この小冊子は昨年「融和促進」を発行しました際の予約に基づいて、もっぱらいわゆる特殊部落の由来変遷を述べたものであります。今もなお往々にして存する差別観念は、まったく因習から導かれた感情の結果でありまして、もはや議論の余地はありません。したがって議論ではなるほどと承認して、表面差別待遇をしなくなりましても、因習の根本たる歴史が明らかになっていなかったならば、いわゆる感情が承知しないで、なお水と油とを合わせたように、心から、底から、打ち解けて、融和することの困難な場合がないともいわれません。読者願わくば前回発行の『融和促進』とこの小冊子とを併せ読まれて、過去における差別の因って来たったところ、その間違いであったことの事情を明らかにし、すみやかにその非を改めて、ともどもに真の融和に向かって進みたいものであります。
昭和二年一月十五日
喜田貞吉識
[#改ページ]

 私はさきに『融和促進』という小冊子を書きまして、その中に多少歴史に関する事柄をも述べておきました。しかしもともとかの書は、いかにして融和を促進すべきかということを主に述べたものでありましたから、自然歴史上の説明には、あまり深く立ち入ることができませんでした。そこで歴史のことについては、他日別にややくわしいものを発表することを予約しておきましたが、今やその予約を果たそうと思うのであります。
 いわゆる特殊部落の歴史につきましては、先年、中央社会事業協会地方改善部の依頼によって、広島で講演しました筆記を整理しまして、「歴史上より見たる差別撤廃問題」という表題で、同会から発表したことがありました。しかしそれは少し精しすぎ、またむずかしすぎまして、これを広く世間に頒布し、多数のお方々の閲読を求めるには、いささか不適当なものでありました。その後同愛会の機関雑誌『同愛』の特別号にも、簡単に記述して載せてもらったことがありましたが、それはまたあまりに簡単であるばかりでなく、こちらで希望するように広く普及するという訳には参らなかったことと思いますから、今度さらにそれらを書き直して、中央融和事業協会から発行していただきまして、なるべく広く世間にこの知識を普及させたいと思うのであります。これによっていくらかでも、融和の上に貢献するところがあれば、私にとって望外の仕合せたるは申すまでもありません。したがって自然この書の説くところが、前のものと重複するところもありましょうが、それはまずもって御容赦を願っておきます。

 さて本文に入るに先だって、私はここにいささか、歴史的考察の必要を述べておきたいと思います。
 私は多年この歴史的知識の普及の必要を感じまして、機会あるごとにこれが宣伝を試みているのであります。しかるに近ごろは、しばしばこれに対して非難の声を聞くようになりました。その非難の主なるものは大体左のようなものであります。
一、今日の解決を要する問題は、現実に直面したものである。何もまどろしく、昔のことなどを聞く必要はないということ。
二、今日はお互いに昔のことを水に流して、いやな記憶を捨ててしまって、白地になって相提携すべき時代である。しかるにこれに向かって歴史を説くことは、わざわざ過去の惨めな状態ありさまを思い出させるようなもので、かえって無理解者の差別観を高め、被差別者の反感を挑発するものであるということ。
三、今なお差別思想があるとはいえ、なにしろ解放以来五十余年を経過して、過去の事情はだんだん忘れられかけている。しかるにそれをわざわざ思い出させ、また知らぬ者にまで過去の差別のはなはだしかったことを知らせるのは、折角眠りかけた子供を叩き起し、癒えかけたきずを掻きむしるようなものだということ。
 これらはいずれも一面の理由があります。中にも現実の問題に直面して、その対策を講ずることは、今日の場合もっとも急を要することであり、またもちろんもっとも必要なことではありますが、しかしそれはいわゆる対症療法ともいうべきもので、熱の高い患者に氷をあてがい、心臓の弱った患者に強心剤を与えるようなものであります。それを怠ってならぬことはむろんでありますが、その一方に病気の原因を調査して、根本的治療を施すことがどうして不必要でありましょう。今日の差別観念は、一つに因習から来ているもので、その因習とはすなわち、歴史が作り上げたものにほかならぬのであります。しかもその歴史の根本を忘れて、単に差別のはなはだしかった時代の形骸かたちのみに囚われているのであります。したがってよくその歴史の真相を明らかにして、いわゆる因習に囚えられた世人の間違った考えを、根本から除くのでなかったならば、たとい対症療法によって、一旦表面の差別撤廃ができたとしましても、心から、底から、まったく融け合うということは、なかなか容易ではないと信ずるのであります。
 次に昔のことを水に流して、すっかり忘れてしまうということは、それがはたしてできるならば結構でありますが、それを近き将来において実現せしめるということは、事実上すこぶる困難だと存じます。しかるに世人がもし真に、その差別の起った理由をよく承知してくれさえすれば、容易に「なるほど」と、得心の行きうべきはずのものを、わざわざおし隠して、しいて暖味なものにして、奥歯に物の挟まったような感じを永く残さしめることは、かえって融和上不利益ではありますまいか、臭い物に蓋をするということも、時として必要な場合はありますが、この問題に対しては、私はむしろ一般世間の人々に、過去の間違った差別待遇の事実を知らしめ、一方その由って起ったところを明らかにしてもらうことが、その反省を促す上に必要だと思うのであります。もちろんこれがために、理解ある被差別者側の人々に対して、反感を起さしめるというようなことは、毛頭あろうとは思いません。
 最後の非難の理由とするところは、もっとも穏当な見解で、それが必要でないほどにまで、差別観念の減少しつつある地方においては、私もこんな宣伝は致したくはありません。しかし今日のような交通通信の行き届いた時代において、その地方をのみ、特にその宣伝から隔離せんとすることは、到底不可能な次第であります。現に関東地方の如き、私ども平素関西地方の実際を見慣れた目からこれをみますれば、よほど差別待遇が少くなっていると存じますが、それでもなお被差別者の側にとっては、相変らず不平不満のことがはなはだ多く、水平運動の波はたちまちこれらの地方にも及んで、これに対する差別者側の結束から、あの群馬県の世良田事件のような、恐ろしい結果を生じたではありませんか。私はやはりこれらの地方に向かっても、一般世間の人々に、その差別の起った理由を根本から知ってもらって、一日も早くその間違った因習的観念を、除いてもらいたいものだと思うのであります。
 右の三箇条のほかにも、まだいろいろの非難を聞きます。いくら貧乏人だからとて、お前は貧乏人だと言われて不愉快を感ぜぬものはあるまい。まして遠い昔の襤褸ぼろをまでさらけ出して、エタだ非人だというような、聞くからにムッとするような言葉は聞きたくないというのがあります。なるほどごもっともです。ことの是非善悪にかかわらず、ともかく「エタ」とか、「非人」とかいう声を耳にしますれば、ただそれだけでたちまちムッとするほどにまで、世間の無理解なる差別的待遇は、被差別者側の人々をして、神経過敏ならしめているのであります。世間の差別者側の人々は、自分らがそう悪いこととは思わず、ほとんど無意識に行っている平素の差別的言動が、この人々をそれほどまでに苦しめているのかと、ただこれだけの事実を聞いただけででも、十分反省するところがなければなりません。しかし歴史研究の結果は、過去の差別待遇が、決して道理の上に成り立ったものではなかったことを教えています。そしてこの歴史知識を一般に普及せしめて、誤まった観念を根本から除かしめるがためには、一時いやな言葉を口にすることも、実際やむをえないことと存じます。私とても決してそんな不愉快な言葉を、口にしたくはありません。できるならば日本語の辞典から、そんな語を除いてしまいたいのでありますが、歴史の説明上からはまったくやむをえないのであります。そして、世人がよく歴史を諒解し、その差別観念を除いてくれさえしますれば、もはやそんないやな語を繰り返す必要もなく、またかりにそんな語を口にし、耳にしましても、決して不愉快を感じなくなることと信じているのであります。
 このほかにまだ、人間も三年経てば三つになる。どんな御馳走でもそうしいられては飽きてくる。いつまでも同じ歴史の繰り言は聞きたくないというのがあります。これもごもっともです。しかしこれらの人々は、すでに十分歴史的知識を得られた方であり、もはや差別思想を有せられないはずの方であると信じます。したがって私はこれらの方に向かっては、その以上しつこく聞いてもらおうとは思いません。しかしまだ世間には、これを聞いてもらうべき必要がある人々の多いことを確信して、繰り返し宣伝をしているのであります。したがってこれをうるさいと思われる方々は、どうか私の宣伝に耳を蔽い、目を閉じておっていただきたいのであります。
 最後に、喜田は歴史を喰い物にして、それを押売りする不徳漢だとか、喜田は歴史研究の結果をげて、しいて融和の援兵に使っている、偽学者だとかいう非難があります。かくの如き人身攻撃的非難に対しては、私はあえて弁明をする必要を認めません。しかし歴史研究の結果を枉げ、学術的良心にそむいてまで、しいて融和の道具に使っているということについては、どこまでもそのしからざることを弁解せねばなりません。もとより私も人間である以上、研究に不十分な点が絶対にないとは申されません。したがってもし私の申す事実に、誤まりがあるならば、なにとぞ証拠を挙げて御教示を願いたい。私はただ私の現在の研究において、確信するところをもって融和の宣伝に応用しているまでであります。

 いわゆる特殊部落の歴史を述べますには、まずはじめにその大体を承知しておいてもらいまして、さらにその各部分に対して、くわしい説明を加える方が、都合がよろしいことと存じます。
 私の今日までの研究の結果によりますと、いわゆる特殊部落の人々の祖先、すなわち過去においてエタとか非人とかいうような、嫌な名目をもって呼ばれた人々は、多くは同情すべき社会の落伍者の末でありまして、決して民族上一般民衆と相違のないものだとのことを明らかにするを得ました。すなわちみな同一の日本民族であるのであります。しかるにその落伍者が、階級意識の盛んな時代において、自然賤しい者として待遇せられ、子孫相つぐに及んで、ますますその差別がひどくなってきた上に、一方には穢れに関する迷信にわずらわされて、ついにはなはだしく忌避せられるに至ったものだとのことを知るを得ました。もちろんこれらの落伍者の流れの末にも、種々いろいろの区別ができました。中にも長吏すなわちこれら落伍者中の首領たるものの多くは、皮革業を独り占めにし、太古以来の習慣たる肉食の風習をめなかったがために、「特に身に穢れがある」との迷信から、後には「穢れ多し」という、忌まわしい「穢多」の名を負わされて、ことさらに世間から隔離せられました。かくて同じ流れの落伍者でも、他の職業に従事したものは、その職業の性質によって、だんだん解放せられましたが、ひとり皮革に因む職業に従事した人々ばかりは、最後までも取り遺されまして、一方にはその人口の非常なる増加と相俟って、生活難の結果ついに社会のドン底に落ちこむに至ったものだということを確信するを得ました。
 しからばこれを今日の社会の状態と比較しましたならば、過去にエタといい、非人といって、まるで人間以外のものであるかの如くにまで思われた人々も、その先祖を尋ねてみますと、実は今日孤児院や養育院に収容せられて、世間の扶助によって生活しているものや、あるいは遠く郷里を離れて、住宅を有せず、やっと木賃宿生活をなしつつ、その日その日の労働に衣食する、いわゆる自由労働者等と、なんらの区別のあるものではありません。かくてその流れはいろいろの職業に分かれまして、中には早く解放せられたものも少くありません。現に今日社会に闊歩している立派な地位職業の人々の中にも、よくその過去を洗ってみたならば、かつては同じ落伍者の流れの末であったものが、はなはだ多いのであります。ただその同じ落伍者の流れの中でも、特に長吏として皮革業に従事し、肉食の古風を伝えていたもののみが穢れ多しとして、ことさらに差別されたにすぎないのであります。されば今日世間の一般が肉食を常として、決してこれを穢れとしないのであってみれば、今にしてこれを差別すべき理由がどこにありましょう。ことに子孫たるものが、何も先祖の身分職業をつがねばならぬという理由もなく、国法をもって解放せられてからでもすでに六十年に近い今日においてをやです。私はこれからこの歴史事実を説明して、一般世間の人々の諒解を請い、誤まった差別の観念を根本から除いてもらって、融和の一助ともなしたいと思うのであります。

 わが古代には、国法をもって一般民衆を良民と賤民とに区別してありました。良民とは普通の平民で、国家の公民であり、賤民とは公民の資格を有しない下級民です。
 賤民の存在はすでに上古から認められておりました。大化の改新以前の時代にあっては、上に天皇陛下がましまし、その下に多くの貴族ともいうべきものがあり、またその貴族には、それぞれ多くの土地人民が付属しておりました。その付属民はこれを部曲ぶきょくといい、天皇陛下の直属の民ではなく、各自その主人の下に、代々相ついで農業工業等に従事した、言わば半自由民の身分でありました。そして賤民はさらにその下に置かれたのです。
 賤民の起原は種々ありましょう。あるいは罪を犯してその産を没収せられたもの、あるいは貧乏してその身を売ったもの、あるいは悪漢わるものに誘拐せられたり、親兄弟のために売られたりしたもの等、その起原にはいろいろありましょうが、いずれも奴隷の身分にいるもので、特別の事情があって解放せられる場合がなかったならば、子孫いつまでも父祖の身分をつがなければならなかったのです。むろんその賤民のうちにも、国家に属したものと、個人に属したものとありまして、いずれも下級の労役に服したものと存じます。
 天皇陛下は上にましまして、多くの貴族のおさにておわしたばかりでなく、御自身にも直属の土地人民を御所有になりました。その土地を耕す農民を田部とも、オオミタカラとも申しました。田部とは田を耕作する仲間ということで、それが訛ってタミ(民)という語ができました。またオオミタカラとは、天皇の大御田おおみたを耕すヤカラ(族)ということで、すなわち公民であります。この公民に対して貴族の付属民は私民であり、その下にさらに公私の奴隷があった訳です。
 しかるに今から千二百八十余年前に、大化の改新という政治上の大改革がありまして、これまで貴族等の有した私地私民を国家に収め、ことごとくこれを公地公民と致しました。すなわち従来半自由民であった部曲の民は、みな一様にオオミタカラとなった訳です。そしてその大御田族おおみたからなる公民には、男には二たんずつ、女には一段百二十歩ずつ、老幼に論なくことごとく公田を割り与えました。すなわち公民はことごとく地主であり、農民であることとなったのです。そしてそれが国法上にいわゆる良民なるものなのです。
 何故なにゆえに農業があらゆる職業のうちでも尊いものであり、農民のみが公民として、社会に高い地位を占めるようになったのでありましょうか。
 社会の文化なお低く、社会組織の単純な古代にあっては、人生にとって何よりもまず第一に重きをなすものは、食物でありました。そしてこれに次ぐものは衣服でありました。住居はよしや粗末な掘立小屋、あるいは蒲鉾小屋のようなものでありましても、それで雨露が凌げさえすればまず足るとしまして、第一に食物がなければ生きて行くことができません。そしてそれに次ぐものは衣服で、この二つは人生にもっとも必要なものでありました。したがって自らこれを生産するもののみが、自主独立の生活を営みうる訳で、その他のものは、みなこれに頼って生活の資を求めねばならなかったのです。これいわゆる「農は生民の本」なるものです。ここにおいてか食物衣服の生産者と、その供給を受ける者との間に、自然身分の相違が生じて参ります。そしてその食物衣服の生産者とは、自己の田を耕し、自己の畑に麻や桑を植えて、自ら農耕紡織の業に従事する農民のみであります。農民以外の者は、みな必ず農民に頼って生活せねばならなかったのです。農民はまた一方には、その生産の一部を租税として国家に提供し、国家を維持するの費用を供給します。したがって彼らのみが公民の資格を有し、いわゆる良民として認められました。いわゆる「農は国家の本」なるものです。
 農民を一つに百姓という。昔は公民にはみなうじがありました。そこで一切の公民を総称して百姓といったのですが、その公民はただちにみな農民でありましたから、ついには農民をただちに百姓と呼ぶことになったのです。
 百姓以外のものはすなわち非公民で、それには雑戸ざっこと賤民との別がありました。大化の改新に際して、従来の部曲ぶきょくたる半自由民が解放せられて、公民となった際にも、彼らは取り遺されたものなのです。
 雑戸とは官庁に属して、工業その他の雑役等に従事するものです。官庁に属せぬもので、同じ職業にきたものもむろんたくさんありましょうが、それらもやはり、公民の資格を得ることのできなかったもので、多くは落伍者がこれに従事したと思われます。したがってその身分は、もし人民を良民と賤民との二つに分けましたならば、むろん賤民の部類に属するはずですが、普通の賤民というのとは違って、まず良民と賤民との中間におりました。古い言葉に「間人かんじん」と書いて、「マヒト」または「ハシヒト」というのがあります。ハシヒトは「土師人はしひと」の義で、土器を焼いたり、葬儀のことにあずかったりしたものの名称ですが、それがちょうど普通民と賤民との中間におったので、マヒトすなわち中間人を、ハシヒトともいったとみえます。後世低級の使用人を「中間ちゅうげん」とも、「ハシタ」ともいったのは、やはり同じ意味で、ハシタはすなわちハシヒトの訛りであります。
 彼らは工業その他の雑役に服するもので、賤民というほどではなくとも、何かの事情で良民の資格を得ることができなかったり、また良民の資格を失ったものらがこれに当てられて、代々父祖の職業を伝えたものでしたが、奈良朝の頃にはその身分をのぼせて、平民と同じ扱いになりました。
 賤民とは、大体において奴隷階級のもので、国法上には、家人、奴婢、陵戸の三つに分かれていました。むろん良民と通婚することも許されず、社会的にまったく別扱いとなっていたのです。その家人と奴婢とには、官に付いたものと、個人に属したものとの二た通りありまして、結局五種の賤民があったのです。その中で家人と奴婢とは、他の付属として同じく奴隷の身分ではありますが、これを区別していいますと、家人はともかく自分で家を持った通いの番頭で、奴婢は住み込みの丁稚でっち小僧というように、身分上に上下の区別がありました。しかしそれはただ身分上の区別だけで、本来人間そのものに区別があるのではありませんから、奴婢をのぼせて家人にすることもできれば、奴婢や家人を解放して、良民となすこともできるのであります。してみればこれは単に境遇上の差別でありまして、もちろん民族上の問題ではありません。それを国法上厳重に差別しましたのは、一つは所有者の財産権擁護と、一つは社会の階級秩序の維持のためとであったにほかならんのであります。されば個人に属した家人や奴婢が、乱世に武芸を練磨して、その主人の身辺みのまわりを警固し、主人のために敵と戦うようになりましては、身分はやはり家人なり奴婢なりでありましても、実際は立派な武士であります。中世以後武士を「さむらい」と申すのは、主人のかたわらにさむろうて、身の回りの面倒をみたり、主人のために雑役に従事したためであります。しかもその侍たるものが、主人のために働いて、その主人が立派な身分のものになりますれば、侍も自然これに伴って立派な身分になります。源頼朝が征夷大将軍として、天下の政権を掌握するようになりましては、その侍たる鎌倉武士らは、相変らず家人という国法上では賤民の名称を有しながら、事実は大名小名となり、国法上良民であるはずの百姓らを、脚下あしもとに踏みにじるほどの高い身分となりました。しかしこれがためにあらゆる家人奴婢が立派な身分になったと早合点してはなりません。これは成功した側のことのみで、失敗した側の家人奴婢らは、いっそうみじめな身分に墜落したことは申すまでもありません。後世のいわゆる特殊部落の中には、往々にして平家の落武者だなどといっているのがありますが、まんざらでたらめだとのみは申されません。
 陵戸は厳格にいえば雑戸の一種でありまして、諸陵寮に属して、陵墓のお守や、御葬式の雑役に服するものでありますが、その職務が穢れに触れるものでありますから、他の雑戸とは区別せられて、自然賤民の階級に置かれ、奈良朝に雑戸が解放せられまして、平民の身分を得た際にも、その恩典に与るをえなかったものとみえます。

 前章に述べた雑戸や、家人、奴婢、陵戸の類は、その身分は賤しくとも、ともかく国家からその存在を認められたもので、それぞれに戸籍もありましたが、その以外に同じこの島国に住みながらも、国家の戸籍に漏れて、国法上その存在を認められないものがたくさんありました。いわゆる浮浪民たる無籍者です。
 浮浪民となったものは、はじめから遊牧的の浮浪生活をつづけ、あるいはその居所いどころが山間僻地にあって、国家の監督の目から漏れ、公民の戸籍に編入せられるの機会を得なかったものもありましょうが、多くは一旦公民となっていたものが、なんらかの事情でその本籍地から逃亡したものなのです。
 浮浪民と申しましても、必ずしも常にその居所を定めず、各地を浮浪していたものばかりではありません。中にはすでに一定の居所を定め、部落を作っているものがありましても、一旦すでに公民の戸籍が定まり、国民の身分ができてしまった以上、新たにその戸籍に編入せられるまでは、やはり浮浪民として取り扱われたのでした。もっとも国家施政上の方針としては、なるべくこれをその本籍に返し、あるいは新たに公民に取り立てることにはなっていましたが、どうで逃亡するくらいのものが、よしや本籍に帰りましたところで、うまく納まらない場合が多く、ことに一旦社会の落伍者として、公民すなわち農民によって衣食の資を得るようなものであってみれば、自然社会から賤視せられて、実際上それを一緒にすることは容易でありませんでした。これがために、後には浮浪民の部落の存在が国家から認められて、その戸籍までができているような場合がありましても、やはり浮浪民は浮浪民として別扱いになっておりました。
 彼らはむろん、国法上にいわゆる賤民ではありません。しかし実際にはやはり一種の賤民として、否むしろいわゆる賤民以上の賤民として、社会から待遇せられることを免れませんでした。彼らは土地を有せず、自ら食物を生産致しません。したがって彼らは雑戸の民と同じように、工業、商業、遊芸等に従事し、あるいは公民に雇われて下級の労働に服し、その報酬を得て生活したものであります。このことは後に至ってさらに詳しく述べますが、ともかく彼らは公民によって生命をつないでいたものでありますから、社会的地位が自然に低くなるのはやむをえなかったのです。これは今日の思想からみればいかにも不思議な現象で、工業にもせよ、商業にもせよ、あるいは遊芸、労働等にもせよ、相当の物品なり、便宜なり、あるいは娯楽なり労力なりを提供して、その代償として衣食の資を要求するのであってみれば、言わば対等の交換で、双方人間としての地位に上下貴賤の別のあるべきはずはありませんが、まず生きるが第一の時代においては、そのもっとも必要なる物資を供給する農民が、ことに社会に重きをなすのは実際やむをえませんでした。農民以外のものは、農民に品物を買ってもらって、あるいは遊芸なり労働なりをさせてもらって、それで生命をつないでいるという訳なのでした。すなわち百姓から食を乞う「乞食」なのです。奈良朝時代の歌集なる『万葉集』に、乞食の歌というのが二つありますが、一つは漁師の歌、一つは猟人かりゅうどの歌です。漁師や猟人が魚や獣肉や皮革を提供しまして、その代償として農民から主食物たる五穀を得る場合にでも、これを乞食とみておったものとみえます。すなわち農民以外のものは、農民からみればみな乞食でありました。かくの如き時代において、国家の公民として田地の割り当てに与らなかった落伍者たる人々は、もとより地主でなく、農業はできません。幸いに農家に雇われて、自身耕作に従事しましても、それはやはり働かせてもらって、生きさせていただいている訳ですから、農奴ともいうべきものでありました。この以外自身に一定の職業なく、居所を定めず、真に浮浪の生活をなしつつ、生産者たる農民の慈悲善根に訴えて、無条件に衣食を乞うが如きやからは、真の乞食で、これは論外でありますが、農業以外の雑多の職業は、大体において自然公民以外の落伍者の従事するものとなりましたから、はてはその職業そのものまでが、いっそう世間から賤視せられることとなりました。後世武士が勢力を得て、農民の上に立ち、工業、商業が、立派な独立の営業となった時代においても、なお士農工商と順序して、工商の地位を農民の下に置きましたのは、かかる沿革があったためです。そのほか今のいわゆる自由労働者の徒や、俳優等遊芸者の類は、もちろん問題以外であったのです。
 なおまた浮浪民の賤しまれた理由の一つには、彼らが「きたにん」となったということをも数えなければなりません。ひとしく浮浪民という中にも、他に依頼せずして、独立の部落を作って生活することのできたものは、たとい他から賤視せられて、通婚を拒否せられるような場合はあるとしても、ともかく社会的地位はやや良好な方でありまして、後世ではたいてい普通部落と差別のないようになっておりますが、村落都邑とゆうに流れついて、そこに生活の本拠を定め、その村落都邑の人々によって生活しましたものは、それが特別の技能、来歴、人格等を有するものでなかったならば、自然と先住の土着民からは、「来り人」として、永く差別せられることを免れません。それも無理ならぬことで、今日の如く交通通信の自由な時代であるならば、その来住の理由も、その以前の素性も、これを明らかにすることが容易でありますが、交通通信の至って不便な古代にあっては、土着人がまずもって新来者に対して、軽蔑の目をもってこれを見るのも、やむをえぬ次第でありました。そこに知己親戚等の保護者があって、それを保証でもするならば格別、ただふらりと流れて来ただけであっては、本来どこの何者だかわかりもせず、郷里でどんな失敗をしたか、罪悪を犯したかも不明なのでありますから、先住の土着人がそれを親しまなかったのも無理はありません。また実際上、故障もなく安穏に郷里で生活しうるほどのものが、そんな時代にわざわざ郷里を離れて、知らぬ他郷に流寓るぐうするはずもないのですから、来り人とあってはどうで碌なものでないと思われても、彼らにとってはまったく致し方がなかったのです。そこで新来のいわゆる来り人なるものは、土着人からの屈辱に甘んじながら、依然浮浪民の待遇を受けながら、ともかくその村落都邑の場末の空地にでも小屋住居ずまいをして、土着の人々に仕事をさせてもらって、生活せねばならぬことになります。しかもその仕事といっても、地主に雇われて農奴となるとか、あるいは農業以外の雑職に従事するのでありますから、ますます賤視されるに至るのはやむをえません。中には勤倹努力の結果として、そこで産を興し、立派な人格を有するような人が出てきても、今になお来り人の筋として、結婚の場合にこれを忌避する地方がいくらもあります。いわんやその撰んだ職業の性質によりまして、ますます賤視されるに至る場合のあるのは、階級意識の盛んな時代にありましては、実際やむをえぬ次第でありました。そしていわゆるエタとか非人とか言われた人々は、多くこの仲間から起ったのであります。

 言うまでもなく浮浪民は、社会の落伍者であります。彼らの多数は一旦公民権を得ていたものでありましたが、その社会から落伍して、本籍地にいられなくなったものなのです。
 社会に落伍者のできることは、いつの時代にも免れません。落伍者となるにはもちろん種々の原因があります。あるいは病気のために、あるいは事業上の失敗のために、あるいは犯せる罪悪のためになど、その原因はいろいろありまして、中には自身その責任を負わねばならぬものもありましょうが、その多くは実に同情すべき人々であります。しかもこれらの原因から生じた落伍者は、数においては比較的少いもので、もっとも多く落伍者の一時に起るのは、飢饉その他の不可抗力の天災や、あるいは戦争、その他当路者の悪政の結果等であります。そしてこれらの犠牲となって、特に同情すべき落伍者が多数に発生するのであります。
 今日では明治以来の文明のありがたい御代のお蔭で、よしや大きな天災がありましても、なんとか治まりがついて参りますが、昔は決してそうではありませんでした。先年の関東大震火災の際の如きも、手当てが早く行き届きましたから、気の毒な罹災者もたいていは復興の途につくことができましたが、あれがもし昔の時代に起ったとしたらどうであったでありましょう。身になんら犯した罪も過ちもあるではなく、ただ不可抗力の天災というだけの原因で、一時に数十万人の気の毒な落伍者ができたのでした。富者も、貧者も、学者も、無教育者も、商工業者も、労働者も、みな一斉に衣食住のすべてを奪われたのでした。もしこの際において、交通通信の機関が今日のように整っているのでなかったならば、ああ早く罹災者を急に地方へ送り出すこともできなければ、地方から食物衣服を送って来ることもそう急には運びません。急設のバラックもああはできますまい。幸いにして焼死圧死を免れたものも、喰うに食なく、着るに衣なく、住むに家がないという大騒ぎで、無事であったものでもたちまち食物に窮します。かくて多数のものは飢え死にしましょうが、一方には掠奪が始まりましょう。いずれにしても大した騒ぎになったに相違ありません。そして永久に復興しえざる落伍者が、多数にできたに相違ありません。私は昨年岩手県へ参りまして、盛岡市の郊外の史蹟を視察いたしましたが、道の辻や、寺の門前などに、「餓死供養塔」だの、あるいは「餓死亡霊供養塔」などという石碑が、はなはだ多いのに驚かされました。また佐賀県へ参りました時には、その佐賀郡川上村に、享保十七八年の飢饉のために、川上一郷のみで餓死者二千六百四十余人を出したという、恐ろしい紀念の供養塔のあるのを聞きまして、はなはだしく驚かされたことでありました。しかしこれはたまたまその石碑が建っているがために、ことさらに深く後人こうじんを感ぜしめるのでありまして、その碑のない地方においても、それと似た事実は、実際上たびたびあったのであります。
 室町時代寛正二年には、前年に諸国が大旱おおひでりで、米が取れなかったがために、各地に多数の餓死者が出ましたが、その生き残ったものも、郷里にいては喰えぬので、盛んに京都に流れて参りました。しかし京都にはもう食物がある訳ではありません。またそう多勢の人を要するほどの仕事もありません。これがために、ここでもはなはだ多くの餓死者ができました。中にはむろん、京都土着の人もありましょうが、多くは地方から流れて来たものらしく、その数正月二月の二ヶ月間に、八万二千に達したといいます。これは篤志のある坊さんが、右の二ヶ月の間に、死者を見る毎にそれに回向して、一つずつ小さい木の卒塔婆を、死骸の上に置いた数で知れたのでありましたから、この以外にも必ず餓死者は多かったことでありましょう。当時鴨川の如きは、ほとんど死骸のために流れが塞がるくらいで、四条五条の橋の下に、大きな穴を穿って、一つの穴に二千人ずつを埋めたとも書いてあります。またこの際、越前河口の一庄だけでも、去年の冬からこの夏までに餓死したものが、九千二百六十八人、逐電したものが七百五十七人に達しました。これはただ寛正二年だけのことで、また場所も京都と河口一庄とだけのことですが、他の時代にも、また他の地方にも、これに似たものがしばしばあったでありましょう。そしてその地方から逐電したものは、多数京都やあるいはその他の村落都邑に流れついて、さらにそこで餓死したり、気の毒な落伍者となってしまったりしたのが多かったのでありましょう。
 さらに昔の国内の戦争が、いかに多数の落伍者を作ったかは、今さら言うまでもありますまい。戦場となった所では、村落や田畠が無残にも荒らされる。住民は人夫に徴発されたり、その貯えを掠奪されたり、側杖を喰って生命をまでも失ったりするばかりでなく、永く戦争が続いたような場合には、一般に産業がはなはだしく衰える。すべてが貧乏してしまう。のみならず、戦敗者の側に立った人々は、実にみじめなもので、幸いに生命いのちの助かった落人も、いわゆる尾羽おは打ち枯らした浪人として、吹く風の音にも心を配りつつ、世を忍んで生きて行かねばなりません。前にも申した通り、今も現にいわゆる特殊部落のあるものが、往々にして平家の落人だなどと称しているのも、必ずしもよい加減のものだとのみ言われぬ場合もありましょう。
 最後に、専制時代における統治者の圧制が、いかにはなはだしく良民を苦しめたかは、これまたほとんど想像以上のものでありました。外面いかにも華やかに見える平安朝時代においても、その華やかなのは実は上流貴族社会にのみ限られたものであって、一般庶民はほとんどこれに与りませんでした。承和といえばまだ政治もそうみだれぬ古い時代でありましたが、その九年に京都の鴨河原や島田に転がっていた髑髏しゃれこうべの数が、五千六百余頭もあったというほどです。もっていかに庶民の生活が悲惨であったかが察せられましょう。この頃には人が死にましても葬ることもせず、野原や河原へ持って行って、屍骸を捨てるのが普通でありました。みちそばに行き倒れても、収めるものすらなかったほどでありました。ことに藤原氏が専横をきわめて、争って天下の土地を占有するようになりましては、公民たる農民も事実水呑百姓の状態ありさまになってしまいました。こうなっては公民という資格はもはや何の役にも立ちません。しかもその肩書きがあって、国家の戸籍帳簿に載っているばっかりに、地方官からは何かと名をつけてしきりに取り立てられます。人足に徴発せられます。国家の保護を受けることは少くて、苦しめられることが多いのです。それがつらさに、どうかして役にも立たぬ公民権を捨ててしまおうとしましても、ちょうど潰れた会社の新株を持っていて、捨てようとしても容易に捨てることができないで、あとへあとへと払込みさせられると同じように、いつまでもいつまでも責め立てられます。そこでやむをえず、頭を丸め、法衣ころもを着て、廻国の修行者となって、浮浪の旅に出かけます。つまり郷里を逃亡するのです。またそうまでにはならないものでも、勝手に出家して課役のかからぬ法師となり、公民の戸籍から削ってもらう工夫を始めました。出家はすなわち「家を出る」で、在家の公民ではありません。内々には相変らず家に住んでいましても、もはや国家の戸籍から削られて、公民でなくなれば、地方官もそれに課役をかけることはできません。かくてこの課役忌避の偽法師が、年を経るにしたがって大層たくさんにできました。延喜といえば今から千十余年の昔ですが、その頃の文章もんじょう博士三善清行の上奏の文によると、当時の天下の民の三分の二は、みなこの偽法師仲間であったとあります。いかにも仰山な書き方のように思われますが、事実はさらにそれよりもひどかったようです。それは幸いに遺っている当時の戸籍によって知ることができます。延喜二年の阿波国の戸籍には、五百五十人の中に男はわずかに六十七人で、女の数の七分の一弱しかありません。かりに実際は男女同数であったとしますならば、男子の七分の六強は、みな公民の戸籍から逃げ出して、無籍者となり、課役のかからぬ婦人のみが、公民の戸籍に残っていたのであります。これはことにひどい地方でありましょうが、大体において男子の三分の二が、公民籍から除かれたということは、決して懸値かけねのないところでありましょう。そしてこれらの無籍者たる課役忌避の偽法師の中には、事実逃亡して他郷に浮浪し、あるいは他の村落都邑に寄生して、わずかに露命をつなぐというものがかなり多かったでありましょう。
 かくの如く、天災、戦争、悪政等の結果として、昔は一時にはなはだ多数の落伍者が発生しました。そして彼らは、どんな道に流れて行ったでありましょう。

 落伍者たる浮浪民が、農業以外の雑職に従事して生活したことについては、すでに簡単に述べておきましたが、ここにさらにやや詳しく、その流れ行く道を説明したいと思います。
 不幸にして落伍者となったものは、一旦落ち込んだかぎり、生涯それから脱出しえないはずのものでもなければ、もちろんその子孫までが、永久に、それを世襲せしめらるべきはずのものでもありません。人間には七転び八起きということもある。死後のことはいざ知らず、現世においては永劫浮かぶ瀬のない無間むげん地獄というものはないはずです。したがってそれから出世して、社会に立派な地位を占め得たものも少くありません。しかるに不幸にして、時代の思想と、社会の迷信との犠牲となって、永く後世に取り残されたものも、むろん多数でありました。そしてその末がいくつもに分かれた中において、一番貧乏籤を引きあてたのが、今のいわゆる特殊部落の人々の祖先でありました。
 その原因はどうであったとしましても、ともかく一旦社会の落伍者となりまして、着るに衣なく、喰うに食なく、住むに家なく、さりとて働こうにも仕事がなく、またこれを世話すべき親類縁者や友人もないというような、行き詰まった境遇に落ちたとしますれば、彼らははたしてどうすればよいでありましょう。その多くはいわゆる「飢えたるものは食を撰ばず」で、恥も外聞も顧るに暇なく、まずもって活きるの道にのみ向かって突進するに相違ありません。もし万一それをなすを潔しとせず、あるいはそれをもなしえないほどのものは、あるいは自殺したり、あるいは餓死したりしたでありましょう。自殺したり、餓死したりしたものは、永久に世間から失われて、なんらの問題を遺しますまいが、きるの道に突進したものは、社会上に種々の問題を惹き起しました。そのある者は盗賊となります。現にはなはだしく餓えに責められて、どうしても食を得られぬ場合、別して無邪気なる可憐の児童に餓えを訴えられ、目の前の食物をせがまれては、どんなに堅いと言われた人でも、つい他人の物に手を出すようにもなりましょう。これはよく小説や、浄瑠璃、歌舞伎などの材料となりまして、読者や見物客を泣かせる筋で、いわゆるやむにやまれぬ気の毒な犯罪者であります。しかしそれが度重なれば、ついには窃盗せっとう常習者ともなり、切取強盗の恐るべきものともなります。いわんや世をのろい、時を憤る、元気の盛んな、かつ腕っ節の強い連中が、一方にはたまたま免れて、不義の富貴に太平楽を極めこんでいるものの、あるのを見ましたならば、ついにはとって活きるの道に出るようになるのも、実際やむをえない自然の成り行きであったでありましょう。ことにそれが世間の秩序のはなはだしく乱れた時代であったならば、いっそうはなはだしいものとなるに相違ありません。かの平安朝末期や、戦国時代の武士大名達の中には、事実かくの如きやからから、身を起したものが少くないのであります。いわゆる「切取強盗は武士の習い」でありました。
 しかしそんな切取強盗になるほどの元気もなく、さりとて容易に活きるべき適当な職業にもありつきえないというものは、やむをえずどんな賤しい職にでも従事する。人の嫌がる仕事でも、かまわずさせてもらう。犬殺しもやれば、牛馬の皮剥ぎもやる。火付盗賊の警固でも、罪人の断罪でも、なんでもかまわずやらねばなりません。こんなともがらから、昔のいわゆるエタや非人はできたのです。されば露骨にこれをいいますと、大名や武士と、エタや非人との相違は、乱世において先祖が切取強盗をやったか、あるいは犬殺し、皮剥ぎをやったかという相違から、ついには身分上大きな相違が起ったという場合も少くないと言えましょう。すなわちもとは同じ流れのものが、ただ人殺しや、盗賊をなしえたか、なしえなかったかという、ただそれだけの相違です。
 あるいは靴作り、弓弦作り、竹細工などの家内工業に従事するもの、また肩に天秤棒をかつぎ、頭に籠をいただき、背に風呂敷包を負うて、各地に行商するものなどもできる。この輩から、工業家、商業家などができる。しかしそのいずれをもなしえなかったような懦弱だじゃくなものは、やむをえず人の門に立ち、袖にすがって憐みを乞う、すなわち乞食となるのです。しかし単に憐みを乞うだけでは、十分に生活を続けて行くことができません。そこで気の利いたものは、遊芸を演じて米銭を貰う、あるいは婦人は婬をひさぐ、この輩が遊芸者や遊女などになるのです。遊芸者もまたもとは乞食の一種として、世間から扱われていました。今では芸術家などと呼ばれて、かなり社会に重んぜられる俳優の徒の如きも、かつては河原者とも、河原乞食とも言われたものであります。

 ここに河原者とは、もと河原に小屋住居ずまいした落伍者のことであります。ゆえにあるいは小屋者ともいいました。田舎で喰いつめた者は、自然都会に流れて来る。都会には住民が多く、仕事にありつきやすいがためです。今でも東京や大阪へ、諸国から多くの落伍者が流れついて、自由労働者の名の下に、木賃宿などに陣取って、その日その日の労働に生活しているものが少くありません。昔にあっては、この輩は、当時日本第一の繁華であった京都に多く流れて来ました。しかるにその頃は、木賃宿というような都合のよいものがありませんでしたから、彼らは多く賀茂川の河原に、空地を求めて小屋住居をしました、いわゆる河原者です。
 あるいは東山の坂に小屋をかけて、雨露を凌いでおります。これを坂の者と申します。河原者というも、坂の者というも、つまりは同じ流れの浮浪民の、半永久的定住地を求めたものの称でありまして、今に浮浪民のことをサンカものと呼ぶ地方のあるのは、「坂の者」、すなわち「サンカ者」の訛りであります。
 あるいは同じ仲間に散所さんじょの者と呼ばれたものもありました。けだし浮浪民の生きんがために流れつくのは、必ずしも京都の如き大都会とのみにはかぎりません。縁を求めて所々の村落都邑の場末に小屋住居して、その村落都邑の人々によって、生活したものもかなり多かったのであります。それを散所の者と呼んだのは、各地に散在しおるの義であったかもしれませぬ。
 つまりは河原者といい、坂の者といい、散所の者というも、もとは同一の社会の落伍者で、ただその住居すまいの様子から、名を異にしたにすぎないのであります。そしてこの輩から、種々いろいろのいわゆる賤職者が出たのであります。いにしえこれらの賤職者を総称してさがり者ともいったのは、けだし成り下り者の義で、普通民の落伍者となって、成り下った者だとのことであります。
 鎌倉時代にできた『塵袋』という本には、河原者を「キヨメ」というとあります。「キヨメ」とは文字に「浄人」と書いて、京都の町の穢いものを掃除する人夫のことです。彼らは河原に小屋住居して、市街の掃除、汚れ物の片付けなどに従事し、いくらかの手当てを得て生活していたのでありましょう。もちろん河原者のすべてが、掃除ばかりをやっているはずもありませんが、中にもキヨメが多く都人士みやこびとの目に映ったので、同じ仲間の河原者を、その頃一般的にそう呼んだのでありましょう。ある時五位の蔵人くろうどのお役をつとめる公家衆が、革堂こうどうに参詣して、盛装した妙齢の婦人に出会い、そのあでやかな姿に引きつけられて、跡をつけて行ったところが、一条河原のキヨメの小屋に入って、とてもあなたの如き尊いお方に、近づくべき身分ではないとのことをいったという話もある。彼らは賤しい最下級の労働者でありながら、一方にはそんな優美な半面もあったのです。
 真言宗の本山たる京都の東寺には、掃除散所法師という下級の法師があって、境内の掃除や警固のことを担当しておりました。これは猪熊信濃小路に部落を作っていた散所の者で、やはりキヨメとして使われていたのです。
 清水坂の坂の者は祇園感神院、すなわち今の八坂神社に付属して、これも境内の掃除警固等の任に当たっておりました。これを犬神人いぬじにんとも、ツルメソともいいました。ツルメソとは彼らが一方には副業として、弓弦を作るの家内工業に従事し、また一方ではその生産物を、「つるそうらへ/\」と、各地に呼び売りする行商人となっておりましたから、その呼び声を取ってツルメソと言われたのです。彼らはまた靴や弓箭をも作り、それを自分の小屋で店売りしておりました。それで一つに祇園の靴作りとも言われ、その居所を今に弓矢町と呼んでおります。また彼らは一方に葬儀に関係し、京都市中の葬式について、ある特権を持っておりました。
 摂津の西の宮えびす神社の近所におった散所部落のものは、えびすの人形を持って各地に徘徊し、これを舞わし、めでたいことを述べて、米や銭を貰って乞食生活しておりました。それがだんだん発達して、浄瑠璃に合わせて人形を使う人形芝居の起原となりました。それらの人々を世間では、やはり俳優と同じく、河原者とも、河原乞食ともいいましたが、それは河原者がキヨメの労役ばかりでなく、一方に人形も使えば、歌舞伎芝居もするという風に、遊芸の方面にも流れて行ったためなのです。
 つまり河原者といい、坂の者といい、散所の者というても、もとは同じ流れの落伍者の集まりでありましたから、その流れ行く道も同じようなもので、あるいは警固に、あるいは掃除に、あるいは工業、商業に、あるいは遊芸に、葬式にと、いろいろの職業に分かれたのです。そして後世では、遊芸方面のものに河原者または河原乞食の名がのこり、坂の者の訛りなるサンカ者の名が、本来の浮浪民の名称として呼ばれることになったのです。

 河原者、坂の者、散所の者らの落伍者を、かつては非人とも、また非人法師ともいいました。非人とは本来は非公民の義であります。文字には「人に非ず」と書きますが、これは公民すなわち日本帝国臣民のみを、「人」とみての上の言葉でありました。されば一旦公民であったものが、落伍者となって郷里を出奔し、ために公民権を失った場合には、昔ならばみな非人の仲間であったのです。大化の改新の政治において、公民はことごとく土地を均一に与えられて農民となりましたが、この際取り残された落伍者で、賤業に従事して生活したものの如きも、厳格にいえばやはり非人と申してよいのであったでありましょう。平安朝の地方官の悪政が、多数の落伍者を出したことは前にすでに述べましたが、当時課役を避けんがために、出家して公民権を放棄した法師の徒の如きは、明らかに非人法師でありました。その数は天下の三分の二に及んだと、三善清行はいっておりますが、しかしこれらのすべてが、郷里を去って浮浪民となった訳ではありません。彼らの多くはやはり家に住いして、妻子をたくわえ、口に※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさを喰うの徒だとありまして、在家の破戒法師であったのです。その中で特に境遇が悪く、郷里に止まることもできずして、落魄して他郷に出奔した浮浪人の如きは、落伍者中の落伍者、非人中の非人でありました。彼らは勢い他人によって生活しなければならなかったものですから、ことにその社会的地位の低いのはやむをえなかった次第です。
 これを厳格に申しますならば、ひとり課役忌避の非人法師ばかりでなく、いやしくも公民権を失ったものはすなわち非人で、出家得道して僧侶となったものの如きも、家を出たものすなわち国家の公民でないという理由から、やはり非人と言ってよいのかもしれませぬ。橘逸勢はやなりという人は、参議をもつとめましたほどの身分の人でありましたが、罪を犯して公民権を削られましたので、それを非人逸勢といいました。また源頼朝や北条泰時の帰依の厚かった一代の高僧たる、栂尾とがのお明恵みょうえ上人の如きすら、自ら「非人高弁」と名告なのっておられたくらいです。『万葉集』で乞食と言われた漁師猟人の如きも、やはり公民たる農民でないという理由から、同じく非人でありました。日蓮聖人は房州の漁師の子と生れられたお方です。そこで聖人は御自身に書かれたものに、御自分のことを「畜生の身なり」とも、また「身は人身にんしんにして畜身なり」とも言われております。漁師は非人であるから、人間に非ざる畜生だとの意味でありましょう。これは広く非人と呼ばれた浮浪人の社会的地位が、だんだん下落したについて、非公民だとのもとの意味が忘れられて、文字通り人類にあらず、畜生なりというように解せられるに至ったためであります。
 非人といい、非人法師という言葉の意義なり、その用例なりは、右のいくつかの例証でよくわかることと存じますが、しかし実際には、そんなに広い範囲にわたって、「非人」という言葉が用いられたものではありません。なるほど日蓮聖人の頃には、漁師や猟人の如きものまでも、明らかに非人という中へ数えておったようではありますが、後世そんなことは申さなくなりました。また天下の民の三分の二に及ぶとまで言われた課役忌避の在家法師の如きも、事実そう多数であってみれば、むしろ彼らの方が普通民でありますから、実際上それを非人とは申さなかったでありましょう。ただ彼らは、非公民として、いわゆる百姓でなくなりましたから、祖先以来の姓を失ってしまいました。また昔は百姓たる公民は、みな朝鮮人のように冠り物を冠ったものでありましたが、彼らは法師となりましたから、それを冠らなくなりました。そこでその子孫たる後世の百姓町人らは、祖先が法師であったことを忘れてしまった後になっても、なお多くは無姓であり、冠り物をも用いない習慣になっています。これは彼らの祖先がかつてこの非人法師の階級を経過した記念を止どめていたものであります。武士階級のものはやはり露頭ながらも、姓はこれを公称していましたが、これは相当の身分ができて後に唱え出したのが多いので、普通はやはりこの非人階級を経て来たものなのです。しかし実際上普通に非人と言われたものは、いわゆる落伍者中の落伍者、非人中の非人としての浮浪民たる、河原者、坂の者、散所の者の徒に限られていたことと存じます。
 なお非人ということの意味を、もっとも明瞭に説明しうるものは、徳川時代における諸国のお救い小屋の被収容者、特に京都の悲田院ひでんいんの被収容者であります。
 今日ならば自ら生活しえぬような気の毒な人々は、これを孤児院、養育院、養老院などへ収容します。そして国家なり、社会なり、有志の人々なりが、進んでこれが費用を負担し、これを衣食せしめ、一般世人もまた同情の眼をもってこれを迎えて、あえてこれを賤しみ、これを軽侮しようとは致しません。しかるに徳川時代にあっては、その収容所の名称からして、これをお救い小屋とも、または非人小屋とも称し、その被収容者を非人と呼んで、人間仲間には入れないものでありました。中にも京都には悲田院というのがあって、諸国から流れて来た気の毒な人々を収容することになっていましたが、その被収容者は、やはり非人と呼ばれたものでありました。悲田院とは、昔、光明皇后のお始めになったもので、今でいえばまさに孤児院、養育院、養老院に当たるものです。しかるにその名称をそのままに、徳川時代にはこれを非人小屋としていたのです。そしてそこで生れたものは、生れながらにして非人の階級に置かれたのでありましたから、後にはその数がだんだん殖えまして、ついには京都に六箇所の、悲田院の非人部落をなすほどにまでなりました。
 当初非人小屋に収容せられたものは、老人や、小児こどもや、病人、不具者など、自活のできぬものであったでありましょうが、その小児も年がたてば大人おとなとなる。病人だとていつまでも病気でいるものでなく、不具者にも子が生れるでありましょう。しかし一旦そこに収容せられたものは、足を洗って普通民となることは容易でありませんでした。それは一つの社会政策からも来たのです、非人という身分を賤しくしておかなかったならば、誰でも困ればすぐそこへ流れこんで来ますから、それを予防して、そこへ落ち込まぬようにと、奮発させるにも必要であったのです。今日ではこのふうがなくなりましたから、養育院入り志願の怠け者が多いので困っている状態です。
 そこで不幸にして一旦この階級に落ちた者は、幸いにして親類や縁者がありまして、それが保証して相当の手続きをして、引き取ってくれるならば格別、さもなければ、階級意識の盛んなこの時代において、世間へ出たからとて世人が相手にしてくれません。ことに諺にも、「乞食を三日すれば忘れられぬ」というように、一旦恥も外聞も忘れてしまったならば、その生活ほど気楽なものはありません。なまじその身分を保ち、名誉を維持しようとすればこそ、種々いろいろの苦労も心配も必要なのです。そこで一旦この境界に落ちこんだものは、ついに姑息に流れて、それが五年となり、十年となり、ついには子々孫々までそれを継承することとなるのです。もちろん彼らは無条件に、そこで養われているのではありません。やはり他の普通の落伍者が流れて行ったと同じように、警察監獄の事務を始めとして、あるいは筋肉労働、遊芸等、それぞれ自分に適することをつとめていたのではありますが、もともと落伍者となってそこに落ち込んできた以上、相変らず非人よ、小屋者よと賤視せられて、それを子孫に伝えたものなのでありました。
 そこで考えてみる。先年の関東に起った大震火災が、もしそんな時代に起ったのであったとしたら、その結果はどうであったでありましょう。前に述べたように、その多数は悲惨な終りを遂げ、あるいは浮ぶ瀬のない落伍者となったでありましょうが、それが今のありがたい昭代のお蔭によって、ともかくも無事に納まるところへ納まりました。ただし今日もなお今もって復興の実を挙ぐるをえず、相変らず公設のバラックに収容せられて、国家の世話になっている気の毒なものもないではありません。しかし世間はこれをみて、非人だ、小屋者だなどと軽蔑するものが一人でもあるでありましょうか、そのバラック村には出世村の名をつけて、他日の出世を期待祝福しているということが、いつかの新聞にみえていたのを記憶しておりますが、失礼な言い分ながら、昔ならばこの人々はいわゆる非人小屋の非人として、また小屋者として、子々孫々の末までも、永く社会の賤視を免れなかったに相違ないのであります。これを思うといわゆる非人なるものの地位も、ハッキリわかって来ようというものです。
 今日ならば確かに同情の涙をもって迎えらるべきはずの人々が、いかに昔の時代であったからとて、そうはなはだしく差別されるに至ったとは、今の人々にはちょっと諒解に苦しむほどの奇態な現象ではありますが、これは確かにその時代の、濃厚な階級意識の犠牲となったものでありました。
 その原因はいかにもあれ、ともかく不幸にして一旦社会の落伍者となり、他人の世話になって生活することになりますと、その世話する者は、世話せられる者にとっては生命の親たる恩人でありますから、これに対しては自分の一切を投げ出して、絶対的に服従せねばならなかったのです。すなわちその恩人に対しては、自身賤者の位置に立ち、いかなる屈辱をも忍ばねばならぬことになるのです。これは階級意識の盛んな時代において、実際やむをえぬことでありました。

 徳川時代も中頃以後には、当時の賤民と言われた人々を大別して、「エタ」と「非人」とに分けておりました。もっともこれは江戸の弾左衛門の法を標準とした幕府の扱い方でありまして、地方によっては、必ずしもそうとのみは参りませんでしたが、ともかくエタと非人との間には、筋目において区別があるものの如く考えられておりました。しかるに古い時代には、非人もエタも名称の上に区別がありませんでした。現に京都の悲田院の被収容者たる、いわゆる「非人」のことを、徳川時代天和頃にできた、『雍州府志ようしゅうふし』という本には、立派に「悲田院の穢多」と書いてあります。その当時には、確かにエタといっておったものとみえます。同時代寛永頃にできた『※(「さんずい+亘」、第3水準1-86-69)之道ないおんのみち』という本には、エタも、非人も、そのほかのいろいろの賤職に従事するものも、みな通じてサンカ者という仲間に入れてあります。山陰道筋にはハチヤと呼ばれた一種の賤民がありました。空也上人門流の念仏者で、警察事務や、竹細工などを行い、皮剥業をやりませんから、後世ではいわゆるエタとは明らかに区別されておりましたが、それも徳川時代初期の『陰徳太平記』などには、立派に「穢多」と書いてあります。また室町時代文安頃にできた、『※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢鈔あいのうしょう』という本には、「河原者をエッタという」と書いてあります。河原者は、鎌倉時代の『塵袋』には、「キヨメ」というとありますし、後世では遊芸者の名称になっておりますが、それを室町時代には、一般にエッタといったとみえます。
 エタとは本来屠者、すなわち獣類屠殺業者のことで、天竺の言葉では、これを旃陀羅せんだらといいます。日蓮聖人は漁師のお子でおわしたから、御自身の書かれたものに、御自分のことを「旃陀羅の子なり」とも、また「旃陀羅の家より出づ」とも言われておりますが、これはエタの子という意味です。しかし一方では、「身は人身にして畜身なり」とも、また「畜生の身なり」とも言われまして、人間でない畜生だ、非人だという意味を表わされております。これも非人をただちにエタといって、その間に差別をしなかった一つの証拠であります。そこで世間には、日蓮聖人はエタの子だなどと、よく悪口を言うものがありますが、広い意味からこれを言えば、魚類を殺す漁師もやはり一種の屠殺業者でありますから、それでエタだと言われたと解して差支えないかもしれませんが、しかし後世普通にいうところのエタとは、違った意味のものであることは申すまでもありません。
 しからば何故なにゆえに非人を、一つにエタともいったでありましょう。これには言葉の上に古今の沿革があります。
 エタとは元来「餌取えとり」ということで、鷹に喰わせる餌を取ることを職としたもの、すなわち後世の「餌差えさし」というと同様の職人のことでありました。後世ではもっぱら雀をもって鷹の餌となし、その雀を鳥黐とりもちで差して取りますから、それで餌差えさしということになったのですが、昔は鷹の餌は普通死牛馬の肉を用いたものでありました。したがってこれは自然屠者の職となり、ついには都人とじんの耳に、口に、聞き慣れ、言い慣れた「ゑとり」ということばが、一般に屠者すなわち殺生者の名として呼ばれることになりました。ところで、殺生をはなはだしい罪悪として、これを極端に嫌う仏教徒の側からは、この屠者えとりがはなはだしく嫌われました。ことに仏教の本家本元たる印度インドにおいては、屠者すなわち旃陀羅をはなはだしく賤しんで、これを排斥し、悪人と称して、ほとんど人交わりもできぬものとしてありましたから、わが仏教徒はそのままお経の文句を輸入して、屠者すなわちエトリを憎んだものでありました。その「エトリ」のことばが、訛って「エト」となり、さらに「エタ」ともなる。讃岐の鵜足うたり郡の名が訛って、ウタ郡となったと同じ訛り方です。そしてそのエタすなわち屠者には、通例もっとも下級の非人がなる。賀茂川の河原に小屋住居して、賤職をも厭わずきねばならぬという河原者が、多くこの嫌われる屠者、すなわちエタになるのであります。もちろんすべての河原者が、屠者となるという訳ではありません。しかしもともと同じ流れの落伍者の群の人々でありますから、ついには事実屠殺を業としないものまでが、同じ仲間の非人すなわち河原者であるということで、すべてがエタと呼ばれるようになりました。坂の者でも、散所の者でも、みな同様です。ここに至ってエタという名称の示す範囲が、きわめて広くなりました。エタすなわち非人、非人すなわちエタで、漁師の家にお生れになった日蓮聖人が、御自分で旃陀羅の子だ、エタの子だと仰せられたのも、まったくこれがためであります。多くの遊芸者、遊女の類、また同じくこの意味におけるエタの仲間であったのです。
 ところで、殺生を極端に嫌う仏教徒は、さらにこれを禁ずるの方便として、肉食の穢れを盛んに宣伝し出したものです。これはもとわが国の古代にはなかった思想で、おそらくわが仏教徒の新発明でありましょう。わが国はもと肉食を嫌わぬ国柄でありました。恐れ多くもわが皇室の御先祖として仰ぎ奉る彦火火出見尊ひこほほでみのみことは、御自身獣猟をなされたと伝えられております。むろん獣肉を召し上がったに相違ありません。神々様にもむろん供物として、これを捧げました。かみは一天万乗の天皇を始め奉り、しもは一般庶民の末に至るまで、肉食は普通のことであったのです。しかるに仏教徒の勢力が、だんだん神道の上に及ぶようになりましてから、神は肉食の穢れをはなはだしく忌み給うということを、盛んに宣伝し出しました。これは昔からわが国で、神様が血の穢れをはなはだしくお嫌いになるという信仰を、うまく利用しましたものです。わが国の神々様は、平和愛好の御精神から、非常に血をお嫌いになったとみえますが、さりとて肉をお嫌いになることは決してありません。神官は鳥獣を屠って、これをお祭り致します。古く神官はハフリと申したのは、この神への犠牲いけにえを屠ることを主なる職としたためかとまで考えられるのであります。この意味から申せば、神官また一種の屠者えとりと申してよかったのかもしれません。しかるに仏教徒は肉食を忌むことの宣伝として、肉を喰った者はその血腥ちなまぐさい気が身体に残るから、神様に近づくことはできないといい出したのです。のみならず、自身は直接肉を喰わずとも、肉の穢れある者と会食しましたなら、やはりその穢れが会食者にうつる、その会食した者とさらに会食してもいけないという風に、極端に肉食者を忌む習慣を養成したのであります。肉食ははなはだしく罪悪で、これを犯す者は神罰たちまち到ると教えたのであります。これがために何か不慮の災難にでも遭いますと、たちまち「ししった報い」だという諺までができました。宍とは肉のことです。
 しかしながら、その日その日をやっと過ごすほどのみじめな生活をしている非人の徒は、そんな贅沢なことは言っておられません。祖先以来の習慣によって、相変らず肉も喰います。ことに自身皮剥業に従事するエトリの輩が、その肉を喰うになんの不思議があるでありましょう。エトリが同時に肉食常習者であったのは、自然の成り行きでありました。そこでエトリは、ただにその身分が賤しいというのみでなく、さらにその身に穢れあるものとして、一般世人から嫌われることになりました。これと交際すれば、その身に穢れがうつるということから、普通民とは交際ができなくなりました。エトリは普通民の家に入るをえず、普通民はエトリのうちに入るをえず、会食もできねば、縁組もできぬという風に、まったく隔離されてしまいました。たまたまそのエトリが訛ってエタとなったについて、都合のよい宛て字をみつけだして、「穢れ多し」と書くようになりました。そして屠者以外の他の落伍者等も、おしなべて「エタ」と呼ぶことになったのです。前に申した通り、エタは本来エトリで、そのことばに決して穢れ多しの意味はないのですが、こんな忌わしい文字を宛てたがために、その名を聞き、その文字を見ただけでも、世人の頭にすぐ穢れを連想するようになりました。思えば罪な文字を使ったものです。

 エタは本来非人であります。非人は公民でないがゆえに、国家の法律をもって直接これを支配することなく、すべて彼ら仲間の自治にまかされていました。彼らの部落にはかしらがあって、各自これを支配します。もともと彼らは落伍の非人法師でありますから、その頭を長吏法師といいました。その文字の通りに、お頭役人ということです。長吏はそれぞれに自分の縄張りを定めて、その縄張り内の住民のために、その警固に当たります。またその縄張り内で労働をしたり、乞食遊芸などをして生活しようと思う非人法師らは、みなその長吏法師の部下とならねばならなかったのです。それらの長吏法師の中には、時にはなはだしく有力なものができまして、鎌倉時代には京都清水坂の非人の長吏と、大和奈良坂の非人の長吏とが、山城の南部で縄張り争いをなし、ために血の雨を降らしたということもありました。当時奈良坂の長吏は、大和一国はもとより、山城南部から、近江若狭あたりへまでも勢力を及ぼしていたものです。
 国家の政治がみだれ、国家の警察が依頼するに足らないような時代には、この非人の長吏らは、一般民衆のもっとも信頼すべき警察吏でありました。彼らは部下を率いて、その縄張り内の静謐維持の任に当たる。もちろんこれに対しては、その縄張り内の住民から、分限相当にそれぞれ報酬を出したものです。されば彼らは、一方では身分の賤しいもの、身体からだの穢れたものとして、はなはだしく疎外せられながらも、一方ではもっとも信頼すべき村落都邑の警察吏として、長吏長吏と重んぜられ、かなりの勢力を有したものでありました。関東地方や信州などから、九州の地方でも、かつて旧エタをチョウリあるいはチョウリンボウなどと呼んだことがありましたのは、明らかに長吏または長吏法師の義であります。したがって私設警察の必要を感じた町村では、優待条件をもって、歓迎して移住を求めました。そしてその子孫がだんだんえて、部落をなすに至ったのですから、田舎の多くの旧エタ村は、言わば請願巡査の駐在所の延長とみても、しかるべきものなのであります。されば上方のような早く開けたところには、今もっていわゆる特殊部落が多く、奥羽のような僻遠の地には、それが少い。これは奥羽のようなところでは、人民が純朴で、警察事故も少く、各自の自警団で間に合いましたが、上方のような開けたところでは、人民が柔弱な上に、警察事故も多く、専門の警察吏の必要を感ずることが多かったためであったと解せられます。
 しかるに長吏の中の多くは、自分の勢力があるがままに、その縄張り内にできた死牛馬を引取って、それを処分するの有利な権利を独占しました。これは穢れた物として、普通民はるることはできなかったのですから、当然非人に引渡さねばならないのですが、同じ非人でも、他の者には手も触れさせず、長吏のみが扱うようになったのです。そこでもとは同様にエタの名をもって呼ばれておった非人、すなわち落伍者仲間の者でも、そのる職業によって、これに対して世間の見る目がだんだん変ってきます。現に死牛馬を扱い、皮革を製造する皮屋のともがらは、実際その身の穢れがあるというので、文字通りの本当の「穢多」とされてしまいますが、それをやらないものは非人であっても、「穢多」ではないということになる。同じく警察の事務に従事し、かつては同じく「エタ」と呼ばれておった非人の中でも、皮革を扱わなかった部落はエタとは呼ばれなくなりました。彼らは地方によって、あるいは茶筅ちゃせんとか、鉢屋はちやとか、宿しゅくとか、ささらとか、トウナイとか、説教者とか、いろいろの名称をもって呼ばれましたが、身分は賤しい者と思われても、世間からは皮革業者のようには嫌われなくなりました。もちろん警察事務に与らず、単に遊芸、乞食、物貰い等に生活したものは、非人と呼ばれてエタとは別の筋目のものになりました。漁師や猟人の徒の如きは、むろん早くからエタと呼ばれなくなっています。そこで徳川時代も中頃以後にエタと呼ばれたものは、その当時において、現に警察事務以外、皮革を副業としたもののみでありました。ここにおいてエタということばの範囲が、よほど狭くなり、エタと非人との区別ができました。京都の悲田院の仲間の如きも、右に述べた如く、かつては同じエタと呼ばれていましたが、後には単に非人、あるいは小屋者、垣内かいとなどと呼ばれて、エタとは筋の違うものとなりました。茶筅、鉢屋、宿の輩は、もちろんエタでもなく、さりとて普通の非人というものとも違い、エタに類するものということになりました。早く農民となり、商工業に従事した散所の輩は、単に筋が穢わしいというだけで、エタでも、非人でもなくなりました。遊芸者の中でも、下等な門付け芸人や、渡り芸人は別ですが、上等の歌舞伎役者や、人形遣いなどは、河原者、河原乞食などとはいいましたが、エタだとは誰も思わなくなりました。

 ところで、この狭い意味のエタすなわち長吏、及びその配下のものは、警吏として所属の村落都邑から相当の報酬を得たのみならず、死牛馬を引取ってこれを処分するという、有利な副業を有していましたから、生活がきわめて安固でありました。したがって人口が盛んに増殖する。一般世間の百姓、町人らは、生活が困難でありましたから、堕胎間引きの悪風が盛んに行われて、一向に人口が増さなかった間に、彼らのみは盛んに増しました。これは、一つは彼らが一向宗、すなわち真宗の信徒であったということから、自然この風が起らなかったのかもしれません。今日でもいわゆる特殊部落には、堕胎や間引きというような警察事故はほとんど聞かないのであります。エタはもと殺生の徒として、他の仏教各派から多く排斥されましたが、それをことさらに収容したのは、親鸞聖人の一向宗であります。このお宗旨では穢れを言わず、いかなる罪人でも、一向専修の念仏の功徳によって、極楽往生疑いなしと教えたものです。したがっていわゆるエタは口に念仏を申しつつも、生計のためには引続き殺生の罪悪を犯したものでした。しかも引続きこの罪悪を犯したはずの彼らが、他宗の信徒の如く、もっとも忌むべき堕胎間引きの罪悪を犯すことが少かったというのは、なんという皮肉でありましょう。一向宗徒たるいわゆるエタは、畜生は殺すが人間の子は殺さない。殺生を非常にやかましく言う他宗の信徒は、案外人間の子を殺すのが平気であったのです。
 一方同じ流れの落伍者の中でも、エタ以外のものは生活が困難でありましたから、百姓、町人らと同じく、あまり人口が増さなかった。のみならず、世人のこれを見る目では、いわゆるエタほどに穢れたものとはせず、これに接近することをそう嫌わなかったものですから、自然足を洗う機会も多く、あるいは世間に紛れ込んで、消えてしまったもの、あるいは世間と同化して、区別がなくなった者も多く、その人口は次第に減少しましたが、いわゆるエタのみは盛んに増殖しました。
 過去においていわゆるエタの人口が、他に比していかに増加したかということは、維新後の状態をみても容易に想像せられるのであります。明治四年に内地の住民約三千三百万、いわゆるエタの数が約二十八万三百、そのほか非人雑種の者をことごとく集めたところで、三十八万を越ゆること、そう多くはなかったのです。ところでそれが今日ではどうでありましょう。一般民ももちろんはなはだしく増加しました。徳川時代を通じてそう増さなかった日本人は、六十年後の今日では約五千八九百万として、約八割の増加を示しておりますが、いわゆる特殊部落の方はさらにはなはだしく、少くとも百万以上、おそらく百三四十万にもなっているでありましょう。すなわち約四倍の増加を示しているのであります。維新後でもこんな有様でありますから、徳川時代の百姓、町人らが、一向えなかった間にも、彼らは非常に殖えました。これがいわゆるエタの地位をしてはなはだしく低下せしめた主なる原因であったと考えられます。彼らはもともと警察吏として、社会の必要機関であったには相違ないが、世間の需要が一向増さない間に、供給のみがそうむやみと殖えましては、いきおい失業の徒の続出とならねばなりません。長吏が従来の縄張りをその子弟に分与するとしましても、そういつまでも続くものではありません。のみならず、国家の秩序が立ってきますと、私設警察の必要そのものもだんだんと減じてきます。彼らの生活はますます困難とならざるをえなかったのであります。さればとて彼らは、悲しいことにはその身が穢れているとの迷信にわずらわされていました。世間からは触ってはならぬものだと誤解されていました。したがって彼らは、新たに職を求めることも、世間へ紛れ出ることも許されず、わずかに先祖以来の副業たる皮革製造、雪駄直し、下駄直しなど、限られたる職業のほかには普通の労働にすら従事することができなかったのです。しかしそれだけでは、到底限りなく殖える人口を養うことができません。やむをえず父祖が警固の報酬として、その縄張り内の家々から、衣食の料を貰っておった習慣を継続して、引続き無条件に貰って回るよりほかに、活きるのみちがなくなりました。したがって昔は俸給として、当然の権利として、家々から集めておった衣食の料も、ついにはまったく物貰いのような意味に変ってしまいました。所属の村落都邑からは、厄介な寄生虫であるかの如く擯斥ひんせきせられます。それでも彼らは相変らず辛抱して、どこまでも身を屈して、活きるだけは活きて行かねばなりません。ここにおいてか階級意識の盛んな時代に、武士から虫螻むしけらの如く扱われた百姓、町人らは、それをよいことにして彼らの上に威張り散らします。彼らの地位がますます下落するに至ったのは、実際やむをえなかったのでありました。

 限られたる部落内において、限りなく増殖する人口を養い切れないとなりますと、彼らはいきおい素性を隠して、世間へ紛れ出なければなりません。もともと同一の日本民族であります上に、先祖の落伍をいつまでも子孫が世襲しなければならぬ理由はありませんから、彼らは普通民の仮面を被って、行商に出たり、武家奉公したりします。しかしどこまでも彼らについて回って、これを苦しめた問題は、彼らの身体からだが穢れているという迷信でありました。神様が彼らをお嫌いになるとの迷信でありました。もし不用意に彼らと接触しても、たちまち穢れがその身に及ぶものだと誤解せられていたのでありましたから、世間ははなはだしく彼らの紛れ出ることを拒絶します。国法においてもそれを厳禁しまして、ついには服装その他、一と目見てもすぐ普通民と区別ができるようにとまで、その間に差別を立てました。そして限りなく増加する人口を、限られた狭い範囲に押し込みました。ここにおいてか密集部落となり、細民部落となり、その地位はますます低下しました。かくの如くにして、彼らはまったく社会圏外に放逐せられ、もっとも低級なる賤者となってしまいました。従来はただ身分の低い者として賤しまれ、穢れた者として嫌われただけでありまして、生活には一向困らなかったのでありましたが、今はさらに貧者となった上に、さらにはなはだしく圧迫を被ることとなりました。しかるに冷淡なる世間はこの同情すべき彼らの由来をまったく忘れてしまいまして、本来筋の違ったものだ、近づくべからざるものだとばかり考えるようになりました。そしてその習慣が容易に除かれないで、明治四年の解放以来、五十余年を経た今日に至ってまで、なお内々には特殊部落だの、何だの、かだのと、勝手な名をつけて、差別待遇をしている場合があるのであります。
 社会に落伍者のできるのは、いつの時代にも免れがたいものでありまして、その流れ行く道もたくさんに分かれていますが、その中について、いわゆるエタが穢多として、特別に世間から嫌われた所以のものは、単に剥皮食肉の習慣を有して、その身が穢れているがために、神様がこれをお嫌いになるものだ、これに近づけばその身もまた穢れるものだ、との迷信以外には、決して何ものも存在しないのでありました。もと同じくエタよ非人よと呼ばれた、気の毒な落伍者の人々の中にも、切取強盗をして立派な大名や武士になったものもあれば、遊芸に走って芸術家と重んぜられているものもある。かの能役者の如きも、もとは「道の者」として、非人の長吏支配の下にいたものでありましたが、そのあるものははやく解放せられて、すでに室町時代から、将軍大名に愛せられ、徳川時代には武家のお抱えとして、高取りとなり、士分の列に置かれた者もありました。また同じく河原者と言われた人形使いの如きも、あるいは散所の者などと呼ばれて、同じ仲間の落伍者でありましたが、つとに日向掾ひゅうがのじょうなどに任官して、名義上では奏任官の地位を得ていたものもありました。これらは解放せられたというよりも、当時においてはいわゆる非人なるものが、そう世間から一般に賤視排斥されていなかったためであります。されば同じ警察事務に当たったものでも、剥皮食肉の風を有しなかった人々は、後に至っても世間からはそう嫌われない。しかるにただひとり長吏として、これら落伍者の上位に立って、その支配の地位におったもののみが、皮剥製革の有利の事業を独占し、旧慣のままに肉を喰ったというだけの、ただそれだけの理由によって、その身の穢れたものとしてはなはだしく排斥せられ、非常なる圧迫を受けて、その子孫の末々までが、永く差別せられることとなったのであります。
 肉を喰うことは、日本古代一般の風習でありました。そして今日では、すべてがまたそのいにしえの風にかえって、憚らず肉を喰っているのであります。しかるにもかかわらず、肉を喰って身体からだが穢れているという迷信から、はなはだしく世間から嫌われた人々の子孫の末々までを、その原因を忘れて、ただ嫌うという習慣だけが残って、わけもわからず今にこれを差別しようとするのは、なんたる不都合なることでありましょう。
 エタの身が穢れているということは、まったく中頃の迷信たるにすぎないのでありました。したがってこの迷信の盛んな時代においては、その迷信に囚われたものははなはだしくこれを嫌いましたが、世間のすべての人々が、いつもそう嫌ったという次第ではなかったのであります。戦国時代には、大名であって、エタの子供を小姓として寵愛したものもありました。武士にして、エタの娘を嫁にしたものもありました。ある種の仏教家の如きははなはだしくこれを嫌がりましたが、一般的には、エタとしてそう特別に区別したものでもなかったようです。徳川時代になっても、初めの頃は、服装の如きも平民に准じて、そうひどく制限したものではありませんでした。したがってそれから足を洗って、世間に交わり他の職に転ずることも、そうむずかしくなかったに相違ありません。ことに戦国時代の如き乱世には、力量次第でいかようともなったのであります。かの奈良の興福寺大乗院の尋尊僧正の述懐に、「近日は土民侍が階級を見ざるの時なり、非人三党の輩といえども、守護地頭の望みをなすべく、左右する能わざるものなり」とあるのは、まったく実際であったのです。非人の徒であっても腕次第働き次第で、大名にも武士にもなれたのです。しかるに世の中の秩序が定まり、階級意識が盛んになりましては、一旦賤者とみなされたものは、容易に頭が上がりません。のみならず、彼らの人口が増加して、その警察吏としての供給が、社会の需要に対してはなはだしく超過するに及びまして、だんだんと一般世間との間の隔懸へだたりがひどくなってきました。しかしそれもそう古いことではありません。幕府が法令を下して、ことに厳重にその差別を取締まったのは、近く安永七年が最初であります。今からわずかに約百六十年前たるにすぎないのであります。しかるにもかかわらず、世間の人々はこの歴史を知らずして、遠い遠い大昔から、この差別があったかの如く盲信し、口を開けばすぐに、「なにしろ千年以上の習慣ですからねえ」などといっているのは、間違いもはなはだしいといわねばなりません。
 世の中は新陳代謝と申して、古いものと新しいものとが始終入れ替る。後世のいわゆるエタは、必ずしも千年以前からのエタの子孫ではありません。はるか後の世になって、落伍者の新たに落ち込んだものがはなはだ多いのであります。そしてそれとは反対に、昔は同じくエタと呼ばれたものの子孫で、自分にも、他からも、その素性が忘れられて、立派な身分として世間に納まっているものも少くないはずです。ただ徳川時代の太平が、万事現状維持の政策によって保たれました結果として、彼らはその落伍の地位に釘付けられて、それが年代を経るにしたがって、ますますはなはだしくなったというにすぎないのであります。
 しかしながら、かくの如きの階級的差別は畢竟人為的のものであって、人間と人間との間にそう相違のあるべきものではありません。ことに祖先以来同一国内に住居すまいする同一の日本民族なるにおいて、決して永くその差別を保存すべきではありません。古代の賤民たる家人、奴婢らが、単に境遇上から、国法上にまで差別されておったけれども、一旦解放さるればいつでも良民となりえたと同じように、子孫永くその賤民たるの地位を世襲せしめらるべき者ではありません。果たせるかな、徳川時代の末において旧幕府は、まずもって長州征伐の功によって、浅草弾左衛門及びその囲内かこいうちの者等を解放して平民にのぼせました。大阪の渡辺村からもエタの称を除かれたいとの請願書を出しました。しかし間もなく幕府瓦解のために、そのままになりましたが、明治新政府に至って、その解放がしばしば識者間の問題となり、明治四年八月二十八日に至って、かの有名なる太政官布告となって、身分職業その他のすべて平民と異なるなきことが宣言せられたのであります。
 爾来約六十年、国家はこれを解放しても、世間が事実上その解放を肯んぜず、今に至ってなお時々問題を起すことのあるのは、なんという不合理なことでありましょう。すべからく世人はよくその歴史を考えて、すみやかに融和の実を挙げなくてはなりません。

 以上簡単に述べましたところで、いわゆる特殊部落なるものが、いかなる事情から発生し、いかなる沿革を経て、後世の如くはなはだしく差別されることになったかということについては、十分諒解を得たことと信じます。「融和促進」においても述べておきました通り、真に世間の人々がことごとくこの歴史を十分諒解してくれましたならば、心から、底から、融け合って、なんらの差別観念のなくなるべきことは、火を見るよりも明らかなことだと確信しているのであります。しかるに世間にはなお私の研究に疑いを挟んで、喜田は歴史事実をごまかして、融和宣伝の道具に使っているのだとか、喜田の甘言に瞞着されるななどと公言し、彼らは本来筋の違うもので、容易に融和すべきものでないとか、民族的闘争によって解放さるべきものだなどと、宣伝せんとする人のあるのは、なんという悲しいことでありましょう。この小冊子説くところはきわめて簡単でありまして、もちろん委曲をつくしてはおりませんが、もし私の説くところに誤まりがありますならば、遠慮なく摘発して、訂正をお願い致したい。私は私の研究の底を傾けても、十分得心の行かれるだけの説明を致す覚悟を持っております。
 実際上世間の多数の人々は、この歴史を知らないで、ただ何かなしに筋目の違ったものだと思っておる場合が多いようです。相当学識あるはずの人々でも、案外にこの歴史についてはくだらぬことを考えております。いわゆるエタは土人の子孫だとか、帰化人の子孫だとかよく言います。あるいはそんな由来の人々もありましょう。しかしそれがエタとなった原因ではありません。わが日本民族は、決して土人であるがゆえに、帰化人であるがゆえにという理由で、これを疎外致しません。いわゆる日本民族は、先住土着人なり、帰化人なりを、ことごとく融合同化せしめて、すべてが一つになってでき上がった民族です。したがって先住土着人や、帰化人の子孫にして、社会に高い地位を得ている者もはなはだ多く、その素性が彼らの公民たるにおいて、なんらの妨げをなしていることはありません。ある俘虜の子孫であろうなどという人もありますが、これまた決して事実ではありません。現に蝦夷の俘虜の子孫などは、農民ともなり、武士ともなって、日本民族中に融合してしまいました。一番多く信ぜられている説は朝鮮人の末だということですが、これは徳川時代の人々が、一般に肉食を嫌う際において、この人々のみその習慣を有していたがために、当時世人の知識に存する肉食者として、朝鮮人を連想したためにほかならぬと存じます。あるいはいわゆる部落の人々の言語に、世俗よのならいと違う訛りのあるのは、筋が違う証拠だなどと、くだらぬことを考えている人々がかなり世間に多いのに驚かされます。交際社会が違えば自然に言葉は違ってくる。世人から社会圏外に放逐せられた人々の間に、一種の訛りができたになんの不思議がありましょう。
 要するに、いわゆる特殊部落の歴史なるものは、「第三章 沿革概説」に説いておいた通りでありまして、ほかにいろいろの俗説がありましても、一つも取るに足らないものたるを断言するに憚らないのであります。
 この小冊子はいわゆる特殊部落の歴史を説くを主と致したものでありまして、かつては同じ流れのものであっても、つとに除外せられたものについては、多くは説明を省略致しました。他日詳しい研究を発表して、その不備を補いたいと存じます。
 終りに臨んで、この小冊子を読まれるお方々は、なにとぞ今一度拙著の『融和促進』の御復読を願いたいと存じます。またすでに『融和促進』をお読み下さったお方々は、なにとぞこの小冊子を御熟読下さらんことをお願い致します。
(融和問題叢書第二編『融和問題に関する歴史的考察』(財)中央融和事業協会、一九二八年八月)

底本:「差別の根源を考える」河出書房新社
   2008(平成20)年9月30日初版発行
底本の親本:「融和問題叢書第二編」中央融和事業協会
   1938(昭和13)年7月第9版
初出:「融和問題叢書第二編」中央融和事業協会
   1928(昭和3)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。