よい酒を送ってくれといって、それに相当する金を送ってきた人に、わるい酒を送る商人は、面とむかって非難されてもしかたがないどころか、ことによると、法律上の罪人になるかもしれない。それは、道徳的にいって、不愉快な同室者をさけるため、一等切符をかって一人おさまっている乗客のそばに、そのいやがる同室者をおしつける鉄道会社と同罪なのである。が、もともと、ハーバート・スペンサーも指摘したように、集団的良心というものは、個人的良心より、鉄面皮なものなのである――
 ルーファス・ペンベリーはそう考えた。彼がそう考えたのは、汽車がメイドストン駅を発車しかけたとき、一人の粗野な逞しそうな男が、車掌に案内されて、彼の部屋にはいってきたからであった。彼がわざわざ高い料金をはらったのは、クッションの柔らかい座席に坐りたいからでなくて、なるべく自分一人きり、それが不可能なら、すくなくも感じの好い人と同室になりたかったからだった。ところが、その男がはいってきたため、それが二つともだめになったのである。彼は憤慨した。
 その男は、彼の孤独の邪魔をしたばかりでなく、じつに傲慢無礼な態度をとった。汽車が動きはじめるやいなや、じっと無遠慮な視線をペンベリーにそそいで、ポリネシヤの人形のように、まばたきもせず見つめるのである。
 彼は不愉快なばかりでなく、頭が混乱してしまった。しだいに腹が立ってきたので、坐ったままもじもじ体を動かした。紙入れをだして、一つ二つの手紙を読んだり、名刺を分けたりした。傘をひろげて目隠しにしようかとさえ思った。しまいには辛抱しきれなくなった。頭がにえくりかえるほどだった。ついにたまりかねて、彼はとげとげしくいった。
「そんなにおれの顔ばかりにらんでいたら、今度であったとしても、見そこなう心配はないだろうね。またであうのはまっぴらだが。」
「一万人の群集のなかだって、君の顔を見そこなう心配はないよ。顔を覚えることにかけちゃ、おれは名人なんだから、一度見た顔は忘れやせん。」
 あまりの言葉にペンベリーはどきっとして、
「それは結構。」といった。
「顔を覚えるのが上手なのは都合のいいものだよ。すくなくも、ポートランド刑務所の看守をしていた頃は、そいつが役にたった。君だっておれを覚えているだろう。プラットだよ。君があすこにいる頃、看守の手伝いをしていた男だ。ポートランドは地獄みたいなところだった。だから前科者の顔をみるため町へ行く時には、おれはとても嬉しかったものだ。あの頃拘置所は、君も覚えているだろうが、ホロウェイにあった。のちにはブリクストンに移ったけれど。」
 昔のことを考えながら、プラットは言葉をきった。ペンベリーは、驚いてまっさおになり、
「誰かと人違えをしているんだよ。」と、あえぐようにいった。
「人違いじゃないよ。君はフランシス・ドブズだろう。十二年ほど前の晩に、ポートランドから逃げだした男だよ。着ていた刑務所の服は、そのあくる日に海岸に流れついた。どこへ逃げたかさっぱり分らない。あんなに上手に逃げたのにお目にかかったのは、おれも初めてだった。前科者係りのところには、君の写真や指紋が保存してあるはずだ。だから、君がぐずぐずいうんなら、あすこへ行ったらわかるよ。」
「行く必要はないよ。」ペンベリーの声は弱々しかった。
「それはそうだろうね。金がどっさりできて、その金を有利な事業に投資したりしていちゃ、そんなところへ行くのを、嫌がるのもむりはないだろう。」
 ペンベリーはしばらく石のようにおし黙って、窓の外を見つめていたが、ふとプラットをふりかえって、「いくら出せばいいんだ?」ときいた。
「一年に二百ポンドぐらい出したって、君はびくともしないんだろう?」プラットは落着いていた。
 ペンベリーはちょっと考えたあとで、
「おれが金を持っているように見えるかね?」
「ペンベリー、」と、プラットはにが笑いしながら、「君のことは洗いざらい分ってござるんだ。この半年ばかり、君の家のすぐそばに住んで観察しているんだから。」
「鬼のようなやつだ!」
「そう、その通りだ。刑務所をやめると、オーゴーマン大将のうちの下男になって、ベイスフォードの別荘にいるんだが、大将はめったにあすこへはやってこない。そしておれがそこへ来るとすぐ、君を見つけたわけなんだが、おれのほうじゃ今までわざと名のらないでいたんだ。どうして名のらないかというと、そのあいだに君の財政状態をしらべて、年二百ポンドぐらい、だせるかどうか確かめたかったのだ。」
 しばらく二人とも黙っていた。
 もと看守をしていた男は言葉をつづける――
「こんなことになったのも、人の顔を覚えるのが上手なお蔭なんだ。同じ刑務所にいたジャック・エリスは、二年も君を鼻の先にみていながら、まだ気づかないでいやがる――」そういったあとで、口をすべらせたのを後悔するもののように、「あいつはいつまでたったって、君に気がつく心配はないよ。」とつけくわえた。
「ジャック・エリスって、どんな男?」ペンベリーは鋭くたずねた。
「いまベイスフォード警察の臨時雇いで、なんだかあすこの刑事の下働きみたいなことをやっているらしいんだ。ちょうど君がいるころ、ポートランド刑務所に勤めていたんだが、左手の人差指を切断したので、恩給がついて、郷里のベイスフォードへ帰ったのだ。向うじゃ君を知らずにいるんだから、ちっとも心配することはないよ。」
「君が喋ったら知るだろう。」
「むやみに喋らんよ。」プラットは笑った。「君がいいようにしてくれさえすれば、そんなこたあ心配する必要はない。それに、おれはあいつとは仲が好くないんだ。あいつがあまりしつこく別荘の女中を追っかけまわすのでね――かかあがあるのにさ、それでもう来てくれるなといってやった。それであいつが恨んでいるんだ。」
「そうか、」といって、ペンベリーは考えていたが、「オーゴーマン大将ってどんな人、名まえだけは知っているが?」
「それは君だって、名まえぐらいは知っているはずだ。おれ、やめるまえダートムーア刑務所にちょっといたんだが、その頃あの人が刑務所長をしていたんだ。あの人がポートランド刑務所長だったら、君だって逃げだせやせんよ。」
「どうして?」
「あの人はブラッドハウンド種の警察犬(訳註―耳のたれた大型犬で、嗅覚が鋭いので、犯人追跡につかう。高さ二五インチ、体重九〇ポンド)をつかうのがうまいんだよ。ダートムーアにいる時、警察犬を飼っていたので、あのころは一人の脱走者もなかった。警察犬がいると、逃げようにも逃げられないんだよ。」
「いまでもそんなものを飼っているの?」ペンベリーはきいた。
「たくさん飼っている。そして、近くに窃盗か人殺しがあったら、そいつを使おうと思って、毎日のように訓練しているんだが、向うがそれを知っているためか、ちっともそんな事件が起らないんだ。さて、話がまえにもどるが、一年二百ポンドはどうだろうね、君の都合で年四回にわけてもいいんだが?」
「そんなことを言ったって、すぐ返事ができるもんか、しばらく考えさせてもらわなくちゃ。」
「よし。そんなら、明日の晩ベイスフォードへ帰るからね、君だってまる一日考えたらいいだろうから、明日の晩君とこへ行くよ。」
「いや、おれが君のうちへ行ったり、君がおれを訪ねてきたりするのは危ないよ。それより誰も知らんような場所で、こっそり会って相談するほうがいいと思う。ちょっと話したらすむことだ。用心に用心を重ねるにこしたことはない。」
「ほんとだ。」プラットは同意した。「そんならこうしよう。君も知ってるだろうが、別荘のまえに並木道がある。そして門衛はいなくて、夜以外はいつも門が明けっぱなしなんだ。おれがベイスフォードへ帰るのが六時半で、駅から別荘まで十五分かかるから、君が七時に十五分前、あの並木道で待つことにしたらどうだろう、それでいいだろう?」
「よし。しかし、警察犬があのへんをうろうろしていたら困るよ。」
「心配ないよ。」プラットは笑った。「大将はむやみに犬を放さないんだ。毒のはいったソーセイジでも食べさせられると困るから。いつもは家の裏の犬小屋のなかにいれてある。あっ! スオンリーへ着いた! おれはここで喫煙車に乗りかえるからね、いまの話をよく考えておいてくれ。さようなら。あすの七時に十五分前、並木道だよ。それから、いっとくが、第一回のぶんをその時もってきてもらいたいんだ――五十ポンド、小さい金でもいいし、金貨でもいい。」
「わかった。」
 ペンベリーはおだやかに答えたが、頬は赤くほてり、目は怒りにもえていた。もと看守をしていた男は、それに気づいたのか、車室をでてドアをしめると、窓からのっそり威嚇的な顔をのぞけて、
「おいおい、ドブズのペンベリー野郎。おれだって相当な人間で、ぬかりはないぞ。だから、ずるい手を考えて、つまらんいたずらをするのはよしたがいいぜ。くれぐれもそれだけいっておく。」
 そういって、頭をひっこめた。
 一人になるとペンベリーは考えた。この時の彼はどんなことを考えただろう。もしここに心霊術の大家がいるとして、その人がなくなったカードや指輪をさがしたりするような、つまらんことをやめて、現在ペンベリーが考えていることを、プラットにつたえたとしたら、プラットはどんなに驚き、どんなに心配するだろう。ながいあいだ囚人をとりあつかっても、プラットが見た囚人は、刑務所内の囚人にかぎられていた。その囚人がひとたび社会にでると、どんなになるかということまでは知らないのだ。もと看守だった男は、もと囚人だった男を見くびっていた。
 もともとルーファス・ペンベリーという男は――ドブズというのはかりの名にすぎなかった――意志の強い、利口な男だった。利口だったからこそ、最初は犯罪者の生活をしていたが、いったんそれに価値をみとめなくなると、あっさり足を洗ってしまった。ポートランド沖を泳いでいる彼をひろいあげた牛を積んだ船は、彼をアメリカの港へつれていった。アメリカで合法的な商売をやって成功した彼は、十年たってイギリスへ帰る時には、かなりの資産をたくわえていた。それから彼はベイスフォードという小さい町の近くに住んで、うるさい土地の人とはあまりつきあわず、過去二年間静かに貯金で暮してきたのだった。だから、もしプラットという厄介な人物が近くに現れなかったら、平穏無事な余生が送れたはずで、この男の出現のため、形勢が一変して、すべてがぶっこわされてしまったのである。
 プラットの言葉や態度には、どこかうなずけないものがあった。彼の示唆したことには、永久的な価値があるわけでもないし、その約束にペンベリーを拘束するものがあるわけでもなかった。彼が高価に売りつけようとするものは、いぜんとして彼の手に残って、いつでも金にかえようと思えば、かえられるのである。金の代償にペンベリーに自由をあたえると約束しながら、その鍵はいつまでも自分がもっているつもりなのだ。要するに、恐喝者として手際がさえていないのである。
 ルーファス・ペンベリーは、この男の話をきいている最中でさえ、そのへんの不手際をおかしく思った。いちどだって彼の言う通りにしようと考えたことはなかった。プラットは「いまの話をよく考えておいてくれ」といったが、考える必要は最初からなかった。というのは、彼の心はすでにきまっていたからである。プラットが名乗りをあげた瞬間から、彼の心はきまっていたようなものだ。結論は簡単だった。プラットの現れるまえの彼は平和で安全だった。プラットが現れてから彼の自由はおびやかされ、これからもたえずおびやかされるであろう。だがプラットがいなくなれば、平和と安全がもと通りかえってくる。だから、プラットをなきものにせねばならぬ。
 それは論理的な結論にちがいなかった。
 ひとりになったペンベリーは、汽車のなかでしきりに深い瞑想にふけったが、その瞑想が、年四回の支払に関係したものでないことはいうまでもなかった。彼はもと看守だったプラットをなきものにする方法のみを考えつづけた。
 ところで、このルーファス・ペンベリーという男は、どうもうな男では決してなかった。残酷でさえなかった。ただ主要目的のみを見つめて、そのたの感傷的な小さいことは、無視するだけのゆとりをもっていた。もし紅茶のうえを蜂が唸ってとびまわったら、彼はこれを叩き殺すだろうが、けっして素手では叩き殺さない。蜂は攻撃の武器をもっているから、むやみに触れるのは危険である。まず針で刺されることを警戒せねばならぬ。
 プラットの場合もそれと同じである。彼は私腹をこやすために、ペンベリーの自由をおびやかそうとしている。それは彼の勝手だが、そのため彼は危険をおかさねばならぬ。その危険にペンベリーは責任をおう必要はない。ペンベリーの考えることは、ただ自分の安全の問題だけなのである。
 ロンドンのチャーリング・クロス駅へついた彼は、駅を出て行くプラットの後姿を見きわめたあとで、バキンガム街へ足をむけ、そこの物静かなホテルへはいった。約束があったのであろう、姿をみると女支配人が彼の名をよび、挨拶して部屋の鍵をわたした。
「長くご滞在ですか、ペンベリーさん?」女支配人はきいた。
「いえ、あすの朝帰りますが、またすぐやってきます。話は別だが、このホテルに百科辞典があったはずだが、あれはどこにあるんです?」
「客間にございますよ。ご案内しましょうか? でも、あなた、ご存知なのね?」
 ペンベリーは客間のありばしょを知っていた。二階の気持よい、古風な部屋で、その窓から、古風な街がよく見えた。そこの小説なぞのぎっしりつまった本棚に、なんさつかの黒ずんだチェンバーズ百科辞典が並べてあった。
 ひょっこり田舎から出てきた紳士が、その辞典の「犬」の項目を調べているのを、もし誰かが見たとしたら、不思議に思ったことであろう。そして、その紳士が、警察犬のことを調べ、さらに嗅覚のことを研究するのを見たなら、その人はいっそう驚きを深くして、奇異にかんずることであろう。そして、その驚きは、その紳士のその後の行動を見、その行動の目的が、邪魔になる人類の一単位をとりのぞくことにあるのを知ったなら、ますます深くなるであろう。
 ペンベリーは、鞄と傘を部屋においてホテルを出ると、目的をいだく人のすばやい足どりで、ストランドの傘屋にはいり、そこで一本の籐の[#「籐の」は底本では「藤の」]ステッキをかった。籐の[#「籐の」は底本では「藤の」]ステッキを買うのに不思議はないかも知れないが、彼のえらんだのは、特別に太いステッキだった。
「おれは太いのが好きなんだ。」そう彼はいった。
「でも、旦那ぐらいのせの高さでしたら、こんな太いのより――」
 店の男は反対した。ペンベリーはせの低い痩せた男だったのである。
「おれは太いのが好きなんだ。適当な長さに切ってくれ。先の石突きは自分でつけるから、そのままにしといてくれ。」
 そのつぎの彼の買物は、その目的はよく分るが、あまり生のままなので、いささか意外の感をいだかせる。それはノルウェイ製の大型ナイフだった。彼はその一つで満足せず、第二の刃物店をおとずれて、第一のナイフと同じナイフを買った。どうして彼は同じナイフを二つ買うのだろう? どうして同じ店で買わないのだろう? 誰が考えてもその理由は分らないのである。
 買物気違いのように、彼は次から次と買物をした。三十分ほどのあいだに、安物のハンドバッグ、画家の使う黒塗りの刷毛箱、三つ角のあるやすり、にかわの棒、るつぼ用の一本の金属をまげて物がつかめるようになった火箸なぞを買いあさった。それでも満足できないのか、彼は小路の古い薬屋へはいって、脱脂綿と過マンガン酸カリを一オンス注文した。妖術師みたいな神秘な手つきで、薬屋の亭主がそんなものをつつむのを、ペンベリーは無関心な表情でみていたが、
「お宅にはじゃこうはないでしょうね?」と、なにげない口ぶりできいた。
 封蝋をあたためていた薬屋の亭主は、顔をおこした。いまにも呪文でもとなえそうな顔だった。
「本物のじゃこうはないですよ。大変高いものですから。しかし、じゃこうのエッセンスならございますよ。」
「本物ほど強くはないでしょう?」
 亭主はちょっと笑って、
「それは本物とはちがいます。でも相当強いですよ。ご承知でしょうが、動物性の香料はみな鋭くて長もちがします。エッセンスをテーブルスプーンに一杯ほど、聖ポール寺院のまんなかにぶちまいてごらんなさい、あのへんいったい、半年ほどぷんぷんしますから。」
「そんなに強くなくてもいいんですよ。では、すこしばかりもらいましょう。壜の外にくっつかないように気をつけてください。人からたのまれたんだから。私がじゃこうの匂いがしだしたら大変だ。」
「承知しました。」
 薬屋の亭主は一オンス入りの空壜と、小型のガラスのじょうごと、「じゃこうエッセンス」と書いた壜をだして、また魔法使いのような動作をはじめた。液体をうつしおわると、
「壜の外にはすこしもついていませんから、ご安心ください。こうしてゴムの栓をしとけば絶対に安全です。」
 ほとんど病的と思われるほど、ペンベリーはじゃこうの匂いをきらった。亭主が魔法の一つのしぐさのように、狭い場所にしりぞくと、(ほんとは釣銭をさがすためにしりぞいたのだったが、)彼は鞄から刷毛箱をだして蓋をあけ、恐るおそる火箸でじゃこうの壜をつまんで、それを刷毛箱にいれ、それからその箱や火箸を鞄にしまい、カウンターから二つの包みをとってポケットにいれた。そして、ハーフクラウンの銀貨で、銅貨四枚の釣銭をもらうと、また思案顔でストランドの大通りへかえった。
 ふと彼はあることを思いついたように立ちどまった。それから、彼の買物のうちで、いちばん風変りな買物をするため、北のほうへ方向をかえて歩きだした。
 その買物はセヴンダイアルのある店で行われたが、そこには、かたつむりからアンゴーラ猫にいたるまでの、あらゆる動物がならべてあった。檻のなかのモルモットを見ると、ペンベリーは店にはいって、
「死んだモルモットはないの?」ときいた。
「おあいにくさま。生きたのばかりです。」そういったあと、店の男はにやりと笑って、「でも、生きたものですから、いつでも死にますよ。」
 ペンベリーはいやな顔をした。モルモットと恐喝者を、いっしょにされちゃこまる。
「モルモットでなくてもいいから、小さい死んだ動物はない?」
「鼠はいけませんか、死んだのがありますが? 今朝死んだばかりですから、まだわるくはなっていないのですが。」
「じゃ、鼠をもらおうか。」
 小さい死体の包みをうけると、それを鞄にいれ、お愛想のような金をはらって、ペンベリーはホテルへかえった。
 簡単な昼食をすますと、またホテルをでて、この旅行のほんらいの目的である、商売上の相談に午後の大部分の時間をついやした。夕食は料理店ですまして、夜の十時になるまでホテルへかえらなかった。ホテルへ帰った彼は、自分の部屋のドアに鍵をかけると、服をぬいでベッドにはいるまえに、なんとも解釈のしようのない奇妙なことをした。まず、買ってきたステッキの先の、ゆるい石突きをぬきとって、その石突きの底に尖ったやすりで穴をあけ、だんだんその穴を大きくしていって、しまいには石突きのふちがのこるだけぐらいにしたのである。それから彼はその穴に丸めた脱脂綿をつめ、ガスの火でにかわをとかして、その綿のはいったままの石突きを、ステッキの先にくっつけた。
 ステッキの細工をすました彼は、ノルウェイ製のナイフの一つをとりだし、その木の柄に塗ってある黄色いニスを、きれいにやすりでかなぐり落し、それからナイフの刃をおこして、包みの紐をきって、そのなかから鼠の死体をとりだし、それを紙のうえにおいて頭をちょんぎり、尻っぽをつまんで持ちあげて、頸からしたたる血の滴を、ナイフの上に落して、指先で刃の両がわや柄にていねいにぬりつけた。
 彼はナイフを紙の上においたまま、しずかに窓をあけた。窓の下の暗いところから、ゆるやかな円をえがくような猫の鳴声がきこえた。ペンベリーはその声のするほうに鼠の死体と頭をほうりなげ、また窓をしめた。それから包紙の屑を煖炉でもやし、手を洗ってベッドにはいった。
 あくる朝になってからの彼の行動も、同様に奇怪だった。早めに朝食をすまして、寝室へかえった彼は、ドアに鍵をかけ、ステッキの柄のほうを下にむけて、化粧台の脚にくくりつけた。つぎに刷毛のはいっている箱の蓋をあけ、火箸でつまんでじゃこうの壜をだし、壜の外に匂いがついているかどうか、よく嗅いだあとでゴムの栓をぬいた。それから細心の注意をはらいながら、壜をかたむけて、数滴――茶さじ半分――のエッセンスをステッキの綿にたらしこんだ。綿が充分にエッセンスを吸いとると、こんどはナイフの柄にエッセンスを一滴おとした。ナイフの柄もすぐ液体を吸いとった。それがすむと彼は窓をあけて外をみた。すぐ下に小庭があって、そこに二株ばかりの月桂樹が、枯れもしないで枝をのばしていた。鼠のむくろはどこにも見えなかった。夜のまに消えてなくなったものと思われた。彼は手にしていた壜を、月桂樹のしげみにむかって投げつけ、そのあとからゴムの栓をほうりなげた。
 そのつぎに彼がしたことは、化粧道具入れから、ワセリンのチューブをだし、それを少しばかり指先にしぼりだしたことであった。彼はそのワセリンを刷毛箱の要処要処に塗りつけて、蓋をした時、空気がもれないようにした。指のワセリンをふきとると、火箸でナイフを持ちあげ、刷毛箱にいれてすぐ蓋をしめた。それから匂いを消すため、ガスの火で火箸を焼いて、その火箸と刷毛箱を鞄にいれた。そして石突きに手がふれぬように用心しながら、ステッキの紐をとくと、彼はそのステッキのなかほどのところを片手でにぎり、片方の手に鞄と化粧道具入れをさげてホテルをでた。
 早朝の汽車に一等客はすくないので、誰もいぬ客車をさがすのに骨はおれなかった。車掌が笛をふくまで、プラットフォームで立ってまった。車室にはいるとドアをしめ、ステッキの先が外がわの窓に覗くようにおいて、汽車がベイスフォード駅につくまで、そのステッキの位置を動かさなかった。
 汽車をおりたペンベリーは、化粧道具入れは駅にあずけ、ステッキのまんなかを握って駅をでた。ベイスフォードの町は、駅の東半マイルほどのところにあった。彼の家は駅の西一マイルほどはなれたところにあった。そしてオーゴーマン大将の別荘は、駅から彼の家へ行く道の、なかほどのところにあった。だからその別荘のことは、彼はよく知っていた。その別荘は農家を改造したもので、広々とした草原の一端にあって、大道からちょっと三百ヤードばかりひっこんでいるが、大道からそこまで、古い大木の並木道が通じている。そして、大道からその並木道に折れるところには、大きな鉄門が立っているが、それはほんの装飾のようなもので、門の両側に囲いがないので、付近の原っぱや畑から自由に並木道に出はいりでき、げんにその並木道の中ほどのところを、人が踏みつけてできたらしい小道が横切っているほどなのである。
 ペンベリーはその小道から並木道へはいることにした。踏台があって乗りこえることができるようになった低い囲いをこす時には、そこに立ちどまってあたりを見まわした。まもなく、前に小道を横切る並木道が見えだした。二本の立木のあいだを抜けてその並木道にはいると、また立ちどまって、長いあいだあたりを見たり、耳をすましたりした。かすかに葉ずれの音がするだけで、ほかにはなんの物音もしなかった。人影も見えなかった。プラットが旅行するぐらいだから、大将も留守なのだろう。
 さぐるような目つきで、ペンベリーは近くの並木を一本ずつ見た。いま彼がその間を通って並木道へでたその二本の木というのは、一本が楡、一本が柏の大木だったが、その柏の大木は、でこぼこの大きな幹が、地上七フィートのところから三つの枝に分れて、そのいずれもが普通の木ぐらいの太さで、そのいちばん太いのは、彎曲して道の上におおいかぶさっていた。この柏の大木に、ペンベリーは特別の注意をはらって、ぐるりとその根もとを一回りしたあとで、そばに鞄とステッキをおいた。ステッキは先が上になるように鞄に立てかけた。それから彼は幹のでこぼこをたよりに、幹が三つの枝に別れているところまでのぼったが、この時鉄門のあく音がして、誰かが並木道にはいってきた。あわてて彼は木からとびおり、鞄とステッキを手にして、幹のかげに身をひそめた。
「見つけられたら大変だ。」そう心につぶやきながら、彼はぴったり大木の幹によりそって、顔をのぞけて鉄門のほうを見た。人影が近くなると、彼は体の位置をかえて見られないように用心した。やがて足音がま近になって、柏の木の前を通り抜けると、彼はそっと顔をだして、その後姿を見た。郵便配達夫だった。なんだ! と思ったが、顔見知りの配達夫だったので、見つけられなかったのは、やはり幸運にちがいなかった。
 この柏の木は彼の要求を満足させなかったのか、また並木道のまんなかに立って、右や左をながめだした。楡のむこうに刈込んだホーンビーム(訳註―しらかば科の落葉樹)がみえた。風変りな奇妙な木で、幹が喇叭のように上になるほど太くなり、その太くなった頂から、無数の小枝が、怪物の手のように八方に拡がっていた。
 一目で彼はその木を適当とみとめたが、かえりの配達夫が、楽しげに口笛を吹きながら、足ばやに通ったので、そのあいだまた柏の木に体をくっつけて待った。ひっそりとなると、彼は決心の色をうかべてその木に近づいた。
 その木の幹の頂は、高さが六フィートあるかないぐらいだったので、手を伸ばしてみたらすぐ手がとどいた。彼はステッキを幹に立てかけ――この時は石突きを下にして――鞄から刷毛箱をだして蓋をあけ、火箸でその中からナイフをつまみだして、火箸もナイフも両方とも下から見えぬ幹の頂においた。それから彼は刷毛箱を鞄にいれかけたが、ふと思いついたようにそれを嗅いでみたら、いやな匂いがしたので、幹の頂にほうりなげた。箱は音をたてて、枝と枝とのあいだの、幹の頂に落ちた。彼は鞄をしめると、ステッキの柄のほうをもち、静かに来た時の道をあるいて、楡と柏とのあいだから並木道をぬけだした。
 彼は異様な歩きかたをした。歩きかたがのろいばかりではなかった。歩きながらステッキをひこずり、五六歩あるくと立ちどまって、強くステッキを土地に押しつけるのである。はたから見ていたら、なにか瞑想にふけりながら歩いている人としか見えなかった。
 そんな歩きかたをしながら、彼は野原を横切った。大道へかえろうとはしなかった。やがて小さい細道へでた。その細道をしばらく行くと大道がある。その細道が大道に落ちあうすぐ向うに警察署があった。小さい警察署なので、近くの農家と見分けがつかないほどだったが、ドアをあけはなしてあって、ランプがあって、外に掲示板があるので、よく見れば警察ということが分る。ペンベリーはステッキをひきずって大道を横切り、警察署の入口にステッキの先を当てたまま、その掲示を読んだ。ドアがあいているので、なかがよくみえた。一人の男がデスクにむかってなにか書いていた。その男はこちらに背をむけていたが、動く拍子にその左手が見えた。左手の人差指がなかった。もとポートランド刑務所に勤めていたジャック・エリスにちがいなかった。
 そのうち、その男が横へむいたので、顔がよく見えた。ペンベリーは、ベイスフォードからソープ村へ通じる道路で、よくこの男に出会った。しかも、それがいつも同じ時刻だった。つまりこの男は毎日ソープ村へ行っているのだ――報告をうけるため交番をめぐるのかもしれない――行くのは三時から四時までのあいだ、帰るのは七時から七時十五分のあいだだった。
 ペンベリーは時計をみた。三時十五分だった。そっと警察署の建物からはなれ(ステッキのまんなかを握って、)ゆっくりした足どりで、西のソープ村の方向へ歩きだした。
 しばらく額に当惑したような深いしわをよせて、しきりに考えこんでいるような様子だったが、まもなく晴ればれとした目つきになって、いままでより歩度をはやめて歩きだした。そして生垣のこわれたところを見つけると、そこから道をはなれて野原にはいり、今までと同じ方向に歩きながら、豚皮の小さい財布をとりだし、大部分の金を抜きとって、数シリングの金だけ残し、金貨や紙幣を入れるためにできている財布のポケットのようなところへ、ステッキの先をつきさした。そして財布をくっつけたステッキの中央を握ったまま、ゆるやかに歩きつづけた。
 やがて大道が「く」の字なりに曲ったところまでくると、彼はそこに腰をおろしたが、その位置からは今まで歩いてきたところがよく見とおせたし、また、ちょうど生垣がこわれて隙間ができていたので、大道を通行する人からはこちらを見られずに、安心して通行人を見ることができた。もっとも、通行人といったところが、まれにしかその道路を通る人はなかったのである。
 十五分たった。ぼつぼつ彼は不安を感じはじめた。自分の見込みに狂いがあるのではあるまいか? エリスは毎日通るのでなくて、時々しか通らないのではあるまいか? もしそうだとすると、さしせまった危険はないにせよ、ちょっと厄介なことになる。そんなことを考えていたら、大股に一人の男が大道を歩いてきた。彼の目にあやまりはなかった。それはエリスにちがいなかった。
 だが、この時、反対の方向からまた一人の男が歩いてきだした。労働者ふうの男だった。彼は位置をかえようかと考えた。だがよくみたら、労働者のほうが先に通ることがわかった。彼は待った。まもなく労働者は生垣のこわれた隙間のまえを通りすぎた。その時ちょっと、エリスは曲り角にさしかかって見えなくなった。そのエリスの見えない瞬間を利用し、ペンベリーは生垣のすきまから財布を先にくっつけたステッキをのぞけ、財布をふり落して、ステッキの先で突いて、その財布が道路のまんなかになるようにした。それからまた生垣のそばにしゃがみ、息を殺してエリスの来るのを待った。やがてなにも知らぬエリスが、悠々とした足どりで通りかかった。ペンベリーは邪魔になる小枝をはらって、ひとみをこらして見入った。エリスは財布に気がつくだろうか? 小さい物なので、見おとさなければいいが――
 はたと足音がやんだ。立ちどまってエリスは財布をひろった。それからなかをあらためて、ズボンのポケットにおしこんだ。ペンベリーはほっとした。そしてエリスの後姿が道を曲ってみえなくなると、生垣をはなれて急いで歩きだした。
 生垣のこわれた場所のそばの方々に、麦藁を積み重ねてあった。そのそばを通った彼はあることを思いついた。麦藁の山にステッキを突きさし、そばにあった棒をひろってきて、その棒でステッキの柄を押して、見えなくしてしまったのである。ステッキを始末すると、あとにのこるのは、空の鞄一つだけである。まだ化粧道具入れがのこっているが、それは駅に預けてある。彼は空の鞄をあけてなかを嗅いでみた。なんの匂いもしなかったが、それでも始末するにこしたことはないと思った。
 生垣の隙間から道へ出ると、一台の荷車が、なにか袋に入れた物をたくさん積んで通りかかった。荷車の後の囲い板は立ててなかった。彼はあたりを見まわし、いそいで荷車に追いついて、その鞄を車の後にのせ、それから急いで駅へ行って化粧道具入れを受けとった。
 家にかえるとすぐ寝室にはいり、ベルをおして家政婦をよび、いつもより多めの食事の用意をいいつけ、それから服はもとより、シャツ、ネクタイ、靴下まで、すっかり脱いでしまってトランクにいれた。そのトランクは大量のナフタリンとともに夏物がいれてあった。彼は化粧道具入れから、過マンガン酸カリの包みをだし、となりの浴室へいってその薬剤を浴槽にいれ、水道の栓をひねって水をいれた。桃色の水が浴槽にいっぱいになると、彼は全身をその水にひたして、頭の髪までていねいに洗った。それから浴槽の水をすて、新たに水をいれて体をすすぎ、タオルでふいてかわかした。つぎに満腹するまで食事をし、食事がすむとソファに寝そべって、約束の時刻がくるのをまった。
 六時半になるころの彼は、停車場前の、たった一つの街灯が遠くから見えるような場所をうろついていた。まもなく汽車の停る音がして、どやどや乗客たちが駅からでてきたが、そのうちの一人は、ほかの者とはなれ、ソープ村へいく道にはいった。その男がプラットであることは、ほのぐらい街灯の光ですぐ分ったが、靴音たかくふみならして、張りきって約束のばしょへむかうらしかった。
 ペンベリーは目にたよるよりも、おもに耳にたよるようにして、向うに覚られないように尾行した。プラットは鉄門のほうへ行くらしかった。ペンベリーは囲いを乗りこえ、急ぎ足で暗い草原を横切った。
 まっ暗い並木道へでると、彼はいちばんにホーンビームの木の上に手をのばしてさぐってみた。火箸が手にふれた。安心した彼は手をひっこめて、静かに並木道を歩いた。木の上にあるのと同じナイフの刃を起し、上着の内がわのポケットのなかで、その柄を握りしめていた。
 陰気な音をたてて鉄門があき、だんだん靴の鳴る音が近づいた。闇のなかに黒い人影が現れると、静かにそのほうへ近よって、
「プラットか?」ときいた。
「そうだよ。」快活なプラットの声だった。まぢかになると、「金をもってきた?」ときいた。
 無礼で馴れなれしい彼の態度が、ペンベリーの決心をいっそう強いものにした。「持ってきたよ。しかしその前に話をきめたいんだが。」
「無駄口をきいているひまはない。すぐ大将が帰ってくる。ビングフィールドへ友人といっしょに馬に乗りにいったのだ。早く金をくれ。話はこんどにしよう。」
「よし、分った。しかしね、君――」
 急にペンベリーは立ちどまった。その時二人はホーンビームの木のそばまできていた。ペンベリーは闇のなかでその木を仰いだ。
「どうしたの?」プラットはきいた。「なにを見ているんだ?」彼も立ちどまって木を見あげた。
 とっさにペンベリーはナイフをふりあげ、全身の力をこめて、もと看守をしていた男の、左の肩甲骨のしたを後から刺した。
 刺されたプラットは、恐ろしい悲鳴をあげてふりむき、ペンベリーにしがみついた。
 彼はペンベリーより大きくもあるし、力も強かったので、格闘のだんになると、ペンベリーは彼の敵でなく、すぐ喉をしめつけられてしまった。だがペンベリーもいっしょうけんめいだった。二人がしがみついたまま、押したり押されたりしているうち、ペンベリーがまた一、二度つづけさまにナイフで刺したので、プラットの声はしだいにかすれてかすかになった。それから二人は組合ったままどさんと勢よく倒れたが、下になったのはペンベリーだった。だが、倒れた時にはすでに勝負はついていた。プラットは泡立つような最後の唸声をあげ、それからペンベリーをつかんでいた指をゆるめて、ぐったりとなった。彼を押しのけて立ちあがったペンベリーは、ぶるぶる震えながら、喉をひいひい鳴らしていた。
 だが、それだからといって、彼は時間をむだにしはしなかった。案外格闘が大きな音や声を立てたので急がねばならなかった。木のそばによって火箸をさぐった。その火箸でナイフをつかんで木からおろして、そのナイフを死体から二、三フィートはなれた位置においた。それからまた木に近づいて火箸をもとのところへかくした。
 この時、並木道のはずれの、別荘のほうから、鋭い女の声がきこえた。
「プラットさんなの?」
 ペンベリーはひやりとした。すぐ爪先で歩いて死体にちかづいた。死体にナイフが突きささっているので、それだけはどうしても取らなければならなかった。
 死体は上向きになっていた。ナイフは死体の下にあって、柄のところまで刺さっていた。死体を動かすのには両手を使わなければならなかったし、ナイフもそう易々とはぬけなかった。同じ言葉をくりかえす女の声は、だんだん近くなった。
 ようやくナイフをぬきとると、それを内がわのポケットにいれた。死体を放して、はげしい息づかいをしながら立ちあがった。
「プラットさん! どこなの!」
 声があまり近いのでびっくりした。そのほうに顔をむけると、木々のあいだにちらっと灯がみえた。その時、鉄門のあく音がして、馬のひずめの音がきこえた。
 すっかり慌ててしまって、しばらくは身動きすることさえできなかった。馬が現れようとは思わなかった。馬で追っかけられたら、ソープへ行く道の途中で追いつかれるにきまっている。追いつかれたらそれまでだ。服に血がついているし、手も血でずるずるしていた。ポケットの中のナイフがよごれていることは言うまでもなかった。
 だが、彼の当惑はすぐ消えた。先刻の柏の大木のことを思いだしたのである。すぐその木のそばへ走ってゆき、なるべく血がつかぬように用心しながら、枝のあるところまでのぼった。道の上へ水平に伸びている枝は、直径が三フィートもあった。だからその上に横になって、なるべく姿勢を小さくしていれば、下から見つけられる心配はなかった。
 彼が枝の上に身をひそめると、むこうから一人の女が、うまやのカンテラをもって接近してきた。そして、それと同時に、反対の方向から明るい光がさしてきた。馬上の男は自転車の男を同伴しているらしい。
「どうかしたの、ミシズ・パートン?」と、馬の上から男の声がした。
 ちょうどその時、自転車のランプが道によこたわる死体を照した。二人の男は同時にそれをみて声をたてた。女も悲鳴をあげた。
 馬上の男は馬からとびおり、そばにかけよって、
「なんだ、プラットじゃないか!」といったが、明るい自転車の光で血の海をみると、「これは殺されたんだよ、ハンフォード。」
 ハンフォードは自転車のランプをとって、死体のあちこちや、付近の道路を照してみていたが、
「オーゴーマン、君のうしろにあるのは、なに? ナイフじゃないか?」といって、そのほうへ歩きかけた。
「手をつけちゃいかん! おれが犬をつれてくる。犬に嗅がせればすぐわかる。まるで向うから犬の待っているところへとびこんできたようなものだ。」大将はしばらく得意げといいたいような目つきでナイフを見ていたが、友人をかえりみて、「ハンフォード、君は大至急、自転車で警察へ知らせにいってくれ。一マイルもないんだから、十五分もあればいけるよ。そして巡査に来てくれというか、いっしょにつれてくるかするんだ。おれは野原をさがしてみる。さがしても君が帰ってくるまでに分らなかったら、犬にこのナイフを嗅がせることにしよう。」
「よし。」
 ただそれだけいって、ハンフォードは自転車にまたがり、闇のなかに姿をけした。
「ミシズ・パートン、ナイフの番をしていてくれ。おれが野原からかえるまで、誰にもそれに手を触れさせちゃいかんよ。」オーゴーマンはいった。
「プラットさんは、もう駄目なんですか、旦那さま?」ミシズ・パートンはおろおろ声だった。
「それには気がつかなかった。お前よくみてくれ。しかし匂いがつくから、誰にもそのナイフに手をつけさしちゃいかんよ。」
 そういいすてて、彼は馬に跨がり、ソープ村の方向にむかって、暗い野原に馬を飛ばせた。しだいに遠くなるひずめの音をききながら、ペンベリーは逃げないでよかったと思った。彼が逃げようと思った方向もそちらであった。だから逃げていたら、追いつかれるところだった。
 大将が立ちさると、パートン夫人は恐る恐る左右をふりむき、死体のそばへよって、カンテラで死人の顔を照した。だが急に身震いして立ちあがった。並木道のむこうから足音がしたからであった。まもなく聞きなれた声がしたので安心した。
「どうかしたの、ミシズ・パートン?」
 それは別荘の女中の一人で、年長のパートン夫人をさがしにきたのだった。女中は若い男といっしょだった。二人ともカンテラの光のとどくところへ歩みよった。
「あっ! これはだれ?」男がきいた。
「プラットさんよ。誰かに殺されたらしいの。」パートン夫人はこたえた。
 女中は悲鳴をあげた。女中と下男は、爪先で歩くような恰好で死体にちかよって、恐ろしそうな顔でそれをみた。
 下男がナイフにちかよりかけると、
「そばによっちゃだめ。旦那さまがいま犬に嗅がせるんだから。」
「旦那さまがいらっしゃるの?」
 そう下男がきくと、それに答えるように、野原から馬を飛ばす音がして、それがだんだんまぢかになった。
 オーゴーマンは、三人の召使が死体をとりまいているのを見ると、手綱をしぼって、
「死んでいるか、ミシズ・パートン?」ときいた。
「そうらしゅうございます、旦那さま。」
「そんなら、誰か医者を呼んできてくれ。しかしベイリーは行かないで、犬をつれだして、並木道のはしのところで、おれが呼ぶまで待っていてくれ。」
 また彼は野原に馬をのりいれ、ベイスフォード方面へとんでいった。ベイリーが犬をつれだすため家へかえると、あとにのこった二人の女中は、死体をかこんで、ひそひそ話しはじめた。
 木の上のペンベリーは窮屈だった。窮屈でもみうごきできなかった。それどころか息をすることすら心配なほどだった。というのは、下の女との距離が、十二ヤードぐらいしかなかったからである。だから、ベイスフォード方面から一群の人々が灯をかざして来るのを見た時には、心配でもあったが、むしろほっとした気持でもあった。その一群の人々は、しばらく並木の蔭になって見えなかったが、まもなく灯影を木の幹に映しながら接近してきた。それは先刻のハンフォードと警部と警部補の三人で、三人とも自転車だった。彼らが到着すると同時に、ひずめを轟かして、大将がかえってきた。
 彼は馬をとめると、
「エリスも来ましたか?」ときいた。
「いや、あれは今夜はいつもよりおそくて、まだソープから帰ってきません。」
「医者に知らせましたか?」
「ドクター・ヒルスを呼びにやりました。」警部は自転車を柏の木に立てかけながらこたえた。ぷんとペンベリーの鼻にランプの匂いがきた。「プラットは死んでいますか?」
「そうらしいです。」オーゴーマンの声だった。「しかし、そんなことは医者にまかすことにしましょう。あすこにナイフがあるんです。まだ誰も触っていません。これから犬に嗅がしてみようと思うんです。」
「それは面白いでしょう。まだ犯人は遠くへ逃げちゃいませんよ。」そういって、警部は満足そうに両手をもんだ。オーゴーマンは家のほうへ馬をとばせた。
 それから一分間とたたないうち、闇のなかからものすごい犬の鳴声や、砂利を踏む靴の音がきこえ、それからまもなく、逞ましげな足をした、毒々しい、ほっそりした、三匹の犬が死体のそばに現れた。革紐をもつ二人の男は、ひきずられるような恰好だった。
「警部さん、」大将は叫んだ。「あなた一匹もってください。私は二匹はもてぬ。」
 警部はかけよって、大将の手から革紐の一つをうけとった。大将は犬にナイフを嗅がせた。木の上のペンベリーは、無関心といっていいほどの落着きで、その大きな動物を珍らしげに見た。額にしわをよせた動物は、ナイフのそばによると、いままで高くもちあげていた頭を低くして、憂欝な目つきで匂いを嗅いだ。
 長いあいだ犬はナイフを嗅いでいた。しばらくすると、鼻を低くして、ふきんの土地を嗅ぎはじめた。と思うと、急に頭をもたげて一声高く吠え、それからまた鼻を低くして、柏の木と楡の木とのあいだをぬけ、大将をひきずるようにして歩きだした。
 そのつぎに、警部が犬にナイフを嗅がせると、その犬も前の犬のあとを追いだした。
 ベイリーは第三の犬にナイフを嗅がせながら、感心したように見ている警部補にいった。「犬の鼻は確かなもんですよ。一度だって間違えるようなことはありませんからな。みとってごらんなさい――」そこまでいうと言葉を切った。犬がはげしく革紐を引っぱって、前の犬と同じ方向へ進みだしたからであった。ハンフォードもそのあとについた。
 警部補はそっとナイフの紐をつけるかんのところをつまんで持ちあげ、ていねいに紙で包んでポケットにいれ、ほかの者のあとをおって野原にでた。
 ペンベリーは闇のなかで笑った。思いもうけぬ出来事がつぎつぎと続きながら、とにかくことは計画通り進行しつつある。ただ女中がどこかへ行ってくれれば、そのあいだに逃げだせるのだが。時々吠える犬の声はしだいに遠くなった。それにしても医者はなにをしているのだ。早く来てくれればいいのに。生きるか死ぬかの場合ではないか。責任観念がないのだろうか。
 ふと彼の耳に自転車のベルの音がひびいてきた。まもなく並木道にあらての自転車の灯がみえ、悲劇の現場にとまると、小柄の年ぱいの紳士がおりて、自転車を女中パートン夫人に持たせて、死体のそばにしゃがんだ。彼は死人の手を握ってみ、まぶたをひっくりかえして、マッチの火をつきつけてみると立ちあがって、
「これは大変だ。すっかり死んでいますよ。あなたがた二人は頭のほうを持ってください。私が足を持ちます。とにかく家へはこばなくちゃ。」
 ペンベリーの目は、三人が死体をはこんで並木道を遠のくのをみた。彼の耳は、よろめくような彼らの足音が、しだいにかすかになり、最後に別荘のドアのしまる音をきいた。それでもなお彼は耳をすましていた。はるかなところから、時々犬の吠えるのが聞えた。ほかにはなにも聞えなかった。しばらくすると、医者が自転車をとりにくるだろう。それまでは人っこ一人いないわけだ。ペンベリーは固くなった体をおこした。木の幹に当てていた両手は、こわばって濡れていた。急いで木からおりて、またしばらく耳をすました。そこにおいてあるランプの光をさけて、遠回りして並木道を横切り、ソープ村へむかう草原へでた。
 あたりはまっ暗で、なにも動いていなかった。急ぎ足に草原を横切りながら、時々立ちどまって、闇をすかして見たり、聞耳をたててみたりした。だが、どこもひっそりとして、犬の遠吠えよりほかには、なにも耳にはいらなかった。彼の家のそばに深い小川があって、そこに木の橋がかかっているのを思いだした。自分の風采が異様であることは分っていたので、彼はその小川へ足をむけた。小川のふちへくると、ひざまずいて手や手頸を洗った。だが、しゃがんだ拍子に、ポケットに入れていたナイフが流れに落ちたので、それをさぐってひろいあげ、泥のなかにできるだけ深くさしこんだ。それからまた水草で手をぬぐい、橋をわたって家のほうへあるいた。
 家のそばまでくると裏手にまわってみた。家政婦が台所で働いていたので安心した。彼は静かに玄関のドアを鍵であけて、すぐ二階の寝室にはいった。寝室にはいった彼は、となりの浴室ですっかりよごれを洗いおとした。そこではよごれた水を自由にすてることができた。新しい服に着かえて、今まで着ていた服はトランクにしまった。
 すっかり後始末をすると、夕食を知らせる銅鑼がきこえた。食堂に坐った時の彼は、折目ただしい服装で、落着いた、快活な紳士になっていた。
「ロンドンの用事がかたづかないので、またあす行かなくちゃならん。」
「あすの晩はお帰りになりますか?」家政婦はきいた。
「帰るつもりだが、ことによると帰れないかもしらん。仕事がすめば帰れるのだが――」
 その仕事がどんなものであるか、彼のほうでいいもしなければ、家政婦のほうでききもしなかった。ペンベリーはそんなことをむやみに喋る男ではなかった。彼は用心ぶかい男だった。そして、用心ぶかい男は、むやみに喋らないものなのである。
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医者クリストファー・ジャーヴィスの談話


 いよいよ調子よく煖炉がもえて、パイプから香りたかい煙のたちのぼりはじめる朝食後の三十分――これはおそらく一日のうちで、いちばん愉快な時であろう。ことに、街々におおいかぶさる、どんよりとした雲が、そとの冷えびえとした空気を連想させ、曳船の汽笛が、夜のなごりのふかい霧を思わせる朝はなおさらのことである。
 秋の朝は寒かった。火は勢よく燃えていた。スリッパーをはいた足を火にかざし、私はなにも考えないで、ただ猫のように暖かさをたのしんでいた。たちまちソーンダイクが不機嫌らしく喉のおくで唸ったので、私はものうげにそのほうへ顔をむけた。彼は大ばさみで朝刊の記事をきりぬいて、その小さい切り抜きを、人差指と親指でつまんでいるのであった。
「警察犬を使っているな! この調子じゃ、火を使う昔の裁判法が復活するかもしれないぞ。」
 私は笑って足をなでた。
「こんな寒い日には、火を使う裁判が復活してくれたら、むしろ有難いよ。どんな事件なんだ?」
 彼が答えようとしたら、おりから真鍮のノッカーがけたたましく鳴って、来客のあることをしらせた。ドアをあけにでたソーンダイクがつれてはいったのは、制服の警部であった。私は煖炉のまえに立ち、背中を火であたためながら立っていた。
「ドクター・ソーンダイクとおっしゃるのはあなたでしょう?」と、警部がいうと、ソーンダイクはうなずいた。「私はフォクスという、ベイスフォード警察の警部なんですが、今朝の新聞はごらんになったでしょう?」
 ソーンダイクは切り抜きをふってみせた。そして火のそばに椅子を引きよせ、朝食がすんだかどうか警部にきいた。
「ありがとうございますが、食事はすみました。昨夜おそく汽車にのってロンドンへきて、今朝はやくホテルへついたのです。新聞をお読みになったのならお分りでしょうが、警官が警官を逮捕せねばならぬという、妙なことになってしまったのです。」
「そうらしいですな。」
「こんなことは、警察にとっても不幸ですが、一般民衆がみていてもあまり好いことではない。しかし止むをえないのです。どうすることもできません。けれども、本人のため、また警察のため、あらゆる手段を講じてみたいと署長がいいますので、それでご相談にあがったようなわけなんです。」
 ソーンダイクは紙をとじたパッドをひきだしからだして、どっかり腕椅子に腰かけた。
「では、話をきかしてもらいましょう。まず、ことのおこりから話してください。分っていることは全部のこらず。」
 軽く咳きばらいして、警部は話しはじめた。
「まず、殺された男のことから話しましょう。この男の名はプラット、もと刑務所の看守だったのですが、最近には刑務所長をしていたオーゴーマン大将の下男をしていました。警察犬で有名な大将のことは、あなたもご存知だと思います。ところで、このプラットは昨夜六時半ベイスフォード駅着の汽車でロンドンから帰ったのですが、それは汽車の車掌や駅員や赤帽が見ているから、まちがいはないのです。赤帽は六時三十七分にプラットが駅をでるのを見たといっています。オーゴーマン大将の別荘は駅から約半マイルです。プラットの死体が発見された場所は、別荘の前の並木道、七時に五分前という時刻に死体を発見したのは、大将とハンフォードという紳士と別荘の家政婦パートン夫人です。誰かに刺されたものとみえて、死体のそばにノルウェイ製のナイフが落ちていて、血がたくさん流れていた。パートン夫人は並木道で人の叫ぶ声が聞えたし、ちょうどプラットが帰ってくる時刻でもあったので、それでカンテラを持って別荘をでたといっています。そしたら向うから大将とハンフォードが帰ってきて、三人が同時に死体を発見したわけなのです。死体を発見したハンフォードさんは、すぐ自転車で警察に知らせにきました。それで私は医者を呼びにやって、警部補をつれてすぐ現場にかけつけたのですが、私が到着したのは七時十二分でした。大将は馬をとばして、並木道の両がわの野原をさがしたが、人影はどこにも見えなかった。それで三匹の警察犬をだして、現場に落ちていたナイフを嗅がしたのです。すると、三匹の犬が三匹とも、――その一匹は私が革紐をもっていたのですが――並木道から草原へでて、途中の垣や囲いをのりこえて小道にはいり、それから同じように道路を横切って警察へはいって、そこに坐っている臨時やといのエリスという巡査にむかって吠えかかったのです。その犬をなだめるのに大変な騒ぎで、エリスはこわがって、まっ蒼になっていました。」
「部屋にはほかの巡査もいたのですか?」ソーンダイクはきいた。
「いました。巡査がまだ二人と、それから小使も一人いたので、その前に犬をつれていってみたのですが、犬はそんな男には見むきもせず、ただエリス一人に吠えかかるのです。」
「それでどうしました?」
「むろん、エリスを逮捕しました。ほかにどうもしようがないでしょう。すぐそばで大将が見ているんですから。」
「大将は、どういうんです?」ソーンダイクはきいた。
「どうもいいませんが、治安判事で、ダートムーアの刑務所長をしていた人で、そのうえその警察犬の飼主なんです。ですからどうしてもエリスは逮捕しなくちゃなりません。」
「なにかエリスが犯人だという証拠があるんですか?」
「証拠というほどでもないですが、被害者のプラットとは仲が悪かったらしいのです。二人は昔からの友人で、エリスもプラットと同じようにポートランド刑務所に勤めていたんですが、左手の人差指を切断したので、恩給がついてやめることになったんですよ。ところが、最近大将邸の女中のことからプラットと仲が悪くなった。エリスは細君のある身でありながら、その女中を追っかけまわして困るというので、プラットがもう別荘に来ないようにしてくれといったのです。それから、二人は口もきかない仲になったのだそうです。」
「で、エリスというのはどんな性質の人なんです?」
「ごくおとなしい男ですよ。それでいてしっかりしていて、悪気がなくて、蠅一匹だって殺さない男ですから、みんなから可愛がられましたよ。プラットなんかよりずっと人気がよかったです。プラットには老獪なところがあって、ちょっとずるい、蔭ではなにをやらかすか分らんようなところがあったのです。」
「エリスはよくお調べになったり、検査したりしたのでしょう?」
「べつに怪しいところはないのですが、ただ財布を二つ持っていました。小さい豚革の財布で、昨日ソープ村へ行く途中の道でひろったというんです。べつに嘘をいっているようにも思われないし、それにその財布はプラットのものではないのです。」
 ソーンダイクは話の要点を筆記しながらたずねた。
「服に血痕だとか、破れたところだとか、そんなものはなかったですか?」
「服にはちっとも異状がないのです。」
「体はどうでした、すり傷のようなものは?」
「ありません。」警部はこたえた。
「エリスを逮捕したのはいつです?」
「ちょうど七時半です。」
「その日、エリスがどんな行動をとったかお調べになったでしょう? 殺人のあった場所のへんへ行ったのですか?」
「それは、ソープ村へ行きましたから、その帰りは並木道の鉄門の前は通ったわけなんです。それから、いつもより帰りがおそかったことも事実なんです。もっともおそくなるようなことは、これまでにも、ちょいちょいあったのですが。」
「つぎに被害者のことですが、死体は医者にみせたんでしょう?」
「ここへくるまえ、ドクター・ヒルズの報告をきいたのですが、背中の左がわに七つばかりの深いナイフの刺傷があって、血がたくさんでていて、ドクター・ヒルズは出血のため、一二分の間に死んだのだろうというのです。」
「刺傷は現場に落ちていたナイフと合致しますか?」
「その点を医者にきいてみたら、そのナイフとはっきりとはいいませんが、とにかくナイフの刺傷にちがいないというんです。でもそれは重大な問題ではないのです。そのナイフは血まびれで、死体のすぐそばに落ちていたんですから、問題じゃないのです。」
「そのナイフはいまどこにあるのです?」ソーンダイクはきいた。
「私がつれていった警部補がハンケチに包んでもって帰りました。いまハンケチに包んだまま、公用文箱にいれて鍵をかけてあります。」
「ナイフはエリスの物だったのですか?」
「エリスの物じゃありません。」
「現場に格闘したような足跡があるのですか?」ソーンダイクはきいた。
 警部はきまりわるげに笑った。
「それは調べなかったです。しかし大将が馬で歩いたり、馬からおりて歩いたり、犬をつれてきたり、下男や女中やハンフォードさんが、何度もいったりきたりしたんですから、ですから――」
「それはそうですな、」と、ソーンダイクはいった。
「よろしい。ではエリスのがわに立って調べてみることにしましょう。いまのところ、エリスを有罪とみとめる根拠は薄弱のようです。」
 警部はあからさまに驚きの表情をうかべ、「私は今まで根拠が薄弱と考えたことはないのですが。」
「そうお考えですか? 私はそうは思わんです。まあ、とにかくあなたといっしょに現場へ行って、調べてみることにしましょう。」
 警部はよろこんだ。私たちは彼に新聞をあてがい、実験室へしりぞいて、汽車の時間表をしらべたり、旅の用意をしたりした。
「君も来てくれるだろう、ジャーヴィス君」ソーンダイクはいった。
「邪魔にならなければ。」
「邪魔どころか、一人より二人がいいにきまっている。いまのところ、エリスに希望をつないでいるのはぼくらだけであるらしい。実験用の鞄はむろんだが、カメラも持っていくことにしよう。チャーリングクロス発の汽車が、二十分後にでる。」
 汽車にのって三十分ほどの間、ソーンダイクは話の要点を筆記した紙をみたり、窓から外の景色をみたりして考えていた。この事件にひどく興味を感じているらしいので、私はそばから口をだして、邪魔をするようなことをしないように気をつけた。しばらくすると、だが、筆記した紙をしまい、顔の表情をやわらげてパイプに煙草をつめたので、先ほどから待ちきれぬもののようにもじもじしていた警部が口をきった。
「ソーンダイクさんはエリスが救えるとお考えなんですか?」
「そんなふうに考えるんですがね。どうも有罪だとする理由が、ぼんやりしているように思うんです。」
 警部は息をはずませ、「でも、あのナイフはどうなんです? あれをどうお考えです?」
「ナイフですか。あれがどうしたというんです? 誰のナイフです? まだ誰のものとも分りやしない。なるほど血はついていた。しかしそれは誰の血です? 誰のだか分らないでしょう? いま、かりに、殺人者のナイフだと仮定してみましょう。するとそれについていたのはプラットの血だということになる。しかし、プラットの血だとすると、血の匂いは強いですから、犬に嗅がせたら、その犬はプラットの死体のほうへ歩かなくちゃならん。ところが、犬はそうしなかった、死体は見向きもしなかった。その点から考えると、ナイフについていたのは、プラットの血じゃないんですよ。」
 警部はゆっくり帽子をぬいで、頭のうしろを掻いた。
「なるほど、そう聞いてみりゃそうですな。私だけじゃない、今まで誰もそんなことに気がつかなかったんですよ。」
「つぎに、」ソーンダイクは続ける。「ナイフをプラットのものとして考えてみましょう。プラットのものだったら、自己防衛としてつかったのです。ところが、これは武器としてはあまり都合のよくないノルウェイ製のナイフで、刃を起すためには、両手が自由でなければならんし、また時間もかかるわけですが、その時のプラットは、果して両手を自由につかえたでしょうか? 私は攻撃をうけてからのちのプラットは、自由だったとは思わん。なぜというに、死体の背中の左がわに七つの傷がついていますが、これは殺人者に両手で抱きつかれていた証拠、そしてその殺人者が右手のきく人間で、右手にナイフを持って突き刺した証拠です。それでも、なおかつそのナイフをプラットのものとして考えてみると、そのナイフについている血は、当然殺人者の血でなければならぬわけで、したがって殺人者は負傷していなければならぬわけですが、当のエリスにはその負傷がない。だからエリスは殺人者ではないという結論になる。どう考えても、このナイフはなんの証拠にもならない。」
 警部は頬をふくらませ、静かに息をはいたあとで、
「どうも私にはそんな深い理窟は分らんですが、しかし、あなただって犬が指摘したことを否定はできないでしょう、犬はあのナイフがエリスのものであることを示していて、ほかに説明のしようがないように思うのですが。」
「説明のしようがないはずですよ、あのナイフはなにも証明していないんですもの。犬はどんな事実も語ってはいないんです。あなたは犬の行動をみて一つの結論をお考えになるかもしらんが、その結論は全然まちがっていて、なんの証拠にもならないんです。」
「警察犬のことを、あまりご存じないのじゃありませんか?」警部はいった。
「犯罪捜査につかうものとしては、警察犬はあまり役にたちませんな。」ソーンダイクはいった。「公判の時に警察犬を発言台に立たせて、証言させることもできないでしょうし、なにかの陳述をもとめることもできない。なにか知っていることがあっても、それを発表することができないんです。だから犯罪捜査に警察犬を使うのは間違っている。アメリカの農園では、逃亡したどれいをつかまえるのに、警察犬を使って成功をおさめていると聞きますが、それは相手の人間が分っているからなのです。分った人間を探すのはわけはない。ところが、犯罪捜査のばあいは分った人間を探すのじゃない。探偵は分っている人間を探すのじゃなくて、分らない人間のうちから、その一人を探しだすのです。そして、そんなことには警察犬はなんの役にもたたない。むろん、犬だってそんな一人を探しだすことはあるでしょうが、その知っていることを人間に知らせる手段がない。だから未知の人間を探すことはできないのです。それかといって、相手の人間が分っていたら、警察犬を使うまでもなく、警官がつかまえればすむことなのです。」
「さて、」ソーンダイクは説明を続ける。「この事件でも警察犬を使ったそうですが、犬と人間とのあいだに、精神感応があるわけでもなければ、犬の考えをつたえる霊媒がいるわけでもない。犬は人間の及びもつかぬ鋭い嗅覚をもっていますから、その複雑な嗅覚で微妙なことを考えるには考えても、嗅覚の幼稚な人間に、それをつたえることはできない。犬に、ナイフを嗅がせれば、そのナイフの匂いの属性を知って、同じ属性をもつ土地をつたい、同じ属性をもつ一人の人間――エリスのそばへは行くでしょうが、しかし私たちはその匂いの特別の属性を知ることはできない。すると結局どんなことになります? ただいえることは、ナイフとエリスとのあいだに、なにか一種の共通の匂いがあるということだけなんです、それがどんな匂いであるかということが分らない以上、双方の関係の意味を知ることもできないし、証拠としての価値をみとめることもできないのです。あなたがたが証拠だと思っているものは、あなたがたや大将が想像でつくりあげたものにすぎない。だから、現在のところ、エリスを犯人とする証拠は一つだってないのですよ。」
「でも殺人のあった時、エリスがかなり現場近くまで行ったことは事実なんでしょう?」警部はいった。
「それは行ったかもしれませんが、ほかの者も行ったかもしれない。しかし、エリスだとしたら、血を洗ったり、服を着がえたりする必要があったでしょうが、そんなことをする時間があったでしょうか?」ソーンダイクはいった。
「それはそうですね。」警部は不審げな顔をした。
「そうでしょう? 死体の[#「死体の」は底本では「エリスの」]背中には七つの傷があるが、七つの傷をつけるには時間がかかる。そのあいだぼんやり立っているはずはないし、また、さっき話しましたように、傷の位置から判断して、ぼんやり立っていたのでなく、二人は組みあっていたのです。おそらく殺人者は片手でプラットを抱え、片手で背中を突き刺したのでしょう。だから、すくなくも殺人者の片手は血まびれになっているはず、ことによると両手が血まびれになっているのです。だのに、あなたの話によると、エリスには血を洗う機会もなければ、そんなことをする時間もなかったのに、すこしも服や体に血がついていなかった。」
「どうも不思議な事件ですな。しかし、犬の謎をとくのは、ちょっと困難なのじゃないでしょうか?」警部はいった。
 ソーンダイクはじれったそうに肩をすくめた。
「犬は厄介ですよ。謎の中心はナイフです。問題は誰のナイフかということ。そして、ナイフとエリスにどんな関係があるかということ。ジャーヴィス君」と、彼は私をふりかえり、「君にもその問題を考えてもらいたい。でてくる解答がみんな奇妙なのだ。」
 ベイスフォード駅で下車して、いよいよ歩きはじめるだんになると、ソーンダイクは時計をだしてみて、その時刻を注意し、
「プラットが歩いたと同じ道を案内してください、」といった。
「プラットは大道を歩いたか細道を歩いたか分らないのですが、距離はどっちにしてもあまりちがわないのです。」
 駅から私たちは西へむかって、ソープ村への大道を歩いたが、しばらく行くと右がわに踏段がみえて、そこをこえて小道へ出られるようになっているのがみえた。
 警部はその小道を指さし、
「あの道を行くと並木道の中ほどのところを横切られるようになっているのですが、私たちは大道を歩くことにしましょう。」
 それからしばらく歩くと、両方に観音びらきになる鉄のドアが見えたが、片方のドアはあいていた。そこをくぐると両がわが大木にかこまれた広々とした並木道で、その大木の幹のあいだから、左と右の草原がみえ、黄色になった秋の木の葉が、頭上をおおっていた。
 その並木道を百五十ヤードほど進むと、警部はたちどまって、
「そこです、」といった。
 ソーンダイクはまた時計をだしてみて、
「駅からここまで九分かかりました。するとプラットは七時に十四分前ぐらいにここに到着し、七時に五分前に死体となって発見されたわけですな。だから、ここへ到着してから九分たって死体となって発見されたのです。してみると、死体を発見した時には、まだ犯人はあまり遠くへは逃げていなかったということになります。」
「そうなんです。直後にみんながここへ来たのです。死体をごらんになりたいといわれましたね?」警部はきいた。
「ええ。それからナイフもどうぞ。」
「誰か人をやってナイフを持ってこさせましょう。ナイフは警察に保管してあるのです。」
 警部は別荘にはいり、使いの者を警察にやると、私たちを死体の安置してある別棟の建物に案内した。すばやくソーンダイクは、ナイフの傷のある服の穴や死体の傷を調べたが、そんなものは予想どおりで、べつに新たな事実を示唆してはいなかったらしい。兇器は警部の話した通りの、片刃の厚いナイフにちがいなく、傷口の変色の程度からおして、ノルウェイ製ナイフのような、柄の厚いナイフらしく思われ、どの刺傷も死にもの狂いの力で刺しこんであった。
「なにか犯人がわかるような特徴がありましたか?」警部は死体を見終ったソーンダイクにたずねた。
「ナイフを見ないうちはなんともいえないですよ。ナイフが来るのを待っているあいだに、もいちど現場を見せてもらいましょうか。これが、プラットの靴ですか?」
 ソーンダイクはそういいながら、テーブルの上にあったがっしりした編上靴を持ちあげて、その裏をながめた。
「そうです。」フォクス警部はこたえた。「もし足跡を調べるんでしたら都合がいいんです。ブレエキー製の鋲には特徴がありますから。現場に足跡がないのは残念です。」
「でも、一応持っていってみましょう。」ソーンダイクはいった。
 警部は彼の手から靴をうけとり、私たちはまた並木道を現場にひきかえした。
 犯罪のあった位置は、並木道の片がわのホーンビームの古木と楡のあいだで、まだ小石によごれがついていたので、すぐそれとわかった。楡のとなりには、こぶだらけの、でこぼこの柏の幹が、地上六フィートのところまで伸びて、そこから三方に別れた枝の一つが、並木道のまうえをおおっていた、そして、そのあたりにはいろんな足跡がいりみだれ、またその上を馬の蹄が掻き乱しているのであった。
「ナイフはどこに落ちていたんです?」ソーンダイクはきいた。
 警部がホーンビームの木のそばの道のまんなかを指さすと、ソーンダイクは大きな石をひろってそこにおいた。
 それからソーンダイクは、地面を見たり、並木道のあちこちを見たり、それをとりまく木々を見たりしていたが、静かに地面を見ながら楡と柏のあいだに歩いていった。
「足跡がたくさんあるじゃありませんか。」
「たくさんあっても、どれが誰だか分らんので困るんですよ。」警部はいった。
「そう、それが問題ですね。でも、このなかからプラットの足跡だけ探してみましょう。」
「探したってつまらんですよ。プラットがここにいたことは分っているんですから。」
 警部がそういうと、ソーンダイクは驚いた顔で彼をみたが、じつのところ、私も老練な警視庁の連中にばかり接してきたので、この馬鹿げた警部の言葉には、驚かずにいられなかった。
「後から集ってきた連中の足跡は、楡と柏のあいだで消えている。そのほかにはあまり足跡がない。」
 そんなひとりごとをいいながら、ソーンダイクは熱心に地面をしらべ、楡のぐるりを回っていたが、
「ここの草のそばの柔らかい土に、先の光った[#「光った」はママ]小さい靴跡があるが、これは靴も小さいし、歩幅も短いから、背の低い男で、後から来た連中じゃあるまい。しかしプラットらしい足跡はないね。砂利のうえばかり踏んで、こちらへは来なかったのだろうか?」
 下を見ながら、ゆっくりホーンビームの木のほうへ歩いていた彼は、急に立ちどまってしゃがむようにして土地を見た。フォクス警部と私がちかよると、彼はそこを指さし体をおこして、
「ここに足跡がある。半分しかないし、しかもかすかな足跡だがプラットのものにちがいない。警部さん、この足跡が重大な意味をもつことがお分りでしょう。この足跡を、もひとつの足跡とむすびつけて考えると、時間の点が明らかになるのです。これとあれを比べてみてください。」
 死人の二つの足跡を順々に指さした。
「格闘のあとがあるとおっしゃるのですか?」フォクス警部はきいた。
「それ以上のことが分るのです。このプラットの足跡は、先の尖った小さい足跡のうえを踏みつけているでしょう。ところが、あの砂利のそばのプラットの足跡は、先の尖った小さい靴で、ほとんど見えないぐらいに踏みつけられているじゃありませんか。ですから、この先の尖った足跡はプラットのよりも前につき、あの足跡はプラットのよりも後でついたのです。その結論は先の尖った靴をはいた男が、プラットと同時にここにいたということになるのですよ。」
「そんなら、その男が殺人者だ!」フォクスは叫んだ。
「たぶんそうでしょう。」ソーンダイクはいった。「その男がどっちへ歩いたか調べてみましょう。まず最初にその男は、この木のそばに立ったのです。」――ホーンビームの木を指さした――「それから楡の木のほうへ歩いていった。あっちへ行ってみましょう。殺人者は楡のそばを通った。そしてホーンビームからまっすぐに歩いて、格闘の足跡とは混っていない。だから、これは殺人のあとで歩いた足跡なんでしょう。しかもこの足跡は並木の外がわを通っている。これはなにを意味するのでしょう?」
 警部が頭をふってこたえないので、私がこたえた。
「その男が逃げようと思っていたら、そこに向うから誰かがやってきたのじゃないだろうか。」
「その通り、」と、ソーンダイクはいった。「誰かがやってきてプラットの死体を発見したのは、プラットがここへ来て九分とたたぬうちのことだった。殺人者にしても後始末があるから、殺すとすぐ逃げだすわけにはいかなかった。そこに家政婦が声を聞きつけてカンテラをもってかけつけ、また片方からは大将とハンフォードが帰ってきた。それで殺人者はいそいで並木の蔭に身をかくしたのだ。もっとよく足跡を調べてみよう。この足跡は楡を通りすぎて、次の木のほうへ歩いている。だが、待てよ! これはおかしい!」
 柏の大木の外がわの、根元の柔らかい土をのぞきこんだ。
「この両足の跡は、ここでとまって爪先が木の幹のほうへむいている。これを、君、どう思う?」
 彼はそういったが答えはまたず、その柏の大木の幹の、地上三フィートばかりのところの大きなこぶのように突出したところや、そのぐるりを調べだした。そのこぶの上の樹皮は、なにかが滑り落ちたように垂直にこすれていて、こぶから出た小枝が折れて、下の根元に落ちていた。ソーンダイクはそんなものを私たちに指さして見せたあとで、そのつきでたこぶに足をかけて体をもたげ、幹のいただきの、大きな枝が分れてでているところをのぞきこんだ。
「これは今までのものよりはっきりしている。」
 彼はそういってもひとつの突出部に足をかけ、木の頂の三つまたになったところにはいあがって、すばやくあたりを見まわしたあとで、私たちを手まねいた。私が突出部に足をかけて体を伸ばすと、顔が木の頂より高くなったので、枝に残っている茶色に光る手の跡がよく見えた。私がそこからまた頂まではいあがると、あとから警部も頂へはいあがった。三人が三本の枝の分岐点に立つと、そこから並木道の上に伸びでた大きな枝の、苔におおわれた面に、赤茶色の両手の跡がついているのがみえた。ソーンダイクはその枝を見ながら、
「分るだろう? 殺人者は小男だったのだ。ぼくなんか、ここに足をくっつけていて、あんな低いところに手を当てると、窮屈でたまらんよ。それに、分るだろう。両手の人差指の跡がはっきりついている。だから殺人者は人差指のないエリスではない。」
「でも、この手の跡は殺人者のではないでしょう。」フォクス警部はいう。「これが殺人者だとすれば、犬をつれて騒いでいた私たちを、高いところから殺人者が見物していたということになりますよ。犬がいないんならとにかく、犬がいたらそんなことはできないはずだ。だからこれは殺人者の手じゃないと思うんです。」
「その反対ですよ。」ソーンダイクはいった。「あらゆる点から考えて、犬は殺人者なんかすこしも目がけていなかったのです。しかし、血まびれの手の男がひそんでいたとすれば、それが犬の見向きもしなかった殺人者にちがいない。まあ警部さん考えてごらんなさい。ここに一人の男が殺されていて、その殺した男は血まびれの手をしていたとする。そしてこの木の上に血まびれの手の男が穏れていて、足跡をみても分るように、その男は死体のすぐ上の今にも発見されそうな位置にいたとすれば、あなたはこの男をどう考えます、それでもこの男が殺人者でないとお考えですか?」
「あなたは犬の問題を忘れていらっしゃるんですよ。犬やナイフのことを。」警部はいった。
「困りましたな! あなたがたは、犬に憑かれているから分らないんですよ。警部補さんがナイフを持ってきたようです。ナイフを見れば謎がとけるかもしれない。」
 小型の鞄をもった警部補は、木の反対がわに立ちどまって、幹につまって木からおりる私たちを、驚いたように見まもっていたが、私たちがおりてしまうと、軍隊式に敬礼して鞄を警部にわたした。警部は鍵をさしこんで鞄の蓋をあけ、なかからハンケチで包んだものをだして、
「これがナイフです。まだ私が受けとった時のままです。ハンケチは警部補のです。」
 ソーンダイクはハンケチをひろげ、大型のノルウェイ製のナイフをだして、しばらくそれを批判的な目で見たあとで私にわたした。私がナイフを取って、刃の両がわを調べていると、ソーンダイクはハンケチをはたいてみたり、その裏表を見たりしていたが、
「いつナイフをひろいました?」と警部補にきいた。
「七時十五分ごろです。犬が匂いを嗅いで出かけたすぐあとでした。指をふれないように、輪のところを持ってひろって、すぐこのハンケチに包んだのです。」
「七時十五分。すると殺されてからまだ三十分もたっていなかったわけだ。そいつはおかしい。このハンケチをごらんなさい。ちっともよごれていない。血がすこしもついていない。これはナイフをひろった時、はやナイフの血が乾いていた証拠ですよ。血はそんなに早く乾くもんじゃない。しめっぽい秋の晩には、そんなに早く乾きませんよ。だからこのナイフの血は、棄てた時からすでに乾いていたんですよ。別な話ですが、警部補さん、あなたはハンケチに香水をつけますか?」
 警部補は怒ったような顔をして、
「香水! 私がハンケチに香水をつけたとおっしゃるのですか? いいえ、香水なんか使ったことは、生れてから一度もありません。」
 ソーンダイクがハンケチをさしだすと、警部補は変な顔をしてそれを嗅いだ。
「ほんとだ。香水の匂いがしますな。しかしハンケチの匂いじゃない、ナイフの匂いなんですよ。」
 警部補の説にまちがいはないと私は思った。私がナイフの柄を嗅いでみたら、気持ちがわるいほど、甘いじゃこうの匂いがした。
 一同がナイフとハンケチの両方を嗅ぐと、警部はこういった――
「問題はナイフの匂いがハンケチに移ったか、ハンケチの匂いがナイフに移ったかということです。」
「いま警部補さんのいわれたことを、あなたもお聞きになったでしょう。」ソーンダイクはいった。「ナイフを包んだ時、ハンケチにはなんの匂いもついていなかったのです。警部さんはどうお考えか知りませんが、この匂いは私にある奇妙なことを知らせてくれるのです。まあこの事件のいろんな点を考えてみてください。匂いを嗅ぎながら、犬は負傷もしていなければ、血がついていもせぬ、エリスのところへとんで行ったのです。この事件の不合理な点は汽車のなかで指摘した通りです。ところがこんどまた、最初から血が乾いていて、じゃこうの匂いをつけたナイフが出てきた。これは周到な立案のもとに行われた、計画的な犯罪なんですよ。殺人者は大将が警察犬に凝っていることを知っていて、その裏をかくつもりだったのです。そして血を塗りつけたナイフに、犬の嗅覚にうったえるじゃこうをふりかけてすてておいたのです。そのくらいですから、犬が通った道に、同じじゃこうの匂いをつけて歩いたことは容易に想像できるのです。これはむろん私の想像にすぎないのですが、しかし充分研究してみる必要はあろうと思うのです。」
「しかし殺人者がナイフを持ったのなら、殺人者にもその匂いがうつるはずです。」警部は反対した。
「しかし、この殺人者は馬鹿ではないらしいから、ナイフの取り扱いにも、抜かりはなかったと考えたほうがいい。すなわち、匂いをつけたままどこかへ穏しておいて、手を触れないよう、ステッキかなにかで叩き落したのでしょう。」
「そんならあの木じゃないかしら。」
 そういって警部補は柏の木を指さした。
「いや、」と、ソーンダイクはいった。「あれがナイフを隠した木なら、殺人者があの木に隠れるはずはない。あの木だったら犬が土地を嗅がないで、すぐあの木を嗅いで、殺人者が隠れているのを見つけるはずです。私はナイフを隠したのは、ナイフが落ちていた場所からいちばん近い木だと思う。」
 彼は目印の石のそばまで歩いていき、そこからぐるりを見まわしながら、
「ホーンビームの木のほうが近くもあるし、頂から八方に小枝が拡がっていて、物を隠すには都合がいい。それにあの木の頂には背の低い男でも手がとどく。ちょっとなかを覗いてみましょう。警部補さん、すまんけれど梯子がわりになってくれませんか。」
 にやにや笑って警部補はホーンビームの幹に体をくっつけ、身をかがめて両手をすねにあてた。ソーンダイクは片手でしっかりした小枝を握り、その背中の上にあがって木の頂を覗きこみ、つぎにそこから出ている小枝を分けて、そのなかにもぐりこんだ。
 まもなくそこから姿をあらわした彼は、奇妙なものを二つ持っていた。それは火箸と黒塗りのブリキ製の刷毛箱だった。彼は火箸のほうは私にわたしたが、刷毛箱は大事そうに、その針金のハンドルを自分で持ったまま木からとびおりた。
「これはなにに使ったか大抵想像できる。火箸はナイフをつつくため、箱は匂いが自分の服や鞄につかぬよう、ナイフを入れるために使ったのだ。これをみても、どんなに用心ぶかく行動したかが分る。」
「そんなら箱のなかを嗅いでみると、じゃこうの匂いがするでしょうね?」警部はいった。
「そう。しかしこの箱をあけるまえ、ぜひしなくてはならんことがあるのです。ジャーヴィス君、ヴィトーゲンの粉をだしてくれ。」
 私は「調査箱」と呼んでいるカンヴァス張りの鞄をあけ、小さい薬味入れ――ヨードホルムを振り出す壜――のようなものを彼にわたした。彼は針金のハンドルを握って箱を持ちあげ、その蓋いちめんに、薄黄色い粉をふりかけた。彼がその蓋の表面から、余分の粉を吹きはらうと、見ていた二人の警官は、賛嘆の声をもらした。黒い蓋の表面を背景にして、そこにたくさんの指紋が、あざやかに浮びだしたからである。
「たぶんこれは右手の指紋だ。こんどは左手の指紋をだそう。」
 ソーンダイクが黄色い粉を蓋以外の部分にふりかけて吹きはらうと、またたくさんの卵型の指紋があらわれた。
「ジャーヴィス君、手袋をはめて蓋をあけてみてくれ。なかを調べてみよう。」
 蓋をあけるのは困難でなかった。匂いの漏れるのをふせぐため、蓋のはしにワセリンを塗りつけてあったからである。うつろな音がして蓋があくと、ぷんとかすかなじゃこうの匂いが鼻をおそった。
 私が箱の蓋をしめると、「あとの調べは警察へ行ってから続けることにしよう。ここでは指紋の写真をとるのにも都合がわるい。」と、ソーンダイクはいった。
「警察への近道は野原を通るのです。犬が歩いた道です。」フォクスはいった。
 その道を私たちはたどった。ソーンダイクは刷毛箱を大事そうにさげていた。
「どうしてエリスのやつ、こんな災難にまきこまれたのかな。プラットと仲がわるかったことは事実なんだが。」
 歩きながら、そう警部はつぶやいた。
 ソーンダイクはいった。
「それはこうなんです。エリスもプラットも、おなじころポートランド刑務所に勤めていたんでしょう。だから、昔あすこにいた囚人が、この二人のうちのどちらかから恐喝されたんですよ。恐喝したのはプラットのほうだと思うんですが、ことによったらエリスも荷担していたのかもしれない。だからこの指紋が大切なのです。もし犯人が前科者だとすれば、警視庁の指紋台帳をみればすぐ分りますからね。もしそうでないとすれば、この指紋にたいした価値はないわけです。」
「そうかもしれませんね。とにかくエリスに会ってみてください。」警部はいった。
「まず第一ばんに、あなたが話された財布を見せてもらいたいですな。ナイフが手掛りの一方の端なら、その財布が片方の端になっているわけだから。」
 警察へつくと、警部は金庫をあけて、包みをだして紐をとき、
「これがエリスの持物です。財布がここにあります。」
 彼がソーンダイクにわたしたのは、小さい豚革の財布だった。ソーンダイクはちょっとそれを嗅いで私にわたした。私が嗅いでみると、まがうべくもないじゃこうの匂いである。ことに、その裏がわの、小さいポケットの匂いが強いように思われた。
 ソーンダイクは、財布以外の持物を、一つ一つ嗅いでみたあとで、
「おなじ包みのなかにあったんだから、多少匂いがうつっていると思うんですが、私の鼻がわるいせいか、ほかの物は匂わないようです。財布だけはじゃこうの匂いがするが、ほかのものはすこしも匂わない。いまエリスに会えますかしら?」
 警部補は鍵のかかったひきだしをあけ、そのなかから一つの鍵をだして、監禁室のほうへ行ったが、まもなく、うちしおれた肥った大男をつれてかえってきた。
「よろこべ、エリス、」と、警部はいった。「君を救いだすために、ソーンダイクさんが来てくださったのだ。知っていることはなんでも話すがいい。」
 エリスはあわれな顔でソーンダイクをみながら、
「私はなにも知らないんです。神にちかっていいますが、なにも知らないんです。」
「あなたが知らんことはよく分っています。ただ二つ三つ、私のたずねることに答えてください。財布のことなんですが、あれはどこでひろったのです?」
「ソープ村へいく途中の道です。道のまんなかに落ちていたのです。」
「その頃、その道で誰かと会いましたか? 誰かとすれちがいましたか?」
「財布をひろうちょっとまえ、労働者ふうの男と出会ったのです。どうしてその男がひろわなかったのだろうと、不思議に思ったほどでした。」
「それは、たぶん、その男が通った時には、まだ財布がなかったんですよ。その道のそばには、生垣のようなものがあったのですか?」ソーンダイクはきいた。
「土手のように土をもりあげてあって、そのうえに生垣があるのです。」
「わかりました。つぎにおききしたいのですが、あなたがプラットといっしょに、ポートランド刑務所に勤めていたころ、そこにいた男が、このへんに住んでいませんか? つまり前科者ですな、あなたやプラットのゆすりの相手になるような前科者です。」
「そんな者はこの近じょにいません。もっともプラットのことは知りませんよ。あの男はいつまでも人の顔を覚えているたちですから。」
 ソーンダイクはしばらく思案したあとで、
「あなたがポートランドにいたころ、そこから脱走した囚人はないですか?」ときいた。
「一人だけあります。ドブズという囚人です。霧のふかい日に海へとびこんだのですが、たぶん溺死しただろうという噂でした。服だけは海岸に打ちあげられましたが、死体はみつからなかったそうです。とにかく、それっきりで、それからドブズの話をきいたことはないのです。」
「ありがとう。あなたの指紋をとってもいいですか?」
「どうぞ。」
 むしろ指紋をとられるのを望んでいるような、熱心な答えぶりだった。インキのパッドをだして、エリスの指紋をとって、ソーンダイクがそれを箱の指紋とくらべてみて、二つは全然ちがうというと、彼はうれしげに監禁室へかえっていった。
 私たちは刷毛箱の指紋の写真をとった。そして、そのネガティヴをもって、私たちはその日の夕方、ロンドンへ帰ったのであるが、ソーンダイクは駅まで見送ってきた警部にこういった――
「犯人はプラットを殺したあと、すぐ手を洗ったはずですから、ふきんの池や溝や小川のようなところを歩いてみて、並木道にあったと同じ足跡があるかどうか調べてごらんなさい。そして、もしそんな足跡がみつかったら、その水の底を探したら、あるいは泥のなかからナイフが出てくるかもしれませんよ。」
 その夜、私たちが警視庁をおとずれて渡した指紋の写真は、のちに専門家が調べてみたら、脱走囚人フランシス・ドブズの指紋であることがわかった。警視庁は、ただちにドブズの記録と、二つの写真――正面と横顔――を、ベイスフォード署に送った。するとまもなく、二年ほどまえから、ルーファス・ペンベリーという名で、その男があやしげな生活をしていたことが分ったが、すでにその男のこざっぱりした家はもぬけのからになっていた。ただ調べて分ったことは、殺人のあった直後、彼は記名の財産を無記名の財産にとりかえ、付近の人々の視界から遠のいてしまったということだけであった。そして今になっても、彼のゆくえは杳として分らない。

「これはないしょだけれどね、」それから数日たって、この問題に話がふれた時、ソーンダイクはいった。「彼が法網をのがれたとしても文句はいえないのだ。なぜというに、これは明らかに恐喝事件だが、恐喝されてほかによりどころのない場合の殺人は、純粋の殺人とはいえなかろうじゃないか。エリスが有罪にならないことは、ペンベリーのドブズも、最初から知っていたのだ。ただ、エリスが巡回裁判にふされるには時間がかかるから、そのまに逃げて行方不明になろうというのが彼の目的だったのだ。ドブズは勇気もあれば、知恵も思慮もある男だった。そして、なにより彼は世間の迷信、警察犬にたいする世間の迷信を、みごとにうちこわしてくれた。」

底本:「世界推理小説全集二十九巻 ソーンダイク博士」東京創元社
   1957(昭和32)年1月10日初版
入力:sogo
校正:小林繁雄
2013年10月6日作成
2013年11月12日修正
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