あらすじ
東部カルパチア山地の森で、土地を巡る確執を持つ男、ウルリッヒ・フォン・グラドウィツとズネームは、互いに命を狙い、銃を構え合う。長年の確執が頂点に達し、どちらか一方が命を落とす決意をする。しかし、運命のいたずらで、彼らは巨大な木によっておさえつけられ、動けなくなってしまう。死を覚悟した二人だったが、互いの境遇を目の当たりにし、憎しみは少しずつ薄れていく。そして、互いの命を助け合うという意外な展開へと進んでいく……。
ある冬の寒い晩、一人の男が銃を片手に耳をすましていた。ちょっとみると、鳥か獣があらわれるのを待っているようだ。が、じつのところはそうでないのである。この男――ウルリッヒ・フォン・グラドウィツは、人間があらわれるのを待っているのだ。
彼が所有する山林には、野獣がたくさんいた。でも山林のはずれのこのあたりには、そんなにいない。それにもかかわらず、このあたりが気になって仕様がないのだ。もともとこの山林は、彼の祖父が、不法な理由で所有していた小さい地主から、裁判沙汰で無理に奪いとったものである。奪われた小地主は、その裁判が不服だった。それいらい、長いあいだ、両方の地主の争いがつづいて、グラドウィツが家長になるころには、両家の個人的憎悪にまで発展していた。つまり、この両家は三代にわたって仇敵のごとく争っているのだ。グラドウィツが世界中で一番にくらしいと思うのは、自分の土地に侵入して野獣をとるこのズネームという小地主だった。グラドウィツとズネームは、子供のときからおたがいに相手の血にうえていた。両方が相手の不幸を心から願っていた。だから、この風の寒い冬の晩、グラドウィツは数名の部下に森を歩かせ、もし泥棒が侵入したら捕えるよう命令したのである。いつもはしげみに隠れてめったに姿をみせぬ牡鹿が、その晩にかぎって森のあちこちを走った。ほかの森の動物もいつもとはちがって騒々しい。そのわけはよく分っている。ズネームが侵入しているにちがいないのだ。
彼は山の高いところに部下を配置し、自分一人は急な斜面をおりて、麓の深い森へはいり、風にそよぐ梢の音や、木と木のふれあう音に耳をかたむけた。密猟者がはいりこんでいないか。ズネームが潜んでいないか。もしこの風の暴れる夕方、邪魔する第三者のいないこの淋しい森の中で、仇敵ズネームとめぐりあうことができたら、おお、その時こそ――これが彼のなによりの願望だった。そして、そんなことを考えながら、の巨木の幹をまわると、当の仇敵とぱったり顔をあわせたのである。
ふたりの敵と敵は、長いあいだにらみあっていた。どちらも怨恨にもえ、手に鉄砲をもっていた。一生に一度の情熱を爆発させる時がきた。けれど、遺憾ながら、彼らはどちらも文明の世に生れた人間なので、無言のまま、平然と人を殺す気にはなれなかった。どうしてもきっかけというものが必要だった。
それで、二人がもじもじしていると、そこに横あいから、大自然の手が加わったのである。先刻から吹きあれていた強風が、一段と猛烈に木々をゆるがしたと思うと、その拍子にの大木の幹がめりめりとおれて、どさんと大きな音をたてて倒れ、逃げだすすきもなく、二人をおさえつけてしまったのだ。グラドウィツの片手は麻痺し、片手は二股になった枝におさえつけられ、両足も同時に太い枝におさえつけられていた。重い編上靴をはいていたからよかったものの、そうでなかったら、足がつぶれるところだった。傷こそうけなかったが、起きあがることはできなかった。だから、誰かがきて、大木の枝を鋸できってくれるまでは、どうすることもできない。顔にあたった小枝で、目に血が流れこんだ。その血をしばだたいて、払いのけながらあたりをみると、すぐそばにズネームが彼同様おさえつけられて、しきりにもがいている、もがいても起き上ることはできないらしい。そのそばにはたおれた大木の大小さまざまの枝が、いっぱいにひろがっていた。
グラドウィツは、動けなくなったのを口惜しがっていいのか、生命が助かったのを感謝していいのか、悲喜こもごもの妙な気持だった。
ズネームも顔から血を少しばかりだしていた。そしてもがくのをやめて、しばらく聞き耳をたてていたが、たちまち大声で笑いながら、
「お前も助かったのかい。死んでしまやあいいのに。でもおかしいね、グラドウィツがおれのところから盗んだ山の中で動けなくなるとは。これも天罰と思うがいい。」
そして、また彼は大きな声で嘲笑した。
グラドウィツはいう。「なんだと、盗んだ山だといったな、そうじゃない。ここはおれの土地だ。いまにおれの部下が助けにきてくれるよ。お前は密猟にはいったところをおれの部下に発見されるなんて、いい恥さらしだ。気の毒なやつだ。」
ズネームはすぐにはいわなかったが、しばらくするとこうこたえた。
「お前はいま助けにきてくれるといったが、そりゃ本当か? おれの使っている男たちも、今夜この山にきているんだ。もうここへくるだろう。きたらまずおれを助けだしてくれて、そのあとで、お前のうえに大きな木をもひとつのせるだろうよ。お前の使っている男がくる頃には、とうにお前は死んでしまっている。葬式の日には、お悔みの手紙の一本もだしてやるよ。」
「いいことを教えてくれた!」と、グラドウィツは口を尖らせていった。「おれは部下の男に十分間たったらここへこいといっといた。だからもうくるだろう。きたらいまお前がいったと同じことをしてやるよ。でもお前はこっそり人の山林に侵入して、密猟しているところを殺されたのだから、お悔みの手紙だけはださないよ。」
「分った。分った。そんならおれたちは、どちらかが死ぬまで戦おう。お前のほうに部下がいるなら、こっちにもいるんだ。ここで勝負をつけるなら、第三者の邪魔者がこなくていい。グラドウィツの馬鹿っ! 早く死んでしまえ!」
「ズネームの馬鹿! 早く死んでしまえ! 泥棒! ひとの山林の中にはいって猟をする泥棒!」
ふたりとも、すぐ部下がきて、助けてくれると思っていた。助かるのは自分のほうが早いと思っていた。だからあらゆる毒々しい言葉でののしりあった。
だが、しばらくすると、二人とももがいても無駄なことが分ったので、あまり動かなくなり、グラドウィツは比較的自由な片手を、やっと上着のポケットにさしいれて、酒の壜をだした。壜をだすことはだしても、栓をぬいて飲むのが一仕事だった。でも、ぐっと一飲みした時の気持は格別だった。冬は冬でも、まだ雪がふらなかったので、わりあいに温かだった。酒がまわると好い気持になって、苦痛の唸声を噛みしめているとなりの男が、可哀そうになった。
そこでグラドウィツは不意にこんなことをいったのである。
「どうだい。この酒を一口飲ましてやろうか。とてもうまい酒だ。今夜のうちに、お前かおれのどちらかが死ぬにしても、今の中別れに一杯飲んだらどうだ。」
「だめだよ。おれは目のふちに血が固まって、なにも見えないんだ。それに敵といっしょに酒を飲むのは嫌だよ。」
グラドウィツはしばらく黙って、ものうい風の音を聞いていた。そして時々苦しそうに木におさえつけられているとなりの男のほうに目をやった。烈火のように燃えていた憎悪の炎が、だんだん消えてゆくのを感じた。
「おい、ズネーム、お前の部下がさきにきたら、どうにでも勝手にするがいい。しかしおれは考えを変えた。おれの部下がさきにきたら、まずお客様として、お前からさきに助けさして、おれはあとで助けてもらうつもりだ。ふたりはこの土地のことで、悪魔のように争ってきた。風に吹かれるこの山の木が、曲りくねって成長するとおなじだった。しかし今夜ここに寝ていて考えてみると、じつに馬鹿らしいことだ。世の中には土地のことで喧嘩をするより、もっと面白いことがたくさんある。どうだね、これからは喧嘩をやめて、仲好くしようじゃないか。」
ズネームは返事をしなかった。死んだのではなかろうかと、グラドウィツは思った。
が、しばらくするとズネームが静かにいいだした。
「でも、お前と二人でいっしょに馬にのって市場を歩いたら、みんながびっくりしてみるだろうな。グラドウィツとズネームが、仲好く歩くなんて図は、誰だって意外に思うだろう。おれたちが仲直りしたら、山の男たちも喜ぶだろう。いま仲直りしたって、誰も文句をいったり、邪魔したりする第三者はいないんだ……祭の晩には、お前もおれの家へきてくれ。そのかわりおれも時々ご馳走になりに行くよ。……もうこれからはお客として招待された時以外、お前の山の中へはいって鉄砲うったりなんかしないよ。お前も時々はおれのとこの沼におりてくる水鳥をうちにきてくれ。ふたりが仲直りしても、邪魔する者は一人もない。長い間おれはお前を憎みつづけてきたが、今夜から心をいれかえた。お前にもらったこの一杯の酒で、これからは友だちになるよ。」
しばらく黙ったまま、二人はこの劇的な仲直りがおよぼすべき、世間の変化を考えていた。そしてひゅうひゅう強い風が吹いて、大木の幹や梢をうならせるこの寒い暗い森のなかで、早くどちらかの部下がきてくれればいいと、心に念じていた。もうこうなっては、どちらの部下がきても、両方が助かるのである。でも、やはり、早くくるのが、自分の部下であることをのぞんだ。それはいままでの敵に好意をしめすという名誉ある仕事を、自分でしたいからであった。
たちまち風がやんだ。
グラドウィツは沈黙をやぶって、
「二人声を揃えて呼んでみようじゃないか。いまは静かだから、遠方に聞えるかもしれない。」
「木がしげっているから、よほど大きい声をださないと聞えないよ。でも呼んでみようか。」
二人はいっしょに大声で呼んだ。
しばらくするとグラドウィツがまた、
「もう一度呼んでみよう。」
また呼んだ。
呼んだあとで耳をすまして返事をまった。
「なんだかむこうのほうで、返事のようなものが聞えたよ。」とグラドウィツがいった。
「風の音だろう。おれにはなにも聞えなかった。」
グラドウィツは耳を傾けていたが、急に嬉しげな声になって。
「森のむこうから走ってくるのが見える。おれがおりたとおなじ坂道をおりてくる。」
また二人が声をあわせてありたけの力で叫んだ。
「いまの声が聞えたらしい。立止って考えている。ほら、みつけた。こっちへむけてどんどん走ってくる。」グラドウィツがいった。
「なん人いるかね?」ズネームがきいた。
「まだよく分らん。九人か十人らしい。」
「そんならお前の部下だろう。おれのほうは七人しかいないのだから。」
「一生懸命に走っている。元気のいいやつだ。」
グラドウィツは満足らしい声だった。
「たしかにお前のほうの男かね!」とズネームがきいた。
そして、返事がないので、また、「お前のほうの男か?」ときいた。
「いや、」と答えて、グラドウィツは恐怖に戦慄しながら、馬鹿のようにげらげら笑いだした[#「げらげら笑いだした」は底本では「げらげ笑いだした」]。
「じゃ誰だい?」とズネームは目をしょぼしょぼさせながら、不安げにきいた。
「狼!」
了
底本:「山岳文学選集九 ザイルの三人」朋文堂
1959(昭和34)年6月30日発行
※誤植を疑った箇所を、「青春の氷河」朋文堂、1942(昭和17)年3月発行の表記にそって、あらためました。
入力:sogo
校正:枯葉
2015年12月13日作成
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