斯様かような標題を掲げたが、何もこんな陳腐な題目で柄にもない文学論を試みようとするのではない。「図書」という雑誌の性質に鑑み、此二人に関係ある書物に就て閑談を弄したいと思うのである。
 私の家に子供の折から見慣れて居た二つの草双紙絵本がある。一は為永春水の『絵入教訓近道』で、一は式亭蔵書印のある『赤本智恵鑒あかほんちえかがみ』である。何時何処で父が購求したのか、つい聞洩して仕舞ったが、或は祖父の江戸土産を後年父が出京の際郷里から携えて来たのか、とにかく私の物心ついた時から常に見慣れたもので、私に取っては種々想出の料となるものである。前者がイソップの換骨奪胎であることは明白であり、然も其が春水の作という所に興味があるし、後者は名家の手沢本として私の貧弱な書斎を飾るものと思って居た。然し三馬の蔵書はざらに世間にあるということだし、春水の翻案はイソップ研究に何の値もないものであるから、何れもただ私一人だけの感興を喚起すだけであるが、其後春水翻案の方は専門家の側にも珍重せられて来たので、此機会に三馬と道連れにして雑誌の埋草に使用する。
『絵入教訓近道』は題名の如く春水が教訓を標榜した草双紙であるが、然し此場合の教訓は誨淫かいいんの書といわれる人情本を勧善懲悪などというよりも名実相副うものであろう。全篇悉くイソップ物語から取ったのではなく、中には明白に『世説』とか『説苑』とかと出所を挙げた説話もあるが、「蟻と蝉」「狐と鶏」「京都の鼠と田舎の鼠」「狼と羊」「狐と獅子」等著名の寓話は皆あきらかにイソップ種である。然も其の挿絵には是等諸動物を人間に見立て、首だけが狐や狼になって居る。着物は其れぞれ適切な村人や遊人の姿などになって居るし、狼は如何にも悪党らしく、狐は奸智にけた風になって居る、など中々巧みである。其内獅子王だけは唐服を着して居り、又蟻は頭の上に止ったように描かれてあるのが子供心に殊に面白かった。文章は句読なしの総仮名で、頗る読み難いことは普通の草双紙の通りであるが、然し絵といい文章といい、よくも咀嚼して日本流或は寧ろ戯作本流にしたものだと思う。文禄時代の羅馬ローマ字訳を初とし慶長元和以来古活字本となり、其他の諸版で世間に流布したのが、遂に此戯作者の筆にまで伝ったことは、また文壇の一奇談といわなければならぬ。
 今試みに「蟻と蝉の話し」の一節を引用する。挿絵には、頭の月代さかやきの所に蟻を戴いた亭主が妻子と共に梨のシンや茄子なすのヘタなどを乾して日和ぼこりをして居る所へ、蝉を頭に戴いた男が悄然として訓戒を受けて居るさまが描かれてある。其文章には、

 頃は冬の初にて日なたほしき時分なりしが、或日蟻穴より出て、たくはへの餌食を干して居る所へ、あなたの木の枝より蝉一つとび来つて蟻に向ひ、さて/\其許は冬枯の時分まで餌食の貯蓄あるはまことに羨しきことなり、我にも少し分けて下さらぬか、といへば、蟻答へていふやう、蝉殿には春夏の営みには何事をなさるゝや、といへば、蝉答へて夏の秋の営みとてはたゞ木のうらに歌ひ暮す許りなれども、よの蝉に劣らじと音曲にのみ遊び居る故、他に営みとてもなしといへば、蟻答へて、さらば今とても歌ひたまはぬぞ、餌食を分けくれよなどゝは、余りに卑しくて、蝉殿の初めに歌ひ暮されしにも似合ぬことなり、といひて穴に入りぬ。其の如く人の世にあるとも、我が力の及ぶほどは世のことを営むべきなり、其身豊かなる時つゞまやかにして暮さねば、貧しうなりて悔ゆるとも蝉の餌食なきにかはることなし。
一見した所毫も翻訳の面影がないのみならず、其の挿絵の工合などから全然日本の田園生活を連想させるようになって居る。随て又一方には余りに戯作風になって原文の風韻を伝えない憾みはあるが、元来為永式教訓物であるから、寧ろ其所に特色もあるのであろう。
 私は此書物をただ先考遺愛の書というような意味で保存して居たが、其後斯道しどうの専門家たる新村出博士の研究によって、現在他には林若樹氏と新村氏との所蔵のみが世に知られて居るということを学んだが、此両大家に伍するを得たことは私のひそかに喜ぶ所であり、然も之を先人に伝え得ぬことを憾みとする情に堪えない。
 かくの如く此イソップ翻案は歴史的興味を喚起するに足るものであるが、ただ此に聊か奇異の点というべきことは其が「天保十五年辰の新板」となって居ることである。春水は天保十四年に歿し、而して天保は又十四年で終って居る。即ち天保十五年は改元して弘化元年となって居るから、此に大なる疑問が存する訳である。此点に就て既に新村氏の考証があったと思うが、今確実に記憶して居ない。暫く私の素人的臆測を施せば、書肆しょしは既に之を天保十四年に準備して翌年の新板として世に出そうとしたのが、作者も歿し年号も改った、というような事情ではなかったろうか。今日雑誌などの新年号が既に十二月の中旬に表れるのを見れば、此の如き臆測を容れる余地が無いとも思われない。現に此書の末尾には春水事長次郎と実名が出て居るから、二代目春水などの作と見ることは出来ない訳である。即ち此書は大衆作家春水の絶筆たる大衆向教訓書といってもよいであろう。

 次に挙げた『赤本智恵鑒』が如何なる文学史的地位を有するかは知らない。其作者は序文によると臍斎せいさい主人飯袋子はんたいしといい、明和七年の出版となって居るから、三馬歿年の文政四年を距ること正に五十二年である。赤本は文学史家の一斉に軽視する所であり、単に童蒙の娯楽書に過ぎぬように思われて居るし、実際其に違いあるまい。其故に是が仮りに前記春水の作のように日本に稀な書物であっても別に学問上の意味もないであろうが、ただ式亭の印のある此書は恐らくは唯一と見てもよいであろう。
 今その体裁を見れば、史書に記載してある通り、赤色若しくは樺色の半紙大絵入り五冊本で、各十二、三枚で各巻は大体二題目より成り、漢字交り総振仮名であって、後世の絵本と同様である。其題目を挙げれば。巻之一、※(「さんずい+宛」、第4水準2-78-67)よだれ先生伝、鼠の芸尽し。巻之二、犬と猿の相撲、鵜の真似する烏。巻之三、佐々良三八、十王の勧進。巻之四、烏勘左衛門、獣の伉侠こうきょう。巻之五、大酒金平 である。私はまだ此書に就て専門家の教を仰がないから、或は遼東のぶたに類するかも知れないが、順序として一応各巻の梗概を記すこととする。
 ※(「さんずい+宛」、第4水準2-78-67)先生は祖父母に甘やかされて生長し、赤本を耽読して悉く之をそらんじ、其他雑芸雑学に通じて衆愚に説法することを楽しむ一個の閑人であるが、胸に一物ある巧案という鍼医の画策によって文殊もんじゅの再生と言いらされ、其名も愛読書の猿蟹合戦に因んで猿蟹上人と改めて文殊菩薩直伝の智恵授所という看板を掲げることとなる。それで怠け者や博奕好きの息子を持て余す父親や、放蕩無頼の息子に苦しめられる母親、絶えず喧嘩口論する二人の手代の仲裁を依頼する商人、流行らぬ医者や貧に苦しむ坊主、大酒に身を持ち崩す儒者などに赤本を題材として適切な教訓を与える。それで全体としては教訓談であるが、滑稽味を失わさぬ為に常に何等かの失策を伴わしめて居る。即ち有福者の触込みに莫大な謝金を目算して居たのが口先きばかりに終ったり、清貧に苦しむ住持に十王勧進の話をしたら其揚句には謝金どころかあべこべに第一の寄進を請求されたり、大酒家の儒者を漸く説得したと思ったら、隠し置いた酒を嗅ぎつけられて決心の祝酒を強請せられる、などの結末で、此智恵者を翻弄して居る。
 今その一例として「鼠の芸尽し」を引用する。

 司馬温公の勧学歌に子を養て教へざるは父の過なり訓導の厳ならざるは師の惰なり父教師厳なること両ながら外なけれども学問成ことなきは子の罪なりといひけんもげにさる事ぞかしと身に思ひ知られ今更返らぬ諄言をゆふ闇に挑燈も持ず子故の闇路を藜の杖を力に白髪頭を振立て息子を呵りながら道場へ来るは世に名高き剣術の師匠万能斎一心といふ浪人猿蟹上人に対面とげ初めての見参に申出すも面目なうござれど召具したる若者は我ら一子一学と申て当年二十五歳になりまするが生得懦弱にして……上人莞爾として既に大聖孔子世に在て自身世話をやかれてさへいけぬちんぷんかんを況や孔子の涎の子曰で異見めされては足袋の上から跖を掻にひとし愚僧が今度諸人に授る文珠※[#「くさかんむり/廾」、U+26B07、8-7]の直伝の智恵と申は経文書籍の言句文字に拘るこむつかしい事ではござらぬと文匣より赤本を取出し一学殿とやら是は今年の新板の赤本則いつぞや両国橋の広小路で見世物に致した鼠の芸づくし絵は鳥居清満が筆よう書ました御覧なされよと差出せば今まで仏頂面をして居たる一学莞爾と笑ひ……上人笑つてあの赤本が則器に随て法を説の文珠の智恵細工は流々仕上を見たまへ、なんと一学面白ござるかとてもの儀に其赤本の講釈をして聞せませう……
くして此息子も改心したので父親は喜んで帰る。それで謝金を請求すると、父親一心は貧窮なのを口実に立帰る。そこで

 巧案忙然てあの親仁めは儕が上をゆく奴ぢや大方あの豆板も喰せ物であらうと包紙の封を切て見て扨こそ鉛ぢや
斯様かような話を集めたもので文章も整わぬ所があり、教訓も皆平凡、然も全然真面目に書いて居るのでもない。大体の印象から見れば心学の道話と類似した所があるが、多少之を滑稽化した趣もある。謂わば心学のパロディーにも相当するものであろうか。著者は心学を今一層通俗化しようとしたのか、或は心学の平凡な道徳談を諷刺しようとしたのか、其点は明でないが、とにかく形式の上からは幾分パロディー的であることをおおわれない。然し其中の教訓は必しも民衆教化に適せぬとは言えない。
 此智恵鏨を読みながら、私は十八世紀の啓蒙家カンペの修養書「テオフロン」の事を想出したが、之に就ては嘗て書いたこともあり、又紙数も尽きたから今は触れない事にして、ただ所蔵書の吹聴をすることに止めて置く。そして以上二書の間には何の聯絡もないが、春水は三馬に私淑したというから、先ず此に僅かの繁りを認め得るとして置こう。
〔一九三九年一月〕

底本:「エッセイの贈りもの 1」岩波書店
   1999(平成11)年3月5日第1刷発行
底本の親本:「図書」岩波書店
   1939(昭和14)年1月
初出:「図書」岩波書店
   1939(昭和14)年1月
入力:川山隆
校正:岡村和彦
2013年6月14日作成
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