近衛内閣の成立は、今の処割合評判が悪くないというのが事実だろう。なぜ評判が悪くないかと考えて見ると、恐らく第一に、近衛文麿公という人物が現下の時局に占めているユニックな位置によるものらしい。軍部と政党とに相当の信頼があるということ、所謂国内相剋の緩和者としてかけがえのない人物であること、等々であるらしい。将来の重臣候補を以て目されるに足るだけの貫禄があるとも見られている。自分に大臣経歴をつけるのが目的で、広田外相に首相の椅子を譲るために出馬したのだとも云われている。之は多分にその名門と関係があろう。云うまでもなく取り沙汰される公の識見乃至常識と信念力とも、恐らく大切な要素だが、之は公の時局的位置から来るやや当然な結果であると見るべきだろう。四十代の壮年だということは、本質的には何物を意味するものではないが、それでも、世間が目新しいというだけで多少の新鮮味を感じるのは嘘ではない。青年待望の錯覚も全く無意味とばかりは云えないのである。
 だが近衛内閣に対する多少の好意に似たものは、前林内閣に対する憤慨の反作用に由来する処が大きいのだ、ということを忘れてはなるまい。議会軽蔑の現われとしか見ることの出来ぬ抜打解散、総選挙の決定的に反政府的な結論に対するシニズム、こうした態度が、その祭政一致声明の超時代常識性と呼応して、独り政党人の政治屋的常識を刺激したばかりでなく、国民自身の不快を買ったわけだが、それが政民両党其の他の倒閣運動が成熟し始めた頃、とうとう立ち腐れになって了ったということは、広田内閣の総辞職の場合とは違って、伏在するものを感じる必要のないような、明白な審判を意味したようにさえ見えた。その審判を合理化するような立場にある役目を持って近衛内閣が登場して来たのだから、その反林主義の方向が何となく民衆の気に入らなくはないのも自然だ。
 それと云うのも、近衛内閣ならば流石の軍部もあまり威張ることが出来なかろうし、政党に対する多少の仁義も心得ているだろう、という政治家風の観察が、知らず知らず国民の考え方に影響しているからで、国民が最近の日本の内閣や支配者に少しでも期待のようなものを懐く時には、いつも政治支配者の身勝手な楽観にひきずられてのことである。かつての新聞班パンフレットによる農山漁村の対策に期待した日本の無産者の一部分は、その後の国防絶対至上主義化によって見ごとに背負い投げを食わされたが、政治家風の空頼みが今回国民に多少の期待を吹き込んだということも、話は小さくて稀薄だが、別に之と異った現象ではないかも知れぬ。
 そう思っていると、その政党そのものが、近衛内閣に対する不信をポツポツほのめかし始めた。永井・中島の両氏は、政党離脱などという条件を課せられずに、政党人として入閣を許可されたが、それも民政わずかに一名ずつの子供だましの類であり、而も党代表としてではなくてあくまで個人の資格で人物本位だというわけである。自党中の人物選択を政党自身に委せないというのは、つまり政党の人物的価値、要するに人物本位的国政の立場からする政党存在の価値、を認めないことに他ならぬ。軍部などは人物的価値があるので、人材選択は一切軍部自身に一任されるのに。こうして倒閣運動で林内閣を倒して近衛内閣を生まれさせたという気持ちの政民両党ではあっても、義理にも近衛内閣支持とまで行くことが出来ず、そうかと云って又ぞろ近衛内閣反対を称えるだけの積極的な政治理論は持ち合わさぬので、やむを得ず是々非々主義の類で態度を曖昧にしていなければならなくなっている次第だ。
 内閣は一方に於て新党運動工作の余地を示すことによって、半ばは政党に対する威圧と半ばは政党への誘惑とを試みることの出来る有利な立場にあるばかりでなく、政務官の復活というような猟官心理と被認知欲望とを利用した抱きこみ乃至切りくずし策を案出しつつある。ここまで来ると政党としては、声を大きくしてその不満を高唱するだけの内面的緊張感は何としても出て来ない。そこで国民も亦、政治屋達のこの無風状態の下に、依然として近衛内閣に青眼を以て対するのを当然なように感じているような次第だ。近来の内閣の根本的な宿命的な反民衆性、反動性、之は根本的で宿命的であるだけに、之を執拗に追及することに国民は何か飽きが来たようでもある。政治屋(軍人も例外ではない――ないどころではないのだ)に引きまわされることは、もう飽き飽きだという感じである。最後の切札だというのだから我慢する他あるまい。まあ近衛青年内閣あたりで手打ちをしておこう、という虚脱した気持ちさえある。こう云った所が、近衛内閣の案外評判の悪くないという事情なのだろう。
 処で、近衛内閣は林内閣と広田内閣との折衷内閣と見られることを思い出さねばならぬ。広田元首相の入閣、馬場元蔵相の入閣と企画庁長官就任交渉、平生※[#「金+入」、U+91DE、184-下-12]三郎氏への入閣交渉、其の他の極めて皮相な現象だけを見ても、之が林内閣の広田内閣による修正という相貌を呈していることは否定出来ない。内閣の殆んど唯一の使命とも見える国防予算編成方針から云えば、近衛=賀屋内閣は、結城財政の修正であり、馬場財政への復帰であることは、敏感に感受されている処だ。馬場内務大臣が企画庁長官に就任することによって、賀屋財政の名目の下に純然たる馬場財政が復活しそうだということは、流石に一部金融業者を刺激したので、遂に広田外相の長官就任とならざるを得なかったようなわけで、今の処何とか表面の摩擦は回避されている。で結果に於て所謂財界は大してハッキリした意志表示をしていないから、この方面からの影響で結果する部分の「世論」も亦、大して反近衛的ではないのが現状であるようだ。
 だがこの辺から話しは少し妙になって来るのである。元来林内閣が反感の種になったのは、果してその反議会的態度や又精々その祭政一致主義、だけによったのだったろうか。民衆の現代常識は勿論祭政一致主義によっていたく刺激された。それから国民の政党政治的関心は反議会的態度によって甚だしく挑発された。だが一般民衆にとっての反林内閣の実感の最も大きいものが、物価騰貴であったことは云うまでもない。而もその物価騰貴が単なる物価騰貴なのではなくて、巨大国防予算編成乃至実施に原因しているということが、民衆の経済的利害を民衆の思想的利害にまで高めたのだ。祭政一致提唱や反議会主義も、ここにこそ思い合わされるわけで、それを一括して林内閣への反感となったのである。つまりこの事情は結城財政の結果であるというので、当面の責任を負わされたのは林=結城内閣であったが、その抑々の責任は広田=馬場内閣にあったのであり、偶々その収穫が林=結城内閣の当番の時だったというに過ぎぬ。まして結城財政は馬場財政の一種の修正であったのだ。尤も之によって国民生活安定政策だけが斧鉞を加えられて、肝腎な動力たる国防予算は少しも削られなかったのだから、国民生活にとってはそれだけマイナスになったのでもあるが、併しとに角インフレーション=物価騰貴の最も末端のファクターは削られたわけだから、何と云ってもその精神に於ては馬場財政修正だったのだ。
 処が林内閣が怪しからぬというので、次に現われた近衛内閣が、却って広田内閣に復帰するというのは、全く妙なことと云わねばならぬ。林内閣がなぜいけなかったかと云えば、それは広田内閣がいけなかったことの必然的な而も控え目の結果だったからだ。であるのに、林内閣がいけなくて倒れたというチャンスによって、却って広田内閣を復活するということは、確かにドサクサ紛れの論点移動であり、国民が之で気が済むとなればよほどどうかしているのである。林祭政一致イデオロギーや林反議会イデオロギーが一見止めを刺されたから良いではないかと云うなら、それは政治家や一部インテリゲンチャによって代表される民衆意識で片づけて了うやり方だ。そういうイデオロギーなどとは関係なしに、民衆日常生活そのものの問題があった筈である。
 近衛内閣が、社会保健政策を発表した類に見て取れるように社会政策を加味する内閣だということは、買わねばならぬ唯一の点である。結城財政の民衆に対するひけ目の最大の一つは之を欠いた処にあったからだ。つまり狭義国防がいけなくて広義国防であればよい、という風にも云われている関係なのである。だが注意しなければならぬのは、仮に狭義国防ということの意味は、明らか過ぎる程明らかであるとしても、広義国防という観念の方は決して明晰なものではないのだ。と云うのは、軍部が唱える広義国防の意義に或る疑問が伏在していることは後に見るとして、軍部外に於て広義国防を讃える人間達の心理には、極めて複雑なものがあるからである。国防という言葉は今日では、「お早よう」や「今日わ」というような単なるエティケット用語に過ぎない場合の多いことを知らねばならぬ。それが良いか悪いかではなくて、とに角事実そうした現象になっているのである。現に、なぜ社会政策とか国民生活安定とかいう、卒直な民衆的用語を用いずに、ワザワザ広義国防というような変な言葉を使うのか、それを考えて見なければなるまい。
 尤も儀礼は何でもいいし、口先きの言葉は何でもよい。困るのはこの儀礼的な合言葉がやがて実質を持つようになることだ。例えばその絶好の例は「社会保健省」設立の内務省試案である。聞く処によると内務省案と軍部案との間には多少の開きがあり、前者が比較的狭義保健(?)の限界に止めようとするに反して、後者は広義保健(?)にまで拡大しようとするらしいのだが、併し内務省試案にしても、軍部のこの要求を容れて、と云うよりも元来が軍部の要求から問題が出て来たのだったから、多分に広義保健の建前に立っている。
 なる程国民の健康は決してスポーツや軍事教練の不足から低下して来たと断じることは出来ないので、他ならぬ経済生活の低下に原因するのは当り前だ。それには例の国防予算の巨大化の一つの必然的な結論である社会政策の皆無(諸外国に較べれば皆無に近い)というものが関係があるのだが、そうかと云って、国民健康を結論的に包含する国民の社会生活生態そのものをば、狭義保健の拡大としての広義保健というようなものと考えることは、乱暴も甚だしいと云わねばならぬ。この広義保健に「社会」保健という名をつけて見た所で変りはない。社会保健省の所管事項は、労働・小作・保険・職業紹介・其の他其の他の社会問題と、体育や健康問題とを、並立させたものなのだ。つまり一切の社会問題を国民の健康問題に解消しようということにもなるのである。之も決して私の思いすごしではない。一体保健省問題は軍部から起きたが、なぜ軍部がこの問題を提出したかと云えば、壮丁の体位が最近頓と低下したからだ。そこで壮丁の体位は国民の戦闘力を減少するという戦略上の見解から、初めて国民の健康が気になり出したのである。之はややブルータルな健康観念であると云われても仕方あるまいが、それはとに角としてこうやって夫々特異な資格を以て生活を営んでいる国民は、単なる壮丁に還元され、更に一切の社会問題・社会政策は、壮丁の肉体的な健康の問題に還元される。之は、或る骨肉に徹する驚きを催すだろう。社会保健省という所で、肉体的健康を専門に管轄するのかと思うと、そうではなくて労働問題や小作問題や就職問題までも片づけるという、この不思議な結論を導くロジックはここにあるのである。
 この広義保健(?)ともいうべき観念の頭の悪さを見ることによって、また広義国防という観念の不明晰な所以も納得が行くだろう。広義国防から狭義国防を引き去って残るものの一つがこの「社会保健」的な広義保健であるのだから、要するに広義保健などが広義国防の実質内容の一つなのだ。と同時に之によって、なぜ社会政策とか何とかと称することが気がひけて、広義国防というような苦しい用語を使うかも判るわけである。ある言葉を擁護するには、之を狭義と広義に使いわけるというのは、誰れでも思いつく口実だ。社会政策に行けない場合、国防という言葉で間に合わせる絶対的な必要があるために、こういうことになるのである。
 仮に広義国防ではなくて「社会政策」か「国民生活安定」にしても、吾々は容易に夫を信頼出来ぬし、又それだけに甘んじることは出来ぬ。勿論なくてはならず、当然あるべきものではあるが、之があるからと云って安心はならぬ。日本のようにまるで社会政策が無視されているのは抑々目茶であるが、ドイツのナチのように相当の社会政策を伝統の圧力のおかげで行なわざるを得ない(それも著しく制限を加えなければならなくなった)場合でも、真の社会政策としては根本錯覚がないかどうかが大問題なのである。まして、広義国防をやだ。だがそれにしても、狭義国防よりも広義国防の方が民衆のためであるという常識は間違ってはいない。何しろ広義国防と云っても、決して狭いものではなくて、意味が狭ければ狭い程実体の分量は広大無辺なのだから。
 で近衛内閣が林内閣の罪滅ぼしに登場したと称しながら、林内閣の原則を用意した広田内閣そのものの復活であるという逆説をば弁解する唯一の要点は、近衛内閣の広義国防主義への転向ということだろう。だが勿論、広義国防主義はすでに広田内閣の表看板であった。林内閣でも之を看板としなかったのではない。して見ると、広義国防主義への転向というのは、転向でも何でもなくて、広田=林=内閣の一つづきの方向を単に一層推し進めただけのことで、之を広田内閣への復帰と考えることさえ野暮であり、まして之を林内閣のより民衆的なものへの修正や革新などと考えるなどは、途方もないことと云わねばならぬ。
 新聞の報じる処によると、企画庁(之は云うまでもなく準戦時体系化の経済・政治・社会・思想・文化の統制のための最高府である)の下に立つ賀屋財政に於ては、陸軍は少なくとも九億、海軍は又八億以上の予算を要求するだろうと云われている。総予算はその結果を含めて三十二・三億円に上るだろうと見られている。広義国防でも何でもまあいいとして、とに角国民の生活に多少安定を与えるための予算が計上されることは大いに結構だが、その交換条件というか、又はその先決問題として、狭義国防費の絶対値の愈々益々の増加、悪くすると狭義国防費の広義国防費内に於けるパーセンテージそのものさえの増大、従って総予算の巨大化又はその実施の圧力の強圧化、こうしたものが、例の評判の悪かった林内閣財政の正にその評判の悪かった所以の要点を、一層発達させるものに他ならないのは、云わなくても明らかなことだ(この予想国防費は昭和五年度の約四倍に当るのである)。もう、内閣のイデオロギーや何かを云っているどころではないのである。
 それにしても、近衛内閣の近来にないこの首尾一貫した国防絶対至上主義への忠勤(之は同時に、日本の金融資本の独占強力化の結果であり又原因でもある)、その忠勤振りに基く内閣バトンの勇躍した受けつぎ、ということにも拘らず、民衆が林内閣の罪ほろぼしのようなものを近衛内閣に感じるらしいのは注目に値いする一つの要点である。事実近衛内閣によって「国内相剋」は多少とも緩和された。と云うことは不必要な刺激的なイデオロギーが清算されて来たということである。日本型ファッショ化にとって、不必要なイデオロギーがだ。必要なのは「祭政一致」の提唱や反「自由主義」ではない。
 専ら「広義国防」という国防絶対至上主義と、根本的な反民主主義とである。つまり民主的な社会政策の代りに広義国防デモクラシーの代りに政党改革(新党運動・選挙法改革等)、というわけなのである。かくて今日の日本の政治の目的はより常識的に遂行されることとなる。かかる現代政治支配者の常識の選手が、他ならぬ近衛公爵であるわけだ。――民衆は依然として、かかる支配者の支配的常識を、また自分自身の常識として服用すべきであろうか。
(一九三七・六)

底本:「戸坂潤全集 第五巻」勁草書房
   1967(昭和42)年2月15日第1刷発行
   1968(昭和43)年12月10日第3刷発行
底本の親本:「日本評論」日本評論社
   1937(昭和12)年7月号
初出:「日本評論」日本評論社
   1937(昭和12)年7月号
入力:矢野正人
校正:Juki
2012年9月24日作成
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