あらすじ
「パノラマ島綺譚」は、一介の貧乏書生である人見廣介が、莫大な財産を持つ同級生・菰田源三郎の死をきっかけに、驚くべき計画を企てる物語です。菰田と瓜二つだった廣介は、自身の存在を消し、菰田として生き続けることを決意します。その目的は、菰田の遺産を手に入れ、かねてからの壮大な夢、理想郷の建設を実現させるためです。廣介は、巧みな変装術で身元を隠しながら、菰田の遺体と入れ替わるため、菰田の墓地へと向かいます。そこで彼は、菰田の遺体と対面し、その恐ろしさと現実味を帯びた計画の実行に恐怖を感じながらも、冷酷なまでに計画を進めていきます。
謎めいた「パノラマ島」の秘密、そして廣介の壮絶な計画の顛末は、ぜひ作品を読んで確かめてみてください。
沖の島の属する郡には、政府の鉄道は勿論私設の軽便鉄道や、当時は乗合自動車さえ通っていず、殊に島に面した海岸は、百戸に充たぬ貧弱な漁村がチラホラ点在しているばかりで、その間々には人も通わぬ断崖がそそり立っていて、謂わば文明から切り離された、まるで辺鄙な所だものですから、その様な風変りな大作業が始っても、その噂は村から村へと伝わる丈けで、遠くに行くに従って、いつしかお伽噺の様なものになって了い、仮令附近の都会などに、それが聞えても、高々地方新聞の三面を賑わす程のことで済んで了いましたが、若しこれが都近くに起った出来事だったら、どうして、大変なセンセーションを捲き起したに相違ありません。それ程、その作業は変てこなものだったのです。
流石に附近の漁師達は怪しまないではいられませんでした。何の必要があって、どの様な目的があって、あの人も通わぬ離れ小島に、費用を惜まず、土を掘り、樹木を植え、塀を築き、家を建てるのであろう。まさか菰田家の人達が、物好きにあの不便な小島へ住もうという訳ではなかろうし、そうかと云って、あんな所へ遊園地を拵えるというのも変なものだ。若しかしたら、菰田家の当主は気でも狂ったのではあるまいか、などと噂し合ったことでした。というのには、又訳のあることで、当時の菰田家の主というのは、癲癇の持病を持っていて、それが嵩じて、少し前に一度死を伝えられ、附近の評判になった程の立派な葬式さえ営んだのですが、それが、不思議にも生き返って、併し生き返ってからというものは、ガラリ性質が変って、時々非常識な、狂気じみた行動があるとの噂が、その辺の漁師達にまで伝わっていて、さてこそ、今度の工作も、やっぱりそのせいではないかと、疑いを抱くことになったのです。
それは兎も角、人々の疑惑の内に、といって都に響く程の大評判にもならず、このえたいの知れぬ事業は、菰田家の当主の直接の指図の下に、着々と進捗して行きました。三月四月とたつに従って、島全体を取囲んで、丁度万里の長城の様な異様な土塀が出来、内部には、池あり、河あり、丘あり、谷あり、そして、その中央に巨大な鉄筋コンクリートの不思議な建物まで出来上りました。その光景がどの様に奇怪千万な、そして又世にも壮麗なものであったかは、ずっと後になって御話する機会があろうと思いますから、ここには省きますが、それが若し完全に出来上って了ったなら、どんなにすばらしいものだったでありましょう。心ある人が見たならば、現にある、半ば荒廃した沖の島の景色から、十分それが推察出来るに相違ありません。ところが、不幸にも、この大事業は、やっと完成するかしないに、思わぬ出来事の為に、頓挫を来したのです。
それが、どういう理由であったかは、ほんの一部の人にしか、ハッキリは分って居りません。なぜか、事が秘密の中に運ばれたのです。その事業の目的も性質も、それが頓挫を来たした理由も、一切曖昧の内に葬られて了ったのです。ただ外部に分っていることは、事業の頓挫と相前後して菰田家の当主とその夫人とが、この世を去り、不幸にも彼等の間に子種がなかった為、今は親族のものがその跡目を相続しているということ丈けでした。その彼等の死因についても、色々の噂がないではありませんでしたが、単に噂に止って、いずれも掴み所のない、随ってそれが其筋の注意を惹くという程のものではなかったのです。島はその後も、やっぱり菰田家の所有地に相違ないのですが、事業は荒廃したまま、訪ねる人もなく、放擲され、人工の森や林や花園は、殆ど元の姿を失って、雑草のはびこるに任せ、鉄筋コンクリートの奇怪な大円柱達も、風雨に曝されて、いつしか原形を止めなくなって了いました。そこに運ばれた樹木石材等は、非常な費用をかけたものではありましたが、さて、それを都に運んで売却するには、却って運賃倒れになるという様な点から、荒廃はしながらも、一木一石元の場所を換えた訳ではありません。随って、今でも、若し諸君が旅行の不便を忍んで、M県の南端を訪れ、荒海を乗り切って沖の島に上陸なさるならば、そこに、世にも不可思議なる人工風景の跡を見出すことが出来るに相違ありません。それは一見、非常に宏大な庭園に過ぎないのですが、ある人はそこから、何物か、途方もないある種の計画、若しくは芸術という様なものを感じないではいられぬでありましょう。それと同時に、その人は又、その辺一体に漲る、怨念というか、鬼気というか、兎も角も一種の戦慄に襲われないではいられぬでありましょう。
そこには実に、殆ど信ずべからざる、一場の物語があるのです。その一部は菰田家に接近する人々には公然の秘密となっている所の、そしてその肝要な他の部分は、たった二三人の人物にしか知られていない所の、世にも不思議な物語があるのです。若し諸君が、私の記述を信じて下さるならば、そして、この荒唐無稽とも見える物語を最後まで聞いて下さるならば、では、これからその秘密譚というのを始めることに致しましょうか。
お話は、M県とはずっと離れた、この東京から始まるのです。東京の山の手のある学生街に、お定りの殺風景な、友愛館という下宿屋があって、そこの最も殺風景な一室に、人見廣介という書生ともごろつきともつかぬ、その癖年輩は三十を余程過ぎていそうな、不思議な男が住んで居りました。彼は沖の島の大土工が始まる五六年前にある私立大学を卒業し、それからずっと別に職を求めるでもなく、といってこれという確な収入の道があるでもなく、謂わば下宿屋泣かせ、友達泣かせの生活を続けて、最後にこの友愛館に流れつき、彼の大土工が始まる一年前位まで、そこで暮していたのです。
彼は自分では哲学科出身と称しているのですが、といって、哲学の講義を聞いた訳ではなく、ある時は文学に凝って、夢中になり、その方の書物を猟っているかと思うと、ある時は飛んでもない方角違いの建築科の教室などに出掛けて行って、熱心に聴講して見たり、そうかと思うと、社会学経済学などに頭を突込んで見たり、今度は油絵の道具を買込んで、絵描きの真似事をして見たり、馬鹿に気が多い癖に妙に飽き性で、これといって本当に修得した科目もなく、無事に学校を卒業出来たのが不思議な位なのです。で、若し彼が何か学んだ所があるとすれば、それは決して学問の正道ではなくて、謂わば邪道の奇妙に一方に偏したものであったに相違ありません。それ故にこそ、学校を出て五六年もたっても、まだ就職も出来ないでまごまごしている訳なのです。
尤も人見廣介自身が、何かの職について、世間並な生活を営もうなんて、神妙な考は持っていなかったのです。実をいうと、彼はこの世を経験しない先から、この世に飽き果てていたのです。一つは生来の病弱からでもありましょう。それとも青年期以来の神経衰弱のせいであったかも知れません。何をする気にもなれないのです。人生の事が凡て、ただ頭の中で想像した丈けでもう十分なのです。何もかも「大したことはない」のです。そこで、彼は年中汚い下宿の一室に寝転んだまま、それで、どんな実際家も嘗て経験したことのない、彼自身の夢を見つづけて来ました。つまり、一口に云えば、彼は極端な夢想家に外ならぬのでありました。
では、彼はそうして、あらゆる世上のことを放擲して、一体何を夢見ていたかと云いますと、それは、彼自身の理想郷、無可有郷のこまごました設計についてでありました。彼は学校にいる時分から、プラトー以来の数十種の理想国物語、無可有郷物語を、世にも熱心に耽読しました。そして、それらの書物の著者達が、実現すべくもない彼等の夢想を、文字に託して世に問うことによって、せめてもの心やりとしていた、その気持を想像しては、一種の共鳴を感じ、それを以て、彼自身も僅かに慰められることが出来たのでした。それらの著書の中でも、政治上、経済上などの理想郷については、彼は殆ど無関心でありました。彼の心をとらえたのは、地上の楽園としての、美の国夢の国としての、理想郷でありました。それ故、カベーの「イカリヤ物語」よりはモリスの「無可有郷だより」が、モリスよりは更にエドガア・ポオの「アルンハイムの地所」の方が、一層彼を惹きつけるのでした。
彼の唯一の夢想は、音楽家が楽器によって、画家がカンヴァスと絵具によって、詩人が文字によって、様々の芸術を創造すると同じ様に、この大自然の、山川草木を材料として、一つの石、一つの木、一つの花、或は又そこに飛びかう所の鳥、けもの、虫けらの類に至るまで、皆生命を持っている、一時間毎に、一秒毎に、生育しつつある、それらの生き物を材料として、途方もなく大きな一つの芸術を創作することでありました。神によって作られたこの大自然を、それには満足しないで、彼自身の個性を以て、自由自在に変改し、美化し、そこに彼独得の芸術的大理想を表現することでありました。つまり、言葉を換えて云えば、彼自身神となってこの自然を作り換えることでありました。
彼の考えによれば、芸術というものは、見方によっては、自然に対する人間の反抗、あるがままに満足せず、それに人間各個の個性を附与したいという欲求の表れに外ならぬのでありました。それ故に、例えば、音楽家は、あるがままの風の声、波の音、鳥獣の鳴声などにあき足らずして、彼等自身の音を創造しようと努力し、画家の仕事はモデルを単にあるがままに描き出すのではなくて、それを彼等自身の個性によって変改し美化することにあり、詩人は云うまでもなく、単なる事実の報道者、記録者ではないのであります。併し、これらの所謂芸術家達は、何故なれば楽器とか絵具とか文字とかいう、間接的な非効果的な七面倒な手段により、それ丈けで満足しているのでありましょう。どうして彼等はこの大自然そのものに着眼しないのですか。そして、直接大自然そのものを楽器とし、絵具とし、文字として駆使しないのでありましょう。それがまるで不可能な事柄でない証拠には、造園術と建築術とが、現にある程度まで自然そのものを駆使し、変改し、美化しつつあるではありませんか。それをもう一層芸術的に、もう一層大がかりに、実行することは出来ないのでありましょうか。人見廣介は斯く疑うのでありました。
随って彼は、先に挙げた様な数々のユートピヤ物語よりは、それらの架空的な文字の遊戯よりは、もっと実際的な、その内のあるものはある程度まで彼と同じ理想を実現したかに見える、古来の帝王達の――主として暴君達の――華々しい業蹟に、幾層倍も惹きつけられるのでありました。例えばエジプトのピラミット[#「ピラミット」はママ]、スフィンクス、ギリシャ、ローマの城郭的な或は宗教的な大都市、支那では万里の長城、阿房宮、日本では飛鳥朝以来の仏教的大建築物、金閣寺銀閣寺、単にそれらの建設物ではなくて、それを創造した英雄達のユートピヤ的な心事を想像する時、人見廣介の胸は躍るのでありました。
「若し我に巨万の富を与えるならば」
これはあるユートピヤ作者の使用した著書の表題でありますが、人見廣介も又、常に同じ歎声を洩すのでした。
「若し俺が使い切れぬ程の大金を手に入れることが出来たらばなあ。先ず広大な地所を買入れて、それはどこにすればいいだろう。数百数千の人を役して、日頃俺の考えている地上の楽園、美の国、夢の国を作り出して見せるのだがなあ」
それにはああして、こうしてと、空想し出すと際限なく、いつも頭の中で、完全に彼の理想郷を拵えて了わないでは気が済まぬのでした。
併し気がつけば、夢中で拵えていたものは、ただ白昼の夢、空中の楼閣に過ぎなくて、現実の彼は、見るも哀れな、その日のパンにも困っている、一介の貧乏書生でしかないのです。そして、彼の腕前では、仮令一生を棒に振って、力限り根限り、働き通して見た所で、たった数万円の金さえ、蓄積することは出来相もないのでありました。
所詮彼は「夢見る男」でありました。一生涯、そうして、夢の中では有頂天の美に酔いながら、現実の世界では、何というみじめな対照でありましょう。汚い下宿の四畳半に転って、味気ない其日其日を送って行かねばならないのです。
そうした男は、多く芸術にはしって、そこにせめてもの安息所を見出すものですが、何の因果か、彼には仮令芸術的傾向があったとしても、最も現実的な、今云う彼の夢想の外には、恐らくどの芸術も、彼の興味を惹く力はなく、又その才能にめぐまれてもいなかったのでした。
彼の夢が若し実現出来るものとしたならば、それは実に、世に比類なき大事業、大芸術に相違ないのです。それ故、一度この夢想境を彷徨った彼に取っては、世の中の如何なる事業も、如何なる娯楽も、さては如何なる芸術さえもが、まるで価値のない、取るに足らぬものに見えたのは、誠に無理もないことでした。
併し、そうして凡ての事柄に興味を失った彼とても、食う為には、やっぱり多少の仕事をしない訳には行きません。それには、彼は学校を出て以来、安飜訳の下請だとか、お伽噺だとか、まれには大人の小説だとかを書いて、それを方々の雑誌社に持込んでは、からくも其日のたつきを立てているのでした。最初の内は、それでも芸術というものに多少の興味もあり、丁度古来のユートピヤ作者達がした様にお話の形で彼の夢想を発表することにも少なからぬ慰めを見出すことが出来ましたので、いくらか熱心にそうした仕事を続けていたのですが、ところが、彼の書くものは、飜訳は別として、創作の方は妙に雑誌社の気受けが悪いのでした。それというのが彼のは、彼自身の例の無可有郷を、色々な形式で、微に入り細を穿ち描写するに過ぎない、謂わば一人よがりの退屈極まる代物だったものですから、それは無理もないことと云わねばなりません。
そんな訳で、折角気を入れて書き上げた創作などが、雑誌編輯者に握りつぶされたことも一二度ではなく、そこへ持って来て、彼の性質が、ただ文字の遊戯などで満足するには、余りに貪婪であったものですから、小説の方では一向うだつが上らないのです。といって、それをも止めて了っては、早速其日の暮しにも困るので、厭々ながら、いつまでも下積み三文文士の生活を続けて行く外はないのでした。
彼は一枚五十銭の原稿を書きながら、そして、それの暇々には、彼の夢想郷の見取図だとか、そこへ建てる建築物の設計図だとかを、何枚となく書いては破り、書いては破りしながら、彼等の夢想を思うままに実現することの出来た、古来の帝王達の事蹟を、限りなき羨望を以て、心に思い描くのでした。
さて御話というのは、人見廣介がその様な状態で生き甲斐のない其日其日を送っている所へ、ある日のこと、それは先に云った例の離れ島の大土工が始まる一年ばかり前に当るのですが、実にすばらしい幸運が舞い込んで来たことから始まるのです。それは一口に幸運などという言葉では云い尽せない程、奇怪至極な、寧ろ恐るべき、それでいてお伽噺にも似た蠱惑を伴う所の、ある事柄でありました。彼はその吉報(?)に接して、やがてある事に思い当ると、恐らく何人も嘗て経験したことのない不思議な歓喜を味い、そしてその次の刹那には、彼自身の考えの余りの恐しさに、歯の根も合わぬ程の戦慄を覚えたのであります。
その報知を齎した者は、大学時代彼の同級生であった、一人の新聞記者でありましたが、ある日、その男が、久し振りで廣介の下宿を訪れ、何かの話の序に、無論彼としては何の気もつかず、ふとその事柄を言い出したのでした。
「時に、君はまだ知るまいが、つい二三日前に君の兄貴が死んだのだよ」
「なんだって?」
その時人見廣介は、相手の異様な言葉に、ついこんな風に反問しないではいられませんでした。
「ホラ、君はもう忘れたのかい。例の有名な君の片割だよ、双生児の片割だよ。菰田源三郎さ」
「アア、菰田か。あの大金持の菰田がかい。そいつは驚いたな。全体何の病気で死んだのだい」
「通信員から原稿を送って来たのだよ。それによると、先生持病の癲癇でやられたらしい。発作が起ったまま回復しなかったのだね。まだ四十の声も聞かないで、可哀相なことをしたよ」
そのあとにつけ加えて、新聞記者はこんなことを云いました。
「それにしても、僕は今更ら感心したね。なんてよく似ているのだろう。君とあの男がさ。原稿と一緒に菰田の最近の写真を入れて来たのだが、それを見ると、あれから五六年たつけれど、君達は、寧ろ学生時代以上に似て来たね。あの写真の口髭の所へ指を当てて、そこへ、君のその眼鏡をかけさせればまるでそっくりなんだからね」
この会話によって、読者諸君が已に想像された通り、貧乏書生の人見廣介と、M県随一の富豪菰田源三郎とは、大学時代の同級生で、しかも、不思議なことには、外の学生達から双生児という渾名をつけられていた程、顔形から脊恰好、声音に至るまで、まるで瓜二つだったのです。同級生達は彼等の年齢の相違から、菰田源三郎を双生児の兄と呼び、人見廣介を弟と呼んで、何かにつけて二人をからかおうとしました。からかわれながら、彼等は、お互に、その渾名が決して偽りではないことを、自から認めない訳には行かなかったのです。こうしたことは、間々ある習いとは云いながら、彼等の様に、双生児でもないのに、双生児と間違う程も似ているというのは、一寸珍らしい事でした。殊にそれが、後になって、世にも驚くべき怪事件を生むに至った事実を思えば、因縁の恐しさに、身震いを禁じ得ないのです。
彼等が双方とも、余り教室へ顔を見せない方だったのと、人見廣介が軽度の近眼で、始終眼鏡を用いていたのとで、二人顔を合せる機会が少く、顔を合せた所で一方は眼鏡がある為、遠方からでも十分区別することが出来たものですから、さしたる珍談も起らないで済みましたが、それでも、長い学生生活中には、笑い話の種になる様な事柄が一二度ならずありました。それ程彼等はよく似ていたのです。
その所謂双生児の片割が死んだというのですから、人見廣介に取っては、外の同窓の訃報に接したよりは、いくらか驚きが強かった訳ですが、でも、彼は当時から、まるで自分の影の様な菰田に対して、彼等が余りに似過ぎている為に却って嫌悪の情を抱いていた位で、無論悲しみを感ずるという程ではありませんでした。とは云え、この出来事には何とも知れず人見廣介をうつものがあったのです。それは悲しみというよりは驚き、驚きというよりは、何かこう、妙に不気味な、えたいの知れぬ予感の様なものでありました。
併しそれが何であるか、相手の新聞記者がそれから又長い間世間話を続けて、さて帰って了うまで、彼は一向気づかないでいたのですが、一人になってから、妙に頭に残っている菰田の死について、色々と考えている内に、やがてある途方もない空想が、夕立雲の拡がる時の様な、早さ、不気味さで、彼の頭の中にムラムラと湧き起って来たのです。彼は真青になって歯を喰いしばって、はてはガタガタ震えながら、いつまでもじっと一つ所に坐ったまま、その段々ハッキリと正体を現わして来る考を見つめて居りました。ある時は、余りの怖さに、次々と湧き上る妙計を、押え止めようと努力したのですが、どうして止まるどころか、押えれば押える程、却って百色眼鏡の鮮かさを以て、その悪計の一つ一つの場面までが、幻想されて来るのでした。
彼がその様な、謂わば未曾有の悪企みを考えつくに至った一つの重大な動機は、M県の菰田の地方では、一般に火葬というものがなく、殊に菰田家の様な上流階級では、猶更らそれを忌んで、必ず土葬を営むに極っているという点に在りました。その事は在学時代菰田自身の口からも聞いて、よく知っていたのです。それともう一つは、菰田の死因が癲癇の発作からであったことでした。これが又、彼のある記憶を呼び起さないではいなかったのです。
人見廣介は、幸か不幸か、以前ハルトマン、ブーシュ、ケンプナーなどいう人々の、死に関する書物を耽読したことがあって、殊に仮死の埋葬については、可成の知識を持っていたものですから、癲癇による死というものが、如何に不確で、生埋めの危険を伴うものだかを、よく心得ていたのです。多くの読者諸君は、多分ポオの「早過ぎた埋葬」という短篇をお読みになったことがおありでしょう。そして、仮死の埋葬の恐しさを十分御承知でありましょう。
「生きながら葬られるということは、嘗て人類の運命に落ち来った、これらの極端な不幸(バーソロミュウの大虐殺其他の歴史上の戦慄すべき事件)の内で、疑なく最も恐しきものである。そして、これが屡々、甚だ屡々、この世に起っていることは、少し物の分る人には否定出来ない所である。死と生とを分つ境界は、たかが漠とした影である。どこで生が終り、どこで死が始まるのだか、誰が定めることが出来よう。ある疾病にあっては、生命の外部的機関が悉く休止して了うことがある。しかもこの場合、こうした休止状態は、ただ中止に過ぎぬのである。不可解な機制の一時的停止に過ぎぬのである。だから暫くたてば、(それは数時間のこともあれば、数日のことも、或は数十日のこともあるのだ)目に見えぬ不思議な力が働いて、小歯車、大歯車が魔法の様に再び動き出す」
そして、癲癇がその様な疾病の一つであることは、色々の書物に示された実例によって、疑うべくもないのです。例えば、嘗てアメリカの「生埋め防止協会」の宣伝書に発表された仮死の起り易い数種の疾病の中にも、明かに癲癇の項目が含まれていたのを、なぜか彼はよく覚えていました。
彼は数知れぬ仮死の埋葬の実例を読んだ時、どんなに変てこな感じにうたれたことでしょう。その名状すべからざる一種の感じに対しては、恐怖とか戦慄とかいう言葉は、余りにありふれた、平凡至極なものに思われた程でありました。例えば、妊婦が早過ぎた埋葬に遇って、墓場の中で生き返り、生き返ったばかりか、その暗闇の中で分娩して、泣きわめく嬰児を抱いて悶え死んだ話などは、(恐らく彼女は、出ぬ乳を、血まみれの嬰児の口に含ませていたことでもありましょう)まるで焼きつけた様な印象となって、いつまでもいつまでも彼の記憶に残っていました。
併し、癲癇がやはりそうした危険を伴う病気だことを、彼はどうして、そんなにハッキリと覚えていたか、人見廣介自身では、少しも気づかなかったのですが、人間の心の恐しさには、彼はそれらの書物を読んだ時に、彼と生写しの、双生児の片割とまで云われていた菰田が、大金持の菰田が、やはり癲癇病みであることを、無意識の中に意識していなかったとは云えないのです。先に云う通り生れつきの夢想家である人見廣介が、クネクネと考え廻すたちの彼が、仮令ハッキリ意識しなかったとは云え、そこへ気のつかぬ筈はないのです。
若しそうだとすれば、数年以前彼の心の奥底に、私に播かれた種が、今菰田の死に遇って、始めてハッキリした形を現したとも考えられぬことはありません。が、それは兎も角、彼の世にも稀なる悪計は、そうして、彼が身体中からじりじりとにじみ出す冷汗を感じながら、その夜一夜、横にもならず坐り続けている内に、始めはまるでお伽噺か夢の様な考えであったのが、少しずつ、少しずつ、現実の色を帯び始め、遂には、手を下しさえすれば必ず成就する、極くあたり前の事柄にさえ思われて来るのでありました。
「馬鹿馬鹿しい。いくら俺とあいつとが似ているからといって、そんな途方もない……実際途方もないことだ。人間始って以来、こんな馬鹿らしい考えを起したものが、一人だってあるだろうか。よく探偵小説などで、双生児の一方が、他の一方に化けて一人二役を勤める話は読むけれど、それさえも、実際の世の中には先ず有り相もないことだ。まして、今俺の考えている悪企みなど、正に狂気の妄想じゃないか。つまらないことは考えず、お前はお前の分相応に、一生涯実現出来っこないユートピヤを夢にでも見ているがいいのだ」
幾度か、そんな風に考えては、余りに恐しい妄想を振い落そうと試みはしたのですが、併し、そのあとから、すぐに又、
「だが、考えて見れば、これ程造作のない、その上少しの危険も伴わぬ計画というものは、滅多にあるものではない。仮令如何程骨が折れようと、危険を冒そうと、万一成功したならば、あれ程お前が熱望していた、長の年月ただそれのみを夢見つづけていた、お前の夢想郷の資金を、まんまと手に入れることが出来るではないか、その時の楽しさ、嬉しさはまあどの様であろう。どうせ飽き果てたこの世の中だ。どうせうだつの上らない一生だ。よしんば、その為に命を落したところで、何の惜しいことがあるものか。ところが実際は、命を落すどころか、人一人殺すではなし、世の中を毒する様な悪事を働く訳ではなし、ただ、この俺というものの存在を、手際よく抹殺して、菰田源三郎の身替りを勤めさえすれば済むのだ。そして、何をするかと云えば、古来何人も試みたことのない、自然の改造、風景の創作、つまり途方もなく大きな一つの芸術品を造り出すのではないか、楽園を、地上の天国を創造するのではないか。俺として何処にやましい点があるのだ。それに又、菰田の遺族にしたところが、そうして、一度死んだと思った主人が活き返ってくれたなら、喜びこそすれ、何の恨みに思うものか、お前はそれをさも大悪事の様に思い込んでいるが、見るがいい、こうして一つ一つ結果を吟味して行けば、悪事どころか、寧ろ善事なのではないか」
そう筋道を立てて見ると、成程、条理整然としていて、実行上に少しの破綻もなければ、且は又、良心にとがめる点も殆どないと云っていいのでした。
この計画を実行するについて、何より都合のよかったのは、菰田源三郎の家族といっては、両親はとっくになくなって了い、たった一人、彼の若い細君がいる切りで、あとは数人の雇人ばかりなことでありました。尤も彼には一人の妹があって、東京のある貴族へ嫁入りしているのですし、国の方にも、そうした大家のことであって見れば、定めし沢山の親族がいることでしょうが、それらの人が亡き源三郎と瓜二つの人見廣介という男のあることを知っている筈もなく、どうかして噂位聞いていたところで、まさかこれ程似ていようとは想像しないでありましょうし、その上、その男が源三郎の替玉となって現れるなどとは、夢にも考える道理がありません。それに、彼は生れつき、不思議とお芝居のうまい男でもあったのです。たった一人恐しいのは、細い所まで源三郎の癖を知っているに相違ない、当人の細君ですが、これとても、用心さえしていれば、取り分け夫婦の語らいという様なことを、なるべく避けていたならば、恐らく気づくことはないでしょう。それに、一度死んだものが生き返って来たのですから、多少容貌なり性質なりが変っていた所で、異常な出来事の為にそんな風になったものと思えば、さ程不思議がることもない筈です。
こうして彼の考えは段々微細な点に入って行くのでしたが、それらのこまごました事情をあれこれと考え合わせるに従って、彼のこの大計画は、一歩一歩、現実性、可能性を増して来る様に見えました。残る所は、これこそ彼の計画に取っての最大難関に相違ないのですが、如何にして彼自身の身柄を抹殺するか、又如何にして菰田の蘇生をほんとうらしく仕組むか、それにつけては本物の菰田の死体を如何に処分するか、という点でありました。
この様な大悪事を(彼自身如何様に弁護しようとも)企む程の彼ですから、生れつき所謂奸智に長けていたのでもありましょう。そうしてクネクネと執念深く一つ事を考え続けている内に、それらの最も困難な点もなんなく解決することが出来ました。そして、これでよしと思ってから、彼は更にもう一度、微細な点に亙って、已に考えたことを、又改めて考え直し、愈々一点の隙もないと極まると、さて最後に、それを実行するか否かの、大決心を定めねばならぬ場合が、来たのでした。
身体中の血が頭に集った感じで、もうそうなると、却って今考えている計画が、どれ程恐しいことだかも忘れて了って、殆ど一昼夜というもの、考えに考え、練りに練った挙句、結局彼はそれを決行することに極めたのでした。後になって思い出すと、当時の心持は、まるで夢遊病みたいなもので、さて実行に取りかかっても、妙に空虚な感じで、それ程の大事が、何だか暢気な物見遊山にでも出掛ける様な、併し心のどこかの隅には、今こうしているのは実は夢であって、夢のあちら側にもう一つの本当の世界が待っているのだという意識が、蟠っている様な、異様な気持が続いていたのでした。
先に云った通り彼の計画は、二つの重要な部分に分れていました。その第一は彼自身を、即ち人見廣介という人間を、この世からなくして了うことですが、それに着手するに先だって、一度菰田の邸のあるT市に急行して、果して菰田が土葬にされたかどうか、その墓地へうまく忍び込むことが出来るかどうか、菰田の若い夫人はどの様な人物であるか、召使共の気質はどんな風か、それらの点を一応検べて置く必要がありました。その結果若し、この計画に破綻を来す様な危険が見えたならば、そこで、始めて実行を断念しても遅くはないのです、まだまだ取返しの余地はあるのでした。
併し、彼がこのままの姿でT市に現れることは、勿論差控えなければなりません。その姿が人見廣介と分っても、或は又、仮令菰田源三郎と見誤られても、孰れにしろ彼の計画に取っては致命傷でありました。そこで、彼は彼独得の変装を行って、この第一回のT市への旅を旅立つことにしたのでした。
彼の変装方法というのは、実に無造作なもので、これまでの眼鏡を捨てて、極く大型の、併し余り目立たぬ形の、色眼鏡をかけ、一方の目を中心に、眉から頬にかけて、大きく畳んだガーゼを当てて、口にはふくみ綿をして、これも目立たぬ口髭をつけ、頭を五分刈りにする。と、ただこれ丈けのことでしたが、併し、その効果は実に驚くべきもので、出発の途中、電車の中で友達に逢ってさえ、少しも感づかれなかった程でありました。人間の顔の中で最も目立つものは、最も各自の個性を発揮しているものは、その両眼に相違ありません。それが証拠には、掌で鼻から上を隠したのと、鼻から下を隠したのとでは、まるで効果が違うのです。前の場合には、若しかすると人違いを仕兼ねませんけれど、後の場合では、すぐその人と分って了うのです。そこで、彼は先ず両眼を隠す為に色眼鏡を用いました。ところが、色眼鏡というものは、殆んど完全に目の表情を隠して呉れる代りには、それをかけている人に、何となくうさん臭い感じを与えるものです。この感じを消す為に、彼はガーゼを一方の目に当て、眼病患者を装いました。こうすれば、同時に又、眉や頬の一部を隠すことも出来て、一挙両得でもあるのです。それに、頭髪の恰好を極度に換え、服装を工夫すれば、もう七分通りは変装の目的を達することが出来たのですが、彼は更に念には念を入れて、ふくみ綿によって頬から顎の線を変え、つけ髭によって口の特徴を隠すことにしました。その上歩きっぷりでも換えることが出来たなら九分九厘人見廣介はなくなって了うのです。彼は変装については、日頃から一つの意見を持っていて、鬘や顔料を使用するなどは、手数がかかるばかりでなく、却って人目を惹く欠点があり、迚も実用に適しないけれど、こうした簡単な方法を用いるならば、日本人だって、まんざら変装出来ないものでもないと、信じていたのでした。
彼はその翌日、下宿屋の帳場へは、思う仔細があって、一時宿を引払って旅に出る、行く先とては定まらぬ、謂わば放浪の旅だけれど、最初は伊豆半島の南の方へ志す積りだと告げ、小さな行李一つを携えて出発しました。そして、途中で、必要の品物を買い、人通りのない道ばたで、今云った変装を終ると、まっすぐに東京駅へかけつけ、行李は一時預けにして、T市の二つ三つ先の駅までの切符を買うと、彼は三等車の人ごみの中へともぐり込むのでありました。
T市に到着した彼は、それから足かけ二日、正しく云えば満一昼夜の間、彼の独得の方法によって、実に機敏に歩き廻り聞き廻って、結局目的を果すことが出来ました。その詳細は、あまり管々しくなりますから、茲には省くことに致しますが、兎も角、調査の結果は、彼の計画が決して不可能事でないことを明かにしたのでありました。
そうして、彼が再び東京駅へ立帰ったのは、例の新聞記者の話を聞いた日から三日目、菰田源三郎の葬儀が行われた日から六日目の夜、八時に近い時分でした。彼の考えでは遅くとも源三郎の死後十日以内には、彼を蘇生させる積りなのですから、余す所四日間、実に大多忙と云わねばなりません、彼は先ず一時預けの小行李を受取ってから、駅の便所に入って例の変装をとりはずし、元の人見廣介に戻ると、その足で霊岸島の汽船発着所へと急ぎました。伊豆通いの船の出船は午後九時、それに乗って兎も角も伊豆半島の南に向うのが彼の予定の行動なのです。
待合所へかけつけると、船ではもうガランガランと乗船合図のベルが鳴り響いていました。切符は二等、行先は下田港、行李をかついで、暗い桟橋を駈け、巖乗な板の歩みを渡って、ハッチを入るか入らぬに、ボーッと出帆の汽笛でした。
彼の目的に取って好都合だったことには、十畳敷き程の船尾の二等室には、たった二人の先客があったばかりで、しかもそれが二人共田舎者らしく、セルの着物にセルの羽織という出でたち、顔も巖乗らしく日に焼けて、その代りには頭の働きは一向鈍感相な中年の男達でありました。
人見廣介は黙って船室に入ると、先客達からずっと離れた、隅っこの方に席を取って、さて一寐入りという恰好で、備えつけの毛布の上に横わるのでした。併し勿論寐て了う訳ではなく、うしろ向きになったまま、じっと二人の男の様子をうかがっていたのです。ゴロゴロゴットン、ゴロゴロゴットンと、神経をうずかせる様な機関の響が、全身に伝わって来ます。鉄の格子で囲った、鈍い電燈の光が、横になった彼の影を、長々と毛布の上に投げています。うしろでは、男達は知合いと見えて、まだ坐ったまま、ボソボソと話し合っている、その声が機関の音とごっちゃになって、妙に睡気を誘う様な、けだるいリズムを作るのです。その上、海は静らしく、波の音も低く、動揺も殆んど感じられぬ程で、そうして、じっと横になっていますと、二三日来の興奮が、徐々に静まって行って、その空虚へ、名状し難い不安の念が、モヤモヤと湧き上って来るのでした。
「今ならまだ遅くない。早く断念するがいい。取り返しがつかなくなる前に、早く断念するがいい。お前は生真面目に、お前のその気違いめいた妄想を実行しようとしているのか。本当に冗談ではなかったのか。一体それでお前の精神状態は、健康なのか。若しやどこかに故障があるのではないか」
時間と共に彼の不安は増して行きました。併し、彼はこの大魅力をどうして捨て去ることが出来ましょう。不安がる心に対して、彼のもう一つの心が説服を始めるのです。どこに不安があるのだ。どこに手抜かりがあるのだ。これまで計画した仕事を、今更ら断念出来るものか。そして、彼の頭の中には、彼の目論見の一つ一つが、微細な点に亙って、次々と現れて来るのです。しかも、そのどの一つにも、少しの手落ちだって、あろう道理はないのでした。
ふと気がつくと、二人の客の話声がいつの間にかやんで、その代りに、調子の違った二通りの鼾の音が、部屋の向側から響いていました。寝返りを打って、細目を開いて見ますと、男達は健康らしく大の字になって、相好をくずして、よく寐入っているのです。
何者か、性急に彼の実行をせき立てるのが感じられました。機会が到来したという考えが、彼の雑念を立所に一掃して了いました。彼は何かに命ぜられる様に少しの躊躇もなく、枕頭の行李を開いて、その底から一枚の着物の[#「着物の」は底本では「着物を」]切れはしを取り出しました。それは妙な形に引き裂かれた、五六寸位の古びた木綿絣でした。それを掴むと、行李は元の通りに蓋をして、かれはソッと甲板に忍び出るのでした。
もう十一時を過ぎていました。宵の内は時々船室へも顔を見せたボーイや船員達も、それぞれ彼等の寝間に退いたのか、その辺には人影もありません。前方の一段高い上甲板には、定めし舵手が徹宵の見張りを続けているのでしょうが、今人見廣介の立っている所からはそれも見えません。舷によれば、しぶきを立てる大波のうねり、船尾に帯をのべる夜光虫の燐光、目を上ぐれば、眉を圧して迫る三浦半島の巨大なる黒影、明滅する漁村の燈火、そして、空にはほこりの様な無数の星屑が、船の進行につれて、鈍い回転を続けています。聞えるものは、鈍重な機関の響と、舷にくだける波の音ばかりです。
この分なれば、彼の計画は先ず発覚する心配はありません。幸い時は春の終り、海は眠った様に静です。航路の関係上、陸影は徐々に船の方へ近づいて来ます。後はもう、その陸と船とが最も接近する、予定の場所を待つ丈けなのです。(彼は度々この航路を通ったことがあって、それがどの辺だかをよく心得ていました)そして、たった数町の海上を、人目にかからぬ様に泳ぎ渡りさえすればよいのでした。
彼は先ず闇の中に、舷を探し廻って、欄干の外部に釘の出ている個所を見つけると、その釘へ、さい前の絣の切れを、風で飛ばぬ様にしっかりと引懸けて置いて、それから、帆布の影に隠れ、素肌にただ一枚着けていた、今の切れと同じ様な柄の古びた袷を脱ぐと、袂の中の財布と変装用具とを落さぬ様にくるみ、そいつを兵児帯でかたく背中へ結びつけました。
「さあこれでよし。少しの間冷い思いをすればいいのだ」
彼は帆布の影を這い出して、もう一度その辺を眺め廻し、大丈夫誰も見ていないことが分ると、巨大な守宮の恰好で、甲板上を舷へと這って行き、スルスルと欄干を乗り越えました。音を立てない様に何かにすがって飛び込むこと、スクリュウに捲き込まれない用心をすること、この二つの点は、彼がもう何度となく考えて置いたことでした。それには、船が水道を通る時、方向転換の為に速度をゆるめた際が最も好都合なのです。そして、その時が又、陸にも一番近いのです。で、彼は舷の何かの綱にすがって、いつでも飛び込める用意をしながら、その方向転換の好機を、今か今かと待ち構えました。
不思議なことには、この激情的な場合にも拘らず、彼の心はいとも冷静に静まり返っていました。尤も、進行中の船から海に飛び込んで、対岸に泳ぎつくことは、別段罪悪というではありませんし、それに距離も短く、泳ぎの方の自信もあり、大した危険のないことは分っていたのですけれど、といって、それがやっぱり彼の大陰謀の一つの予備行為であって見れば、彼の気質として不安を感じないでいられよう筈がないのでした。それにも拘らず、かくも冷静に、落ちつき払って行動することが出来たのは、何とも不思議と云わねばなりません。彼は後になって、計画に着手して以来、一日毎に大胆にふてぶてしくなって行った、彼自身の心持をふり返り、そのはげしい変化に、非常な驚きを味ったことですが、彼がそうして舷にとりすがった時の心持が、恐らくその手始めであったのかも知れません。
やがて、船は目的の個所に近づき、ガラガラという、舵器の鎖の音がして、方向を換え始め、同時に速度も鈍くなって来ました。
「今だ!」綱を離す時には、それでも、流石に心臓がドキンと躍り上りました。彼は手を離すと同時に、全身の力をこめて舷を蹴り身を平かにして、なるべく遠い所へ、丁度水に乗った形で、音の立たぬ様にすべり込む方法を執りました。
ゴボンという水音、ハッと身にしむ冷たさ、上下左右から迫って来る海水の力、もがいても、もがいても水の表面に浮び上らぬもどかしさ、その中で、彼は併し、滅多無上に水を掻き、水を蹴り、一寸でも一尺でも、スクリュウから遠ざかることを忘れませんでした。
どうしてあの舷の渦を泳ぎ切ることが出来たか、それから、仮令穏やかな海であったとは云え、しびれる様な冷水の中を、数町の間も、どうして耐えしのぶことが出来たか、後になって考えて見ても、彼にはその我ながら不思議な力をどうも理解出来ないのでした。
かくて、幸運にも計画の第一着手を、美事にやりおおせた彼は、疲れ切った身体を、どことも知れぬ漁村の暗闇の海辺に投げ出して、そこで夜の明けるのを待ち、まだ乾き切らぬ着物を着、変装を施して、村人達が起き出でぬ内に、横須賀と覚しき方向に向って歩き出すのでした。
昨夜まで人見廣介であった男は、それから一日、乗替駅の大船の安宿で暮して、その翌日の午後、丁度夜に入ってT市に着く汽車を選んで、やっぱり変装のまま、三等車の客となりました。諸君は已に御気づきでありましょうが、彼がこうして貴重な一日を、為すこともなく過したのは、彼の自殺のお芝居が、うまく目的を果したかどうかを、知ろうとして、それの載る新聞の出るのを待ち合わせる為でありました。そして、彼が愈々T市へ乗込む以上は、その新聞記事が、思う壺にはまって、彼の自殺を報道していたことは申すまでもないのです。
「小説家の自殺」という様な標題で、(彼も死んだお蔭で他人から小説家と呼んで貰うことが出来ました)小さくではありましたが、どの新聞にも彼の自殺の記事がのっていました。比較的詳しく報道した新聞には、遺された行李の中に一冊の雑記帳があって、それに人見廣介という署名もあり、世をはかなむ辞世の文句が記されていたのと、恐らく飛び込む時に引かかったのであろう、舷の釘に彼の衣類と覚しき絣の切れ端が、残されていたのとで、死人の身柄なり自殺の動機なりが分明した由記されてありました。つまり彼の計画は、まんまと首尾よく成功したのであります。
幸なことには、彼には、この狂言自殺によって泣く程の身寄りもありませんでした。無論彼の郷里には、家兄の家もあり(在学当時彼はその兄から学資を貰っていたのですが、近頃では兄の方から彼を見捨てて了った形でした)二三の親族もあったのですから、それらの人が彼の不時の死を聞き知ったならば、多少は惜しみもし、歎いても呉れることでしょうけれど、その程度のさし触りは、元より覚悟の上でもあり、彼として別段心苦しい程のことでもないのです。
それよりも、彼は、この自分自身を抹殺して了ったあとの、何とも形容の出来ない、不思議な感じで夢中になっていました。彼は最早や、国家の戸籍面に席もなく、広い世界に唯一人身寄りもなければ友達もなく、其上名前さえ持たぬ所の、一個のストレンジャーなのでありました。そうなると、自分の左右前後に腰かけている乗客達も、窓から見える沿道の景色も、一本の木も、一軒の家も、まるでこれまでとは違った、別世界のものに感じられるのでした。それは一面、非常にすがすがしい、生れたばかりという気持でありましたが、又一面では、この世にたった一人という、しかもその一人ぽっちの男が、これから身に余る大事業を為しとげねばならないという、名状し難き淋しさで、はては、涙ぐましくさえなって来るのを、どうすることも出来ませんでした。
汽車は、併し、彼の感懐などには関係なく、駅から駅へと走り続け、やがて、夜に入って目的地のT市へと到着しました。前の人見廣介は、駅を出ると、その足で直ちに菰田家の菩提寺へと、急ぐのでした。幸い寺は市外の野中に建っていましたので、もう九時過ぎという、その時分には人通りもなく、寺の人達にさえ気をつけていれば、仕事を悟られる心配はありません。それに、附近には昔ながらのあけっ放しな百姓家が点在していて、そこの納屋から鍬を盗み出す便宜もあるのです。
あぜ道に沿った、まばらな生垣をもぐり越すと、そこがもう問題の墓場でした。闇夜ではありましたが、その代りに星が冴えているのと、前に来て見当をつけて置いたのとで菰田源三郎の新墓を見つけ出すのは、何の造作もありませんでした。彼はそこから石塔の中を本堂に近づいて、とざされた雨戸の隙から中を窺って見ましたが、ひっそりとして音もなく、辺鄙な場所の上に、朝の早い寺の人達は、もう寐て了った様子でした。
これなら大丈夫と見定めた上、彼は元のあぜ道にとって返し、附近の百姓家をあさり廻って、難なく一本の鍬を手に入れ、源三郎の墓地に戻って来た時分には、それが皆猫の様に跫音を盗み、闇の中で身を隠しての仕事だったものですから、非常に手間を取り、もう十一時近くになっていました。彼の計画に取っては丁度頃合いの時間なのです。
さて彼は、物凄い闇の墓場に、鍬をふるって、世にも恐るべき墓掘りの仕事を始めるのでありました。新墓のこととて、掘り返すのに造作はありませんが、その下に隠れているものを想像すると、数日来多少場数を踏み、貪慾に気の狂った彼とても、云い難き恐れの為に、戦慄を感じないではいられませんでした。が、何を思う暇もないのでした。十回も鍬を下したかと思うと、もう棺の蓋が現れて了ったのです。
今更ら躊躇している場合ではありません。彼は満身の勇を振って、その、闇にもほの白く見えている白木の板の上の、土を取りのけ、板と板との間に鍬の先をかって、一つうんと力を入れると、ギギ……と骨の髄に響く様な音を立てて、併し難なく蓋は開きました。その拍子に、まわりの土が崩れて、サラサラと棺の底へ落ちるのさえ、何か生あるものの仕業の様に感じられ、彼は命も縮む思いをしたことです。蓋を開くと同時に、名状し難き異臭が彼の鼻をつきました。死んでから七八日もたっているのですから、源三郎の死体は、もう腐り始めたのに相違ありません。彼は当の死体を見る前に、已に、先ずその異臭にたじろがないではいられませんでした。
墓場という様なものを、余り怖がらない彼は、それまで存外平気で仕事を続けることが出来たのですが、さて棺の蓋を取って、もう一つの彼といってもいい、菰田の死骸と顔を合せる際になると、始めて、何かこう、えたいの知れぬ影の様なものが、魂の底からじりじりと込み上げて来る感じで、ワッと云って、いきなり逃げ出し度い程の恐怖に襲われました。それは決して、幽霊の怖さなどではなく、もっと異様な、どちらかと云えば現実的な、それ丈けでは到底云い尽せないのですけれど、例えば暗闇の大広間で、たった一人、蝋燭の光で自分の顔を鏡に写す時に似た、それの幾層倍も恐しい感じでありました。
沈黙の星空の下に、薄ぼんやりと沢山の人間が立っている様な石塔、そのまんなかに、ぽっかりと口を開いた、まっ黒な穴。薄気味の悪い地獄の絵巻物に似た、自からその画中の人になった気持です。そして、その穴の底の、一寸見た位では識別出来ぬ暗さの中に、横わっている死人は、外でもない彼自身なのでありました。この死人の顔を識別出来ぬという点が、一層恐しさを増すのでした。穴の底に、ボーッと白く経帷子が見え、そこから生えている死人の首は、闇に溶け込んでいて、併し、それ故に、どんなに怖くも想像出来るのです。ひょっとしたら、偶然にも、彼の計画が讖をなして、菰田がまだ本当に死んでいず、彼が墓をあばいたばっかりに、生き返りつつあるのかも知れません。そんな馬鹿馬鹿しい事まで妄想されるのです。
彼は身内から込み上げて来る戦慄を、じっと圧えつけながら、最早殆ど空の心で、穴の縁に腹這いになると、その底の方へ、両手をのばして、思い切って、死人の身体を探って見ました。最初触ったのは、髪を剃った頭部らしく、一面にザラザラと細い毛が感じられました。皮膚を押して見ると、妙にブヨブヨしていて、少し強く当たれば、ズルリと皮が破れ相なのです。その無気味さにハッと手を引いて、暫く胸の鼓動を沈めてから、再び手を延して、今度触ったのは、死人の口らしく、固い歯並びが感ぜられ、その歯と歯の間に咬み合せてあるのは、恐らく綿なのでしょう、柔かくはあっても、腐りかかった皮膚のそれとは違うのです。彼は少し大胆になって、猶も口の辺を探り廻っていますと、妙なことには、菰田の口は生前のそれの十倍もの大きさに開いていることが分りました。左右には、まるで般若の面の様に、奥歯がすっかり現われる程に裂け、上下には歯ぐきが感ぜられる程も開いています。決して暗闇故の錯覚ではないのです。
それが又、彼を心の髄から震い上らせました。何も、死人が彼の手を噛むかも知れぬという様な、そんな恐れではありません。死人の肺臓が運動を停止してからも、口丈けで、呼吸をしようと、その辺の筋肉が極度に縮んで、脣を押し開き、生きた人間では迚も不可能な程大きな口にして了ったという、その断末魔の世にも物凄い情景が、彼の目先にチラついたのです。
前の人見廣介は、これ丈けの経験で、最早や精も根も尽き果てた感じでした。この上に尚、そのズルズルに腐った死体を穴から取り出し、取り出す丈けではなくて、それを処分する為に、更に一層恐しい、大仕事をやりとげなければならぬと思うと、彼は自分の計画が無謀極まるものであったことを、今更ながらつくづくと感じないではいられませんでした。
前の人見廣介が、仮令巨万の富に目がくれたとは云え、あの数々の激情を耐え忍ぶことが出来たのは、恐らく、彼も亦凡ての犯罪人と同じ様に、一種の精神病者であって、脳髄のどこかに、故障があり、ある場合、ある事柄については、神経が麻痺して了ったものに相違ありません。犯罪の恐怖がある水準を超えると、丁度耳に栓をした時の様に、ツーンとあらゆる物音が聞えなくなって、謂わば良心が聾になって了って、その代りには、悪に関する理智が、とぎすました剃刀の様に、異常に鋭くなり、まるで人間業ではなく、精密なる機械仕掛でもあるかと思われる程、どの様な微細な点も見逃すことなく、水の如く冷静に、沈着に、思うままを行うことが出来るのでありました。
彼が今、菰田源三郎の腐りかかった死体に触れた刹那、その恐怖が極点に達すると、都合よくも、又この不感状態が彼を襲ったのでした。彼はもう何の躊躇する所もなく、機械人形の様に無神経に、微塵の手抜りもない正確さで、次々と彼の計画を実行して行きました。
彼は、持ち上げても持ち上げても、五本の指の間から、ズルズルとくずれ落ちて行く、菰田の死体を、一文菓子屋のお婆さんが、水の中から心太を持ち上げる様な気持で、なるべく死体を傷つけぬ様に注意しながら、やっと墓穴の外へ持ち出しました。でも、その仕事を終った時には、死体の薄皮が、まるでくらげ製の手袋の様に、ピッタリと彼の両の掌に密着して、振り落しても、振り落しても、容易に離れ様とはしないのです。平常の廣介であったら、それ丈けの恐怖で、もう十分万事を抛擲して逃出したに相違ありません。が、彼は、さして驚く様子もなく、さて次の段取りにと取りかかるのでした。
彼は次には、この菰田の死体を、抹殺して了わねばならないのです。廣介自身を此世から掻き消して了うことは、比較的容易でありましたが、この一個の人間の死体を、絶対に人目にかからぬ様に始末することは、非常な難事に相違ありません。水に沈めた所で、土に埋めた所で、どうしたことで浮き上ったり、掘り出されたりしないものでもなく、若し源三郎の一本の骨でも人目にかかったなら、凡ての計画がオジャンになって了うばかりか、彼は恐しい罪名を着なければならないのです。随って、この点については、彼は最初の晩から、最も頭を悩まして、あれかこれかと考え抜いたのでありました。
そして結局彼の思いついた妙計というのは、難題の鍵はいつも最も手近な所にあるものです、菰田の隣の墓場へ、そこには多分菰田家の先祖の骨が眠っているのでしょうが、それを発掘して、そこへ菰田の死体を同居させることでした。そうして置けば、菰田家には、恐らく永久に、祖先の墓をあばく様な不孝者は生れないでしょうから、又仮令墓地の移転という様な事が起ったところで、その時分には、廣介は彼の夢を実現して、此上もない満足の中に世を去っているのでしょうし、そうでなくても、バラバラにくずれた骨が、一つの墓から二人分出て来たとて、誰れも知らない幾時代も前に葬った仏のことです。それと廣介の悪計と、どう連絡をつけることが出来ましょう。と、彼は信じたのでした。
隣の墓を掘り返すことは、土が固っていたので、少々骨が折れましたが、汗まみれになって、せっせと働く内には、どうやら骨らしいものに掘り当てることが出来ました。棺桶なぞは無論、跡形もなく腐って、ただバラバラの白骨が、小さく固っているのが、星の光りでほの白く見えるばかりです。そんなになると、もう臭気とてもなく、生物の骨という感じをまるで失って、何か清浄な、白い鉱物みたいに思われるのでした。
あばかれた二つの墓と、一個の人間の腐肉を前にして、暗の中で、彼は暫く静止を続けました。精神を統一し、いやが上にも頭の働きを緻密にしようが為なのです。うっかりしてはいけない。どんな些細な疎漏もあってはならない。彼は頭を火の玉の様にして、暗の中のおぼろな物を眺め廻しました。
暫くすると、彼は少しの感動もなく、源三郎の死体から、白布の経帷子をはぎ取り、両手の指から三本の指環をひきちぎりました。そして、経帷子で指環を小さくくるみ、懐中にねじ込むと、足許にころがっている、素裸体の肉塊を、さも面倒臭さ相に、手と足を使って、新しく掘った墓穴の中へ、落しこんだのです。それから、四這いになって、手の掌でまんべんなくその辺の地面を触って歩き、どんな小さな証拠品も落ちていないことを確めると、鍬をとって、墓穴を元々通り埋め、墓石を立て、新しい土の上には、予め取りのけて置いた草や苔を、隙間なく並べるのでありました。
「これでよし、気の毒ながら菰田源三郎は、俺の身替りになって、永久にこの世から消去って了ったのだ。そして、ここにいる俺は、今こそ本当の菰田源三郎になり切ることが出来た。人見廣介は、最早どこを探してもいないのだ」
前の人見廣介は、昂然として星空を仰ぎました。彼には、その闇の丸天井と、銀粉の星屑が、おもちゃの様に、可愛らしく、何か小さな声で彼の前途を祝福しているかに思いなされるのでありました。
一つの墓があばかれて、その中の死体がなくなった。人々はこの事実丈けで、十分顛倒するでありましょう。その上、そのすぐ隣のもう一つの墓があばかれたなどと、その様な御手軽な、大胆なトリックを弄したものがあろうなどと、誰が、どうして想像するものですか。しかも、人々のその顛倒の中へ、経帷子を着た菰田源三郎が現れようという訳です。すると、人々の注意は立所に墓場を離れて、彼自身の不思議な蘇生に集中されるでしょう。それからあとは、彼のお芝居の上手下手です。そして、そのお芝居については、彼に十二分の成算が立っているのでありました。
やがて、空は少しずつ青味を加え、星屑は徐々にその光を薄くし、鶏の声があちこちに聞え始めました。彼は、その薄明の中で、出来る丈け手早く、菰田の墓を、さも死人が蘇生して、内部から棺を破って這い出した体にしつらえ、足跡を残さぬ様に注意しながら、元の生垣の隙間から、外の畦道へと抜け出し、鍬の始末をして、元の変装姿のまま、町の方へと急ぐのでした。
それから一時間もすると、彼は、墓場から蘇生した男が、よろよろと自宅への道をたどり、三分一も歩かぬ内に息切れがして、道ばたに行き倒れた体を装って、とある森の茂みのかげに、土まみれの経帷子の姿を、横えて居りました。丁度一晩食わず飲まずで働き通したのですから、顔面にも適度の憔悴が現れ、彼のお芝居を一層まことしやかに見せるのでした。
始めの計画では、死体を始末すると、すぐに経帷子に着換え、寺の庫裏にたどりついて、ホトホトとそこの雨戸を叩く予定だったのですが、死体を見ると、この地方の習慣と見え、あの古くさい剃髪の儀式によって、頭も髭も綺麗に剃られていたものですから、彼も亦同じ様に頭を丸めて置く必要があったのです。で、彼は町はずれの田舎めいた商家の中から金物屋を探し出して、一挺の剃刀を買い、森の中に隠れて、苦心をして、自ら髪を剃らなければなりませんでした。それは例の巧みな変装を解かない前ですから、理髪店に入ったところで滅多に疑われる筈はなかったのですけれど、早朝のことで、朝の遅い理髪店は、まだ店を開いていなかったのと、万一を慮る用心とから、剃刀を買うことにしたのでした。
そして、すっかり頭を剃り、経帷子と着換え、死人の手から抜取った指環をはめ、脱いだ衣類其他を、森の奥の窪地で焼き捨て、その灰の始末をつけて了った時分には、もう太陽が高く昇って、森の外の街道には、絶えず、チラホラと人通りがして、今更ら隠れ家を出て、寺に帰りもならず、止むを得ず、見つけ出すのに骨の折れる様な、併し街道からは余り距たらぬ、茂みの影に、気を失ったつもりで、横わっている外はなかったのです。
街道に沿って小さな流れがあり、その流れに枝を浸す様にして、葉の細い灌木が密生し、そこからずっと森になって、脊の高い松や杉などが、まばらに生えているのです。彼は、往来から見えぬ様に用心しながら、その灌木の向う側に、身体をくっつける様にして、息を殺して横になっていました。そして、灌木の隙間から、街道を通る百姓達の足だけを眺めながら、気が落ちつくに随って、彼は又変てこな気持になって来るのでした。
「これですっかり計画通り運んだ訳だ。あとは誰かが俺を見つけ出してくれさえすればよいのだ。だが、たったこればかりのことで、海を泳いで、墓を掘って、頭を丸めた位のことで、あの数千万円の大身代が、果して俺のものになるのかしら、話があんまり甘すぎはしないか。ひょっとしたら、俺は飛んでもない道化役を勤めているのではないかな。世間の奴らは、何もかも知っていて、態と、面白半分にそ知らぬ振りをしているのではないかな」
かくして、ある激情的な場合には、まるで麻痺して了う所の、常人の神経が、少しずつ彼に甦って来ました。そして、その不安は、やがて、百姓の子供達が、彼の狂人じみた経帷子姿を発見して、騒ぎ立てるに及んで、一層はげしいものになったのです。
「オイ、見てみい、何やら寝てるぜ」
彼等の遊び場所になっている、森の中へ這入ろうとして、四五人連れの一人が、ふと彼の白い姿を発見すると、驚いて一歩下って、囁き声で、外の子供達に云うのでした。
「なんじゃ、あれ。狂人か」
「死人や、死人や」
「側へ行って、見たろ」
「見たろ、見たろ」
田舎縞の縞目も分らぬ程に、汚れて黒光りに光った、ツンツルテンの着物を着た、十歳前後の腕白共が、口々に囁き交して、おずおずと、彼の方へ近づいて来ました。
青鼻汁をズルズル云わせた、百姓面の小せがれ共に、まるで、何か珍しい見せ物でもある様に覗きこまれた時、その世にも滑稽な景色を想像すると、彼は一層不安にも、腹立たしくもなるのでした。「愈々俺は道化役者だ。まさか最初の発見者が百姓の小せがれだろうとは思っても見なかった。これで散々こいつらのおもちゃになって、珍妙な恥さらしを演じて、それでおしまいか」彼は殆ど絶望を感じないではいられませんでした。
でも、まさか、立上って、子供達を叱りつける訳にも行かず、相手が何人であろうとも、彼はやっぱり、失神者を装っている外はないのです。で、段々大胆になった子供達が、しまいには、彼の身体に触りさえするのを、じっと辛抱していなければなりません。余りの馬鹿馬鹿しさに、一切がっさいオジャンにして、いきなり立上って、ゲラゲラと笑い出したい感じでした。
「オイ、父つぁんに云うてこ」
その内に、一人の子供が息をはずませて囁きました。すると、外の子供達も、
「そうしよ、そうしよ」
とつぶやいて、バタバタとどこかへ駈け出して了いました。彼等は銘々の親達に、不思議な行倒れ人のことを報告しに行ったのです。
間もなく、街道の方から、ガヤガヤと人声が聞えて、数名の百姓が駈けつけ、口々に勝手なことをわめきながら、彼を抱き上げて介抱し始めました。噂を聞きつけて、段々に人が集り、彼のまわりを黒山の様に取囲んで、騒ぎは段々大きくなるのです。
「ア、菰田の旦那やないか」
やがて、その中に、源三郎を見知っているものがあったと見え、大声に叫ぶのが聞えました。
「そうや、そうや」
二三の声がそれに応じました。すると、多勢の中には、もう菰田家の墓地の変事を聞知っているものもあって、「菰田の旦那が墓場から甦った」というどよめきが、一大奇蹟として、田舎人の口から口へと、伝って行くのでありました。
菰田家といえば、T市の附近では、いやM県全体に亙って、所の自慢になっている程の、県下随一の大資産家です。その当主が一度葬られて、十日もたってから、棺桶を破って生返って来たとあっては、彼等にとっては、驚倒的な一大事変に相違ありません。T市の菰田家に急を知らせるもの、お寺に走るもの、医者に駈けつけるもの、野らも何もうっちゃらかして、殆ど村人総出の騒ぎなのです。
前の人見廣介は、やっと彼の仕事の反応を見ることが出来ました。この分なれば、彼の計画は満更夢に終ることもないようです。そこで、彼は愈々、得意のお芝居を演じる時が来たのでした。彼は衆人環視の中で、さも今気がついたという風に、先ずパッチリと眼を開いて見せました。そして、何が何だか訳が分らぬという面持で、ぼんやりと人々の顔を見廻すのでした。
「ア、お気がついた。旦那さん、お気がつきましたか」
それを見ると、彼を抱いていた男が、彼の耳の側へ口を持って来て、大声に怒鳴りました。それと同時に、無数の顔の壁が、ドッと彼の上に倒れかかって、百姓達の臭い息が、ムッと鼻をつくのです。そして、そこに光っている夥しい眼の中には、どれもこれも、朴訥な誠意があふれて、微塵でも、彼の正体を疑うものはありません。
が、廣介は、相手の如何に拘らず、予め考えて置いた、お芝居の順序を換えようとはせず、ただ黙って、人々の顔を眺める仕草の外には何の動作も、一言の言葉も発しないのでした。そうして、凡ての見極めをつけるまでは、意識の朦朧を装って、口を利く危険をさけようとしたのです。
それから、彼が菰田家の奥座敷へ運び込まれるまでのいきさつは、くだくだしくなりますから、省くことにしますが、町からは菰田家の総支配人其他の召使、医者などをのせた自動車が駈けつけ、菩提寺からは和尚や寺男が、警察からは、署長を始め二三の警官が、その他急を聞いた菰田家縁故の人々は、まるで火事見舞かなんぞの様に、次から次へと、この町はずれの森を目がけて集まって来る始末でした、附近一帯は、戦争の騒ぎで、これを見ても、菰田家の名望、勢力の偉大なことが、十分に察せられるのでありました。
彼は、それらの人々に擁せられて、今は彼自身の家であるところの、菰田邸につれて行かれる間、それから、そこの主人の居間の、彼が嘗て見たこともない様な立派な夜具の中に横ってからも、最初の計画を確く守って、唖者の如く口をつぐんだまま、遂に一言も物を云おうとはしませんでした。
彼のこの無言の行は、それから約一週間というもの、執拗に続けられました。その間に、彼は床の中から、耳をそばだて、目を光らせて、菰田家の一切の仕来り、人々の気風、邸内の空気を理解し、それに彼自身を同化させることを努めたのです。外見は半ば意識を失った、半死半生の病人として、身動きもせず床の中に横わりながら、彼の頭丈けは、妙な例ですけれど、五十哩の速力で疾駆する自動車の運転手の様に、機敏に、迅速に、しかも正確に、火花を散らして廻転していました。
医師の診断は、大体彼の予期していた様なものでありました。それは菰田家御出入の、T市でも有数の名医だということでしたが、彼は、この不可思議なる蘇生を、カタレプシという曖昧な術語によって、解決しようとしました。彼は死の断定が如何に困難なものであるかを、様々の実例を挙げて説明し、彼の死亡診断が決して粗漏でなかったことを弁明しました。
彼は、眼鏡越しに、廣介の枕頭に並んだ親族達を見廻して、癲癇とカタレプシの関係、それと仮死の関係等を、むずかしい術語を使って、くどくどと説明するのでした。親族達はそれを聞いて、よく分らないなりに、満足していた様です。本人が生返ったのですから、仮令その説明が不十分であろうとも、別段文句を云う筋はないのでした。
医師は不安と好奇心の入混った表情で、丁寧に廣介の身体を検べました。そして、何もかも分った様な顔をして、その実うまうまと廣介の術中に陥っていたのです。此場合、医師は彼自身の誤診ということで、心が一杯になり、それの弁明にのみ気をとられて、患者の身体に多少の変化を認めても、それを深く考えている余裕はないのでした。又仮令彼が廣介を疑うことが出来たとしても、それが源三郎の替玉であろうなどと、その様な途方もない考が、どうして浮びましょう。一度死んだものが蘇生する程の大変事が起ったのですから、その蘇生者の身体に何かの変化が見えた所で、さして不思議がることはない。と、専門家にした所で、そんな風に考えるのは、決して無理ではないのです。
死因が発作的の癲癇(医者はそれをカタレプシと名附けたのですが)だものですから、内臓にはこれという故障もなく、衰弱といっても知れたもので、食事なども、ただ営養に注意すればそれでよいのでした。随って廣介の仮病は、精神の朦朧を装い、口をつぐんでいる外には、何の苦痛もなく、極めて楽なものでありました。それにも拘らず、家人の看病は、実に至れり尽せりで、医師は毎日二度ずつ見舞いに来ますし、二人の看護婦と、小間使とは枕頭につき切りですし、角田という総支配人の老人や、親族達はひっ切りなしに様子を見にやって来ます。それらの人が、皆声をひそめ、跫音を盗んで、さも心配相にふるまっているのが、廣介にしては、馬鹿馬鹿しく、滑稽に見えて仕様がないのです。彼は、これまでしかつめらしく考えていた世の中というものが、まるでたわいのない、子供のままごと遊びに類似したものであることを痛感しないではいられませんでした。自分丈けが非常に偉く見えて、外の菰田家の人達は、虫けらの様に下らなく、小さなものに思われるのでした。「ナアンだ、こんなものか」それは寧ろ失望に近い感じでした。彼は、この経験によって、古来の英雄とか、大犯罪者などの、思い上った心持を、想像することが出来た様に思いました。
併し、その中にも、たった一人、多少薄気味が悪く、苦手とでもいうのでしょうか、何となく彼を不安にする人物があったのです。それは、外でもない、彼自身の細君、正しく云えば亡き菰田源三郎の未亡人でありました。名前は千代子といって、まだ二十二歳の謂わば小娘に過ぎないのですけれど、色々な理由から、彼はその女を恐れないではいられないのでした。
菰田の夫人が、まだ若くて美しい人だことは、以前にもT市へやって来て、一応は知っていたのですが、それが、毎日見ているに従って、俗に近まさりと云う、あの型に属する女と見え、段々その魅力を増して来るのです。当然彼女は一番熱心な看病人でしたが、その痒い所へ手のとどく看護振りから、亡き源三郎と彼女との間が、どの様に濃やかな愛情を以て結びつけられていたのかを十分推察することが出来るのです。それ丈けに、廣介としては、一種異様の不安を感じないではいられません。「この女に気をゆるしてはならない。恐らく、俺の事業に取って、最大の敵はこの女に相違ない」彼は、ある刹那には歯を食いしばる様にして、自分自身を戒めなければならなかったのです。
廣介は、源三郎としての彼女との初対面の光景を、其後長い間忘れることが出来ませんでした。経帷子姿の彼をのせた自動車が、菰田家の門前につくと、千代子は誰かに止められてでもいたのでしょう、門から外へはよう出ずに、余りの椿事に、寧ろ顛倒して了って、歯の根も合わずワクワクしながら、門内の長い敷石道を、やっぱり青くなった小間使達と一緒に、ウロウロと歩き廻っていたのですが、自動車の上の廣介を一目見ると、何故か一瞬間ハッと驚愕の表情を示し、(彼はそれを見て、どの様に胆を冷したことでしょう)それから、子供の様な泣顔になって、自動車が玄関につく迄の間を、無様な恰好で、車の扉によりかかって、引ずられる様に走ったのです。
そして、彼の身体が、玄関に担ぎ卸されるのを待兼ねて、その上にすがりつき、長い間、親戚の人達が見兼ねて、彼女を彼の身体から引離したまで、身動きもせずに泣いていました。その間、彼はぼんやりした表情を装って、睫毛を一本一本算えることが出来る程も、目の前に迫った彼女の顔を、その睫毛が涙にふくらみ、熟し切らぬ桃の様に青ざめた、白い生毛の光る頬の上を、涙の川が乱れて、そして、薄桃色の滑かな脣が、笑う様に歪むのを、じっと見ていなければなりませんでした。そればかりではありません。彼女のあらわな二の腕が、彼の肩にかかり、脈打つ胸の丘陵が、彼の胸を暖め、個性的なほのかなる香気までも、彼の鼻をくすぐるのでした。その時の、世にも異様な心持を、彼は永久に忘れることが出来ません。
廣介の千代子に対する、名状することの出来ない、一種の恐怖は、日をふるにつれて深まって行きました。
彼が床につき切りでいた、一週間の内にも、恐るべき危機は、幾度となく彼を襲ったのです。例えば、それはある真夜中のことでしたが、廣介が、悩ましい悪夢にうなされて、ふと目を開きますと、悪夢の主は、次の間に寝ていたのが、いつ彼の部屋へ入って来たのか、艶かしき寝乱髪を、彼の胸にのせて、つつましやかなすすり泣きを、続けているのでありました。
「千代子、千代子、何もそんなに心配することはないのだよ。私はこの通り、身も心もすこやかな、今まで通りの源三郎なのだ。さあ、さあ泣くのをよして、いつもの可愛い笑い顔を見せておくれ」
彼は、ふとそんなことを口走り相になるのを、やっとの思いで食いしめて、そしらぬ振りで、狸寐入りをしていなければならぬのです。この様な不思議な立場は、流石の廣介も、嘗て予期しない所でした。
それは兎も角、彼は予定の筋書きに従って、四五日目頃から、極めて巧みなお芝居によって、少しずつ、口を利き始め、激動の為に一時麻痺していた神経が、徐々に目覚めて来る有様を、ごく自然に演じて行きました。その方法は、数日の間床の中にいて、見たり聞いたりしたこと、又はそれから類推し得た所丈けを、やっと思い出した体に装って、その外の、まだ探り得ない多くの点には態と触れない様にし、相手がそれを話し出すと、顔をしかめて、どうも思い出せないという風をして見せるのです。彼はこのお芝居を自然らしくする為に、予め数日の間、苦しい思いをして口をつぐんでいたのですが、それが図に当って、仮令分り切ったことを胴忘れしていても、或は話がとんちんかんになっても、人は少しも疑わず、却って彼の不幸な精神状態を、憐んで呉れる始末でした。
彼はそうして、偽阿房を装いながら、失敗する度に何かしら覚込む方法によって、瞬く内に、菰田家内外の、種々の関係に通暁することが出来ました。そこで、これなれば先ず大丈夫という、医師の折紙がついて、丁度彼が菰田家に入ってから半月目には、もう盛大な床上げのお祝いが開かれることになったのです。その酒宴の席でも、彼は、そこに集った親族、菰田家に属する各種事業の主脳者、総支配人を始め重だった雇人などの、気をゆるした雑談の裏から、夥しい知識を得ることが出来たのですが、さて、そのお祝いの翌日から、彼は愈々、彼の大理想の実現に向って、その第一歩を踏み出す決心をしたのでした。
「私もまあ、どうやら元の身体になることが出来た様だ。ついては、少し思う仔細もあるので、此際私の配下に属する色々な事業や、私の田地、私の漁場などを、一巡して見たいと思う。そして、私のぼやけた記憶をハッキリさせ、その上で、菰田家の財政について、もう少し組織立った計画を立てて見ようと思うのだ。どうか、一つその手配をしてくれ給え」
彼は早朝から、総支配人の角田を呼び出して、この様な意嚮を伝えました。そして、即日、角田と二三の小者を従えて、県下一円に散在する、彼の領地へと旅立つのでした。角田老人は、これまではどちらかと云えば、引込み思案であった主人の、この積極的なやり口に、目を丸くして驚きました。そして、一応は、身体に触るといけないからといって、いさめたのですけれど、廣介の一喝にあって、たちまち一すくみになり、唯々として主命に服する外はありませんでした。
彼の視察旅行は、大急ぎで廻り歩いたのですけれど、それでもたっぷり一月を費しました。その一月の間に、彼は彼の所有に属する、涯知れぬ田野、人も通わぬ密林、広大なる漁場、製材工場、鰹節工場、各種の鑵詰工場、其他半ば菰田家の投資になる様々の事業を巡視して、今更らながら、彼自身の大身代に一驚を喫しないではいられませんでした。
彼がこの旅行によって、何を観察し、何を感じたか、その詳しいことは、一々ここに記す暇を持ちませんが、兎も角、彼の所有財産は、嘗て角田老人が見せて呉れた、帳簿面の評価額通り、いやそれ以上にも、充実したものであることを、十分確めることが出来たのでした。
彼は行く先々で、下へも置かぬ款待を受けながら、それらの不動産なり、営利事業なりを、どうすれば、最も有利に処分し、換金することが出来るか、その処分の順序は、どれを先きにし、どれを後にすれば、最も世間の注意を惹かないで済むかとか、どの工場の支配人は手強わ相だとか、どの山林の管理人は少し低脳らしいとか、だからあの工場よりはこの山林の方を先に手離すことにしようとか、附近にそれの売りに出るのを待っている様な、山林経営者はないだろうかとか、其様な点について、彼は様々に心をくだくのでありました。それと同時に、彼は旅の道連れの心安さを幸いに、角田老人と仲好しになることに全力を傾け、遂には、財産処分の相談相手とまで、彼の心を柔げることに成功したのでありました。
そうして旅を続けている内に、廣介はいつとはなく、何の作為を加えずとも、生れつきの千万長者、菰田源三郎になり切って行くのでした。彼の事業の管理者達は、一も二もなく、彼の前に叩頭して、疑いのけぶりさえ見せませんし、地方地方の縁故のもの、旅館などでは、まるで殿様を迎える騒ぎで、彼の顔を見つめる様な、無躾なものは一人もありませんし、それに時々は、亡き源三郎の顔馴染の芸妓などから、「お久し振りでございますわね」などと、肩を叩かれたりしますと、彼はもう益々大胆になって、大胆になればなる程、お芝居が板について、今では、正体を見現されはしないかという心配などは、殆ど忘れた形で、彼が嘗て、人見廣介と名のる貧乏書生であったことは、その方が却て嘘の様な気さえするのでありました。
この驚くべき境遇の変化は、彼を無上に嬉しがらせたことは申すまでもありませんが、その感じは、嬉しいというよりは、一そ馬鹿馬鹿しく、馬鹿馬鹿しいというよりは、何となく胸がからっぽになった様な、雲に乗って飛んでいる様な、夢を見ている様な、一方では限りなき焦燥を感じながら、一方では落付きはらっている様な、何とも形容の出来ない心持でありました。
こうして、彼の計画は着々として進むのでしたが、悪魔は、彼の予期し防備していた側には現れないで、その裏の、流石の彼もそこまでは考えていなかった方面に、おぼろな姿を段々はっきりさせながら、じりじりと、彼の心に喰入って来るのでありました。
あらゆる款待の内に、満悦の旅を続けながらも、廣介は、ともすれば、恐れと懐しさの入混った感情で、邸に残した千代子の姿を、心に思い描くのでした。あの泣きぬれた生毛の魅力が、悩ましくも、彼の心を捉え、私かに覚えた、彼女の二の腕のほのかなる感触が、夜毎の夢となって、彼の魂を戦かせるのでありました。
千代子は源三郎の女房であって見れば、彼女を愛するのは、今や源三郎となった廣介にとって当然の事でもあり、彼女の方でも、無論それを求めているのでしょうが、その様に易々と叶う願いである丈けに、廣介にとっては、一層苦しく悩ましく、一夜の後にどの様な恐しい破綻が起ろうとも、身も心も、彼の終生の夢さえも、彼女の前に抛げ出して、いっそそのまま死のうかと、そんな無分別な考えを抱く様にもなるのでした。
でも、彼の最初からの計画によれば、まさか千代子の魅力が、これ程悩ましく彼の心に食入ろうとは、想像もしていなかったものですから、万一の危険を慮って、千代子は名前丈けの妻にして、なるべく彼の身辺から遠ざけて置く予定だったのです。それは、彼の顔や姿や声音などが、どの様に源三郎に生写しであろうとも、それで以って、源三郎昵懇の人々を欺きおおせようとも、舞台の衣裳を脱ぎ捨てて扮装を解いた閏房に於いて、赤裸々の彼の姿を、亡き源三郎の妻の前に曝すのは、どう考え直しても、余りに無謀なことだからです。千代子は、きっと源三郎のどんな小さな癖も、身体の隅々の特徴も、掌を指す様に知り尽していることでしょう。随って、廣介の身体のどこかの隅に、少しでも源三郎と違った部分があったなら、立所に彼の仮面ははがれ、それが因になって、遂には彼の陰謀がすっかり曝露しないものでもないのです。
「お前は、それがどれ程優れた女であろうと、たった一人の千代子の為に、お前の年来抱いていた大きな理想を捨てて了うことが出来るのか。若しその理想を実現することが出来たなら、そこには、一婦人の魅力などとは、比べものにもならぬ程、強く烈しい陶酔の世界が、お前を待受けているのではないか。まあ考えて見るがいい。お前が日頃幻に描いている、理想境の、たった一部分丈けでも思出して見るがいい。それに比べては、一人と一人の人間界の恋などは、余りに小さな取るにも足らぬ望みではないか。眼先の迷いに駆られて、折角の苦労を水の泡にしてはいけない。お前の慾望はもっともっと大きかった筈ではないのか」
彼はそうして、現実と夢との境に立って、夢を捨てることは勿論出来ないけれど、といって、現実の誘惑は余りに力強く、二重三重のディレンマに陥り、人知れぬ苦悶を味わねばなりませんでした。
が、結局は、半生の夢の魅力と、犯罪発覚の恐怖とが、千代子を断念させないでは置かなかったのです。そして、その悲しみをまぎらす為に、千代子の物淋しげな、憂い顔を、彼の脳裏からかき消す為に、それが本来の目的でもあるかの如く、彼はひたすら、彼の事業に没頭するのでありました。
巡視から帰ると、彼は先ず最も目立たぬ株券の類を、私かに処分せしめて、それを以て理想境建設の準備に着手しました。新しく傭い入れた画家、彫刻家、建築技師、土木技師、造園家などが、日々彼の邸につめかけ、彼の指図に従って、世にも不思議な設計の仕事が始められました。それと同時に一方では、夥しい樹木、花卉、石材、ガラス板、セメント、鉄材、等の註文書が、或は註文の使者が、遠くは南洋の方までも送られ、夥多の土方、大工、植木職などが続々として各地から召集されました。その中には、少数の電気職工だとか、潜水夫だか、舟大工なども混っていたのです。
不思議なことは、その頃から、彼の邸に小間使とも女中ともつかぬ若い女共が、日毎に新しく傭入れられ、暫くすると、彼女等の部屋にも困る程に、その数を増して行くのでした。
理想境建設の場所は、幾度とない模様替えの後、結局、S郡の南端に孤立する沖の島と決定され、それと同時に、設計事務所は、沖の島の上に建てられた急造のバラックへと移転し、技術者を始め、職人、土工、それにえたいの知れぬ女達も、皆島へ島へと移されました。やがて、註文の諸材料が次々と到着するに従って、島の上には、愈々異様なる大工事が始まったのです。
菰田家の親族を始め、各種事業の主脳者達は、この暴挙を見て黙っている筈はありません。事業が進捗するに従って、廣介の応接間には、設計の仕事にたずさわる技術者達に立混って、毎日の様に、それらの人々が詰めかけ、声を荒らだて、廣介の無謀を責め、えたいの知れぬ土木事業の中止を求めるのでありました。が、それは廣介がこの計画を思い立つ最初に於て、已に予期していた所なのです。彼はその為には、菰田家の全財産の半ばを抛つ覚悟を極めていたのでした。親族といっても皆菰田家よりは目下のものばかりで、財産なども格段の相違があるのですから、止むを得ない場合には、惜しげもなく巨額の富を別け与えることによって、訳もなく彼等の口を緘することが出来たのです。
そして、あらゆる意味で戦闘の一年間が過ぎ去りました。その間に、廣介がどの様な辛苦をなめたか、幾度事業を投げ出そうとしては、からくも思い止ったか、彼と妻の千代子の関係が如何に救い難き状態に陥ったか、それらの点は物語の速度を早める上から、凡て読者諸君の想像に任せて、之を要するに、凡ての危機を救ってくれたものは、菰田家に蓄積された無尽蔵の富の力であった。金力の前には、不可能の文字がなかったのだということを申上げるに止めて置きましょう。
併しながら、あらゆる難関を切抜けて凡ての人々を緘黙せしめた所の、菰田家の巨万の富も、ただ一人、千代子の愛情の前には、何の力をも持ちませんでした。仮令彼女の里方は廣介の常套手段によって、懐柔せられたとしても、彼女自身の遣り場のない悲しみは、どう慰めようすべもないのでありました。
彼女は、蘇生以来の、夫の気質の不思議な変り方を、この謎の様な事実を、解くすべもなくて、ただ告げる人もない悲しみを、じっとこらえている外はありませんでした。
夫の暴挙によって、菰田家の財政が危険に瀕していることも、無論気がかりでありましたけれど、彼女にしては、そんな物質上の事柄よりは、ただもう、彼女から離れて了った夫の愛情を、どうすれば取戻すことが出来るか、何故なれば、あの出来事を境にして、それまではあれ程烈しかった夫の愛情が、突然、人の変った様にさめ切って了ったのであろう。と、それのみを、夜となく昼となく思い続けるのでありました。
「あの方が、私を御覧なさる目の中には、ぞっとする様な光が感じられる。けれど、あれは決して私をお憎しみになっている目ではない。それどころか、私はあの目の中に、これまではついぞ見なかった、初恋の様に純粋な愛情をさえ感じることが出来るのだ。だのに、それとは全くあべこべな、私に対するあのつれない仕向けは、一体全体どうしたというのだろう。それは、あんな恐しい出来事があったのだから、気質にしろ、体質にしろ、以前と違って了ったとて、少しも怪しむ所はないのだけれど、此頃の様に、私の顔さえ見れば、まるで恐しい者が近づいて来でもした様に、逃げよう逃げようとなさるのは、全く不思議に思わないではいられぬ。そんなに私をお嫌いなら、一思いに離別なすって下さればよいものを、そうはなさらないで、荒い言葉さえおかけなさらず、どんなにお隠し遊ばしても、目丈けは、いつでも、私の方へ飛びついて来る様に、不思議な執着を見せていらっしゃるのだもの、ああ、私はどうすればいいのだろう」
廣介の立場もさることながら、彼女の立場も亦、実に異様なものと云わねばなりませんでした。それに、廣介の方には、事業という大きな慰藉があって、毎日多くの時間をその方に没頭していればよいのでしたが、千代子にはそんなものはなくて、却って、里方から、夫の行蹟について、なんのかのと妻としての彼女の無力を責めて来る、それ丈けでも十分うんざりさせられる上に、彼女を慰めて呉れるものと云っては、里方から伴って来た年よった婆やの外には、夫の事業も、夫自身さえも、まるで彼女とは没交渉で、その淋しさ、やるせなさは、何に比べるものもないのでした。
廣介には、云うまでもなく、この千代子の悲しみが、分り過ぎる程分っていました。多くは、沖の島の事務所に寝泊りをするのですが、時たま邸に帰っても、妙に距てを作って、打ちとけて話合うでもなく、夜なども、殊更ら部屋を別にして寝む様な有様でした。すると、大抵の夜は隣の部屋から、千代子の絶え入る様な忍び泣きの気勢がして、でも、それを慰める言葉もなく、彼も亦、泣き出したい気持になるのがお極りなのです。
仮令陰謀の暴露を恐れたからとは云え、この世にも不自然な状態が、やがて一年近くも続いたのは、誠に不思議と云わねばなりません。が、この一年が、彼等にとっての最大限でありました。やがて、ふとしたきっかけから、彼等の間に、不幸なる破綻の日がやって来たのです。
その日は、沖の島の工事が、殆ど完成して、土木、造園の方の仕事が一段落をつげたというので、重だった関係者が菰田邸に集り、一寸した酒宴を催したのですが、廣介は、愈々彼の望みを達する日が近づいたというので、有頂天にはしゃぎ廻り、若い技術者達もそれに調子を合せて騒いだものですから、お開きになったのはもう十二時を過ぎていました。町の芸者や半玉なども数名座に侍ったのですが、彼女等もそれぞれ引取って了い、客は菰田邸に泊るものもあれば、それから又どこかへ姿を隠すものもあり、座敷は引汐の跡の様で、杯盤の乱れた中に一人酔いつぶれていたのが廣介、そして、それを介抱したのが彼の妻の千代子だったのです。
その翌朝、意外にも、七時頃にもう起き出でた廣介は、ある甘美なる追憶と、併し名状すべからざる悔恨とに、胸をとどろかせながら、幾度も躊躇したのち、跫音を盗む様にして千代子の居間へ入ったのでした。そして、そこに、青ざめて身動きもせず坐ったまま、脣をかんで、じっと空を見つめている、まるで人が違ったかと思われる、千代子の姿を発見したのです。
「千代、どうしたのだ」
彼は内心では、殆ど絶望しながら、表面は、さあらぬ体で、こう言葉をかけました。併し、半ば彼が予期していた通り、彼女は相変らず空を見つめたまま、返事をしようともせぬのです。
「千代……」
彼は再び、呼びかけようとして、ふと口をつぐみました。千代子の射る様な視線にぶつかったからです。彼は、その目を見ただけで、もう何もかも分りました。果して、彼の身体には、亡き源三郎と違った、何かの特徴があったのです。それを千代子は昨夜発見したのです。
ある瞬間彼女がハッと彼から身を引いて、身体を堅くしたまま、死んだ様に身動きをしなくなったのを、彼はおぼろげに記憶していました。その時彼女はあることを悟ったのです。そして、今朝からも、彼女はあの様に青ざめて、その恐しい疑惑を段々ハッキリと意識していたのです。彼は最初から、彼女をどんなに警戒していたでしょう。一年の長い月日、燃ゆる思いをじっと噛み殺して、辛抱しつづけていたのは、皆この様な破綻を避けたいばかりではなかったのですか。それが、たった一夜の油断から、とうとう取返しのつかぬ失策を仕出かして了うとは。もう駄目です。彼女の疑惑はこの先、徐々に深まろうとも決して解けることはないでしょう。それを彼女が彼女一人の胸に秘めていて呉れるなら、さして恐しいこともないのですが、どうして彼女が、謂わば真実の夫の敵、菰田家の横領者を、このままに見逃して置くものですか。やがては、このことが其筋の耳に入るでしょう。そして、腕利きの探偵によって、それからそれへと調べの手を伸ばされたなら、いつかは真相が暴露するのは、極り切ったことなのです。
「いくら酒に酔っていたからと云って、お前は何という取返しのつかぬことをして了ったのだ。この処置をどうつけようというのだ」
廣介は悔んでも悔んでも悔み足りない思いでした。
そうして、彼等夫妻は、千代子の部屋に相対したまま、双方とも一ことも口を利かず、長い間睨み合っていましたが、遂に千代子は恐れに耐えぬものの如く、
「済みませんが、わたくし、ひどく気分が悪うございます。どうか、このまま一人ぼっちにして置いて下さいまし」
やっとこれ丈けのことを云うと、いきなりその場へ突俯して了うのでした。
廣介が、千代子殺害の決心をしたのは、そのことがあってから、丁度四日目でありました。
千代子は一時はあれ程までも彼に敵意を抱きましたが、よくよく考え直せば、仮令どの様な確証を見たからと云って、それなれば、あの方が源三郎でないとしたら、一体全体この世の中に、あんなにもよく似た人間があり得るのでしょうか。それは、広い日本を探し廻れば、全く同じ顔形の人がいないとは限りませんけれど、そんな瓜二つの人が仮りにいたところで、その人が丁度源三郎の墓場から甦ってくるなんて、まるで手品か魔法の様な、器用な真似が出来るとも思われません。「これは、ひょっとしたら、私の恥しい思い違いではないかしら」と考えると、あの様なはしたないそぶりを見せたことが、夫に対して申訳ない様にも思われて来るのです。
併し、又一方では、蘇生以来、夫の気質の激変、沖の島のえたいの知れぬ大工事、彼女に対する不思議な隔意、そして、あののっぴきならぬ確かな証拠と並べ立てて考えますと、やっぱりどこやら疑わしく、これは、一人でくよくよしていないで、一そのこと誰かにすっかり打開けて、相談して見た方がよくはないかしら、などとも思われるのでありました。
廣介は、あの夜以来、心配の余り、病気と称して邸に引籠ったまま、島の工事場へも行かず、それとなく、千代子の一挙一動を監視して、彼女の心の動きをば、大体見てとることが出来ました。そして、この調子なればと一安心はしたものの、併し、そののちというものは、彼の身の廻りのこと一切を、小間使にまかせて、彼女は一度も彼の側によろうとせず、ろくろく口も利かない有様を見ますと、やっぱり油断がならず、どうかした調子で、あの秘密が外部に洩れたなら、いやいや、仮令外部には洩れずとも、そういう間にも、邸内の召使などに知れ渡っているかも知れたものではない、と思うと、愈々気が気でなく、四日の間躊躇に躊躇を重ねた上、彼は遂に、彼女を殺害することに心を極めたのでありました。
さて、その日の午後、彼は千代子を彼の部屋に呼びよせて、さも何気ない風を装いながら、こんな風に切り出すのでした。
「身体の工合もいい様だから、私はこれから又島へ出掛け様と思うが、今度はすっかり工事が出来上って了うまで帰れまいと思う。で、その間、お前にもあちらへ行って貰って、島の上で暫く一緒に暮したいのだが、どうだ少し気晴しに出掛けて見ては。それに、私の不思議な仕事も、もう大体は完成しているのだから、一度お前に見せたくもあるのだ」
すると千代子は、やっぱり疑深い様子を改めないで、何のかのと口実を構えては、彼の勧めを拒もうとばかりするのです。彼はそれを、或はすかし、或はおどし、色々に骨折って、三十分ばかりの間も、口を酸くして口説いた上、とうとう、半ば威圧的に、彼女を肯せて了いました。それと云うのも、彼女は廣介を疑い恐れながら、もう一つの心では、それが仮令源三郎でなかろうと、やっぱり彼に、愛着を感じていたからに相違ありません。さて、行くとなっても、それから又、婆やを同伴するとかしないとか一問答あった末、結局、それも同伴しないで、彼と千代子と二人切りで、その日の午後の列車に乗ることに話を極めて了ったのです。尤も誰を同伴しないでも、島へ行けば、そこに沢山の女共もいることですから、何不自由がある訳ではないのでした。
海岸を一時間も汽車にゆられると、もうそこが終点のT駅で、そこから用意のモーター船にのり、荒波を蹴って、又一時間も行くと、やがて、目的の沖の島です。
千代子は、久しぶりの夫との二人旅を、何とも知れぬ恐怖を以て、併し又一方では、不思議な楽しさをも感じながら、どうかこの間の晩のことは私の思い違いであって呉れます様にと祈るのでした。嬉しいことには、汽車の中でも、船の上でも、いつになく夫は妙に優しく、言葉数が多く、何くれと彼女の世話をやいたり、窓の外を指さしては、過ぎ去る風景を賞したり、それが彼女には嘗ての密月の[#「密月の」はママ]旅を思い起させた程も、異様に甘く懐しく感じられるのでした。随って、あの恐しい疑いも、いつしか忘れるともなく忘れた形で、彼女は仮令明日はどうなろうと、ただ、この楽しみを一時でも長引かせたいと願うばかりでありました。
船が沖の島に近づくと、島の岸から二十間も隔たった所に、非常に大きなブイの様なものが浮いていて、船はそれに横づけにされるのです。ブイの表面は、二間四方位の鉄張りで、その中央に船のハッチの様な、小さな穴が開いています。二人は船から歩みを渡って、そのブイの上に降り立ちました。
「ここからもう一度、よく島の上を見てごらん。あの高く岩山の様に聳えているのは、みんなコンクリートで拵えた壁なのだよ。外から見ると、島の一部としか思われぬけれど、あの内部には、それはすばらしいものが隠されているのだ。それから、岩山の上に頭を見せている、高い足場があるだろう。あれ丈けがまだ出来上らないで、今工事中なのだが、あすこには、恐しく大きな、ハンギング・ガーデンというのだが、つまり天上の花園が出来る訳なのだ。それでは、これから私の夢の国を見物することにしよう。少しも怖いことはありゃしない。この入口を降りて行くと、海の底を通って、じきに島の上に出られるのだよ。さあ、手を引いて上げるから、私のあとについておいで」
廣介は優しく云って、千代子の手をとりました。彼とても、千代子と同じ様に、二人が手に手をとって、この海の底を渡るのが、何となく嬉しいのです。いずれは彼女を手にかけて殺害せねばならぬと思いながらも、それ故に彼女の和肌の感触が一層いとしくも懐しくも思いなされるのでありました。
ハッチを入って、暗い縦穴を五六間も下ると、普通の建物の廊下位の広さで、ずっと横にトンネルの様な道が開けています。千代子はそこへ降りて、一歩進むか進まぬに、思わずアッと声を立てないではいられませんでした。そこは実に、上下左右とも海底を見通すことの出来る、ガラス張りのトンネルであったのです。
コンクリートの枠に厚い板ガラスを張りつめて、その外部に、強い電燈がとりつけられ、頭の上も、足の下も、右も左も、二三間の半径で、不思議な水底の光景が、手に取る様に眺められます。ヌメヌメとした黒い岩石、巨大な動物の鬣の様に、物凄く揺れる様々の海草、陸上では想像も出来ない、種々雑多の魚類の游泳、八本の足を車の様に拡げ、不気味ないぼいぼをふくらまして、ガラス板一杯に吸いついた大章魚、水の中の蜘蛛の様に、岩肌に蠢く海老、それらが強烈な電光を受けながら、水の厚みにぼかされて、遠くの方は、森林の様に青黒く、そこにえたいの知れぬ怪物共がウジャウジャとひしめき合うかと思われて、その悪夢の様な光景は、陸上ではまるで想像も出来ない感じでした。
「どうだい、驚くだろう。だが、これはまだ入口なんだよ。これから向うの方に行くと、もっと面白いものが見られるのだよ」
廣介は、余りの気味悪さに青ざめた千代子をいたわりながら、さも得意らしく、説明するのでした。
菰田源三郎になりすました前の人見廣介と、その妻であって妻でない千代子との、世にも不思議な密月の[#「密月の」はママ]旅は、何という運命の悪戯でしょう、こうして、廣介の作り出した彼の所謂夢の国地上の楽園をさまようことでありました。
二人は、一方に於いて、限りなき愛着を感じ合いながら、一方に於いては、廣介は千代子をなきものにしようと企らみ、千代子は廣介に対して恐るべき疑惑を抱き、お互にお互の気持を探り合って、でも、そうしていることが、決して彼等に敵意を起させないで、不思議と甘く懐しい感じを誘うのでした。
廣介はともすれば、一旦決した殺意を思止って、千代子との、この異様なる恋に、身も心もゆだねようかとさえ、思い惑うことがありました。
「千代、淋しくはないかい。こうして私と二人っ切りで、海の底を歩いているのが。……お前は怖くはないのかい」
彼はふとそんなことを云って見ました。
「イイエ、ちっとも怖くはありませんわ。それは、あのガラスの向うに見えている、海の底の景色は、随分不気味ですけれど、あなたが側にいて下さると思うと、あたし、怖くなんか、ちっともありませんわ」
彼女は、幾分あまえ気味に、彼の身近くより添って、こんな風に答えました。いつしか、あの恐しい疑いを忘れて了って、彼女は今、ただ目前の楽しさに酔っているのでもありましょうか。
ガラスのトンネルは、不思議な曲線を描いて、蛇の様にいつまでも続きました。幾百燭光の電燈に照されていても、海の底の淀んだ暗さはどうすることも出来ません。圧えつける様な、うそ寒い空気、遙か頭上に打ち寄せる浪の地響、ガラス越しの蒼暗い世界に蠢く生物共、それは全くこの世の外の景色でありました。
千代子は進むに従って、最初の盲目的な戦慄が、徐々に驚異と変じ、更らに慣れて来るに従って、次には夢の様な、幻の様な、海底の細道の魅力に、不可思議なる陶酔を感じ始めていました。
電燈の届かぬ遠くの方の魚達は、その目の玉ばかりが、夏の夜の川面を飛びかう螢の様に、縦横に、上下に、彗星の尾を引いて、あやしげな燐光を放ちながら、行違っています。それが、燈光を慕って、ガラス板に近づく時、闇と光の境を越えて、徐々に、様々の形、とりどりの色彩を、燈下に曝す異様なる光景を何に例えればよいのでしょう。巨大なる口を真正面に向けて、尾も鰭も動かさず、潜航艇の様にスーッと水を切って、霧の中のおぼろな姿が、見る見る大きくなり、やがて、活動写真の汽車の様に、こちらの顔にぶっつかる程も、間近く迫って来るのです。
或は上り或は下り、右に左に屈折して、ガラスの道は、島の沿岸を数十間の間続いています。上りつめた時には、海面とガラスの天井とがすれずれになって、電燈の力を借らずとも、あたりの様子が手に取る様に眺められ、下り切った時には、幾百燭光の電燈も、僅かに一二尺の間を、ほの白く照し出すに過ぎなくて、その彼方には地獄の闇が、涯知らず続いているのです。
海近く育って、見慣れ聞慣れてはいても、こうして、親しく海底を旅した事なぞは、いうまでもなく始めてだものですから、千代子は、その不思議さ、毒々しさ、いやらしさ、それにも拘らず異様にも引入れられる様な人外境の美しさ、怖い程も鮮かな海底の別世界に、ふと、名状の出来ない誘惑の様なものを感じたのは、まことに無理ではなかったのです。彼女は、陸上で乾し固った姿を見ては、何の感動をも起さなかった種々様々の海草共が、呼吸し、生育し、お互に愛撫し、或は争闘し、不可解の言語を以て語り合ってさえいるのを目撃して、生育しつつある彼等の姿の、余りの異様さに、身もすくむ思いでした。
褐色の昆布の大森林、嵐の森の梢がもつれ合う様に、彼等は海水の微動にそよいでいます。腐りただれて穴のあいた顔の様に、気味悪いあなめ、ヌルヌルした肌を戦かせ、無恰好な手足を藻掻く、大蜘蛛の様なえぞわかめ、水底の覇王樹と見えるかじめ、椰子の大樹にも比すべきおおばもく、いやらしい蛔虫の伯母さんの様なつるも、緑の焔と燃ゆる青海苔、みるの大平原、それらが、所々僅かの岩肌を残して、隈もなく海底を覆い、その根の方がどの様な姿になっているのか、そこにはどんな恐しい生物が巣食っているのか、ただ上部の葉先ばかりが、無数の蛇の頭の様に、もつれ合い、じゃれつき、いがみ合っています。それを蒼黒い海水の層を越し、おぼろ気な電光によって眺めるのです。
ある場所には、どの様な大虐殺の跡かと思うばかり、ドス黒い血の色に染まったあまのりの叢、赤毛の女が髪をふり乱した姿の牛毛海苔、鶏の足の形のとりのあし、巨大な赤百足かと見ゆるむかでのり、中にも一際無気味なのは、鶏頭の花壇を海底に沈めたかと疑われる、鮮紅色のとさかのりの一むら、まっ暗な海の底で、紅の色を見た時の物凄さは到底陸上で想像する様なものではないのです。
しかも、そのドロドロの、黄に青に赤に、無数の蛇の舌ともつれ合う異形の叢をかき分けて、先にも云った幾十幾百の螢が飛びかい、電燈の光域に入るに従って、夫々の不可思議な姿を、幻燈の絵の様に現します。猛悪な形相の猫鮫、虎鮫が、血の気の失せた粘膜の、白い腹を見せて、通り魔の様にす早く眼界を横ぎり、時には深讐の目をいからせてガラス壁に突進し、それを食い破ろうとさえします。その時のガラス板の向側に密着した彼等の貪婪なる分厚の脣は、丁度婦女子を脅迫するならず者の、つばきに汚れ、ねじれ曲ったそれの様で、それから来るある聯想に、千代子は思わず震い上った程でした。
小鮫の類を海底の猛獣に例えるなら、そのガラス道に現れる魚類としては、などは、水に棲む猛鳥にも比すべく、穴子、の類は毒蛇と見ることが出来ましょう。陸上の人達は、生きた魚類と云えば、せいぜい水族館のガラス箱の中でしか見たことのない陸上の人達は、この比喩を余りに大袈裟だと思うかも知れません。併し、あの食べては毒にも薬にもならない様な、おとなしげな蝦が、海中ではどの様な形相を示すものか、又海蛇の親類筋の穴子が、藻から藻を伝って、如何に不気味な曲線運動を行うものか、実際海中に入ってそれを見た人でなくては、想像出来るものではないのです。
若しも、恐怖に色づけされた時、美が一層深味を増すものとすれば、世に海底の景色程美しいものはないでしょう。少くとも、千代子は、この始めての経験によって、生れて以来嘗て味ったことのない、夢幻世界の美に接した様に感じたのです。闇の彼方から、何か巨大なものの気勢がして、二つの燐光が薄れると共に、徐々に電光の中に姿を現した、縞目鮮かな旗立鯛の雄姿に接した時などは、彼女は思わず感嘆の声を放って、恐怖と歓喜の余り、青ざめて夫の袖にすがりついた程でした。
青白く光った、豊満な菱形の体躯に、旭日旗の線条の様に、太く横ざまに、二刷子、鮮かな黒褐色の縞目、それが電燈に映って、殆ど金色に輝いているのです。妖婦の様に隈取った、大きな目、突き出た脣、そして、背鰭の一本が、戦国時代の武将の甲の飾り物に似て、目覚ましく伸びているのです。それが大きく身体をうねらせて、ガラス板に近づき、向きを換えて、ガラス板に沿って、それとすれずれに、彼女の目の前に泳ぎ始めた時、彼女は再び感嘆の叫びを上げないではいられませんでした。それがカンヴァスの上の、画家の創作になる図案ではなくて、一匹の生物であることが、彼女にとって驚異だったのです。場所が場所であり、不気味な海草と蒼黒く淀んだ水を背景にして、おぼろなる電燈の光によってそれを眺めたのです。彼女の驚きは、決して誇張ではないのでした。
併し、進むに従って、彼女は最早や、一匹の魚に驚いている余裕はありませんでした。次から次と、ガラス板の外に、彼女を送迎する魚類の夥しさ、その鮮かさ、気味悪さ、そして又美しさ、雀鯛、菱鯛、天狗鯛、鷹羽鯛、あるものは、紫金に光る縞目、あるものは絵の具で染め出した様な斑紋、若しその様な形容が許されるものならば、悪夢の美しさ、それは実に、あの戦慄すべき悪夢の美しさの外のものではないのでした。
「まだまだ、私がお前に見せたいものは、これから先にあるのだよ。私があらゆる忠言に耳を藉そうともせず、全財産を抛ち、一生を棒に振って始めた仕事なのだ。私の拵え上げた芸術品がどの様に立派なものだか、まだすっかり出来上ってはいないのだけれど、誰よりも先に、先ずお前に見て貰いたいのだ。そして、お前の批評が聞きたいのだ。多分お前には私の仕事の値打が分って貰えると思うのだが。……ホラ、一寸ここを覗いてごらん、こうして見ると海の中が又違って見えるのだよ」
廣介は、ある熱情をこめて囁くのでした。
彼の指さした箇所を見ますと、そこは、ガラス板の下部が径三寸ばかりというもの、妙な風にふくれ上った丁度別のガラスをはめ込んだ様な形なのです。勧められるままに千代子は背をかがめて、怖わ怖わそこへ目を当てました、最初は眼界全体にむら雲の様なものが拡って、何が何だか分りませんでしたが、目の距離を色々に換えている内に、やがて、その向側に、恐しい物の蠢いているのが、ハッキリと分って来るのでした。
そこには、一抱えもあり相な岩石がゴロゴロ転がっている地面から、丁度飛行船の瓦斯嚢を縦にした程の、褐色の嚢が、幾つも幾つも、空ざまに浮き上って、それが水の為にユラリユラリと揺いでいるのです。余りの不思議さにやや暫く覗いていますと、大嚢の後方の水が異様に騒ぐかと思う間に、嚢の間をかき分ける様にして、絵に見る太古の飛竜など云う生物に似た、恐しく、巨大な獣がノソリノソリと這い出して来るのです。ハッとして、何か磁石に吸い寄せられた感じで、身を引く力もなく、と同時に事の次第が少しずつ分りかけて来た為に、いくらか安んずる所もあって、彼女はそのまま身動きもしないで、不思議なものを見続けていたのですが、すると、正面を向いた顔の大きさが、飛行船の気嚢の数倍もある怪物は、その顔全体が横に真二つに裂けた程の偉大な口をパクパクさせながら、飛竜そのままに、背中にうず高くもり上った数ヶの突起物をユラユラ動かし、節くれ立った短い足で、ジリジリとこちらへ近づいて来るのです。そして、それが彼女の目の前に接近した時の恐しさ、正面から見れば、殆ど顔ばかりの獣です。短い足の上にすぐ口が開き、象の様な細い目が直ちに背中の突起物に接しています。皮膚は、非常にでこぼこの多い、ざらざらしたもので、その上に醜い斑点が黒く浮き出している、それが恐らく小山の様な大きさで、まざまざと彼女の目に映ったのです。
「あなた、あなた、……」
彼女はやっと目を離すと、襲われた様に夫の方を振向きました。
「なあに、怖いことはないのだよ。それは度の強い虫眼鏡なんだ。今お前が見たものはね、ホラ、こうして、このあたり前のガラスの所から覗いてごらん、あんなちっぽけな魚でしかありゃしない。ね、躄魚って云うのだよ。鮟鱇の類なのだ。彼奴は、ああして鰭の変形した足で以て、海の底を這うことも出来るのだよ。アア、あの嚢みたいなものかい。あれは見る通り海藻の一種で、わたもって云うんだ相だ。嚢の形をしているんだね。サア、もっと向うの方へ行って見よう。さっき船の者に云いつけて置いたから、うまく間に合えば、もう少し行くと、面白いものが見られる筈だよ」
千代子は夫の説明を聞いても、怖いもの見たさの奇妙な誘惑に抗し難くて、再三度、この廣介のいたずら半分のレンズ装置を、覗き直して見ないではいられませんでした。
併し、最後に彼女を最も驚かせたものは、その様な小刀細工のレンズ装置や、ありふれた海藻、魚介の類ではなくて、それらよりは幾層倍も濃艶な、鮮麗な、そして薄気味の悪いある物だったのです。
暫く歩く内に、彼女は、遙か頭上に、幽かな物音、というよりは一種の波動の様なものを感じました。そして、何かの予感がふと、彼女の足を止めたのです。すると、非常に大きな魚の様なものが、無数の細い泡の尾を引きながら、闇の水中を潜って、恐しい速度で、その異様に滑かな白い身体が、電燈の光にチラと照されたかと思うと、餌物欲しげに触手を動かしている、海藻の茂みの中へ姿を没して了ったのです。
「あなた……」
彼女は又しても、夫の腕にすがりつかないではいられませんでした。
「見ててごらん、あの藻の所を見ててごらん」
廣介は彼女をはげます様に囁きました。
焔の毛氈かと見えるあまのりの床が、一箇所異様に乱れて、真珠の様に艶やかな水泡が、無数に立昇り、ひとみを凝せば、その水泡の立昇るあたりには、青白く滑かな一物が、比目魚の恰好で海底に吸いついているのです。
やがて、昆布と見まがう黒髪が、もやの様に、のろのろと揺いで、乱れて、その下から、白い額が、二つの笑った目が、そして、歯をむき出した赤い脣が、次々と現れ、腹這って顔丈けを正面に向けたそのままの姿で、彼女は徐々にガラス板の方へ近づいて来るのでした。
「驚くことはない。あれは私の雇っている潜りの上手な女なのだ。私達を迎えに来て呉れたのだよ」
よろよろと倒れ相になった千代子を抱き止めて、廣介が説明します。千代子は息をはずませて、子供の様に叫ぶのです。
「まあ、びっくりしましたわ。こんな海の底に人間がいるんですもの」
海底の裸女は、ガラス板の所まで来ると、浮ぶ様に、フワリと立上りました。頭上に渦巻く黒髪、苦し相に歪んだ笑い顔、浮上った乳房、身体一面に輝く水泡、その姿で、彼女は内側の二人と並んで、ガラス壁に手をささえながら、そろそろと歩き始めるのでした。
二人はガラスを隔てて、人魚の導くがままに進むのです。海底の細道は、進むに従って屈折し、しかもその所々に、故意か偶然か、不思議なガラスの歪みが出来ていて、その箇所を通過する毎に、裸女の身体が真二つに引裂かれ、或は胴を離れて首丈けが宙を飛び、或は顔丈けが異常に大きく拡大され、地獄か極楽か、何れにしろ此の世の外の不可思議な、悪夢の様に、次から次へと展開されるのでありました。
併し、間もなく人魚は水中に耐え難くなって、肺臓に溜めていた空気をホッと吐き出し、そのすさまじい泡の一団が、遙かの空に消える頃、彼女は最後の笑顔を残して、手足を鰭の様に動かすとヒラヒラと昇天し始めました。そして、腕白小僧がじだんだを踏む恰好で、二本の足が中有にもがき、やがて、白い足の裏丈けが、頭上遙かに揺曳して、遂に裸女の姿は眼界を去って了ったのです。
この異様なる海底旅行によって、千代子の心は、人間界の常套を逃れ、いつしか果知らぬ無幻の境をさまよい始めていました。T市のことも、そこにある菰田家の邸のことも、彼女の里方の人達のことも、皆遠い昔の夢の様で、親子も夫婦も主従も、その様な人間界の関係などは、霞の様に意識の外にぼやけて了って、そこには、魂に喰い入る人外境の蠱惑と、それが真実の夫であろうがあるまいが、ただ目の前にいる一人の異性に対する、身も心も痺れる様な思慕の情のみが、闇夜の空の花火の鮮かさで、彼女の心を占めていたのです。
「さあ、これから少し暗い道を通るのだよ。危いから手を引いて上げよう」
やがて、ガラスの道の途切れる箇所に達すると、廣介は優しく云って千代子の方を振りむきました。
「エエ」
と答えて、千代子は彼の手にすがるのです。
そして、道は突然暗くなって、岩石をくり抜いた洞穴の様な所へ折れ曲って行きます。人一人やっと通れる程の、狭い道です。最早や陸上に出たのか、やっぱり海の底の岩窟なのか、千代子には一切様子が分らず、怖いと思えば此上もなく怖いのですけれど、その様なことよりは、指先を、血が通う程も握り合った、男の腕の力が嬉しくて、ただもうそれで心が一杯になって、暗闇の恐怖などに心を向ける余裕もないのでありました。
その闇の中を、さぐりさぐり、千代子の気持では十町も歩いたかと思う頃、その実数間の距離しかなかったのですが、パッと眼界が開け、そこには、彼女が思わず驚きの叫声を立てた程、世にも雄大な景色が拡がっていたのです。
視力の届く限り、殆ど一直線に、物凄いばかりの大谿谷が横わり、両岸は空を打つかと見える絶壁が、眉を圧して打続き、その間に微動もしない深碧の水が、約半町程の幅で、眼も遙かに湛えられているのです。それは一見天然の大谿谷の様に見えますけれど、仔細に観察すれば、徐々に、その凡てが人工になったものであることが分って来ます。といって、そこにはいささかも、醜い斧鉞の跡などが残っている訳ではありません。そういう意味ではなくて、これを天然の風景と見る時は、余りに整い過ぎ、夾雑物がなさ過ぎるからなのです。水には一片の塵芥も浮ばず、断崖には一茎の雑草すら生立ってはいないで、岩はまるで煉羊羹を切った様に滑かな闇色に打続き、その暗さが水に映じて、水も又漆の様に黒いのです。従って、先程眼界が開けたといったのも、決して普通の様に明るくパッと開けたのではなくて、谷の奥行は霞む程も広く、絶壁は見上る様に高いのですけれど、それが一体に妖婦の眼隈の様に艶かしくも黒ずんで、明るい所と云っては、絶壁と絶壁との庇間の細く区切られた空、それも平地で見る様な明るいものではなく、昼間も夕暮時の様に鼠色で、そこに星さえまたたいているのです。更らに、もっと変っているのは、この谿谷は、谷というよりは、寧ろ非常に深い、細長い池と唱えた方がふさわしく、両方の端が行詰りになっていて、一方は、今二人が出て来た海底からの通路の所、他の一方は、その反対の側の遙かに霞んで見える、異様なる階段に尽きているのです。その階段というのは、両側の断崖が徐々に狭まって、その合した所に、水面から一直線に、雲に入るかとばかり、そそり立っている所の、これのみは真白に見えている、不思議な石階を云うのですが、それが周囲の黒ずくめの間に、見事な一線を劃して、滝の様に下っている有様は、その単純な構図故に、一際崇高の美を加えているのでありました。
千代子がこの雄大な景色に見とれている間に、廣介が何かの合図をしたらしく、ふと気がつくと、いつどこから現れたか、非常に大きな二羽の白鳥が、誇りがなうなじを上げ、その豊かな胸のあたりに、二筋三筋のゆるやかな波紋を作って、しずしずと、二人の立つ岸辺をさして近づいて来るのでした。
「まあ、大きな白鳥だこと」
千代子が驚嘆の声を洩すのと殆ど同時でした。一羽の白鳥の喉の辺から、美しい人間の女性の声が、響いて来る様に思われたのです。
「さあ、どうぞお乗り下さいませ」
すると、千代子の驚く暇もあらせず、廣介は彼女を抱いて、その前に浮んでいた白鳥の背にのせると、自分ももう一羽の白鳥へとまたがるのでした。
「ちっとも驚くことはないよ。千代子、これも皆私の家来なのだから。さあ白鳥、お前達は、私等二人を、あの向うの石段の所まで運ぶのだ」
白鳥は人語を口にする程ですから、この主人の命令をも理解したに相違なく、彼女達は胸を揃え、漆の様な水面に、純白の影を流して、静かに游ぎ始めるのです。千代子は余りの不思議さに、あっけに取られるばかりでしたが、やがて気がつくと、彼女の腿の下に蠢くものは、決して水鳥の筋肉ではなくて、羽毛に覆われた人間の、肉体に相違ないことを確めることが出来ました。恐らくは一人の女が白鳥の衣の中に腹這いになって、手と足で水を掻きながら泳いでいるのでありましょう。ムクムクと動く柔かな肩やお尻の肉の工合、着物を通して伝わる肌のぬく味、それらは凡て人間の、若い女性のものらしく感じられるのです。
併し、千代子はその上白鳥の正体を見極める暇もなく、更らに奇怪な、若しくは艶麗なある光景に目をみはらねばなりませんでした。
白鳥が二三十間も進んだ時分、水底から彼女の傍に、ポッカリと浮上ったものがありました。浮上ったかと思うと、白鳥と並んで泳ぎながら、肩から上を彼女の方にねじ向けて、ニッコリ笑ったその顔は、まぎれもない、先刻海底で彼女を驚かせた、あの人魚の女に相違ないのです。
「まあ、あなたはさっきの方ですわね」
併し、声をかけても、人魚はつつましやかに笑うばかりで、少しも言葉を返そうとはせず、ただやさしく会釈しながら、静に泳いでいるのです。そして、驚いたことには、人魚は決して彼女一人に止まらず、いつの間にか、一人二人と、同じ様な若い裸女達の数がふえ、見る見る一団の人魚群を為して、或は潜り、或は跳ね上り、或は戯れ合い、二羽の白鳥に雁行するかと見れば、抜手を切って泳ぎ越し、遙か彼方に浮上って、手まねきをして見せたり、闇色の絶壁と、漆の様な水を背景とし、そこに一糸を纒わぬ艶かしき影を躍らせて嬉戯する様は、ギリシャの昔語を画題とした名画でも見る様です。
やがて白鳥が道の半ば程まで来た時、水中の人魚に呼応する様に、遙か絶壁の頂上に、青空を区切って、数人の同じ様な裸女の姿が現れました。そして、彼女等は如何なる水泳の達人達でありましょう、次々と幾丈の水面を目がけて、そこを飛び下るのです。ある者はさかさに髪をふり乱して、ある者は膝を抱えてギリギリ舞いながら、ある者は両手を伸し弓の様に背をそらせたまま、様々の姿態を以て、風に散る花瓣の風情で、黒い岩壁を舞い下り、水煙を立てて水中深く沈むのです。
そして、夥多の肉団に取囲まれたまま、二羽の白鳥は静に目ざす石階の下へと着きました。近づいて見れば、幾百段とも知れぬ、純白の石階は、空を圧して聳ち、見上げた丈けでも、身内がむず痒くなるばかりです。
「あたし、迚もここは昇れませんわ」
千代子は、白鳥の背から陸上に降り立つと、先ず恐れを為して、云うのでした。
「なあに、思う程ではないのだよ。私が手を引いて上げるから、昇ってごらん、決して危くはないのだから」
「でも……」
千代子がためらう間に、廣介は構わず彼女の手を取って石段を昇り始めていました。そして、あれあれと云う間に、もう二十段ばかりも昇って了ったのです。
「そらね、ちっとも怖くはないだろう。さあもう一息だ」
そして、二人は一段一段と昇って行ったのですが、不思議なことには、間もなく頂上まで昇り切って了うと、下で見た時には幾百段とも知れず、空まで届き相であったのが、実際は百段もあるかなしで、決してそれ程高いものではないのです。それがどうしてあんなに見えたのか、臆病故の錯覚としても、余りにその差が甚しく、千代子は不思議に堪えられませんでした。後に至って分ったことですが、先刻海底で鮟鱇を太古の怪物と見誤った様な、丁度あれに似た幻覚が、この島全体に満ち充ちている様な気がして、それ故に一層そこの景色が美しいのだとも思われるのです。そして、今の階段の高さの相違などもその一つに算えることが出来ました。彼女は、併し、それがどの様な理由によるものか、廣介から詳しい説明を聞くまでは少しも分らなかったのです。
それは兎も角、彼等は今、階段を昇り切った高地に立って、彼等の行手を眺めました。
そこには狭い芝生の傾斜があって、それを下ると道は直ちに鬱蒼たる大森林に入っています。振向けば、巨大なる舟型を為した谿谷が、真黒な口を開き、その憂鬱な断崖の底には、今彼等を運んで呉れた二羽の白鳥が、真白な紙屑の様に浮んでいるのが、心細く眺められます。そして、行手は又しても、陰湿なる暗闇の森です。その二つの特異な風景の間を区切る、この僅かの芝生は、晩春の午後の日ざしを一杯に受けて、赤々と燃え立ち、陽炎にゆらぐ芝草の上を、白い蝶が低く飛びこうています。千代子はその奇異なる対象に、ある不自然の美しさという様なものを感じないではいられませんでした。
見渡す限り果知らぬ老杉の大森林は、むら雲のモクモクと湧上る形で、枝に枝を交え、葉に葉を重ね、日向は黄色に輝き、蔭は深海の水の様にドス黒く淀んで、それが不思議なだんだら模様を現わしています。そして、この森の物凄さは、芝生に立ってじっとその全形を見渡している間に、徐々に見る者の心に湧上って来る、ある異様な、感情でありました。その様な感情を起させるものは、空を覆ってのしかかって来る様な、森の雄大さにもありましょう。或は又萌え立つ若葉から発散する、あの圧倒的な獣物の香気にもありましょう。併しその外に、注意深い観察者は、森全体に加えられた悪魔の作為ともいうべきものを、遂には悟るに相違ありません。それは、この大森林の全形が、世にも異様なるある妖魔の姿を現していることです。非常に神経質に作為の跡を隠してある為に、それは極くおぼろげにしか見別ることは出来ませんけれど、おぼろげなればおぼろげな程、却ってその恐怖は深みと大きさを増している様に見えるのです。恐らくこの森は自然のままの森ではなくて、極度に大仕掛けな人工が加えられたものでもありましょうか。
千代子はこれらの風景を見るに従って、彼女の夫の源三郎の心の底にこの様な恐しい趣味が隠されていたとは、どうしても考えられず、今彼女と並んで何気なく佇んでいる、夫に似た一人の男を疑う心は、益々深まって来るのでありました。併し、彼女の異様なる心理を何と解すべきでありましょう。彼女は刻一刻深まって行く恐しい疑惑と同時に、それと並行して、一方ではそのえたいの知れぬ人物に対する思慕の情も又、益々耐え難きものに思われて来るのでありました。
「千代、何をぼんやりしているのだ。お前、又、この森を怖がっているのではないのかい。みんな私の拵えたものなんだよ。ちっとも怖がることなんかありゃしない。さあ、あすこの木の下に、私達の従順な召使が待兼ねている」
廣介の声にふと見ると、森の入口の一本の杉の木の根許に、誰が乗り捨てたのか、毛並艶やかな二匹の驢馬がつながれて、しきりに草を噛んでいます。
「私達はこの森へ這入らねばなりませんの」
「オオ、そうだとも。何も心配することはない。この驢馬が安全に私達を案内して呉れるのだよ」
そして、二人はおもちゃの様な驢馬の背に跨って、奥底の知れぬ、闇の森へと進み入るのでありました。
森の中では、幾層にも木の葉が重り合って、空を見ることは出来ませんけれど、でも、全く闇というではなく、黄昏時のほのかなる微光が、もやの様に立籠めて、行手が見えぬ程ではありません。巨木の幹は大伽藍の円柱の様に立並び、その柱頭から柱頭を渡って、青葉のアーチが連り、足の下には、絨毯の代りに杉の落葉が分厚に散り敷いて居ります。森の中のたたずまいは、丁度名ある大寺院の礼拝堂に似て、その幾層倍も、神秘に、幽玄に、物凄く感じられるのです。
それにしても、この森の下道の調和と均整は、到底天然の企て及ぶ所ではありません。例えば、広漠たる大森林が、凡て杉の巨木のみで出来ていて、その外には一本の雑木[#ルビの「ぞうき」は底本では「ぞうさ」]も、一茎の雑草も見当らぬ点、樹木の間隔配置に人知れぬ注意が行届いて、異様の美を醸し出している点、その下を通ずる細道の曲線が、世にも不思議なうねりを見せて、通る者の心に一種異様の感情を抱かせる点などは、明かに自然をしのぐ作者の創意を語っています。恐らくは、彼の木の葉のアーチの快い均整にも、落葉の床の踏み心地にも、凡て注意深い人工が加味されているのではないでしょうか。
主人を乗せた二匹の驢馬は、落葉の深さに少しの跫音も立てないで、静かに木の下闇をたどります。獣も鳥も鳴かず、死の様な幽寂が森全体を占めています。が、やがて、奥深く進むにつれて、その静けさを一層引立てる為ででもある様に、見えぬ頭上の梢のあたりから、梢に当たる風の音ともまがう程の鈍い音響が、例えばパイプオルガンの響きに似た、奇異な音楽が、幽玄の曲調を以て、おどろおどろと聞え始めます。
二人の卑小なる人間は、驢馬の背の上で、頭を垂れて一語をも語りません。千代子はふと顔を上げて口を動かし相にしましたが、そのまま言葉を発しないでうなだれました。無心の驢馬は黙々として進みます。
又暫く行くと、森の様子が少しずつ変って来ることに気づきます。今まで一様にほの暗かった森の中に、どこからか銀色の光がさし始めたのです。落葉がチカチカと光り、見る限りの巨木の幹が、半面丈けまぶしく照らし出されています。半ばは銀色に輝き、半ばは漆黒の大円柱が、目路の限り打続く光景は、いとも見事なものでありました。
「もう森がおしまいなのでしょうか」
千代子は夢から醒めた様に、かすれた声で尋ねました。
「いやいや、あの向うに沼があるのだ。私達は今にそこへ出る筈なのだよ」
そして、彼等はやがて、その沼のほとりへたどりつきました。沼は絵にある狐火の形で一方の岸は丸く、反対の岸は焔の様な三つの深いくびれになって、そこに水銀の様に重い水をたたえています。動かぬ水面には、大部分蒼黒い老杉の影を宿し、一部に少しばかりの青空を映しています。そこには最早や先程の音楽も響いては来ません。あらゆるものが沈黙し、あらゆるものが静止して、万象は深い眠りにおちているのです。
二人はその静寂を破るまいとする様に、静に驢馬を降り、無言のまま岸辺に歩み寄りました。彼方の岸の突出した部分には、この森での唯一の例外として、数本の椿の老樹が、各々一丈ばかりもある濃緑の肌に、点々と血をにじませて夥多の花を開いています。そして、驚くべきことは、その花の蔭の少しばかりのほの暗い空地に、一人の美しい娘が、乳色の肌をあらわにして、ものうげに横わっているのです。苔を褥に頬杖をついて、腹這いに沼を覗いているのです。
「まあ、あんな所に……」千代子は思わず声を揚げました。
「黙って」
廣介は、娘を驚かせまいとする様に、合図をして彼女の声を止めるのです。
娘は見る人のあるのを知ってか知らずにか、依然として放心の様で沼の表を見入っています。森の中の沼、岸辺の椿、腹這いになった無心の裸女、この極めて単純な取合せが、如何にすばらしい効果を示していたでしょう。若しこれが偶然でなくて、意図された構図であるならば、廣介はいとも優れた画家と云わねばなりません。
二人は長い間岸に立って、この夢の様な光景に見とれていたのですが、その長い間に少女は組み合せていた豊かな足を、一度組み直したばかりで、あきずまに、物憂い凝視を続けているのでした。やがて、千代子が廣介にうながされて、驢馬に乗り、そこを立去ろうとした時に、少女の真上に咲いていた目立って大きな椿の花が一輪、液体がしたたる様に、ポトリと落ちて、少女のふくよかな肩先を滑り、沼の水に浮んだのです。でも、それが余りに静であったものですから、沼の水も気づかなかったのか、一筋の波紋を描くでもなく、鏡の様な水面は依然として微動さえもしませんでした。
そして又、二人は暫くの間、太古の森の下蔭を騎行したのですが、森の深さは行くに従って極まる所を知らず、どう行けばここを出ることが出来るのか、再び最初の入口に帰るとしてもその道筋も分らぬ感じで、そうして無心の驢馬の歩むままに任せて居ることが、少なからず不安にさえ思われ始めるのでありました。
ところが、この島の風景の不思議さは、行くと見えて帰り、昇ると見えて下り、地底が直ちに山頂であったり、広野が気のつかぬ間に細道に変っていたり、種々様々の魔法の様な設計が施されてあることで、この場合も、森が最も深くなり、旅人の心に云い知れぬ不安がきざし始める頃には、それが却って、森もやがて尽きることを示しているのでありました。
今までは適度の間隔を保っていた大樹共の幹が、気のつかぬ程に、徐々にせばまって、いつの間にか、それが幾層の壁を為して、隙間もなく密集している所に出ました。そこには最早や緑葉のアーチなどはなくて、生い茂るに任せた枝葉が、地上までも垂れ下り、闇は一層濃かになって、殆ど咫尺を弁じ難いのです。
「さあ、驢馬を捨てるのだ。そして私のあとについておいで」
廣介は、先ず自分が驢馬を下って、千代子の手を執り、彼女を助けおろすと、いきなり前方の闇へと突き進むのでした。木の幹に身体をはさまれ、枝葉に行手をさえぎられ、道でない道を潜りながら、土竜の様に進むのです。そして、暫くもまれもまれている内に、ふと浮ぶ様に身が軽くなって、ハッと気がつくと、そこは最早や森ではなく、うらうらと輝く陽光、見渡す限り目をさえぎる者も[#「さえぎる者も」はママ]ない緑の芝生、そして、不思議なことには、どこを見廻しても、あの森などは影も形も見えないのでした。
「まあ、あたしはどうかしたのでしょうか」
千代子は悩ましげにこめかみを圧えて、救いを求める様に廣介を見かえりました。
「いいえ、お前の頭のせいではないのだよ。この島の旅人は、いつでも、こんな風に一つの世界から別の世界へと踏み込むのだ。私はこの小さな島の中で幾つかの世界を作ろうと企てたのだよ。お前はパノラマというものを知っているだろうか。日本では私がまだ小学生の時分に非常に流行した一つの見世物なのだ。見物は先ず細い真暗な通路を通らねばならない。そしてそれを出離れてパッと眼界が開けると、そこに一つの世界があるのだ。今まで見物達が生活していたのとは全く別な、一つの完全な世界が、目も遙かに打続いているのだ。何という驚くべき欺瞞であっただろう。パノラマ館の外には、電車が走り、物売りの屋台が続き、商家の軒が並んでいる。そこを、昨日も今日も明日も、同じ様に、絶え間なく町の人々が行違っている。商家の軒続きには私自身の家も見えている。ところが一度パノラマ館の中へ這入ると、それらのものが悉く消え去って了って、広々とした満洲の平野が、遙か地平線の彼方までも打続いているではないか。そして、そこには見るも恐しい血みどろの戦が行われているのだ」
廣介は芝原の陽炎を乱して、歩きながら語り続けました。千代子は夢見心地に恋人のあとを追うのです。
「建物の外にも世界がある。建物の中にも世界がある。そして二つの世界が夫々異った土と空と地平線とを持っているのだ。パノラマ館の外には確かに日頃見慣れた市街があった。それがパノラマ館の中では、どの方角を見渡しても影さえなく、満洲の平野が遙か地平線の彼方まで打続いているのだ。つまり、そこには同一地上に平野と市街との二重の世界が在る。少くともそんな錯覚を起させる。その方法というのはお前も知っている通り、景色を描いた高い壁で以て見物席を丸く取囲み、その前に本当の土や樹木や人形を飾って、本物と絵との境をなるべく見分けられぬ様にし、天井を隠す為に見物席の廂を深くする。ただそれ丈けのことなのだ。私はいつか、このパノラマを発明したというフランス人の話を聞いたことがあるけれど、それによると、少くとも最初発明した人の意図は、この方法によって一つの新しい世界を創造することにあったらしい。丁度小説家が紙の上に、俳優が舞台の上に、夫々一つの世界を作り出そうとする様に、彼も亦、彼独特の科学的な方法によって、あの小さな建物の中に、広漠たる別世界を創作しようと試みたものに相違ないのだ」
そして、廣介は手を挙げて、陽炎と草いきれのかなたに霞む、緑の広野と青空との境を指さしました。
「この広い芝原を見て、お前は何か奇異の感じに撃たれはしないだろうか。あの小さな沖の島の上にある平野としては、余りに広すぎるとは思わないだろうか。見るがいい。あの地平線の所までは、確かに数哩の道のりがある。本当を云えば、地平線の遙か手前に、海が見える筈ではないだろうか。しかも、この島の上には、今通った森や、ここに見えている平野の外に、一つ一つが数哩ずつもある様な種々様々の風景が作られているのだ。それでは、沖の島の広さがM県全体程あった所で、まだ不足する筈ではないだろうか。お前には私の云っている意味が分るかしら。つまり私はこの島の上に幾つかの夫々独立したパノラマを作ったのだ。私達は今まで海の中や谷底や森林のほの暗い道ばかりを通って来た。あれはパノラマ館の入口の暗道に相当するものかも知れないのだ。今私達は春の日光と陽炎と草いきれの中に立っている。これはその暗道を出た時の夢からさめた様なほがらかな気持にふさわしくはないだろうか。そして、これから私達は愈々私のパノラマ国へ這入って行くのだ。だが私の作ったパノラマは、普通のパノラマ館の様に壁に描いた絵ではない。自然を歪める丘陵の曲線と、注意深い光線の按排と、草木岩石の配置とによって、巧みに人工の跡をかくして、思うがままに自然の距離を伸縮したのだ。一例を上げて見るならば、今通り抜けたあの大森林だ。あの森の真実の広さを云ったところで、お前は決して本当にしないだろう。それ程狭いのだ。あの道は、それと悟られぬ巧みな曲線を描いて、幾度も幾度もあと戻りをしているのだし、左右に見えていた果しも知れぬ杉の木立は、お前が信じた様に皆同じ様な大木ではなくて、遠くの方は僅か高さ一間程の、小さな杉の苗木の林であったかも知れないのだ。光線の按排によってそれを少しも分らぬ様にすることはさして難しい仕事ではないのだよ。その前に私達が昇った白い石の階段にしてもその通りだ。下から見上げた時は雲のかけ橋の様に高く見えて、その実は百段余りしかない。お前は多分気づかなんだであろうが、あの石段は芝居の書割りの様に上部程狭くなっている上に、階段の一つ一つも、気づかれぬ程度で、上に行く程高さや奥行きが短く出来ているのだ。それに両側の岩壁の傾斜に工夫が加えられている為に、下からはあの様に高く見える訳なのだ」
併し、その様な種明しめいた説明を聞いても、幻影の力が余りに強くて、千代子の心に記された不可思議な印象は少しも薄らぎませんでした。そして、現に目の前に拡がっている、無際涯の広野は、その果てはやっぱり地平線の彼方に消えているとしか考えられぬのでありました。
「では、この平野も実際はそんな風に狭いのでしょうか」彼女は半信半疑の表情で尋ねました。
「そうだとも、気づかれぬ程の傾斜で、周囲が高くなっていて、そのうしろの様々のものを隠しているのだ。だが、狭いと云っても直径五六町はあるのだよ。その普通の広っぱを一層効果を出す為に無際涯に見せたまでなのだ。でも、たったそれ丈けの心遣いが、何というすばらしい夢を作り出して呉れたのだろう。お前には、今、説明を聞いたあとでも、この大平原がたった五六町の広っぱに過ぎないなどとは、どうしても信じられないことだろう。作者の私でさえもが、今こうして陽炎の為に波の様にゆらぐ地平線を眺めていると、本当に果しも知らぬ広野の中へ置去りにされた様な、云うに云われぬ心細さと、不思議に甘い哀愁とを感じないではいられぬのだ。見渡す限り何のさえぎる物もない、空と草だ。私達には今、それが全世界なのだ。この草原は謂わば沖の島全体を覆い、遠くI湾から太平洋へと拡がって、その涯はあの青空に連っているのだ。西洋の名画なれば、ここに夥しい羊の群と牧童とが描かれていることだろう。或は又、あの地平線の近くを、ジプシィの一団が長蛇の列を作って、黙々と歩いて行く所も想像出来る、彼等は半面に夕日を受けて、その非常に長い影が芝原の上をしずしずと動いて行くことでもあろう。だが、見る限り、一人の人も、一匹の動物も、たった一本の枯れ木さえも見えない。緑の沙漠の様なこの平野は、その様な名画よりも、一層私達を撃ちはしないだろうか。ある悠久なるものが恐しい力を以て私達に迫っては来ないだろうか」
千代子は先程から、青いというよりは寧ろ灰色に見える、余りに広い空を眺めていました。そして、いつとはなくまぶたに溢れた涙を隠そうともしませんでした。
「この芝原から道が二つに分れているのだ。一つは島の中心の方へ、一つはその周囲をとり巻いて並んでいる幾つかの景色の方へ。本当の道順は先ず島の周囲を一順して、最後に中心へ這入るのだけれど、今日は時間もないのだし、それらの景色はまだ完全に出来上っている訳でもないのだから、私達はここからすぐに中心の花園の方へ出ることにしよう。そこが一番お前の気にも入ることだろう。だが、この平野からすぐに花園と続いては、余りにあっけない気がするかも知れない。私は外の幾つかの景色についても、その概略をお前に話して置いた方がいい様な気がするのだ。花園への道まではまだ二三町もあることだから、この芝生を歩きながら、それらの不思議な景色のことをお前に伝えることにしよう。
お前は造園術で云うトピアリーというものを知っているだろうか。つげやサイプレスなどの常緑木を、或は幾何学的な形に、或は動物だとか天体などになぞらえて、彫刻の様に刈込むことを云うのだ。一つの景色には、そうした様々の美しいトピアリーが涯しもなく並んでいる。そこには雄大なもの、繊細なもの、あらゆる直線と曲線との交錯が、不思議なオーケストラを奏でているのだ。そして、その間々には、古来の有名な彫刻が、恐しい群を為して密集している。しかも、それが悉く本当の人間なのだ。化石した様に押し黙っている裸体の男女の一大群集なのだ。パノラマ島の旅人は、この広漠たる原野から突然そこへ這入って、見渡す限り打続く人間と植物との不自然なる彫刻群に接し、むせ返る様な生命力の圧迫を感じるだろう。そして、そこに名状の出来ない怪奇な美しさを見出すのだ。
又一つの世界には生命のない鉄製の機械ばかりが密集している。絶えまもなくビンビンと廻転する黒怪物の群なのだ。その原動力は島の地下で起している電気によるのだけれど、そこに並んでいるものは、蒸汽機関だとか、電動機だとか、そういうありふれたものではなくて、ある種の夢に現れて来る様な、不可思議なる機械力の象徴なのだ。用途を無視し、大小を転倒した鉄製機械の羅列なのだ。小山の様なシリンダア、猛獣の様にうなる大飛輪、真黒な牙と牙とをかみ合せる大歯車の争闘、怪物の腕に似たオッシレーティング・レヴァー、気違い踊りの、スピード・ヴァーナー、縦横無尽に交錯するシャフト・ロッド、滝の様なベルトの流れ、或はベベルギア、オーム・エンド・オームホイール、ベルトプーレイ、チェーンベルト、チェーンホイール、それが凡て真黒な肌に膩汗をにじませて、気違いの様に盲目滅法に廻転しているのだ。お前は博覧会の機械館を見たことがあるだろう。あすこには技師や説明者や番人などがいるし、範囲も一つの建物の中に限られ、機械は凡て用途を定めて作られた正しいものばかりだが、私の機械国は、広大な、無際涯に見える一つの世界が、無意味な機械を以て隈なく覆われているのだ。そして、そこは機械の王国なのだから外の人間や動植物などは影も形も見えないのだ。地平線を覆って、独りで動いている大機械の平原、そこへ這入った小さな人間が何を感ずるかは、お前にも想像が出来るであろう。
其外、美しい建築物を以て充された大市街や、猛獣毒蛇毒草の園や、噴泉や滝や流れや様々の水の遊戯を羅列した、しぶきと水煙の世界なども已に設計は出来ている。いつとはなく、それらの一つ一つの世界を夜毎の夢の様に見尽して、旅人は、最後に渦巻くオーロラと、むせ返る香気と、万花鏡の花園と、華麗な鳥類と、嬉戯する人間との夢幻の世界に這入るのだ。だが、私のパノラマ島の眼目は、ここからは見えぬけれど、島の中央に今建築している、大円柱の頂上の花園から、島全体を見はらした美観にあるのだ。そこでは島全体が一つのパノラマなのだ。別々のパノラマが集って又一つの全く別なパノラマが出来ているのだ。この小さな島の上に幾つかの宇宙がお互に重なり合い、食違って存在しているのだ。だが、私達はもうこの平野の出口へ来て了った。さあ手をお貸し、私達は又暫く狭い道を通らなければならないのだ」
広原のある箇所に、間近く寄って見ないでは分らぬ様な、一つのくびれがあって、忍びの道はそこに薄暗く生い茂った雑草をかき分けて進む様になっています。その中におりて暫く行くと、雑草は益々深くなって、いつしか二人の全身を覆って了い、道は又、あやめもわかぬ暗闇へと這入って行くのでありました。
そこにはどの様な不思議な仕掛けがしてあったのか、それとも又、ただ千代子の幻覚に過ぎなかったのか、一つの景色から、僅かばかりの暗闇を通って、今一つの景色へと現れるのが、何かこう夢の様で、一つの夢から又別の夢へと移る時の、あの曖昧な、風に乗っている様な、その間全く意識を失っている様な、一種異様な心持なのでした。随って、その一つ一つの景色は、全く平面を異にした、例えば三次の世界から四次の世界へと飛躍でもした感じで、ハッと思う間に、今まで見ていた同一地上が、形から色彩から匂に至るまで、まるで違ったものに変っているのでした。それは本当に夢の感じか、そうでなければ、活動写真の二重焼付けの感じです。
そして、今二人の目の前に現れた世界は、廣介はそれを花園と称していたのですけれど、一般に花園という文字から聯想される何物でもなくて、乳色に澱んだ空と、その下に不思議な大波の様に起伏する丘陵の肌が、一面に春の百花によって、爛れているに過ぎないのです。併し、それの余りの大規模と、空の色から、丘陵の曲線と百花の乱雑に至るまで、悉く自然を無視した、名状の出来ない人工の為に、その世界に足を踏み入れたものは、暫く茫然として佇む外はないのでした。
一見単調に見えるこの景色の内には、何かしら、人間界を離れて、例えば悪魔の世界に入った様な、異様な感じを含んでいました。
「お前、どうかしたのか。目まいがするのか」
廣介は驚いて、倒れかかる千代子の身体を支えました。
「エエ、何ですか頭が痛くって……」
むせる様な香気が、例えば汗ばんだ人間の肉体から発散する異臭に似て、併し決して不快ではない所の香気が、先ず彼女の頭の芯をしびれさせたのです。それに、不思議な花の山々の、無数の曲線の交錯が、まるで小舟の上から渦巻き返す荒浪を見る様に、恐しい勢で彼女を目がけておし寄せるかと疑われたのです。決して動きはしないのです。でもその動かぬ丘陵の重なりには、考案者の不気味な奸計が隠されていたとしか考えられません。
「私、何だか恐しいのです」
漸く立直った千代子は、目をふさぐ様にして、僅かに口を利きました。
「何がそんなに恐しいの」
廣介は脣の隅に、ほのかな笑いを震わせて聞きました。
「何だか分りませんわ。こんなに花に包まれていて、私は無上に淋しい気がいたします。来てはならない所へ来た様な、見てはならないものを見ている様な気持なのですわ」
「それはきっと、この景色が余り美しいからだよ」廣介はさり気なく答えました。「それよりも、御覧。あすこへ、私達の迎いのものがやって来たから」
とある花の山蔭から、まるで御祭の行列の様に、しずしずと一組の女達が現われました。多分身体全体を化粧しているのでしょう、青味がかった白さに、肉体の凹凸に応じて、紫色の隈を置いた、それ故に一層陰影の多く見える裸体が、背景の真赤な花の屏風の前に、次々と浮出して来るのです。
彼女等は、テラテラと膩ぎったたくましい足を、踊る様に動かし、黒髪を肩に波うたせ、真赤な脣を半月形に開いて、二人の前に近寄り、無言のまま、不思議な円陣を作るのでした。
「千代子、これが私達の乗物なのだ」
廣介は千代子の手を取って、数人の裸女によって作られた蓮台の上におし上げ、自分もそのあとから、千代子と並んで、肉の腰掛に座を占めました。
人肉の花びらは、開いたまま、その中央に廣介と千代子とを包んで、花の山々を巡り始めるのです。
千代子は、目の前の世界の不思議さと、裸女達の余りの無感動に幻惑して、いつしかこの世の羞恥を忘れて了った形でした。彼女は、膝の下に起伏する、肥え太った腹部の柔か味を、寧ろ快くさえ感じていました。
丘陵と丘陵との間の、谷間とも見るべき部分に、細い道は幾曲りしながら続きました。その裸女達の素足が踏みしだく所にも、丘と同じ様に百花が乱れ咲いているのです。肉体の柔かなバネ仕掛けの上に、深々としたこの花の絨毯は、彼等の乗物を、一層滑かに心地よくしました。
併し、この世界の美は、絶えず彼等の鼻をうっている、不思議な薫よりも、乳色に澱んでいる異様な空の色よりも、いつから始まったともなく、春の微風の様に、彼等の耳を楽しませている、奇妙な音楽よりも、或は又、千紫万紅、色とりどりの花の壁よりも、その花に包まれた山々の、語り得ぬ不思議な曲線にありました。人はこの世界に於て、始めて、曲線の現し得る美を悟ったでありましょう。自然の山岳と、草木と、平野と、人体の曲線に慣れた人間の目は、ここにそれらとはまるで違った曲線の交錯を見るのです。どの様な美女の腰部の曲線も、或はどの様な彫刻家の創作も、この世界の曲線美には比べることが出来ません。それは自然を描き出した造物主ではなくて、それを打ち亡ぼそうと企らむ悪魔だけが描き得る線であったかも知れません。ある人はそれらの曲線の重なりから、異常なる性的圧迫を感ずるでありましょう。併しそれは決して現実的な感情を伴うものではないのです。我々は悪夢の中でのみ、往々にしてこの種の曲線に恋することがあります。廣介は、その夢の世界を、現実の土と花とを以て、描き出そうと試みたものに相違ありません。それは崇高というよりも、寧ろ汚穢で、調和的というよりも、寧ろ乱雑で、その一つ一つの曲線と、そこに膿み爛れた百花の配置は、快感よりは一層限りなき、不快を与えさえします。それでいて、その曲線達に加えられた不可思議なる人工的交錯は、醜を絶して、不協和音ばかりの、異様に美しい大管絃楽を奏しているのでありました。
又、この風景作家の異常なる注意は、裸女の蓮台が通り過ぎる所の、谿間の花の細道が作る曲線にまでも行届いていたのです。そこには曲線そのものの美ではなくて、曲線に沿って運動するものの感ずる、謂わば肉体的快感が計画されていました。或は緩かに、或は急角度に、或は上り、或は下り、道は上下左右に様々の美しい曲線を描きました。それは例えば、空中に於て飛行家が味わう様な、又、我々がつづら折の峠道を走る自動車の中で感ずる様な、曲線運動の快感の、もっと緩かに且つ美化されたものと云えばいいでしょうか。
時々上り坂はありながら、道は少しずつある中心点に向って下って行く様に見えました。そして、異様なる香気と、地の底からの様に響く音楽とは、層一層その度を高め、遂には、彼等の鼻をも耳をも、その美しさに無感覚にして了う程も、絶え間なく続くのでした。
時とすると、谿間は広々とした花園と開け、その彼方に、空へのかけ橋の様に、花の山がそびえ、その茫漠たる斜面に、吉野山の花の雲を数倍した、幻怪なる光景を展開しました。そして、一層驚くべきは、その斜面と広野との、虹の様な花を分けて、点々と、幾十人の裸体の男女の群が、遠くのものは白豆の様に小さく、嬉々としてアダムとイヴの鬼ごっこをやっていることでした。山を駈け降り、野を横切って、黒髪を風になびかせた一人の女が、彼等から一間ばかりの所へ来て、バッタリ倒れました。すると、彼女を追って来た一人のアダムは、彼女を抱き起して、彼の広い胸の前に、一文字に抱えると、抱くものも、抱かれたものも、この世界に充満する音楽に合せて、高らかに歌いながら、しずしずと彼方へ立去るのでした。
又ある箇所には、細い谷間の道を覆って、アーチの様に、白鯰のユーカリ樹の巨木が腕をのべ、その枝もたわわに裸女の果実が実っていました。彼女等は、太い枝の上に身を横え、或は両手でぶら下って、風にそよぐ木の葉の様に、首や手足をゆすりながら、やっぱりこの世界の音楽を合唱しているのです。裸女の蓮台は、その果実の下を、凡そ無関心を以て、静に練って行くのです。
延長にして一里はたっぷりあったと思われる、道々の花の景色、その間に千代子の味った不思議な感情、作者はそれをただ、夢とのみ、或は瑰麗なる悪夢とのみ、形容するの外はありません。
そして、遂に彼等が運ばれたのは、巨大なる花の擂鉢の底でありました。
そこの景色の不思議さは、擂鉢の縁に当る、四周の山の頂から、滑かな花の斜面を伝って、雪白の肉塊が、団子の様に珠数継ぎにころがり落ちて、その底にたたえられた浴槽の中へしぶきを立てていることでした。そして、彼女等は、擂鉢の底の湯気の中を、バチャバチャと跳ね廻りながら、あののどかな歌を合唱するのです。
いつ着物を脱がされたのか、殆ど夢中の間に、千代子等も華やかな浴客達に混って、快い湯の中につかっていました。不自然な衣服を着けていることが、寧ろ恥かしくなるこの世界では、千代子も彼女自身の裸体を殆ど気にしないでいられたのです。そして、彼等を乗せた裸女達は、ここでこそ文字通り蓮台の役目を勤め、長々と寝そべって、首から下を湯につけた二人の主人を、彼女達の肉体によって支えなければなりませんでした。
それから、名状の出来ぬ一大混乱が始ったのです。肉塊の滝つ瀬は、益々その数を増し、道々の花は踏みにじられ、蹴散らされて、満目の花吹雪となり、その花びらと湯気としぶきとの濛々と入乱れた中に、裸女の肉塊は、肉と肉とを擦り合せて、桶の中の芋の様に混乱して、息も絶え絶えに合唱を続け、人津浪は、或は右へ或は左へと、打寄せ揉み返す、その真只中に、あらゆる感覚を失った二人の客が、死骸の様に漂っているのでした。
そうして、いつの間にか夜が来たのです。乳色であった空は、夕立雲の黒色に変り、百花の乱れ咲いた、なまめかしき丘々も、今は物凄い黒入道と聳え、あの騒がしい人肉の津浪も、合唱も、引潮の様に消え去って、夜目にもほの白く立昇る湯気の中には、廣介と千代子とただ二人が取残されていました。彼等の蓮台を勤めた女共も、ふと気がつくと、もう影も形も見えないのです。その上、この世界を象徴するかに見えた、あの一種異様の妖艶な音楽も、余程以前から聞えないのです。底知れぬ暗闇と共に、黄泉の静寂が、全世界を領していました。
「マア」
やっと人心ついた千代子は、幾度となく繰返した感嘆詞を、もう一度繰返さないではいられませんでした。そして、ほっと息をつくと、今まで忘れていた恐怖が、吐き気の様に、彼女の胸にこみ上げて来たのです。
「サア、あなた、もう帰りましょうよ」
彼女は暖い湯の中で震えながら、夫の方をすかして見ました。水面から首丈けが、黒いブイの様に浮上って、彼女の言葉を聞いても、それは動きもしなければ、何の返事をもしないのです。
「あなた、そこにいらっしゃるのは、あなたですわね」
彼女は恐怖の叫声を上げて、黒い塊の方へ近より、その頸と覚しきあたりを捉えて、力一杯ゆすぶるのでした。
「ウウ、帰ろう。だが、その前にもう一つ丈けお前に見せたいものがあるのだよ。まあそう怖がらないで、じっとしているがいい」
廣介は、何か考え考え、ゆっくりと答えました。その答え方が一層千代子を恐れさせたのです。
「私、今度こそ本当に、もう我慢が出来ませんわ。私は怖いのです。ごらんなさいな。こんなに身体が震えていますのよ。もうもうこんな恐しい島になんか、一時だって我慢が出来ませんわ」
「本当に震えているね。だが、お前は何がそんなに恐しいのだい」
「何がって、この島にある不気味な仕掛けが恐しいのです。それをお考えなすったあなたが恐しいのです」
「私がかい」
「ええ、そうですのよ。でも、お怒りなすっては厭ですわ。私にはこの世の中にあなたの外には何にもないのです。それでいて、この頃は、どうかしたはずみで、ふとあなたが恐しくなるのです。あなたが本当に私を愛して下さるかが疑わしくなって来るのです。こんな不気味な島の、暗闇の中で、ひょっとして、あなたが、実はお前を愛していないのだなんて、おっしゃりはしないかと思うと、私はもう恐くて怖くて……」
「妙なことを云い出したね。お前はそれを今云わない方がいいのだよ。お前の心持は私にもよく分っているのだ。こんな暗闇の中でどうしたもんだ」
「だって、今丁度そんな気がし出したのですもの、多分私、あんな色々なものを見て、興奮してますのね。そして、いつもよりは思ったことが云える様な気持なのですわ。でも、あなたお怒りなさらないでね。ね」
「お前が私を疑っていることは、よく知っているよ」
千代子は、この廣介の口調にハッとして、突然口をつぐみました。不思議なことには、彼女はいつであったか、現実にか、或は夢の中でか、そっくりこの通りの情景を経験したことがある様に思われて来ました。それは何かしら、彼女がこの世に生れて来る以前の出来事らしくもあるのです。その時も、彼等は地獄の様な暗闇の中で、湯の上に首丈けを出して、小さな小さな二人の亡者の様に向き合っていました。そして、相手の男はやっぱり、「お前が私を疑っていることは、よく知っているよ」と答えたのです。その次に、彼女はどんなことを云ったか、男がどんな態度を示したか、或はどんな恐しい終局であったか、そうしたあとのことは、はっきり分っている様でいて、さてどうしても思出せないのです。
「私はよく知っているのだよ」
廣介は、千代子が黙したのを、追駈ける様に繰返しました。
「いいえ、いいえ、いけません、もうおっしゃらないで下さいまし」千代子は、廣介が続け相にするのを押止めて叫びました。「私は、あなたとお話するのが怖いのです。それよりも、何もおっしゃらないで、早く、早く私をつれ帰って下さいまし」
その時でした。暗闇を裂く様な、烈しい音響が耳をつんざいたかと思うと、いきなり夫の首に取りすがった千代子の頭上に、パリパリと火花が散って、化物の様な五色の光物が拡ったのです。
「驚くことはない。花火だよ。私の工夫したパノラマ国の花火だよ。ソレごらん。普通の花火と違って、私達のは、あんなに長い間、まるで空に映した幻燈の様にじっとしているのだよ。これだよ、私がさっきお前に見せるものがあると云ったのは」
見れば、それは廣介の云う通り、丁度雲に映った幻燈の感じで、一匹の金色に光った大蜘蛛が、空一杯に拡っているのです。しかも、それが、はっきりと描かれた八本の足の節々を、異様に蠢かせて、徐々に彼等の方へ落ちて来るのでした。仮令それが火を以て描かれた絵とは云え、一匹の大蜘蛛が真暗な空を覆って、最も不気味な腹部をあらわに見せて、もがき乍ら頭上に近づいて来る景色は、ある人にとっては、こよなき美しさであろうとも、生来蜘蛛嫌いの千代子には、息づまる程恐しく、見まいとしても、その恐しさに、やっぱり不思議な魅力があってか、ともすれば彼女の目は空に向けられ、その都度都度、前よりは一層間近く迫る怪物を見なければならぬのでした。そして、その景色そのものよりも、もっともっと彼女を震い上らせたのは、この大蜘蛛の花火をも、彼女はいつかの経験の中で見ていた、あれも、これも、すっかり二度目だという意識でした。
「私はもう花火なんか見たくはありません。そんなにいつまでも私を怖がらせないで、本当に、帰らせて下さいまし。サア、帰りましょうよ」
彼女は歯の根をかみしめて、やっと云うのでした。併し、その時分には、火の蜘蛛は、もう跡方もなく闇の中へ溶込んでいたのです。
「お前は花火までが怖いのかい。困った人だな。今度はあんな気味の悪いのではなくて綺麗な花が開く筈だ。もう少し辛抱して見るがいい。ソラ、この池の向側に黒い筒が立っていたのを覚えているだろう。あれが煙火の筒なんだよ。この池の下に私達の町があって、そこから私の家来達が花火を揚げているのだよ。ちっとも、不思議なことも、怖いこともありゃしない」
いつか廣介の両手が、鉄の締木の様に、異様な力を以て、千代子の肩を抱き締めていました。彼女は今は、猫の爪にかかった鼠の様に、逃げようとて逃げることも出来ないのです。
「アラ」それを感ずると、彼女はもう悲鳴を揚げないではいられませんでした。「ご免なさい。ご免なさい」
「ご免なさいだって、お前は何をあやまることがあるんだい」廣介の口調は段々一種の力を加えて来ました。「お前の考えていることを云ってごらん。私をどんな風に思っているか、正直に云ってごらん。サア」
「ああ、とうとう、あなたはそれをおっしゃいました。でも、私は今は怖くって怖くって」
千代子の声は泣きじゃくる様に、途切れ途切れでした。
「だが、今が一番いい機会なのだ。私達の側には誰もいない。お前が何を云おうと、お前が恐れている様に、世間には聞えないのだ。私とお前の間に、何のかくし立てがいるものか。サア、一思いに云ってごらん」
真暗な谷間の浴槽の中で、不思議な問答が始ったのです。その情景が異常である丈け、二人の心持には、多少狂気めいた分子が加わっていなかったとは云えません。殊に千代子の声は、もう妙に上ずっていたのです。
「では申上げますが」千代子はふと人が変った様に、雄弁に喋り始めました。「打開けて申しますと、私もあなたから聞きたくって聞き度くって仕様がなかったのです。どうかそんなにじらさないで、本当のことをおっしゃって下さいまし。……あなたは若しや菰田源三郎とは、全く別な方ではなかったのですか。サア、それを聞かせて下さいまし。あの墓場から生き返っていらしってからというもの、長い間私は、あなたが本当のあなたかどうかを疑っていたのでございます。源三郎はあなたの様な恐しい才能を、まるで持ってはいませんでした。この島へ来ます以前から、私はもう、多分あなたも御気附きになっていらっしゃることで、半分はその疑いを確めて居りました。それに、ここの色々の気味の悪い、それでいて、不思議と人を惹きつける景色を見ますと、あとの半分の疑いも、はっきり解けて了った様に思うのでございます。サア、それをおっしゃって下さいまし」
「ハハハハハハ、お前はとうとう本音を吐いたね」廣介の声音は、いやに落ちついていましたが、どこか自暴自棄の調子を隠すことは出来ませんでした。「私は飛んだ失敗をやったのだ。私は愛してはならぬ人を愛したのだ。私はどんなにそれを堪え堪えしただろう。だが、もう一寸という所で、とうとう辛抱が出来なかった。そして、私の心配した通り、お前は私の正体を悟って了ったのだ。……」
それから、廣介は、彼も亦憑かれた者の雄弁を以て、彼の陰謀の大略を物語るのでした。その間にも、何も知らぬ地下の花火係は、主人達の目を喜ばせようと、用意の花火丸を、次から次へ打上げていました。或は奇怪なる動物共の、或は瑰麗なる花形の、或は荒唐無稽な様々の形の、毒々しく青に赤に黄に、闇の天空にきらめき渡る火焔は、そのまま谷底の水面を彩り、その中にポッカリ浮上っている、二つの西瓜の様な彼等の頭を、その表情の微細な点に至るまで、舞台の着色照明そのままに、異様に映し出すのでした。
一心に喋り続ける廣介の顔が、或る時は酔っぱらいの赤面となり、或る時は死人の様に青ざめ、或る時は黄疸病みの物凄い形相を示し、又ある時は真暗闇の中の声のみとなり、それが奇怪なる物語の内容と入れ混って、極度に千代子を脅すのでした。千代子は余りの恐さに堪えがたくなって、幾度か、その場を逃げ出そうと試みたのですが、廣介の物狂わしき抱擁はいっかな彼女を離すことではありませんでした。
「お前は、どの程度まで私の陰謀を察していたか知らない。敏感なお前は定めし可也深い所まで想像を廻らしてもいただろう。だが、流石のお前も、私の計画なり理想なりが、これ程根強いものとは、まさか知らなかっただろうね」
物語りを終ると、丁度その時は真赤な花火が、まだ消えやらず空を染めていましたが、その赤鬼の形相を以て、廣介はじっと千代子を睨みつけるのでした。
「帰して、帰して――」
千代子は、もうさい前から、外聞を忘れて、泣きわめきながら、ただこの一ことを繰返すばかりでした。
「聞け、千代子」廣介は彼女の口をふさぐ様にして、怒鳴りつけました。「こんなに打開けて了ってから、お前をただ帰すことが出来ると思っているのか。お前はもう俺を愛さないのか。昨日まで、いやたった先程まで、お前は俺が本当の源三郎であるかどうかを疑いながら、やっぱり俺を愛していたではないか。それが、俺が正直に告白をして了うと、もう俺を仇敵の様に憎み恐れるのか」
「離して下さい。帰して下さい」
「そうか、じゃあ、お前はやっぱり、俺を夫の讐だと思っているのだな。菰田家の仇と思っているのだな。千代子、よく聞くがいい。俺はお前がこの上もなく可愛い。一層お前と一緒に死んで了い度い程に思っているのだ。だが、俺にはまだ未練がある。人見廣介を殺し、菰田源三郎を蘇生させる為に、俺はどれ程の苦心をしたか。そしてこのパノラマ国を築くまでにどの様な犠牲を払ったか。それを思うと、今一月程で完成するこの島を見捨てて死ぬ気にはなれない。だから、千代子、俺はお前を殺す外に方法はないのだ」
「殺さないで下さい」それを聞くと千代子はかれた声をふり絞って叫ぶのです。「殺さないで下さい。何でもあなたのおっしゃる通りにします。源三郎として今までの様にあなたにつかえます。誰にも云いません。これから先も口へは出しません。どうか殺さないで下さい」
「それは本気か」煙火の為に真青に彩られた廣介の顔の、目ばかりが紫色にギラギラと輝いて、突き通す様に千代子を睨みつけました。「ハハハハハハハ、駄目だ、駄目だ。俺はもう、お前が何と云おうが、信ずることは出来ないのだ。ひょっとしたら、お前はまだ幾らかは俺を愛していてくれるかも知れない。お前の云うことが本当かも知れない。だが何の証拠があるのだ。お前を生かして置いては俺の身が亡びるのだ。よし又、お前は他人に知らせぬ積りでいても、俺の告白を聞いて了った以上、女のお前の腕前では、迚も俺だけの虚勢がはれるものではない。いつとなくお前のそぶりがそれを打開けて了うのだ。どっちにしても、俺はお前を殺す外に方法はないのだ」
「いやです、いやです。私には親があるのです。兄弟があるのです。助けて下さい、後生です。本当に木偶の坊の様に、あなたの云いなり次第になります。離して、離して」
「そら見ろ。お前は命が惜しいのだ。俺の犠牲になる気はないのだ。お前は俺を愛してはいないのだ。源三郎丈けを愛していたのだ。いや、仮令源三郎と同じ顔形の男を愛することが出来ても、悪人のこの俺丈けは、どうしても愛せないのだ。俺は今こそ分った。俺はどうあってもお前を殺す外はない」
そして、廣介の両腕は、千代子の肩から徐々に位置を換えて、彼女の首に迫って行くのでした。
「ワワワワワワ、助けて……」
千代子はもう無我夢中でした。彼女はただ身を逃れることの外は考えなかったのです。遠い祖先から受継いだ護身の本能は、彼女をして、ゴリラの様に歯をむかせました。そして、殆ど反射的に、彼女の鋭い、犬歯は、廣介の二の腕深く喰い入ったのです。
「畜生ッ」
廣介は思わず手をゆるめないではいられませんでした。その隙に、千代子は日頃の彼女からはどうしても想像することの出来ない、す早さで、廣介の腕をくぐり抜けると、恐しい勢で、海豹の様に水中を跳ねて、真暗な彼方の岸へと逃れました。
「助けて……」
劈く様な悲鳴が四周の小山に響き渡りました。
「馬鹿、ここは山の中だ。誰が助けに来るものか、昼間の女共は、もうこの地の底の部屋に帰ってぐっすり寐込んでいるだろう。それに、お前は逃げ道さえ知らないのだ」
廣介は態と余裕を見せて、猫の様に彼女へ近寄るのです。地上には何者もいないことは、この王国の主である彼にはよく分っていました。少しばかり心配なのは、彼女の悲鳴が、花火の筒を通して、遙かの地下へ伝わりはしないかということでしたが、幸いにも彼女の上陸したのは、それの反対側でしたし、又地下の花火打上装置のすぐ側には、発電用のエンジンがひどい音を立てていて、滅多に地上の声などが聞える筈はないのでした。それにもっと安心なのは、丁度今十幾発目かの花火が打上げられて、さっきの悲鳴はその音の為に、殆ど打消されて了ったことです。
まだ消えやらぬ、金色の火焔は、あちこちと出口を探して逃げ惑う千代子の痛ましい姿を、まざまざと映し出しています。廣介は一飛びに彼女の身体に飛びついて、そこへ折重なって倒れると、何の苦もなくその首に両手を廻すことが出来ました。そして、彼女が第二の悲鳴を発する前に、彼女の呼吸はもう苦しくなっていたのです。
「どうか許してくれ、俺は今でもお前を愛している。だが俺は余り慾が深いのだ。この島で行われる数々の歓楽を見捨てることが出来ないのだ。お前一人の為に身を亡す訳には行かぬのだ」
果てはぽろぽろと涙をこぼして、廣介は「許してくれ、許してくれ」を連呼しながら、益々固く腕を締めて行きました。彼の身体の下では、肉と肉とを接して、裸体の千代子が、網にかかった魚の様に、ピチピチと躍っているのです。
人工花山の谷底、あたたかく匂やかな湯気の中で、奇怪なる花火の五色の虹を浴び、ざれ狂う二匹の獣の様に、二人の裸体がもつれ合う。それは恐しい人殺しなんかではなくて、寧ろ酔いしれた男女の裸踊りとも眺められたのです。
追い廻す腕、逃げまどう肌、ある時は、密着した頬と頬との間に、鹽っぱい涙が混り合い、胸と胸とが狂わしき動悸の拍子を合せ、その滝つ瀬のあぶら汗は、二人の身体をなまこの様なドロドロのものに解きほぐして行くかと見えました。
争闘というよりは、遊戯の感じでした。「死の遊戯」というものがあるならば、正しくそれでありましょう。相手の腹にまたがって、その細首をしめつけている廣介も、男のたくましい筋肉の下で、もがきあえいでいる千代子も、いつしか苦痛を忘れ、うっとりとした快感、名状出来ない有頂天に陥って行くのでした。
やがて、千代子の青ざめた指が、断末魔の美しい曲線を描いて、幾度か空を掴み、彼女のすき通った鼻の穴から、糸の様な血のりが、トロトロと流れ出ました。そして、丁度その時、まるで申合せでもした様に、打上げられた花火の、巨大な金色の花瓣は、クッキリと黒天鵞絨の空を区切って、下界の花園や、泉や、そこにもつれ合う二つの肉塊を、ふりそそぐ金粉の中にとじこめて行くのでした。千代子の青白い顔、その上に流れる糸の様に細く、赤漆の様につややかな、一筋の血のり、それがどんなに静にも美しく見えたことでしょう。
人見廣介がT市の菰田邸に帰らなくなったのは、その日からでした。彼は全くパノラマ国の住人として――この物狂わしき王国の君主として、沖の島に永住することになりました。
「千代子はこのパノラマ国の女王様だ。人間界へは決して二度と姿を見せないだろう。お前はこの島にある群像の国を見ただろうか。時として千代子は、あの目まぐるしく林立した裸体像の一人になりすましていることもあるのだよ。そうでない時には海の底の人魚か、毒蛇の国の蛇使いか、花園に咲き乱れた花の精か、そして、その様な遊びにも飽き果てると、この壮麗な宮殿の奥深く、錦のとばりに包まれた、栄耀栄華の女王様だ。この楽園の生活を、どうして彼女が好まないことがあろう。彼女は丁度昔話の浦島太郎の様に、時を忘れ、家を忘れてこの国の美しさに陶酔しているのだ。お前方はちっとも心配なぞすることはないのだよ。お前のいとしい主人は、今幸福の絶頂にあるのだから」
千代子の年とった乳母が主人の安否を気遣って、態々沖の島へ彼女をお迎いにやって来た時、廣介は、島の地下を穿って建築した壮麗な宮殿の玉座に坐って、まるで一国の帝王がその臣下を引見する様な、おごそかな儀礼を以て、この昔者の老婆を驚かせました。老婆は廣介の美しい言葉に安堵したのか、それとも、その場の光景の物々しさにうたれたのか、返す言葉もなく引下る外はなかったのです。
凡てがこの調子でありました。千代子の父には重ね重ねの莫大な引出物、その外の親類縁者には、あるものには経済上の圧迫、あるものにはその反対に惜しげもない贈物、それから官辺へのつけ届けなども、角田老人の手によって、抜かりなく実行されていたのです。
一方島の人々は、千代子女王の姿を垣間見ることさえ許されませんでした。彼女は昼も夜も、地下の宮殿の奥深く、廣介の居間の裏側の、重いとばりの蔭にかくれ、何人たりとも、その部屋に入ることを禁ぜられていたのです。でも、主人の異常な嗜好を知っている島の人々は、定めしそのとばりの奥には、王様と女王様丈けの、歓楽と夢の世界が秘められているのであろうと、ニヤニヤ笑いながら噂し合う位で、誰一人疑いを抱くものとてもありません。一体島の人達は、数人の男女を除いては、千代子の顔をはっきり見知っている者もなく、ふと行きずりに女王様のお姿を見たところで、それが果して本当の千代子かどうかを見分ける力もないのでした。
斯様にして、殆ど不可能な事柄がなしとげられたのです。廣介は菰田家の限りなき財力によって、あらゆる困難に打勝ち、凡ての破綻を取りつくろうことが出来ました。今まで貧乏だった親類縁者が忽ちにして俄分限となり、みじめだった曲馬団の踊子、活動女優、女歌舞伎達は、この島では日本一の名優の様に好遇され、若い文士、画家、彫刻家、建築師達は、小さな会社の重役程の手当を受けているのです。仮令そこが恐しい罪の国であったとしても、その人達にどうしてパノラマ島を見捨てる勇気がありましょう。
そして、遂に地上の楽園は来たのでした。
類を絶したカーニバルの狂気が、全島を覆い始めました。花園に咲く裸女の花、湯の池に乱れる人魚の群、消えぬ花火、息づく群像、踊り狂う鋼鉄製の黒怪物、酩酊せる笑い上戸の猛獣共、毒蛇の蛇踊り、その間をねり歩く美女の蓮台、そして、蓮台の上には、錦の衣に包まれたこの国々の王様、人見廣介の物狂わしき笑い顔があるのです。
蓮台は時として、島の中央に完成したコンクリートの大円柱の、それには一面に青い蔦が這い、その間をこれは又鉄の蔦の様な螺旋階が、ネジネジと頂上まで続いているのですが、その螺旋階をよじ昇ることもありました。
そこの頂上の奇怪な蕈形の傘の上からは、島全体を、遙かなる波打際まで一目に見渡すことが出来たのですが、その眺望の不可思議を何に例えたらよいのでしょう。下界でのあらゆる風景は、螺旋階を昇ると共に消え去って、花園も池も森も人も、ただ見る幾重畳の大岩壁と変り、頂上からは、それらの紅がら色の岩壁が丁度一輪の花の各々の花瓣の形で、遙かの波打際まで重なり合って見えるのです。パノラマ国の旅人は、様々の奇怪な景色の後で、この思いも設けぬ眺望に、又しても一驚を吃しなければなりません。それは例えば、島全体が、大海に漂う一輪の薔薇でありましょうか、巨大なる阿片の夢の真紅の花が、空なるおてんとう様と、たった二人で、対等の交際をしているのです。その類なき単調と巨大とが、どの様に不思議な美しさを醸し出していたか。ある旅人はともすれば彼の遠い遠い祖先が見たであろう所の、かの神話の世界を思い出したかも知れないのですが、……
それらのすばらしい舞台での日夜を分たぬ狂気と淫蕩、乱舞と陶酔の歓楽境、生死の遊戯の数々を、作者は如何に語ればよいのでありましょう。それは恐らく、読者諸君のあらゆる悪夢の内、最も荒唐無稽で、最も血みどろで、そして最も瑰麗なるものに、幾分似通っているのではないかと思われるのですが。
読者諸君、この一篇のお伽噺は、ここに目出度く大団円を告げるべきでありましょうか。人見廣介の菰田源三郎は、かくして彼の百歳まで、この不可思議なパノラマ国の歓楽に耽り続けることが出来たのでありましょうか。いやいや、そうではなかったでしょう。古風な物語の癖として、クライマックスの次には、カタストロフィという曲者が、ちゃんと待ち構えていた筈です。
ある日のこと、人見廣介は、ふと、何故とも知らぬ不安に襲われたのでした。それは若しかしたら、世に云う勝利者の悲哀であったかも知れません。絶え間なき歓楽から来た一種の疲労であったかも知れません、或は又、過去の罪業に対する心の底の恐怖が、ソッと彼のうたた寝の夢を襲ったのであったかも知れません。併し、その様な理由の外に、ある一人の男が、その男の身辺を包む空気と一緒に、ソッとこの島へ持って来た、不思議な凶兆とも云うべきものが、或は廣介のこの不安の最大の原因ではなかったのでしょうか。
「オイ君、あの池の側にボンヤリ立っている男は、一体誰なのだ。一向見覚えのない男だが」
彼は最初その男を、花園の湯の池のほとりに見出しました。そして、側に侍っていた一人の詩人にこう尋ねたのです。
「御主人は御見忘れになりましたか」詩人が答えて云うのには、「あれは私共と同じ様な文学者なのです。二度目に御傭いなすった内の一人なのです。この間暫く国へ帰ったとかで、見かけなかった様ですが、多分今日の便船で帰って来たのではありますまいか」
「アア、そうだったか。そして、名前は何というのだ」
「北見小五郎とか申しました」
「北見小五郎、私は一向思い出せないが」
その男が不思議に記憶に残っていないことも、何かの凶兆ではなかったのでしょうか。それからというもの、廣介はどこにいても、北見小五郎という文学者の目を感じました。花園の花の中から、湯の池の湯気の向うから、機械の国ではシリンダーの蔭から、彫像の園では群像の隙間から、森の中の大樹の木蔭から、彼はいつでも廣介の一挙一動を見つめている様に思われました。
そしてある日のこと、かの島の中央の大円柱の蔭で、廣介は余りのことに、遂にその男を捉えたのでした。
「君は北見小五郎とか云ったね、僕が行く所には、いつでも君がいるというのは、少しばかりおかしい様に思うのだが」
すると、憂鬱な小学生の様に、ボンヤリと円柱に凭れていた相手は、青白い顔を少し赧らめながら、うやうやしく答えるのです。
「イエ、それはきっと偶然でございましょう。御主人」
「偶然? 多分君の云う通りなのであろう。だが、君は今そこで何を考えていたのだね」
「昔読んだ小説のことを考えて居りました。非常に感銘の深い小説でした」
「ホウ、小説? なる程君は文学者だったね。して、それは誰の何という小説なのだね」
「御主人は多分御存じありますまい。無名作家の、しかも活字にならなかったものですから。人見廣介という人の『RAの話』という短篇小説なのです」
廣介は突然昔の名前を呼ばれた位で驚くには、余りに鍛錬を経ていました。彼は相手の意外な言葉に、顔の筋一つ動かさないで、そればかりか、はからずも、彼の昔の作物の愛読者を見出した、不思議な喜びをさえ感じながら、懐しく言葉を続けるのでありました。
「人見廣介、知っているよ。お伽噺の様な小説を書く男であったが、あれは君、僕の学生時代の友達なのだよ。友達といっても、親しく話したこともないのだけれど。だが、『RAの話』というのは読まなかった。君はどうしてその原稿を手に入れたのだね」
「そうですか、では御主人のお友達だったのですか。不思議なこともあるものですね。『RAの話』は一九――年に書かれたのですが、その頃は御主人はもうT市の方へ御帰りなすっていたのでしょうね」
「帰っていた。その二年ばかり前に分れた切り、人見とはすっかり御無沙汰になっている。だから、彼が小説を書き出したことも、雑誌の広告で知った位なのだよ」
「では、学生時代にも余りお親しい方ではなかったのですか」
「まあそうだね。教室で顔を合せれば挨拶を交す程度の間柄だった」
「私はこちらへ来るまで、東京のK雑誌の編輯局にいたのです。その関係から人見さんとも知合いになり、未発表の原稿も読んでいる訳ですが、この『RAの話』というのは私などは実に傑作だと思っているのですけれど、編輯長が余りに濃艶な描写を気遣って、つい握りつぶしてしまったのです。それというのが、人見さんはまだ駈け出しの、名もない作者だったものですから」
「それはおしいことだったね。して、人見廣介はこの頃ではなにをしているかしら」
廣介は「この島へ呼んでやってもいいのだが」とつけ加えたいのを、やっと我慢したのです。それ程彼は、彼自身の旧悪については、自信があり、真から菰田源三郎になり切っているのでした。
「まだ御存じないと見えますね」北見小五郎は感慨深く云うのです。「あの人は昨年自殺をしてしまったのです」
「ホウ、自殺を?」
「海へはまって死んだのです。遺書があったので自殺ということが分りました」
「何かあったのだね」
「多分そうでしょう。私には分りませんが。……それにしても、不思議なのは、御主人と人見さんと、まるで双児の様によく似ていることです。私は始めてこちらへ参った時、若しや人見さんがこんな所に隠れていたのではないかとびっくりした程でした。無論御主人もそのことは御気づきでしょうね」
「よくひやかされたものだよ。神様がとんだいたずらをなさるものだから」
廣介はさもらいらくに笑って見せました。北見小五郎も、それにつれて、おかしくてたまらぬ様に笑いました。
その日は空が一面に鼠色の雨雲に覆われ、嵐の前といった、いやに静な、ソヨリとも風のない、それでいて島のまわりには、波が獣のうなり声で、不気味に泡立っている様な天候でした。
影のない大円柱は、低い黒雲への、悪魔のきざはしの様に、そそり立って、五抱[#ルビの「いつかか」は底本では「いつかかえ」]えもあるその根本の所に、小さな二人の人間が、しょんぼりと話し合っていました。いつもは裸女の蓮台に乗るか、そうでなければ数人の召使を引きつれている廣介が、この日に限って一人ぽっちでここへ来たのも、一傭人に過ぎない北見小五郎と、こんな長話を始めたのも、不思議と云えば不思議でした。
「本当に、まるで瓜二つです。それに、似ていると云えば、まだ妙なことがあるのです」
北見小五郎は、段々ねばり強く話込んで来るのでした。
「妙なとは?」
廣介も、何かこのまま分れてしまう気にはなれないのです。
「今の『RAの話』という小説がです。ですが、御主人は若しや、人見さんから、その小説の筋の様なものをお聞きなすったことはないのでしょうか」
「イヤ、そんなことはない。さっきも云う通り、人見とはただ学校が同じだったに過ぎない。つまり教室での知合いなのだから、一度だって深く話し合ったことなんかありゃしないのだよ」
「本当でしょうか」
「君は妙な男だね。僕が嘘を云う訳もないではないか」
「ですが、あなたはそんな風に云切っておしまいなすっていいのでしょうか。若しや後悔なさる様なことはありますまいか」
この北見の異様な忠告を聞くと、廣介は何かしらゾッとしないではいられませんでした。でも、それが何であるか、分り切ったことを胴忘れした様で、不思議と思い出せないのです。
「君は一体何を……」
廣介は云いさして、ふと口をつぐみました。ぼんやりと、ある事が分りかけて来たのです。彼の顔は青ざめ、呼吸はせわしくなり、脇の下に冷いものが流れました。
「ソラね、少しずつお分りでしょう。私という男が何の為にこの島へやって来たかが」
「分らない、君のいうことは少しも分らない。狂気めいた話は止しにしてくれ給え」
そして廣介は又笑いました。併しそれはまるで幽霊の笑い声の様に力のないものでした。
「お分りにならなければ、お話しましょう」北見は少しずつ召使の節度を失って行く様に見えました。「『RAの話』という小説の幾つかの場面とこの島の景色とが、どこからどこまで、全く同じだというのです。それは丁度あなたが人見さんに生写しである様に、生写しなのです。若しあなたが人見さんの小説も読まず、話も聞いていらっしゃらぬとしたら、この不思議な一致はどうして起ったのでしょう。暗合というには余りに一致しているのです。このパノラマ島の創作は、『RAの話』の作者と寸分違わぬ思想と興味を持った人でなくては出来ないのです。いくらあなたと人見さんと顔形が似ているといって、思想まで全然同一だとは余り不思議ではありませんか。私は今それを考えていたのですよ」
「それで、どうだというのです」
廣介は呼吸をつめて相手の顔を睨みつけました。
「まだお分りになりませんか。つまりあなたは菰田源三郎でなくて、その人見廣介に相違ないというのです。若しあなたが『RAの話』を読んでいるとか聞いているかしたならば、それを真似てこの島の景色を作ったと云いのがれるすべもあったでしょう。ところがあなたは今、そのたった一つの逃れ道を御自分でふさいでおしまいなすったではありませんか」
廣介は相手の巧みなわなにかかったことを悟りました。彼はこの大事業に着手する前、一応自作の小説類を点検して、別段禍を残す様なもののないことを確めて置いたのですが、握りつぶしになった投書原稿のことまでは気づかなかったのです。「RAの話」なんていう小説を書いたことすら殆ど忘れていた位です。この物語の最初にも述べた様に、彼は書く原稿も書く原稿も大抵は握りつぶしにされた様な、哀れな著述家であったのですから。が、今北見の言葉によって思い出せば、彼は確にその様な小説を書いていました。人工風景の創作ということは、彼の多年の夢であったのですから、その夢が一方では小説となり、一方ではその小説と寸分違わぬ実物として現れたとて、少しも不思議はないのでした。あれ程考えに考えた彼の計画にも、やっぱり手抜りがあったのです。それが物もあろうに没書になった原稿だったとは。彼は悔んでも悔み足りぬ思いでした。
「アア、もう駄目だ。とうとうこいつの為に正体を見現されたかも知れない。だが、待てよ。こいつの握っているのはたかが一篇の小説じゃあないか。まだへこたれるには少し早いぞ。この島の景色が他人の小説に似ていたとて、何も犯罪の証拠にはならないのだから」
廣介は咄嗟の間に、心を定めて、ゆったりした態度を取返すことが出来ました。
「ハハハハ……、君もつまらない苦労をする男だね。僕が人見廣介だって? ナニ人見廣介だって一向構いはしないが、どうも僕は菰田源三郎に相違ないのだから、致方がないね」
「イヤ、私の握っている証拠がそれ丈けだと思っては、大間違いですよ。私は何もかも知っている。知ってはいるのだけれど、あなた自身の口から白状させる為に、こんな廻りくどい方法を採ったのです。いきなり警察沙汰なんかにしたくない理由があったものですから。という訳は、私はあなたの芸術には心から敬服しているのです。いくら東小路伯爵夫人のお頼みだからといって、この偉大な天才を、むざむざ浮世の法律なんかに裁かせたくないからです」
「すると、君は東小路からの廻し者なんだね」
廣介はやっと意味を悟ることが出来ました。源三郎の妹のとついでいる東小路伯爵というのは、数多の親族の中で、金銭の力で自由に出来ない、たった一人の例外だったのです。北見小五郎はその東小路夫人の手先の者に相違ありません。
「そうです。私は東小路夫人の御依頼によって来ているものです。日頃お国の方とは殆ど御交際のない東小路夫人が、遠くからあなたの行動を監視なすっていたとは、あなたにしても意外でしょうね」
「イヤ、妹が僕にとんでもない疑いをかけているのが意外だよ。逢って話して見ればすぐ分ることなんだが」
「そんなことをおっしゃった所で、今更ら何の甲斐があるものですか。『RAの話』は私があなたを疑い始めたほんのきっかけに過ぎないので、本当の証拠は外にあるのですから」
「では、それを聞こうではないか」
「例えばですね」
「例えば?」
「例えば、このコンクリートの壁にくっついている一本の髪の毛ですよ」
北見小五郎はそういって、かたわらの大円柱の表面の蔦を分けて、その間に見える白い地肌から、優曇華の様に生えている、一本の長い髪の毛を見せました。
「あなたは多分、これが何を意味するか御承知でしょうね。……、オット、それはいけません。あなたの指が引金にかからぬ先に、ごらんなさい。私の弾が飛び出しますよ」
北見はそういって、右手に持った光るものをさしつけました。廣介はポケットに手を入れたまま化石した様に、動けないのです。
「私はこの間から、この一本の髪の毛について考えつづけていたのです。そして、今あなたとお話ししている間に、やっと真相にふれることが出来ました。この髪の毛は一本丈け放れたものでなくて、奥の方で何かに続いているということを確めることが出来たのです。では今それをためして見ましょうか」
北見小五郎は云うかと思うと、やにわにポケットから大形のジャック・ナイフを取り出して、髪の毛の下のあたりを目がけて、力まかせに突き立て突き立てしたのです。するとコンクリートがバラバラとこぼれて、やがて巖乗な刃物が半ばもかくれたかと思うと、その刃先を伝って、真赤な液体がタラタラと流れ出し、見るまに白いコンクリートの表面にあざやかな一輪の牡丹の花が咲いたのです。
「掘り返して見るまでもありません。この柱には人間の死体が隠してあるのです。あなたの、いや菰田源三郎氏の夫人の死体が」
幽霊の様に青ざめて、今にもそこへ坐り相な廣介を、片手で抱きとめながら、北見は普通の調子で続けました。
「無論私はこの一本の髪の毛から凡てのことを推察した訳ではありません。人見廣介が菰田源三郎になりすます為には、菰田夫人の存在が最大の障礙に相違ない、という点に気がついたのです。それであなたと夫人の間柄を注意深く観察している内に、ふと夫人の姿が我々の眼界から消えてしまう様なことが起りました。他の人はだましおおせても私をだますことは出来ません。これはてっきりあなたが夫人を殺害なすったに相違ないと考えたのです。殺害したからには死体の隠し場所がある筈です。あなたの様な方はどんな場所をお選びなさるでしょうね。ところで、私にとって好都合だったのは、これもあなたはお忘れなすっているかも知れませんが、『RAの話』にその隠し場所がちゃんと暗示されてあったのです。あの小説にはRAという男が彼のアブノルマルな好みから、コンクリートの大円柱を立てる際に、昔の橋普請などの伝説を真似て、(小説のことですから人を殺すのは自由自在です)必要もないのにそのコンクリートの中へ、一人の女を人柱として生埋めにすることが書いてありました。若しやと思って、夫人がこの島へ来られた日をくって見ますと、丁度この円柱の板囲いが出来上って、セメントを流し込み始めた頃であったことが分りました。実に安全な隠し場所ですね。あなたはただ、人のいない時を見はからって、足場の上まで死体を抱き上げ、板囲の中へ落し込み、その上から二三杯のセメントを流して置きさえすればよかったのですから。ですが、夫人の髪の毛が一本丈けコンクリートの外へもつれ出していたというのは、犯罪には何かしら思わぬ行違いが出来るものではありませんか」
もう廣介は、他愛もなくくずおれて、円柱の丁度千代子の血潮のあたりに凭れかかっていました。北見小五郎は、そのみじめな有様を、気の毒そうに眺めながら、でも考えていた丈けのことは云ってしまう積りでした。
「それを逆にしますと、つまりあなたが夫人を殺害しなければならなかったということは、とりも直さずあなたが菰田源三郎ではなかったことです。分りますか。この夫人の死体がさっき云った証拠の一つなのですよ。無論それ丈けではありません。私はもう一つ最も重大な証拠を握って居ります。多分もう御分りだと思いますが、それは外でもない菰田家の菩提寺の墓場にあるのです。人々は菰田氏の墓場から死骸が消えうせ、別の場所に菰田氏とそっくりの生きた人間が現れたのを見て、忽ち菰田氏が蘇生したものと信じ切ってしまいました。ですが、棺桶の中から死体がなくなったといって、必ずしもその死体が甦ったとは極められません。死体は外の場所へ運ばれているかも知れないからです。外の場所、それは最も手近な所に幾つも棺桶が埋めてあるのですから、死体を運び出した者がそれをどこかへ隠そうとするなら、そのお隣の棺桶ほど屈竟の場所はありません。何とうまい手品ではありませんか。菰田源三郎の墓の隣には源三郎の祖父に当る人の棺が埋めてあるのですが、そこには今、あなたの思遣りのあるはからいで、お爺さんと孫とが、骨と骨とで抱合って、仲よく眠っているのですよ」
北見小五郎がそこまで話し進んだ時、くずおれていた人見廣介は、突然がばとはね起きて、薄気味悪く笑い出すのでした。
「ハハハ……、イヤ、君はよくも調べ上げましたね。その通りです。寸分間違った所はありません。だが、実をいうと、君の様な名探偵を煩わすまでもなく、僕はもう破滅に瀕していたのですよ。遅いか早いかの違いがあるばかりです。一時は僕もハッとして、君に手向おうとまでしましたが、考え直して見ると、そんなことをした所で、僅か半月か一月今の歓楽を延すことが出来る丈けです。それが何でしょう。僕はもう作りたい丈けのものを作り、したいだけのことをしました。思い残す所はありません。いさぎよく元の人見廣介に返って、君の指図に従いましょう。打開けますと、さすがの菰田家の資産も、あとやっと一月この生活をささえる程しか残っていないのですよ。併し、君はさっき、僕みたいな男を、むざむざ浮世の法律に裁かせたくないとか云われた様でしたね。あれはどういう意味なんでしょうか」
「有難う。それを伺って私も本望です。……あの意味ですか、それは、警察なんかの手を借りないで、いさぎよく処決して頂き度いということです。これは東小路伯爵夫人のいいつけではありません。やはり、芸術につかえる一人の僕として、私一個人の願いなのですが」
「有難う。僕からも御礼を云わせて下さい。では、暫く僕を自由にさせて置いて下さるでしょうか。ほんの三十分ばかりでいいのですが」
「よろしいとも、島には数百人のあなたの召使がいますけれど、あなたを恐しい犯罪者と知ったなら、まさか味方をする訳もないでしょうし、又味方をかり集めて、私との約束を反故になさるあなたでもありますまい。では、私はどこにお待ちしていればよいのでしょうか」
「花園の湯の池の所で」
廣介は云い捨てて、大円柱の向側に見えなくなってしまいました。
それから十分ばかり後、北見小五郎は、数多の裸女達に混って、湯の池の、におやかな湯気の中に半身を浸して、のどかな気持で、廣介の来るのを待ち受けていました。
空はやっぱり一面の黒雲に覆われ、風はなし、目路の限りの花の山は、銀鼠色に眠って、湯の池に漣も立たず、そこにゆあみする数十人の裸女の群さえ、まるで死んだ様におし黙っているのです。北見の目には、その全体の景色が、何か憂鬱な天然の押絵の様にも見えたことでした。
そして十分二十分と過ぎて行く間が、どの様に長々しく感じられたことでしょう。いつまでも動かぬ空、花の山、池、裸女の群、そして、それらをこめた夢の様な鼠色。
併し、やがて、人々は、池の片隅から打上げられた、時ならぬ花火の音に、ハッと我に返り、次の瞬間空を見上げて、そこに咲き出でた光の花の余りの美しさに、再び感嘆の叫びを上げないではいられませんでした。
それは、常の花火の五倍程の大きさで、それ故殆ど空一杯に拡がって、一つの花というよりは、あらゆる花を集めて一輪にした様な、五色の花瓣が、丁度万花鏡の感じで、下るに随って、ハラハラとその色と形を換えながら、なおも広く広くと拡がって行くのでした。
夜の花火でもなく、そうかといって昼の花火とも違い、黒雲と銀鼠色の背景に、五色の光が怪しき艶消しとなって、それが、刻一刻面積を広めながら、ジリジリと釣天井の様に下って来る有様は、真実魂も消えるばかりの眺めでした。
その時、北見小五郎は、くらめく様な五色の光の下で、ふと数人の裸女の顔に、或は肩に、紅色の飛沫を見たのです。最初は湯気のしずくに花火の色が映ったのかと、そのまま見すごしていたのですが、やがて、紅の飛沫は益々はげしく降りそそぎ、彼自身の額や頬にも、異様の暖かなしたたりを感じて、それを手にうつして見れば、まがう方なき紅のしずく、人の血潮に相違ないのでした。そして、彼の目の前の湯の表に、フワフワと漂うものを、よく見れば、それは無慙に引き裂かれた人間の手首が、いつのまにかそこへ降っていたのです。
北見小五郎は、その様な血腥い光景の中で、不思議に騒がぬ裸女達をいぶかりながら、彼も又そのまま動くでもなく、池の畔にじっと頭をもたせて、ぼんやりと、彼の胸の辺に漂っている、生々しい手首の花を開いた真赤な切口に見入りました。
か様にして、人見廣介の五体は、花火と共に、粉微塵にくだけ、彼の創造したパノラマ国の、各々の景色の隅々までも、血液と肉塊の雨となって、降りそそいだのでありました。
了
底本:「江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島綺譚」光文社文庫、光文社
2004(平成16)年8月20日初版1刷発行
底本の親本:「創作探偵小説集第七卷」春陽堂
1927(昭和2)年3月20日発行
初出:「新青年」博文館
1926(大正15)年10月〜1927(昭和2)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「パノラマ島奇譚」です。
※誤植を疑った箇所を、「創作探偵小説集第七卷」春陽堂、1927(昭和2)年3月20日発行の表記にそって、あらためました。
入力:砂場清隆
校正:まつもこ
2016年3月4日作成
2016年5月8日修正
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