八が頭の中は混沌としてゐる。飲みたい酒の飲まれない苦痛が、最も強い感情であつて、それが悟性と意志とを殆ど全く麻痺させてゐる。
八の頭の中では、空想が或る光景を画き出す。土間の隅に大きな水船があつて、綺麗な水がなみなみと湛へてある。水道の口に嵌めたゴム管から、水がちよろちよろとその中に落ちてゐる。水の上には小さい樽が二つ三つ浮いてゐる。水船のある所の上に棚が弔つてあつて、そこにコツプが伏せてある。そのコツプがはつきり目の前にあるやうに思はれるので、八はも少しで手をさし伸べて取らうとする処であつた。
いつまでもここにかうして立つてはゐられないといふこと丈は、八にも分かつてゐる。そんならどこへ行つたら好からう。当前なら内へ帰るべきであらう。店賃が安いので此頃越して来た、新しいこけら葺から雨の漏る長屋である。併しそこは恐ろしい敵がゐる。八はいつでも友達と喧嘩をすることを憚らない。何故といふに、友達なら、打つか打たれるか、兎に角勝負が附く。あのこけら葺に立て籠つてゐる敵はさうは行かない。いくら打つても敲いても、勝負が附くといふことがない。彼は喊声を上げて来る。打つて※[#「やまいだれ+澑のつくり」、U+7645、249-上-21]を拵へる。※[#「やまいだれ+澑のつくり」、U+7645、249-上-21]が平になる。又喊声を上げて来る。又※[#「やまいだれ+澑のつくり」、U+7645、249-上-22]を拵へる。又それが平になる。Sisypos の石は何度押し上げても又転がり落ちて来るのである。八が此敵に向ふことを敢てするのは、腹に酒のある間ばかりである。酒がなくなつては、どうも敵陣に向ふことが出来ない。実に敵といふ敵の中で山の神ほど恐ろしい敵はない。
八はぼんやりして立つてゐる。身の周囲の闇は次第に濃くなつて来て、灰色の空からをりをり落ちて来る雨が、ひやりと頭の真中の禿げた処に当たる。
停車場に電車が来て止まつた。軍人の三人連が改札口から出て、八が立つてゐる方へ、高声に話しながら来る。外には誰も降りなかつたと見えて、電車はその儘出てしまつた。
先に立つて行く軍人の雨覆が八の絆纏の袖と摩れ摩れになつて、その軍人は通り過ぎた。八は子供の時に火傷をして、右の外眦から顳に掛けて、大きな引弔があるので、徴兵に取られなかつた。それで軍人の階級なぞは好く分からない。併し先に立つて行つた四角な顔の太つた男は、年も四十恰好で、大佐か中佐かだらうといふこと丈は分かつた。襟章も赤や緑のやうな際立つた色ではなかつたから、砲兵であつたかも知れない。その男は八の方を見返りもせずに行つた。跡から行く二人は皆赤い襟章で、一人は赭顔の図抜けて背の高い男、一人は締まつた体で、苦味走つた顔をした男である。二人共先に行つた男と同じ位な階級の人らしい。どれも八の顔を見て通つた。中にも苦味走つた顔の男は、巡査の人を見るやうな見方をしたと思つたので、八は癪に障つたが、怯れ気が出て下を向いてしまつた。
三人連は矢張話しながら新屋敷の方へ向いて行く。坂の途中からは真暗であるが、慣れた道と見えて巧に水溜りを避けて行く。後から見れば長靴の拍車が光る。八は殆ど無意識に跡に附いて歩き出した。八も此道は目をねむつても歩けるのである。
踏切を二度越した。三人連は、八には読めないが、荒川と書いた点燈会社の軒燈の点つてゐる、黒い冠木門のうちへ這入つた。門の左手にある別当部屋から別当が出て、「お帰」と叫んだ。四角な顔の軍人は主人と見えて、先に立つて二人を案内した。玄関には台附のランプが点して置いてある。十二三のと八つばかりのと、男の子が二人走つて玄関に出て、お父様の右左に取り附く。二人の客はいつも来る人と見えて、何か親しげに子供に物を言ふ。主客とも雨覆を脱いで長押の釘に掛けて、奥に這入つて行つた。別当は客の長靴を沓脱の石の上に直して置いて、主人の長靴を持つて自分の部屋に帰つたが、又すぐに出て来て、門の扉を締めた。
八は向側の、五爪竜の絡んでゐる杉垣の処に雨に濡れながら立つて、ぼんやり此様子を見てゐたが、別当が門を締めに出て来るとき、殆ど無意識にぬかるみ道を歩き出した。併し門が締まつてしまふと、八は又立ち留まつた。丁度立ち留まつた処に、矢張硝子の軒燈の附いてゐる、小さい門がある。これは荒川の家の筋向うになつてゐる、杉垣の家の門である。八はその屋根の下に這入つた。
荒川の屋敷は、別当部屋と、それに続いてゐる厩とが、往来に接して建ててあつて、其外は黒板塀で囲んである。八はぢつと其屋敷を見てゐると、今迄薄明の差してゐた別当部屋の窓が、忽ち真暗になつた。間もなく別当が門の潜を開けて、番傘をさして出て来て、八のゐる処と反対の方角へ行つてしまつた。
八の頭の中で、此時どこへ行かうかといふ問題が再び提起せられた。そして八はこの黒い板塀の中へ這入らうと思つた。八は自分では全く唐突にかう思つたやうに感じてゐるが、実はさうではない。閾の下の意識がこれまでに働いてゐて、その結果が突然閾の上に出たに過ぎない。八はどこへ行つて好いか分からずに、停車場脇の坂の下に立つてゐた。そこへ軍人が通りかかつたとき、八はそれに附いて歩き出した。其時八は此軍人と自分とに何か縁があるやうに感じたのである。そして軍人が家の中に隠れてしまふと、八は自分のたよりにするものを亡くしたやうに感じた。それと同時に別当の姿を見て此別当が自分と軍人との間に成り立つてゐる或る関係に障碍を加へるものであるやうに感じた。それから別当が出て行くのを見たとき、此障碍が除かれたやうに感じた。そしてかういふ感じが順序を追つて起つてゐる背後に、物を盗まうといふ意志が、此等の閾の下に潜んでゐる感じより一層幽に潜んでゐたのである。そこで今此黒塀の内へ這入らうと、はつきり思つたときには、物を盗まうといふ意志も、一しよに意識の閾の上に跳り出たのである。
八は往来を斜に横切つて、黒い冠木門に近づいた。潜を手で押すと、音もせずに開いた。八は門の内に這入つた。此時がたがたどしんといふ恐ろしい音がした。八はびつくりして背後の潜戸に手を掛けた。併し物音は馬が寝藁の上に転がつたのであつた。八は潜戸に掛けた手を離して、そこらを見廻した。玄関の、向つて右が竹垣で、其中は庭と見えて、側柏のやうな木の頭が二三本覗いてゐる。八は別当部屋の前を通つて左手へ廻つた。厩のはづれまで来ると、台所から明がさしてゐて、女の声が聞える。奥さんと女中とで何かしてゐるらしい。明に透かして見れば、厩のはづれから、向つて左隣の界に掛けて、一面の竹藪である。八は暫く様子を見てゐて、穿いてゐた下駄を脱いで、厩の簷下に置いて、竹藪の中に這入つた。そして左隣の垣に接した処を歩いて、明のさしてゐる間を通り越した。雨がざつざつと降つてゐるので、笹葉が落ちて積つてじくじくになつてゐる上を踏んでも、少しも音は聞えないのである。
竹藪の奥の詰まで来た。ここからは障子を脱してある八畳の間が見える。ランプの光は、裏の畠の界になつてゐる、臭橘の垣を照して、蜘の網に溜まつた雨の雫がぴかぴかと光つてゐる。主人も客も湯帷子に着更へて、縁側近く据わつて、主人と背の高い赭顔とが棋を打つのを、小男の客が見てゐる。八の内にもあるやうな脚炉から引き出した、四角な黒い火入から蚊遣の烟が盛んに立つてゐる。小男の客は、をりをりその側にあるブリキの罐から散蓮華で蚤取粉を撈ひ出して、蚊遣の補充をする。三人とも傍に麦酒のコツプを控へてゐる。縁の傍の土の上には手桶が一つ置いてあつて、それに麦酒瓶が冷してある。小男がをりをり三人のコツプに麦酒を補充する。口の開けてある瓶は、注いでしまふ度に栓をして、倒に閾に寄せ掛けて置くのである。八は妙な事をするものだと思つて見てゐる。
藪は随分繁つてゐるが、雨はどしどし漏つて来る。八は絆纏のぴつたり肌に引附いた上を雨に叩かれて、いやな心持がする。周囲を見ると、横手の垣と裏の臭橘の垣とが出合ふ処に、真黒に繁つてゐる、大きな木がある。椿の木らしい。八はその下へ這入つてしやがんだ。ここは雨が漏らない。好い塩梅だと思つてゐると、顔や足に蚊が喰ひ附く。叩き殺して遣りたいが、音をさせてはならないと思つて、さすつてゐる。蚊はそれを馬鹿にするやうに、逃げても又すぐに来て止まる。八は顔のまはりと、両足の踝の処とをかはるがはるさすつてゐる。
奥さんが何か持つて、勝手の方から出て来た。漬物を上げて来たのらしい。小男は、「これは恐縮」と云つて、奥さんの手から丼を受け取つた。主人は奥さんを顧みて、こんな事を言ふ。
「六畳に蚊屋を弔つたかい。」
「はい。弔りました。」
「子供はどうした。」
「四畳半に休ませてあります。」
「さうか。そんなら、もう用はないから、女中を寝かしてお前も寝るが好い。」
「はい。それでは、どなたにも御免を蒙ります。」
石を一つ持つて考へ込んでゐた赭顔は奥さんにかう云つた。
「いや。何もかう度々宿舎をお引受ではお困でせう。あはゝゝ。」
「どう致しまして。一向お構申しませんで。」
こんな応対がはつきり聞える。奥さんは勝手へ引込んだ。暫くすると、勝手の戸を締める音がする。それから、障子か襖かを開けたり締めたりする音が二三遍聞えて、跡はひつそりした。時計の音がする。八が数へたら、十時であつた。
棋には主人が負けたらしい。寛げた襟の間に挟んであるハンケチを出して、額の汗を揩きながら、あはゝゝと大声に笑つてゐる。赭顔は大きな体をゆつたり構へて、にこにこしてゐる。今度は小男が赭顔の相手に出て来た。主人は起つて外を見た。丁度八と目を見合せるやうになつたが、固より藪の中が見える筈はない。八は少しも怯れたやうな気はしないで、却て主人を好い旦那らしいと思つた。主人は手桶に漬けてある麦酒の瓶を出して栓を抜いて、三つのコツプに注いで、自分は一息に飲み干した。八は覚えず唾を飲んだ。
今度の棋は前より余程手間取る様子である。小男の客は考へ込んでゐて、容易に石を下さない。主人は暫く見てゐたが、ついと立つて座敷の真中へ往つて、大の字に寝転んで、傍にある団扇を取つて、風を入れてゐる。頗る長い間隔を以て、ぱちりぱちりと云ふ石の音が、雨の音の間に聞えるばかりで、一座はひつそりする。
椿の木の下に這入つてからは、雨は殆ど全く漏らないので、八は着てゐる絆纏がひとりでに乾くやうに感じた。夜は更けて、相変らず蒸し蒸ししてゐるので、肌の冷つくのが、却て心持が好い。只蚊のうるさいのに難渋する。八は、もう大概にして廃せば好いと思つても、なかなかはかが行かないらしい。石の音の間隔は次第に延びるばかりである。小男は蚊遣をくべ足して、暫く腕組をして考へ込んでゐる。さうすると主人がひどい鼾声を掻き出した。小男は起つて主人の傍へ行つて揺り起した。
「寝ると風を引きます。」
「うむ。あゝ。寝たかなあ。あゝ。」
主人はむつくり起き上がつた。一寸寝たので大いに恢復したといふ風で、快活に碁盤の脇に出掛けて来た。
「やあ。まだちつとも戦況が捗つてをらんぢやないか。」
赭顔はゆつたり構へて、にこにこして主人の顔を見る。
「まだなかなか。」
小男の客は又局に対した。矢張容易には石を下さないのである。十一時の時計が聞える。
八は椿の木の下にしやがんで、辛抱強く荒川主客の様子を見てゐる。辛抱強くとは云ふものの、実は八の性分が性急でないから、さほどにじれつたがつてもゐない。明治三十七八年役には、よく待機陣地を守るといふ語が訓令なんぞに用ゐられた。八は余り待機陣地を守ることを苦にしないのである。只麦酒が主客の咽を通る度に、八は唾を飲み込んで我慢する。これが一番つらい。八はこんな事も思つて見た。縁側のはづれの処へ忍び寄つて、縁の下をあの手桶の傍まで行つて、瓶を取つて来ることは出来まいかと思つて見た。併し八も此計画の冒険に過ぎてゐるといふことを認めないわけには行かない。其上縦や首尾好く瓶を取つて来たとしても、栓を抜くのがむづかしい。兵隊になつて戦争に行つたものの話に、ロスケの残して置いた酒を飲むには、瓶の口を銃剣で打欠いたと云ふことだが、生憎瓶の口を欠くやうな物を持ち合せない。周囲には手頃の石もない。それに硝子瓶を壊せば音がする。八の頭にはこんな出来ない相談が往来してゐる。そして可笑しい事には、をりをりは何の為めにかうしてしやがんでゐるかといふことを、丸で忘れてしまつてゐるのである。そんな時には、ひどい雨だ、この椿の木でも無かつた日には災難だ、せめて上だけでも晴れれば好いなどと、泥坊らしくもない、のん気な事をも考へる。
赭顔と小男との勝負はなかなか附かない。麦酒は盛んに飲まれる。中にも主人は連りに満を引いてゐる。余り飲んだので、主人は小便がしたくなつたと見えて、便所に這入つた。便所は、八のゐる方角とは反対の、縁側のはづれにある。主人の咳払をして痰を吐いて小便をする音が聞える。八はその音を聞くと、自分も小便がしたくなつた。
八は小便がしたいと思ふと同時に、こんな事を考へた。あの軍人は酒を飲んで小便をする。己は酒も飲まずに小便をする。果ない身の上だといふやうな事を考へた。そのうち小便はいよいよ我慢出来なくなつた。併しここで小便をしたら、音がするだらう。雨も生憎少し小粒になつてゐる。猶更小便の音が引立つわけだ。どうしたものかと考へた末、八は一生の智恵を絞り出して、椿の木の幹にしかけた。それでもをりをり逸れてしゆつと云ふことがある。八はその度にびつくりしたが、幸に誰も気が附かなかつた。
八は此時こんな事を思ひ出した。泥坊に這入るには、糞をして置いて這入るものだといふことを聞いたことがある。そこで序にして見ようかと思つたが、したくなかつた。作者が考へて見るのに泥坊が糞をして其上に盥を伏せて置くといふのは、厭勝には相違ないが、さういふ厭勝が出来たのには、も少し深い原因があるらしい。物を盗みに人の家に這入るときには、神経の刺戟が不随意に腸の蠕動を起すことがある。丁度学生が試験を受けに出るときに、どうかすると便意を催すのと同じ事である。三十七八年役に南山を攻撃した兵卒の中に、敵の砲弾を受けながら、高梁の畑で糞をしたものがある。新聞には大胆な振舞として書いてあつた。あれも矢張神経の刺戟である。八は総ての精神作用が鈍くなつてゐるので神経の刺戟も何も起らない。それで糞をしたくないのである。
十二時の時計が聞えた。暫くしてから、棋の勝負が附いた。今度は小男が勝つたと見えて、赭顔が笑つて五分苅頭をさすつてゐる。主人は何か思ひ附いたやうに、席を立つた。
「待て待て。今度は己が遣る。併し麦酒が尽きたから、代用品を持つて来るぞ。」
かう云つて、床の間の脇の袋戸棚の中から、コニヤツクの瓶に小さいコツプを三つ添へて持ち出して、碁盤の傍に置いた。コニヤツクは栓は抜いてあつたが、まだ余り減つてはゐなかつた。小男は瓶を手に取つて札紙を見た。
「代用品どころではない。なかなか上等ですなあ。」
かう云つて、三つのコツプに注いだ。赭顔は直に自分のを取り上げて、少し口に入れて舌打をした。主人は小男の向うに据わりながら、自分のコツプを取つて、一息に咽に流し込んだ。
「コニヤツクはかうして飲むものだ。」
小男は「一寸失敬」と云つて立つたが、麦酒のコツプを持つて縁端に出て、手桶の水で洗つて、それから茶盆の上にある小さい湯わかしの湯をそれに注いで、小さいコツプのコニヤツクを其上にぶちまけてしまつた。
主人と小男との棋が始まつた。小男は相変らず考へ考へ打つてゐるが、主人は相手の手が引込むや否や、すぐに石を下す。小男は薄めて酒を飲みながら考へて打つ。主人は石を下して置いて、考へずに生の酒を飲む。主人の手が幾ら早く動いても小男は考へる丈は考へねば置かない。そこで相応に時間が立つ。
暫くすると、傍で見てゐた赭顔が、忽ち「あはあは」と笑つて、「さうなつては、もう挽回の望もない」と云つた。そのうちに主人が、「負ける時は潔く負ける」と云ひながら、造つた石を崩しはじめた。
「負ける時は潔く負ける。さあ。寝よう、寝よう。」
「蚊屋の中は熱さうですなあ。」
石をしまひながら、小男が云つた。主人はのん気である。
「なに。雨戸を少しづつ開けて置くから好い。」
主人が起つて戸袋から戸を繰り出すと、二人の客が間々を一尺程づつ透かして置いて戸を締めた。主客は一間を取り散らした儘にして置いて、次の間に弔つてあつた蚊屋に這入つて寝たらしい。時計は一時を打つた。
八は藪から出て、皆の寝てゐる部屋の外に来て、様子を覗つてゐた。八畳の間の方からは明がさしてゐるが、蚊屋の弔つてある部屋は真暗である。初のうちは団扇を使ふ音がしてゐたが、暫くするとそれが止んで、鼾の声がして来る。主人のと赭顔の男のと、別々に聞えるやうである。そのうちに小男の寝息も聞き分けられるやうになる。八は三人の寝しづまつたことを知つた。
藪の中にゐたときと、雨戸の外へ来てからとは、八の心持が少し違ふ。八は余程臆病になつた。濡れ通つた着物の下に汗が出て、殊に胸の真中の筋をたらたらと流れ落ちる。藪の中では、熱くても、そんな事はなかつたのである。
併し八には早く家の中に這入りたいといふ意志は十分にある。そして彼の意識の中で、最もはつきりした写象をなしてゐるのは、酒を飲むことである。這入りたいのは主として酒を飲みに這入りたいのである。同時に物を取らうといふ考が無いことはない。これは泥坊になつたからには、物を取らなければならないと思ふのであつて、余り取りたいのではない。酒の飲みたいのは猛烈なる本能である。物を取らうと思ふのは、物を取つて泥坊たる面目を保たねばならないといふ一種の義務心に過ぎない。
八は雨戸の外を手桶の置いてある処まで進んだ。八畳の間は障子を脱した儘で、ランプも心を引込ませて此部屋に置いてある。その癖蚊屋を弔つて三人の寝てゐる六畳との堺の唐紙は締めてある。
八は暫く寝息を覗つてゐたが、透かしてある雨戸の間から、体を横にして縁に上がつた。縁にゐる間に、若し誰か目を醒すと、蚊屋の中から見えるだらうと思つたので、八は急いで棋盤の傍を通つて部屋に這入つた。藪の中の笹葉の上と、庭の苔の上とを歩いたのだから、足は割合に汚れてゐない。只縁に濡れた痕が附いた丈である。
八は先づ、麦酒の瓶が四五本、給仕盆二枚の上に並べてあるのに目を着けた。多分虚だらうとは思ひながら、手に取つて見たが、どれにも一滴も残つてゐない。次に棋盤の傍にあるコニヤツクの瓶を手に取つた。これはまだ七八分目程這入つてゐる。八はそれを麦酒のコツプに一ぱい注いで、一口ぐつと飲んだ。少し強いとは思つたが、咽から下つて腹に落ち着くまで、ぴりぴりするやうな、温いやうな感じがして、いかにも心持が好い。八は大きいコツプに一ぱいのコニヤツクを三口に飲んだ。三口目を飲んでしまふ頃には、もう体ぢゆうがぽかぽかして来て、雨に濡れた絆纏から湯気が立ちさうな気がする。跡を瓶からコツプに注ぎは注いだが、その儘にして置いた。一息衝いてから飲まうと思つたのである。
八はそろそろ集まつて来る蚊を払ひながら、部屋のうちを見廻した。此位殺風景な部屋は珍らしい。床の間には掛物を掛けずに、大きな砲弾が二つ据ゑてある。其周囲には書物やら雑誌やらが乱雑に積み上げてある。長押には大きな額が掛けてある。八には読めないが、某元帥の書で、「動於九天」といふ四字である。机が一つ床の間の前に寄せて置いてある。蓋をしない硯箱には、黒と赤とのインク壺が割り込んでゐて、毛筆もペンも鉛筆もごつちやに抛り込んである。原稿紙らしい罫紙やら洋紙の方眼紙やらが積んである上に、三角定木と両脚規とが文鎮がはりに置いてある。その外には棋盤と蚊遣の火入と、瓶や漬物を入れた丼の明いたのばかりで、別に何んにもないのである。
八は雨戸の外にゐた時は、臆病げが立つてそはそはしてゐたが、今は又気が落ち着いた。それには次第に利いて来るコニヤツクも手伝つてゐるのであらう。唐紙を一重隔てて、隣の部屋に大の男の、しかも軍人が三人寝てゐるのが、さほど苦にもならないのである。併し八は落ち着いてゐる中にもこんな事を思つた。若し今あの人達が目を醒ましたら、どうするだらう。サアベルで切るだらうか。それともピストルで打つだらうか。それにしてもサアベルや何ぞはどこにあるだらう。寝る処に持つて行つてゐるだらうかなどと思つた。此想像は当つてゐた。主人の荒川大佐は、軍服や軍刀はいつも寝間に置いてゐる。一体は磊落な男なので、軍服なぞも脱ぎ散らかして置いて、細君が勝手に片付けるのであつたが、或時ふいと感じたことがあつて、今では寝ても傍を離さないことにしてゐる。今宵来て泊つてゐる赭顔の安中大佐も、小男の宇都宮中佐も、主人の流義が好いと云ふので、内でも人の処に泊つても、服装一切は傍を離さないのである。
荒川が感じたといふのは、三十七八年役に、奉天の会戦が済んで、我軍が昌図附近に宿営してゐた時の事であつた。兵卒を倦ませないやうにといふので、ここかしこに芝居小屋を掛けて、兵卒に芝居をさせる。荒川は或日用事があつて、小久軍の司令部に往つて泊ると、そこにも芝居がある。夕飯が済んでから見に行つた。寒い晩のことで、皆毛皮などを着込んで見物してゐる。刀を弔つて来てゐるものなんぞは殆ど無い。そこへ小久大将が来られた。此人丈は軍刀を弔つて来て、見物する間も環丈脱して、傍に引き附けてをられる。これがひどく荒川の気に入つた。荒川は甲越の戦争の頃の武辺話を聞いたことがある。其中に或侍が丸腰で隣家へ棋を打ちに行つてゐたとき、喧嘩が始まつて、思はぬ不覚を取つた。跡で其事が上に聞えて、職禄を召し上げられたといふことがある。荒川はそれを思ひ出して、軍司令官の心掛を感じた。それからといふものは、荒川はどんな場合があつても軍刀を離すといふことはないのである。
八は軍人が目を醒まさなければ好いがとは思つた。切られはすまいか、打たれはすまいかと思ふのは、余り好い心持ではない。併しその危険が自分の身の上だといふことは、八は余り切実に感じない。そんな事が有り得るとは思ふ。どうもそれが今にも起つて来るとは思はれない。
八はコニヤツクが大分利いて来た。酒の好なものが、必ずしも酒が強くはない。殊に酒飲は年を取ると酒が弱くなるものである。八なぞも三十前後まで酒が強かつた。四十近くなつて、好は好であるが弱くなつてしまつたのである。八は少し頭がふらつく。その癖咽が乾いて飲みたいので、コツプに注いで置いたコニヤツクを一口飲む。それが今度は強過ぎるやうに思はれる。八は傍にある湯沸かしの湯を割つて、又一口飲んで見る。口当りが好いので、ぐつと飲む。時計が二時を打つた。
八は時計の音に刺戟せられて少し醒覚したやうな心持がすると共に、例の泥坊としての義務を思ひ出した。何か取つて行かなくてはならないといふことを思ひ出した。そして又身の周囲を見廻した。併し別に目に留まるものがない。八は此部屋より外の部屋に行つて見ようといふ程の気力はない。顔の筋が皆弛んで、火傷の痕の引弔の為めに、赤んべえをしてゐるやうな目がどろんとしてゐる。彼は今何か取らうと思つたのを、どうかすると又忘れてしまひさうになるのである。そこでこれではならんと奮発して、胡坐を掻いてゐる膝を両手で押へて、肱を張つて、口の内で、「へん、人を馬鹿にしてゐやがらあ」といふやうな事をつぶやいて、又身の周囲を見廻した。
此時八は床の前に寄せてある机に引出が附いてゐるのに目を着けた。彼は立つて、懶い体を机の前まで運んだ。立つた時は風船にでも乗つたかと思ふやうな心持がしたが、机の前に胡坐を掻くと、当前の心持に戻つた。机は蚊母樹か何かで岩乗に出来てゐて、引出には真鍮の金物が打つてある。それに手を掛けて引くと、すうと開いた。
引出の中は、大部分は手紙の反古で填まつてゐる。封筒に這入つてゐるのもある。這入つてゐないのもある。横文字のも雑つてゐる。絵葉書も雑つてゐる。手紙の反古を少し掻き退けて見ると、一方の隅には綺麗な漆塗の小箱がいくつもある。開けて見れば、中は皆虚である。これは勲章の明箱であつた。反対の方の隅には、沢のある赤いやうな木で拵へた、大分大きい箱があつて、其上に銀の小さい箱に、金で菊の紋を附けたのと、緑いろの革に銀金物を取り附けた金入らしいものとが、並べて載せてある。これを見た時は、八の目が稍や輝いた。
八は此の三つを畳の上に出して、先づ大きい赤い木の箱を開けて見た。これには真鍮の種々な形をした道具が一ぱい這入つてゐた。これは Mahagoni の箱に入れた幾何学の道具であつた。それから菊の紋の附いた銀の入物を開けて見た。これは巻煙草入れであつた。某宮殿下が Saint-Cyr で世話になつたからといふので、主人荒川に下さつたのである。最後に八は金入らしい革の入物を開けた。初め手に取つたときから、何かぢやらぢやらいふものが這入つてゐて重いといふこと丈は分かつてゐた。八は何か分からないながらも、これに望を属してゐたのである。
八が開けたのは金いれに相違ない。緑いろの革で四角に出来てゐて、縁と蝶番の処とは勿論、四隅に附いてゐる鱗形の装飾も、表の真中に附いてゐる名の頭字の A の字も、皆銀である。これは荒川が仏蘭西へ行つた当座、物珍らしい最中に、巴里の町で買つたのである。口は入違になつて銀の小さい玉を捩つて開けるやうになつてゐる。
八は節榑立つた不器用な指で、此の玉を捩つて開けたのである。中は襞のやうになつて、物を入れる処がいくつも出来てゐる。そしてどこにも貨幣が二三枚づつ入れてある。貨幣には大小色色あつて、多くは銀貨である。併しどれも見慣れた五十銭や二十銭や十銭ではないやうに思はれる。最も八の注意を惹いたのは、金色燦然たる、稍大いなる貨幣であつた。八はそれを見ると、もうこれさへ取れば好いといふやうな気がした。そして金入の中のものを、例の不器用な指で一つ一つ撮み出して、腹懸に入れた。
これで八は用事が済んで安心したといふやうな心持になつた。さてお神輿を上げようと思つたが、コニヤツクに湯ざましを割つたコツプの、飲み干さずにあるのが目に着いた。どうもまだ未錬がある。そこでコツプを取り上げて、又一口がぶりと飲んだ。こん度は旨くない。どうも最初に呑んだ時のぴりつとする味の方が好いやうに思はれる。八はそこにある小さいコツプに瓶からコニヤツクを注いで、生の儘でぐいと飲んだ。今度は腹まで染み渡るやうな心持が、何とも云へない程好かつた。
此時さつきの引出し調の時に緊張させてゐた神経が一時に弛んで、八はひどく体がだるいやうに思つた。そこで左の手を畳に衝く。始終気にして聞いてゐる隣の部屋の鼾が次第に遠くなるやうに思ふ。左の肘を衝く。上瞼が重くなる。八は寝てはならないと思ふのと、蚊に螫されるのとで、塞がる目を強ひて開く。上瞼が又重くなる。又強ひて目を開く。こんな風に何度か目を開いたり塞いだりしてゐるうちに、時としては暫くの間本当に眠つて、隣の部屋の鼾が丸で聞えなくなることもある。そんな時には自分の咽から鼾が出さうになるのと、蚊がひどく螫すのとで、びつくりして目を開くのである。
Anatole France の書いたものの中に、難船に逢つた船頭が、海に背中を露はしてゐる鯨に騎つて、鯨の背の上で博奕を始めたといふ話があつた。八の転寝は鯨の背で打つ博奕にも負けないかも知れない。
八はこんな風で彼此三十分もうとうとしてゐた。其間に時計が三時を打つたのをも、八は知らなかつた。転寝といふものは、少し為ると一時は存外精神を恢復させるものである。八はふと何物かに驚いて目を醒まして見ると、もうねむたくはない。驚いたのは、多分隣の部屋に寝てゐる軍人の一人が囈語でも云つて、寝返でもしたのであつたらう。目が醒めて見れば、八は眠るとも思はずに眠つて夢を見てゐたのである。醒めた時は慥に夢の最中であつた。何でも平生仲の悪い熊といふ為事師に困らせられてゐた。どうした訣だつたか知らん。さうさう。さつき取つた金貨と銀貨との事を言ひ合つてゐた。さうだ。熊に電車の代を借りてゐるのを催促せられて、いつもの積で手を腹掛に突込んで、銅貨があつたと思つて掴んで出した。ところが掴み出したのが、さつきの金であつた。その時ひどくびつくりした。熊は妙に目を光らせて自分の顔を見て、「がうぎな物を持つてゐるなあ」と云つた。そこで何と云はうかと思つて、ひどく困まつたとき、何かに驚いて目が醒めたのであつた。八は殆ど無意識に腹掛に手を突込んで、貨幣があるかと思つていぢつて見た。腹掛も絆纏もさつぱりと乾いてゐる。貨幣は慥に有る。手当り放題に一つ撮まんで出して見ると、さつきの光る金貨が出た。大さは一銭銅貨程あるのである。八は思はずにつこりした。
八は精神がはつきりしたので、外の方を見ると、もう少し明るくなりかかつてゐる。雨はいつの間にか止んだと見える。八は立ち上がつた。もう頭もふらつかない。急に怯が出て、出来る事なら、飛んででも逃げたいやうに思ふ。心が燃えてしまつて、消えさうになつてゐるランプを跡に残して、八はそつと雨戸の間から出た。
暁の冷い空気が顔を撲つ。臭橘の垣の蜘蛛の網に留まつてゐる雨の雫は、矢張真珠のやうに光つてゐる。藪には低い靄が漂うてゐる。八は身慄をした。そして小便が出たくなつたが、それどころではないと思つて、這入つた時の道を表門の方へ廻つた。昨夜脱いで置いた下駄がその儘ある。穿かうか、持つて行かうかと一寸考へて、穿いた。厩には馬が足をことこと言はせてゐる。別当部屋を覗いて見たが、別当はゐない。馬の糞を棄てる箱があつたので、八はそれに小便をした。余り遠くない処を、荷車を挽いて話をしながら通るのが聞える。市へでも行くのだらう。
八は暫く外の往来に気を着けてゐたが、此邸の外を通るものはない。そこで潜門に手を掛けた。其時潜門はだしぬけに外から開けられて、中へ這入る男がある。八と其男とはぴつたり顔を合せて、初の一瞬間は互にあきれて黙つてゐた。這入つた男は別当で、これは隠れて新宿へ往つたので、二三町先からは、抜足をして帰つて来たのである。別当が口を切つた。
「手めえは何だ。」
小声である。
八は別当の手ぬるい様子を見て、摩り抜けて潜りの外へ出ようとした。別当の手は提げてゐた傘を殆ど無意識に投げて、八の臂を攫まへた。
「泥坊。」
こん度は大声である。
二人は取組合つた。八は酒で体を悪くしてからは、余り力が出ない。又別当太吉も、色の白い、鼻と顴骨と腮とが顔に四箇の突角を形づくつてゐる男で、これも余り強くはない。併し犬でも喧嘩をするときは、主人の邸にゐる方が強くなる。別当は潜りの戸を背中で押へて、両手で八の臂を攫まへて放さない。そして又大声で叫んだ。
「旦那様。泥坊です。泥坊が這入りました。」
初め太吉の泥坊と云つたのを、表口に近い四畳半に寝てゐた奥さんが聞いて、そつと主人の処へ言ひに行つた。主人は起きて周囲を見廻はしたが、傍にある軍刀を取らずに、運動のために振ることにしてゐる木刀のあつたのを持つて、玄関に出て来た。二人の客は、皆浴帷子の儘ではあるが、てんでに軍刀を持つて主人の後に続いた。三人が玄関に出たのは丁度太吉が二度目に叫んだ時であつた。
荒川大佐は組合つてゐる二人の様子を見た。賊らしい男は兇器も何も持つてゐない。それにちつとも抗抵するやうな様子が見えない。荒川は張合がないといふやうな顔をしてかう云つた。
「もう好い。大丈夫だから放して遣れ。」
太吉は手を放した。八はその儘そこに蹲つてしまつた。
矢張潜戸を背中にして、手持無沙汰に立つてゐる太吉に、荒川はかう云つた。
「何を取つたのか。お前の処へ這入つたのか。」
「へえ。」
「へえぢやあ分からん。どうして攫まへたのか。」
太吉は頗る窮した。
「へえ。あの何でございます。わたくしが外から這入つて来ますと、こいつが出ようとしてゐましたので、わたくしと鉢合を致しましたので。」
「何だ。又新宿へ行つたのか。けしからん奴だ。それでは其男が物を取つたかどうか、お前も知らんのか。」
此時奥さんが出て、主人にかう云つた。
「あの、只今調べて見ましたが、お机の引出にありました西洋の貨幣がございません。その外には、なんにも無くなつた物はございませんやうでございます。」
「さうか。」
主人は可笑しさを熬へるといふやうな様子で八にかう云つた。
「おい。お前は机の引出にあつた金を取つたのか。」
八はもう逃げられないと諦めてからは、頗る平気でゐる。腹懸に這入つてゐる貨幣を隠さうなんぞといふ気は少しもない。それに荒川の四角な大きい顔で、どこか余裕のあるやうな処が、八には初て見た時から気に入つてゐて、跡から附いて来て盗みに這入つたのも、一部分は主人が気に入つた為だと云つても好い位である。今別当の夜遊に出たのを真面目な顔で叱つて、自分に盗んだ物の事を問ふときには、何の訣だか知らないが、却て気色を和げてゐるやうなのを見て、八はいよいよ主人が好になつた。そこで行きなり右の手を腹懸に突込んで、七八枚の貨幣を一握りに握つて、土の上に出して、主人の顔を見てかう云つた。
「旦那。済みません。」
八の顔は右の外眦に大きな引弔があつて頗る醜い。それに彼のこれ迄に経験して来た、暗い、鈍い生活が顔に消されない痕跡を印してゐる。併し少しも陰険な処は無い。これを見てゐる荒川の顔はいよいよ晴やかになつた。
「お前は始て泥坊に這入つたのだらう。」
「へえ。始てでございます。」
「そんな事だらう。もう泥坊なんぞをしては行かんぞ。」
安中と宇都宮とは、八の出した貨幣を見に出て来て、八に対しては何の警戒もせずに蹲んだ。八は勿論警戒を要するやうな態度をしてはゐないのである。太吉は八の頭越しに屁放腰になつて覗いてゐる。安中は主人にかう云つた。
「皆外国貨幣だな。」
「さうだ。洋行した時に集めたのだが、Pound や二十 Francs や二十 Mark のやうなものは、入用な時に両換をして使つてしまつた。それでそんな詰まらない銀貨ばかり残つてゐたのだ。」
「それでも一つ黄いろいのが交つてゐるぢやあないか。」
貨幣を手に取つて見てゐた宇都宮が笑つた。
「はゝゝゝ。黄いろいには相違ないが、これは只の Sou ですよ。」
主人も一しよになつて笑つた。
「はゝゝゝ。確に Sou だ。大枚五 Centimes だ。余り新しくて綺麗だから取つて置いたのだ。遣はずに置くと、何時までも綺麗でゐるものだなあ。」
宇都宮は情報掛で、外国新聞を見てゐるので、こんな事を云つた。
「それでも仏蘭西では銅貨を廃して、小さい Aluminium にするなんといふ噂があるから、今に Sou も珍らしい物になるかも知れません。」
安中は西班牙の Piaster や葡萄牙の Tostao を宇都宮に見せて問うてゐる。
八は何の事だか分からずに聞いてゐたが、黄いろく光つてゐるのが金貨でないといふことだけは分つた。そしてそこへ出してしまつた物ながら、失望に似た一種の感をなすことを禁じ得なかつたのである。
太吉は天晴気を利かした積りで主人に言つた。
「旦那。此奴を巡査に渡してしまひませうか。」
太吉を見る八の目は輝いた。
荒川は別当に、「余計な事を言ふな」と云つて、八には、
「お前は好いから行け、泥坊なんぞになるものぢやあないぞ」と云つた。八は黙つて、お辞儀をして、太吉を尻目で見て、潜門を出て行つた。
近処の家で、雨戸をがらがらと繰り明ける音がして、続いて咳払の声がした。
(明治四十二年九月)