様にもすまないように思召しましょうし、第一武雄様がお嫌いなのでございますもの、お母様にそれを申上げたってお分りになりませんしね、お一人で小さいお胸を痛めて、ただ泣いていらっしゃるばかりだったのでございます。それでも綾子様はとうとう最後まで、御承知はなさらなかったのでございますけれど――』
『いくら綾子さんがしっかりしていても女ですからねえ。運命に抗し得ず、皆さんのするままに引きずられてっておしまいになったのでしょう、全くお可哀想ですねえ』
『どうしたらいいか分りませんが、なまなか余計な口を出して、武雄様のお気にさわり私がおいとまにでもなったら、それこそ綾子様は誰一人味方のない独りぼっちにおなりになりますから』
『そんなわけとは知らずに――。ごぶさたをしてすみませんでした。早速お訪ねしてお慰めしましょう』
『本当にどうぞ、お見舞して上げて下さいませ、ほかにどなたもいらっしゃらないと、まるで失心遊ばしたように、お目に一杯涙をおためになって、ふさぎ込んでいらっしゃるのでございます。先生にもお目にかかりたい、お目にかかってお話がしたいと始終仰しゃっていらっしゃいます』
『是非近日伺いましょう』
 二人は喫茶店を出ました。お梶さんに別れて私は事務所に参りましたが、綾子さんの事が気にかかって仕方がありませんでした。綾子さんと思うと直ぐ私は文夫さんの事を考えます。殊に文夫さんの自殺は一つの謎として、私の頭にこびりついているのでしたから。


 日もありましょうのに、お目出度い結婚披露式の宴会なかばの事だったのです。書斎の机の上に俯伏したまま、冷たくなっている文夫さんが発見されたのは。
 机の右側の紙屑籠の中から見出された注射器と、空になったアンプレの四五本と、左の手首に赤くはれ上った注射の跡とによって、文夫さんは自殺と決定されました。何しろ結婚後僅かに四日目の出来事なので、大分新聞でも騒ぎましたが、間もなく余り評判もしなくなり、新聞にも出なくなりました。それは多分御本井男爵家側の運動のためだったろうと、私は考えて居ります。
 しかし文夫さんは何故死んだのでしょう?
 あの人に自殺しなければならないような原因は何もないはずです。大富豪御木井男爵家の嫡男と生れ、幼い時両親に死別したというのが不幸ではありますが、頭もいいし、風采も綺麗だし何一つ不自由なく育ったばかりか、相愛の綾子さんを得て、実に幸福の絶頂にあるのではありませんか。そういう恵まれた境遇に置かれたものが、何の理由なくぽっこり自殺してしまうなんて、そんな馬鹿々々しい話がありましょうか。
 その当時から、それは一つの疑問として、私には忘れられない宿題となっていたのでございます。


 私が綾子さんを訪問したのは、お梶さんに会った翌日の午後でした。
 その日武雄さんは不在でした。御木井合名会社の重役会議に出かけたとやらで、思いがけず綾子さんと二人ぎりで話せる機会が出来たのを、大変嬉しく思いました。綾子さんも同じ心持だったのでしょうか、応接室おうせつまへは通さず、見馴れた懐しい彼女の居間に案内させてくれたのがまた私には嬉しゅうございました。
 半年ばかり会わなかった間に、綾子さんは見違えるほど面瘻おもやつれして、大きな眼がますます大きく、ふっくりしていた頬の肉もすっかり落ちて、何となく老けました。美しい人の疲れたのはまた風情のあるものですが、ダリヤのように濃艶だった綾子さんが、まるで夕闇に浅黄桜を仰ぎ見るような物寂しさに変っては、風情があるなどと云ってはいられません。最初病気かなと思いましたが、そうでもなさそうです。しかしどうにも新婚の人らしくは見えません、晴れやかさもなければ、元気もない。ただ淋しい陰に全身を包まれ、浮き立たない頬に強いてほほ笑みを見せているのを見ると、私までが引き入れられて、気が滅入ってしまうような感じがいたします。陰気な花嫁さんだと思わず心でつぶやきました。
 綾子さんは口数も少なく、島田に結った小間使がお茶を運んだり、お菓子を持って来たりするのを眺めていましたが、
『ベルを押すまで、誰も来ないでおくれ』
 と云って小間使を退けてしまいました。さて二人ぎりになると急に態度が変って、綾子さんは自分の感情を率直にあらわして、やる瀬ない悲しさを訴えはじめるのでした。私はお祝いを述べるより先に、慰めの言葉を探すのに、骨を折らなければなりませんでした。
『実は綾子さん、昨日偶然に電車の中でお梶さんに会いましてね、あなたのお噂もお聞きしたんですの、ほんとにお察しいたして居ますわ』
 それだけの言葉を聞いてさえ、綾子さんの目はもう涙に湿っていました、お目出度うございますと祝ってくれる人はあっても、お気の毒だと慰めてくれる人のない、綾子さんの境遇に、心から同情せずにはいられませんでした。
 綾子さんは私の手を握って、出しぬけにこんな事をいい出すのでした。
『先生、私の家へお引越して入らして下さらない?』
『?』
『御一緒に私と暮らして下さいません? 昔のように――。私の傍にいて下さらない? もう寂しくって、寂しくって――』
 私は返辞が出来ませんでした。
『先生はアパートお好きじゃないでしょう? 殺風景だけれど仕方がないと仰しゃったのよく覚えて居ますわ。どの部屋でも、先生のお好きな部屋お使い下すって、私の家から事務所へお通いになったらいいわ。ねえ先生そうして下さらない?』
『ええ、有難うございますが――。でも、もう直きにお梶さんが戻って来るでしょうから』
『ねえ先生、あなたは何もかもようく御存じですから申上げますが、何故武雄なんかと結婚したのかと迚も後悔しているんですのよ、あんな嫌いな人と――。あんな厭な武雄と――』
『分ってますよ。でも今更そんな事は仰しゃらない方がようございますよ』
『政略結婚! 親の犠牲になったのですわ。でも一番悪いのは私です。私の意志が弱かったからこそ、こんな悲しいことになってしまったんです。意気地なしだからです。馬鹿だからです』
 綾子さんはハンケチを歯で破きながらいい続けます。
『ああそれにつけても文夫さえ自殺してくれなかったら――。何故文夫は死んだんでしょう? 先生、私はその原因が知りたいんです。真実ほんとのことがね、死ななければ[#「死ななければ」は底本では「死ななれば」]ならない事情があるなら、私にだけは話してくれてもよかったと思いますわ。黙って独りで死ぬなんて――。それをどんなに口惜しく思っているか、先生、私の気持お分りになりますでしょう?』
 綾子さんは段々興奮して声が大きくなるので、それを押し静めようとして、
『誰か来ましたよ。綾子さん、人に聞えるといけないから』
 私はとっさに思いついて、そんなでたらめを云い、耳をそばだてたんです。すると綾子さんは涙を拭きながら立ち上って、
『武雄が帰ったのかも知れません。あの人ほんとに猜疑心が強いのよ』
 綾子さんは襖を開けて廊下を見ましたが、誰もいないのでまたもとの席に戻ってまいりました。
『そんなにお厭だったんなら、武雄さんと御結婚なさらなけりゃよかったんですわね。文夫さんの未亡人でお通しになればよかったのに――』
『それが出来る位なら何も――』
 綾子さんは半分口の中で云いながら、急にすすり上げて泣きはじめました。うっかりと云った私の言葉は、綾子さんの最も痛い処を突いたんです。飛んだことを云ったと思って後悔いたしました。
 ながい間泣き続けていた綾子さんは何か心に決しでもしたように、軈てきっと顔を上げて申しました。
『先生も私が武雄と結婚したのを不愉快に思ってらっしゃるんでしょうね。私自身でさえこんなに不愉快に思う位なんですから』
『でも仕方のない事なんでしょう。そうなさるより途がなかったとしたら、それに武雄さんは昔から貴女がお好きだったのね、ほんとは文夫さんから奪っても、御自分のものになさりたかったんでしょう?』
 綾子さんはそれには答えないで、じいっと何か考え込んでいましたが、
『私、先生にどうしても聞いて頂きたいことがございますの、でもそれは他人の耳に入ると、ちょっと困ることなんですし、どうぞ、どなたにも仰しゃらないで下さいませ』
 綾子さんはしきりに他言しないでくれと繰り返し繰り返し云ってから話しました。
『どうしても信じられない事なんですが、文夫を自殺させた罪は私と武雄にあるということを聞いたんですの』
『誰がそんな事を申しました? 武雄さんじゃありませんか?』
『そうですの、武雄が申しました。文夫は私と武雄との間に恋愛関係があるものと思い込み、それを訊きただしもしないで、独りで煩悶していたんですって、それこそ全くの誤解でしたが、ああいう善良な人だったものですから、自分独りの胸に秘めてただ苦しみぬいた揚句、私や武雄を幸福にさせるために自殺したんだと申しますの、そんな馬鹿々々しい事と最初は気にもかけなかったんですけれど、段々考えてみますと、満更武雄のでたらめばかりでもなさそうな節もございますの。文夫の日記を見ても、何か煩悶があったのは事実でございます。それが私の事に関してだかどうかは分りませんけれども、また武雄はこんな事も申しましたの。私と武雄は深い関係があるのだと、結婚直後に何人なんぴとかが文夫に密告したそうですの、私も見ましたが、文夫の本箱から出たという差出人無名の手紙にもそんな事が書いてございました。死ぬ前日文夫が武雄に申したそうです、僕に万一の事があった場合、綾子の事は君に頼むよ、と冗談のように云ったのが、今になると遺言のような気がして責任を感じると申しました。でも先生はどうお考えになりまして? それが事実だとしますと、一言も云わずに死んで行った文夫の心持も分るような気もしますけれど――』
『それで武雄さんはお兄様からあなたの将来を頼まれたから、あなたを保護するためにも結婚しなければならないと仰しゃるんでしょう?』
『ええ、兄の遺志でもあるから、と申して度々私に迫りましたの、その度毎に私はこの家を逃げ出してしまうかと思いましたんですけれど、御存じの通り行く処もないし、それにもう一つこの家をどうしても離れられなかった理由がありましたの』
『このお家を離れては文夫さんにすまないとお思いになったの?』
『いいえ、全然違います』
『ではどんな理由?』
『先生はどうお思いになりまして? 文夫と武雄と似て居ますか?』
『さあ、私はちっとも似ていらっしゃらない、御兄弟のようじゃないと思いますけれども――。御性質だって、御風采だってまるで反対じゃありませんか』
『そうでしょう、皆様が兄弟とは思えないと仰しゃいます。処がね、不思議なことには一時私の目にはとても似ているように見えましたのよ。ちょいとした表情や動作などに懐しい文夫の面影を見ることがあったんでございますの。またよく見直しますとちっとも似た処のない、醜い武雄の顔になってしまいます、文夫は死にはしないんだと、ふと私は思いました。この家のどこかにいて私を守っててくれるんだ、という気がしたんですの、それでこの家を離れることも、武雄の傍を離れることも出来なかったんです。淋しかったんですわ。それが私と武雄と結婚させてしまうような原因となったんですの、でも妙じゃございませんか。ほんとに妙なお話ですが、結婚して後は、今までただ嫌いだった武雄が、今度は憎くさえなってきましたの、嫌いな人でも結婚すれば、そこにまた新らしい愛情が湧くように申す人もありますが、あれは嘘でございますわ、私のような場合から考えますとね、いまでは武雄を敵のように憎みます、憎くって、憎くってたまりませんの。その反対に文夫に対する愛情は益々深くなって、恋しくてたまりません。でも悲しいことにはこの頃は、もう武雄のどこからも、文夫の面影を見出すことは出来なくなりました。まぼろしは結婚と同時に消えてしまったんでございます。きっと文夫も私に対して快からず思っているのじゃないかと思います。たとえ武雄の計略にのったのだといっても私はまあ何という軽卒な真似をしてしまったんでしょう、今更取り返しはつきませんが、考えると口惜しいやら、情ないやら、自分で自分に愛想がつきてしまいます』
 綾子さんはさめざめと泣くのでした。


 そこへ宿下りをしていたお梶さんが帰って参りました。
 綾子さんはお梶さんの顔を見ると急に元気づいたので、私まで何だか安心したような気がいたしました。お梶さんは文夫さんのお母様とは乳姉妹ちきょうだいで、また文夫さんの乳母でもありましたので、今は文夫さんに仕えるような心持ちで、心から綾子さんを大事にして居ました。
『梶に見せて上げるものがあるわよ』
 綾子さんはじぶくろからキャビネ形の写真を出して来ました。
『こんなお写真見たことある? 文夫さまのお書斎をお片付けしたら、お机の上の書簡紙の間から出たんだけれどもね』
 お梶さんは写真を手にして、一と目見ますと忽ち変な表情をいたしました。
『このお写真が――、まあ! どうして――。お書斎にございましたんですって?』
『梶は知ってるんでしょう? 私、ついぞこんなお写真拝見したことがなかったわ』
『不思議でございますねえ。これがどうしてお書斎にございましたか知ら?』
 お梶さんはじっとその写真を見詰めているようなのですが、実はその眼はお写真を見ているのでもなく、何かこう幻影を追いながら、深い物思いにでも沈んでいるという風なのです。私は変だなと、心に思いました。
『ちょいと拝見』
 無雑作にいって、お梶さんの手から写真を取って見ました。処々汚点が出たり、色が変ったりして大分古ぼけてはいますが、顔の処だけははっきりとしていました。古風な椅子に腰かけている若い女の傍に、り添うようにして一人の青年が立って居ます。女は文夫さんの母君、御木井男爵夫人と直ぐ分りました。男の方は父君男爵ではありませんでしたが、私はその顔を見て吃驚びっくりしました。それは忘れようとしても忘れられない、あの昨日の朝アパートのエレベーターの前で見た気味の悪い男、その男の顔そっくりではありませんか。しかし私は何気なく申しました。
『文夫さんのお母様、ほんとにお美しいお方でしたのねえ。そしてこの方はどなたなの?』
 綾子さんはこの男は誰だか知らないと見えて、お梶さんの顔を見て云いました。
『梶、どなたなの?』
『叔父様でいらっしゃいます。大旦那様の弟ご様で――』
 お梶さんは重苦しい調子でいって、深い溜息をつきました。
 叔父様だと聞いて、綾子さんも急に写真を見直しました。
印度インドに往って入らっしゃる叔父様なの?』
『はい』
『梶、私は叔父様のお写真ってもの今まで拝見した事がなかったのよ。だからどんなお方かと思っていたの。こんないいお写真があるんなら何故アルバムにはっておかないんでしょう。お母様も御一緒だしね。私は叔父様のお写真は家には一枚もないものかと思ってたわ』
『はい。一枚もないはずなんでございます。殊にこのお写真はどうしてもこのお邸にあるわけがないのでございます。まさかお写真がひとりで歩いて参ったんでもございますまいに――』
 綾子さんは笑い出しました。それに釣られて私も笑いました。しかしお梶さんだけは大真面目なんです。のみならず何か怖しい幻にでも襲われているように、息をはずませながら何となく落付を失っているようなのです。
 私はお梶さんの様子を注意深く見ながら、綾子さんに云いました。
『文夫さんがどこからか持っていらしたんではありませんの?』
『それなら必ず私に見せますわ』
 と綾子さんは直ぐに否定しました。
『すると文夫さんがお亡くなりになった後に、どなたかがお置きになったんですわね』
 綾子さんは首を振って、
『あの後、お書斎には私の外、絶対に誰も入れませんでしたわ』
 お梶さんは黙って考えつづけています。写真がある以上、何人か入ったと見なければなりません。誰も入ってはならないという書斎に何人だれかこっそりと忍び込んだのでしょう。そして何のためにこの写真を残して去ったのでしょう。一体それはいつの事でしょう。これは何か文夫さんの死に関係があるのではあるまいか。私の好奇心は少しずつ動き始めました。
 私はお梶さんに訊いてみました。
『このお写真は、このお邸内には一枚もないはずだと仰しゃいましたね。それはどういう理ですの?』
『細かい事はここでは申上げかねますが、このお写真はたった一枚を残して全部破り棄てられたのでございます。種板までも――』
『そして残った一枚は?』
『それは――。その一枚を持っていた人が、ここへ来たんでございましょうか?』
 お梶さんは昂奮に震るえて、その顔は真青になって居りました。
 私はもう一度写真を見改めましてから、お梶さんに訊いてみました。
『実はね、このお方昨日ある処でお見かけしたように思うんですが、違いますか知ら? お年頃は五十がらみで、何だか頬に大きな傷がおありになりはしないでしょうか?』
 それを聞いてお梶さんは一層青くなりました。急にめまいがすると云って、額を押えながら引退ってしまいましたので、これ以上何も訊くことが出来ませんでしたが、お梶さんのこの様子を見て、この写真と文夫さんの自殺との間には、何等かの関係があるに相違ないと疑わずにはいられませんでした。お梶さんもそれに気付いてあんな異常の動揺を感じたのではありますまいか。


 綾子さんを訪ねてお梶さんに会って以来、文夫さんの死についての疑問はいよいよ深くなりました。何とかしてお梶さん一人にもう一度ゆっくり会ってみたいと思いながら、忙しい仕事に追われて二三日過ぎました。所がある朝、思いがけずお梶さんの訪問を受けたのでございます。喜んで直ぐ私の部屋に迎えましたが、お梶さんは私が会い度いと思っていた事なぞ存じませんから、出し抜けの訪問を気にして、無暗に詫言ばかり申しているのです。でも一と通りの挨拶をすませますと、お梶さんはちょっと口ごもって居りましたが、軈て思い切ったように切り出しました。
『実は私一人の胸に納めかねますんで――。是非先生に内証ないしょで聞いて頂きたいと存じまして上りました。文夫様の事なんでございますが――』
 そら来た! と思ったので、思わず膝を乗り出しました。
『文夫さんがどうしたというの?』
『先生、先生は文夫様がどうしてお亡くなり遊ばしたと思召します?』
『――』
『私は変だ、変だ、と思いつづけて居ましたが、この間先生にお目にかかった時から、どうやらこの謎がすっかり解けたような気がいたしますのでございます。文夫様はお殺されになったのに相違ございません』
 これには私も驚きました。
『だって自殺と決定したんじゃありませんか。何を証拠にそんなことを云うんですか、そして誰に殺されたと思うんですの?』
『そのお写真の方にでございます。印度にいらっしゃる叔父様』
『叔父様? だって叔父様は印度においでになるのじゃありませんか』
『いいえ、叔父様に違いございません。あの方を先生がどこかで御覧になったとすれば、もう間違いございません。私はあの方のやった仕事だと信じるのでございます。あの日の混雑に紛れて入り込み、巧みに文夫様をお殺しになったに間違いございません』
『だって――、よしんばあの方が入らしたとしても、それは実の血を分けた叔父様じゃありませんか』
『叔父様だから怪しいのでございますよ。先生、先生は御承知ございませんが、その叔父様というのは御実兄にあたる大旦那様を殺し、大奥様を散々苦しめ、御木井家を横領しようと企らんだ、飛んでもない人非人にんぴにんなんでございます』
『それは本当ですか?』
『それですから、叔父様が東京に入らしたと聞いただけでもゾッとするのでございます』
『しかしね、横領しようたって、文夫さんを殺しただけじゃ駄目じゃありませんか。武雄さんって方がありますからね』
『武雄様はおよろしいんでございます』
『何故なの?』
 お梶さんは暫時しばらく黙って考え込んで居りましたが、やがてさも云い憎そうに声をひそめて申しました。
『でも――。武雄様は――、御自分のお子さんなんでございますの』
 私はこれを聞いて、事の意外なのに驚きました。
『もしそれが本当だとしたら、武雄さんは綾子さんに取ってかたきの片割じゃありませんか。無論綾子さんは御存じないんでしょうけれど――』
『綾子様はお可哀想でございます。御承知の通り武雄様が随分うるさくお附き纏いになったのを、嫌って嫌って、嫌いぬいて文夫様のところへ入らしたので、綾子様はあれでなかなか御苦労していらっしゃるんでございます。親御様達の無理強いで、武雄様との御再婚を御承知遊ばしたんですから、この上お気持ちをお悪くおさせすることは余りお可哀想で申せませんの』
『何だか、随分込み入った事情なんですのね』
『ですけれど――、誰一人私の外には事情を知った者はございませんのですから』
『では、真相を知っているのはお梶さんだけなんですか?』
『多分そうでございましょう。私は直接大奥様から一切の秘密を承って居ますから』
『秘密の鍵をあなたが握っているという事を叔父様は御存じなんですか?』
『多分御存じだろうと存じます。ですから先生、怖しいんでございます。私さえいなかったら、この秘密は永遠に知れっこないんでございますもの。叔父様がこの東京に来ていらっしゃると承わっては怖しくって、夜もおちおち眠られません。こんどは私が殺される番でございます』
 お梶さんは総毛立ったような顔をして四辺あたりを見廻しながら声をひそめ、
『扉の外に誰かいるようじゃございませんか?』
 と申しました。そう云われれば誰か鍵穴から覗いているような気がいたしました。私は立って扉を開けました。その瞬間、影のようなものがすうっと次のへやへ入ったように思いました。しかしそれは見違いかも知れませんが、どうも自動昇降機エレベーターの前で見た男の姿に似ていたようでした。私も何となくいい気持ちはいたしませんでしたが、お梶さんを怖れさせてはなりませんから、故意わざと平気を装って笑いながら申しました。
『誰がいるもんですか、余り怖い怖いと思っていらっしゃるからですよ』
 私は鍵穴に内から鍵をさしておきました。これなら大丈夫外から覗かれることもありません。それに周囲まわりは厚い壁で仕切られているし、話声の外部へもれる恐れもない。お梶さんはやっと安心したらしく、
『私も大奥様から秘密を承わって居らなかったら、これほどまでに叔父様を怖れはいたしませんのでございますけれども――』
 と云ってお梶さんは男爵夫人の自白の一部を打ち明けました。


 それによると夫人は娘盛りの時、同時に文夫さんの父君とその実弟と、二人の熱愛の的であったということでございます。彼女は兄の愛には喜んで報いましたが、弟は大嫌いでした。それは恰度綾子さんの場合によく似ています。
 恋に負けた弟は軈て兄に対して兇暴な態度を取るようになり、夫人を脅迫して武雄さんが生れたようなわけで、あの写真もその当時無理に撮ったのだそうですが、夫人は見るのもけがらわしいと云って、一枚残らずお梶さんと一緒に焼き捨てました。同時に種板をこわしてしまったそうです。(だから、叔父自身の手許にある以外、一枚もこの世に存在しないわけなのです)それから彼は兄を殺害した。そして夫人を自分のものにすると共に、御木井家を横領する慾心を起し、武雄さんのために文夫さんを亡きものにしようと思ったのです。それを見破って夫人は棄鉢に強くなって、もう脅迫などには負けていませんでした。それで彼はあきらめて印度へ帰りました。その後今日まで行方をくらましていたのだというのです。
『それだけの大罪を犯しても刑務所へは行かなかったのですか?』
『大奥様の外はどなたも御存じございませんもの』
『夫人はそれをどなたにもお打ち開けにならなかったんですか?』
『お身のおはじ、お家のお耻とお考えになったんでございましょう。ジッとお胸にお納めになってどなたにも仰しゃらず、一生苦しんでつまり悶え死遊ばしましたようなものでございます』
『そう仰しゃれば、武雄さんはどこやらあのお写真に似たところがありますね』
『はい。それを大奥様が苦に遊ばしましてね――』
『男爵はその事を御存じだったのですか?』
『いいえ。大旦那様は何も御存じございません。武雄様は御自分のお子さんだと思召していらっしゃいました』
『そう伺うと文夫さんの事もよく分りますが、しかしまだ叔父様が、確かに手をお下しになったという証拠があると申すわけには参りませんね』
『でございますが――、私には前と手口が同じなので、それに相違ないと思われるのでございます。これも秘密をお明し下すった大奥様のお言葉を思い出すのでございますが――、それによりますと、文夫様を殺したものは叔父様の外には絶対にないと思うんでございますの』
『それはまたどうして?』
 お梶さんの青褪めた額からは油汗が染み出ました。それを拭いながら次ぎのように語るのでございました。


『大奥様のお亡くなりになりましたのは、今から二十年ばかり前で、恰度二十八歳でいらっしゃいました。文夫様十歳、武雄様が八歳、大旦那様がお亡くなりになってから、大奥様はすっかりお力落しでお弱りになり、遂々お亡くなりになってしまったのでございます。
 元来お体もお弱いし、武雄様をお生みになってから、肺の方も少しお悪いと承って居ました。何しろ大変に神経をお使いになったのであんなことになったのでございましょう。御境遇をお察し申せばやむを得ないと存じます。私は始終お次の間にやすんで居ましたが、夜は殆んどお息みになったことはなかったと存じます。
 私が夜更に眼をさましますときっと大奥様はお起きになっていらっしゃいます。大抵は大旦那様のお居間におでになります。そこには大旦那様のお油画の大きなのが掲げてございます。その前にお座りになり、御肖像に向ってさめざめと泣いて入らっしゃるのでございます。お可哀想で見て居られませんでした。それは毎夜の事でございましたが、後にはお気が変におなりになったのではあるまいかと、疑った事もございました。
 ある雨の降る晩でございました、いつものように、私はそっと襖の蔭から覗きますと、大奥様は早口で何か御肖像にお話しかけていらっしゃいました。時々は淋しいえみをさえお洩しになります。雨の戸を打つ音でお言葉は断続してよくきき取れませんが、何とも云えない寂しさに我知らず身震いいたしました。
 大奥様の御病気はそう御重態というほどでもございませんが、一向はかばかしくはおなおりになりません。お医者様からは厳重に絶対安静を申渡されました。夜は申上げたような次第ですが、日中はおとなしくお床の上に休んでいらっしゃいました。
 ある日、大奥様は一度大旦那様の御墓参がしたいと仰しゃいました。お医者様に御相談すれば無論いけないと申されるに定まって居ます。しかし大奥様は何と申上げてもお聴きになりません。已むなくお天気の好い日の暖かい時刻を計って、お医者様には内密ないしょで、私がお伴をしてお墓参りにまいることにいたしました。
 型の通りお墓の前に香花はなを捧げ、本堂に立寄られるまでは無事でございましたが、今度は本堂裏のお位牌堂にお参りしたいと仰しゃるのでございます。人気のないお寺は華やかに飾った本堂でも、余りいい気持のものではございませんが、お位牌堂ときては陰気で、薄暗くて、湿めっぽくて、まるで地獄の入口のような気がいたします。
 已を得ず後に従いて参りますと、床は塵垢ほこりの上に鼠の糞、時々顔を撫でるのは蜘蛛の巣でございます、人の気配に驚いて逃げ廻る鼠の音にも私は縮み上りました。小さい窓からさし込む陽の光がその一室を一層青白い寂しいものにして居ります。大奥様は平気で歩いていらっしゃいましたが、中ほどの右側を指して、突然頓狂なお声で仰しゃいました。
「あすこに旦那様がいらっしゃる」
 私はゾッといたしました。大奥様はその前にべたりとお座りになり、私に外へ往って待っていろと目くばせ遊ばしますのです。
 私はいいつけ通り入口の外へ出ましたが、気になりますので絶えず注意いたして居ました。大奥様は始めさめざめと泣いていらっしゃいましたが、時々大旦那様のお名をお呼びになるお声が聞えました。しまいには歯をきしるようなお調子で「お許し下さい! お許し下さい!」と叫ぶのがいかにも異常なので、ツイお傍へ飛んでまいりました。
 いろいろとお慰めして、やっとそこをお起たせ申しました。そこを出ます時大奥様はもう一度お振り返りになって「私も直きに参ります。お許し下さるでしょうか」と仰しゃって、今度は大声でオイオイとお泣きになるのでございます。
 私は何も事情は分りませんけれども、外にお慰めする言葉も知りませんので申しました。
「お許しになりますとも」
 大奥様はいきなり私の手首をお取りになって仰しゃいました。
「いいえ、お許しにならないでしょう。それにはかたきを――、梶や、敵を取っておくれ」
 と仰しゃって、また泣き崩れておしまいになりました。
 その晩でございました。大奥様は冷静におかえりになり、私をお居間にお呼びになって外の人をさけて、永い間のお苦しい秘密をすっかりお打ち開けになりました。
 大旦那様と恋をお争いになって、弟様のお負けになったことは先刻も申上げました。大奥様と御結婚遊ばしてから、弟様の態度が恐しく兇暴におなりになりまして手がつけられない、仕方なく大金をおかけになった親譲りの南洋のゴム園の一つを弟様にさし上げて、日本を去って頂いたのだそうでございます。所がお酒と女とで間もなく無一文とおなりになって、文夫様がお生れになった翌年、突然帰っていらして強請ゆすり始めなすったのだそうでございます。
 間もなく大旦那様は御用で北海道へ御旅行になり、大奥様は東京がうるさいからと仰しゃって文夫様をお連れになり箱根の御別荘へ行らっしゃいました。そこへ弟様がこっそりお訪ねになったのでございます。
 始めは何気ない四方八方よもやまのお話を遊ばしていらしたのですが、軈て印度で飼い馴らしたという恐しい毒のある黒蛇の籠を出してお見せになり、これを放すと直ぐ人の首筋に噛みつくの、これに噛まれると見る間に顔が変り、二た目と見られない癩病患者のようになるのと、そろそろ大奥様をおかしになり、遂々無体な真似をなさろうと遊ばすので、大奥様は急に怖しくなって、その場を逃げ出そうとなさるのを、弟様は力強い手でむずと肩を掴かみ、扉の隅に押しつけて、熱い息を首筋に浴せながら、
「そんなに厭なんですか、私は真剣なんです、命を投げ出しているんですよ。死ぬ覚悟で――。あなたは私の心を、この私の思いをむざむざと踏みにじってしまう気なんですか。今日の日の来るのを、ああ私は何年待っていたと思います?」
 弟様の眼からは涙がこぼれて頬を伝わりました。大奥様はまるで電気にでもかけられたように足がすくみ、身動きも出来なくなり、弟様のいきおいにすっかり威圧されておしまいになりました、昔の人のいう魔がさしたとでも申すのでしょうか。お心では憤りに燃えていらっしゃるにもかかわらず、この我武者がむしゃらな、気狂いのように熱愛する弟様の暴力に一種の魅力をさえ感じたと仰しゃいました。そしてまるで無抵抗で、あの方の思うままになっておしまいになりました。
 しかしそれはほんの通り魔のような過失で、全く一時の感情で、弟様に対して新らしい愛情が起ったのではございません。その証拠にはその時以来、弟様に対する憎悪の念は益々深くなり、仇敵のような間柄におなりになったと仰しゃいました。殺してもあきたらない人だ、恐しい悪魔だと大奥様は身震いなさりながらお泣きになりました。
 不運にも御姙娠なすって、煩悶は更に加わりました。そこへ間もなく大旦那様の御変死という事件が起ったのでございます。
 大旦那様は弟様と御一緒に猟にお出かけになりまして、断崖から谷底へお落になり、大怪我を遊ばしてお亡くなりになったということになって居ます。現場を見た人もあり、只今もそう信ぜられて居ります。
 ところが、弟様が二度目に大奥様を強迫に入らした時に、兄様殺しを白状遊ばしたのだそうでございます。その時も、例の黒蛇をお持ちになっていらして、仇はこいつじゃ、こいつじゃと仰しゃり、顛末をお話しになったそうでございます。
 それによりますと大旦那様をおすすめになって断崖にお立たせになり、数間隔った処で弟様は御冗談を仰しゃって人々の目を御自分の方へ集めさせ、こっそりと黒蛇を放したら、案の定、大旦那様の首筋に噛みつき、そのために倒れて谷底にお落になったのだそうでございます。幸か不幸かお顔がめちゃめちゃに砕けたので分らなくなりましたが、そうでなかったら、変色の点で疑問が起されたかも知れません。こんなお話をして弟様はグングン大奥様を脅かし殆んどお気を失いかけていらっしゃるのをいい事にし、これからはお嫂様ねえさまと御木井家が欲しいんだそれにはこれが邪魔になると仰しゃって、文夫様を指したそうでございます。
 大奥様は急に我に帰り、「どう遊ばすんですか?」とお訊きになりましたら、これには黒蛇まで使う必要はないとせせら笑って仰しゃったそうで、大奥様は文夫様と聞いて始めて俄かにお強くおなりになりました。その先の事は大奥様はお言葉をお濁しになりましたけれども、何か弟様との間に葛藤がおありになったらしく、大奥様は棄て鉢におなりになり、傍にあった海軍ナイフを取って、弟様目がけてお斬りつけになったのだそうでございます。左の目の下をきずつけたようだと仰しゃいました。
 先生のお目にとまったあの疵は、その時の記念でございましょう。
 大奥様はそれから文夫様のお身を御案じになり、弟様がいつかまた現われて危害を加えやしないかと、そればっかり苦に遊ばしていらしたそうでございます。
 しかしそれよりも苦になさいましたのは、お躰がお弱くおなりになると共に、大旦那様にすまない、申訳ないというお考えのようでございました。
 一人の方を御兄弟して争うなんて厭なことでございますが、それが二代も続きますとは何という因縁でございましょう。しかしお兄様を殺しても足らず、更に一旦狙いをつけた文夫様をまで殺すという、弟様の執念深さは驚くほかございません。
 注射のあとだとの事でございましたが、どうも私は叔父様が黒蛇を使って文夫様をお殺しになったに違いないと思います。自殺と見せかけるために、注射器やアンプレを屑籠に投げ込んだのではございますまいか。大奥様もお家の耻と思召しましたからこそ、苦しい我慢を遊ばしたのでございますから、どうぞそのお心をお汲み下さいまして、秘密に、世間に知れませんように何とか大奥様の敵を取って頂けないでございましょうか』


 何という恐しい人でしょう。事件はたぶんお梶さんのいう通りに相違ありますまい。私はともかくもこれだけの話を告げるために警察へいそぎました。
 間もなく叔父様はアパートから検挙されました。家宅捜索の結果、黒蛇も発見されました。写真と黒蛇とを突きつけられて、それ以上の証人の必要もなく、遂々すべてを白状してしまいました」
 S夫人は云い終ると写真ブックから、小さい写真を一枚ぬき取って私に見せました。それは金網に入った黒蛇を写したものでした。
「やっぱり文夫さんという方はこの黒蛇に殺されたんでございますか?」
 と夫人に訊いてみました。
「ええそうですの、当日は披露をかねた園遊会を麻布の御木井邸で開かれたんですが、私も招待されて参りましたからよく記憶して居ります。随分盛大なものでございましたよ。恰度その午後三時頃、混雑の真最中を見計って、来賓に化けてまざれ込み、突然文夫さんの前に現われたんだそうです。文夫さんは取り敢えず叔父様を自分の書斎に連れて行きました。ごたごたしていたので文夫さんの姿の見えないのを、誰一人として気がつくものはありませんでした。書斎は広い建物の外れに作ってありまして、別棟のようになって居りますからまことに静かで、殊にその日はひっそりとして近くに誰も居ませんでした」
「何故また文夫さんはそんな淋しいお書斎へ叔父様をお通しなすったのでしょうか知ら?」
「そこですわ。皆さんも不思議に思うんですけれど、私が考えますのに、叔父様は南洋をながい間うろつき廻っていた人ですから、どこやら容子も違っていたでしょうし、第一あの顔の疵は人相を随分悪く見せますからね。文夫さんは最初暴力団か何かと間違えたのじゃないかと思うんですの、それでなるべくお客さん達の目につかないように、自分で始末をつける積りで、故意と人のいない書斎を撰んだものだろうと思いますのよ」
「文夫さんは叔父様のお顔もご存じなかったのでございますか?」
「忘れてしまってたんでしょう。だから叔父様は例の写真を持参して、それを証拠に、自分は、先代御木井男爵の弟で、落魄している叔父だということを告げて、若干の合力を頼んだのだそうです。それ以上の考えは断じてなかったと強弁していますよ」
「ではどうして殺す気になったんでしょう?」
「最初はそんな気もなかったんでしょうが――何しろ叔父様という人は執念深くって、御木井家の事なら何事によらず、一から十まで探って知っていたのです。無論武雄さんの失恋したのも聞き知っていました。文夫さんの方ではまた何も知らないで、ほんとの叔父様だと思うものですから、気をゆるしていろいろ打ち解けて話していたそうですの、そのうちにふと叔父様の頭に、二十何年前の自分と同じ境遇に泣いているだろう処の武雄さんの姿が浮びましたんですって、その日も今日のように盛んな披露会が、しかもこの同じ邸内で行われたんだそうですの。喜びに満ちたあの晴れやかな、恋の勝利に輝く兄の顔は今だに忘れようとしても忘れられない。それに引き換えて自分の惨めさはどうだったろう。ああ武雄は可哀想だ! と思うと眼の前の文夫さんが急に憎くなり出して、遂いに殺意を生じたのだといいますが、それは少し怪しいと思います、文夫さんの方では叔父様の心が変ったのも知らずに、懐そうに写真に見入って、『叔父様もこの頃はお若かったんですね、そのお写真は言葉にお甘えして頂いておきます』と云いながら、大切そうに書簡紙の間に挟んだ刹那、叔父様は秘かに携えて来た黒蛇を放したのだと申します。黒蛇は文夫さんの首筋を巻きかけたんですって、驚いて――、夢中で黒蛇を手に握って起ち上った時、手首を噛まれ、文夫さんはばったり倒れてしまったんです。モヒ中毒にかかっていた叔父様は、自分用の注射器とアンプレを残して立ち去ったのだそうですの」

底本:「大倉子探偵小説選」論創社
   2011(平成23)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「踊る影絵」柳香書院
   1935(昭和10)年2月
初出:「踊る影絵」柳香書院
   1935(昭和10)年2月
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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