元旦の朝はその一年というものが非常に長いように思われる。三百六十五日あるのだから長いのはあたりまえだが、その一日を無駄なく、大切に暮らしたら相当何か出来るはずなのだ。
 今年こそは大いに勉強して、自信のある作品とまではゆかなくとも、せめて、恥しくない、顔の赤くならないものを書きたい。
 私は来る年毎に必ずそれを考えるのだが、まだ一度だって実行出来たためしがない。最初の意気込みが、二月、三月、ともなればそろそろ引込みかけ、四月頃にはすっかりしぼんでしまい、六月の声をきくともう半分は自暴自棄になって、また来年のことだ、と、あとの下半期は無茶苦茶に過してしまうのが常だったが、いつまで、そんなたわけたことを云ってはいられなくなった。

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 私はまたこんな風に考える事もある。
 お金があって、生活の心配のない人は羨しい、さぞいいものが続々と書けるだろう、静かないい書斎があって、家人にわずらわされることがなかったら、心のままに書けるのではないか、落ちつくことの出来ない、雑居のようなこのざわざわした日常生活の中で、何が出来るだろう、出来ないのがあたりまえではないか、と、それは自分への弁解なのだが――。結局はなまけものだから、道具だてばかりにこだわっているのだ。何もかも理想的に揃ったら、私はこんどは何と云うのだろう。

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 ところが、最近になって、自分の考えの、間違っていたことをつくづくと悟った。芸術と取っ組んで、その中に浸り切っていてこそそこに静けさもあり、心の落ちつきもあるはずなのだ。あたりの騒々しさにわずらわされているうちはまだまだ駄目だ。住居とか、食事とか、日常生活に文句を云っているようじゃいけない。それ等は単に生きて行くのに必要なだけのこととして、一切の贅沢は捨てて、すべてを犠牲にすることだ。私などの力で急に豊かになれるわけでもないのだから、貧しい中に仕事をするという、喜びをもたなくてはならない。

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 それで、一つの物を書くとしても、今年は身体をはって、体当りでやって行きたいと思っている。虚飾やヴェールにかくれていい加減にお茶を濁しておくような真似をしないで、裸になって真正直に打つかってゆく、それがいいかわるいかは分らないが、思ったことをとにかく実行してみたい。たとえそれが失敗に終っても悔ないつもりでいる。そこに今までわからなかった何物かを掴み得るのではないかとも思うからである。
 今まで、自分で創作したものばかりを書いていて、自分を出したことのない私にとって、裸になって物を書くということは困難かも知れない。そして、出来上ったものは失敗であるかも知れない。自分ではいいつもりでいても、実際には馬鹿げた努力なのかも知れないのだから、出来たものが永久に匣底の奥深く秘められるのを覚悟の上でやらなければならないが、とにかく、今年は一つ自分自身に満足するような作品を書きたいと思う。

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 これが年頭に考えた私の今年の抱負である。

底本:「大倉子探偵小説選」論創社
   2011(平成23)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「宝石 五巻一号」
   1950(昭和25)年1月号
初出:「宝石 五巻一号」
   1950(昭和25)年1月号
入力:kompass
校正:門田裕志
2012年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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