あらすじ
三千石の大身旗本の伊賀井大三郎様が、手に入れたばかりの舶来の遠眼鏡で、町娘のお君に恋をしてしまったことから、騒動が巻き起こります。お君を手に入れようと、伊賀井様は清水屋に執拗な圧力をかけますが、その過程で、お君と、植木屋の女房お滝が命を落とします。銭形平次は、事件の真相を追いかけ、意外な人物にたどり着きます。果たして、お君と、お滝を殺したのは一体誰なのでしょうか?
「ヘッヘッ、ヘッ、ヘッ、近頃は暇(ひま)で暇で困りゃしませんか、親分」
「馬鹿だなア、人の面(つら)を見て、いきなりタガが外(はず)れたように笑い出しやがって」
「でも、銭形の親分ともあろう者が、日向(ひなた)にとぐろを巻いて、煙草(たばこ)の煙を輪に吹く芸当に浮身(うきみ)をやつすなんざ天下泰平じゃありませんか。まるで江戸中の悪者が種切れになったようなもので、ヘッ、ヘッ」
「粉煙草がひとつまみしか残っていないのだよ。芸当でもやらなきゃ、煙が身につかねえ」
「煙草の煙を噛(か)みしめるのは新手ですね。尤(もっと)もあっしなんかは、猫が水を呑(の)む時のように、酒を嘗(な)めて呑むてを考(かんげ)えた。一合(いちごう)あると請合(うけあ)い一刻(とき)は楽しめますぜ」
 親分も貧乏なら、子分も貧乏でした。八丁堀(はっちょうぼり)の旦那方をはじめ、江戸の岡(おか)っ引(ぴき)の大部分が、付け届けと役得で、要領よく贅沢(ぜいたく)に暮している中に、平次と八五郎は江戸中の悪者を顫(ふる)え上がらせながらも、相変らず潔癖で呑気(のんき)で、その日その日を洒落(しゃれ)のめしながら暮しているのです。
「呆(あき)れた野郎だ、そんなことをしたら呑む下から醒(さ)めるだろう。それより鼻の穴から呑んでみねえ、とんだ利(き)きが良(い)いぜ」
「ところで、そんなに暇なら、少し遠出をしてみちゃどうです」
 八五郎は話題を変えました。相変らず事件の匂いを嗅(か)ぎ出して、平次を誘いに来た様子です。
「どこだえ。正燈寺(しょうとうじ)の紅葉(もみじ)には遅いし、観音様の歳(とし)の市(いち)には早いが――」
「いやに鬼門(きもん)の方ばかり気にしますね――、実は四谷伊賀町(よつやいがまち)に不思議な殺しがあったそうで、弁慶(べんけい)の小助親分が、銭形の親分を連れて来るようにと、使いの者をよこしましたよ」
「四谷伊賀町なら裏鬼門だ。が、赤い襠(しかけ)とは縁がないな」
「その代り殺されたのは、山の手一番の色娘に、もとを洗えば品川で勤めをしていたという、凄(すご)い年増ですよ。曲者(くせもの)は綺麗なところを二人、虫のように殺して、こうスーッと消えた――」
 八五郎の話には身振りが入ります。
「お前に言わせると、殺された女はみんな綺麗で、無事に生きている女はみんなお多福だ、――先ア歩きながら話を聴こうよ」
 明神下(みょうじんした)から九段(くだん)を登って、四谷伊賀町へはかなりの道のりですが、初冬の陽(ひ)ざしが穏やかで、急ぎ足になると少し汗ばんで来るのも悪い心持(こころもち)ではありません。
「ね、親分、もとはと言えば遠眼鏡(とおめがね)が悪かったんですよ。あんな物がなきゃ、二人の女が殺されずに済(す)んだ筈(はず)です」
「ヘエ――、遠眼鏡ね。そいつは年代記ものだぜ。遠眼鏡の人殺しなんてえのは」
「眼鏡で叩き合いをやったわけじゃありませんよ。こういうわけで――」
「――」
「四谷伊賀町に、三千石の大身(たいしん)で伊賀井大三郎様という旗本がありますがね、無役(むやく)で裕福で、若くて好(い)い男で、奥方がみっともなくて、道楽強いと来てるからたまりませんや」
「まるでお前とあべこべだ」
「その殿様が近ごろ和蘭舶来(おらんだはくらい)の素晴らしい遠眼鏡を手に入れ、二階の縁側から、あちらこちらと眺めるのを楽しみにしていた――というのがことの起(おこ)りで」
「――」
 平次も黙ってしまいました。話がどうやら重大らしくなっていくのです。
「その遠眼鏡の中へ、いきなり滅法(めっぽう)綺麗な娘の顔が映(うつ)ってとろけるようにニッコリしたとしたら、どんなもんです、親分」
「俺はそんな覚えはないよ」
「殿様はブルッと身ぶるいして、その晩から寝込んでしまった」
「風邪を引いたのか」
「この道ばかりは銭形の親分でも見立てがつかねえ、――手っ取り早く言えば、恋の病(やまい)ですよ。三千石の殿様が、町内の小間物屋の娘お君坊に惚(ほ)れてしまったんだから厄介だ」
「たいそう古風なんだね」
「お君は山の手一番と言われた好(い)い娘ですよ。年は十九で色白で愛嬌(あいきょう)があって、色っぽくて、※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉(しんこ)細工のように綺麗だ――裏へ出て洗濯か何かして、腰を伸ばして家の中の妹と話をして、思わずニッコリしたところを、二三十間(けん)先から遠眼鏡で見た殿様は、自分へ見せた笑顔だと思い込んでしまった、――恐ろしい早合点ですね」
「――」
「それから夢中になって、朝から晩まで二階に登って、遠眼鏡と首っ引だ。奥方の弥生(やよい)様はあばたで大嫉妬(やきもち)と来てるからたまらない。早くも殿様の素振りに気が付いて、目当てが町内の小間物屋の若くて綺麗な評判娘とわかると、殿様の胸倉(むなぐら)を掴(つか)んで、遠眼鏡をねじり合う騒ぎだ」
「早く筋だけ話せよ。お前の話には、相変らず無駄が多くてかなわない」
「筋だけ運んじゃ木戸銭(きどせん)になりませんよ。四谷は遠い、ゆっくり聴いて下さいよ」
「講釈(こうしゃく)の気でいやがる」
「殿様は人橋(ひとはし)を架(か)けて清水屋に掛け合い、娘お君を奉公に出せという無理難題だ。奉公というのは、申すまでもなく手掛け奉公だが、清水屋にはゆくゆくはお君と一緒にするつもりで、親類から貰(もら)った市太郎という養子がいる」
「面倒だな」
「その人橋の中には、伊賀井家へ出入りしている植木屋辰五郎の女房で、お滝という凄いのがいる。こいつはもと品川で勤めをしていた三十女で、以前は武家の出だというが、自堕落(じだらく)の身を持崩(もちくず)して、女の操(みさお)なんてものを、しゃもじの垢(あか)ほどにも思っちゃいない。伊賀井の殿様に悪智恵(わるぢえ)をつけて、八方から清水屋の父娘(おやこ)を責めさいなんだ。金ずく、義理ずく、それでもいけないとなると、今度は腕ずくで脅(おど)かした」
 三千石の裕福な殿様が、吹けば飛ぶような裏町の小間物屋に加えた圧迫の手は、残酷で執拗(しつよう)で悪辣(あくらつ)を極(きわ)めたものでした。
 品川の女郎上がりのお滝――恥も外聞もとうの昔に摺(す)りきらしてしまった凄い年増が軍師で、十九娘のお君が、好色の旗本の人身御供(ひとみごくう)に上るまでの経緯(いきさつ)は、平次にはよくわかるような気がするのです。
 ガラッ八の話はまだ続きます。
「――一方では伊賀井の殿様の奥方――弥生の方は、御主人の気違い沙汰に取逆上(とりのぼせ)て、これは本当に気が変になり、ひと間に押し込められて、体(てい)のいい座敷牢(ざしきろう)暮しをするようになった。それをまたいいことにして、いよいよ清水屋を説き落し、大枚(たいまい)三百両の支度金(したくきん)まで投げ出して、いよいよ明日の晩は、お君を伊賀井家に乗込ませると決(きま)った――昨夜(ゆうべ)になって、肝心(かんじん)のお君は自分の家の裏口で、植木屋の女房のお滝は、お湯の帰りをそこから一丁とも離れていない御仮屋横町(おかりやよこちょう)の入口で、背中からひと突きにやられて死んでいるじゃありませんか。お滝なんぞいい気味だが――」
「なんという口をきくのだ」
「ヘエ、相済(あいす)みません。お滝はどうせ百まで生きていたって、人様のためになる人間じゃないが、清水屋の娘のお君が可哀想でなりません。それを狙(ねら)って爪を磨(と)いだ旗本の殿様なんか穀(ごく)つぶしみたいなものだが――」
「少しはたしなめよ八、人に聴かれたらうるさいことになるぞ」
「相済みません。が、あっしは本当のことを言っているんだ――山の手一番と言われた娘を、十九で殺しちゃもったいなさ過ぎます。ね、親分。十手冥利(じってみょうり)にこいつは是が非でも下手人(げしゅにん)をあげて、思い知らさなきゃ虫が納まりませんよ」
 八五郎の拳骨(げんこつ)は、冬の陽を受けて宙に躍(おど)るのです。

 伊賀町の清水屋には、土地の御用聞(ごようきき)、弁慶(べんけい)の小助が待っておりました。武蔵坊のような大男で、豪力無双(ごうりきむそう)と言われておりますが、根が人の好(い)い方で、日頃銭形平次の逞(たくま)しい智恵に推服(すいふく)し、むずかしい事件があると、なんの痩(や)せ我慢もなく、後輩の平次を引っ張り出して、その明智(めいち)の裁(さば)きに享楽するといった肌合いの男です。
「おや、銭形の親分、よく来てくれたね。出不精(でぶしょう)の親分のことだから、どうかと思って心配したが」
 弁慶の小助はニコニコしながら迎えました。
「弁慶の親分の手伝いなら、どんな無理をしても来るよ」
 平次はなんの世辞もなく、心からこう言える気持でした。
「有難う、そう思ってまだ入棺(にゅうかん)もさせずにあるんだ。まア見てくれ」
 小助は不安と焦躁(しょうそう)にかき廻されて、日頃の落着きを失っているらしい店の者や近所の衆をかきわけて、奥のささやかな部屋に平次を案内しました。
 貧(まず)し気(げ)な調度の中に、二枚屏風(びょうぶ)を逆様にして、お君の死体は寝かしてありました。枕許(まくらもと)には手習机(てならいづくえ)を据(す)えて、引っきりなしに香(こう)を捻(ひね)っている五十男は、お君の父親で清水屋の亭主の市兵衛でしょう。
 そのそばに小さくなってシクシクと泣いているのは、十六七の小娘で、眉目(みめ)美(うる)わしさや、抜群(ばつぐん)の可愛らしさからみても、それはお君の妹のお吉でなければなりません。
 お君の死顔は死の駭(おどろ)きさえも拭(ぬぐ)い去られて、世にも清らかな美しいものでした。『山の手一番』と八五郎の形容したのは、少しの誇張でもなく、血の気を失って青白くなった頬(ほお)に、不思議にほんのりと桜色が残って、霞(かす)む眉も長い睫毛(まつげ)も玉を彫(きざ)んだような柔らかい鼻筋も、美しい唇の曲線もまさにこの世のものとも覚えぬ尊い清らかさです。
 死骸を少し動かして、襟(えり)のあたりをはだけて見ると、左の背――ちょうど肩胛骨(けんこうこつ)の下のあたりに、小さく肉の炸裂(さくれつ)しているのは、ここから心(しん)の臓(ぞう)まで、ひとえぐりにした刃物の跡(あと)でしょう。
「八、この傷をどう見る」
 平次は真っ白な娘の膚(はだ)に、不気味にはじけた傷痕(きずあと)を指さしました。
「棒で突いたようですね」
「いや、細身の刃物で、えぐったのだ」
「ヘエ、念入りなことをしたものですね」
「恐ろしい手際(てぎわ)だよ」
 死骸の玉の肌をもとの通りに包んでやると、平次は少し席を退(すさ)って線香の煙の中に掌(て)を合せます。
「何事も隠さずに言って下さい。娘さんが伊賀井家に上がるのを、はたからひどく嫌(いや)がった者がある筈だが――」
 平次は父親の市兵衛を顧(かえり)みます。
「みんな嫌がりました。娘は申すまでもなく、この私も、ここにいる妹も、伜(せがれ)の市太郎も」
「それほど嫌なものを、どうしてやる気になったのだ」
「親分、町人は弱いものでございます。金と権柄(けんぺい)と、いやがらせと、脅(おど)かしと、攻手(せめて)はいくらでもあります。同じ町内に住んで三千石の殿様に睨(にら)まれちゃ、動きがとれません」
 市兵衛は娘をここまで陥(おと)し込んだ、大身の旗本の無情な要求を、娘を殺した下手人よりも憎んでいる様子です。
「昨夜(ゆうべ)のことを詳しく聴きたいが」
「私は帳場(ちょうば)におりました、――このお吉の方がよく知っておりますが」
 平次は妹娘のお吉の方を振り返りました。
「晩のお支度が済んだ時でした、――酉刻半(むつはん)(七時)の火の番の拍子木(ひょうしぎ)が通ったすぐ後だったと思います。外で何(なん)か物音がしたと思うと姉は急にソワソワして、自分の部屋へ行っていつも好きで着るちょいちょい着の銘仙(めいせん)の袷(あわせ)と着換え、あわてて外へ出ようとするので、――姉さん今頃どこへ行くの――と訊(き)くと、あのちょいとそこまで――と、ろくに返事もせずに出かけましたが、間もなく井戸端のあたりで、姉さんの声で私を呼ぶような、変な押し潰(つぶ)されたような声がするので、お仕事で使っていた手燭(てしょく)を持って飛び出して見ると――」
 お吉はそこまで言って、さすがに絶句しました。昨夜の恐ろしい光景を思い出したのでしょう。この娘は見掛けの弱々しい可愛らしさに似ず、性根(しょうね)に確(しっ)かりしたものがあるらしく、昨夜の話も整然として筋も乱れません。
「お吉の大声を聞いて私も店から飛んで来ましたが、その時はもうお君はこと切れて、正体もありません。お吉は木戸の外にチラと人影が見えたようだと、すぐ往来へ飛んで出ましたが、まもなく戻って参りました。それから間もなく――」
 父親の市兵衛もここまで話して来て、言葉は涙の洪水に押し流されるのでした。
「――そのとき死骸の側(そば)に、伝馬町(てんまちょう)の万次という野郎がウロウロしていたというんだ、――男っ振(ぷ)りは好(い)いが、一向他愛のない安やくざだよ。その場から煙のように消えてしまったのだ。今朝になって、賭場(とば)で見付け出し、いちおう縄を掛けて自身番に預けてあるが、何を訊(き)いても知らぬ存ぜぬだ」
 弁慶の小助は側からくちをいれました。
「刃物は持っていなかったのか」
「匕首(あいくち)を持っているよ、幅の広い出刃庖丁のような奴だ。尤(もっと)もそれには血もなんにもついちゃいないがね」
「昨夜(ゆうべ)井戸端で見付けられたとき、なんにも言わなかったのかな」
 平次はもういちど主人の市兵衛に訊くのでした。
「何か変なことを申しましたよ、――お君が殺されているんだ、俺と逃げる筈だったが。畜生ッ、誰がこんな虐(むご)たらしいことをしやがったんだ――と言ったようで」
「養子の市太郎は?」
「そのとき、庭木戸から入って来たようです。よくはわかりませんが」
 市兵衛の言葉には何か割りきれないものがあります。
「養子の市太郎と、娘のお君との仲は好(よ)かったのかな」
「決して仲が好いとは申されませんでした。市太郎は堅(かた)い良い男ですが、商売熱心で地味で、――若い娘などに好かれる男ではございません、――でも」
 市兵衛は何か続けようとして口を緘(つぐ)みました。遠い親類の次男で、商人の市兵衛が堅いのを見込んで貰った養子で、山の手一番の娘が気に入る筈もありません。
「その娘が、養子の市太郎を嫌って、やくざの万次と親しくなっていたのだよ」
 弁慶の小助はそっと平次の耳に囁(ささや)きます。
「世間の噂(うわさ)が私の耳にも入ります。人もあろうに、小博奕(こばくち)を渡世(とせい)にしている、安やくざと懇(ねんご)ろになっては、娘の一生も台なしでございましょう。お旗本の妾(めかけ)に上げては、私の心持が済みませんが、それでもやくざ者の配偶(つれあい)にするよりは増(ま)しでございます。伊賀井様のお望み通り、急に娘を奉公に差上げる気になったのは、そんなことからで――」
 小博奕打の女房にするよりは、まだしも三千石の旗本の妾にした方が――といった考え方は、善悪はともかく江戸の町人のそれは常識だったのです。

 平次はそこから昨夜娘が刺された場所――お勝手口の井戸端を廻りました。まだ宵(よい)のうちの出来事で、内外の戸締りもなく、庭は打ちつづくお天気に踏み固められて、足跡一つ残ってはおりません。井戸端に流れた血潮は洗い清めたところで、土が少し湿(しめ)っておりますが、そんなのは平次の探索に何の役にも立たなかったのです。
「あれは?」
「養子の市太郎だよ」
 弁慶の小助が引合せてくれたのは、二十五六の頑丈(がんじょう)な男で、色も黒く、眼鼻立(めはなだち)も大きく、その上横肥りで、武骨(ぶこつ)で、全(まった)く女子供に好かれるたちの男ではありません。
「御苦労様でございます」
 小腰を屈(かが)めて行き過ぎようとするのを、平次は呼び留めました。
「昨夜(ゆうべ)お前はどこへ行っていたんだ。お君が殺される少し前だ」
「ヘエ」
「はっきり言わないと面白くないことになるぜ。お前はお君を怨(うら)んでいた筈だし、――背後(うしろ)からひと突きして、外へ出て改めて引っ返して来る手もあるわけだ」
「とんでもない。親分さん」
「だから、どこへ行っていたか。はっきり言うがいい」
「申さなきゃなりませんか。親分さん」
「当り前だよ。隠しおわせることじゃあるめえ」
 平次の態度は峻烈(しゅんれつ)で少しの容赦(ようしゃ)もありません。
「私は福寿院(ふくじゅいん)の境内(けいだい)へ行って、半刻(はんとき)(一時間)ばかり人を待っておりました」
「誰を?」
「お二人――お君と万次を待っていました」
「?」
「お君が伊賀井様へ奉公に上がることにきまると、万次はお君に家を逃げ出すようにすすめました、――私はフトしたことで二人の相談を聴いたのですから、間違いはございません、――万次は小田原とかに叔母がいるそうで、そこまで行って、暫(しばら)く身を潜(ひそ)め、路用(ろよう)を拵(こしら)えて上方(かみがた)へでも行こうという話でした」
「?」
「こんなことを申してはなんですが、万次という男は信用のできる男ではございません。お君を騙(だま)して夜逃げなどをして、いつお君を捨てて金にするかあやしいものでございます」
「――」
「現に半歳(はんとし)ほど前にも植木屋の辰五郎の女房――あの殺されたお滝ですが、――あの女と妙な噂を立てられ、殺すの生かすのと一(ひ)と騒動をしたばかりでございます。それが納まると今度はお君にチョッカイを出し、なんにも知らないお君は、万次の男っ振りと口車に乗せられて、夜逃げまでする気になったのでしょう」
「――」
「明日はいよいよ伊賀井様に上がるという前の晩の昨夜、正酉刻半(しょうむつはん)(七時)に福寿院の境内で落合おうという約束をした様子でした。私はそれを胸一つに納めて、少し早目に福寿院の境内に参り、二人の顔の揃(そろ)ったところで、よく話をして無分別(むふんべつ)な夜逃げなどを留めようと思ったのでございます。――ところが酉刻(むつ)(六時)から酉刻半(七時)まで待ちましたが、二人とも姿を見せません。尤(もっと)も酉刻半(むつはん)の火の番の拍子木の通るのを聞くといっしょに、万次は来たようでしたが、四方(あたり)を見廻してもお君の姿が見えないので、舌打ちして此方(こっち)――お店の方へ来たようでございました。私もその後から直(す)ぐ参りましたが――」
「それからどうした」
「お君は殺されて、井戸端は大騒動でございました。そして万次は暫くウロウロしておりましたが、さすがに名乗って出ることもできなかったものか、すごすごとどこかへ行ってしまいました」
「万次がお君を殺した様子はなかったのか」
 平次は突っ込んだことを訊(たず)ねます。
「それは見ませんでした、――二人は逃げる相談をしていたくらいですから、万次が馬鹿でもお君を殺す筈はないと思いますが――」
 市太郎の言葉はまことに穏当ですが、しかし万次が下手人でないという保証にはなりません。
「ところで、お君はお前をどう思っていた」
 平次の問いはますます深刻になります。
「やくざ者の万次と夜逃げの相談をするくらいですから――尤(もっと)も私は諦めておりました。どうせお君の気に入る筈はありません」
「――」
「父親もそれを気にして、お君はあの通りの我儘者(わがままもの)だから家に置いたところで、お前とうまくいくわけはあるまい。思い切って伊賀井様に差上げて、お前にはこの店の暖簾(のれん)を譲り、お吉が姉のような我儘を言わなければ、ゆくゆくはお前と一緒にしてやりたい――と」
 こう言った市太郎は、言い過ぎに気がついたらしく、急に口をつぐんでしまいました。

 自身番には、腰縄を打ったやくざの万次が預けてありました。二十五六のいなせな男で、物言いもハキハキして、いかにも若い町娘に好かれそうですが、才気走っておっちょこちょいで、あまり頼母(たのも)し気(げ)ではありません。
「お前は清水屋のお君を殺した疑いで縛られていることは知ってるだろうな」
 平次は万次の顔を見ると、いきなりこう突っ込んだことを訊(き)くのでした。
「親分、あっしがそんな馬鹿なことをするかしないか、よく考えて下さい。昨夜(ゆうべ)お君と夜逃げをして、小田原まで飛ぶつもりで、支度までした者が、その相手を殺してもいいものでしょうか。親分」
 万次は泣き出しそうな声を出すのでした。
「それじゃお君を怨(うら)んでいる者の心当りがあるだろう、――お君は不断(ふだん)そんな話をしなかったのか」
「お君はそう言いましたよ。私を一番怨んでいるのは、伊賀井様の奥方だろう――と、私のために気が変になったというから、義理にも同じ屋根の下には住めない――とも言っていました」
「清水屋の養子の市太郎のことは、何と言っていた」
「心の中では私を怨んでいるだろうが、顔色にも出さないから、あの人は気味が悪い、――でもあの人は、どうかしたら妹のお吉の方を好きかもしれない――そんなことも言っていました」
「お前が福寿院の境内でお君と会う約束のあったことを、誰か知っていたのか」
「誰も知ってるわけはありません、――それを知っている者があれば、あっしはお君を殺した疑いで縄なんか打たれずに済んだことでしょうが」
 万次はことごとく萎(しお)れ返っております。これが筋彫(すじぼり)の刺青(いれずみ)などを見栄(みえ)にして、やくざ者らしく肩肘(かたひじ)を張っていたのが可笑(おか)しくなるくらいです。
「ほかにお君を怨んでいる者の心当りはないのか」
「伊賀井の御用人(ごようにん)、竹林金吾という方が、ひどくお君を憎(にく)がっていたそうです」
「伊賀井様お屋敷内に、お君やお前が知っている方はないのか」
「お女中のお初さん、――まだ若い働きものですがね、お屋敷の内外を一人で切って廻して、よく買物や用達(ようた)しに出るので、お君とも懇意にしていたようです」
 万次から訊き出せるのはこんなことでした。これだけではまだ、万次の縄を解いてやるわけにもいきません。
 植木屋の辰五郎の家は、新堀江町(しんほりえちょう)寄りの裏店(うらだな)で、平次が行った時は、まだ女房のお滝の死骸もそのまま、辰五郎は死んだ女房の床(とこ)の前に、大胡坐(あぐら)をかいて茶碗酒を呷(あお)っているところでした。
 ろくな親類もある筈はなく、町内付き合いもいい加減で、合長屋(あいながや)の月番の老爺(おやじ)が、お義理だけの顔を出して、へべれけの辰五郎のお守(もり)を、迷惑そうにやっているという、いかにも惨憺(さんたん)たる有様(ありさま)です。
「御免(ごめん)よ」
「誰だえ、――悔(くや)みに来たのなら、ズイと入りな。線香だけはフンダンに用意してあるよ。尤(もっと)も夏に買っておいた蚊やり線香だが、仏(ほとけ)は文句を言わねえから間に合わねえことは、あるめえ」
「たいそうな元気だね、親方」
 平次も少しタジタジでした。
「何を言(いい)やがる、女房が死んでメソメソするようなお人柄じゃねえよ。年(ねん)が明けて品川から駆け込んだのは三年前だ。お互(たがい)によくも辛抱したものだと、我ながら仏様の前(めえ)で感心しているところなんだ、――おっとどっこい、拝むのは御自由だが、香奠(こうでん)を忘れちゃいけねえよ」
「親方、あんまり威張ると引っ込みがつかなくなるぜ。銭形の親分が調べに来たんだ」
 見兼ねた八五郎は、この自棄(やけ)で呑(の)んでいるらしい植木屋の耳に囁(ささや)きました。
「何? 銭形の親分? そいつは知らなかった、――相済(あいす)みません。勘弁しておくんなさい、――お滝と来た日にゃ、大酒呑みで手が早くて、欲が深くて嫉妬(やきもち)で、生きているうちは始末の悪い女房だったが、死んだとなるとやっぱり淋しいや。ね、親分さん」
「長屋の奴等は薄情だから、鼻糞(はなくそ)ほどの香奠を月番の老爺に届けさせて、ろくに面(つら)も見せねえ。――そこへいくと伊賀井様の人たちは届くぜ、御用人の竹林さんは御殿様からという口上付で香奠が一朱、自分のは別に二百文」
「――」
「三千石の大世帯で一朱はケチだと思うだろう、俺もそう思ったよ、最初はね。ところが驚いちゃいけないよ、奥方のお使いでやって来たお初さんは、ピカリと光らせたぜ。帰ってからそっと開けてみると、小判で三両、ほかにお初さんの分が一分――山吹色のできたての小判だぜ。ね、親分、三千石の奥方はさすがに大気(たいき)なものだろう」
 辰五郎の繰言(くりごと)は際限もなく続きますが、平次はそれをいい加減にあしらって、お滝の死骸を一応調べました。
 多分昨夜(ゆうべ)のままらしく、血潮に染(そ)んだ袷(あわせ)のまま、床の上に横たえた死骸は、亭主の辰五郎と同年輩の三十前後、でしょうか。生きているうちは、ずいぶん美しかったに違いありませんが、すさんだ生活と気持が、その顔容(かおかた)ちまでも荒れさして、意志の働かない死面(しめん)の凄まじさは、平次も思わず顔をそむけたくらい。蒼白く整った顔からは、芬々(ふんぷん)として妖気(ようき)が立昇(たちのぼ)るような気がするのです。
 傷はお君の場合と全く同様、細い刃物で背後(うしろ)からひと突きに突き上げたものですが、お君の場合は思い切り抉(えぐ)ってあるのに、これはただ突いただけで、同じく致命的なものであったにしても、大変な違いがあります。
「刃物は?」
「俺が預かってあるよ。これだ、――お滝の背中に突ったっていたんだ」
 弁慶の小助は、懐中からクルクルと紙に包んだ、細身の短刀を出して見せました。朱塗(しゅぬり)に螺鈿(らでん)を施(ほどこ)した美しい鞘(さや)まで添えてありますが、御殿勤(ごてんづと)めの女中などの持った品らしく、脂(あぶら)が乗って曇ってはおりますが、作はなかなか良いものです。
「鞘はどこにあったんだ」
「お滝の死骸の側(そば)に落ちていたそうだよ」
 弁慶の小助は答えてくれます。
「ところでこの短刀に見覚えはないのか」
 平次は辰五郎の酔顔(すいがん)の前に、その斑々(はんぱん)たる得物(えもの)を突きつけました。
「知ってるわけはねえ」
「お滝の物じゃあるまいな」
「そんな物を持っていれば、とうの昔に質に置いて呑むよ」
 手のつけようはありません。

 お滝の殺された路地を見て、近所の人にも詳(くわ)しく当(あた)ってみましたが、昨夜酉刻半(むつはん)(七時)少し過ぎ、火の番の拍子木が通って間もなく、悲鳴を聞いて近所の人が駆けつけると、湯帰りらしいお滝が、ドブ板を枕にして、紅(あけ)に染(そ)んで死んでいたというだけのことです。
 月がなかったので、誰も曲者の姿を見た者もなく、死骸を発見したのも多勢がいっしょで、一番先に誰が駆けつけたのやら、そんなことは少しもわかりません。
「これは驚いた。この殺しには下手人はないよ」
 もとの清水屋へ帰って来た平次は、誰へともなくこう言うのでした。
「やくざの万次は?」
 弁慶の小助は聞きとがめました。自分の縛った万次が無実では、少しばかり面目にかかわります。
「夜逃げの相手を殺す筈はないと思うがどうだろう、――お君はわざわざ着換えまでして、万次といっしょに逃げ出す気で飛び出している」
「市太郎は? 親分」
「あの男は尤(もっと)もらし過ぎて怪(あや)しいが、お君はどっちみち自分のものにならないと諦めている様子だ。それに福寿院の境内からも、万次の後で引揚げている」
「すると?」
「お君を殺したのと、お滝を殺したのは、同じ下手人らしいが、刃物の使い方に変ったところがある、――それに物奪(ものと)りではないし、怨みと思ったところで、若い娘が相手だから、色恋のほかにはない」
「――」
「お君を殺して直(す)ぐお滝を殺せるのは、万次のほかにはないことになるが、お君の死骸の側にウロウロしていた万次は、その足ですぐお滝を殺したとは思われない」
「――」
「どうだ八、こうなると下手人がなくなるだろう」
「ヘエ、やっぱり鎌鼬(かまいたち)かなんかで?」
「江戸に鎌鼬はいないよ」
「じゃ、どうするんです、親分」
「最初からやり直しだよ」
 平次は深々と腕をこまぬくのでした。
「驚いたね。見当だけでもつきませんか」
「つくよ。お君を殺したのは、武芸の心得のあるものだということだけはね。細身の短刀でただ突き上げただけじゃ、あんな傷にはならないよ。下からえぐり気味に突いたのだ――ところが、お滝の傷はただ猪(しし)突きに真っ直ぐに突いている、――これはどういうわけだ」
「?」
「時刻も煙草三服とは違っていない。場所は一丁も離れていないし、――お君が殺された時分、万次と市太郎は、福寿院の境内にウロウロしていた筈だ。そして二人が清水屋の裏木戸へ来た頃、あべこべの方角の御仮屋横町の入口でお滝が殺されているんだ」
「ともかくもう一度順々に、掛り合った人たちに会ってみよう」
 平次は清水屋へ入って行くのです。
「親分」
「なんだ、八」
「清水屋の主人が、娘が死んだ上は三百両の支度金を留(と)め置くわけにいかないから、あの金を伊賀井様にお返ししたいが、使(つかい)に行く者がない――とこぼしていましたが、あっしが行ってやっても構わないでしょうね」
「何を嗅ぎ出したんだ」
 平次はこの八五郎の申し出の裏に、事情のありそうな匂いを嗅いだのです。
「なんでもありませんがね、お君を遠眼鏡(とおめがね)で見たという、日本一の助平野郎の顔も見たいし」
「馬鹿なことを言うな」
「大嫉妬(おおやきもち)のあばたの奥方にもお目にかかりたいし、用人の竹林なんとか野郎の面(つら)も見ておきたいし、それから、女中のお初というのは、奥方が嫁入りの時ついて来た女で、良(い)い年増で腕が出来て、その上忠義者と聴くと、ちょいと当ってみたくもなるじゃありませんか。お滝の背中に突っ立っていたのは、御守殿(ごしゅでん)好みの細い匕首(あいくち)でしょう」
「そんなことに眼をつけたのか。修業のためだ、行ってみるのもよかろうが、相手が悪いから気をつけろ。十手などをチラつかせるととんだ目に逢わされるぜ」
「心得てますよ。清水屋の亭主の妹の姉の亭主の甥(おい)の伯父さんみたいな顔をして行きますよ」
 八五郎はそんなことを言いながら飛んで行きました。

 平次は克明(こくめい)に二度目の調べを始めたのです。その後から胡散(うさん)の鼻をふくらませて、弁慶の小助がついて来たことは言うまでもありません。
 お君の死骸はこのとき親類方や御近所の衆の手を借りて、入棺(にゅうかん)されるところでした。その前にひと眼、この清らかな死骸を見せて貰った平次は、念のため背中の凄まじい傷、――蝋化(ろうか)したような蒼白い凝脂(ぎょうし)に、痛々しくも残る傷を見て、多勢の人たちを眼顔(めがお)で隣の部屋に追いやり、父親の市兵衛といっしょに残っている、妹娘のお吉に、ささやき加減に訊くのです。
「お前は確(たし)かに姉さんの声を聞いたのだな」
「え」
「そして手燭(てしょく)を持って飛び出した時は、姉さんはもう口をきけなかった?」
「井戸端の石の上に俯向(うつむき)になっていました。もう正気もなかったようです」
「姉さんの背中に、刃物が突っ立っていた筈だが――」
「あったようでした」
「それを誰が抜いたのだ」
「さア――」
 お吉は黙ってしまいます。
「お前は木戸の方へ逃げて行く人影を見たと言ったそうだな」
「確かに見ました」
「着物か、人相かに覚えはないか」
「女のようでした」
「どうして女とわかった」
「唯(ただ)そう思っただけで」
 小娘の記憶はこれ以上にはよみがえりません。
「有難う、いろいろのことが解(わか)ったよ。もうみんなここへ呼入れても構わない――御主人にはもう少しききたいことがあるが」
 平次は庭へ滑(すべ)り出ました。後ろからついて来た小助と市兵衛。
「御主人、娘たち二人の仲は好(よ)かったのかな」
 庭木戸のところに立止って平次は妙なことを訊(たず)ねます。
「仲の好(い)い姉妹でした。世間様の褒めもので、――姉のお君はどっちかと言えばお人好しで、やくざの万次などにまで騙(だま)されましたが、妹のお吉は顔に似合わぬ気性者(きしょうもの)で、姉を伊賀井様に奉公に出すのも、万次風情(ふぜい)と親しくなるのも、ひどく嫌がっておりました」
 市兵衛の話はかなり平次の壺(つぼ)にはまった様子で、そこから弁慶の小助と二人、調べの筋をくり返して、もういちど自身番へ向ったことは言うまでもありません。
「万次、お前のような嫌(いや)な奴はないな」
 やくざの万次の顔を見ると、平次はいきなり、唾(つば)でも吐きかけそうにするのです。腰縄は解きましたが、まだ小助の子分二人に付添われて、自身番に留(と)め置かれた万次は、平次の一喝(かつ)を喰(くら)って、
「何が悪かったでしょう、親分」
 ヒョコヒョコと卑怯(ひきょう)らしく頭を下げるのでした。
「お前はお君殺しの下手人にされているんだぜ。いいか、――お君を殺さないという確かな証拠は一つもねえ」
「?」
「お前は本当にお君と小田原へ逃げる気だったのか」
「それは、もう親分」
「お滝はそれを知っていたのか」
「えッ」
「隠すな、お前はお滝と変な噂(うわさ)を立てられて、ひと騒ぎしたのはツイ半歳(はんとし)前のことじゃないか」
「そんなことまで御存じで、――みんな申上げてしまいましょう、――実はお君を伊賀井様へ上げることを考え出したのはお滝の智恵で、あらゆる手立てを考えて、あっしとお君の仲を割(さ)こうとしたのです。でも、とうとうあっしが勝ちましたよ。いよいよ明日はお君を伊賀井様へ連れて行くという前の晩、二人は道行(みちゆき)をする段取になったのです。でも狐のように疑い深くて、二人をつけ廻していたお滝は、それを嗅ぎ出さない筈もありません。お滝はどんなことをしても二人の道行を留(と)めようとかかったのです。あの女が殺されなきゃ、どんな業(わざ)をしたか知れたものじゃありません」
 万次――弱そうな色悪(いろあく)の万次は、胴顫(ぶる)いしながらこんなことを言うのでした。よくよくお滝には懲(こ)りた様子です。
「昨夜(ゆうべ)お前はお滝に会わなかったのか」
「会いません。逃げて歩いていたんで」
 万次は意気地なくも首筋などを掻(か)いております。
 平次は万次から引出せるだけ引出すと、順序を追ってもういちど植木屋の辰五郎の家へ。
「親分方、いらっしゃい。酒が集まっているから、こんどは唯(ただ)じゃ帰さないよ。ゲープ」
 相変らず仏様の前に大胡坐(あぐら)で、茶碗酒を呷(あお)っている辰五郎です。
「少し訊きたいが」
 平次はその前に腰を落しました。
「ヘエ、なんなと訊いておくんなさい。仏様にはとんだ供養(くよう)だ、どんなことでも白状するぜ」
「親方んところの神(かみ)さんは、もと武家の出だと言ったね」
「言いましたよ。武家も武家、なんとかの守(かみ)の御留守居(おるすい)で、一時は大名のような暮しもしたと、お滝は威張(いば)っていましたよ。それがなんでも悪いことをして腹を切らされ、母一人娘一人でたいそう苦労をした揚句(あげく)、親孝行のために品川へ身売りをしたんだ――と言いましたが、嘘(うそ)を吐(つ)きゃがれ、己(うぬ)が放埒(ほうらつ)で好きな女郎になりやがったんだろう――て言ってやりましたよ」
「それから」
「あの通り良いきりょうでしたが、大酒呑みで嘘つきで、嫉妬(やきもち)がひどくて気違い染みていたから、客の方から逃げ出して、年(ねん)が明けても落着く先もなく、着のみ着のままでここへ転(ころ)げ込んで来ましたよ」
「で?」
「近頃はあっしの出入り先の伊賀井様に喰い込んで、清水屋のお君坊をお妾(めかけ)に世話して、たんまり纏(まと)まった礼をせしめるんだと言っていましたがね」
「ところで、そのお滝さんは、武芸がよくできたというじゃないか」
「自慢でしたよ。娘のころ江戸のお屋敷で長刀(なぎなた)のひと手、柔術(やわら)から小太刀(こだち)まで教わり、家中(かちゅう)でも評判の腕前だったってね。その代り亭主野郎のこのあっしが散々で、腹を立てて取っ組合を始めても勝てっこはねえから情けない。万次と変な噂をたてられた時だって、幾度むしり合ったか知れないが、負けは何時(いつ)も此方(こっち)なんだ。ヘッヘッ、みっともなくてお話にもなりゃしませんや。仏様の前だから供養のために言うようなものだが――」
 辰五郎の酔態は、まさに爛漫(らんまん)たるものでした。
「お前は先刻(さっき)、あの短刀を知らないと言ったが、――ありゃやっぱりお滝の持物じゃないのか」
 平次はこの酔態へ釣り気味に訊ねました。
「まさにその通り、ありゃ女房の虎の子にしていた、お袋の形見だよ。何べん口説(くど)いても、あればかりは質に入れさせなかった品で」
「どうしてそれをお前は知らないなんて言ったんだ」
「面倒臭(めんどうくさ)かったんですよ、親分。掛り合いで引張り出されると酒の味が悪くなるからね、――が、もう酒もたくさん、言うだけのことをみんな言ってしまえば、あっしも気が軽くなるというもので。御免よ、親分方。あっしはちょいと横になるぜ」
 辰五郎はコロリと横になると、女房の死骸の前に、大きなイビキのレクイエムを上げるのでした。

「ワッ、驚いたの驚かねえの」
 八五郎は鉄砲玉のように飛んで来て、平次と鉢合せをしそうになって、クルリと廻って羽目板を力にようやく立直りました。
「何を大騒動するんだ。まるで四谷の伊賀町の路地へウワバミでも出たようじゃないか」
 平次はそれを迎えてニヤリニヤリしております。後ろにキョトンとしているのは、何が何やら見当のつかない弁慶の小助の偉大な肉塊(にっかい)。
「いきなり引っこ抜いて、ピカリと来ましたぜ。あの用人の竹林というのは、年寄りのくせに恐ろしく気が早い」
「何をやって脅(おど)かされたんだ」
「この八五郎が、三百両の支度金を持って乗込んだところは、大(たい)した武者振りでしたよ、親分。見せたかったな」
「ピカリと来ると、逃げ出すようじゃ、拝見しない方が無事らしいぜ」
「用人の禿頭(はげあたま)に三百両を叩き返して、サテと改まりましたよ、――遠眼鏡(とおめがね)で町娘を御覧になって、奉公に出せなんて無理を言うからこんなことになるんだ。お君を殺したのは間違いもなく武芸の心得のある女だ――お君を生かしておきたくない人間が、このお屋敷の中にいるに違いない、その顔を見なきゃ一寸もここは動かない――とね、大した啖呵(たんか)だったぜ親分」
「そうだろうとも、見なくてとんだ仕合せさ。屁っぴり腰でガタガタ顫(ふる)えながらの啖呵なんざ――ところで、お前はお君を殺した下手人は誰と見当をつけたんだ」
「あの用人の竹林でなきゃ、奥方付のお女中で、腕の立った忠義者のお初ですよ。それに決っているじゃありませんか、大事の大事の大あばたの奥方を気違いにした町人の娘を、屋敷へひと足も踏(ふ)み込ませるものかと思ったに違いありません。女持の匕首(あいくち)かなんか持出して、清水屋の井戸端でお君をひと突きに殺し、取って返して御仮屋横町で、女衒(ぜげん)みたいなお滝を刺した、――鏡山(かがみやま)の芝居だって、下女のお初は忠義者ときまっているじゃありませんか」
 八五郎はまさに、そう信じきっているのでした。
「お前は伊賀井家へ乗込んで、そんなことを言ったのか」
「言いましたとも、相手は三千石の大身だ。脅かしかも分らないが、幸い三百両の餌(えさ)があるから、用人の禿頭(はげあたま)を前にして、奥まで響くように、精いっぱいの大声で立て読み一席やりましたよ。あれだけ張り上げれば、大川の向うへだって聞えまさア。遠眼鏡(とおめがね)の殿様も大あばたの奥方も、一から十まで聴いたに違いない」
「それからどうした」
「無礼者、そこ動くな、ピカリと来ましたよ。首筋をかすったようだが、傷はありませんか、親分」
 八五郎は自分の首筋へ唾(つば)などなすっているのです。
「馬鹿だなア」
「それから一目散(いちもくさん)に飛び出した。――懐中(ふところ)の十手を取り出すわけにもいかないから、逃げの一手だ。石燈籠(いしどうろう)を蹴散(けちら)して植込(うえこみ)をくぐって、裏門を出るのが精いっぱい」
「呆(あき)れた野郎だ。だから俺は余計なことをするんじゃないと言ったろう」
「だって女二人まで殺してヌクヌクと――」
「誰が女二人を殺したんだ」
「あの味噌摺(みそすり)用人でなきゃ、下女のお初」
「違うよ、八」
「ヘエ?」
「弁慶の親分も聴いてくれ、――俺は今、下手人の名を打ち明けるから、決して縛らないと約束してくれるか」
「そいつは変じゃないか、銭形の」
「じゃ、黙って俺は神田へ帰るばかりだ」
「約束するよ、――お君を殺したのは誰なんだ」
 弁慶の小助も不承不承に平次の条件を容(い)れるほかはありません。
「お君を殺したのは、辰五郎の女房お滝だよ」
「え、あれは大事の金の蔓(つる)じゃないか」
「その金の蔓が、自分の男を奪(と)って、小田原へ逃げ出そうとしている。お君と万次が道行をきめると、一番馬鹿を見るのはお滝だ。昨夜(ゆうべ)二人が逃げ出すと覚(さと)ったお滝は、湯へ行くと言(い)い拵(こしら)えて、秘蔵の短刀まで持出し、清水屋の裏に忍んで、お君が着換えして飛び出したところを後ろから突き上げるように抉(えぐ)ったのだよ」
「なるほどね――すると銭形の親分の前だが、お君殺しの下手人は縛るわけにいかねえ――ところで、そのお滝を殺したのは誰だ」
 弁慶の小助はすっかり感に堪(た)えます。
「お吉だよ」
「えッ」
「お君の妹のお吉さ、――あの娘は優しい顔をしているが大した気性者(きしょうもの)だ、――姉の悲鳴を聴いて手燭(てしょく)を持って飛び出すと、姉は井戸端で殺されて、曲者は木戸の外へ逃げるところだ。その顔か姿を、お吉はチラと見たに違いない。姉の背に突き立っている短刀を引抜いて追っかけ、御仮屋(おかりや)横町でお滝に追い付いて、物をも言わずに後ろから刺し、そのまま逃げて帰ったところへ父親が来たのだろう。万次や市太郎が来たのは、それからまた後だ」
「本当ですか、親分。あの娘が、あの可愛らしい――」
「間違いはないよ。他(ほか)にお君を刺した短刀を引抜いて、お滝を刺す人間はない筈だ。短刀はお滝の物だ。お滝は太(ふて)え女だがさすがにお君を殺したところへ、お吉が手燭を持って出て来たので、あわてて短刀を抜かずに逃げたのだろう――証拠はいくらもある。お君の背に刃物の突っ立っているのを見たのはお吉だけだし、下手人の逃げて行くのを見たのもお吉だけだ」
「ヘエ、あの娘がね」
「さア、帰ろうか八、――なに? もう一度お吉の顔を見てくる? 止(よ)せよ。ここからではもう遠眼鏡もきくまい、――それじゃ弁慶(べんけい)の親分、跡(あと)は頼んだぜ。他の者なら、あんなことを言わないが、弁慶の親分だから、ツイ余計なことまで打ち明けてしまったよ。あとは神様のお白洲(しらす)にまかせようじゃないか、じゃ」
 平次は弁慶の小助に手を振って、御見付(おみつけ)の方へ引揚げて行くのです。後からはヒョコヒョコと八五郎が、――初冬の昼下がりの陽ざしはポカポカと首筋を暖めるのでした。
了

底本:「奇譚 銭形平次 「銭形平次捕物控」傑作選」PHP文庫、PHP研究所
   2008(平成20)年10月17日第1版第1刷
底本の親本:「銭形平次捕物全集 11」河出書房
   1956(昭和31)年9月30日初版発行
初出:「旬刊ニュース 増刊第3号」東西出版社
   1948(昭和23)年11月1日
※副題は底本では、「遠眼鏡(とおめがね)の殿様」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:江村秀之
2020年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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