「賤民」の研究は我が民衆史上、風俗史上、最も重要なる地位を占むるものの一つとして、今日の社会問題を観察する上にとっても、参考となすべきものが少くない。しかしながらその及ぶ範囲はすこぶる広汎に渉り、予が従来学界に発表したるものの如きは、いずれもこれが一部分の研究たるに過ぎず、しかもなお未だ研究されずして遺されたものまたすこぶる多く、今これを全般に渉って記述せんことは、到底この講座の容さるべきところではない。よってその詳述は、従来既に発表し、もしくは将来発表すべき部分的の諸研究に譲って、ここにはただ、かつて或る融和事業団体において講演せる草案をもととして、その足らざるを補い、なるべく広く多方面に渉って、その沿革を概説するに止めんとする。
 まず第一に述ぶべきことは、いわゆる「賤民」の定義である。言うまでもなく「賤」は「良」に対するの称呼で、もし一般民衆を良賤の二つに分つとすれば、いわゆる良民以外は皆ことごとく賤民であるべき筈である。しかしながら、何を以てその境界とするかについては、時代によってもとより一様ではない。大宝令には五色の賤民の名目が掲げられて、良民との関係がかれこれ規定せられているが、それはその当時における国家の認めたところであって、事実はその以外に、なお賤民と目さるべき民衆が多かった筈である。またその法文は、実際上後世までも有効であった訳ではなく、ことに平安朝中頃以後には、大宝令にいわゆる賤民中の或る者が、その名称そのままに社会の上流にのぼり、かえって貴族的の地位を獲得したというようなこともあれば、従来良民として認められていた筈のものが、その名称そのままで社会のドン底に沈められ、賤者の待遇をしいられたようなこともある。また一旦落伍して世の賤しとする職業に従事し、賤者の待遇を受けていた程のものでも、後にはそれがその職業のままに、社会から一向賤しまれなくなったという類のものも少くない。したがって古今を一貫して、良賤の系統を区別して観察することは到底不可能である。要はただその当時の社会の見るところ、普通民の地位以下に置かれたものを「賤民」の範囲に収めるよりほかはない。普通民はすなわち良民で、平民である。平民以上のものはすなわち貴族で、それはもちろん今の問題外である。さればこの講座においては、貴族平民以外のものをすべて「いわゆる賤民」として、以下これを概説することとする。

 いわゆる賤民の範囲を観察せんには、まずもってその対象たるべき良民の性質を観察することを必要とする。
 大化の改新は従来の階級的社会組織を打破して、すべての民衆を同等の地位に置いたものの如く普通に考えられている。しかしながら事実は必ずしもしからず、従来部曲べのかき等の名を以て貴族の私民となり、半自由民の地位にあったものを解放して、公民すなわち「百姓」となしたに止まり、奴婢階級の賤民の如きは、相変らず新法の上に認められたのであった。大化元年の詔の中に「男女の法」を規定して、

良男良女共所生子、配其父。若良男生子、配其母。若良女生子、配其父。若両家奴婢生子、配其母。若寺家仕丁之子者、如良人法。若別入奴婢者、如奴婢法。今克見人為制之始
とある。ここに「賤」という文字はなきも、良人の法と奴婢の法とを相対して、いわゆる良賤の間に、判然たる区別の存在が示されているのである。そして「日本紀」には、「良男」をオオミタカラオノコ、「良女」をオオミタカラメノコ、「良人」をオオミタカラ、「奴」をオノコヤッコ、「婢」をメノコヤッコと傍訓してある。奴婢をヤッコということについては後に譲る。ここにはまず、良人をオオミタカラと呼ぶことについて観察したい。
 オオミタカラの語、右の良人以外に、「百姓」「公民」などの訓にも用いられている。「政事要略」には、「大御財」の文字をあて、後のこれを解するもの、百姓すなわち農民は、食物を供給する大切なもので、すなわち天皇の「大御宝」であるという。崇神天皇の詔にも、「農は天下の大本なり」とあって、農民が国家の至宝であるには相違ないが、しかしそれが為に、これを天皇の大御宝と呼んだとは思われぬ。
 案ずるに、オオミタカラは「大御田族おおみたから」で、天皇の大御田を耕す仲間ということであろう。古語にヤカラ(家族)、ウカラ(親族)、ハラカラ(同胞)、トモガラ(輩)など、「カラ」という語を仲間の意に用いている。大化以前には国造くにのみやつこ県主あがたぬし等の所領の外に、天皇直轄御領の公田すなわち大御田があって、その農民すなわち公民を大御田族おおみたからと呼んだものであったであろう。もちろん国造県主等の私田を耕す農民は、その私民であって、同じ農民でもオオミタカラとは呼ばれなかったであろう。しかるに大化の改新によって、日本の田地は、原則としてみな天皇の大御田となったのであるから、その田を耕す農民はすなわちことごとく大御田族おおみたからであらねばならぬ。そしてその農民が、同時に当然公民であり、良民であったのである。大化改新の政治には、人民の戸口を按じ、田地を校し、戸籍によって班田収授の法を行われたのであった。さればいやしくも国家の公民として、戸籍に登録せられた程のものは、原則としてことごとく口分田の班給にあずかり、自らこれを耕すところの農民、すなわち大御田族おおみたからであった筈である。これは農を以て大本とする我が国において、まさにしかるべきところでなければならぬ。
 さらにこれと併せ考うべきことは、「百姓」という語がただちに農民を意味することとなり、漢字の「民」に当つるに「タミ」という邦語を以てしたことである。
 本来「百姓」とは、あらゆる姓氏を有するものの総称で、その語にはもとより農民という意味はない。姓氏を有するものはすなわち公民で、賤民には姓氏がない。これは古代の戸籍を見れば明らかである。しかるにその百姓たる公民は、原則としてことごとく口分田の班給を得て、すべてが農民であったが為に、遂には百姓すなわちただちに農民ということになったに相違ない。後には農民以外の雑戸の徒も、解放せられて平民の仲間となり、農民以外の百姓も出来た筈ではあるが、それは第二次的意義の転化で、原則としては百姓すなわち農民であったのである。また「タミ」の語は、本来「田部」であったと解せられる。余戸あまるべを後世時に余目あまるめに訛り、「田部井」と書いてタメガイと呼ぶ姓のあるように、田部が「タメ」となり、さらに「タミ」と転じたものであろう。田部はすなわち農民である。そしてその農民の名称たるタミの語が、ただちに一般人民の名称となったということは、国家の認むる人民がこれただちに農民であった事を示したものでなければならぬ。
 果してしからば、しばらく貴族の問題を別として、一般民衆の間にあっては、農民のみが公民であり、その以外のものは、原則として賤民と見るべきものであった筈である。無論その賤という程度に相違があったとはいえども。

 原則として公民すなわち農民のみが、良民すなわちオオミタカラであるとすれば、それ以外のものはすべて賤民であるべき筈であるけれども、前記大化の改新の詔にも、特に良男良女と奴婢ぬひとの関係をのみ規定して、他に及ばず、奴婢以外に賤民がありとしても、この場合それは国法上の問題に上っていないのである。大宝令にはいわゆる五色の賤民として、陵戸、官戸、家人けにん、官奴婢ぬひ、私奴婢ぬひの五種を数えている。しかしその官戸というは、次の家人というと同一種類に属するもので、官奴婢と私奴婢とを分ったと同じように、その所属が官にあることを示して区別したに過ぎない。もちろん官戸、官奴婢と、家人、私奴婢との間には、待遇上多少の相違はあるとしても、その種類の上から云えば、畢竟は家人、奴婢と、陵戸との三種となる。しかもその家人とは、奴婢の上級なるもので、天平十九年の「法隆寺資財帳」に、家人何口奴婢何口と区別して列挙し、しかもそれを総称しては奴婢何口と数えてあるのを見れば、つまりは奴婢の徒である。さればいわゆる五色の賤民の別も、詮じつむれば陵戸と奴婢との二つとなるのである。しかもその陵戸が、特に国法上賤民の中に数えられたについては、特別の意味のあることで、これは後の説明に譲り、これを除けば、広い意味の奴婢のみが、いわゆる賤民として挙げられているのである。
「奴婢」を「日本紀」にはヤッコとませてある。コは「人」の義で、江戸ッ子、捕子とりこ(囚人)などの「コ」であり、ヤッコは「ッコ」、すなわち「家の人」で、その家に従属するものの義であろう。中世武士の従属者に「いえ」「郎党」などというものがある。これも畢竟は同義で、その家に属する人という義であると解する。すなわち本来は他人の家に属するもの、すなわちいわゆる主人持ちの義である。されば社会の上流に位する貴族の如きも、これを天皇に対し奉って、やはりにほかならぬもので、国造、伴造をクニノミヤツコ、トモノミヤツコと訓むのは、「国の御奴」、「伴の御奴」の義でなければならぬ。そして「家人けにん」とは、ヤッコすなわち「家の人」を文字そのままに音読したもので、それを中世には邦語で呼んで、「家の子」と云ったにほかならぬ。すなわち通じてはいずれもヤッコ(奴)である。
 いわゆる五色の賤民は、良民と通婚が許されぬばかりでなく、同じ賤民同士の仲間においても、お互いに当色の者同士のみが婚すべきことになっている。そしてその陵戸の問題はしばらく措き、官戸以下の四色の賤民にありては、通じては皆ヤッコとして、天皇直属の民ではない。天皇に対し奉ってはいずれも又者またものの地位におり、国家の公民ではないのである。これ特に賤民として、国法上その身分を厳格に区別し、互いに相みだれざらしめて、以て社会の秩序を正し、兼ねて所属主の財産権を擁護した所以のものであった。
 家人、奴婢(官戸、官奴婢とも)は畢竟同じくヤッコであって、服装までも橡黒衣つるばみすみそめのころもを着せて良民と区別し、その子孫は特別の場合以外、永久にその主人に属すべき性質のものである。中について家人は、奴婢の高級のものとして、国法上特別の扱いを与えられていた。すなわち家人は一家を為して主人に属するもので、主人も任意にこれを売買するをえず、またその家族全部を挙げて任意に駆使することも許されなかった。しかるに奴婢は純然たる奴隷であって、公には夫婦親子の関係をも認められず、牛馬と同じく全く主人に飼養せられて、単に労役に従事し、主人の任意に売買譲与をもなしえた程で、全くその人格を認められなかったものである。
 かくの如く、いわゆる良民と賤民との間において、また賤民同士の間において、国法上厳重な差別が設けられてはあっても、それは単に境遇上のみの問題で、決して民族上の問題ではなかった。いわゆるヤッコとして全くその人格が認められなかった程のものでも、人そのものが賤しいのではない。良賤の別は全く境遇によって定められたもので、境遇が変れば賤民もただちに良民となりうる。大宝令の規定によれば、官奴婢は年六十六に達すれば優待して官戸となす、癈疾となった場合も同様であった。さらに年七十六に達すれば、解放して良民となし、願う所に貫籍することになっている。或いは臨時に、官奴婢を解放してただちに良民と為した場合も少くなかった。私の奴婢でも同様で、或いは主人の意志により、或いは相互の諒解により、或いは自らあがなって、家人に昇級したり、良民になったりしうるのである。家人を解放して良民となしうることも同様である。この場合、本属の官庁に申告して、家人奴婢の戸籍より除き、良民の戸籍に付けてもらえば、それでよいのであった。
 彼らは賤民の身分であっても、やはり田地の班給を受けて農業に従事した。普通良民は男子に田二段、女子に一段百二十歩ずつを受ける制で、官戸及び官奴婢はこれに同じく、家人及び私奴婢は、土地の寛狭に従ってその三分の一を供せられる。彼らは被使役者であっても、やはり食料を要するからである。
 奴婢の起原には、征服せられた異民族、戦争の際に生じた捕虜などというような場合も想像せられ、現に征夷によって得た蝦夷の捕虜を、神饌として神社に寄付し、或いは奴隷として公卿に賜わったという実例もあった。されば時には実際上民族的差別を有するものがないとは言えないが、しかし原則としてその差別は民族によるものではない。同じ異民族でも、決してそのすべてが賤民として待遇せられたのではない。前記の場合の如きも、捕虜になったという境遇がしからしめたので、民族を異にするという為ではない。もっとも遠い遠い大昔には、秦民のすべてが諸国に分散して、臣連の為にその欲するままに駆使せられたと云う事実もあって、いわゆる秦人はたびとがその族を挙げて奴隷の境遇に落ちたというようなことも無いではなかったが、それも雄略天皇の十五年に解放せられて秦造はたのみやつこの部民となった。されば少くも歴史時代における実際には、犯罪者或いはその一族の官没せられたもの、或いは合意的に売られた子弟、その他誘拐掠奪等から生ずるもので、要するに生存競争上の劣敗者、社会の落伍者ともいうべきものが賤民となったのであった。したがって事情がこれを許し、解放を得さえすれば、彼らはいつもとの良民となるも、何ら支障がなかったのであった。

 奴婢と並べて大宝令に、五色の賤民の一つとして数えられた唯一つの陵戸は、少しく性質の違ったものである。彼らはむしろ後に説明する雑戸とか、品部ともべとかいうべき種類のもので、一定の職業に従事する部族であるが、しかも他の雑戸や品部が賤民の仲間に数えられずして、ただひとり陵戸のみがここに加えられたことは、同じく一定の職業に従事するものとはいえ、その従事するところが陵墓の事に関し、穢れに触れるという思想から、特に賤視せられたものであろうと思われる。顕宗天皇元年六月、狭々城山君韓※(「代/巾」、第4水準2-8-82)宿禰、天皇の御父市辺押磐皇子殺害の罪に連坐して、特に死一等を許され、陵戸にあてて兼ねて山を守らしめ、籍帳を削り除いて、山部連に隷せしむとある。罪科によって官没せられたのであった。かく陵戸は、時として新たに加えられることがあって、もちろんその子孫は陵戸の賤職を世襲せしめられたのであろうが、大体としてその家が極まっておって、その身分が賤しいがために、逃亡その他の事情から、その数が減じこそすれ、自然増加の率は少く、しかも陵墓の数は世とともに増加して、需要を充たすに足らなくなる。そこで持統天皇の五年に、陵戸の数を定め、先皇の陵には五戸以上、自余の王及び有功者には三戸を置く事になった際、陵戸不足の場合は百姓を以てこれにて、その徭役を免じて三年交替の制を立てられた。これが「延喜式」にいわゆる「守戸」に相当するものであろう。「延喜式」には守戸は十年交替となっている。三年交替ではその煩に堪えなかったのと、一方徭役を免ぜられる特典があったが為に、彼らもその職に甘んじて、あまり短期の交替を望まなかったためでもあったとみえる。
 因に云う、後世近畿地方にシュクと呼ばれた賤者階級の徒があった。解するものこれを以て守戸の後となし、余輩またかつてはその説に従ってみた事があったが、後に至って必ずしもそのしからざることを明らかにした。別項「シュク」の条下を見られたい。
「延喜」の諸陵寮式には、各陵墓についてそれぞれ陵戸守戸の数を記してある。身分は違っても同一職務に服したものであった。後いつとはなく諸陵寮の管理も廃し、陵墓多くはその所在を忘れられるようになっては、陵戸守戸の末路も不明になってしまった。

 陵戸は大宝令に賤民の中に数えてあっても、もちろん奴婢の徒ではない。ただその身が穢れに触れるということから、特に賤民の籍に収められたもので、職業から見た性質上では、むしろ雑戸の部類に属すべきものだと解せられるが、その以外の一般の雑戸は貴族に属する部曲の民などとともに、良民とも賤民ともつかぬ、中間階級のものとして認められていた。いわゆるハシヒトの類で、それを文字に「間人」と書いた。或いはその文字のままにマヒト、または転じてマウトなどと呼んだこともある。良賤両者の中間に位置するということであろう。
 大化以前の「間人」に関する具体的実例は、不幸にして古文献に見当らぬ。しかし姓氏及び人名として、しばしばそれがあらわれている。間人連はしひとのむらじ、中臣間人連、丹比間人宿禰、間人穴太部はしひとのあなほべ王、間人穴太部女王、間人はしひと皇女などこれである。この「間人」の二字、古くハシヒトと訓ませてあるのであるが、奇態な事には、「古事記」に「間人穴太部はしひとのあなほべ王」とある欽明天皇の皇子の御名を、「日本紀」には「※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部穴穂部皇子」に作り、その古訓に、「※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部」を「ハセツカベ」と訓ませている。これによって「※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部」すなわち「ハセツカベ」が、すなわち「間人」であることが知られる。
 ハセツカベはすなわち駆使部はせつかいべで、「日本紀」には「駈使奴つかいびとやっこ」などいう文字を用い、普通に姓氏としては「丈部」または「杖部」の文字を用いている。けだし彼らはもと駆使はせつかいに任ずる賤者で、杖を突いて駆けまわるが故に、文字に会意上「杖部」と書き、略して「丈部」と書いたのであろう。しかもそれを一に「※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部」とも書くに至っては、一考を要するものがある。
 大宝令に宮内省の被管土工司があり、土作瓦※(「泥/土」、第3水準1-15-53)つかさどり、これに二十人の泥部がついている。「義解」に、「瓦※(「泥/土」、第3水準1-15-53)は猶瓦といふが如し、※(「泥/土」、第3水準1-15-53)を以て瓦となす、故に連ね言ふなり」とあって、またその泥部については、「集解」に、「波都賀此之友造」とある。これは文字のままならば、当然「ハツカシのトモノミヤツコ」と読むべきもので、したがって「日本紀」古訓※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部をハセツカベとあるのは、ハツカシベの誤まりだとの説もある。しかし泥部を何故にハツカシベと云ったかについては、もちろん説明が出来ず、また意義をなさぬ。これを他の例から見ても、「此」字を「シ」の仮名に使ったことも珍らしい。けだしここに「波都賀此」とは、疑いもなく「波都賀」の誤写で、泥部すなわち「ハセツカヒ」の「トモノミヤツコ」であったに相違ない。
 ハセツカイは本来駆使に任ずる賤者の称で、「日本紀」に駈使奴をツカイビトヤッコとある通り、低級なる使用人の名称となっていたのである。そして泥工或いは※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部の如き賤職に従事したものは、これと同一階級の身分なるが故に、通じてか呼んだものか、或いは泥工の徒が同時に駆使に任じたものであったと思われる。泥工は元来土師部はじべの職である。すなわち土師人はしひとである。そしてその身分は良民と賤民との中間に位するものであるが故に、文字にそれを「間人」と書いて、ハシヒトと云ったもので、そのハシヒトが同時にハセツカベと呼ばれたものであることが知られる。すなわち土師部(※(「泥/土」、第3水準1-15-53)部)、間人、駆使部は、畢竟同一身分のもので、良賤両者の中間にいたものであった。無論雑多の職業に従事するいわゆる雑戸の徒も、畢竟は同一身分のもので、その中特に陵戸となったもののみが、国法上賤民として数えられたにほかならぬ。
 平安朝時代に、下賤の使用人をハシタオトコ、或いはハシタメと云う称があった。文字には「半男」または「半女」と書く。今も物の全からざることをハシタと云うのはこれであるが、その名称はけだしもと間人すなわちハシヒトから起ったものであると解する。ハシヒトつづまりてハシトとなり、さらにハシタとなるに不思議はない。そして後に武家の中間ちゅうげんと呼ばれる下男は、そのハシタオトコを音読したものに外ならぬ。半端はんぱなことをチュウゲンという語は、すでに平安朝の文学に見えている。チュウゲン(中間)すなわちハシタ(半)で、もと間人の義であることは明らかである。彼らは身分上賤民ではないが、さりとて良民としては待遇されなかったのであった。
 徳川時代になって、土佐では水呑百姓の類をモート(間人)と云って、もちろん賤民扱いはしないが、一人前の人格を認めなかった。阿波では同じく「間人」と書いてマニンと呼び、半人前の人格をしか認められなかった一階級があった。やはり水呑百姓の徒である。藩から賦課する課役役銀の如きも、普通の百姓の半額を負担させられたものであった。これすなわち身分上古えにいわゆるハシヒト、ハセツカベに相当するもので、良民と賤民との中間に位置したものである。
 阿波ではまた、間人の同階級に来人きたりにんというのが認められていた。他所から浮浪して来て住みついたもので、普通は昔の雑戸の如く、鍛冶屋、桶屋など雑多の工業的職業に従事し、維新後なお普通の百姓とは差別されていた。明治四年エタ非人の称を廃して平民となした時に、彼らも平民の地位を翹望し、願書を提出して、「平民申付候事」という滑稽な処分を受けた実例がある。その他讃岐に「西国」、淡路に「シャシャミ」(沙弥?)など、地方によって種々の名称を以て差別された家筋があったが、それらは大抵浮浪者の末で、永く良民に齢されず、いわゆる間人同様の身分に置かれたのであった。
 近畿地方では、俗にいわゆる番太或いは※(「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59)おんぼうをハチと呼ぶところがあった。山陰地方に鉢屋はちやと呼ばれたものもやはりハチで、土師はじの義であると解せられる。ハチはハシの転で、すなわちハシヒトの義である。彼らは事実上では社交的にいわゆる間人以下の身分に置かれていたけれども、その名称は彼らがもと三昧聖さんまいひじりの徒として、葬儀の事にあずかるところから、土師はじという古い称呼が用いられたものであったに相違ない。古えの土師部はもちろん賤民という階級ではなく、駆使部はせつかべなる使用人つかいびと等と同じく、間人として待遇せられたものであった。かくて徳川時代のマニン、モウトに至るまで、同じ階級のものをすべて中間ちゅうげん、ハシタ、マウト、マニンなどと呼んだものであった。

 古えにいわゆるハシヒト(間人)の範囲がどれだけのものを含んでいたかは明らかでないが、いわゆる丈部はせつかべなる駆使丁の徒はもとより、大化以前にあっていわゆる伴造とものみやつこの下に属し、雑多の職業に従事した部民の如き、或いは臣連等所属の部曲の如きは、すべてこの間人の類であったらしい。たといそれが農業の民であっても、他の部下に属して某部と呼ばれた程の徒は、天皇直隷の民でないが為に、もちろん国家の公民ではなく、やはり間人はしひと階級のものであったと解せられる。大化の改新には、原則としてこれらの部民を解放し、良民の戸籍に登録し、口分田を班給して農民すなわちオオミタカラと為した筈であるが、何らかの事情でその編戸に洩れ、工業その他の雑職に従事して、農業を営まなかったものは、やはり雑戸の徒として取り遺された。しかし彼らはもはや古えの伴造の私民ではない。良民すなわちオオミタカラからは自然一段と身分の低いものに見られていても、やはり国家所属の民であった筈である。そしてこれを時にトモノミヤツコと呼んだことは、「令集解」穴説に、「諸司伴部等皆直ちに友造と称す」と云い、朱の説に、「伴部は諸司の友之御造なり」と云い、また泥部をハセツカベのトモノミヤツコと云っていたので知られる。トモノミヤツコとはもと伴造の称で、貴族階級のものであるが、後にはその名称が下に及んだのである。徳川時代に三河甲斐などに、卜筮に従事する賤者で、陰陽博士の称を以て「博士」と呼ばれた徒があったようなものであろう。
 雑戸という名称はもと支那の語で、彼にあっては謀叛などによって国家に没収せられたものを以てこれに宛て、一種の賤民となっていたものである。したがって良民との通婚を許さなかった。我が大宝律では、雑戸が良民の子弟を養子とするを禁じているが、令に関する法家の解釈では、通婚は差支えないとある。これは一般的に雑戸を解放して、平民と同じくしたという天平十六年以後の実際を見て云ったことかと思われるが、ともかく我が国にあっては、同じく雑戸の名称を用いながらも、これを純粋の賤民とはせず、しかも一方では明らかにその卑品たることを指摘しているので、いわゆる間人の徒としてこれを待遇したものであったことが知られる。
 彼らは工人その他の雑職人として、通例土地の班給にあずからなかったものらしく、「古事記」垂仁天皇条に、「ところ得ぬ玉作たまつくり」という諺の存在を伝えている。また諸国に多い余戸あまりべの如きも、「高山本寺和名抄」によれば、「班田に入らざる之を余戸といふ」とあって、土地を有せず、農民ではなかったものらしい。承平二年の丹波国牒にも、「同国余部郷本より地なし」と見えている。「出雲風土記」には、出雲の余戸あまりべを解して、「神亀四年の編戸に依る」とあって、天智天皇八年庚午の戸籍にも漏れていたものが、この年新たに戸に編せられ、戸籍に登録せられて国家からその存在を認められたのであった。しかもそれが「班田に入らず」とあっては、従来より存在した工人部落か、または浮浪民の土着定住して雑職に従事するの徒であったらしく、いわゆる雑戸の類であったと解せられる。
 彼らは班田に入らず、農業に従事せぬが故に、農業を本とした我が国では、いわゆる大御田族おおみたからではありえない。したがってかつては公民の待遇を受けなかった筈であるが、しかしすでに神亀四年に編戸せられたとある以上、国家の公民として認められたものであったに相違なく、社会の進歩とともに、農民以外の雑戸の徒も、段々とその地位が向上したものらしい。果して天平十六年二月に至って、一般に雑戸は解放せられて、平民すなわち良民と同等の身分になった。「続日本紀」に、

丙午、免天下馬飼雑戸人等。因勅曰、汝等今負姓、人之所恥也。所以原免ゆへにゆるして、同於平民。但既免之後、汝等手技もし子孫、子孫弥降前姓、欲卑品
とある。これは明治四年に穢多非人の称を廃したのと同じような美挙ではあったが、後者が「身分職業共に平民と同じくす」とあるのとは違って、身分は平民と同等になっても、職業はやはり従前のままをつがしめ、そしてもしその技を伝習せずんば、農業に従事せぬ彼らは次第に貧困に陥って、子孫ますます堕落すべきことを戒められたものであった。かくてここに農民ならぬ公民も出来た次第であるが、しかし世間のその職業に対する賤視観念はにわかに一変し難く、彼らは国家から折角平民と認められても、世間からは相変らず賤しめられる傾きがあるので、自然その職をぐを忌み、怠り勝ちになったものらしい。そこで天平勝宝四年二月に至り、彼らの旧籍帳を尋ねて、前の如くその職業によって使役することになった。「続日本紀」に、

 己巳、京畿諸国鉄工、銅工、金作、甲作、弓削、矢作、桙削、鞍作、鞍張等之雑戸、依天平十六年二月十三日詔旨、雖改姓、不本業。仍下本貫、尋※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)天平十五年以前籍帳、毎色差発、依旧使役。
とある。これによっていわゆる雑戸なるものの種類もわかり、またその職を名に負うところの姓が、人の恥ずるところであったことが知られる。しかしともかくもその身分は平民に同じくなったので、これより後は自然淘汰の理法によって、同じく雑戸であったものの中でも、その執るところの職業によっては、段々と身分が向上して、普通の平民とそう社会的地位に相違のないものになったのもあろうし、また職業によっては、相変らず賤視を免れないものもあった事と思われる。かの陵戸が、その性質上からは雑戸の一つであるべく思われるにかかわらず、大宝令では特に家人奴婢と伍して、賤民の中に数えられているのは、その職業が穢れに触れる為であったと解せられる事から考えても、いわゆる雑戸なるもののうちで、その職業の種類と、社会のこれを見る感じとによって、その行く末が種々の階級に分たれるべき事情が察せられよう。

 大化の改新も一般民衆の根本的解放を見るに至らず、賤民及び間人の存在は、相変らず国法上に認められて、遂には奈良朝平安朝の貴族全盛の時代となった。その間に、間人の地位にいる雑戸は解放せられて、平民と同じ地位に置かれることとなったが、賤民の制は引続き国法上存在した筈である。しかるに時とともに貴族の勢力は向上して、その反対に平民の地位は段々下落し、両者の間の距離が甚だしくなるとともに、平民と賤民との距離が相近づいて来る。遂にはいわゆる賤民の制は破れて、その実、国法上からは賤民の身分にして、しかも実際上には社会的に貴族の地位を占め、平民はかえって新賤民となるというような、甚だしい混乱状態を生じて来た。
 朝廷の大官を始めとして、貴族等ひとり専横を極め、荘園の名の下に天下の田園を壟断ろうだんして、国政を顧みず、上に見習う地方官は誅求を事として、私腹を肥すことのみに汲々とし、下積みになった平民は口分田の班給にもあずかることをえず、その多数が農奴の状態に堕ちてしまったのであった。
 かくの如くにして地方政治は紊乱の極みに達し、生活に安んぜざる庶民階級の人々は、課役を避けて逃亡するものが多く、盗賊到る処に起っても、国司にはこれを鎮圧するだけの実力と誠意とがなく、人民は国家に依頼して、その生命財産の安全を保護してもらうことが出来なくなった。ここにおいていわゆる武士なるものが起って来るのである。微力のものは有力者の下に属して、その保護を受けねばならぬ。有力者は多くの部下を擁して、自ら護るの途に出る。その有力者もさらに一層有力なるものの部下に属して、自己の勢力の拡張を図る。ここに複雑したる主従関係が生じて来る。もちろん乱れたる世の事ではあり、国家の軍隊警察その用を為さぬ際であったから、彼らは自然武芸を錬磨して、自らまもるの必要があり、ここに国法以外の私兵が生じた。これすなわち武士である。
 既に主従関係が生じてみれば、その従者たるものはもちろん天皇直隷の国家の公民ではなく、実際上社会に勢力を有する程の身分であっても、国法の精神から云えば立派に家人けにん奴婢階級の賤民の徒であらねばならぬ。否ただに令制の精神からというのみでなく、事実彼らは依然賤民の名称たる「家人」を以て呼ばれていた。しかもその「家人」たるや、もはや決して賤者を以て目せらるべきものではなかった。もともと国法上の賤民が境遇の問題である以上、境遇がよくなれば解放されて良民となるのは当然の事であるが、今や名義上ではその賤民たる身分のままで、しかもかえって良民たるべき農民以上の地位を占めるものが起って来たのである。すなわち令制の賤民の地位が、そのままに解放せられ、向上せられたものであった。ことに有力なる主人を有する家人等は、その主の威光を笠に着て勢を振うことが出来る。ここにおいてか、有為の士は自ら好んで有力者の家人になり、令制の賤民の地位に甘んずるようになる。一方では将種、将家などと呼ばれて、累代多くの家人を有し、立派に武士の統領たるの家を為しているものでも、一方では摂関家の如き、自分よりも一層有力なる者の家人となって、自らその爪牙に任じたものであった。かの一時関八州を占領して独立をまで企てた平将門の如きも、もとは摂政藤原忠平の家人であった。一旦家人となれば決してその主人に反抗することは出来ぬ。彼は自ら平新皇と称して、日本半国の帝王気取りになっておっても、なお旧主の忠平の許へは、さすがに甚だ慇懃なる消息を通じているのである。また源家の祖先として威名の高かった源頼信も、関白藤原道兼の家人であった。内大臣の地位にいる藤原宗忠すら、関白藤原忠実の家人を以て甘んじていたのである。藤原惟成身を屈して藤原有国の家人になった時、人これを怪しんでその故を問うたところが、惟成は、「一人のまたに入りて万人のこうべを超えんと欲す」と云ったとある。以て当代の趨勢を見ることが出来よう。
 家人たる従者は、本来は常に主人の座右に侍して、その用を弁ずべき身分のもので、すなわち「さむらい」である。大宝令には不具癈疾或いは老人に「侍」を給するの制がある。その同じ名称の侍が、武芸を錬磨し、刀剣を帯して、主人を警護するようになっては、これいわゆる武士である。後世武士が「侍」と呼ばれたのは、全くこれが為であった。
 家人の地位は主人の地位とともに消長する。源頼朝天下の政権を掌握するに及んでは、国法上では賤民である筈の源氏の家人等は、事実は一国或いは数国の守護となり、或いは多くの公領荘園の地頭となり、いわゆる大大名おおだいみょうとなった。けだし一人の跨に入りて、万人の首を超えたのである。
 しかしながら、これあるが為にすべての家人や侍の地位が、相率いて高くなったのではない。その主が失敗すれば、その家人や侍は一層堕落の境遇に置かれるのはやむをえなかった。勝者たる源氏の家人が勢力を得た陰には、敗者たる平氏の家人が没落したのは言うまでもない。主人の身分が高ければ、その家人の身分も高く、主人の身分が低ければその家人の身分も低い。徳川時代になっても、幕府直参の武士は「御家人ごけにん」と呼ばれて、これは立派な士族であるが、一方百姓にも譜第の家人があって、それは「下人げにん」として賤しまれ、今に下人筋げにんすじ等と云って、社交上にも或る場合には疎外されるのを免れない風習の地方もないではない。

 平安朝における政治の紊乱が、令制の賤民を解放して、新たに武士という、名義上では賤民であっても、その実平民以上にいるような、奇態な新階級の勃興を見るに至ったが、それと同時に一方には、国法には認めていなかった浮浪民なる新賤民が、またはなはだ多く起って来た。
 歴史上普通に賤民と云えば、ただちに大宝令の五色の賤民を数えて、ただそれだけが古代の賤民である如く考えられている。さらに深入りして考えるものでも、それに中間人たる雑戸の徒を加えるくらいである。しかしながら実際上我が古代において、貴族と良民と雑戸と、それ以外に大宝令に見えるいわゆる賤民とのみが、我が国土に生活した人類のすべてではなかった。令制上の賤民や雑戸は、たとい賤民だ雑戸だといわれても、やはり国家からその存在を認められた「賤しい民」で、それぞれ戸籍帳に載っているのであるが、そのほかにその実はなお或る種の人類が少からず生活していたのであった。すなわち戸籍帳に漏れた無籍者で、一定の居所をも有せず、国家の法律にも拘束せられず、生活の便宜を追うて各地に漂泊的生活をなしていたもので、いわゆる浮浪の徒である。これをウカレビトと云う。
 浮浪民はおそらく人類の発生とともにあるべき筈で、その存在は古くから歴史にも見えていた。既に天智天皇八年に、「庚午年籍こうごねんじゃく」を造って、浮浪人を断つとある。無籍者を調べて民籍に編入したのだ。しかしそれで天下の浮浪民が無くなった訳ではなく、たまたまその中の境遇のよいものが、新たに戸に編せられて公民権を得たに過ぎなかったのであろう。つまり彼らは社会の落伍者で、したがって一方に解放せられる者があっても、一方にはあとへあとへと出て来る訳である。もちろんその中には、祖先以来の浮浪の生活を続けて、未だその存在が国家に認められず、公民の戸籍に編入される機会を得ざるままに、子々孫々にまで相ついで浮浪漂泊しているというものもあったであろう。しかしそれは比較的少数で、少くも中世以後には、一旦公民権を得て戸籍に編入されていたものが、事情あって原籍地から逃亡し、浮浪民となったものが甚だ多かった。その中には、地方官の悪政の結果として、その誅求に堪え兼ねて他郷に逃亡したものが、平安朝にはことに多かったのである。もちろんこの以外に、犯罪その他の理由より、身を郷里に置き兼ねて逃亡したものも多かろう。恋愛関係から駆け落ちしたもの、負債の為め身をくらましたものなどもあったであろう。その原因は種々であろうが、とにかく一旦公民籍に編入されておったものの、逃亡して浮浪民となったのが多かったに相違ない。
 或いは初めからその住居が僻遠であったが為に、その存在が世に知られずして、公民籍に編入せらるるの機会を得なかったものも、もちろん昔は随分多かった。今に至ってもなおその種のものが、時に発見されることがある。先年の国勢調査の際に、そんな事実のあったことがしばしば新聞に見えていた。彼らは従来国家から存在を認められず、何村の戸籍にも載っておらず、児童はもちろん小学校教育をも受けず、村民は兵役の義務にも服せず、もちろん一銭の租税をも納めないで、全くの別世界であった。この類のことは実は太古からあったもので、古く既に素戔嗚尊スサノヲノミコトは、出雲の之川上から流れて来たのをて、山奥に人ありとの事を知られ、分け登って高志こし八岐大蛇やまたのおろちを退治して、奇稲田姫くしなだひめの危難を救われたとある。越後の三面村、肥後の五箇山中など、この種の話は後世にもたくさんある。これらの中には、太古から山間に住んでおった山人が、狩猟のみで活きる事が出来なくなり、里から農業の法を伝えて、不完全な農村を開いたのもあろう。或いは隠れ里と呼ばれるように、もと平地の農村にいたものが、何らかの事情でその村に住みかねて山間に幽棲の地を求めて、山村を作ったのもあろう。山間僻地の村落には、よく平家の落人伝説を有したものがある。無論そのすべてが信ずべき限りでないが、さる種類のものも全然ないとは言われない。しかしいずれにしても、要するに社会の落伍者である。そしてこれらの落伍者の中には、一方では人口の増加とともに食物の供給が不足になり、一方では里人の向上したる生活にあこがれて、ついに里人に交って、今に鬼筋などと呼ばれているものもあるが、中には農業を営まずして、里人の間に賤職に従事しつつ、相変らず浮浪性の生活を続けているものも多かろう。
 大江匡房の「傀儡子かいらいし記」、「遊女記」の二篇は、当時の浮浪民の様子を事面白く記述している。
 傀儡子とは支那の言葉で、本来は傀儡すなわち木偶を弄して人目を楽しましめるもののことであるが、邦語ではこれを「クグツ」と云い、もと必ずしも人形舞わしとは限らないものであった。彼らは一所不定の浮浪民で、水草を逐うて便宜の地に小屋住まいをする。男は弓馬に長じて、狩猟を本職とし、また剣舞、弄玉、人形舞わし、手品、軽業というような技芸を演じて、人の耳目を楽しましめる。またその婦女は、粉粧をこらして淫をひさぐ。田も作らねばかいこも飼わず、国司の支配をも受けず、少しの課役をも負担せぬという、至って気楽そうな生活をしていたとある。農桑の道を捨てた浮浪民、すなわちウカレビトの生活としては、けだしこうなるのが順序であろう。遊女をウカレメというのも浮浪女うかれめの義で、「万葉集」には「遊行女婦」と書いてある。大宰帥だざいのそつ大伴旅人や、越中守大伴家持などと歌の贈答をしたという、名誉の遊行女婦うかれめがすでに奈良朝にあった。遊女と云うはけだしその略で、或いはそれをもクグツと云った。これを遊行女婦と云っても、常に所定めず浮浪してのみいるのではなく、都合のよい所に住みついては、そこで半定住的の生活を営んでいるものも多かった。平安朝の遊女は、上方かみがたでは江口とか、神崎とか、蟹島とかいう所に根拠を構えていたとある。この浮浪民たる傀儡子や遊女は、道祖神さいのかみを祭って福助を祈る習慣を持っておった。各自その像を帯して、その数百千に及ぶが故に、これを百大夫と云ったとある。現に摂津の西の宮の傀儡子は、百大夫を氏神と仰ぎ、人形舞わしとして非常な発達を遂げた。これが為に後世には人形舞わしの事をただちに傀儡師だと心得るようにまでなったけれども、本来は傀儡子必ずしも人形舞わしのみでなく、鎌倉時代では、彼らは主として狩猟を業とし、その婦は遊女の如しとも「塵袋」に見えている。
 いずれにしてもこれらはみな社会の落伍者である。落伍者はいつの世にも必ず生じて来るもので、その代りに、その中の或る者は、浮浪の境界から脱して立派な身分になるものもある。つまり新陳代謝が行われて、古い賤者が消えて行って、新しい賤者が起って来るのである。
 かく新陳代謝が行われる中にも、平安朝の中頃以後に輩出した浮浪民は、令制の賤民の代りに生じた新賤民の起原をなしたもので、その顛末は我が賤民史上最も注目すべきものである。しかもそれが「聖の御代」とまで言われた延喜の頃から、既に甚だしくなっていたのには驚かざるをえぬ。
「延喜式」に「濫僧屠者」の語があり、下賀茂すなわち賀茂御祖みおや神社の付近に、その居住を禁止している。御祖神社は賀茂川と高野川との会流の地にあって、その河原にはこれらの輩が群がり住むが為に、特にこれを禁止したものであったと解せられる。
 ここに濫僧とは、当時の文章博士三善清行の「意見封事」に、当時の人民課役を避けんが為に、私に髪を剃り、みだりに法服を着けて、法師の姿に身をやつしたというそれである。「家に妻子を蓄へ、口に※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさくらふ」とあって、すなわち肉食妻帯の在家法師であり、その「形は沙門に似て、心は屠児えとりの如し」とあって、もちろん仏教信仰からの出家ではなかった。しかもその数が「天下の三分の二」に及んだと清行は云っている。実に夥しい数で一概に信ぜられないようではあるが、しかしこれは事実であった。それには証拠がある。延喜二年の阿波国の戸籍の一部と、八年の周防国の戸籍の一部とが、幸いにして今日伝わっていて、それを見ればなるほどとうなずかれる。その当時帝国の公民として戸籍に載っているもののうちには、男子が甚だ少く、大多数が女子である。稀に男子があれば、多くは老人、不具癈疾、または有位者というように、課役免除の輩である。課役の負担の義務のある課丁は、ほとんど戸籍に上っておらぬ。延喜二年の戸籍で性別の明らかなもの五百五十人中、実に四百八十三人までは女子であった。これは言うまでもなく公民が課役を避けて自度の僧となり、戸籍外に脱出した結果でなければならぬ。彼らは国家から公民として認められても、これが為に何ら得るところなく、かえって国司の誅求に苦しめられるのみであったから、自ら公民の資格を捨てる方便として、争うて出家したのであった。したがって彼らは無論如法の僧ではない。無籍者である。その多数は在家の俗法師、すなわちいわゆる毛坊主の徒である。もちろん彼らの多数は相変らず農耕の道に従事したであろうが、しかし彼らはもはや公民としての農民ではなく、日蔭者であり、他人の田地を作る水呑百姓、すなわちいわゆる間人まうと階級のものでなければならぬ。或いは全然農奴の階級に落ちたのも多かったであろう。或いはかつて雑戸の職となっていたところの、雑多の家内工業に従事したであろう。
 しかし浮浪民だ、無籍者だと言われながらも、ともかくも一定の住所を有して郷里の家庭に住むことの出来たものは、これを賤民と称するにはやや妥当を欠くの感があるが、それ以外に郷里にいることも出来ず、逃亡して他郷に浮浪漂泊の生活をなすという、一層堕落の底に落ち込んだものが多かったのは言うまでもない。彼らは法師姿であるが故に、いわゆる樹下石上を家となし、身を雲水に任して頭陀の生活をなす修行者に交って、乞食として生活するの道を求めたであろう。これすなわちいわゆる濫僧ろうそうである。平安朝の悪政の結果として、延喜の頃既に多数のこの濫僧の徒が続出したのであって、そして漂泊して京都に流れついたものが、賀茂川の河原に小屋掛けをして、いわゆる河原者となるものが多かったが為に、特に「延喜式」の禁制の必要があったのである。

 濫僧の徒は古くこれを「非人」或いは「非人法師」と云った。この場合の「人」とは広く「人類」という意味ではなく、狭く「日本人」という義である。すなわち非人とは、帝国の臣民に非ずと云う程の義であるが、鎌倉時代にはこれをその文字通りに解して、人間以外すなわち畜生仲間というような、極めて同情のない説明をした場合もないではない。かの日蓮聖人が、自ら「旃陀羅せんだらの子なり」と云い、「身は人身にして畜身なり」とも、「畜生の身なり」とも云われたのは全くこれである。しかしもともと非人とは、決してそういう意味ではない。
 最も古く非人の名称の物に見えている著しい例証は、かの橘逸勢たちばなのはやなりである。彼は罪あって除籍せられ、「非人」と称せられた。無籍者になったのである。すなわち非公民の称である。さればこれを広い意味から云えば、一般的に僧侶すなわち「出家」の輩は、もはや公民ではなく、やはり非人と云ってよいのかもしれぬ。かの有名なる京都栂尾とがのお高山寺の大徳明恵上人高弁が、自らその著の終わりに「非人高弁」と書いているのは、けだしこの意味の非人であった。
 非人は食物の生産者ではない、故に彼らは何らかの方法で食を生産者から乞わねばならぬ。すなわち「乞食」である。もっとも厳格なる意味から云えば、施主の供養に生きる如法の僧侶の如きもやはり乞食で、弘法大師の「三教指帰」には、自己を仏教の代表者とし、これを「仮名乞児」と名告なのらせているのである。
 非人乞食は、原則としては同時に浮浪民である筈である。もちろん浮浪民であると云っても、そのすべてが常に一定の居所なく、各地に浮浪してのみいるのではない。中には永く一所に定住して、浮浪民の村落を作り、長者の統率の下に自治の境界に安んじている場合もある。また国家として永くこれを度外視し、その自治にのみ放任する訳には行かず、浮浪人の戸籍を作って、一定の課役を賦課し、また飢饉の際の如きは、土民浪人ともにこれを救助したというような場合もあるが、それでもなお彼らは、やはり国家なり、社会なりから、浮浪民の名称を以て呼ばれている。一旦浮浪民と身分が極まれば、或る特別なる事情がないかぎり、公民籍には編入せられず、いつまでも浮浪民として認められたのであった。
 かくの如きものは、もちろん賤民と呼ばるべきものではなく、中には新たに戸に編せられて公民の資格を得る場合もあり、しからざるものも、必ずしも社会からひどく賤視されたもののみとは限らなかったが、真に浮浪生活を続けているものが、実際上の非人として世間から仲間はずしにされるのはやむをえなかった。
 この以外に事実浮浪的生活をなしている漁夫狩人の徒ももちろん多かった。漁民の中には、近い頃までなお漂泊的の習慣を存し、他から特殊的待遇を受けていたものもある。その海岸に定住して漁村をなしているものの中には、早く戸籍に編入せられて、公民の資格を得ていたものも少くなかったが、大体として奈良朝頃まで、なおこれを乞食と呼んだらしく、「万葉集」の歌に「乞食の詠」というのが二首あって、一つは漁師の歌、一つは狩人の歌を収めてあるのである。彼らは獣肉魚肉を里人に供給し、無条件に食を乞うのではない。しかし元来農業を以て本位とする我が国においては、これらの肉類は食料とは云わなかった。少くも奈良朝頃の日本民族は、もはや獣肉魚肉のみによって生きて行く事は出来なかった。生きるには必ず農民の作った五穀に依り、獣肉魚肉は副食物の原料たるに過ぎなかった。したがって漁師とか狩人とかは、やはり農民から食を乞う方の側の人で、すなわち乞食と目せられたものと解せられる。副食物はオサイである。オサイは「お添え」の義で、食物に添えて喰うものたるに過ぎない。農民のみが食物の供給者であり、国費を支弁する納税者である以上、それのみが公民であって、その以外の者は、たとい相当の代償を払っても、食物をこれに乞う以上乞食と言われても致し方がなかったのであろう。漁家の子たる日蓮聖人が、「畜生の身なり」と言われたのも、全くこの意味からであったと解せられる。
 俳優或いは人形舞わし、その他の遊芸者を、古く河原乞食と云った。「河原」ということは後に説明する。これを乞食といったのは、右の乞食の意味を示しているのである。彼らはもとホカイビトの徒であった。ホカイビトはすなわち「ぐ」人で、その語がただちに乞食を示すの語となっている。今も地方によっては、乞食の事をホイトという。ホカイビトの略称である。彼らは人の喜びそうな祝言ほかいごとを述べて、食を乞うて生きて行く。これすなわちホカイ人である。しかしただ口先で祝言を述べただけでは、長く顧客の心をつなぎ難きが為に、彼らも次第に工夫を加え、声に抑揚曲節をつけ、楽器を用い、手振り足振りを加えて、歌を歌い、楽を奏し、踊りを踊る。なおそれに満足せず、はては人形を持ち出す。物真似をする。遂には各種の遊芸がこれから出て来るのである。
 その一例として、右に述べた西の宮の傀儡師は、最も適切なる由来を有している。摂津西の宮の付近には、もと「産所」という部落があった。これは後に説明するところの「散所」の義で、浮浪民の住みついた所である。その住民は西の宮の百大夫を祖神と仰ぎ、ホカイをなすにも、西の宮のえびす神の木偶を作ってそれを舞わす。これを古く「恵比須かき」とも、「恵比須舞わし」とも云った。彼らは手に恵比須の人形を舞わしつつ、節面白く目出度い限りの祝言を述べる。それがもとで、遂には他の人形をも舞わすようになり、後には浄瑠璃に合せて段ものを演出し、遂には「道薫坊どうくんぼう」と云われた人形舞わしが成立した。道薫坊とは「木偶でくの坊」ということである。関西地方ではそれを訛ってデコンボウと云い、元祖と仰ぐ百大夫に付会して、道薫坊などともっともらしい名を按出したのであった。デクとは、詳しくは「手クグツ」と云い、手に持って舞わす人形、すなわち手傀儡の事である。クグツすなわち傀儡子が、往々にして人形を舞わすので、はてはその人形のことをクグツとも、手クグツとも云ったのであった。
 この西の宮の人形舞わしが、後に淡路の国府付近に移って、ここに大発展をなした。その地を三条というのは、文字は変っているがやはり散所の義であろう。或いはここにももと散所の者がいて、それが西の宮の散所の芸当を伝えたのかもしれぬ。この人形舞わしは、西の宮では早く亡びたが、淡路にては大発達を遂げて、一時は人形座の数が四十にも及び、後には十八座となり、今もなお五六座は遺っていて、全国を興行してまわっているという。やはり一種の旅芸人と云うべきものである。
 これはただ具体的の一例を述べたに過ぎないが、ホカイ人は、かく一方では人形舞わし専門の遊芸者となったと同時に、一方では神を慰めるための神楽にも発達した。西の宮の傀儡師も、やはりもとは夷神の神慮を慰める為だったとも云っているが、これは人形の方に発達し、神楽は手先の芸当の方に発達した。神楽と云っても、神子みこが鈴を振り、笛に合せて、神前で舞を舞うばかりではない。これにもいろいろの芸当を取り入れて、滑稽な身振りをして人を笑わせる。東京辺りでよく演じている丸一の大神楽と云うのがその一例である。彼らは皿を廻したり、毬を投げたり、出刃庖丁を操ったり、鼻の先へ棒を立てたり、昔の傀儡子がなしたような色々の所作事を演じている。その名は相変らず神楽と云っても、実は一派の遊芸者になっているのである。
 このほか東京近在の馬鹿囃ばかばやしと俗に称する一種の遊芸も、やはりお神楽と云っているが、これは京都の念仏狂言類似のもので、もとはやはり同じような起原を有するものであろう。念仏狂言とは、念仏が遊芸の方面に発達したものである。彼らはもと課役を避けて出家した法師なるが故に、人の門に立って念仏を申し、供養を受けて生活した筈であるが、いわゆる仏の顔も三度という如く、ただそれだけでは聞き手の方が飽きて来るので、ついにはその念仏に抑揚曲節を付し、身振り手振りを加えて、歌念仏、踊念仏となる。これは空也上人が始めたと云われているが、近頃でも京都近在で行われている六斎念仏の如きは、名は念仏と云っても、その実全く一種の遊芸になっている。また壬生の大念仏と称する無言狂言が、今以て念仏狂言と云っているところに、これもその起原が窺われる。このほか田楽、猿楽、万歳などの芸能に従事するものも、もと田楽法師、猿楽法師、千秋万歳法師などと呼ばれて、やはりこの濫僧の徒の従事する遊芸となっておったのである。
 かくの如き遊芸者は、それぞれ相当の技芸を演じて人の耳目を喜ばしめ、その代償として食を求めるのであるけれども、やはり乞食と呼ばれていたのであった。

 濫僧は非人法師として、身を雲水に委して乞食生活をなすに好都合であったであろうが、多数の濫僧が輩出しては、もはやこれのみによって活きる事は出来ぬ。勢い何らかの職業に従事せねばならぬ。ここにおいて彼らは多く繁華なる都会に流れつき、都人によって職を求めんとする。或いは村落に寄生して、村人によって生活の道を講ずる。
 当時にあって職業の最も求め易かるべき繁華な場合は、第一に指を京都に屈すべく、次には奈良であったであろう。その選んだ職業としては、第一に市民の為に労働して、その日その日を送って行くという、今日のいわゆる自由労働者や、上方かみがた地方でいわゆる手伝(テッタイ)の如き道に流れて行った。すなわち雇われて走り使いをする、掃除をする、庭作りをする、大工左官等の職人の臨時助手となる。或いは道普請をする。井戸掘りをする、墓の穴掘りをする、葬式の手伝いをするという風に、種々の雑役に従事するのである。或いは昔の雑戸の亜流となって、草履を作り、靴を作り、弓矢等の武具を作る等、その他雑多の家内工業に従事する。そしてその製作品を販売する行商人、店売たなうり商人となる。或いは遊芸を事として、人の門に立ち、または路傍に技を演じて米銭を貰うという、いわゆる移動芸術家、街上芸術家となる。もちろんその婦人には、淫をひさいで遊女となるものもある。しかしながら彼らの取った職業の中で、最も注意すべきものは、社寺或いは村落都邑に付属して、その警察事務を受け持ち、その安寧を保障する事であった。盗賊の番、火の番、野番、山番などを始めとして、押売強請者の追っ払い、行倒れの取片付け、行路病者の保護、行倒れ人の跡始末という風に、およそ今の警察官の行うところを行ったものであった。この場合彼らはその報酬として、各自の受持ちの区域なり村落都邑なりから、一定の扶持を得て生活していたのである。
 かくの如くにして彼らは相当の職業を得て、一所に定住するに至っても、本来浮浪民である。今日の如き手軽に宿泊する木賃宿の如き設備のなかった時代にあっては、彼らは便宜空地を求めて、小屋住まいをせざるをえなかった。京都では主として賀茂川の河原に小屋掛けをして、いわゆる河原者と呼ばれていた。或いは東山の坂、ことに清水坂に最も多く集まった。清水坂は東海道の要路に当り、自然に往来の人が多く、生活するには便宜が多かったのである。これを坂の者と呼んだ。奈良では奈良坂の坂の者が最も有名であった。その他各地の村落都邑に住みついたものは、いずれもその町外れや村外れの空地に小屋住まいをした。これを普通に散所の者と云う。これは主として上方かみがた地方で呼ばれた名称であるが、地方によっては、その住地の状況から、山の者、野の者、島の者、谷の者などと呼びならわした所もある。或いはその住居の状況から、宿しゅくの者、垣内かいとの者などと云い、職業とするところから、皮屋、皮坊、皮太、茶筅、御坊、鉢屋、ささら、説教者、博士など、種々の名称があるが、要するに河原者と云い、坂の者と云い、或いは散所の者などと云っても、宿の者、皮屋、鉢屋などと云っても、つまりは同じ流れの浮浪者の群で、ただその居所や生活の状態、或いはその職業とするところによって、名を異にしたにほかならぬ。通じては非人法師である。今日浮浪民の事を、地方によって「サンカモノ」と云うのは、「坂の者」の転訛で、サカノモノがサカンモノになり、転じてサンカモノとなったのである。また前記の如く俳優或いは人形使いの如き遊芸人を、古く河原乞食或いは河原者と云ったのも同様で、もと遊芸者が多くこの徒から出たが為に、たまたまその名称が彼らの間に伝わったのであった。サンジョの者と云ってもやはり同じ流れであるが、後世ではその原義が忘れられて、或いは「算所の者」と書いて、占をしていたからの名だとか、或いは「産所の者」と書いて、昔は産の穢を忌んで、場末に産小屋を設ける習慣があったが、彼らはその穢れた場所に住みついたものだったからだとかの説をなすものも無いではなかった。
 落伍者はいつの時代にも生ずる。大正十二年の関東大震火災によって、一度に生じた多数の罹災者の中には、もしこれが古代に起ったのであったならば、おそらく多くの非人が生じたのであったに相違ない。徳川時代にも、落伍者が多く京都や、江戸、大坂等の、大都会に集まった。それを京都では、悲田院の長屋に収容して、その中で年寄と称する役員を置いて取り締らせたが、これをすべて非人と呼んでいた。もちろん彼らとて、無償で養ってもらったのではない。労働しうるものにはそれぞれ適当なる職を与えて、生活の道を講じさせたのであったが、それでもやはり彼らは非人と呼ばれていたのである。その職業の主なるものは、京都の町の警察事務、監獄事務で、そのほかに遊芸、雑工業、井戸掘り等にも従事した。昔の浮浪民と同じ道を歩んだのである。
 京都における悲田院の非人の数は年とともに段々増加して、当初の粟田口付近の一箇所のみに収容し難くなり、他に五箇所の収容所を設けて、いわゆる垣内かいとをなした。垣内かいととはもと村と云う程の義で、特にこの非人部落を呼ぶ場合にその称呼を用い、垣内の者などとも云った。大坂では天王寺村、そのほか千日前、鳶田、梅田等に非人小屋があり、また江戸では浅草と品川とに非人たまりがあって、善七、松右衛門の両名がいわゆる非人頭となり、エタ頭弾左衛門の下に属していた。そのほか奈良にも、また諸大藩の城下にも、同様の施設が少からず存在した。地方によって多少趣きを異にしていても、要するに落伍者の流れ行くところは古今その軌を一にしたもので、これみな昔の河原者、坂の者、散所の者に相当するのである。

 浮浪民が社寺或いは村落都邑に付属して、種々の職業に流れて行ったことは、既に簡単に概説したところであるが、その社寺に属するものとしては、京都東寺の掃除散所法師、同祇園感神院の犬神人いぬじにんすなわち弦召つるめそなどが有名である。
 東寺では、散所法師という名称のままで、寺の警固掃除の任に当っておった。彼らは京の信濃小路通猪熊の西に散所部落を成していたもので、東寺に付属して境内の掃除をする、或いは土木工事に従事する、警固の事に当るというような、種々の任務に服していた。その顛末は不幸にしてこれを明らかにする史料が不備であるが、祇園の犬神人の方は、この社が延暦寺に属していたが為に、その活躍も目立たしく、史料も比較的豊富に遺されている。よってここにややこれを詳説して、一般浮浪民の流れ行く道を具体的に示すの一例として提供したい。
 祇園社所属の犬神人は、いわゆる坂の者、すなわち清水坂の非人法師であった。彼らは時に犬法師とも呼ばれていたらしい。祇園は神社であると同時に寺であったから、神事にあずかる方から神人じにんと云い、本来非人法師であるが故に法師とも呼ばれたのであろう。彼らの職務はやはり警固が主で、門番をするが為にこれを犬にたとえて、犬神人とも犬法師とも云ったものと解する。たでに似て非なるものを犬蓼いぬたでというように、神人に似て非なる故に犬神人と云ったとの古い説があるが、これは妥当であるとは思われない。
 祇園社付属としての彼らの職務は、東寺の散所法師と同じように、境内の掃除、穢物の取り片付け、或いは警固、門番、土工等に従事し、特に祭礼の節には、行列の先頭に立って警戒をなし、時に或いは神輿をかつぐ等の事をなしたが、主として警察事務に従事したのであった。
 しかし彼らはこれらの表職のほかに、傍ら普通の非人の行くと同じく、種々の工業に従事している。すなわち弓を作る、矢を作る、弓弦ゆんづるを作る。或いは靴を作ったので、「祇園の靴作り」とも云われていた。伝教大師が支那から靴を作る法を伝えて、これを彼らに教えたと云われている。これはもとより信ずるに足りないとしても、彼らは一方で立派な家内工業者であったことは確かである。
 彼らはまた弓弦を行商する。弓弦は武士ばかりでなく、昔は普通の民家で綿を打ち和らげる為に使用し、その需要が多かったのである。その売声の「弦召し候らへ」と云うのが、ツルメソと聞えるので、それで彼らはツルメソと呼ばれていた。すなわち彼らは一方では行商人であったのだ。
 このツルメソのおった場所は、今の建仁寺の東の方で、その地を今に弓矢町と呼んでいる。これは彼らが自己の製作した弓矢等を、店に並べて売っていたからで、彼らは一方では店売商人であった。
 彼らが祇園祭の警固に出るには、甲冑に身を固めて太刀を帯し、武士が戦場に赴くが如き出で立ちをしたものと、一方には「六人の棒の衆」と称して、法衣類似の衣服を着て、頭をつつみ、六尺棒を持った法師姿のものとがあった。すなわち一方では武士の仲間であり、一方では依然非人法師の身分を保存していたのである。今日でも祇園祭の行列には、必ずこのツルメソの参加がなければならぬことになっている。これも時代によって段々風が変っているが、今日では甲冑を着した威風堂々たるものが、大道狭しと大手を振って、行列の先頭に立っている。もちろん昔の犬神人の子孫ではなく、普通の氏子の中から出るのであるが、やはり旧称を存してツルベサンと呼んでいる。
 祇園は叡山の末寺であった。したがって山法師出動の際には、ツルメソは常にその先棒となって、破却打壊しの任務に当っていた。彼らは山法師の使嗾しそうによって建仁寺を破壊した。仏光寺を破壊した。天龍寺を破壊した。法然上人の墓処を破却した。彼らは実に僧兵の下働きとして、暴力団の任務を行ったのであった。
 彼らはまた一方では、同時に乞児すなわちホカイビトの亜流であったらしい。祝言を述べて他を祝福し、米銭を貰うのはすなわちホカイビトで、坂の者の本来の所業であったが、犬神人の間には徳川時代になっても、なおその遺風が多少存して、正月元日の早朝には、禁裏御所の日華門前において、毘沙門経を読誦する例であった。毘沙門天は七福神の一つにも数えられた福神で、彼らが禁裏の御門に立ってこの毘沙門経を読誦することは、やはりいわゆるホカイビトたる非人法師の名残であったと解する。また彼らは正月に赤色の法衣を着、顔を白布で包んで目ばかりを出し、懸想文けそうぶみを売って歩く。今の辻占売のようなもので、それを買ったものはそれによって縁起を祝った。やはりもとホカイビトの所為である。
 ツルメソはまた、京都市内の葬式に干渉する特権を持っていた。南北朝時代にも、彼らを経ずして葬儀を営んだが為に、彼らから故障をつけられたという事実が、「祇園執行日記」に見えている。彼らはけだし京都市中を縄張りとして、その葬儀担当の権利を主張したものであったのだ。彼らは本来非人法師で、いわゆる三昧聖として、もとから葬儀に関係していたのであろうが、祇園の所属たるに及んで本寺たる叡山の威光を笠に、京都市中を縄張りと定めたものと解せられる。徳川時代になっても、彼らは折々市内の墓地を見て廻り、新しい墓の出来たのを発見すれば、たちまち寺院に故障を持ち込む。寺ではその煩を避けて、盆暮に寺相当の祝儀をツルメソに与えて、見のがしてもらう習慣になっていた。すなわち彼らはいわゆる「御坊おんぼう」であったのである。現存文献の伝うる限りでは、彼らが実際上に自身普通の葬式に干与したことは明らかでないけれども、或る特殊の葬式には、やはり後までも直接その事に与り、今以てその習慣が遺っている場合がある。すなわち先年の東本願寺光瑩上人の葬式の時に、六人の「宝来」と称する者の参加したのはこれである。彼らは赤い法服類似の衣を着、白布を以て頭をつつみ、樫の棒を持つ。これは昔祇園祭の警固に出た六人の棒の衆と全く同じものである。本願寺の伝えに依ると、昔親鸞聖人が越後に流されておられた時に、かねて聖人に帰依していた靴作りのツルメソが、越後まで度々来て京の消息を伝えてくれた。それを聖人が非常に喜ばれて、ツルメソが来るのを宝が来たように嬉しく思われたというので、それで彼らのことを宝来と云った。彼らも聖人の知遇に感じて、聖人の御葬式には荼毘の役をつとめ、爾来代々の法主の葬儀に参列する例になったというのである。けだし彼らは行商人として遠く越後までも行ったもので、聖人と或る関係を結んだということはあったであろうが、しかし事実は本願寺のみに限らず、仏光寺などでも同じ事であったという。もっとも先年の東本願寺の葬儀に出た宝来なるものは、無論昔のツルメソの子孫ではない。新聞の報ずるところによると、大阪の阿弥陀講中の人々がこれを勤めたと云うことであった。しかしその風態は、まさしく祇園祭に出た古い時代のツルメソ中の、六人の棒の衆と同様で、彼らで事実「御坊」として葬儀を扱った名残を止めていると云ってよい。
 要するに祇園所属のツルメソすなわち犬神人は、非人法師の一つたる清水坂の坂の者として、大体においてはあらゆる非人法師の歩んで行った路を歩んだもので、祇園所属として有力であったが為に、特に代表的に発達し、他の人々が次第に職業によって分れ行くところを、彼ら多くは兼ね有していたのであった。ただ彼らにおいて見ざるところは、遊芸の側の発達のみであるが、それも史料が遺っておらぬというだけで、事実はやはりこの方面にも関係していたものかもしれぬ。

 浮浪民たる非人法師の仲間には、それぞれ長たるものが出来てこれを統轄し、自然と不文律による自治制が行われていた。その長たる非人を長吏法師と云い、その下に属する平非人を小法師という。浮浪人の長の事は既に「霊異記」にも見えて、由来すこぶる久しく、彼らはそれぞれ縄張りを構えて、その縄張内の浮浪人を雑役に駆使し、調庸を徴乞したとある。すなわちその縄張内で生活の道を求めんとするものは、必ずその長に運上を納めなければならなかったのだ。同書に、神護景雲三年に京の或る優婆塞うばそくが、修行して加賀に托鉢していたところが、その処の浮浪の長たるものが、調を責めてこれを凌轢したが為に、現報を得て横死したという話がある。
 原則としては、浮浪民は無籍者として、国法以外に置かれたものであった。「江談抄」に、非人たる賀茂葵祭の放免ほうべんが、綾羅錦繍を身に纏うて衣服の制にもとるとの非難に対し、彼らは非人なるが故に、国法の関するところにあらずとの説明が与えられている。その代りに彼ら仲間の規律は極めて厳重で、いわゆる「仲間の法」による制裁はかなり峻烈に行われたものであった。前記加賀の浮浪人の長が、廻国の修行者に私刑を加えたとあるのはその一例である。また彼らは、仲間同士の階級意識もかなり濃厚であった、鴨長明の「発心集」に、京都清水坂の坂の者の事について、興味ある話が見えている。或る僧が途中に、坂の者すなわち清水坂の非人法師等の語りつつ行くを聞くに、近江はいみじき運者かな、坂の交りまだ三年にもならぬに、よい役をあてがわれたと云った。その僧これを聴いて、かかる賤しい非人の身分にも、やはり運がよいとか、悪いとか、出世するとか、せぬとか云うことがあり、またそれを羨み妬むなど云うことがあるのかと、大いに感じさせられたというのである。この話は、当時いわゆる非人法師等が、いかに世間から賤しめられ、度外視されていたかを示し、また彼らが諸国から流れて来て、長吏法師の手下に属して、次第にその数が殖えるに従って、その仲間のうちにそれぞれ階級が出来、一つの組織立った団体となって、役々によって統率せられていたことを示しているのである。ここに「近江」と呼ばれた男は、三年前に近江国から出て来たものらしく、それで近江と呼ばれていたと察せられる。彼らは諸国からの落伍者の集まりで、それぞれ郷国の名を以て呼ぶ例であった。寛元年間の清水坂と奈良坂との非人闘争に関する訴訟文書を見ると、中には法仏法師とか、阿弥陀法師とかいう類の、仏法臭い名のものもあるが、大抵は備中法師とか、土佐法師とか、近江法師、伊賀法師、摂津法師、越前法師、播磨法師、淡路法師、若狭法師などというように、国名を名乗ったり、或いは吉野法師とか、明石法師とかいうように、一地方の名を呼んで、彼らが諸国から集まった落伍者の群であることを示している。
 鎌倉時代には、京の清水坂の非人法師と、大和の奈良坂の非人法師とが最も勢力があった。その長吏は他の多くの非人部落の上にも勢力を及ぼして、大親分となっていた。清水坂の非人は祇園感神院に属し、奈良坂のは東大寺に属しておったから、ここにも南都北嶺争覇の影響が及んでいたものらしく、仁治、寛元年間に縄張争い等の事から軋轢を始めて、奈良坂の非人が清水坂の非人の或る者を味方につけ、清水坂を襲撃して、その長吏法師を殺したという事件が起った。そこで清水坂からそれを東大寺に訴え、奈良坂の方からこれを弁明した訴訟文書が遺っている。これを見ると、徳川時代における侠客間の、縄張争いの大喧嘩の如きものであった様子が知られる。
 これらの非人部落を普通に「宿しゅく」と云った。当時大和には五十七宿あって、それが奈良坂の長吏の下に属していたのであった。
 宿とはもと浮浪民の宿泊所ということで、それが非人部落の名称となったものらしい。古代にあっては、後世の如く旅宿の設備が整っておらぬ。公用を以て旅行するものは駅に宿し、身分のよい者ならば臨時に仮小屋を構えて宿泊する。普通の人は、知音を尋ね、或いは人の好意によって、宿を貸してもらう場合のほかは、いわゆる野臥山臥をしたものであった。もっともこの時代には、普通の人民が遠方に旅行をすると云うことは少く、長途の旅行を常に行うものは、大抵廻国の頭陀ずだか、浮浪民かで、いわゆる一処不住の旅芸人、或いは渡り職人、旅商人とか、乞食法師とかの類であったが、かかる類の者は、善根宿ぜんごんやどとして修行者を宿泊せしめる場合のほかは、普通の民家には宿泊を許さない。また彼らが旅稼ぎを為すには、既に述べた如く、所在の浮浪人の長、すなわちいわゆる長吏法師の縄張りを侵すものとして、まず以てその地の長吏に渉りをつけなければならぬ。すなわちその部落に足を留めて泊めてもらう。あたかも徳川時代に、博徒の親分というものが各々縄張りを定め、旅人たびにんと呼ばれる渡り博徒が、そこへ来て「草鞋わらじを脱ぐ」という有様であったに相違ない。すなわち浮浪民の宿所であるが故に、いつとはなしにその部落を「宿」と云うことになったのであろう。かくてその足を留めるものが段々増して、非人部落すなわち「宿」は次第に大きくなる。言うまでもなくその長吏法師は、その「宿の長者」なるもので、その下につく小法師等は、いわゆる「宿の者」である。その「宿」が発達して、一般旅人を宿泊せしめる「宿駅」となるものもあれば、「宿の遊君」を置いて婬蕩の方面に発展し、ついには遊女を以て宿の長者の名をもっぱらにせしめた場合もある。
 上方地方には、後世まで「シュク」と呼ばれた一種の賤者があった。文字には通例「夙」と書くが、もとはやはり「宿」と書いていた。これももとは上方には限らず、関東地方でも、九州地方でも、中国筋でも、奥州地方でも、また同様であって、今に村落都邑の場末に、よく単に「宿」とか、何宿とかいう地名のある所が多い。今では人家もなく、単に地籍名として遺っているのもあれば、立派に普通民の部落となっているものも少くないが、もとはけだし各地共通の意味があって、浮浪民の宿泊所たる非人部落があった所であるに相違ない。或いはそれを宿駅の「宿」と解する説もあり、事実それが街道筋の宿駅として発達しているのもあるが、その起原必ずしもそうでなく、また実地がそう街道筋であったとは思われないものが多い。
 大和河内地方のいわゆる「宿」については、前述の如く、普通に「守戸しゅこ」の訛りだと説明せられ、その陵墓のない地方のシュクについては、その名が他の同じ階級の賤者に及んだのであろうと説明されていた。多数のいわゆるシュクの中には、或いはかかる起原のものがないとも限らぬ。しかし一般的にいわゆる「宿の者」が守戸からのみ起り、或いはその名称が他の同じ階級のものに及んだとは考えられぬ。たまたま「守戸」の名が「宿」に似ているので、その徒をもシュクと呼ぶに至ったのがあったとしても、それはむしろ例外であろう。しかるに上方のいわゆるシュクの徒の中には、世間から軽侮忌避さるるに対する自衛上の努力から、種々の起原説を唱えているものもある。その中には非常な富豪もあって、徳川時代に知名の学者に依頼したり、或いは京の公家衆に因縁を求めたりして、都合のよい説を宣伝した。シュクは光仁天皇の皇子春日王の後だなどとも云っている。春日王は癩病になられたがために、奈良坂に隠棲し給い、その子の弓削浄人がこれを孝養するについて、朝はやく起きて市中に花売をした。それで市人が弓削夙人はやびとと云った。それが「しゅく」の元祖であるなどという。或いは自分らは野見宿禰の率いた土師部の子孫である。土師部の首領たる土師連家は早く足を洗って、菅原、大江、秋篠等の学者の家になり、菅原道真というような大人物もその家から出たが、相変らず葬儀に関係して、いわゆる「御坊」をやっていた部下の土師部の子孫等は、取り遺されて遂にシュクと云われたのであるという。或いは夙の先祖は高貴の葬儀の際における殉死者で、その実殉死したと見せかけて墳墓から逃れさせてもらった代りに、永久日蔭者となって葬儀に関するものになったのだなどとも云っている。要するにみな後世の付会たるにほかならぬ。
 しからばすなわち「宿」は非人部落の通称と云ってもしかるべきもので、それがその執る職業によって、他の名称を以て呼ばれたり、或いはもとの名が忘れられたりして、特に上方地方にのみ、主としてその名称が遺ったものと解せられる。彼らは他の非人の行ったと同じ道を行って、種々雑多の職務に従事した。葬儀に与っては「御坊」と呼ばれ、遊芸に「宿猿楽」の名もある。警察事務またその重要なるものの一つであった。これに関して最も正確な証拠文書を伝えているのは兵庫の「宿の者」である。兵庫には今も宿の八幡という神社があって、そこに昔は宿の者の部落があった。彼らは兵庫の津に付属して、地方の警察事務に従事していたのである。これに対して慶長十七年に、大坂の奉行片桐且元から、その報酬すなわち扶持を規定した文書を与えられている。これによると、兵庫の宿の住民は、平素宿の者を煩わすことが多いので、これに対して相当の報酬を与うべきものであった。すなわち兵庫の津からは、毎年盆に二貫文、暮に五貫文の銭を宿の者に与える。田地持は田畠大小にかかわらず稲一把ずつを与える。湯屋、風呂屋、傾城屋は、特別に人の出入りがあって、宿の者を煩わすことがことに多いので、盆暮に二百文ずつを与える。或いは富有の者からは、祝儀不祝儀の際に、二百文ずつを与える。また宿の者が罪人を捕えた場合には、肌付きの着物は宿に与える。かように宿の者の警察事務担当に対する報酬が、文書を以て規定されているのである。つまり「宿の者」というのは、或る村或る町に付属し、長吏支配の下にあるその町の常雇の警察吏というべきものであった。ことに人だかりの多い場所には、必ず宿の者が警固する。それ故に人だかりのする営業者や、或いは富有なるものの祝儀不祝儀の際などに、宿の者に一定の金を与えるのは、つまりこれに対する報酬で、彼らは権利としてこれを要求することを認められていたのである。
 これを要するに長吏法師は非人部落の長たるもので、小法師なる平非人は、その配下に属して雑多の職務に従事したのであった。しかるに後世にはこの名称や関係が忘れられ、長吏の名は普通にエタと呼ばれた或る一部族にのみ残り、小法師の名は、禁裏御所の御掃除人や、江戸の筆屋の屋号などに残るのみとなった。しからばエタとはいかなるものか。

 徳川時代も中頃以後には、社会から賤視せられた階級のものが、種々の流れに分れていたが中にも、特にその身が穢れたものとして、一般社会から接触交際を厳重に忌避せられ、したがって普通には最も賤しきものとしてられていた一部族があった。いわゆるエタである。関東地方や九州地方には、これを長吏或いは長吏ん坊などと呼んだ所もある。彼らはもと屠殺製革の業に従事したもので、それで学者の筆にした場合には、普通にこれを「屠者」と書き、通俗には皮太、皮屋、皮坊、訛ってカンボウなどと呼んでいたが、或いは山の者、谷の者、島の者などと、その居所によって名に呼んだ所もあり、或いはこれを御坊、番太、ホイトなどと混同して呼んだ地方もある。
 しかしながらつらつらその名称の沿革を尋ねてみると、エタと称せられたものの含む範囲は、時代によって一様ではなかった。
 徳川時代の賤者に関する法令の文には、普通に穢多非人の称を用いて、その間に或る区別の存在が認められていた。
 エタはすなわち屠殺業者皮革業者で、職業上当時の迷信から、その身に穢れ多しと認められたから、これを文字通りにもっぱら「穢多」と称し、その以外のものを総称して「非人」と云ったものと解せられる。しかしそのほかに、エタともつかず非人ともつかぬもの、すなわちエタに類するもの、非人に類するものが、また多かった筈である。例えばかの御坊(俗に隠亡、穏亡、※(「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59)坊などとも書く)の一類、すなわち上方地方の宿(夙)、山陰道筋の鉢屋はちや、山陽道筋の茶筅ちゃせん、北陸道筋のトウナイなどと呼ばれた人々の如きは、もと葬儀にあずかり、屍体の穢れに触れるので、やはりその身が穢れていると思われてはいたが、普通には皮太すなわちエタ程には世間からは忌避されず、さりとていわゆる非人とも違っていた。また乞胸ごうむねの名を以て呼ばれた大道芸人、縁日芸人、或いは猿引すなわち猿舞わしの如く、町家に住居して遊芸の生活をするものは、また非人小屋、非人溜りにいる非人とは別であった。
 しかもこれをその本源に遡って考えたならば、エタも非人も実はもと一つの流れのもので、徳川時代の初頃までは、すべてを通じてエタとも非人とも呼び、その間に名称上の区別がなかったのである。しかるにそのる職業の性質によって、世間のこれを見るところに段々と相違が出来、幕府の法令の如きも、関東のエタ頭弾左衛門の家法によって、ついにエタと非人との区別を立てたのであった。
 彼らはもと通じて河原の者であり、坂の者であり、散所の者であった。それは後までも往々名称の上に残っている。かの河原者と云えば遊芸者のこと、坂の者すなわちサンカモノと云えば浮浪民の名称だと心得られていたのは、彼らがもと河原者、坂の者の流れであったことを伝えたのである。されば徳川時代もまだ寛水の頃までは、エタと非人との間にそうハッキリした区別はなく、通じては三家者さんかものとも云ったのであった。袋中和尚の「※(「さんずい+亘」、第3水準1-86-69)ないおんみち」には、いわゆるエタも非人も、獣医すなわち伯楽も、関守、渡し守、弦差つるさしすなわち犬神人つるめそなどの徒をも、みな一緒にして三家者と云っているのである。袋中は戦国時代に生れ、寛永年間九十三歳で死んだ人で、彼の目にはまだエタ非人の間に判然たる区別はなかったのであった。
 さらに遡って室町時代の「※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢抄あいのうしょう」には、「河原者をエツタといふ」とある。また鎌倉時代の「塵袋」には、「キヨメをエタといふ」ともある。キヨメは文字に「浄人」と書き、やはり河原者の仲間で、「延喜式」にいわゆる濫僧の徒である。それを或る場合には、通じてキヨメとも云ったのであった。「今物語」に、或る五位の蔵人が、革堂こうどう窈窕ようちょうたる佳人を見てそれに懸想し、そのあとをつけて行ったところが、一条河原の浄人きよめの小屋に這入ったという話がある。かの女はすなわち河原者の娘であったのだ。「塵袋」には、そのキヨメの事を一に「濫僧」と書いて、「ロウソウ」と云うとある。この場合濫僧すなわちエタであったのだ。そのほか漁師狩人など、殺生肉食を常習とするものをも、鎌倉時代には一般にエタの仲間に入れておった。前に引いた如く、かの日蓮聖人は房州小湊の漁師の子であったというので、自ら「旃陀羅せんだらの子」すなわち「エタの子」であると云っている。それで「大日本史」などには、日蓮は屠者の子なりと書いてあるが、決していわゆる屠者の家より出たのではない。しかし既にその父が漁夫で、殺生者である以上、厳格に云えばやはり屠者の仲間で、すなわち非人であるから、普通の人間ではない、畜生であるという解釈によって、「畜生の身なり」とも、また「身は人身にして畜身なり」とも云っているのである。
 かくエタという名称は、鎌倉時代以来甚だ広い範囲に渉って用いられ、非人との間にあえて区別を認められなかったのであったが、さらに遡ってその語本来の意義を尋ねれば、決してそんなものではない。
 そもそもエタという名称の、最も早く物に見えているのは、自分の見た限りでは、前引鎌倉時代の「塵袋」である。この書には「穢れ多し」と書いて、「エタ」と読ませている。しかもそのエタと云う語の本来の意味を説明して、「餌取えとり」ということだと云っているのである。エトリが訛ってエタとなったというのである。
 餌取とは、鷹や犬に食わせる餌を取るを職とするもので、徳川時代の餌差えさしというに同じい。昔は高貴の御鷹狩を催される為に主鷹司たかづかさという役所があり、餌取はその主鷹司に付いている雑戸の類であった。天皇以外貴紳の徒も鷹を使って、三位以上は餌取を二人、四位以下は一人を抱えていたとある。そして餌取の扱う鷹や犬の餌すなわち食料には、通例死牛馬の肉を用いる。したがって餌取は平素死牛馬を屠るの屠者で、職業上常に獣肉を扱い、これが為に一般世間が肉食を忌み、特に牛馬の肉を一切喰わなくなった後にまでも、彼らは相変らず古来の習慣のままに、肉食の俗を有しておった。それ故に仏法者の方ではこれを排斥して、天竺の旃陀羅に比し、甚だしくこれを憎んだものであった。
 無論餌取以外にも、殺生肉食を常習とする屠者はある。しかもこれらはやはり餌取同様、仏法の方から云えば、悪業を為す悪人仲間である。したがって都人に耳近い餌取の称を一般屠者に及ぼして、「屠者」または「屠児」と書いてエトリと読ませる例であった。その中でも特に死牛馬を屠る習慣を有するものを、最もひどく排斥し、この思想は鎌倉時代から室町時代に至って一層ひどくなったものらしく、「塵袋」や「※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢抄」には、これを悪人と云い、「空華日工集」には、「人中最下之種」などとひどい事を書いてある。
 かくて遂には自身屠殺を業とせずとも、肉食妻帯を常習とするいわゆる濫僧の徒をも、餌取法師というようになった。
 濫僧と屠者とはもと区別があり、「延喜式」には、明らかに「濫僧屠者」と連記して、両者を別々に見ておった。濫僧も屠者も共にいわゆる河原者で、京都では下賀茂すなわち賀茂御祖神社付近の河原に多く住んでいた。また同じ頃の三善清行が、この濫僧の徒を評して、「形は沙門の如く、心は屠児に似たり」とあるのも、濫僧と屠者とは、同じ賤者ではあるが、その間区別のあるものだと見た証拠である。しかるにそれが後には一つものに見られることになった。つまり屠者も、濫僧も、同じく当時穢れとした肉食の徒であって、事実上だんだん区別がなくなったのだ。その日その日の生活に追われているような下層の落伍者は、肉を食わないなどとそんな贅沢は言っておられぬ。ことに古来肉食の習慣が根強く存していた我が国において、相変らず肉食が一方では行われたに不思議はない。かくてその徒のすべてが餌取すなわち屠者と同一視せられ、それが訛ってエタと言われるようになったのであった。しかもその中で、徳川時代に至っては、現に死牛馬を屠り、皮革を製造していたもののみが、特に「エタ」と呼ばれるようになり、他のものは普通に「非人」として、その間に区別が認められるようになったのである。そして一旦「エタ」として認められたものは、後に屠殺業をやめて純農民に変っても、相変らずその素性を賤しまれて、容易に「エタ」仲間から脱出することが許されなかったのであった。

 大宝令の規定するところ、賤民の主たる家人奴婢の徒が特に賤民として差別されたのは、階級意識の濃厚な時代における、社会の秩序維持の犠牲となったものであったが、特にこれらとは種類の違った陵戸が、雑戸の中から抽出されて、賤民の一つとして数えられたのが、触穢の思想の結果であったことは、既に述べた通りである。そして平安朝以後における新賤民が、ことに社会から隔離忌避されるに至ったのは、やはりこの触穢禁忌の思想の、一層濃厚になった為である。
 触穢の禁忌とは、我が神明甚だしく穢れを忌み給うが故に、これに触れたものは神に近づくべからずとの思想で、その穢れという中にも、中世には肉食が最も重いものとなっていたのである。
 我が国は本来そう肉食を忌まぬ国であった。奈良朝頃までは豚までも飼って食用に供したのであった。したがって神にも生贄として獣類を供え、上は一天万乗の天皇を始め奉り、下は一般庶民に至るまで、みな一様に肉を食したのである。したがってこの時代には、無論肉食を以て穢れとするような思想があった筈はない。しかるに仏法が広まってより以来、殺生を禁ずるという意味から、肉食は段々と排斥せられる事になった。既に天武天皇の御代から、動物の内でも牛馬犬猿鶏の五畜に限って、その肉を喰うことを禁止せられた。牛馬はもちろん人に飼われて、耕作運搬等の人助けをする。鶏は時を告げ、卵子を与える。犬は夜を守り、猟の手伝いをする。また猿は人間に一番近い動物であるから、人情上殺して喰うには忍びないという意味である。さればこれは単に肉食の禁というのとは意味が違う。しかるに後には段々それがひどくなって来て、我が神明穢れを忌み給うという思想に付会して、肉食は血なまぐさく、神がその穢れを嫌ってこれを近づけないという事になって来た。しかもなお同じ肉食殺生といっても、相手によってその罪に軽重があるとされていた。獣類を殺し、その肉を喰うことは、鳥類魚類を殺してこれを喰うよりも罪が深い。鳥類を殺し、その内を喰うことは、魚類を殺してこれを喰うよりも罪が深い。これは人情から出発したもので、獣類や鳥類は、いかにも殺されるのを恐れて、明らかに苦しがる事がよく人の目にも見られるが、魚類はそれ程でない。そこで同じ殺生と云っても、魚類は一番罪が軽く、獣類は一番重い。中にも人間に親しいものとか、近いものとかは最も罪が重いわけである。したがって、肉食を忌むようになっても、魚肉を食うことはそれ程ではない。鳥類も或る程度までは許されたが、獣類すなわち四ツ足に至っては、絶対に禁ぜられた。中にも牛馬の如きは、もはや議論の外であった。もちろん魚類といえども、それも殺生せぬ方がよい。そこで持統天皇の時から、或る特別の場合には、場所と時とを限って魚を獲ることを禁ぜられた事もあった。奈良朝に至っては、放生を以て大なる功徳の行為となし、捕えたり飼ったりした生き物を放つ。聖武天皇の御代には、豚までも山に放たしめた事があった。
 肉食を忌む思想の由来はかなり古い。既に大宝の「神祇令」に、祭祀に当って神官は肉食を遠慮すべき事が規定されている。生贄を神祇に供し、神官はこれを屠るが故に「ハフリ」と呼ばれた時代にあって、神官自身これを喰うを忌むという理由はない。神道で肉食を忌むことは、無論仏教の影響の、神祇の上に及んだ結果に相違ない。しかもその殺生肉食禁忌の思想は、次第に濃厚になり、神は殺生を忌む、特に肉食の穢れを非常に嫌うという思想が、一般国民を支配する事になって来て、「延喜式」では、神祇にあずかる官人は平素でも肉を喰ってはならぬとある。まだその頃までは、祭祀関係者以外のものは平素はそれを忌まず、天皇の供御にも、明らかに猪鹿の肉を奉った事が「延喜式」に見えているが、爾後百六七十年も経った大江匡房の頃には、猪鹿の肉を喰ったものは、三日間宮中へ上ることすらも出来ないという習慣になっていたことが、「江談抄」に見えている。無論肉食の輩は神社に参詣することが出来ない。牛馬の肉はもちろんのこと、普通に食用獣として、その名までが「しし」(宍)、すなわち「肉」とまで、俗に呼ばれるようになっているところの、鹿や猪などの肉を喰っても、それから数日間は遠慮しなければならぬ。その日数は神社によって相違があって、石清水八幡宮がことに甚だしく、春日神社・稲荷神社・賀茂神社など、またいずれも厳重にこれを禁じていた。それも時代によって相違があり、鎌倉時代の習慣と思われる諸社禁忌の記するところによると、八幡宮は百日、春日や稲荷は七十日、賀茂・松尾・平野等は三十日とある。また八幡宮では、魚食のものでも三日間の禁忌とある。かくて肉食の徒は神罰を蒙るが為に、「しし喰った報い」という俗諺までが出来た。しかもなお神社によっては、後までも古風を伝え、信州の諏訪、摂津の西の宮、肥後の阿蘇、下野の二荒ふたらなどでは、祭の日にわざわざ御狩と称して、猪鹿を狩ってそれを生贄に祭ったという事もないではなかった。
 肉食の穢れはひとり肉食者のみに存するのではない。自身肉を喰わずとも、その穢あるものと「合火あいび」したもの、すなわち会食したものにも穢が及ぶ。八幡宮では、猪鹿の肉を喰ったものと合火すれば三十日間参詣を禁ずる例であった。さらに「又合火またあいび」とて、合火したものと合火しても、三日間遠慮しなければならなかった。もちろん穢れたものと同席してはならぬ。穢れた家に這入ってもたちまち穢がその身に及ぶ。穢れたものが這入って来れば、その這入られた家のもの全体が穢れる。殺生肉食者は、神に近づくことが出来ぬのみならず、一切他家と出入りすることをも忌避されたのであった。かくの如き次第で、殺生肉食常習者は、次第に社交圏外に置かれ、普通民からは相手にされなくなる。餌取えとりすなわち屠者の如き肉食殺生常習者が、次第に人間仲間に置かれなくなったのも実際やむをえなかった。たまたまエトリという語が訛ってエタと呼ばれるようになったので、彼らは「穢れの多い身」だという訳から、都合のよい「穢多」という文字をこれに当てることになり、全く社会外の非人として認められることとなったのであった。
 かく仏法では殺生肉食を悪事とし、神道の方でもこれを非常なる穢として排斥したが、しかし屠殺業も、皮革業も、社会にとっては必要な職業である。何人かがこれに従事せねばならぬ。ことにその日その日の生活に困るような社会の落伍者たる人々が、かくの如き職をも厭わずこれを行い、したがって古来の習慣のままに肉食の風習を伝えていることは、いかに一方で排斥されても実際やむをえぬ次第であった。
 仏法は本来衆生済度の宗旨である。したがって肉食者なりとてこれを疎外する筈はなく、ひとしく慈悲の手をこれに加えて、これを善導することに怠らなかった筈ではあるが、しかし既に貴族的になってしまった天台宗や真言宗の如き旧仏教では、いつしかこれを顧る程の親切がなく、穢を忌んだ結果として、自然彼らを疎外することになってしまった。もっともこれらの戒律を重んずる宗旨では、自己の戒行を保つ上において、これらの徒に近づくことを避ける事も実際やむをえなかったであろう。かくて比叡山では、穢者の登山をまでも禁じておった。また高野山では、今でも山内諸院の門に、往々「汚穢不浄の輩入るべからず」という禁止の制札をさえ見る程である。比叡山では、昔は山の登り口に、女人禁制、三病者禁制、細工の者禁制の制札があったという。ここに細工の者とは、いわゆるエタの事である。彼らの中には、竹細工や、革細工や、草履・武具・筆墨等、各種の家内工業に従事するものが多かったので、一つに「細工の者」とも云われていた。かかる有様であったから、僧侶は自身肉食妻帯が出来なかったのみならず、屠者に近づくことも出来なかった。したがって、「家に妻子を蓄え口に※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさを喰う」と言われ、「形は沙門の如く心は屠児の如し」と言われた濫僧ろうそう、すなわち河原の者、坂の者、散所の者等は、自然仏縁に遠いものとならざるをえぬ。彼らは自身法師であっても、如法の僧徒の方からは、下司げす法師である、非人法師である、餌取法師であるとして、仲間に入れられなかったのである。
 旧仏教者がいかに屠者の輩を忌避したかについて、こういう事実がある。阿波の国では、室町時代の末から戦国時代にかけて、三好氏が勢力を有していたが、当時エタの事を「青屋」と云って、真言寺の方では甚だしくこれを排斥したものであった。青屋はすなわち藍染屋で、それがエタの種類であると云うことは、京都などでは余程後までも云っていた事で、徳川時代正徳の頃までも、藍染屋は役人村と云われたエタ部落の人々とともに、二条城の掃除や、牢番、首斬り、磔などの監獄事務を掌っていたので知られるが、その青屋を、勝瑞城下にある真言宗の堅久寺が檀家にしたので、同じ城下なる同宗の他の六ヶ寺から絶交を申し込まれ、堅久寺もやむなくこれを離檀して詫言をしたという事が、「三好記」に見えている。この書の著者は非常なるエタ嫌いで、同書にはいろいろと青屋すなわちエタの悪口を云っている。「青屋と申す者は化者ばけものにて候を、年寄より外存ぜず候。人間は生れぬ先の事は正しく存ぜず候故に、化けて人交り仕り候」とか、「エツタ交りする者は必らず滅び候と申して、堅くあらため申候。エツタ交りして家の滅びたるもの如何程も御座候」とか云っている。そしてその滅びたる証拠としては、三好長春(治)は青屋四郎兵衛の子の大太夫を小姓に使ったが為に滅んだのだとか、長春の小姓の山井図書は大酒飲みであったが、青屋にかたぎぬ着せたが為に乱心したとか、たたつ修理という侍は、青屋太郎右衛門の娘を息子の嫁に取ったところが間もなく死んだとか、そんな事をまで書いているのである。これ程にまで旧仏教の方では穢れを嫌い屠者の徒を忌んだのであった。

 既に述べた如く、エタという名称はもとその含む範囲が甚だ広く、ことに鎌倉時代には、殺生肉食の常習者として漁師の徒までもその仲間に看做し、漁家の出たる日蓮聖人が、自ら施陀羅の子である、畜生の身であると言われた程であった。その広い意味のエタの中にも、現に死牛馬を屠り、皮革を製するものをのみ、特に後世エタと呼ぶに至った事も、また既に述べたところであるが、この狭い意味のエタの事を、或いはチョウリとか、チョウリンボウとか云った地方がある。長吏または長吏坊の意で、すなわちいわゆる長吏法師である。
 非人部落の長なるものは、往々特権として己が縄張内に生じた死牛馬処理の業を独占し、皮革を製造して、利益を壟断したのであった。もちろんあらゆる長吏法師が、ことごとく皮革業者となった訳ではない。後世シュクとか、御坊おんぼとか云われた人達の中にも、やはり長吏はあったけれども、死牛馬を扱わなかったものは、後世いわゆるエタとはならなかったのである。
 非人部落の長吏は、前引兵庫のシュクの場合と同じく、村落都邑に付属し、部下を率いてその村方町方を警固し、その報酬として一定の俸給を貰う。農村であれば出来秋に稲を貰う。普通は一反について稲一把ずつという例であった。また祭礼とか、正月とか、盆とか、節季とかいう紋日にも、餅やその他の物を貰う。彼らはもと法師仲間であるが故に、それぞれ受持ちの檀家というものがある。いわゆる檀那である。檀那とは仏法の方の言葉で、施主のことをいう。寺の住職は檀那の家すなわち檀家から、布施を受けてその家の仏事を受け持つ。餌取法師もまた寺に檀家があると同様に、それぞれ檀那を受け持って、その受持ちの家に事件があれば、早速駆けつけて面倒を見る。そのためにその家からは特別に貰いが多い。後世では通例これを「持ち」と云う。彼らはその村落都邑の警固掃除等の任務を負担するとともに、特にその「持ち」の家に専属する形になっている。すなわちその村落都邑の住民を分担しているのであった。そしてその報酬として、相当の俸給を受けたのであった。
 その以外にも、彼らは種々の特権をもっておった。そこに市が立つ、或いは勧進興行があるなどの場合には、彼らは秩序維持の任に当る。したがって市の店主たなぬしからは店銭たなせんと称し、また興行の勧進元からは櫓銭やぐらせんと称して、相当の報酬を取る。あたかも博徒がテラ銭を取る、顔役が祝儀を受けるというのと同じ様子のものであった。特にまた関東のエタ頭弾左衛門は、関八州の灯心の専売権を有して、非常に富裕であったという。その他地方によっていろいろの特権が認められたのであった。もちろんその配下のものが、一方では家内工業に従事して、細工の者とも呼ばれ、また各種の遊芸をなしてホカイビトの仲間ともなり、多くの遊芸人がこの中から出ていることの如きに至っては、他の非人部落とそう区別はなかったのである。そしてこの死牛馬を処理するの特権を有する長吏の配下のもののみが、後には特にエタとして忌避されたと同時に、長吏の名称をその部族全体に及ぼして、他の非人の上位にいるとして主張したのであった。
 いわゆるエタが長吏として、他のさがり者といわれた雑工業者や、遊芸者たる非人の徒を支配するの権利を有すと主張したことについては、種々の事例を遺している。これはこれらの徒がもと非人法師の仲間であって、長吏はその首領であったが為であるにほかならぬ。
 もともと雑工業者は、上古から雑戸として、卑品と認められていたのであったが、平安朝以来いわゆる非人法師が輩出したについて、彼らの徒の中には自然この卑職に流れたものが多かった。したがって雑工業者の徒のうちには、室町時代に至るまでも、相変らず法師姿でいたものが多い。「七十一番職人歌合せ」の絵を見ると、筆結ふでゆい弦売つるうり轆轤師ろくろし・饅頭売・賽磨さいとぎよろい細工・草履作・足駄作・唐紙師・箔打・鏡とぎ・玉すり硯士すずりし・鞍細工・葛籠作つづらつくり箙細工えびらつくり・枕売・仏師・経師・塗師の助手・硫黄・箒売・一服一銭・煎じ物売など、さがり者と云われた諸職人・諸行商人は、多く法師姿である。その他既に俗体になっているもののうちにも、同じ流れのもの多かるべきは云うまでもない。渡守・関守・山番・野番・水番などにも、同じ流れの者が多く、長吏は、それらをもみなエタ支配の下にいると主張していたのであった。
 遊芸者の仲間も多くはまた同様で、千秋万歳法師・田楽法師・猿楽法師など、もとはその名の如く法師であり、虚無僧の如きも、やはり尺八を吹く遊芸僧であった。それで長史は、この流れの遊芸者をもやはり自己支配の下にいると主張しておった。
 死牛馬を屠り皮革を製する皮太かわたの徒は、後世穢れ多しの意味でエタの中のエタとせられ、「穢多」という忌まわしい名を専有せしめられたのであったが、しかもそれは実に非人中の長吏の専職となっていたのである。本来は皮革業必ずしも長吏なる者の職ではない。もとはいわゆる屠者えとりの職で、非人法師たる濫僧とは別であったが、それが利益の多いものであったが為に、自然長吏法師等が自己の特権として、死牛馬を扱う権利を壟断し、部下を役して皮革業を独占したものと解せられる。日本は農国で、耕作運搬の為め牛馬が多い。また公家の牛車の牽き牛もあり、また武士の世には騎乗用の馬も多かった。そしてその牛馬の死んだ時に、それが人生に必要な皮革を供給すべき有用なものであっても、普通民は、穢れを恐れるが故に、自身これを扱うことが出来ぬ。そこで自然それは非人の業となり、彼らはこれを屠ってその皮を剥ぎ、皮革を製し、肉を喰う。この有利なる事業がいつしか長吏の壟断するところとなり、その「持ち」すなわち縄張り内に生じた死牛馬を独占して、同じ非人仲間のものでも、他の者には手を触れさせぬ。農家にしても、或いは武家にしても、牛馬が死ねば必ずこれを長吏に下付する。かつては農家ではその所置に困って、一定の捨場に放棄し、いわゆる牛捨場・馬捨場なるものが所々にあったが、その捨場の権利を長吏が壟断し、これが彼らの大きな財産となって、これを高価に売買し、また質権の目的物としたものであった。
 かくの如く、いわゆるさがり者の職業も次第に分業になって、警察事務に従事する非人の長吏が、必ずしも皮革業者とは限らなかったが、皮革業は或る長吏の壟断するところとなって、自ら同じ非人の流れの中にも、穢れの多いものと、しからざるものとの二つに分れて行った。皮革業者たる長吏は、部下を率いて一方では相変らず村落都邑の警察事務に従事しながら、一方では皮革を扱うが故に、その利益は甚だ多かったが、これが為にまた自然に、普通民からは穢れを恐れて疎外さるることを免れなかった。かくて徳川時代になっては、一方ではエタ、非人の人口が非常に殖えて来たし、一方では国家の秩序も段々立って来たので、従来は彼らはいわゆる非人として、国家はこれを国民の外に置き、国法ではこれを顧みずして、一に彼らの自治に委しておいたものも、もはやそれを長く放任することが出来なくなったので、種々取締法を講ずるに当って、ここに「穢多」・「非人」という区別が、次第に判然と出来て来たのである。すなわちもとは同じ流れの非人の中から、「穢多」という一部族が区別されて、特別に身体が穢れていると認められるようになったのである。
 エタは自ら他の非人よりも地位が高いと主張する。他の非人等は、エタの下に置かれていることを潔しとせずして、しばしばその間に悶着を起す。しかもその訴訟は大抵エタの方が勝ちになっている。彼らの祖先がもと長吏法師であり、またはその部下であった為でもあろうが、実は関東においてエタ頭として認められた弾左衛門が、種々の証拠書類を持っておった為でもあった。弾左衛門は浅草に住し、頼朝公のお墨付というものを持ち伝え、徳川幕府ではこれを認めて、彼を関八州から、甲斐、駿河・伊豆及び奥州地方十二ヶ国のエタ頭とし、エタ非人を総轄せしめたのであった。彼の祖先はもと鎌倉におって、鶴ヶ岡八幡宮に属して警固掃除等の役をつとめた事、なお京都祇園の犬神人つるめそのような関係のものであったらしい。したがって頼朝公のお墨付というものを伝えて、徳川家康江戸入府の際にも、その由来を申し立てて、エタ非人の頭たることを認められたのであった。そのいわゆる頼朝公のお墨付なるものによると、座頭ざとう・舞々・猿楽・陰陽師以下、いわゆる二十八座の遊芸者・工業者等は、みな長吏支配の下に置くということになっている。これは奈良の唱門師が、いわゆる七道の者を進退したと同様で、いわゆる長吏法師なるものが、非人を取り締るは普通のことであったのだから、必ずしも弾左衛門のみの特権とは限った訳ではないが、彼が頼朝公のお墨付というものを持っていたが為に、特にその権利が江戸時代に認められたのであった。そして彼は、長吏として皮革業に従事していたが為に、非人の中でもいわゆるエタとして認められ、一般に長吏すなわちエタ、エタすなわち長吏であるとして、いわゆるチョウリンボウなる言葉が普通にエタに対して用いられるようになったと思われる。
 この文書は無論真っ赤な偽物である。偽物ではあるが、大体弾左衛門がそんな偽物を以てその権利を主張したということは、もともと長吏なるものが、他の非人を支配の下に置いたものであることを示している。その数もと二十八座とあるが、後には段々と増して四十余となり、湯屋・風呂屋・傾城屋等も、みなその中に加えられることになっているのである。
 この書類に基づいて弾左衛門はその支配権を主張し、しばしば種々の問題を惹起した。宝永年間房州で歌舞伎芝居興行の節、弾左衛門手下のものが、舞台に乱入して役者を脅迫した。弾左衛門の方では、芝居者はやはりエタ支配の下にいるとの見解によって、渉りを付けなかったのを咎めたのである。しかるに役者の方ではそれを承認しない。遂に訴訟になって、初めは弾左衛門の方が有利であったが、弾左衛門の方で提出した例の頼朝公のお墨付には、確かにそれに当てはまるべき名目がない。役者の方では「雍州府志」を証拠として、芝居なるものは八十年ばかり前に、京都の四条河原に始まったもの、歌舞伎も慶長年間に、出雲のお国が始めたもの、浄瑠璃も治郎兵衛というものが始めたので、いずれも新しいものである。無論頼朝公の時分には無かったものだ。それを頼朝公が長吏支配の下に付けられる理由がないという。その主張が通って、この訴訟は遂に弾左衛門の敗けとなった。
 また同じ頃に能役者金剛大夫が、江戸で勧進能を興行した事があった。この時も弾左衛門から苦情が出て、その手下が五十人ばかり舞台へ乱入した。この問題は例の頼朝公のお墨付に猿楽という名目があるのが証拠になって、弾左衛門の方が有利に認められ、酒井讃岐守の仲裁で無事に治まったと云うことである。
 座頭との間の面倒な問題もこの頃に起った。いわゆる当道・盲僧の輩である。盲僧たる琵琶法師の徒は、常に高く自ら標持して、舞々・猿楽の如き賤しき筋目の者とは同席せぬとまで威張っていたものであった。しかるにこの頃検校の僧官を有する座頭が江戸に下ったところが、弾左衛門は例の文書によって、エタ支配の下にいるべき筈だと主張した。これは座頭にとって思いもよらぬ難題であるが、形勢不利とみて、京へ夜逃げして帰ってしまったとある。このほかにもエタ、非人の身分上下の争いは、度々所々で起ったが、大抵はエタの勝ちとなっている。すなわち彼らの長吏たることが認められたのである。
 要するにエタは世間から穢れ多いものとして、ひどく忌避されたけれども、身分は他の非人の上に立って、これを支配する長吏だという事が認められていたのであった。

 非人の職業の中でも重要なるものの一つは、葬儀に関したものであった。そして主としてこれに関する者を、俗に「オンボ」と呼びならわしている。すなわち「御坊」の義である。御坊とはもと非人法師に対する敬称で、「御坊様」という事にほかならぬが、後にはその法師たることが忘れられて、穏亡或いは隠亡、※(「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59)房・煙亡・煙坊などの文字を当てている。いわゆる三昧聖さんまいひじりである。地方によってはそれをハチとも、またハチヤともいう。土師の義である。
 我が古代における葬儀のことは、土師部はじべつかさどるところであった。葬儀は穢に触れるものとして、その専業者は自然他から卑しく視られるのはやむをえなかった。土師部はいずれ社会の落伍者として、農民すなわち公民となるの機会を失い、雑戸の徒として土器を焼き、兼ねて葬式を扱う家柄となったものであったと解せられる。その土師部の末がそのままに、上方かみがた地方のいわゆるシュクの或る者の主張する如く、後世のシュクになってその祖業を継承しているものもないと言われぬが、いわゆる御坊はその名の如く、三昧聖と云われた下級法師で、非人法師の仲間である。ただその執る職が昔の土師の職であったが為に、他からハチまたはハチヤなどと称して、これを賤視することになったにほかならぬ。
 古代の土師部が他から軽侮されたのは、彼らがもと公民でなく、土器作りの雑戸であった上に、ことにそれが葬儀を担当し、穢に触れる為であった。土師の頭なる土師氏は、出雲国造の一族として、系図上その立派な家柄を主張していても、やはり葬式を扱う事から、自然に人がこれを嫌う。たまたま桓武天皇の御生母が、その土師氏の女の腹から出られたお方であったという関係から、御孝心深くましました天皇は、その専業の不当をお認めになり、土師氏葬式の祖業を廃して、その居地の名に因んで菅原氏、秋篠氏と称し、或いは御生母大枝の山陵の名を取って、大江氏を名告なのり、それぞれ学者の家を起した。これが為に土師氏は、触穢の業から離れてしまったが、しかしその下に付いていた部民は、相変らず祖業を継いで、土師として軽侮せられ、後世これと同じ業に従事した三昧聖の「御坊」も、ハチまたはハチヤなどと云って、自然卑しまれる習慣が濃厚になった。「ハチ」はすなわち土師の転訛であると認める。かの空也上人の門流たる三昧聖の徒が、ひさごを叩いて念仏を唱えながら、これを瓢叩きといわずして、世間から「鉢叩き」と呼ばれているのも、ハチ叩きの意であろう。山陰道筋では、近い頃までこの流れの者をハチヤと云っていたが、上方地方でも、もとは御坊のことをハチヤとも云い、また警察事務に従事したいわゆる番太の事をも、ハチヤと呼ぶ場合があった。北陸地方でトウナイと呼ばれたのも、つまりは同じ御坊の流れの者であるが、これはハチと云う名称が軽侮の感を起さしめるので、その「はち」の語を隠して、とおに足らぬ「十無とおない」だと、隠語で云ったのが本であろう。上方地方ではエタのことを隠語で「ヨツ」と云った。エタは非人で、人間仲間ではない、畜生である、四ツ足であると云う意味だとも、或いは獣類すなわち四ツ足を喰う為だとも説明されているが、おそらくこれもやはり「はち」と云う言葉を隠して、半分の「四ツ」と云ったのではないかと思われる。しかしそれらはいずれももとは通じてエタと呼ばれたので、エタも、御坊も、ハチも、本来は差別はなく、いずれも落伍者たる非人法師の徒であったにほかならぬ。
 非人法師はもちろん法師の徒ではあるが、もともと社会の落伍者としての自度の法師で、かの三善清行の指摘した如く、家に妻子を蓄え、口に※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさくらい、形は沙門の如く、心は屠児えとりの如しと言われた破戒法師であった。それで時には餌取えとり法師とも呼ばれ、前記の如く真言宗や天台宗の如き貴族宗では、非常にこれを嫌って寄せつけなかったものであったが、しかしまた一方では、毫もこれを忌まぬ宗旨もないではなかった。念仏宗門すなわちこれである。阿弥陀如来はいかなる極重悪人でも、ことごとくこれを極楽に摂取するというのである。
 念仏の教えは古くから我が国に伝わり、餌取法師と呼ばれて、口に牛馬の肉を喰い、家に妻子を有する非人の徒でも、念仏の功徳によって極楽に往生することが出来るという思想は、既に平安朝からあって、「今昔物話」にその例話が幾つも出ているのである。しかもその特にこれを宣伝して非人済度につとめたのは、空也上人が初めであった。
 空也上人は延喜の頃に生れた人で、ちょうどかの濫僧ろうそうすなわち非人法師の徒が、しきりに発生した時代の人である。彼は盛んに念仏宗を下層民の間に宣伝して、口に念仏を唱えしめて、彼らに極楽往生の安心を与えたのであった。ことに彼は今日のいわゆる社会事業に努力し、橋をかける、道を繕う、嶮岨を平らにする、井戸を掘る、これらはみなその追従の信徒を使役して、事に従わしめたのであった。その追従の法師(ひじり)には、道に落ちた紙屑を拾って、漉き直して写経の料紙を作る、縄切れを拾って、土に雑ぜて古堂の壁を修繕する、瓜の喰いさしを拾って、獄舎の囚人に与えるなど、種々の社会奉仕的事業、慈善的事業をなさしめ、またしばしば墓所を見まわって、三界万霊に回向する。いずれ葬式の世話をする三昧聖の徒であったと解せられる。「三国長吏由来記」と称する弾左衛門家の記録によると、空也上人が牢舎の囚人二十一人を申し受けて、七乞食、八乞食、六道の者というものを仕分け、掟を長吏に預けて、国々に置いたとある。いわゆる七乞食とは、猿引・編木師ささらし・恵美須・辻乞・乞胸ごうむね弦指つるさし・盲目で、また八乞食とは、薦僧こもそう鉢坊はちぼう絵説えとき鉦打かねうち・舞々・猿牽さるひき・山守・渡守を云い、次に六道の者というは、弓造・土器作・石切・筆結・墨師・獅子舞だとあって、みないわゆる長吏弾左衛門支配下の者どもであった。けだしこれらの「下り者」と云われた職人・芸人等が、空也上人を祖と仰いでいた事を伝えたので、空也は一方に各種の非人法師の救済者であると同時に、一方ではいわゆる免囚保護の事を行って、それぞれに生活の道を授けたのであった。
 空也はまた殺生肉食常習の猟師の徒をも教化した。平定盛狩を好んで、上人に馴れ親しんでいた鹿を殺したので、上人これを傷んで、その鹿の皮を請い受けて皮衣とし、角を杖の先につけて、始終身を離さず念仏を申す。定盛為に一念発起して、その弟子になったとある。殺生者はその悪業の故に、三悪道に堕ちねばならぬ因縁を持っている筈であるが、阿弥陀如来は過去の罪業を追及せぬ。空也は念仏の功徳によって、彼らをもことごとく済度したのであった。かくてその徒は常に鹿の皮衣を着、瓢箪を叩いて念仏を唱え、一方内職としては竹細工に従事し、茶筅を作ってそれを売ってまわる。いわゆる鉢叩きであり、茶筅売である。瓢箪を叩いて鉢叩きとは聞えぬ名称であるが、けだし古くは単にこれを「叩き」と云い、それがいわゆる「ハチ」(土師)であるので、ハチ叩きと云ったものかと思われる。
 空也の門流として後世までも有名なのは、山陰道筋のハチヤと、山陽道筋のチャセンとであった。地方的にその名称を異にしてはいたが、古くはハチヤをもチャセンと云い、チャセンをもハチヤと云ったのであった。岡山県あたりにヒジヤという地があって、文字にはいろいろ書いてあるが、つまり土師谷(或いは土師屋)で、ハチまたはハチヤというと同語である。茶筅は或いはササラとも云った。彼らは竹細工を内職として、茶筅或いはささらを造ってこれを売り、またその檀家とするところに配ってまわったが為で、そんな名称を得たのである。檀家とは、彼らが法師であるが故に、なお前に述べたエタの「持ち」と同じく、自分の受持っている家の事をそう呼んでいたのである。東海道筋では、普通に説教者とも、またササラとも云っていた。前述空也の門流中の編木師ささらし絵説えとき鉢坊はっちぼうなどというのはこれで、通じては「御坊」である。彼らは葬儀・警察等の事務を行い、村落・都邑に付属して、管内の静謐をはかり、特に檀家、すなわち受持ちの家を定めていること等、一つに前述のシュクやエタと同様であった。否後世その名称を異にしていただけで、彼ら自身実はシュクであり、エタであったのである。出雲において尼子経久が、エタの軍勢を催して富田城を恢復した事が、「陰徳太平記」などに見えているが、ここにエタとは、すなわちいわゆるハチヤの事であって、ただ彼らは死牛馬を屠らず、皮革を扱わぬ為に、皮屋すなわち後世のエタにはならなかったので、つまりは同じ流れの落伍者にほかならぬ。そして他の地方のものが、多くは空也の門流であったことを忘れた後にも、山陰道筋の鉢屋と、山陽道筋の茶筅とは、相変らず上人を祖述し、空也流の本山たる京都四条坊門なる、紫雲山光勝寺との因縁を保っておった。
 空也は下層民を率いて、ただに念仏を唱えしめたのみでなく、その念仏に曲節をつけ、手振り足踏みを加えて、いわゆる歌念仏、踊念仏を始めたと伝えられている。極楽往生の安心を得たならば、自然に歓喜踊躍の情が湧き出づる訳ではあるが、つまりは普通に落伍者の流れて行く道の一つなる遊芸の徒と、念仏の行者とが合致したものと解する。いわゆるハチヤ・茶筅などは、万歳その他種々の遊芸を行っていたのである。すなわち工業・遊芸・葬儀・警察等、普通の落伍者が行ったと同じ道を行っているのである。またこの徒には、産婆や医者の如き、世助けの業をなすものがすこぶる多かった。北陸道のいわゆるトウナイ筋には、トウナイ医者という称呼まであって、今でもこの筋の人で、名医が相当多いそうである。

 天台真言の如き貴族的な旧仏教の諸宗が、穢を忌避して下層の特殊民を相手にしなくなった際において、空也上人が大いにこの方面に布教宣伝したことは、念仏宗本来の教義に基づいたもので、最も時勢に適した宣伝であった。罪人だ、悪人だなどと呼ばれて、現世に到底光明を認めえなかった最下層民は、実際念仏によってのみ未来の光明を認めることが出来たのであった。
 空也に次いで出たのが恵心僧都源信である。彼は「往生要集」を著わして、「往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤誰か帰せざらんものぞ。ただし顕密の教法はその文一にあらず、事理の業因はその行これ多し。利智精進の人は未だ難しとなさざるべきも、予が如き頑魯の者はに敢てせんや。その故に念仏の一門によりて、いささか経論の要文を集む。これひらいて之を修せば、覚り易く、行じ易からん」と説き、下層民の依るべきものは、ただ念仏の易行門のみであるとのことを盛んに宣伝した。この源信が自身手を下して、下層民を済度したことはあまり知らないが、その後に出た源空すなわち浄土宗の開祖の法然上人大いにこれを祖述するに至って、浄土欣求のこの念仏宗門は日に隆盛になり、殺生常習の屠者の如き輩までも、為に救われることとなった。源空の説法は、今日の言葉で云えば、たしかに旧仏教に対する過激思想、左傾思想の宣伝で、甚だしく当時の旧仏教の人々を驚かせた。「善人尚以て往生す、いわんや悪人をや」とは、彼のモットーとするところであった。旧仏教によって毫も顧みられなかった殺生者の如き、いわゆる極重悪人の輩でも、阿弥陀如来は救うて下さる。善人ならばわざわざ弥陀のお世話にならずとも、自力で極楽往生の道があろうが、他によるべのない悪人は、弥陀の他力本願に依頼してのみ往生が出来る。十方の衆生至心に信楽して、我が極楽浄土に生れんと欲せば、ないし十念せよ、五逆罪と正法を誹謗したものとのほかは、ことごとく往生せしめるという誓願を、阿弥陀如来は持っておられるというのである。十方の衆生とは一切の人類を包含する。殺生者でも盗賊でも、人殺しでも差支えはない。念仏の功徳によって、みなその願いのままに極楽へ引き取って下さるというのである。なおその極楽には九品の階級があって、たとい五逆十悪の如き諸の不善の業を具している程のものでも、死ぬる時に善知識に遇うて妙法を聞き、念仏すれば、下品下生の極楽へは生れる事が出来るとさえ説いているのである。極楽往生の為には神を祭る事もいらぬ。親に孝行しなくても極楽へは行ける。僧侶の破戒もかまわぬ。一体破戒の持戒のという事は、戒律があっての上の事である。例えばここに畳があるが故に、畳が破れているとか、破れておらぬとかの問題も起るが、初めから畳がなければ、破不破の問題はない筈だ。今は末世末法の代で、戒律などは全然なくなっているのだから、破戒の持戒のという問題は起りようがないと、かなり思い切った説法を源空は行ったのである。これは現世に光明を認めず、また無学文盲にして、高尚な教理を会得するの準備もなく、また到底厳格なる生活をなしえないような、堕落のドン底にいる当時の下層民済度の為には、極めて適切な説法であった。しかしこれを聞いた旧仏教徒が、騒ぎ出したに無理はない。解決を暴力に訴える右傾派が起って来る。朝廷に嗷訴して禁止を強請する。それで源空も余程閉口したものと見えて、晩年には大いに温和な説法を試みる事となった。余の仏菩薩をそしってはならぬ、破戒をすすめてはならぬなどと、厳重に弟子を誡めて、七箇条の起請文を書き、一同に署名させている。また叡山に対してもうやうやしい怠状を呈し、自身には日課七万遍の念仏を申して、「一念尚生る、況や多念をや、罪人尚生る、況や善人をや」などと、善行をすすめ、多念をすすめるようになった。一念とは、唯一度の念仏で極楽に往生しうるという流義であり、多念とは、多く念仏を繰り返すを奨励する流義である。
 かくの如く源空は、その晩年において大いに温和なる説法をするようになったが、これが為にいわゆる悪人往生の方にはやや疎遠になり、その流れを受けた後の浄土宗の方では、同じ念仏宗でも、エタ非人などといわれる側の下層民は、あまり収容されなくなった。しかるにその門弟子の中には、相変らず過激の宣伝をなすものが多く、これには源空もかなり悩まされた。「我が師法然上人は、あんな温和な事を言っておられるけれども、あれはほんの世間体を繕う為で、上人の本心ではない。上人の言みな表裏ありで、本当の事を言ってはおられないのである。上人は毎日日課として七万遍の念仏を唱えておられるけれども、実は一遍申せばそれで十分なのである。神を祭るにも及ばぬ、女に近づいてもよい。肉を喰うてもよい。ただ一度南無阿弥陀仏を唱えて、極楽に生れようと願えばそれで十分である。上人は下根の輩には本当の事を言われてない。真に上人の法を受けている者は、吾ら利根の輩五人のみしかない。自分はその一人である」などと言って、しきりに北陸地方で、一念義を唱えた者もあった。
 同じく源空の門下に出て、後の浄土宗から分立し、源空最初の意気盛んな頃の説をどこまでも主張したのは、真宗の開祖善信聖人親鸞であった。彼は相変らず悪人往生の為に尽力し、「善人尚以て往生す、況や悪人をや」を説いている。その唱うる念仏は報恩謝徳の念仏であって、極楽往生を願う為の念仏ではない。同じ念仏でも、真宗の念仏と浄土宗の念仏とは、念仏の意義が違う。かくて親鸞は自身肉食妻帯を体験して、破戒の行業を辞せず、非僧非俗の愚禿と称して、在家法師、俗法師の徒を以て任じ、社会のドン底に沈淪した最下層民たる餌取法師、非人法師の徒をも疎外することなく、いわゆる御同朋御同行として、世間から最も罪業深いものと認められた、かの屠者えとりの輩をまでも済度された。同じ念仏宗でも空也流とは趣きを異にして、一方に罪を犯しながらも、一方に仏を信ずることによって、極楽に往生しうるというのである。これが為に従来仏縁から遠かった人々も、多くこの宗旨に救われた。浄土宗ではあまりエタ、非人の徒を収容せず、空也流でも、茶筅・鉢屋・簓など、殺生から遠ざかった下層民を収容したが、親鸞の流義では、必ずしも殺生を禁ぜぬ。職業としてやるならそれでもよい。もともと神を祭らぬのであるから、肉を喰っても、皮を扱っても、それを穢れとして忌避する必要はないのである。これが為に、徳川時代にエタとして世間から甚だしく疎外された下層民は、大多数この宗旨に帰依するようになった。
 親鸞とほぼ時を同じゅうして、日蓮聖人が現われた。彼は熱心に法華を説いて、他宗派を攻撃し、時に念仏とは全く反対の道を歩んだ。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊とは、彼のいわゆる四個の格言であるが、中にも念仏者は正法を誹謗するもので、阿弥陀如来の誓願にも、五逆と正法誹謗者とは除外されているのであるから、彼らは無間地獄へ落ちて、永劫浮ぶ瀬はないというのである。しかし日蓮もまた下層民済度の為には、かなりの努力を惜しまなかったようである。彼は自身漁家の出として、旃陀羅せんだらすなわちエタの子であると呼号して、法を説いたくらいであるから、もとより殺生者を疎外しない。そこで東海道筋から、関東、信州辺りには、徳川時代にエタと云われた人々の中に、日蓮宗を奉じているものが少くない。
 最後に出て特殊民を済度した念仏の行者は、時宗の開祖たる一遍上人智真である。彼は遊行上人ともいわれる程で、念仏を唱えて諸国を遊行しつつ法を説いたもので、この遊行派に属する者は関東地方に多い。この派の行者を鉦打かねうちと云う。空也の鉢叩きが瓢箪を叩いたと同様に、遊行派のものは鉦鼓かねたいこを打って人の門に立ち、念仏を申して報謝の手の内に生きるのである。この鉦打は鉢叩きの徒と同じく、「興福寺大乗院寺社雑事記」には、七道の者と称する中に収め、唱門師たる非人頭支配の下に属する非人と見做し、弾左衛門支配の二十八座という中にも、共に数えられているのである。鉦鼓を打って念仏を申す修行者は、既に平安朝からあったが、遊行上人出でて以来、ことに盛んになったのである。鉦打の徒は四国九州のあたりまで広がっているが、特に関東地方の落伍者が、多くこの徒に走ったらしい。山陽道筋のチャセン、山陰道筋のハチヤが、空也の門流として鉢叩きの徒であると同様に、関東地方に多いこの鉦打の徒は、後までも一遍の門流たることを標榜している。その遊行すなわち浮浪の状態から脱却し、土着してカネウチ筋と呼ばれて、遊芸や雑職に従事しているものが所々にあった。このほか信州から関東筋には、「ネブツチャ」或いは「ナマダンゴ」などという筋のものがあるが、ネブツチャは疑いもなく「念仏者」の訛りで、ナマダンゴは「南無阿弥陀子」、または「南無阿弥陀講」の訛りであろうと言われている。これらはみな念仏宗と特殊民との関係を語っているもので、我が国のいわゆる賤民史上、ことに重要なる地位を占むるものである。

 いわゆる非人法師、餌取法師などの輩は、古代の国法上にいわゆる賤民以外の新賤民で、三善清行のいわゆる形は沙門の如く、心は屠児の如き下司法師の徒であった。その一類を時にショウモンジということがあった。
 上方地方には、後世になってもショーモン筋と呼ばれて、他から疎外される家筋のものがあった。文字には俗に「正文」、「証文」などと書いてあるが、正しくは「声聞師」である。声聞とは仏教上の語で、小乗阿羅漢の徒を云う。彼らはただ仏の説法の声を聞き、煩悩を断じて涅槃に入らんとするもので、灰身滅智けしんめっちを結局の目的としている。すなわち自利の行者である。菩薩の如く利他の大行を行じて、結局は仏果を得るものというのとは、大いに選を異にしているのである。そこで低級なる下司法師は、同じ法師姿をしておっても、大乗菩薩行の如法の法師等とは事変って、単に自利のみを事とする小乗下根の声聞の徒であると云う意味から、これを声聞師といって疎外したものと思われる。しかるに後にはその本義が忘れられて、彼らは人の門に立ち、経を誦し、仏名を称して、米銭を貰う乞食である、門に唱えるもの、すなわち唱門師であるという意味から、室町時代には普通に「唱門師」と書くようになった。これはいわゆる声聞なる名称が、もとは非人法師を指斥賤称として用いられたとは云え、その実阿難とか迦葉とか、舎利弗とかいうような、尊敬すべき阿羅漢衆の事であるから、もちろんかの賤しい下司法師ばらの徒と同日に談ずべきものではないということで、自然その本語が忘れられるに至ったものであろう。けだし彼らは鉦打、鉢叩きの徒で、いわゆる河原者、坂の者、散所の者と云われた非人法師である。
 室町時代には、所々に声聞師と呼ばれる部落があって、千秋万歳を舞ったり、警固雑役に従事したりしていた。中について奈良の興福寺に属する者は、余程有名であった。彼らは清水坂の非人法師が、祇園感神院に属して犬神人となったように、奈良坂の非人法師が、付近の興福寺に属したのであろう。興福寺は大和一国の領主とまで云われたくらいの勢力ある大寺であったから、その所属の声聞師もことに勢力を有し、五ヶ所十座の唱門などと呼ばれて、奈良市中にいくつもの部落に分れて住んでいたのである。その職務は無論警察事務が主で、いわゆる七道の者等、他の非人取締りをなし、また土工その他雑役にも従事した。この部落のものが、徳川時代には、いわゆるシュクの徒ともなり、或いは陰陽師と呼ばれて、うらないをする部落ともなり、或いは芝居者などになっている。つまりは同一の流れのものが、地方により、時代によって、その名称を異にし、多少職業の上にも区別を生じたにほかならぬ。しかるに後世彼らがもはや法師姿を為さなくなり、もと下司法師たる声聞師であることを忘れて、そのショーモンという名称から、平将門すなわちショウモンの子孫であるとか、平将門の部下の落武者の子孫であるとか云う説を主張するものも起った。山陰道筋のハチヤの如きも、やはり声聞師の一種であったとみえて、将門の落武者が空也上人に救われて、警固の任に当ったものだとの伝説を持っている。
 要するに「さがり者」と呼ばれた流れの人々は、その職業も、その名称も、地方により、時代によって種々に分れ、また種々に変ってはいたが、もとは同じ日本民族中の落伍者であった。その落伍者が国司の誅求から逃れんが為に、或いは生活の便を得んが為に、肉食妻帯をも辞せぬ俗法師となったので、濫僧と呼ばれ、声聞師と呼ばれ、或いは非人法師、餌取法師などと呼ばれても、つまるところはいわゆる「下司法師ばら」である。これらの徒が活きんが為に各種の賤業に従事したので、中世以後の賤業者は、多くは法師姿をなし、或いは世間から、目するに法師を以てせられた。これが為に、「法師」と云えばただちに賤者だとの事が連想される程になった。されば親鸞聖人の「正像末和讃」にも、「僧ぞ法師の其の御名は、尊きことと聞きしかど、提婆五邪の法に似て、賤しきものに名づけたり」とも、「末法悪世の悲しみは、南都北嶺の仏法者の、輿かく僧たちの力者法師、高位をもてなす名としたり」とも、或いは「仏法侮づるしるしには、比丘、比丘尼を奴婢として、法師、僧徒の尊さも、僕従ものの名としたり」とも述べている。しかし実は法師そのものが賤しいのではなく、賤しまるべきものが多く法師となった為である。そしてこれら下司法師の長たるものが、すなわち長吏法師で、部下のものが小法師であることは前に述べた通りで、その長吏法師と云う名称は、後世にもチョウリ、またはチョリンボウとして遺ったのである。また小法師という名称は、後には多く忘れられたが、ただ江戸の筆屋に小法師を屋号とするものが多くあったのと、今一つ京都において、明治に至る迄も御所のお庭のお掃除役に、その名が遺っていたのとがある。御所のお庭のお掃除は、もと京の天部あまべと呼ばれた部落から出て勤めたもので、それを古くから小法師と呼ぶ例であったが、これが中頃失策があって、一時は大和や丹波から出ておった。後にはこれも京都蓮台野から出て、相変らず小法師と呼ばれ、年七石の御扶持米を頂戴しておった。これが為にその子孫は、明治三十幾年かにその由緒を申し立てて、士族に編入されているものもある。これらは昔の長吏法師の下にあった小法師の名称が、彼らの本来法師であったことを忘れた後までも、たまたま保存されたものである。
 かく法師という名称がもっぱら賤者に呼ばれるようになったが為に、法師という語は、相手を軽侮するような場合に用いられることとなった。今も大和吉野の山間十津川郷では、人を罵るに、「何だこの法師が」などというそうである。かく法師という語が一種の賤称となった為に、自然に忌避せられるようになり、戦国時代の頃から、「法師」に代うるに「坊主」という語を以てすることが流行り出した。「坊主」という語は、鎌倉時代から既に物に見えて、一坊の主の称である。されば蓮如上人の御文おふみなどにも、「坊主」という語はたくさん見えて、決して軽侮の語ではない。法師と呼ばれては嫌がるが、坊主と云われれば喜ぶというのが、当時の有様であった。したがって坊主という語が段々濫用される事になり、今川氏真の如きは、永禄四年にわざわざ令を発して、「諸末寺の塔主看院等、本寺に断らずして坊主と号し、ほしいままに居住するを得ず」と云って、その名称の濫用を禁止した程であった。しかし世の趨勢は致し方がない。「坊主」の美称は次第に下級法師に向かって濫用されて、ついには卑しい者を一般に坊主と呼ぶことにまでなった。かくてついには「坊主」がかえって軽侮の称呼となる。法師ならぬものに向かっても、相手を賤しむ場合にはこれを坊主という。乞食坊主、売僧まいす坊主、オゲ坊主、チャンチャン坊主、糞坊主、スッタラ坊主、ハッチ坊主、横着坊主、毛坊主、カッタイ坊主などこれである。或いはこれを略して単に、「坊」と云い、シワン坊、ケチン坊、皮坊、ツン坊、長吏ン坊、ハチン坊、トチメン坊、酔タン坊、黒ン坊、泣ン坊、弱ン坊などから、遂には泥坊、立ン坊、べら坊にまで、好んで「坊」という語をつけるようになった。言うまでもなく、下級法師を蔑視したことの名残である。或いは化物に高入道、大入道、三ツ目小僧などいい、盗賊に鼠小僧、稲葉小僧などの名があり、丁稚でっちを小僧と云い、婦人を罵ってこの尼などというも、みな同じことで、淫売婦にも、和尚とか、比丘尼とか云うものまでが出来て来た。つまり濫僧たる下司法師が、あらゆる賤者のもととなったが為にほかならぬ。しかもその濫僧たるや、多くは同情すべき社会の落伍者の末であった。

 上述の如く、濫僧すなわち下司法師の流れの末が、大宝令規定以外の種々の賤民、すなわち「さがり者」として、中世以降に多く現れて来たが、中にももと同じ流れの者ながら、その従事する職業に依って、世間のこれに対する感じがだんだん違って来る。かくて長く同じ職を続けているうちには、甲と乙との距りがますます遠くなり、世間からはまるで別の筋のものの如くに考えられるようになる。ただに世間からばかりでなく、もと同じ流れのものでも、自らその由来を忘れて、他の職業のものを疎外排斥するようになる。かの猿楽法師すなわち能役者の如きは、もとはシュクの者の一種で、興福寺では七道の者として、唱門師進退の下に置かれたものであった。されば座頭の仲間からは、後の時代までもなお、「舞々猿楽の如き賤しき筋目のもの」として、同席をまで忌避されたものであったが、しかもその中で金剛、金春、宝生、観世のいわゆる四座の猿楽の如きは、室町時代から既に将軍の前でその技を演じ、後には武家お抱えとなって、猿楽は武家の式楽とまで呼ばれ、猿楽師の身分は高取として、士分の扱いにまでなったのであった。その他比較的後までも、河原者とか、河原乞食とか呼ばれて、賤視された人形遣い、すなわち道薫坊どうくんぼうの徒の如きは、つとに日向掾などの受領を得て、今で云えば地方庁の高等官の資格を獲得していたものがあり、また歌舞伎役者の如きも、今では立派な芸術家として、何人もこれを嫌がるものがない程になっている。その他の非人と呼ばれたものの中にも、段々足を洗って、或いは社会から消えてしまい、或いはそのままに世間の疎外を免れたものが甚だ多いのである。換言すれば、これらの社会にも常に新陳代謝が行われて、一旦エタ、非人と呼ばるる境遇に堕落したものも、いわゆる足を洗うてその社会から脱離するものもあれば、新たにその社会に落ち込んで来るものもあるのである。しかるにひとり死牛馬を屠り、皮革を製するを業として、皮太、皮屋、皮坊などと呼ばれた輩のみは、穢れのことに多いものとして、江戸時代には文字にも「穢多」という忌わしき名を専有せしめられ、容易に足を洗うことが許されず、特別に疎外される事になってしまったのであった。
 元来エタもやはり非人の一種として、国家の公民ではなく、したがって国法の外に立ち、長吏の自治に任じたものであった。関東では弾左衛門がエタ頭で、他の非人等もその支配を受けていた。上方ではやや様子が違って、下村庄助という者がこれを支配し、百九石余の高を給せられて、身分は侍であったが、宝永年間に庄助が死して後は、各部落はやはり部落の年寄の自治に任ずることになっていた。さればエタ、非人の犯罪者に対しては、国家は直接に国法に依ってこれを処分することなく、「エタなるが故に」、「非人なるが故に」との理由の下に、その長吏に引き渡して、これが処分に一任する例になっていた。しかし徳川幕府の施政も次第に整頓し、国家の秩序も立って来る。一方いわゆるエタ、非人の身分も極って、足洗いも容易でなく、その人口は段々殖えるばかりとなって来ては、もはやこれを彼らの長吏にのみまかしておくことが出来ない。幕府では段々これが取締りの方法を定めることとなり、各藩もそれを標準として、各自取締法を定めることとなった。それがいつの頃から着手されたかはハッキリせぬが、既に元禄頃の諸藩の布令書などには、エタ取締りの事が往々見えている。元禄十二年の徳島藩の布令書に、町人百姓の風俗を戒めて、その終わりに、「穢多は百姓に準じて尚軽くすべし」と書いてあるが如きこれである。これはその当時のエタが、通例村方からの扶持を得るほかに、皮革業を独占して、自然生活が豊かであり、ことに身分が賤しい為の自己慰安として、自然贅沢な暮しをする風俗のあったのを戒めたもので、まだその頃までは、大体において、百姓とエタとの間には、そう甚だしい風俗上の区別はなかったようである。
 幕府で明らかにエタ、非人の調査をなさしめたのは、享保の頃であった。この頃しきりに各地のエタや非人の頭に命じて、その由緒書を提出させている。けだしこれに依って、彼らの取締りの途を講ずる参考としたのであろう。もとはエタと百姓とが通婚するとか、エタが百姓や武家に奉公するとかいう事は、甚だしく問題にもならなかったようであるが、それは厳重に禁ぜられることとなった。取締りは年とともに次第に厳重になった。ことに安永七年に至って、非常に厳重なる取締法が発布せられて、エタ、非人と百姓、町人との間に、判然たる区別を立てた。エタ、非人は、一見して百姓、町人との差別が出来るようにと、その風俗に制限を加えた。従来にもたびたび差別の命令があるにはあったが、とかくエタが風俗をごまかして百姓、町人の中に紛れ込んだり、身分を隠して通婚したり、奉公したり、娼妓になったりして、為にその穢れを社会に及ぼすおそれがあるという為であろう。これに基づいて定められた諸藩の取締りは、藩によってそれぞれ寛厳の差はあったが、要するにエタを普通民から差別せしめるにあった。そして社会の階級意識がますます盛んになるとともに、それが年を逐うていよいよ厳重になり、文化五年の伊予の大洲藩の触書の如くんば、七歳以上のエタは男女にかかわらず、必ず胸に五寸四方の毛皮の徽章を目立つように付けよ、居宅にはその屠者たることを示す為に、必ず毛皮を下げて置けよ、下駄をはいてはならぬ、傘をさしてはならぬ、木綿合羽はもちろん、桐油合羽をも着てはならぬ、髪の結び方をも区別せよ、芝居などの如き人だかりの場所には、雨覆のない所に平人とは別におれ、笠も不相当な物を用いるななどと、実に滑稽といえば滑稽、残酷といえば残酷なものであった。されば彼らが百姓、町人の家に入る事の出来なかったのはもちろん、これを座敷に上げたならば、その者までが罰せられるという程の厳重なものであった。しかしかく風俗上に厳重な区別を立てても、夜間にはそれが判明せぬが為にか、多くの地方では、エタは日出前日没後には、外出を禁じられていた。夜間やむをえず外出する場合には、何村のエタ某とか、仲間某とか明記した提灯を持たなければならぬという規定の所もあった。かくの如くにして、平素武家から極端なる軽侮圧迫を受け、それに屈従しなければならなかった百姓、町人等は、さらに一層下級のエタ非人を有することによって、僅かに優越感の満足を与えられていたのであった。
 また一方にはエタ仲間の掟においても、彼らが結束を固くし、自己の勢力を維持する必要上からでもあったろうが、いわゆる弾左衛門の掟なるものには、非人は足を洗う事の道があるが、エタは永久にエタとして、素人になることを許さなかったものであった。しかしこれも地方によることで、遠州地方には、「打上げ」と称して、三代の間皮剥ぎの渡世を廃したものは、足洗いが出来る習慣もあり、決して全国的のものではなかったが、ともかく弾左衛門の法は、幕府取締りの標準となったが為に、大体においてエタは永久にエタとして鎖ざされ、遂に解放さるるの機会を得ずして、明治四年にまで及んだものであった。
 いわゆるエタが同じ流れの多くの下り者の徒の中で、特別に賤しまれ、忌避せられ、はては甚だしく圧迫せられるに至ったのは、彼らが屠者であり、皮革業者であったが為に、触穢禁忌の思想からこれに近づくことを忌まれた結果である事は、今さら繰り返し述べるまでもない。もちろん彼らは同一日本民族の、同情すべき落伍者の末である。しかるに世間にはその沿革を忘れ、彼ら自身またその由来を解せずして、これを異民族なりとし、朝鮮人の子孫だなどと説くものが古来多い。古いところでは神功皇后三韓征伐の際の捕虜の後だとか、近いところでは秀吉の朝鮮征伐の際の捕虜の後ではないかなどと考えているものが、今もなお少からず存在している。のみならず彼ら自身またその説に誤られて、朝鮮との関係を云為するものがないではなかった。慶応四年に長州征伐の功によって、弾左衛門がエタの肩書きを除かれた例にならって、大阪の渡辺村から指し出した嘆願書には、自分らの祖先は神功皇后征韓の際に従軍した兵士であって、久しくかの地に滞在するうちに、かの地の肉食の風に習い、帰朝の後もその風習をつづけたが為に、神国清浄の国風にたがうところから、エタとされたものだと云っている。ともかく肉食が差別の主なる原因をなしていたのであるから、これを説明せんが為には、ただちに朝鮮関係を連想するのが普通であったのだ。何となれば、我が国では久しく肉食の風習を失い、これを以て甚だしく穢れたものだと考えた時代において、世人の知識に上るほとんど唯一の肉食人は、朝鮮人のみであったからである。これが為に世人が極めて簡単にこれを朝鮮人の子孫だと解し、彼ら自身また朝鮮関係を以てこれを説明せんとしたに無理はない。しかしながら、これはもちろん甚だしい誤解である。我が古代において、それが帰化人である、外国人であるというの故を以て、これを差別したという事実はない。既に桓武天皇の御生母は百済氏の出であり、神功皇后の御母方も新羅の天日槍あまのひぼこの後裔だと言われている通りで、そのほかにも支那、朝鮮から帰化した者は甚だ多く、それのみで一郡、一村を為しているのも少くないが、社交上決してそれを区別したという事実はない。人或いはいわゆるエタの言葉遣いや発音が、多少近隣部落の人々と違っていたというの事実を以て、その異民族たることを言わんとするものがないではない。しかしこれは多年交際する社会が違っていたが為に、自然に特別の言葉の訛りが発達したにほかならぬ。言葉はいわゆる「国の手形」で、地方地方によって訛りが違うと同一の現象である。
 かくの如くいわゆるエタが、他の多くの「下り者」と同じく、民族上少しも差別なきものであるにかかわらず、特に社会からこれを忌避した所以のものは、もちろん触穢禁忌の思想の結果であるには相違ないが、実はその以外に、さらに大なる原因があったのである。
 元来エタは文字にも「穢れ多し」と書かれた程で、早くから一部の人々、特に或る宗派の仏教家から、甚だしく忌避されていたとしても、一般人からは必ずしもそう交際を拒否されてはいなかったのであった。現に戦国時代には、前記の如く三好長治の如き大大名も、エタの子を小姓として寵愛し、侍がエタの女を嫁に取ったという実例もある。ことに村落都邑には、優待条件を以て彼らを招聘し、警固の任に当らせたものであった。奥羽の如くその地が僻陬へきすうであり、住民素樸にして、村方警固の必要も少く、各自相たすけて葬儀その他の業をも執り行ったような地方には、特にエタを置くの必要がなく、したがってその部落の分布も少いけれども、早く開けて人気が柔弱であり、盗賊その他警戒を要することの多かった地方には、村落、都邑の警固にも、またその雑役にも、かかる専門家配置の必要があったのである。そこで彼らは歓迎され、優待条件を以て請待されたのであった。またその執る皮革業の如きは、社会にとって必要の職であり、彼らにとって有利な業であったから、彼らは一方では穢れたもの、賤しいものとして、忌避されていたとしても、為に世間から甚だしい圧迫を受けた筈はなかるべきである。現に元禄頃までは、少くも阿波藩の掟では、その風態も百姓に準じたるものとして、そう変った風俗を強いられた事はなかったのである。彼らはその身分は賤しくとも、非人の長として、有利な業を独占し、村落、都邑にとっては必要な警察吏であり、むしろ生活においては恵まれたものであった筈である。しかるにそれが段々と圧迫を加えられ、ことに安永七年に至って、甚だしく差別を励行せられる事になったのは、彼らの人口が世間に比して甚だしく増加した結果にほかならぬ。
 徳川時代約三百年を通じて、我が国の人口はあまり増加しなかった。明治維新後急激に繁殖して、明治三年末に約三千三百万と云われたものが、今では内地人口約六千万にもなり、五十七八年間に八割強を増した程の増加率を有する我が日本民族も、徳川時代にはほとんど増加しなかったのであった。これは一に一般民衆の生活が困難であり、堕胎、間引き等による人口調節が盛んに行われた為にほかならぬ。これは幕府が鎖国主義を採って、日本国内で自給自足の政策を実行したのと、一つは万事が現状維持で、新規の発展を厳禁したとの結果である。徳川時代の人口統計は案外正確なものであったが、その古いところで享保頃から、新しいところでは安政頃までの調査を見ると、公家、武家及びその使用人を除いて、一般庶民に属するものが、大概二千五百万台より、六百万台の間を上下している。さればその以外の公家、武家の数を約四十万戸とし、一戸平均五人として約二百万人、その使用人一戸平均二人半として約百万人、合して大約二千八九百万人、まず三千万人以内とみて大差のない数であった。それが幕末に近づいて段々と殖えて来たのは、一つは堕胎、間引きが人道に背くという思想から、これを禁ずるようになったのと、一つは産業の発達の結果、生産額の増加した為とで、ついに明治三年末になって、三千三百万という数になったのであった。そしてその後急激なる増加をなして、今日の約六千万を数うるに至ったのである。
 しかるに一方では、いわゆるエタの数はその間にも非常に増加した。この趨勢は維新後においても同様で、明治四年エタ、非人の名称を廃した当時の数を見ると、エタの数が二十八万三百十一人、非人の数が二万三千四百八十人、皮作雑種七万九千九十五人、合計三十八万二千八百八十六人とある。この中には後にほとんど解放されたものが多く、いわゆる特殊部落として、依然差別観念の残っているものは、主としてエタと云われた人々の流れに属するのであるが、仮りにそれが明治四年の当時三十万人であったとして、一般人口の増加率によって約八割の増殖とすれば、現今約五十万人位となってしかるべき筈である。しかるに事実は甚だしくこれと相違して、現今少くも百二三十万の多きに達していると計算される。すなわち一般世間の人々が約八割を増せる間に、彼らは四倍以上の数に達しているのである。かくの如く維新以後普通民の増加が甚だしくなった時代においても、彼らは普通民に比してさらに甚だしい増殖率を示しているのであるが、これが既に徳川時代において、立派に存在した現象であった。普通民が一向増加しない間にも、彼らのみは甚だしく増加した。これはその部落の沿革を調査すれば明らかなことで、もと二戸ないし三戸であったと云うものが、後世には大抵数十戸に増加しているのである。中にも正徳の頃百八十八戸であった京都の六条村の如き、明治四十年には千百六十九戸となり、今では約二千戸に達したとも云われているのである。すなわちいわゆる特殊部落なるものは、もとは村落都邑に属する少数の請願警吏の駐在所の延長で、その人口増加の結果として、遂に部落をなすに至ったのが多いのである。
 しからば何故に彼らのみ、特に増加率が多かったのであろうか。これには特殊の事情もあるが、大体この社会の人々は生活が簡単にして、自然病気に対する抵抗力が強く、婦人の生産数も多いという以外、彼らはもと警固の報酬として、一定の扶持に生活したが上に、死牛馬処理の有利事業を独占し、その他にも特権が多く、生活に余裕があったが為と、一つには彼らが一向宗門徒であって、その宗旨の教えとの為に、自然堕胎、間引きの風習がなかった故であった。されば同じくエタ、非人と疎外された中にも、非人の方が段々減少したが、長吏たるエタの方のみ特に著しく増加したのである。
 しかしながら、普通民が少しも殖えぬ間に、彼らの人口のみが甚だしく殖えたとしたならば、その結果はいかなるであろう。村に一戸、二戸あってこそ、彼らは警察吏として、また雑役夫として、歓迎もされたであろう、村にとって必要なものとして、相当の扶持に生活しえたであろう。その縄張内に生じた死牛馬の役得のみにても、少からざる収入となったであろう。しかるにその人口が甚だしく増加し、一方その需要が一向増さぬとあっては、たちまち失業者を生ぜねばならぬ。従来一人にて多くの戸数を分担し、いわゆる「持ち」と称してこれに出入りしておったものも、遂にはこれを数人で分たねばならなくなる。収入は著しく減少する。かくてその多数は警固の事務から離れて、番太という特別の警固の者が出来ては、彼らは全く雑役労働によってのみ生きなければならぬことになる。しかるに不幸にして彼らは、触穢禁忌の思想によって、自由にその欲する職を択ぶ事が出来ぬ。やむをえず狭少なる範囲の職業に従事して生きねばならぬ。仲間内には競争が起る。従来はむしろ祝儀をまでもつけて引き取ってやった程の死牛馬も、今は競争して買収せねばならぬ事ともなる。生活はますます苦しくなる。次第に身を卑下していわゆる檀那方の好感を博し、少しでも多くの物質的利益を得るの道を講ぜねばならぬ。従来は権利として集めてまわった村方の扶持米も、今はただ永年間の習慣によって、いわゆる旦那の同情に待つようになる。かくては乞食待遇せられてもやむをえなかった。もちろん住居の地には限りがあって、自由に拡がる事も、分散する事も出来ぬ。その限られたる部落内に、限りなく増加する人口を収容せねばならなかった彼らは、次第に密集部落となり、細民部落となり、世間の進歩とは反比例して、ますます普通民との距離が遠くなる。もとは村方に必要であったものも、今では厄介な寄生物となる。世間の忌避と軽侮との度はますます甚だしくなる。それでもなお満足に生きて行く事が容易でないのみならず、彼らとても同一の人間でありながら、一方世間の差別待遇に甚だしく不満を感ずるの結果、その身分を隠し、仮面を被って世間に紛れ出る。或いは武家や百姓、町人の家に奉公し、或いは遊女となり、出稼人、行商人となる。しかし普通民の側からこれを見れば、穢れたものとして誤信された彼らに紛れ込まれては迷惑である。そこで風俗上一目見て区別が出来るようにという、取締法の必要も起って来る。かくの如くして、彼らはますます圧迫せられ、ますます去勢せられ、武家に対してはもとより、百姓、町人に対しても、一切頭が上がらぬ下賤のドン底に落ち込んで、同じ人間でありながら、人間として待遇されない、気の毒なものになってしまったのであった。

 人類の生活に必要なるあらゆる物資が、日光の如く、空気の如く、何らの考慮と勢力とを用いず、すべての人類に、無限にかつ公平に供給せられざる以上、またその人類の有する智能と体質とに、生れながらにして賢愚強弱の差が到底避け難いものである以上、さらにまたいわゆる機会なるものが、すべての人類に必ずしも常に同一に恵まれざる以上、いかなる原始の時代と云えども、彼らの社会において、すべてが同一の境遇にいることはありえない。智能勝れ、強健にしてよく勤労に堪えうるものが、自然その社会に勢力を占有して、幸福な生活を遂げ、暗愚にして、羸弱懶惰るいじゃくらんだなものが、その反対に社会の落伍者となるということは、おそらく人類始まって以来の自然の法則であらねばならぬ。のみならず一方には、人類には不可抗力の運命というものが伴って、一層その関係を複雑ならしめるものがある。もちろんこれらの不公平なる現象に対しては、人力を以て幾分これを緩和しうる場合があるとしても、その場合恩恵に浴するものは、自然その恩恵を与うるものに対して卑下せねばならぬこととなる。人類の間に上下の階級を生じ、従属関係の起ることは、少くも歴史を遡りうる限りにおいて、必ず存在した現象であった。
 一方人類には、禽獣とは違って、子孫は父祖の延長であるとの思想が濃厚である。したがって特別の事情なき限り、子孫は父祖の地位を継承するを常とする。ここにおいて境遇が自然に世襲的となる。我が上古に氏族制の行われた如きは、ことにその著しいものであった。すでに社会に上下の階級があり、それが世襲させられるとすれば、よしや貴族、賤民というような判然たる名称はなかったとしても、それに相当するものが必ず太古から存在したに相違ない。
 しかしながら、社会は常住不変のものではない。常に新陳代謝して、新しいものと代って行く。これを社会上の事実に見るに、昔時の貴族、富豪が、どれだけ今日にその尊貴と富有とをつづけているであろう。これを今の武家華族の家についてみても、徳川時代の諸大名は大抵戦国時代に新たに起ったもので、鎌倉幕府以来の大名の子孫が、そのまま継続しているものは僅かに指を屈するばかりしかない。彼らの中には薬屋だとか、桶屋だとか、野武士だとか、水呑百姓だとか云われた卑賤の身分から起って、混乱時代の風雲に際会し、天下の政権を壟断するの地位を獲得したものも少くなかった。かの太閤秀吉の如き大人物は、実にそのもっともなるもので、その素性を尋ねたならば、実はどういう人の子だかよくは分らないのであった。応仁、文明頃の奈良の大乗院尋尊僧正の述懐に、「近日は土民、侍の階級を見ざるの時なり。非人三党の輩といへども守護国司の望をなすべく、左右する能はざるものなり」とも、また「近日は由緒ある種姓は凡下に下され、国民は立身せしむ。自国他国皆斯くの如し」とも云っている。そしてその応仁、文明の頃から、世間は混乱を重ねて、遂に戦国時代となり、実際胆力の大きい、力量の勝れたものが成功して、下賤のものも立派な身分となる。かかる際において、エタも非人もあったものではない。現に非人と呼ばれたもので一方の旗頭となり、一城の主となっていたものもある。したがって従来賤民階級に置かれたものも、この際多く解放せられたのであった。
 しかしながらこれはいわゆる成功者の方面に対する観察であって、その反面には失敗して新たに落伍者となったのも、また必ず多かるべきことはもちろんである。「切取、強盗は武士の習い」とか、「分捕功名、鎗先の功名」とか、体裁のよい遁辞の前に、いわゆる大功は細瑾を顧みずで、多くの罪悪が社会に是認され、為にその犠牲となったものが、到る処に発生した。かくてともかくも徳川時代三百年の太平は実現し、落伍者の子孫は永くその祖先の落伍を世襲させられたのであった。
 もちろん徳川時代においても、相変らず社会の落伍者は発生する。そして多くは非人の仲間に収容される。京都では悲田院の長屋に収容して、やはり警察事務や、雑役、遊芸等に従事させた。当初はそれをもエタと呼んだ例はあるが、後には明らかにエタと区別されている。
 明治、大正の時代になっても、相変らず落伍者は出て来るが、彼らはもはや非人の名称を以ては呼ばれない。大正十二年の関東大震火災の際に生じた多数の罹災者の如き、もしこれが旧幕時代に起ったのであったならば、いわゆるお救い小屋に収容せられて、非人となったものも少からぬことであったに相違ないが、今日そんなことを考えるものは少しもない。昔ならば河原者、坂の者、散所の者となるべき運命の下に置かれたものも、今日では木賃宿へ仮住まいして、自由労働者と呼ばれている。乞胸ごうむねと呼ばれた大道芸人の仲間も今では立派な街上芸術家である。昔ならば家人けにん奴婢ぬひと呼ばれて、賤民階級に置かれた使用人の如きも、今ではサラリーマンと名までが変って来た。今日ではいわゆる賤民は過去の歴史的一現象となってしまったかの観があるのである。
 しかしながら、これあるがために、事実上賤者階級のものが、果して社会に跡を絶った訳ではない。生存競争は相変らず激烈であり、自然淘汰、適者生存の原則はどこまでも行われている。過去におけるが如き賤民の名こそなけれ、名をかえ、形をかえて、相変らず社会の落伍者は存在し、引続き発生しつつあるのである。目のあたり見る今日のこの現象を以て、これを過去に引き当てて考えてみたならば、思い半ばに過ぐるものがけだし少からぬことであろう。今はただ過去における落伍者の動きの大要をかいつまんで略叙するに止め、その詳細なる発表は、さらに他日の機会を待つことにする。

底本:「賤民とは何か」河出書房新社
   2008(平成20)年3月30日初版発行
初出:「日本風俗史講座」
   1928(昭和3)年10月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月11日作成
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