あらすじ
アインシュタイン教授は、世界大戦終結後、世界的に有名になった一般相対性理論の講演のため、日本へ招聘されました。招聘を快諾した教授は、東洋への強い興味を示し、日本への旅を「夢のなかで見るような日本を知りたい」と表現しました。
教授は日本の風土や文化、芸術に深い感銘を受け、特に京都の仙洞御所の庭の静寂と美しさに心を奪われました。科学者であると同時に、芸術を愛した教授は、日本の伝統芸能である能楽や雅楽、絵画などにも大きな関心を示しました。
教授は日本の生活様式や人々の温かさに触れ、日本の美点を見出しました。そして、わずか40日間の滞在の間にも、多くの貴重な経験をし、日本の印象を深く心に刻んだのです。
 チューリッヒでのアインシュタイン教授のことを私は上の文に記しましたが、その後世界大戦が勃発(ぼっぱつ)し、それが一九一八年にようやく収(おさ)まった後に、教授のその間に発表せられた一般相対性理論が世界的に著名となったので、わが国でも改造社の山本実彦(やまもとさねひこ)氏が京都帝国大学の西田教授と相談して教授招聘(しょうへい)のことを決定し、私にもこれを話されたので、私も大いに賛成したのでした。実はしかしこのころアインシュタイン教授は諸方からの同様な招聘に悩まされて、多くはそれを謝絶していられたということを後に親しく話されたのでしたが、それにもかかわらずわが国からの招聘を快諾されたということは、教授がいかに多く東洋への興味をもっていられたかを示すのでありました。改造社からは当時ベルリンに滞在していた社員室伏(むろぶせ)氏を通じてこれをアインシュタイン教授に謀(はか)るとともに、私からも一書を親しく同教授に送ったのでした。それは大正十年夏のことであり、その後十二月に招聘の契約書を送ったのでしたが、翌年五月にそれに対する承諾書が来ました。それには九月にドイツのライプチッヒで自然科学者大会が開かれるが、これは創立百年の記念会であるから、そこでの講演を終えて後に直ちに出発することにすると記してあり、その書信の終わりには、
「あなたとこの秋にお目にかかること、そして私たちにとってはお伽噺(とぎばなし)の幔幕(まんまく)で包まれている輝かしいあなたの国を知ることをよろこばしくもくろみながら
親しい挨拶(あいさつ)をもって
あなたの親愛な
アルバート=アインシュタイン です」
という懐(なつ)かしい言葉が添えられてあったのでした。かくて十月八日マルセイユ出帆の北野丸に塔乗(とうじょう)して十一月十七日に神戸(こうべ)に到着されたのです。私たちはそれを神戸で出迎えましたが、東京帝大の長岡教授、九州帝大の桑木(くわき)教授、東北帝大の愛知教授なども来合わせられました。天候のぐあいで船がやや遅れたので、その日は京都に着いたのも日ぐれになってしまい、都(みやこ)ホテルで一泊の後、翌日直ちに東京に向かわれたのでした。それから東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡の各地で講演を行ない、十二月二十九日に榛名(はるな)丸に門司(もじ)で乗船して帰国の途に就(つ)かれたのでしたが、それらの間に夫人とともに諸所の風光に接し、また東洋の芸術を見て驚異の感に打たれられたようでもありました。そのとき私が記した文をここに再録して記念としたいと思います。(講演内容は『アインスタイン教授講演録』のなかに記してあるので、ここではそれは省きます。)
「世界中のいろいろな有様(ありさま)を見るのは自分にとってほんとうに望ましいことです。自分は夢のなかに見るような日本を知りたいので、ことさらにこの旅行に出かけて来ました。実際私には日本ほど特殊な興味を感ずるところはありません」と、教授はいつも私たちに話されました。「科学と芸術とは外見の上では異なっているけれども、それでも両者はこれらが湧き出る同じ精神力を通じて密接に相関連している」と、教授は筆をとって書かれたこともありました。「科学は一つの宗教である」という言葉も書かれました。教授は科学者ではあっても、芸術をも人間の永遠の尊い仕事として、同様に強く愛好されたのでした。それで科学の対象としての自然のほかに、芸術の対象としての自然をもよく観(み)ようと思われたのでした。そしてこの意味で遠く隔たった日本の山河(さんが)や田園や風俗や、さらにヨーロッパの芸術とはまるで異なっている東洋の固有の芸術に対して多大の興味を抱(いだ)かれたので、講演の暇々(ひまひま)にそれらのものに接することに大きな喜びを感ぜられたのでした。
 柔(やわ)らかな愛らしい自然のなかに、小さな木造の家を建てて簡素に住んでいる穏(おだ)やかな心の人たちとして、この国の生活をゆかしく印象されたのも、これによるのでした。ヨーロッパのような生存競争の激(はげ)しい深刻さのないことが、すべての人たちの感情をどれほどゆるやかに伸び伸びとさせ、美しい家族的親愛さを湛(たた)えさせているのであろうと、これを羨(うらや)まれました。もとより近代の生活がそれを漸次薄らがせてゆくことにも気づかれはしたでしょうが、しかしヨーロッパに全く欠けているいろいろな美点をここに見出だして、そういう有様が現実に存在しているのを目撃したことをよろこばれました。教授のおだやかな性格には日本の人たちがどこか遠慮ぶかいつつましさをそなえていることをゆかしくも思われたのでした。なんというはにかましい可憐(かれん)な心のもち主であろうと、日本の女性を見られもしたのでした。
 そしてこのような特殊な環境のなかにこそ特殊な芸術がおのずから育つのであるとも、教授は思われたのです。ことに能楽(のうがく)のしっとりと落ちついたゆるやかさのなかに、象徴的な複雑さを含んだ緊張しきった動作(どうさ)のあるのに、むしろ驚異の感を抱かれたのでした。冥想的(めいそうてき)な哲学的なこころに浸(ひた)されて、教授はいつまでもそのまえに座(すわ)ろうとせられました。またそれとともに一方では古代的な要素を多く含んでいる雅楽(ががく)にも異常な興味を感ぜられました。東洋風な古画に接しては、陰影をもたないはっきりした輪廓線(りんかくせん)の鋭さにいつも眼をつけられました。また写実や投射法を無視した構図に対しても、そのおのずからな感情に導かれて、それらが少しも観照を妨(さまた)げないことに注目されました。諸所の神社仏閣における彫刻や建築にも少なからぬ興味を惹(ひ)かれたのでした。しかしそれらのなかで最も深く教授を感激させたのは、京都の仙洞御所(せんとうごしょ)のなかで清涼殿(せいりょうでん)の前庭をかこんだ一帯の風趣であったのです。そこにはきれいな箒目(ほうきめ)を縦横にしるした白砂で埋まった四角な広い庭があり、それをとり囲んで二方にはすっきりとした廊下(ろうか)の半ば白い腰障子(こししょうじ)が並んでいたのでした。西側は清涼殿のおもてで、黄いろい簾(すだれ)が紅の紐(ひも)で結ばれ、黒瓦(くろがわら)の下に平行に懸(かか)っているのが見られます。南側には紫宸殿(ししんでん)の後ろ側の板戸がありました。「なんという瀟洒(しょうしゃ)なこころよい建築であろう。私は未だかつてこんな気もちの安らかなものを見たことはない」と、教授はほんとうに驚きの表情にみちてそこにたたずまれました。砂を敷いた庭の一隅に一叢(ひとむら)のわずかばかりな竹林が四角に囲われて立っており、そこからやや隔たって二、三本の竹があるだけで、他には静寂のほか何ものもないのでした。昔は朝になると、この竹林に小鳥が来て囀(さえず)るので、それで時刻を知ったのだという説明を、非常におもしろがって聞かれました。もうずっと先方へゆかれた夫人を呼び戻してこの話を繰り返して話されたほどでした、明け放しな宮廷の寒さを身に覚えながら、昔は火の気もおかれなかったことや、宮廷内では三十七歳をこえるまでは、冬足袋(たび)もゆるされずに素裸足(すはだし)でいなければならなかったことなどを聞かれて、ふしぎな夢もの語りのようにも思われたようでした。かような場所を中心にしてなだらかな美しい山々で囲まれた京都の一帯は、教授に最も深い印象を与えたので、そのあたりのいろいろな風光に接するのをこの上ない楽しみとせられたのでした。
 概して教授は、どこに行っても人々のありのままの姿と、またその手になった芸術を観賞することを好まれたのでした。それで何でもないような襖模様(ふすまもよう)や金具にさえ感興を惹(ひ)かれて、それを注目されました。ですから床の間が檜(ひのき)の一枚板であるとか、柱が柾目(まさめ)の杉であるとかいうようなことは、教授にとってなんの価値もなかったのです。名古屋城の金の鯱(しゃち)も教授にはさほど注目を惹かなかったので、むしろその形態の趣(おもむ)きや、城の屋根瓦が波のような感じをもつことをよろこばれました。そこに尊ぶべきものは材料の値高さではなく、人間のこころのあらわれであると信ぜられていたからです。ごく平民的な教授は富豪の家でりっぱな装飾を眺めることよりも、むしろありのままの平俗な生活を知るために田舎(いなか)みちをみずから歩いてみたいとも言われました。しかしそういう機会はあまりなかったのですが、須磨(すま)でちょっと町を歩いて、市の防火宣伝の画(え)の建札(たてふだ)が辻(つじ)に立っていたのに注目されたり、人形や菓子の並んでいる店や、魚屋や市場のまえに立ち止まってもの珍しそうにそれを眺められました。福岡で洋式旅館のないことを心配して、改造社では門司の三井倶楽部(みついくらぶ)を借りてそこに泊って福岡の講演におもむかれるようにしたところが、講演の翌日に再び九州帝大の午餐会(ごさんかい)でそこにおもむかなくてはならなかったので、教授はそれを好機としてぜひとも一度は日本式の旅館へ泊ってみたいと申し出られ、自分ひとりでその夜を蒲団(ふとん)の上に寝(い)ね、味噌汁(みそしる)で朝食をとられました。そして「自分だけで日本を旅行するのならば、どこでもこういう宿屋で泊りたい」とも話されました。米食や日本料理はあまりにもその口に不慣(ふな)れであったに違いないのですが、それでも習俗を知ろうとする心からそう言われたのに違いありません。もし事情がゆるすならば、もっと静かにひとりでこのめずらしい国を観(み)てゆきたいし、どこか山登りでもしてその自然にも親しみたいとも言われました。しかしそういうことも、わずかの滞在日数で実現できなかったのは遺憾でもありました。
 教授はいつも親しく接していた人たちに対して心おきない親しさを示されました。時には自分で戯談(じょうだん)ばなしや警句を発して笑い興ぜられたのです。ホテルでの食事にしきりに献立表から何かを選ぼうとしている人を見ると、「これはいくら研究したってわからないものの一つで籤(くじ)を引くようなものです。あんなにむだに頭をつかっては、おかげであの人の食事はうま味を失うでしょう。だから、自分はいつも妻に任せている」と言われ、私が同じものを注文すると、「講演で我々ふたりはいつも組になるのだから、食皿も同じにしてもいいですね」と笑われました。名古屋城内で襖(ふすま)に描かれた虎の絵を見て、「経済学者の顔のようだ」と言われたり、熱田(あつた)神宮で手洗いの浄水溜めを見て、「神聖の水は危険だ」と揶揄(やゆ)されたり、大阪で講演半ばの休憩時間に忙がしく食事をせられたとき、「もう少しいかがですか」と山本氏のすすめるのに対し、「歌う鳥はたくさんは食べません」と答えられたりしました。岡本一平氏が東京朝日に書いた漫画を見て、それに添えた文章をいつも附き添っていた稲垣氏に訳させてはいかにも無邪気な笑いに耽(ふけ)られました。真摯(しんし)な一面にはそういう明るい上品な笑いが常にこもっていました。また機会があると、ヴァイオリンを手にして私たちにもそれを喜んで聞かされました。帝国ホテルでの歓迎会の席上でもこれを奏せられましたが、名古屋では医科大学にいられたミハエリス教授とともにホテルの一室で合奏して午後の半日を楽しまれました。夫人が「私の夫は物理学者にならないで音楽家になっても成功したにちがいありません」と言われ、また「あれがあまりうますぎるので、私はそれ以来楽器を手にするのをやめました」と言われたりしましたが、実際にそういうとき教授はほんとうの芸術家の気分に浸って演奏されるのでした。
 教授は華美な歓迎会などはあまりによろこばれなかったので、それよりも静かな休息時間の方がはるかにいいとさえ言われました。アメリカ化された建築ややかましい音楽なども好まれないものに属していました。私がアメリカをまだ見ないことを話しましたら、「あんな国にゆくものでは決してない。あそこはすべて金銭ばかりの一次元の世界だから」と答えられました。「ただアメリカで採(と)るべきところはデモクラチッシュな点だけだ」とも言われました。人情的に見てスイスやオランダなどはよほど好まれていたようですが、ドイツはかなり嫌われていました。教授をドイツ人として歓迎したり、またドイツ人仲間の会合が催されたときには、私たちを省りみて「また黒赤黄いろだ」と苦笑されたりしました。世界大戦中にはスイスに行っていたことなどを話されたこともありました。
 物理学上の研究問題については最も熱心に私たちとも論じ、かつ教えられました。量子論は困難な問題であるが、ボーアの理論は少しの疑いもなく信ぜられると言われました。電磁的質量と万有引力との関係については、私がいろいろ尋ねたのに対し、それはまだ想像をゆるされない全くわからない問題であるとなし、「神は想像をもってではなく、理性をもって仕事する」という言を引用されたりしました。私が以前から考えていた電磁的エネルギー・テンソルの対称性の問題について話したことに対し、大いに興味をもたれて、汽車旅行の折りやそのほかの暇のあるたびごとにそれについての意見をいろいろ話されました。そしていくらかの数学的の計算をも行ないましたが、これは完成には至らなかったのでした。
 福岡での講演後に、教授は数日を門司(もじ)に送って関門海峡の美しい風光にも親しまれましたが、十二月二十九日に榛名丸(はるなまる)で出発されることになり、もはやうすら寒い風の吹くなかで、幾たびか別れの握手をかわしながら、名ごりを惜しんだのでした。夫人の眼にまず涙が流れ落ちるのを見ると、教授も赤く眼をはらせていられるので、私たちも船を去りかねたほどでした。船が出帆すると、教授夫妻はいつまでも寒い甲板に立って帽を振りハンケチを振られるのが望まれたのでした。教授のわが国における滞在はわずかに四十日あまりにすぎなかったのでしたが、しかしその特殊な印象は必ずいつまでもその脳裡(のうり)に深く残されていることを、私たちは信じています。日本への旅は教授にとって確かに最も特異なものであったにちがいないからです。
(一九二三年一月)
了

底本:「随想全集 第九巻」尚学図書
   1969(昭和44)年11月5日発行
底本の親本:「随筆集 夾竹桃」文明社
   1943(昭和18)年7月20日発行
入力:高瀬竜一
校正:フクポー
2019年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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