「戀とは綺麗なことを考へて汚いことを實行するものだ。」と、西洋の誰れかが云つたやうだが、若し誰れも云はなかつたとしたら、おれがさう云はうと、日比野は思つてゐた。
 彼れは早熟であつたので、八九歳の頃から男女關係についてひそかに空想を描きだしてゐた。十一二歳の時分に「梅暦」を讀んだくらゐだつたから、小説の亂讀によつて色戀の情緒は早くから、發育さされた。しかし、一方で家庭の教訓や基督教の感化などによつて、それを非常の惡事として壓迫してゐた。二十四五の頃になつて壓迫から解放されて、所謂青春の生甲斐のある樂みを味ふやうになつたのであつたが、小説を讀み繪畫を見、あるひは音樂を聽いて、空想してゐたやうな美しい、情緒の濃やかな戀は、彼れが現實に感得するところとはならなかつた。ある女の唇に觸れる時、彼れはその女ではない、ある空想裡の女を心に描いてゐるのであつた。
 それは肉體の缺陷に依るのか、あるひは、彼れが女縁が薄くつて、おのれと身心の相投合した女にめぐり合なかつたのに依るのであらうか。青春の頃そのために焦燥を感じた。「美しい事を空想しながら汚いことを實行する」といふ不快な感じが、彼れの色戀には絶えず附き纏つてゐた。
 彼れも、下宿屋の小綺麗な女がいつの間にかゐなくなつた時には哀愁を覺えた。友人の妹が結婚した時にも、ちよつと感傷的な氣持になつた。彼に多少の因縁を續けてゐた女が巣を變へた時に、苦勞して搜し出して訪ねて行つたこともあつたが、この女ならではと思つたことは一度もなかつた。だから、彼れは色戀に沒頭してゐるらしい時にも孤獨の感じから脱することは出來なかつた。
 それで、歳を取つてからの彼れの思ひ出は淋しいのである。
 先日、雨上りの空の冴えた日に、彼れは、この頃住んでゐる大磯の町はづれを散歩した。天王山の麓から高麗山の麓へかけて、紅く黄ろく色づいた木々の美しさに目を惹かれて、家に爲殘してゐる用事をも忘れて時を過してゐたが、菊など植ゑてある或る小さな別莊の庭先に、二人の子供を從へて立つてゐる、可成り老けた顏した婦人がふと目についた。何だか見覺えのある顏なので、彼れは何氣ない風して側を通りながら顧みたが、すると、その女は、「アツ。」と云つたやうな聲を出して、彼れを見入つた。二人は同時に相手が誰れであるかを思ひ出したのであつた。
「日比野さんでしたか。お珍しい。この頃此方にいらつしやいますの?」女は日比野に近づいて云つた。
「えゝ。此處はあなたのお家の別莊なんですか。」
「さうでも御座いませんですけど……あなたは東片町にいらしつた時分と、そんなにお變りにならないぢや御座いませんか。」
「さうでもありませんよ。」日此野はさう云つて目禮して行き過ぎた。殆んど二十年を隔てて偶然行き遇つた昔の知人なのだから、ゆつくり話したらいろ/\な面白い經歴が彼女の口から聞かれたかも知れなかつたが、彼れにはさういふ好奇心は起らなかつた。相手の婆さん染みた顏に對して人生の無常が感ぜられたばかりであつた。
 彼れがはじめて東片町に家を持つた時に、その隣家に小官吏の若夫婦が住んでゐたが、其處には妻君の妹が同居してゐて、下女代りによく働いてゐた。容貌も可成り美しかつた。日比野の家の老婢とは何時の間にか懇意になつて、窓際へ來て世間話をするやうになつて、日比野とも斷片的な話を取りかはすことがたまにはあつた。しかし、彼れは親しい態度を執ることはなかつたが、ある日の晩餐の座で、老婢は、
「あの方は氣象のさつぱりしたいい娘さんですね。」と褒めて、縁談を求めてゐるやうなことをも話した。
「しかし、あのくらゐな女はいくらでもあるだらう。」日比野は、老婢の心を察して簡單にさう答へた。
 しかし、その後彼れは、彼女を見るたびに以前と違つて變な氣持がしだした。大勢の女の中から自分が特別に選び取るのに價ひした女であらうとは思はれなかつたので、結婚に向つて道を進める氣はなかつたが、淡い戀見たいなものが、彼れの心に動いてゐたのに違ひなかつた。そして、その頃たまには、僅かな金の力で近づける女に近づいてゐた彼れは、汚れた寢床の上で、目のあたりに賤しい女を見ながら、ひそかに隣家の女の清い影を心に浮べてゐたこともあつた。わらふ勿れ、古來の詩人や小説家によつて美しく唄はれたり描かれたりした戀といふものも、飾りを脱いだ眞實のところはそんなものぢやないだらうか。
「凡そ婦女を見て色情を起す者は心中すでに姦淫したるなり。」のキリストの教へを奉じて、そのたびに目を引き拔いてゐたなら、百も千もの目を人間が持つて生まれてゐたつて、一生のうちには盲目になることを免れ得ないであらう。
 醜骸を抱きながら美しいものを空想するのが、日比野の一生の、對女關係の實相であつた。
 彼れは、老いたる彼女の顏と、昔の彼女の顏とを心の中に並べて浮べながら、色づいた美しい秋の野をブラ/\歩いた。

底本:「正宗白鳥全集第十二卷」福武書店
   1985(昭和60)年7月30日発行
底本の親本:「文壇觀測」日本エッセイ叢書、人文会出版部
   1927(昭和2)年6月8日
初出:「婦人倶楽部 第七巻第二号」講談社
   1926(大正15)年2月1日発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:山村信一郎
2013年7月2日作成
2013年10月16日修正
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