あらすじ
ある日、いたずら好きの少年ニールスは、おとうさんとおかあさんが教会へ行く間に、家に残されたお説教を読むように命じられます。しかし、少年はすぐに眠ってしまい、目を覚ますと、なんと自分自身が小人になってしまっていることに気づきます。驚いた少年は、元の姿に戻ろうとしますが、どこを探しても小人は見つかりません。そんな時、少年は庭にいるガチョウにいたずらをしようとしたところ、ガチョウは空へ飛び立ち、少年も一緒に空へと運ばれてしまうのです。
三月二十日 月曜日
 むかし、あるところに、ひとりの少年がいました。年は十四ぐらいで、からだは大きくアマ色の髪(かみ)の毛をしていました。この子は、たいして役にもたちませんでした。眠(ねむ)っては、たべるのがいちばんの楽(たの)しみで、おまけに、いたずらをするのが大すきという子だったのです。
 ある日曜日(にちようび)の朝のこと、おとうさんとおかあさんは、教会(きょうかい)へいくしたくをしていました。少年はシャツ一枚(まい)になって、テーブルのふちに腰(こし)をかけ、こいつはしめた、おとうさんとおかあさんがいってしまえば、二時間ばかりはすきなことがしていられるぞ、と思いました。そこで、「よし、おとうさんの鉄砲(てっぽう)をおろして、打ってやれ。だれにもおこられやしないからな。」と、ひとりごとを言いました。
 けれども、おとうさんは、まるで子どもの考えていることを見ぬきでもしたようでした。だって、そうでしょう。おとうさんは出かけようとして、しきいをまたごうとしたとき、急に立ちどまったかとおもうと、子どものほうを振(ふ)りかえって、こう言ったのです。
「おまえがおかあさんやおとうさんといっしょに教会へいきたくないのなら、家(うち)にいてもいいが、せめてお説教(せっきょう)だけは読んでおきなさい。おまえにその約束ができるかね?」
「はい、できます。」と、少年は答えました。でも、もちろん、おなかの中では、読みたいだけしか読んでやるもんか、と思っていました。
 少年は、おかあさんがこんなにすばしこく何かするのを、いままでに一ども見たことがありません。おかあさんはたちまち本棚(ほんだな)のところへいって、ルーテルの説教集(せっきょうしゅう)をおろし、その日のお説教のところを開(ひら)いて、窓(まど)ぎわのテーブルの上におきました。それから、聖書(せいしょ)を開いて、これも説教集のそばにおきました。さいごに、おかあさんは大きなひじかけイスをテーブルのそばに引きよせました。このイスは、去年、ヴェンメンヘーイの牧師館(ぼくしかん)であった競売(きょうばい)のときに買ってきたものでした。そして、いつもは、おとうさんのほかは、だれも腰(こし)かけてはいけないことになっていました。
 おかあさんは、よけいな世話(せわ)をやきすぎる、と少年は心の中で思っていました。なぜって、少年としては、一ページか二ページぐらいしか読むつもりはなかったのですから。けれども、またしても、おとうさんは少年の心の中を見すかしたようでした。おとうさんは少年のそばへやってきて、きびしい調子(ちょうし)でこう言いました。
「よく気をつけて、ちゃんと読むんだぞ。おれたちが帰ってきたら、一ページ残(のこ)らずきくからな。もしちょっとでも飛(と)ばしていたら承知(しょうち)しないぞ。」
「お説教は十四ページ半あるのよ。」おかあさんは、まるで、はっきりさせておこうとでもいうように、こう言いました。「読んでしまおうと思うんなら、すぐにはじめなくちゃだめよ。」
 こう言いのこして、おとうさんとおかあさんは出ていきました。少年は戸口に立って、あとを見送りながら、きょうは、とうとうつかまっちまった、と、あきらめました。
「おとうさんとおかあさんは、るすの間じゅう、ぼくがお説教を読んでいなければならないようにうまくしむけて、うれしがっているんだ。」
 ところが、おとうさんとおかあさんにしてみれば、うれしがっているどころではありません。心から悲(かな)しんでいるのでした。ふたりは貧(まず)しい百姓(ひゃくしょう)でした。持っている土地といえば、わずかに庭ぐらいの大きさのものでした。ふたりがここへ移(うつ)ってきたときには、ブタを一頭(とう)とニワトリを二羽(わ)飼(か)っているだけでした。しかし、ふたりともふつうの人以上によく働(はたら)く勤勉(きんべん)な人たちでしたから、いまでは牛やガチョウも飼えるようになりました。暮(く)らしむきもたいへんよくなっていました。ですから、子どものことさえ気にかからなかったら、こんなすばらしい朝には、はればれとした、みちたりた気もちで、教会へもいけたことでしょう。おとうさんは、少年が、ぶしょうで、なまけもので、学校へいっても何一つ勉強(べんきょう)しようともしないし、ガチョウの番(ばん)がどうにかこうにかつとまるといったあんばいの、のらくら者であることを、しょっちゅうこぼしていました。おかあさんは、そのことにたいしては、べつに反対はしませんでした。けれども、少年がらんぼうで、意地(いじ)が悪(わる)く、生き物にたいしてはざんこくで、人びとにたいしてはよくないことばかりするので、それを何よりも心配していました。
「ああ、どうか神(かみ)さまがあの子のいじわるなところをなくして、心を入れかえてくださいますように!」と、おかあさんはため息(いき)をついて言うのでした。「さもないと、いつかは、あの子もあたしたちも、ふしあわせになってしまいます。」
 少年は、お説教を読んだものかどうかと、長い間じっと考えこんでいました。でも、けっきょく、いまは言いつけに従(したが)うのがいちばんだと思いました。そこで、牧師館(ぼくしかん)のひじかけイスに腰(こし)をおろして、読みはじめました。けれども、低い声でしばらくブツブツ言っているうちに、眠(ねむ)たくなってきて、まもなくコックリコックリしはじめました。
 外はすばらしいお天気でした。まだ三月二十日になったばかりですが、少年の住んでいる村は、南部(なんぶ)スコーネのずっと南の、西ヴェンメンヘーイにありました。そこにはもう春の香(かお)りがみちみちていたのです。木々はまだ緑(みどり)になってはいませんが、いたるところに新しい芽(め)がもえでています。堀(ほり)という堀には水がいっぱいで、堀ばたにはフキの花がひらき、石壁(いしかべ)の上に生(は)えている草の茂(しげ)みは、つやつやとして褐色(かっしょく)になっています。はるかかなたのブナの森は、みるみるうちに大きくふくらんでいくように見えます。空は高く、青くすんで、頭の上にひろがっています。家の戸がすこし開(あ)いているので、部屋の中でもヒバリのさえずる声が聞こえます。ニワトリとガチョウたちは庭をあるきまわっていました。牛は、春のけはいが牛小屋の中にまではいってきたのを感じて、ときどきモウ、モウと鳴(な)きました。
 少年は読んだり、コックリコックリしたり、眠(ねむ)るまいとがんばったりしました。「眠っちゃだめだ。」と、少年は思いました。「眠ったら、午前中にお説教(せっきょう)は読みきれっこないぞ。」
 けれども、とうとう、ねこんでしまいました。
 どのくらい眠ったのか、じぶんでもわかりませんでしたが、うしろのほうで、なにか低(ひく)い物音がするので、少年は、はっと目をさましました。少年のまん前の窓台(まどだい)の上には、小さな鏡が一つおいてあります。その鏡(かがみ)には、部屋(へや)じゅうのものが、ほとんどぜんぶ映(うつ)って見えました。少年は頭をあげたとき、なにげなくこの鏡をながめました。すると、おかあさんの長持(ながもち)のふたが開(あ)けっぱなしになっているではありませんか。
 おかあさんは、鉄(てつ)の金具(かなぐ)のついた、カシワの木でできている、大きな重(おも)たい長持を持っていたのですが、これはおかあさんのほかは、だれも開けてはいけないことになっていました。おかあさんは、その中に、じぶんのおかあさんからゆずられたものや、とくべつたいせつなものを一つのこらずしまっていたのです。そこには、赤い布地(きれじ)でつくった古風(こふう)な百姓(ひゃくしょう)の着物――短(みじか)い胴着(どうぎ)、ひだのあるスカート、真珠(しんじゅ)の飾(かざ)りのついた胸着(むなぎ)――がいくつか入れてありました。それから、のりをつけて洗ったまっ白な頭巾(ずきん)や、重(おも)たい銀(ぎん)の装身具(そうしんぐ)や、くさりなどもはいっていました。いまでは、こんなものを身につけようとする人はありません。おかあさんは、売ってしまおうかと思ったこともたびたびありましたが、思いきってそうする気にもなれませんでした。
 ところで、少年は、長持のふたが開(あ)いているのを、いま鏡(かがみ)の中にはっきりと見ました。どうしたというのでしょう。さっぱりわけがわかりません。だって、おかあさんは出かけるまえに、ふたをちゃんと閉(し)めていったのです。だいいち、少年がひとりっきりでるすをしているときに、長持を開けっぱなしにしておくようなことをするはずはありません。
 少年はまったくきみが悪(わる)くなってきました。どろぼうが忍(しの)びこんできたのかもしれない……そう思うと、こわくなって、身動(みうご)きすることもできず、じっと腰(こし)かけたまま、鏡(かがみ)の中を見つめていました。
 こうして、そこに腰かけて、どろぼうが姿(すがた)をあらわすのを、いまかいまかと待っていました。そのうちに、長持のふちに黒(くろ)い影(かげ)がさしているのを見つけました。おや、あれはなんだろう? よくよくながめてみましたが、どうしてもじぶんの目のせいとしか思えません。けれども、さいしょは影のように見えたものが、だんだんはっきりしてきますと、それは影ではなく、ほんとうの生(い)き物であることがわかりました。しかもまあ、なんということでしょう、それは、小人(こびと)ではありませんか。その小人がいま、長持のふちにまたがっているのです。
 少年はいままで小人のことを話には聞いていましたが、こんなにちっぽけなものだとは夢(ゆめ)にも思ったことがありませんでした。いまそこの長持のふちに腰かけている小人は、せいはやっと十センチかそこらです。そいつは年とった、しわだらけの顔(かお)をしていて、ひげはありません。すその長い黒の上着(うわぎ)をきこんで、半ズボンをはき、つばの広い黒い帽子(ぼうし)をかぶっています。なかなかいきで、スマートです。えりや、そで口には白いレースをつけ、締金(しめがね)でとめた靴(くつ)をはき、靴下どめにはチョウ型リボンがむすんであります。ちょうどいま、小人は長持の中から縫取(ぬいとり)のしてある胸着(むなぎ)を取りだして、感心した顔つきでその古風(こふう)なつくりかたを眺(なが)めています。それで、少年が目をさましているのには、すこしも気がついていません。
 少年は、小人を見たときには、すっかりびっくりしてしまいましたが、べつにこわくはありませんでした。そうでしょう。こんなちっぽけなものを、こわがるわけはありませんもの。それに、小人は珍(めず)らしい胸着を見るのに夢中(むちゅう)になっていて、ほかのことは耳にも目にもはいらないようすです。そこで、さっそく、少年は、よし、あいつを長持の中におしこめて、ふたをするとかなんとか、ひとつからかってやれ、という気になりました。
 でも、さすがに、小人にさわる気にはなれません。それで、何か小人をたたくものがないかと、部屋(へや)の中を見まわしました。まず、長イスからテーブルへ、テーブルからだんろへと目を走らせました。そして、だんろのそばの棚(たな)の上にのっている鍋(なべ)やコーヒーわかしや、戸口にある水桶(みずおけ)や、はんぶん開(あ)いている戸棚の中に見えるさじやナイフやフォークや鉢(はち)やお皿(さら)まで眺めわたしました。つづいて、おとうさんの鉄砲(てっぽう)を見あげました。これは、壁(かべ)にかかっているデンマークの国王と皇后(こうごう)の肖像画(しょうぞうが)のそばにかけてありました。それから、窓台(まどだい)のところに咲(さ)いているテンジクアオイやフクシャを眺(なが)めました。こうして、いちばんおしまいに、窓の横木(よこぎ)にかけてある古い虫とり網(あみ)に目をとめました。
 この虫とり網を見るが早いか、少年は跳(は)ねおきて、それをひっつかむと、長持のふたをさっとすくいました。と、どうでしょう。まったく、うまいものです。じぶんでもびっくりしてしまったくらいです。どうしてこんなにうまくいったのか、いっこうにわかりません。でも、ともかく、小人はこうして、生(い)けどってしまったのです。かわいそうに、小人は長い網(あみ)の底のほうに、さかさまになってころがっています。これでは、とうてい逃(に)げられっこありません。
 さて、少年は、つかまえてはみましたが、さいしょのうちは、この小人をどうしたらいいのか、見当(けんとう)がつきませんでした。ただ、小人が這(は)いあがってくることができないように、ひっきりなしに網をゆり動かしていました。
 そのうちに、小人が口をきいて、どうか許(ゆる)してください、といくたびもいくたびも頼(たの)みました。そして、じぶんはこの家(うち)のために、長い間ずいぶんいいことをしてきたのだから、もうすこし、よくしてくれたっていいはずだ、もし、少年がじぶんを許してくれるなら、古いお金(かね)を一枚(まい)と、銀(ぎん)のさじを一本と、それに金貨(きんか)も一枚あげよう、その金貨といったら、少年の父親の銀時計(ぎんどけい)の側(かわ)っくらいもある大きなものだと、言いました。
 小人の申し出たお金(かね)は、それほどたいしたものとは思いませんでしたが、少年は小人をつかまえてからというもの、なんとなくこわくなっていました。つまり、この世のものではない、きみのわるい、何かふしぎなものとかかりあいになったのを感じていたのです。ですから、小人を逃がしてやることは、じつをいえば、うれしくてたまらなかったのです。
 こういうわけで、少年はすぐさまその申(もう)し出(いで)を承知(しょうち)しました。そして、小人が這(は)いだせるように、網をゆり動かすのをやめました。けれど、小人が網から出かかったとき、少年は、ふと、逃がしてやるかわりに、もっといろんなものがもらえるように、きめておけばよかった、と、思いつきました。まあ、せいぜい、小人が魔法(まほう)でもって、あのお説教(せっきょう)をおぼえさせてくれることくらいは、取りきめておくべきでした。
「ただ逃(に)がしてやるなんて、なんてぼくはバカなんだ。」と、少年は思いました。そこで、小人(こびと)がもう一ど網(あみ)の底(そこ)へころがり落ちるように、またまた網をゆすりはじめました。
 ところが、少年が網をゆすりはじめたとたん、ほっぺたをいやっというほどなぐりつけられました。まるで、頭がメチャメチャになってしまったのではないかと思われました。そして、一ぽうの壁(かべ)にたたきつけられたかと思うと、こんどはもう一ぽうの壁にぶっつかり、しまいには床(ゆか)の上にぶったおれて、そのまま気を失(うしな)ってしまいました。
 気がついたときには、家(うち)の中にひとりっきりでした。もう小人の姿(すがた)はどこにも見えません。長持(ながもち)のふたはちゃんとしまっています。虫とり網(あみ)も窓(まど)ぎわのいつものところにかかっています。ですから、さっきなぐられた右のほっぺたがヒリヒリしなかったら、少年はたぶん、みんな夢(ゆめ)だったんだと、思ったことでしょう。
「こんなことを話したって、おとうさんやおかあさんは、そりゃ夢さ、と言うだろうな。」と、少年は思いました。「小人が来たからって、お説教をかんべんなんかしてくれっこない。いそいで読むよりほかないや。」
 ところが、テーブルのほうへいこうとしますと、なんだかいつもとようすがちがっています。でも、部屋(へや)が大きくなるなんてはずはありません。それなら、テーブルのところへいくのに、いつもよりずっとよけいに歩かなければならないというのは、いったいどうしたわけでしょう? それに、イスだってまた、どうしたというのでしょう? まえよりも大きくなったはずなどありませんが、少年が腰(こし)かけようとするには、いったんイスの足のあいだの横木(よこぎ)にのぼって、それからすわるところによじのぼらなければなりません。テーブルにしたって、すっかり同じことです。テーブルの上を見ようとすれば、イスのひじかけの上にのぼらなければならないのです。
「いったい、どうしたっていうんだ?」と、少年は言いました。「そうだ、きっと小人が、ひじかけイスにも、テーブルにも、そればかりか、部屋(へや)じゅうに魔法(まほう)をかけたんだな。」
 説教集(せっきょうしゅう)はテーブルの上にありました。見たところ、変(か)わったようすはありません。でもやっぱり、ちょっとへんなところがあるようです。なぜって、少年は本の上にのぼらなければ、一字も読むことができないのです。
 少年は二、三行読むと、なにげなく顔(かお)をあげました。すると、ちょうど鏡(かがみ)に目がとまり、とたんに、大声でさけびました。
「やあ、あそこにまた、べつのやつがいるぞ!」
 そのとおりです。少年は鏡の中に、とんがり帽子(ぼうし)をかぶり、革(かわ)ズボンをはいたちっぽけな小人をはっきりと見たのです。
「あいつは、ぼくとまるっきり、おんなじかっこうをしているな。」少年はこう言いながら、びっくりして手をたたきました。と、どうでしょう、鏡の中の小人も同じように手をたたくではありませんか。
 そこで少年は、髪(かみ)の毛をひっぱったり、腕(うで)をつねったり、ぐるっとまわったりして見ました。すると、鏡の中の小人も、すぐそのとおりにするのです。
 それから少年は、鏡のまわりを二、三どかけまわりました。ひょっとしたら、鏡のうしろにちっぽけな者でもかくれていやしないかと思ったのです。けれども、鏡のうしろにはだれもいません。こうなると、少年はこわくなって、からだじゅうがブルブルふるえてきました。そのはずです。じぶんは小人に魔法(まほう)をかけられたということが、いまはじめてわかったのですもの。鏡の中に見えたちっぽけな小人は、まちがいようもなく、少年じしんの姿だったのです。

 少年は、自分が小人(こびと)になってしまったとは、どうしても信じることができませんでした。
「こいつはきっと夢(ゆめ)なんだ、気の迷(まよ)いなんだ。ちょっと待ってりゃ、すぐまたもとの人間になれるだろうさ。」こう思いながら、鏡(かがみ)の前に立って、目をつぶりました。そして、こんなバカバカしいことが消(き)えてなくなってしまえばいいと願(ねが)いながら、二、三分して目をあけました。ところが、なんの変(か)わりもありません。やっぱりまえと同じようにちっぽけなままの姿です。白っぽいアマ色の髪(かみ)の毛、鼻(はな)の上のそばかす、革(かわ)ズボンにあてたつぎ、靴下(くつした)の穴(あな)、なにもかもが、もとのとおりです。そしてただ、からだだけが、ひどくちっぽけになっているのです。
 いや、こうやって立って待っていたところで、どうにもなりゃしない。なんとかしなくちゃだめだ。そうだ、いちばんいいのは、小人をさがしだして、仲(なか)なおりをすることだろう。
 こう思うと、少年は床(ゆか)にとびおりて、さっそく、さがしはじめました。イスや戸棚(とだな)のうしろから、長イスの下やだんろのうしろまでさがしました。そのうえ、ネズミの穴(あな)にまで這(は)いこんでみましたが、小人の姿はどこにも見あたりません。
 少年はさがしながらも、泣いたり、祈(いの)ったり、思いつくはしからさまざまのことを誓(ちか)ったりしました。これからは、けっして約束をやぶったりしません。いじわるもしません。お説教(せっきょう)のときにいねむりもしません。もう一ど人間の姿になれさえしたら、きっと、おとなしい、りっぱな、いい子になります……けれども、いくら誓ってみたところで、なんの役にもたちませんでした。
 小人はよく牛小屋に住(す)んでいると、いつだったか、おかあさんが言っていたのを、少年はふっと思いだしました。そこで、さっそく牛小屋へいって、小人がいるかどうか、さがしてみることにしました。ありがたいことに、戸口がすこし開(あ)いていました。だって、もしそうでなかったら、錠(じょう)まで手がとどかないのですから、戸を開けることができなかったでしょう。ともかくこうして、らくに抜(ぬ)けでることができました。
 玄関(げんかん)に出たとき、じぶんの木靴(きぐつ)はどこにあるかと見まわしました。いままで部屋の中では、靴下(くつした)しかはいていなかったのですからね。少年は心のうちに思いました。あんなに大きな、重(おも)たい木靴を、いったいどうしてはいたもんだろう。
 でもそのとき、よく見ますと、入口のところにちっぽけな木靴が一足(そく)そろえてあります。おや、おや、小人は木靴まで小さくするほど気をつかっているのです。それがわかりますと、少年はひどく心配になってきて、「あいつめ、ぼくにこんなみじめな思いを長いことさせておくつもりなんだな。」と、思いました。
 戸口の前においてある古いカシワの板の上を、スズメが一羽(わ)ピョイピョイととびはねていました。スズメは少年の姿を見たとたんに、さけびたてました。
「チュン、チュン、ごらんよ、ガチョウ番(ばん)のニールスを! あのチビ小僧(こぞう)を見てごらん! チビ小僧のニールス・ホルゲルッソンを見てごらん!」
 すると、たちまち、ガチョウもニワトリも、ニールスのほうを振(ふ)りむきました。そうして、みんなは、ものすごい勢(いきお)いで鳴(な)きたてました。
「コケッコッコ。」と、オンドリはがなりたてました。「ばちがあたったんだ! コケッコッコ、おれのトサカをひっぱったのはあいつさ!」
「コ、コ、コ、コ、ばちがあたったのよ!」と、メンドリたちは、鳴きたてました。そして、いつまでもいつまでもさけびつづけました。
 ガチョウたちはかたまって、たがいにささやきあいました。
「だれがあんなにしたんだい? だれがあんなにしたんだい?」
 しかし、何よりもふしぎなのは、鳥のしゃべっていることがニールスによくわかることでした。ニールスはあんまりびっくりしてしまって、入口のところにつっ立ったまま、ぼんやりとただ聞いていました。
「こりゃあ、きっと、ぼくが小人になったからなんだろう。それで、鳥のことばがわかるんだ。」と、ニールスは言いました。
 ニワトリたちはいつまでも、ばちがあたった、ばちがあたった、とさけびつづけています。ニールスはがまんができなくなりました。そこで、石をぶっつけて、どなりました。
「だまれ! こんちくしょう!」
 ところが、つい、だいじなことを忘(わす)れていました。それはほかでもありません、ニールスは、いまではニワトリたちからこわがられるほど大きくはないのです。ニワトリたちはニールスめがけて走ってきて、そのまわりをとりかこむと、またまた、さけびました。
「コ、コ、コ、コ、ばちがあたった! コ、コ、コ、コ、ばちがあたった!」
 ニールスは逃(に)げようとしました。けれど、ニワトリたちがあとからとびかかってきては、大声にどなるので、耳がツンボになりそうです。もしもそのとき、ネコがそこへ来てくれなかったら、きっと逃げだすことができなかったでしょう。ニワトリたちはネコの姿を見ますと、たちまちだまりこんで、地面(じめん)をつつきまわしては、一生けんめい虫をさがしているようなふりをしはじめました。
 ニールスはさっそく、ネコのところへかけていきました。
「ミーや、おまえはこの庭なら、すみのすみから隠(かく)れ穴(あな)まで、すっかり知ってるだろう? いい子だから、小人がどこにいるか教えておくれよ。」
 ネコはなかなか返事をしませんでした。そこへすわって、しっぽをかわいらしく前足のまわりにまきつけてから、少年を眺(なが)めました。大きな黒いネコで、胸(むね)にぽっつり白いところがあります。毛なみはつやつやしていて、お日さまの光をうけると、きれいに輝(かがや)きました。爪(つめ)はおさめていました。目は灰色(はいいろ)で、まんなかに小さな黒い点(てん)が見えました。見るからにおとなしそうな黒ネコです。
「小人がどこに住(す)んでいるかぐらい、もちろん知ってるよ。」と、ネコはやさしい声で言いました。「といったって、きみに教えてやろうとは思っちゃいないよ。」
「かわいいミーや、ぼくを助(たす)けておくれよ。」と、ニールスは言いました。「ぼくが魔法(まほう)にかけられているのがわからないの?」
 ネコが目をすこしあけますと、いじわるそうなようすがあらわれてきました。それから、満足そうにのどをゴロゴロならして、とうとうこう答えました。
「このぼくが、きみを助けるんだって? きみはあんなにしょっちゅう、ぼくのしっぽをひっぱったじゃないか。」
 ニールスは、しゃくにさわってしかたがありません。それで、いまはじぶんがちっぽけな弱(よわ)い者になっていることを、またまた忘(わす)れてしまったのです。
「よし、そんなら、もう一ど、しっぽをひっぱってやるぞ、いいか。」こう言って、ネコにとびかかりました。
 その瞬間(しゅんかん)、ネコはいままでのネコとは思えないほど、すっかり変(か)わってしまいました。毛をさかだて、せなかをまるめ、足をのばしました。爪(つめ)は地面をひっかきしっぽは短(みじ)かく太(ふと)くなり、耳はつったち、口からはあわをふき、目は大きくひらいて、ほのおのように輝(かがや)きました。
 ニールスは、ネコなんかにおどかされてたまるものかと、なおも前にでていきました。しかし、ネコはおどりあがって、ニールスにとびかかり、そこにたおしてしまいました。そして、口を大きく開(あ)けて、ニールスののどをねらいながら、前足で胸(むね)をおさえつけました。
 ニールスは、ネコの爪(つめ)がチョッキやシャツをとおして肌(はだ)までくいこみ、鋭(するど)いキバがのどをくすぐったのを感じました。ああ、たいへん! ニールスは声をかぎりに助(たす)けをもとめました。
 けれども、だれも来てはくれません。ニールスは、いよいよおしまいかと思いました。ところが、どうしたわけか、そのとき、ネコは爪をひっこめて、のどもはなしてくれました。
「そら、」と、ネコは言いました。「このくらいで、もういいだろう。きょうのところはかんべんしといてやる。きみのおかあさんにめんじてだ。なあに、きみとおれとではどっちが強いか、知らせてやったまでのことさ。」
 こう言いすてて、ネコは帰っていきました。そのようすは、来たときと同じように、すなおで、いかにもおとなしそうです。ニールスはがっかりして、ものを言う元気もありません。これでは、いよいよ小人(こびと)を見つけるよりほかはないのです。そこで、おおいそぎで牛小屋へ、かけていきました。
 牛小屋には、牛は三頭(とう)しかいませんでした。ところが、ニールスが、はいっていったとたんに、三頭ともほえはじめました。まあ、そのさわがしいことといったら、どうみても三十頭は、いるのではないかと思われるほどでした。
「モウ、モウ、モウ、」と、マイルースがほえました。「この世の中にまだ正義(せいぎ)ってものがあるのは、けっこうなことだ。」
「モウ、モウ、モウ、」と、こんどは三頭がいっせいに鳴(な)きたてました。何を言っているのやら、とてもわからないほど、メチャメチャに、がなりたてました。
 ニールスは小人のことをきいてみたかったのですが、牛たちがすっかりのぼせあがっているので、じぶんの言いたいことを牛たちに聞かせることができませんでした。牛たちは、まるで見なれない犬をけしかけられたときのように、あばれるのです。後足(あとあし)でける、首輪(くびわ)をゆすぶる、頭をぐっと上へむけて角(つの)をふりたてる、といったありさまです。
「オイッ、ちょっとここへ来な!」と、マイルースが言いました。「ぐんとこたえるように、一(ひと)けり、けってやろうじゃないか。」
「ここへおいで!」と、グルリリアが言いました。「あたしの角(つの)の上でちょいと踊(おど)らせてあげるよ。」
「ここへおいでよ、おいで。おまえに木靴(きぐつ)をぶっつけられると、どんな思いをしたものか、ひとつおまえにも知らせてあげるから!」と、シェルナは言いました。
「さあ、おいでったら。おまえがあたしの耳にハチを入れてくれたお礼(れい)を、いましてあげるよ!」と、グルリリアはさけびました。
 マイルースはいちばん年とっていて、いちばんりこうな牛でした。そして、中でもいちばん怒(おこ)っていました。
「ここへこい。おまえはおかあさんから、牛乳(ぎゅうにゅう)のしぼり台(だい)を、なんどもなんどもひったくったな。それから、おかあさんが牛乳桶(ぎゅうにゅうおけ)を運(はこ)んでいるときに、いろんないたずらをしたっけな。おかあさんはおまえのために、ずいぶん涙(なみだ)を流したものだ。いまそのお礼をみんなしてやるぜ。」
 ニールスは、いままでのひどいしうちをどんなに後悔(こうかい)しているか話したり、小人がどこにいるかを教えてくれさえすれば、これからはきっと、いい子になる、と言いたかったのです。けれど牛たちは、ニールスの言うことなどに、てんで耳をかしてはくれません。たけりたってほえていますので、もしかして、つないである綱(つな)が切れはしないかと心配になってきました。そこで、ニールスは、牛小屋からそっと抜(ぬ)けだすよりほかはないと思いました。
 ニールスは、やっとの思いで逃(に)げてはきましたが、すっかりがっかりしてしまいました。むりもありません。家じゅうどこへいっても、小人をさがす手助(てだす)けをしてくれる者はないのですもの。それに、こんなぐあいでは、小人を見つけだしたところで、たいして役にはたたないでしょう。
 ニールスは幅(はば)の広い石垣(いしがき)によじのぼりました。石垣は農場(のうじょう)をとりまいていて、その上にはイバラやイチゴのつるが、いちめんにからまっていました。ニールスはそこに腰(こし)をおろして、つくづく考えました。もしも人間の姿にもどれなかったら、いったいどうなるんだろう。おとうさんとおかあさんが教会(きょうかい)から帰ってきたら、どんなにびっくりするだろう。それどころか、国じゅうの人たちがみんなびっくりするだろう。そして、じぶんを見物(けんぶつ)しようとして、東ヴェンメンヘーイからもトルプからもスクーループからも、たくさんやってくるだろう。いや、ヴェンメンヘーイじゅうの人たちが集まってくるだろう。そして、おとうさんとおかあさんは、じぶんを市(いち)につれていって、見せ物にするかもしれない。
 ああ、そんなことは思ってみただけでも、じつにこわいことです! こうなったうえは、もうだれにも姿を見られたくありません。
 ああ、それにしても、なんという、ふしあわせな少年でしょう。これほど、ふしあわせな者は、世界じゅう、どこをさがしたってありません。この子はもう人間ではないのです。いまではちっぽけな化物(ばけもの)です。
 ニールスは、もう人間ではないということが、いったいどんなことなのか、だんだんわかってきました。いまでは、すべてのものから切りはなされてしまったのです。もうほかの子どもたちと遊(あそ)ぶこともできません。おとうさんおかあさんのあとつぎをすることもできません。それに、こんなじぶんのところへは、お嫁(よめ)にきてくれるひともないでしょう。
 少年は、わが家(や)をながめました。それは、白くぬってある小さな百姓家(ひゃくしょうや)でした。とんがった、高いわらぶき屋根(やね)をいただいていて、まるで地面の中にめりこんでいるようなかっこうです。納屋(なや)も小さく、そのうえ、畑(はたけ)の小さいことといったら、それこそ、馬でさえふりむいても見ないくらいです。だけど、どんなにちっぽけで、貧弱(ひんじゃく)でも、いまのニールスにとっては、よすぎるほどでした。なぜって、いまのこの身の上では、牛小屋の床下(ゆかした)の穴(あな)よりもましな家(うち)に住むことなど、とても望めないことですからね。
 びっくりするほどすばらしいお天気でした。少年をとりまくすべてのものが、何かヒソヒソとささやいていました。新芽(しんめ)は、いきいきともえでて、鳥は楽(たの)しそうにさえずっていました。けれども、ニールスの心は沈(しず)んでいました。これからはもう、どんなものを見ても、いままでのように、うれしいと思うことは二どとないでしょう。ニールスは、きょうのように空が青くすんでいるのを見たことがありません。見れば、渡(わた)り鳥が飛(と)んでいます。その鳥たちは遠い外国から飛んできて、バルト海をこえ、スミューエ岬(みさき)に上陸(じょうりく)して、いましも北をさして飛んでいくところだったのです。いろんな種類の鳥がいましたが、ニールスの知っているのはガンだけでした。ガンのむれは、クサビ型(がた)に長い列(れつ)をつくって、飛んでいました。
 ガンのむれは、もういく組(くみ)もいく組も飛んでいきました。みんな空を高く飛んでいきましたが、それでも、「さあ、丘(おか)へいくんだ! さあ、丘へいくんだ!」とさけんでいるのが聞こえました。
 ガンは、庭をぶらぶらしているガチョウを見つけると、さっと舞(ま)いおりてきて、「いっしょにこいよ! いっしょにこいよ! さあ、丘へいくんだ!」と、大きな声で呼(よ)びかけました。
 ガチョウたちは、思わずしらず頭をあげて、耳をすましました。けれども、すぐにふんべつのある返事をしました。
「ここで、たくさん! ここで、たくさん!」
 まえにも言ったとおり、たとえようもないほどすばらしいお天気でした。こんなにさわやかで気もちのいい日に、あの大空を飛びまわったら、さぞ楽(たの)しいことでしょう。じっさい、新しいガンのむれが、頭の上を飛びすぎるたびに、ガチョウたちもじっとしてはいられなくなってきました。なんだか、いっしょに飛んでいきたいような気もちにさそわれて、ガチョウたちは、二、三ど、はねをバタバタやってみました。でも、そのたびに、年とったおかあさんガチョウが言いました。
「バカなまねをするんじゃないよ。あの連中(れんちゅう)は、いまにおなかがすいたり、寒(さむ)くてこごえたりするにきまってるんだから。」
 まっ白な一羽(わ)の若いオスのガチョウは、ガンのさけび声を聞いているうちに、どうしても旅(たび)に出かけたくなってしまいました。そして、
「このつぎ、ガンのむれがきたら、いっしょにいこうっと。」と、さけびました。
 やがて、新しい一(ひと)むれが飛んできました。そして、まえと同じように呼びかけました。すると、若いガチョウは、「待って、待って! ぼくもいくよ!」と、さけびました。そうして、はねをひろげて、空に飛(と)びあがりました。けれども、飛ぶのには慣(な)れていないものですから、バタッと地面の上に落っこちてしまいました。
 でも、とにかく、若いガチョウのさけび声は、ガンのむれまで聞こえたのにちがいありません。ガンたちは向きをかえて、ゆっくりと舞(ま)いもどってきました。ほんとうにいっしょにくるのかどうか、たしかめようというのでしょう。
「待って! 待って!」と、若いガチョウはさけびながら、もう一ど、飛ぼうとしました。
 ニールスは石垣(いしがき)の上から、これをのこらず聞いていました。「あの大きいガチョウに逃(に)げられたら、大損害(だいそんがい)だぞ。」と、少年は思いました。「教会から帰ってきて、あいつがいなかったら、おとうさんとおかあさんは、どんなにがっかりするだろう。」
 こう考えたときニールスは、またもや、じぶんがちっぽけで弱(よわ)い者になっていることをすっかり忘れていました。すぐさま石垣からとびおりると、ガチョウのむれのまんなかに駆(か)けこんで、その若いガチョウの首(くび)っ玉(たま)にかじりついて、さけびました。
「飛(と)んでっちゃだめだよ、いいかい!」
 ところが、ちょうどその瞬間(しゅんかん)に、ガチョウは地面から飛びあがるこつをのみこんでしまったのでした。そして、ニールスを振(ふ)り落(おと)すひまもなく、この子をつれたまま空に舞(ま)いあがってしまいました。
 ニールスは、上へ上へとつれていかれました。それこそ目まいがするほどものすごい早さです。ああ、これはいけない、ガチョウの首をはなさなければ、と気がついたときには、もう空高くのぼっていました。こんな高いところから落っこちれば、あっというまに死んでしまうでしょう。
 せめて、もうすこしらくな姿勢(しせい)にでもならなければたまりませんが、そのためには、ガチョウのせなかによじのぼるよりほかありません。それで、ニールスは、さんざん骨(ほね)をおって、やっとのことでガチョウのせなかにのっかりました。けれど、羽(は)ばたいている二つのはねのあいだの、ツルツルしたせなかにしっかりとのっかっているのは、なかなかたいへんなことでした。ですから、ころがり落ちないように、両手をはね毛の中までつっこんで、一生けんめいしがみついていました。

 少年はひどくめまいがして、長いこと何がなんだかわかりませんでした。風はピュウピュウうなりをたてて、吹きつけてきます。すぐそばでは、つばさがバタバタと羽(は)ばたき、その音は、ものすごい嵐(あらし)のようです。十三羽(ば)のガンはニールスのまわりを飛(と)んで、勢(いきお)いよく羽ばたきながら、ガアガア鳴(な)きたてています。ニールスは目さきがチラチラし、耳がガンガン鳴っています。いったい、高いところを飛んでいるのか、低いところを飛んでいるのか、そしてまた、どこへ向かって飛んでいるのか、さっぱりわかりません。
 でも、そのうちに、頭がだんだんはっきりしてきて、いったい、どこへつれていかれるのか、それを見きわめなければいけないぞ、と、ニールスは気がつきました。けれども、それは、なまやさしいことではありません。下を見る勇気(ゆうき)なんて、とてもわいてきそうもないのです。ちょっとでも下を見ようとすれば、きっと目がまわってしまうでしょう。
 ガンたちは、それほど高いところを飛んではいませんでした。というのは、新しく仲間(なかま)になったあのガチョウが、空気のすくない高いところで息(いき)をするのになれていなかったからです。それでみんなは、いつもよりも、いくらかゆっくり飛んでいるのでした。
 とうとう思いきってニールスは、下を見おろしました。目の下には、まるで、とても大きな布(きれ)がひろげられているようです。そして、その布は、大小さまざまの、かぞえきれない四角い形にわかれています。
「いったい、どこへ来たんだろう?」と、ニールスはふしぎに思いました。
 見わたすかぎり、目に映(うつ)るものは、市松(いちまつ)もようばかりです。ななめになっているものもあれば、細長いものもありますが、どれもこれも、まっすぐの線(せん)にかこまれた四角い形ばかりです。円いのや、まがったのは一つもありません。
「下に見えるのは、なんて大きな市松(いちまつ)もようなんだろう?」だれも答えてはくれないだろうとは思いながらも、ニールスはこうひとりごとを言いました。
 ところが、ニールスのまわりを飛(と)んでいるガンたちがすぐにさけびました。
「畑(はたけ)と牧場(まきば)だよ! 畑と牧場だよ!」
 そう言われてみますと、なるほど、下に見える大きな市松もようは、スコーネの平野(へいや)です。そして、それがどうしてこんな市松もように見え、いろんな色に見えるかも、だんだん、のみこめてきました。あかるい緑色(みどりいろ)の四角が、まっさきに目につきました。それは、去年(きょねん)の秋に種(たね)をまいたライ麦畑(むぎばたけ)です。冬じゅう雪の下でも、ずっと緑の色をしていたのでした。黄色っぽい灰色(はいいろ)の四角は、去年の夏みのったカラス麦の畑で、いまは刈(か)り株(かぶ)がのこっているのです。褐色(かっしょく)がかったのは枯(か)れたクローヴァの野原で、黒いのは牧場(まきば)のあとや、いまは耕(たがや)されていない休閑地(きゅうかんち)です。褐色で、はしの黄色い四角は、たしかブナの森にちがいありません。なぜって、そこには、森のまんなかにあって、冬には葉の落ちてしまう大きな木々も見えますし、森のへりに生(は)えている若いブナの木が、黄色くなった葉を春までつけているのも見えています。それから、まんなかがいくらか灰色の黒ずんだ四角もありました。それは黒くなったわらぶき屋根(やね)のある大きな百姓家(ひゃくしょうや)で、前庭(まえにわ)には石がしいてあるのです。それからまた、まんなかが緑で、ふちが褐色の四角も見えました。そこは庭園(ていえん)でした。そこでは、芝生(しばふ)はもう緑に色づいていたのですが、まわりのやぶや木々は、まだ、はだかで、褐色(かっしょく)の木の肌(はだ)を見せているのでした。
 ニールスは、あんまりなにもかもが市松もように見えるので、思わずおかしくなって、ふきだしてしまいました。
 けれども、ガンたちはニールスがふきだしたのを聞きつけますと、とがめるようにどなりました。
「肥(こ)えたよい土地(とち)だ! 肥えたよい土地だ!」
 ニールスはすぐ、まじめになりました。そして、「こんなこわい目にあってるというのに、ぼく、ふきだしたりして。」と、思いました。
 しばらくのあいだは、まじめくさっていましたが、ニールスはすぐまた笑いだしてしまいました。
 こうして、ガチョウのせなかに乗っているのにも、早く飛(と)ぶのにも、なれてきますと、ニールスはしっかりしがみついているだけでなく、ようやくほかのことも考えることができるようになりました。気がついてみますと、たくさんの鳥のむれが空を飛んでいます。みんな北をめざしています。そして、たくさんの鳥のむれは、おたがいにさけびあい、話しあっています。
「おや、あんたがたは、きょう来たんですな!」と、さけぶものがあります。
 すると、ガンたちは、「そうですよ。で、どうでしょう、春らしくなってますかね?」と、ききました。
「木にはまだ一枚も葉(は)っぱはないし、湖(みずうみ)の水もつめたいですよ!」という返事(へんじ)です。
 ガンたちはニワトリが遊(あそ)んでいるところへ来ますと、大声にさけびました。
「ここはなんていうとこだい? ここはなんていうとこだい?」
 すると、ニワトリが頭をぐっとあげて、答えました。
「ここは『小畑(こばたけ)』っていうんだよ。ことしも去年(きょねん)とおんなじだよ。ことしも去年とおんなじだよ!」
 このへんの家(うち)は、たいてい、その持ち主(ぬし)の名まえで、ペール・マッソンの家だとか、ウーラ・ボッソンの家だとか呼ばれています。それがスコーネ地方の習慣(しゅうかん)なのです。けれどもニワトリたちは、そうは言わないで、ニワトリ流(りゅう)に、いちばんふさわしいと思われる名まえをつけて呼んでいるのです。そこで、ガンたちが呼びかけると、貧乏(びんぼう)な百姓家(ひゃくしょうや)に住んでいるニワトリたちは、「ここは『穀物(こくもつ)なし』っていうんだ。」と、さけびますし、もっともっと貧乏な百姓家のニワトリは、「ここは『食物(くいもの)なし、食物なし』さ。」と、どなります。
 大きな、お金もちの農家(のうか)は、ニワトリたちからも『幸(さいわ)い畑(ばたけ)』とか、『卵山(たまごやま)』とか、『宝荘(たからそう)』といったように、すばらしい名まえをつけてもらっています。
 ところで、貴族(きぞく)のお屋敷(やしき)にいるニワトリともなれば、こうまんちきで、ひとから、からかわれでもすると、たいへんです。そんなニワトリの一羽(わ)が、天までとどけとばかり、声をかぎりにさけびました。
「ここはデュベックさまのお屋敷だぞ! ことしも去年(きょねん)とおんなじだ。ことしも去年とおんなじだ。」
 もうすこしさきへいきますと、一羽(わ)のニワトリが、もったいぶって呼ばわりました。
「ここぞスヴァーネホルム、その名も高きスヴァーネホルム!」
 ニールスが気がついてみますと、どうやら、ガンのむれは一直線(ちょくせん)に進(すす)んではいないのです。みんなはスウェーデンの南部の地方を、あちこちと飛(と)びまわっているのです。まるで、このスコーネ地方にまた来ているのがうれしくてたまらず、一つ一つの場所にいちいちあいさつしていきたいとでも思っているようです。
 そのうちに、高いエントツの立っている大きな広い建物(たてもの)がたくさんあって、そのまわりに小さい家(うち)がいくつも並(なら)んでいるところへ来ました。
「ここはヨルドベリヤの精糖工場(せいとうこうじょう)! ここはヨルドベリヤの精糖工場!」と、そこのニワトリたちが大きな声で言いました。
 ニールスは、ガチョウのせなかで、思わずはっとしました。それなら、じぶんも知っているはずです。ここはおとうさんとおかあさんの家からそんなに遠くはありません。それに、去年、ここでガチョウ番(ばん)にやとわれていたことがあるのです。けれども、いま高い空から見おろしますと、なにもかも、すっかりようすがちがっています。
 うん、そうだ! ガチョウ番の女の子のオーサと小さいマッツは、あのときぼくの仲間(なかま)だったっけ。あそこにまだいるだろうか。ぼくがいま、ふたりの頭の上を飛(と)んでいるのを知ったら、ふたりはなんて言うだろうなあ!
 まもなく、ヨルドベリヤは見えなくなってしまいました。こんどはスヴェーダーラとスカーベル湖(こ)のほうへ飛んでゆき、それからまたベリンゲクローステルとヘッケベリヤの上に舞(ま)いもどってきました。ニールスは、たった一日でも、いままでの長い年月のあいだに見たよりも、スコーネ地方のずっといろんなところを見ることができました。
 ガンのむれが地上にガチョウたちを見つけたときは、ほんとにゆかいです。そんなときには、みんなはゆっくりと飛んで、地上にむかってさけぶのでした。
「これから丘(おか)へゆくんだぜ! いっしょにこないかい! いっしょにこないかい!」
 けれど、ガチョウたちは答えました。
「まだこの国は冬なんですよ! ちょっと早すぎますね! まあ、お帰り、まあ、お帰り!」
 ガンたちは、もっとよく聞こえるように、ぐっと舞(ま)いおりて、大声で言いかえしました。
「いっしょにこないか。飛びかたも泳(およ)ぎかたも教えてやるぜ!」
 そう言われると、ガチョウたちはプンプン腹(はら)をたてて、もうひとことも返事をしませんでした。
 ガンたちはいまにも、地面にさわりそうになるまで下へ下へと舞(ま)いおりて、つぎの瞬間(しゅんかん)、さもびっくりしたように、さっと舞(ま)いあがり、「オヤ、オヤ、オヤ!」と、さけびました。「なあんだ、ガチョウじゃないや! 羊(ひつじ)じゃないか! 羊じゃないか!」
 それを聞いた地上のガチョウたちは、カンカンにおこって、どなりたてました。
「おまえたちなんか殺(ころ)されちまえ! 一羽(わ)のこらず、一羽のこらず!」
 ニールスはこの口げんかを聞いているうちに、思わず笑いだしてしまいました。けれど、いまのじぶんの身(み)のふしあわせを思いだしますと、涙(なみだ)がこみあげてきました。でも、しばらくたつと、またもや笑いだしてしまうのでした。
 ニールスはふだんから馬をらんぼうに走らせるのがすきでした。でも、これほど早く駆(か)けさせたことはありませんでした。そして、空の上はこんなにも気もちよく、しかも、下からは、土や木の芽(め)のヤニのにおいが、こんなにも、かんばしくにおってこようなどとは、夢(ゆめ)にも思ったことがありませんでした。そしてまた、こんなにも空高く飛ぼうなどとは、思ってみたこともありませんでした。こうしていると、まるで、ありとあらゆる苦(くる)しみや悲(かな)しみやわずらわしさをのがれて、飛んでいるような気がするのでした。
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 ガンのむれといっしょに飛(と)んでいる大きなガチョウは、ガンの仲間(なかま)にはいってスウェーデンの南の地方を飛びまわり、地上の飼(か)い鳥たちとふざけられるので、大得意(だいとくい)になっていました。でも、おもしろくはありましたが、お昼(ひる)すぎになると、だんだん、くたびれてきました。そこで、深(ふか)く息(いき)を吸(す)って、もっと早くはねを動かそうとしてみるのですが、どうしても、みんなからおくれてしまいます。
 ずっとしまいのほうを飛(と)んでいるガンたちは、ガチョウがもうこれ以上(いじょう)ついていけそうもないのを見てとりますと、クサビ型(がた)の先頭(せんとう)になって、みんなを導(みちび)いているガンにむかって呼びかけました。
「ケブネカイセのアッカさん! ケブネカイセのアッカさん!」
「なんの用だね?」と、ガンの隊長(たいちょう)はたずねました。
「白がおくれてます! 白がおくれてます!」
「教(おし)えてやんなさい、早く飛(と)ぶほうが、ゆっくり飛ぶより楽(らく)だって!」と、隊長はさけびかえして、まえとおなじようにグングン早く飛んでいきます。
 ガチョウはその忠告(ちゅうこく)どおりに、早く飛ぼうと一生けんめいにやってみました。でも、そのうちに疲(つか)れきって、とうとう、畑(はたけ)と牧場(まきば)をとりかこんでいる、枝を刈(か)られたヤナギの木立(こだち)のほうへおりていきました。
「アッカさん! アッカさん! ケブネカイセのアッカさん!」しまいのほうのガンたちは、ガチョウが弱(よわ)ってきたのを見ますと、またもやこうさけびました。
「なんだね、こんどは?」と、隊長のガンはたずねましたが、ひどく腹(はら)をたてたようすです。
「白がおりていきます! 白がおりていきます!」
「教えてやんなさい、高く飛ぶほうが、低(ひく)く飛ぶより楽(らく)だって!」と、隊長は大声で答えました。
 ガチョウはこんどもこの忠告に従(したが)おうとしました。けれども高くのぼろうとしますと、息ぎれがして、まるで胸(むね)がはりさけそうです。
「アッカさん! アッカさん!」と、またまたうしろのガンたちが呼びかけました。
「すこしはおちつかせてもらえないのかねえ。」と、隊長(たいちょう)はどなって、まえよりもいっそうきげんが悪(わる)くなったようです。
「白がまいりそうです! 白がまいりそうです!」
「みんなといっしょに飛べないものは、家(うち)へ帰るがいい、と、言ってやんなさい!」と、隊長はさけびました。ガチョウのために、すこしゆっくり飛んでやろうなんて気は、まるっきりありません。あいもかわらず、ぐんぐん早く飛んでいきます。
「ああ、ガンなんてものは、みんなこんなんだろうか?」と、ガチョウは思いました。そして、ガンたちはじぶんをラプランド(ラプ人の住む北の地方)までつれていってくれるつもりはなかったことが、急にはっきりとわかってきました。ガンたちは、ただからかって、ガチョウを家からさそいだしただけなのでしょう。
 ガチョウは、いま、じぶんの力がつきてしまったために、ガチョウだって、ものの役にたつことを、この宿(やど)なしどもに見せてやれないのが、くやしくてくやしくてたまりません。そして、なによりも残念(ざんねん)に思われるのは、ケブネカイセのアッカになんか出会(であ)ったことでした。このガチョウは飼(か)い鳥ではありましたが、アッカという、百歳(さい)にもなるガンの隊長のことは、いままでにもうわさに聞いていました。アッカはみんなからたいへん尊敬(そんけい)されている鳥で、どんなに、りっぱなガンでも、アッカの言いつけには従(したが)うほどだったのです。けれども、アッカとその仲間(なかま)ぐらい、ガチョウをバカにしているものもありません。それで、ガチョウは、じぶんだっておまえたちに負(ま)けやしないということを、このガンたちに見せてやりたかったのです。
 ガチョウは、いっそのこと引きかえそうかと思ったり、それとも、ついていったものかと思ったりしながら、みんなのあとからのろのろと飛(と)んでいきました。と、だしぬけに、せなかに乗(の)っかっているチビさんが言いだしました。
「ねえ、ガチョウのモルテンや! いままで飛んだこともないおまえが、ラプランドなんて遠くまで飛んでいけっこないじゃないか。おまえにだってわかってるだろう。命(いのち)のあるうちに、引きかえしたほうがよくはないかい?」
 ところが、せなかの上のこのチビさんぐらい、このガチョウにとっていやなやつはありませんでした。しかもそいつまでが、じぶんにはもう旅(たび)をつづける力がないと思っているのです。そう思うと、しゃくにさわって、なんとかしてついていこうと決心しました。
「もう一ど言ってみろ。みぞの上を通ったら、振(ふ)り落(おと)してやるぜ。」と、ガチョウは言いました。怒(おこ)ったために力がわいてきたのでしょうか、こんどは、ほかのガンたちにも負(ま)けないくらい、よく飛ぶことができるようになりました。
 もちろん、こんなぐあいにして、いつまでも飛びつづけることはできないでしょう。でも、その心配はありませんでした。というのは、そのとき、ガンのむれが、グングンおりはじめたからです。そして、ちょうどお日さまが沈(しず)んだとき、ガンたちは地上に舞(ま)いおりたのでした。こうして、ニールスもガチョウも、何がなんだかわからないうちに、ヴォンブ湖(こ)の岸(きし)べに着(つ)いていました。
「ここで一晩(ひとばん)すごす気らしいな。」と、ニールスは思いながら、ガチョウのせなかからとびおりました。
 ニールスは、せまい砂浜(すなはま)に立ちました。目の前にはかなり大きい湖(みずうみ)がひろがっています。でも、あまり気もちのいい景色(けしき)ではありません。なにしろ、湖の上には氷がほとんどいちめんに張(は)りつめていて、それがどす黒く、しかも、でこぼこしていて、いたるところに裂(さ)け目や穴(あな)があるのですからね。もっとも、こういったありさまは、春さきにはよく見られるのですけど。しかし、氷はもうそう長くはもちそうもありません。岸(きし)のあたりは、もう、とけはじめていて、そこは幅(はば)のひろい、黒くかがやく水の帯(おび)のように見えているのです。でも、なんといってもまだ氷がのこっているために、あたりいちめんには寒(さむ)さと冬らしい荒(あ)れはてたようすが見えています。
 湖の向(む)こうがわには、ひろびろとした気もちのいい土地(とち)があるように見えますが、ガンたちのおりたところには、大きなマツの木立(こだち)があって、そのマツ林は、まるで、冬を自分のとこにひきとめておく力をもってでもいるようです。どこを見まわしても、地面(じめん)の上にはもう雪はないのに、大きなマツの枝の下だけには、まだ雪がずいぶんつもっています。そして、それがとけては凍(こお)り、とけては凍って、いまでは氷のようにかたくなっているのです。
 これでは、まるで冬にとざされた荒(あ)れはてた国に来ているようです。ニールスはたまらなくなって、大声で泣きだしたくなりました。
 おなかも、ペコペコです。むりもありません。一日じゅう、なんにもたべていないのですからね。だけど、たべる物はどこにあるでしょう? いまはまだ三月です。木にも地面にも、たべられるようなものは、一つも生(は)えてはいませんでした。
 まったく、どこへいったら、たべるものが見つかるでしょう? だれが宿(やど)をかしてくれるでしょう? だれがお床(とこ)をのべてくれるでしょう? そして、だれが火にあたらせてくれるでしょう? だれがケモノをふせいでくれるでしょう?
 もうお日さまは沈(しず)んでしまったではありませんか。しかも湖(みずうみ)の上からは、つめたい風が吹きつけてきます。いよいよ、暗(くら)やみが空からおりてきました。恐(おそ)ろしいものが、うすあかりのうしろから、そっとしのびよってきました。森の中では、ガサガサという物音がしはじめました。
 こうなりますと、空を飛(と)んでいたときのような楽(たの)しい気もちはすっかり消(き)えてしまいました。ニールスはとても心ぼそくなってきて、旅(たび)の道づれのほうを、ふりむいてみました。いまでは、この鳥のほかには、たよりになる者はありません。
 ところが、そのガチョウは、じぶんよりも、もっとまいっているではありませんか。おりたところに、じっとたおれたままです。そして、いまにも死にそうなようすです。首(くび)はぐったり地べたにつけたまま、目はつぶって、息はかすかにハアハアといっているだけです。
「ガチョウのモルテンや。」と、ニールスはやさしく言いました。「水を一(ひと)くち飲(の)んでごらん。湖(みずうみ)まで二(ふた)あしとはないんだよ。」
 けれど、ガチョウは身うごきひとつしませんでした。
 ニールスは、いままで生(い)き物という生き物をいじめてばかりいたのでした。このガチョウのモルテンのことだってそうでした。ところがいまでは、このガチョウだけがただ一つのたのみなのです。ああ、このガチョウが死んでしまったら! ニールスは心配で心配でたまりません。
 そこで、すぐさま、ガチョウを水のところまでつれていってやろうと、押(お)すやらひっぱるやらしはじめました。けれど、ちっぽけなニールスにとっては、ガチョウでさえも大きく重(おも)くてずいぶん骨(ほね)がおれたのです。それでも、どうにか、うまくいきました。
 ガチョウは、まず頭を水の中につっこみました。そうしてしばらく、やわらかい土の上にじっと横になっていましたが、やがて頭をあげると、目から水をはらい落(おと)して、鼻(はな)の穴(あな)から大きく息を吸(す)いました。それから、勢(いきお)いよくアシとガマのあいだを泳いでいきました。
 いっぽう、ガンたちは湖(みずうみ)の中にいました。みんなは地べたにおりるが早いか、ガチョウやニールスのほうは見むきもせずに、水の中にとびこんで、水をあびては、からだをきれいにしていました。それからこんどは、くさりかけたヒルムシロや水クローヴァをムシャムシャやりはじめました。
 白ガチョウは、運(うん)よく、小さいスズキを見つけました。すばやくそれをつかまえますと、岸(きし)へもどってきて、ニールスの前におきました。そして、「さっき水を飲(の)むとき助けてくれたお礼(れい)にあげよう。」と、言いました。
 こんな親切(しんせつ)なことばを聞くのは、けさからはじめてです。ニールスはすっかりうれしくなって、ガチョウの首(くび)にとびつきたいくらいでした。でも、やっと思いとどまって、贈(おく)り物(もの)を喜(よろこ)んでもらいました。さいしょは、魚(さかな)をなまのままたべるなんて、とてもできやしないと思いましたが、そのうちに、まあともかく、たべてみようという気になりました。
 ナイフがまだあるかしらんと思いながら、さがしてみますと、うれしいことに、ズボンのうしろのボタンにさがっていました。もちろん、これも小さくなって、マッチ棒(ぼう)ぐらいの大きさになってはいましたが、これでも魚のウロコを落(おと)して、きれいにすることぐらいはできます。こうして、まもなくスズキがたべられるようになりました。
 ニールスはおなかがいっぱいになりますと、ちょっと恥(は)ずかしくなりました。とうとう、なまの魚をたべてしまったのです。
「ぼくはもう人間じゃない。ほんものの小人(こびと)になってしまった。」と、心の中で思いました。
 ニールスが魚をたべている間じゅう、ガチョウはすぐそのそばにじっとしていましたが、ニールスがすっかりたべおわりますと、そっと小さい声で言いました。
「ぼくたちはね、飼(か)い鳥をバカにする、こうまんちきなガンの一族(ぞく)に出会ったんだよ。」
「うん、ぼくもそう思っていたよ。」と、ニールスは答えました。
「もしぼくが、あいつらといっしょにラプランドまで飛んでいけて、ガチョウだって、りっぱにやれるんだってことを、あいつらに見せてやれたら、すごいんだけどねえ。」
「うん、そ、そ、そうとも。」と、ニールスはためらいながら答えました。だって、そうでしょう。このガチョウにそんなことができようとは思えませんもの。でも、べつに反対(はんたい)する気にもなれませんでした。
「だけど、こんな長い旅(たび)をひとりでやりとおせるとは思えないんだよ。」と、ガチョウはつづけて言いました。「どうだろう、いっしょにいって、ぼくを助けてくれないかい?」
 ニールスとしては、もちろん、一時(いっとき)も早く家(うち)へ帰りたいと、ただそればかりを願(ねが)っていたのです。だから、こう言われますと、びっくりして、なんて言ったらいいのか、こまってしまいました。
「でも、ぼくときみとは仲(なか)よしじゃないもの。」と、とにかく言ってみました。ところが、ガチョウのほうでは、そんなことはまるっきり忘(わす)れているようです。さっきニールスに命(いのち)を助(たす)けてもらったことだけが、頭にこびりついているのです。
「やっぱし、おとうさんとおかあさんのところへ帰らなくちゃ。」と、ニールスはもう一ど、とめてみました。
「うん、秋になったら、かならずおとうさんとおかあさんのところへつれて帰ってあげるよ!」と、ガチョウははっきり答えました。「それにぼくは、きみの家(うち)の入口のところにきみをおろすまでは、どんなことがあっても、きみを捨(す)てはしないよ。」
 ニールスは、そのとき、ふと、こんなじぶんの姿(すがた)をもうしばらくおとうさんやおかあさんに見せないほうがいいだろう、と、思いつきました。それで、ガチョウの申し出に賛成(さんせい)して、じゃ、そうしよう、と、言おうとしました。と、そのとき、うしろのほうでバタバタという大きな音がしました。ふりかえって見ますと、ガンがみんないっせいに湖(みずうみ)からあがってきて、からだから水をふるい落(おと)しているのです。それから、ガンのむれは、隊長(たいちょう)を先頭にして、長く一列(れつ)になって、ふたりのほうへやってきました。
 白ガチョウは、そのガンの姿を見ますと、いやな気もちがしました。ガンはもっとじぶんたちガチョウによく似(に)ていて、もっと近い親類(しんるい)だとばかり思っていたのです。ところが、どうでしょう。目の前のガンたちは、じぶんよりもずっと小さくて、おまけに、はねの白いものは一羽(わ)もいないのです。みんながみんな灰色(はいいろ)で、あちこちに褐色(かっしょく)がまじっています。それに、目を見れば、恐(おそ)ろしくなるばかりです。それは黄色(きいろ)くて、そのうしろに火がもえてでもいるように、キラキラと輝(かがや)いています。ガチョウは、いままでいつも、ゆっくり、ヨタヨタ歩くのがいいと言われてきました。それなのに、この連中(れんちゅう)ときたら、歩くどころではありません。まるで走っているようです。けれど、いちばん驚(おどろ)いたのは、その足です。じつに大きくて、おまけに足のうらは裂(さ)けて、ゴソゴソしています。これを見れば、ガンという鳥は、何があっても、まわり道をしないで、平気でその上を歩いていくということが、よくわかります。といっても、ほかのことにかけては、たいへんきれいずきで、きちんとしているのです。でもその足は、この連中(れんちゅう)が野原をほっつき歩くあわれな鳥であることを、はっきりと物語(ものがた)っています。
 ガチョウがニールスに、「きみもえんりょなく話しなさい。だけど、きみが人間だってことは言わないほうがいいね。」とささやいたときには、もうガンたちはすぐそばまで来ていました。
 ガンたちはふたりの前に立ちどまって、いくどもおじぎをしました。そこで、ガチョウも同じように、もっとたくさんおじぎをしました。こうして、あいさつがすみますと、ガンの隊長(たいちょう)がきりだしました。
「あんたがたは、どういう方(かた)か、聞かせてください。」
「わたしのことは、とりたてて言うほどのこともありませんが、」と、ガチョウは言いはじめました。「去年(きょねん)の春スカーネルで生まれました。そして秋には西ヴェンメンヘーイのホルゲル・ニールスッソンという人に買われて、それからずっとそこに住(す)んでいます。」
「それなら、あまり自慢(じまん)のできるような家がらじゃありませんね。」と、隊長(たいちょう)は言いました。
「ところで、あんたが、われわれガンの仲間(なかま)に思いきってはいって来たのは、どういうわけです?」
「わたしたち飼(か)い鳥だって、なにかとりえはあるってことを、あなたがたに知らせたいからですよ。」
「へーえ、そいつはけっこう。ひとつ拝見(はいけん)したいものです。」と、隊長(たいちょう)は言いました。「飛(と)ぶお手なみはさっき拝見しましたが、ほかのことなら、きっと、もっとおじょうずでしょう。泳(およ)ぎなんかは、さぞおとくいなんでしょうね?」
「いえ、いえ、ぜんぜんだめです。」と、ガチョウは答えました。ガチョウは、ガンの隊長が自分を家(うち)へ帰すつもりでいるんだろうと思っていましたので、どう返事したってかまやしない、と考えていたのでした。そこで、「堀(ほり)を泳いでわたったことしかありません。」と、つづけて言いました。
「じゃあ、かけっこは早いんでしょう?」
「ガチョウがかけるのなんて、わたしはまだ見たこともありませんし、わたしもやったことがありません。」ガチョウはこう答えて、じっさいよりも悪(わる)く見えるようにしました。
 大きな白ガチョウは、こうなったからには、どうしたって、隊長がじぶんをつれていってくれるようなことはあるまい、と思いました。それだけに、隊長から、「あんたはまったくどきょうよく答えるんですねえ。どきょうのいいものは、さいしょは、からっきしだめでも、そのうちにはいい道づれになれますよ。どうです、あんたがものになるかどうかわかるまで、二、三日いっしょにいてみたら?」と言われたときには、すっかりびっくりしてしまいました。
「そいつは、まったくありがたいですね。」と、ガチョウは心から満足(まんぞく)そうに答えました。
 と、こんどは、隊長はくちばしでニールスをさしながら、言いました。
「あんたがそこにつれているのは、だれなんです? そんなのは、これまで一ども見かけたことはないが。」
「わたしの友だちなんです。」と、ガチョウは言いました。「ずうっとガチョウ番(ばん)をしていたんですが、いっしょに旅(たび)につれていけば、きっと役にたちますよ。」
「そうさね、飼(か)い鳥には役にたつかもしれない。」と、ガンは答えました。「ところで、なんて名ですね?」
「いろんな名まえがあるんで、」と、ガチョウは、とっさになんて言ったらいいのかわからないものですから、まごまごして、言いました。なぜって、人間の名まえを持っていることは、かくしておきたかったからです。「ああ、そう、オヤユビ太郎っていうんです。」ガチョウはふっと思いついて、こう言いました。
「そうすると、小人(こびと)の親類(しんるい)ですかね?」と、隊長(たいちょう)はききました。
「ところで、あなたがたガンは、いつごろおやすみになるんですか?」と、ガチョウはすばやくたずねました。こうして、話をかえようというわけです。
「いまごろになれば、ひとりでに目がとじてしまうんですよ。」隊長のガンは言いました。
 いまガチョウと話をしているこのガンが、たいへん年とっていることは、一目(ひとめ)でわかります。はねはすっかり白っぽい灰色(はいいろ)で、黒いすじ一つ見えません。頭はいくぶん大きく、足はあらっぽく、足のうらは、ほかのどのガンのよりもガサガサしています。はね毛はこわく、肩(かた)は骨ばっていて、首(くび)はやせています。これは、みんな、年のせいです。ただ目だけは若いものとすこしも変わらず、かえって、ほかのガンのよりも若々しいくらいに、キラキラしています。
 そのとき、隊長(たいちょう)はいかにももったいぶって、ガチョウのほうに向いて、言いました。
「ところで、ガチョウさん、わたしはケブネカイセのアッカというものです。どうかお見知りおきください。そして、わたしのすぐ右がわを飛ぶガンは、ユクシ、すぐ左がわを飛ぶのは、カクシといいます。右がわの二ばんめのはコルメ、左がわの二ばんめのはネリエーといい、そのうしろはヴィシと、クウシです。それから、そのあとを六羽(わ)の若いガンが、右に三羽(ば)、左に三羽飛ぶのです。どれもこれも、りっぱな血(ち)すじの高山ガンです。だから、そこらでちょいちょい出会う宿(やど)なしどもとまちがってもらっちゃこまりますよ。それに、われわれは、じぶんがどんな血すじのものか名のらないようなものとは、いっしょに暮(く)らしはしないんですからね。」
 隊長(たいちょう)のアッカがこうしゃべっていますと、ニールスはすっとまえに進(すす)みでました。いまガチョウが、じぶんのことはスラスラ答えたのに、ニールスのこととなると、逃(に)げるような返事しかしなかったのが、不満(ふまん)でならなかったのです。
「ぼくの素姓(すじょう)をあかしましょう。」と、ニールスは言いました。「ぼくはニールス・ホルゲルッソンといって百姓(ひゃくしょう)の子どもです。つい、けさまでは人間だったんだけど、けさ――――」
 けれど、このさきを言いつづけることはできませんでした。ニールスが人間と言ったかと思うと、たちまちガンの隊長は三歩あとへさがりました。ほかのガンたちはもっとあとへとびのきました。そして、みんな首をのばしながら、腹(はら)をたててシー、シー、と言いました。
「わたしはこの岸(きし)でおまえを見たときから、あやしいやつだと思っていた。さあ、さっさといっておしまい。人間なんかを仲間(なかま)に入れておくことはできないよ。」と、アッカはどなりつけました。
「あなたがたガンが、こんなちっぽけなやつをこわがるなんて、おかしいじゃありませんか。」と、ガチョウはなだめるように言いました。「あしたになれば、きっと家(うち)へ帰るでしょうよ。だけど今夜(こんや)だけは、いっしょにいさせてやってください。こんなあわれなチビスケを、夜ひとりっきりで、イタチやキツネのいっぱいいる中へ追(お)っぱらうこともないじゃありませんか。」
 ガンの隊長(たいちょう)は前に進(すす)みでました。しかし、こわいのをおさえるのは、なかなかむずかしいようです。
「わたしは、人間だったら、大きかろうと小さかろうと、気をつけるように教(おし)えこまれてきたんでね。」と、隊長は言いました。「だけど、ガチョウさん、このチビさんがわれわれになんにも害(がい)を加(くわ)えないと、おまえさんが受けあってくれるんなら、今夜(こんや)はいっしょにいてもいいということにしましょう。もっとも、今夜の宿(やど)は、おまえさんにもこのチビさんにも向いてはいないでしょうよ。なにしろ、われわれは、岸(きし)から離(はな)れた氷(こおり)の上にいって、ねるつもりなんだからね。」
 こう言われれば、いくらなんでもガチョウも決心がつかなくなるだろうと、ガンの隊長は思っていたのでした。ところが、ガチョウは平気なものです。
「そういう安全な寝場所(ねばしょ)をえらぶとは、さすがにえらいものですね。」
「だがおまえさんは、そのチビさんがあした家に帰ると、受けあってくれるでしょうね。」と、隊長は念(ねん)をおして言いました。
「そのときは、わたしもあなたがたとお別(わか)れしますよ。」と、ガチョウは言いました。「わたしはこのチビさんを、けっして捨(す)てないと、約束してあるんですからね。」
「どこへ飛(と)んでいこうと、おすきなように。」と、隊長のガンが答えました。それからはねをあげて、氷(こおり)の上に飛んでいきました。そのあとから、ほかのガンたちも一羽(わ)ずつ、つづいていきました。
 ニールスは、ラプランドへの旅(たび)はとてもできそうもないと思うと、悲(かな)しくなってきました。それに、今夜の寒(さむ)い野宿(のじゅく)のことも、心配でたまりません。
「こいつは、ますますひどくなるね、ガチョウくん。」と、ニールスは言いました。「だいいち、もうここの氷の上でこごえ死にするかもしれないぜ。」
 ところが、ガチョウときたら、じつにほがらかです。
「あぶなくなんかありゃしないよ。さあ、おおいそぎでわらや草を、持てるだけ集めてきてくれたまえ。」
 ニールスが両腕(りょううで)にいっぱい枯(か)れ草をかかえてきますと、ガチョウは、くちばしでニールスのシャツのえりをくわえて持ちあげ、氷(こおり)の上に飛んでいきました。そこでは、ガンたちがくちばしをはねの中につっこんで、グウグウ眠(ねむ)っていました。
「さあ、氷の上に草をひろげなさい。そうすれば、その上に寝(ね)られるし、こごえることもないからね。きみはぼくを助けてくれた、そしてぼくも、きみを助けるってわけさ。」と、ガチョウは言いました。
 ニールスは言われたとおりにしました。それがすみますと、ガチョウはまたもシャツのえりをつかんで、はねの下に入れました。
「ここにいれば、あたたかくて気もちがいいよ。」ガチョウはこう言いながら、ニールスをすっぽりとはねの中にくるみこみました。
 ニールスははね毛の中に埋(うず)まっているので、返事をすることができません。でも、これは、あたたかくて、すてきな寝床(ねどこ)です。そして、くたびれていたので、ニールスはすぐに眠りこんでしまいました。

 ほんとうに、氷というものは、あぶなっかしくて、あてにならないものです。ヴォンブ湖(こ)のゆるんだ氷も、夜中(よなか)に動きはじめて、とうとう、その一つのすみが岸(きし)にとどいてしまいました。ちょうどそのころ、湖(みずうみ)の東がわのエーヴェードスクローステル公園(こうえん)に住んでいるキツネのズルスケというのが、夜のえものをさがして歩きまわっていました。そしてまもなく、この氷の上にガンたちが寝(ね)ているのを見つけました。ズルスケはこの日の夕方に、ガンたちの姿を見かけていたのですが、そのときには、まだ、どれか一羽(わ)をつかまえてやろうなんて気はすこしもありませんでした。けれどいまは、いっさんに氷の上を走っていきました。
 しかし、ズルスケがガンたちのすぐそばまで来たとき、ふいに足がすべって、爪(つめ)で氷をガリッとやってしまいました。その音に、ガンたちはハッと目をさまし、はねをばたばたやって、飛(と)びたとうとしました。けれども、ズルスケはそれより早く、矢のように突進(とっしん)して、一羽(わ)のガンのはねをくわえるが早いか、ふたたび岸(きし)のほうへかけもどりました。
 けれど、この晩(ばん)、氷の上にいたのはガンたちだけではありません。からだはちっぽけでも、人間にちがいないニールスもいたのです。ニールスは、ガンが羽(は)ばたいたとき、目をさましました。そして、氷の上にころげ落ちたものですから、寝(ね)ぼけまなこでぼんやりすわりこんでいました。さいしょのうちは、いったい、なんのさわぎが起(お)こったのやら、わけがわかりませんでした。と、とつぜん、氷の上を足の短(みじか)い小犬が、ガンをくわえて走っていくのが、目にはいりました。
 それを見るなりニールスは、犬からガンを取りもどそうと、すぐさま、かけだしました。うしろからガチョウが、「オヤユビくん、気をつけたまえ! 気をつけたまえ!」とさけんでいるのが聞こえました。しかし、なあに、あんな小犬ぐらい、こわがることなんかないと思って、かまわず、あとを追いかけました。
 キツネのズルスケにひきずられていくガンは、ニールスの木靴(きぐつ)が氷にコツコツとぶっつかる音を聞きつけました。でも、どうしてもじぶんの耳を信(しん)じることができません。そして、「あのチビさんは、ぼくをキツネから取りかえせると思っているんだろうか?」と、心の中で思いました。すると、こんなふしあわせな目にあっていながらも、うれしそうにのどの奥(おく)のほうでクックッと鳴きはじめました。まるで笑っているようでした。「だけど、あの子はすぐに氷の割(わ)れ目にでも落(お)っこちるぐらいのとこだろうな。」と、ガンは心ぼそくなってきました。
 まっくらな夜でした。でも、ニールスには氷の上の割れ目も穴もはっきりと見えるものですから、うまくその上をとびこえていきました。つまり、ニールスはいまでは、夜の暗(くら)やみでもよく見える小人(こびと)の目を持っていたのでした。なにもかもが灰色(はいいろ)で黒ぐろとしていましたが、ニールスの目には湖(みずうみ)も岸(きし)も、まひると同じようにはっきりと見えました。
 ズルスケは、氷が岸にくっついているところから、陸(りく)にとびうつりました。そして、土手(どて)をかけあがろうとしたとたんに、ニールスが大声で呼びかけました。
「そのガンを放(はな)せ! やい、こそどろめ!」
 キツネにはだれがどなっているのかわかりませんが、グズグズ見まわしているようなひまはありません。もっともっと早く走りだしました。
 キツネは美しい大きなブナの森をめがけて、いっさんに、かけていきました。ニールスもそのあとを追いかけました。いまは、あぶないことも忘れているのです。それどころか、ニールスの頭には、この日の夕方にガンたちからバカにされたことだけが、こびりついていて離(はな)れないのです。そこで、たとえ、からだはちっぽけでも、人間というものがどんな生き物よりもすぐれているということを、ガンたちに見せてやりたいと思っていたのです。
 ニールスは、そのえものを放(はな)せと、なんどもなんどもさけびました。
「きさまは、なんて犬だ! ガンをぬすんだりして恥(は)ずかしくないのか? すぐ放せ。放さなきゃ、痛(いた)い目にあわすぞ! 放せったら。放さなきゃ、きさまのやったことを主人に言いつけるぞ!」
 ズルスケは、じぶんがおくびょうな犬とまちがえられたかと思うと、おかしくてたまりません。つい、そのひょうしに、ガンを落(おと)しそうになりました。もともと、このズルスケは、野原や山でネズミや川ネズミをつかまえているだけでは満足(まんぞく)できず、人の家まで出かけていっては、ニワトリやガチョウをぬすんでくる、大どろぼうだったのです。そして、このあたりの人間たちからこわがられていることは、じぶんでもよく知っていました。そのじぶんにむかって、なんというおどし文句(もんく)でしょう。こんなばかげたことは、生(う)まれてこのかた聞いたことがありません。
 ニールスは力のかぎり走りました。まるで大きなブナの木々が、うしろへ飛(と)んでいくようです。ニールスとズルスケの距離(きょり)はだんだんちぢまってきました。と、ついに追いつきました。ニールスはズルスケのしっぽにとびつきました。
「さあ、どんなことがあっても、ガンは取りかえしてみせるぞ!」と、ニールスはさけびながら、力いっぱいしっぽをひっぱりました。けれども、ニールスにはズルスケを引きとめるだけの力がありません。そのまま、このキツネにズルズルとひきずられていきました。そうしているうちに、からだのまわりには、枯(か)れ葉(は)がいっぱいまつわりつきました。
 ところでズルスケのほうでは、追いかけてきたやつが、たいしたものではないと見てとると、走るのをやめました。そして、ガンを地べたにおいて、逃(に)げられないように、前足でおさえつけ、いまにもその首をかみきろうとしました。ところがそのとき、ちょいとこのちっぽけなやつをからかってやれという気まぐれを起(お)こしました。
「さっさと主人に言いつけるがいい。いまこのガンをかみ殺(ころ)すところだからな。」と、ズルスケは、ニールスに言いました。
 ニールスは、自分の追いかけている犬が、鼻(はな)がとがっていて、しゃがれた、いじわるい声をしているのに気がつくと、びっくりしました。でも、こんなどろぼうにからかわれたのが、しゃくにさわってたまりません。それで、こわいなんて気もちは、ちっとも起こりませんでした。ニールスは、ブナの幹(みき)にからだをささえながら、ズルスケのしっぽをしっかりとにぎっていました。キツネはパクッと口をあけて、ガンののどもとにあてました。そのとたん、ニールスはあらんかぎりの力で、そのしっぽをひっぱったのです。さすがのキツネもこれにはたまらず、思わず二、三歩あとへさがりました。そのすきに、ガンはすばやく逃(に)げました。けれども、弱々(よわよわ)しく、ヨタヨタと舞(ま)いあがりました。かたほうのはねが傷(きず)ついていたので、ほとんどそのはねを使うことができなかったのです。それに、まっくらな森の中では何一つ見えません。めくらと同じことで、どうすることもできないのです。ですから、ニールスを助けるなんてことは、思いもよりません。茂(しげ)った木立(こだち)のあいだを、あっちにぶっつかり、こっちにぶっつかりしながら、そのガンは、やっとのことで湖(みずうみ)まで帰ってきました。
 いっぽう、ズルスケは、こんどはニールスめがけてとびかかりました。そして、「あいつは捕(と)りそこなったが、ほかのやつをきっと捕(つかま)えてみせるぞ。」と、うなって言いました。その声のようすでは、腹(はら)の底(そこ)から怒(おこ)っています。
「ふん、そんなことができるもんか!」と、ニールスは言いました。もののみごとに、ガンを助けてやることができたので、大得意(だいとくい)だったのです。そして、まだキツネのしっぽをしっかりとにぎり、キツネがつかみかかろうとすると、そのたびに、反対がわへグルグルとまわってしまいます。
 さあ、森の中でぐるぐる踊(おど)りがはじまりました。まわりのブナの葉はさかんに飛(と)びちります。ズルスケは、グルグル、グルグルまわりますが、それにつれて、しっぽもグルグル、グルグルまわります。ニールスはしっぽにしっかりとつかまっているものですから、キツネには、どうしても捕(つかま)えることができません。
 ニールスは、うまくガンを助けてやったので、うれしくてうれしくてたまりません。はじめのうちは笑いながら、キツネをからかっていました。でも、キツネ先生は、いつまでも根気(こんき)よくやっています。まったく、これはどこからみても、りっぱな狩人(かりうど)です。そこで、ニールスは、この調子(ちょうし)では、いつかはつかまえられるかもしれないぞ、と、だんだん心ぼそくなってきました。
 そのとき、ふと、そばを見ますと、竿(さお)のようにすらりとした、小さな若いブナの木が一本生(は)えています。この木の上には、年老(としお)いたブナの木々の枝がおおいかぶさっているので、その上に出れば、すぐに逃(に)げだすこともできるでしょう。
 ニールスはキツネのしっぽをさっと放(はな)して、ブナの木によじのぼりました。しかし、キツネのほうはむがむちゅうなので、なおもじぶんのしっぽをめがけて、ぐるぐるまわりをつづけています。と、だしぬけに、「もう踊(おど)りなんかやめたらどうだい。」と、ニールスが声をかけました。
 キツネはプンプン怒っていました。こんなチビスケが捕(つかま)らない面目(めんぼく)なさに、むしゃくしゃしていました。そこで、ブナの木の下にじっと腰(こし)をおろして、ニールスを見はることにしました。
 ところで、ニールスはいまにも折れそうな枝にのっかっているので、のんきにかまえているわけにはいきません。ところが、このブナの木は、ほかの木の枝に乗(の)りうつることができるほど高くはなかったのです。といって、もちろん、下へおりる気にはなれません。寒(さむ)さはひどくなり、手足はしびれきって、枝につかまっているのもやっとになりました。おまけに、ひどく眠(ねむ)たくなってきました。でも眠ったがさいご、地べたに落(お)っこちてしまいます。それで、一生けんめいがまんしていました。
 ああ、森のまんなかで、一晩(ひとばん)じゅうこんなふうにしていなければならないなんて、なんという恐(おそ)ろしいことでしょう! ニールスは、いまのいままで、夜ってものがどんなものであるか知りませんでした。見れば、すべてのものが石になってしまい、もう二どと生きかえってはこないように思われます。
 そのうちに、夜があけはじめました。ニールスは、なにもかもがまたもとの姿(すがた)にかえったのを見て、うれしくなりました。けれど、寒(さむ)さは夜中(よなか)よりも、かえっていまのほうが、きびしく感じられます。
 とうとう、お日さまがのぼってきました。でも、いまは金色(きんいろ)ではなくて、まっかです。気のせいか、お日さまは怒(おこ)っているように見えます。だけど、なにを怒っているのだろう、とニールスはふしぎに思いました。きっと、お日さまのいないあいだに、夜が地上をこんなにつめたく、陰気(いんき)にしてしまったからなんだろうか。
 お日さまの光は、夜が地上で何をしていたかを見るために、ふりそそいできました。すると、空を流れる雲(くも)、絹(きぬ)のようにつややかなブナの幹(みき)、細(こま)かく入りくんだ枝、ブナの落ち葉をおおっているシモ、こうしたすべてのものがさっと赤くなりました。
 お日さまの光が、ますますあかるく射(さ)してきました。やがて、夜の恐(おそ)ろしさも消(き)えました。手足のかじかみも、いまでは感じなくなったようです。すると、びっくりするほどたくさんの生き物の姿が見えてきました。赤い首(くび)をした黒いキツツキは、くちばしで木の幹(みき)をつつきはじめました。リスは、クルミをかかえて巣(す)からチョコチョコ出てくると、木の枝にすわって、クルミをかじりはじめました。ムクドリは細い根をくわえて飛んできました。アトリは木のこずえでさえずりはじめました。
 そのときニールスは、お日さまがこういう小さい生き物たちにむかって、
「さあ、目をさまして、巣(す)から出ておいで! わたしはここにいるんだよ! もうなんにもこわがることはないよ。」と言っているのを聞きました。
 ガンたちが旅立(たびだ)とうとして鳴(な)きたてている声が、湖(みずうみ)のほうから聞こえてきました。それからまもなく、みんなで十四羽(わ)のガンが、森の上を飛(と)んできました。ニールスは大声で呼んでみましたが、ガンのむれはずっと上のほうを飛んでいて、そこまでは声がとどきません。みんなは、きっと、ニールスはもうキツネにたべられてしまったと思っているのでしょう。そこで、もうじぶんをさがしてみようとはしないのだな、とニールスは思いました。
 ニールスはすっかり心ぼそくなってきて、いまにも泣きだしそうになりました。けれども、空を見あげれば、そこにはお日さまがニコニコと金色(きんいろ)に輝(かがや)いていて、世界じゅうに元気をあたえています。
「ニールス・ホルゲルッソンや、わたしがここにいるかぎり、ちっともこわがることはないよ。」と、お日さまはそう言っていました。

ガンのいたずら


三月二十一日、火曜日
 ガンが、朝ごはんをたべていると思われるあいだは、森の中ではべつに変(か)わったこともありませんでした。ところが、それからまもなくです。一羽(わ)のガンが茂(しげ)った枝の下に飛(と)んできました。そのガンは幹(みき)や枝のあいだを縫(ぬ)って、ゆっくりとあちこちを飛びまわりました。キツネはガンの姿を見つけますと、すぐさま小さいブナの木の下を離(はな)れて、そっとガンのほうへ忍(しの)んでいきました。ところが、驚(おどろ)いたことには、ガンはキツネをよけようともしないで、かえって、すぐ近くまで飛んでくるではありませんか。そのとたんに、ズルスケはさっと高く跳(は)ねあがりました。けれども、失敗(しっぱい)です。ガンは湖(みずうみ)のほうへ飛んでいってしまいました。
 やがて、もう一羽のガンが飛んできました。このガンもさっきのガンと同じようにやってきます。けれども、まえのよりももっと低(ひく)く、もっとゆっくりと飛んでいます。そのうちに、ズルスケの頭の上まできました。こんどこそは、とズルスケがとびあがります。耳がガンの足にさわりました。けれど、またまたこのガンも、傷(きず)ひとつ受けずに逃(に)げてしまいました。そして、ひとことも言わないで、湖(みずうみ)のほうへ飛んでいきました。
 しばらくすると、また一羽(わ)のガンがやってきました。さっきのよりも、もっと低く、もっともっとゆっくり飛んでいます。ブナの枝のあいだをすりぬけていくのが、だいぶむずかしそうに見えます。ズルスケは勢(いきお)いよくおどりあがりました。と、このガンは、もうすこしのところで捕(つかま)りそうになりましたが、それでもとうとう逃げてしまいました。
 このガンが見えなくなりますと、すぐに四ばんめのガンが姿を見せました。これはまた、いやにゆっくりと飛んでいます。ズルスケは、こんどこそわけなく捕(つかま)えられるだろうと思いました。けれど、ゆだんをして、またしくじってはたいへんです。それで、こんどはなんにもしないで、しばらく飛ばせておいてやろうと思いました。けれども、このガンも、さっきまでの仲間(なかま)と同じように、ズルスケのま上までくると、ぐっと低(ひく)く舞(ま)いおりました。ズルスケは思わずつりこまれて、またまた力いっぱいおどりあがりました。すると、爪(つめ)のさきが、ちょっとさわりはしましたが、ガンはすばやく身をかわして、逃げていってしまいました。
 ズルスケが息(いき)をつくひまもないうちに、三羽(ば)のガンが、一列にならんでやってきました。こんども、さっきの仲間たちと同じように飛んできます。ズルスケは、またしても高くとびあがりましたが、一羽(わ)も捕(つかま)えることができませんでした。
 そのあとから、また五羽(わ)のガンがあらわれました。このガンたちは、いままでの仲間たちよりも、もっとじょうずに飛んできました。そして、いかにもズルスケがとびつきたくなるようにしむけましたが、ズルスケはやっとのことで思いとどまりました。
 かなりたって、また一羽のガンが姿を見せました。これで十三ばんめです。このガンはたいそう年とっていて、からだじゅうが灰色(はいいろ)で、黒いすじ一つ見えません。かたほうのはねがうまく使えないらしく、ひどくへたくそに、かたむいて飛んでいます。そのため、いまにも地面(じめん)にさわりそうです。ズルスケはこのガンめがけて、思いきり高く跳(は)ねあがりました。が、またまた失敗(しっぱい)です。それで、走ったりとびあがったりしながら、湖(みずうみ)まで追いかけていきました。けれど、こんども骨(ほね)おっただけで、なんのたしにもなりませんでした。
 十四ばんめのガンが飛んできました。この鳥は、からだじゅうがまっ白で、じつに美しく見えました。大きなはねが動くたびに、暗(くら)い森の中がキラキラとあかるくなるようでした。ズルスケはこの鳥の姿を見ますと、からだじゅうの力をこめて、木の半分ほどの高さまでおどりあがりました。しかし、この白い鳥も、まえのと同じように、傷(きず)ひとつ受けないで逃げていってしまいました。
 こうして、ブナの木の下はしばらく静(しず)かになりました。もうガンのむれは、すっかり飛んでいってしまったようです。
 そのときズルスケは、ふと、さっきのほりょのことを思いだしました。さいしょのガンを見たときから、あのチビさんのことは忘(わす)れてしまっていたのです。そして、もちろんニールスの姿は、もうそこには見えませんでした。
 しかし、ズルスケがチビさんのことを考えているひまは、あまりありませんでした。というのは、さいしょ飛んできたガンが、またも湖(みずうみ)のほうからもどってきて、木の下をゆっくりと飛びはじめたからです。ズルスケはあんなにしくじったあとで、ガンがもどってきたのを見ますと、大よろこびでした。そこでさっそく、そのガンめがけて、力のかぎりとびあがりました。けれども、あせりすぎて、よく狙(ねら)いをつけるひまがありませんでしたから、的(まと)がはずれてしまいました。そのあとから、また一羽(わ)飛んできました。それから、また一羽、そうして、第三、第四、第五のガンがあらわれたと思うと、とうとうしまいには、白っぽい灰色(はいいろ)の年とったガンと、まっ白い大きなガチョウまで飛んできました。みんなはゆっくりと低(ひく)く飛んでいます。そして、キツネのま上までくると、キツネがつかまえたくなるように、わざわざ、もっと低く舞(ま)いおりるのです。それを見ると、ズルスケはそのあとを追いかけて、なんどもなんども高くとびあがりました。けれど、一羽だって捕(つかま)えることはできませんでした。
 キツネのズルスケは、この日ぐらいひどい目にあったことはありません。ガンたちは、あいもかわらずズルスケの頭の上を、あちこちと飛(と)びつづけているのです。ドイツの畑(はたけ)や野原でたくさんたべて肥(ふと)ってきた、この大きなすばらしいガンたちは、一日じゅう森の中でズルスケのそばをすれすれに飛びまわるのでした。ズルスケは、いくどもいくども、ガンにさわるくらい高くとびあがりましたが、すいたおなかのたしになってくれるようなガンは、一羽だってありませんでした。
 冬はもう終わろうとしていました。いまズルスケは、いく日もいく晩(ばん)も、えもの一ぴきつかまらずに、ブラブラほっつき歩かなければならなかった時のことを思い出しました。むりもありません。そのころは、渡(わた)り鳥たちはよその国へいってしまい、ネズミたちは凍(こお)った地面の下にかくれ、ニワトリたちは小屋の中にとじこめられていたのですから。けれど、冬じゅうおなかのへっていたことも、きょう一日の失敗(しっぱい)にくらべれば、なんでもありません。
 ズルスケはもう若僧(わかぞう)ではありませんでした。犬に追いかけられたこともたびたびありますし、鉄砲のたまが耳のそばをヒュウヒュウかすめていったこともあります。また、穴(あな)の奥(おく)にかくれているとき、はいこんできた犬に、もうすこしで見つかりそうになったこともあります。けれども、そういうはげしい狩(か)りの間じゅうビクビクしていた不安な気もちも、きょう、このガンたちを捕(と)りそこなうたびに味わった、あのにがい気もちとは、くらべものになりません。
 けさ、狩(か)りがはじまったときは、ズルスケはガンたちが目を見はるほど、すばらしいなりをしていました。なにしろ、このズルスケときたら、はでなことが大すきなのです。上着(うわぎ)はキラキラ輝(かがや)くほど赤く、胸(むね)は白く、前足は黒(くろ)、そして、しっぽがまた、鳥のはね毛のようにふさふさしていました。けれども、それよりももっとすばらしいのは、ズルスケが動くときに見せる力づよさ、目のらんらんとした光りかたでした。ところが、夕方になると、上着はしわがよってクシャクシャになるし、からだは汗(あせ)びっしょり、目の光はどんよりとして、舌(した)はハアハアあえいでいる口からだらりとたれ、おまけに口からはあわを吹いているというありさまでした。
 午後になると、ズルスケはすっかりくたびれて、もう何がなんだかわからなくなりました。とにかく、目の前をガンたちが飛んでいるということのほかは、なんにもわかりません。とうとうしまいにズルスケは、枝の間から地面の上に射(さ)しているお日さまの光や、サナギからかえったばかりのあわれなチョウにまで、とびかかるのでした。
 ガンのむれはひっきりなしに飛びつづけて、一日じゅう、ズルスケを苦しめました。ズルスケが疲(つか)れはてて、目がまわり、気もくるうばかりになったのを見ても、ちっともかわいそうだと思うようすはありません。しかも、そのズルスケはもう、ガンの姿を見ることができず、ただその影にむかってとびかかっているだけなのです。ガンのむれは、そのことをちゃんと知っていながらも、あいかわらず、キツネのまわりを飛びつづけるのでした。
 こうして、キツネのズルスケが、からだじゅうの力もぬけ、いまにも気が遠くなりそうになって、つもった枯(か)れ葉の上にぶったおれたとき、ガンのむれはやっと、キツネをからかうのをやめにしました。
「さあ、どうだい、キツネくん。ケブネカイセのアッカさまを相手にしようとする者は、どんな目にあうか、おわかりだろう!」と、ガンのむれはズルスケの耳もとでこうさけぶと、ようやく、キツネを許(ゆる)してやりました。
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三月二十四日 金曜日
 ちょうどそのころ、スコーネ地方にある事件(じけん)が起こりました。それは大評判(だいひょうばん)になって、新聞にまでのりました。けれども、なんとも説明(せつめい)のつかないふしぎなできごとでしたので、たいていの人たちは、そんなものは作り話だろうと思いました。
 つまり、その事件というのは、こうなのです。
 ヴォンブ湖(こ)の岸べに生(は)えているハシバミのやぶの中で、メスのリスが一ぴき捕(つかま)えられて、近所の農家(のうか)につれていかれました。農家の人たちは、年よりも子どもも、みんな、このリスの愛くるしい大きなしっぽと、もの珍(めず)らしそうに眺(なが)めまわすりこうそうな目と、かわいらしい小さな足とを見て、大よろこびでした。みんなは、リスのすばしこい動きかたや、器用(きよう)にクルミのからをかじるところや、たのしそうに遊(あそ)ぶのを見ていれば、夏じゅうおもしろくすごせるだろうと思いました。さっそく、みんなは古いリスのかごを持ってきてやりました。このかごには、かわいい緑(みどり)の家と、針金(はりがね)でこしらえた車がはいっていました。家には戸と窓(まど)もちゃんとついていて、これがリスの食堂(しょくどう)と寝室(しんしつ)というわけです。そこで、みんなは木の葉っぱの寝床(ねどこ)と、ミルク入れと、それからクルミを二つ三つ入れてやりました。車のほうはリスの遊び場です。リスがこれにのっかって、かけのぼれば、グルグルまわるしかけになっているのです。
 人々は、リスのためにずいぶん気もちよくしてやったつもりでいました。ところが、リスはと見れば、ちっとも満足(まんぞく)していないようすです。みんなはびっくりしてしまいました。リスは部屋(へや)のすみっこにすわりこんで、悲(かな)しそうに、しょげきって、ときどき訴(うった)えるような、鋭(するど)い悲(かな)しみの声をはりあげているではありませんか。もちろん、たべものにはさわりもしませんし、車だって一どもまわそうとはしません。「おっかながっているんだ。」と、農家の人たちは言いました。「あしたになれば、なれて、遊んだり、たべたりするさ。」
 ところで、農家(のうか)の女たちは、お祭(まつ)りのしたくで、てんてこまいをしていました。ちょうどリスが捕(つかま)えられた日は、パンを焼(や)くことになっていたのです。ところが、ぐあいの悪(わる)いことに、ねり粉(こ)がうまくふくれあがらなかったせいでしょうか、それとも、ぐずぐずしていたせいでしょうか、ともかく、暗くなっても仕事がかたづきませんでした。
 こうして、台所ではみんなが、いそがしく立ち働いていました。ですから、だれも、リスはどうしているだろうなどと考えてみるひまはなかったのでした。この家(うち)には、おばあさんがいましたが、あんまり年をとっているので、パン焼(や)きの手つだいをすることができません。おばあさんは、じぶんでもそのことはよく知っていたのですが、それでもやっぱり、みんなからのけ者にされているのが、おもしろくありませんでした。こういうわけで、おばあさんはまだ寝(ね)にもいかず、居間(いま)の窓(まど)ぎわにすわって、外をながめていました。
 台所の中は熱くてむっとするものですから、戸は開けはなしになっていました。そこからあかるい光が中庭に流れでて、中庭のまわりの建物をあかるく照(て)らしだしていました。それで、おばあさんには、向(む)こうがわの壁(かべ)の割(わ)れ目や穴がはっきりと見えました。それから、その光がちょうどいちばん強くあたっているところにかかっている、リスのかごも見えました。見れば、リスはひっきりなしに部屋(へや)から車へ走っていったり、車から部屋へかけもどったりして、ちょっとの間もおちついてはいません。おばあさんは、きっとあのリスは妙(みょう)に気が立っているにちがいない、光が強いために眠れないんだろう、と、思いました。
 牛小屋と馬小屋のあいだに、大きな広い門があって、これも台所からのあかりに照(て)らしだされていました。おばあさんがしばらく見ていますと、やがて、ちっぽけな小僧(こぞう)が足音をそっとしのばせて、この門からはいってきました。せの高さはほんの十センチぐらいのものでしょう。革(かわ)ズボンに木靴(きぐつ)といった、労働者(ろうどうしゃ)のようなかっこうです。おばあさんは、すぐに小人(こびと)だなと気がつきましたので、すこしもこわくはありませんでした。なぜかといえば、その姿はまだ見たことがありませんが、小人というものはどこか家のそばに住(す)んでいるということを、まえから聞いていましたし、それに、小人が姿を見せるときには、きっと幸運(こううん)がやってくるということも、よく話に聞いていたからです。
 その小人は、石のしいてある中庭にはいってきますと、まっすぐにリスのかごのほうへ走っていきました。けれども、そのかごは高いところにかかっているので、手がとどきません。そこで、小人はすぐさま物置(ものおき)のほうへかけていって、棒(ぼう)を持ってくると、かごにかけ、ちょうど水夫(すいふ)が帆綱(ほづな)をよじのぼるようなぐあいに、スルスルとよじのぼっていきました。そして、かごのところまでのぼりますと、小さな緑(みどり)の家の戸をさかんにゆすぶって、戸をあけようとしています。それを見ても、おばあさんはおちつきはらっていました。なぜなら、近所の男の子たちにリスを盗(ぬす)まれないように、家(うち)の子どもたちが戸に錠(じょう)をかけておいたのを、ちゃんと知っていたからです。リスは、戸が開(あ)かないことがわかりますと、車から出てきました。それから、ふたりは長いあいだヒソヒソと相談をしていました。小人は、リスの言いたいことをすっかり聞いてしまいますと、また棒(ぼう)をすべりおりて、いそいで門からかけだしていきました。
 おばあさんは、この晩(ばん)もう一ど小人の姿が見られるとは思いませんでしたが、それでも窓(まど)ぎわにすわっていました。しばらくすると、またさっきの小人がもどってきました。ひどくいそいでいるので、まるで足が地についていないようです。こんども、リスのかごを目がけて、いちもくさんにかけていきます。遠目(とおめ)のきくおばあさんには、それがはっきりと見えました。なおもよく見ますと、小人は手になにか持っています。もっとも、それがなんであるかはわかりません。小人は左手に持っていたものを敷石(しきいし)の上におきましたが、右手のものはそのまま持って、かごのほうへよじのぼりました。そして、木靴(きぐつ)で小さい窓(まど)をはげしくけとばしたので、ガラスがこわれて、あたりに飛(と)びちりました。小人は、そこから、手に持っているものをリスのほうにさしだしました。それから、また棒(ぼう)をすべりおりて、さっき下に置いておいたものを取りあげると、もう一ど、かごをめがけてよじのぼりました。そして、あっというまに、またもやすべりおりて、まっしぐらにかけていってしまいました。あんまり早いので、おばあさんには小人の姿がよく見えなかったほどでした。
 けれども、おばあさんはもう部屋(へや)の中にじっとしていることができなくなりました。そこでイスからゆっくりと立ちあがって、庭へ出ていきました。そして、井戸(いど)のかげにかくれて、小人がもどってくるのを待っていました。ところが、そこにはもうひとり、さっきから小人のすることをじっと見つめて、ふしぎに思っているものがいました。それはこの家(うち)のネコでした。ネコはそっと忍(しの)んでいって、あかりのさしているところから二(ふた)あしばかり離(はな)れた壁(かべ)のそばに立ちどまりました。
 ふたりは、この寒(さむ)い三月の夜空(よぞら)に、しんぼう強く、長いあいだ待っていました。そのうちに、おばあさんは、ぼつぼつ家の中へもどろうかと考えはじめました。と、ちょうどそのときです。敷石(しきいし)の上にコツコツという足音が聞こえました。見れば、チビの小人が、またまたもどってきたのです。こんども両方の手に何かを持っています。その持っているものは、キイキイ鳴(な)きながら、モソモソ動いています。これで、おばあさんにも、いまはじめてよくわかりました。つまり、小人はハシバミのやぶへかけていっては、そこからリスの赤ちゃんをつれてきて、うえ死(じ)にしないようにしてやっているのです。
 おばあさんは、小人のじゃまをしないように、じっとしていました。小人はおばあさんに気がつかないようです。かたほうの赤んぼうをつれてかごによじのぼろうとして、もうかたほうの赤んぼうを下におこうとしました。そのとたんに、小人はネコの青い目がそばで光っているのを見つけますと、両手(りょうて)に赤んぼうを持ったまま、こまりきって、つっ立ってしまいました。
 小人はあたりを見まわしました。と、おばあさんがいるのに気がつきました。そこですぐさま、おばあさんのところへ歩いていって、この子を受けとってくれというように、両腕(りょううで)を高くさしあげました。
 おばあさんは、小人にこうたのまれたからには、いやというわけにはいきません。そこで、からだをかがめて、リスの赤んぼうを受けとりました。そして、小人が、もうひとりの赤んぼうをつれてかごのところによじのぼり、それからまたもどってきて、あずけておいた赤んぼうをつれていくまで、しっかりと抱(だ)いて立っていました。
 つぎの朝、農家の人たちが朝ごはんに集まってきたとき、おばあさんはゆうべ見たことを話さずにはいられませんでした。それを聞くと、みんなは笑いだして、夢(ゆめ)でもみたんでしょう、と言いました。こんな早い季節(きせつ)には、まだリスの赤んぼうなんているはずがありませんもの。
 けれども、おばあさんは信(しん)じきっていました。それで、みんなにかごの中を見てくるように言いました。みんなは言われたとおりにしました。見れば、たしかに、小さな部屋(へや)の中の葉っぱの寝床(ねどこ)の上に、生まれてからやっと二日めぐらいで、毛もろくに生(は)えていず、目もまだよく見えないリスの赤んぼうが、四ひきいました。
 この農家(のうか)の主人は赤んぼうリスを見て、こう言いました。
「まあ、いずれにしても、たしかにわしらは、この家で、ケモノにきかれても、人にきかれても恥(は)ずかしいことをしていたんだ。」それから、親リスと四ひきの赤んぼうリスを、かごの中から取りだして、おばあさんの前かけに入れました。そうして、「このリスたちをハシバミのやぶへつれていって、放(はな)してやってください。」と、言いました。
 これが大評判(だいひょうばん)になったという事件(じけん)です。しかも、これは新聞にまでのりました。けれども、なんとも説明しようのないできごとなので、たいていの人たちは、信じようとはしませんでした。

 それから二日たって、またふしぎな事が起こりました。その朝、一(ひと)むれのガンが飛んできて、ヴィットシェーヴレ荘園(しょうえん)からあまり遠くない東スコーネの畑(はたけ)に舞(ま)いおりました。そのむれの中には、あたりまえの灰色(はいいろ)のガンが十三羽(ば)と、まっ白なガチョウが一羽(わ)いました。ガチョウのせなかには、黄色い革(かわ)ズボンをはき、緑(みどり)のチョッキを着て、白い毛織(けお)りの帽子(ぼうし)をかぶったチビさんがのっていました。
 ここはバルト海のすぐ近くなので、ガンたちがおりた畑にも、ふつうの海岸と同じように、砂(すな)がいっぱいありました。でも、このあたりの砂は、ほうっておくと、風に吹きとばされてしまうのでしょう。で、それをふせぐために、あちこちにマツの木がたくさん植(う)えてありました。
 ガンたちが、しばらくの間ごはんをたべていますと、畑の向こうのほうを、子どもがふたり歩いてきました。それを見ると、見はりをしていたガンが、たちまちバタバタと羽(は)ばたきをして、空に舞(ま)いあがりました。ほかのガンたちも、危険(きけん)とさとって、いっせいに飛びあがりました。ところが、白いガチョウだけは、そんなことは気にもかけずに、ノソノソと地べたを歩いています。みんなが舞いあがったのを見ますと、頭をあげて、大声で言いました。
「逃(に)げることはないよ! 子どもがふたりっきりじゃないか!」
 ところで、チビさんは、森のはずれの小山の上にすわりこんで、マツボックリを拾っては、割(わ)っていました。けれども、子どもたちがすぐそばにいるものですから、畑を横ぎって、白いガチョウのところまでかけてゆく勇気(ゆうき)がありません。それで、大きな枯(か)れたアザミの葉の下にかくれて、大声で、あぶないっ、と言いました。ところがガチョウのほうは、びくともしないで、あいもかわらず、ノソノソと歩きまわっています。そして、子どもたちがどっちへいこうとしているか、そんなことには見むきもしませんでした。
 そのうちに、子どもたちは小道からそれて、畑を横ぎり、だんだんガチョウに近づいてきました。ガチョウが見あげたときには、もうすぐ目の前まで来ていました。ガチョウはびっくりしてしまい、すっかりあわててしまったので、飛べるのを忘れて、ただ、つかまらないように、かけようかけようとしていました。けれども、子どもたちに追いかけられているうちに、みぞの中に追いつめられて、とうとうつかまってしまいました。そうして、大きい子にかかえられて、つれていかれました。
 アザミの葉の下にしゃがんでいたチビさんは、これを見ますと、ハッと、とびあがりました。ガチョウをとり返そうというのです。しかし、そのとたんに、いまのじぶんは、ちっぽけで、力のないことを思いだしました。ああ、くやしい! チビさんは小山の上に身を投げだして、こぶしをかためて地べたをなぐりつけました。
 ガチョウは助(たす)けをもとめて、ひっしになってさけびました。
「オヤユビくん、助けてくれ! オーイ、オヤユビくん、助けてくれ!」すると、ニールスはこんなに悲(かな)しんでいながらも、思わずにっこりして、さけびました。「よしきた! ぼくはもう、だれでも助けてやるいい人間なんだぞ!」
 ニールスは起きあがって、ガチョウのあとをつけていきました。「待てよ、ぼくにはとても助けられやしないだろう。でもまあ、どこへつれていかれるか、それだけでも見とどけてやろう。」と、言いながら。
 子どもたちは、だいぶさきのほうを歩いていましたが、ニールスはその姿を見失わずについていきました。やがて、小川の流れているくぼんだところへやってきました。ここでニールスは、とびこせるぐらいの幅(はば)のせまいところを見つけるために、しばらくまわり道をしなければならなくなりました。
 小川をとびこえて道に出たときには、子どもたちの姿はもう見えなくなっていました。でも、森のほうへいくせまい道に足跡(あしあと)がついています。それで、ニールスはそのあとをたどっていきました。
 まもなく四つ辻(つじ)に来ました。ここで子どもたちは別(わか)れたにちがいありません。だって、両方の道に足跡がついていますもの。これでいよいよ、望みはなくなってしまったようです。
 けれど、ふと、わきを見ますと、ヒースの生(は)えている小高いところに、小さな白いはねが一枚落ちているではありませんか。これは、ガチョウがどっちへつれていかれるかを知らせるために、道ばたに落(おと)しておいたものです。そこで、ニールスはなおもさがしつづけて、森の中を通っていきました。しかし、ガチョウの姿はまだ見えません。それでも、道に迷(まよ)いそうなところへ来ますと、きまって白い小さなはねが一枚落ちていて、道を知らせてくれるのです。
 ニールスがそのはねをたよりにあとをつけていきますと、やがて森をぬけ、畑(はたけ)を二つばかり横ぎって、道路(どうろ)にでました。それからは、広い並木道(なみきみち)です。見れば、並木道のはずれには、赤れんがの破風(はふ)と塔(とう)がそびえていて、それについている飾(かざ)りがキラキラと輝(かがや)いています。それは大きなお城(しろ)です。ニールスは、いまこそガチョウがどうなったか、わかったような気がしました。
「きっと、子どもたちがあのお城へ持っていって、売ってしまったんだろう。いまごろは、もう殺(ころ)されているかな。」と、ニールスはひとりごとを言いました。でも、はっきりたしかめないうちは、満足(まんぞく)できません。またも勇気(ゆうき)をふるいおこして、走っていきました。さいわいにも、並木道(なみきみち)ではだれにも出会いませんでした。こんな姿を人に見られたらたいへんだと、ニールスはビクビクしていたのです。
 お城のそばまでいってみますと、それは古風(こふう)なつくりの、すばらしい建物(たてもの)でした。その建物のわきにも大きな建物が四つあって、中庭に通じる高いアーチがありました。ここまでは、ニールスはズンズンかけてきましたが、思わずここで立ちどまりました。思いきってはいっていくだけの勇気(ゆうき)がないのです。じっとそこに立ちつくして、どうしたものだろうかと考えこみました。
 そのとき、うしろのほうから、足音が聞こえてきました。ふりむいてみますと、どうでしょう。大ぜいの人たちが並木道(なみきみち)をこっちへやってくるではありませんか。ニールスは、あわてて、アーチのそばにあった水桶(みずおけ)のうしろにかくれました。
 そこへ来たのは、二十人ばかりの中学校の生徒たちでした。みんなは、ひとりの先生につれられて、遠足(えんそく)にきたのでした。アーチのところまで来ますと、先生はしばらく待っているようにみんなに言っておいて、じぶんだけ中へはいっていきました。このヴィットシェーヴレの古いお城(しろ)を見物させてもらえるかどうか、ききにいったのです。
 生徒たちは長いあいだ歩いてきたと見えて、つかれていました。ひとりの生徒はひどくのどがかわいていたので、水桶(みずおけ)のところへいって、身をかがめて飲(の)もうとしました。この生徒は、植物採集(しょくぶつさいしゅう)のドウランを肩(かた)にかけていましたが、じゃまになるので、地べたに投げだしました。そのはずみに、ふたが開(あ)いて、中にはいっている春の花が見えました。
 ドウランはニールスのすぐ前に落ちました。これこそ、お城(しろ)の中へはいって、ガチョウがどうなったかを見さだめる絶好(ぜっこう)の機会(きかい)です。そう思ったニールスは、すぐさまドウランの中にとびこみました。そして、アネモネやフキの下にそっと身をかくしました。
 ニールスがかくれるといっしょに、生徒はドウランをひろいあげて、肩にかけ、ふたをしてしまいました。
 そこへ先生がもどってきて、お城の見物がゆるされたと言いました。先生は生徒たちを、まず中庭へつれていきました。そこでみんなをとめて、この古い建物についての話をはじめました。
 先生は、この国にいちばんはじめに住んでいた人びとは、洞窟(どうくつ)や洞穴(ほらあな)の中に暮(く)らしていたこと、その人たちが木の幹(みき)で小屋をつくることをおぼえるまでには、長い長い時代がたったこと、そして、一部屋(ひとへや)しかない丸太小屋(まるたごや)から進歩(しんぽ)して、ヴィットシェーヴレのような部屋(へや)の百もあるお城(しろ)をきずくようになるまでには、長い間ずいぶん苦心もし、努力(どりょく)もしたものだということなどを話してきかせました。
 先生は、なおもいろいろと細(こま)かに説明しました。それで、ドウランの中にはいっているニールスはいらいらしてきました。けれど、もちろんじっとしていなければなりません。でないと、ドウランの持(も)ち主(ぬし)に気づかれてしまいます。
 それから、やっと、みんなはお城の中にはいりました。けれども、ニールスが、すきをみてドウランから這(は)いだすなんてことは、とうていできそうもありません。なにしろ、ドウランをかけている生徒が、しょっちゅう持って歩いているのですからね。ですからニールスは、お城の中の部屋(へや)という部屋を、持(も)ち主(ぬし)の生徒についてまわらなければなりませんでした。じつにじれったい旅(たび)ではありませんか。それに先生ときたら、ひっきりなしに立ちどまって、説明するのです。
 先生は、ちっともいそいでいませんでした。ちっぽけな生き物が、かわいそうにドウランの中にかくれていて、自分の話が早く終わるようにと願(ねが)っていようなどとは、夢(ゆめ)にも知らないのです。
 その間じゅう、ニールスはじっとしていました。いままではよくいたずらをして、穀物倉(こくもつぐら)の戸をしめては、中にはいっているおとうさんやおかあさんをこまらせたものですが、そんなとき、おとうさんやおかあさんがどんな気もちだったかが、いまはじめてよくわかりました。そうでしょう、先生が話しおわるまでは、なん時間もなん時間もこの中にじっとしていなければならないのですからね。
 ようやくのことで、先生はもう一ど中庭にきました。そして、またここで、人間が器具(きぐ)や武器(ぶき)や衣服(いふく)や家や家具(かぐ)などを考えだしてつくるのには、長いあいだ、たゆまず努力(どりょく)したものだということを説明しはじめました。
 けれども、ニールスは、この話を聞きのがしてしまいました。というのは、ドウランをかけている生徒はまたのどがかわいたので、台所へ水を飲みにいったからです。ニールスは、台所へいけば、ガチョウがどうなったかわかるぞ、と思いました。それで、からだを動かしてみますと、ぐうぜんにも、ふたにガタンとぶっつかりました――そのひょうしに、ふたがパタンと開(あ)きました。でも、ドウランのふたが開くことはよくありますから、生徒は気にもかけずに、またふたを閉(し)めてしまいました。すると、それを見ていた男が、その中にはヘビでもはいっているのかい、とたずねました。
「いいえ、植物がすこしはいっているきりです。」と、生徒は答えました。けれども男は、「いや、たしかに、なんだか動いたものがあったよ。」と、言いはりました。そこで生徒は、男の言ったことがまちがいであることを見せようとして、ふたをあけて言いました。「さあ、ごらんなさい――どうです――」
 と、そのことばの終(お)わらないうちに、もうここにはいられないぞ、とさとったニールスは、ポンと床(ゆか)の上にとびおりるが早いか、いちもくさんにかけだしました。見ていた男は、走っていくものがなんだか、よくはわかりませんでしたが、すぐさまあとを追(お)いかけました。
 先生はまだ話をつづけていましたが、大きなさけび声に話をじゃまされてしまいました。
「そいつを捕(つかま)えろ! そいつを捕えろ!」とさけびながら、台所のほうから人びとが走ってきます。それを見ると、生徒たちもいっしょになって追いかけました。ニールスはネズミよりもすばしこくチョコチョコと逃(に)げまわります。みんなは門のところで捕えようとしましたが、こんなちっぽけな生き物を捕えるのは、どうしてどうして、たいへんなことです。こうして、ニールスは、うまく逃(に)げだしました。
 ニールスは、思いきって、ひろびろとした並木道(なみきみち)を走っていく勇気(ゆうき)はありませんでした。それで、別(べつ)の道をいくことにきめました。庭を通って、裏庭(うらにわ)に出ました。けれど、みんなは、大声をたてたり笑ったりしながら、なおもあとから追いかけてきます。かわいそうに、ニールスは一生けんめい逃げました。
 ある農家(のうか)の前までかけてきたとき、ガチョウの鳴く声が聞こえました。見ると、入口の段々のところに、白いはねが二、三枚落ちているではありませんか。ああ、ガチョウはここにいるのです! あまりのうれしさに、あとを追いかけてくる人たちのことはもうすっかり忘れて、ニールスは、段々をかけあがると、玄関(げんかん)へいきました。でも、戸がしまっていて、それからさきへはいけません。中からは、ガチョウの鳴きたてている声が聞こえてきます。でも、どうしても戸は開(あ)きません。うしろからは、自分を追っかけてくる人たちが、ますます近づいてきます。しかも、部屋の中では、ガチョウがいよいよ悲(かな)しそうに鳴きさけんでいるではありませんか。せっぱつまったニールスは、勇気(ゆうき)をふるい起こして、力まかせに戸をたたきました。
 と、どうでしょう。ふしぎにも、戸が開きました。中を見れば、土間のまんなかで女の人がガチョウをおさえつけ、いましも大きなはねをはさみ切ろうとしています。ガチョウを見つけて、つかまえたのは、この女の人の子どもたちだったのです。しかし、この人はガチョウを殺(ころ)そうというのではありません。自分のところで飼(か)っているガチョウたちのなかまに入れるつもりで、ただ飛(と)べないように、はねを切ろうとしていたのでした。けれども、ガチョウにとってはこんな恐(おそ)ろしいことはありません。それで、声をかぎりに鳴き悲しんでいたのです。
 でも、はねを二枚切りおとされたときです。ありがたいことに、戸が開(あ)いて、チビさんがしきいの上に姿を見せました。と、女の人はいままでにこんなちっぽけな生き物を見たことがないものですから、びっくりして思わず、はさみを落(おと)し、手を打ちあわせました。そのひょうしに、ガチョウをおさえつけるのを忘れてしまったのです。
 ガチョウは、はなされたと気がつくと、すぐ戸口のほうへ走りました。そしてニールスのシャツのえりをつかんで、かかえていきました。入口の段々のところまで来ますと、はねをひろげて、さっと空に舞(ま)いあがりました。そのときには、もう、ニールスは、スベスベしたガチョウのせなかにのっかっていました。
 こうして、ふたりは飛んでいきました。ヴィットシェーヴレの人びとは、あっけにとられて、そのあとを見送っていました。

 ガンたちがキツネをからかっていた日、ニールスはずっとリスの空巣(あきす)にねころんで、ねむっていました。夕方になって目をさましますと、ひどく悲(かな)しくなってきました。「きっと、もうじき家(うち)へ帰されるんだろう。そうなりゃ、どうしたって、おとうさんとおかあさんにこのみじめな姿を見られるんだ。」と、思ったのです。
 ところが、ヴォンブ湖(こ)で水浴(みずあ)びをしたり泳ぎまわったりしているガンたちのそばへいっても、だれからも帰れとは言われませんでした。それで、「ガチョウの白があんまりくたびれているもんだから、ぼくをのっけて帰れとは言わないんだな。」と、ニールスは思いました。
 あくる朝、ガンたちは、お日さまののぼるずっとまえに目をさましました。いよいよきょうは、家に帰されるにちがいありません。ところが驚(おど)ろいたことに、ガンたちは、ふたりとも朝の旅(たび)にいっしょについていってもいいというのです。ニールスは帰されるのがどうしてのびたのか、そのわけはよくわかりませんでしたが、長い旅(たび)なんだから、ガチョウがおなかいっぱいたべてから、きっと帰すつもりなんだろう、と思いました。まあ、そんなことはどっちでもかまいません。これから、おとうさんとおかあさんに会うまでのあいだは、ゆかいにすごしてやろう、と心にきめました。
 ガンのむれは、エーヴェードスクローステル荘園(しょうえん)(貴族などの地方の領地)の上に飛んできました。それは湖(みずうみ)の東がわにある美しい公園の中にあって、見るからにすばらしいところでした。大きなお城(しろ)がそびえ立ち、低(ひく)い壁(かべ)と離(はな)れ屋(や)にかこまれた中庭には、美しく石がしきつめてあって、古風(こふう)な庭園(ていえん)はいかにも優雅(ゆうが)です。庭園には、きれいに刈(か)りこまれた生垣(いけがき)や、あずまやや、池や、噴水(ふんすい)や、珍(めず)らしい大木や、短く刈りこんだ芝生(しばふ)が見えます。その芝生には花壇(かだん)があって、色とりどりの春の花が、咲(さ)きみだれています。
 ガンたちが荘園(しょうえん)の上に飛んできたのは朝早くでしたので、まだ人の姿は見えませんでした。みんなは、だれもいないことをはっきりたしかめてから、犬小屋の近くへおりていって、さけびました。
「これはなんてちっぽけな小屋なんだろう! これはなんてちっぽけな小屋なんだろう!」
 その声を聞きつけるが早いか、犬は怒(おこ)って小屋からとびだしてきて、吠(ほ)えたてました。
「これを小屋だっていうのか? この宿(やど)なしどもめ! 大きな石づくりのお城(しろ)のあるのが目にはいらないのか? あのりっぱな壁(かべ)や、たくさんの窓(まど)や、大きなとびらや、美しいテラスが見えないのか? ワン、ワン、ワン。これでも小屋だってのか? 中庭(なかにわ)や、庭園(ていえん)や、温室(おんしつ)や、大理石(だいりせき)の像(ぞう)が見えないのか? これでも小屋だってのか? 犬小屋ってもののまわりには、ブナの木立(こだち)や、ハシバミのやぶや、こんもりとした茂(しげ)みや、カシワの木や、モミの木や、おまけに、えもののいっぱいいる猟場(りょうば)まで持った公園があるのか? ワン、ワン、ワン。これでも小屋だってのか、きさまらは? 村ぐらいもあるたくさんの離(はな)れ屋を持った小屋ってものを見たことがあるのか? 自分の教会と自分の牧師館(ぼくしかん)を持っていて、おまけに、お屋敷(やしき)や農家や小作地や、お役所までも支配している小屋ってものを知ってるとでもいうのか? ワン、ワン、ワン。きさまらは、これでも小屋だってのか? いいか、この小屋にはな、スコーネじゅうでいちばんすばらしいものがあるんだぞ、このこじきどもめ! そんな高いところにぶらさがっているきさまらには、地面なんかはこれっぱかしも見えやしないんだ! ワン、ワン、ワン。」
 犬はこれだけのことを、いっきにまくしたてました。そのあいだ、ガンたちは荘園(しょうえん)の上をいったりきたりして、犬の言うことを聞いていましたが、犬が一息(ひといき)つきますと、こうさけびました。「きみは、どうしてそんなに怒(おこ)ってんだい? ぼくたちはお城のことなんかききゃしないよ。きみのお宅(たく)のことをおたずねしたまでさ。」
 ニールスは、ガンたちがこんなふうにからかっているのを聞いて、思わずふきだしてしまいました。と、そのとき、ふと、ある考えが浮かんできて、すぐにまじめになりました。そして、
「ああ、もしガンたちといっしょに、スウェーデンじゅうを通ってラプランドまでいけたら、ずいぶんおもしろいことが聞けるだろうなあ!」と、ため息をつきながらひとりごとを言いました。「こんなあわれな姿(すがた)になってしまったいまでは、そういう旅でもするのが、いちばんの楽(たの)しみなんだ。」
 ガンたちは荘園(しょうえん)の東がわにある広い畑(はたけ)の一つに飛んでいって、そこで二時間ばかり草の根をたべていました。そのあいだ、ニールスは畑につづいている大きな公園の中にはいっていって、ぶらぶらしていました。そうして、ハシバミの木立(こだち)の枝を見あげては、去年(きょねん)の秋の実(み)がまだ残っていはしないかと、一生けんめいさがしていました。
 こうして、公園の中をぶらついているあいだも、もうすぐ家に帰されるだろうということが、気になってしかたがありません。そして、ガンたちといっしょにいけたら、すてきだろうなあ。もちろん、おなかがすいたり、こごえそうになったりすることも、たびたびあるだろう。でも、そのかわり、働(はたら)いたり勉強(べんきょう)したりしなくてもいいんだから、などと、なんどもなんども想像(そうぞう)してみるのでした。
 こんなことを考えながらさがしているところへ、とつぜん、年とった灰色(はいいろ)の隊長(たいちょう)のガンがやってきました。そして、なにかたべるものが見つかったかね、とききました。ニールスが、いいえ、なんにも見つかりません、と答えますと、隊長はいっしょになってさがしてくれました。でも、やっぱりハシバミの実(み)は見つかりません。けれど、野バラの茂(しげ)みにのこっている実を二つばかり見つけてくれました。ニールスはおいしそうにそれをたべました。でも、心の中では、自分がなまの魚(さかな)やこおっていた野バラの実(み)をたべて生きていたと、おかあさんが知ったら、なんて言うだろう、と思っていました。
 やがて、ガンたちは、おなかいっぱいたべてしまいますと、また湖(みずうみ)へ飛んでいって、お昼(ひる)ごろまで、いろんなことをして遊びました。ガンたちは白のガチョウにも試合(しあい)を申しこんで、泳ぎっこや、かけっこや、飛びっこなどをしました。大きなガチョウは一生けんめいがんばりました。でも、すばしっこいガンたちにはいつも負(ま)けてしまいました。その間じゅう、ニールスはガチョウのせなかにのっかって、はげましていました。そして、みんなと同じように、うれしがっていました。ガアガアないたり、笑ったり、いや、そのすさまじいこと、荘園(しょうえん)の人たちが気がつかなかったのはふしぎなくらいです。
 ガンたちは遊びつかれますと、氷(こおり)の上に飛んでいって、二時間ばかり休みました。その日の午後も、午前とほとんど同じようにしてすごしました。さいしょに二時間ばかりごはんをたべて、それからお日さまが沈(しず)むまで、水浴(あ)びをしたり、氷のふちで遊んだりしました。お日さまが沈むと、みんなはすぐに氷の上に並(なら)んで、眠りました。
「こんな生活なら、ぼくはすきなんだがなあ。」夕方、ガチョウのはねの下にはいりこみながら、ニールスはこう思いました。「だけど、あしたは家へ帰されるんだろう。」
 眠るまえに、ニールスは、ガンたちといっしょにいくとすれば、どんな得(とく)があるだろうかと、もう一ど考えてみました。そうなれば、なまけものだといって叱(しか)られることもないでしょうし、だいいち、すきなように、ぶらぶら暮(く)らすこともできるでしょう。たったひとつ心配なのは、たべるものをどうやって手に入れるかということです。でも、いまではそれもほんのわずかでたりるのですから、なんとか手に入れることもできるでしょう。
 そしてまた、これからどんなものを見るだろうか、どんなにたくさんの冒険(ぼうけん)をするだろうかなどと、さまざまに想像(そうぞう)をめぐらしてみました。たしかに、家にいて骨(ほね)をおって働くのとは、ずいぶんちがうことでしょう。「ああ、もしガンたちといっしょに旅(たび)にいけさえしたら、こんな姿になったのもうらめしくは思わないんだけどなあ!」と、ニールスは思うのでした。
 こうなれば、気にかかるのは家に帰されるということだけです。ところが水曜日になっても、ガンたちは帰れというようなことは、ひとことも言いません。この日も、まえの日と同じようにすぎました。そしてニールスは、のびのびとした野の生活が、ますます、すきになってきました。
 ニールスは、森のように大きな、このさびしい公園を、すっかり自分ひとりのものにしたような気になりました。そして、じぶんの家のせまい部屋(へや)や、ちっぽけな畑(はたけ)に帰りたいなんて気もちは、ちっとも起こってきませんでした。
 水曜日には、ガンたちは、じぶんをいっしょにいかしてくれるつもりなんだろうと、ニールスはそう思っていました。ところが木曜日になると、この希望(きぼう)は消(き)えてしまいました。木曜日も、まえの日と同じようにはじまったのです。ガンたちは広い畑(はたけ)でごはんをたべ、ニールスはたべものをさがしに公園へいきました。しばらくすると、アッカがそばへやってきて、なにかたべるものが見つかったかい、とたずねました。けれども、いいえ、見つかりません、というニールスの答えに、アッカは枯(か)れたイブキゼリ草を見つけてくれました。それには、まだ、小さなたねがいっぱいついていました。
 ニールスがたべおわりますと、アッカは、おまえさんは、ずいぶん向こうみずに公園の中をかけまわるようだけれど、おまえさんみたいなちっぽけなものが気をつけなければならない敵(てき)が、たくさんいることは知っているのかい、と、ききました。いいえ、すこしも知りません、と、ニールスは答えました。そこで、アッカはその敵についていちいち説明しはじめました。
 森へいくときには、とアッカは言います。キツネとテンに気をつけなくちゃいけないよ。湖(みずうみ)の岸(きし)べにいるときには、カワウソがいることを忘れるんじゃないよ。石垣(いしがき)の上にすわるときには、どんな小さな穴(あな)にもはいこめるようなイタチがいることを、しょっちゅう気をつけていなけりゃいけない。それから落ち葉の上にねころんで眠ろうとするときには、まずそのまえに、落ち葉の下にマムシが冬眠(とうみん)していないかどうか、しらべるようにするんだね。広い野原に出たら、空を舞(ま)っているタカやハヤブサやワシなどに気をつけるんだよ。イバラのやぶでは、ハイタカにつかまらないように注意しなさい。カササギやカラスはどこにでもいるから、けっしてゆだんするんじゃないよ。暗くなってきたら、耳をすまして、大きなフクロウに気をつけなくちゃだめだよ。なにしろ、フクロウときたら、音もたてずに飛んでくるからね。すぐそばまでこなければ、気がつかないくらいなんだから。
 ニールスは、自分の命(いのち)をねらっている敵(てき)がそんなにもたくさんいることを聞かされますと、これでは、とても生きてはいられまいと思いました。死ぬことはそんなに恐(おそ)ろしいとは思いませんが、くわれてはたまりません。それでアッカに、そういう動物をふせぐのには、どうしたらいいのですか、とたずねました。
 すると、アッカはすぐに答えました。リスやウサギやウソやヤマガラやキツツキやヒバリのような、森や野にいる小さな動物たちと仲(なか)よしになるようにしなさい。こういう動物たちと友だちになっていれば、危険(きけん)のときには知らせてくれるだろうし、隠(かく)れ場所も教えてくれるだろう。それに、こまりきったときには、力を合わせてかばってもくれるだろう。
 そのあとで、ニールスは教えられたとおりにやってみようと思って、まずリスのハヤキチに助(たす)けてくれるように頼(たの)んでみました。けれども、ハヤキチは、どうみても助けてくれそうもありません。
「ぼくや小さい動物たちから助けてもらおうと思ったって、とてもだめだよ。」と、リスのハヤキチは言うのでした。「きみがガチョウ番(ばん)のニールスって小僧(こぞう)で、去年、ツバメの巣(す)をぶちこわしたり、ムクドリの卵を押(お)しつぶしたり、カラスの赤んぼうをみぞの中にほうりこんだり、ツグミをわなにかけてつかまえたり、リスをかごの中にとじこめたりしたってことを、ぼくたちが知らないとでも思っているのかい? まあ、せいぜい、じぶんのことはじぶんでするさ。それよりも、ぼくたちがみんなで、きみを人間どものところへ追(お)い返さないことだけでも、ありがたく思うんだね。」
 こんな返事をされれば、もとのニールスなら、ただではおかないところです。けれどもこのとき、ニールスは、じぶんの悪(わる)いことが、ガンたちに知れたらたいへんだぞと思っていました。そんなことにでもなれば、いっしょにいては、いけないと言われるかもしれません。それだけが、ただ、心配でした。このガンの仲間(なかま)にはいってからというもの、ニールスは、ちょっとしたいたずらさえもしたことがありません。もちろん、しようとしたところで、こんな小さなからだではたいしたこともできないでしょうが。それにしても、小鳥の巣(す)をこわしたり、卵を押(お)しつぶしたりすることぐらいはできるでしょう。しかし、いまではニールスは、すっかりよい子どもになっていたのです。ガチョウのはねをひきぬくようなこともしませんし、乱暴(らんぼう)な返事ひとつしたことがありません。朝、アッカにおはようのあいさつをするときには、ちゃんと帽子(ぼうし)をとって、ていねいにおじぎをするのでした。
 ニールスは、ガンたちがじぶんをラプランドへいっしょにつれていってくれそうもないのは、きっといままでじぶんが悪(わる)いことばかりしたからなんだろう、と、木曜日には一日じゅう考えこんでいました。それで、その夕方に、リスのハヤキチのおくさんが人間にさらわれて、生まれたばかりの赤んぼうがおなかをへらして、いまにも死にそうになっていることを聞きますと、よし、ひとつ助けてやろう、と決心しました。そして、それをうまくやってのけたことは、さっきお話ししたとおりでした。
 ニールスは金曜日にもまた公園へはいっていきました。すると、どのやぶからも、ウソたちが、歌っているのが聞こえてきました。リスのハヤキチのおくさんが、赤んぼうだけをのこして人間にさらわれていったけれど、ガチョウ番(ばん)のニールスが勇敢(ゆうかん)にも、赤んぼうをおかあさんのところへつれていってやったと、ウソたちは、口々に歌っているのでした。
「いまこのエーヴェードスクローステル公園じゅうで、オヤユビさんほど、みんなから敬(うやま)われているひとはない!」と、ウソは歌いました。「ガチョウ番のニールスだったころは、あんなにこわがられていたんだけど! いまじゃ、リスのハヤキチは、オヤユビさんにクルミをあげるし、貧乏(びんぼう)なウサギも、きっとピョンピョン跳(は)ねていっしょに遊ぶよ。キツネのズルスケが近づけば、シカはオヤユビさんを、せなかにのせて逃(に)げてくれるだろうし、ヤマガラは、タカがくるのをきっと知らせてくれるよ。それから、アトリやヒバリは、オヤユビさんの勇(いさ)ましいおこないを歌にうたうだろうよ。」
 アッカやほかのガンたちも、この歌を聞いたことはたしかです。それなのに、金曜日がすぎてしまっても、あいかわらず、ニールスがいつまでもいっしょにいていいとは言ってくれません。
 土曜日までずっと、ガンたちはエーヴェードのまわりの畑(はたけ)でごはんをたべましたが、一どもズルスケにおそわれたことはありませんでした。ところが、土曜日の朝早く、ガンたちが畑へ出ていきますと、ズルスケが待ち伏(ぶ)せしていました。そして、畑(はたけ)から畑へと追いかけてきます。これでは、おちついてたべてもいられません。そこでアッカは、すぐに決心をして、空高く舞(ま)いあがりました。そして、ほかのガンたちといっしょに、フェールスの平原やリンデレードの山の背(せ)をこえて、なんマイルも飛(と)んでいきました。こうして、ヴィットシェーヴレ地方に着きました。
 ところが、そのヴィットシェーヴレでは、ガチョウがさらわれてしまったのでした。そして、それからどうなったかは、まえにお話ししましたね。もしもあのとき、ニールスが力のかぎり、ひっしになって助けようとしなかったら、ガチョウの姿はもう二どと見られなかったことでしょう。
 土曜日の夕方、ニールスがガチョウといっしょに、ヴォンブ湖(こ)へもどってきたときには、きょうはすばらしいことをやってのけたと思いました。そして、アッカやほかのガンたちがなんて言うだろうかと、楽(たの)しみにしていました。ガンたちは、ずいぶんほめてはくれましたが、でもニールスが聞きたいと思っていることは、ひとことも言ってはくれませんでした。
 日曜日になりました。ニールスが魔法(まほう)で小人にされてから、ちょうど一週間になります。しかし、あいもかわらず、ニールスはちっぽけな姿(すがた)のままなのです。
 ところが、そのニールスは、こんな姿になったことをそれほど悲(かな)しんではいないようすでした。湖(みずうみ)のほとりの大きなヤナギの茂(しげ)みにすわりこんで、ニールスはアシ笛(ぶえ)を吹いていました。まわりにいるヤマガラやウソやムクドリたちの歌を、一生けんめい吹こうとしていたのです。でも、ニールスは笛を吹くのにあまりなれていないので、ちっともうまく吹けません。そうすると、小さな音楽の先生たちは、はね毛をさかだて、この生徒の不器用(ぶきよう)さかげんにがっかりして、大声を立てたり羽(は)ばたいたりしています。ニールスはみんながあんまり夢中(むちゅう)になっているので、おかしくてたまらず、笑ったひょうしに笛を落(おと)してしまいました。
 ニールスはまた吹きはじめました。やっぱり、うまくいきません。すると、小鳥たちは、口をそろえて悲しそうに言いました。
「きょうは、いつもよりへたじゃないか、オヤユビくん! 調子(ちょうし)がちっとも合ってないよ。きみの心はどこへいっちゃったの?」
「どこかほかにね。」と、ニールスは答えました。まったくそのとおりです。笛を吹いているあいだも、あとどのくらいガンたちといっしょにいられるだろうか、もう、きょうにも帰されるのではないだろうか、という心配が、しょっちゅう心に浮かんでくるのです。
 けれども、ニールスは急に笛をすてて、茂(しげ)みからとびおりました。見れば、アッカやほかのガンたちが、向こうから長く一列にならんでやってきます。しかも、みんなはいつもとちがって、しずしずと、おごそかな顔(かお)つきをして歩いてくるではありませんか。ニールスは、いよいよじぶんの運命(うんめい)がどうきまるのか聞かされるにちがいない、と思いました。
 とうとう、ガンたちはニールスの前に立ちどまりました。そこで、アッカが口をひらいて言いました。
「オヤユビさん、わたしはあなたのおかげで、キツネのズルスケから救(すく)っていただいたのに、いままでお礼も言わないでいて、さぞへんなやつだとお思いでしょう。むりもありません。しかしわたしは、ことばでお礼(れい)を言うよりも、おこないでお礼をしたいほうなのです。それで、オヤユビさん、いまそのご恩(おん)がえしができると思います。というのは、わたしは、あなたに魔法(まほう)をかけた小人に使いをやったのです。さいしょ小人は、あなたをもとの人間の姿にかえすことを、なかなか承知(しょうち)しませんでした。けれども、わたしはなんどもなんども使いをやって、あなたがわたしたちのあいだで、たいへんりっぱなおこないをしていると知らせてやりました。すると、小人もとうとう承知(しょうち)して、あなたが家に帰れば、すぐにもとの人間にしてあげるとつたえてくれということです。」
 ところが、どうしたというのでしょう! アッカが話しはじめたときには、ニールスはあんなに楽(たの)しそうでしたのに、話しおわったいまは、いかにも悲(かな)しそうに見えました。そしてひとことも言わずに、横をむいて、わっと泣きだしてしまいました。
「いったいぜんたい、どうしたというのです?」と、アッカはあっけにとられて、たずねました。「わたしがいまお話したことだけでは、ご不満(ふまん)のようですね。」
 けれどもニールスは、まいにち心配のいらないことや、おもしろおかしくすごせることや、冒険(ぼうけん)や、自由や、空高く旅(たび)をすることなどが、これからはできなくなることを思って、その悲(かな)しみのために、泣いたのです。
「ぼくはもう人間なんかになりたくない!」と、ニールスは泣きじゃくりながら言いました。「きみたちといっしょに、ラプランドへいきたいんだ!」
「いいですか、あの小人はとっても怒(おこ)りっぽいんですよ。」と、アッカは答えました。「だから、いまあの小人の言うとおりにしないと、こんどまたうまく言いくるめることは、なかなかできないでしょうよ。」
 もともと、ニールスは変わっていました。いままで、ひとりとして人間をすきになったことはありません。おとうさんもおかあさんも、学校の先生も、学校の友だちも、近所(きんじょ)の子どもも、だれもすきにはなれませんでした。みんながニールスにさせようと思うことは、仕事でも遊(あそ)びでも、なにもかもうんざりするばかりでした。ですから、ニールスが心からしたったり、なつかしく思ったりするような人は、ひとりもなかったのです。
 いくらか仲(なか)よくしていたものといえば、ガチョウ番(ばん)のオーサという女の子と、その弟のマッツという子だけでした。このふたりは、ニールスと同じように、ガチョウの番をする役目(やくめ)でした。けれど、このふたりも心からすきだったわけではありません。
「ぼくはもう、人間になんかなりたくない!」と、ニールスは泣き泣き言いました。「きみたちについてラプランドへいきたいんだよ! だから、ぼく、一週間もおとなしくしていたのさ。」
「あなたが、わたしたちといっしょにいきたいんなら、いっちゃいけないとは言いませんよ。」と、アッカは言いました。「だけど、それよりさきに、ほんとうに家(うち)へ帰りたくないのかどうか、よく考えてごらんなさい。あとで、後悔(こうかい)するかもしれませんよ。」
「いや、後悔するなんてことは、ぜったいにないよ。」と、ニールスはきっぱりと言いました。「きみたちのところにいるくらい楽(たの)しいことはなかったもの。」
「じゃ、おすきなようになさい。」と、アッカは言いました。
「ありがとう、ありがとう!」と、ニールスは大声で言いました。そして、しみじみ、しあわせを感じて、うれしさのあまり泣いてしまいました。――ついさっき、悲(かな)しみのあまり泣いたように。
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 スコーネ地方の東南部(とうなんぶ)で、海からあまり遠くないところに、グリンミンゲという古いお城(しろ)があります。しっかりとした石づくりの大きなお城で、ぐるりの平野の、四、五マイルさきからでもよく見えます。高さといえば四階までしかありませんが、たいへん大きなものなので、同じ荘園(しょうえん)の中にあるふつうの農家(のうか)は、このお城にくらべれば、まるで子どものおもちゃの家のようです。
 この大きな石の建物(たてもの)は、壁(かべ)と天井(てんじょう)がたいへん厚(あつ)いので、内がわには、ただ厚い壁だけがあるようなありさまです。階段(かいだん)も廊下(ろうか)もせまくて、部屋(へや)はほんのわずかしかありません。しかも、壁は、できるだけ頑丈(がんじょう)にというので、窓(まど)も上のほうにごくすこししかついていないのです。下のほうには、小さなあかりとりのほか、窓は一つもありません。むかし、戦争(せんそう)のあった時代には、人びとはこういう大きな頑丈(がんじょう)なお城(しろ)に、喜んで閉(と)じこもっていたものでした。ちょうど、いまのわたしたちが寒(さむ)さのきびしい冬に、喜んで毛皮にくるまっているのと同じようなものですね。けれども、やがて楽(たの)しい平和な時代がやってきますと、こんな古いお城(しろ)の、うすぐらい、ひえびえとした石の部屋(へや)なんかに、とても住んでいられるものではありません。それで人びとは、もうずっとまえに、この大きなグリンミンゲ城(じょう)を見すてて、空気と光のさしこむ、気もちのいい住居(すまい)に越(こ)していってしまったのです。
 ですから、ニールス・ホルゲルッソンがガンのむれといっしょにやってきたときにも、グリンミンゲ城(じょう)には人間はひとりもいませんでした。といっても、住んでいるものがまるっきりなかったわけではありません。夏になれば、コウノトリの夫婦(ふうふ)がきまってやってきては、屋根の上に大きな巣(す)をつくって住みました。また、屋根裏部屋(やねうらべや)には二羽(わ)のフクロウが住んでいましたし、廊下(ろうか)にはコウモリがぶらさがっていました。台所のかまどには、年とったネコが一ぴき住んでいました。それから地下室には、いく百となく黒ネズミのむれが住みついていました。
 ネズミというものは、いったいに、ほかの動物たちのあいだでも、あまり評判(ひょうばん)のいいものではありません。しかし、このグリンミンゲ城の黒ネズミだけはべつで、いつもみんなから敬(うやま)われておりました。なぜかといえば、敵(てき)と戦(たたか)うときにはとても勇敢(ゆうかん)でしたし、またこの種族(しゅぞく)の上にふりかかってきたわざわいにもかかわらず、よくがんばりとおしたからです。つまり、この黒ネズミたちは、むかしはたいへん数(かず)も多くて力もあったネズミ族だったのですが、いまではほろびかかっているのでした。じっさい、長い年月のあいだ、黒ネズミたちはスコーネばかりか、国じゅうをじぶんたちのものにしていたのでした。まったく、どこの地下室(ちかしつ)にも、天井裏(てんじょううら)にも、教会にも、お城(しろ)にも、酒造(さけつく)り場(ば)にも、製粉所(せいふんじょ)にも、そのほか人間の住んでいるところなら、ありとあらゆるところに住んでいたものです。それがいまではすっかり追(お)いはらわれて、もう全滅(ぜんめつ)するばかりです。人里離れた二、三の場所に、その姿を見かけることがあるだけです。その中でも、このグリンミンゲ城ぐらいたくさんいるところは、ほかにはどこにもなかったのです。
 ある動物の一族(ぞく)が死にたえるのは、たいてい人間にやっつけられるためです。しかし、黒ネズミの場合はそうではありません。もちろん、人間も黒ネズミと戦(たたか)いましたが、それほどひどくやっつけることはできませんでした。つまり、黒ネズミを征服(せいふく)したのは、同じネズミ族(ぞく)の灰色(はいいろ)ネズミだったのです。
 灰色ネズミというのは、黒ネズミのように、ずっとむかしからこの国に住みついていたものではありません。百年ばかりまえに、リビア人の帆船(はんせん)からマルメーに上陸(じょうりく)した、あわれな移住(いじゅう)ネズミの夫婦(ふうふ)がその先祖(せんぞ)になっているのです。この港(みなと)にたどりついた二ひきの宿(やど)なしネズミは、橋の下のくいのあいだを泳(およ)ぎまわっては、水の中にすてられたくずをたべて、すき腹(ばら)をふさいでいました。そのときには、もちろん、黒ネズミの領分(りょうぶん)である町の中へはいっていく勇気(ゆうき)はありませんでした。
 でも、灰色ネズミたちの数がふえてきますと、だんだん大胆(だいたん)になって、町なかまではいってくるようになりました。さいしょは、黒ネズミたちのすてた古い空家(あきや)に、ひっこしました。そして、どぶやごみためからたべものを見つけてきては、黒ネズミたちの見むきもしなかった、きたないこぼれ物でがまんしていたものでした。いったい、灰色ネズミというのは、どんな苦しみでもがまんするし、どんなつまらないものにも満足(まんぞく)する、こわいものしらずのネズミだったのです。ですから、二、三年してひじょうに力が強くなりますと、早くも黒ネズミたちをマルメーから追いだしはじめました。まず、屋根裏部屋(やねうらべや)や地下室や貯蔵部屋(ちょぞうべや)をうばい取って、黒ネズミたちをうえ死にさせたり、かみ殺(ころ)したりしました。なにしろ、灰色ネズミたちは戦(たたか)いをちっとも恐(おそ)れなかったのですから。
 マルメーをうばってからは、大小さまざまの隊(たい)にわかれて進軍(しんぐん)し、いよいよこの地方じゅうを征服(せいふく)していったのです。それにしても、灰色ネズミたちがまだあんまりふえないうちに、黒ネズミたちがどうして大きな連合軍(れんごうぐん)をととのえて、灰色ネズミをほろぼしてしまわなかったのか、そのわけはよくわかりません。ともかく、黒ネズミたちは自分の力を信じきっていましたので、自分の領土(りょうど)を失うなんてことは、夢(ゆめ)にも考えなかったのです。そして、黒ネズミたちは、のんびりと日をおくっていたのでした。そのあいだに、灰色ネズミたちは農場(のうじょう)から農場へ、村から村へ、町から町へと、ぐんぐん押(お)しすすんでいったのです。そのため、黒ネズミたちはうえ死にするか、追いだされるかして、すっかりほろびてしまいました。こうして、いまでは、スコーネ地方でもグリンミンゲ城(じょう)のほかには、どこにも住むところがなくなってしまったようなわけです。
 この古い石のお城(しろ)は城壁(じょうへき)が堅固(けんご)なうえに、ネズミの通れるような道がほんのわずかしかありません。そのため、黒ネズミたちはここにがんばって、灰色ネズミたちが攻(せ)めこんでくるのをふせぐことができました。毎晩(まいばん)毎晩(まいばん)、毎年毎年、攻めるものと守るものとのあいだには、くりかえしくりかえし、戦(たたか)いがつづけられました。けれども、黒ネズミたちはよく見はって、しかも、死ぬことをすこしも恐(おそ)れずに戦いました。ですから、この古いりっぱなお城のおかげで、これまでのところは、いつも勝利(しょうり)をおさめることができました。
 さて、ちょっと言っておきますが、黒ネズミたちも、勢(いきお)いのさかんだったころは、いまの灰色ネズミと同じように、どの動物からもきらわれていたものでした。それもそのはずです。黒ネズミたちは、つながれているかわいそうな囚人(しゅうじん)たちにむかっていって、苦しめたり、死人の肉(にく)をたべたり、貧乏人(びんぼうにん)の地下室からカブラをぬすんできたり、眠っているガチョウの足をかみきったり、メンドリから、卵(たまご)や生まれたばかりのヒヨコをさらってきたり、そのほかさまざまの悪(わる)いことをやってのけたのですからね。ところが、不幸にみまわれてからは、そうしたことは、忘れたように、ふっつりとしなくなってしまったのです。あれほど長いこと敵(てき)を苦しめぬいてきたこの黒ネズミ族(ぞく)の最後のかわりかたに、驚(おどろ)かないものはありませんでした。
 グリンミンゲ城の近くに住んでいる灰色ネズミたちは、しょっちゅう戦(たたか)いをしむけては、このお城をのっとる機会(きかい)を、いまかいまかと待っていました。ところで、灰色ネズミたちはこの国のほとんど全部をじぶんたちのものにしているのですから、せめてグリンミンゲ城ぐらいは、わずかな黒ネズミたちのものにしておいてやってもいいように思われます。でも、灰色ネズミたちはそんなことはこれっぱかしも考えてはいませんでした。それどころか、黒ネズミをいつかはほろぼしてしまわなければ、じぶんたちの名誉(めいよ)にかかわるんだ、と口ぐせのように言っていました。けれども、灰色ネズミのことをよく知っている者は、そんなことはうそで、ほんとうは、グリンミンゲ城を人間が穀物倉(こくもつぐら)に使っているものだから、灰色ネズミたちは、ここを手に入れないうちは承知(しょうち)できないんだ、ということをちゃんと知っていたのでした。

 ヴォンブ湖(こ)の氷(こおり)の上で眠っていたガンたちは、ある朝早く、空から呼ぶ声に目をさましました。
「コロッ、コロッ、ツルのトリアヌートが、ガンのアッカさまほか、みなみなさまにごあいさつを申しあげます! 明日(みょうにち)、クッラベルイで、ツルの大舞踏会(だいぶとうかい)がございます!」
 アッカはすぐに頭をあげて、答えました。
「それはどうもありがとう! それはどうもありがとう!」
 それから、ツルのむれは、むこうへ飛んでいきましたが、ツルが野原や木立(こだち)の多い丘の上を飛びながら、「トリアヌートがごあいさつ申しあげます! 明日(みょうにち)、クッラベルイでツルの大舞踏会(だいぶとうかい)がございます!」とさけんでいるのが、ガンたちには、まだしばらくのあいだ聞こえていました。
 ガンたちは、この招待(しょうたい)を心から喜びました。そして、白いガチョウにむかって、「きみはしあわせだぜ、ツルの大舞踏会にいけるなんて!」と、言いました。
「ツルの踊(おど)りって、そんなにすばらしいのかい?」と、ガチョウはききました。
「きみなんか、とても夢(ゆめ)にだってみたことのないようなものさ!」と、ガンたちは答えました。
「さてと、あした、わしたちがクッラベルイにいっているあいだ、オヤユビくんの身になにもまちがいが起こらないようにするには、どうしたらいいだろう。」と、アッカが言いました。
「オヤユビくんひとり残していくわけにはいかない!」と、ガチョウが大声で言いました。「ツルがオヤユビくんに踊(おど)りを見せないというんなら、ぼくはオヤユビくんといっしょにここに残る。」
「いままで人間がクッラベルイの動物大会にいくのをゆるされたことがないんだよ。」とアッカは言いました。「そんなわけで、オヤユビくんをいっしょにつれていくことができないのさ。だけど、このことはまたあとでよく相談しよう。それよりも、まず第一に、なにかたべるものを手に入れるようにしなけりゃならない。」
 こう言って、アッカは出発の合図(あいず)をしました。この日も、キツネのズルスケのおかげで、ずいぶん遠くまで、たべもののあるところをさがして歩かなければなりませんでした。こうして、みんなは、グリンミンゲ城(じょう)のいくらか南にあたる、じめじめした草地(くさち)まで飛んでいきました。
 この日一日じゅう、ニールスは小さな池のほとりにすわりこんで、アシ笛(ぶえ)を吹いていました。ツルの踊(おど)りを見にいけないと言われたので、すっかりふさぎこんでいたのです。それで、ガチョウやガンたちと口をきく気にはとてもなれなかったのです。
 アッカがまだニールスを信頼(しんらい)しきっていないなんて、まったくひどい話ではありませんか。ニールスが人間にもどるのをやめたのも、ガンのむれといっしょに旅(たび)をして歩きたいからではありませんか。だから、ガンたちを裏切(うらぎ)るようなことはないだろうということぐらい、とうぜんわかってくれなければこまります。それに、ガンたちといっしょにいたいからこそ、いろんな犠牲(ぎせい)までもはらったのではありませんか。それなら、せめて珍(めず)らしいものでも見せてやるのが、じぶんたちのつとめだということぐらい、わかってくれてもいいはずです。
「ぼくの気もちをすっかり話さなければいけないぞ。」と、ニールスは思いました。そのうちに、だんだん時がたっていきましたが、とうとう思いきって言いだすことができませんでした。ちょっとへんに思われるかもしれませんが、じつをいうと、ニールスはこの年とったアッカにたいしては、尊敬(そんけい)に似(に)た気もちを持っていました。ですから、アッカの考えに反対することは、なまやさしいことではなかったのです。それは、じぶんでもよく知っていました。
 ガンたちがごはんをたべている、このじめじめした草地の一ぽうには、広い石垣(いしがき)がありました。夕方になって、ニールスがアッカと話そうと思って、頭をあげたとき、ふと、この石垣に目がとまりました。と、そのとたん、びっくりして、思わず小さなさけび声をあげました。すると、その声に、ほかのガンたちもみんないっせいに頭をあげて、驚(おどろ)いて石垣(いしがき)のほうを見つめました。さいしょ、みんなは、石垣のまるい灰色の石に足がはえて、それが走りだしたのかと思いました。でも、よくよく見ますと、石垣の上をたくさんのネズミが走っているのです。ネズミのむれはかたまって、ものすごい早さで前進しています。しかも、その数(かず)があんまりたくさんなので、しばらくのあいだは石垣をすっかりおおいかくしていたほどでした。
 ニールスは、もとの、大きな力の強い人間だったときでさえ、ネズミがこわくてしかたがありませんでした。それがいまはこんなちっぽけな姿で、二ひきか三びきのネズミにも打ち負かされそうなのです。このときのニールスの気もちは、どんなだったでしょう! ネズミの進軍をながめている間じゅう、ニールスはブルブルふるえていました。
 ところが、ふしぎなことに、ガンたちもニールスと同じように、ネズミがだいきらいなようです。だれひとり、ひとことも話しかけませんでした。そして、ネズミたちがいってしまうと、はねから泥水(どろみず)をはらい落(おと)そうとでもするように、からだをゆすぶりました。
「灰色ネズミがあんなにたくさん進軍(しんぐん)しているのは、」と、ガンのユクシが言いました。「なにかよくないことの前兆(ぜんちょう)だぞ。」
 こんどこそ、ニールスはまたとない機会(きかい)だと思って、クッラベルイにいっしょにつれていってくれなければこまる、と、アッカに言おうとしたのでした。ところが、またもやじゃまがはいりました。こんどは、大きな一羽(わ)の鳥がみんなのあいだにさっと舞(ま)いおりてきたのです。
 見たところ、この鳥は胴(どう)とくびと頭(あたま)とを、小さな白いガチョウからでも借りてきたようです。けれども、ほかに、大きな黒いはねと、長い赤い足と、太くて長いくちばしを持っています。そのくちばしは頭のわりには大きすぎて、その重(おも)みのために頭がさがっているので、いかにも悲(かな)しそうな、心配そうなようすに見えます。
 アッカはいそいではねをなおして、コウノトリのほうに近づきながら、なんどもおじぎをしました。まだ春になったばかりなのに、このスコーネでコウノトリに会ったことを、アッカはそれほど驚(おどろ)いてもいませんでした。それはこういうわけです。つまり、コウノトリのオスは、メスがはるばるバルト海をこえてくるまえに、ひとりでさきに飛(と)んできて、冬のあいだに自分たちの巣(す)がいたまなかったかどうかをしらべる習慣(しゅうかん)になっているということを、アッカはちゃんと知っていたからです。それにしても、コウノトリがじぶんたちをたずねてきたのは、いったいどうしたわけなんだろうと、ふしぎに思わずにはいられませんでした。だって、コウノトリというものは、同じ種族(しゅぞく)のものとだけつきあうのがすきなのですから。
「エルメンさん、お宅(たく)がどうかしたわけじゃないんでしょう?」と、アッカが言いました。
 コウノトリはくちばしを開(あ)ければ、たいてい不平(ふへい)をこぼす、とよく言われていますね。たしかに、これはほんとうのことです。このコウノトリも、ものを言うのがおっくうそうで、おまけに、ひどく悲(かな)しそうにしゃべります。はじめのうちしばらくは、くちばしをカチカチやっていましたが、それから、しゃがれた弱々(よわよわ)しい声で話しだしました。すると、たちまち不平ばかりならべたてます。グリンミンゲ城(じょう)の屋根の頂(いただ)きにあった巣(す)が、冬の嵐(あらし)のためにすっかりメチャメチャになってしまった、もうこのあたりではたべものが見つからない、スコーネの人間どもが、だんだんじぶんのものを取ってしまう、沼地(ぬまち)を掘(ほ)りかえしたり、たがやしたりしてしまう、だから、自分はスコーネから出ていって、もう二どと帰ってこようとは思わない、などと、文句(もんく)ばかり言っています。
 コウノトリがこうしてブツブツ言っているあいだ、家(うち)もなければ保護(ほご)してくれる者もないガンのアッカは、思わずこう考えるのでした。〈エルメンさん、もしもわたしがあんたのように、めぐまれた身の上だったとしたら、不平なんかこぼしませんよ。あんたは自由な野の鳥でありながら、人間どもに評判(ひょうばん)がよくて、鉄砲(てっぽう)で打たれたり、巣(す)から卵をぬすまれたりするような心配はちっともないんですからね。〉けれど、こうは思いましたが、口にだしては言いませんでした。そしてコウノトリには、ただ、「あの家が建(た)ってから長いあいだ、ずっとコウノトリの住んでいた家を捨(す)ててしまうつもりだなんて、とても信じられませんね。」と、言いました。
 コウノトリは、こんどは急にガンたちにむかって、灰色(はいいろ)ネズミのむれがグリンミンゲ城(じょう)へ進軍(しんぐん)しているのを見ませんでしたか、とききました。アッカが、たしかに、あのぞっとするようなネズミの進軍を見ましたよ、と答えますと、コウノトリは、長年のあいだグリンミンゲ城を守っている、勇敢(ゆうかん)な黒ネズミのことをのこらず話してきかせました。
「でも今夜(こんや)、グリンミンゲ城は灰色(はいいろ)ネズミの手におちてしまうでしょう。」と、コウノトリはため息をつきながら言いました。
「どうしてまた今夜なんです? コウノトリさん。」と、アッカがききました。
「だって、黒ネズミたちはほとんどみんな、ゆうべのうちにクッラベルイへ出かけてしまったんですからね。ほかの動物たちも、みんないそいでいくだろうと思ったわけなんですよ。」と、コウノトリが答えました。「だけど、ごらんのとおり、灰色ネズミは家(うち)にいたんです。そして、いま全員集合(ぜんいんしゅうごう)して、今夜(こんや)グリンミンゲ城に攻(せ)めこもうというつもりなんです。つまり、今夜だと、お城(しろ)を守っているのは、クッラベルイにいかれないような老(お)いぼれの弱いネズミだけですからね。だから、きっと灰色ネズミたちは、目的をはたすでしょうよ。だけどわたしは、長いあいだ黒ネズミたちと仲(なか)よく暮(く)らしていたものですから、黒ネズミの敵(てき)が占領(せんりょう)しているようなところには住みたくありません。」
 これでアッカには、コウノトリがなんのためにやってきたのかが、やっとわかりました。つまり、腹(はら)をたてて、そのことを言いにきたのです。たしかに、コウノトリのやりかたでは、この災難(さいなん)をふせぐことはとてもできないでしょう。
「エルメンさん、あなたはこのことを黒ネズミたちに知らせてやりましたか?」と、アッカがたずねました。
「いいえ、」と、コウノトリは答えました。「知らせたって、どうせむだですよ。みんなが帰ってくるまでに、お城(しろ)はとられてしまいますからね。」
「そうとはかぎりませんよ、エルメンさん。」と、アッカは言いました。「わたしはある年よりのガンを知っていますがね、そのひとなら、きっと、こういうひどい悪事(あくじ)を喜んでふせいでくれるでしょうよ。」
 アッカがこう言いますと、コウノトリは頭をあげて、じいっとアッカを見つめました。むりもありません。この年とったアッカには、武器(ぶき)になるような爪(つめ)もなければ、くちばしもないではありませんか。それに、ひるまの鳥ですから、夜になれば、いやでも眠ってしまいます。ところが、ネズミたちときたら、夜の暗(くら)やみで戦(たたか)う動物なのです。
 しかしアッカは、もう、黒ネズミを助けようと決心してしまったようです。ユクシを呼んで、ガンたちをヴォンブ湖(こ)につれていくように言いました。けれども、ガンたちが承知(しょうち)をしませんので、きびしく言いわたしました。
「おまえたちがわたしの言うことをきけば、それが、いちばんみんなのためにいいんだ。わたしはこれからあの大きな石のお城(しろ)に飛(と)んでいかなければならない。おまえたちがいっしょについていけば、きっとあのへんの人間に見つかって、打たれてしまうだろう。だから、わたしがいっしょにつれていきたいのは、オヤユビくんだけなんだ。オヤユビくんは目がいいし、夜も起きていられるから、このうえもなく役にたってくれるだろう。」
 ニールスは、この日はむしゃくしゃしているので、おとなしく言うことを聞く気にはなれません。アッカが言ったことを耳にしますと、すぐに身を起こして、両手をせなかにまわし、鼻(はな)をつんと上にむけて、前に出ました。さてそこで、ネズミとの戦(たたか)いに力をかすのはごめんだ、だれかほかのものにでも助けてもらうがいい、とアッカに言ってやろうというわけです。
 ところが、ニールスがあらわれでた瞬間(しゅんかん)に、コウノトリは動きだしました。そして、コウノトリがよくやるように、頭をさげ、くちばしを首に押(お)しつけて立ちました。そして、まるで笑うように、のどの奥(おく)をゴロゴロやりはじめました。そして、あっというまに、くちばしをさげて、ニールスをつかんだかと思うと、やにわに、二メートルも空高くほうりあげました。しかも、この芸当(げいとう)を七回もくりかえすのです。ニールスは悲鳴(ひめい)をあげ、ガンたちはさけびました。
「何をしようっていうんです? エルメンさん。カエルじゃありませんよ! 人間ですよ! エルメンさん。」
 コウノトリは、やっとニールスをおろしてくれました。べつに、けがはさせませんでした。それから、コウノトリはアッカにむかって言いました。
「さて、わたしはグリンミンゲ城(じょう)へ帰るとします、アッカおばさん。わたしが出てくるときは、お城(しろ)に住んでるものはみんな心配しきっていました。だけど、ガンのアッカさんとチビ人間のオヤユビくんが助けにきてくれると聞かせてやったら、みんなはさぞかし喜ぶでしょう。」
 こう言うと、コウノトリはくびをのばして、はねをひろげました。そうして、弦(つる)をはなれた矢(や)のように、飛(と)んでいきました。アッカは、コウノトリがじぶんをバカにしているとはよく知っていましたが、そんなことはちっとも気にかけませんでした。アッカは、ニールスがコウノトリに振(ふ)りおとされた木靴(きぐつ)をさがしているあいだ、待っていました。それから、ニールスをじぶんのせなかにのせて、コウノトリのあとを追っていきました。ニールスはこんどはさからいませんでした。いっしょにいきたくないなどとは、ひとことも言いませんでした。いまはコウノトリにすっかり腹(はら)をたてているので、おとなしくせなかにのっかって、ほっとため息をついただけでした。それにしても、あの長い赤い足のコウノトリのやつは、こんなちっぽけな小僧(こぞう)はまるっきり役にはたたないだろうと、思いこんでいるのです。ニールスは、西ヴェンメンヘーイのニールス・ホルゲルッソンというのがどんな人間であるかを、はっきりと見せてやろうと思いました。
 コウノトリに二、三秒(びょう)おくれて、アッカもグリンミンゲ城(じょう)のコウノトリの巣(す)につきました。見れば、その巣は大きくて、りっぱなものです。車の輪(わ)が土台(どだい)になっていて、その上に枝や芝草(しばくさ)がたくさんおいてあります。けれども、この巣はとても古いので、そこにある草や木には根が生(は)えています。コウノトリのおかあさんが、巣のまんなかの低(ひく)いところにすわって卵をだいているときには、スコーネの美しい眺(なが)めをはるかに楽(たの)しめるばかりでなく、巣のまわりの野バラやイワレンゲの花もながめることができます。
 アッカとニールスは、ひとめで、ここではなにかたいへんなことが起ころうとしているんだということが、すぐわかりました。だって、そうでしょう。コウノトリの巣のふちには、灰色のフクロウが二羽(わ)と、灰色のしまのある年とったネコが一ぴきと、出(で)っ歯(ぱ)で、目のショボショボした老(お)いぼれネズミが十二ひきもいっしょにいるのですもの。これは、ふだんなら、とても仲よくしていられる動物たちではありませんからね。
 だれひとり、アッカのほうをふりむいて見ようともしなければ、あいさつしようとする者もありません。みんなはただじっとすわって、何もない冬の原の、あちこちに見える灰色の長い線を、ぼんやりと見つめているのです。
 黒ネズミたちはみんなだまりこくっていました。なんの望みもなくしているようすが、ありありと見えます。そして、たぶん、じぶんたちの命もこの城(しろ)もあぶないことを知っているのでしょう。二羽(わ)のフクロウは大きな目をグルグルやりながら、しょっちゅうまゆをピクピク動かしていました。そして、ぞっとするような声で、灰色ネズミのざんこくなことを話しあっていました。なにしろ、あいつたちは卵やヒナドリまでも許(ゆる)してはおかないということだから、どこかへ、ひっこさなくちゃなるまい、というのです。ネコはネコで、灰色ネズミがそんなにたくさんお城(しろ)に押し入ってくれば、きっとじぶんもかみ殺されるだろう、と思いこんでいます。それで、黒ネズミにむかって、ひっきりなしに文句(もんく)を言っています。
「どうしてきみらはそんなにバカなんだい? きみらの勇士(ゆうし)をよそへやっちゃうなんて! なんだってまた、灰色ネズミに気をゆるしたんだい? まったくかんべんならん!」
 けれども、十二ひきの黒ネズミは、なんとも言いません。コウノトリもこまりきってはいましたが、ちょいとネコをからかってみたくなりました。
「あんまり心配しなさんなよ、ネコくん!」と、コウノトリは言いました。「きみは、アッカおばさんとオヤユビくんがお城を救(すく)いに来てくれたのを知らないのかい? きっとうまくやってくれること、まちがいっこなしさ。さて、ぼくは眠(ねむ)るとしよう、ぐっすりとね。あした、目がさめたときには、もうお城(しろ)には灰色ネズミは一ぴきもいやしないさ。」
 コウノトリが巣(す)のはしに立って、片足をあげて眠ろうとしたとき、ニールスはコウノトリを突(つ)き落してやってくれと、アッカに目くばせしました。けれども、アッカはすこしも怒(おこ)っていないようすで、ニールスをなだめて、言いました。
「わたしぐらい年とってるものが、これっぱかしの災難(さいなん)でまいってたまるもんですか。あんたがたフクロウさんは、夜(よ)どおし起きていられるんですから、ちょっと二つほど用事を頼(たの)まれてくれませんか。そうすれば、なにもかもうまくゆくと思いますがね。」
 二羽のフクロウは、すぐに喜んで承知(しょうち)しました。そこで、アッカは、フクロウのだんなさんには、旅に出かけた黒ネズミたちをさがしだして、一刻(いっこく)も早く帰ってくるようにつたえてくれと、たのみました。いっぽう、フクロウのおくさんには、ルンド寺院(じいん)に住んでいるフランメアというフクロウのところへいってもらうことにしました。しかし、この用事はひじょうに秘密(ひみつ)を守らなければならないものでしたから、アッカはフクロウのおくさんの耳もとに、このことをそっとささやきました。

 真夜中(まよなか)ごろのことでした。灰色(はいいろ)ネズミたちは、あちこちさがしまわったすえに、とうとう地下室に通じている穴(あな)を見つけたのです。それは壁(かべ)のかなり上のほうについていました。けれども、ネズミたちは一ぴきずつ上へ上へと重(かさ)なって、そこまでよじのぼりました。やがて、中でもいちばん勇敢(ゆうかん)なネズミが一ぴき、その穴の中にとびこんで、いまにもグリンミンゲ城(じょう)の中へ突入(とつにゅう)しようとしました。ここでは、むかしから灰色ネズミの先祖(せんぞ)たちが、ずいぶん討死(うちじ)にしたものです。
 灰色ネズミ軍の勇士(ゆうし)はしばらく穴の中にじっとして、中から攻撃(こうげき)されるのを待ちかまえました。防衛軍(ぼうえいぐん)の主力がいないことはたしかですが、といって、るす部隊(ぶたい)が戦(たたか)いもしないで降参(こうさん)するとは考えられません。おどる心をおさえながら、勇士はほんのかすかな音も聞きのがすまいと、耳をすましました。しかし、あたりはシーンとしています。そこで、まっさきかける灰色ネズミは、勇気(ゆうき)をふるいおこして、ひえびえとした、まっくらな地下室におどりこみました。
 この勇士につづいて、灰色ネズミ軍はあとからあとから突進(とっしん)しました。みんなはじっと息をころして、黒ネズミ軍の伏兵(ふくへい)があらわれてくるのを、待ちうけていました。でも、そのうちに、身動きすることもできないほど、いっぱいになってしまいました。そこで、思いきって、またまた前進することにしました。
 灰色ネズミたちは、いままでこのお城(しろ)の中にはいったことはありませんでしたが、わけなく進路(しんろ)を見つけだしました。黒ネズミたちが一階にいくのに使っていた壁(かべ)の中の通路を、すぐに発見したのです。しかし、このせまい急な階段(かいだん)をよじのぼるまえに、またもやあたりに気をくばりました。灰色ネズミたちにとっては、外で戦(たたか)うときよりも、こうして黒ネズミたちがどこにかくれているかわからない今のほうが、ずっと気味(きみ)わるく思われました。ですから、ぶじに一階までいけたときには、じぶんたちの幸運(こううん)がまるで信じられないほどでした。
 一階に足をふみ入れると同時に、床(ゆか)の上に高く積(つ)んであった穀物(こくもつ)のにおいが、プーンとにおってきました。けれども、いまはまだこの戦利品(せんりひん)を楽(たの)しんでいるときではありません。それよりもまず、用心をしながら、うすぐらい、からっぽの部屋(へや)を、つぎからつぎへとしらべてまわりました。古い台所(だいどころ)の床のまんなかにあったかまどの上にもとびあがってみました。つぎの部屋では、もうすこしで井戸(いど)の中にころげ落ちそうになりました。小さな割(わ)れ目も、一つ一つしらべてみました。しかし、どこへいっても黒ネズミたちの姿は見えません。
 こうして、一階を全部占領(せんりょう)してしまいますと、こんどは二階のばんです。灰色ネズミ軍はまたもや壁(かべ)の中に、骨をおって危険(きけん)な進軍(しんぐん)をつづけました。そのあいだも、敵(てき)がいつあらわれるかと、ビクビクしながら、たえず息をころして待っていました。そして、穀物(こくもつ)のすばらしいにおいにさそわれそうになっても、がまんにがまんをして、規則(きそく)ただしく進軍しました。むかしの兵士たちの部屋や、石づくりのテーブルや、炉(ろ)や、窓(まど)の深くくぼんだところや、床(ゆか)の穴(あな)などをしらべてまわりました。この床の穴は、むかし攻め入ってきた敵兵(てきへい)の頭に、煮立(にた)ったチャンをかけるのに使ったものでした。
 けれども、黒ネズミの姿はどこにも見えません。そこで、灰色ネズミ軍は、ご城主(じょうしゅ)の大きな宴会場(えんかいじょう)のあった三階へと押し進みました。そこは、さむざむとして、がらんとしていました。古い家にはこうした部屋(へや)がよくあるものです。灰色ネズミ軍は、こんどはいちばん上の四階に突き進みました。四階は大きな、だだっぴろい広間(ひろま)になっていました。こうして、のこるところなくさがしまわりましたが、灰色ネズミたちが思いもつかず、つい、さがし忘れたところが一つだけありました。それは、屋根(やね)の上の大きなコウノトリの巣(す)です。そこでは、ちょうどこのころ、フクロウのおくさんがもどってきて、アッカをゆり起こしていました。そして、フクロウのフランメアがアッカの頼(たの)みをきいてくれて、アッカのほしい物をわたしてくれた、と言いました。
 さて、灰色ネズミたちは、お城の中を気がすむまでさがしましたので、すっかり安心しました。黒ネズミたちは手むかいするつもりはなく、みんなどこかへ逃(に)げてしまったものと思ったのです。そこで、気もはればれとして、いよいよ穀物(こくもつ)の山にとびつきました。
 ところが、灰色ネズミたちが小麦(こむぎ)を一つぶのみこんだかのみこまないうちに、中庭(なかにわ)のほうから、鋭(するど)い笛(ふえ)の音(ね)が、かすかにひびいてきました。と、ネズミたちは頭をあげて、気になるようすで、耳をすましました。そして、まるで穀物のところを離(はな)れようとでもするように、二(ふた)あし三あしチョロチョロと走りだしました。けれど、すぐまたかけもどってきて、小麦のつぶをたべはじめました。
 と、またもや笛(ふえ)の音(ね)が、鋭(するど)くしみ入るような調子(ちょうし)でひびいてきました。と、どうでしょう。ふしぎ、ふしぎ、一ぴき、二ひき、いいえ、すべてのネズミが、穀物の山からとびおりると、いちばんの近道をとって、お城の外へ出ようと、いっさんに地下室めがけてかけおりていくではありませんか。それでも、なかには思いとどまるネズミもずいぶんありました。このネズミたちは、あれほど苦労してグリンミンゲ城(じょう)を占領(せんりょう)したことを思いますと、そうやすやすとお城をすててしまうことができなかったのです。けれど、もう一ど笛の音を耳にしますと、たまらなくなって、みんなのあとを追いかけました。おおいそぎで穀物の山からとびおりて、壁(かべ)の中のせまい穴(あな)を、夢中(むちゅう)になって、ころがるようにかけぬけていきました。
 見れば、中庭のまんなかに、ちっぽけな小人(こびと)が立っていて、笛(ふえ)を吹いています。そのまわりをたくさんのネズミがとりまいて、笛の音(ね)にうっとりと聞きほれています。チビさんがほんのちょっと笛(ふえ)を吹くのをやめますと、たちまちネズミたちは、ちびさんにおどりかかって、いまにもかみ殺(ころ)しそうになります。でも、すぐまた吹きはじめますと、ネズミたちは、またもや、うっとりとなってしまいます。
 こうしてチビさんは、笛の音(ね)で灰色ネズミたちをグリンミンゲ城(じょう)の中からすっかりさそいだして、こんどはゆっくりと中庭から道路のほうへ歩いていきました。すると、灰色ネズミたちは一ぴきのこらず、そのあとをゾロゾロついていきます。笛の音がネズミたちの耳にあんまり気もちよく美しくひびきますので、思わずしらずついていくのでした。
 チビさんはネズミたちの先頭に立って、ヴァルビューへいく道のほうへさそいだしました。まがりくねった道を進み、生垣(いけがき)をぬけ、みぞを通って歩いていきます。すると、そのあとから、ネズミたちがゾロゾロついていくのです。チビさんは、一時(いっとき)も休まず笛(ふえ)を吹きつづけています。その笛は、それはそれは小さな動物の角(つの)でつくってあるようでした。でも、いまでは、こんな小さい角を生(は)やしている動物はどこにも見あたりません。それから、この笛はだれがつくったものなのか、知っている者もありません。この笛は、フクロウのフランメアが、ルンド寺院(じいん)の壁(かべ)のくぼんだところで見つけたものでした。フランメアは、それを大ガラスのバタキーに見せました。そして、ふたりは、むかし人間が、ネズミを手なずけるためにつくったものにちがいない、ということにきめてしまいました。ところで、この大ガラスはアッカとは仲よしでした。それでアッカは、フランメアがこういう宝物(たからもの)を持っていることを、まえから大ガラスに聞いていたのでした。
 フランメアとバタキーの想像(そうぞう)していたことは、ほんとうでした。たしかに、ネズミたちは、笛(ふえ)の音(ね)にすっかり心をうばわれてしまいました。ニールスは先頭(せんとう)に立って、お星さまが空に輝(かがや)いている間じゅう、その笛を吹きつづけました。そして、ネズミたちも、休まずそのあとを追っていきました。夜があけはじめてもニールスは笛を吹いていました。お日さまがのぼるころにも吹いていました。その間じゅう、ネズミたちのむれは、ニールスのあとからついていき、ネズミたちは、グリンミンゲ城の大きな穀物部屋(こくもつべや)から、だんだん遠くへ遠くへと、つれだされていきました。
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三月二十九日 水曜日
 スコーネには、りっぱなお城(しろ)がたくさんそびえたっています。けれども、むかしから名高いクッラベルイの山壁(やまかべ)にくらべられるような、すばらしい城壁(じょうへき)を持っているものは一つもありません。
 クッラベルイは高い大きな山ではありません。低くて、むしろ長くのびています。広いいただきには、森も畑(はたけ)もあります。またあちこちには、ヒースの生(は)えているところもあります。ここはとにかく美しくもなければ、人目をひくわけでもありません。見たところは、スコーネのほかの高地(こうち)とまったく同じです。
 山の峰(みね)づたいの道をやってきた人は、思わずしらずこう言います。
「この山は、うわさほどじゃないな。これといって見るところもないじゃないか。」
 けれども、その道からそれて、山のふちのほうへ歩いていき、そこからがけを見おろしますと、景色(けしき)のいいところがたくさんあって、すっかり見つくしてしまうのに、どのくらい時間がかかるか、わからないほどです。
 なぜかといえば、クッラベルイは、ほかの山のように、まわりを平地や谷にかこまれているのではなく、海の中へぐっと突(つ)きでているのです。山のすそには、荒(あ)らい海の波をふせいでくれるような陸地(りくち)は、これっぱかしもありません。海の波は、山壁(やまかべ)にまで押しよせて、それを洗いながし、すきなように形をかえてしまうのです。
 こういうわけで、山壁は、海とその友だちの風のために、まったくすばらしい飾(かざ)りをつけてもらっているのです。山腹(さんぷく)には深くほりこまれたけわしい谷があります。たえず風に吹きさらされて、つやのでた黒い岩も見えます。水の面(おもて)からまっすぐに突(つ)きでてる岩の柱(はしら)もあちこちにありますし、入口のせまい、暗い洞窟(どうくつ)も見えます。
 このようながけや岩には、いちめんに雑草(ざっそう)が生(は)えていて、つるや木の枝がまつわりついています。つまり、そこには木も生(は)えてはいるのですが、風の力がとても強いため、まるでつる草のようになって、やっとこのけわしい絶壁(ぜっぺき)にしがみついているのです。カシワの木は横にのびて地面を這(は)っています。その葉は、低(ひく)い天井(てんじょう)のように木の上におおいかぶさっています。せの低いブナの木は、大きな葉のテントのように、谷間に立っています。
 目の前にひろびろとした青い海がひろがり、頭の上には澄(す)みきったあかるい空をいただいている、このすばらしい山壁(やまかべ)には、夏の間じゅう、まいにち、見物の人びとがひっきりなしにたずねてきます。また、ここには、まい年、たくさんの動物たちが集まって、大運動会(だいうんどうかい)をひらきます。しかし、この土地がどうしてそんなに動物たちの心をひきつけるのか、ちょっとそれは説明できません。けれども、とにかくこれは大むかしからの習慣(しゅうかん)なのです。
 運動会がおこなわれるときには、シカやウサギやキツネをはじめ、ありとあらゆる四足(よつあし)のケモノが、人間に見つからないように、まえの晩(ばん)のうちに、そっとクッラベルイへやってきます。そして、お日さまののぼるまえに、みんなは運動会場へはいります。もっとも、運動会場というのは、道の左手にある、ヒースの生(は)えた荒地(あれち)のことです。そこは山のいちばんはずれからそんなに遠くはありません。
 運動会場は四方をまるい丘にかこまれています。ですから、人間がぐうぜんここまで迷(まよ)いこんでこないかぎり、動物たちはだれにも見つからないのです。それに、三月といえば、まず、ここまではいってくるような人はありません。秋の嵐(あらし)が吹いていらい、ここ数カ月、岩のあたりを歩きまわったり、山腹(さんぷく)をよじのぼったりする見物人の姿(すがた)は、ぱったりと見えなくなっているのです。それにまた、この岬(みさき)の燈台守(とうだいもり)や、山の畑(はたけ)のおばあさんや、お百姓(ひゃくしょう)さんや、その家族の人たちは、いつも歩きなれている道ばかりをいきますから、こんなさびしい荒野(あれの)にまで入りこんでくるようなことはありません。
 さて、ケモノたちは会場につきますと、さっそく、まるい丘の上にそれぞれ場所を占(し)めました。同じ種類のものどうしがいっしょにかたまっています。でも、もちろんこういう日には、よく平和が守られていて、どんな動物もほかの動物におそわれる心配はありません。ですから、この日には、小さなウサギがキツネたちのいる丘をぶらついても、長い耳をなくすというようなこともないわけです。それでも、動物たちは同じ仲間(なかま)のものだけで、ひとかたまりになっています。これまた、むかしからの習慣(しゅうかん)なのです。
 みんなは席(せき)につきますと、鳥たちはどこにいるかと見まわしました。ところで、この日はいつもお天気がいいのです。というのは、ツルは天気予報(てんきよほう)がたいへんじょうずでしたから。もしも雨がふりそうだと思えば、動物たちを呼び集めはしないでしょう。ところが、きょうは空も澄(す)みきって、遠くまで見わたせるというのに、鳥の姿はどこにも見えません。まったくおかしなことです。お日さまはもう空高くのぼっています。きっと、鳥たちはもうここへ向かっているのでしょう。
 見れば、平野の向こうから、小さな黒い雲がいくつか、ゆっくりと動いてきます。と、その雲の一つが、急にエーレ海峡(かいきょう)の岸にそって、クッラベルイのほうへ向かってきます。雲は運動場のま上まできたとき、とまりました。と、同時に、その雲ぜんたいが、さえずりはじめました。まるで、その雲は、鳴き声でできているようです。高くあがったり低くなったり、そのあいだもひっきりなしに鳴きつづけています。とうとう、その雲ぜんたいが、とつぜん一つの丘におりました。と、みるみるうちに、その丘は、灰色(はいいろ)のヒバリや、美しい赤みをおびた灰色のウソや、まだらのあるムクドリや、緑(みどり)をおびた黄色いヤマガラですっかりいっぱいになってしまいました。
 すぐまた、もう一つの雲が平野のむこうからやってきました。それはいろんなところに――百姓家(ひゃくしょうや)や、お城(しろ)や、町や、農場(のうじょう)や、停車場(ていしゃば)や、漁村(ぎょそん)や、精糖工場(せいとうこうじょう)などの上空にとまりました。そして、とまるたびに、地上からまいあがるほこりの柱(はしら)のようなものを吸(す)い入れました。こうして、その雲はだんだん大きくなりました。そしてさいごに、すっかりぜんぶをひき入れて、クッラベルイに向かったときには、もうこれは雲ではなくて、霧(きり)のようになっていました。しかも、その霧がこの上もなく大きいので、ヘーガネースからメルレまでのあいだの地面(じめん)を、その影ですっかりおおいかくしてしまったほどでした。それが運動場の上に来たときには、お日さまも見えなくなってしまいました。そして、お日さまがもう一どぼんやりと見えるようになったのは、一つの丘の上にしばらくのあいだ、スズメの雨がふってからのことでした。
 けれども、こういう鳥雲(とりぐも)の中でいちばん大きなのが、いまあらわれてきました。それは、あっちこっちから飛んできて、いっしょになった鳥のむれでできているのです。その雲は、暗い青みをおびた灰色で、お日さまの光も通しません。まるで嵐(あらし)の雲のように、うすきみわるく近づいてきます。そして、ものすごい音や、恐(おそ)ろしいさけび声や、ぞっとするような笑い声や、不吉(ふきつ)な鳴き声にみちみちています。とうとうこの雲が、たくさんのカラス族(ぞく)となって、羽(は)ばたき、鳴きさけびながら、雨のようにふりそそいできました。それを見て、運動場にいた動物たちは大よろこびでした。
 それから、空には雲の形をしたものばかりでなく、いろんな形をしたものもあらわれてきました。東と北東のほうには、まっすぐな点々の線が見えてきました。それはイエーインゲ地方の林に住む鳥でした。エゾヤマドリやエゾマツドリが、二メートルずつあいだをおいて、長い列(れつ)をつくって飛んできたのです。いままた、ファルステルブーの沖(おき)のモークレッペン島のあたりに住んでいる水鳥たちが、三角やら、長い曲線(きょくせん)やら、クサビ型(がた)やら、半円やら、さまざまの妙な形をして飛んできました。
 そして、ニールス・ホルゲルッソンが、ガンたちといっしょに旅(たび)をしてまわった年にも、動物大会がおこなわれました。このときには、アッカとそのむれとは、みんなよりもおくれて着(つ)きました。むりもありません。アッカがクッラベルイまでくるのには、スコーネじゅうを飛びこえてこなければならなかったからです。それに、アッカは目をさますと同時に、まずオヤユビくんをさがしに出かけたのです。そのオヤユビくんは、もう何時間も前に出かけていって、笛(ふえ)を吹きながら、灰色ネズミたちをグリンミンゲ城(じょう)からずっと遠くまでさそいだしていたのです。いっぽう、フクロウのだんなさんは、お日さまがのぼればすぐに、黒ネズミたちが帰ってくるという知らせを持って帰ってきました。ですから、もう笛(ふえ)を吹くのをやめて、灰色ネズミたちがどこへいこうとかってにさせておいても、すこしも危険(きけん)はないわけです。
 ところが、ニールスが灰色(はいいろ)ネズミたちの長い列(れつ)を従(したが)えて歩いているところを見つけたのは、アッカではなく、それはコウノトリのエルメンリークくんでした。エルメンリークもニールスをさがしに出かけていたのです。そして、ニールスの姿を見つけると、すばやく舞(ま)いおりて、くちばしでニールスをくわえるが早いか、すぐまた舞(ま)いあがりました。そして、コウノトリの巣(す)につれもどって、ゆうべはほんとに失礼(しつれい)しました、とあやまりました。
 こう言われて、ニールスは、とてもうれしくなりました。それから、ニールスとコウノトリは、すっかり仲(なか)よしになりました。アッカもニールスに、たいへんやさしくしました。そして、年とった頭をニールスの腕(うで)になんどもなんどもこすりつけて、こまっている者をよく助(たす)けてくれたと言って、ほめました。
 でも、ニールスはそんなにほめられたくはありません。それで、「ううん、アッカおばさん。ぼくが黒ネズミたちを助けようとして、灰色ネズミをさそいだしたなんて思っちゃいけませんよ。ぼくはただ、ぼくだって、なにかの役にたつってことを、エルメンリークくんに見せたかっただけなんですよ。」
 ニールスがこう言いおわると、アッカはすぐにコウノトリのほうをむいて、オヤユビくんをクッラベルイにいっしょにつれていったらどうだろう、とききました。そして、「オヤユビくんは、わたしたちの仲間(なかま)と同じように信頼(しんらい)できると思いますがね。」と、言いました。
 するとコウノトリは、たちどころに、ニールスをいっしょにつれていくように、熱心(ねっしん)にすすめました。
「アッカおばさん、オヤユビくんも、ぜひクッラベルイにつれていってやってください。」と、コウノトリは言いました。「オヤユビくんが、ゆうべぼくたちのために骨をおってくれたお礼(れい)をする、またとない機会(きかい)ですよ。それに、ぼくは、ゆうべオヤユビくんに失礼なことをしたのが残念(ざんねん)でたまりませんから、こんどはひとつ、会場まで、オヤユビくんをせなかにのせていってやりましょう。」
 こんなりこうで役にたつものたちからほめられることぐらい、うれしいことは、そうたくさんはないものです。ニールスは、ガンとコウノトリが、こんなふうにじぶんのことを話しているいまほど、うれしいと思ったことは、一どもありませんでした。
 こうして、ニールスはコウノトリのせなかにのって、クッラベルイへ向かいました。これはたいへんな名誉(めいよ)であるとは思いましたが、ひどく心配にもなりました。というのは、エルメンリークくんはすばらしい飛行家(ひこうか)で、ガンなどとはくらべものにならないほど、ものすごい早さで飛(と)ぶからです。アッカはたえず羽(は)ばたきながら、まっすぐに飛んでいくのに、コウノトリはいろんな芸当(げいとう)をやっては喜(よろこ)んでいるのです。ときには、ぐうんと高くあがったかとおもうと、じいっととまって、はねも動かさずに空中をただよいます。また、ときには、石みたいに、地上に落(お)っこちるかとおもわれるほどの早さで、さっと舞(ま)いおります。そうかとおもうと、つむじ風のように、大きな輪(わ)や小さな輪をえがいて、ゆかいそうにアッカのまわりをグルグルと飛(と)びまわります。ニールスはいままでにこんな飛びかたをしたことがありませんでした。それで、その間じゅうビクビクしていました。けれども、すばらしい飛びかたというものが、いまはじめてわかったような気がしました。
 クッラベルイに着(つ)くまで、一どしか休みませんでした。休んだのは、ヴォンブ湖(こ)に来たとき、アッカが仲間(なかま)のものたちに、灰色(はいいろ)ネズミに勝ったと知らせたときでした。それから、みんなはいっしょになって、クッラベルイをさしてまっすぐに飛んでいきました。
 やがて、みんなはガンたちの場所にきめられている丘の上におりました。さてそこで、ニールスがあたりの丘を見まわしますと、ある丘にはシカの角(つの)が見え、またある丘には灰色のアオサギのトサカが見えました。ある丘はキツネで赤くなっており、またある丘は海の鳥で黒く白く、またべつの丘はネズミで灰色になっていました。それから、ある丘には、ひっきりなしに鳴(な)きさけんでいる黒いカラスがむらがっていました。またある丘には、じっとしていられないで、空に飛びあがっては、喜びの歌をうたっているヒバリがいっぱいいました。
 クッラベルイ大運動会のいつもの習慣(しゅうかん)として、この日のプログラムは、まずカラスの飛行(ひこう)ダンスからはじまりました。カラスたちは二組(ふたくみ)にわかれて、たがいに両方から飛んでいって、ぶっつかっては、またもどる、そして、それをくりかえす、これがカラスのダンスです。カラスたちはこれをなんどもなんどもくりかえしました。このダンスになれていないものには、すこし変化(へんか)がなさすぎるように思われます。ところが、カラスはじぶんたちのダンスが大得意(だいとくい)です。見ているほかの動物たちは、このダンスが終(お)わったときには、ほっとしました。つまり、このダンスは、冬の強い風が一(ひと)ひら一ひらの雪をもてあそぶのに似(に)ていますが、なんとなく陰気(いんき)くさくて、おもしろみがありません。見ているほうがまいってしまいました。それでみんなは、もうすこしゆかいなものを見たいと思いました。
 けれど、待つまでもありませんでした。というのは、カラスのダンスが終わると、まもなくウサギたちがピョンピョンととびだしてきたからです。ウサギたちはながながと列(れつ)をつくって出てきました。しかし、とくにきまりがあるわけではありません。一ぴきだけのもあれば、三びき四ひきならんでいるのもあります。みんなあと足で立っていました。そして、とても早く走るので、長い耳がユラユラしました。ウサギたちは走りながら、ぐるぐるまわりをしたり、高く跳(は)ねあがったり、前足で、ポンポンとわき腹(ばら)をたたいたりしました。つづけざまにとんぼがえりを打つものもあれば、からだをまるめて、車の輪(わ)のようにころがるものもあります。そうかとおもうと、一本足で立って、グルグルまわるものもあれば、前足で歩くものもあります。こういうふうに、ちっともきまりはありませんが、たいへんおもしろいので、見ているたいていの動物たちは、ハッハッと息をしはじめました。いまはもう春です。やがて、喜(よろこ)びと楽(たの)しみとにみちあふれるのです。冬はすぎさりました。夏はもう近いのです。まもなく、生きていくのに、ただ遊(あそ)んでいるだけでよくなるのです!
 ウサギの遊戯(ゆうぎ)が終わりますと、こんどは大きな林の鳥のばんです。赤いまゆをした、輝(かがや)くばかりに黒い美しい姿のエゾマツドリたちが、運動場のまんなかに立っている大きなカシワの木をめがけて、何百羽も飛(と)びあがりました。いちばん上の枝にとまった一羽(わ)がはね毛をふくらませて、つばさをさげ、尾を持ちあげて、白い中のはねを見せました。それから、首をのばして、太いのどの奥(おく)から低(ひく)い声で、「チェック、チェック、チェック、」と、二、三ど歌いました。それから、目をとじて、「シス、シス、シス、――なんて美しい声なんでしょう!――シス、シス、シス、」と、ささやきました。そして、こう言うと同時に、すっかり夢中(むちゅう)になって、何がなんだかわからなくなってしまいました。
 いちばん上のエゾマツドリが、シス、シス、シスとやっているあいだに、すぐその下にいる三羽(ば)がいっしょになって歌いだしました。そして、みんなが歌いおわらないうちに、こんどは、そのまた下にいる十羽(ぱ)が、声をそろえて歌いはじめました。こうして、枝から枝へとつたわって、とうとう、いく百というエゾマツドリが、チェック、チェック、チェック、シス、シス、シス、と歌いだしました。そして、みんなは歌っているうちに、われを忘れてしまいました。すると、それがほかの動物たちにも、うつっていきました。いままでは、からだの中を血(ち)が気もちよく軽(かる)くまわっていましたが、いまははげしく熱(あつ)く流れはじめました。「うん、たしかに春だ。」と、動物たちはみんな思いました。「冬の寒(さむ)さはもうなくなってしまった。春のほのおが地上にもえているんだ。」
 エゾヤマドリたちは、こうしてエゾマツドリがみごとに成功(せいこう)したのを見ますと、じっとしてはいられなくなりました。ところが、もうとまる木は一本もありません。そこで、エゾヤマドリたちは運動場にバラバラととびだしました。けれども、そこはヒースがたいそう高く茂(しげ)っているため、エゾヤマドリの美しくまがった尾(お)ばねと太(ふと)いくちばしとがつきでて見えるばかりでした。そこでみんなは、「オル、オル、オル、」と歌いはじめました。
 こうして、エゾヤマドリがエゾマツドリと歌合戦(うたがっせん)をしているとき、思いがけないことが起こりました。動物たちはみんなエゾマツドリのほうに気をとられていました。そのあいだに、一ぴきのキツネがガンのいる丘にそっと忍(しの)びよったのです。キツネは足音をしのばせて、だれにも気づかれないうちに、丘まで来てしまいました。と、だしぬけに、一羽のガンがキツネの姿を見つけました。そして、キツネがよくない目的(もくてき)でやって来たのを見てとって、たちまち大声でさけびたてました。「ガンの諸君(しょくん)、気をつけたまえ、気をつけたまえ!」とたんに、キツネはそのガンののどもとに食(く)いつきました。きっと、だまらせようというのでしょう。しかし、そのときにはもう、ガンたちはさけび声を聞きつけて、いっせいに空に飛びあがってしまいました。ガンたちが飛びたったあとを見ますと、キツネのズルスケが死んだガンをくわえて、ガンの丘に立っていました。
 しかし、キツネのズルスケは、こうして運動会の日の平和をみだしたのですから、重(おも)い罰(ばつ)を受けることになりました。つまり、ズルスケは復讐心(ふくしゅうしん)をおさえることができないで、アッカとそのむれに、こんなふうにして近づこうとしたことを、これから一生のあいだ、後悔(こうかい)しなければならないのです。
 たちまち、ズルスケはキツネのむれに取りかこまれてしまいました。そして、むかしからの習慣(しゅうかん)に従って裁判(さいばん)をうけました。大運動会の日に平和をみだしたものは、追放(ついほう)されるのです。どのキツネも、刑(けい)を軽(かる)くしてやってくれとは言いません。そこで、だれからの反対もなく、追放の刑が言いわたされました。こうして、ズルスケはスコーネに住(す)むことを禁(きん)じられました。妻(つま)や子どもとも別(わか)れて、いままで持っていた猟場(りょうば)や、住居(すまい)や、隠(かく)れ場(ば)から立ちのくように言われました。いよいよ、よその国で幸福(こうふく)をさがさなければなりません。おまけに、ズルスケがこの地方から追いだされたことが、スコーネじゅうのキツネたちに一目(ひとめ)でわかるように、いちばん年上のキツネが、ズルスケの右の耳のはしをかみ切ってしまいました。これがすみますと、たちまち若いキツネたちは、血(ち)にくるったようにほえたてて、ズルスケめがけて突進(とっしん)しました。こうなっては、逃(に)げるよりほかありません。わかいキツネたちみんなに追いかけられて、ズルスケは、クッラベルイからいちもくさんに逃(に)げていきました。
 こんなできごとがもちあがっているあいだも、エゾヤマドリとエゾマツドリは歌合戦(うたがっせん)をつづけていました。みんなはあんまり夢中(むちゅう)になって歌っていたものですから、何も耳にもはいらなければ、目にもうつりませんでした。ですから、もちろん、このさわぎのためにじゃまされるようなこともありませんでした。
 林の鳥たちの歌合戦が終わりますと、ヘッケベリヤのシカたちが出てきて、すもうを見せるばんになりました。あっちでもこっちでも、一どにいく組ものすもうがはじまりました。シカたちは、もうれつにぶっつかっては、角(つの)と角とがからまるほどに、はげしく角を打ちあって、相手(あいて)を押(お)しもどそうとします。ヒースの茂(しげ)みは、ひずめにふみにじられました。シカの口からは、ハアハアと煙(けむり)のように息(いき)がはきだされます。のどの奥(おく)では、ものすごいうなり声をあげています。汗(あせ)があわのようになって、肩(かた)から流れ落ちています。
 このすもうのうまいシカたちがつかみあっているあいだ、まわりの丘の動物たちは、息をころして見まもっていました。こうして、見ているうちに、みんなの胸(むね)の中には新しい気もちがわいてきました。だれもが、勇気(ゆうき)にみちて、強くなったように感じ、春のおとずれといっしょに、もう一ど力がわいてきたように感じました。そして、いまはどんな冒険(ぼうけん)でもやってみようという気になりました。たがいに敵意(てきい)をいだいたわけではありませんが、おもわずしらず、はねがあがり、くびの毛が立ち、爪(つめ)が鋭(するど)くなりました。ですから、もしもヘッケベリヤのシカたちが、もうすこしすもうをつづけていたとしたら、丘の上でもはげしい争(あらそ)いがはじまったかもしれません。というのは、みんながみんな、冬のあいだの弱々(よわよわ)しさは消(き)えてしまって、からだじゅうに力があふれ、元気いっぱいになったことを、見せたくてたまらなくなったからです。
 しかし、ちょうどそのとき、シカたちはすもうをやめました。とたんに、「ツルが来た、ツルが来た!」というささやきが、丘から丘へとつたわっていきました。
 見れば、頭に赤毛の飾(かざ)りをつけ、つばさに美しいはね毛のある、灰色(はいいろ)の黒(くろ)っぽい姿(すがた)をした鳥が、飛んできます。足の長い、首のほっそりとした、頭の小さいその鳥は、いかにも優(やさ)しく丘にすべりおりてきました。そして、なかば飛び、なかば踊(おど)りながら、ぐるぐるまわって、進みでてきました。はねを上品(じょうひん)にあげて、目にもとまらない早さで動いています。その踊りには、まことにふしぎな、ひとの心をうっとりとさせるようなものがあります。まるで、ひとの目では、はっきりと見ることのできない灰色の影(かげ)が、踊っているのではないかと思われます。その踊りは、人里はなれた沼(ぬま)の上にただよう霧(きり)から教(おそ)わってきたのではないかと思われます。そこには、この世のものではないふしぎな力が宿(やど)っています。これまでクッラベルイに来たことのないものは、この運動会(うんどうかい)ぜんたいがどうして「ツルの舞踏会(ぶとうかい)」と呼ばれているかが、いまはじめてわかりました。ツルの踊りには、なにか、あらあらしいところがありましたが、それでいて、それがひとの心に呼びおこす気もちは、やさしいあこがれなのです。だれももう争(あらそ)うことは考えなくなりました。いまは、はねのあるものもはねのないものも、みんながみんな、空高く雲の上までのぼって、そこには何があるかを見たいと思いました。自分たちを地上にひきとめておく、この重(おも)くるしいからだをすてて、遠いむこうの世界へとただよっていきたいと思うのでした。
 遠いむこうの世界、いくことのできない、ふしぎな世界へのあこがれを、動物たちがいだくのは、年にただ一どだけでした。しかもそれは、このすばらしいツルの踊(おど)りをながめる、ただこの日一日だけでした。
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 旅(たび)にでてから、はじめての雨の日でした。ガンたちがヴォンブ湖のあたりにいたあいだは、お天気がよかったのですが、北に向かって旅だった日に、雨がふりだしました。そのため、ニールスはびしょぬれになって、寒(さむ)さにふるえながら、ガチョウのせなかにのっていました。
 朝、みんなが出かけたころには、まだ晴れていて、おだやかなお天気でした。ガンたちは空高く舞(ま)いあがると、アッカを先頭に、規則ただしく、ゆうゆうと、くさび型(がた)になって飛(と)んでいきました。地上に動物たちを見かけても、からかっているひまはありません。それでも、だまってばかりはいられないので、羽(は)ばたきに調子(ちょうし)をあわせて、いつものように、「きみはどこだい? ぼくはここだよ! きみはどこだい? ぼくはここだよ!」と、さそいかけるように、ひっきりなしにさけんでいました。
 みんなはこうさけびつづけていましたが、ときどき鳴くのをやめては、下に見える土地の名まえをガチョウに教えてやりました。こんどの旅(たび)では、リンデレード山脈(さんみゃく)の荒(あ)れはてた山肌(やまはだ)や、オーヴェスホルム荘園(しょうえん)や、クリスチャンスタッドの教会の塔(とう)や、ベッカ森の王家(おうけ)の領地(りょうち)や、オップマンナ湖とヴェー湖のあいだのせまい岬(みさき)や、リユース山のけわしいがけの上を飛びました。
 ほんとうに、あきあきするような旅でした。ですから、雨雲(あまぐも)があらわれてきたときには、ニールスは、かえって変わったことがあっていいだろうと思いました。いままで、下からだけ見たときには、雨雲は灰色(はいいろ)でうっとうしいものに思われました。それが、いまこうして雲のあいだに来てみますと、まるでちがったふうに見えました。雲は、ちょうど荷物を山のようにつんで空を走っている、大きな馬車のようです。そして、ある車は、大きな灰色の袋(ふくろ)をつんでいます。ある車はたるをいっぱいつんでいます。また、ほかの車は、とても大きくて、一つの湖(みずうみ)ぜんたいをのっけることができるくらいです。そうしてまた、ある車は桶(おけ)やびんをものすごく高くつみあげています。こうして、空をうずめつくすほどのたくさんの馬車が走っていったあとから、だれかがその馬車に向かって合図(あいず)でもしたのでしょうか。みるみる桶やたるやびんや袋から、水が地上にザアザアと落ちはじめました。
 春の雨がはじめて地上にふってきますと、森や草原にいる小鳥たちは、大よろこびでさえずりはじめました。そしてその声が、空じゅうにひびきわたりましたので、ニールスは、ガチョウのせなかでびっくりして跳(は)ねあがりました。
「ああ、雨がふってきた。雨は、ぼくたちに春をつれてきてくれる。春は、花と青い葉っぱをくれる。花と青い葉っぱは虫をくれる。虫はたべものをくれる。いいたべものがたくさんあるのは、一ばんすてきだ!」と、小鳥たちは歌いました。
 ガンたちも、長い冬のあいだ眠っていた、木や草たちの目をさましてやり、湖(みずうみ)の上の氷に穴(あな)をあける春の雨がうれしかったのです。そこでもう、まじめくさってはいられなくなって、あたりいちめんに楽しいさけび声をあげはじめました。
 クリスチャンスタッドのあたりの大きなジャガイモ畑(ばたけ)――まだ黒(くろ)ぐろと、地肌(じはだ)を見せていました――の上を飛んだとき、ガンたちはさけびました。
「さあ、目をさまして、働くんだよ! おまえたちの目をさます春はもう来ているんだよ。おまえたちは、もう、じゅうぶん長いことなまけていたんだから。」
 ガンたちは、人間がいそいで軒下(のきした)にかけこむのを見ますと、こう教えてやりました。
「あんたたちはどうしてそんなにあわてているの? 雨は、パンやお菓子(かし)じゃないの。それがわからないの?」
 大きなモクモクした雲が、ガンのむれのあとを追っかけて、北のほうへズンズン動いていきます。ガンは、じぶんたちがその雲をひっぱっているのだと思いこんでいるのでしょう。なぜなら、下のほうに大きな果樹園(かじゅえん)が見えたとき、いかにも自慢(じまん)そうにこうさけびました。
「ぼくらはアネモネといっしょに来たよ。バラといっしょに来たよ。リンゴの花といっしょに来たよ。サクラのつぼみといっしょに来たよ。エンドウや、ソラマメや、カブや、タマナの花といっしょに来たよ。ほしい者には、あげよう。ほしい者には、あげよう。」
 はじめてのにわか雨がふりしきっているあいだ、ガンたちはこうさけんでいました。あらゆるものがこの雨を喜(よろこ)んでいました。けれども、この雨は、午後のあいだもずっとふりつづいていましたので、ガンたちはいらいらしてきました。そして、ヴェー湖(こ)のまわりの、からからにかわいている森に向かってさけびました。
「きみたちはもっと、ふれっていうのかい? きみたちはもっと、ふれっていうのかい?」
 空はますます灰色(はいいろ)になってきました。お日さまはすっかり姿をかくしてしまって、どこにあるのかもわかりません。雨はだんだんひどくなって、ガンたちのはねをはげしく打ちます。だんだん、油(あぶら)をぬった外のはね毛のあいだから、皮膚(ひふ)にまでしみこんできました。地上は霧(きり)につつまれて、湖も山も森もぼんやりかすんでいます。どこを飛んでいるのか、けんとうもつきません。飛ぶ速さも、だんだんおそくなってきました。もう、だれも楽しそうなさけび声をたてようとはしません。ニールスはだんだん寒くなってきました。
 でも、空を飛んでいるあいだは、元気がありました。そして、午後おそく、大きな沼地(ぬまち)のまんなかに生(は)えている小さなマツの木の下におりたときにも、まだ元気をなくしてはいませんでした。おりたところは、いちめんに、ぐしゃぐしゃしていて、つめたく、ある丘は雪をかぶり、またある丘は氷がとけかかった水たまりの中に、はだかで立っていました。ニールスはそのあたりをかけまわって、ツルコケモモや凍(こお)ったコケモモをさがしました。そのうちに、夕方になりました。くらやみがあたりをつつんで、何も見えなくなりました。すると、何もかもが妙(みょう)にきみわるく、恐(おそ)ろしく見えてきました。ニールスはガチョウのはねの下にもぐりこみましたが、寒いのと、からだじゅうがびしょぬれなのとで、眠ることができませんでした。おまけに、あたりにはサラサラ、ガサガサと、だれかがそっと歩くような足音や、おびやかすような声が聞こえますので、恐ろしくてたまりません。もし、このままで、こごえ死にたくなかったら、どこかあたたかい火とあかるい光のあるところへいかなければなりません。
「こんや一晩(ひとばん)だけ、人間のところへいったらどうだろう?」と、ニールスは思いました。「そうして、ちょっとのあいだ火のそばにすわらせてもらって、たべものをほんのすこしもらうんだ。そうしたって、お日さまののぼるまえに、ガンたちのところへ帰ってこられるだろう。」
 ニールスは、はねの下から這(は)いだして、地面(じめん)にすべりおりました。ガチョウもガンたちも、目をさましませんでした。それから、ニールスは、足音をしのばせて、だれにも気づかれずに、沼地をとおっていきました。
 それにしても、ここはいったいどこなのでしょう? スコーネでしょうか、スモーランドでしょうか、それともブレーキンゲでしょうか。
 さっき、沼地(ぬまち)におりるまえに、大きな町がチラッと見えました。そこで、ニールスはそっちのほうへ歩いていきました。すると、すぐに道が見つかりました。そして、まもなく、並木(なみき)のある長い村道にでました。その両がわには、農家(のうか)がいくつもいくつもならんでいます。
 ニールスはある大きな村にでました。高い土地にはよくありますが、平地ではめったに見られない村です。
 家々は木造(もくぞう)でしたが、たいへんきれいに建ててありました。たいていの家には飾(かざ)りのついた破風(はふ)があり、色ガラスのはまっているヴェランダも見えました。壁(かべ)はあかるいペンキでぬってありました。戸や窓(まど)わくは青や緑にかがやいていました。また赤くかがやいているのも見えました。ニールスがそのあたりを歩きまわって、家々をながめていますと、あたたかい部屋(へや)の中から人々の話し声が聞こえてきました。話していることはわかりませんでしたが、人間の声を聞くのは、たまらなくなつかしく思われました。「ぼくが戸をたたいて、中へ入れてくださいと言ったら、みんなはなんて言うだろう?」と、ニールスは考えました。
 もちろん、ニールスはそうしようと思ってやってきたのです。こうして、いまあかるい窓を見ていますと、くらやみをこわがる気もちはなくなってしまいました。でも、そのかわり、人間のそばに近づくとき、いつも感じるあのこわいような気もちが、またまた、起(お)こってくるのでした。「中へ入れてもらって、たべものをくださいって言うまえに、もうすこしこの村を見ておこう。」と、ニールスは思いました。
 とある家の前をとおりかかったとき、露台(ろだい)の戸が開いて、黄色い光が、すきとおった軽(かる)いカーテンをとおして流れでてきました。そして、ひとりの美しい若い女のひとが出てきて、手すりによりかかりました。「雨だわ。もうすぐ春ね。」と、そのひとは言いました。ニールスはそのひとの姿を見たとき、なんともいえないふしぎな気もちになりました。なんだか泣きたいような気がしてきました。じぶんは、人間の世界からすっかり遠くはなれてしまっているのです。ニールスは、いまはじめて心ぼそくなりました。
 それからまもなく、ある店の前に来ました。店の前には、赤い種(たね)まき機械(きかい)がおいてありました。ニールスは立ちどまって、それをながめていましたが、とうとうその上にはいあがりました。運転台(うんてんだい)にすわって、舌打(したう)ちをしながら、それを動かすようなかっこうをしました。そして心の中では、こんなすばらしい機械で畑(はたけ)がのりまわせたら、すてきなんだがなあ、と思いました。
 ニールスは、ちょっとのあいだ、いまのじぶんを忘れていました。けれど、すぐまた思いだして、いそいで機械からとびおりました。そうすると、不安な気もちはますますつのってきました。じっさい、動物のあいだにくらしてみたあとでは、人間というものは、まったくふしぎで、りこうなものでした。
 そのうちに、郵便局(ゆうびんきょく)のそばをとおりかかりました。すると、世界じゅうの新しいできごとをまいにち知らせてくれる新聞のことを思いだしました。薬屋(くすりや)さんとお医者(いしゃ)さんの家を見たときには、人間は病気や死と戦(たたか)うことができるほど、大きな力を持っていることを思ってみました。それから、教会の前に来ました。すると、人間が、いま住んでいる世界とはちがった世界のことについて、神さまとか復活(ふっかつ)とか永遠(えいえん)のいのちとかいうことについて、教(おし)えを聞くために、こんな教会をたてたのだということを思ってみました。
 こうして、先へいけばいくほど、人間がすきになってきました。
 子どもというものは、すぐ目の前のことしか考えません。そして、一ばん近くにあるものをほしがって、そのためにどんなことになるか考えもしないのです。このニールス・ホルゲルッソンが小人(こびと)のままでいたいと願ったときにも、じぶんが、どんなにたいせつなものを、なくすことになるか、わからなかったのです。でも、いまでは、もとのちゃんとした人間の姿にもどれないのではないかということが、心配で心配でたまらなくなりました。
 だけど、人間にもどるのには、いったいどうしたらいいのでしょう? ニールスはそれを知りたくてたまりませんでした。
 ニールスは、ある家の段々(だんだん)に這(は)いあがって、ふりしきる雨の中に腰(こし)をおろして、物思いにふけりました。一時間も、二時間もすわりこんで、考えていました。ひたいにしわをよせて。でも、ちっともいい考えは浮かんできません。ただいろんな考えが、頭の中でグルグルまわっているような気がします。そして、そこにすわりこんでいればいるほど、ますます、どうしていいかわからなくなりました。
「ぼくみたいに、すこししか勉強(べんきょう)しなかったものには、むずかしすぎるんだ。」ニールスはとうとう、こうきめました。「とにかく、人間にならなけりゃならない。そのためには、牧師(ぼくし)さんとか、お医者(いしゃ)さんとか、先生とか、そのほか、学問があって、こういうことの治(なお)しかたを知っている人にきかなくちゃだめだ。」
 ニールスはすぐにそうしようと決心しました。そして、立ちあがって、ブルッとからだを振(ふ)りました。だって、からだじゅう水たまりにはいった犬のように、びしょぬれになっていたのですから。
 ちょうどそのとき、大きなフクロウが一羽(わ)飛んできて、道ばたの木にとまりました。それを見ると、すぐに、この家の蛇腹(じゃばら)にとまっていた森のフクロウが話しかけました。
「チーヴィット、チーヴィット、沼(ぬま)フクロウさん、お帰りですか? 外国はいかがでした?」
「ありがとう、森フクロウさん、たいへん楽(たの)しかったですよ。」と、沼フクロウは言いました。「ところで、わたしのるすちゅうに、何か変わったことがありましたか?」
「このブレーキンゲでは、なんにもありませんでした、沼フクロウさん。でも、スコーネでは、とってもめずらしいことがあったんですって。ひとりの男の子が、小リスぐらいしかない小人(こびと)にされてしまいましてね、それからは、ガチョウにのって、ラプランドへ旅をしにいったという話ですよ。」
「そりゃ、めずらしいニュースですね、ほんとにめずらしいニュースですね。その子はもう人間にはなれないでしょう? 森フクロウさん。ねえ、もう人間にはなれないでしょう?」
「これはほんとうは秘密(ひみつ)なんですがね、沼フクロウさん、でも、あなたのことですから、お話しするんですよ。小人が言うのには、もしその子がガチョウのせわをよくしてやって、ガチョウが、ぶじに帰れれば――――」
「で、それから? 森フクロウさん、そして、それからどうなんです?」
「あたしといっしょに教会の塔(とう)までいらっしゃいな。そしたら、すっかりお話ししてあげますよ。ここだと、下の道でだれか聞いているかもしれませんもの。」
 それから、二羽(わ)のフクロウは飛(と)んでいきました。でも、ニールスはうれしくなって、帽子(ぼうし)を空にほうりあげました。
「ガチョウがぶじに家に帰れるように、ぼくがよくせわをしてやりさえすれば、また人間になれるんだ。ばんざい! ばんざい! また人間になれるんだ!」
 ニールスは、ばんざい! ばんざい! とさけびましたが、ふしぎにも家の中の人たちには聞こえませんでした。ニールスはできるだけいそいで、ぬれた沼地(ぬまち)にいるガンのむれのところへもどってゆきました。
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 つぎの日に、ガンのむれは、スモーランドのアルブー地方をとおって、北へ旅行(りょこう)しようと思いました。そこで、そのまえに、仲間(なかま)のユクシとカクシをやって、その地方のようすを見させました。ふたりは帰ってくると、水はすっかり凍(こお)っていて、地面も見わたすかぎり雪でおおわれていると知らせました。
「それじゃ、ここにいるほうがいい。」と、ガンたちは言いました。「水もたべものもないところなんか飛んでゆけやしない。」
「もしここにいるとすれば、一月(ひとつき)も待たなくちゃならないだろうよ。」と、アッカは言いました。「だから、ブレーキンゲをとおって、東へ進むほうがいいと思うね。そうして、メーレ地方をとおってスモーランドへいけるかどうか、見きわめるほうがいいだろう。メーレ地方は海岸近くにあって、早く春になるからね。」
 こういうわけで、ニールスはあくる日、ブレーキンゲの上を飛(と)びました。いまはすっかりあかるくなっていましたので、ニールスの気もちもはればれとしていました。そして、ゆうべのことなんか、まるで忘れてしまいました。もちろんいまは、ラプランドへの旅(たび)と、のびのびした野外(やがい)の生活をやめようとは思いませんでした。
 ブレーキンゲのあたりには、こい霧(きり)がたちこめていました。そのため、下のようすはすこしもわかりませんでした。「ここはよい土地(とち)なんだろうか? それとも、よくない土地なんだろうか?」と、ニールスは思いました。そして、学校で習(なら)ったことを、一生けんめい思いだそうとしました。でも、勉強(べんきょう)をちゃんとしたことがないのですから、思いだせるはずがありません。
 そのとき、急に、学校が、目の前にありありと見えてきました。ほかの生徒たちは小さなイスに腰(こし)かけて、みんな手をあげています。先生は教壇(きょうだん)にすわって、不満(ふまん)そうな顔をしています。ニールスは地図の前に立って、ブレーキンゲについて先生からきかれたことに答えなければならないのです。でも、ひとことも言うことができません。先生の顔はだんだんくもってきました。先生はほかの学科よりも、地理(ちり)のことをやかましく言うようです。そのとき、先生は教壇(きょうだん)からおりてきて、ニールスの手から棒(ぼう)を取りあげると、ニールスを席(せき)にかえしました。「こいつはまずいぞ。」と、ニールスは心の中で思いました。
 しかし、先生は窓(まど)のそばへ歩みよって、しばらく外をながめていました。そうして、きげんのいいときのいつものくせで、そっと口笛(くちぶえ)を吹きはじめました。それからまた、教壇にもどって、ブレーキンゲについてみんなにすこし話してやりたいことがあると言いました。
 そして、先生は話しだしました。それはたいへんおもしろい話でしたので、このときばかりはニールスもよく聞いていました。それで、先生の言ったひとこと、ひとことまでが思いだせるのでした。
「スモーランドは、屋根(やね)にエゾマツの生(は)えている高い家のようなものです。この家の前には広い階段(かいだん)があって、それには三つの段々がついています。この階段にあたるところをブレーキンゲと言っているのです。
 この階段はたいそうよくできています。それはスモーランド家(け)の前面にそって、八マイルほどのびています。そして、この階段をとおってバルト海までいこうとする人は、四マイルばかり歩かなければなりません。
 この階段がつくられたのは、ずいぶん、むかしのことです。そして、スモーランドとバルト海とのあいだに、便利(べんり)な道をひらくため、この階段がたいらに、なめらかにされてからも、長い年月がたっているのです。
 階段はこんなに古いのですから、いまではそれが新しかったときのように見えなくても、すこしもふしぎではありません。わたしは、そのころの人たちが、この階段のことにどのくらい気をつかっていたかは知りませんが、とにかくこんなに大きくては、それをきれいにしておくことはできなかったのです。ですから、二年ばかりたちますと、そこにはコケ類(るい)が生(は)えてきました。秋には枯(か)れ葉(は)や枯れ草が落ちかかり、春にはくずれ落ちた石やじゃりがたまりました。そうして、こういうものがみんなそこにそのままになっていましたから、しまいには階段の上に土がたくさんたまってしまいました。そして、草ばかりでなく、やがては大きなやぶや木々までも根を生(は)やすようになりました。
 けれども、それといっしょに、三つの段々のあいだには大きなちがいができてしまいました。スモーランド家(け)のすぐ近くにある、いちばん上の段は、だいぶぶんが、やせた土地で、小石がいちめんにちらばっています。そこに育(そだ)つ木といえば、わずかに、シラカバやカンバやエゾマツぐらいのものです。こういう木は、高い土地の寒(さむ)さにもたえ、わずかの土地でもがまんできるのです。そこがどんなに貧弱(ひんじゃく)で、やせた土地であるかは、森のあいだに切りひらかれている畑(はたけ)がごくすくなく、そこに立っている家もひどくちっぽけで、教会と教会とのあいだもずいぶんはなれているのを見れば、よくわかります。
 けれど、まんなかの段になりますと、さっきよりは土地もよくなって、寒さもそれほどではなくなります。それは、一ばん上の段よりも、高くて質(しつ)のいい木々が生(は)えているところからも、すぐにわかります。そこには、カエデや、カシワや、ボダイジュや、シダレカバや、ハシバミなどが生(は)えています。しかし、針葉樹(しんようじゅ)はありません。さらに畑地(はたち)がたくさんあるのと、大きな美しい家々がたっているのが目につきます。それから、ここには教会もたくさんありますし、そのまわりには大きな村もあります。どこから見ても、いちばん上の段よりは、美しくていいようです。
 でも、なんといっても、いちばんいいのは、いちばん下の段です。そこは、ゆたかなよい土地にめぐまれていて、海につづいているところなどでは、スモーランドほど寒くはありません。ここにはブナの木や、クリの木や、クルミの木が生(は)えています。しかも、教会の屋根よりも高くおい茂(しげ)っているのです。それから、たいへん大きな穀物畑(こくもつばたけ)も見られます。けれども、人々はただ畑をたがやしたり、材木(ざいもく)を売ったりして暮(く)らしているばかりでなく、漁業(ぎょぎょう)や商業(しょうぎょう)や、海運業(かいうんぎょう)もやっています。ですから、ここには、すばらしい邸(やしき)や、りっぱな教会もあります。そして、大きな村や町も見うけられます。
 しかし、三つの段々についての話は、これでおしまいになったのではありません。というのは、この大きなスモーランド家(け)の屋根に雨がふったり、そこにつもっている雪がとけたりするようなときには、水はどこかへ流れてゆかねばならないということも、考えてみなければならないからです。そういうときには、もちろん、たくさんの水がこの階段の上に流れおちたわけです。さいしょは、たぶん、階段じゅうを流れていたものでしょう。そのうちに、そこに割(わ)れ目ができました。そうして、だんだんにうまくみぞをつくって、その中を流れるようになりました。そして、水はなんといってもやっぱり水です。いっときも休んではおりません。あるところでは穴(あな)を掘(ほ)って、消えてゆきますし、また、あるところではもっとたくさんにふえます。やがてみぞは谷になって、谷の壁(かべ)には土がいっぱいかぶさります。それから、そこには、小さい木や、つる草や木々が生(は)えてきて、やがてそれがこんもりと茂って、ついには下を流れる水の流れをかくすばかりになってしまいます。けれども、流れが段と段との間のところにきますと、とうとうと流れ落ちます。そのため、あわ立つ激流(げきりゅう)になるので、水車やいろんな機械(きかい)を動かす力をもつようになるのです。こうして、水車小屋や工場はどの滝(たき)のまわりにもつくられたのです。
 けれども、三つの段々のある土地の話は、これですっかり終(お)わったわけではありません。もう一つ言っておきたいことがあります。むかし、この大きなスモーランド家(け)には、年とったひとりの巨人(きょじん)が住んでいました。巨人はたいそう年をとっていたので、わざわざ高い階段をおりて、海までサケをとりにいかなければならないのが、ひどくめんどうでした。それで、じぶんの住んでいるところまで、サケがのぼってきてくれれば、たいへんありがたいと思いました。
 そこで、その大きな家の屋根にのぼって、大きな石をバルト海めがけていくつも投げました。力いっぱい投げましたので、石はぐんぐん飛んで、ブレーキンゲをこえて、海の中へ落(お)っこちました。サケのほうでは、石が落ちてきたのにびっくりして、海からとびだし、ブレーキンゲのほうへ逃(に)げていきました。そして、急流をさかのぼり、滝(たき)をとびこえて、ひと休みもせずに、年とった巨人(きょじん)のいるスモーランドまでのぼっていきました。
 この話がみんなほんとうだということは、ブレーキンゲの海岸にそって見えるたくさんの島や大きな岩を見れば、よくわかります。その島や岩は、巨人が投げたたくさんの大きな石にまちがいないのですからね。
 それにまた、じっさい、サケは、たえずブレーキンゲの流れをさかのぼり、滝をとびこえ、静かな流れを泳いで、スモーランドまでやってくるのです。
 ですから、この巨人(きょじん)は、ブレーキンゲの人たちから大いに感謝(かんしゃ)され、尊敬(そんけい)されてもいいわけです。なぜなら、この流れでサケをとり、島々から石を切りだすことが、むかしからいままで、ずっと、この地方の人々が生きるためのしごとになっているのですから。
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四月一日 土曜日
 キツネのズルスケにしてもガンたちにしても、おたがいにスコーネをはなれてから、また出会うことがあろうとは、夢(ゆめ)にも思っていませんでした。ところが、ガンたちがブレーキンゲに向かって飛んでいきますと、ぐうぜん、ズルスケもそこへいっていました。
 いままで、ズルスケはこの地方の北部にいましたが、りっぱな荘園(しょうえん)も、うまいえもののいっぱいいる猟場(りょうば)も見つからないので、すっかり、きげんをわるくしていました。
 ある日の午後、ズルスケがロンネビュー川からあまり遠くない、さびしい森の中をうろついていますと、ガンのむれが空を飛んでいるのが見えました。見ると、中に一羽(わ)白いのがまじっています。ズルスケは、ハハア、あいつたちだな、と思いました。
 そこで、ズルスケはすぐさまガン狩(が)りをはじめました。うまいごちそうにありつけるという楽(たの)しみもありますが、もう一つには、いままでさんざんやっつけられたその怨(うら)みをはらそうというのです。見ていると、ガンたちは東に向かって、ロンネビュー川のほうへ飛んできました。そして、そこでむきをかえて、川にそって南のほうへ飛んでいきました。ガンたちは川岸に寝場所(ねばしょ)をさがしているのです。このようすだと、わけなく二、三羽(ば)ぐらいつかまえられるでしょう。
 ズルスケは、やっとガンたちのいるところをさがしあてましたが、そこは安全この上もない場所で、とうてい近よることができません。
 ロンネビュー川は大きな流れではありませんが、川岸(かわぎし)が美しいことで有名です。ときには、水の中からまっすぐに突(つ)き立っている、けわしい絶壁(ぜっぺき)のあいだをはげしく流れていきます。そのあたりには、スイカズラや、サンザシや、ハンノキや、ナナカマドや、ヤナギがいちめんに生(は)えています。美しい夏の日に、この小さなうすぐらい川に船を浮べて、ごつごつした山壁(やまかべ)にすがりついている緑(みどり)をながめるのは、まことに気もちのよいものです。
 けれども、ガンやズルスケがこの川のところにやってきたときは、まだうすら寒(さむ)い風の吹く、春の早いころでした。木という木はみんな、はだかでした。ですから、おそらくいまでは、この川岸が美しいだろうかどうだろう、などと思って見る人はないでしょう。
 ガンたちは、運(うん)よく、けわしい絶壁(ぜっぺき)の下に、みんながいられるくらいの砂地(すなじ)を見つけました。前には川がゴウゴウと流れています。雪がとけるいまごろは、水がふえて、すさまじい勢(いきお)いで流れているのです。うしろには、とてもとおることのできない岸壁(がんぺき)があって、その上には木の枝がおおいかぶさっています。これ以上のかくれ場所はありません。
 ガンたちはすぐに寝つきましたが、ニールスはちっとも眠ることができません。お日さまが沈みますと、くらやみと荒地(あれち)のおそろしさにたまらなくなって、人間がこいしくなってきました。ニールスはガチョウのはねの下にもぐりこんでいるのですから、何ひとつ見えません。ただ、物音がすこし聞こえるばかりです。これでは、ガチョウの身になにかわざわいがふりかかっても、とうてい助けてやれそうもありません。ガサガサいう音が、あっちからもこっちからも聞こえてきます。ニールスはすっかりきみわるくなって、とうとうはねの下から這(は)いだしました。そして、ガチョウのそばにすわりました。
 ズルスケは山の頂(いただ)きに立って、ガンたちを見おろしました。
「いまのうちに、追(お)いかけるのはあきらめたほうがいいかな。」と、ズルスケはひとりごとを言いました。「おれには、あんなけわしい山をおりることもできないし、あんなはげしい流れを泳ぐこともできない。それに、山の下には、ガンのねているところへいけそうな道はありゃしない。まったく、りこうなやつらだ。骨おって、追っかけるのは、もうやめだ。」
 けれども、ズルスケも、ほかのキツネと同じことで、一どやろうと考えた事を、とちゅうであきらめることはなかなかできませんでした。そこで、山のはずれにすわりこんで、ガンからいっときも目をはなしませんでした。こうして、ガンを見はっていますと、いままでガンたちから、さんざんひどい目にあわされたことが思いだされてくるのでした。そうだ、おれがスコーネを追われて、こんなブレーキンゲに逃(に)げてこなければならなくなったのも、あいつらのおかげだ。なにしろ、いままで、荘園(しょうえん)もガチョウもえもののいっぱいいる猟場(りょうば)も、何一つ見つからないんだからなあ。このおれがあいつらの肉(にく)を食うことができないんなら、せめてあいつらがくたばってしまえばいい。キツネはこう思うほど、むちゅうになってきました。
 ズルスケの怒(いか)りがここまで高まったとき、すぐそばの大きなマツの木でキイキイいう声がしました。見れば、一ぴきのリスが、テンに追(お)いまくられて、木からとびおりてきたのです。リスもテンも、キツネのいるのには気がつきませんでした。キツネはじっとして、木のあいだでおこなわれているこの狩(か)りを見物(けんぶつ)していました。リスは、まるで飛(と)ぶように、かるがると枝から枝へにげまわっています。テンのほうは、リスほど木のぼりがじょうずではありませんが、それでも、森の道を歩くときのように、枝をのぼったりおりたりしています。
「あいつらの半分ぐらいでも木のぼりができさえしたら、」と、キツネは思いました。「あそこのやつらを寝(ね)かしちゃおかないんだがなあ!」
 まもなく狩(か)りがおわって、リスがつかまえられますと、ズルスケはさっそくテンのところへ歩いていきました。けれども、テンのえものをとるつもりはないというしるしに、二足(ふたあし)ばかりあいだをおいて立ちどまりました。そして、いかにもしたしそうにテンにおじぎをして、みごとな腕(うで)まえをほめました。それから、キツネりゅうに、うまいことばをならべたてました。ところがテンは、ほとんど返事もしません。ほっそりとしたからだ、美しい頭、やわらかな毛並(けなみ)、うす茶色のくびすじのしま、見たところでは、まるでかわいらしい美人のようですが、これでいて、じつは、ものすごい森の生き物なのです。
「あなたほどの狩人(かりゅうど)が、リスなんかをつかまえて満足(まんぞく)していらっしゃるなんて、まことにおどろきいりましたな。」と、ズルスケはつづけて言いました。「すぐ近くに、ずっといいえものがいるというのに。」ここでちょっとことばをきって、返事を待ちました。しかし、テンはひとことも言わずに、ずうずうしくニヤッと笑っただけでした。そこで、ズルスケはつづけて言いました。「あなたがあそこの岸壁(がんぺき)の下にいるガンどもをごらんにならないなんてはずがあるでしょうかねえ? それとも、あなたはあそこまでおりていらっしゃれないんですかい?」
 こんどは、答えを待つまでもありませんでした。テンはせなかをまるくし、毛をさかだてて、ズルスケにおどりかかりました。
「ナニッ、ガンを見たって?」と、テンはうなって言いました。「そいつらは、どこにいるんだ? さっさと言え。さもないと、きさまののどくびを食(く)いきるぞ。」
「オイ、オイ、おれがおまえの二倍(ばい)もあるってことをわすれるなよ。ちっとていねいにたのむぜ。おれはおまえに何もたのんじゃいないんだからな。ただガンを見せてやっただけのことよ。」と、たちまち、テンはがけをおりはじめました。
 ズルスケはそこにすわりこんで、テンがヘビのようにからだをくねらせて、枝から枝へと渡っていくのを見ていました。そして、こんなことを思っていました。「あの美しい木のぼりじょうずの狩人(かりゅうど)くらい、ひどい、やつはない。きっと、もうすぐガンのやつらをやっつけるだろう。」
 そして、ガンたちの死にぎわのさけび声がいまにも聞こえるかと待っていました。ところがどうでしょう。テンが川の中へころげ落ちて、しぶきがさっと高くあがったではありませんか。そしてすぐに、強い羽(は)ばたきの音が聞こえて、ガンがみんな大いそぎで飛びあがりました。
 ズルスケは、すぐにガンのあとを追いかけようとしましたが、どうしてガンが助(たす)かったのか知りたくなりました。それで、テンがあがってくるまで、そのまま待っていました。見れば、あわれにもテンはびしょぬれです。そして、ときどき立ちどまっては、前足で頭をこすっています。
「オイ、ばかやろう、どうせ川にでも落っこちるだろうと思ってたぜ。」キツネは鼻(はな)で笑いながら言いました。
「おれは、ばかじゃないぞ。へんなことを言うな。」と、テンは言いかえしました。「おれは、あのいちばん下の枝にすわって、どうやってガンのやつらを殺(ころ)してくれようかと考えていたんだ。すると、リスぐらいの大きさしかないちっぽけな小僧(こぞう)が、急に飛(と)びだしてきて、力いっぱいおれの頭に石をぶっつけたんだ。それで、おれは水の中にころげ落ちて、這(は)いだすひまもないうちに――――」
 テンはこれ以上言う必要(ひつよう)はありませんでした。もう聞きてが、いないのです。ズルスケはガンのあとを追って、もうそのときには、ずっとむこうへいっていたのでした。
 いっぽう、アッカは、新しい寝場所(ねばしょ)をさがしに南へ飛んでいきました。まだうすあかるいし、それに、半月(はんげつ)が空高くかかっていましたので、すこしはものを見ることができました。さいわい、アッカはこのあたりのことをよく知っていました。というのは、春にバルト海を飛(と)びこえてくるとき、風のためにこのブレーキンゲまで吹き流されてきたこともたびたびあったからです。
 アッカは、お月さまの光に照(て)らされている山々のあいだを、黒くきらめくヘビのようにうねっている川にそって、飛(と)んでいきました。こうして、ユパフォルスまできました。そこでは川が地下の穴(あな)にもぐって、それから、ガラスでできているのかと思われるほど、清らかな澄(す)みきった流れとなります。そして、せまい谷間(たにま)に落ちこみ、底(そこ)の岩にあたって、しぶきをあげて飛びちっています。滝(たき)の下の、水がものすごく渦(うず)を巻(ま)いてあわをたてているところに、岩が二つ三つ突(つ)きでています。アッカはここに舞(ま)いおりました。ここもすてきな休み場所です。ことに、こんなにおそくなっては、だれもくる人はありません。でも、夕方(ゆうがた)だったら、ガンたちはここにとまることはできなかったでしょう。なぜって、ユパフォルスは荒地(あれち)にあるのではありませんから。かたほうの岸には大きな製紙工場(せいしこうじょう)があり、木々のおい茂(しげ)った、けわしいもうかたほうの岸には、ユパダール公園があります。ひるまだと、この公園のつるつるしたけわしい小路(こみち)を、大ぜいの人たちが、しょっちゅう散歩(さんぽ)しては、谷間を流れるはげしい流れをながめるのです。
 ここも、さっきの場所と同じことでした。ガンたちは、美しい有名な場所に来たなどとはすこしも考えませんでした。それどころか、はげしく渦(うず)をまいている流れのまんなかの、すべりやすい、ぬれた岩の上に立って眠(ねむ)るのは、きみわるくておそろしいことだと思っていたのでした。水のためにいつ押(お)し流されるかわかりません。でも、ケモノたちにおそわれたくなければ、ここでがまんしなければなりません。
 ガンたちはすぐに寝(ね)つきましたが、ニールスはどうしても眠(ねむ)ることができません。そこで、みんなのそばにすわって、ガチョウの番(ばん)をすることにしました。
 しばらくすると、ズルスケが川岸をかけてきました。そしてすぐに、あわ立つ急流(きゅうりゅう)のまんなかの岩の上に、ガンたちが立っているのを見つけました。これでは、こんどもまた近づくことができないのです。でも、どうしてもあきらめることができません。それで、そのまま岸にすわりこんで、じっとガンたちをながめていました。ズルスケはひどくなさけなくなりました。狩人(かりゅうど)としての名声が、すっかりだめになってしまったような気がしました。
 とつぜん、一ぴきのカワウソが魚(さかな)をくわえて川から這(は)いだしてきました。ズルスケはカワウソのほうへ近づいていきましたが、そのえものをとるつもりはないということを見せるために、二足(ふたあし)ばかりはなれて立ちどまりました。
「あの岩にガンがいっぱいいるっていうのに、魚をつかまえてうれしがっているなんて、きみは、まったくりこう者だよ。」と、ズルスケは言いました。けれども、このときは気がいらいらしていましたから、いつものように、うまいことばを考えるひまがありませんでした。
 カワウソは、川のほうをふりむきもしません。「ぼくたちは、はじめて出会ったんじゃないぜ、ズルくん。」と、カワウソは言いました。このカワウソも、ほかのカワウソと同じように宿(やど)なしもので、ヴォンブ湖(こ)でもたびたび魚をとっていたのでした。そこで、ズルスケとも出会ったことがあるのです。「きみがぼくからマスをだましてとろうとしたとのき[#「とのき」はママ]ことを、ぼくは忘れちゃいないぜ。」
「ああ、きみかい、欲(よく)ばりくん。」
 このカワウソが泳(およ)ぎの名人であるとわかりますと、ズルスケはよろこんで言いました。
「じゃあ、きみがガンに目もくれないのも、ふしぎはないな。きみにはあそこまでいけやしないんだからねえ。」
 けれども、カワウソとしては、足の指のあいだに水かきをもっているばかりか、カイのようにすばらしい、かたいしっぽと、水のとおらない皮膚(ひふ)をもっているのですから、あの渦(うず)まいている流れをわたることができないと言われては、だまっているわけにはいきません。流れのほうをふりむいて、ガンの姿(すがた)を一目見るなり、魚をほうり投げ、けわしい岸からとびおりて、流れの中へおどりこみました。
 いまは春もだいぶ深まっていましたから、ナイチンゲールたちも、きっと、ユパダール公園にもどっていたことでしょう。そうとすれば、この欲(よく)ばりくんと急流との戦(たたか)いを、いく晩(ばん)もいく晩も、うたいつづけることでしょう。
 むりもありません。カワウソはいくども水に押(お)しもどされたり、深みへ引きずりこまれたりしましたが、一生けんめい浮(う)かびあがっては、大きな岩をめがけて泳いでいきました。とうとう、岩のうしろの静(しず)かな水のところに泳ぎつきました。そして、そっと岩に這(は)いあがって、だんだんガンたちに近づいていきました。まったく、あぶないしごとです。たしかに、これでは、ナイチンゲールにうたわれるだけのねうちがありましょう。
 ズルスケは、一生けんめいカワウソの姿を見まもっていました。カワウソはだんだんガンたちに近づいていって、いまにもガンの上におどりかかろうとしています。と、そのとたんに、とつぜんカワウソがものすごいさけび声をあげました。と、思うまもなく、カワウソは水の中にころげ落ちて、めくらの小ネコのように押し流されました。すると、すぐそのあとから、ガンたちがはげしく羽(は)ばたいて、いっせいに空に舞(ま)いあがり、ふたたび寝場所(ねばしょ)をさがして飛んでいきました。
 まもなく、カワウソは岸にあがってきました。けれど、ひとことも口をきかないで、かたほうの前足をなめはじめました。しかし、ズルスケが、このしくじりをバカにして笑いますと、怒(おこ)ってどなりつけました。
「おれの泳(およ)ぎかたがへただったせいじゃないぞ、ズルスケ。おれはガンのところまでいって、もうすこしでガンにとびかかろうとしたんだ。ところがそのとき、ちっぽけな小僧(こぞう)がとびだしてきて、とがった鉄(てつ)みたいなもので、おれの足をつきさしやがった。あんまり痛(いた)かったんで、おもわず足をすべらして、川の中へ落っこっちまったんだ。」
 カワウソはそれ以上言う必要(ひつよう)はありませんでした。ズルスケはガンのあとを追っかけて、もうずっと遠くへいってしまっていたのでした。
 こうして、またもや、アッカとガンたちは夜の旅(たび)をしなければならなくなりました。さいわい、お月さまが出ていましたから、その光のおかげで、このあたりにまえから知っている寝場所(ねばしょ)をさがすことができました。キラキラ光っている川にそって、ふたたび南のほうへ飛んでいきました。ユパダールの荘園(しょうえん)の上や、ロンネビュー町のくらい屋根(やね)の上や、白い滝(たき)の上をこえて、すこしも休まずに、ぐんぐん飛(と)んでいきました。ところで、この町からすこし南のほうにあたって、海からあまり遠くないところに、ロンネビューの温泉場(おんせんば)があります。そこには温泉や温泉宿(おんせんやど)や春のお客のためのホテルや別荘(べっそう)などもあります。こうしたすべてのものが、冬の間じゅう、だれもいないために、ほったらかされています。このことを、どの鳥もよく知っていて、嵐(あらし)の吹きすさぶ季節(きせつ)には、たくさんの鳥がこの大きな家々の縁(えん)がわや露台(ろだい)をかくれ場(ば)にするのでした。
 ガンたちは、ここの、ある露台におりました。そして、いつものように、すぐに眠りました。けれども、ニールスは、こんやはもうガチョウのはねの下にもぐりこむ気にはなれませんでした。はねの下にはいってしまったら、何も見えなくなって、ただ物音がかすかに聞こえるだけになってしまいます。それでは、とうていガチョウを守ってやることができません。いまのニールスにとっては、じぶんのことよりも、ガチョウのことを考えてやるのがいちばん、だいじなのです。
 ニールスのいる露台(ろだい)は、南にむいていましたから、海がよく見えました。ニールスは眠(ねむ)れませんでしたので、このブレーキンゲで、海と陸とがいっしょになってつくりだしている美しい景色をながめていました。
 いったい、海と陸(りく)とは、いろいろな出会いかたをするものです。
 まず海のほうから考えてみましょう。海は何ひとつなく、はてしなくひろがっています。そして、くりかえしくりかえし灰色(はいいろ)の波をうねらせています。陸のほうへ近づくときには、小さな島に出会います。すると、すぐにその上に水を打ちつけて、あらゆる緑(みどり)をひきむしり、じぶんと同じように、裸(はだか)に灰色にしてしまいます。どの島も、まるで強盗(ごうとう)の手にかかったように、裸にされ、はぎとられてしまいます。ところが、だんだんすすむうちに、小さな島がたくさんになってきます。陸がじぶんのかわいい子どもたちをよこして、海の心をなだめようとしているのがよくわかります。それで、海も、進むにつれて、だんだんやさしくなってきます。波もさっきまでのように高くはなくなり、嵐(あらし)もしずまります。割(わ)れ目や裂(さ)け目に生(は)えている緑の草木もそのままにしておいて、じぶんは小さな瀬戸(せと)や入江になってしまいます。
 こんどは、陸(りく)のほうを考えてみましょう。陸はどこも変わりがなく、ほとんど同じようです。陸は、たいらな穀物畑(こくもつばたけ)か、長くのびている森つづきの山々からできています。その穀物畑のあいだには、カバの木々にかこまれた牧場(まきば)があちこちに見えます。陸は、まるで穀物と、カブと、ジャガイモと、エゾマツと、マツのことしか考えていないようです。それから、入江が陸の中まで深くくいこんでいます。しかし、陸はそんなことはべつに気にもとめないで、ふつうの湖(みずうみ)と同じように、カバとハンノキでそのふちをかざってやります。
 こういうことは、夏でないと、よく見えないのですが、それでもニールスは、自然(しぜん)はなんておだやかでやさしいんだろうと思いました。そして、まえよりも、ずっと心がおちついてきました。と、とつぜん、鋭(するど)くきみのわるいうなり声が聞こえてきました。立ちあがって見ますと、露台(ろだい)の下の芝地(しばち)に、一ぴきのキツネが、銀色(ぎんいろ)のお月さまの光をあびて、立っていました。もちろん、ズルスケです。またも、ガンたちのあとを追ってきたのでした。けれども、ガンたちが寝(ね)ているところを見ますと、とうてい近づくことができないとさとりました。それで、あまりのくやしさに、おもわずうなってしまったのでした。
 ズルスケがうなったので、アッカは目をさましました。ほとんど何も見えませんが、その声でズルスケとわかりました。
「ズルさんかい? こんやもおでかけかね?」と、アッカはたずねました。
「うん、おれだよ。」と、ズルスケは答えました。「ところで、どうだね、こんやのおれのやりくちは?」
「テンやカワウソをけしかけたのは、あんただって言うのかい?」と、アッカがききました。
「こんどは、おれのばんだからな。」と、ズルスケは言いました。「このあいだ、おまえたちはおれにいたずらをしやがったから、こんどはおれがおまえたちにいたずらをはじめたのさ。おまえたちが一羽(わ)でも生きているうちは、やめやしないぜ。たとえ、国じゅう追っかけたってよ。」
「ズルさん、歯(は)と爪(つめ)という武器(ぶき)をもっているあんたが、何もふせぐもののないわれわれを、こんなふうに追いまわすっていうのは、いったい正しいことだろうかねえ? ちっとは考えてみるんだね。」と、アッカは言いました。
 ズルスケは、アッカがこわがっているものと思いこみました。そこで、さっそく言いました。
「アッカさん、おまえさんが、たびたびおれのじゃまをしやがる、あのオヤユビ小僧(こぞう)を、投げてよこせば、おまえさんたちと仲なおりするぜ。そしてもう、おまえさんたちのあとを追っかけたりしないよ。」
「オヤユビくんはやれないねえ。」と、アッカは言いました。「わたしたちのなかには、若いものでも、年よりでも、オヤユビくんのために喜んでいのちを投げださないようなものはないんだよ。」
「きさまたちが、そんなにあいつをすきだというなら、」と、ズルスケはどなりました。「まず、あいつからやっつけて、怨(うら)みをはらしてくれるぞ、おぼえてろ。」
 アッカはもう何も言いませんでした。ズルスケはまた二、三どうなりました。それから、あたりはひっそりとしました。ニールスはずっと目がさめていました。いまアッカがキツネに言ったことばが頭にこびりついていて、眠れません。いままで、じぶんのためにいのちを捨(す)ててくれるものがあろうとは、夢(ゆめ)にも思ったことがありませんでした。ニールスは露台(ろだい)の手すりからたくさんの島々をながめながら、楽(たの)しい思いにふけっていました。
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四月二日 日曜日
 ここはカールスクローナです。お月さまのかがやいている、静(しず)かな美しい夕方(ゆうがた)でした。でも、ついさっきまでは、はげしい吹きぶりでした。人びとは、まだお天気がよくなっていないと思っているにちがいありません。だって、通りには、人っ子ひとり見えませんから。
 この市がこんなにひっそりしているとき、ガンのアッカとその仲間(なかま)とは、ヴェンメンヘーイやパンタルホルムをこえて、カールスクローナへやってきました。ガンたちは、島の上に安全な寝場所(ねばしょ)を見つけようとして、夕方おそくまで飛(と)んでいたのでした。陸(りく)には、どこにも休むことができませんでした。というのは、どこへおりても、キツネのズルスケにじゃまされてばかりいたからです。
 ニールスが高い空から海と島とを見おろしたときには、なにもかもがひどくきみわるく、まるで幽霊(ゆうれい)のように見えました。空はもう青くはなくて、緑(みどり)のガラスの丸ぶたのように、頭の上におおいかぶさっていました。海はミルク色で、目のとどくかぎり、小さな白い波をうねらせ、銀色(ぎんいろ)にきらめくさざなみをたてていました。なにもかも白い中に、いろんな形をした島があっちこっちに黒(くろ)ぐろと突(つ)きでていました。大きいものも、小さいものも、草原のようにたいらなものも、岩だらけのものも、みんな同じように黒く見えました。それどころか、人の住居(すまい)も教会も風車も、ふだんなら白か赤かに見えるのに、いまは緑(みどり)の空に向かって、くっきりと黒い姿を見せています。ニールスは世の中が変(か)わってしまって、じぶんはまるで、ちがった世界へ来てしまったような気がしました。
 ニールスは、こんやは勇気(ゆうき)をだして、こわがらないようにしようと決心しました。ところが、そういううちにも、ぞっとするようなものが見えてきました。それは、大きなとがった岩がごつごつしている山がいちめんにある島でした。そして、その黒い岩のあいだには、金(きん)のようなものがキラキラと光っていました。ニールスは、なんだか魔法(まほう)の石を見ているような気がしました。
 それにしても、島のまわりに大きな恐(おそ)ろしいものが、あんなにうようよしていなかったら、それほどたいしたことはなかったでしょう。その恐ろしいものは、なんだかクジラやサメやそのほか大きな海の怪物(かいぶつ)のように見えました。けれども、ニールスはそれを海の神さまだと思いました。そして、海の神さまたちが島に住んでいる陸(りく)の神さまたちと戦おうとして、いま島のまわりに集まって、よじのぼろうとしているのだと考えてみました。ところで、その陸の神さまたちは、きっとこわがっているのでしょう。というのは、島のいちばん高いところにひとりの巨人(きょじん)が立って、じぶんと島とにふりかかってくるおそろしいわざわいに絶望(ぜつぼう)してでもいるように、両腕(りょううで)を高くあげているのが、はっきりと見えたからです。
 アッカはこの島におりようとしました。それを見て、ニールスはびっくりしました。「だめだよ、だめだよ!」と、ニールスは、さけびました。「あそこへおりちゃいけない。」
 けれども、ガンたちはどんどん舞(ま)いおりました。まもなく、ニールスは、なにもかもが、ただあんなにへんなふうに見えていただけなのを知って、驚(おどろ)いてしまいました。大きな岩と見えたのは、人間の家ではありませんか。そして、島ぜんたいは一つの市で、金色にキラキラ光っていたところは、街燈(がいとう)やあかるい窓(まど)ガラスなのです。島の一ばん上に立って、両腕を高くあげていた巨人(きょじん)は、二つの塔(とう)のある教会でした。海の神さまや海の怪物(かいぶつ)に見えたのは、島のまわりにとまっているボートや大きな船でした。陸の近くにあるのは、たいていボートや帆船(はんせん)や小さな蒸汽船(じょうきせん)でしたが、海に向いているほうには軍艦(ぐんかん)が浮かんでいました。
 ところで、ここはなんという市だろう? ニールスは、たくさんの軍艦が見えたので、だいたい、けんとうがついたような気がしました。ニールスは、いままで、船がだいすきでした。といっても、池で小さな船にのったことしかありませんでしたけれど。そしてニールスは、こんなにたくさんの軍艦がいる市は、カールスクローナにちがいないと思いました。
 ニールスのおじいさんは水夫(すいふ)でした。そして、生きていたときは、カールスクローナのことをまいにちのように話してくれました。造船所(ぞうせんじょ)のこととか、カールスクローナで見たいろんなことなどを聞かしてくれたのでした。
 ニールスはすっかり安心して、家にいるような気もちになりました。そして、あんなにたびたび話に聞いていたものを、いま一つ残らず見られるのかと思いますと、とってもうれしくなりました。
 けれども、ニールスが塔(とう)や、港の入口をとざしている要塞(ようさい)や、たくさんの建物や、造船所(ぞうせんじょ)などをちらっとながめたとき、アッカはひらたい教会の塔の一つに舞(ま)いおりました。
 ここは、キツネからゆくえをくらまそうと思うものにとっては安全な場所でした。ニールスは、こんやはガチョウのはねの下にもぐりこむ気になれるものかどうか、考えてみました。うん、こんやはきっとできるだろう。それに、すこし眠ったほうが、からだのためにいいだろう。造船所や船をけんぶつするのは、あしたの朝にすればいい。
 ところが、ニールスは、じぶんでもふしぎなくらい、どうしてもあしたの朝までじっと待っていることができなくなりました。五分とは眠らないうちに、はねの下からはいだして、避雷針(ひらいしん)とといをつたって、地面にすべりおりたのです。
 まもなく、ニールスは教会の前の広場にでました。そこには、まるい石がしいてありました。その上を歩くのは、なかなか骨がおれました。ちょうど、おとなの人たちが草ぼうぼうの原っぱを歩きにくいのと同じことです。
 さいわい、広場(ひろば)にはだれもいませんでした。ただ、高い台の上に立っている立像(りつぞう)が見えるばかりでした。ニールスは長いあいだ、その立像をながめていました。それは、三つの角のある帽子(ぼうし)をかぶり、長い上着をきて、半ズボンをはき、あらい靴(くつ)をはいた大きな人の姿です。ニールスは、この人はだれだろうと思いました。その人は長いステッキを手に持っていて、その使いかたも知っているようです。なにしろ、大きなかぎ鼻(ばな)で、みにくい口をしたその人は、おそろしいほどいかめしい顔(かお)つきをしているのですから。
「この口ながさんは、いったいここで何をしているんだろう?」と、そのうちに、ニールスは言いました。こんやぐらい、じぶんがちっぽけでつまらないものに思われたことはありません。そこで、元気をだそうとして、立像に向かってらんぼうなことばをならべたてました。それから、立像のことは考えないで、海へ出る広い通りを歩いていきました。
 けれども、まだそんなにいかないうちに、うしろのほうから足音が聞こえてきました。しき石をドシン、ドシンとふみならして、ステッキで地面を強くつきながら、広場のほうからだれかがやってくるのです。まるで、あの広場に立っていた青銅(せいどう)の大きな像(ぞう)が、歩きだしでもしたようなひびきです。
 ニールスは通りをかけだしながら、足音に耳をすましました。すると、足音のぬしは、あの青銅の人にちがいないという気もちが、だんだん強くなってきました。大地がふるえ、家々がゆれます。こんなものすごい歩きかたをするのは、あの青銅の人のほかにはありません。さっきあの人に向かって言ったことを思いだしますと、ニールスはあわてました。うしろを振りかえって、ほんとうにあの人かどうかたしかめてみる元気は、とてもありません。
「きっと、ちょっと散歩(さんぽ)にでかけただけなんだろう。」と、ニールスは思いました。「ぼくがさっき言ったことぐらいで、腹(はら)をたてるわけはないもの。わるい気で言ったんじゃないんだから。」
 ニールスは、まっすぐ造船所(ぞうせんじょ)へいかないで、東のほうへいく通りにいそいでまがりました。ともかくこうして、追(お)っ手(て)から逃(に)げてしまいたかったのです。
 ところが、青銅の人も、すぐにこっちへまがってきたようです。ニールスはすっかりこまってしまいました。どうしたらいいのでしょう?
 市(まち)の中の戸という戸はしまっています。そこにかくれ場所を見つけるなんてことが、どうしてできましょう。ふと見ると、右手のほうの、通りからすこしはなれた木立(こだち)の中に、木造(もくぞう)の古い教会が立っていました。ためらうひまもなく、すぐさまニールスは、教会めがけてかけていきました。「あそこへいけば、だいじょうぶだろう。」と、思ったのです。
 ニールスが走っていきますと、ひとりの男がじゃり道に立って、手まねきしているのが見えました。「きっと、だれかが助けてくれようっていうんだな。」と、ニールスは思いました。そう思うと、すっかりうれしくなって、その人のほうへ夢中(むちゅう)でかけていきました。心配のあまり、胸(むね)がドキドキしています。
 けれども、じゃり道のはずれの、低い台の上に立っている人のところまで来たとき、ニールスはびっくりしてしまいました。「この人がぼくを呼んだんじゃないはずだ。」と、ニールスは思いました。なぜって、見れば、その人は木でできているではありませんか。
 ニールスはその人の前に立って、ながめました。ずんぐりした人で、足は短(みじか)く、顔は大きく赤く、髪(かみ)の毛は黒くピカピカしていて、まっ黒なひげをはやしていました。頭には黒い木の帽子(ぼうし)をかぶっていました。からだには褐色(かっしょく)の木の上着をき、腰(こし)には黒い木の帯(おび)をしめ、大きな灰色の木の半ズボンをはいて、それに、木の靴下(くつした)をはいていました。それから黒い木の靴をはいていました。この人はさいきんニスをぬってもらっていましたので、お月さまの光をうけて、キラキラと光っていました。見たところ、いかにも正直そうに見えました。で、ニールスはすぐにこの人をいい人だなと思いこんでしまいました。
 その人は、左手に木の板を持っていました。そこにはこう書いてありました。

口のきけない者ですが
 どうかお願いもうします。
わたしの帽子(ぼうし)をおあげになって
 一銭入れてくださいませ。

 おや、おや、この人は慈善箱(じぜんばこ)なのです!
 ニールスはがっかりしてしまいました。じつは心の中で、えらい人だろうと思っていたのです。でもこのとき、いつだったか、おじいさんがこの木の人の話をしてくれたのを思いだしました。おじいさんの話では、カールスクローナの子どもたちは、みんな、この木の人が大すきだということでした。どうやら、それはほんとうのようです。というのは、ニールスもこの木とわかれるのがつらく思われてきたからです。ところで、この人にはたいへん古めかしいところがありました。もう何百歳(さい)にもなっているようすです。と、同時に、いかにも頑丈(がんじょう)で、どうどうとしていて、しかも、いきいきとしています。むかしの人たちは、みんな、こんなふうだったかもしれません。
 ニールスはこの木の人をながめているのが、たいへんおもしろかったので、追いかけてくる青銅(せいどう)の人のことはすっかり忘れていました。ところがそのとき、また足音が聞こえてきました。さあ、たいへん! 青銅の人も、通りから教会の境内(けいだい)のほうへはいってきたではありませんか。こんなところまで追いかけてきたのです! さて、どこへ逃(に)げたらいいでしょう?
 ちょうどこのとき、木の人はからだをかがめて、大きな、はばの広い手をさしだしました。この人はいい人としか思えませんから、すぐさまニールスは一足(いっそく)とびにその手の上にとびあがりました。すると木の人はニールスを帽子(ぼうし)のところまでもちあげて、その中にいれました。
 ニールスが帽子の中にかくれて、木の人がもとのように腕(うで)をおろすといっしょに、青銅の人があらわれました。そして、木の人の前に立ちどまって、ステッキで地面をドシンとつきましたから、木の人は、台の上でグラグラッとゆれました。それから、青銅の人は、よくひびく大きな声で言いました。
「そちはだれじゃな?」
 木の人はギイギイと音をたてて、腕(うで)をあげ、帽子のふちに手をあてて、答えました。「陛下(へいか)、おそれながら、ローセンブームと申すものでございます。むかしは、戦艦(せんかん)『勇壮(ゆうそう)』の兵曹長(へいそうちょう)をいたしておりましたが、退役になりましてからは、提督教会(ていとくきょうかい)の堂守(どうもり)をしておりました。そののち、木にきざまれまして、こうして、慈善箱(じぜんばこ)となり、この境内(けいだい)に立っているのでございます。」
 ニールスは、木の人が「陛下(へいか)」と言うのを聞きますと、びっくりしました。むりもありません。そうしてみると、広場(ひろば)に立っていたあの像(ぞう)は、この市をたてた人の姿をきざんだものにちがいないのです。つまり、ニールスがさっき出会ったのは、カルル十一世にちがいありません。
「じぶんのことをよくしゃべりたてるやつじゃ。」と、青銅(せいどう)の人は言いました。「ところで、こんや、町なかをかけまわっていた小僧を見かけなかったか? なまいきなチビじゃ。つかまえたら、ひとつ礼儀作法(れいぎさほう)を教えてくれよう。」そう言って、またもステッキで地面をドシンとつきました。ものすごく怒(おこ)っているようすです。
「おそれながら、陛下、たしかにそいつを見かけました。」と、木の人は言いました。ニールスは帽子(ぼうし)の下にかくれて、木のすきまから青銅の人を見ていたのですが、それを聞いて、心配のあまりブルブルとふるえだしました。ところが木の人はつづけて、「陛下、ここをおいでになっては、おまちがいでございます。小僧はきっと造船所(ぞうせんじょ)へいって、あそこにかくれるつもりでございましょう。」と言いましたので、ニールスはやっと安心しました。
「そう思うのか? ローセンブーム、では、そんな台の上に立っておらんで、わしといっしょにきて、あの小僧をさがす手つだいをしてくれ。四つの目は二つの目よりもよいものじゃ。」
 ところが、木の人は悲(かな)しそうな声で答えました。「どうかお願いでございますから、わたくしめは、ここにおらせてくださいませ。さいきん、ぬってもらったばかりでございますので、つやつやして元気そうには見えますが、じつはわたくしめは年をとっておりまして、動くこともできないのでございます。」
 青銅の人は、じぶんの言うとおりにしなければ承知(しょうち)しない人です。
「なんという言いぐさじゃ! さあ、まいれ、ローセンブーム。」こう言って、ステッキをあげて、木の人の肩(かた)をポカッと打ちました。「そちは、まだ立っている気か?」
 こうして、ふたりはカールスクローナの通りを力づよくドシンドシンと歩いていきました。やがて、造船所(ぞうせんじょ)へ通じる大きな門の前に出ました。そこには、ひとりの水兵が立って、番をしていました。けれど、青銅の人はさっさとそのそばをとおりすぎて、門をつきあけました。水兵は気がつかないような顔をしていました。
 門の中へはいりますと、木の橋でくぎられている広い大きな港が見えました。それぞれの汐留(しおどめ)には、軍艦がはいっていました。それらは、こうして近くへきてみれば、さっき空から見たときよりも、ずっと大きくこわそうに見えました。そこで、ニールスは、「さっき海の怪物(かいぶつ)のように見えたのも、そんなにまちがっちゃいなかったんだな。」と、思いました。
「ローセンブーム、そちはどこからさがしはじめたらよいと思うか?」と、青銅の人はたずねました。
「あいつのようなものは、模型室(もけいしつ)にかくれるのが一ばんたやすうございましょう。」と、木の人は言いました。
 門から右のほうへ、港にそってのびている狭(せま)い陸地には、古い建物がならんでいます。青銅の人は、壁(かべ)のひくい、四角い窓と大きな屋根のある建物のところへ歩いていきました。そして、ステッキで戸をドシンとついて、あけました。それから踏(ふ)みへらされた階段をズシン、ズシンとのぼっていきました。ふたりは大きな部屋にはいりました。そこには、マストをたて、網具(あみぐ)をそなえた小さな船がたくさんならんでいました。説明を聞かなくても、ニールスはすぐに、この船は、スウェーデン海軍のために造られた軍艦(ぐんかん)の模型であるとわかりました。
 見れば、ずいぶんいろんな種類の船があります。
 ニールスは、こういう船のあいだをつれて歩かれているうちに、びっくりしてしまいました。「すごいなあ、こんなに大きいりっぱな船が、このスウェーデンで造られたんだなあ!」
 そこにあるものをぜんぶ見てまわったので、ずいぶん時間がかかりました。青銅の人は模型を見はじめますと、ほかのことはすっかり忘れてしまいました。すみからすみまで模型を念いりにながめて、おまけに、ひとつひとつ説明をきくのでした。すると、『勇壮』号の兵曹長(へいそうちょう)だったローセンブームは、知っているかぎりのことを話しました。船を造った人たちのことや、船に乗組(のりく)んだ人たちのこと、それから、その人たちがどうなったかということなどを説明しました。
 ローセンブームと青銅(せいどう)の人は、むかしの美しい木造船が一ばん気にいりました。新しい鋼鉄(こうてつ)の軍艦(ぐんかん)のことは、このふたりにはあまりよくわからなかったようです。
「そちは新しい軍艦のことは、何も知らんな。」と、青銅の人は言いました。「どこかべつのところへいって、ほかのものを見ようではないか。そのほうがおもしろかろう、ローセンブーム。」
 青銅の人は、ニールスをさがすことを、もう忘れていました。いっぽう、ニールスも木の帽子(ぼうし)の中にかくれているので、安心しきっていたのでした。
 それから、ふたりは、帆(ほ)をこしらえるところ、いかりを造るところ、機械場(きかいば)、木工場(もっこうば)などの大きな仕事場を通っていきました。そしてまた、高い起重機(きじゅうき)や、ドックや、大きな倉庫(そうこ)や、兵器庫や、弾薬庫(だんやくこ)や、綱(つな)より場(ば)や、岩にあたってくだけたために使われなくなっている大きなドックなどを見ました。それから、海軍の艦船がつないである棧橋(さんばし)にいって、船に乗りこみ、まるで二ひきのオットセイみたいなかっこうで船をながめまわしていました。
 一ばんおしまいに、広い構内(こうない)にでました。ここには、むかしの軍艦の船首像(せんしゅぞう)がならんでいました。ニールスはこのくらいふしぎなものを見たことがありません。なぜなら、ここにある像は、信じられないほどものすごい、ぞっとするような顔をしています。それらの像は、おそれを知らぬ、どうもうな顔つきをしていて、いかにも、ごうまんに見えます。それらはちがった時代に、ちがった人々の手によって造られたものです。ニールスはその前に立ったとき、身がちぢまるような思いがしました。
 けれども、ふたりがここへ来たとき、青銅の人が木の人に向かって言いました。
「帽子(ぼうし)をとれ、ローセンブーム、ここにならんでいる像のために! これはみんな祖国(そこく)のために戦ったのじゃ。」
 しかし、ローセンブームも青銅の人も、なんのために出かけてきたのか、いまではすっかり忘れていました。ローセンブームは考えもせず、すぐに帽子をあげて、さけびました。
「わたくしは、この港をえらび、造船所をつくって、海軍を再建(さいけん)した方(かた)に向かって、こういうすべてのものをつくりだした王さまにむかって、脱帽(だつぼう)いたします。」
「感謝(かんしゃ)するぞ、ローセンブーム、よく言ってくれた。そちはりっぱな人間じゃ、ローセンブーム。だが、そこにいるのは何者じゃ?」
 見れば、ローセンブームのはげ頭の上に、ニールス・ホルゲルッソンが立っているではありませんか。しかし、ニールスはもうこわくはありません。白いそり帽(ぼう)を振(ふ)って、さけびました。「口ながくん、ばんざい!」
 青銅の人は、地面をステッキでドシンと打ちました。けれども、その人が何をするつもりであったかはわかりません。というのは、そのとき、お日さまがのぼってきて、それといっしょに、青銅の人も木の人も、まるで霧(きり)でできてでもいるように、消(き)えうせてしまったからです。
 ニールスがじっと立ちつくして、そのあとをぼんやりながめていますと、ガンたちが教会の塔(とう)から舞(ま)いあがって、市の上をいったりきたりしはじめました。まもなくニールス・ホルゲルッソンの姿を見つけますと、大きな白ガチョウが矢のように舞(ま)いおりてきて、ニールスをつれていきました。
上 おわり
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四月三日 日曜日
 あくる朝、ガンたちは、とある小さな島へ飛(と)んでいって、たべものをひろいました。そこでみんなは、二、三羽(ば)の灰色(はいいろ)ガンに、出あいました。灰色ガンたちは、ガンの姿(すがた)を見ますと、びっくりしました。なぜなら、じぶんたちの親類(しんるい)にあたるガンという鳥は、陸地(りくち)の上ばかりを飛ぶものだと思っていたのですからね。
 灰色ガンたちは、いろいろとたずねました。そこで、ガンたちは、キツネのズルスケに追いまわされていることを、のこらず話しました。話がおわると、アッカのように年とっていて、りこうそうに見える一羽(わ)の灰色ガンが言いました。
「ズルスケが、スコーネから追いはらわれたのは、あなたがたにとっては、とんだ災難(さいなん)でしたね。やっこさんは、かならず、ことばどおりにラプランドまででも、あなたがたを追いかけていくでしょう。もしも、わたしだったら、スモーランドを越(こ)えて北へむかわないで、エーランド島(とう)に廻(まわ)り道をして、やっこさんを、まいちまうようにしますね。あいつの目をごまかそうと思ったら、あの島の南のはしに、二、三日とどまることですよ。あそこなら、たべものもたくさんありますし、それに、仲間(なかま)もおおぜい、いますからね。あそこへいって、後悔(こうかい)するようなことは、まずないでしょうよ。」
 これは、たしかにもっともな忠告(ちゅうこく)です。それでガンたちは、言われたとおりにすることにきめました。腹(はら)ごしらえを十分(じゅうぶん)にして、さっそくエーランド島にむかって出発しました。ガンたちの中には、いままで、そこにいったことのある者(もの)はありませんでしたが、灰色ガンたちが、ていねいに道を教えてくれました。なんでも、ずんずん南に進んでいけば、やがて大きな「鳥の道」に出るということです。それはブレーキンゲの海岸(かいがん)にそって、ずっとのびているそうです。冬のあいだ大西洋(たいせいよう)の島々にいた、たくさんの鳥が、これからフィンランドやロシアへいこうとして、いまその道を飛んでいるのです。そして、みんなは、途中(とちゅう)で一休みするために、きまってエーランド島へ立ちよるのだそうです。だから、エーランド島へいく道は、すぐにわかるという話でした。
 その日は、たいへんおだやかで、まるで夏の日のようにあたたかでした。ほんとうに、海の旅をするのには、申(もう)しぶんのないお天気でした。ただ、ひとつ、残念(ざんねん)なのは、空がすっかり晴れわたっていないので、灰色のうす絹(ぎぬ)をひいたようになっていることでした。あちらこちらには、大きな霧(きり)の雲が海のおもてまでたれこめていて、眺(なが)めをさえぎっていました。
 ガンたちが小さな島々から遠く離(はな)れますと、海は鏡(かがみ)のようになめらかになりました。ですから、ニールスが下を見おろしたときには、まるで海がどこかへ消(き)えてしまったのではないかと思われました。じぶんの下には、もはや世界がなくなって、まわりにあるものは、ただ霧(きり)と空ばかりです。ニールスはひどく目まいがするので、ガチョウのせなかに、しがみつきました。いまは、はじめて乗(の)ったときよりも、ずっとこわくてしかたがありません。なんだか、ぶじに乗っていけそうもないような気がします。このあんばいでは、いまに落ちてしまうにちがいありません。
 灰色ガンたちの言っていた大きな「鳥の道」に出たときには、ますますいけなくなりました。見れば、ほんとうに、鳥のむれが、いくつもいくつも同じ方向(ほうこう)に飛んでいます。そのむれのなかには、カモ、灰色(はいいろ)ガン、クロトリ、ウミガラス、ウミガモ、オナガガモ、アイサガモ、カイツブリ、ミヤコドリ、ウミマツドリなどがいました。
 ニールスは、からだを乗りだして、海のあるはずの下のほうをながめました。すると、たくさんの鳥のむれが、水にうつって見えました。ところが、頭がくらくらしているので、どうしてそんなふうに見えるのか、よくわかりません。きっと、鳥たちはみんなおなかを上に向(む)けて飛んでいるのだろうと、ニールスは思いこんでしまいました。なにしろ、いまは頭がへんになって、何(なに)が何やらさっぱりわからないものですから、それを見ても、そんなにびっくりはしませんでした。
 鳥たちはつかれきっていましたから、一刻(いっこく)も早く島につこうとあせっていました。さけび声(ごえ)をあげるものもなければ、じょうだん一つ言うものもありません。そのありさまのため、なにもかもが、この世のものとは思われませんでした。
「地球(ちきゅう)から飛(と)びはなれているとしたら、どうだろう!」と、ニールスはひとりごとを言いました。「天へのぼっていくとしたら、どうだろう!」
 まわりには、霧(きり)と鳥のほかは何も見えません。そのうちに、天へのぼっていくということも、そんなにふしぎなことではないような気がしてきました。そして、天へいったら、どんなものが見られるだろうかと思いますと、ニールスはとっても楽(たの)しくなりました。そう思ったとたんに、めまいは、しなくなりました。そして、いま、じぶんはこの世を離(はな)れて、天へのぼっていこうとしているのだと考えて、たまらなく愉快(ゆかい)になりました。
 そのとき、だしぬけに、ダン、ダンと鉄砲(てっぽう)の音がしました。見ると、白い煙(けむり)が二(ふた)すじ立ちのぼっています。
 そのとたんに、鳥たちは、きゅうにざわめきたって、「かりゅうどだ! かりゅうどだ! 高く飛びあがれ! 高く飛びあがれ!」と、さけびました。
 これで、ようやくニールスにも、じぶんたちは、あいかわらず海の上を飛んでいて、天上(てんじょう)にいるのではないということが、はっきりとわかりました。海の上には、かりゅうどのおおぜい乗っている小舟(こぶね)がずっと並んでいて、そこからダン、ダンと鉄砲(てっぽう)をうっているのが見えます。いちばんさきを飛んでいく鳥のむれが、それに気づいたときには、もうおそく、みるみるうちに、黒いからだがいくつか海の上に落ちていきました。生きのこった鳥たちは、落ちていく鳥のために、悲(かな)しい鳴き声をあげました。
 ニールスの心は、おそろしさと悲しさに、はりさけそうでした。むりもありません。ついさっきまで、じぶんは、天国(てんごく)にいるものとばかり思っていたのですからね。ガンの隊長(たいちょう)アッカは、全速力(ぜんそくりょく)で空高く舞(ま)いあがりました。ガンのむれも、そのあとから力いっぱいの早さでつづきました。こうして、ガンたちは傷(きず)一つ受けないで、ぶじに逃(に)げることができました。ニールスは心から感心して、
「アッカやユクシやモルテンみたいな鳥を射(う)とうなんて、とんでもない話だ! 人間どものすることは、まったくばかばかしい!」と、言いました。
 こうして、ふたたび、ニールスとガンの一行(いっこう)は、静かな空を飛んでいきました。あたりは、まえのように、またひっそりとしてきました。ただ疲(つか)れた鳥たちは、ときおり、「すぐいけないんじゃないの? たしかにこの道かい?」とさけびました。すると、いちばんさきを飛んでいく鳥たちは、「この道をまっすぐいけば、エーランド島(とう)だよ! この道をまっすぐいけば、エーランド島だよ!」と、答えました。
 野ガモたちは、疲れきってしまいました。そのとき、そばをウミガモが通りすぎました。「そんなにいそがないでくれよ!」と、野ガモたちは、ウミガモにむかってさけびました。「きみたちは、われわれが着(つ)くまでに、たべものをみんなたべちまう気かい。」
「なあに、あそこには、たべものがたくさんあるから、だいじょうぶさ。」と、ウミガモたちは答えました。
 ところが、ぼつぼつエーランド島が見えようというころ、まむかいから軽(かる)い風が吹いてきました。そしてそれといっしょに、白い大きな煙(けむり)の雲のようなものが、もくもくとやってきました。まるで、どこかに火事でもおこっているようです。
 鳥たちはこのうずをまいている煙に気がつきますと、心配(しんぱい)になって、とんでいく力をはやめました。けれども、その煙のようなものは、だんだん濃(こ)くなってきます。そして、とうとうしまいには、みんなをすっかりつつんでしまいました。でも、煙のようなにおいはしません。そして黒くも、乾(かわ)いてもいず、白くて、しめっています。それで、ニールスは、ははあ、これはただの霧(きり)なんだな、と、すぐに気がつきました。
 霧は一寸(すん)さきも見えないくらい濃(こ)くなってきました。と、どうでしょう、鳥たちはまるで気でもちがったようになりました。いままではあんなに、きちんと行儀(ぎょうぎ)よく飛んでいたのに、こんどは、みんながみんな、霧の中でふざけはじめたのです。勝手(かって)気ままに、あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりして、たがいにほかの仲間(なかま)を迷(まよ)わそうというのです。
「おーい、気をつけろよ!」と、鳥たちはさけびます。「きみたちは、おんなじ所をぐるぐるまわってばかりいるじゃないか。それじゃ、とてもエーランド島へは、いかれっこないぜ。さあ、さあ、むきをかえたり、かえたり!」
 エーランド島がどこにあるかは、みんな、ちゃんと知っているのですが、たがいに仲間を迷わそうとしてやっきになっているのです。「あのオナガガモを見ろよ!」と、霧(きり)の中からさけぶ声が聞こえます。「北海(ほっかい)のほうへ逆(ぎゃく)もどりしているじゃないか!」
「おーい、ガンの諸君(しょくん)、気をつけたまえよ!」と、また違(ちが)ったほうからだれかがさけびます。「そんなほうへいくと、リューゲンへいっちまうぜ!」
 もちろん、このあたりを旅(たび)なれている鳥たちは、まちがった方向(ほうこう)にさそいこまれるようなことはありませんが、こまりきっているのはニールスの仲間(なかま)のガンたちです。おどけものの鳥は、ガンたちが道に不案内(ふあんない)なのを見てとりますと、さかんにガンたちを迷わせようとします。
「もし、ガンさん、どこへいらっしゃるんです?」と、一羽(わ)の白鳥(はくちょう)が呼(よ)びかけながら、アッカのところへ近(ちか)よってきました。いかにも、同情(どうじょう)ぶかい、まじめな顔つきをしています。
「エーランド島へいこうと思っているんですが、はじめてなものですから。」と、アッカは答えました。この白鳥なら、信頼(しんらい)してもいいだろうと思ったのです。
「そいつはいけませんよ。」と、白鳥は言いました。「あなたがたは、まちがった方向へさそいこまれたんですね。この道をいけば、ブレーキンゲへでてしまいますよ。さあ、わたしといっしょにいらっしゃい。道案内(みちあんない)をしてあげましょう。」
 それから、白鳥はガンの一隊(たい)といっしょに飛んでいきました。そして、ほかの鳥たちのさけび声も聞こえないほど遠くまで、まちがった方向にひっぱっていってから、とつぜん霧(きり)の中に姿を消(け)してしまいました。
 ガンたちは、しばらくのあいだ、むちゃくちゃに飛びまわったあげく、やっとのことで、ほかの鳥たちを見つけました。するとこんどは、一羽(わ)のカモが近づいてきました。「あんたがたは、霧がはれるまで、水の上におりて休(やす)まれるほうがいいんじゃありませんか。どうも、あまり旅(たび)なれてはいらっしゃらないようだから。」
 こんないたずらものたちが、もののみごとに、アッカをまごつかせてしまいました。ニールスが見ていると、ガンたちは同じところを長いこと、ぐるぐる、ぐるぐるまわっています。
「おーい、気をつけたまえよ! きみらは、上へいったり、下へいったりしているだけじゃないか。」と、一羽のウミガモがそばを飛びすぎながらさけびました。ニールスは思わずしらずガチョウの首ったまにしっかりとしがみつきました。もうさっきから、こんなことではなかろうかと、心配(しんぱい)していたのです。
 もしもそのとき、遠くのほうで、ズドンというにぶい大砲(たいほう)の音がきこえなかったなら、いったい、いつになって、エーランド島(とう)へいけたことやら、わかったものではありません。
 そのとき、アッカは首をのばし、つばさを力づよく打(う)って、全速力(ぜんそくりょく)で飛んでいきました。いまこそ、いくべきところがわかったのです。アッカは灰色(はいいろ)ガンから、エーランド島の南のはしにおりてはいけない、そこには大砲がすえつけてあって、人間がそれを射(う)って霧(きり)を散(ち)らすのだ、と、おそわっていたのでした。だからアッカには、これですっかり方角(ほうがく)がわかったのです。もうこうなれば、だれにも迷(まよ)わされるようなことはありません。
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四月三日 日曜日より 六日 水曜日まで
 エーランド島のいちばん南のはしに、オッテンビューという、古い王家(おうけ)の領地(りょうち)があります。これは島をよこぎって、岸(きし)から岸へとひろがっている、かなり大きなものです。
 ここには、ふしぎと、いつもたくさんの動物たちが住(す)んでいます。十七世紀(せいき)には王さまたちがエーランド島へよく狩(か)りにおいでになりましたが、そのころは、領地ぜんたいがシカの猟苑(りょうえん)になっていました。それが十八世紀になりますと、競馬用(けいばよう)の駿馬(しゅんめ)を飼(か)っている飼養場(しようじょう)や、いく百という羊(ひつじ)のむらがっている飼羊場(しようじょう)となりました。いまでは、いちばん東の岸にそって古い牧羊場(ぼくようじょう)がありますが、それは長さが四分の一マイルもあって、エーランド島一の大きな牧場(まきば)です。そこでは、家畜(かちく)たちがちょうど野原(のはら)にいるのとおなじように、すきなように草をたべたり、遊んだり、駈(か)けまわったりしています。それから、そこには、百年もたったかと思われるカシワの木の森があります。これが、有名なオッテンビュー森で、この森の大きな木々は、動物たちに日かげをつくってくれますし、はげしい風をもふせいでくれます。もう一つ忘(わす)れてはいけないのは、オッテンビューの長い垣(かき)です。これは島をよこぎって、オッテンビューとほかの土地との境(さかい)になっています。そして、この垣のおかげで、動物たちは、古い王家(おうけ)の領地(りょうち)の境(さかい)めを知るのです。この古い領地には、野生(やせい)の動物たちも、たくさんむれをなしてやってきます。
 そのほか、むかしいたシカの子孫(しそん)も、まだ生きのこっています。その上、春や夏のおわりごろには、ここは、いく千という渡り鳥の休み場所になります。ことに、牧羊場(ぼくようじょう)の下の沼(ぬま)の多い東の岸には、たくさんの渡り鳥が舞(ま)いおりて、草をたべたり、休んだりします。
 ガンたちとニールス・ホルゲルッソンが、やっとの思いでエーランド島にたどりついたときも、ほかの鳥とおなじように、みんなは牧羊場(ぼくようじょう)の下の海べにおりました。島の上も、海の上とおなじで、一めんに濃(こ)い霧(きり)がたちこめていました。ところが、ニールスは、岸を見たとき、アッと驚(おどろ)いてしまいました。なぜって、そこには、目のとどくかぎり、かぞえきれないほどの鳥が、うじゃうじゃしているではありませんか。
 見れば、長い砂浜(すなはま)があって、そこには石や水たまりがあり、たくさんの海草(かいそう)が波にうちあげられています。もしもニールスが、すきなようにおしと言われたら、とてもこんなところへおりる気にはなれなかったでしょう。ところが、鳥たちのほうでは、ここをほんとうの楽園(らくえん)とでも思いこんでいるようすです。カモや灰色(はいいろ)ガンは、草地でさかんに草をたべています。水ぎわでは、シギやそのほかの海鳥たちが、はねまわっています。ウミガモは水の中にもぐっては、魚をつかまえています。なにしろ、ここにはたべものがどっさりあるので、たべものに不足(ふそく)したというような話は、まだきいたことがありません。
 たいがいの鳥は、これからもまだ旅をつづけるのです。ですから、ちょっと休むために、ここへおりているのです。それぞれのむれの隊長(たいちょう)は、仲間のものが十分に元気をとりもどしたとみてとると、
「みんな、もういいかい? よければ、出かけるとしよう。」と、言うのでした。
「いいえ、待ってください、待ってください! まだそんなにたべていないんですよ!」と、仲間のものは言いました。
「おまえたち、まさか動けなくなるまで、たべさせてもらえると思っているんじゃないだろうな?」
 隊長(たいちょう)はこう言うと、羽(は)ばたきして飛びたちました。けれど、すぐまた戻(もど)ってこなければなりませんでした。だって、ほかのものたちが、あとにつづかないのです。
 波うちぎわの海草の山の下には、一(ひと)むれの白鳥がいました。白鳥たちは陸の上にいかないで、波にゆられながら休んでいました。そして、ときどき長い首を水の中につっこんでは、海の底(そこ)からたべものをひろいあげました。なにかすばらしいえものをつかまえたときには、まるでラッパのような大きなさけび声をあげて喜(よろこ)びました。
 ニールスは、浅瀬(あさせ)に白鳥たちがいると聞きましたので、さっそく海草の山のほうへおりていきました。まだ一ども野生(やせい)の白鳥をそばで見たことがないのです。そして、さいわいにも、きょうは、すぐそのそばまで近よることができました。
 白鳥がいるという話を聞いたのは、ニールスひとりではありませんでした。ガンをはじめ、灰色(はいいろ)ガンもウミガモも、いそいで海草のほうへ泳(およ)いでいきました。そして、みんなは白鳥たちのまわりにぐるっと輪(わ)になって、じっと白鳥たちを見つめました。白鳥たちははね毛(げ)をさかだて、つばさを帆(ほ)のようにひろげて、首を高くのばしました。そして、ときどきそのなかの一、二羽(わ)が、ガンのところへいったり、大きなウミガモのところへいったり、また、モグリドリのところへいったりして、なにやら話しかけました。すると、話しかけられたほうは、気おくれがしてしまって、返事(へんじ)をするために、くちばしをひらくことさえできないようでした。
 岸近くの海の上を、カモメとウミツバメが飛びまわって、魚をとっていました。
「どんな魚をとっているんです?」と、一羽(わ)のガンがたずねました。
「トゲウオだよ。エーランド島のトゲウオだよ。世界一のトゲウオさ。まだ、たべたことがないのかい?」と、一羽のカモメが答えました。そして、その小さな魚を口いっぱいくわえて飛んできて、ガンにやろうとしました。
「ウワァイ! そんなきたない魚がくえるかい?」と、ガンは答えました。
 つぎの朝は、くもっていました。ガンたちは、牧場(まきば)へいって、たべものをひろいましたが、ニールスは浜(はま)べへいって貝(かい)を集めました。そこには、貝がたくさんありました。あしたは、きっと、たべもののないところにいくだろうと思いましたので、貝を持っていけるように、小さな袋(ふくろ)をこしらえようと思いました。牧場(まきば)でじょうぶな枯(か)れたスゲを見つけて、それで旅行用(りょこうよう)の袋をあみはじめました。なん時間もかかって、やっとつくりあげましたが、ニールスは、それに、たいへんまんぞくしました。
 お昼(ひる)ごはんのころ、ガンたちが、みんなでそろって走ってきました。そして、白いガチョウを見なかったかとたずねました。
「いいや、ぼくといっしょじゃなかったよ。」と、ニールスは答えました。
「ついさっきまでは、わたしたちといっしょだったんですが、どこへいったか見えなくなってしまったんですよ。」と、アッカが言いました。
 ニールスはびっくりして、思わずとびあがりました。キツネかワシでも出てきたのではないだろうか、それとも、人間でも近くにきたのではないだろうかと、ガンたちにたずねてみましたけれども、ひとりとして、そんな危険(きけん)なものを見たものはありません。おそらく、ガチョウは霧(きり)の中で道に迷(まよ)ったのでしょう。
 それはそうとしても、ともかくガチョウがいなくなってしまったということは、ニールスにとっては、たいへんな災難(さいなん)です。そこで、さっそく、さがしに出かけました。霧(きり)がかかっているので、だれからも姿を見られずに、どこへでも走っていくことができましたが、ニールス自身(じしん)も、霧のためにさきをよく見とおすことができません。ニールスは、海岸(かいがん)にそって南のほうへ走っていきました。そして、いちばん南のはしの燈台(とうだい)や霧を散らすために打つ大砲(たいほう)のところまでいってみました。あっちにもこっちにも、鳥がたくさんいますが、ガチョウの姿はどこにも見えません。で、思いきって、オッテンビューの領地(りょうち)の中にはいっていきました。そして、オッテンビュー森の中を、のこらずさがしてみましたが、やっぱりガチョウの足あと一つ見あたりませんでした。
 ニールスが、むちゅうになってさがしているうちに、いつのまにか暗(くら)くなってきました。もう東の岸(きし)にもどらなければなりません。足をひきずるようにして、みじめな気もちで歩いていきました。ああ、ガチョウが見つからなかったら、いったいどうなるだろう。なんとかして、見つけださなければならない。じぶんのためばかりでなく、大すきなガチョウのためにも!
 ところが、牧羊場(ぼくようじょう)を歩いていきますと、霧(きり)の中を、なにか大きな白いものが、こっちへむかってくるではありませんか。それこそ、ガチョウでなくてなんでしょう? ガチョウは、ぶじだったのです。そしていま、ようやくのことで、みんなのところへ帰(かえ)る道が見つかったものですから、たいそう喜(よろこ)びました。霧のためにすっかり迷(まよ)ってしまって、一日じゅう、広い牧場(まきば)をうろつきまわっていたということでした。ニールスは、うれしさのあまり、ガチョウの首のまわりに腕(うで)をまきつけて、これからは気をつけて、もうみんなから離(はな)れないようにしてくれ、とたのみました。するとガチョウは、もう二どとこんなことはしない、けっして、けっしてしない、と、かたく約束(やくそく)しました。
 ところが、そのつぎの朝、ニールスが浜べにいって、貝(かい)をひろっていますと、またもやガンたちが走ってきて、ガチョウの姿を見なかったかとたずねました。もちろん、ニールスはガチョウの姿を見てはいませんでした。そうしてみると、ガチョウは、またいなくなってしまったのです。きっと、きのうとおなじように、また、霧の中で道に迷っているのでしょう。
 ニールスは驚(おどろ)いて、すぐさまさがしに出かけました。オッテンビューの垣(かき)に、一カ所(しょ)こわれているところがありましたので、そこからよじのぼることができました。垣をこしますと、まず浜(はま)べをさがしていきました。そこは、だんだん広くなっていて、畑(はたけ)や牧場(まきば)や農場(のうじょう)をつくろうと思えばつくれるだけの余地(よち)は十分にありました。それからこんどは、島のまんなかにある平(たい)らな高台(たかだい)にのぼっていきました。そこには風車(ふうしゃ)のほかは、建物(たてもの)はなんにもありませんでした。そして、芝草(しばくさ)がたいそううすいために、下の白い石灰質(せっかいしつ)の地肌(じはだ)が輝(かがや)いてみえました。
 けれど、どうさがしてみても、ガチョウの姿は見えません。だんだん、夕やみがせまってきましたので、もう海岸にひきかえさなければなりません。いよいよ、旅の道づれをなくしてしまったと、思うよりほかはありませんでした。ニールスは、すっかりがっかりして、どうしていいのか、わからなくなりました。
 もう一ど、垣の上によじのぼったとき、すぐその近くで、石がガサガサ落ちる音がきこえました。なんだろうと思ってふりかえってみますと、垣の近くにつみかさねられている石の上で、なにかが動いているようです。そっとしのびよってみますと、驚(おどろ)いたことに、あの白ガチョウのモルテンが、長いヒゲ根(ね)をいくつかくわえて、つみ石の上をよたよたと歩いているではありませんか。ガチョウのほうでは、少年の姿に気がついておりません。ニールスのほうでも、ガチョウに声をかけません。なぜって、ニールスとしては、どうしてガチョウがこんなふうにして、二どまでも姿をかくしてしまうのか、そのわけを、まず知りたいと思ったのです。
 そのわけは、すぐにわかりました。見れば、つみ石の上に、一羽(わ)の若いメスの灰色(はいいろ)ガンがすわっています。そして、その灰色ガンは、ガチョウのきたのを見ますと、うれしがって、大きな声をあげました。ニールスが、なおもそっと近よってみますと、ふたりの話がよくきこえました。それで、この灰色ガンは片(かた)ほうのはねをけがしたために、飛ぶことができないのだということがわかりました。そのため、仲間(なかま)のものは、この灰色ガンをたったひとり置きざりにして、飛んでいってしまったのです。灰色ガンは、おなかがへって、いまにも死にそうになっていたのですが、運(うん)よく、きのう、白ガチョウがその声(こえ)を耳にして、見つけてくれたのです。そしてそれからは、白ガチョウが骨(ほね)をおってたべものをはこんでくれているのです。ふたりは、白ガチョウが島からいってしまうまえに、灰色(はいいろ)ガンのはねがすっかりよくなるようにと願(ねが)っていました。けれども、きょうになっても、まだ飛ぶことも歩くこともできません。それで灰色ガンは、たいへん悲(かな)しんでいましたが、白ガチョウは、じぶんはまだしばらく旅には出ないから、安心するように、と言って、なぐさめました。それからさいごに、ガチョウはさようならを言って、あしたまたくる約束(やくそく)をしました。
 ニールスは、ガチョウのあとを見おくって、その姿が見えなくなってしまったとき、こんどは、じぶんがそのつみ石の上にあがっていきました。ニールスは、白ガチョウにだまされたので、プンプンおこっていました。そして灰色ガンに、あのガチョウはじぶんのもので、これから、じぶんをラプランドまでつれていってくれようとしているところだから、おまえなんかのために、こんなところで、ぐずぐずしてはいられない、と言ってやろうと思っていたのです。ところが、ニールスは若(わか)い灰色ガンのそばまでいったとき、驚(おどろ)いてしまいました。なるほど、これでは、ガチョウが二日のあいだ、たべものをはこんでやったり、そのことを話そうとしなかったのも、むりはありません。灰色ガンは、見るからにかわいらしい、ちっちゃな頭をしています。はね毛は、しゅすのようにやわらかで、目には、おだやかな、うったえるような表情(ひょうじょう)をたたえています。
 灰色ガンは、ニールスの姿を見ますと、逃(に)げようとしました。けれども、片ほうのはねが傷(きず)ついているために、地べたをばたばたやるだけで、動くことができません。
「こわがらなくてもいいよ。」と、ニールスは言いました。そして、さっき、おなかの中で考えていたような、怒(おこ)ったようすは、ほとんど見せませんでした。「ぼくはね、ガチョウのモルテンの友だちで、オヤユビ太郎っていうんだよ。」と、つづけて言いましたが、そこでつまってしまって、それからあとは、なんて言ったらいいのか、こまってしまいました。
 動物たちのなかにも、ときには、魔法(まほう)にかけられた人間ではないだろうかと思われるようなものがあります。この灰色(はいいろ)ガンにも、そんなようすがありました。ニールスが、じぶんの名まえを名のりますと、灰色ガンは、いかにもしとやかに頭をさげて、とうていガンとは思えないほどの美しい声で言いました。
「あなたが助けにいらしってくださいまして、あたくし、ほんとうに、うれしゅうございます。白いガチョウさんが、あなたほど賢(かしこ)くて、よいお方(かた)はないと申しておりましたわ。」
 その言いかたが、またとても品位(ひんい)がありましたので、ニールスは、すっかりまごついてしまいました。「これはたしかに、ただの鳥じゃないぞ。」と、ニールスは心の中で思いました。「きっと、どこかのお姫(ひめ)さまが、魔法(まほう)にかけられて姿をかえているんだな。」
 ニールスは、灰色ガンを助けたい気もちで、いっぱいになりました。そこで、小さな手を、ガンのつばさの下につっこんで、つばさの骨(ほね)にさわってみました。すると、骨はおれてはいませんが、関節(かんせつ)がはずれています。そこで、「さあ、いいかい」と、言いながら、管(くだ)のようになった骨をしっかりとつかんで、もとどおりに合わせました。こんなことをするのは、生(う)まれてはじめてですが、そのわりには、なかなかうまく、すばやくやってのけました。でも、かわいそうに、若い灰色ガンにとっては、どんなにひどく痛(いた)かったことでしょう。一声(ひとこえ)するどい悲鳴(ひめい)をあげますと、そのまま、石のあいだにぱったりたおれて、じっと動かなくなってしまいました。
 ニールスは、すっかりあわててしまいました。ただ、助けてやりたいとばかり思ってしたことなのに、灰色(はいいろ)ガンを殺(ころ)してしまったのです。ニールスは、つみ石の上からとびおりるが早いか、いっさんに駈(か)けだしました。まるで、人間を殺したような気もちでした。
 あくる朝は、空は晴(は)れわたって、霧(きり)もすっかりはれていました。アッカは、これから旅をつづけることにする、と言いました。ガンたちはみんな喜びましたが、白いガチョウだけは、いやがりました。ニールスには、ははあ、あの若い灰色ガンのそばを離(はな)れたくないんだな、と、そのわけがよくわかりました。けれども、アッカはガチョウのことばには耳をもかさずに、出発(しゅっぱつ)しました。
 ニールスは、ガチョウのせなかにとびのりました。白いガチョウは、いやいやながら、ノソノソとみんなのうしろを飛んでいきました。ニールスは、いっこくも早くこの島を離(はな)れたいと思っていました。というのは、あの灰色ガンのことで、気がとがめてしかたがなかったからです。そしてまた、なおしてやろうと思っていたのに、あんなとんでもないことになってしまったいきさつを、ガチョウに話したくなかったのです。
「モルテンが、この話を知らないでいてくれれば、それよりいいことはない。」と、ニールスは思いました。でも、それといっしょに、どうして白いガチョウは、灰色ガンのところを離(はな)れる気になったんだろう、と、ふしぎでたまりませんでした。
 ところが、そのうちに、ガチョウは、きゅうに、とんでいたむきをかえました。とうとう、若い灰色ガンのことを思う気もちのほうが、勝ってしまったのです。あの若い灰色ガンが、病気(びょうき)のまま、たったひとりのこされて、いまにもうえ死(じ)にするのではないかと思いますと、モルテンはみんなといっしょにいくことが、できなくなったのです。
 まもなく、ガチョウとニールスは、つみ石のそばにもどってきました。ところが、きょうは、石のあいだに若い灰色ガンの姿が見えないではありませんか。「ダンフィン! ダンフィン! どこにいるの?」と、ガチョウは大声で呼んでみました。
「きっと、キツネにさらわれたんだな。」と、ニールスは心の中で思いました。
 ところが、そのとき、「ここですよ、ガチョウさん、ここですよ! 朝の水あびをしておりましたの。」と、ガチョウに答える美しい声が聞こえてきました。そして、水の中から、小さな灰色ガンが、見ちがえるほど元気そうな姿をあらわしました。そして、灰色ガンは、
「オヤユビさんにつばさをなおしていただいたおかげで、すっかり元気になりました、みなさんとごいっしょに旅にいけますわ」と言いました。
 灰色ガンの、しゅすのようにつややかなはねの上には、しんじゅのような水のしずくがたまっていました。それを見たオヤユビくんは、この鳥はきっと小さなお姫(ひめ)さまにちがいない、とまた思いました。
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四月六日 水曜日
 ガンたちは、下のほうにはっきりと見える、長くのびた島にそって飛んでいました。ニールスは、気もはればれとしていました。きのう、ガチョウをさがしに島を歩きまわったときは、気がめいってしかたがありませんでしたが、きょうは、心からまんぞくしていました。
 島の内部にあるはだかの高地(こうち)と、海岸(かいがん)ぞいの肥(こ)えた、よい土地が見えました。そのとき、ニールスは、ゆうべ聞いた話のいみが、ようやくわかりかけてきました。
 それは、ニールスがしばらく休もうと思って、高地にあるたくさんの風車(ふうしゃ)の一つのそばに腰(こし)をおろしていたときでした。そこへふたりの羊飼(ひつじか)いが、イヌをつれ、たくさんの羊のむれをしたがえてやってきたのです。ニールスは、風車の階段(かいだん)の下にかくれていましたので、ちっともこわくはありませんでした。ところが、その羊飼いたちは、ニールスのかくれている階段の上に腰(こし)をおろしてしまったのです。ですから、ニールスは、そこにじっとかくれているよりほかはありませんでした。
 ひとりは若くて、見るからに羊飼(ひつじか)いらしいようすをしていました。しかし、もうひとりのほうは、年とっていて、すこしかわっていました。からだつきは、がっしりとふしくれだっているのに、頭は小さくて、しかも、とってもおだやかな、やさしそうな顔つきをしているのです。なんだか、頭とからだとが、しっくり合っていないような感じです。
 年よりのほうは、しばらくのあいだじっとすわって、なんともいえないほど疲(つか)れきったようすで、霧(きり)の中を見つめていました。それから、つれの者にむかって話しはじめました。若者(わかもの)のほうは、袋(ふくろ)の中からパンとチーズをとりだして、たべはじめました。そして、ほとんどひとことも言わずに、じっと、しんぼうして、年よりの話を聞いていました。そのようすは、しばらく、おまえさんがしゃべりたいようにしゃべらしておいてあげるよ、とでも腹(はら)の中で思っているようでした。
「エリークさんや、おまえさんになにか話をしてあげるとしよう。」と、年とった羊飼いが言いました。「わしはな、人間も動物も、いまよりずっと大きかった時代には、チョウもうんと大きかったと思うんだ。つまり、そのころは、からだの大きさがなんマイルもあって、はねといったら、海のように広いチョウがいたわけさ。そのはねは、たとえようもないほど青くて、銀(ぎん)のようにピカピカ輝(かがや)いていた。だから、そのチョウが空を飛んでいるときには、どんな動物でも立ちどまって、思わず見とれてしまったものさ。
 ところが、ぐあいの悪(わる)いことには、からだが大きすぎるものだから、なかなかはねでうまくつりあいをとることができない。身のほどをわきまえて、陸地の上を飛んでいるあいだはよかったんだが、このチョウチョウさんは、それではがまんができなくなって、バルト海まで出ていったのさ。ところが、まだいくらもいかないうちに、嵐(あらし)におそわれて、はねが破(やぶ)れはじめたんだ。なあ、エリークさんや、チョウのはねはもろいのに、相手はすさまじいバルト海の嵐なんだから、どうなったかは、おわかりだろう。みるみるうちに、はねはひきさかれ、めちゃめちゃになってしまう。そして、チョウは、海の中に落っこちてしまったのさ。さいしょのうちは、波の上をゆらゆらと、ゆられていたんだが、やがて、スモーランドの海岸ちかくの岩の上に、うちあげられた。そして、そのままそこに、大きなからだを、ながながとねそべらせてしまったのさ。
 ところで、エリークさん、もしこのチョウが、陸の上に落っこちたら、あっというまに、こなみじんになってしまったろうよ。ところが、海の中に落っこちたもんだから、だんだんに石灰水(せっかいすい)がしみこんで、しまいには、石のように固(かた)くなってしまったんだ。ほら、おまえさんも知ってのとおり、岸べには、よく、みょうな石があるだろう。あれは、みんな虫が化石(かせき)したものなのさ。このチョウの場合(ばあい)も、やっぱりおんなじで、バルト海にねころんでいるうちに、そのまま、細長(ほそなが)い岩になってしまったと、わしは思うんだ。おまえさんは、そうは思わんかね?」
 年よりは、ことばをきって、返事(へんじ)を待ちました。すると、若者はうなずいて、「つづけておくれ。さきを聞きたいよ。」と、言いました。
「で、エリークさん、おまえさんやわしの住んでいる、このエーランド島(とう)は、じつをいえば、いま話したチョウのからだなのさ。ちょいと考えてみさえすりゃ、この島が、チョウだったってことはすぐわかるよ。北のほうへいけば、細長い胴(どう)とまるい頭が見えるし、南のほうへいくと、下腹(したはら)が見えるんだが、こっちのほうは、はじめは広くて、それから、だんだんせまくなり、しまいには、とがってしまうんだ。」
 ここで年よりは、またことばをきって、相手の顔をのぞきこみました。相手が、じぶんの話をどう思っているだろうかと、気にしているようでした。けれども、若い羊飼(ひつじか)いは、あいかわらずたべつづけながら、さきを話してくれと、うなずいてみせました。
「それで、そのチョウが石灰岩(せっかいがん)になってしまうと、すぐにいろんな草や木の種(たね)が、風にはこばれてきて、その上に根を生(は)やそうとしたものさ。ところが、そこがスベスベしたはだかの岩なもんだから、長いあいだ、スゲしか生(は)えなかった。しかし、だんだんに、ウシノケグサやモクセイソウやイバラなんかも生えてきたんだよ。けれども、この山の上のアルヴァレットでは、今日(こんにち)になっても、あまり物が育(そだ)たない。ここはよい土の層(そう)がうすいので、耕(たがや)したり種(たね)をまいたりしようとする者がない。だがね、もしおまえさんが、わしの考えにさんせいして、このアルヴァレット山と、まわりの山壁(やまかべ)とが、チョウのからだでできているとすれば、山壁(やまかべ)の下の土地は、いったい、何でできていると思うね?」
「うん、まったくだ。」と、若者は、なおもたべながら言いました。「そいつをききたいね。」
「じゃ、話すがね。エーランド島は、なん年ものあいだ海の中によこたわっていたんだが、そのあいだには、海草(かいそう)だとか、砂(すな)だとか、貝(かい)だとか、いろんなものが波にはこばれてきて、島のまわりに集まったんだ。それから、東と西の山壁からは、石や砂利(じゃり)が落ちてきた。こうして、この島にもだんだん広い海べができて、そこに穀物(こくもつ)や、花や、木が育(そだ)つようになったというわけさ。
 チョウのかたいせなかにあたる、この上では、羊(ひつじ)や牛や子馬が、ぶらぶらしているだけで、鳥にしても、ナベゲリとチドリが住んでいるっきりさ。建物(たてもの)といったら、風車と、おれたち羊飼いが雨つゆをしのぐ、石造りのおそまつな小屋が二つ三つあるだけさ。ところが、海岸のほうへおりていけば、大きな村もあるし、教会(きょうかい)もある。漁村(ぎょそん)もあれば、りっぱな町もあるんだ。」
 年よりは、さぐるように相手の顔を見ました。若者は、ちょうど食事(しょくじ)をおえたところで、いましも袋の口をしめていました。そして、「あんたは、どこでその話をおしまいにする気かね?」と、言いました。
「いや、わしの知りたいのは、たった一つ。」と、羊飼(ひつじか)いは言いましたが、声をおとしましたので、まるで、ささやくようにしか聞こえませんでした。そして、その小さな目で、じっと霧(きり)の中を見つめていましたが、その目は、この世にないものをさがし求(もと)めて、疲(つか)れきっているようでした。「わしの知りたいのは、たった一つのことだけさ。つまり、山壁(やまかべ)の下の農場(のうじょう)に住む百姓(ひゃくしょう)や、海からニシンをとってくる漁師(りょうし)や、ボルイホルムに住んでいる商人(しょうにん)や、夏になると、まいとしやってくる海水浴(かいすいよく)の客や、ボルイホルムの古いお城(しろ)のあとを見物して歩く観光客(かんこうきゃく)や、秋になると、ここへシャコを射(う)ちにくる狩猟家(しゅりょうか)や、このアルヴァレットの上にすわって、羊や風車を描く画家(がか)や、そういう人たちのなかで、ひとりでも、この島が、もとは、大きなピカピカするはねで大空を飛びまわっていたチョウだったということを、知っている者があるかどうかということなのさ。」
「ああ、いや、」と、若い羊飼いが、きゅうに言いました。「夕がた、この山壁のはしにすわって、ふもとの森でナイチンゲールの歌うのを聞きながら、カルマール海峡(かいきょう)をながめれば、この島が、ほかの島とおなじようにしてできたものではないと思う者も、あるにちがいないよ。」
「それから、」と、年よりは話をつづけました。「この風車に、天までとどくくらいの大きなはねをつけてやろうという人は、ないもんかなあ。この島ぜんたいを海から持ちあげて、チョウのように飛ばすことのできる、大きなはねをさ。」
「あんたの言うことには、もっともらしいところがあるよ。」と、若者は言いました。「だって、この島の上に大空があかるく、ひろびろとひろがっている夏の夜なんかには、なんだか、この島が海から立ちあがって、空に飛んででもいきたいようなようすに見えることがあるもの。」
 年よりは、とうとう、若者を話の中にひきずりこんでしまいました。しかし、若者の言うことには、あまり耳をかしませんでした。そして、さらに声を低(ひく)くして言いました。
「このアルヴァレットにいると、どうして、そういうあこがれが起(お)こってくるのか、そのわけを、説明(せつめい)できる人があるかなあ。わしは、まいにちまいにち、そういうあこがれを感じるんだ。いや、ここへくるものは、みんなそういうあこがれを感じるようだ。そういうあこがれが、わしたちに起こってくるのは、この島ぜんたいが一羽(わ)のチョウで、そのチョウが、はねをほしがっているからだということを、わかる人があるだろうかなあ。」
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四月八日 金曜日
 ガンたちは、その夜、エーランド島(とう)の北のはしですごしました。そして、これから陸地(りくち)へむかっていこうというのです。強い南風が、カルマール海峡(かいきょう)の上を吹いていて、ガンたちは、北へ北へと押(お)しもどされました。それでもみんなは、速力(そくりょく)をはやめて、ぐんぐん陸地(りくち)のほうへ飛んでいきました。けれども、いちばんさいしょの島々に近づきかけていたとき、ごうごうという、ものすごい物音が聞こえてきました。まるで、つばさの強い鳥が、むれをなして飛んでくるようです。みるみるうちに、海の水はまっ黒(くろ)になってしまいました。アッカは、きゅうにつばさをおさめて、空にじっとしていました。それから、すぐに舞(ま)いおりました。しかし、ガンたちが、まだ水の上におりきらないうちに、暴風(ぼうふう)がおそってきました。暴風は砂煙(すなけむり)をまきあげ、海のあわを吹きとばし、小鳥をふきまくりました。ガンたちも、暴風(ぼうふう)に追いまくられて、とうとう広い海に追い出されてしまいました。
 すさまじい嵐(あらし)です。ガンたちは、なんどもなんども、ひきかえそうとがんばってみましたが、どうしようもありません。だんだん、バルト海のほうへ吹き流されていきました。いまはもう、エーランド島もすぎて、目に見えるものは、ただ、ひろびろとした灰色(はいいろ)の海ばかりです。こうなっては、風にさからわないようにするほかありません。
 アッカは、とうてい陸地のほうへひきかえすことはできないと見てとりましたが、といって、暴風に吹き流されていくのもまずいと思いました。そこで、水の上におりました。海の波は、刻(こく)一刻と高くなり、はげしくあわをとばしています。まるで、たがいに高くなりっこをしたり、あわのとばしっこをしているようです。けれども、ガンたちは波のうねりをすこしもこわがりません。それどころか、かえって、とても喜んでいるようです。みんなは、泳(およ)ごうとはしないで、波のうねりに身をまかせて、ちょうど、赤ん坊が、ハンモックで喜ぶように、楽(たの)しんでいました。しばらくは、こうしてうまくいきました。でも、たった一つ心配なのは、みんなが、はなればなれになってしまうことです。そのとき、暴風(ぼうふう)に吹きまくられて、そばを飛んでいった陸鳥(りくどり)が言いました。「泳げるものは、いいなあ。危険(きけん)がないんだもの。」
 しかし、ガンたちにしても、まるっきり危険がないわけではありません。だいいち、波にゆられているうちに、たまらないほど眠(ねむ)くなってきました。それで、しょっちゅう首をまげて、くちばしをはねの下につっこんでは、うとうとしようとするのです。ですからアッカは、ひっきりなしにさけびつづけました。
「眠っちゃだめだ。眠ったものは、はぐれるぞ。はぐれた者は、死んでしまうぞ。」
 いくら眠らないでいようとがまんしてみても、つぎつぎに眠るものが出てきました。アッカ自身(じしん)でさえも、つい、うとうとしかけました。と、そのとたんに、なにかまるい黒いものが、波がしらに浮(う)かびでました。
「アザラシだ! アザラシだ! アザラシだ!」と、アッカは、耳をもつんざく鋭(するど)いさけび声をあげながら、はげしく羽(は)ばたきして、空に舞いあがりました。まさに、間一髪(かんいっぱつ)です。さいごのガンが、水からあがったときには、あやうくアザラシに足をくわえられるところでした。
 こうして、ガンたちは、またも暴風(ぼうふう)の中にはいりましたので、ますます沖(おき)へ吹き流されました。暴風は、一時も休まず、ガンたちも、片時(かたとき)もじっとしていることができません。もはや陸地は、影(かげ)も形も見えず、見わたすかぎり、はてしのない海が、つづいています。
 ガンたちは、思いきって、もう一ど海の上におりました。けれども、しばらく波にゆられているうちに、また眠くなってきました。そして、ほんとうに、うとうとしはじめたとき、またもやアザラシがやってきました。もしもそのとき、アッカが、すばやく目をさまさなかったら、一羽(わ)も助からなかったことでしょう。
 暴風は、一日じゅう休みもなく荒(あ)れくるいました。そして、この季節(きせつ)に渡ってくる、たくさんの小鳥のむれを、さんざんな目にあわせました。小鳥たちの中には、道に迷(まよ)って遠い国に吹き流され、そこで、うえ死にしたものもありますし、疲(つか)れはてて海に落ちて、おぼれ死んだものもあります。また、絶壁(ぜっぺき)にたたきつけられて、むざんな死にかたをしたものもあれば、アザラシのえじきになったものもあります。
 とうとう、さすがのアッカも、いよいよ、じぶんたちのむれも、おしまいかと思うようになりました。いまはもう、すっかり疲(つか)れきってしまいました。しかも、どこを見まわしても、休むようなところはありません。夕がたになりますと、海の上におりるわけにもいかなくなりました。というのは、とつぜん、大きな氷(こおり)のかたまりが、あっちにもこっちにもあらわれてきて、たがいにぶっつかりあっているのです。ですから、海の上におりたがさいご、そのあいだにはさまれて、こなごなにされてしまうでしょう。そこで、ガンたちは、二どばかり氷のかたまりの上におり立とうとしました。ところが、一どは暴風に吹きまくられて、水の中に落ちてしまいましたし、もう一どは、むじひなアザラシが、その氷のかたまりの上にまで、はいあがってきたのです。
 お日さまの沈むころ、ガンたちはもう一ど、空に舞(ま)いあがりました。みんなは、夜のくるのをおそれながら、飛びつづけました。危険(きけん)な今夜(こんや)にかぎって、なんだか、早く暗くなるような気がしてなりません。
 しかも、おそろしいことに、陸地は、まだ見えないではありませんか。一晩(ひとばん)じゅう、海の上にいなければならないとしたら、いったい、どうなることでしょう? おそらく、氷のかたまりのあいだにはさまれて、押(お)しつぶされてしまうでしょう。でなければ、アザラシにくわれるか、暴風(ぼうふう)のために、はなればなれになってしまうよりほかありません。
 空は、一めんに雲でおおわれて、月は、姿をかくしています。たちまちのうちに、まっくらやみになりました。と、どうじに、あらゆるものが、おそろしさにみちみちて、どんな勇気のある人でも、思わずひるんでしまうほどでした。弱りはてた渡り鳥たちの、助けを求(もと)めるさけび声が、一日じゅう、むなしく、海の上にひびいていました。しかし、その声の主(ぬし)の姿も、見えなくなったいまでは、ひっしのさけび声が、悲(かな)しく、おそろしくひびきました。海の上では、氷のかたまりが、すさまじい音を立てながら、ぶっつかりあっています。アザラシたちは、あらあらしい狩(か)りの歌をうたっています。まるで、天と地とが、いまにも、くずれようとしているかのようです。

 ニールスは、しばらく海を見おろしていました。と、とつぜん、海がまえよりも、はげしいうなり声をあげているような気がしました。はっとして、目をあげてみますと、じぶんのまっ正面(しょうめん)に、しかもたった二メートルの鼻(はな)さきに、ものすごい絶壁(ぜっぺき)が、きり立っているではありませんか。その足もとには、波がまっ白なあわをとばして、くだけ散(ち)っています。ガンたちは、その崖(がけ)めがけて、ま一文字(もんじ)に飛んでいくのです。ニールスは、いまにもその崖にぶっつかって、こなごなになってしまうのではないかと、ハラハラしました。けれども、ガンたちは、あっというまに、その崖を飛びこえてしまいました。すると、前のほうに、ほら穴(あな)に通じる半円形(はんえんけい)の入口が見えました。ガンたちは、その中に飛びこんで、ようやく安全(あんぜん)になりました。
 みんなは、じぶんの身の安全を喜(よろこ)ぶまえに、まず考えたことは、仲間(なかま)のものが、ぶじに着(つ)いたかどうかということでした。見ると、たしかにアッカをはじめ、ユクシ、コルメ、ネリエー、ヴィシ、クウシ、それから六羽(わ)の若いガン、それにガチョウとダンフィンとオヤユビくんがいます。でも、左の列の先頭(せんとう)を飛ぶカクシの姿が見えません。しかも、だれひとり、カクシがどうなったかを知っているものはないのです。
 ガンたちは、仲間からはぐれたのが、カクシひとりだと知りますと、たいして気にしませんでした。だって、カクシは年もとっていて、りこうなガンです。それに、道もよく知りつくしていますし、仲間の習慣(しゅうかん)なども、よく知っているのです。ですから、カクシなら、きっといつかは、もどってくるでしょう。
 それから、ガンたちは、ほら穴の中を見まわしました。入口からさしこんでくる光のおかげで、そのほら穴が、深くてひろいことがわかりました。みんなは、こんなりっぱな夜の宿(やど)が見つかったことを、心から喜びました。と、そのとき、仲間のひとりが、暗いすみっこのほうに、キラキラした緑(みどり)の点(てん)が、いくつも光っているのを見つけました。
「あれは目だ!」と、アッカがさけびました。「このほら穴の中には、大きな動物がいるぞ!」
 みんなは、あわてて入口のほうへ飛びだしました。けれども、やみの中でもよく見えるオヤユビくんがさけびました。「逃(に)げなくてもだいじょうぶだよ! 羊(ひつじ)が二、三びき、壁(かべ)のそばにねているだけだから!」
 ガンたちは、ほら穴(あな)の中のほのかな光に目がなれてくるにつれて、羊たちが、はっきり見えてきました。おとなの羊たちは、ガンたちと同じくらいいるようです。なおそのほかに、子羊が二、三びきいます。長い、まがった角(つの)のある年とった牡羊(おひつじ)が、そのむれのかしらのように見えます。ガンたちは、なんども、おじぎをしながら、その前に進みでました。そして、「いいところで、お目にかかりました!」と、あいさつしましたが、大きな牡羊(おひつじ)は、ねころんだまま、ひとことも、かんげいのあいさつをしてはくれませんでした。
 ガンたちは、羊のほら穴(あな)の中に、じぶんたちがはいりこんだので、きっと羊たちがきげんを悪(わる)くしているのだろうと思いました。「わたしどもが、ここへはいってまいりまして、さぞご不快(ふかい)でしょうが、」と、アッカが言いました。「なにしろ、暴風に吹き流されて、どうしようもなかったのです。一日じゅう、吹きまくられてしまいました。こんや一晩(ひとばん)だけ泊(と)めていただければ、まことにしあわせなんですが。」
 しばらくしてから、羊の中の一ぴきが、なにか答えましたが、そのとき、そばにいる二、三びきのものが、深いため息(いき)をつきました。アッカは、いぜんから、羊というものは、内気(うちき)で、かわった動物だということは知っていましたが、この羊たちは、そうではなくて、どうしたらいいのか、こまっているようすです。
 とうとう、悲(かな)しげな、長い顔をした年よりの牝羊(めひつじ)が、あわれっぽい声で言いました。「だれひとり、あなたがたをお泊(と)めするのをいやがったりするものはございません。けれども、ごらんのとおりのあばら家(や)ですから、いぜんのように、お客さんをおむかえするわけにいかないのです。」
「どうぞ、そんなことは気になさらないでください。」と、アッカはいそいで言いました。「きょうは、一日じゅうひどい目にあっているものですから、ただ安心して眠(ねむ)れる場所さえあれば、うれしいのです。」
 アッカがこう言いますと、その牝羊(めひつじ)は、からだを起(お)こして言いました。「いえ、ここへお泊(と)まりになるよりは、嵐(あらし)の中を飛びまわっているほうが、まだましでしょうよ。でも、そのまえに、できるだけのおもてなしはいたしますが。」
 それから、牝羊(めひつじ)は、水のいっぱいたまっている、くぼんだところへ案内(あんない)していきました。そのそばには、モミガラやキリワラが、高くつまれています。牝羊はそれを見せて、たくさん召(め)しあがってください、と、ガンたちに言いました。「ことしの冬は、ひどい雪でしてね。わたしどもを飼(か)っているお百姓(ひゃくしょう)さんが、ホシグサやカラスムギのワラを持ってきてくれなかったら、わたしどもは、うえ死にするところだったんですよ。ここにあるのは、その残りなのです。」
 そう言われて、ガンたちはすぐさまそのたべものにとびつきました。みんなは、運(うん)がよかったと思って、大よろこびでいました。もちろん、羊たちがたいそう心配そうにしているようすを見てはいましたが、羊というものは、ひどくおくびょうな動物だということを知っていましたから、まさか、ほんとうの危険(きけん)がせまっていようなどとは、夢(ゆめ)にも思いませんでした。ですから、みんなは、腹(はら)いっぱいたべてしまいますと、いつものように、すぐ眠るつもりでいました。すると、大きな牡羊(おひつじ)が立ちあがって、ガンたちのほうへやってきました。ガンたちは、こんな大きな、がっしりとした角(つの)のある羊を、まだ見たことがありませんでした。しかも、そればかりではなく、ひたいは高くこぶのようになっていて、目は、りこうそうで、態度(たいど)はじつにりっぱです。いかにも、どうどうたる勇敢(ゆうかん)な動物のように見えます。
「わたしどもとして、あなたがたをここにお泊(と)めするからには、ここが安全(あんぜん)な場所(ばしょ)ではないということを、申しあげておかなければなりません。」と、その牡羊(おひつじ)は言いました。「いまのところ、わたしどもは、夜のお客はみんなおことわりしているのです。」
 アッカにも、ようやく、これはまじめで言っているのだということが、わかってきました。そこで、「あなたがたがおのぞみなら、出てもいきますが、そのまえに、いったい何でおこまりになっているのか、お話しねがえませんか? わたしどもには、何のことやらさっぱりわかりません。だいいち、どこへ来てしまったのかさえもわからないのです。」と、アッカは言いました。
「ここは、小カール島(とう)です。」と、牡羊(おひつじ)は答えました。「ゴットランド島の西にあたります。そして、ここには羊と海鳥しか住んでおりません。」
「そうすると、あなたがたは、野育(のそだ)ちなんですね?」と、アッカはたずねました。
「ええ、そう言ってもいいでしょうね。」と、牡羊は答えました。「人間とは、なんの関係(かんけい)もないのですから。われわれと、ゴットランド島の、ある農園(のうえん)のお百姓(ひゃくしょう)さんたちのあいだには、昔(むかし)から、取りきめがあるのですよ。つまり、冬の雪がふるころになると、お百姓さんたちは、われわれにかいばを持ってきてくれる。そのかわりに、われわれのあいだから、多すぎるものをつれていってもいいということになっているのです。この島は、ひじょうに小さいものですから、あんまりたくさんいては、とても養(やしな)っていけないのです。しかし、そのほかのことについては、一年じゅう、じぶんたちでしまつしなければなりません。そんなわけで、われわれは、戸や錠(じょう)のついた小屋には住まずに、こんなほら穴(あな)の中にいるのですよ。」
「なんですって? 冬でもこんなところにいるんですか?」と、アッカはびっくりして、ききかえしました。
「もちろんです。」と、牡羊(おひつじ)は答えました。「この山の上には、一年じゅう、いいかいばがありますからね。」
「そうしてみると、あなたがたは、ほかの羊よりもいいお暮(く)らしをなさっているように思われますが、」と、アッカは言いました。「いったい、その不幸(ふこう)というのは、どんなことですか?」
「じつは、こういうわけです。」と、牡羊は話しだしました。「きょねんの冬は、ひどい寒さで、海がすっかりこおってしまいました。すると、三びきのキツネが、その氷の上をわたってきましてね、それいらい、ここに住みついているのです。あいつらさえいなければ、この島には危険(きけん)な動物は一ぴきもいないのですがね。」
「だけど、あなたがたのような動物をも、キツネはおそってくるんですか?」
「いや、昼間(ひるま)はそんなことはありません。昼間なら、じぶんをも家族(かぞく)をもまもれます。」と、牡羊は角(つの)をふりながら言いました。「ところが、あいつらは、夜、われわれがほら穴(あな)で眠っているときに、こっそり、しのんできて、おそいかかるのです。もちろん、できるだけ目をさましているようにしてはいますが、だれだって、すこしは眠らなければならないでしょう。やつらは、そこをねらっているのです。ほかのほら穴の羊は、もうみんな殺されてしまいましたよ。わたしの家族と同じくらいのむれがいたのですが。」
「あたしたちが、こんなにいくじのないことをお話ししなければならないなんて、ほんとにおはずかしいことです。」と、こんどは、年よりの牝羊(めひつじ)が言いました。「あたしたちが、もし飼(か)われている羊でしたら、もうすこしどうにかなるかもしれませんけれど。」
「キツネは、こんやもくるとお思いですか?」と、アッカがききました。
「まず、くると思うよりほかありませんね。」と、年よりの牝羊(めひつじ)が答えました。「あいつらは、ゆうべもやってきて、子羊をさらっていったんですよ。わたしたちが、一ぴきでも生きのこっているあいだは、かならずやってきますね。ほかのほら穴でも、そうだったんですから。」
「しかし、このままほうっておけば、あなたがたも、ぜんめつしてしまいますね。」と、アッカは言いました。
「ええ、このあんばいでは、小カール島に、羊が一ぴきもいなくなる日は、ちかいでしょうよ。」と、牝羊(めひつじ)はため息をつきながら言いました。
 アッカは、どうしたものかと迷(まよ)っていました。また、嵐(あらし)の中へ出ていくのもいやですし、そうかといって、そんなおそろしいお客のくる家にいるのも、ありがたいことではありません。アッカはしばらく考えてから、オヤユビくんにむかって、「いままでも、たびたび助けてもらいましたが、こんども、なんとか助けてはもらえませんか?」と、言いました。
 すると、ニールスは、よろしい、しょうちした、と、答えました。
「あなたが眠ることができないのは、ほんとにお気のどくですが、」と、アッカは言いました。「どうか、こんやも目をさましていて、キツネがきたら、われわれを起こしてくれませんか。そうすれば、われわれはぶじに逃(に)げられますからね。」
 これはありがたい役(やく)めではありませんが、嵐の中にまた出ていくよりは、ずっとましです。そこで、ニールスは、目をさましていようと約束(やくそく)しました。
 ニールスは、ほら穴(あな)の入口にいって、嵐をよけるために、石のかげにはいりこんで、見はりをはじめました。
 しばらくそこにすわっているうちに、嵐はしだいに静(しず)まってきました。やがて、空は晴れあがって、お月さまの光が、波の上にたわむれはじめました。ニールスは入口に歩いていって、外をながめました。このほら穴は、山のかなり高いところにあって、ここへはけわしい小道がたった一つ通じているだけです。たぶんキツネは、この小道をやってくるのでしょう。
 まだ、キツネの姿は見えませんが、そのかわり、とんでもないものが見えました。ひと目見ただけで、ニールスは、ふるえあがってしまいました。山の下の、わずかな浜(はま)べに、大男やら、石で造ったなにかきみの悪(わる)いものが、いくつもいくつも、立っているのです。ひょっとすると、これは、ほんとうの人間かもしれません。さいしょは、夢(ゆめ)をみているのだろうと思いました。でも、すぐに夢ではないことが、はっきりしてきました。大きな男の姿が、たしかに見えるのです。どうしたって、目のせいではありません。浜べに立っているものもあれば、まるでよじのぼろうとするように、山にぴったりとくっついているものもあります。大きな頭をしているものがあるかと思えば、ぜんぜん、頭のないものもあります。また、腕(うで)が一本しかないものもありますし、せなかと胸(むね)に、こぶをしょいこんでいるものもあります。ニールスは、いままで、こんなへんてこなものを見たことがありません。
 ニールスは、そこに立ったまま、あまりのきみ悪(わる)さに、ふるえあがっていました。それで、キツネの見はりをしていることは、まるで忘れていました。と、そのとき、ガリガリと、石に爪(つめ)のぶっつかる音が聞こえました。見ると、三びきのキツネが、崖(がけ)をのぼってきます。ニールスは、いよいよ敵(てき)がやってきたなと思ったとたんに、心がすっかりおちついて、いままでのこわい気もちは、どこかへきえてしまいました。それにしても、ガンたちだけを起(お)こして、羊たちを見殺(みごろ)しにしてしまうのはかわいそうです。そこで、なんとか工夫(くふう)をして、助けてやりたい、と、思いました。
 そう思ったとたんに、ニールスは、ほら穴(あな)の中に大いそぎで駈(か)けもどって、大きな牡羊(おひつじ)の角(つの)をゆすって起(お)こしました。そして、すぐさま、そのせなかにとびのりました。「さあ、起きるんだよ、おじさん、キツネのやつらを、ちょっとおどかしてやろうじゃないか!」と、ニールスはささやきました。
 ニールスは、できるだけ静かにしようとしましたが、それでも、キツネたちは物音を聞きつけたのにちがいありません。ほら穴の入口まできますと、はたと立ちどまって、考えこんでしまいました。
「たしかに、なにか動いたぞ。」と、一ぴきのキツネが言いました。「目がさめてるんだろうかな。」
「おい、ちょっといってみろ。」と、もう一ぴきのキツネが言いました。「なんにしたって、やっこさんたち、おれたちに、はむかえっこねえんだから。」
 キツネたちは、ほら穴の中にかなりはいったところで、また立ちどまって、かぎまわし[#「かぎまわし」はママ]ました。「こんやは、どいつをとってやろうか?」と、いちばんさきのキツネが小声で言いました。
「こんやは、あのでかい牡羊(おひつじ)をとろうぜ。」と、いちばんあとのキツネが言いました。「そうすりゃ、あとのやつらはわけなしさ。」
 ニールスは、牡羊のせなかにまたがって、キツネがしのびよってくるのを見ていました。そして、
「それっ、まっすぐに突(つ)け!」と、牡羊に、ささやきました。
 牡羊は、もうれつに突っかけました。みるまに、先頭(せんとう)のキツネは、ほうほうのていで、入口に突きもどされました。
「それっ、こんどは左へ突(つ)け!」と、ニールスは言って、牡羊(おひつじ)の頭を左に向けました。牡羊は、またもはげしく突っかけて、二ばんめのキツネのわき腹(ばら)を突きさしました。すると、キツネはなんどもころげまわってから、ようやく立ちあがって逃(に)げだしました。ニールスは、三ばんめのやつも、突いてやろうと思いましたが、そいつは早くも逃げていってしまいました。
「あのくらい、やっつけておけば、今夜(こんや)のところはたくさんさ。」と、ニールスは言いました。
「わしもそう思います。」と、大きな牡羊(おひつじ)が言いました。「さあ、わしの毛の中にもぐりこんで、ねころんでください! あんなにひどい嵐(あらし)の中を、おもてにいて、番(ばん)をしていてくださったんだから、こんどはあたたかく、気もちよくやすんでください。」

四月九日 土曜日
 そのつぎの日、大きな牡羊(おひつじ)は、ニールスをせなかにのせて、島を案内(あんない)してまわりました。この島は一つの大きな岩でできていました。そして、まっすぐ切り立った壁(かべ)と、ひらたい屋根(やね)とを持った、大きな家のようでした。牡羊は、まずさいしょに、その岩の屋根にのぼって、ニールスに、そこの牧草地(ぼくそうち)を見せました。ニールスは、この島がとくに羊のためにつくられているような気がしました。というのは、この山には、スカンポや、羊のすきな香(かお)りのいい小さい草のほかは、ほとんど何も生(は)えていないのです。
 けれども、崖(がけ)の上に出れば、羊のすきな草のほかに、まだ見るものがありました。それは、広い広い海です。いまは、お日さまの光をうけて、青々と輝(かがや)き、ピカピカした白い波をうねらせています。あちこちの岬(みさき)には、波がくだけて、まっ白にとびちっています。東のほうには、なだらかに長くのびた、ゴットランド島(とう)の海岸線(かいがんせん)が見えます。南西には、大カール島が横たわっていますが、この島も小カール島と同じようにつくられたもののようです。牡羊(おひつじ)が、岩屋根のずっとはしにまで歩みよりますと、山壁(やまかべ)が見おろせました。見ると、そこには鳥の巣(す)がいっぱいありました。その下の青い海では、いろんな種類(しゅるい)のカモメやカモやウミガラスやウミスズメなどが、さかんに小さなニシンをとっていました。そのありさまは、いかにものどかで、楽(たの)しそうでした。
「ここは、ほんとうにめぐまれた土地(とち)だね。」と、ニールスは言いました。「きみたちは、まったくいいところに住んでいるんだね、羊(ひつじ)のおじさん。」
「もちろん、ここはすばらしいところです。」と、牡羊(おひつじ)は言いました。まだなにかつけ加(くわ)えて言いたいようすでしたが、なにも言わないで、ただため息をつきました。「このへんを、ひとりでぶらぶらなさるときには、この山のほうぼうにある裂(さ)けめに気をつけなければいけませんよ。」と、牡羊(おひつじ)は、しばらくたって言いました。これは、ありがたい忠告(ちゅうこく)です。言われてみれば、なるほど、あちこちに深くて広い裂(さ)けめがあります。その中でいちばん大きいのを、じぶんたちは「地獄穴(じごくあな)」と呼んでいる、と、牡羊は説明しました。その裂けめは、深さがいく尋(ひろ)もあって、広さも一尋(ひろ)ぐらいはあるということです。「その穴に落っこちたら、それこそおしまいですよ。」と、牡羊は言いました。ニールスは、牡羊の言ったことばには、なにか、特別ないみが、あるような気がしました。
 それから、牡羊(おひつじ)は、ニールスをせまい浜(はま)べに案内(あんない)していきました。そこには、ゆうべあんなにこわかった巨人(きょじん)が目の前にずらりと並(なら)んでいます。いま見れば、それは大きな岩柱(いわばしら)ではありませんか。ニールスは、もしも、石になった鬼(おに)というものがあるならば、きっと、こんなふうに見えるにちがいない、と思いました。
 下の浜べも美しいところでしたが、ニールスは、山の上のほうがずっとすきでした。だって下のほうは、きみが悪くてたまりません。なにしろ、あっちにもこっちにも、羊の死がいが、ごろごろしているんですから。つまり、キツネたちは、いつもここでえものを食(く)っては、大さわぎをするのでした。肉(にく)だけ食ってしまって、骨ばかり残っているのや、半分ぐらい食いちらかしたのや、ほとんど手もつけてないのや、ともかく、見るもむざんなありさまです。これを見れば、キツネのやつらが、ただおもしろ半分に、羊をおそっては、裂(さ)き殺しているのだということがわかります。
 大きな牡羊は、死がいの前に立ちどまらないで、だまってそばを通りすぎました。けれども、ニールスは、そのおそろしい光景(こうけい)をすっかりながめました。見ないではいられなかったのです。
 それから、牡羊(おひつじ)はまた山の上にのぼりました。そして、立ちどまって、言いました。「もし力があって、賢(かしこ)いかたが、この悲惨(ひさん)なありさまをごらんになれば、キツネどもが罰(ばつ)をうけないうちは、じっとしてはいらっしゃれないでしょう。」
「しかし、キツネだって、生きていかなければならないからね。」と、ニールスは言いました。
「そりゃあ、そうですとも。」と、大きな牡羊は言いました。「じぶんが生きていくのに、必要(ひつよう)いじょうの動物を殺さないものは、生きていたっていいですがね。ところが、あいつらときたらまったくひどいんですよ。」
「この島の持ちぬしのお百姓(ひゃくしょう)さんたちがきて、きみたちを助けそうなものだがね。」と、ニールスは言ってみました。
「お百姓(ひゃくしょう)さんたちは、なんどもきたんですが、」と、牡羊は答えました。「キツネのやつらは、いつも穴(あな)や裂(さ)けめにはいりこんでかくれてしまいますから、射(う)とうにも射つことができないんですよ。」
「おじさん、きみたちやお百姓さんたちでも、どうすることもできなかったんだから、ぼくみたいなちっぽけなものには、あいつらをやっつけることなんか、とうていできないね。」
「小さな、すばしこい者のほうが、いろんなことをうまくやってのけるものですよ。」と、大きな牡羊(おひつじ)が言いました。
 ふたりは、このことについては、それいじょう何も話しませんでした。そして、ニールスは、山の上で草をたべているガンたちのところへいって、そのあいだにすわりました。牡羊のまえでは、じぶんの気もちをあらわしはしませんでしたが、ニールスは、心の中では羊たちの悲しい運命(うんめい)を、たいへん気のどくに思っていたのです。そして、なんとかして、助けてやりたいと思っていたのでした。「とにかく、アッカやガチョウのモルテンに、話してみよう。」と、ニールスは思いました。「なにか、いいちえを、かしてくれるかもしれない。」
 それからしばらくたって、白いガチョウは、ニールスをせなかにのせて、山の平地(へいち)をよこぎり、地獄穴(じごくあな)のほうに、むかっていきました。
 ガチョウは、なに一つさえぎるもののない山の頂(いただ)きを、へいきで歩いていきました。じぶんのからだが、まっ白で大きいなどということは、まるで考えてもいないようです。草むらや土の盛(も)りあがったところをさがして、かくれようとするわけでもなく、かまわずまっすぐに、歩いていきます。ちっとも用心をしないのは、まことにふしぎです。なぜって、きのうの嵐(あらし)のために、けがをしているらしいのですから。右足はびっこをひいていますし、左のつばさは、まるで折れてでもいるように、地べたにひきずっているのです。
 ガチョウは、危険(きけん)などは、まるでないというような顔つきで、ぶらぶら歩きまわっては、あちこちで、草の葉をつついています。ちっとも、あたりに気をくばってはおりません。ニールスも、ガチョウのせなかにながながとねそべって、青い空を見あげています。いまでは、乗っていることにもなれてきましたので、ガチョウのせなかの上で、立ったり、ねころんだりすることもできたのでした。
 ガチョウも、ニールスも、こんなにのんびりしていましたので、いましも、三びきのキツネが、山の上に姿をあらわしたのには、もちろん、気がつかないようでした。
 キツネのほうは、何もない平地(へいち)で、ガチョウをつかまえることは、とてもむりだと知っていましたから、さいしょのうちは、ガチョウのあとを追うのは、よそうと思いました。けれども、そのうちに、がまんができなくなって、とうとう、長い裂(さ)けめの一つの中にとびこんで、こっそりと、ガチョウのほうに近よろうとしました。キツネたちは、注意(ちゅうい)ぶかく、そっと、近づいていきましたので、ガチョウの目には、キツネの影(かげ)さえはいらないようでした。
 キツネたちが、あまり遠くないところまできたとき、ガチョウは、飛びあがろうとしました。つばさをひろげて、羽(は)ばたいてみましたが、からだがうまく持ちあがりません。キツネたちは、ガチョウが、飛ぶことができないと見てとりますと、いきおいづいて前進(ぜんしん)しました。そして、もう裂けめの中にじっとかくれていることができなくなって、穴からとびだしました。キツネたちはなるべく草むらや岩かげに、身をひそませながら、だんだん、ガチョウに近づいていきました。それでも、ガチョウのほうは、まだ、ねらわれているとは、夢(ゆめ)にも知らないようすです。とうとう、キツネたちは、もうすこしでガチョウにおどりかかれるほど、ちかくまでせまりました。そして、ここぞとばかり、三びきいっせいに、ガチョウめがけておどりかかりました。
 ところが、間一髪(かんいっぱつ)のところで、ガチョウは感づいたのにちがいありません。さっと、わきへとびのきました。キツネどもは、もののみごとに失敗(しっぱい)です。けれども、まだまだ危険(きけん)はせまっています。なにしろ、ガチョウは、ほんの二メートルぐらいさきへいっただけなのですから。おまけに、びっこをひいているではありませんか。そしてガチョウのモルテンは、あわれにも、一もくさんに逃(に)げていきます。
 ニールスは、ガチョウのせなかに、うしろむきにすわって、キツネたちにむかってさけびました。
「きさまたちは、羊の肉(にく)を食(く)って肥(ふと)りすぎたな。やい、キツネめ。ガチョウさえつかまえられないじゃないか。」と、さかんにからかいました。怒(いか)りくるったキツネたちは、われを忘(わす)れて追いかけました。
 白いガチョウは、あの大きな裂(さ)けめのほうへ、まっすぐに走りました。そこまでいくと、つばさをひとうちして、ひらりと、飛びこえました。すぐそのあとには、キツネたちが迫(せま)っています。
 ガチョウは、地獄穴(じごくあな)を飛びこえてからも、まえと同じように、早く走りつづけました。けれども、二メートル走ったか走らないうちに、ニールスが、ガチョウの首をたたいて言いました。
「もう、とまってもいいよ、モルテンや!」
 そのしゅんかんに、うしろのほうで、ものすごいさけび声とどうじに、爪(つめ)でガリガリひっかく音、つづいてズシーンと、からだが落ちる音が聞こえました。そしてもう、キツネの姿は見えませんでした。
 あくる朝、大カール島(とう)の燈台守(とうだいもり)は、戸口の下に、一枚の木の皮がさしこんであるのを見つけました。それには、角(かど)ばった字で、「小カール島のキツネどもが、地獄穴(じごくあな)に落っこちたよ。早くいってごらん!」と、ほりつけてありました。
 そこで、燈台守は、言われたとおりにいってみました。
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四月九日 土曜日
 おだやかな、よく晴れた夜でした。もう、ガンたちは、ほら穴(あな)の中にかくれて眠る必要(ひつよう)はありません。みんなは山の頂(いただ)きに立って眠りました。ニールスはそのそばのみじかい枯(か)れた草の中にねころんでいました。
 お月さまが、あかるく輝(かがや)いていましたので、ニールスは、ながいこと眠れませんでした。そして、ねころんだまま、家を出てから、もうどのくらいたつだろう、と、ふと思いました。かぞえてみますと、あれからもう三週間になります。すると、こんやは復活祭(ふっかつさい)の前夜(ぜんや)ということになります。
「ブローキュッラから、魔女(まじょ)たちが家へやってくるのは、こんやだな。」ニールスはそう思いながら、ちょっと笑いました。というのは、妖精(ようせい)とか、小人(こびと)のようなものは、ふだんからこわがっていましたが、魔女なんてものが、この世の中にいるとは信じていませんでしたから。
 こんや、もし魔女がくるとすれば、きっとニールスにも見えるにちがいありません。なにしろ、空はこんなにあかるく晴れわたっているのですから、これでは、どんなにちっぽけな点でも、動いてさえいれば、かならず見えるはずです。
 そんなことを、あれやこれやと考えながら、あおむけにねころんで、空を見あげていますと、なんだか、とても美しいものが見えてきました。お月さまは、かなり高いところで、まんまるくあかるく輝(かがや)いていました。すると、お月さまのおもてをかすめて、一羽(わ)の大きな鳥が飛んできました。まるで、お月さまの中から飛びだしてきたようです。その鳥の姿は、あかるいお月さまを背景(はいけい)にして、黒く見えました。ひろげたつばさは、ちょうどお月さまのはしから、はしまでとどいています。からだは小さくて、細長い首と、細長い足をしています。ニールスはすぐに、コウノトリにちがいない、と気がつきました。
 まもなく、コウノトリのエルメンリークくんが、ニールスのそばにおりてきました。コウノトリは、からだをまげ、くちばしでニールスをつついて、起(お)こしました。
 すぐに、ニールスは起きあがりました。「ねむっちゃいないよ、エルメンくん、」と、ニールスは言いました。「どうしてこんなよなかに出かけてきたの? グリンミンゲ城(じょう)はどんなぐあい? アッカおばさんに会(あ)いたいのかい?」
「こんやは、ねるのにはもったいないくらい、あかるいでしょう、」と、エルメンリークくんは答えました。「だから、仲(なか)よしのオヤユビさんをたずねに、カール島まで飛んできたんです。あなたが、こんや、ここにいらっしゃることは、カモメくんから聞きましたからね。わたしはまだ、グリンミンゲ城へは移(うつ)らずに、あいかわらずポンメルンに住んでいるんですよ。」
 ニールスは、エルメンリークくんがたずねてきてくれたのを、心から喜(よろこ)びました。ふたりは、古い友だちどうしのように、つぎからつぎへといろんな話をしました。さいごに、コウノトリは、こんなに美しい晩(ばん)なんだから、しばらくいっしょに遊びにいってみないか、と言いだしました。
 ニールスは、お日さまののぼるまえに、ガンたちのところへつれて帰ってくれるなら、もちろん喜んでいきたい、と言いました。コウノトリは、そうすると約束(やくそく)しました。そこで、ふたりは出かけました。
 エルメンリークくんは、またもやお月さまをめがけて、まっすぐに飛んでいきました。高くのぼればのぼるほど、海は下へ下へと、沈んでいきました。けれども、コウノトリの飛びかたが、とってもじょうずで、いかにもふんわりとしていましたので、乗っているニールスは、まるで空にじっととまっているような気がしました。
 エルメンリークくんがおりはじめて、下へ着(つ)いたとき、ニールスは、こんどはいやに早かったな、と思いました。けれども、ほんとうは、とても遠くまで飛んできたのです。なぜなら、コウノトリは、ニールスをおろしたとたんに、口をひらいて、「ここは、ポンメルンです。あなたは、ドイツにいるんですよ、オヤユビさん。」と、言いました。それを聞いて、ニールスはあきれかえってしまいました。じぶんが外国にきていようなんて、夢(ゆめ)にも知らなかったのですから。ニールスは、すばやくあたりを見まわしました。ふたりは、やわらかい、美しい砂(すな)でおおわれている、さびしい浜(はま)べに立っていました。海べにそって、テンキ草の生(は)えている砂丘(さきゅう)が、長くつづいています。その砂丘は、あまり高くはありませんでしたが、ニールスには、陸地(りくち)のほうが見えませんでした。
 エルメンリークくんは、砂丘の上に立って、片足をあげ、頭をうしろにそらせて、くちばしをつばさの下につっこみました。
「わたしが休んでいるあいだ、しばらく浜べをぶらついてきてもいいですよ。」と、コウノトリはオヤユビくんに言いました。「けれども、またここへもどってこられないとこまりますから、あんまり遠くへいっちゃだめですよ。」
 ニールスは、まず、むこうの陸地(りくち)がどんなふうか見ようと思って、砂丘(さきゅう)の一つにのぼろうとしました。ところが、二、三歩あるいたかと思うと、なにか固(かた)いものが、木靴(きぐつ)の先にぶっつかりました。からだをかがめてみますと、砂の上にすっかりさびついた、小さな銅貨(どうか)が、一枚落ちています。でも、あんまりきたないので、ついひろう気にもなれず、足でけとばしてしまいました。
 ところが、もう一どからだを起(お)こしたとき、ニールスは、どんなに驚(おどろ)いたことでしょう! それもそのはず、二足(ふたあし)とは離(はな)れない目のまえに、高い黒ぐろとした壁(かべ)と、大きな塔(とう)のある門が立っているではありませんか。
 たったいま、かがんだときには、そこには、たしかに海がキラキラと、なめらかに輝(かがや)いていました。それが、いまは、狭間(はざま)や塔(とう)のある壁で、かくされてしまっているではありませんか。さっき目のまえには、海草(かいそう)がうちよせられて、山のようになっていましたが、いまは、そこには大きな門が、ひらかれているのです。
 ニールスは、これはきっと、まぼろしみたいなものだろうと思いました。けれども、べつにこわがる必要(ひつよう)はないと思いました。たしかに、これは、危険(きけん)な魔物(まもの)や悪魔(あくま)のようなものではありません。壁(かべ)も門も、じつに美しくできています。それで、ニールスも、つい、そのうしろにはどんなものがあるか、見たくてたまらなくなってきました。「よし、こいつはいったいなんだか、見とどけてやろう。」と、思いながら、ニールスは門を通って、はいっていきました。
 アーチの下には、ニシキもようの服装(ふくそう)をした番兵(ばんぺい)たちが、えの長いやりをかたわらにおいて、すわりこんで、サイコロ遊(あそ)びをしていました。みんなは、遊びにむちゅうになっていましたので、ニールスがそばを駈(か)けていったのには、すこしも気がつきませんでした。
 門にすぐつづいて、大きな平(たい)らな石をしきつめた、広場(ひろば)がありました。まわりには、高いりっぱな建物(たてもの)が立ちならんでいて、そのあいだに、せまくて長い通りがありました。
 門に面した広場には、人びとがいっぱいいました。見れば、男の人は、しゅすの着物(きもの)の上に、毛皮(けがわ)をふちにつけた長いマントを着て、はね毛の飾(かざ)りのついたぼうしをななめにかぶり、胸(むね)には、世にも美しいくさりをさげています。どの人もどの人も、すばらしい身なりをしているので、みんな、王さまのように見えます。
 女の人たちは、ずきんをかぶり、せまいそでの長い着物をきています。やっぱり美しく着かざってはいますが、とても男の人たちの華(はな)やかさには及びません。
 このありさまは、おかあさんがときどき、箱の中からとりだして見せてくれた、昔(むかし)のお話の本の中の絵(え)に似(に)ています。ニールスは、なかなか、じぶんの目を信じることができませんでした。
 けれども、男よりも女よりも、もっともっとふしぎに見えるのは、この都(みやこ)です。どの家も、破風(はふ)が通りに面(めん)するようにつくられています。しかも、その破風が、きらびやかに飾(かざ)りたててあって、まるで、どれがいちばん美しいかを、きょうそうしあっているようです。
 新しいものを、きゅうにたくさん見ても、それをすっかりおぼえてしまうことは、なかなかできないものです。しかし、ニールスはあとになってからも、段々(だんだん)のある破風(はふ)だけは思いだすことができました。そこには、キリストと使徒(しと)の像(ぞう)が、安置(あんち)されていました。それから、壁のくぼんだところにいろいろの像が置かれている破風や、色ガラスをはめこんだ破風や、白と黒の大理石(だいりせき)でしまをなしている破風(はふ)なども、思いだすことができました。ニールスは、すっかり感心して、こういうものをながめていましたが、とつぜん、「こんなものは、まだ、見たことがない。これからも、二どと見ることはないだろう。」と、思いました。そこで、あわてて、町の中へ駈(か)けだしていって、通りをのぼったりおりたりしました。
 通りはせまくて、まっすぐでしたが、ニールスの知っている都会(とかい)とはちがって、ここにはいたるところに人がいました。年とった女の人たちは戸口(とぐち)にすわって、紡車(つむぎぐるま)をつかわずに、ただ一本の糸まき竿(ざお)で、糸をつむいでいました。商店(しょうてん)は、ちょうど露店(ろてん)のようなぐあいに、通りにむかって開いていました。職人(しょくにん)たちは、みんなおもてで仕事をしていました。あるところでは、魚油(ぎょゆ)をにたてていましたし、またあるところでは、皮をなめしていました。またべつのところでは、なわをなっていました。
 もし、時間さえあったなら、ニールスは、いろんな物の造(つく)りかたを、残らずおぼえてしまうことができたでしょう。ニールスは、このほかにも、いろんなものを見ました。たとえば、宝石師(ほうせきし)がゆびわやうでわに宝石をちりばめるところや、挽物師(ひきものし)が鉄をあつかうところ、それからまた、靴屋(くつや)が赤いやわらかい靴をつくるところや、金糸工(きんしこう)が金糸をぐるぐるまわすところや、織物師(おりものし)が金や銀を反物(たんもの)の中に織(お)りこむところなどを見ました。
 でも、立ちどまっているひまはありません。なにもかもが消(き)えてしまわないうちに、できるだけたくさんの物を見ておこうと思って、ニールスは、どんどんさきへかけていきました。
 高い壁(かべ)が市のまわりをとりまいていました。ちょうど、小さな垣(かき)が畑のまわりをとりまいているように。どの通りのはしにも、塔(とう)と狭間(はざま)のある壁が見えました。そして、その壁の頂(いただ)きには、輝(かがや)くばかりの武装(ぶそう)をした兵士(へいし)が歩いていました。
 ニールスが、その都のはしからはしへ走っていきますと、こんどは、ちがった門に出ました。そのむこうには、ひろびろとした海と港(みなと)が見えます。港には、まんなかにこぎての席があって前とうしろにへやのある、古風(こふう)な船が浮かんでいました。ちょうどいま、あるものは積荷(つみに)をし、あるものはいかりをおろそうとしていました。仲仕(なかし)や商人(しょうにん)が、いそがしそうに走りまわっていました。そこらじゅうが、がやがやしていました。
 けれども、ニールスは、気がせくので、ここにも長くいるわけにはいきません。また、町の中に駈(か)けもどって、大きな広場にきました。そこには、三つの高い塔(とう)のある。[#「ある。」はママ]大きな教会が立っていました。その深いまる天井(てんじょう)のあるアーチには、たくさんの像(ぞう)が置かれていました。そこの壁は、美しい彫刻(ちょうこく)がほどこされていて、一つ一つの名も、みんなとくべつに飾(かざ)りをつけられています。そして、その開いた門から見えるすばらしさには、ただ、ただ驚くばかりでした。金の十字架(じゅうじか)、金で飾りたてた祭壇(さいだん)、金の衣(ころも)を着た僧侶(そうりょ)たち! 教会のまむかいには、ギザギザのある屋根を持った建物がありました。その屋根の上には、塔が一つ、空にむかってスラリと高くつきでていました。それはたぶん、市役所(しやくしょ)でしょう。教会と市役所のあいだには、広場をとりかこんで、さまざまの飾(かざ)りのついた、見るも美しい破風(はふ)のある家々が立ち並(なら)んでいました。
 ニールスは、あんまり駈けまわりましたので、あつくなって、くたびれてきました。もう町の中のいちばんすてきなものは見てしまったんだから、これからは、もうすこし、ゆっくり歩こうと思いました。やがて、ある通りにまがっていきました。そこは、町の人たちが美しい布(ぬの)を買うところのようでした。見れば、おおぜいの人たちが、小さな店の前に集まっています。商人は、金らんや、かたいしゅすや、おもたいにしきや、ピカピカしたビロードや、うすいヴェールや、クモの巣(す)のようにすきとおったレースなどをひろげていました。
 さっき、早く走っていたときには、だれひとり、ニールスには注意(ちゅうい)をはらいませんでした。みんなは、ちっぽけなネズミが、ちょこちょこ駈(か)けまわっているのだろうぐらいに思っていたのです。ところがいま、ゆっくりと通りを歩いていきますと、商人のひとりが、ニールスの姿を見つけて、手まねきしました。
 ニールスは、さいしょはこわくて、思わず逃(に)げだそうとしました。けれども、商人はニコニコしながら手まねきしては、ニールスの気をひこうとするように、美しい絹(きぬ)ビロードを、台の上にひろげてみせました。
 ニールスは、頭をふりました。そして、「ぼくなんか、いつまでたっても、そんな布(ぬの)は一ヤードだって買えやしないんだ。」と、心に思いました。
 ところが、こんどは、通りにならんでいる店の人たちも、みんなニールスの姿を見つけました。目のとどくかぎり、どこにもかしこにも商人が立って、手まねきしています。みんなは、りっぱなお客のことは忘れてしまって、ニールスにばかり気をとられているのです。見ていますと、商人(しょうにん)たちは店のすみっこに走っていっては、いちばんいい品物を持ってきて、それを台の上にならべながら、むちゅうになって手をふっているのです。
 ニールスは、かまわずどんどん歩いていきました。すると、商人のひとりが、台をとびこえてきて、ニールスをひきとめました。そして、銀(ぎん)いろの布(ぬの)や、まぶしいほどピカピカ光る美しいもうせんを、ニールスの目の前にひろげてみせました。
 ニールスは、ただ、ニコニコするよりほかはありませんでした。ニールスのような、ちっぽけな、まずしいものには、そんな品物を買うことができないぐらい、わかりそうなものです。ニールスは、立ちどまって、じぶんはなんにも持っていないから、このままいかせてくれということを、みんなに知らせようと思って、からっぽの両手を、ひらいてみせました。
 すると、商人はうなずいて、指を一本あげてみせながら、その美しい品物の山を、ニールスのほうにつきだしました。
「この人は、金貨(きんか)一枚で、これをみんな売るっていうんだろうか?」と、ニールスは思いました。
 と、商人はおっそろしく小さな、すりへった銅貨(どうか)を一枚とりだして、ニールスに見せました。そして、なんとかして売ろうと、むちゅうになって、さらに、大きなおもたい銀のさかずきを二つ、その山につけ加えました。
 ニールスは、ポケットの中をさぐりはじめました。もちろん、銅貨一枚持っていないことは、しょうちしきっているのですが、思わずしらずそうしてみたのです。
 ほかの商人たちは、このあきないがどうなることかと、じっと見守(みまも)っていました。そして、ニールスが、ポケットの中をさがしはじめたのを見ますと、みんなは、じぶんの店にとんで帰って、金や銀の装飾品(そうしょくひん)を手に持てるだけ持ってきて、ニールスのまえにならべてみせました。そして、銅貨(どうか)一枚くれれば、これをみんなあげるということを、手まねで知らせました。
 ニールスは、チョッキのポケットからズボンのポケットまでひっくりかえして、なんにも持っていないことを、商人たちに見せました。と、どうでしょう。ニールスよりも、ずっといい身なりをしているこの商人たちの目には、みるみるうちに涙(なみだ)があふれてきました。みんなが、あんまり悲(かな)しんでいるようすなので、ニールスも、すっかり心を動かされました。そして、どうにかして助けてやれないものだろうかと考えこみました。すると、ついさっき、浜(はま)べで見た、さびだらけの銅貨(どうか)のことを、ふっと思いだしました。
 ニールスは、すぐさま通りを駈(か)けおりていきました。すると、運(うん)よく、さいしょにはいった門のところに出ました。大いそぎでそこを通りぬけて、さっきあった小さな銅貨をさがしはじめました。
 すぐに見つかりました。ところが、それを拾(ひろ)いあげて、町の中へ駈(か)けもどろうとしたとたんに、これはまた、どうしたというのでしょう。目のまえに見えるものは、ただ海ばかりで、もはや壁(かべ)もなければ、門もありません。番兵(ばんぺい)の姿も見えなければ、通りも、家も見えません。ただ、海がひろがっているばかりです。
 ニールスの目には、思わず涙(なみだ)がうかんできました。さいしょのうちは、じぶんがいま見たものは、まぼろしであったろうと思っていましたが、それもまもなく忘れてしまいました。ただ、なにもかもが美しかったということだけが、思いだされるのでした。そして、都(みやこ)がとつぜん消えてしまったいまは、口で言いあらわせないほどの深い悲しみをおぼえるのでした。
 そのとき、コウノトリのエルメンリークくんは目をさまして、ニールスのところへいきました。けれども、ニールスは、コウノトリの来たことに気がつきませんでした。そこでコウノトリは、気づかせるために、くちばしでニールスをつつきました。
「あなたはここに立って、わたしのように眠っていたんですね。」と、エルメンリークくんは言いました。
「ああ、エルメンリークくん、」と、ニールスは言いました。「いまさっき、ここにあった都(みやこ)はなんだったの?」
「都を見たんですって?」と、コウノトリは言いました。「あなたは眠って、夢(ゆめ)を見ていたんですよ。」
「いいや、眠ってなんかいなかったよ。」と、オヤユビくんは言って、いま見たことを、のこらず、コウノトリに話して聞かせました。
 すると、エルメンリークくんはこう言いました。「わたしの考えではね、オヤユビさん、やっぱりあなたはこの浜(はま)べで眠って、いまのことをみんな、夢にみたんだと思いますね。そのわけを、いまお話ししましょう。じつは、鳥の中でいちばん物知りのバタキーというカラスが、わたしにこんなことを話してくれたことがあるんですよ。むかし、この浜べには、ヴィネータという名まえの都(みやこ)があったそうです。その都は世界じゅうのどんな都よりもお金があって、りっぱでした。ところが、ふしあわせなことには、その住民(じゅうみん)たちがだんだん、こうまんちきになって、はでなことがすきになったんです。バタキーの話では、そのばちがあたって、ヴィネータの都は、洪水(こうずい)のために海の底(そこ)に沈められてしまったそうです。けれども、その住民(じゅうみん)たちはそのままで、死んではいませんし、その都にしても、やっぱりほろびてはいないんです。そして、百年めに一どずつ、むかしのままの華(はな)やかなありさまで、海の底から浮かびあがってきて、かっきり一時間だけ、この浜(はま)べにじっとしているんです。」
「うん、その話はほんとうにちがいない。」と、オヤユビくんは言いました。「だって、ぼく、それを見たんだもの。」
「ところが、その一時間のあいだに、ヴィネータの商人が、だれかに品物を売ることができなかったばあいには、その時間がすぎると、また都は、海の底に沈んでしまうんですよ。だから、もしもあなたがね、オヤユビさん、ほんのちっぽけな銅貨(どうか)でも持っていて、商人に払(はら)ってやることができたら、ヴィネータはいつまでもこの浜べにとどまっていて、そこの住民たちも、ほかの人間たちと同じように、一生を暮(く)らして、死ぬことができたでしょうよ。」
「ああ、エルメンリークくん、」と、ニールスは言いました。「どうしてきみが真夜中(まよなか)にやってきて、ぼくをつれだしたのか、いまになって、やっとわかったよ。ぼくがあの古い都を救(すく)ってやれると、きみは思っていたんだね。だけど、きみの思うように、うまくいかなくって、ほんとうにざんねんだよ。」
 ニールスは両手で顔をおおって、泣きだしました。ニールスとエルメンリークくんのどちらが、よけい悲(かな)しそうだったか、それはちょっと言うことができません。

四月十一日 月曜日
 復活祭(ふっかつさい)の月曜日に、ガンたちとオヤユビくんは、また旅に出ました。そしてこんどは、ゴットランド島(とう)の上にきました。
 この大きな島は、みんなの下に平(たい)らによこたわっています。地上は、スコーネと同じように市松(いちまつ)もようで、教会(きょうかい)や農園(のうえん)がたくさんあります。ただスコーネとちがうのは、ここには畑のあいだに草の茂(しげ)った牧場(ぼくじょう)が多いのと、農家(のうか)が庭をとりかこんでつくられてはいないことです。それから、このゴットランド島には、たくさんの公園(こうえん)や、高い塔(とう)をもった、古いお城(しろ)のある大きな荘園(しょうえん)もありません。
 ガンたちは、オヤユビくんのために、ゴットランド島の上を通ることにしたのです。なにしろ、オヤユビくんはもう二日のあいだしおれきっていて、ろくに口もきかなかったのですからね。あんなにもふしぎに、目の前にあらわれてきた古い都のことが、頭にこびりついていて、どうしても忘れることができなかったのです。ニールスは、いままであんなにりっぱな美しいものを見たことがありませんでした。そして、それを救(すく)ってやれなかったのが、ざんねんでたまりませんでした。いつもはそんなにクヨクヨする子どもではありませんでしたが、いまはあの美しい建物や、りっぱな人たちのために、心から悲しんでいるのでした。
 アッカとガチョウは、口ぐちに、そういうものはみんな夢かまぼろしなんだと言ってきかせましたが、ニールスは、そんなことばには、耳をもかそうとはしませんでした。ニールスは、だれがなんと言っても、じぶんの目で、あの都をたしかに見たんだと信じきっているのです。けれども、ニールスがあんまりひどく悲(かな)しんでいるので、仲間のガンたちも、オヤユビくんのことが心配になってきました。
 ニールスが悲しみにしずんでいたとき、とつぜん、年とったカクシが戻(もど)ってきました。カクシは、嵐(あらし)のためにゴットランド島のほうへ吹き流されて、みんなのいどころをさがすために、その島じゅうを飛びまわらなければなりませんでした。そして、やっと、カラスから、みんなが小カール島にいるということを聞いて、飛(と)んできたのです。そして、オヤユビくんが、ゆううつになっていることを聞きますと、すぐさま、こう言いました。
「オヤユビさんが、古い都のことで悲しんでいるのなら、すぐに、なぐさめてあげられますよ。わたしについていらっしゃい。きのう、わたしの見たところへつれていってあげれば、すぐに気がはれますよ。」
 それから、ガンたちは、羊(ひつじ)たちにわかれをつげて、カクシがオヤユビくんに見せたいという場所へ、いま、むかっているところでした。オヤユビくんは、しょげかえってはいましたが、それでも、いつものように、下を見おろさずにはいられませんでした。
 ニールスは、さいしょのうちは、この島も小カール島とおなじように、――もちろん、小カール島よりは、ずっとずっと大きいけれども――けわしい絶壁(ぜっぺき)をなしているように思いました。しかし、あとになって、この島は、ひらたくなっていることを知りました。ちょうど、のし棒(ぼう)でねりこのかたまりをのすように、きっと、だれかが大きなのし棒で、この島の上をのしたものでしょう。でも、それがおせんべいのようにすっかりひらたくなるまで、のしつづけたわけではありません。というのは、ガンたちが海岸にそって飛んでいるあいだに、ほら穴(あな)や岩柱(いわばしら)のある、白い石灰質(せっかいしつ)の高い壁(かべ)も、あちこちに見えました。けれども、この島は、たいていのところがたいらで、浜べもなだらかに、だんだん海のほうへさがっていっています。
 みんなは、ゴットランド島で、月曜日の午後を楽(たの)しくのどかにすごしました。いまは陽気(ようき)もすっかり春らしく、あたたかくなっていました。木々には、大きな芽(め)がもえだし、牧草地(ぼくそうち)には、いちめんに春の花が咲(さ)きだしていました。ポプラの木の、ほっそりと長く垂(た)れた枝は、ゆらゆらとゆらめいていました。どの家のまわりにも、小さな庭が見えましたが、そこには、スグリの茂みが青々としていました。
 あたたかな陽気(ようき)と、もえだした芽や花が、人びとを庭や道にさそいだしました。いく人かが集まりますと、きまって、そこでは遊戯(ゆうぎ)がはじまりました。子どもたちばかりでなく、おとなまでもいっしょに遊びました。的(まと)をきめて石をぶっつける競争(きょうそう)をしたり、ガンたちにとどくくらい空高く、ボールをほおり投げたりしました。おとなたちが、そうやって遊んでいるのをながめるのは、ほんとうに気もちのいい、楽(たの)しいものです。ニールスも、あの古い都を救(すく)うことができなかった悲しみを忘れることができたなら、きっと、喜(よろこ)んだことでしょう。
 それにしても、ニールスは、この旅がすてきな旅だと思わずにはいられませんでした。いくさきざきで、楽しそうな歌声がひびいてきます。子どもたちは、まるく輪(わ)になっておどりながら歌っていました。とある木の茂(しげ)った丘(おか)では、黒や赤の着物を着た人たちが、おおぜいすわって、ギターをかなでたり、ラッパを吹いたりしていました。また、ある通りでは、おおぜいの人たちが歩いてきました。それは、楽しい遠足(えんそく)をしている、禁酒会員(きんしゅかいいん)たちでした。ニールスは、金文字(きんもじ)で書いた大きな旗(はた)がヒラヒラしているのを見て、すぐにそれとわかりました。その人たちは、いつまでもいつまでも、歌っていました。
 それからのち、ニールスは、ゴットランド島というと、いつも遊戯(ゆうぎ)と歌とをいっしょに思いだすのでした。
 ニールスは、長いあいだ下を見おろしていましたが、ふと、目をあげてみました。いや、そのおどろいたこと! いつのまにかガンたちは島の内部をはなれて、西にむかい、海岸に来てしまっているのです。いまは、ひろびろとした青い海が、目の前にひろがっているではありませんか! けれども、ニールスがおどろいたのは、海ではなくて、その海岸にあらわれてきた町です。
 ガンたちのむれは、東から飛んできました。お日さまは、いま、西に沈(しず)もうとしています。みんなが、その町に近づいたとき、町の壁(かべ)や、塔や、破風(はふ)のある高い家々や、教会(きょうかい)などが、あかるい夕空を背景(はいけい)にして、くっきりと、黒く、浮かびあがって見えました。そのためニールスには、この町が、ありのままの姿には見えないで、ほんのちょっとでしたが、まるで、復活祭(ふっかつさい)の前夜(ぜんや)に見た、あの都と同じように美しいような気がしました。
 ところが、その町のすぐ近くまで来てみますと、それは、あの海の底(そこ)から浮かびあがった都(みやこ)に似(に)てもいますし、また、似てはいないようにも思われます。この二つの町をくらべてみますと、それはちょうど、人が、ある日には、むらさきの着物(きもの)と宝石(ほうせき)とで身をかざり、また、ある日には、ぼろにくるまっているのを見るのと、おなじようなものです。
 そうです、この町も、いつかは、あの海べで見た海の底の都のようだったこともあるでしょう。じっさい、この町も、塔(とう)や門のある壁(かべ)で、とりかこまれています。しかし、この町は、こうして地上にとどまることをゆるされてはいますが、この町の塔には屋根がなくて、うつろで、がらんとしています。門にはとびらもないし、番兵(ばんぺい)や、兵士(へいし)の姿も見えません。きらびやかな華(はな)やかさは、すっかり影をひそめて、ただ、はだかの灰色(はいいろ)の骨組(ほねぐみ)が、残っているばかりです。
 ニールスは、この町の上まで飛んできたとき、大部分の家が、小さな低い木造(もくぞう)の家であることに気がつきました。むかしのままの、高い破風(はふ)のある家や、教会は、二つ三つ、あちこちに立っているだけでした。破風のある家々は、白くぬられていて、なんの飾(かざ)りもついてはいませんでした。けれども、ニールスは、ついきのうの晩(ばん)、あの海の底に沈んだ都を見たばかりでしたから、それらの家々が、あるものは彫像(ちょうぞう)で、またあるものは黒や白の大理石(だいりせき)で、かざられていたにちがいないと思いました。
 古い教会にしても、おなじことでした。たいていのものが屋根はなく、中はがらんとしていました。窓口(まどぐち)は荒(あ)れはて、床石(ゆかいし)はこわれて、草がぼうぼうと生(は)え、壁(かべ)にはツタが一めんにからみついていました。しかし、ニールスには、これらの教会が、むかしはどんなふうだったか、想像(そうぞう)してみることができました。壁には彫刻(ちょうこく)がほどこされ、絵がかざりつけられていたことでしょう。内陣(ないじん)には、祭壇(さいだん)や、金ピカの十字架(じゅうじか)が、立っていたことでしょう。そしてそこには、金の衣(ころも)をまとった僧侶(そうりょ)たちが、歩いていたことでしょう。
 ニールスは、せまい町の門も見ました。そこには、祭日(さいじつ)の午後だというのに、人の姿はほとんど見えません。でもニールスは、むかしは、りっぱに着かざった人たちが、おおぜいいたことを知っていました。それから、こういう門が、むかしは、あらゆる種類(しゅるい)の職人(しょくにん)のいっぱいいる、仕事場(しごとば)のようなものであったことも、ちゃんと知っていました。
 けれども、この町が、いまもなお美しく、しかも、めずらしいものだということには、ニールスは、すこしも気がつきませんでした。ピカピカした窓(まど)ガラスのうしろに、テンジクアオイのある、裏通(うらどお)りのこじんまりとした家は、ニールスの目には、はいりませんでした。それらの家は、黒(くろ)い壁(かべ)にかこまれて、白くふちどられていました。それから、たくさんの美しい庭園(ていえん)や並木道(なみきみち)も、また、草におおわれた廃墟(はいきょ)のすばらしさも、ニールスの目にはうつりませんでした。なにしろ、ニールスの心は、ゆうべ見た、あの華(はな)やかな都(みやこ)のありさまで、いっぱいでしたので、目の前にあるものの美しさは、なにも認(みと)めることができなかったのです。
 ガンたちは、町の上を二ど三ど、いったりきたりしました。オヤユビくんに、なにもかも、すっかり見せようというのです。とうとうしまいに、ガンたちは、教会(きょうかい)のあとの、草の生(は)えた床(ゆか)の上におりて、そこで、一晩(ひとばん)をすごすことにしました。
 ガンたちが、ねむってしまってからも、オヤユビくんは、長いあいだ、目をさましていました。そして、こわれた天井(てんじょう)から、うすもも色の夕空(ゆうぞら)を、ながめていました。こうして、しばらくもの思いにしずんでいましたが、やがて、あの海の底(そこ)の都を、救(すく)うことができなかったからといって、もう、なげくのはよそう、と、心にきめました。
 そうだ、もう、なげくのはよそう。ゆうべ見た、あの都も、もし、海の底に沈まなかったとしたら、しばらく時がたつうちには、たぶん、この町とおなじように、荒(あ)れはててしまったろう。そして、あの都も、きっと時の流れにはさからえないで、しまいには、この町とおなじように、屋根のない教会、飾(かざ)り一つない家、人の姿も見えない通りとなってしまったろう。それならば、華(はな)やかな姿のままに、海の底深くしずんでいるほうが、かえっていい。
「なるようになったのが、いちばんよかったんだ。」と、ニールスは、心に思いました。「もし、ぼくに、あの都を救(すく)える力があったとしても、いまとなっては、もうとても、救う気にはなれない。」
 ニールスは、それからはもう、このことについては、悲(かな)しみませんでした。
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四月十二日 火曜日
 ガンたちは、海の上をかなり飛んで、北部(ほくぶ)スモーランドのユスト地方におりました。この地方は、陸(りく)になりたいのか、それとも、海になりたいのか、どっちとも、心をきめかねているようでした。つまり、いたるところに湾(わん)がいりこんでいて、それが陸地を、島やら、半島(はんとう)やら、岬(みさき)やらにきりわけているのです。海の力が、ひじょうに強いために、低いところは、すっかり水の下にかくされてしまって、わずかに、丘(おか)や山だけが、海の上につきでています。
 ガンたちが、海のほうからやってきたときは、夕がたでした。小高(こだか)い丘になった陸地は、キラキラ光る湾のあいだに、美しくよこたわっていました。あちこちの島々には、小屋や小さな家が見えました。そして、奥(おく)へ進んでいくにつれて、家々も大きく美しくなりました。しまいには、大きな白いお屋敷(やしき)も見えてきました。海岸にそって、木々が立ちならんでいました。そのむこうには、畑がありました。小さな丘の上にも、木々が立っていました。それを見ているうちに、ニールスは、おもわず、ブレーキンゲを思いだしました。そこでも、ブレーキンゲとおなじように、陸と海とが、おたがいの持っている、いちばんいい、いちばんすばらしいものを、見せあおうとでもするように、こんなにも美しく、こんなにもなごやかに、むかいあっているのです。
 ガンの仲間たちは、「ガン湾(わん)」にある、草も木も生(は)えていない島におりました。みんなは、岸(きし)べをひとめ見て、あちこちの島にいっているあいだに、春がだいぶ深まったことがわかりました。大きなりっぱな木々は、まだ葉をつけてはいませんが、その下の地面(じめん)には、白、黄、青の、色とりどりの春の草花が咲(さ)いています。
 ガンの仲間たちは、この花の敷物(しきもの)を見たとき、びっくりしました。南部地方で、すこしぐずぐずしすぎたと思ったのです。
 そこで、アッカは、「スモーランドでやすんでいるひまはないから、あしたの朝すぐに、エステルイエートランドをこえて、北にむかって旅をつづけなければならない」と、みんなに言いました。
 これでは、スモーランドはなにも見られないことになってしまいます。ニールスは、それがざんねんでたまりませんでした。というのは、まえからスモーランドのことは、ほかの地方よりも、ずっといろいろ話に聞いていたからです。で、ニールスは、ぜひとも、じぶん自身の目で見たかったのでした。
 きょねんの夏、ニールスは、うまれ故郷(こきょう)に近いヨルドベリヤの近くの、ある農家(のうか)で、ガチョウ番(ばん)にやとわれていました。そのとき、ほとんどまいにちのように、やっぱりガチョウの番をしている、スモーランドうまれのふたりの子どもに出あいました。その子どもたちは、スモーランドのことで、たびたび、ニールスをおこらしたものでした。
 もっとも、ねえさんのオーサが、ニールスをおこらせたわけではありません。この子は、りこうな子で、そんなことはしませんでした。ところが、弟のマッツのほうは、どうにもしようのない、いたずらっ子でした。
「おい、ニールスくん、きみは、スモーランドとスコーネが、どんなふうにしてできたか、知ってるかい?」と、マッツはたずねたものでした。そして、ニールスが知らないと答えますと、すぐに、スモーランドのむかしからの言いつたえを話しはじめました。
「じゃあ、話してやろう。いいかい、神(かみ)さまが世界をおつくりになっていた時のことだぜ。神さまが、その仕事をなさっているところへ、聖(せい)ペテロが通りかかったんだ。ペテロは立ちどまって、ながめていたけれど、まもなく、それは骨(ほね)のおれるお仕事ですか、と、きいたんだ。すると、神さまは、『うん、そんなにやさしくはないね。』と、お答えになったのさ。ペテロは、しばらくそこに立って見ていたんだ。神さまが、いかにもやすやすと、陸地をつぎからつぎへとおつくりになるのを見ているうちに、じぶんでもやってみたくなった。そこで神さまにむかって、『ちょっとお休みになってはいかがでしょう。そのあいだ、わたくしがかわりに、お仕事をいたしておりますから。』と、言ったんだ。でも、神さまは、そうさせたくはなかったので、『おまえにまかせておけるほど、おまえのうではたしかかな。』と、お答えになったのさ。すると、聖(せい)ペテロは腹(はら)をたてて、わたしだって、神さまとおなじように、りっぱな土地をつくることができます、と、言ったんだ。
 そのときは、ちょうど神さまが、スモーランドをこしらえていらっしゃるところだった。まだ、半分もできてはいなかったけれど、ひじょうに美しい、よく肥(こ)えた土地になるように見えた。ところで、神さまは、ペテロにいけないと言うのもかわいそうだと思われたんだ。それに、こんなにうまくできかけているんだから、だれがやっても、できそこなうようなこともあるまいと思われたんだね。そこで、『それなら、おまえとわしのどちらがうまくやるか、ひとつ、ためしてみようではないか。おまえは、はじめてだから、わしのやりかけたあとを、つづけてやるがいい。わしは、新しい土地をつくることにするから。』と、言われた。ペテロは、すぐにしょうちして、ふたりは、めいめいの場所で、それぞれ仕事にかかったんだ。
 神さまは、すこし南へいかれて、スコーネをつくりはじめたけれど、すぐに、つくりあげてしまった。そこで、こんどは、ペテロにむかって、おまえの仕事はおわったか、と、たずねられ、新しい土地を見にきてはどうか、と、言われた。すると、ペテロは、『はい、とっくにできあがっております。』と言ったけど、その声の調子(ちょうし)からみると、ペテロは、じぶんのやった仕事に、いかにもまんぞくしているようだった。
 ペテロは、神さまのこしらえたスコーネをながめたとき、じつによくできていると感心した。耕(たがや)すのにもってこいの、よく肥(こ)えた土地で、山というようなものは、ほとんどない。見わたすかぎりが、平地なんだ。人間がそこに住んで、気もちよくくらすことができるようにとのお考えから、神さまがこしらえられたことは、はっきりしていた。ペテロは、『ほんとうに、これはよい土地ですね。けれども、わたしのつくったほうが、もっといいと思います。』と、言った。『それでは、それを見ようではないか。』と、神さまがおっしゃった。
 その土地は、ペテロが仕事をはじめたときには、もう北と東は、できあがっていたんだ。だから、南と西とまんなかが、ペテロのこしらえたものだったのさ。ところが、神さまは、その土地をごらんになったとたんに、びっくりなさって、『いったい、おまえは、なにをこしらえようというのだ?』と、おっしゃった。
 そう言われて、ペテロもあたりを見まわして、じぶんでも、驚(おどろ)いてしまった。さいしょ、ペテロのつもりでは、あたたかい土地をつくるのが、いちばんいいだろうと思ったんだ。そこで、たくさんの石をつみあげて、高地をきずきあげた。つまり、こうすれば、太陽(たいよう)に近くなるから、それだけ、太陽の熱をたくさん受けられるだろうと思ったわけさ。そして、そのつんだ石の上に、ペテロは、すこしばかり土をかけて、これで、すべてがうまくいくものと思いこんでいたんだ。
 ところが、ペテロが、スコーネにいっているあいだに、ものすごい夕立(ゆうだち)が、二どばかりあったんだ。そのために、せっかくペテロのやった仕事が、台なしになってしまったのさ。神さまが、おいでになって、ごらんになったときには、土はすっかり洗い流されてしまい、いたるところに、はだかの石肌(いわはだ)があらわれているというしまつなんだ。いちばんいいところでも、岩の上にねんどやおもたい砂利(じゃり)があるくらいのもので、とにかく、見るからにひんじゃくだった。だから、ここには、植物にしても、せいぜい、ネズとか、エゾマツとか、コケとか、ヒースぐらいのものしか生(は)えないだろうということは、一目(ひとめ)でわかったほどさ。ところが、水だけは、じつにたくさんあった。山の裂(さ)けめという裂けめに、みちあふれていたんだ。どこにもかしこにも、湖(みずうみ)や川や小川がある。もちろん、沼(ぬま)や沢(さわ)もひろびろとひろがっている。しかし、なによりもまずいのは、ある地方では水が多すぎるっていうのに、ある地方では少なすぎるっていうことさ。なぜって、水の少ない地方では、田畑(たはた)が、かわききった荒れ地のようなありさまで、ほんのちょっとでも、風が吹こうものなら、たちまち土や砂が、もうもうとまきあがってしまうんだもの。
『いったい、どういうつもりで、こんな土地をこしらえたんだね?』と、神さまがおききになった。すると、ペテロは、じつは、土地を高くきずいて、太陽の熱をたくさん受けるようにしたいと思ったのです、と、いいわけをした。
『だが、それなら、夜の冷気(れいき)も、たくさん受けることになるね。』と [#「と 」はママ]神さまはおっしゃった。『夜の冷気も、やはり、空からおりてくるんだからね。ここに生(は)える、わずかなものも、凍(こお)ってしまやしないだろうか。』
 こういうことは、たしかに、ペテロは考えてもいなかった。
 そして、神さまは、『ここは、霜(しも)のよくおりる、やせた土地になるだろう。しかし、いまさら、どうすることもできない。』と、おっしゃったんだ。」
 マッツが、ここまで話したとき、ねえさんのオーサが、ことばをはさみました。「あたし、たまらない! だって、あんたの話を聞いてると、スモーランドは、とてもみじめな土地みたいだもの。あんたは、あそこにも、いい土地がたくさんあるのを忘れているのね。まあ、カルマール海峡(かいきょう)のところの、メーレ地方を思いだしてごらん! あそこぐらいよく肥(こ)えた土地って、どっかにある? あそこにも、このスコーネとおなじように、畑がいっぱいあるじゃないの。それに、とってもいい土地なんだから、どんなものだって、きっとそだつと思うわ。」
「だって、しようがないよ。」と、マッツが言いました。「ぼくは、ひとから聞いた話をしているだけなんだもの。」
「それにね、あたしは、ユストのように美しい海岸は、どこにもないって、おおぜいの人たちが言ってるのを聞いたわよ。ほら、あの湾(わん)や、島や、荘園(しょうえん)や、森を考えてごらんよ。」と、オーサは言いました。
「うん、ほんとにそうだね。」と、マッツは言いました。
「それから、あんたは、先生のおっしゃったことをおぼえてないの? ほら、ヴェッテルン湖(こ)の南の地方のように、いきいきとした、絵(え)のように美しいところは、スウェーデンじゅうどこをさがしてもないって、おっしゃったじゃないの。あの美しい湖や、岸ぞいの黄色の山々や、マッチ工場(こうじょう)のあるエンチェーピングや、ムンク湖を思いだしてごらん。それから、フースクヴァルナや、あそこにある大きな工場もさ!」と、オーサはつづけて言いました。
「うん、ほんとにそうだ。」と、マッツはもう一ど言いました。
「それから、まだまだあるわよ。ほら、あのヴィシングエー。あそこには廃址(はいし)や、カシワの森や、むかしの言いつたえがあったわね。それから、エム川の流れている、あの谷も思いだしてごらん。村や、製粉所(せいふんじょ)や、製材所(せいざいしょ)や、指物工場(さしものこうじょう)があったでしょう!」
「うん、ほんとにそうだ。」マッツは、こまったような顔をしながら、またまた、こう言いました。
 そのとき、とつぜん、マッツは顔をあげて、さけびました。「そうだ、ぼくたち、うっかりしてたんだ。それはみんな、もちろんスモーランドにあるよ。それも、ペテロが仕事をはじめるまえに、神さまが、おつくりになった土地のほうにね。だから、そこが美しくてりっぱなのも、あたりまえなんだ。けれども、ペテロのこしらえたスモーランドのほうは、やっぱり、言いつたえにあるとおりさ。だから、神さまが、それをごらんになったとき、悲しまれたのも、むりないんだ。」マッツは、さっきの物語の糸口(いとぐち)を見つけて、また、話をつづけました。「ペテロは失敗(しっぱい)したけれども、気をおとさずに、かえって、神さまをなぐさめようとして、『そんなに悲(かな)しまないでください! しばらく待ってくだされば、わたしが、沼地(ぬまち)をたがやし、石だらけの山をきりひらいて、畑にする人間をつくりますから。』と、言った。
 けれども、神さまは、もうがまんができないので、こうおっしゃった。『いや、おまえは、わしが肥(こ)えた、よい土地にこしらえたスコーネにおりていって、スコーネ人をつくるがいい。スモーランド人は、わしがつくるから。』そこで、神さまはまずしい土地でも、暮(く)らしをたてていくことができるように、賢(かしこ)くて、まじめで、しかもほがらかで、勤勉(きんべん)で、役にたつスモーランド人を、おつくりになったのさ。」
 ここまで話すと、マッツは、いつもだまりこんでしまうのでした。そして、ニールス・ホルゲルッソンも、だまっていれば、何ごともなかったでしょう。ところがニールスは、ペテロのほうは、うまくスコーネ人がつくれたかどうかと、きかずにはいられないのでした。
「ふん、きみは、じぶん自身(じしん)をどう思うね?」と、マッツは、いかにもばかにしきった顔つきでたずねました。ニールス・ホルゲルッソンは、もう、がまんができません。たちまちマッツにおどりかかって、なぐりつけようとしました。けれども、マッツはまだ小さい子です。と見るより早く、一つ年上のオーサが、すばやく駈(か)けよってきました。オーサは、ふだんはおとなしい子ですが、だれかが弟に手をかけようとすると、たちまち、ライオンのように怒(おこ)るのでした。
 ニールス・ホルゲルッソンは、女の子とけんかをする気にもなれません。それで、そっぽをむいて、その日は一日じゅう、このスモーランドうまれの子どもたちのほうは、見むきもしないのでした。
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 スモーランドの西南(せいなん)のはしに、スンネルブーという地方があります。そこは、ずっと平地になっています。ですから、冬、雪におおわれているときには、だれでも、その雪の下には、ほかの平地(へいち)とおなじように、休閑地(きゅうかんち)や、ライムギ畑(ばたけ)や、クローヴァの生(は)えた牧場(ぼくじょう)があるものと思います。ところが、四月のはじめになって、この地方の雪がとけてしまいますと、雪の下にかくされていたものは、かわいた、砂だらけの荒(あ)れ地と、はだかの岩と、大きな沼地(ぬまち)ばかりであることがわかります。畑もあっちこっちにありはしますが、とても小さなものなので、とくにとりたてて言うほどのものではありません。それから、赤や灰色(はいいろ)の小さな農家(のうか)も、ところどころに見られますが、まるで人に見られるのをこわがってでもいるように、たいていのものがブナの森の中にかくれています。
 スンネルブー地方が、ハルランドと接(せっ)するところには、砂(すな)だらけの荒(あ)れ地がひろがっています。そこは、はしからはしまで見とおすことができないくらい広いものです。この荒れ地には、ヒースのほかは何も生(は)えていません。ですから、ここにほかの植物を茂(しげ)らせるのは、たいへんなことでしょう。そのためには、まず第一に、ヒースを根だやしにしなければなりません。ヒースというのは、根も枝も葉もちっぽけで、ちぢこまっているくせに、まるでじぶんでは一人(にん)まえの木のようなつもりでいるのです。だから、ほんとうの木のように、まるで森みたいに、そこらじゅうにひろがって、しかも、しっかりとかたまっているので、その荒(あ)れ地の中にはいってくる木は、どんなものでもみんな枯(か)らされてしまうのです。
 この荒れ地の中で、ヒースのはびこっていないところが一つだけありました。そこは、荒れ地をよこぎっている、低い、石だらけの山地でした。そこには、マツ林があり、また、ナナカマドや、大きな美しいブナの木も数本生(は)えていました。ニールス・ホルゲルッソンがガンたちといっしょに旅をしていたときは、そこには一軒(けん)の小屋があって、そのまわりの土地は、すこし耕(たがや)されていました。けれども、その小屋に住んでいた人たちは、なにかわけがあって、よそへひっこしてしまっていました。だから、いまはその小屋は住む人もなく、また土地も使われてはいませんでした。
 この小屋に住んでいた人たちは、立ちさるときに、用心(ようじん)ぶかく、かまどのふたをし、窓(まど)をしめ、戸に錠(じょう)をおろしました。けれども、窓(まど)ガラスのわれめが、ぼろでふさいだだけになっているのには、気がつきませんでした。そののち、夕立(ゆうだち)が二どあって、そのぼろが、ちぢんでしまったところへ、カラスがやってきて、とうとうそれをつつき落(おと)してしまいました。
 荒れ地の中にあるこの山地は、人が想像(そうぞう)するほど、さびしくはありません。なぜかといいますと、そこにはたくさんのカラスたちが住んでいるからです。といっても、もちろん一年じゅう、そこに住んでいるわけではありません。つまり、カラスたちは、冬には外国(がいこく)へいきます。そして秋には、イエートランドじゅうの穀物畑(こくもつばたけ)を、つぎからつぎへと飛びまわっては、穀物をひろいます。それから夏のあいだは、スンネルブー地方の農場(のうじょう)にちらばって、卵や、草木の実(み)や、小鳥などをたべて生きています。けれども、巣(す)ごもりをする春になると、このヒースの生(は)えている荒れ地の中に帰ってくるのです。
 窓(まど)ガラスのぼろをつつき落(おと)したのは、白いはねのガルムという名まえのカラスでした。けれども、このカラスのことをちゃんと名まえどおりに、ガルムというものはひとりもなく、みんなノロ公(こう)ノロ公と呼んでいました。なぜなら、このカラスは、いつも、まのぬけた、へまなことばかりやっていたからです。ノロ公は、ほかのカラスよりも、からだも大きく、力もありましたが、そんなことはなんの役にもたちませんでした。みんなからはバカにされて、いつも笑いものになっていました。それから、ノロ公がたいへんにいい家がらの出だということも、やっぱりなんの役にもたたないのでした。ほんとうなら、ノロ公がこのカラスの一むれのおかしらになるはずでした。というのは、大昔から、白(しら)はね族(ぞく)の一ばん年上のものが、この名誉(めいよ)をになうはずになっていたのです。ところが、ノロ公の生まれるだいぶまえから、この権力(けんりょく)が白はね族の手をはなれて、アラシという、ざんにんな野ガラスにうばわれてしまっていたのです。
 このように、権力が白はね族からアラシの手にうつったということは、じつは、カラス山のカラスたちが、生活のしかたをかえることにきめたということを物語っているのです。おそらく、たいていの人が、カラスというものは、みんなおなじような生活をしているものと思うでしょう。ところが、ほんとうは、そうではありません。つまり、中にはりっぱな生活をしているものもあって、そういうカラスたちは、穀物(こくもつ)とか、虫とか、死んだ動物とかいうようなものだけをたべているのです。ところが、いっぽうには、まったく盗(ぬす)みばかりをはたらいて暮(く)らしているような、ひどいやつらもあるのです。そういうのは、ウサギの赤んぼうや小鳥をさらったり、鳥の巣(す)を見つけしだいにおそったりするのです。
 むかしの白はね族(ぞく)は、ぎょうぎがよくて、げんかくでした。だから、白はね族のものがおかしらだったころは、カラスたちは、ほかの鳥から悪(わる)く言われないように、ふるまわなければなりませんでした。ところが、カラスの数はふえてきますし、それに、だんだん、貧乏(びんぼう)になってきました。そこで、いままでのように、ぎょうぎのいい生活をしていることができなくなって、やがては白(しら)はね族にもそむき、ついに、極悪(ごくあく)このうえもない、大どろぼうのアラシに権力(けんりょく)をあたえてしまったのです。ところが、その妻君(さいくん)のハヤテというのが、アラシよりもさらにひどいやつときているのです。こうして、カラスたちは、この夫婦(ふうふ)の手下(てした)になって、いまでは、タカよりもフクロウよりも、ほかの鳥からおそれられているような生活をはじめたのです。
 もちろん、白いはねのノロ公(こう)などはもんだいにもされませんでした。カラスたちは、口ぐちに、ノロ公は先祖(せんぞ)にはちっとも似(に)ていない、とうていおかしらになるがらではない、と言いました。だから、ノロ公がいつも、まのぬけたことばかりやらなかったら、たぶんだれも目もくれなかったでしょう。りこうもののカラスたちは、ときどき、「ノロ公があんなにあほうなのは、ノロ公のためにはかえってしあわせなんだ。」と言いました。さもなければ、おかしらの家がらに生まれついているんだから、きっとアラシとハヤテのために、追いだされてしまったろうというのです。
 ところが、いまでは、そのはんたいに、アラシ夫婦(ふうふ)はノロ公にたいして、いくらか親(した)しみをもつようになっていました。そして、よそへどろぼうをしにいくときには、いつもいっしょにつれていきました。もっとも、そうすれば、じぶんたちが、とんまなノロ公よりもずっとりこうで、勇敢(ゆうかん)なことを、みんなに見せてやることができたわけです。
 窓(まど)ガラスのぼろをつつき落(おと)したのが、ノロ公だとは、どのカラスも知りませんでした。もし知ったとすれば、みんなはどんなにか驚(おどろ)いたことでしょう。なぜって、ノロ公などが、人間の住居(すまい)に近よる勇気(ゆうき)をもっていようとは、とても信じられませんから。ノロ公は、そのことをだれにも話しませんでした。それには、じつは、ノロ公だけのとくべつのわけがあるのです。アラシとハヤテは、昼(ひる)のあいだや、ほかのカラスたちがまわりにいるときは、ノロ公にたいしていつも親切(しんせつ)でした。ところが、あるまっくらな晩(ばん)のこと、仲間(なかま)のカラスたちが、枝の上にとまって眠(ねむ)っていたとき、ノロ公は、とつぜんアラシ夫婦(ふうふ)におそわれて、もうすこしで、殺されそうになったのです。それからは、まい晩(ばん)、くらくなりますと、ノロ公はじぶんのいつもの寝場所(ねばしょ)をぬけだして、あき小屋(ごや)へいくことにしているのでした。
 ある日の午後(ごご)、カラスたちは、カラス山の巣(す)をしゅうぜんしましたが、そのあとで、すばらしい見つけものをしました。アラシは、ノロ公とほかの二羽(わ)のカラスをつれて、荒れ地の片すみにある大きなくぼ地に飛んでいきました。そのくぼ地には砂利(じゃり)しかありませんでしたが、カラスたちは、そんなことぐらいで満足(まんぞく)することができません。人間がこのくぼ地を掘(ほ)ったのには、なにかわけがあるにちがいないと思って、そこに飛びおりていっては、さかんにひっかきまわしました。そうしているうちに、片がわの砂利が、ガサガサと、きゅうにくずれおちました。カラスたちは、びっくりしてかけよりました。と、はたして、くずれおちた石と砂利のあいだに、木のふたをした土の大きなかめが見えるではありませんか? もちろんみんなは、すぐに、中に何がはいっているか知りたくなりました。そこで、かめに穴(あな)をつつきあけようとしたり、ふたをあけようとしたりしましたが、どうしてもうまくいきません。
 カラスたちは、とほうにくれて、かめをながめていました。そのとき、とつぜん、
「おい、おい、カラスくん、おりていって、手つだってやろうか?」という声がしました。
 みんなが、はっとして上を見ますと、くぼ地のふちに一ぴきのキツネがすわって、こちらを見おろしています。色つやも姿も、いままでに見たなかで、一ばん美しいキツネです。ただ一つおしいことには、片ほうの耳がありません。
「手つだってくれるって言うんなら、いやとは言わんぜ。」と、アラシは言うといっしょに、くぼみから飛びあがりました。ほかのカラスたちも、すぐそのあとにつづきました。すると、キツネは穴の中にとびおりて、かめをかじったり、ふたをひっぱったりしてみました。けれど、やっぱりどうしても、あけることができません。
「何がはいっているか、わかるかい?」と、アラシがたずねました。
 キツネは、かめをあっちこっちにころがして、耳をすましました。
「こいつは銀貨(ぎんか)にちがいないぞ。」と、キツネは言いました。
 銀貨ならたいしたものです。カラスたちは、それほどのものとは思っていませんでした。
「ほんとうに、銀貨(ぎんか)だと思うかい?」と、カラスたちは言いました。そして、その目は欲(よく)にくらんでキラキラ光りました。こう言えばへんに聞こえるかもしれませんが、なにしろカラスたちにとって、銀貨ぐらいすきなものはなかったのです。
「ほら、ガチャガチャ音がするだろう!」と、キツネはもう一ど、かめをころがしながら言いました。「しかし、どうして出(だ)したもんだろうなあ。」
「きっと、だめさ。」と、カラスたちはため息(いき)をついて言いました。
 キツネは立ったまま、左の前足で頭をかきながら、考えました。うんそうだ、このカラスたちの助けをかりて、いつも逃(に)げられてばかりいる、あのガチョウにのったチビスケのやつをつかまえることができるかもしれないぞ。
「おい、おれは、このかめをあけられるやつを知ってるんだがなあ。」と、キツネは言いました。
「だれだい? だれだい?」と、カラスたちはさけびながら、むちゅうになって、また穴(あな)の中にとびこんできました。
「あとで、そいつをおれに引きわたすと約束(やくそく)するんなら、教えてもいいぜ。」と、キツネは言いました。
 そして、キツネはカラスたちに、ニールスのことを話してきかせました。もし、オヤユビ小僧(こぞう)のニールスをここへつれてくることができれば、きっとこのかめはあけさせることができる、と言いました。しかし、こういう、うまいちえをかしてやったんだから、そのお礼(れい)に、オヤユビ小僧が銀貨(ぎんか)を取りだしたら、すぐさま、その小僧をおれに引きわたせ、と言いはりました。カラスたちのほうでは、オヤユビ小僧なんてべつにおしいとは思いません。で、すぐにこの申し出を承知(しょうち)しました。
 この約束はかんたんにできあがりましたが、さて、オヤユビくんとガンたちがどこにいるかを、さがしだすとなると、なかなかたいへんなことです。アラシはじぶんで十五羽(わ)のカラスを引きつれて、すぐ帰ってくると言いのこして、出かけていきました。しかし、いく日たっても、カラス山にもどってはきませんでした。

四月十三日 水曜日
 ニールスの仲間(なかま)のガンたちは、エステルイエートランドにむかって旅だつまえに、たべものをとる時間が十分(じゅうぶん)あるように、朝早く起きました。ガンたちのとまった島は、ガン湾(わん)の中にある小さな島でした。この島には草や木は生(は)えていませんでしたが、まわりの水の中には、いろんな水草(みずくさ)がありましたので、みんなはそれを腹(はら)いっぱいたべました。ところが、ニールスのほうは、たべるものがなんにも見つからなくて、ひどいめにあってしまいました。
 ニールスはおなかがへって、朝の寒(さむ)さにふるえながら、あっちこっちを見まわしていました。と、ちょうどむこうにある岩ばかりの島の、木の茂(しげ)った岬(みさき)で、二ひきのリスが遊(あそ)んでいるのが目にとまりました。もしかしたら、あのリスが冬のたくわえの残りをもっているかもしれない、と、ふと思いつきました。そこで、白いガチョウに、ハシバミをすこしわけてもらいたいから、あの岬までつれていってくれ、とたのみました。
 白いガチョウは、すぐにニールスを乗せて、その岬へ泳(およ)いでいきました。ところが、運(うん)のわるいことに、リスたちはむちゅうになって、木から木へと追いかけっこをしているものですから、ニールスの呼ぶ声がちっとも耳にはいりません。リスたちは、だんだん林の奥(おく)へ奥へとはいっていきました。ニールスも、いそいでそのあとを追いかけていきましたので、まもなくガチョウの目のとどかないところまでいってしまいました。そのあいだ、ガチョウはおとなしく岸(きし)べで待っていました。
 ニールスは、白いアネモネが、あごにとどくほど高く生(は)えている草地にはいっていきました。と、だしぬけに、だれかがうしろから、じぶんをつかんで持ちあげようとするようすです。はっとしてふりむいてみますと、一羽(わ)のカラスが、えりのところをつかんでいるではありませんか。ニールスは一生けんめい身をふりはなそうとしました。けれども、そうしているうちに、もう一羽のカラスが飛んできて、こんどは靴下(くつした)をひっぱりましたので、ニールスは地べたにたおされてしまいました。
 もしもこのとき、ニールスがすぐに、助(たす)けて! とさけびさえすれば、白いガチョウに助けてもらえたにちがいありません。ところが、ニールスは、カラスの二羽ぐらい、じぶんひとりでも平気だと思ったのでしょう。しかし、いくらなぐったり、けとばしたりしてみても、カラスたちはどうしてもはなしません。とうとう、ニールスをつかんで空に飛びあがってしまいました。しかも、わざとらんぼうに飛んで、ニールスの頭を木の枝にぶっつけました。そのぶっつけかたがあんまりひどかったので、ニールスはとうとう気をうしなってしまいました。
 目をあいたときには、空高く飛んでいました。そのうちに、だんだん意識(いしき)がはっきりしてきました。はじめは、どこにいるのかも、何を見ているのかも、さっぱりわかりませんでした。下を見おろしますと、とても大きな毛織(けお)りのじゅうたんがひろがっているようでした。そのじゅうたんは緑(みどり)と赤とに織りだされていて、いろいろな形をしています。たいそう厚(あつ)くて、美しいじゅうたんです。けれども、ニールスは、おしいことにひどく使い古してあるな、と思いました。じっさい、もうぼろぼろになっているのです。まんなかのところが長く裂(さ)けていますし、また場所(ばしょ)によっては、ちぎれて、なくなっているところもあります。そして、なによりもふしぎなのは、そのじゅうたんが鏡(かがみ)の上にひろげられているように見えることでした。なぜかといえば、そのじゅうたんの穴(あな)や裂(さ)けめのあるところからは、鏡があかるく、キラキラ輝(かがや)いているのです。
 むこうを見れば、ちょうどいま地平線(ちへいせん)の上に姿をあらわしたお日さまが、しずかにのぼってきます。と見るまに、じゅうたんの穴や裂けめの下の鏡が、赤や金色に輝きはじめました。なんという美しいながめでしょう。ニールスはむちゅうになって喜(よろこ)びました。もっとも、じぶんのながめているものが、なんであるかは、ちっともわかってはいませんでした。そのとき、カラスたちは下におりはじめました。すると、いままで大きなじゅうたんに見えていたものは、じつは、緑の針葉樹(しんようじゅ)や、葉のない褐色(かっしょく)の闊葉樹(かつようじゅ)の茂(しげ)っている地面だったことがわかりました。そして、じゅうたんの穴や裂(さ)けめに見えたのは、キラキラ光る入江(いりえ)や小さな湖(みずうみ)だったのです。
 ガチョウのせなかに乗(の)っかって、はじめて空を飛んだとき、スコーネの土地が市松(いちまつ)もようの布(ぬの)のように見えたことを、そのとき、ふと思いだしました。それにしても、ぼろぼろのじゅうたんのように見えるこの土地は、いったいどこなのでしょう?
 つぎからつぎへと、いろんな疑(うたが)いがわいてきました。どうしてガチョウのせなかに乗っていないんだろう? どうしてじぶんのまわりをこんなにたくさんのカラスが飛んでいるんだろう? そしてまた、どうして落っこちそうになるほど、あっちこっちへ引っぱりまわされたり、ぶたれたりするんだろう? と、たちまち、なにもかもがはっきりとしてきました。じぶんは二羽(わ)のカラスにさらわれたんだ。白いガチョウは、まだ岸べで待っているにちがいない。きょうみんなは、エステルイエートランドにむかって出発(しゅっぱつ)するはずだ。それなのに、じぶんは南西(なんせい)のほうにつれられてゆく。お日さまがうしろのほうにあるから、きっとそうにちがいない。そうしてみると、下に見える森のじゅうたんは、きっとスモーランドだ。
「ぼくがせわをしてやれなくなったら、あの白ガチョウはどうなるだろう?」と、ニールスは思いました。そして、カラスたちに、じぶんをガンたちのところへ、すぐにつれていってくれるようにたのみました。ニールスは、じぶんのことはちっとも心配していませんでした。だって、カラスたちがじぶんをつれていくのは、ただふざけているんだろうと思っていたのです。
 ところが、カラスたちは、ニールスの言うことなどには耳をもかさず、おおいそぎで飛んでいきました。しばらくすると、なかの一羽が、「気をつけな! あぶないぜ!」とでもいうように、つばさをばたばたやりました。まもなく、みんなはエゾマツの森におりました。そして、とげとげした枝のあいだをおしわけて、地面につきました。そこで、ニールスは太いエゾマツの下におろされましたが、たいそう、うまくかくされてしまったために、これではタカでさえもニールスの姿を見つけることができません。
 十五羽のカラスが、ニールスの見はりをするために、くちばしをつきだしながら、ぐるりをとりかこみました。
「おい、カラスたち、なんのためにぼくをさらったんだ。」と、ニールスがききました。
 ところが、ニールスが言いおわるか、おわらないうちに、一羽の大きなカラスが、しかりつけました。
「しずかにしろ! さもないと、きさまの目の玉をくりぬくぞ!」
 カラスが本気(ほんき)でそう言っていることはたしかです。こうなったからには、カラスの言うとおりにするほかはありません。そこで、ニールスは、おとなしくすわって、じっとカラスたちを見つめました。カラスたちもニールスをじっと見つめました。見れば見るほど、このカラスたちは気にくわないやつらです。はね毛は、ものすごくほこりだらけで、ぼうぼうとしています。まるで一ども水あびをしたり、油をつけたことがないようです。そして、足指や爪(つめ)には、かわいた泥(どろ)がこびりついています。それから、くちばしのまわりには、食(く)いものの残りがくっついています。同じ鳥ではあっても、ガンたちとはなんというちがいかたでしょう。このカラスたちは、ざんこくで、ひきょうもので、よくばりで、しかも、だいたんふてきな顔つきをしています。まるで人殺しか、ごろつきのように見えます。
「こいつは、ほんとうの強盗団(ごうとうだん)につかまっちまったんだな。」と、ニールスは思いました。
 ちょうどそのとき、上のほうで、ガンの仲間(なかま)のさけぶ声が聞こえました。
「どこにいるの? ぼくはここだよ。どこにいるの? ぼくはここだよ。」
 アッカをはじめ、みんながじぶんをさがしにきてくれたのです。けれども、返事(へんじ)をしようと思っているうちに、このカラスの一団(だん)のおかしららしい、さっきの大ガラスが、ニールスの耳もとで、「目玉(めだま)のことを忘れるな!」と、しかりつけました。これでは、だまっているよりほかはありません。
 ガンの仲間は、ニールスが、こんなに近くにいようとは気がつかないようすです。ただ、ぐうぜんに、この森の上に飛んできたものでしょう。また二どばかり、ガンたちのさけぶ声が聞こえましたが、それから消(き)えてしまいました。
「さあ、じぶんひとりで、助かる工夫(くふう)をしなくちゃならないぞ。」と、ニールスはひとりごとを言いました。「もう何週間(なんしゅうかん)も、野の生活をして苦労(くろう)しているんだから、ひとつ、そのうでまえを見せるかな。」
 しばらくするとカラスたちは、出かけるしたくをはじめました。またこんども、一羽がニールスのえりをつかみ、もう一羽が靴下(くつした)をつかんで、つれていくつもりとみえます。そこで、ニールスはあわてて言いました。
「きみたちの中には、ぼくをせなかに乗っけていけるものはないのかい? きみたちがあんまりらんぼうに、ぼくをあつかうから、ぼくは、こなごなになっちまうんじゃないかと思ったよ。まあ、乗せてごらんよ! せなかからとびおりたりはしないから。」
「やい、やい、どうされたって、きさまの知ったこっちゃないんだ。」と、おかしらが言いました。
 そのとき、いちばん大きい、つばさに白いはねのあるカラスが、前に進みでてきました。頭をぼうぼうにして、いかにもやぼくさいカラスでしたが、
「おかしら、このオヤユビ小僧(こぞう)を落(おと)して、かたわにするよりも、まるまる生かしておいたほうが、とくじゃありませんか。だから、わたしがせなかに乗せていきましょう。」と、言いました。
「ノロ公(こう)、てめえにできるんなら、おれに文句(もんく)はねえ。だが、そいつをなくすんじゃあねえぞ!」と、アラシは言いました。
 ありがたいことです。ニールスは大よろこびでした。
「カラスにさらわれたからって、もう気をおとすことはないぞ。きっと、こいつらをやっつけてやれるさ。」と、ニールスは思いました。
 カラスたちは、スモーランドの上を南西(なんせい)にむかって飛びつづけました。うららかに晴(は)れわたった、あたたかい朝でした。地上の鳥たちは、やさしい愛(あい)の歌(うた)をうたっていました。高い、黒々とした森の中の、エゾマツのこずえで、ツグミがつばさをたれ、のどをふくらまして、
「なんてあなたはきれいなんでしょう! なんてあなたはきれいなんでしょう! なんてあなたはきれいなんでしょう! あなたほどきれいなものはない。あなたほどきれいなものはない。」と、なんどもなんども、うたっていました。
 ちょうどそのとき、ニールスがこの森の上を通りかかりました。ニールスは、ツグミの歌を二ど聞いて、ははあ、ほかの歌は知らないんだな、と気がつきますと、両手をラッパのようにして口にあてて、下にむかってさけびました。
「そんな歌はまえにも聞いたよ! そんな歌は、まえにも聞いたよ!」
「だれだい? だれだい? だれだい? わたしの歌をひやかすのは?」と、ツグミは言いながら、からかったものの姿を見つけようとしました。
「カラスにさらわれたものだよ。」と、ニールスは答えました。
 そのとたんに、カラスのかしらがふりむいて、
「やい、チビスケ、目玉に気をつけろ!」と、言いました。
 けれども、ニールスは、「ふん、そんなこと、かまうもんか。きさまなんかこわくないぞ。いまに見てろ。」と、心の中で思いました。
 カラスたちは、ずんずん飛(と)んでいきました。いたるところに、森や湖(みずうみ)がありました。とあるカバの森では、葉のない枝に森バトのメスがすわって、そのまえにオスのハトが立っていました。オスのハトは、はね毛をふくらまし、頭をまっすぐに立てて、からだをあげたりさげたりするので、そのたびに胸毛(むなげ)が枝にさわりました。そして、ひっきりなしに、
「おまえは、おまえは、森の中でいちばんかわいいね。森じゅうで、おまえぐらい、おまえぐらい、かわいいものはないよ!」と、鳴いていました。
 ニールスは、その上を通りかかって、オスのハトの言うのを耳にしたとき、だまってはいられなくなりました。
「そいつの言うことを信(しん)じちゃいけない! そいつの言うことを信じちゃいけない!」と、ニールスはさけびました。
「おれをけなすのはだれだ? おれをけなすのはだれだ?」と、オスのハトはクウ、クウ鳴(な)きながら、からかったものの姿を見つけようとしました。
「カラスにさらわれたものだよ。」と、ニールスは答えました。
 と、またもアラシがふりむいて、だまれ、と言いつけました。けれども、ニールスをせなかに乗せているノロ公(こう)は、
「しゃべらせておきなさいよ。そうすりゃ小鳥どもは、われわれカラスが、とんちのある、おもしろい鳥になったと思いまさあ。」と、言いました。
「ふん、あいつらだって、それほどばかじゃああるめえ。」と、アラシは言いました。けれども、内心(ないしん)ノロ公の考えが気にいったもので、それからは、ニールスのすきなように言わせておきました。
 カラスたちは、たいていは、森や森のあいだにある牧場(まきば)の上を飛んでいきましたが、ときには教会(きょうかい)や、村や、森のそばの小屋の上も飛びました。あるところでは、古い美しいお屋敷(やしき)が見えました。それは、森をうしろに、海を前にして建(た)てられていました。壁は赤く塗(ぬ)ってあり、屋根(やね)はキリのように、とがっていました。お屋敷の前には、大きなカエデの木が立っていて、庭園(ていえん)には、大きなスグリの茂(しげ)みがありました。
 風見(かざみ)の上に、ムクドリのオスがすわって、大声でさえずっていました。その声は、ナシの木の巣箱(すばこ)の中で、卵をだいているメスにまでよく聞こえました。
「かわいい卵が四つある。」と、ムクドリは歌っていました。「まあるい、きれいな卵が四つある。巣の中は、きれいな卵でいっぱいだ。」
 ムクドリが、ちょうど千べんめをうたったとき、ニールスがその上を通りかかりました。そして、両手を笛(ふえ)のように口にあてて、さけびました。
「カササギに卵をとられるよ! カササギに卵をとられるよ!」
「わたしをおどかそうとするのは、だれだね?」と、ムクドリはたずねながら、不安(ふあん)そうにはねをバタバタやりました。
「カラスにつかまってるものだよ!」と、ニールスは言いました。
 こんどは、カラスのおかしらも、だまれとは言いませんでした。それどころか、たいそうおもしろがって、みんなといっしょに、ゆかいそうに、カアカア鳴きました。
 陸地(りくち)に進むにつれて、湖(みずうみ)は大きくなり、その中の島や岬(みさき)も多くなりました。とある湖の岸べでは、一羽のオスのカモが、メスの前で、ていねいにおじぎをしていました。
「一生(いっしょう)のあいだ、あなたへのまごころはかわりません。一生のあいだ、あなたへのまごころはかわりません。」と、オスはねっしんに言っていました。
「ひと夏もつづかないぜ!」と、このとき通りかかったニールスが言いました。
「だれだ?」と、カモのオスはさけびました。
「カラスにぬすまれたものだよ!」と、ニールスはさけびました。
 お昼(ひる)ごろ、カラスたちは、森のあいだの、とある草地におりました。みんなはあるきまわってたべものをひろいましたが、ニールスにも何かやろうということは、だれひとり思いつきませんでした。そのとき、ノロ公が、ひからびた赤い実(み)の二つ三つついている野バラの枝をくわえて、おかしらのところへ飛んできました。
「おかしら、これを召(め)しあがってください。うまいものですから、あなたにもお気にめしましょう。」と、ノロ公が言いました。
 アラシは、ばかにしきったように、フフンと笑って、言いました。
「てめえ、こんなひからびた実(み)を、おれが食(く)うとでも思ってるのか?」
「よろこんでいただけると思ったんですが。」と、ノロ公は言いながら、がっかりして、その枝を投げすてました。ところが、その枝がちょうど、ニールスの目の前に落ちましたので、ニールスは、すぐさまそれをひろって、すいたおなかをふさぎました。
 カラスたちはたべおわりますと、おしゃべりをはじめました。
「おかしら、何を考えているんです? あんたは、きょうは、えらくだまりこんでいますね。」と、一羽のカラスがアラシに言いました。
「おれはな、むかし、この地方に一羽のメンドリがいたのを思いだしていたところさ。そいつは、飼(か)い主(ぬし)のおくさんが大すきだったんだ。それで、そのおくさんを喜(よろこ)ばせてやろうと思って、とてつもなくでかい卵をうんでよ、それを穀物倉(こくもつぐら)の床下(ゆかした)にかくしておいたんだ。そのメンドリのやつめ、卵がかえったら、おくさんがさぞ喜ぶだろうと思って、ひとりでうれしがっていたのよ。おくさんのほうじゃ、メンドリの姿が長いあいだ見えないもんだから、どうしたんだろうと、ふしぎに思って、あっちこっちさがしてみた。しかし、どうしても見つかりゃしない。おい、口なが、そのメンドリを見つけたなあ、だれだかわかるか?」
「わかりますとも、おかしら。だが、それじゃ、わっしもそれに似(に)た話を、お聞かせしやしょう。おかしらは、ヒンネリュードの牧師館(ぼくしかん)にいた大きな黒ネコを、おぼえていなさるかね? あのやろうは、子をうむと、いつも人間がとって、川んなかにほうりこんじまうもんだから、不平(ふへい)たらたらだったんでさ。ところが、一どだけ、おもてのほし草の中に、うまくかくしたことがあるんですよ。あいつは、うまくかくしたと大よろこびでしたが、あいつよりも、じつは、このわっしのほうが大よろこびでしたのさ。」
 すると、ほかのカラスたちも、むちゅうになってきて、みんながいっぺんにしゃべりだしました。
「へえ、それが、卵や赤んぼネコを盗(ぬす)みだすひけつですかい?」と、一羽(わ)が言いました。「おれなんざ、一人(いちにん)まえになりかけた若いウサギを追いかけたもんだぜ。やぶからやぶへと追いかけてよ――」
 みんなまで言いおわらないうちに、べつの一羽が口をはさみました。
「トリやネコをおこらすってのも、おもしろいかもしれねえが、人間をこまらせてやるほうが、ずっとゆかいだろうぜ。おれはな、いつだったか銀(ぎん)のさじをぬすんでよ――」
 ニールスは、もうこんなおしゃべりを、だまって聞いてはいられなくなりました。
「おい、カラスくん、ぼくの言うことを聞きたまえ!」と、ニールスは言いました。「きみたちは、そんなひどいことをしゃべりたてて、はずかしくないのかい。ぼくは三週間(しゅうかん)も、ガンたちといっしょに暮(く)らしているが、聞くこと見ること、みんないいことばかりだぜ。きみたちには、悪(わる)いかしらがいるにちがいない。きっとそいつが、そんなふうに盗(ぬす)んだり殺したりさせているんだ。いまのうちに、きみたちは、暮(く)らしかたをかえるがいい。なぜって、人間は、きみたちの悪いのにすっかり腹(はら)をたてて、きみたちを根だやしにしようと、けんめいになっているんだよ。だから、このままだと、きみたちは、まもなくおしまいだぜ。」
 アラシをはじめ、ほかのカラスたちはこれを聞くと、怒(いか)りくるって、もうすこしで、ニールスにおどりかかって、ズタズタに引きさこうとしました。ところが、そのとき、ノロ公(こう)が笑いながら、カアカアと鳴いて、ニールスの前に進みでました。
「いや、いけない、いけない! このオヤユビ小僧(こぞう)に、銀貨(ぎんか)をださせないうちに、ひき裂(さ)いてしまったら、ハヤテさんはなんて言うだろうかね?」と、ノロ公は言いましたが、そのようすは、いかにもおどおどしていました。
「やい、ノロ公、女をこわがるってのは、てめえのことか。」と、アラシは言いました。
 けれど、とにかく、アラシもほかのカラスたちも、オヤユビくんに手だしはしませんでした。
 それからまもなく、カラスたちは出発(しゅっぱつ)しました。いままでのところでは、スモーランドは話に聞いているほど、みすぼらしい土地のようではありませんでした。森も山もありますし、川や湖(みずうみ)のほとりには、耕(たがや)された畑も見えます。まだ、ほんとうの荒(あ)れ地には、一つも出あっておりません。しかし奥(おく)に進めば進むほど、村も小屋もすくなくなりました。しまいには、ほんとうの荒れ地の上を飛んでいるのではないかと思われてきました。むりもありません。下に見えるものといえば、沼(ぬま)と荒れ地とネズの生(は)えている丘だけなのですから。
 お日さまは沈(しず)みましたが、カラスたちはまだあかるいうちに、ヒースの生(は)えている、あの大きな荒れ地につきました。アラシは、一羽のカラスをさきにやって、オヤユビ小僧(こぞう)をうまく見つけたことを、みんなに知らせました。すると、ハヤテは数百羽(すうひゃっぱ)のカラスをひきつれて、出むかえに飛んできました。カラスたちが両方から、カア、カアと鳴きさけんで、あたりは、たいへんなさわぎでした。そのとき、ノロ公が、そっとニールスに言いました。
「おまえはゆかいなやつだ。おかげで旅のあいだ、とてもおもしろくすごさせてもらった。おれは、おまえがすきになったよ。だから、いいことを教えてやる。おまえは、下におろされると、すぐに、なんでもないような仕事(しごと)を言いつけられるが、それをやるときには、気をつけるんだぜ。」
 まもなく、ノロ公は砂利穴(じゃりあな)の底(そこ)に、ニールスをおろしました。ニールスは、ころがるようにおりて、そのまま、いかにも疲(つか)れきったように、あおむけにねころんでしまいました。そして、たくさんのカラスが、まわりをとりまいて、嵐(あらし)のように、ものすごく羽(は)ばたいても、いっこうに目をあけませんでした。
「こら、小僧(こぞう)、起きろ!」と、アラシが言いました。「やい、仕事があるんだ。きさまには、なんでもないことだ。」
 ニールスは、身動(みうご)きもしないで、眠ったふりをしていました。すると、アラシは、ニールスの腕(うで)をつかんで、くぼ地のまんなかにある、古風(こふう)な土のかめのところへ、砂(すな)の上をひきずっていきました。
「やい、小僧、起きろ!」と、アラシは言いました。「さあ、このかめをあけるんだ!」
「どうして、ぼくをねかせておいてくれないんだい?」と、ニールスは言いました。「今夜(こんや)は、くたびれすぎちゃって、なんにもできやしないぜ。あしたまで待ってくれよ!」
「かめをあけろったら!」と、アラシは、ニールスをゆすぶりながら、言いました。
 ニールスは、しかたなくからだを起(お)こして、かめをながめまわしました。
「ぼくみたいな、ちっぽけな子どもに、こんなかめがあけられるはずがないじゃないか。このかめは、ぼくぐらいあるぜ。」
「さっさとあけろ!」と、アラシは、もう一ど言いつけました。「あけないと、ためにならんぞ!」
 ニールスは、立ちあがって、かめのところにいき、ふたをいじくりました。でも、すぐに腕(うで)をさげてしまいました。
「ぼくは、いつもなら、こんなに弱虫(よわむし)じゃないんだ。」と、ニールスは言いました。「あしたまで、ねかせてさえくれりゃ、このふたぐらい、きっとあけられると思うがなあ。」
 ところが、アラシは、気がいらいらしていましたので、いきなり前に進みでて、ニールスの足をつつきました。しかし、いくらなんでも、カラスにこんなことをされては、だまっていられません。ニールスは、すぐさま身をふりはなして、二歩(ほ)ほどうしろへさがりました。そして、ナイフをさやから引きぬいて、目の前につきだしました。
「やい、気をつけろ!」と、ニールスは、アラシにむかってさけびました。
 アラシは、怒(いか)りくるっていたものですから、危険(きけん)をさけようともしないで、めくらめっぽうにニールスめがけて、とびかかりました。そのため、ナイフがぐさっと目玉につきささって、頭にまでもくい入りました。ニールスは、すばやくナイフを引きぬきましたが、アラシは一、二ど、つばさをバタバタやっただけで、そのままたおれて、死んでしまいました。
「おかしらが死んだぞ! こいつがおかしらを殺したぞ!」と、すぐ近くにいる、カラスたちが口ぐちにさけびました。それから、たいへんなさわぎになりました。オイオイ泣きだすものもあれば、かたきをうて、とさけびたてるものもあります。みんなは、四方八方から、ニールスめがけて駆(か)けよりました。ノロ公が、その先頭(せんとう)に立っていました。いつものように、ノロノロしてはいましたが、つばさをひろげて、ニールスをその下にかくし、ほかのカラスたちが、くちばしをむけてくるのをふせいでくれました。
 ニールスは、進退(しんたい)ここにきわまってしまいました。カラスたちから逃(に)げることもできませんし、身をかくす場所(ばしょ)一つありません。と、そのとき、土のかめのことを思いだしました。そこで、ふたを力いっぱいつかんで、ぐいと、はずしました。そして、その中にかくれようと思って、とびこみました。ところが、ここにもかくれるわけにはいきませんでした。なぜって、かめの中は、ほとんどふちまで、小さな、うすい銀貨(ぎんか)が、いっぱいにつまっていたのです。これでは、中にはいることもできません。そこで、とっさに、身をかがめて、銀貨をつかんでは投げはじめました。
 いままで、カラスたちは、ニールスのまわりをとりまいて、つばさをバタバタやりながら、つつき殺(ころ)そうとしていました。ところが、ニールスが銀貨をほうり投げるのを見たとたんに、みんなは、たちまち、かたきうちのことなどは、忘れてしまって、あわてふためいて、銀貨をひろいはじめました。ニールスは、銀貨を手にいっぱいつかんでは投げました。すると、どのカラスもどのカラスも、ハヤテまでもいっしょになって、むちゅうで、それをひろいました。そして、うまく銀貨をひろったものは、こんどは、それをかくそうと、大いそぎで巣(す)のほうへ飛んでいきました。
 ニールスは、かめの中の銀貨を、すっかり投げだしてしまったとき、あたりを見まわしました。すると、そのくぼ地には、一羽のカラスしか残っていませんでした。それは、つばさに白いはねのある、じぶんを乗せてきてくれた、あのノロ公(こう)でした。
「きみには、わからないでしょうが、きみはたいへんな仕事(しごと)をしてくれたんですよ。」と、ノロ公は言いました。その声も調子(ちょうし)も、いままでとはまるでちがっていました。「それで、こんどは、わたしがきみの命をすくってあげます。さあ、わたしのせなかにお乗りなさい。今夜(こんや)安心して眠(ねむ)れる、隠(かく)れがにつれていってあげますから。あしたになったら、ガンたちのところへ帰れるように、なんとかしてあげましょう。」

四月十四日 木曜日
 あくる朝、目がさめたとき、ニールスは、ベッドの中に寝(ね)ていました。そして、ぐるりには壁(かべ)があり、上には屋根(やね)があるのを見て、じぶんは、家(うち)にいるんだな、と思いました。
「おかあさんが、じきにコーヒーを持ってきてくれるんだろうなあ?」ニールスは、ねぼけまなこで、こんなことをブツブツ言いました。そのうちに、じぶんはいまカラス山の小屋の中にいるんだ、そうだ、ゆうべ、白いはねのノロ公(こう)が、ここへつれてきてくれたんだっけ、と思いだしました。
 ニールスは、きのうの旅(たび)のために、からだじゅうが痛(いた)くてたまりませんでした。ですから、じっと寝(ね)ているのが、なによりも楽(たの)しく思われました。そして、ガンたちのところへ、つれていつて[#「いつて」はママ]くれると約束(やくそく)したノロ公がくるのを待っていました。
 市松(いちまつ)もようのもめんのカーテンが、ベッドの前にかかっていました。ニールスは小屋の中を見ようと思って、カーテンをわきにのけました。と、まあ、なんという小屋でしょう。いままでに、こんな小屋は見たことがありません! 壁(かべ)は、丸太(まるた)が二列にならんでいるだけで、すぐそれから屋根になっています。天井張(てんじょうば)りがないために、棟木(むなぎ)までも見えます。小屋ぜんたいが、たいへん小さいので、ふつうの人間のために建てられたのではなくて、どちらかといえば、ニールスのような小人(こびと)のために建てられたのではないかと思われます。けれども、かまどと煙突(えんとつ)は、とても大きくて、これより大きいのは見たことがないとさえ思われるくらいでした。入口の戸は、かまどのそばの、破風(はふ)のある壁についていました。でも、これがまた、たいそうせまいので、戸というよりは小窓(こまど)のようでした。もうかたほうの破風のある壁には、低くて、はばの広い窓がありました。これには、小さいガラスがたくさんはまっていました。この部屋(へや)には、動かせる家具(かぐ)というものは、ほとんどありませんでした。腰掛(こしか)けも、窓ぎわのテーブルも、それから、いまニールスのねている大きなベッドも、いろんな色どりをした戸棚(とだな)も、みんな壁にくっついていました。
 ニールスは、この小屋はだれのものだろう、そしてまた、どうしていまは人が住んでいないんだろう、と思わずにはいられませんでした。この小屋に住んでいた人たちは、またもどってくるつもりのようです。かまどの上には、コーヒーつぼとか、ゆなべがのったままになっていますし、炉(ろ)ばたには、まきもおいてあります。すみのほうには、火ばさみと、木べらがあり、紡車(つむぎぐるま)は、腰かけの上にあがっています。窓の上の棚には、麻(あさ)と、二(ふた)かせの織糸(おりいと)と、ロウソクと、一たばのマッチがおいてあります。
 ここに住んでいた人たちは、たしかに、もう一ど、もどってくる気にちがいありません。
 ベッドには、ちゃんと掛(か)けぶとんがありますし、壁には、三人の騎士(きし)の絵(え)のかいてある、長い布(ぬの)もかかっています。
 ところが、上の棚(たな)に目をやったとき、ニールスは、はっとわれにかえりました。そこには、ひからびた大きな菓子(かし)パンが二つ、くしにささっているではありませんか。もちろん、古くなって、かびも生(は)えているようですが、パンであることにはかわりありません。火ばさみでたたきますと、そのうちの一つが下に落ちました。さっそく、すいたおなかを満足(まんぞく)させて、残りをポケットにいっぱいつめこみました。それにしても、パンの味(あじ)はすばらしいものでした。
 ニールスは、ほかにもなにか役(やく)にたつものはないだろうかと思って、もう一ど部屋(へや)の中を見まわしました。
「ぼくがいるものは、持っていってもいいだろう。だって、だれのめいわくにもならないんだもの。」と、ニールスは思いました。でも、ニールスには、たいていのものが、大きくて、重(おも)たすぎました。持っていけそうなものといえば、せいぜいマッチぐらいのものでした。
 ニールスは、テーブルの上によじのぼり、そこからカーテンにつかまって、窓の上の棚(たな)にとびうつりました。ニールスが、そこで袋(ふくろ)の中にマッチをつめこんでいますと、あの白いはねのカラスが窓(まど)からはいってきました。
「ほら、きましたよ。」と、ノロ公は言いながら、テーブルの上にとびおりました。「おそくなってしまいましたが、きょうは、アラシのかわりに、新しいおかしらをえらんでいたので、なかなかこられなかったんですよ。」
「だれが、おかしらにえらばれたの?」と、ニールスはたずねました。
「それはね、盗(ぬす)みや悪(わる)いことをゆるさないもの、つまり、いままでノロ公と言われていた、この白いはねのわたしがえらばれたんです。」
 ノロ公は、からだを起(お)こして、もったいをつけながら、こう言いました。
「それは、いいひとがえらばれたね。」と、ニールスは言って、ノロ公におめでとう、と言いました。
「いや、ありがとう。」と、ノロ公は言いました。それから、アラシがかしらだったころのことを話しはじめました。
 と、だしぬけに、窓のそとで、よく耳なれた声がしました。
「あいつは、ここにいるのか?」と、キツネのズルスケが言っています。すると、
「ええ、この中にかくれているんです。」と、カラスの声が答えました。
「用心(ようじん)なさいよ、オヤユビさん!」と、白いはねのノロ公がさけびました。「ハヤテのやつが、きみを食(く)いたがっているキツネをつれて、外にきているんですよ!」
 ノロ公は、それいじょう言うことができませんでした。そのとき、早くも、キツネのズルスケが窓をめがけて、おどりかかっていたからです。古い、くされかかった窓わくは、たちまちとびちって、あっというまに、ズルスケは窓ぎわのテーブルの上に立っていました。そして、かしらにえらばれたばかりの、白いはねのノロ公は、逃(に)げるひまもなく、たちまちかみ殺されてしまいました。それから、キツネは、床(ゆか)にとびおりて、ニールスの姿をさがしました。ニールスはあわてて、大きな糸車(いとぐるま)のうしろにかくれようとしましたが、ズルスケは早くも、それを見つけて、おどりかかろうと身がまえました。この小屋は、たいへん小さい上に、しかも低(ひく)いので、もうどうすることもできません。すぐにキツネにつかまってしまいます。けれども、ふせぐ武器(ぶき)がまったくないわけではありません。ニールスは、いそいでマッチをすって、そばの麻(あさ)の束(たば)に火をつけました。そして、それがメラメラと燃(も)えあがったのを見るや、キツネのズルスケめがけて力いっぱい投げつけました。さすがのズルスケも、ほのおにつつまれてはたまりません。恐(おそ)ろしさに気ちがいのようになって、もうニールスをつかまえるどころではなく、あわてふためいて、小屋からとびだしていきました。
 こうして、ニールスは、やっと一つの危険(きけん)からまぬがれはしましたが、こんどは、もっと大きな危険にせまられることになりました。というのは、いまズルスケにむかって投げつけた麻(あさ)の束(たば)から、とうとうベッドのカーテンにまで火が燃(も)えうつってしまったのです。ニールスはとびおりて、あわててもみけそうとしましたが、火の手ははげしくなるばかりです。みるみるうちに、部屋(へや)じゅうが煙(けむり)だらけになってしまいました。ズルスケは窓の外に立って、オヤユビくんが、部屋の中でこまっているようすをさっして、言いました。
「やい、オヤユビ小僧(こぞう)、そこで焼(や)き殺(ころ)されるのと、おれのところへ出てくるのと、どっちがいい? もちろんおれは、きさまを食(く)い殺してやりてえが、きさまが、かわった死にかたをするのもおもしれえや。」
 ニールスは、ほんとうにキツネの言うとおりだと思いました。なぜなら、火の手は、ずんずんひろがって、もうベッドもほのおにつつまれてしまいましたし、床(ゆか)からも、煙が立ちのぼっています。ニールスは、かまどの上にとびあがって、パン焼(や)きかまどの口をあけようとしました。と、そのとき、だれかが戸の鍵穴(かぎあな)に鍵(かぎ)をつっこんで、しずかにまわす音が聞こえました。きっと人間がきたのにちがいありません。けれども、いまのようにこまりきっているときには、人間もこわくはありません。それどころか、大よろこびで、すぐさま戸口に駆(か)けていきました。ちょうどそのとき、戸があいて、目の前にふたりの子どもがあらわれました。でも、その子どもたちが小屋が燃(も)えているのを見たとき、どんな顔をしたか、見ているひまはありませんでした。ニールスはふたりのそばをすりぬけて、おもてにとびだしました。でも、遠くへ走っていく気にはなれませんでした。なぜって、キツネのズルスケが待ちぶせしているにきまっています。だから、この子どもたちのそばにいるのが、いちばん安全(あんぜん)です。そこでニールスは、どんな子どもたちかと思って、ふりかえってみました。ところが、ひと目(め)見るより早く、ふたりのそばにかけよって、さけびました。
「やあ、こんちは、オーサちゃん、マッツちゃん。」
 ニールスは、ふたりの子どもを見たしゅんかん、じぶんがどこにいるかを、すっかり忘れてしまったのでした。カラスのことも、燃(も)えている小屋(こや)のことも、動物(どうぶつ)たちのことも、なにもかも忘れてしまったのでした。じぶんは西ヴェンメンヘーイの畑(はたけ)で、ガチョウの番(ばん)をしながらあるいている、そして、すぐ近くの畑では、スモーランドうまれのこのふたりの子どもたちが、やっぱりガチョウの番をしながらあるいているような気になったのでした。そこでニールスは、ふたりの姿を見ると、すぐさま石垣(いしがき)の上にかけあがって、「やあ、こんちは、オーサちゃん、マッツちゃん。」と、さけんだのです。
 ところが、子どもたちのほうでは、そんなちっぽけな生(い)き物(もの)が、両手をひろげて、じぶんたちのほうへ、駆(か)けてくるのを見ますと、生きた心地(ここち)もないほど、びっくりしてしまいました。そして、たがいにしっかりとだきあって、一、二歩(ほ)あとへさがりました。
 ニールスのほうでも、ふたりがびっくりしたのを見たとき、はっとわれにかえって、いまのじぶんの身を思いだしました。と、同時(どうじ)に、魔法(まほう)にかけられているじぶんの、ちっぽけな姿(すがた)を、この子どもたちに見られるくらい、まずいことはない、と思いました。そして、じぶんはもう人間ではないという、はずかしさと悲(かな)しさとに打(う)ちまけて、身をひるがえして、いちもくさんに駆(か)けだしました。どこへというあてもなく。
 ところが、あの荒(あ)れ地まできますと、うれしいことが待っていました。ヒースのあいだに、なにか白いものが、チラチラしているではありませんか。と思っているうちに、白いガチョウが、灰色(はいいろ)ガンのダンフィンをつれてニールスのほうへやってきました。ガチョウは、ニールスが一生けんめい走ってくるのを見ますと、すぐ、恐(おそ)ろしい敵(てき)に追(お)いかけられているにちがいない、とさとりました。そこで、ニールスをせなかに乗せるが早いか、大いそぎで、空高く飛びあがりました。
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四月十四日 木曜日
 ニールスとガチョウのモルテンと灰色(はいいろ)ガンのダンフィンは、疲(つか)れきったからだで、日が暮(く)れてからも、まだ夜のかくれ場所(ばしょ)をさがしあるいていました。ここは、北部スモーランドの荒(あ)れはてた地方(ちほう)です。でも、三人は、やわらかい寝床(ねどこ)や、気もちのいい部屋(へや)をほしがるような弱虫(よわむし)ではありませんから、きっとどこかに、みんなのがまんできるような休み場所が、見つかるでしょう。
「このずっとつづいた山の頂(いただ)きが、もっと高くて、けわしかったら、キツネものぼれなくて、いい寝場所になるんだけどなあ。」と、ひとりが言いました。
「いままで通ってきた大きな湖(みずうみ)の氷(こおり)がゆるんでいて、キツネがわたれないようになっていたら、もってこいの場所なんだけどなあ。」と、もうひとりが言いました。
 こまったことに、お日さまが沈(しず)んでからは、モルテンとダンフィンがねむくなってきて、いまにも地上に落ちそうになるのでした。ニールスだけは、目をさましていられましたが、だんだんあたりが暗(くら)くなってくるにつれて、心配(しんぱい)になってきました。
「ぼくたちが、湖(みずうみ)や沼(ぬま)のこおりついている土地へやってきたのは、運(うん)がわるいんだ。これじゃ、どこからでもキツネがやってくる。ほかのところは、みんな氷がとけてしまってるんだけど、ここは一ばん寒(さむ)いスモーランドなものだから、まだ春にならないんだ。どうやって、いい寝場所を見つけたらいいんだろうなあ。早く安全(あんぜん)な場所を見つけないと、夜のうちに、ズルスケにおそわれちまうぞ。」
 どこを見まわしても、つごうのいいかくれ場所は見あたりません。今夜(こんや)はまた、風と霧雨(きりさめ)をまじえた、うすら寒い、まっくらな夜です。おまけに、あたりは刻一刻(こくいっこく)ときみわるくなってくるではありませんか。
 こういうと、へんに聞こえるかもしれませんが、ニールスたちは、どうも、農園(のうえん)に泊(と)めてもらう気には、なれないらしいのです。いままでにも、たくさんの部落(ぶらく)を通りすぎてきたのですが、どの家にもよってみようとはしませんでした。森のはずれの丘(おか)のそばにあった小さな小屋などは、疲(つか)れきった旅人(たびびと)ならだれでも大よろこびをして、泊(と)めてもらうところですが、ニールスたちは気にもとめませんでした。ですから、せっかくさしのべられた救(すく)いの手を、受けいれようとしないのでは、こまるのもあたりまえだ、と言われてもしかたがないかもしれません。
 そのうちに、いよいよ空のうすあかりもすっかり消(き)えて、まっくらになりました。モルテンたちも、もう眠いのをがまんできなくなって、うつらうつらしながら、飛びはじめました。そのとき、一軒(けん)だけ、ぽつんと立っている百姓家(ひゃくしょうや)が見えてきました。見れば、荒れはてているうえに、人は住んでいないようすです。煙突(えんとつ)からは、煙(けむり)ものぼってはいませんし、窓(まど)からは、あかりも、もれておりません。家の中には、だれもいないようにみえます。ニールスは、この家を見たとき、こう思いました。
「さあ、いまとなっては、とにかく、この家にはいってみるよりほかはない。これよりいいところは見つかりそうもないんだから。」
 それから、まもなく三人は、その農家(のうか)の庭におりました。ガチョウたちは、おりるといっしょに、すぐ眠りこんでしまいましたが、ニールスは、どこか屋根(やね)になるようなところはないかと思って、一生けんめいに、あちこちを見まわしました。よく見ると、この家は、小さな百姓家(ひゃくしょうや)ではありませんでした。母屋(おもや)をはじめ、牛小屋や馬小屋があるばかりでなく、乾燥場(かんそうば)や、穀物倉(こくもつぐら)や、物置(ものおき)などもならんでいました。しかし、どれもこれもこわれていて、ひどくみすぼらしいものばかりでした。コケの生(は)えた灰色(はいいろ)の壁(かべ)は、かたむいていて、いまにもたおれそうです。屋根(やね)には、大きな穴(あな)が口をあけていますし、戸は蝶番(ちょうつがい)がこわれて、はずれかかっています。ひと目見ただけで、長いあいだほったらかされていたものであることがわかります。
 そのうちに、ニールスは牛小屋らしい建物(たてもの)を見つけました。そこで、ガチョウたちをゆり起こして、その入口へつれていきました。ありがたいことに、戸はかるく鍵(かぎ)がかけてあるだけでしたので、すぐに棒(ぼう)で押しあけることができました。ニールスは、これでやっと安心(あんしん)して眠れるぞ、と思って、ほっとため息をつきました。ところが、戸がギイッとあいたとたんに、一ぴきの牝牛(めうし)がなきだしました。
「おくさん、おそかったですね。今夜(こんや)は、もう夕飯(ゆうはん)がいただけないのかと思いましたよ。」
 ニールスは、牛小屋が、からっぽではなかったので、びっくりして、戸口に立ちどまってしまいました。けれども、よく見ますと、牝牛(めうし)が一ぴきと、ニワトリが、三、四羽(わ)いるだけです。で、また元気をとりもどしました。
「ぼくたちは、あわれな旅(たび)の者ですが、キツネにおそわれたり、人間につかまらないような、一夜(いちや)の宿(やど)をさがしているのです。ここは安全(あんぜん)な場所(ばしょ)でしょうか?」と、ニールスはたずねました。
「だいじょうぶですとも。」と、牝牛は答えました。「このとおり、壁(かべ)はいたんではいますけど、これまでに、キツネがそこからはいってきたためしはありません。それに、この家には、おばさんが[#「おばさんが」はママ]ひとり住んでいるだけですが、あのおばあさんは、生(い)き物(もの)をつかまえたりはしませんよ。ところで、おまえさんたちは、いったいだれですね?」と、牝牛は言いながらからだをねじまげて、ニールスたちの姿をよく見ようとしました。
「ぼくは、いまでこそ小人(こびと)にされてしまっていますが、ニールス・ホルゲルッソンといって、西ヴェンメンヘーイうまれのものです。」と、ニールスは答えました。「いっしょにいるのは、ぼくがいつもせなかに乗せてもらっている、家(うち)で飼(か)っていたガチョウと、新しく道づれになった灰色(はいいろ)ガンです。」
「こんなめずらしいお客(きゃく)さんは、はじめてです。」と、牝牛(めうし)は言いました。「まあ、よくきてくださいました。でも、ほんとのところは、おくさんが夕飯(ゆうはん)をもってきてくださったんなら、もっとよかったんですがね。」
 ニールスは、ガチョウたちを、かなり大きい牛小屋の中につれていって、からっぽのかいば桶(おけ)の中にいれてやりました。ガチョウたちはすぐねむりこんでしまいました。ニールスは、わらで小さな寝床(ねどこ)をこしらえて、じぶんもすぐにねようとしました。
 ところが、とても眠(ねむ)るわけにはいきません。なぜって、すぐそばでは、あわれな牝牛が、夕飯をもらえないので、一ときもじっとしてはいないのです。首のくさりをガチャガチャやったり、ドタドタあるきまわったり、腹(はら)がへった、腹がへった、と、ひっきりなしにこぼしているのです。ニールスは眠れないままに、わらの上に横になって、近ごろおこったさまざまのできごとを思いだしました。
 まずさいしょに、思いがけなく出あった、ガチョウ番(ばん)のオーサとマッツのことを思いだしました。そして、じぶんが火をつけた小さな小屋は、あのふたりのスモーランド人の家にちがいない、と思いました。そういえば、いつだったか、ふたりがあんな小屋や、ヒースの生(は)えているひろい荒(あ)れ地のことを話していたことがありました。きっとふたりは、もう一どなつかしいわが家を見るために、もどってきたのです。ところが、せっかく帰ってみると、その小屋は、ほのおにつつまれていたのです。
 あのふたりは、どんなに悲(かな)しんだことでしょう! しかも、それは、このじぶんのせいなのです。そう思うと、ニールスはたまらなくなりました。そして、いつか人間にもどったら、心からこのおわびをしようと思いました。
 それから、思いはカラスたちのことにうつりました。そして、じぶんの命を助けてくれたものの、かしらにえらばれるとすぐに殺(ころ)されてしまったノロ公(こう)の身の上を考えますと、あまりにも悲しくなって、おもわず涙(なみだ)がうかんできました。
 じっさい、この二、三日のあいだに、ずいぶんひどいめにあったものです。けれども、とにかく、モルテンとダンフィンとが、じぶんを見つけだしてくれたのは、ほんとうにしあわせなことでした。
 ガチョウからあとで聞いた話では、ガンたちは、オヤユビくんの姿が見えないのに気がつくと、すぐに森じゅうの小さな動物たちにたずねてみたのでした。すると、スモーランドのカラスの一隊(たい)にさらわれた、ということがすぐわかりました。けれども、そのときには、もうカラスたちは姿を消(け)してしまっていたのでした。しかも、カラスたちが、どっちへいったかは、だれひとり知らないのです。そこでアッカは、オヤユビくんを一刻(いっこく)も早くさがしだすために、ガンたちに命じて、二羽(わ)ずつわかれわかれになって、べつべつの方面(ほうめん)をさがすことにさせました。そして、オヤユビくんが見つかっても見つからなくても、ともかく二日さがしたら、北西(ほくせい)スモーランドのターベルイという山の頂(いただ)きでおちあうことにきめました。その山は、まるで、先をたちきられた塔(とう)のようにけわしいということでした。それから、アッカは、めいめいに方向(ほうこう)をきめてやり、ターベルイにいくまでの道すじを、ていねいに教えてやりました。こうして、みんなはちりぢりになったのでした。
 白いガチョウは、灰色(はいいろ)ガンのダンフィンを旅の道づれにえらびました。ふたりは、オヤユビくんのことをひどく心配(しんぱい)しながら、あっちこっちさがしまわりました。そうしているうちに、木の頂(いただ)きにとまっている一羽(わ)のツグミが、「カラスにさらわれた」というやつに、からかわれたといって、泣いているのを聞きつけました。それで、さっそく、ツグミにきいてみますと、その「カラスにさらわれた」というものが、どっちへいったかを教えてくれました。それからも、森バトや、ムクドリや、野ガモにであいましたが、みんな口ぐちに、チビスケのいたずら小僧(こぞう)に歌のじゃまをされたといっては、くやしがっていました。そして、そいつの名まえは、「カラスにさらわれたもの」とか、「カラスに盗(ぬす)まれたもの」とか、言っていたということでした。こんなふうにして、ふたりは、スンネルブー地方のヒースの生(は)えている、あの荒(あ)れ地まで、オヤユビくんのあとをたどっていくことができたのでした。
 そして、モルテンとダンフィンは、オヤユビくんを見つけると、すぐに、ターベルイへいくために、北のほうをさして飛んできたのです。しかし、ターベルイまでは、ずいぶん道のりがありました。そこで、いま、山の頂(いただ)きがまだ見えないうちに、早くも日が暮(く)れてしまったのでした。
「あした、ターベルイにいきさえすれば、もう心配(しんぱい)はないんだ。」と、ニールスは思いながら、わらの中にもぐりこんで、あたたまろうとしました。
 牝牛(めうし)は、そのあいだじゅうさわいでいましたが、とつぜん、ニールスにむかって話しだしました。
「おまえさんたちのうちのひとりは、たしか小人(こびと)だと言いましたね? もし、ほんとうにそうなら、牛のせわができるでしょう?」
「いったい、何がたりないのさ?」と、ニールスはききました。
「なにもかもないんですよ。」と、牝牛は言いました。「乳(ちち)もしぼってもらえないし、せわもしてもらえない。夜のかいばもなければ、寝るところもない。おくさんは、夕方ここへきて、いつものようにせわをしてくださっていたんですが、急に気もちがわるくなって、いそいで帰ってしまいました。それっきり、こないんですよ。」
「お気のどくだが、ぼくは、このとおりちっぽけで、力もない。」と、ニールスは言いました。「とてもきみのお役にはたてそうもないよ。」
「ちっちゃいからといって、力がないとは思えませんね。」と、牝牛(めうし)は言いました。「いままで話に聞いている小人(こびと)というのは、みんな力が強くって、車いっぱい積(つ)んだ枯(か)れ草をひっぱることもできるし、げんこで牛を一打ちに殺すこともできたということですよ。」
 それを聞いて、ニールスは、思わずふきだしてしまいました。そして、
「ぼくは、そんな小人とはちがうんだよ。でも、きみの首のくさりをといて、入口の戸をあけてあげるよ。そうすりゃ、きみはおもてへいって、水を飲(の)めるだろう。それから、枯れ草の置場(おきば)によじのぼって、きみの桶(おけ)の中に枯れ草を投げおとしてみるよ。」と、言いました。
「ええ、そうしてもらえば、すこしは助かりますよ。」と、牝牛は言いました。
 ニールスは、そのとおりにしました。こうして、牝牛の桶(おけ)には、枯草がいっぱいになりました。ニールスは、こんどこそおちついてねられるだろうと思いました。ところが、まだわらの中にもぐりこんだか、もぐりこまないうちに、またも牝牛(めうし)が話しかけました。
「もうひとつお願(ねが)いがあるんですけど、どうでしょうね?」
「ぼくにできることならばね。」と、ニールスは言いました。
「それじゃ、お願いしますが、このまむかいにある母屋(おもや)にいって、おくさんのようすを見てきてください。どうかしたんじゃないかと心配でたまらないんです。」
「いや、そりゃあ、こまるよ。ぼくは人間の前にでていく勇気(ゆうき)はないもの。」と、ニールスは言いました。
「病気(びょうき)のおばあさんをこわがることはないじゃありませんか。それに、部屋(へや)の中まではいっていかなくても、戸口に立って、すきまからのぞいてくれりゃいいんですもの。」と、牝牛は言いました。
「うん、それだけのことなら、ひきうけたよ。」と、ニールスは言いました。
 そこで、牛小屋の戸をあけて、中庭(なかにわ)にでました。ところが、なんという恐(おそ)ろしい晩(ばん)でしょう。空には、お月さまもお星さまもなく、風がヒュウ、ヒュウとものすごいうなり声をあげ、雨がザア、ザアとはげしくふっています。それに、なによりも恐ろしいことには、母屋(おもや)の軒(のき)に、大きなフクロウが七羽(わ)もならんでとまっているではありませんか。そのフクロウたちが、雨風(あめかぜ)にむかってうなっている声を耳にしますと、思わずぞっとしてしまいます。しかも、その一羽にでも見つかったら、いったいじぶんの身はどうなるでしょう。そのときこそ、この身のさいごにちがいありません。そう思うと、ますます恐(おそ)ろしくなりました。
 それでも、ニールスは思いきって、中庭にでました。そして、「ちっぽけなものは、あわれだなあ!」と、ひとりごとを言いました。ほんとうに、そのとおりでした。なぜって、母屋(おもや)につくまでに、風のために二どまでも、吹きとばされてしまったのです。一どなどは、水たまりの中に吹きたおされました。しかもその水たまりは深かったので、もうすこしでおぼれそうになりました。でも、ようやくのことで母屋にたどりつきました。
 段々(だんだん)をのぼり、しきいをこえて、玄関(げんかん)にはいりました。部屋の戸はしまっていましたが、すみのほうに、ネコが出はいりできるくらいの穴(あな)があいていました。ニールスは、そこから中のようすをのぞいて見ました。
 ところが、ひと目(め)見たしゅんかん、びっくりして、おもわず頭をひっこめました。白髪(しらが)のおばあさんが、床(ゆか)の上にたおれているではありませんか。身動きもしませんし、うめき声一つあげません。それでいて、顔はふしぎに白く輝(かがや)いていました。まるで、雲間(くもま)にかくれたお月さまの弱い光に照(て)らされているようでした。
 ニールスは、じぶんのおじいさんが死んだときにも、やっぱりこんなふうに、ふしぎに白い顔をしていたことを思いだしました。そうしてみると、床(ゆか)の上にたおれているおばあさんは、きっと死んでいるのにちがいありません。おそらく、寝床(ねどこ)にはいるひまもなく、急にたおれてしまったものでしょう。
 こんな暗(くら)い真夜中(まよなか)に、死んだ人とふたりきりかと思いますと、たまらないほど恐ろしくなりました。ころがるように段々(だんだん)をかけおりて、大いそぎで牛小屋にとんで帰りました。
 ニールスが母屋で見てきたことを話しますと、牝牛(めうし)はたべるのをやめて、
「それじゃ、おくさんは死んだんですね。すると、このわたしも、もうおしまいですよ。」と、言いました。
「だれか、きみのせわをしてくれる人が、じきにくるよ。」と、ニールスはなぐさめて言いました。
「ああ、おまえさんは知らないけれども、」と、牝牛は言いました。「わたしはね、ふつう屠殺台(とさつだい)につれていかれる牛よりも、倍(ばい)も年をとっているんですよ。でも、もうあのおくさんにめんどうをみてもらえないんなら、生きていたいとも思いません。」
 牝牛は、しばらくのあいだ、ひとことも言いませんでした。しかし、ニールスが気をつけて見ていますと、牝牛は眠ってもいなければ、草をたべてもいませんでした。そして、やがてまた話しはじめました。
「おくさんは、何もない床(ゆか)の上にたおれているんですか?」と、牝牛はたずねました。
「そうだよ。」と、ニールスは答えました。
「おくさんは、この小屋へきては、いつも苦しいことを話していましたっけ。わたしには、答えることはできませんでしたが、言うことはみんなわかりましたよ。この二、三日は、じぶんが死んだとき、だれもそばにいてくれないのが、とっても心配(しんぱい)だと言つて[#「言つて」はママ]いました。死んでも、目をとじてくれたり、両手を胸(むね)の上で組(く)み合(あ)わせてくれる人のいないのが、気になってしかたがなかったんですね。どうか、おまえさん、もう一どいって、そうしてやってくれませんか?」
 ニールスはためらいました。けれども、おじいさんが死んだときには、おかあさんが、なにもかも、うまくしまつしたことを思いだしました。そして、だれかがそうしなければならないんだ、と思いました。とはいっても、こんなきみわるいよなかに、死んだ人のところへいく気にはとてもなれません。ニールスはいやとも言わず、そうかといって、戸口にいこうともしませんでした。
 年とった牝牛(めうし)は、返事(へんじ)を待っているらしく、しばらくだまっていました。しかし、ニールスがなんにも言わないので、また話しだしました。でも、もう一どたのもうとするのではなくて、こんどは、おくさんのことを話しはじめました。
 話したいことは山ほどありますが、まずさいしょは、おばあさんのそだてた子どもたちのことです。子どもたちは、まいにち牛小屋へきました。そして、夏になると、沼(ぬま)やこんもりとした森の中に、牝牛をつれていきました。だから、この牝牛は子どもたちのことは、なんでも知っていました。どの子もじょうぶで、ほがらかで、きんべんでした。「ウシというものは、じぶんのせわをしてくれる人が、いい人かどうかを、よく知っているものですよ。」と、牝牛は言いました。
 農場(のうじょう)についても、いろいろ話がありました。それは、たいへん大きくて、といっても、大部分が沼(ぬま)や石だらけの荒(あ)れ地だったのですが、いまのようにみすぼらしいものではありませんでした。畑になるようなところこそ、あまりありませんでしたが、牧草(ぼくそう)はどこにもたくさん生(は)えていました。ひところなどは、牛小屋のどの区画(くかく)の中にも、牛が一頭(とう)ずついましたし、いまはからっぽになっている牡牛(おうし)小屋にも、りっぱな牡牛がたくさんいたものでした。だから、そのころは、母屋(おもや)をみても、牛小屋をみても、みんな陽気(ようき)で、よろこびにみちあふれていました。おくさんは牛小屋の戸をあけるときは、いつも鼻歌(はなうた)をうたっていたものですし、牛たちはおくさんがきたのをよろこんで、モウモウとないていたものでした。
 ところが、この家のご主人は、子どもたちがまだ小さくて、仕事の手だすけもできないころに死んでしまいました。そのため、おくさんは農場(のうじょう)のことを、いっさいひとりでやらなければならなくなったのです。おくさんは男のようにしっかりした人で、じぶんで耕(たがや)しもしたり、とりいれもしました。でも、夕がた、乳(ちち)をしぼりに牛小屋へきたとき、くたびれすぎて、泣いていることもありました。しかし、すぐに子どもたちのことを思いだしては、元気になりました。そして、涙(なみだ)をふきながら、こう言ったものでした。
「なんでもない。なんでもない。あたしにだって、またいい時がくるわ。子どもたちが大きくさえなれば。そうだわ、子どもたちが大きくさえなれば。」
 しかし、子どもたちは大きくなりますと、それぞれふしぎなあこがれをもつようになりました。故郷(こきょう)にいるのがいやになって、みんな遠い外国(がいこく)へいってしまいました。おかあさんは、子どもたちになにひとつ、手だすけをしてもらったことはありませんでした。それどころか、子どもたちのなかのふたりは、出かけるまえに結婚(けっこん)していて、うまれた小さい子どもたちを、おばあさんのところにあずけて、いってしまったのです。で、こんどは、この孫(まご)たちが、おばあさんを牛小屋につれてきました。ちょうど、むかし、子どもたちがしたように、孫たちはよく牛のめんどうをみました。ほんとうにいい子どもたちでした。おばあさんは、夕がた、乳(ちち)をしぼりながら、くたびれすぎて、いねむりをしそうになりますと、いつも孫たちのことを考えては、気をひきたてるのでした。「わたしにだって、いつかいい時がくるさ。」と、おばあさんは、ねむけをはらいのけながら、言いました。「孫たちが大きくさえなれば。」
 ところが、孫たちも大きくなりますと、外国(がいこく)にいる、おとうさんとおかあさんのところへいってしまいました。だれひとり家にのこるものもなければ、もどってくるものもありませんでした。年とったおばあさんは、この農場(のうじょう)でひとりぽっちになってしまったのです。
 おそらく、おばあさんは、孫(まご)たちに、じぶんのそばにいてくれ、とはたのまなかったのでしょう。
「ねえ、赤や。おまえ、孫たちが一人(にん)まえになったときに、ここにいっしょにいてくれ、とたのめると思うかい?」おばあさんは牛小屋へきて、牝牛(めうし)のそばに立っては、いつもこう言うのでした。「このスモーランドにいたんじゃ、いつまでたっても貧乏(びんぼう)ぐらしだものね。」
 しかし、一ばん下の孫がいってしまったときには、さすがに、おばあさんもすっかりがっかりしてしまいました。急に腰(こし)がまがり、白髪(しらが)もふえてきました。そして、あるくのにもよろよろとして、まるで、動く力がなくなってしまったようでした。それからは、働(はたら)くのもやめてしまいました。農場(のうじょう)のせわもしなくなりましたし、なにもかも、ほったらかしておきました。家も荒(あ)れはてるにまかせて、修繕(しゅうぜん)もしませんでした。牝牛(めうし)も牡牛(おうし)も売ってしまいました。けれども、いまオヤユビくんと話をしている、年とった牝牛だけは売らずにおきました。この牝牛だけは、生かしておきたかったのです。思えば、どの子も、どの孫(まご)も、一生けんめいせわをしてやった牛でしたから。
 おばあさんは、仕事(しごと)の手つだいに、下男(げなん)や下女(げじょ)をやとうこともできたでしょう。けれども、じぶんの子どもたちが、おばあさんを残していってしまってからは、身ぢかに他人(たにん)を見たくなかったのです。それに、じぶんが死んだのちに、子どもたちがもどってきて、この農場(のうじょう)を受けつごうというわけではないのですから、荒(あ)れはてるにまかせておいたほうが、かえってよかったのでしょう。こうして、じぶんのものも、ちっともだいじにしませんでしたから、貧乏(びんぼう)になっても、平気でいました。ただ、じぶんがこんなひどい暮(く)らしをしていることを、子どもたちが聞かなければいいが、と、そればかりを気にしていました。
「子どもたちの耳に、はいらなければいいが! 子どもたちの耳に、はいらなければいいが!」おばあさんは、牛小屋の中をよろよろとあるきながら、ため息(いき)をついてはこう言いました。
 子どもたちは、しょっちゅう手紙をよこしては、おばあさんにもきてくれるように言いました。しかし、おばあさんはいこうとはしませんでした。おばあさんとしては、子どもたちをじぶんから、うばってしまった国などを見たくなかったのです。おばあさんは、その国にたいして腹(はら)をたてていました。
「子どもたちが、あんなにすきな国をきらうなんて、わたしのほうがどうかしているんだろう。」と、おばあさんは言いました。「でも、わたしはそんな国は見たくない。」
 おばあさんは、いつもいつも、子どもたちのことと、けっきょく子どもたちは、外国(がいこく)へいかねばならなかったのだ、ということばかり考えていました。夏になると、おばあさんは牝牛(めうし)をつれて大きな沼(ぬま)にいきました。そして、一日じゅう、手を着物(きもの)の中につっこんで、沼のはずれにすわっていました。帰り道には、きまってこう言いました。
「ねえ、赤や、ここがこんなやせた沼地(ぬまち)ばかりでなくって、大きな肥(こ)えた畑もあったら、あの子たちも、よそへはいかなくてもよかったろうにねえ。」
 おばあさんは、目の前にひろびろとひろがってはいても、なんの役にもたたないこの沼地にたいして、ほんとうに腹をたてることもありました。そして、子どもたちがじぶんを残していってしまったのは、みんなこの沼地のせいだと言いたてました。
 ゆうべは、おばあさんは、いつもよりもよろよろしていて、とてもあぶなっかしそうでした。乳(ちち)をしぼることさえもできませんでした。かいば桶(おけ)によりかかりながら、さっきおばあさんをたずねてきて、この沼地(ぬまち)を買いたいと言った、ふたりの見知らぬお百姓(ひゃくしょう)さんのことを話していました。その人たちは、沼の水をほして、畑にしようというのだそうです。この話に、おばあさんはうれしいような、心配(しんぱい)のような気もちになっていました。
「いいかい、赤や。いいかい。この沼にライムギが生(は)えるようになるんだってよ。さあ、子どもたちに手紙でも書いて、帰ってくるように言ってやろうよ。もうよその国にいっている必要(ひつよう)はないんだよ。だって、これからは、家にいても、たべていけるようになるんだもの。」
 その手紙を書くために、おばあさんは母屋(おもや)にもどったのでした。――――
 ニールスは、牝牛(めうし)が話しつづけるのを、もう聞いてはいませんでした。牛小屋の戸をあけて、中庭(なかにわ)をよこぎり、さっきまではあんなにこわがっていた、死人(しにん)のいる部屋(へや)にはいっていきました。
 部屋の中は、思ったほどみすぼらしくはありませんでした。アメリカに知りあいのある人の家に、よく見られるようなものが、たくさんならんでいました。すみのほうには、アメリカ製(せい)の揺(ゆ)りいすがありますし、窓ぎわのテーブルには、美しくぬいとりをしたビロードのきれがかけてあります。それから、ベッドには美しいおおいがかけてあります。壁(かべ)には、外国(がいこく)にいっている子どもや孫(まご)たちの写真(しゃしん)が、木彫(きぼ)りの額(がく)ぶちにいれられて、かかっています。机の上には、たけの高い花(か)びんと、ふとい、らせん形のロウソクを立てた、一対(いっつい)のロウソク立てがおいてあります。
 ニールスは、マッチ箱をさがして、そのロウソクに火をともしました。ニールスがそうしたのは、部屋(へや)の中をもっとあかるくするためではなくて、そうすることが死んだ人にたいする礼儀(れいぎ)だと思ったのです。
 それから、おばあさんのところへいって、しずかに目をとじてやり、両手を胸(むね)の上に組ませてやりました。そうして、顔にかかっている、うすい白髪(しらが)をきれいになおしてやりました。
 ニールスは、もうちっともこわくはなくなりました。それどころか、おばあさんが死ぬときまで、子どもたちのことを思いながら、ひとりさびしく暮(く)らさなければならなかったことを思いますと、心から気のどくになりました。そして、せめてこんや一晩(ひとばん)は、このおばあさんのなきがらを見守(みまも)っていてあげようと思いました。
 ニールスは、讃美歌(さんびか)の本をさがしだして、ひくい声で二つ三つ読みはじめました。ところが、読んでいるさいちゅうに、とつぜん、途中(とちゅう)でやめてしまいました。なぜって、急におとうさんとおかあさんのことが頭に浮(う)かんできたからです。
 親というものは、こんなにまで子どものことを思っているんだなあ! ニールスは、いままでそんなことは夢(ゆめ)にも考えたことがありませんでした。子どもが遠くへいってしまえば、まるで生きがいがなくなってしまうんだなあ! そうしてみると、このおばあさんとおなじように、ぼくのおとうさんとおかあさんも、ぼくのことばかり思っているかなあ!
 ニールスはこう考えますと、うれしくなりましたが、そう信(しん)じることはできませんでした。だって、いくらなんでも、じぶんみたいな者のことは、だれもそんなに思ってはくれないでしょうから。
 でも、いままではそうであったにしても、これからは、じぶんも、もっとちがった人間になるでしょう。
 ニールスは、まわりにかかっている、外国(がいこく)へいってしまった人たちの写真(しゃしん)をながめました。男の人も女の人も、強そうな大きな人たちです。長いヴェールをかぶった花よめもいますし、りっぱな服(ふく)をきた紳士(しんし)もいます。それから、美しいまっ白な服をきた、まき毛の子もいます。そして、どの人もどの人も、みんな遠くのほうを、じいっと見つめているように見えました。
「あなたがたはかわいそうに!」と、ニールスは写真(しゃしん)にむかって言いました。「あなたがたのおかあさんは死んだんですよ。あなたがたが、おかあさんのそばを、はなれていったことを、いくら後悔(こうかい)しても、もうそのつぐないはできないんですよ。でも、ぼくのおかあさんはまだ生きているんだ!」
 ここで、ことばをきって、ひとりでうなずきながら、ニコニコしました。そして、また、
「ぼくのおかあさんは生きているんだ。おとうさんもおかあさんも生きているんだ。」と言いました。
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四月十五日 金曜日
 ニールスは、ほとんど一晩(ひとばん)じゅう目がさめていました。あけがたになって、すこし眠(ねむ)りましたが、そのとき、おとうさんとおかあさんの夢(ゆめ)をみました。けれども、ふたりともすっかり年よりになっていて、白髪(しらが)が多くなり、顔にはしわがよっていました。いつものおとうさんおかあさんとは思えないくらいでした。ニールスはびっくりして、どうしたんですか、とたずねました。すると、ふたりは、おまえのことばかり考えて心配(しんぱい)しているものだから、こんなに年とってしまったんだよ、と答えました。ニールスは、深く心をうごかされました。と、同時(どうじ)に、驚(おど)ろきました。だって、いままでは、おとうさんとおかあさんは、じぶんがいなくなって、喜(よろこ)んでいるだろうと思っていたんですもの。
 目がさめたときには、もう朝になっていました。外はあかるい、よいお天気(てんき)でした。まず部屋(へや)の中で見つけたパンをたべて、それから、ガチョウと牝牛(めうし)に朝のたべものをやりました。さいごに、牛小屋の戸をあけて、牝牛に、となりの農場(のうじょう)へいくように言いきかせました。となりの人たちは、牝牛がひとりでやってきたのを見れば、おばあさんに何か、かわったことでもおこったんだろうと思うでしょう。そして、みんなは、どうしたことだろうと、この荒(あ)れはてた農場(のうじょう)へ駆(か)けつけてくるでしょう。そうすれば、おばあさんのなきがらを見つけて、お葬式(そうしき)をしてくれるでしょう。
 ニールスとガチョウたちが、空に舞(ま)いあがりますと、まもなく高い山が見えてきました。見れば、その山壁(やまかべ)は、ほとんど切り立っていて、頂(いただ)きは切りおとされたようになっています。それこそターベルイ山にちがいありません。頂きには、アッカをはじめ、ユクシ、カクシ、コルメ、ネリエー、ヴィシ、クウシのほかに、六羽(わ)の若いガンたちが三人を待っていました。みんなは、モルテンとダンフィンがうまくオヤユビくんをさがしだしてきたのを見ますと、大よろこびで、うれしそうなさけび声をあげながら、つばさをバタバタやりました。その喜(よろこ)びさわぐありさまは、まったく、たいへんなものでした。
 ターベルイ山の山腹(さんぷく)には、かなり高くまで森が茂(しげ)っていますが、山の頂(いただ)きには木が一本もありません。そこからは四方八方を見わたすことができます。東を見ても、南を見ても、西を見ても、なにも生(は)えていない高地(こうち)のほかはほとんど何も見えません。そこには、黒々としたモミの森と、褐色(かっしょく)の沼(ぬま)と、氷(こおり)におおわれた湖(みずうみ)と、青みがかった山の峰(みね)とが見えるばかりです。ニールスは、いつかマッツの話していた、昔からの言いつたえを思いだしました。この地方はあまり骨(ほね)をおらずに、大いそぎでつくられたという話だ、だがあの話は、たしかにほんとうだ、と思いました。ところが、こちらのほうを見れば、まるでちがっています。こちらは、恵(めぐ)みぶかい心で、ていねいにつくられているように見えました。こちらのほうには、美しい山々や、低い谷や、ゆるやかにうねっている川がいくつも見えます。そして、それらの川は、ヴェッテルン湖(こ)という、氷一つない、澄(す)みきった大きな湖(みずうみ)にそそいでいるのです。ヴェッテルン湖は、まるで水のかわりに青い光でもたたえているかのように、キラキラと輝(かがや)いていました。
 北へのながめをこんなにも美しくしているのは、まぎれもなくヴェッテルン湖です。なぜなら、青い光が一すじ、この湖(みずうみ)から立ちのぼって、それがこの地方ぜんたいにひろがっているように見えるのでした。こんもりとした森や、丘(おか)や、ヴェッテルン湖(こ)の岸べにそって、キラキラ光っているエンチェーピング市の屋根(やね)や、塔(とう)などが、うす青色につつまれて、人の目をひきつけているのです。もしも天上に国があるとすれば、それもやっぱりこんなふうに青いにちがいありません。ニールスは、楽園(らくえん)というところがどんなふうか、おぼろげながらわかったような気がしました。
 ガンたちは、その日、旅をつづけることになって、その青い谷のほうへ飛んでいきました。みんなは、たのしいお祭(まつ)り気分(きぶん)になっていて、鳴いたり、さけんだり、大さわぎをしながら飛んでいきました。
 この地方では、きょうが、ほんとうに春らしい、はじめてのいいお天気でした。いままでは、春とはいっても、雨風にたたられてばかりいたのです。それが、きょう急にすばらしい天気(てんき)になりましたので、地上の人たちは、あたたかいお日さまの光と、緑(みどり)の森が恋(こい)しくなって、じっと仕事をしていることができなくなりました。それで、ガンのむれが楽(たの)しそうに、のびのびと空を飛んできたとき、みんなは手をやすめて、ガンのむれをながめました。
 この日、ガンのむれの姿をさいしょに見た者は、ターベルイの鉱山(こうざん)で、鉱石(こうせき)を掘(ほ)っている鉱夫(こうふ)たちでした。鉱夫たちは、ガンの鳴く声を耳にしますと、仕事をやめました。そして、
「どこへいくんだ? どこへいくんだ?」と、中のひとりが、ガンたちにむかってさけびました。
 ガンたちには、人間のことばはわかりません。それで、ニールスがかわって、ガチョウのせなかから身をのりだして、答えました。
「つるはしもハンマーもないところへ、いくんだよォ!」
 鉱夫(こうふ)たちは、このことばをきいたとき、ガンの声が、まるで人間のことばのように聞こえるのは、じぶんたちが心にもっている、あこがれのせいだろうと思いました。そして、
「いっしょにつれてってくれえ! いっしょにつれてってくれえ!」と、さけびました。
「ことしはだめだよォ! ことしはだめだよォ!」と、ニールスはさけびかえしました。
 ガンのむれは、ターベルイ川にそって、ムンク湖(こ)のほうに飛んでいきましたが、そのあいだも大さわぎをしていました。このムンク湖とヴェッテルン湖とのあいだのせまい土地には、エンチェーピング市があって、ここには、大きな工場(こうじょう)がたくさんあります。ガンのむれは、まずムンク製紙工場(せいしこうじょう)の上を飛びました。ちょうど昼休(ひるやす)みがおわって、大ぜいの職工(しょっこう)たちが、工場の門をはいっていくところでした。職工たちは、ガンの鳴き声をききつけますと、ちょっと立ちどまって、
「どこへいくんだい? どこへいくんだい?」と、さけびました。
 ガンには何もわかりませんでしたが、ニールスがかわって答えました。
「機械(きかい)もボイラーもないところへいくんだよォ!」
 職工(しょっこう)たちは、この答えをきいて、ガンの鳴き声が人間のことばのように聞こえるのは、じぶんたちが心にもっているあこがれのせいだろうと思いました、[#「思いました、」はママ]そして、
「いっしょにつれてってくれよォ! いっしょにつれてってくれよォ!」と、みんなでさけびました。
「ことしはだめだよォ! ことしはだめだよォ!」と、ニールスはさけびかえしました。
 そのつぎには、ガンたちは、ヴェッテルン湖(こ)の岸べにある、有名(ゆうめい)なマッチ工場(こうじょう)の上を飛びました。とりでのように大きな工場で、たくさんの煙突(えんとつ)が、空高く突(つ)きでていました。外にはだれもいませんでしたが、大きな部屋(へや)の中には、若い女工(じょこう)たちがすわって、マッチを箱につめていました。天気(てんき)がいいので、窓(まど)はあけはなされていました。そこから、ガンの鳴き声が聞こえてきました。窓ぎわにすわっていたひとりの女工が、マッチ箱を手にしたまま、窓から顔をだして、
「どこへいくの? どこへいくの?」と、さけびました。
「あかりもマッチもいらない国へ、いくんだよォ!」と、ニールスが答えました。
 少女は、ガンが鳴いているのだろうと思いましたが、そのことばが、はっきり耳にはいりましたので、思わず、
「あたしもいっしょにつれてってえ!」と、さけびました。
「ことしはだめだよォ! ことしはだめだよォ!」と、ニールスは答えました。
 工場(こうじょう)の東にあたる、じつにすばらしい場所(ばしょ)に、エンチェーピング市があります、[#「あります、」はママ]細長(ほそなが)いヴェッテルン湖(こ)の東がわと西がわには、高くてけわしい砂丘(さきゅう)があります。けれども、南がわは、砂丘(さきゅう)の壁(かべ)がくずれおちて、まるで大きな門のようになっています。そこを通って、ヴェッテルン湖にでることができるのです。そして、この門のまんなかに、左(ひだり)てと右てには山をひかえ、うしろにはムンク湖、前にはヴェッテルン湖をのぞんで、エンチェーピング市があるのです。
 ガンたちは、この細長い市の上を飛びながら、あいかわらず鳴きさけびました。ところが、この市では、だれも答えてくれる者はありませんでした。むりもありません。市の人たちが通りに立ちどまって、ガンにむかってさけぶなんてことは、考えられませんもの。
 やがて、詩人(しじん)ヴィクトル・リュドベルイの胸像(きょうぞう)のある、公園(こうえん)の上にきました。公園の中はひっそりとしていて、高い木々の下には、散歩(さんぽ)をしている人の姿も見うけられませんでした。ところが、とつぜん、どこからともなく、力づよい声が、ガンたちの耳に聞こえてきました。
「どこへいく? どこへいく?」
「通りも広場(ひろば)もないところへ、いくんだよォ!」と、ニールスはさけびました。
「いっしょにつれていってくれ!」と、その力づよい声がさけびました。その声は、まるで青銅(せいどう)ののどからでてくるようでした。
「ことしはだめだよォ! ことしはだめだよォ!」と、ニールスは答えました。
 それから、ガンのむれは、ヴェッテルン湖(こ)の岸にそって飛びました。しばらくすると、アンナ病院(びょういん)の上にきました。病人(びょうにん)が二、三人、露台(ろだい)にでて、すがすがしい春の空気をたのしんでいましたが、ちょうどそのとき、ガンの鳴き声を耳にしました。
「どこへいくの?」と、その中のひとりが、ほとんど聞きとれないくらいの、弱々(よわよわ)しい声でたずねました。
「心配(しんぱい)も病気(びょうき)もない国へ、いくんだよォ!」と、ニールスは答えました。
「いっしょにつれていって!」と、病人(びょうにん)は言いました。
「ことしはだめだよォ! ことしはだめだよォ!」と、ニールスはさけびました。
 みんなは飛びつづけて、フースクヴァルナにきました。この村は谷間(たにま)にあって、ぐるりの山々は、けわしいけれど美しい形をしていました。一つの川が細長い滝(たき)になって、丘(おか)にそって流(なが)れ落(お)ちていました。山のふもとには大きな工場(こうば)がいくつもありました。そして、谷間には小さい庭のある職工(しょっこう)たちの家々が、あちこちに見えました。谷間のまんなかには学校(がっこう)がありました。ちょうど、ガンがその上にきたとき、おおぜいの生徒(せいと)たちがならんで出てきて、たちまち校庭(こうてい)にいっぱいあらわれました。
「どこへいくの? どこへいくの?」と、子どもたちは、ガンの鳴き声をききつけて、さけびました。
「本も宿題(しゅくだい)もないところへ、いくんだよォ!」とニールスは答えました。
「いっしょにつれてってよォ!」と、子どもたちはさけびました。
「ことしはだめ、来年(らいねん)来年(らいねん)!」と、ニールスはさけびました。「ことしはだめ、来年来年!」
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 ヴェッテルン湖(こ)の東岸(とうがん)には、オムベルイ山がそびえています。そのオムベルイ山の東には、ダーグスモッセがあり、さらにダーグスモッセの東にはトーケルン湖(こ)があります。そして、トーケルン湖のまわりには、大きなエステルイエータ平野(へいや)がひろびろとひろがっています。
 トーケルン湖は大きな美しい湖(みずうみ)です。けれども、むかしはもっと大きかったにちがいありません。そのころの人たちは、この湖が、肥(こ)えた豊(ゆた)かな平野を大きく占領(せんりょう)しているので、その水を干(ほ)してしまって、そこに畑(はたけ)をつくろうとしました。しかし、みんなの考えていたように、湖ぜんぶをうまく干してしまうことはできませんでした。そのために、いまでもこんなに大きいのです。しかし、湖の水を干そうとしてからは、ずっと浅(あさ)くなって、いまでは二メートル以上の深さのところは、ほとんどありません。岸べは沼地(ぬまち)のようにどろどろしていますし、湖(みずうみ)の中には、泥(どろ)の小島があっちにもこっちにも水面(すいめん)に顔を出しています。
 さて、この湖には、足だけ水の中に入れて、頭と胴(どう)を水のおもてにつきだしたがっているものがあります。それはアシです。しかも、浅くて長くつづいているこのトーケルン湖の岸べと、泥の小島のまわりぐらい、アシが生(は)えるのにもってこいの場所(ばしょ)はないのです。アシは、人間の背(せ)よりも高く、びっしりと生(お)い茂(しげ)るものですから、小舟(こぶね)でさえも、その中にわけいることはできません。この湖のまわりにも、みどりのアシが広い垣(かき)をつくっているために、人間はアシを刈(か)りとった、ごくわずかのところにしか近づくことができないのです。
 アシは人間をよせつけないかわりに、ほかのたくさんの生(い)き物にとっては、絶好(ぜっこう)のかくれ場所となるのです。アシのあいだには、静かな緑(みどり)の水をたたえた、小さな池や堀割(ほりわり)があります。そこには、ウキクサやヒルムシロがはびこりますし、ボウフラや、魚の子や、オタマジャクシなどが、うじゃうじゃとかえります。そして、こういう小さい池や堀割にそっては、水鳥たちが、敵(てき)におそわれたり、たべものに不自由(ふじゆう)する心配(しんぱい)もなく、安心(あんしん)して、卵をかえしたり、ひなをそだてたりすることのできるところがたくさんあるのです。
 このアシのあいだには、信じられないほどたくさんの鳥が住んでいます。しかもそこが、すばらしい住(す)みかだということが知れわたってしまいましたので、年々(ねんねん)その数(かず)はふえるばかりです。さいしょに、ここに住みついたのは、野ガモでしたが、いまでもまだいく千羽(ば)も住んでいます。しかし、もう湖ぜんぶをひとりで占領(せんりょう)しているわけにはいきません。白鳥や、モグリドリや、黒ガモや、アビや、ハイシロガモや、そのほかたくさんの鳥に領地(りょうち)をわけてやらなければならなくなりました。
 トーケルン湖(こ)は、たしかに、スウェーデンじゅうでも、いちばん大きな、いちばんすばらしい鳥の湖です。ですから、鳥たちは、こういう隠(かく)れ場所(ばしょ)をもっていられるあいだは、身のしあわせをよろこばなければなりません。しかし、これからさき、どのくらいのあいだ、このアシと泥(どろ)の岸とを、鳥たちがじぶんのものとしていられるかは、ちょっと見当(けんとう)がつきません。なぜなら、人間は、この湖が肥(こ)えた豊(ゆた)かな平野(へいや)の大きな部分(ぶぶん)に、ひろがっていることを忘れてはいないからです。それどころか、人間のあいだには、またこの湖の水を干(ほ)そうかという相談(そうだん)が、ときおりもちあがっているのです。もしこの計画(けいかく)が実行(じっこう)されることになりますと、いく千という水鳥がここから立ちのかなければならないことになるでしょう。
 ニールス・ホルゲルッソンが、ガンの仲間といっしょに旅をしていたころ、このトーケルン湖に、ヤッローという名まえの野ガモが住んでいました。ヤッローは、まだ夏と秋と冬としか、すごしたことのない若い鳥でした。ですから、こんどはじめて春をむかえたわけでした。そして、ついさいきん、北アフリカから帰ってきたばかりでした。ヤッローがトーケルン湖に帰ってきたころは、まだ湖(みずうみ)の上には氷がはっていました。
 ある夕方、ヤッローは、ほかの若いカモたちといっしょに、湖の上をあっちこっち飛びまわって遊んでいました。と、とつぜん、ヒュウッと二発(はつ)の弾(たま)が飛んできて、ヤッローの胸(むね)にあたりました。ヤッローは、もうだめだ、とは思いましたが、かりゅうどにつかまらないように、一生けんめい飛びました。どこへというあてはありませんが、ただ遠くへ遠くへと飛んでいきました。だんだん力が弱(よわ)って、もうこれ以上飛ぶことができなくなったときには、トーケルン湖の上をすぎて、湖のほとりにある大きな農家(のうか)の上にきていました。そして、とうとうつかれはてて、その農家の入口の前に落ちてしまいました。
 まもなく、ひとりの作男(さくおとこ)がでてきました。男はヤッローを見ると、つかつかとやってきて、いきなりヤッローをつかまえました。しかし、ヤッローの身になってみれば、ひとりで静(しず)かに死にたいのです。そこで、なんとかしてのがれようと、さいごの力をふりしぼって、作男の指にかみつきました。
 ヤッローは逃(に)げることはできませんでしたが、あばれたおかげで、作男はヤッローがまだ死んでいないことに気がつきました。それで、そっとかかえて、家の中にはいり、おかみさんに見せました。おかみさんは、親切(しんせつ)そうな顔をした若い人でした。そして、すぐに作男(さくおとこ)からヤッローを受けとって、せなかをさすってやったり、首の毛から流れおちる血をふいてやったりしました。それから、じっとヤッローをながめました。見れば、頭は濃緑色(こみどりいろ)につやつやしていて、首すじは白く、せなかは赤褐色(せきかっしょく)で、つばさは青く、じつに美しい鳥です。で、おかみさんは、このまま死なしてしまうのは、おしいと思いました。そこで、さっそく鳥かごをなおして、ヤッローをその中に入れてやりました。
 ヤッローはひっきりなしに、はねをバタバタやっては、逃(に)げようとしました。しかし、人間に、じぶんを殺すつもりがないことがわかりましたので、安心(あんしん)してかごの中でじっとしていました。いまは、傷(きず)の痛(いた)みと出血(しゅっけつ)のために疲(つか)れきっていることが、じぶんでもよくわかりました。おかみさんは、かごを炉(ろ)ばたにもっていきましたが、それをおろしたときには、ヤッローはもう目をとじて、眠っていました。
 しばらくすると、ヤッローはだれかにそっとつつかれて、目をさましました。目をあいたとたんに、気が遠くなるほどびっくりしました。ああ、もうだめです! 目の前には人間よりも肉食(にくしょく)の鳥よりも、もっと恐(おそ)ろしいものがつっ立っているではありませんか。それはセーサルです。毛の長い、あの猟犬(りょうけん)のセーサルが、いまじぶんをかぎまわっているのです。
 去年(きょねん)の夏、ヤッローがまだ毛の黄色い子ガモだったころ、アシのあいだから、「セーサルがきたぞォ! セーサルがきたぞォ!」というさけび声が聞こえるたびに、どんなに恐ろしい思いをしたことでしょう。
 恐(おそ)ろしい歯(は)をむきだした、茶と白のブチ犬が、アシのあいだをつき進んでくるのを見ますと、それこそ命(いのち)のちぢまる思いをしました。そして、セーサルとむかいあったがさいご、もう生きてはいられないと思ったものでした。
 ところが、ヤッローは、運(うん)のわるいことに、セーサルのいる農家(のうか)に落ちてしまったにちがいありません。なぜって、そのセーサルが目の前にいるではありませんか。
「きさまはだれだ?」とセーサルはうなりました。「どうしてこの家へきたんだ? きさまの家は、あのアシのあいだにあるんじゃないのか?」
 やっとの思いで、ヤッローはこう答えました。「ぼくがこの家へきたからって、そんなにおこらないでください、セーサルさん! ぼくのせいじゃないんですもの。ぼくは弾(たま)に射(う)たれて、けがをしたんです。そしたら、ここの家の人たちが、ぼくをこのかごの中にいれてくれたんです。」
「ふふん。それじゃ、きさまをここにいれたのは、家の人なんだな。そうしてみると、きさまの傷(きず)をなおしてやろうってつもりか。だが、おれはな、きさまなんか食(く)っちまうほうがいいと思うな。なにしろ、きさまはもうじたばたすることは、できねえんだから。が、とにかく、ここは安全(あんぜん)なところよ。そんなにびくびくするこたあないぜ。ここはトーケルン湖(こ)じゃねえからな。」
 こう言うと、セーサルは、まきの燃(も)えている炉(ろ)の前にねそべりました。ヤッローは、おそろしい危険(きけん)もぶじにすぎさったかと思いますと、たちまちくたびれを感じて、またもや眠りこんでしまいました。
 そのつぎに目がさめたときには、そばに穀物(こくもつ)と水のはいったお皿(さら)がおいてありました。からだはまだ弱りきっていましたが、それでもおなかはすいていましたので、さっそくたべはじめました。おかみさんは、ヤッローがたべているのを見ますと、そばへやってきて、せなかをさすってくれました。そして、たいそう喜(よろこ)んでいるように見えました。それから、またヤッローは眠りました。こうして、数日(すうじつ)のあいだは、眠ってはたべ、眠ってはたべてばかりいました。
 ある朝、ヤッローは、からだぐあいが、だいぶよくなりましたので、かごからでて、床(ゆか)の上をあるいてみました。ところが、まだいくらもいかないうちに、ころんでしまって、もうおきあがることができなくなりました。と、そこへセーサルがやってきて、大きな口をあけて、ヤッローをくわえました。ヤッローは、もちろんかみ殺(ころ)されるものと、かくごしました。けれども、セーサルは、なんにもしないで、そのまま、かごの中へつれていってくれました。このことから、ヤッローはセーサルを、とても信頼(しんらい)するようになりました。そんなわけで、二どめにあるいたときには、ヤッローはじぶんから、セーサルのところへいって、そのそばにすわりました。それからというものは、セーサルとヤッローは、だいの仲(なか)よしになりました。そして、ヤッローは、まいにち、セーサルの足のあいだにはいって、しずかに眠りました。
 けれども、ヤッローは、このセーサルよりも、おかみさんのほうが、もっとすきでした。いまでは、おかみさんを、ちっともこわがらなくなりました。それどころか、えさをもってきてくれるときなどは、おかみさんの手に喜(よろこ)んで頭をこすりつけました。それから、おかみさんがどこかよそへ出かけるときには、さびしがって鳴きました。そして、帰ってくると、野ガモのことばで、うれしそうにおむかえをしました。
 ヤッローは、まえに、犬や人間をあんなにこわがっていたことを、すっかり忘れてしまいました。いまでは、どちらも、やさしい、親切(しんせつ)なものに思われて、心からすきになりました。そして、早くじょうぶになって、トーケルン湖に飛んでいき、みんなに、敵(てき)と思っていた犬や人間は危険(きけん)なものではないから、こわがることはない、と教えてやりたいと思うのでした。
 この家の人たちも、セーサルも、やさしい目つきをしているので、ヤッローはみんなが大すきでした。ところが、この家にひとりだけ、どうしても目を合(あ)わすのが、いやでたまらないものがおりました。それはネコのクローリナでした。クローリナも、ヤッローにたいしてなんにもわるいことはしませんでしたが、でも、このネコだけはどうしても信用(しんよう)する気にはなれなかったのです。クローリナは、ヤッローがだんだん人間をすきになるのを見て、しょっちゅう口げんかをしては、
「人間がおまえさんをだいじにしてくれるのは、おまえさんがすきだからだと思っちゃ、まちがいだよ。」と、言いました。「まあ、いまに見ておいで。おまえさんがいいぐあいに太(ふと)ってくると、首をしめられちまうんだよ。あたしゃ、これでも人間てものをよく知ってるんだからね。」
 ヤッローは、ほかの鳥とおなじように、やさしい心の持(も)ち主(ぬし)でした。ですから、ネコがこんなことを言うのを聞きますと、ほんとうに悲(かな)しくなってしまいました。あのおかみさんがじぶんの首をしめる! いや、そんなことは考えられません。ぼっちゃんにしたって、そんなことをしようとは夢(ゆめ)にも思えません。あのちっちゃなぼっちゃんは、何時間ものあいだ、じぶんのかごのそばにすわって、かわいい片言(かたこと)でおしゃべりをしているではありませんか。ヤッローは、じぶんがおかみさんとぼっちゃんを大すきなのとおなじように、ふたりのほうでも、じぶんが大すきなんだと思っていました。
 ある日、ヤッローとセーサルがいつもどおり、炉(ろ)の前にすわっていますと、クローリナがかまどの上からヤッローをからかいはじめました。
「ヤッローさん、トーケルン湖(こ)の水が干(ほ)されて、畑(はたけ)になったら、おまえさんたち野ガモは、来年(らいねん)は、いったいどうなさるんだね?」
「なんですって、クローリナさん?」と、ヤッローはさけびながら、びっくりしてとびあがりました。
「そうそう、おまえさんは、セーサルさんやあたしとはちがって、人間のことばがわからないんだったね。」と、ネコは答えました。「さもなけりゃ、きのう、この家にいた人たちが話していたことを聞いたはずだもの。みんなはね、トーケルン湖の水を干(ほ)してしまうから、来年(らいねん)は、湖(みずうみ)の底が部屋(へや)の床(ゆか)のようにかわいてしまうだろうって言ってたのさ。だから、そうなったら、おまえさんたち野ガモは、どこへいくのかと思ってね。」
 ヤッローは、この話を聞きますと、すっかり腹(はら)をたててしまいました。
「きみは、黒ガモみたいにひきょう者だね!」と、ヤッローはクローリナにむかってどなりました。「きみは、ぼくを人間ぎらいにさせたいんだろう。だけどぼくは、人間がそんなことをしようとは思わないね。だって、あのトーケルン湖が野ガモのものだってことは、人間だって知っているはずだもの。あんなにたくさんの鳥を宿(やど)なしにして、ふしあわせになんかするものか。きみは、ぼくをおどかそうと思って、そんなことを言ってるんだろう。きみなんか、ワシのゴルゴさんに八(や)つ裂(ざ)きにされちまうといいや! そんなひげなんか、おくさんに切られちまうといいや!」
 しかし、これだけ言っても、まだクローリナをだまらせることはできませんでした。
「じゃあ、おまえさんは、あたしがウソを言ってると思ってるんだね。」と、クローリナは言いました。「それなら、セーサルさんにきいてごらんよ。セーサルさんも、ゆうべは家にいたんだからね。それに、セーサルさんはけっしてウソは言わないよ。」
「セーサルさん、」と、ヤッローはセーサルにむかって言いました。「きみは、クローリナなんかよりも、人間のことばがずっとよくわかるね。クローリナの言ってることはウソだねえ! だって、もしトーケルン湖を干(ほ)して、畑にしてしまったら、いったいどういうことになると思う。野ガモには、ヒルムシロもエビもなくなっちまうし、子ガモには、ボウフラも、魚の子も、オタマジャクシもみんななくなっちまうんだよ。それに、アシもなくなっちまうから、子ガモが飛(と)べるようになるまで隠(かく)れていられるところもなくなっちまうんだ。そうなりゃ、いやでも野ガモはあそこを立ちのいて、新しい住(す)みかをさがさなきゃならない。でも、トーケルン湖のようないい隠(かく)れがは、どこにもありゃしない。ねえ、セーサルさん、クローリナはウソをついてるんだねえ。」
 この話のあいだのセーサルのようすは、じつにみょうなものでした。ついさっきまでは、たしかに目をさましていたのですが、ヤッローがセーサルのほうをむいたとたんに、大きなあくびをして、長い鼻(はな)づらを前足(まえあし)の上にのせたかとおもうと、たちまち、ぐうぐうねこんでしまったのです。
 ネコはずるそうなうす笑いをうかべながら、セーサルを見おろしました。
「セーサルさんは、おまえさんに返事(へんじ)をするのがいやらしいね。」と、ネコはヤッローに言いました。「セーサルさんだって、ほかの犬とおなじように、もし人間が悪(わる)いことをやれば、だまっちゃいないよ。まあ、とにかく、あたしの言うことは、ほんとうさ。人間が湖(みずうみ)を干(ほ)したがるわけを、いま聞かしてやるよ。おまえさんたち野ガモがトーケルン湖をひとりじめにしていたころは、人間だって湖を干そうなんて思やしなかったのさ。だって、おまえさんたちは役にたつんだからね。それが、いまじゃ、モグリドリだとか、黒ガモだとか、たべられもしない、いろんな鳥が、ほとんどアシを占領(せんりょう)しちまっている。それで人間は、そんな鳥のために湖(みずうみ)をほったらかしておくことはないって考えたってわけさ。」
 ヤッローは、もうクローリナには答える必要(ひつよう)はないと思いましたが、セーサルの耳もとでこう言いました。
「セーサルさん、きみも知ってのとおり、トーケルン湖(こ)には、いまでもまだ、たくさんの野ガモがいるんだよ。それをみんな人間が宿(やど)なしにしてしまうなんて、そんなことはウソだねえ。」
 そのとき、セーサルはとつぜんはねおきて、クローリナにおどりかかりました。ネコは、あわてて棚(たな)の上にとびあがりました。
「やい、やい、おれがねたいときにゃ、ちったあ静(しず)かにしているもんだ。」と、セーサルはかみなりのような声でどなりつけました。「もちろん、おれだって、ことし、あの湖(みずうみ)を干(ほ)すって話のあることぐらい、知ってらあ。だが、こんな話は、いままでにもたびたびあったって、一どだって実行(じっこう)されたためしがねえんだ。それに、湖を干すなんてこたあ、おれの知ったこっちゃねえ。あの湖が干されちまったら、狩(か)りはいったいどうなるんだ。そんなことをいい気になってしゃべりたてやがって、この大ばかやろう。トーケルン湖(こ)に鳥が一羽(わ)もいなくなったら、おればかりか、きさまだって、おもしろいことはなくなっちまうじゃねえか。」

四月十七日 日曜日
 二、三日しますと、ヤッローは、すっかり元気(げんき)になって、家じゅうを飛びまわることができるようになりました。おかみさんはたいそうかわいがってくれますし、ぼっちゃんは庭にかけていっては、春の新しい草をむしりとってきてくれます。
 ヤッローは、いまではもう、いつでもすきなときに、トーケルン湖(こ)へ飛んで帰れるほど、すっかりじょうぶになりました。でも、おかみさんがやさしくなでてくれたりしますと、そんなときには人間たちから、はなれたくないような気になるのでした。いや、それどころか、死ぬまで人間のところにいたいと思うようにさえなりました。
 ところが、ある朝早く、おかみさんはヤッローの首に輪(わ)なわをかけました。そのため、ヤッローはつばさが使(つか)えなくなりました。それから、おかみさんはヤッローを、いちばんさいしょに中庭(なかにわ)で見つけた作男(さくおとこ)にわたしました。作男はヤッローをかかえて、トーケルン湖(こ)にいきました。
 湖(みずうみ)の氷(こおり)は、ヤッローが病気(びょうき)でねているうちに、すっかりとけてしまいました。去年(きょねん)の秋のアシは、岸(きし)べや小島のまわりに、まだ枯(か)れのこっていましたが、新しい水草(みずくさ)は底深くに根をおろして、その緑(みどり)のさきは早くも水の上にまでとどいていました。そして、たいがいの渡り鳥がもう湖の古巣(ふるす)にもどってきていました。タイシャクシギのかぎ型(がた)をしたくちばしが、アシのあいだからのぞいていますし、モグリドリは首のまわりに新しい毛なみをみせて、しずかに泳(およ)ぎまわっています。それから、コシギたちは、巣(す)をつくろうとして、さかんに、わらを集めています。
 作男(さくおとこ)は小舟(こぶね)に乗(の)って、ヤッローを舟底(ふなぞこ)におきました。それから、さおをさして湖の中にでていきました。ヤッローは、このごろでは、人間はいいものとばかり信(しん)じていましたので、そばにいるセーサルにむかって、じぶんは、湖につれてきてくれた、この人にとっても感謝(かんしゃ)している、と言いました。だけど、じぶんは逃(に)げるつもりはないんだから、こんなにきつくしばらなくったっていいのに、とも言いました。セーサルはなんとも返事(へんじ)をしませんでした。そして、けさはまた、ひどくだまりこんでいます。
 ただ一つ、ヤッローがへんに思ったのは、その男が鉄砲(てっぽう)をもっていることでした。あの農家(のうか)のいい人たちが鳥を射(う)とうなんて、そんなことはとうてい信じられません。それに、セーサルの話では、いまごろはだれも猟(りょう)にでかけないということでした。
「いまは禁猟期(きんりょうき)なのさ。」と、セーサルは言いました。「もちろん、わしには関係(かんけい)はないがね。」
 作男(さくおとこ)は、アシでかこまれている泥(どろ)の小島にこいでいきました。そこで、小舟からおりて、枯(か)れたアシを集めて、高くつみかさねました。そうして、そのうしろに腰(こし)をおろしました。ヤッローは、首に輪(わ)なわをかけられ、長いひもで小舟につながれていましたが、そこらをあるきまわることができました。
 そのとき、まえにこの湖(みずうみ)で、ヤッローといっしょに遊んだことのある若い野ガモたちの姿が見えました。みんなは遠くにいましたが、ヤッローは二、三ど、大きなさけび声をあげて呼びかけました。すると、たくさんの野ガモたちがそれに答えながら、近づいてきました。けれども、みんなのくるのが待ちきれずに、ヤッローは、じぶんが奇蹟的(きせきてき)に助かったことや、人間が親切(しんせつ)なことを話しはじめました。と、そのとき、うしろでダン、ダンという鉄砲(てっぽう)の音がしました。とたんに、三羽(ば)の野ガモがアシのあいだに射(う)ちおとされました。と、見るより早く、セーサルがとんでいって、野ガモたちをくわえてきました。
 これで、ヤッローには、なにもかもわかりました。人間たちは、じぶんをおとりに使おうと思って、助(たす)けたのです。しかも、それはみごとに成功(せいこう)したのです。野ガモが三羽も、じぶんのために殺されたではありませんか。はずかしくて、もう生きてはいられません。これでは、友だちのセーサルにも見さげられるでしょう。家へ帰ってからも、ヤッローは、いつものように、セーサルのそばへいって、ねようとはしませんでした。
 つぎの朝も、ヤッローはまた、その小島につれていかれました。こんどもまた、野ガモたちの姿が見えました。けれども、みんながじぶんのほうへ飛んできそうになりますと、そのたびにさけびました。
「あっちへ! あっちへ! 気をつけたまえ! アシの山のうしろには、かりゅうどが、かくれているんだよ。ぼくはおとりなんだから!」
 こうして、みんなが弾(たま)のとどくところに近づかないように、うまくかばってやりました。
 ヤッローは、見はりにいそがしくて、草の葉をつついているひまは、ほとんどありませんでした。鳥が近づいてくるとみれば、ただちにあぶないとさけびました。黒ガモは、野ガモたちのいちばんいい隠(かく)れがをとってしまうので、ふだんは大きらいでしたが、その黒ガモたちにさえも知らせてやりました。いまは、じぶんのために、どんな鳥をもふしあわせなめにあわせたくなかったのです。こうして、ヤッローが警戒(けいかい)していたために、男は家へ帰るまで、とうとう一発(いっぱつ)も射(う)つことができませんでした。
 それにもかかわらず、セーサルは、きのうよりも、きげんがよくなったようでした。夕がたには、ヤッローを口にくわえて、炉(ろ)のそばへつれていき、じぶんの足のあいだで眠(ねむ)らせました。
 しかし、ヤッローは部屋(へや)の中にいても、もう、すこしも楽(たの)しくはありませんでした。それどころか、じぶんの身をたいそうふしあわせに感(かん)じました。人間たちがじぶんを、ほんとうにかわいがってくれているのではないと思いますと、たまらなくなりました。おかみさんや、ぼっちゃんがそばにきて、なでてくれても、くちばしをつばさの下につっこんで、眠ったふりをしました。
 いく日かのあいだ、ヤッローはこんな悲(かな)しい見はり番(ばん)をさせられました。ですから、ヤッローのことも、いまでは、湖(みずうみ)じゅうに知れわたっていました。
 ある朝のこと、いつものように、「みんな、気をつけたまえ! ぼくに近よっちゃいけないよ! ぼくはおとりなんだから!」とさけんでいますと、むこうのほうからこの小島にむかって、モグリドリの巣(す)が一つプカプカと浮(う)いてきました。といっても、これはべつにかわったことではありません。それは去年(きょねん)の巣でしたが、モグリドリの巣というものは、ボートのように、水の上を動くことができるようにつくられているのです。それで、湖の上に浮(う)いていることもよくあるのです。けれども、ヤッローはその小島に立って、その巣をじっと見つめていました。なぜかと言えば、その巣は、まるでだれかが乗って舵(かじ)でもとっているように、まっすぐこの小島のほうへむかってくるのです。
 だんだん近づいてくるのを見れば、その巣(す)の中には、いままで見たこともないほどのちっぽけな人間がすわって、二本の小さな棒(ぼう)でこいでいるではありませんか。そのとき、そのちっぽけな人間がヤッローにむかってさけびました。
「おーい、ヤッロー、いつでも飛べるように、できるだけ水ぎわに近よっているんだぜ。いますぐ自由(じゆう)にしてやるよ。」
 それからすぐに、その巣(す)は小島の近くにつきました。けれども、そのちっぽけなこぎてはすぐにでてこないで、枝とわらとのあいだにちぢこまって、かくれていました。ヤッローもほとんど身動(みうご)き一つしませんでした。その小人が、いまにも見つかりはしないかと、ハラハラして、じっとかたくなっていたのです。
 と、つづいてガンの一むれが飛んできました。それと見るや、ヤッローは、はっとわれにかえって、危(あぶな)い、と大声で注意(ちゅうい)しました。ところが、ガンたちは、それでも、この小島の上を何回(なんかい)も何回もいったりきたりするのです。ガンたちは、弾(たま)がとどかないほど高いところを飛んでいますが、男は、つい射(う)ってみたくなって、思わずダン、ダンと二発射ってしまいました。と、そのとたんに、そのちっぽけなものは、小島にとびあがって、小さなナイフをさやから引きぬくが早いか、すばやくヤッローの輪(わ)なわを切りはなしました。そして、
「さあ、飛ぶんだ、ヤッロー、弾(たま)をつめかえないうちに!」と、さけびながら、モグリドリの巣にとびのって、いそいで岸(きし)をはなれました。
 男はガンにばかり気をとられていましたので、ヤッローが逃(に)げるのには気がつきませんでした。しかし、セーサルのほうは、よく見はっていました。で、ヤッローがつばさをあげたとたんにおどりかかって、首(くび)っ玉(たま)をくわえました。
 ヤッローは、あわれなさけび声をあげました。すると、ヤッローを逃(に)がしてくれたチビスケが、おちつきはらって、セーサルに言いました。
「おまえの心が、おまえの姿(すがた)とおなじようにりっぱだったら、こんなおとなしい鳥に、おとりのようないやしい仕事をさせておきゃあしないだろうなあ!」
 セーサルはこれを聞きますと、にくにくしそうに上(うわ)くちびるをむいて、歯(は)を見せました。が、すぐに、ヤッローをはなしてやりました。そして、
「飛んでいけよ、ヤッロー!」と、セーサルは言いました。「まったく、おまえはひとがよすぎて、おとりにゃなれない。おれが、おまえをとめておこうとしたのは、そのためじゃない。おまえがいなくなると、家の中が、さびしくなっちまうからなのさ。」

四月二十日 水曜日
 ヤッローがいなくなってからは、家の中がほんとうにさびしくなりました。犬とネコとは、もうヤッローのことでけんかをすることもなくなったものですから、まいにち、たいくつでしかたがありませんでした。おかみさんにとっても、いままで、じぶんが、家の中へはいるたびに、喜(よろこ)んで鳴きさけんだヤッローの声が聞けなくなりました。けれども、ヤッローをいちばん恋(こい)しがったのは、ぼっちゃんのペール・オーラでした。オーラはやっと、三つになったばかりで、この家のひとりっ子でした。オーラは、これまでにヤッローのようないい遊(あそ)び相手(あいて)をもったことはありませんでした。ですから、ヤッローがトーケルン湖(こ)の野ガモたちのところへ帰ってしまったと聞かされても、どうしても、あきらめることができませんでした。そして、どうしたらヤッローをつれもどせるだろうかと、そればかり思っていました。
 ペール・オーラはヤッローがかごの中にいたとき、ヤッローとなんども話をしました。そしてこの子は、じぶんの言ったことが、ヤッローにわかったものと思いこんでいました。それで、ヤッローをさがして、家へもどるように言いきかせたいから、いっしょに湖(みずうみ)へつれていってくれ、と、なんどもなんどもおかあさんにせがみました。もちろん、きいてはもらえませんでしたが、それでも、なかなか、あきらめようとはしませんでした。
 ヤッローがいなくなったつぎの日に、ペール・オーラは中庭(なかにわ)をかけまわって、いつものようにひとりで遊(あそ)んでいました。セーサルは段々(だんだん)の上にねそべっていました。おかあさんはオーラをおもてにだすときには、いつもこう言いました。
「セーサルや、オーラに気をつけておくれよ!」
 なにもかもが、ふだんどおりだったら、セーサルもこの言いつけをよく守(まも)って、子どもを危(あぶな)いところに近よらせるようなことはしなかったでしょう。ところが、このごろのセーサルは、いつものセーサルとはちがっていました。それは、トーケルン湖(こ)の附近(ふきん)に住んでいる百姓(ひゃくしょう)たちが、湖を干(ほ)す相談(そうだん)をいくどもして、いよいよそれがきまりかかっていることを知っていたからです。そうなれば、野ガモたちは立ちのかなければなりませんし、セーサルじしんも、あのすばらしい狩(か)りをすることができなくなってしまうでしょう。こんないやなことばかり考えていましたので、セーサルは子どものお守(も)りを、つい忘れてしまっていました。
 いっぽう、オーラは中庭(なかにわ)にいるのは、じぶんひとりきりだと見てとりますと、いまこそトーケルン湖(こ)にいって、ヤッローと話をする絶好(ぜっこう)の機会(きかい)だと思ったのでしょう。小門(こもん)をあけて、せまい道を湖(みずうみ)のほうにむかっておりていきました。家から見えるあいだは、ゆっくりあるいていましたが、見えなくなると、たちまち足を早めました。
 オーラは、おかあさんか、だれかに呼(よ)びとめられやしないかと、びくびくしていました。べつにいたずらをするつもりはなく、ただヤッローをつれもどしたいだけなのですが、家の人に知れたら、きっと、とめられるだろうと思っていたのです。
 ペール・オーラは岸(きし)べについたとき、ヤッロー、ヤッローと、なんども、なんどもよんでみました。それから、長いあいだ立って待っていました。けれども、ヤッローは姿(すがた)を見せませんでした。野ガモらしい鳥はいく羽(わ)もいましたが、みんな、オーラのほうなどは見むきもしないで、飛んでいってしまいました。それで、オーラにも、その中にはヤッローはいないのだ、ということがわかりました。
 いつまでたっても、ヤッローの姿が見えないので、湖(みずうみ)の上にでていったら、もっとかんたんに見つかるだろうと思いつきました。見れば、岸べには、いい舟がいくそうもあります。どれもこれもしっかりとつないでありますが、ただ一つ、古い、水のもる小舟(こぶね)だけは、すぐにほどけそうです。しかし、それはとても使(つか)いものにはなりません。けれども、オーラは、そんなことにはおかまいなく、やっとのことで、水びたしの舟の中にはいこみました。そしてまだかいでこぐだけの力がありませんので、すわりこんで舟をゆすぶりはじめました。もちろん、ゆすったぐらいでは、おとなだって舟をだすことはできないでしょう。ところが、水かさが増(ま)していたりして、ひょっとしたはずみには、小さな子どもでも、舟を湖(みずうみ)にのりだすことができるものです。ペール・オーラも、まもなくトーケルン湖(こ)にのりだして、大すきなヤッローの名まえをしきりに呼(よ)びまわりました。
 こうして、この古(ふる)ぼけた小舟が、湖の上でゆられているうちに、小舟のあちこちにある裂(さ)けめがだんだん大きくなって、水がますますしみこんできました。ところが、ペール・オーラは平気(へいき)なものです。前のほうの小さな舟板(ふないた)に腰(こし)かけて、鳥の姿を見るたびに、ヤッロー、ヤッローと呼びました。そして、どうしてヤッローが姿を見せないのかと、ふしぎがっていました。
 とうとう、ヤッローはペール・オーラの姿を見つけました。と、同時(どうじ)に、だれかが、人間のつけてくれたヤッローという、じぶんの名まえを呼んでいるのを耳にしました。で、はじめて、このちいさなぼっちゃんが、トーケルン湖(こ)まで、わざわざ、じぶんをさがしにきてくれたのだということがわかりました。ヤッローは、人間がじぶんをほんとうにかわいがってくれているということを知って、なんともいえないほど、しあわせな気もちになりました。そこで、すぐさま、ペール・オーラのところへ矢(や)のように飛んでいきました。そしてぼっちゃんのとなりにすわって、うれしそうに、からだをこすりつけました。ふたりはめぐりあったよろこびに、むちゅうになっていましたが、とつぜん、ヤッローは舟のありさまに気がつきました。舟は水びたしになっていて、いまにも沈(しず)みそうではありませんか。ヤッローは、なんとかしてぼっちゃんに、早くおかにあがるようにしなければいけないことを知らせようとしました。といって、ぼっちゃんは飛(と)ぶことも泳(およ)ぐこともできません。それにぼっちゃんには、ヤッローの言うことが、ちっともわかりません。こうなっては、一時(いっとき)のゆうよもならないので、ヤッローは、救(すく)いをもとめに、いそいでどこかへ飛んでいきました。
 しばらくして、ヤッローがもどってきました。見れば、せなかに、ペール・オーラよりもずっと小さいものをのっけています。もしも、それがしゃべったり、動いたりしなかったら、オーラはきっとお人形(にんぎょう)だと思ったでしょう。ところが、そのチビさんは、すぐオーラに舟底(ふなぞこ)にある細長いさおを取って、アシの島のほうにむかって、舟をうごかすように言いつけました。ペール・オーラは言われたとおりにして、ふたりは力をあわせて舟を進(すす)めていきました。まもなく、アシにかこまれた小さな島につきますと、オーラはいそいで島にあがるように言われました。そして、オーラが島に足をおろしたとたんに、舟はすっかり水をかぶって、沈(しず)んでしまいました。
 ペール・オーラはこれを見て、きっと、おとうさんとおかあさんに、おこられるだろうと思いました。そして、もうすこしで泣(な)きだしそうになりました。が、ちょうどそこへ、一むれの大きな灰色(はいいろ)の鳥が飛んできて、島におりましたので、それに気をとられてしまいました。すると、そのチビさんは、オーラをそのむれのところへつれていって、みんなの名まえをオーラに教(おし)えてやったり、みんなの言っていることを話してやったりしました。それがとってもおもしろいので、オーラは、ほかのことはなにもかも忘(わす)れてしまいました。
 そのあいだに、ヤッローは大いそぎで、農家(のうか)に飛んでいって、セーサルにぼっちゃんのいるところを知らせてやりました。そこで、セーサルはヤッローのあとについてきて、岸(きし)から泥(どろ)の小島に泳(およ)いでわたりました。見れば、ぼっちゃんは枯(か)れたアシの山の上にすわって、ガンや野ガモたちに取りかこまれて、うれしそうにキャッキャッと笑いながら遊(あそ)んでいます。
 セーサルは長いことその小島にいましたが、それは、ぼっちゃんのためばかりではありませんでした。うまれてはじめて、セーサルはトーケルン湖(こ)の鳥たちと仲(なか)よしになったのです。そして、鳥たちの、りこうなのには、ただ、ただ驚(おどろ)いてしまいました。そのうちに、みんなは、ヤッローから聞いたけれども、この湖(みずうみ)を干(ほ)してしまうという話は、ほんとうかと、セーサルに聞きました。
「まだきまったわけじゃないがね、」と、セーサルが言いました。「あした、さいごの相談(そうだん)をすることになっているんだよ。しかし、どうやら、こんどはきまりそうだね。あんたたちにとっては、まったくお気のどくだよ。だけど、ぼくの身になったって、こんなにいい猟場(りょうば)がなくなっちまうんだから、じょうだんごとじゃないさ。」
 ヤッローの話していたことが、いまのセーサルの話で、いよいよほんとうとわかりますと、鳥たちはなげき悲(かな)しみました。このことが、つぎからつぎへとつたえられて、湖じゅうに知れわたりますと、いたるところに悲(かな)しみの声があふれました。小さなアシスズメから、気ぐらいの高い白鳥(はくちょう)にいたるまで、みんなが、なげき悲(かな)しみました。ふだんは仲のわるい野ガモと黒ガモも、いっしょになって恐(おそ)ろしいさいなんのきたことを悲しみました。
 やがて、セーサルが家に帰ろうとしたとき、ガンの隊長(たいちょう)のアッカが言いました。
「わしは、通りがかりの渡(わた)り鳥(どり)だから、わしにとっては、どっちでもいいことなんだが、もしおまえさんが、ほんとうに、このトーケルン湖(こ)の鳥たちを、このままにしておきたいと思うんなら、このぼっちゃんのいどころを、すぐご両親(りょうしん)に教(おし)えちまっちゃいけないよ。」
 セーサルは、目をまんまるくして、じっとアッカを見つめていましたが、
「きみは、まったくりこうだね。」と、言いました。
「そりゃあ、いままでにずいぶん、いろんなめにあっているからね。」と、アッカが言いました。「それにしても、じぶんの子をなくすってのは、とってもつらいことなんだよ。」
「おれは、きみの忠告(ちゅうこく)にしたがうことにするよ。」と、セーサルは言いました。「そのかわり、ぼっちゃんのことは、たのんだよ。」
 いっぽう、農家(のうか)の人たちは、ペール・オーラの姿(すがた)が見えないので、びっくりしてさがしはじめました。納屋(なや)から、井戸(いど)から、地下室(ちかしつ)までも、みんなさがしてみました。おもての道や、小道(こみち)にもでてみました。もしかしたら、となりの農場(のうじょう)に迷(まよ)いこみはしなかったかと、そこへもいってみました。とうとうしまいには、トーケルン湖(こ)の岸(きし)べもさがしてみました。しかし、いくらさがしても、オーラの姿は見えません。
 犬のセーサルは、家の人たちが、ぼっちゃんをさがしまわっていることは、ちゃんと知っていましたが、オーラのいるところへ、案内(あんない)してやろうともせずに、知らん顔をして、ねころんでいました。
 その日おそくなってから、舟着場(ふなつきば)で、オーラの足あとが見つかりました。そして、みんなは、いつも岸にあった水びたしの古い小舟(こぶね)がなくなっているのに気がつきました。これで、なにもかもが、はっきりしてきました。
 そこで、すぐさま、人びとはオーラをさがすために、舟をだしました。そして、夕方おそくまで、湖じゅうをさがしましたが、オーラの姿は影(かげ)も形(かたち)もありません。それで、あの古い小舟は沈(しず)んでしまい、子どもは湖におぼれて死んだものと考えるよりほかなくなりました。
 晩(ばん)がたになっても、オーラのおかあさんは、岸べをさがしまわっていました。ほかの人たちは、みんな、オーラは、おぼれてしまったものと思いこんでいましたが、おかあさんだけは、どうしても、そう信(しん)じることができなかったのです。アシやトウシングサのあいだをわけてさがしたり、どろだらけの岸べをあるいたりしました。足がどんなにもぐろうと、着物(きもの)がどんなにぬれようと、いまはそんなことにかまってはいられません。おかあさんの心は、絶望(ぜつぼう)のあまり、いまにもはりさけそうです。両手(りょうて)をふりしぼりながら、訴(うった)えるように、わが子の名まえを大きな声で呼びあるきました。
 あたりには、白鳥やカモやタイシャクシギの鳴(な)き声(ごえ)がしていました。おかあさんには、なんだかこの鳥たちも、悲(かな)しみなげきながら、じぶんのあとからついてくるような気がしました。
「ああして悲しそうに鳴いているところをみれば、この鳥たちにもきっと心配事(しんぱいごと)があるのにちがいないわ。」と、おかあさんは思いました。けれども、すぐまた、「いいえ、鳥ですもの、ああして鳴いていたって、きっとなんの悲(かな)しみもないのだわ。」と、思いかえしました。
 ところが、ふしぎなことには、お日さまが沈(しず)んでからも、鳥の鳴き声はいっこうにしずまりませんでした。それどころか、湖(みずうみ)じゅうに住(す)んでいる、それこそ数(かぞ)えきれないほどたくさんの鳥が、いっせいに悲しい鳴き声をあげているではありませんか。中には、おかあさんのあとを、どこまでもどこまでも、ついてくるものもありますし、また軽(かる)く羽(は)ばたきながら、飛び立っていくものもあります。しかも、どの鳥もどの鳥も、なげき悲しんでいるのです。
 悲しみに悲しんだあげく、おかあさんの心はいくらかおちついてきました。すると、ほかの生(い)き物(もの)も、人間と、たいしてかわらないような気がしてきました。そう思えば、鳥たちの悲しんでいるようすが、まえよりも、ずっとよくわかるような気がします。鳥にしたって、人間とおなじように、家のことや子どものことが、いつもいつも気になるにちがいありません。たしかに、人間と鳥のあいだには、そんなに大きなちがいはないのです。
 そのとき、おかあさんは、ふと、湖を干(ほ)す話を思いだしました。これはもうほとんど、きまったもおなじですが、そうなったら、いく千という白鳥や、カモや、モグリドリが、このトーケルン湖(こ)の住(す)みかを失(うしな)うことになるのです!
「鳥にとっては、この上もなく悲(かな)しいことね。」と、おかあさんは思いました。「そうなったら、みんな、いったいどこへいって、ヒナを育(そだ)てるのかしら?」
 おかあさんは立ちどまって、いろいろと考えてみました。「たしかに、湖(みずうみ)を干(ほ)して、畑(はたけ)や牧場(ぼくじょう)にするのは、利益(りえき)のある、いい計画(けいかく)にちがいないわ。でも、トーケルン湖でない、ほかの湖だっていいわけだわ。こんなにもたくさんの鳥が住んでいない湖にすればいいんだわ。」
「あしたは、湖を干すかどうかが、いよいよきまるんだったわ。」と、おかあさんは考えつづけました。それが、そのまえの日のきょう、かわいい、わが子がいなくなったのには、なにかわけがあるのではないだろうか、と思ってみました。
 神(かみ)さまが、ああいうひどい行(おこな)いをやめさせるために、きょうのうちに、こんな悲しみをくだされて、あたしの心を動かそうとなさっているのではないかしら?
 おかあさんは、いそいで家にもどって、オーラのおとうさんに、このことを話しました。湖のこと、鳥のこと、それから、オーラがいなくなったのは、つまりは、神さまが、じぶんたちにくだされた罰(ばつ)にちがいないと思われること、などを話しました。すると、おとうさんも同じ考えでした。
 このふたりは、すでに大きな土地(とち)をもっていましたが、もし湖をうまく干すことができれば、それこそ、その土地が、倍(ばい)ちかくにもなるのです、[#「なるのです、」はママ]そんなわけで、ふたりは、ほかの地主(じぬし)たちよりも、この計画(けいかく)にたいしては、ずっと熱心(ねっしん)でした。ほかの人たちは、費用(ひよう)がかかりすぎることや、またこんども、まえのときのように、うまくいかないのではないか、と心配していました。それをオーラのおとうさんが、説(と)きつけて、この計画(けいかく)をたてることになったのです。それは、おとうさんもよく知っていました。オーラのおとうさんとしては、じぶんが親(おや)からもらった土地(とち)を、子どもには、倍(ばい)にして残(のこ)してやりたいと思っていたからです。そこで、おとうさんは弁舌(べんぜつ)のかぎりをつくして、みんなを説きつけたわけでした。
 それが、おりもおり、いよいよ、その相談(そうだん)がきまろうというまえの日になって、わが子の命(いのち)がトーケルン湖にうばわれたということは、きっとなにか神(かみ)さまの思(おぼ)し召(め)しがあるのにちがいありません。ですから、おかあさんがいろいろ言うまでもなく、おとうさんもすぐに、
「うん、湖(みずうみ)を干(ほ)すのは、神さまの御心(みこころ)に反(はん)するのかもしれない。あした、このことをみんなに話してみよう。おそらく、湖はもとのままにしておくことになるだろうよ。」と、言いました。
 ふたりがこんな話をしているとき、セーサルは炉(ろ)の前にねそべっていました。そして、頭をおこして、じっと耳をすまして聞いていました。やがて、事のなりゆきがわかりますと、おかあさんのところへあるいていって、すそをくわえて、戸口(とぐち)に引っぱっていきました。
「まあ、セーサル!」と、おかあさんは言いながら、すそをふりはなそうとしました。そして、「おまえ、オーラがどこにいるのか、知ってるのかい?」と、ききました。
 すると、セーサルはうれしそうに、ワン、ワン吠(ほ)えては、戸にからだをぶっつけました。おかあさんが戸をあけますと、セーサルはトーケルン湖(こ)のほうにむかって駆(か)けだしました。おかあさんも、セーサルがきっと、オーラのいどころを知っているにちがいないと思いましたので、そのあとについて走(はし)っていきました。そして、岸まできますと、たちまち湖のむこうから、子どもの泣(な)き声(ごえ)が聞こえてきました。
 ペール・オーラは、オヤユビくんや鳥たちといっしょに、ほんとに楽(たの)しい一日をすごしました。けれども、いまは、おなかがすいてきたのと、暗(くら)くなってきたのがこわくて、泣きだしたのでした。でも、おとうさんとおかあさんとセーサルが、むかえにきてくれたのを見て、オーラは大よろこびしました。
 トーケルン湖の鳥たちは、うれしそうに羽(は)ばたきながら、美しいお月さまの光をあびて、みんなが家へ帰っていくのを見送(みおく)っていました。
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八月二十二日 金曜日
 ある晩(ばん)、ニールスがトーケルン湖(こ)の中の小島で眠(ねむ)っていますと、かいの音がするので、びっくりして目をさましました。けれども、目をあけたとたんに、まぶしい光が目にさしこんで思わずパチパチとやりました。
 湖(みずうみ)の上で、こんなにキラキラ光るのは、いったいなんだろうと考えてみましたが、さいしょのうちは、さっぱり見当(けんとう)がつきません。でも、だんだん目がなれてきますと、一そうの小舟(こぶね)がアシのきわにいるのが見えました。そして、そのせんびにとりつけた鉄(てつ)の棒(ぼう)の上で、大きなたいまつがさかんに燃(も)えているのでした。赤いほのおは、暗い夜の湖に、あかあかとうつっていました。そして、そのあかるい光が、魚(さかな)をよび集めたのにちがいありません。ほのおの下の水の中には、たくさんの魚が集まって、ひっきりなしに泳(およ)ぎまわっていました。
 小舟には、年とったふたりの男が乗(の)っていました。ひとりは、すわって、かいをにぎっていました。もうひとりは、かかりのあるみじかいもりを持って、せんびに立っていました。こいでいるほうの男は、見たところ、貧(まず)しい漁師(りょうし)のようでした。こがらで、やせこけて、いかにも雨風(あめかぜ)に打たれたという顔をしていました。そして、うすっぺらな、すりきれた上着(うわぎ)を着ていました。どんな天気(てんき)にでも、外にいるのになれているらしく、寒いのなどは、平気(へいき)のように見えました。もうひとりのほうは、太(ふと)っていて、身なりもりっぱで、何不足(なにふそく)ないお百姓(ひゃくしょう)さんのようでした。
 小舟が、ニールスのいる小島のむこうがわにきたとき、お百姓さんが、「とめろ!」と、言いました。と、同時(どうじ)に、はげしく水の中にもりを突(つ)っこみました。もりを引きあげたときには、みごとなウナギが突きささっていました。
「こいつを見てくれ!」と、お百姓さんは、ウナギをもりからはずしながら、言いました。「いいウナギじゃないか。もうこのくらいでたくさんだ。ぼつぼつ帰ろうか。」
 けれども、もうひとりの男は、かいも動かさないで、あたりをながめていました。そして、
「こんやは、すごくいいなあ!」と、言いました。じっさい、そのとおりでした。湖の上は風一つなく、水の上は鏡(かがみ)のように、なめらかで、ただ小舟の通ったあとだけが、たいまつの光に照(て)らされて、黄金(こがね)の道のように、キラキラと光っています。
 すみわたった、あい色の空には、お星(ほし)さまがいちめんにきらめいていました。岸(きし)べは、アシの小島にかくされて見えませんが、西のほうには、オムベルイ山が高く、黒ぐろとそびえていて、いつもよりもずっと大きく見えました。そして、まるい大空(おおぞら)の一角(いっかく)を、三角形(さんかくけい)にくぎっていました。
 お百姓(ひゃくしょう)さんは、まぶしい光から顔をそむけながら、あたりを見まわしました。
「なるほど、ここはきれいだなあ。」と、お百姓さんは言いました。「だが、この地方(ちほう)でのいちばんいいものは、風景(ふうけい)の美しさじゃないよ。」
「じゃあ、いったい何がいちばんいいんです?」と、かいをにぎっている男はききました。
「つまり、ここは、あがめられ、尊敬(そんけい)されている地方なんだ。」
「そりゃあそうです。」
「そして、これからさきも、ずっとそうだとわかっているのさ。」
「どうして、そんなことがわかるんです?」と、こぎてがたずねました。
 お百姓(ひゃくしょう)さんは、からだを起(お)こしてもりにもたれかかりました。
「わしの家には、むかしから語(かた)りつたえられている古い話がある。その話で、これからさき、エステルイエートランドにどんな事がおこるか、ちゃんとわかるのさ。」
「じゃあ、わたしにもそれを聞かせてください。」と、こぎては言いました。
「ほんとうは、だれにも話さないことになっているんだが、むかしからの知りあいにかくしておこうとも思わない。」と、お百姓さんは言って、話しはじめました。その話しぶりからみますと、だれかに聞いたのを、そらでおぼえていて、それをそのまま話しているようでした。
「このエステルイエートランドのウルヴォーサに、ずっとむかし、ひとりの婦人(ふじん)がいた。その婦人は、将来(しょうらい)どんな事がおこるかを、まるでいままでおこった事がらを言うように、ぴったりと言いあてることができた。そのことが広く知れわたると、近所(きんじょ)の人たちはもちろんのこと、遠くからも大ぜいの人びとがやってきて、いろんな事を占(うらな)ってもらった。
 ある日のこと、その婦人が広間(ひろま)にすわって、糸をつむいでいると――これは、そのころの習慣(しゅうかん)だったんだ――ひとりの貧(まず)しい百姓(ひゃくしょう)がはいってきて、戸口(とぐち)の腰(こし)かけに腰をおろした。
『あなたは、そうして、いま何を考えていらっしゃるんですか?』と、しばらくして百姓が言った。
『あたしは、気高(けだか)い、清(きよ)らかなもののことを考えているのです。』と、婦人は答えた。
『それでは、わたしの気にかかっていることを、おたずねするのは、やめておいたほうがいいですね。』と、百姓は言った。
『おまえの気にかかっているというのは、きっと、おまえの畑(はたけ)で穀物(こくもつ)が、たくさんとれるかどうか、というようなことでしょう。でも、あたしは、いつも、王(おう)さまからは、王冠(おうかん)がどうなるだろうとか、法王(ほうおう)からは、鍵(かぎ)がどうなるだろうとか、そういうようなことばかりきかれているのですよ。』
『そんなことは、かんたんに答えられるものじゃございませんね。』と、百姓は言った。
『ところで、わたしは、あなたが答えてくださったことに満足(まんぞく)して帰るものは、ひとりもないと聞いておりますが。』
 百姓(ひゃくしょう)がこう言うと、婦人(ふじん)はくちびるをかみしめながら、身を起こして、腰(こし)かけに腰をおろした。
『そんなうわさを聞いているんですね。』と、婦人は言った。『それでは、おまえのききたいことを言ってごらん。そうすれば、おまえが満足(まんぞく)するような返事(へんじ)を、あたしがしてあげるかどうかが、わかるでしょう。』
 そこで、百姓は、えんりょせずに、ききたいと思っていたことを言った。つまり、この百姓は、エステルイエートランドが、このさき、どうなるだろうかということをききにきたのだった。この百姓にとっては、じぶんのうまれた土地(とち)ほど、だいじなものはなかったのだ。だから、じぶんの死ぬ日までに、このことがはっきりわかったら、どんなにかしあわせだと思っていたわけだ。
『そう、おまえのききたいことが、それだけなら、きっとおまえを満足(まんぞく)させられると思いますよ。なぜなら、エステルイエートランドは、いつになっても、ほかの地方に誇(ほこ)れるようなものをもっていると、予言(よげん)できますからね。』と、賢(かしこ)い婦人(ふじん)は言った。
『はい、それはありがたいことです。でも、どうしてそういうことになれるのか、それがわかりさえしましたら、ほんとうに満足(まんぞく)できるのですが。』と、百姓(ひゃくしょう)は言った。
『どうして、そんなことを言うのです?』と、婦人は言った。『おまえは、エステルイエートランドが、いまでも、もう有名(ゆうめい)なのを知らないのですか? それとも、アルヴァストラや、ヴレタの僧院(そういん)や、リンチェーピングの美しい教会(きょうかい)のようなものを、もっていると誇(ほこ)れるところが、スウェーデンのどこかにあるとでも思っているの?』
『そうかもしれませんが、』と、百姓は言った。『わたしは、年をとっておりますので、人間の心がかわりやすいものだということを、よく存(ぞん)じております。ですから、アルヴァストラやヴレタにたいしても、またエンチェーピングの教会にたいしても、人びとが尊敬(そんけい)をはらわなくなるようなときが、いつかきはしないかと、心配(しんぱい)なのです。』
『それは、おまえの言うとおりかもしれないけれど、』と、婦人は言った。『だからといって、あたしの予言(よげん)を疑(うたが)わなくてもいいのですよ。あたしは、こんど、ヴァードステーナに新しい僧院(そういん)を建(た)てさせますが、それは、この北の地方で一ばん有名(ゆうめい)なものになるでしょうよ。身分(みぶん)の高い人もひくい人も、みんなそこへお参(まい)りにやってきて、そのような神聖(しんせい)な場所(ばしょ)のあるこの地方を、ほめたたえることになるでしょう。』
 百姓(ひゃくしょう)は、いまのお話をうかがって、たいへんうれしい、と答えた。しかし、この百姓は、どんなものも、いつかはほろびるものだ、ということを知っていた。それで、そのヴァードステーナ僧院(そういん)の名声(めいせい)がおちてしまったら、いったい何がこの地方の評判(ひょうばん)を高めることになるだろうかと疑(うたが)った。
『おまえは、なかなか満足(まんぞく)しないのね。』と、婦人(ふじん)が言った。『でも、あたしには、もっとさきのことが見とおせます。ヴァードステーナ僧院の栄誉(えいよ)がくずれないうちに、そのすぐそばに御殿(ごてん)が建てられて、それがその時代(じだい)では、もっともすばらしいものとなるでしょう。王(おう)さまをはじめ諸侯(しょこう)が、そこにお見えになるのよ。そして、そういうすばらしい御殿のあることが、この地方の名誉(めいよ)となるでしょう。』
『それをうかがって、うれしゅうございます。』と、百姓は言った。『しかし、わたしは年とっておりますので、そういうこの世の華(はな)やかなものが、やがてどうなるか、よく存(ぞん)じております。で、その御殿(ごてん)がほろびることになったら、いったい何が人びとの目を、この地方にひきつけておくことになるのでしょう。』
『おまえは、いろいろのことが知りたいのね。』と、婦人は言った。『でも、あたしには、もちろんそのさきも見とおせます。フィンスポングのまわりの森が開発(かいはつ)されて、そこに製鉄場(せいてつじょう)や、鍛冶場(かじば)が建(た)てられるでしょう。そして、この地方は、鉄を製するので、名高くなると思います。』
 百姓は、それを聞いて、たいへんよろこんだ。
『けれども、フィンスポングの製鉄場(せいてつじょう)のぐあいが悪くなったときには、それにかわって、エステルイエートランドの誇(ほこり)になるようなものは、もう何もなくなると思いますが。』
『おまえは、なかなか承知(しょうち)しないのね。でも、あたしには、そのさきも予言(よげん)できます。がいせんした将軍(しょうぐん)たちが、湖(みずうみ)の岸(きし)に、御殿のように、りっぱな大きい別荘(べっそう)を建てるようになります。このすばらしいたくさんの別荘(べっそう)が、やっぱりこの地方(ちほう)の名誉(めいよ)になるのです。』
『でも、だれもその大きな別荘をほめないようなときがきましたら?』と、百姓(ひゃくしょう)は言った。
『けっして、心配はいりませんよ。』と、婦人(ふじん)は言った。『ヴェッテルン湖(こ)の近くの、メデヴィの平原(へいげん)に、鉱泉(こうせん)がわきでるようになります。そして、その鉱泉のおかげで、この地方(ちほう)は有名(ゆうめい)になるでしょう。』
『それは、たいへんうれしいお話ですが、人びとが、ほかの鉱泉にいくようになりましたら?』
『そんなことを心配(しんぱい)する必要(ひつよう)はありません。そのうちには、ムタラからメームにかけて運河(うんが)が掘(ほ)られます。そして、その運河によって、エステルイエートランドの名声(めいせい)は、国じゅうに知れわたります。』
 それでも、まだ百姓(ひゃくしょう)は心配(しんぱい)のようだった。
『ムタラ川の急流(きゅうりゅう)では、水車(すいしゃ)がまわりだしますよ。』と、婦人(ふじん)は言ったが、いらいらしてきたので、ほおは赤くほてってきた。『そして、ムタラでは槌(つち)の音がひびきますし、ノルチェーピングでは織機(おりき)の音が聞かれます。』
『それは、けっこうなお話ですが、』と、百姓は言った。『しかし、すべては、はかないものですから、そういうものも、いつかは忘れられ、すてさられてしまうだろうと思いますが。』
 百姓が、これでも満足(まんぞく)しないのを見ると、婦人はとうとうがまんができなくなった。
『おまえは、どんなものもほろびてしまうと言うけれども、』と、婦人は言った。『それでは、いつまでたってもかわらないものを言いましょう。それは、この地方には、おまえのように、強情(ごうじょう)で、こうまんな百姓が、いつまでも、あとをたたないということです。』
 婦人が、こう言いおわるかおわらないうちに、百姓は、うれしそうな顔をして、満足(まんぞく)げに立ちあがった。そして、婦人が親切(しんせつ)に答えてくれたことを感謝(かんしゃ)して、じぶんはこれでやっと満足しました、と言った。
『あたしには、おまえの気もちがよくわかりません。』と、婦人は言った。
『つまり、わたしには、こう考えられるのです。』と、百姓は答えた。『王(おう)さまや、坊(ぼう)さんや、貴族(きぞく)や、商人(しょうにん)などが建(た)てるものは、ごくわずかの年月(としつき)しか、つづかないものだと思います。けれども、いまあなたが、エステルイエートランドには、名誉(めいよ)を愛(あい)する、がんこな百姓たちが、いつまでもあとをたたないだろうとおっしゃったのをうかがいまして、それこそ、この地方(ちほう)の名誉(めいよ)を、いつまでも、もちつづけていくものだと思いました。なぜなら、土とともに働(はたら)く者のみが、その地方の評判(ひょうばん)をいつまでも保(たも)っていくことができるのですから。』」
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四月二十三日 土曜日
 ニールスは、空高くを飛んでいきました。下を見おろせば、エステルイエートランドの大平野(だいへいや)がひろがっています。ニールスは、こんもりとした森のあいだに見える、白い教会(きょうかい)の数(かず)をかぞえていましたが、すぐに五十になりました。それからあとは、ごちゃごちゃになって、ちゃんとかぞえることができなくなりました。
 たいていの農家(のうか)が、白塗(しろぬ)りの大きな二階建(かいだ)てでした。どの家も、いかにもりっぱに見えるので、ニールスは感心(かんしん)して、
「このあたりには、お屋敷(やしき)しかないところを見ると、お百姓(ひゃくしょう)はいないんだな。」と、ひとりごとを言いました、[#「言いました、」はママ]
 すると、すぐにガンの仲間(なかま)がいっせいにさけびました。
「ここのお百姓は、金持(かねも)ちのような暮(く)らしをしているんだよ! ここのお百姓は、金持ちのような暮らしをしているんだよ!」
 平野(へいや)の上では、氷(こおり)も雪(ゆき)も消(き)えて、もう春の仕事(しごと)がはじまっていました。
「あの畑(はたけ)の上をはっている、長いカニみたいなのは何だろう?」と、しばらくしてニールスがたずねました。
「すきと牡牛(おうし)だよ、すきと牡牛だよ。」と、ガンが答えました。
 牡牛は、畑の上をノロノロとあるいているものですから、動いているのがほとんどわからないくらいです。それを見て、ガンたちは、
「そこへいくのに来年(らいねん)までかかるぜ! そこへいくのに来年までかかるぜ!」と、牡牛にむかってさけびました。
 ところが、牡牛(おうし)たちは平気なものです。鼻(はな)づらを上にむけて、モウと大声で言いました。
「おれたちはな、おまえらみたいな宿(やど)なしが、一生かかってするよりも、もっといいことを一時間のうちにやってのけるんだぞ!」
 二、三の場所(ばしょ)では、馬にすきを引かせていました、[#「いました、」はママ]馬は牛よりも、ずっとキビキビ働(はたら)いていましたが、ガンたちは、つい、馬もからかわずにはいられませんでした。
「きみたちは、牡牛のすることなんかやって、はずかしくないのかい?」と、ガンたちはさけびました。
「おまえたちこそ、年(ねん)じゅう、のらくらしていて、はずかしくないのか?」と、馬はいななきかえしました。
 しかし、馬や牡牛は、畑で働いていましたが、納屋(なや)の前の庭(にわ)では、牡羊(おひつじ)がぶらついていました。この羊は、近ごろ毛を刈(か)りとられたために怒(おこ)りっぽくなっていて、小さな子どもを押(お)したおしたり、犬を犬小屋へ追(お)いかえしたりして、まるでその庭が、じぶんひとりのもののような顔をして、いばってあるきまわっていました。
「羊さん、羊さん、あんた、毛はどうしたの?」と、そのとき、牡羊(おひつじ)の上に飛んできたガンたちがたずねました。
「ノルチェーピングの羊毛工場(ようもうこうじょう)へ、やっちゃったよお!」と、牡羊があとを長くひっぱって、答えました。
「羊さん、羊さん、あんた、角(つの)はどうしたの?」と、ガンたちが、またたずねました。
 ところが、この牡羊は、角なしなので、角のことをきかれるのが何よりもくやしいのです。それで、すっかり腹(はら)をたてて、しばらくは、めちゃめちゃに駈(か)けまわったり、空(くう)をついたりしました。
 いなか道を、ひとりの男が、スコーネ産(さん)のブタのむれを追いながらやってきました。まだうまれて、二、三週間(しゅうかん)ぐらいの子ブタたちでしたが、これから売(う)られるところでした。みんなは小さいけれども、勇(いさ)ましくあるいていました。そして、たがいに助(たす)けをもとめようとでもするように、ぴったりとかたまりあっていました。
「ブウ、ブウ、ブウ、ぼくたちは、小さいうちに、おとうさんとおかあさんに別(わか)れてしまった。ブウ、ブウ、ブウ、こんなあわれなぼくたちは、いったいどうなるんだろう?」と、子ブタたちは言いました。
 ガンたちも、こんなあわれな生き物をからかう気にはなれません。
「心配(しんぱい)しないでもだいじょうぶ。なんとかなるよ。」と、ガンたちはさけびながら、飛びすぎました。
 ガンたちは、平地(へいち)の上を飛ぶときぐらい、楽(たの)しいことはありません。そんなときには、農場(のうじょう)から農場へと飛んでいっては、つぎつぎに家畜(かちく)をからかってやるのです。
 ニールスがこうして平野(へいや)の上を飛んでいたとき、ふと、だいぶまえに聞いた話を思いだしました。はっきりとは思いだせませんが、なんでも、それは女の人の着物(きもの)のことでした。その着物は、半分(はんぶん)は金(きん)で織(お)ったビロードでできていて、もう半分は、灰色(はいいろ)の手織(ており)の布(ぬの)でできていました。けれども、その着物を持っている人は、灰色の布のほうに、たくさんの真珠(しんじゅ)や宝石(ほうせき)をかざりつけて、金のビロードのほうよりも、美しくりっぱに見せていたという話でした。
 いま、ニールスが、エステルイエートランドを見おろしたとき、その手織(ており)の布(ぬの)を思いだしました。エステルイエートランドは、大きな平野(へいや)ですが、北と南にむかって、こんもりとした森の茂(しげ)っている山がのびています。その二つの山並(やまなみ)は、朝の光を受けて、まるで、黄金(こがね)のヴェールにつつまれているように、青くキラキラと輝(かがや)いていました。いっぽう、平野そのものは、冬のなごりの裸(はだか)の畑(はたけ)がつづいているばかりなので、灰色の手織の布よりも美しいとは言えませんでした。
 けれども、人びとは、この平野が豊(ゆた)かで、親切(しんせつ)なのに、満足(まんぞく)したものでしょう。できるだけこれを飾(かざ)りたててやろうとしました。ニールスがガチョウのせなかから見おろしますと、町や、農場(のうじょう)や、教会(きょうかい)や、工場(こうじょう)や、お城(しろ)や、停車場(ていしゃじょう)などが、大小さまざまの飾(かざ)りもののように、まきちらされているように見えました。屋根(やね)は、お日さまの光をうけて、キラキラと輝き、窓ガラスは、宝石(ほうせき)のように、きらめいていました。黄色(きいろ)い、いなか道や、ぴかぴかした鉄道線路(てつどうせんろ)や、青い運河(うんが)などが、村々のあいだを、縫(ぬ)いとりしたように走っていました。リンチェーピング市は、宝石のまわりに真珠(しんじゅ)をはめこんだようなぐあいに、その伽藍(がらん)のぐるりを取りまいていました。農園(のうえん)はブローチかボタンのように見えました。あまり整然(せいぜん)と飾りたててはありませんが、その美しさは、いつまで見ていてもあきることはありませんでした。
 ガンたちは、オムベルイ地方(ちほう)を去(さ)って、イエータ運河(うんが)にそって東に飛びました。ここでは、夏のためのじゅんびをしていました。人夫(にんぷ)たちが運河の堤(つつみ)をなおしたり、大きな水門(すいもん)にタールを塗(ぬ)ったりしていました。
 どこをながめても、人びとは気もちよく、春をむかえようとして、いそがしそうに立ち働(はたら)いていました。町なかもやっぱりそうでした。家の外では、左官(さかん)やペンキ屋が、足場(あしば)をきずいて、家のまわりを塗(ぬ)っていますし、中では女中(じょちゅう)たちが、窓ガラスをきれいにふいています。港(みなと)では、帆船(はんせん)や汽船(きせん)をさかんに修理(しゅうり)しています。
 ノルチェーピングで、ガンたちは平野(へいや)をはなれて、コルモールデンのほうにむかって飛びました。しばらくのあいだ、がけっぷちをうねったり、絶壁(ぜっぺき)の下を通っている、けわしい旧道(きゅうどう)について進んでいきました。と、とつぜん、ニールスが鋭(するど)いさけび声をあげました。ニールスはガチョウのせなかにまたがって、足をぶらぶらやっているうちに、片(かた)っぽうの木靴(きぐつ)がぬげてしまったのです。
「おい、モルテン、モルテン! 靴(くつ)がぬげちゃったよォ!」と、ニールスはさけびました。
 ガチョウは、すぐにむきをかえて、地上(ちじょう)におりていきました。ところが、ぐうぜんにも、ふたりの子どもが、その道をあるいてきて、落(おと)したニールスの靴をひろいあげてしまいました。それと見るや、ニールスはあわてて、
「モルテン、モルテン!」と、さけびました。「また上へ飛ぶんだよ! おそすぎたんだ! あの靴(くつ)はひろわれちまったよ!」
 下の道では、ガチョウ番(ばん)のオーサと弟のマッツが、空から落ちてきた、ちっぽけな木靴(きぐつ)を見ながら立っていました。
 オーサは、しばらくだまったまま、この拾(ひろ)い物のことを考えていました。それから、ゆっくりと、考え考え言いました。
「マッツちやん[#「マッツちやん」はママ]、あんたおぼえている? ほら、あたしたちがエーヴェードスクローステルを通ったとき、農家(のうか)の人たちが、職人みたいに、革(かわ)の半(はん)ズボンに、木靴(きぐつ)をはいた小人(こびと)を見たって言ったでしょう? それからさ、ヴィットシェーヴレにいったときには、木靴(きぐつ)をはいた小人(こびと)がガチョウのせなかに乗(の)って飛んでいくのを見たって、女の子が話してたじゃないの? それにね、マッツちゃん、あたしたちだって、家へ帰ったとき、それとおなじかっこうをした小人が、ガチョウのせなかに乗って飛んでいくのを見たじゃないの? いまこの木靴を落して、飛んでいったのは、それとおなじ小人(こびと)じゃないかしら?」
「うん、きっとそうだよ。」と、マッツは言いました。
 ふたりは、木靴をさかんにひっくりかえしては、珍(めず)らしそうにながめていました、[#「いました、」はママ]だって、小人の木靴が、道に落ちているなんてことは、めったにありませんもの。
「お待ちよ、マッツちゃん!」と、オーサがさけびました。「こっちがわに、なにか書いてあるよ。」
「あっ、ほんとうだ。でも、ずいぶんちっぽけな字だね。」
「あたしに見せてごらん! ええと――ええと、『西ヴェンメンヘーイのニールス・ホルゲルッソン』」
「こんなふしぎなことってあるかねえ!」と、マッツが言いました。
第一編 おわり
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 さて、みなさん、ニールスは、ガンのむれといっしょに目ざすラプランドまでいき、それからまたなつかしいおとうさん、おかあさんの家まで、ぶじに帰ってくることができたでしょうか。「ニールスのふしぎな旅」続編(ぞくへん)のあらすじを、つぎにご紹介(しょうかい)いたしましょう。

 ニールスとガンのむれは、それからも空の旅(たび)をつづけました。みんながスウェーデンの都(みやこ)のストックホルムの上空(じょうくう)へ飛んできたときには、もう五月にはいっていました。それまでにも、ニールスはいろいろな土地にいって、その土地の古い伝説(でんせつ)を聞いたり、大きな町や都会(とかい)を見物(けんぶつ)したり、美しい景色(けしき)を楽(たの)しんだりしてきました。それからまた、いまにもクマに食(く)われそうになりながら、そのクマが人間にねらわれていることを教えてやって、危(あぶな)いところを救(すく)ってやったり、もと羊飼(ひつじか)いをしていたオーサとマッツのきょうだいが凍(こお)りついた湖(みずうみ)の上を歩いているとき、きゅうに氷がとけはじめて、ふたりがどうしていいかこまっているのを助けてやったり、かずかずのりっぱな行(おこな)いもしてきました。
 五月六日の朝、ガンのむれが朝霧(あさぎり)をついて、メラール湖(こ)の上を飛んでいくと、湖の上に高い塔(とう)や、長い窓(まど)ガラスのある家々が見えてきました。けれども、流れる霧のために、そのような景色(けしき)はすぐまたかくれてしまいました。なにもかもが水の上に静かに休(やす)らっているようでした。やがて、お日さまの光がすこしもれてきますと、霧はバラ色にそまりました。そして、あるいは青く、あるいは赤く、あるいは黄色く、色さまざまに輝(かがや)きながら流れていきました。下のほうに見える家々は、お日さまの光ででもできているように、キラキラと輝き、窓ガラスや高い塔は、火のように赤くもえていました。まるで、この世のものでないようなながめでした。この「水の上に浮(う)かぶ都(みやこ)」こそ、ストックホルムだったのです。
 ところが、ここでニールスはガチョウのせなかから落(お)っこちて、猟師(りょうし)につかまってしまいました。でも、さいわい、ストックホルムのスカンセンという公園(こうえん)の番人(ばんにん)のおじいさんにもらわれて、一月(ひとつき)ばかりその公園の中でくらしました。それから、そこの動物園につかまっていたゴルゴという大ワシを助(たす)けてやり、そのせなかに乗って、ガンのアッカたちのあとを追ったのでした。
 それからは長い旅がつづきました。森また森、山また山の上を飛びつづけて、オンゲルマンランドやヴェステルボッテンをすぎて、北へ北へと進みました。この北の地方には、スウェーデンの国にとっていちばんだいじな森林(しんりん)や鉱山(こうざん)がたくさんありました。

 ニールスはいつまでもつづく同じような景色(けしき)にあきあきして、ワシのせなかでうとうとしはじめました。そうして、いつのまにか、ほんとうに寝(ね)こんでしまいました。やがて目がさめてみますと、どうやら谷間の奥(おく)にいるようでした。あたりを見まわしても、大ワシのゴルゴの姿(すがた)がどこにも見えません。そういえば、いよいよラプランドにきたよ、とゴルゴが言っていたっけ。じゃあ、このへんにアッカたちがいるのかもしれない。ニールスはこう思って、みんなをさがしに、そろそろと歩きだしました。
 六月十九日の朝早くのことです。谷間(たにま)はひっそりとしていて、まだお日さまはのぼっていませんでした。ニールスが二あし三あしいくかいかないうちに、なんだかきれいなものが目にはいりました。近よってみますと、それは草むらの巣(す)の中にいるメスのガンでした。そばには、オスのガンが立っています。気がついてみれば、草むらや地面(じめん)のくぼみに、あっちにもこっちにも、ガンの巣がいっぱいありました。ガンたちはまだみんな眠(ねむ)っていました。久(ひさ)しぶりにガンの姿を見たニールスは、うれしくてうれしくてたまりません。ふとむこうを見ますと、草のかげに白いものが見えます。ニールスは胸(むね)をおどらせながら、かけよりました。見れば、細いヤナギの草むらの中に、あのかわいらしいダンフィンが卵(たまご)をだいているではありませんか! そばには、白ガチョウのモルテンが、ダンフィンを守(まも)るようにして、立っています。ああ、なつかしいモルテンに、やっとめぐりあえたのです! 思わずしらず、熱(あつ)い涙(なみだ)がこみあげてきました。アッカはと見れば、ずっとむこうの、いちだんと高いところにすわっています。まるで、谷じゅうを見はっているようでした。
「アッカおばさん、おはよう!」と、ニールスはかけよりながらさけびました。
 アッカは、ニールスの姿を見つけるが早いか、飛んできました。そして、うれしそうにニールスにとびついて、くちばしで頭のてっぺんからつま先(さき)まで、なでまわしました。
 そこで、ニールスは、みんなと別(わか)れてからのことをすっかり話しました。そして、
「それから、アッカおばさん、いま話したスカンセン公園(こうえん)にはね、ズルスケのやつもつかまってたんですよ!」と、話してきかせました。「あいつはぼくたちをさんざん苦(くる)しめたけど、あそこで、しょんぼりしているところを見たら、ほんとにかわいそうになりましたよ。そのうちに、ぼく、ラプランド犬(けん)から、ひとりの男がキツネを買いにきているって話を聞いたんです。その人はどこかの島に住(す)んでるんだそうですけど、なんでもその島ではキツネをみな殺(ごろ)しにしてしまったんで、そのため、ネズミがうんとふえてきたんですって。それで、こんどは、ネズミをたやすために、またキツネをつれていくことにしたんですって。ぼく、その話を聞いたから、すぐにキツネのおりのところにとんでいって、ズルスケに言ってやりました。
『おい、ズルスケ、もうすぐ、ここへキツネを買いにくる人があるから、その人がきたら、おまえ、かくれたりしないで、おとなしくつかまるんだよ。そうすりゃ、また自由(じゆう)になれるから。』
 そしたら、ズルスケのやつ、ぼくの言うとおりにしたんです。だから、いまごろはその島へいって、きっと自由にとびまわっているでしょうよ。どうですか、アッカおばさん、ぼくのやったことはいいことでしょうか?」
「ああ、わたしだってそうしたろうよ!」と、アッカは満足(まんぞく)そうに答えました。

 ラプランドの夏もすぎて、いつのまにか、九月の末(まつ)になりました。地上は見わたすかぎり、いちめんの雪におおわれて、まっ白です。雨や嵐(あらし)の日が多くなりました。たまにお天気の日があっても、すぐに氷(こおり)がはってしまいました。こうなっては、もうこのラプランドに、いつまでも、ぐずぐずしているわけにはいきません。さいわい、ひなどりたちもすっかり大きくなって、はねも強くなりました。そこで、十月一日の朝早く、アッカを隊長(たいちょう)として、三十一羽(わ)のガンが南をめざして飛びたちました。くるときいっしょにいた六羽(わ)の若いガンがいなくなって、そのかわりに、新しく生まれたガンが二十二羽加わっていたのです。若いガンたちは、さいしょは旅になれないので、もうくたびれちゃったとか、おなかがへったとか、ブツブツ不平(ふへい)ばかりこぼしていましたが、だんだんなれるにつれて、みんなといっしょに元気よく飛んでいきました。
 みんなは南へ南へと飛びつづけ、イエムトランドをすぎ、ダラルナをへて、やがてヴェルムランドにはいりました。こんどもいったときと同じように、ニールスはいくさきざきで、珍(めず)らしい伝説(でんせつ)を聞いたり、美しい風景(ふうけい)をながめたりしていました。こうして、日一日と生まれ故郷(こきょう)に近づくのを心から楽(たの)しみにしていました。ところが、そうしたある日のこと、カラスのバタキーから思いがけないことを聞かされました。ニールスは、いまのいままで、白ガチョウをぶじに家までつれていってやりさえすれば、自分は魔法(まほう)をとかれて、もとの人間にもどれるものとばかり思っていました。ところが、どうでしょう。ほんとうは、白ガチョウを家へつれていっても、ニールスのおかあさんがガチョウを殺さなければ、ニールスは人間にもどれないというのです。それを聞いたときの、ニールスの驚(おどろ)きはどんなだったでしょう! あのモルテンを、どうしてそんなかわいそうなめにあわせることができましょう! そうかといって、このままでは、じぶんは人間にもどることはできません。ニールスの心は、すっかり暗(くら)くなってしまいました。

 十月六日、ガンたちはクラレルフ川にそって、ムンクフォルスまで飛びました。そこからフリューケン湖(こ)をさして西にむかって飛んでいきましたが、まだ湖(みずうみ)にいきつかないうちに、もう暗くなりはじめてしまいました。ガンたちは森の中の沼地(ぬまち)に泊(と)まり場所を見つけて、そこに舞(ま)いおりました。けれども、ニールスにはねるような所がありません。そこで、ただひとり森をぬけて、やがて、とある屋敷(やしき)のまえにでました。
 あたりに人の姿が見えないのをさいわい、ニールスは庭の小道のそばにあるリンゴの木から、まっかなリンゴをもぎとりました。そして、その木の下の芝生(しばふ)に腰(こし)をおろして、小さく切りはじめました。と、そのとき、頭の上でかすかなうなり声がしたかと思うと、一羽(わ)のフクロウが舞(ま)いおりてきました。ニールスは、ここはどこですか、ときいてみました。すると、フクロウは、ここはモールバッカというお屋敷(やしき)だよ、と答えました。ところが、このフクロウは、こんやはさっぱり獲物(えもの)がなくて、プンプン腹(はら)をたてていたところでした。で、このチビスケをやっつけてやれとばかりに、ニールスのすきをうかがって、さっと襲(おそ)いかかりました。ニールスは両手でフクロウをふせぎながら、助けてえ! と声をかぎりにさけびました。
 ここで、ちょっとお話がかわります。ニールスがガンたちといっしょに空の旅をつづけていたちょうどその年に、ひとりの小説家(しょうせつか)のおばさんが、小学校で使う読本(とくほん)にスウェーデンのことを書きたいと思って、いっしょうけんめい考えていました。このおばさんのつもりでは、クリスマスからつぎの年の秋までのことを、いろいろおもしろく書きたいと思っていたのです。それが、まだ一行(ぎょう)も書けないので、すっかりこまってしまいました。そしてとうとう、「子どもたちのためになる、まじめな本、それもウソをひとことも書かない本、そういうような本は、わたしにはとても書けそうもない。だれかほかの人に書いてもらうほうがいい。」と、思いました。でも、そうは思っても、おばさんは、なかなかあきらめることができませんでした。そのうちに、ふと、こんなにじぶんが書けないのは、年(ねん)がら年(ねん)じゅう、壁(かべ)だの街路(がいろ)だのしか目にはいらない、こういう町なかにいるからじゃないだろうか。いなかへいって、畑(はたけ)や森でも見れば、うまく書けるかもしれない、と思いつきました。
 このおばさんはヴェルムランドうまれの人でした。それで、まず故郷(こきょう)のヴェルムランドのことから書いてみようと思いました。あそこにはおもしろい話や行事(ぎょうじ)がたくさんある。クリスマスや、お正月や、お祭(まつ)りのようすなどを書けば、子どもたちはきっと喜(よろこ)ぶだろう。おばさんはそう思って、ペンを取りました。こういうことを、おばさんははっきりとおぼえていたのです。それなのに、いざ書こうとすると、どうしてもペンが進まないのです。これは、どうしても故郷に帰るよりほかはありません。
 けれども、おばさんのうまれた家屋敷(いえやしき)は、いまでは、知らない人の手にわたっていました。ですから、じぶんのいなかとはいえ、気軽(きがる)に帰るわけにはいかなかったのです。もちろん、おばさんがたずねていけば、いまいる人たちも、きっと気もちよくもてなしてくれるでしょう。けれど、おばさんとしては、その人たちと話をしなければならないのが、ひどくおっくうでした。
 そうはいっても、おばさんはうまれた家がなつかしくてたまらず、思いきって出かけていきました。屋敷(やしき)の入口で馬車をおりたときは、もう夕闇(ゆうやみ)がたちこめていました。おばさんは大きなカエデの木の下にたたずんで、あたりを見まわしました。すると、ふしぎなことに、ハトのむれが、おばさんの足もとにバラバラと舞(ま)いおりてきました。ハトというものは、お日さまが沈(しず)んでからは飛ばないものですが、こんやは、あんまりお月さまが美しいので、ついさそいだされて、飛びだしてきたのにちがいありません。それとも、おばさんをなつかしがって、迎(むか)えにきてくれたのでしょうか。おばさんのほうでもハトの姿(すがた)を見て、なつかしそうに話しかけました。
 やがて、ハトが飛んでいったとき、庭のほうでキャッというさけび声がしました。おばさんがかけよってみますと、ちっぽけな小人(こびと)が、フクロウを相手(あいて)にむちゅうで戦(たたか)っているではありませんか。おばさんはあっと驚(おどろ)いて、思わずその場(ば)に立ちすくんでしまいました。けれども、小人のさけび声が、ますますあわれっぽくなってきましたので、おばさんは、ふたりのあいだに分けてはいりました。すると、フクロウはすばやく木の上に飛びあがりましたが、小人のほうはそのままそこに立ちどまっています。
「おかげで助(たす)かりました。ありがとう、おばさん!」と、その小人は言いました。「だけど、フクロウのやつがあそこで見はってるから、ぼく、帰れません!」
「じゃ、あんたの家まで、わたしが送(おく)っていってあげればいいでしょう。」と、おばさんは言いました。
「ぼく、ほんとうは、一晩(ひとばん)じゅうこの家にいるつもりだったんです。」と、小人は言いました。「でも、どこか安全(あんぜん)な寝場所(ねばしょ)を教えてくだされば、あしたの朝まで家に帰らなくってもいいんですけど!」
「わたしに、寝場所を教えてくれって? それじゃ、あんたはここに住んでいるんじゃないの?」
「ああ、おばさんはぼくをほんとの小人だと思ってるんですね。ぼくは、おばさんとおんなじ人間なんですよ。こんな姿になってはいますけど。」
「まあ、驚(おどろ)いた! いったい、どうしたわけなの? 話してちょうだいな!」
 そこで、ニールスはいままでの冒険(ぼうけん)を話しはじめました。話がすすむにつれて、おばさんはますますびっくりしました。なんという珍(めず)らしい話だろう! おばさんは心の中で喜(よろこ)びました。
「まあ、ガチョウのせなかに乗って、スウェーデンじゅうを旅行(りょこう)してまわった子どもに会(あ)うなんて、あたしはなんて運(うん)がいいんでしょう!」と、おばさんは思いました。「この子の話してくれたことをそのまま書けば、本になるわ。もう、これで心配はいらない! やっぱり家に帰ってきてよかったこと!」

 それから、ガンたちはすこし廻(まわ)り道をして、一月(ひとつき)ばかりたった十一月の八日に、いよいよヴェンメンヘーイに近づきました。
 霧(きり)がうっすらとかかって、空はどんよりと曇(くも)っていました。みんなが昼寝(ひるね)をしているとき、アッカがニールスのそばにやってきて、
「とうぶんお天気がいいようだから、あしたあたり、バルト海(かい)をこそうと思っているよ。」と、言いました。
「ええ、いいですとも。」と、ニールスは答えました。ニールスとしては、白ガチョウが殺(ころ)されるくらいなら、じぶんはこのまま人間にはもどらずに、みんなといっしょに旅(たび)をつづけよう、と腹(はら)をきめていたのです。とはいうものの、こうして、家の近くまできてみますと、やっぱり、おとうさん、おかあさんはじめ、なにもかもがなつかしくてたまりません。
「だが、おまえの家は、ここからすぐ近くなんだよ。遠い旅(たび)に出るまえに、一ど家へ寄(よ)っていったらどうだい? 小人の話じゃ、おまえがいなくなってからというもの、おとうさんは運(うん)が悪(わる)くって、借金(しゃっきん)はかさなるし、だいじな牝牛(めうし)は二頭(とう)までも売ってしまう。それに、せっかく買った馬は、びっこで役(やく)にたたないってことだし、ひょっとすると、畑や家までも手ばなさなければならないかもしれないということだよ。だから、おまえは家へ帰って、おとうさんやおかあさんに元気をつけてあげなければいけないと思うね。ガチョウのことなら、ここにおいていけば、だいじょうぶさ!」
「ほんとに、そうですね!」と、ニールスは元気よく答えました、[#「ました、」はママ]そう言われたのが、ほんとうは、どんなにかうれしかったのです。
「ところで、おとうさんは鉄砲(てっぽう)を持っているかね?」と、アッカはたずねました。
「持ってますとも。その鉄砲があったからこそ、ぼくはいつかの日曜日に教会(きょうかい)へいかないで、家に残(のこ)っていたんですよ!」と、ニールスは答えました。
「それじゃ、家へはひとりでいっておいで。あしたの朝、スミューエ岬(みさき)で待ってるよ!」と、アッカは言いました。
 ニールスが家に着いたとき、庭にはだれもいませんでした。そこで、さっそく牛小屋をのぞいてみました。
「こんちは、マイルース!」と、ニールスはさけびながら、牛のそばへ走りよりました。「おとうさんとおかあさんはどんなふうだい?」
「あんたがいっちまってからは、苦労(くろう)のしどおしさ! やっとの思いで買った馬は、病気で役にもたたないしね。とにかく、あんたのことを思って、気のどくなほど、悲(かな)しんでいるよ!」と、マイルースは答えました。
 ニールスはたまらなくなって、牛小屋を出ると、こんどは馬小屋にいきました。
「きみは病気だっていうけど、どこが悪(わる)いの?」と、いかにも、じょうぶそうな馬をながめながら、たずねました。
「病気ってわけじゃないんだけど、ひずめのあいだにとげみたいなものがささっちゃって、そいつが痛(いた)いもんだから歩けないんだよ!」と、馬は悲しそうに言いました。
「どれ、見せてごらん!」ニールスはこう言って、ひずめの上に、なにやらきざみつけました。
 そのとき、中庭のほうで人声(ひとごえ)がしました。おとうさんとおかあさんが帰ってきたのです。まもなく、おとうさんは馬小屋にやってきて、馬のどこが悪いのか、もう一ど調(しら)べようと思って、びっこをひいているほうの足を高く上げてみました。と、ひずめの上に、なにかきざみつけてあるではありませんか。「おや、なんだろう?」おとうさんはびっくりしてさけびました。そこには、「ひずめのあいだのとげをぬけ!」と、書いてあったのです。
 そのとき、おかあさんがかけこんできて、うれしそうにさけびました。
「あなた、あなた、白ガチョウが帰ってきましたよ!」
 ガチョウのモルテンは、もとの住(す)みかをダンフィンに見せたくて、帰ってきたところを、ニールスのおかあさんにつかまってしまったのです。
「そうかい、こっちでも馬の病気のわけがわかったところだ!」と、おとうさんもうれしそうに言いました。
「ああ、やっと、わたしたちにも運(うん)がむいてきましたね!」と、おかあさんは言いました。「ちょうど、もうじきお祭(まつ)りだから、さっそくあのガチョウを殺(ころ)しましょうよ!」
 しばらくすると、台所(だいどころ)のほうから、「助けてえ! オヤユビさん、助けてえ!」というモルテンの悲(かな)しいさけび声が聞こえてきました。
 ニールスは台所の戸口めがけて、いっさんに走っていきました。ガチョウが殺されれば、じぶんが人間にもどれるなんてことは、いまはすっかり忘れていました。ただ、長い間いっしょに苦労(くろう)してきたガチョウを救(すく)いたい気もちでいっぱいだったのです。
「おかあさん、おかあさん、ガチョウを殺しちゃいけない!」ニールスは気ちがいのようにどなりながら、部屋(へや)の中にとびこみました。
「まあ、おまえはニールス! ニールスじゃないの! なんて大きく、なんてりっぱになったんでしょう!」と、さけんだおかあさんの声は、うれしさにふるえていました。そうです、このしゅんかんに、小人の魔法(まほう)がとけて、ニールスはりっぱな若者(わかもの)になっていたのです。

 あくる朝早く、ニールスはガンたちと約束(やくそく)しておいた海岸(かいがん)にいきました。きょうはまたすばらしいお天気で、渡(わた)り鳥のむれがひっきりなしに飛んでいきます。
 やがて、アッカたちのむれが飛んできました。みんなはニールスに気がつかないのか、そのままいきすぎようとします。ニールスはあわてて呼びとめようとしました。でも、どうしたことか、きょうは舌(した)がこわばって、ちっとも動きません。アッカが空で呼んでいるのが聞こえても、何を言っているのか、さっぱりわかりません。
 ニールスは、がまんができなくなって、「ここだよォ! ここだよォ!」と、帽子(ぼうし)を振(ふ)りながら、さけびました。
 ところが、それはかえってガンのむれをこわがらせてしまったのでしょう。みんなはさっと高く舞(ま)いあがって、海のかなたへと飛んでいってしまいました。
 けれども、すぐまたガンたちの羽(は)ばたきが聞こえてきました。アッカも、このままオヤユビくんとわかれるのがつらかったのです。みんなはニールスのまわりに舞(ま)いおりてきて、口ばしでニールスのからだをなでまわしました。
 それから、ニールスは長い間のすばらしい旅(たび)のお礼(れい)を言おうと思って、ガンたちに話しかけました。すると、ガンたちはきゅうに静(しず)かになって、「ああ、オヤユビくんはもう人間になってしまったんだ! だから、オヤユビくんにはこっちの言うことがわからないし、われわれのほうにもオヤユビくんの言うことがわからないんだ!」とでも言いたいように、ニールスのそばを離(はな)れました。
 やがて、楽(たの)しそうに鳴きさけぶガンのむれにまじって、アッカたちのむれだけは、さびしそうに飛んでいきました。ニールスは、いつまでも、いつまでもそのあとを見送(みおく)っていました。そして、もう一ど、ガンたちといっしょに飛びまわることのできる小人になりたいような気がするのでした。
了

底本:「ニールスのふしぎな旅 上」岩波少年文庫、岩波書店
   1953(昭和28)年5月15日第1刷発行
   1980(昭和55)年5月25日第9刷発行
底本:「ニールスのふしぎな旅 下」岩波少年文庫、岩波書店
   1954(昭和29)年1月20日第1刷発行
   1980(昭和55)年5月10日第8刷発行
※「チビさん」と「ちびさん」、「ローソク」と「ロウソク」、「エンチェーピング」と「リンチェーピング」と「ノルチェーピング」の混在は、底本通りです。
※著者名は底本の奥付では、Selma Lagerlfです。
※原作は、第一巻と第二巻とに分かれている物語です。入力に使用した底本は、訳者矢崎源九郎氏の方針により「第一巻を、上巻と下巻とに分けて訳すことにし、第二巻のほうはあらすじだけを下巻のおしまいにつけて」いるものとなっています。このテキストは底本の上巻と下巻を合わせたものです。
入力:sogo
校正:チエコ
2019年10月28日作成
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