あらすじ
18世紀のイギリス、一人の若き医師が、牛の病気と人間の病気の関係に疑問を抱きます。周囲からは嘲笑されながらも、自身の信念を信じ、長年の研究を重ねます。やがて、人々を恐怖に陥れる恐ろしい病気の予防法を発見するまで、彼の情熱と苦悩の日々が始まります。大胆な実験と周囲の反発を乗り越え、人類の未来を救う偉業を成し遂げるまで、ジェンナーの波乱に満ちた人生は、まさに奇跡の物語です。
 いまからおよそ百五十年前のことです。英国南部のバスという市(まち)で、ある夜盛大(せいだい)な晩餐会(ばんさんかい)が開かれました。
 集まったものは、政治家、実業家、医師、軍人など数十人、いわゆるその市(まち)およびその付近で、名をあげている人ばかりでありました。当時まだ電燈は発明されておりませんでしたから、いく本かの美しい装飾(そうしょく)をほどこした銀色の燭台(しょくだい)が、テーブルの上に立て並べられ、皎々(こうこう)たる光のもとにいとも静粛(せいしゅく)に、食事がすまされました。
 食後人々はテーブルをかこんだまま、紅茶(こうちゃ)をすすりながら、いろいろの話にふけりました。と、いつのまにか、すみの方で議論(ぎろん)めいた口調で話すものがありましたので、一同は、言いあわせたように、口をつぐんで、その議論(ぎろん)に耳を傾(かたむ)けました。
「無論(むろん)、私(わたくし)は炎(ほのお)の中の方が熱いと思います」とひとりの紳士(しんし)がいいました。
「そうじゃありませんよ。やっぱり炎を少しはなれたところの方がかえって熱いですよ」と、他の紳士が反対しました。
 紳士たちは、燭台(しょくだい)に波うって燃えている蝋燭(ろうそく)の炎をながめながら、その炎の内部が熱いか、あるいは炎をはなれた少し上のところが熱いかを論(ろん)じあっているのでありました。
 人々は、興に乗じて口々に賛否両説(さんぴりょうせつ)を吐(は)きました。炎の中が熱いというもの、炎の少し上のところが熱いというもの、いずれもほとんど同数の賛成者を得て、なかなか解決がつきません。それぞれいろいろの理屈(りくつ)を考えだして自説を主張しましたが、だれも、いずれが正しいか、審判(しんぱん)をあたえるものはありませんでした。
 先刻(せんこく)から、賛否(さんぴ)いずれともいわなかった、年のころ二十五、六歳(さい)の小柄(こがら)な紳士は、そのとき突然(とつぜん)立ちあがって、
「みなさん」と叫(さけ)びました。
 人々は、ぱったり議論をやめて、一斉(せい)にその紳士を見つめました。
 すると、かれは、だまって、前にある一本の燭台(しょくだい)をひきよせ、右手の指を、いきなり、蝋燭(ろうそく)の炎の中につきさしました。
 一秒、二秒。紳士はおもむろに指を引きました。
 一同はあっけにとられて、ふしぎな芸に見いりました。
 紳士はそれから、ふたたびその指を、炎の少し上に近づけましたが、近づけるやいなや、
「熱ッ」
 と、小声でいって手を引きました。
「みなさん」と、青年紳士(せいねんしんし)は、にっこりわらいました。「これで、どちらが熱いかおわかりになりましたでしょう」
 こういって、やおら席につくと、われるような拍手(はくしゅ)が起こって、人々は口々に、その紳士の機知(きち)を賞讃(しょうさん)しました。
 そのあくる日のことです。
 バスの市(まち)から少しへだたったバークレーという町に住んでいるこの青年紳士のところへ、ひとりの中年の紳士がたずねてきました。
 この青年紳士は、客を見て、
「おや、昨夜はいろいろ失礼いたしました。どこか、お悪いのですか」とたずねました。
 この青年紳士は医師だったからです。
「いえ」と、客は答えました。「私はご承知のとおり、インドの植民地と関係のあるものですが、昨夜のあなたのお知恵(ちえ)と決断力(けつだんりょく)とに感心して、ぜひ、植民地へいって、かの地の同胞(どうほう)たちを助けてやっていただきたいと思い、おうかがいしたのでございます。俸給(ほうきゅう)はいくらでもおのぞみどおりだしますから、どうか二、三年、あちらでご開業ねがえますまいか。植民地では、よい医師がないので、みんなが本当に困(こま)っております」
 青年医師は客の語るのを、つつましやかにきいておりましたが、このとき、きっぱりいいました。
「そのご親切はありがとうございますが、私はこれから一生涯(しょうがい)、故郷(こきょう)をはなれない決心をいたしました。私はこの土地で生まれ、早く両親を失って、兄(にい)さんのおかげでそだち、ロンドンへまで学問にやってもらって、どうやら、一人前の医者になって帰ってきました。そうしていまは兄さんに同居させてもらっているのですから、兄さんの生きておられるあいだは、ここを動きません。たとえまた、兄さんの百年の後においても、この美しい景色(けしき)をもった故郷(こきょう)をどうして見すてることができましょう。翠緑(すいりょく)の樹(き)につつまれた山、紺碧(こんぺき)の水をたたえた谷。春がくれば錦(にしき)をかざる牧原、秋がくればたわわにみのる果樹園(かじゅえん)。このようにめぐまれた土地は、世界のどこにもないと思います。せっかくのおぼしめしですけれど、インドゆきはおことわりしたいと思います」
 頑(がん)として動く気色もありませんでしたので、客は失望して帰りました。
 読者諸君(どくしゃしょくん)! この、機知に富(と)み、故郷を熱愛する青年医師はそもそもだれでありましょう。これこそ、後に種痘法(しゅとうほう)を発見して、人類の恩人とあおがれるにいたった、わがエドワード・ジェンナーその人であります。

 みなさんは、風呂(ふろ)にはいったとき、きっと、自分の二の腕(うで)についている三つ四つの、種痘(しゅとう)のあとに注意したことがありましょう。むろん、風呂にはいるたびごとに注意する人はありますまいが、この種痘がいったいなんのためにほどこされたものであるか、考えてみたことがありますか。自分で考えたことはなくとも、お父(とう)さんやお母(かあ)さんから教えてもらったことはあるでしょう。
 種痘(しゅとう)はいうまでもなく、おそろしい天然痘(てんねんとう)という病気を防ぐためにほどこされるのであります。ところが、いまでは、種痘のために天然痘というおそろしい病気にかかるものが非常に少なくなったので、天然痘のおそろしさを知っている人はいたって少ないのであります。もし天然痘のおそろしさを知り、天然痘にかかった患者(かんじゃ)の身体のものすごさを一目でも見たならば、本当に、種痘法を発見した人をおがまずにはいられなくなるのであります。
 ですから、ジェンナーの伝を書くにあたっては、どうしても天然痘(てんねんとう)のおそろしさを述(の)べておかねばなりません。多分みなさんはペストやコレラのおそろしさを知っておられるでしょう。種痘法(しゅとうほう)の発見されなかった時分には、天然痘は実にペストやコレラよりもおそれられたものであります。いかなる階級の人も、上(かみ)はお公卿(くげ)さまから、下(しも)はいやしい民にいたるまで、天然痘の病原体は、なんの容赦(ようしゃ)もなくおそいかかりました。一たび疱瘡(ほうそう)(昔(むかし)は天然痘のことを疱瘡といいました)がはやるということが伝わると、人々は愕然(がくぜん)として色を失い、ことに子供(こども)を持つ親は、ぶるぶるとふるえたものであります。
 それもそのはずです。十人疱瘡にかかれば三人や四人はかならず死んでしまいました。たとえ治(なお)っても、あるいは眼がつぶれたり、あるいはあばたが残って、一生涯(しょうがい)、その人はいやな思いをしなければなりません。ことにそれが女の子であると、成長の後はおよめさんにもらってくれる人が少ないのでしたから、女の子をもった親は、ことさらにおそろしがったものです。
 なかんずく、病中の患者(かんじゃ)のありさまは、目もあてられぬほど、いたいたしいものです。高い熱がでて苦しむうちは、まだよいとして、全身に、すき間もなくふきでものがでて、それが膿(うみ)をもって黄色に変じますと、まるであの菊人形(きくにんぎょう)のように……きくならば美しいですけれど、それがうみをもった黄色のできものでおおわれた有様(ありさま)を想像してごらんなさい。きっと背(せ)すじに冷たいものが流れるでありましょう。さらにそのふきでものが乾(かわ)くときは黒赤色に変じますから、全身はあんの中へころがったようになり、顔はおはぎを見るようで、どこに目があるやら鼻があるやらさっぱりわからないのであります。
 このおそろしい病は世界のいずこの国にも流行してときには一ヵ年に何百万という同胞(どうほう)を失った国もありました。日本でも古くからこの病が流行し、どうしておこるかわからぬので、疱瘡(ほうそう)をつかさどる神さまがあって、その神様がいかって疱瘡をはやらせになるから、疱瘡にかからぬようにするには、疱瘡神(ほうそうがみ)をおがめばよいといって、戸(こ)ごとに祭ったものであります。通常疱瘡神として住吉大明神(すみよしだいみょうじん)を祭ったものでしたが、いくら住吉大明神を祭っても、疱瘡は依然(いぜん)としてその勢いをたくましゅうしたのであります。
 このおそろしい病気も、いまは、種痘(しゅとう)によって、完全に防げるようになりました。疱瘡神(ほうそうがみ)を祭らなくなっても、種痘をさえほどこせば、たとえときどき天然痘(てんねんとう)が流行しても、少しもおそれることなく暮(く)らせるようになりました。そうして各国で、年々何十万という人の生命が救われることになったのであります。
 しかも、このとうとい種痘法は、たったひとりの力で発見されました。なんとみなさん、風呂(ふろ)へはいって、二の腕(うで)の種痘(しゅとう)のあとをみたならば、人類の一員としてわがエドワード・ジェンナーに感謝せざるを得(え)ないではありませんか。

 これほどとうとい種痘法(しゅとうほう)のことですから、それが決して、容易なことで発見されたものとは、みなさんも思わないでしょう。いかにもそのとおりです。ジェンナーが、種痘法を発見するまでには何十年という長いあいだの苦心がついやされたのであります。
 ジェンナーは、一七四九年五月十七日に、前記のバークレーといういなか町の、ある牧師の三男として生まれました。八、九歳(さい)の時分から、いまでいえば、理科が非常にすきでした。その地方は化石がたくさんでますので、かれはそれを拾ってきては、部屋(へや)のたなにならべて分類しました。また、りすの巣(す)を集めたり、めずらしい植物を採集(さいしゅう)してきては、兄さんたちにその名をきいて、たくわえておきました。
 小学校を卒業すると、かれはサドベリーという町のある医師のところへ書生として住みこみ、医学を勉強して、後には代診(だいしん)をつとめました。かれは非常に勉強家でしたが、音楽や詩文をこのみ、ひまさえあればバイオリンをひいたり、ふえをふいたり、また、詩を作りました。非常に想像力が強くて、いわゆる一をきいて十をさとるという風でしたから、先生も非常に喜んでかれを教育したのであります。
 かれが代診をやっている時分のことです。ある日、いなかからひとりの女患者(おんなかんじゃ)が診察を受けにきました。職業(しょくぎょう)をたずねると、
「わしは、牛(うし)の乳(ちち)をしぼって暮(く)らしていますだ」と、いなか言葉で答えました。
 その地方は牧畜(ぼくちく)がさかんで、住民は多く牛を飼(か)い、したがって女たちは搾乳(さくにゅう)に従事(じゅうじ)していたのであります。
 ジェンナーはそのときまだ二十歳(さい)にならぬ青年でしたが、ていねいに診察(しんさつ)してから、
「おまえさんは熱がある。多分風邪(かぜ)だと思うが、いま世間では疱瘡(ほうそう)がはやっているから、気をつけねばいけないですよ」といいました。
「疱瘡なら、わしは心配しなくてもよろしいだ」と、女は言下に答えました。
「え? なぜ?」
「わしは、このあいだ、牛の疱瘡が、これこのとおり手にうつりましただ。ですから、もう疱瘡にはかかりませんて」
 こういって女は、手の甲(こう)の、牛の疱瘡にかかったあとを見せました。
 ジェンナーは不審(ふしん)に思いました。乳(ちち)をしぼる女が牛の疱瘡(ほうそう)にかかって、手にできものをつくることは、よく知っていましたけれど、牛の疱瘡にかかったものが、人間の疱瘡にかからないということを聞いたのははじめてだったからです。
「でも、牛の疱瘡(ほうそう)と人間の疱瘡とは性質(たち)がちがうではないかね」とジェンナーはたずねかえしました。
「性質(たち)がちがうか、どうだか、わしは知りませんだが、わしひとりでなく、みんながそういっていますだ」
 このとき、ジェンナーの頭に、ある考えがひらめきました。そうだ、乳(ちち)をしぼる女がみんなそういうことをいっているとすれば、まんざらうそではないであろう。もしそれが真実だとすれば、牛の疱瘡(ほうそう)を人間にうつせば、もはやあのおそろしい疱瘡にかからないようにすることができるではないか。……みなさん、後にわが人類を救った種痘法(しゅとうほう)なるものは、実にこの瞬間(しゅんかん)に考えだされたものであります。
 このことがあってから、ジェンナーは、たびたびその地方の搾乳婦(さくにゅうふ)にあって、いよいよ先日の女患者(おんなかんじゃ)の言葉が真実であることをたしかめました。牛の疱瘡(ほうそう)は非常に軽いもので、人間にうつったときも、うみのついた部分に、一つ二つのできものができるだけでしたら、軽い牛痘(ぎゅうとう)のうみをうえて、あのおそろしい疱瘡を防ぎ得(う)るようになったら、どんなに人類のためになるか知れない。なんとかして自分一代には、この予防法を実行したいものだと、ひそかに決心を定めたのであります。
 かれはある日、先生にむかって自分の考えを述べました。すると、先生は、
「いなかの女のいうことなどあてになるものか」といって相手になってくれませんでした。
 そこでかれはその地方で開業している他の医師に自分の考えをうちあけました。すると、その医師は、
「きみ、牛と人間とを同日に談じてはいかぬよ」と、あざけるようにいいました。
 その後、だれに告げても、みんなこのように、本気になって相談にのってくれませんので、ジェンナーはもう、だれにも話さぬことに決心しました。
 かれこれするうち、ジェンナーは二十一歳(さい)の春を迎(むか)えました。いなかでは思う存分(ぞんぶん)の修行ができぬので、かれはロンドンへでて、当時外科医として、第一人者に数えられていたジョン・ハンター博士(はかせ)のもとに弟子入りをしました。このハンター博士は気の短い人ではあるが、非常にすぐれた学者で、当時四十二歳(さい)でありましたが、ジェンナーの温順な性質がすっかり気にいって、弟子(でし)というよりもむしろ友達(ともだち)あつかいにしてかわいがりました。
 ハンター先生の教えを受けるにしたがって、ジェンナーは先生が尋常(じんじょう)の医学者でないことを知り、先生ならば、自分が年来いだいている考えに賛成してくださるにちがいないと思ったので、ある日、ジェンナーは、
「実は先生、これまで、だれに話しても、せせらわらって相手にしてくれませんが、先生ならばきっと、私(わたくし)の考えにご同意くださるだろうと思います。私の地方では牛の疱瘡(ほうそう)にかかったものは天然痘(てんねんとう)にかからぬといういいつたえがございます。その後、私は注意して、乳(ちち)をしぼる人たちにききましたが、どうやらそれは本当のようであります。そこで私は、牛の疱瘡を人工的に人間にうえたならば、おそろしい天然痘を予防して、人類を救うことができると思いますが、先生はこの私の考えを、どうお思いになりますか」と、返答いかにと、おそるおそるつげました。すると、
「おお、そうか?」と、ハンターは、言下に答えました。「それは本当か、そういう事実があるのか。それは実にすばらしいことを考えたね。大いに研究するのだね。考えまよっては何事もらちがあかぬから、機会があったら、実際にやってみることだね。だが、人間の生命にかかわることだから疎漏(そろう)のないようにやりたまえよ。何事も辛抱(しんぼう)が肝腎(かんじん)だ。根気よく目的にむかって進みたまえ」
 これをきいたジェンナーは、目に涙(なみだ)をためて喜びました。ハンター先生のこの一言は、どんなにかジェンナーをはげましたことでしょう。世に「知己(ちき)」という言葉がありますが、ハンターこそはジェンナーのよき知己であったといわねばなりません。
 その後ハンター先生はジェンナーのこの考えを他人にも吹聴(ふいちょう)してきかせました。そうして、おりあるごとに、ジェンナーに向かって、
「まよわないでやってみたまえ、辛抱(しんぼう)して疎漏(そろう)のないように」と、例の激励(げきれい)の言葉をくりかえしました。
 かくて三ヵ年、ジェンナーはハンターの薫陶(くんとう)を受け、いよいよ郷里(きょうり)へ帰って開業することになりましたが、わかれるときにも、ハンター先生は、例の激励(げきれい)の言葉をあたえました。

 さてジェンナーは郷里へ帰るなり、すぐに材料を集めにかかろうとしましたが、いざ開業してみると、ロンドン帰りのお医者様だというので、患者(かんじゃ)が門前に殺到(さっとう)し、寸暇(すんか)もない有様(ありさま)となってしまいました。かれは患者に対して、非常に親切でして、重病患者などは、その家に寝(ね)とまりして診療(しんりょう)に従事(じゅうじ)するという風でしたから、またたくまに四、五年の月日を送ってしまいました。けれども、そのせわしいあいだにも、種痘(しゅとう)のことは決してわすれず、また博物学の研究をもおこたりませんでした。かの、ほととぎすが、他の鳥の巣(す)に卵(たまご)を生んで、その鳥にひなを育てさせるということを観察して、学界に報告したのは、ロンドンから帰ってまもないことでした。それほど、ジェンナーは自然を観察する非凡(ひぼん)な力をもっていました。それであればこそ、搾乳婦(さくにゅうふ)の言葉をきいて、ただちに種痘法(しゅとうほう)に思いついたのです。ニュートンが[#「ニュートンが」は底本では「ニユートンが」]りんごの落ちるのを見て、これはりんごが落ちるのではなく、地球がひっぱるのだろうと考えて、万有引力の法則を発見したように、偉人(いじん)というものは、なんでもない現象から、おどろく事実を発見するものであります。ですから、おたがいに、この観察力を養成することが、なによりも必要なことであります。
 さて、ジェンナーは、いつまでもぐずぐずしていては、恩師ハンター先生に対してももうしわけないと思い、二十九歳(さい)のときいよいよ種痘(しゅとう)の研究にとりかかりました。研究にとりかかるといっても動物実験などをするのではありません。まず牛痘(ぎゅうとう)にかかった人をたずねだして、その人がはたして、天然痘(てんねんとう)の流行時に、罹病(りびょう)をまぬかれたかどうかを正確にとりしらべるよりほかはないのでした。
 だんだんとりしらべるにつれ、いよいよ年来の考えをたしかめるだけでありました。もうこのうえは、実際に人間に牛痘をうえて、実験してみるよりほかはないと思いましたが、さてそれは容易のことではありません。人間一人(ひとり)の生命にかかることですから粗忽(そこつ)にはできません。かような実験は小児(しょうに)でなくてはできませんが、さて自分には子供がなし、むやみに他人の子をかりてくることもできません。
 それに、その地方のお医者さんたちは、あいかわらずジェンナーの考えをあざわらっておりましたので、うっかり、他人の子に実験しようものなら、どんなおそろしい非難(ひなん)を受けるかもしれません。
 とかくするうちに十年の歳月(さいげつ)がすぎました。みなさん十年といえば実にながい年月です。そのあいだのジェンナーの気持ちを考えてみてください。自分の信念はいよいよたしかになるが、いざ実験するとなると大きな困難(こんなん)に面しなければならぬとは、なんというじれったいことでしょう。が、時節はきました。その年、すなわち、三十九歳(さい)のとき、ジェンナーは、あるやさしい婦人と結婚(けっこん)したのであります。
 翌年(よくねん)の春、ジェンナー夫婦(ふうふ)は男の子をもうけ、エドワードと命名しました。そのときジェンナーはこの子が一定の年齢(ねんれい)に達したら、実験を試みようと決心しました。そうして、その子が一年六ヵ月になったとき、ジェンナーは、ぶたの疱瘡(ほうそう)のうみを、その腕にうえたのであります。
挿絵
 なぜ、かれがぶたの疱瘡(ほうそう)をうえたかと申しますと、かれは人間の疱瘡も、牛の疱瘡も、ぶたの疱瘡も、病原はにかよったものだと考えたからであります。おそらく、そのとき、牛の疱瘡のうみを得ることができなかったのでしょう。そうして一日も早く自分の信念をたしかめたかったのでしょう。わが子の生命に関する重大な実験をもあえてしたかれの悲壮(ひそう)な気持ちは察するにあまりあります。まかりまちがえば最愛のわが子を殺すことになります。それにもかかわらずわが子で実験しようとしたのは、かれの信念が岩のごとくかたかったことがわかります。一日も早く人類が救いたいという心は、ついにわが子の実験となったのであります。
 エドワードにぶたの疱瘡(ほうそう)のうみをうえると八日目にできものが生じました。そこでかれは天然痘(てんねんとう)のうみをうえましたが、エドワードは天然痘にかかりませんでした。
 その二年の後、ジェンナーはエドワードにまたまた人間の疱瘡(ほうそう)のうみをうえました。すると十日間にふくれあがってきましたからジェンナーは大いにおどろきましたが、幸いに拡(ひろ)がらずにすみました。それからその翌年(よくねん)、いま一度人間の疱瘡(ほうそう)をうえました。が、少し水ぶくれのようなものができただけで、エドワードは天然痘にはかかりませんでした。
 これによって、ジェンナーはとにもかくにも自分の信念をたしかめましたが、もとよりまだ十分とはいえません。牛痘(ぎゅうとう)にかかった人のうみを他の人間にうつして実験しなければ、確実に自分の考えを証拠立(しょうこだ)てたとはいえませんから、なんとかしてその実験をする機会はないかと、辛抱(しんぼう)に辛抱をかさねて待ちました。その間、医師たちの反対意見などが発表されて、ジェンナーは少なからず、気をもみましたが、かれの信念はますます堅くなるだけでありました。
 ついに時節は到来(とうらい)しました。かれが四十七歳(さい)のときすなわち西暦(せいれき)一七九六年のことです、数えてみれば研究にとりかかって二十年近くの歳月(さいげつ)を経ましたが、その年の春ごろから天然痘(てんねんとう)が流行しましたので、いよいよ最後の実験にとりかかろうと決心し、最初にだれにうえるべきか、適当な小児(しょうに)を物色しました。わが子のエドワードはもはや実験には役にたちませんので、付近の少年のうちからさがしだそうとすると、幸いにもジェームス・フィップスという八歳(さい)の少年を得たのであります。ちょうどそのとき、サラ・ネルムスという搾乳婦(さくにゅうふ)が、牛痘(ぎゅうとう)に感染(かんせん)しておりましたので、その女のうみをジェームス少年にうえることにしました。
 五月十四日! この日は人類の永遠に記念すべきとうとい日です。この日にジェンナーは実験をこころみることにしました。その日ジェンナーは朝早く起きて、神様に祈(いの)りました。牧師の家に生まれましたから、小さい時分から祈りにはなれておりましたが、その朝ほど心の奥底(おくそこ)から祈ったことはいままでにありませんでした。最初考えたときから約三十年、とちゅうでわが最愛の子に実験して、いよいよ確信を得(え)たというものの、もしまちがえば他人(ひと)さまの子を犠牲(ぎせい)にしなければなりませんから、そのときのジェンナーの祈りこそは純粋(じゅんすい)なものであったにちがいありません。
 高まる心臓(しんぞう)の鼓動(こどう)をおさえつけながら、ジェンナーはついに、搾乳婦(さくにゅうふ)から取ってきたうみを、ジェームス少年にうえたのであります。
 少年はあくる日からかゆみをおぼえ、二、三日の後その部が化膿(かのう)しました。そうして日を経るにしたがってかわいてゆきました。これは勿論(もちろん)ジェンナーの予期したとおりでしたが、さてこれからが大問題です。すなわちこの少年に天然痘患者(てんねんとうかんじゃ)のうみをうえても、もはや天然痘にはかからぬことをたしかめねばなりません。
 とかくするうち、少年の腕(うで)のできものはすっかりかわきましたが、ジェンナーは、おいそれと第二の実験にはかかり得ませんでした。が、ぐずぐずしていてはならぬので、ついに七月一日に天然痘患者のうみを取ってうえたのであります。
 その当座(とうざ)のジェンナーの心配はみなさんに察することができましょう。いまにもジェームスがおそろしい熱をだしはしないかと気が気でありませんでしたが、二日をすぎ三日をすぎ、一週間を経てもなんともなく、ついにジェームスは天然痘(てんねんとう)にかからなかったのであります。
 読者諸君(どくしゃしょくん)! かくてジェンナーの考えは完全に証明(しょうめい)されたのであります。そのときのジェンナーの喜びはどんなだったでしょう。ここに、人類が永遠に救われる基礎(きそ)ができたのであります。かれの郷里(きょうり)では、いま年々五月十四日に種痘祭がおこなわれるのであります。

 この実験に力を得て、その後二年間に二十三回同じような実験をくりかえし、いよいよ牛痘(ぎゅうとう)をうえれば、天然痘にかからぬということがわかったので、これを書物に書いて学界に報告したのであります。その中には次男のロバートにほどこした実験も書かれてありました。
 ところがこの報告を読んだ人たちは、感心すると思いのほか、かえってあざわらいました。「牛痘をうえるのは人間を牛あつかいにすることだ、けしからぬ」「牛痘をうえると、その子は牛のような顔になって、モーモーとなく」というようなことをいいふらすものもありました。そうしてわざわざ手紙を送って、ジェンナーにくってかかる者もありました。
 けれどもジェンナーは、じっと辛抱(しんぼう)して、なおも実験をかさね、そのうちには、世人がみとめてくれるであろうと確信しました。ただかれのかなしかったことは、かれを激励(げきれい)してくれた恩師ハンターがその五年前に死んだことです。恩師が生きておられたらまっ先に賛成してくださったろうにとさびしい思いをしたのであります。
 けれども、正しいものはついに勝ちます。かれの種痘法(しゅとうほう)は、欧州諸国(おうしゅうしょこく)およびアメリカで採用(さいよう)されて、その説の正しいことがたしかめられました。さあ、そうなると、本国では、じっとしてはおられません。議会は、一八〇二年と[#「一八〇二年と」は底本では「一六〇二年と」]一八〇七年の二回に、約二十万円の金を提供(ていきょう)して、ジェンナーに実験費としてあたえることになりました。そうして一八二三年かれが死ぬまでには、かれの説は不朽(ふきゅう)のものとしてみとめられ、かれは大満足のうちに、瞑目(めいもく)したのであります。
 種痘法が日本へ輸入されたのは一八四九年すなわち嘉永(かえい)二年のことでありまして、それ以後日本国民もジェンナーの恩恵(おんけい)に浴することになったのであります。げに偉大(いだい)なるものは人の力ではありませんか。
(昭和三年五月号)
了

底本:「少年倶楽部名作選3 少年詩・童謡ほか」講談社
   1966(昭和41)年12月17日発行
底本の親本:「少年倶楽部」講談社
   1928(昭和3)年5月号
初出:「少年倶楽部」講談社
   1928(昭和3)年5月号
※渡部審也(1875(明治8)年〜1950(昭和25)年)の挿絵を同梱しました。
入力:sogo
校正:noriko saito
2017年3月11日作成
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