僕は本所界隈かいわいのことをスケッチしろという社命を受け、同じ社のO君と一しょに久振りに本所へ出かけて行った。今その印象記を書くのに当り、本所両国と題したのは或は意味を成していないかも知れない。しかしなぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気も漂っていることは確かである。そこでO君とも相談の上、ちょっと電車の方向板じみた本所両国という題を用いることにした。――
 僕は生れてから二十歳頃までずっと本所に住んでいた者である。明治二、三十年代の本所は今日のような工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的多勢住んでいた町である。従って何処を歩いて見ても、日本橋や京橋のように大商店の並んだ往来などはなかった。しその中に少しでもにぎやかな通りを求めるとすれば、それは僅かに両国から亀沢町に至る元町通りか、或は二の橋から亀沢町に至る二つ目通り位なものだったであろう。勿論その外に石原通りや法恩寺橋通りにも低い瓦屋根の商店は軒を並べていたのに違いない。しかし広い「お竹倉」をはじめ、「伊達様」「津軽様」などという大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけていた。……
 殊に僕の住んでいたのは「お竹倉」に近い小泉町である。「お竹倉」は僕の中学時代にもう両国停車場や陸軍被服廠ひふくしょうに変ってしまった。しかし僕の小学時代にはまだ「大溝おおどぶ」にかこまれた、雑木林や竹藪の多い封建時代の「お竹倉」だった。「大溝」とはその名の示す通り少くとも一間半あまりの溝のことである。この溝は僕の知っていた頃にはもう黒い泥水をどろりと淀ませているばかりだった。(僕はそこへ金魚にやるぼうふらをすくいに行ったことをきのうのように覚えている。)しかし「御維新」以前には溝よりも堀に近かったのであろう。僕の叔父は十何歳かの時に年にも似合わない大小を差し、この溝の前にしゃがんだまま、長い釣竿をのばしていた。すると誰か叔父の刀にぴしりと鞘当さやあてをしかけた者があった。叔父は勿論むっとして肩越しに相手を振返ってみた。僕の一家一族の内にもこの叔父程負けぬ気の強かった者はない。こういう叔父はこの時にも相手によって売られた喧嘩を買う位の勇気は持っていたであろう。が、相手は誰かと思うと、朱鞘しゅざやの大小をかんぬき差しに差した身のたけ抜群のさむらいだった。しかも誰にも恐れられていた「新徴組」の一人に違いなかった。かれは叔父を尻目にかけながら、にやにや笑って歩いていた。叔父はかれを一目見たぎり、二度と長い釣竿の先から目をあげずにいたとかいうことである。……
 僕は小学時代にも「大溝」のそばを通るたびにこの叔父の話を思い出した。叔父は「御維新」以前には新刀無念流の剣客だった。(叔父が安房上総へ武者修行に出かけ、二刀流の剣客と試合をした話も矢張り僕を喜ばせたものである。)それから「御維新」前後には彰義隊に加わる志を持っていた。最後に僕の知っている頃には年をとった猫背の測量技師だった。「大溝」は今日の本所にはない。叔父もまた大正の末年に食道癌を病んで死んでしまった。本所の印象記の一節にこういうことを加えるのは或は私事に及び過ぎるのであろう。しかし僕はO君と一しょに両国橋を渡りながら大川の向うに立ち並んだ無数のバラックを眺めた時には実際烈しい流転の相に驚かないわけには行かなかった。僕の「大溝」を思い出したり、その又「大溝」に釣をしていた叔父を思い出したりすることも、必ずしも偶然ではないのである。

 両国の鉄橋は震災前と変らないといっても差支さしつかえない。ただ鉄の欄干らんかんの一部はみすぼらしい木造に変っていた。この鉄橋の出来たのはまだ僕の小学時代である。しかし櫛形くしがたの鉄橋には懐古の情も起って来ない。僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛惜を感じている。それは僕の記憶によれば、今日よりも下流にかかっていた。僕は時々この橋を渡り、浪の荒い「百本杭」やあしの茂った中洲を眺めたりした。中洲に茂った蘆は勿論、「百本杭」も今は残っていない。「百本杭」はその名の示す通り、河岸に近い水の中に何本も立っていた乱杭らんぐいである。昔の芝居は殺し場などに多田の薬師の石切場と一しょに度々この人通りの少ない「百本杭」の河岸を使っていた。僕は夜は「百本杭」の河岸を歩いたかどうかは覚えていない。が朝は何度もそこに群がる釣師の連中を眺めに行った。O君は僕のこういうのを聞き、大川でも魚のつれたことに多少の驚嘆をもらしていた。一度も釣竿を持ったことのない僕は「百歩杭」でつれた魚の何と何だったかを知っていない。しかし或夏の夜明けにこの河岸へ出かけて見ると、いつも多い釣師の連中は一人もそこに来ていなかった。その代りに杭の間には坊主頭の土左衛門が一人うつむけに浪にゆすられていた。……
 両国橋のたもとにある表忠碑も昔に変らなかった。表忠碑を書いたのは日露役の陸軍総司令官大山巌公爵である。日露役のはじまったのは僕の中学へはいり立てだった。明治二十五年に生れた僕は勿論日清役の事を覚えていない。しかし北清事変の時には太平という広小路(両国)の絵草紙屋へ行き、石版刷の戦争の絵を時々一枚ずつ買ったものである。それ等の絵には義和団の匪徒ひとやイギリス兵などはたおれていても、日本兵は一人も、斃れていなかった。僕はもうその時にも、矢張り日本兵も一人位は死んでいるのに違いないと思ったりした。しかし日露役の起った時には徹頭徹尾ロシア位悪い国はないと信じていた。僕のリアリズムは年と共に発達する訳には行かなかったのであろう。もっともそれは僕の知人なども出征していたためもあるかも知れない。この知人は南山の戦いに鉄条網にかかって戦死してしまった。鉄条網という言葉は今日では誰も知らない者はない。けれども日露役の起った時には全然在来の辞書にない、新しい言葉の一つだったのである。僕は大きい表忠碑を眺め、今更のように二十年前の日本を考えずにはいられなかった。同時に又ちょっと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訳には行かなかった。
 この表忠碑の後には確か両国劇場という芝居小屋の出来る筈になっていた。現に僕は震災前にも落成しない芝居小屋の煉瓦壁れんがかべを見たことを覚えている。けれども今は薄ぎたないトタンきのバラックの外に何も芝居小屋らしいものは見えなかった。もっとも僕は両国の鉄橋に愛惜を持っていないようにこの煉瓦建の芝居小屋にも格別の愛惜を持っていない。両国橋の木造だった頃には駒止橋もこの辺に残っていた。のみならず井生村楼や二州楼という料理屋も両国橋の両側に並んでいた。それから又すし屋の与平、うなぎ屋の須崎屋、牛肉の外にも冬になると猪や猿を食わせる豊田屋、それから回向院の表門に近い横町にあった「坊主軍鶏ぼうずしゃも――」こう一々数え立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈かいわいに集まっていたらしい。

 僕等は両国橋のたもとを左へ切れ、大川に沿って歩いて行った。「百本杭」のないことは前にも書いた通りである。しかし「伊達様」は残っているかも知れない。僕はまだ幼稚園時代からこの「伊達様」の中にある和霊神社のお神楽かぐらを見物に行ったものである。なんでも母などの話によれば、女中の背中におぶさったまま、熱心にお神楽を見ているうちに「うんこ」をしてしまったこともあったらしい。しかし何処を眺めても、トタンぶきのバラックの外に「伊達様」らしい屋敷は見えなかった。「伊達様」の庭には木犀もくせいが一本秋ごとに花を盛っていたものである。僕はその薄甘いにおいを子供心にも愛していた。あの木犀も震災の時に勿論灰になってしまったことであろう。
 流転の相の僕を脅すのは「伊達様」の見えなかったことばかりではない。僕は確かこの近所にあった「富士見の渡し」を思い出した。が、渡し場らしい小屋はどこにも見えない。僕は丁度道端に芋を洗っていた三十前後の男に渡し場の有無をたずねて見ることにした。しかし彼は「富士見の渡し」という名前を知っていないのは勿論、渡し場のあったことさえ知らないらしかった。「富士見の渡し」はこの河岸から「明治病院」の裏手に当る河岸へ通っていた。その又向う河岸は掘割になり、そこに時々どこかの家の家鴨あひるなども泳いでいたものである。僕は中学へはいった後も或親戚を尋ねるために度々「富士見の渡し」を渡って行った。その親戚は三遊派の「五りん」とかいうもののお上さんだった。僕の家へ何かの拍子に円朝の息子の出入りしたりしたのもこういう親戚のあったためであろう。僕はまたその家の近所に今村次郎という標札を見付け、この名高い速記者(種々の講談の)に敬意を感じたことを覚えている。――
 僕は講談というものを寄席よせではほとんど聞いたことはない。僕の知っている講釈師は先代の村井吉瓶だけである。(もっとも典山とか伯山とか或はまた伯龍とかいう新時代の芸術家は知らない訳ではない。)従って僕は講談を知るために大抵今村次郎の速記本によった。しかし落語は家族達と一緒に相生町の広瀬だの米沢町(日本橋区)の立花家だのへ聞きに行ったものである。殊に度々行ったのは相生町の広瀬だった。が、どういう落語を聞いたかは生憎あいにくはっきりと覚えていない。ただ吉田国五郎の人形芝居を見たことだけはいまだにありありと覚えている。しかも僕の見た人形芝居は大抵小幡小平次とかかさねとかいう怪談物だった。僕は近頃大阪へ行き、久振りに文楽を見物した。けれども今日の文楽は僕の昔みた人形芝居よりも軽業じみたけれんを使っていない。吉田国五郎の人形芝居は例えば清玄の庵室などでも、血だらけな清玄の幽霊は太夫の見台が二つにわれると、その中から姿を現したものである。寄席の広瀬も焼けてしまったであろう。今村次郎氏も「明治病院」の裏手に――僕は正直に白状すれば、今村次郎氏の現存しているかどうかも知らないものの一人である。
 そのうちに僕は震災前と――というよりむしろ二十年前と少しも変らないものを発見した。それは両国駅の引込線をとどめた、三尺に足りない草土手である。僕は実際この草土手に「国亡びて山河あり」という詠嘆を感じずにはいられなかった。しかしこの小さい草土手にこういう詠嘆を感じるのはそれ自身僕には情なかった。

 僕の知人は震災のために、何人もこの界隈にたおれている。僕の妻の親戚などは男女九人の家族中、やっと命を全うしたのは二十前後の息子だけだった。それも火の粉を防ぐために戸板をかざして立っていたのを旋風のために巻き上げられ、安田家の庭の池の側へ落ちてどうかにか息を吹き返したのである。それから又僕は家へ毎日のように遊びに来た「おくめさん」という人などは命だけは助かったものの、一時は発狂したのも同様だった(「お粂さんは」髪の毛の薄いためにどこへも片付かずにいる人だった。しかし髪の毛を生やすために蝙蝠こうもりの血などを頭へ塗っていた。)最後に僕の通っていた江東小学校の校長さんは両眼とも明を失った上、前年にはたった一人の息子を失い、震災の年には御夫婦とも焼け死んでしまったとかいうことだった。僕も本所に住んでいたとすれば、恐らくは矢張りこの界隈に火事を避けていたことであろう。従って又僕は勿論、僕の家族もかれ等のように非業の最期を遂げていたかも知れない。僕は高い褐色の本所会館を眺めながら、こんなことをO君と話し合ったりした。
「しかし両国橋を渡った人は大抵助かっていたのでしょう?」
「両国橋を渡った人はね。……それでも元町通りには高圧線の落ちたのに触れて死んだ人もあったということですよ。」
「兎に角東京中でも被服廠ひふくしょう跡程大勢焼け死んだところはなかったのでしょう。」
 こういう種々の悲劇のあったのはいずれも昔の「お竹倉」の跡である。僕の知っていた頃の「お竹倉」は大体「御維新」前と変らなかったものの、もう総武鉄道会社の敷地の中に加えられていた。僕はこの鉄道会社の社長の次男の友達だったから、みだりに人を入れなかった「お竹倉」の中へも遊びに行った。そこは前にもいったように雑木林や竹やぶのある、町中には珍しい野原だったのみならず古い橋のかかった掘割さえ大川に通じていた。僕は時々空気銃を肩にし、その竹やぶや雑木林の中に半日を暮したものである。どぶ板の上に育った僕に自然の美しさを教えたものは何よりも先に「お竹倉」だったであろう。僕は中学を卒業する前に英訳の「猟人日記」を拾い読みにしながら、何度も「お竹倉」の中の景色を――「とりかぶと」の花の咲いた藪の蔭や大きい昼の月のかかった雑木林の梢を思い出したりした。「お竹倉」は勿論その頃にはいかめしい陸軍被服廠や両国駅に変っていた。けれども震災後の今日を思えば、――「卻って[#「卻って」は底本では「郤って」]并州を望めばこれ故郷」と支那人の歌ったものも偶然ではない。
 総武鉄道の工事のはじまったのはまだ僕の小学時代だったであろう。その以前の「お竹倉」は夜は「本所の七不思議」を思い出さずにはいられない程、もの寂しかったのに違いない。夜は?……いや、昼間さえ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片葉のあし」はどこかこのあたりにあるものと信じない訳には行かなかった。現に夜学に通う途中「お竹倉」の向うにばかばやしを聞き、てっきりあれは「狸ばやし」に違いないと思ったことを覚えている。それはおそらく小学時代の僕一人の恐怖ではなかったのであろう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへかよっていた線路工夫の一人は、宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまったとかいうことだった。

 本所会館は震災前の安田家の跡に建ったのであろう。安田家は確か花崗石を使ったルネサンス式の建築だった。僕は椎の木などの茂った中にこの建築の立っていたのに明治時代そのものを感じている。が、セセッション式の本所会館は「牛乳デー」とかいうもののために植込みのある玄関の前に大きいポスターを掲げたり、宣伝用の自動車を並べたりしていた。僕の水泳を習いに行った「日本遊泳協会」は丁度、この河岸にあったものである。僕はいつか何かの本に三代将軍家光は水泳を習いに日本橋へ出かけたということを発見し、滑稽こっけいに近い今昔の感を催さない訳には行かなかった。しかし僕等の大川へ水泳を習いに行ったということも後世には不可解に感じられるであろう。現に今でもO君などは「この川でも泳いだりしたものですかね」と少なからず驚嘆していた。
 僕は又この河岸にも昔に変らないものを発見した。それは――生憎あいにく何の木かはちょっと僕には見当もつかない。が、かく新芽を吹いた昔の並木の一本である。僕の覚えている柳の木は一本も今では残っていない。けれどもこの木だけは何かの拍子に火事にも焼かれずに立っているのであろう。僕はほとんどこの木の幹に手を触れてみたい誘惑を感じた。のみならずその木の根元には子供をれたお婆あさんが二人曇天の大川を眺めながら、花見か何かにでも来ているように稲荷ずしを食べて話し合っていた。
 本所会館の隣にあるのは建築中の同愛病院である。高い鉄のやぐらだの、何階建かのコンクリートの壁だの、殊に砂利を運ぶ人夫だのは確かに僕を威圧するものだった。同時にまた工業地になった「本所の玄関」という感じを打ち込まなければかないものだった。僕は半裸体の工夫が一人汗に身体を輝かせながら、シャベルを動かしているのを見、本所全体もこの工夫のように烈しい生活をしていることを感じた。この界隈の家々の上に五月のぼりのひるがえっていたのは僕の小学時代の話である。今では――誰も五月のぼりよりは新しい日本の年中行事になったメイ・デイを思い出すのに違いない。
 僕は昔この辺にあった「御蔵橋」という橋を渡り、度々友綱の家の側にあった或友達の家へ遊びに行った。かれもまた海軍の将校になった後、二、三年前に故人になっている。しかし僕の思い出したのは必ずしもかれのことばかりではない。かれの住んでいた家のあたり、――瓦屋根かわらやねの間に樹木の見える横町のことも思い出したのである。そこは僕の住んでいた元町通りに比べると、はるかに人通りも少ければ「しもた家」も殆ど門並みだった。「椎の木松浦」のあった昔はしばらく問わず、「江戸の横網鶯の鳴く」と北原白秋氏の歌った本所さえ今ではもう「歴史的大川端」に変ってしまったというほかはない。如何に万法は流転するとはいえ、こういう変化の絶え間ない都会は世界中にも珍しいであろう。
 僕等はいつか工事場らしい板囲いの前に通りかかった。そこにも労働者が二、三人、せっせと槌を動かしながら、大きい花崗石を削っていた。のみならず工事中の鉄橋さえ泥濁りに濁った大川の上へ長々と橋梁を横たえていた。僕はこの橋の名前は勿論、この橋の出来る話も聞いたことはなかった。震災は僕等のうしろにある「富士見の渡し」を滅してしまった。が、その代りに僕等の前には新しい鉄橋を造ろうとしている。……
「これは何という橋ですか?」
 麦わら帽をかむった労働者の一人は矢張やはり槌を動かしたまま、ちょっと僕の顔を見上げ、存外親切に返事をした。
「これですか? これは蔵前橋です。」

 僕等はそこから引き返して川蒸汽の客になるために横網の浮き桟橋へおりて行った。昔はこの川蒸汽も一銭蒸汽と呼んだものである。今はもう賃銭も一銭ではない。しかし、五銭出しさえすれば、何区でも勝手に行かれるのである。けれども屋根のある浮き桟橋は――震災は勿論この浮き桟橋も炎にして空へ立ち昇らせたであろう。が、一見した所は明治時代に変っていない。僕等はベンチに腰をおろし、一本の巻煙草に火をつけながら、川蒸汽の来るのを待つことにした。
「石垣にはもう苔が生えていますね。もっとも震災以来四、五年になるが、……」
 僕はふとこんなことをいい、O君のために笑われたりした。
「苔の生えるのは当り前であります。」
 大川は前にも書いたように一面に泥濁りに濁っている。それから大きい浚泄船しゅんせつせんが一艘起重機をもたげた向う河岸も勿論「首尾の松」や土蔵の多い昔の「一番堀」や「二番堀」ではない。最後に川の上を通る船でも今では小蒸汽や達磨船だるませんである。五大力、高瀬船、伝馬てんま荷足にたり、田舟などという大小の和船も、何時の間にか流転の力に押し流されたのであろう。僕はO君と話しながら「※(「さんずい+元」、第3水準1-86-54)湘日夜東に流れて去る」という支那人の詩を思い出した。こういう大都会の中の川は※(「さんずい+元」、第3水準1-86-54)げんしょうのように悠々ゆうゆうと時代を超越していることは出来ない。現世は実に大川さえ刻々に工業化しているのである。
 しかしこの浮き桟橋の上に川蒸汽を待っている人々は大抵大川よりも保守的である。僕は巻煙草をふかしながら、唐桟柄とうざんがらの着物を着た男や銀杏返いちょうがえしに結った女を眺め、何か矛盾に近いものを感じない訳には行かなかった。同時にまた明治時代にめぐり合った或なつかしみに近いものを感じない訳には行かなかった。そこへ下流から漕いで来たのは久振りに見る五大力である。ともの高い五大力の上には鉢巻きをした船頭が一人一丈余りの櫓を押していた。それからおかみさんらしい女が一人御亭主に負けずにさおを差していた。こういう水上生活者の夫婦位妙に僕等にも抒情詩めいた心持ちを起させるものは少ないかも知れない。僕はこの五大力を見送りながら――そのまた五大力の上にいる四、五歳の男の子を見送りながら、幾分かかれ等の幸福を羨みたい気さえ起していた。
 両国橋をくぐって来た川蒸汽はやっと浮き桟橋へ横着けになった。「隅田丸三十号」(?)――僕は或はこの小蒸汽に何度も前に乗っているのであろう。兎に角これも明治時代に変っていないことは確かである。川蒸汽の中は満員だった上、立っている客も少なくない。僕等はやむを得ず船ばたに立ち、薄日の光に照らされた両岸の景色を見て行くことにした。もっとも船ばたに立っていたのは僕等二人に限った訳ではない。僕等の前にも夏外套を着た、あご髯の長い老人さえやはり船ばたに立っていたのである。
 川蒸汽は静かに動き出した。すると大勢の客の中にたちまち「毎度御やかましうございますが」と甲高い声を出しはじめたのは絵葉書や雑誌を売る商人である。これもまた昔に変っていない。し少しでも変っているとすれば、「何ごとも活動ばやりの世の中でございますから」などという言葉をはさんでいることであろう。僕はまだ小学時代からこういう商人の売っているものを一度も買った覚えはない。が、天窓越しにかれの姿を見おろし、ふと僕の小学時代に伯母と一しょに川蒸汽に乗ったときのことを思い出した。

 僕等はその時にどこへ行ったのか、兎に角伯母だけは長命寺の桜餅を一籠膝にしていた。すると男女の客が二人僕等の顔を尻目にかけながら、「何か匂いますね」「うん、糞臭いな」などと話しはじめた。長命寺の桜餅を糞臭いとは――僕は未だに生意気にもこの二人を田舎者めと軽蔑したことを覚えている。長命寺にも震災以来一度も足を入れたことはない。それから長命寺の桜餅は――勿論今でも昔のように評判の善いことは確かである。しかし※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)あんや皮にあった野趣だけはいつか失われてしまった。……
 川蒸汽は蔵前橋の下をくぐり、厩橋うまやばしへ真直に進んで行った。そこへ向うから僕等の乗ったのと余り変らない川蒸汽が一艘矢張り浪を蹴って近づき出した。が、七、八間隔ててすれ違ったのを見ると、この川蒸汽の後部には甲板の上に天幕を張り、ちゃんと大川の両岸の景色を見渡せる設備も整っていた。こういう古風な川蒸汽もまた目まぐるしい時代の影響を蒙らない訳には行かないらしい。その後へ向うから走って来たのはお客や芸者を乗せたモオター・ボートである。屋根船や船宿を知っている老人達は定めしこのモオター・ボートに苦々しい顔をすることであろう。僕は江戸趣味に随喜するものではない。しかし僕の小学時代に大川に浪を立てるものは「一銭蒸汽」のあるだけだった。或はその外に利根川通いの外輪船のあるだけだった。僕は渡し舟に乗る度に「一銭蒸汽」の浪の来ることを、――このうねうねした浪のために舟のゆれることを恐れたものである。しかし今日の大川の上に大小の浪を残すものは一々数えるのに耐えないであろう。
 僕は船端に立ったまま、鼠色に輝いた川の上を見渡し、確か広重も描いていた河童かっぱのことを思い出した。河童は明治時代には、――少なくとも「御維新」前後には大根河岸の川にさえ出没していた。僕の母の話によれば、観世新路に住んでいた或男やもめの植木屋とかは子供のおしめを洗っているうちに大根河岸の川の河童に脇の下をくすぐられたということである。(観世新路に植木屋の住んでいたことさえ僕等にはもう不思議である。)まして大川にいた河童の数は決して少なくなかったであろう。いや、必ずしも河童ばかりではない。僕の父の友人の一人は夜網を打ちに出ていたところ、何かみよしへ上ったのを見ると、甲羅だけでもたらいほどあるすっぽんだったなどと話していた。僕は勿論こういう話を恐らく事実とは思っていない。けれども明治時代――或いは明治時代以前の人々はこれ等の怪物を目撃する程この町中を流れる川に詩的恐怖を持っていたのであろう。
『今ではもう河童もいないでしょう。』
『こう泥だの油だの一面に流れているのではね。――しかもこの橋の下あたりには年を取った河童の夫婦が二匹今だに住んでいるかも知れません。』
 川蒸汽は僕等の話の中に厩橋の下へはいって行った。薄暗い橋の下だけは浪の色もさすがに蒼んでいた。僕は昔は渡し船へ乗ると、――いや、時には橋を渡る時さえ、磯臭い匂のしたことを思い出した。しかし今日の大川の水は何の匂も持っていない。し又持っているとすれば、ただ泥臭い匂だけであろう。……
『あの橋は今度出来る駒形橋ですね?』
 O君は生憎あいにく僕の問に答えることは出来なかった。駒形は僕の小学時代には大抵「コマカタ」と呼んでいたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と発音するようになってしまった。「君は今駒形あたりほとゝぎす」を作った遊女も或いは「コマカタ」と澄んだ音を「ほとゝぎす」の声に響かせたかったかも知れない。支那人は「文章は千古の事」といった。が、文章もおのずから匂を失ってしまうことは大川の水に変らないのである。

 僕等は川蒸汽を下りて吾妻橋あづまばしたもとへ出、そこへ来合せた円タクに乗って柳島へ向うことにした。この吾妻橋から柳島へ至る電車道は前後に二、三度しか通った覚えはない。まして電車の通らない前には一度も通ったことはなかったであろう。一度も?――し一度でも通ったとすれば、それは僕の小学時代に業平橋なりひらばしかどこかにあった或かなり大きい寺へ葬式に行った時だけである。僕はその葬式の帰りに確か父に「御維新」前の本所の話をしてもらった。父は往来の左右を見ながら「昔はここいらは原ばかりだった」とか「何とか様の裏の田には鶴が下りたものだ」とか話していた。しかしそれ等の話の中でも最も僕を動かしたものは「御維新」前には行き倒れとか首くくりとかの死骸を早桶に入れその又早桶を葭簀よしずに包んだ上、白張りの提灯ちょうちんを一本立てて原の中に据えて置くという話だった。僕は草原の中に立った白張りの提灯を想像し、何か気味の悪い美しさを感じた。しかもかれこれ真夜中になると、その早桶のおのずからごろりところげるというに至っては――明治時代の本所はたとえ草原には乏しかったにせよ、恐らくはまだこのあたりに多少いわゆる「御朱引外」の面かげをとどめていたのであろう。しかし今はどこを見ても、ただ電柱やバラックの押し合いへし合いしているだけである。僕は泥のはねかかったタクシーの窓越しに往来を見ながら、金銭を武器にする修羅界の空気を憂欝に感じるばかりだった。
 僕等は「橋本」の前で円タクを下り、水のどす黒い掘割伝いに亀戸の天神様に行って見ることにした。名高い柳島の「橋本」も今は食堂に変っている。もっともこの家は焼けずにすんだらしい。現に古風な家の一部やあれ果てた庭なども残っている。けれどもすりガラスへ緑いろに「食堂」と書いた軒灯は少なくとも僕にははかなかった。僕は勿論「橋本」の料理を云々うんぬんする程の通人ではない。のみならず「橋本」へ来たことさえあるかないかわからない位である。が、五代目菊五郎の最初の脳溢血を起したのは確かこの「橋本」の二階だったであろう。
 掘割を隔てた妙見様も今ではもうすっかり裸になっている。それから掘割に沿うた往来も――僕は中学時代に蕪村句集を読み、「君行くや柳緑に路長し」という句に出会った時、この往来にあった柳を思い出さずにはいられなかった。しかし今僕等の歩いているのは有田ドラックや愛聖館の並んだせせこましいなりににぎやかな往来である。近頃私娼の多いとかいうのも恐らくはこの往来の裏あたりであろう。僕は浅草千束町にまだ私娼の多かった頃の夜の景色を覚えている。それは窓ごとに火かげのさした十二階のそびえているためにほとんど荘厳な気のするものだった。が、この往来はどちらへ抜けてもボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違いない。たといデカダンスの詩人だったとしても、僕は決してこういう町裏を徘徊はいかいする気にはならなかったであろう。けれども明治時代の風刺詩人斎藤緑雨は、十二階に悪趣味そのものを見出している。すると明日の詩人たちは有田ドラックや愛聖館にもかれ等自身の『悪の花』を――或は又『善の花』を歌い上げることになるかも知れない。

 僕はろくでもないことを考えながらふと愛聖館の掲示板を見上げた。するとそこに書いてあるのは確かこういう言葉だった。
「神様はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらっしゃいます。」
 産児制限論者は勿論、現世の人々はこういう言葉に微笑しない訳にはゆかないであろう。人口過剰に苦しんでいる僕等はこんなにたくさんの人間のいることを神の愛の証拠と思うことは出来ない。いや、むしろ全能の主の憎しみの証拠とさえ思われるであろう。しかし本所の或場末に小学生を教育している僕の旧友の言葉にれば、少なくともその界隈に住んでいる人々は子供の数の多い家ほどかえって暮しも楽だということである。それは又どの家の子供もかく十か十一になるとそれぞれ子供なりに一日の賃金を稼いで来るからだということである。愛聖館の掲示板にこういう言葉を書いた人は或はこの事実を知らなかったかも知れない。が、確かにこういう言葉は現世の本所の或場末に生活している人々の気持ちを代弁することになっているであろう。もっとも子供の多い程暮しも楽だということは子供自身には仕合せかどうか、多少の疑問のあることは事実である。
 それから僕等は通りがかりにちょっと萩寺を見物した。萩寺も突っかい棒はしてあるものの、幸い震災には焼けずにすんだらしい。けれども萩の四、五株しかない上、落合直文先生の石碑を前にした古池の水も渇れ/\になっているのは哀れだった。ただこの古池に臨んだ茶室だけは昔よりも一層もの寂びている。僕は萩寺の門を出ながら、昔は本所の猿江にあった僕の家の菩提寺を思い出した。この寺には何でも司馬江漢や小林平八郎の墓の外に名高い浦里時次郎の比翼塚ひよくづかも建っていたものである。僕の司馬江漢を知ったのは勿論余り古いことではない。しかし義士の討入りの夜に両刀をふるって闘った振り袖姿の小林平八郎は小学時代の僕などには実に英雄そのものだった。それから浦里時次郎も、――僕はあらゆる東京人のように芝居には悪縁の深いものである。従って矢張り小学時代から浦里時次郎を尊敬していた。(けれども正直に白状すれば、はじめて浦里時次郎を舞台の上に見物した時、僕の恋愛を感じたものは浦里よりもむしろ禿かむろだった。)この寺は――慈眼寺という日蓮宗の寺は、震災よりも何年か前に染井の墓地のあたりに移転している。かれ等の墓も寺と一しょに定めし同じ土地に移転しているであろう。が、あのじめじめした猿江の墓地は未だに僕の記憶に残っている。就中なかんずく薄い水苔のついた小林平八郎の墓の前に曼珠沙華の赤々と咲いていた景色は明治時代の本所以外に見ることの出来ないものだったかも知れない。
 萩寺の先にある電柱(?)は「亀戸天神近道」というペンキ塗りの道標を示していた。僕等はその横町を曲り、待合やカフェの軒を並べた、狭苦しい往来を歩いて行った。が、肝腎の天神様へは容易に出ることも出来なかった。すると道ばたに女の子が一人メリンスのたもとひるがえしながら、傍若無人にゴムまりをついていた。
「天神様へはどう行きますか?」
「あっち。」
 女の子は僕等に返事をした後、聞えよがしにこんなことをいった。
「みんな天神様のことばかりくのね。」
 僕はちょっと忌々いまいましさを感じ、この如何いかにもこましゃくれた十ばかりの女の子を振り返った。しかし彼女は側目も振らずに(しかも僕に見られていることをはっきり承知していながら)矢張り毬をつき続けていた。実際支那人のいったように「変らざる者よりして之を観れば」何ごとも変らないのに違いない。僕もまた僕の小学時代には鉄面皮にも生薬屋へ行って「半紙を下さい」などといったものだった。

 僕等は門並みの待合の間をやっと「天神様」の裏門へたどりついた。するとその門の中には夏外套をた男が一人、何か滔々とうとうとしゃべりながら、「お立ち合い」の人々へ小さい法律書を売りつけていた。僕はかれの雄弁に辟易へきえきせずにはいられなかった。が、この人ごみを通りこすと、今度は背広を著た男が一人最新化学応用の目薬というものを売りつけていた。この「天神様」の裏の広場も僕の小学時代にはなかったものである。しかし広場の出来た後にもここにかかる見世物小屋はき人形や「からくり」ばかりだった。
「こっちは法律、向うは化学――ですね。」
「亀戸も科学の世界になったのでしょう。」
 僕等はこんなことを話し合いながら、久しぶりに「天神様」へお詣りに行った。「天神様」の拝殿は仕合せにも昔に変っていない。いや、昔に変っていないのは筆塚や石の牛も同じことである。僕は僕の小学時代に古い筆を何本も筆塚へ納めたことを思い出した。(が、僕の字は何年たっても一向上達する容子ようすはない。)それから又石の牛の額へ銭を投げてのせることに苦心したことも思い出した。こういう時に投げる銭は今のように一銭銅貨ではない。大抵は五厘か寛永通宝である。その又穴銭の中の文銭を集め、所謂「文銭の指環ゆびわ」をこしらえたのも何年前の流行であろう。僕等は拝殿の前へ立ち止まり、ちょっと帽をとってお時宜じぎをした。
「太鼓橋も昔の通りですか?」
「ええ、しかしこんなに小さかったかな。」
「子供の時に大きいと思ったものは存外あとでは小さいものですね。」
「それは太鼓橋ばかりじゃないかも知れない。」
 僕等はのれんをかけた掛け茶屋越しにどんより水光りのする池を見ながら、やっと短い花房を垂らした藤棚の下を歩いて行った。この掛け茶屋や藤棚もやはり昔に変っていない。しかし木の下や池のほとりに古人の句碑の立っているのは僕には何か時代錯誤を感じさせない訳には行かなかった。江戸時代におこった「風流」は江戸時代と一しょに滅んでしまった。ただ僕等の明治時代はまだどこかに二百年間の「風流」の匂いを残している。けれども今は目のあたりに、――O君はにやにや笑いながら、恐らくは君自身は無意識に僕にこの矛盾を指し示した。
「カルシウム煎餅せんべいも売っていますね。」
「ああ、あの大きい句碑の前にね――それでもまだ張り子の亀の子は売っている。」
 僕等は「天神様」の外へ出た後「船橋屋」の葛餅を食う相談した。が、本所に疎遠になった僕には「船橋屋」も容易に見つからなかった。僕はやむを得ず荒物屋の前に水をいていたおかみさんに田舎者らしい質問をした。それから花柳病の医院の前をやっと又船橋屋へたどり着いた。船橋屋も家は新たになったものの、大体は昔に変っていない。僕等は縁台に腰をおろし、鴨居の上にかけ並べた日本アルプスの写真を見ながら、葛餅を一盆ずつ食うことにした。
「安いものですね、十銭とは。」
 O君は大いに感心していた。しかし僕の中学時代には葛餅も一盆三銭だった。僕は僕の友だちと一しょに江東梅園などへ遠足に行った帰りに度々この葛餅を食ったものである。江東梅園も臥竜梅と一しょにとうに滅びてしまっているであろう。水田やはんの木のあった亀戸はこういう梅の名所だった為に南画らしい趣を具えていた。今は船橋屋の前も広い新開の往来の向うに二階建の商店が何軒も軒を並べている。……

 僕は天神橋の袂から又円タクに乗ることにした。この界隈かいわいはどこを見ても、――僕はもう今昔の変化を云々うんぬんするのにも退屈した。僕の目に触れるものはなかば出来上った小公園である。或はトタン塀をめぐらした工場である。或は又見すぼらしいバラックである。斎藤茂吉氏は何かの機会に「ものゝ行きとどまらめやも」と歌い上げた。しかし今日の本所は「ものゝ行き」を現していない。そこにあるものは震災のために生じた「ものゝ飛び」に近いものである。僕は昔この辺に糧秣廠りょうまつしょうのあったことを思い出し、更にその糧秣廠に火事のあったことを思い出し、如露亦如電という言葉は必ずしも誇張ではないことを感じた。
 僕の通っていた第三中学校も鉄筋コンクリートに変っている。僕はこの中学校へ五年の間通いつづけた。当時の校舎も震災のために灰になってしまったのであろう。が、僕の中学時代には鼠色のペンキを塗った二階建の木造だった。それから校舎のまわりにはポプラァが何本かそよいでいた。(この界隈は土のせているためにポプラァ以外の木は育ち悪かったのである。)僕はそこへ通っているうちに英語や数学を覚えた外にも如何に僕等人間の情け無いものであるかを経験した。こういうのは僕の先生たちや友だちの悪口をいっているのではない。僕等人間といううちには勿論僕のこともはいっているのである。たとえば僕等は或友だちをいじめ、かれを砂の中に生き埋めにした。僕等のかれをいじめたのは格別理由のあった訳ではない。し又理由らしいものをげるとすれば、ただかれの生意気だった――或はかれのかれ自身を容易に曲げようとしなかったからである。僕はもう五、六年前、久しぶりにかれとこの話をし、この小事件もかれの心に暗い影を落しているのを感じた。かれは今揚子江の岸に相変らず孤独に暮している……
 こういう僕の友だちと一しょに僕の記憶に浮んで来るのは僕等を教えた先生たちである。僕はこの「繁昌記」の中に一々そんな記憶を加えるつもりはない。けれどもただ一人この機会にスケッチしておきたいのは山田先生である。山田先生は第三中学校の剣道部というものの先生だった。先生の剣道は封建時代の剣客に勝るとも劣らなかったのであろう。何でも先生に学んだ一人は武徳会の大会に出、相手の小手へ竹刀しないを入れると、余り気合いの烈しかったために相手の腕を一打ちに折ってしまったとかいうことだった。が、僕の伝えたいのは先生の剣道のことばかりではない。先生は又食物を減じ、仙人に成る道も修行していた。のみならず明治時代にも不老不死の術に通じた、正真まぎれのない仙人の住んでいることを確信していた。僕は不幸にも先生のように仙人に敬意を感じていない。しかし先生の鍛錬にはいつも敬意を感じている。先生は或時博物学教室へ行き、そこにあったコップの昇汞水しょうこうすいを水と思って飲み干してしまった。それを知った博物学の先生は驚いて医者を迎えにやった。医者は勿論やって来るが早いか、先生に吐剤とざいを飲ませようとした。けれども先生は吐剤ということを知ると、自若じじゃくとしてこういう返事をした。
「山田次郎吉は六十を越しても、まだ人様のいられる前でへどを吐くほどもうろくはしませぬ。どうか車を一台お呼び下さい。」
 先生は何とかいう法を行い、とうとう医者にもかからずにしまった。僕はこの三、四年の間は誰からも先生のうわさを聞かない。あの面長の山田先生は或はもう列仙伝中の人々と一しょに遊んでいるのであろう。しかし僕は相変らず埃臭い空気の中に、――僕等をのせた円タクは僕のそんなことを考えているうちに江東橋を渡って走って行った。

 江東橋を渡った向うもやはりバラックばかりである。僕は円タクの窓越しに赤さびをふいたトタン屋根だのペンキ塗りの板目だのを見ながら確か明治四十三年にあった大水のことを思い出した。今日の本所は火事には会っても、洪水には会うことはないであろう。が、その時の大水は僕の記憶に残っているのでは一番水嵩みずかさの高いものだった。江東橋界隈の人々の第三中学校へ避難したのもやはりこの大水のあった時である。僕は江東橋を越えるにも一面にみなぎった泥水の中を泳いで行かなければならなかった……
「実際その時は大変でしたよ。もっとも僕の家などは床の上へ水は来なかったけれども。」
「では浅い所もあったのですね?」
「緑町二丁目――かな。何でもあの辺は膝位まででしたがね。僕はSという友だちと一しょにその路地の奥にいるもう一人の友だちを見舞に行ったんです。するとSという友だちが溝の中へ落ちてしまってね……」
「ああ、水が出ていたから、溝のあることがわからなかったんですね。」
「ええ、――しかしSのやつは膝まで水の上に出ていたんです。それがあっという拍子に可なり深い溝だったと見え、水の上に出ているのは首だけになってしまったんでしょう。僕は思わず笑ってしまってね。」
 僕等をのせた円タクはこういう僕等の話の中に寿座の前を通り過ぎた。絵看板を掲げた寿座は余り昔と変らないらしかった。僕の父の話によれば、この辺――二つ目通りから先は「津軽様」の屋敷だった。「御維新」前の或年の正月、父は川向うへ年始に行き、帰りに両国橋を渡って来ると少しも見知らない若侍が一人偶然父と道づれになった。彼もちゃんと大小をさし、鷹の羽の紋のついた上下かみしもを着ている。父は彼と話しているうちにいつか僕の家を通り過ぎてしまった。のみならずふと気づいた時には「津軽様」の溝へ転げこんでいた。同時に又若侍はいつかどこかへ見えなくなっていた。父は泥まみれになったまま、僕の家へ帰って来た。何でも父の刀は鞘走さやばしった拍子にさかさまに溝の中に立ったということである。それから若侍に化けた狐は(父は未だにこの若侍を狐だったと信じている。)刀の光に恐れた為にやっと逃げ出したのだということである。実際狐の化けたのかどうかは僕にはどちらでも差支さしつかえない。僕はただ父の口からこういう話を聞かされる度に昔の本所の如何にさびしかったかを想像している。
 僕等は亀沢町の角で円タクをおり、元町通りを両国へ歩いて行った。菓子屋の寿徳庵は昔のように繁昌しているらしい。しかしその向うの質屋の店は安田銀行に変っている。この質屋の「利いちゃん」も僕の小学校時代の友だちだった。僕はいつか遊び時間に僕等の家にあるものを自慢し合ったことを覚えている。僕の友だちは僕のように年をとった小役人の息子ばかりではない。が誰も「利いちゃん」の言葉には驚嘆せずにはいられなかった。
「僕の家の土蔵の中には大砲万右衛門の化粧廻しもある。」
 大砲は僕等の小学時代に、――常陸山や梅ヶ谷の大関だった時代に横綱を張った相撲すもうだった。

 本所警察署もいつの間にかコンクリートの建物に変っている。僕の記憶にある警察署は古い赤煉瓦あかれんがの建物だった。僕はこの警察署長の息子も僕の友だちだったのを覚えている。それから警察署の隣にある蝙蝠傘屋こうもりがさやも――傘屋の木島さんは今日でも僕のことを覚えていてくれるであろうか? いや、木島さん一人ではない。僕はこの界隈に住んでいた大勢の友だちを覚えている。しかし僕の友だちは長い年月の流れるのにつれ、もう全然僕などとは縁のない暮しをしているであろう。僕は四、五年前の簡閲点呼かんえつてんこに大紙屋の岡本さんと一緒になった。僕の知っていた大紙屋は封建時代に変りのない土蔵造りの紙屋である。その又薄暗い店の中には番頭や小僧が何人も忙しそうに歩きまわっていた。が、岡本さんの話によれば、今では店の組織も変り、海外へ紙を輸出するのにもいろいろ計画を立てて居るらしい。
「この辺もすっかり変っていますか?」
「昔からある店もありますけれども……町全体の落ち着かなさ加減はね。」
 僕はその大紙屋にあった「馬車通り」(「馬車通り」というのは四つ目あたりへ通うガタ馬車のあった為である。)のぬかるみを思い出した。しかしまだ明治時代にはそこにも大紙屋のあったように封建時代の影の落ちた何軒かの「しにせ」は残っていた。僕はこの「馬車通り」にあった「魚善」という肴屋を覚えている。それから又樋口さんという門構えの医者を覚えている。最後にこの樋口さんの近所にピストル強盗清水定吉の住んでいたことを覚えている。明治時代もあらゆる時代のように何人かの犯罪的天才を造り出した。ピストル強盗も稲妻強盗や五寸釘の虎吉と一しょにこういう天才たちの一人だったであろう。僕は彼が按摩あんまになって警官の目をくらませていたり、彼の家の壁をがんどう返しにして出没を自在にしていたことにロマン趣味を感じずにはいられなかった。これ等の犯罪的天才は大抵は小説の主人公になり、更に又所謂いわゆる壮士芝居の劇中人物になったものである。僕はこういう壮士芝居の中に「大悪僧」とかいうものを見、一場々々の血なまぐささに夜もろく/\眠られなかった。もっともこの「大悪僧」は或はピストル強盗のように実在の人物ではなかったかも知れない。
 僕等はいつかほこりの色をした国技館の前へ通りかかった。国技館は丁度日光の東照宮の模型か何かを見世物にしている所らしかった。僕の通っていた江東小学校は丁度ここに建っていたものである。現に残っている大銀杏おおいちょうも江東小学校の運動場の隅に――というよりも附属幼稚園の運動場の隅に枝をのばしていた。当時の小学校の校長の震災の為に死んだことは前にも書いた通りである。が、僕はつい近頃やはり当時から在職していたT先生にお目にかかり、女生徒に裁縫さいほうを教えていた或女の先生も割下水に近い京極子爵家(?)の溝の中で死んだことを知ったりした。この先生は着物は腐れ、体は骨になっていたものの、貯金帳だけちゃんと残っていた為にやっと誰だかわかったそうである。T先生の話によれば、僕等を教えた先生たちは大抵は本所にはいないらしい。僕は比留間先生に張り倒されたことを覚えている。それから宗先生に後頭部を突かれたことを覚えている。それから葉若先生に、――けれども僕の覚えているのは体罰を受けたことばかりではない。僕は又この小学校の中にいろいろの喜劇のあったことも覚えている。殊に大島という僕の親友がちゃんと机に向ったまま、いつかうんこをしていたのは喜劇中の喜劇だった。しかしこの大島敏夫も――花や歌を愛していた江東小学校の秀才も二十前後に故人になっている……
 国技館の隣に回向院えこういんのあることは大抵誰でも知っているであろう。所謂いわゆる本場所の相撲もまだ国技館の出来ない前には回向院の境内に蓆張むしろばりの小屋をかけていたものである。僕等はこの義士の打ち入り以来名高い回向院を見るために、国技館の横を曲って行った。が、それもここへ来る前にひそかに僕の予期していたようにすっかり昔に変っていた。

 今日の回向院はバラックである。如何に金の紋を打った亜鉛葺あえんぶきの屋根は反っていても、ガラス戸を立てた本堂はバラックという外は仕かたはない。僕等は読経の声を聞きながら、やはり僕には昔馴染みの鼠小僧の墓を見物に行った。墓の前には今日でも乞食が三、四人集まっていた。がそんなことはどうでもよい。それよりも僕を驚かしたのは膃肭獣おっとせい供養塔というものの立っていたことである。僕はぼんやりこの石碑を見上げ、何かその奥の鼠小僧の墓に同情しない訳には行かなかった。
 鼠小僧治郎太夫の墓は建札も示している通り、震災の火事にもほろびなかった。赤い提灯ちょうちん蝋燭ろうそくや教覚速善居士の額も大体昔の通りである。もっとも今は墓の石を欠かれない用心のしてあるばかりではない。墓の前の柱にちゃんと「御用のおかたはお守り石をさし上げます」と書いた、小さい紙札もはりつけてある。僕等はこの墓を後にし、今度は又墓地の奥に――国技館の後ろにある京伝の墓を尋ねて行った。
 この墓地も僕にはなつかしかった。僕は僕の友だちと一しょに度たびいたずらに石塔を倒し、寺男や坊さんに追いかけられたものである。もっとも昔は樹木も茂り、一口に墓地というよりも卵塔場という気のしたものだった。が、今は墓石は勿論、墓をめぐった鉄柵にもすさまじい火のあとは残っている。僕は「水子塚」の前を曲り、京伝の墓の前へたどり着いた。京伝の墓も京山の墓と一しょにやはり昔に変っていない。ただそれ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひょろりと枝をのばしたまま、若葉を開いているのは哀れだった。
 僕等は回向院の表門を出、これもバラックになった坊主軍鶏ぼうずしゃもを見ながら、一つ目の橋へ歩いて行った。僕の記憶を信ずるとすれば、この一つ目の橋のあたりは大正時代にも幾分か広重らしい画趣を持っていたものである。しかしもう今日ではどこにもそんな景色は残っていない。僕等は無残にもひろげられた跡を向う両国へ引き返しながら、偶然「泰ちゃん」の家の前を通りかかった。
「泰ちゃん」は下駄屋の息子である。僕は僕の小学時代にも作文は多少上手だった。が、僕の作文は――というよりも僕等の作文は、大抵いわゆる美文だった。「富士の峰白くかりがね池の面に下り、空仰げば月うるわしく、余が影法師黒し。」――これは僕の作文ではない、二、三年前に故人になった僕の小学時代の友だちの一人――清水昌彦君の作品である。「泰ちゃん」はこういう作文の中にひとり教科書のにおいのない、生き/\とした口語文を作った。それは何でも「虹」という作文の題の出た時である。僕は内心僕の作文の一番になることを信じていた。が、先生の一番にしたのは「泰ちゃん」――下駄屋「伊勢甚」の息子木村泰助君の作文だった。「泰ちゃん」は先生の命令を受け、かれ自身の作文を朗読した。それは恐らくは誰よりも僕を動かさずにはおかなかった。僕は勿論「泰ちゃん」のために見事に敗北を受けたことを感じた。同時に又「泰ちゃん」の描いた「虹」にありありと夕立ちの通り過ぎたのを感じた。僕を動かした文章は東西にわたって少なくはない。しかしまず僕を動かしたのはこの「泰ちゃん」の作文である。運命は僕を売文の徒にした。し「泰ちゃん」も僕のようにペンを執っていたとすれば「大東京繁昌記」の読者はこの「本所両国」よりも或は数等美しい印象記を読んでいたかも知れない。けれども「泰ちゃん」はどうしているであらう[#「であらう」はママ]? 僕は幾つも下駄の並んだ飾り窓の前にたたずんだまま、そっと店の中へ目を移した。店の中には「泰ちゃん」のお母さんらしい人が一人座っている。が、木村泰助君は生憎あいにくどこにも見えなかった……

僕「きょう本所へ行って来ましたよ。」
父「本所もすっかり変ったな。」
母「うちの近所はどうなっているえ?」
僕「どうなっているって……釣竿屋の石井さんにうちを売ったでしょう。あの石井さんのあるだけですね。ああ、それから提灯屋ちょうちんやもあった。……」
伯母「あすこに銭湯もあったでしょう。」
僕「今でも常盤湯という銭湯はありますよ。」
伯母「常盤湯といったかしら。」
妻「あたしのいた辺も変ったでしょうね?」
僕「変らないのは石河岸だけだよ。」
妻「あすこにあった、大きい柳は?」
僕「柳などは勿論焼けてしまったさ。」
母「お前のまだ小さかった頃には電車も通っていなかったんだからね。」
僕「『榛の木馬場』あたりはかたなしですね。」
父「あすこには葛飾北斎が住んでいたことがある。」
僕「『割下水』もやっぱり変ってしまいましたよ。」
母「あすこには悪御家人が沢山いてね。」
僕「僕の覚えている時分でも何かそんな気のする所でしたね。」
妻「お鶴さんの家はどうなったでしょう?」
僕「お鶴さん? ああ、あの藍問屋の娘さんか。」
妻「ええ、兄さんの好きだった人。」
僕「あの家はどうだったかな。兄さんのためにも見て来るんだったっけ。もっとも前に通ったんだけれども。」
伯母「あたしは地震の年以来一度も行ったことはないんだから――行っても驚くだろうけれども。」
僕「それは驚くだけですよ。伯母さんには見当もつかないかも知れない。」
父「何しろ変りも変ったからね。そら、昔は夕がたになると、みんな門を細目にあけて往来を見ていたもんだろう?」
母「法界節や何かの帰って来るのをね。」
伯母「あの時分は蝙蝠こうもりも沢山いたでしょう。」
僕「今は雀さえ飛んでいませんよ。僕は実際無常を感じてね。……それでも一度行ってごらんなさい。まだずん/\変ろうとしているから。」
妻「わたしは一度子供達に亀戸の太鼓橋を見せてやりたい。」
父「臥竜梅はもうなくなっただろうな?」
僕「ええ、あれはもうとうに……さあ、これから驚いたということを十五回だけ書かなければならない。」
妻「驚いた、驚いたと書いていれば善いのに。」(笑う)
僕「その外に何も書けるもんか、し何か書けるとすれば……そうだ。このポケット本の中にちゃんともう誰か書き尽している。――『玉敷きの都の中に、棟を並べ甍を争へる、尊き卑しき人の住居は、代々を経てつきせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。……いにしへ見し人は、二三十人の中に僅に一人二人なり。朝に死し、夕に生まるゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。』……」
母「何だえ、それは? 『お文様』のようじゃないか?」
僕「これですか? これは『方丈記』ですよ。僕などよりもちょっと偉かった鴨の長明という人の書いた本ですよ。」

底本:「大東京繁昌記」毎日新聞社
   1999(平成11)年5月15日
初出:「東京日日新聞」
   1927(昭和2)年5月6日〜22日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年5月11日作成
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