文芸学の対象は云うまでもなく文芸である。尤も従来の日本語の習慣によると、文芸は又文学とも呼ばれている。文学という言葉は通俗語として、又文壇的方言として、特別なニュアンスを有って来ている。単に文芸全般を意味する場合ばかりでなくて、却って小説とか詩とかいう特定の文芸のジャンルを意味したり、又はそうでなくて、一つの作家的乃至人間的態度を意味したりもしているのである。丁度詩という言葉が文芸の一つのジャンルを意味すると同時に、文芸全体に渡る一つのエスプリを指す場合があるように、文学という言葉も亦、往々にして芸術の一領域ばかりでなくて文芸創作の精神を指すようだ。そしてこの文芸的精神が、日本の社会の与えられた文化事情の下では、特に「小説」(実は小説=ロマンというよりも「短篇小説」・エルツェールンク・ノヴェル=「中篇小説」なのだが)、又は精々「詩」=ポエムというジャンルとなって発現する処から、小説や詩というジャンルが即ち文学だというような潜在観念を産んでくるのである。文学すると云うような場合、案外この文壇的な潜在観念が働いているのであり、又文学以前と云う時には愈々この潜在観念が明らかになるだろう。
 だが、文芸全体を意味したり或いは特定の一つ二つの文芸ジャンルを意味したりするよりも、文芸創作(乃至之に直接して享受)のエスプリ・精神・を意味する方が、文学という言葉として高く買われていいだろうと思う。なぜというに、文学が暗に、小説とか詩とかいう特定ジャンルを指すかのように思うのは、勿論視野の狭い見地を告白するものであって、他の事柄についての見識までが疑われる底のものであるし、又文芸全体を依然として文学と呼ぶことは、折角文芸という科学的な言葉があるのに、非常に観念のハッキリしない言葉をわざわざ使うことになるからである。
 なぜ文学という言葉がハッキリした観念を云い表わさぬか。日本語の固有な慣例はとに角として、少なくとも国際的な用語としては、文学は一般に文筆作品を意味しているのであって、科学上の文献や文書までも含むのだから、文学は必ずしも文芸に限定されないわけなのだ。それ故特に芸術的文学だけが、所謂文学というものに当るということになって、芸術領域の問題に関する限りは(精神の問題に関しては別として)、文学という言葉は無用な混雑を惹き起こすものに過ぎないからだ。
 東洋乃至日本には、文芸と文献(フィロロギー)との区別は概念上あまり判然としない伝統が存在している。夫は文芸作品自身が社会にとって多分に教訓的な意義を有っていた一種の封建的・文化政治的・イデオロギーの結果であったかも知れない。文芸作品はこの場合、暗誦訓詁すべきものとしての古典とされ典拠とされた。だから之は一つの文化史的な知識に還元されて了う。かくて文芸は文献学(フィロロギー)に帰するわけだ。文人とは一種の学者である。それが文学者となるのである。――文芸はこの伝統に基いて、文学という何か学問のような言葉で呼ばれることとなる。勿論今日の文学なるものは実質に於て文芸自身を指すものであって、毛頭、文献学や何かを指すのではない。それであればこそ、文学作家の教養不足ということも問題になるわけで、つまりここで教養と呼ばれるものは、文献学的知識の類だと考えられているのである。だが文芸が文学と呼ぶ習慣はこうして出来たというのだ。
 そこで、この文学という言葉を別に活かすために、文学は文献学を指す言葉にしたらばどうか、という意見がある。それによると、例えば支那仏教のテキスト・クリティックによる解釈の体系などが、文学というものになるわけだ。それは悪くはないが、併しこういう点をまず考えて見る必要がある。支那仏教の過去に於ける文化的思想的内容は、今日の支那をも日本をも本当に文化的・思想的・に規定しているのではない。なる程一部の文化財の遺産としては勿論何等かの現代文化の要素にはなっているが、併しそれは現在の支那や日本の文化的・思想的・進歩の力となっているのではない。それに独力の力があるとすれば寧ろ復活的・反動的・な力に過ぎないのが、今日の事実だ。僧侶の社会理論の如きがその好い例だろう。処でここに文献学なるものの権限が、おのずから明らかになるのである。つまり文献学なるものは、それ自身では何ら時代の実際問題の解決を与えることの出来るものではない、ということなのである。文献的知識は文化的・思想的・課題にとって欠くことの出来ない一つの歴史学的手段ではあるが、もしその手段が独立して支配的な認識方法となるなら、途方もない思想文化の姿が現前することになる。文献学はそういう制限を持った一つの手段科学だ。吾々は支那仏教(一般に仏教でもいい)のカテゴリーを以て現下の資本主義社会の何物をも分析出来ないだろう。
 処が之を文学と呼べという。そういう命名法は恐らく多分に不満を呼び起こすに相違ない。文学という言葉はなる程文芸という言葉に席を譲ってもよい。だがそれであるからと云って、文学を今云ったような文献学だとして了わねばならぬ理由は、まだない筈だ。――でそう考えて来ると、要するに「文学」とは、文芸創作を通じて受け取ることの出来る文芸のエスプリだ、ということにすれば、いいのである。之が文学という実際の用語を、最も親切に生かしたものとなるのではないかと思う。
 だがそうすれば又、文学なる言葉を単に文芸という芸術の一種類・一領域・のエスプリだけに限定する必要もなかった筈だ。なぜなら、文芸に於て働くエスプリと云われるこの輪郭が空間的に限定され得ないような一種の気体は、一体美術や工芸や音楽に於けるエスプリと原則的に隔離出来るものだろうか。一切の芸術はその時代の精神を反映すると云われる。その時代の思想・文化・を表現すると云われる。このことは単に、同時代の諸芸術の間に社会的乃至歴史的な連関があって同じ傾向で貫かれている、というだけではない。諸芸術のエスプリそのもの・イデー自身・に共通なもののあることを指すのである。して見れば、文芸に於けるエスプリだけを他の諸芸術の夫から、原則的に隔離して了うことは出来ない筈だ。ロダンは多分に卑俗な世界観を、乃至芸術観をさえ、持っていたが、その彼にしても、彫刻の内に一切の芸術や哲学や宗教を見ると云っている。ましてエスプリが諸芸術様式の間に有っている共通性・流動性・は、常識にぞくすると云ってもいいようだ。
 でもし、文学というものをば文芸に於けるエスプリだと見るなら(そして事実そういう風にも日本語では用いられている)寧ろ之を芸術全般に渡るエスプリと見るのが、首尾一貫したことなのだ。これを芸術全般に渡るイデーと云っても思想と云ってもいい。ただそのイデーなり思想なりが、能動的な工作力や推進力を持った生きものだとしてであるが。
 だがそうすれば更に、エスプリとしての文学は、実はもはや芸術全般だけを蔽うものでさえなくなって了わねばならぬ。芸術に於けるこのエスプリなるものが、哲学や科学を原則的に除外するということは、受け取れないことだ。して見れば、芸術・哲学・科学の文化内容の一切を貫く一つの精神とでも云うべきものが、即ち文学だ、ということになりそうである。そう云って云えないことはないかも知れないのだ。
 併しこう云って来ると、文学という観念はほしいままに徒らに拡大された観がなくはあるまい。文学は何と云っても文芸を中心にして出来ている観念だったのだ。それが哲学や又さらに科学にまで直接するとなると、もはや文学という言葉の特殊の利き目がなくなって了う。こうした用語の拡大は無意味であるようにさえ見えるかも知れない。
 事実、文学という言葉は、こういう結果になる程にさえ、曖昧なものなのだ。だから文学という言葉の代りに文芸という言葉を使うことが、何より便宜であったのだ。併しこの曖昧な処が案外色々の関係を説明出来るものを含んでいるということを、今注目しなければならないのである。と云うのはつまり、思想のエスプリとしての文学なるものは、文芸と科学とに渡って之を一貫しているもののように考えられるからであって、二つのものを結びつけて考えさせるものが、この文学という一つのそれ自身は曖昧な併し効果から云って有力な、切札であるだろうからだ。まだ特別に文芸という芸術のジャンルの態をなしていないような科学的な論文やエッセイも(所謂科学文学や評論の各ジャンルの如き)なお且つ文学的な意義を持つことの出来る場合が多いという事実から、「科学と文学(実は文芸)」との関係は極めて重大な問題になるからである。処でここで役に立つのは、文芸という芸術の一領域・一種類・一ジャンル・や、科学という一文化領域ではなくて、こうしたものの背景に想定される処の一つの思想的力・文化的エージェンシー・としての文学という精神なのだ。
 吾々は例えば文芸と科学とを徒らに分類学的に区別して見た処で始まらないのであって、必要なことは両者の本質的な同一と差別にある筈だ。そのために役立つものを、恰もこのエスプリとして理解されている文学なる通俗語が、云い表わしているというのである。
 それ故、この意味に於ける文学は、文芸という言葉があるにも拘らず、「文芸学」にとって、矢張り依然として重大なカテゴリーでなくてはならぬ。勿論文芸学は芸術学乃至美学の一部分であって、この芸術学乃至美学にとってもこうした思想的エージェンシーとしての文学は重大な意義を持つわけだが、実際問題から云って、こうした場合にまで之を文学と呼ぶことには、一応の説明の責任を負う必要がありそうで、自然そうした用語例はあまり見当らない。文学は特に文芸に於て、思想的エージェンシーを最も自然に云い表わす。そうすれば、文学というカテゴリーは、特に文芸学にとって、愈々意義の深いものとなるだろう。
 文芸学の根本的な課題の一つは、単に文芸が何であるかだけではない。と云うのは、文芸という芸術種類に這入る文化現象の社会的説明や歴史的叙述だけが、その根本課題ではない。文芸学は、文芸に於ける、又文芸と直接する芸術領域や芸術外の文化領域やとの関係に於ける、文学的なものが何か、に答えるものでなくてはならない。少なくとも文芸は文芸学によって、まずこの観点から分析・省察・されることが必要だ。文芸は文芸である。之を一つの芸術の領域と見て了う限り、文芸は文芸以上の何ものでもない。だが、文芸が文芸たる所以である処のその文学的な本質は、恰もそれが科学と同じに、一種の認識だという処にあるのである。で、認識としての文芸、それがこの場合「文学」と呼ばれている処のものであった。だからこの際、文学をば一種の認識能力のようなものと考えてもいいだろう。一種の認識の意欲や野心、エネルギーやセンスやタレント、そうしたものが文学的なものと考えられる。文学的な眼や文学的な真実や文学的な価値という言葉も、ここから生きて来るのだ。
 だが旧く古典的理論に於て、芸術が一般に自然の模倣だと云われるように(その自然がまたイデアの模倣であるかどうかは問題外として)今日の芸術理論の最高結論から云っても、一切の芸術は実在の模写乃至反映に他ならない。少なくとも芸術理論上のリアリズム(スタイルとしてのリアリズムではない)に立つ限り、そう云わざるを得ない。仮にそうだとして、処が一般認識理論上亦、リアリズム(唯物論)に立つ限り、一切の認識は実在の模写乃至反映である。それ故、この推論から行けば、一切の芸術が認識に他ならぬということになる。独り文芸だけが認識であったのではないこと勿論だ。
 認識論上の模写説、即ち唯物論だが、この模写説によると、一切の文化が何等かの条件と制約との下に於ける実在の模写反映であった。かくて宗教は一つの倒錯した実在反映であった。では芸術はどういう規定による反映か、又特に文芸はどういう形をとった反映であるか。だがそれより先に、この際倒錯した反映だとか(或いは歪められた模写だとか)何とか云うためには、一定の規準があってそう云えるわけだが、その規準になるものは何か。夫は取りも直さず科学的乃至理論的認識なのである。実際、科学的理論(特に自然科学の夫)は認識の普遍妥当性に於て一等発達した認識の様式だったのである。認識という時、だから科学的理論的認識を尺度とするか足場とすることによって、話しは始まるわけだ。宗教についてもそうだが、芸術についてもこの点、少しも変りはない筈である(道徳についてもそう云えるので、道徳なるものの認識論的意義を、かつて私はほんのわずか触れたことがある)。
 芸術をば科学的認識によって推し計ることは以ての他の間違いだ、と抗議するものがいるとしたら、吾々は反問しなければならぬ。では何を規準にして芸術と科学との連関を見つけ出す心算か、それとも二つのものは全く無関係な絶縁された文化形象ででもあるのか、と。芸術を他の文化類域との内部的連関を絶って孤立させて取り扱うことを、最初から誤りだと吾々は考える。この誤りを犯さぬためには、要するに科学的認識を規準として、認識としての芸術を分析する他はない。芸術理論上のリアリズム(必ずしもスタイルとしてのリアリズムではない)とは、他でもない、この経緯を指して呼ぶ名である。
 さて芸術一般がそうだとして、その内で特に文芸は、認識として或る一つの特権を持っている。特権というのは勿論科学的認識という規準から割り出した特権なのだ。と云うのは、文芸は云うまでもなく主に言語表象による芸術であり、その意味では概念を乗具とする芸術であるが、処が科学的認識こそ、言語表象乃至概念を乗具とする認識であった。そこで文芸は、他の芸術様式に較べて、科学に特別近い近親関係を有っているわけなのだ。文芸が認識である所以は、美術や音楽が認識であるよりも、より以上に、認識が一等組織的に発達したために認識原型の意義を有っている科学的認識に、本質的に接近している、と云うのである。
 文芸が言語表象による芸術であることはよいとして、夫が概念を乗具とするとは受け取れないと云うかも知れないが、併し言葉によって云い表わされるものは、さし当り何であれ概念なのだ。ただ問題はその概念が如何なる表象機能を以て登場するかにあるのであって、文芸に於ては概念は文学的表象として機能するが、併し決してただの概念的表象としては働かない、という迄である。
 かくてともかく文芸は一種の認識である、而も科学的認識と本質的に近親関係にある認識である、ということが判る。それが一種の認識であり又芸術の中でも特権ある認識であるが故に、文芸と科学との連関は極めて密接で、この連関を除いては文芸の文学的本質は遂に捉えることが出来ない。――ここに文芸学がまず認識論でなければならぬ理由がある。なぜなら、それは丁度、科学論がまず認識論でなければならぬと、全く平行することだからだ。
 文芸学という観念は旧くからあったものではない。主として近代ドイツの文学史家の手によって造り上げられた概念であるように見える(之まで存在する殆んど凡ての文芸学なるものは、ブルジョア文芸学であった。フランツ・シルレルはF・メーリングから唯物論的文芸学の出発点を導こうとしている)。之は今の処大体に於て、文芸史論と大して別なものではないようだ。――だがこれが歴史記述又は歴史的要約であるからと云って、文芸の認識論でなかったということにはならぬ。元来認識論とは認識の歴史の論理的洗練のことだ。一体論理乃至論理学というものが歴史の結論以外の何ものでもない。価値の観点は歴史の事実が原則を結論する処に発見する、それが論理というものだ。認識の歴史的発展とそれから結果するこの論理的結論とを媒介するものが認識論というものであった。
 処でこういう意味に於ける認識論、というよりも寧ろ論理学は、芸術に関しては今日まで多くは美学の名を以て呼ばれて来た。美学を形式的な美的情緒の問題に集中しようとするT・リップス風の偏極や、美学を美術乃至美術史に固有な因縁あるものとする日本帝大的習慣を別とすれば(尤もこうした傾向はいずれもカントの「美」の観点――それは「崇高」の観点からさえ区別されたごく極限されたものである――に由来するので、本来意味のあることだが)、今日まで多くの美学は大半芸術論理学とも云うべきものだった。H・テーヌの芸術の社会的考察も実は芸術的価値の問題をねらっていたわけで(少なくとも『イギリス文学史』の序説はそうだ)ギュイヨーによって一応その論理学としての目的が果された(ギュイヨーは美的価値そのものが社会的な本質を有つと考える)。ただテーヌもギュイヨーも、社会に於ける階級的対立が芸術価値に及ぼす関係を充分に見抜くことが出来なかった。処で之に反してフリーチェの『芸術社会学』はとに角階級対立を中心とした芸術の社会学であったが、これも実は当然なことながら芸術の論理学を目標にしていたわけで、この点批判的に展開されて、今日のソヴェートの芸術理論となっているわけだ。之が今日の芸術の認識論に相当するものである。そして、ヘーゲル(及びT・フィッシャー)の『美学』が正に芸術の認識論の名にも値いするということは、多言を要しない。
 芸術の認識論、それは芸術史から抽出された芸術の論理学とも云うべきものである。芸術の社会学から導き出された芸術の論理学も亦、ここに一致しなければならぬ筈のものである。つまり芸術の歴史的社会的発展構造の論理的結論が夫だ。――だが大切な点は、このことが、芸術の認識機能の分析を抽象抽出しそして更に夫を根柢におくのでなければ不可能なのだ、ということである。つまり、芸術的認識に於ける模写機能の特性についての分析が、根柢におかれ得るように、分析を展開しなければならない、という点が今大切なのである。それがなければ、芸術史や芸術社会学や又芸術学ではあっても、まだ充分に芸術の認識論ではない。正当な意味での美学と呼ぶことも出来ないだろう。
 さて処で、特に文芸に関する芸術の認識論、それが文芸学の最も重大な意義でなくてはならなかった。文芸学は単なる文芸史の展開やその経験的要約に止まってはならない。文芸史の原則の論理学的要約でなければならぬ。だがそれだけではなく、文芸的認識に於ける模写機能の特性についての分析が根柢におかれ得るように、その分析が進められるのでなければならぬ。文芸学がまず文芸の認識論でなければならぬというのは、この意味だ。「文学」という言葉もかかる認識論的なカテゴリーとして、初めて理論上の意義を有つものである。
 文芸学を文芸論と見る時、第一に問題になるのは、夫と科学に関する認識論との相互の連関だろう。或いは同じことだが、この広範な意味での認識論に於ける、文芸学と科学論との関係だ。或いは同じく、文芸と科学との関係なのである。――従来認識論と云えば、殆んど凡て科学乃至理論に関するものに限定されていた。それは前にも云ったように今日まで実際問題として見ても、科学特に自然科学の認識が最も組織的で単一義的で統一的な発展をして来たので、之が凡そ認識なるものの典型となっているからだ。それに、なぜ又科学特に自然科学がそういう特別に恵まれた条件を持てたかと云うと、全く、自然科学に最も特有である処の、実験と産業との直接関係という、この認識に於けるマテリアリズム乃至リアリズムのおかげなのだ。だが史的唯物論の成立によって、社会科学の認識が初めて自然科学の夫に平行した単一義性と統一性を有つようになった。そこで社会科学についての認識論が積極的に展開出来るようになったと共に、夫と自然科学に関する認識論との間に、一元的な統一が可能になったのである。従来のブルジョア認識論は単なる判断論理学の延長か、そうでなければ専ら自然科学の認識論か、さもなくば精々自然科学と社会(文化・精神・)科学とを二元論的にしか処理出来ない認識論であった。――処で今度は、この認識論が、唯物論的な文芸学の成長と一緒に、文芸に関する処にまで拡張されねばならぬ点へ来ている、と私は考える。
 マルクス主義的認識論と雖も、今日まで、ブルジョア認識論と同じく、殆んど凡て科学乃至理論に就いての認識論に限定されていた。之はブルジョア認識論にとっては当然なことだったのである。なぜならブルジョア認識論は科学に関しても実践的な模写説は取らず、又ブルジョア文芸理論は模写説としてのリアリズムを取るための必然的な論拠を有っていなかった。従って文芸理論と所謂認識論との間にはブルジョア的理論にして見れば、何等、思いつき以外の共通の地盤は見当らなかったわけだ。処がこの点、現代唯物論は全く条件を異にしている。現代唯物論による認識論は、首尾一貫して模写反映の理論に立脚する。処が現代唯物論による文芸理論も亦同じく首尾一貫して模写反映の理論だ。それが文芸学の哲学的カテゴリーとしての(前にも云ったようにスタイルとしてではない)リアリズムというものだ(ミールスキー『リアリズム』――熊沢復六訳――を見よ)。文芸は世界の・時代の・自然の・社会の反映だ。文学はである(レーニン「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」を見よ)。だからして唯物論によって初めて、科学の認識論が文芸の「認識論」にまで拡大延長され得る条件が発生したのである。文学なる概念もこの認識論に於て初めて、科学的カテゴリーとなることが出来る。
 而も一旦この条件が発生した以上、もはや吾々は認識論を科学だけに就いてのものとして限定しておくことを許されないだろう。認識論は文芸に就いても延長展開されなければならぬ。そうしなければ文芸が認識である所以も、文芸の認識が本来の意味でのリアリズムである所以も、そうした文学の根本的な規定を、理解する緒口は、全くなかった筈だからである。――でもし仮に、例えばリアリズムという問題が、今後の文芸学の何より重大な根本問題であるとしたなら(私は夫を疑わないのだが)、文芸学はまず第一に、みずからが認識論である点を、実質的に明らかにせざるを得ないだろう。そしてその時、問題はおのずから、文芸と科学との認識上の連関へと運ばれて行くに相違ないのだ。――だが今日の唯物論的文芸学は、この方向ではまだそこまで話を進めていないのではないかと、私かに考える。
(文芸と科学との認識論上の関係について(その間に道徳がはさまった)、私は以前少しばかり分析を試みて見たが今ここに展開し直すだけに新しく進んだものをまだ持ち合わさないから、さし控える。なお又、文芸に限らず芸術一般について、認識論的課題を押し拡げることは、私には当分出来そうもないことである。すでに宗教についての認識論的検討は多くの人によって基礎をおかれているのだが。)
(一九三六・一二)

底本:「戸坂潤全集 第四巻」勁草書房
   1966(昭和41)年7月20日第1刷発行
   1975(昭和50)年9月20日第7刷発行
初出:「唯物論研究 五十一号」
   1937(昭和12)年1月号
入力:矢野正人
校正:青空文庫(校正支援)
2012年7月27日作成
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