大正九年十月十日。松本善二君とともに、午前五時五分発の列車にて上野駅出発、九時二十七分日光着。馬返まで電車に乗り、午後二時三十分中禅寺湖畔、三時五十分湯元。板屋に泊る。

 日光の町から馬返へ行く途中、眉を圧して聳え立つ女貌にょほう山や赤薙あかなぎ山の姿が、或は開けた谷間の奥に、或は繁った黒木の森の上に、電車の進行に連れて忙しく右手の窓から仰がれる。其中腹千五、六百米附近と思われるあたりに、真紅なそして冴えた一団の霞のようなものが諸所にたむろしている。それは汽車が文挟ふばさみ駅を過ぎて今市に近づく頃から既に眼に映じていたものであったが、今此処ここから見ると霜に飽いた紅葉であることがはっきりと認められたのであった。しかし麓の秋はまだ浅い。神橋しんきょうのあたりではわずかに紅を催すという程度である。剣ヶ峰ではそれはなり色づいてはいたが、中禅寺に来てはじめて秋の日光らしいよそおいが見られた。
 中禅寺の秋を代表するものは、何と言っても大崎から古薙の辺に至る間の湖畔一帯の闊葉樹林であろう。水を隔てて南に丘陵の如く横たわる半月山やしゃ山の連嶺も、黒木は多いが相当の距離があるので明るい。千手ヶ原の湖水に接したあたりは、あしやらすすきやら禾本かほん科植物の穂先が、午下の太陽から迸射する強い光芒に照されて、銀の乱れ髪のように微風にゆらめいている。その奥にほのかに紅味のさした紫にぬりつぶされて、秀麗なすずヶ岳が西の天を限っていた。久振りで眺めた中禅寺湖畔の秋色は矢張やはり勝れていると思った。
 戦場ヶ原は秋正にたけなわである。東から北にかけての落葉松の林が続いていたように覚えているが、今は殆ど伐り尽されて、眺望は開闊になった。男体太郎二山の裾や小田代原方面の紅葉も無論よいが、泉門いずみやど池の北方で湯元への道が端山の裾に沿うて緩かに上るあたり、掩いかかる大木の梢から下枝の先に至るまで、鮮かな黄に彩られた霜葉の美観は、けだし此処の圧巻であろう。温泉ゆせん岳から金精山や前白根に至る諸峰も指呼の間にある。奥白根の絶巓ぜってんも何処かでちらと見たようであったが判然しない。
 湯元に来ると二度も雪が降ったという程あって、紅葉は既に爛熟して、次の木枯こがらしには一たまりもなく吹き掃われそうである。濃紅の色の中にもはや凋落ちょうらくの悲哀が蔵されている。それがまた黒木の茂った静寂な環境と調和して、寧ろ凄味ある湯ノ湖を中心に、陰鬱ではあるが、極めて荘重な風景を現している。日光の秋はここに至って時と処と共に其きわみに達した。湖の北畔の水際からは湯のけむりが濛々もうもうと立ち昇って、夕暮の晴れた空に消えて行くのであった。
 湯治の客は大方引き上げて、観光を目的の旅の人も此処まで来る者は稀にしかないので、どの宿も閑そうである。私達の泊った板屋にも四、五人の客しか居なかった。明がた寒いと思ったが、起きて見ると霜が真白で、あらたに掃かれた庭前の若いけやきの下には、紅葉が箒目を隠す程に散っていた。余りにせせこましく粧飾された湯殿は気に入らないが、温泉に浸る心地はいつもながら実に好い。
 鬼怒沼まで尾根伝いを続けて行くには、人夫がいる方が都合がよいので、一人雇うことにした。さいわいに大金弥一郎という逞しい男がいて、案内は出来ないが、お伴なら何処へでも行くという。三日間十円は高い。けれども湯元にいて仕事をしても其位にはなるのだからと主人がいうままに話は纏った。

十一日。午前七時五十分板屋出発、金精峠に向う。九時四十五分峠の頂上。十分間休憩して後、国境の切明けを辿り、十一時温泉岳のいただきに達す。眺望広闊、遠く北アルプスの諸峰および飯豊山の白雪を望む。午後十二時二十分頂上出発、急斜面を下り、十二時三十五分鞍部。一時高薙山への分岐点。二時湯沢山頂上、木立繁く遠望なし。これより長き下りとなり、三時三十分最初の鞍部。四時二十分菅沼北方の千四十米の峰より右に下り、十五分にして水を得て野営。

 湯元の耕地を離れて、金精峠の登りにかかるあたりの森林は、いつ見ても美しい。一面に青青と繁った短い笹を下草にしてかんばはんのきの類などの交ったつがの深い林である。それは勿論木立がそれ程珍らしい訳ではない、秩父あたりにもこれ位の森林はいくらもある。しかしこのなよやかな笹原は容易に他所で見られないものである。如何にも気持がよい。人工を加えたもののように見えて全く自然のままなのである。菖蒲ヶ浜の養魚場の建物の附近も、元は殆どこの通りであったが、今はなかば以上も天然の面影を失ってしまった。
 笹が少なくなって石楠しゃくなげ御前橘ごぜんたちばな岩鏡いわかがみ苔桃こけももなどが下草に交って現れる。左に近く笈吊おいつる岩の絶壁を仰ぐようになると直ぐ峠の頂上である。十日程前には紅葉が盛りであったという。上州側は木立に遮られて眺望はないが、ふり返るときらきらと光る湯ノ湖を前に、男体山が東の空を領して一幅の画を展開する。
 暫く休んで国境の切明けを北に向って登り初める。雑木の茂った所や笹の深い所もあるが、大して困難を感ずる程ではない。峠から一時間余りを費して、温泉ヶ岳の三角点に達することを得た。頂上は南北に長く、測量当時木を伐り払った跡には笹が生えている。南の方に少し木立が残ってやや展望を遮るが、自分の位置を換えれば邪魔にはならない。三角点の東二、三間の距離に直径四尺程の池があって、一尺ばかりの深さに水を湛えている。余り綺麗ではないから消え残りの雪に喉を潤し、昼食をとりながら眺望に耽った。
 先ず行手西北の方を望むと、近く大鼇おおがめの背に似た湯沢山(根名草ねなくさ山の南方にある山で、地図に記名してなく、又名を知らない、湯沢の源頭にあるから仮に湯沢山と命名したのである)の広い頂上が眼の前に立ち塞っている。黒木立が透間すきまもなく生え茂っているので、あの中が通れるだろうかと疑わしめる。最高点を少し西にはずれて後から頂上だけを覗かせているのは根名草山である。続いてひうち岳の双尖が鞍状の峰頭をもたげている左には、ひらヶ岳・大白沢山・景鶴けいづる山・ススケ峰・赤倉岳・日崎山などの連嶺が波濤の如く起伏し、其奥に越後沢・小穂口・下津川・小沢・三石など利根川西岸の諸山が奔馬の如く南走している。燧岳と平ヶ岳との間には、雪を帯びた越後の駒ヶ岳が全容を露し、平ヶ岳の上には中ノ岳の円錐頂が認められた。いつも三日月形の大残雪が残る平ヶ岳の東南面には、夥しく白いものが見える。表面から反射する光の工合はどうも氷のようである。双眼鏡で熟視するとそれは霜柱であることが判明した。周囲は草原であるのに、此処ここだけが花崗岩の※爛ばいらん[#「雨かんむり/誨のつくり」、U+9709、258-1]した細沙と粘土との露出地である為に、この驚くき霜柱を生じたものと想われる。近い燕巣つばくろす山は赤倉岳と下津川山との間にその尖頂を突き入れ、東面に懸る菱形の大きなガレが著しく目を惹く。頂の少し平な四郎岳は、其傾斜の緩い、そして恐ろしく長い山脚を南に投げ出して、あたかも頭を北に向けた臥蚕がさんに似ている。この二山の間には至仏山が群を抜いて高い。其右の肩にふわりと青黛を浮べているのは牛ヶ岳の連脈であろう。
 至仏山の左には小高(小笠)大高(大笠)の二山が大海のうねりのような緩やかな山稜の上に、赭色の岩峰をぽつんと立てる。其うねりの低まったのが一度隆起して西山となり、再びおおいに隆起して忽ち波がしらの砕けたように五、六の峰尖を乱立させているのが武尊ほたか山だ。
 至仏山の為に一旦遮断された利根川右岸の連嶺は、恰も四郎岳の上で小高の右に破風形をした柄沢山と、大高の左肩に蕎麦粒状の朝日岳とが、共に額から上を露している。其左には宝川の笠ヶ岳が一段と高い。茂倉、一ノ倉、谷川富士、谷川岳の諸山は、附近に比類のない崔嵬さいかいたる姿を呈して、西山の土に蟠崛している。赤谷あかや川上流の上越国境では、仙ノ倉山の外は識別するを得なかった。谷川富士の上には苗場山が特有な長い平な頂上を横たえ、其右の方茂倉岳の上には、遠い妙高火山群の雪が望まれ、仙ノ倉山の南で佐武流さぶりゅう山の北にある二千五十一米の峰を超えて、更に遠く白雪皚々がいがいたる白馬の連峰が、肉眼では天際に棚引く一抹の横雲かと怪まれた。
 尨大なる武尊山を蹈まえて、烏帽子岩菅いわすげの峰頭は、流石さすがに高く抜け出ている。白砂山から西の方赤石山に至る上信国境の山々はほぼ高さの平均した長い山脈を縦観する為に、到底一つ一つの山を区別することは不可能であった。横手・白根・本白根・四阿あずまや・浅間の諸山は紛るくもない。四阿山を中にして右には槍ヶ岳、左には穂高山がはるかの天際に剣戟を連ね、横手山の右には真白に輝く立山劒ヶ岳の姿が執念しつこく離れまいとする雪雲の間から垣間見られた。南に廻ると高い奥白根や前白根の為に遠望は遮断されてしまう。此処から眺めた奥白根の絶巓ぜってんは、痛々しく筋骨をむき出してはいるが、山勢頗る峭抜して、そぞろに駒ヶ岳から仰いだ北岳の雄姿を偲ばしめるものがある。
 湯沢山の右には鹿斑に雪の積った会津の駒ヶ岳が広い頂上を展開している。其東に連る会津境の黒岩・孫兵衛・台倉・帝釈・田代の諸山は、一様に黒い針葉樹林に包まれて、秋らしい快い日の光に隈なく其半面を照されてはいるが、重苦しさに堪えぬが如く押し黙っている気配がある。北東には遠く吾妻山が望まれ、ついで那須高原の二山塊、近くは東に日光の諸山が目睫の間に迫っている。しかし最も強く私達を惹き付けたものは、此等の山でも又遠い北アルプスの雪でもなかった。それは孫兵衛山から台倉高山に至る間の山稜を超えて、翠紫を畳む幾重の山のあなたに、岸を噛む怒濤の砕けて白泡空に跳るかと怪まれる長大なる雪の連嶺の姿であった。まともに照りつける日光を受けて純白に輝く雪の美しさ。それが飯豊いいで山であることは一目で知られた。
 頂上の北側には白檜しらべの若木に雑って偃松はいまつが生えていた。石楠はもう寒そうに葉を縮めている。国境の尾根は此処から東北に迂廻して、更に西北を指すようになるので、其方へ向って少し下ると笹がや深い。夫を押し分けて十二、三歩も進むと、俄然として擂鉢すりばち状の小窪地に行き当った。不意に足場を失った私は筋斗もんどり打ってのめり込もうとした体を、笹にしがみついて辛くも支えることを得た。余りの馬鹿らしさに独り苦笑して、這い上る拍子にふと見ると実に驚いた。この直径六尺ばかりの擂鉢の底には、更に直径二尺許りの穴がある。ちょいと覗いただけでは底も見えない。余程深そうである。気味の悪い穴もあったものだ。それが笹に掩われているから尚更危険であると思った。
 下りが恐ろしく急になる。木から木につかまって、漸く鞍部に着いた。小石を敷きならしたようないい平で、小屋でもあったらしい跡がある。東からは長いガレが這い上って来ている。これからは笹はあるが楽な上りで、黒木の間を林班の杭とかすかな切明けとに導かれて、思い切り右の方へ迂廻した。間もなく高薙山へ続く尾根との分岐点に出る。白檜の若木が邪魔になって困った。それでも例の杭と切明けがあるので迷うようなことはない。倒木もあるにはあったが、むごたらしく風に吹き倒されたのは少ないようであった。
 白檜の純林は何処までも続いている。禁猟区と書いた五尺余りの杭が、忘れた頃に先々と立っている。落葉がつもってふっくりと柔い土を踏んで、上るともなく上って行くと、小鳥の声さえも聞こえぬ淋しい黒木立の中で、むせぶようなかすかな音が耳に入った。あの立派な噴湯丘があるので名高い湯沢の源流の一がいつの間にか私達の足元近く寄り添って来ているのであった。もう頂上であろうと思うが、この広く平で木立の茂った林の中では、何処が最高点であるかを見究めるのさえ容易でない。恐らく此辺が絶頂であろうと思われるあたりから少し北に下って見た。すると木立の稍や透いた間から測量の櫓の残っている根名草山がちらりと望まれた。この藪では往復二時間は懸るであろう、其上見通がきかぬので方向を誤るおそれが充分にある。それに午後二時を少し過ぎている。遅くなれば引返して最前の水のある所で泊るという手段はあるものの、明日の行程を考えると出来るだけ先へ行く方が都合がいいので、根名草山を究めることはやめにしてしまった。
 切明けを頼りに下って行くと、みちは間もなく南を指して、奥白根を正面に仰ぐようになる。いい切明けではあるが違ったなと直ぐ気が付く。木が太くなって木立は少しまばらになって来た。其の中を右に突切ると国境の切明けに出る。下生えが少いので歩きよい。三人は足に任せてドンドン下った。そして一の鞍部に着いた時は、そろそろ泊り場所を探してもよい時刻であった。右手の薄暗い谷底に白く光る水のながれが見えたが、其処まで下りる気にはなれなかった。また爪先が仰いで一の小隆起をえた。尾根は平で広いが附近に水はない。もう闇は間近く押寄せて来た。人夫を南の谷へ下らせたが、暫くして水はないといいながら帰って来たので、左に小尾根を派出している所から、右の谷らしい窪を十五分許り下ると水が得られた。急峻な谷間には一しゃくの平地とてもない。止むなく大木が倒れて根と共に山腹を掘取った其跡へ泊ることにした。一方は木の根に支えられている。其根が終夜の焚火に焼かれて、翌朝出発する前に、いざ一あたり火にあたろうとするとき、ドッと燃え抜けて落ちてしまったのは、滑稽でもあり又運がよくもあった。

十二日。朝来霧深し。午前八時二十七分出発。二十分にして尾根上。左に菅沼を瞰下みおろす。十時二十分二千七十米の峰頂。午後十二時十分燕巣山頂上。笹深くして眺望よろしからず。休憩二十分にして出発。一時北方の鞍部着、中食。一時三十分出発、一時間にして二千九十八米の三角点着。尾瀬方面の霜葉実に美観を極む。四時鬼怒沼。五時原の東南の空沢を下り、六時大絶壁にい、下るあたわず。夜営。夜風雨。

 暁方あけがた目を覚すと霧が間近の木から木へ鼠色の幕を張り渡していた。夜中に焚火の煙だと思ったのは矢張やはりこの霧であったかも知れない。頭上に傘をさしかけたように枝を拡げた栂の葉からは、時折雨のように雫が落ちて来る。日の出に間もないと見えて、四辺が一しきりぽうと赤くなる。その頃から次第に霧も薄らいで、頭上には青空も見られるようになった。木の間に日の指す気配がして、そこにもここにも華やかな影が認められたが、それは霧の中から滲み出る今を盛りの紅葉であった。
 昨日下りた所へ登りついてまじまじと周囲を見廻した。ぐ目の下に鴨緑おうりょく色の水を湛えた菅沼が手に届く程に近い。湖をめぐって鬱蒼たる針葉樹の梢が無数のほこを建てつらねたように、水際からひら地へ、ひら地から山腹へ、すくすくと立ち並んでいる。其間に闊葉樹が黄や紅の冴えた色を丸くこんもりと盛り上げる。奥白根の渋色のドームが南の空に半ば雲に包まれている。行手には四郎岳らしい鈍円頂が雲から吐き出されたように不意に木の間から姿を見せた。
 小さな隆起を二つばかり越して、倒木の横たわっている笹の中を一の峰に登った。菅沼と丸沼とを分つ尾根が南に出ている。途中ふり返るたびに湖水をこえて奥白根の絶頂が高く仰がれる。つい今しがたまで粘り付いていた雲は、山の膚に薄く白いものを残して消え去ってしまった。空は真綿を引伸したような高い巻層雲に掩れているけれども、眺望は次第に開けて、さし添う日光と共に体も漸く汗ばんで来た。
 再び笹や倒木の中を下ると、また同じ様な登りとなったが、これは直に終って、余り高低のない尾根を辿り、少し下ってから登りついた所は二千七十米の峰である。峰というよりは寧ろ長い平な尾根の突端というた方が適切であろう。南に丸沼大尻沼が不恰好な瓢箪ひょうたんの形をして現われる。あたりとは少しも調和しない養魚場の赤い屋根が異様に光っている。北には真黒な針葉樹林に囲まれて鬼怒沼の原が狐色に暖そうだ。其原の水を集めて流れ行く鬼怒川の谷は、ほんの上流の一部が此処ここから見られるのではあるけれども、心をおののかすような豊麗にして深刻なる色彩の世界を暗示するに足るものであった。
 伐り倒された大木が朽ち残った白骨のような枯枝を縦横に逆立てている深い笹原を、針蕗はりぶきに刺されながら泳ぎ抜けて、昼も暗い白檜唐檜とうひの深林に入った。朽葉のつもった柔い土の香と軽い樹肥やにの香とが苛立った神経を落付おちつけて呉れる。緩やかなうねりが二度三度続いた。尾根が痩せて岩が露れると、石楠や躑躅つつじの類がはびこり出して足にからまる。これも山の親しい友だ。登りが少しえらくなって、いよいよ燕巣の斜面に取り付いたのではないかと思う間もなく、足元は平になって行手に例の菱形のガレが、冷笑うように大口を開けて、はずみかかった私達の気を抑えつけてしまう。こんなことも二度ばかりあったようだ。湯沢の谷が南に開けて、養魚所の建物や方形の堤や青い畑の物などが、凄い白眼を挙げて空と睨み合っている丸沼の片隅に、淡い人間の匂を漂わしている。樺の大木が多くなった。明るさが葉を振り落した枝から幹を伝って、隧道の明り窓のようにさし込んでくる。笹がまた繁り出して、私達はいつか長い登りに懸っていた。
 傾斜は登るに従って増して来る。倒木を乗りえたり、根曲り竹の密叢をい抜けたりする。もう両手を使わないでは一歩も足が先へ出せない。三人は散り散りになって思い思いに攀じ登った。頂上に近く立木がまばらになると笹が殊に深くなって、全く目隠しをされてしまった。開いているのは頭の上ばかりだ。漠然と空を見上げては足を運ぶ。
 やっと少しの平に出た。笹は短くなったがそれでも肩を越す程の高さである。突き当りは樺や白檜の木立に遮られて何一つ見えない。右を見ても左を見ても、疎ではあるが同じ木立に取り巻かれている。此処が燕巣の頂上なのであろうか。心をとどろかせる或もの――それが何であるかは判然と意識しないにしろ――そんなものを期待して、満されない心の欠陥から暗い気持になるのは情なかった。二千二百二十五米の頂上。空しくあたりを見廻した私の眼は、地上五、六尺の所からへし折れて笹の中にたおれている太い樺の木に注いだ。急いで其上に登って改めて復あたりを見廻した。温泉岳と根名草山と鬼怒沼原の一部とが、辛うじて得られた眺望のすべてである。東の風が少し強く吹き出した。寒いので笹の中へ潜り込んで横になる。その時初めて自分独りであったことに気が付いた。
 下りは更に笹が深かった。体をおもしにして無理に押分けて行く、不意に針蕗が搦み付いてチクチク刺すには弱った。黒木の繁った二つばかりの突起が前面に現れる。其一の岩壁から火のように赤い紅葉がのり出して、パッと明るく谷間を照している。栂や樺の木立を抜けて一の鞍部に着いた。水を探したがありそうもないので、凍ってバサバサしている握飯をたべて昼食にする。足の指先が切られるように痛い。体も寒さに震える。こんな時には焚火が何よりの馳走だ。めらめらと炎を揚げていきおいよく燃え出した火を囲んで、三人の冷い顔にも漸くえみが浮んだ。
 栂の若木や石楠の間を掻き分けて一の岩峰を踰えた。ホッと息する間もなく、更に荒けた急峻な岩峰の上りとなる。さっき眺めた二番目の突起にさし掛ったのだ。透間もなく密生した石楠を手掛り足掛りとして、表面は圭角けいかくの鋭いぼろぼろの岩屑と変っている岩の間を匐い上り、長いが狭い頂上の突端に立った。三角点の標石があって、櫓は横に倒れている。岩巣だけに石楠が多い。豆桜らしいものがあったのも珍しかった。赤い実を持った苔桃や御前橘、岩鏡に高根日蔭縵たかねひかげのかずら、皆懐しい山の植物ではあるが、此処では其一つ一つが確りと存在を認めさせないでは置かなかった。最高点はずっと北寄りにあって、二十米余り此処より高いであろうが、黒木が茂っている。此処は測量当時に邪魔な木を伐り払ったので、広い眼界を与える。
 北から西にかけて燧岳がいつも真先に目に付く。昨日眺めたよりもずっと大きく、しかも全容を露して、頂きの双尖の間から今にも噴烟が天に沖するかと思わしめる程、火山特有の形を備えている。其裾のあたり青磁色の一線が所々強く光を反射しているのは尾瀬沼であろう。駒ヶ岳、平ヶ岳、景鶴山。平ヶ岳には今日は霜柱が見られなかった。下津川山から小沢岳の方面へかけて雲が余程低く垂れている。至仏山、笠ヶ岳。武尊山の乱杭頭にも古綿のような雲が流れ寄っていた。尾瀬沼の東の檜高ひだか山、治右衛門池の南の皿伏さらぶせ山、さては其名の如く双峰を対峙させた荷鞍にぐら山までも、皆大きな蛞蝓なめくじったようにのろのろしている。そして此等の山を屏風の如く立て廻して其処に驚くき色彩の世界が展開していた。
 満谿――片品川上流のねば沢、柳沢、中岐沢の一部――を埋むる闊葉樹の大森林は、見渡す限り赤と黄と其間のあらゆる色とに染められて、朝暾落暉の光に炎と燃える雲の幾群が谷中に瀰漫びまんしたようである。じっと見ていると丸く盛り上った一つ一つの梢は、大きなかまどの中で渦を巻く※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)のように、明くなったり暗くなったりして、光と蔭と錯綜した曲線の皺がモクモクと動いているようだ。それが谷風に煽られて、燎原の火の様に山麓から山頂へと一気に音もなく燃え拡がって行く。まるで大きな山火事だ、と私は思った。ふと、あの白樺に富む尾瀬ヶ原の秋色が想い出された。
 振り返って眺めた鬼怒川渓谷の霜葉も劣らず美しいものであった。上流は針葉樹が多いだけに、黄の勝った華やかな色が其間を点綴てんていしているに過ぎないが、下流の方へ行くに従って闊葉樹が増すと共に赤が加わり、色も濃くなって漸く谷を埋めんとしている。近い根名草山のいただきを除いては、奥白根と女貌山とが此色彩の圏外に聳立した二の山であった。鬼怒沼ヶ原はつい目と鼻程の距離に迫って来たけれども、土堤のように取り巻いた黒木に遮られて、原は眼に入らない。
 三角点から黒木の繁った細い山稜を少し登って、陰湿な土に印した熊の足跡を踏みながら笹の中へ下り込む。所々木立は薄くなるが深い笹は何処までも続いている。骨まで朽ちた潰れ小屋を足元の笹の中に見出したのはそれから一時間の後であった。行手は透間すきまもなく黒木と笹とに掩われた毘沙門山である。夫を避けて爪先下りに右の方へ二、三十間も行くと、※(「土へん+盧」、第3水準1-15-68)ローム[#「土へん+母」、U+5776、268-4]の固まったような河床を穿って、水が潺湲せんかんと流れている。私達は始めて今朝来の渇を医することを得た。
 丈に余る笹を押分けて、広々した黒木の林に出る。唐檜や黒檜の薄暗い幹の中に、白茶化けた樺がほのかに明るく光っている。それを目あてに東南を指して進んだ。笹は短くなって歩きよくなるが、白檜や大白檜おおしらびその若木がはびこり出した。其中を潜り抜けると忽ちあたりがパッと開けて、私達は鬼怒沼ヶ原の一端に跳り出た。そして足に任せて原の中を歩き廻った。
 原は水苔の床らしく踏むとじめじめしている。東寄りの方には矮小な黒檜白檜の一叢が沙漠の沃地を見るが如くに碁布しているけれども、其他は茫々たる草原で、五、六寸から一尺あまりに延びた禾本かほん科や莎草しゃそう科の植物が吹き募る東南の風になびいている。紅に染った葉の色も霜や雪に焼けて、少し黒ずんでいた。草間には小岩鏡の群落が花時の美観を偲ばせ、蔓苔桃つるこけももの紅い実がこぼれ散った宝玉を思わせる。
 原のほぼ中央と覚しきあたりに最大の池がある。水は深くはないが澄んでいる。其附近が原の最も窪い所で、其北に少しずつ高くなって三つ許の池が連っている。南北に長く東西に狭い原は、又南北に低く中央が高い。其高い所は国境より少し南に当っているであろう。それで北の方にある二、三の池の水は、上州方面に流れて東岐沢に入ることになる。最大の池の東南にあたる一段高い所には、二、三十の小池が群集している。俗に鬼怒沼四十の称があるのも偶然ではないが、雨期にはこれ等の池が増水して一に連り、満々たる大沼を出現するということは到底信じられない。
 いつの頃か此原に一人の姫が住んでいた。鬼怒沼の美に憧れて稀に訪い来る里人は、八千草の咲き匂う花の中で姫の機織るの音を聞くのが常であった。里人はそれを衣姫と呼びなしていたが、ついぞ姫の姿を見た者はない。或時暁かけて此原をおとずれた一人の若者があった。晴やかな五月の一と日である。美しい原の景色に恍惚としていた若者は、ふと池の面に白い霧のようなものが漂うているのを不審に思った。まばたきもせずに見詰めていると、やがて忽然として手に梭を持った気高い乙女の姿があらわれた。あたりに人ありとも知らぬ乙女は、水の上をするするとわたりながら岸に近付いて、嫣然えんぜんと笑みつつやおら花咲く原に歩を移さんとした刹那、不意の人影に驚いて振り返りさま手にした梭を若者に投げ付け、掻き消すように失せてしまった。人心地もなかった若者は三日過ぎて家に連れ戻されたが、熱を病んで七日の後には最早もはや此世の人ではなかった。夫以来衣姫の梭の音は聞くことを得ないという。
 四方を黒木の深林に囲まれた原の中央に立って眺めると、ここは衣姫の機織る場所ではなくして、森の精――サチルスやジレニ――がほしいままに踊り狂う饗宴の場所であるように想われる。されど今はこれ等の精も森の奥の何処かの洞穴に隠れて、蕭条しょうじょうたる原は空しく冷い風が吹いている許りである。北は木立の間から燧岳の双尖と桍腰はかまごし山の平な頂上とが窺うように原を覗いている。南は緩やかな傾斜で低くなって行く原を限る針葉樹の梢が眼の高さに止っているので、視界はそっちに開けているが、山という山は灰色の雲にすっぽりと包まれてしまった。雲間を洩れる夕日の光も木立に遮られて、其力ない影はもう原にはとどかなかった。子供のように側目わきめもふらず苔桃の実を摘んでいた私達は、急に寒さの加わるのを覚えて立ち上った。時計を見ると四時半である。泊ってもいい時刻であるが、此処は好ましい場所ではない。鬼怒川まで下って河原に泊れば明日は好都合である。其処まで行けなければ途中で泊ることにして、原の東南の隅から同じ方向を指して林の中を下り始めた。
 木立が深いので下草の笹は短かった。唐檜を主として黒檜や羅漢柏の大木が交った原始の針葉樹林は、この冬枯にもお生気の溢れているような爽かさを感ぜしめる。暫くして水の流れた窪に出た。其窪もいつか谷らしい形になって、笹原をうねっている。四、五人の野営には有り余る程水が溜っている所もあった。右から石のごろごろした空沢が合してからは、花崗岩の大塊が次第に多く見られるようになる。間もなく河床が薬研やげんを立てたように傾くと、前方の空が急に低く垂れて、脚の下まで押寄せて来た。しかし日は既にとっぷりと暮れて、闇は濃くなる一方だ。其上谷は刻々に険悪の度を増して行くので、不安の念に襲われてやや躊躇していると、先に立った大金が、旦那もう駄目だ、先へは行けないと下から声をかける。松本君と其処まで辿り着いて、大岩にもたれさま下を覗き込んだ。暗いので底までは眼が届かない、何という高い絶壁だろう。もうここで一夜を明すことにきめてしまった。
 生木の焚火が燃え上って、寒さに硬ばった手足を暖める頃から、雨が強く降り出して来た。岩から岩へ大油紙を張り渡し、其下へ潜り込んで邪魔な石を掘り起したり取捨てたり、やっと腰をおろせるだけにはなったが、えびのように身を屈めても、寝ることなどは思いも寄らない。ただ岩蔭である為に風が当らないのはさいわいであった。体が少し落付おちつくと腹の空いていることに気が付く。大岩から流れ落ちる雨水を飯盒に受けて湯を沸かし、焼いた塩鮭の切身にかけて、銘々に夫を啜った。一斤のドロップと一缶のおたふく豆とが残りすくなになって、長い夜も漸く明けるまでには、雨水の湯が幾杯か飯盒で沸かされた。

十三日。風雨。午前六時五十分野営地出発。来路を空沢の出合まで遡行し、それより右斜に上りて、九時一の平坦地に達し、東に向って下り、十時日光沢。十一時鬼怒川本流との出合。十一時五十分八丁湯附近にて昼食。雨む。午後二時出発。三時十分小在池こざいけ沢。四時黒沢。湯沢の合流点より左岸の道を歩みて五時川俣温泉着、泊。
日光沢には十余の瀑布あり。五万の地図に「光」の字の上にて西方より小渓の来り合するを見るし、此附近二町ばかりの間を除けば右岸に登る道なきに似たり。恐らく日光沢より鬼怒沼への通路というはこの小渓を遡行せしものに非ざるか。されど余は更に鬼怒川本流を遡りて、原より南下する沢しくは其附近の尾根を登る方可ならんと考う。

 暁かけて雨は少し小降りになったが、霧が深いので出発が遅れる。出懸にもう一度絶壁を覗いて見た。遥か下に濛々もうもうたる霧の間から華やかな闊葉樹の梢がぼうと滲み出してまた吸い込まれるように消えて行く。見ていると目が眩んで前へのめり落ちそうになる。早々振り捨てるようにこの野営地を立った。
 日光沢の外には鬼怒川へ下る道はない、ということを聞いたと大金がいうので、かくも空沢との出合まで沢を戻ることにした。乾き切った河床も昨夜来の大雨でチョロチョロ水が流れている。高い滝なども懸っていた。あの暗がりによくもこんな所が下りられたものだと空恐ろしくもなる。
 沢を離れて黒檜や羅漢柏の密生した山腹に潜り込む。日光沢からの登路が若しあれば夫と交叉するように、北微東を指して緩い上りを続けた。ぶくぶくした腐埴土が崩れて、踏む足の下から水がだぶだぶ湧き出したかと思うと直ぐまた何処かへ吸い込まれてしまう所などもあった。刈り払われた跡のように笹の若芽が延びて、夏の間に人でも通ったかと疑わしめる所もあった。刃物の切り跡などがあきらかに道とも認められるので、夫にいて行くと下草の絶えた木の間でいつか見失ってしまったことなどもあった。けれどもついに登路らしいものには出遇であわなかった。
 風が西に変って復雨が強く降り出した。時折木立が透いて展望のききそうな場所に出るが、意地の悪い霧が忽ち目隠しをしてしまう。深い笹を押分ける苦しさにいつとなく下りに向った脚元が急に明るくなって、右の方に大谷が口を開いていると気が付いた折などは、慌てて上の方へ引返したりした。雨の中に立ってふやけた手にくしゃくしゃになった地図を拡げ、磁石を按じて松本君と行先を相談したことも一再ではなかった。くて二時間あまり小休もせず歩いて、やや平な場所に出た。最早もはや鬼怒沼ヶ原の東に在る林のあたり迄辿り着いた筈である。東北の方を望むと折柄霧が薄れて、谷の向うに尾根らしいものが木の間から見られた。ほんの一瞬間ではあったが、夫が鬼怒沼山続きの尾根であると直感したので、ここから東を指して下ることにした。
 下るに従って予想の誤らなかったことが確められた。広い山腹は次第に狭い尾根となり、尾根はやせて大きな岩が露出し、黒檜の若木が石楠のように頑強な枝を張って、かさにかかって押し通ろうとする私達を手鞠てまりのように跳ね返す、笹が思い切って深くなる、その中をおずおず下って行くと、前面の霧が幕を絞るようにすうととれて、五十歩の先に谺然としてたにが開け、対岸には四、五十丈の滝が幾段にも連って、雲の中から奔下している。黒味を帯びた壮大な岩壁の襞には躑躅つつじらしい灌木や玉簪花などが所々に散生して、花咲く初夏の美しさを思わせる。
 何処にも沢へ下りられる場所がないので、暫く絶壁の縁に沿うて辿った。馬蹄形にえぐれ落ちた古い山抜けの跡に出る。内側は恐ろしく急峻ではあるが生えている草の根を足掛りにして、無事に沢へ下りられた。間もなく右岸から小沢が合している。このあたりは谷も少し開けて、両岸とも崖などは見られない。日光沢から鬼怒沼への道というのは、この小沢を上下したものではないかと考えられる。
 気をゆるして歩けたのはしかし一、二町の間に過ぎなかった。谷は何の変った様も見えないで、いきなり五、六丈の瀑が脚下にたぎり落ちている。夫を過ぎると水は再び深山榛などの生えた河原を蜘蛛手に流れて行く。竹で編んだまるい物が塵と一緒に其処そこらに引かかっている。何かと拾い上げて見れば魚をとるウケであった。そんな物がこの沢にあるのは寧ろ不思議であるが、人の通った証拠にはなるので気は休まる。このウケは春の生殖期にサンショウウオを捕るものであることを後に知った。
 同じ様に高い瀑が三つ許りあった。其の二は殆ど連続しているので、一町あまり崖の上を高廻りしなければならなかった。小さな瀑は七か八も越えたであろう。
 瀑が無くなると今度は谷の傾斜が急になって、落ち込むように下って行く。見るから険悪な相を呈しているが足元は危くない。水は右岸の岩壁の裾を横なぐりに深くえぐっているので、なめらかな壁面の上部は円天井のように狭い河身を掩うている。まるで片側の上の方が途切れた長い洞穴を見るようだ。それがなりの距離にわたって連続している。岩は石英粗面岩ではないかと思った。この乗り出している岩の天井は縦に裂け目がついていて、剥れたり脱け出したりした岩が垂氷のようにぶら下っている所などもあった。何だか地震地帯の陥落線を見るような気がする。事実この狭い急峻な河床は、年々崩壊する岩や土が左岸に堆積した其上が通れるのであって、もなければ到底通過されないような場所がすくなくなかった。中にはつい近頃崩れ落ちたらしい者もある。夫だけ其下を通るのは誠に薄気味が悪い。殊に今日は大雨の後であるから、下りながら眼と同じ高さに横から眺めて、危険と感じた岩を頭の上に戴く折などは、こま鼠の様に走り抜けたりした。夫からは絶えず左岸に沿うて、鬼怒川本流の広い河床に出た時にやっと明るい気持になった。
 日光沢の温泉というのはこの附近にあるのであろうが、あたりを物色しても湯気の立ち昇っている所などは見当らない。或は対岸の草の茂った河原に湧出していたかも知れぬ。ただ何処となく硫黄の香が漂うているように思われた。
 砂地を歩いたり水をわたったりして暢気のんきに歩いて行く。雨は小降りになったが、雲は低く垂れて上流も下流もまだ暗く閉されている。時々電光でも迸るように空の何処かがパッと明るくなると、雲のあわただしい擾乱じょうらんが始まる。重く停滞した下層の霧までが翅を得たもののようにすうと舞い※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)あがりながら川下へ飛んでは消える。其下から紅や黄に染った闊葉樹の梢が、さながら魔術師の杖が触れたように浮き出して来る。見る間に両側の山腹はこの華やかな錦繍の大屏風と化してしまった。
 雨が歇んで薄日の光がさして来た。硫黄の匂がやや強く鼻を刺激する。八丁ノ湯の附近であろう。此処ここさいわいに河原が開けて流木も多い。濡れた物など乾しながら、飯を炊いたり汁を煮たり、ゆるゆる三度分の食事を済した。大金は椎茸がある筈だというてしきりに探し廻ったが、四つか五つしか採れなかった。二、三日前に椎茸採が入ったのだとこれは後に聞いた。大金の言う所にると、椎茸と松茸は生で食えるものだそうだ。試に其言に従って松本君と味って見る。成程やわらかで甘味があって香気が高い。次手ついでに自分で採集した分まで食べてしまう。
 川俣温泉はもうすぐそこのような気がするけれども、まだ二里は下らなければならない。荷を纏めて足早に河原を下り始めた。川上から根なし雲が追いかけるようにおろして来る。夫に連れて小雨が如露で水を撒くように注いで来るが長くは続かない。水みちが広い河原を崖から崖へと蛇行しているので、幾回か浅い徒渉としょうを繰り返した。左手に狭い谷が現われて、板を張り詰めたように平な赤土色の岩盤の上を、水は小躍りしながらトットと落ちて来る。奥を覗いて見たがすぐ右折しているので見えなかった。これが小在池沢である。何だか物凄いところのある谷だと思った。
 広い河原はますます広くなって、水の流れた跡が箒目のように残っている細かい砂の上には、無数の羚羊かもしかの足痕が印してある。夏の緑をかなぐりすてた雑木の梢は、瑞々しい黄や紅の闊葉に掩われて、打ち開いた左右の山側を凹凸はあるがベットリ塗りつぶしている。ふり仰ぐ尾根上のあたりはまだ古綿のようなちぎれ雲が木の間にからみ付いてはいるものの、端からこぼれかかる目覚しい絢爛のよそおいを隠しおおせるものではなかった。松本君と私とは暫く立ち止っては周囲の色彩に眺め入った。実に此附近の闊葉樹林こそは、最も美事に鬼怒川上流の秋を表現するものであろう。
 黒沢を過ぎると河原は次第に狭くなって、大きな岩が河床に突立ったり横にそばだったりしている。時には小高い崖なども現れる。そんな場所には屹度きっと左岸に上の方を廻る元の道が壊れずに残っていた。それでも二度三度あちこちと徒渉したろう。水が深いのでもう前のように楽ではない。一度などは川底に紺屋の藍瓶を伏せたような濃藍色を呈した甌穴おうけつの連っている間の縁を、股を没する急流に押されながら渉ったこともあった。湯沢の合流点の下では水深腰の上迄も及んだので最も苦しめられた。此処で左岸に徒渉すると、立派な道が雑木の茂った段丘の上に通じている。烟草たばこの包紙やキャラメルの箱などそこらに落ち散っているのは、湯治客の捨てたものであろう。
 これから道は暫く川と離れる。山坡を下って小沢を渉った。ふと見ると上手の浅瀬に二尾の岩魚が泳いでいる。人影に驚いて岩の下へ隠れたのをさいわいに、上下を堰止めて大金が造作なく手捕てどりにした。二疋とも尺に近い。産卵する為にこんな小沢に上るのだそうだ。錆沢というのを過ぎて、道端の落栗を拾いながらだらだら坂を下りて温泉宿に着いた。
 温泉宿は一軒だが二階建の大きなかまえだ。川に臨んだ左岸の崖の上を切り開いてながれに沿うて縦に長く建ててある。入口は横にあって、這入ると右の帳場の前から長い廊下が続いている。左は炊事場であろう竈が築いてある。濡れたものを乾すように頼んで草鞋を脱ぐと、二階の一室に案内された。どの部屋もがらんと空いている。湯治客は下の座敷に自炊している者が三、四人だけで、それも近く里へ帰ってしまえば、もう来春まで湯治客は絶えるとのことである。
 浴槽は下手の別な建物にあって、板屋根は湯気に包まれている。湯は二本の樋で導かれ、二の浴槽に湛えているが、質はそれぞれ違っているそうだ。温度は誂向きである。長々と手足を伸して首まで湯に漬る。濃かい感触のいいぬくもりが皮膚を撫でながら体内へ滲み込んで行く。うっとりと気が遠くなる。
 温泉は前の川中にも湧いている。鬼怒川は対岸の二丈余りある崖の下に白い石の洲を残して、岩をこづきながらぐるり北へ廻って流れる。其河原の石の間から湯気が立ち昇っている。崕からも二、三箇所湯がにじみ出して、岩面に湯垢が木目のように附着している。此湯は日光沢の温泉宿が押流された明治三十五年の大洪水に浴槽を埋められて以来、今は少しの水にも浸るので其儘に放置してある。崖から川面へ突出した一本の槭の紅葉が薄暗い二階の障子に赤く映っている。
 今夜は心よく熟睡した。

 明くる十四日の昼頃、私達は西沢金山から山王峠を踰えて、道のべの車前草の葉まで深紅に染った満山の紅葉を詠めつつ、再び戦場ヶ原の人となった。そして一しおの濃さを加えた中禅寺湖畔の秋色も、また心を惹くに足らぬとように側目わきめもくれず道を急いだ。
(大正一二、五『山岳』)

底本:「山の憶い出 上」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年6月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 上巻」龍星閣
   1941(昭和16)年再刷
初出:「山岳」
   1923(大正12)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2013年9月19日作成
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