あらすじ
レイクランヅという静かな村には、かつて水車場であった古い建物があります。今は教会として使われていますが、その教会には、製粉業者エイブラム・ストロングの過去と深い関係があります。かつて、ストロングは水車場の主人として、娘のアグレイアと共に幸せな日々を送っていましたが、ある日アグレイアは姿を消してしまいます。悲しみに暮れたストロングは、アグレイアの思い出を胸に、水車場を教会に改装し、貧しい村の人々を支えようとします。ストロングは、アグレイアの記憶を永遠に残すため、故郷の村に教会を建て、世界中の困っている人々に「アグレイア」印の製粉を無償で届けることを決意します。それから数年後、ストロングは故郷の村を訪れ、そこで一人の若い女性と出会います。彼女との出会いを通して、ストロングの過去に秘められた真実が明らかになり、二人の運命は大きく動き出すのです。
 レイクランヅはハイカラな避暑地の目録にははひつてゐない。クリンチ川の小さな支流に臨むカンバランド山脈の低い支脈の上に在る。もと/\レイクランヅといふのは、寂しい狹軌鐵道沿線の、二十數戸の靜かな村の名である。まるで、鐵道が松林の中で道に迷つて、こはく淋しくなつて、その村へ逃げ込んだやうにも見え、又村の方が道を失つて、汽車に故郷へ連れて歸つて貰ひ度さに、線路のふちに固まり合つてゐるといつた風にも見える。
 それに、レイクランヅといふ村の名も變だ。湖水なんか無いんだから、そのほか、附近には取立てゝ云ふ程の物もない平凡なところだ。
 村から半哩ばかりのところに、イーグル・ハウスといふ大きな廣い建物がある。それは安直あんちよくに山の空氣を吸ひたいといふ人達の便を計つて、ヂョウシア・ランキン氏が建てたものである。そこの經營は愉快な程下手へたで、現代風の改良など施さず、萬事古風のまゝである。全くうつちやらかし、遣りつ放しなのも、自分の家にゐるやうな氣がして、暢氣のんきで面白い。しかし、綺麗な部屋をあてがはれ、食べものはいゝ上に十分だから、あとはお客の方で松林へでも出て遊べばいゝのである。自然はこの土地に、鑛泉や、葡萄蔓のぶらんこや、クローケをめぐんでくれた、――その球戲に普通用ひる鐵輪も、こゝのは木で出來てゐる。又、藝術の方面では、たゞ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)イオリンとギタとの合奏位に過ぎないが、週に二度の園亭の舞踏會で、音樂が聽ける。
 イーグル・ハウスの常客連は、たゞ遊びに來るといふだけでなく、必要上保養に來る人達である。彼等は、一年中動く爲めに、二週間ごとに卷くことを必要とする時計にも譬へるべき、忙しい人達である。方々の都會の學生、時には畫家や、その邊の古い地層の研究に沒頭してゐる地質學者などの顏も見える。こゝで夏を送る幾組かの家族もある。又、この土地で「學校の姉さん達」と呼ばれてゐる忍從を旨とする婦人宗教團の團員達も、よく疲れた顏を見せる。
 イーグル・ハウスから三四町行くと、面白いものがあるが、若しイーグル・ハウスが土地案内を出せば、それを一つの名物としたに違ひない。それは、もう※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてはゐないが、古い/\水車小屋なのである。ヂョウシア・ランキンの言葉を借りていへば、それは「合衆國唯一の水車のかゝつた教會であり、又、會衆席とパイプオルガンとを備へた世界唯一の水車小屋」である。イーグル・ハウスのお客達は、毎日曜日にその古い水車小屋の教會へ行つて、純潔な基督教徒は、經驗と勞苦との臼にかれて有用になつた上等の麥粉のやうなものだといふやうなお説教をいて來る。
 毎年初秋の候になると、イーグル・ハウスへ、エイブラム・ストロングといふ人が逗留に來たが、彼は人々の敬慕の的となつてゐた。レイクランヅでは、彼は『エイブラム師』と呼ばれた。雪白の髮、しつかりとしたやさしい赭顏あからがほ、陽氣な哄笑、それに彼の黒衣と鍔廣つばびろの帽子とが、まるで彼を牧師さんのやうに見せたからである。初めての客でも、三四日彼に接すると、すぐもう『エイブラム師』と呼ぶやうになつた。
『エイブラム師』は遠くからレイクランヅへやつて來るのである。彼は北西の大きな喧騷の都會に住んでゐて、そこに製粉所を持つてゐる。しかし、その製粉所には會衆席があつたり、オルガンがあつたりはしない。それは大きな、不恰好な、山のやうな製粉所で、蟻塚をめぐる蟻のやうに、貨物列車が終日そのまはりを動いてゐる。さて、この『エイブラム師』の過去と、前に云つた教會になつた水車小屋の歴史との間には、深い關係があつた。まづそれから話さなければならない。
 その教會が水車場であつた時、ストロング氏がそこの主人だつた。彼ほど陽氣で、粉まみれで、忙しくて、幸福な水車屋さんはなかつた。彼は水車場の路の向ひ側の田舍家に住んでゐた。仕事はのろいが、挽賃ひきちんが安いので、その邊の山に住む人達は、何哩もの遠くから、石でゴツ/\した道も厭はず、彼のもとへ穀物を運んで來た。
 彼の樂しみは彼の小娘のアグレイアだつた。これは亞麻色の髮をした、ヨチ/\歩きの小娘には、一寸過ぎた名前だが、山の人達は響きのいゝ、立派な名前を好んだ。母親が、何かの本の中にそれを見付けて、つけたのだつた。しかし、幼い頃のアグレイアは、その名には構はず、自分を平常「ダムズ」と呼んできかなかつた。水車屋とその妻とは、アグレイアから、度々その不思議な名のもとを訊き出さうとしたが、結局分らなかつた。たうとう彼等は次のやうな推測に達した。家の後ろに石南ロドデンドロンの花壇があつて、アグレイアはそれが大好きだつた。「ダムズ」といふのは、つまり、その彼女の好きな花の難かしい名と、關係があるらしいのである。
 アグレイアが四つの頃、彼女と父との間に、天氣さへよければ決して缺かしたことのない日課が、毎日午後繰返された。夕食の支度が出來ると、母親はきまつて、アグレイアの髮に櫛をあて、綺麗なエプロンをかけてやる。そして、道の向うの水車場へ、お父さんを迎ひにやるのである。水車屋さんは、娘が戸口からはひつて來るのを見ると、粉で眞白になつて出て來る。そして手招きしながら、その地方でよく聞く粉挽の歌をうたふ。それはかういつたやうな歌である。
「くるまが※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、粉がひける。
まみれ粉屋こなやは上機嫌。
いちんち歌つて、のんきにかせぎ、
かはいゝ子のこと思つてる。」
 するとアグレイアは彼の方へ飛んで行つて、叫ぶ、「とうちやん、ダムズをお家へ連れてつて。」彼は彼女を肩にかつぎ上げて、矢張り粉挽の歌をうたひながら、路の向うの家へ歸つて行く。夕方になると、必ずこれが繰返されるのである。
 アグレイアの四度目の誕生日が過ぎて、一週間ばかりつた或る日のこと、彼女が突然見えなくなつた。彼女は家の前の道傍で、草花をんでゐたのだが、それから分らない。少しつて、母親が、あまり遠くへ行かないようにと思つて出て行つて見ると、もう姿が見えなかつたのである。
 勿論、出來るだけ手を盡して搜した。近所の人達が集つて、森や山を何哩もの間搜して見た。又水車の堰水せきみづも見るし、川も堰のずつと下まで殘る隈なく探つた。しかし、何の手掛りもない。一兩夜前に、漂泊者の一家族が、近くの森に泊つてゐた。それにさらはれて行つたのかも知れないといふ説が出た。しかし、彼等の馬車を追つかけて行つて、搜して見たが、矢張りアグレイアは見當らなかつた。
 ストロングはそれから二年近くそこの水車をやつてゐたが、たうとうアグレイアを見付け出す望みを失つてしまつた。彼は妻と共に北西地方に移つて行つた。數年後には、その地方の重要な製粉地になつてゐるある都會の近代的な製粉工場の一つを手に入れた。ストロング夫人は、アグレイアを失つた時に受けた心の痛手から再び恢復くわいふくすることなく、彼等の移住後二年にして世を去り、ストロング氏は、獨りでこの悲しみを忍ばなければならなくなつた。
 彼の家業が盛んになつた時、彼はレイクランヅとその近くの古い水車場とを訪れた。そこの風物は彼にとつて、悲しみの種ではあつたが、強い彼は、常に快活さと優しさとを失はなかつた。彼がその古い水車場を、教會に改造しようと思ひ立つたのは、その時だつた。貧乏村のレイクランヅでは、とても教會など建てられない。猶ほ一層貧しい山の人達もそれを助ける力はない。そんなわけで、二十哩以内の地には、教會らしいものがなかつた。
 ストロング氏はその水車場の外觀を出來るだけ變へないやうにした。大きな上射水車もそのまゝにしておいた。そこを訪れる若い人達は、みんなその水車の柔い、だん/\朽ちてゆく木に、自分の名前の頭字かしらじりつけて行つた。せきは一部分こはされて、清らかな山の流れは、岩の川床を流れ落ちた。しかし、水車場の内部は、大分面目を變へた。※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)轉軸シヤフト碾臼ひきうす調革しらべかは、滑車といつたやうなものは、勿論みんな取除かれた。そして、ベンチが二列に並び、中に通路が出來、奧には一寸高くなつた壇があり、説教壇も設けられてゐる。頭上三方には、座席のある二階が着き、内側の階段から上つて行く。オルガン――それもほんたうのパイプオルガン――がその二階にあつて、それはこの「古水車教會」の會衆の誇りだつた。風琴手オルガニストはフイービといふ娘さんである。レイクランヅの少年達は日曜日のおつとめに、交代に彼女のオルガンのポンプを押すことを誇りとした。説教者はバンブリッヂ師で、彼はスクヰレル・ギャップから、一度のお勤めも缺かさず、白馬に跨つてやつて來た。そして、經費はすべてエイブラム・ストロングが負擔した。彼は説教者に五百ドル支拂つた。
 このやうにして、その古い水車場は、アグレイアの思ひ出の爲めに、彼女が嘗つて住んだ村に對して祝福を與へた。彼女の短い生涯――それは古稀にも達した多くの人々の生涯も及ばぬ大きな恩惠をもたらすやうに思はれた。しかしエイブラム・ストロングはまだ足れりとせず、彼女を記念する今一つのものを造つた。
 即ち、彼の北西地方の製粉工場から、「アグレイア」印の製粉を賣出したのである。それは最も堅い上等の小麥から製せられた。人々はすぐに、「アグレイア」粉が、二つの價を持つてゐることを知つた。一つは市場に於ける最高の値段であり、他は――無料たゞといふ値段だつた。
 何處かに、火事とか、洪水とか、颶風ぐふうとか、罷業とか、飢饉とかいふやうな、人々を困窮に陷れるやうな災厄が起つた時には、必ず「アグレイア」粉が「無料たゞ」といふ値段で、豐富に發送された。それは注意深く、手落ちのないやうに配給されたが、少しも惜まれるやうなことはなかつた。そして、飢ゑた人達からたとへ一錢の金と雖も取らなかつた。人々はいつとはなしに、何處どこかの都市の貧民街に火事があると、先づ第一に現場に到着するものは、消防署長の馬車、その次が「アグレイア」粉を積んだ車で、最後にポンプだ、といふやうなことを言ふやうになつた。
 これがつまり、エイブラム・ストロングのアグレイアに對する第二の記念だつた。世の詩人にとつては、これは或はあまりに功利的に過ぎて、美といふ點に於て缺くるところある題目かも知れないが、或る人々には、愛となさけの使者のやうに不幸な人達を訪れて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る清らかな、白い、き立ての麥粉を、その名が記念してゐる失はれた少女に譬へて見ることは、美しくも氣高けだかく思はれるに違ひない。
 或る年、カンバランド地方が、非常に困難したことがあつた。※[#「轂」の「車」に代えて「米」、U+7CD3、209-上-10]類は何處どことも不作だつたが、カンバランドに至つては、全然れなかつた。山地の洪水は人々の財物を多く奪つた。獵師達の獲物さへも乏しく、彼等は家族の者を養ふだけの物を持つて歸ることすら困難な程だつた。殊にレイクランヅのあたりは甚だしい窮乏を訴へた。
 エイブラム・ストロングはこれを耳にするや否や、命令を發し、例の狹軌鐵道は早速レイクランヅへ「アグレイア」粉をおろし始めた。ストロングの命令は、その村の麥粉を貯藏せよといふのであつた。あの「古水車教會」の二階に麥粉を積んで、教會に來る人に、一袋づゝ持つて歸らせよといふのであつた。
 それから二週間の後、エイブラム・ストロングは毎年の例によつて、イーグル・ハウスを訪れ、またいつもの『エイブラム師』になつた。
 そのシーズンには、イーグル・ハウスはいつもより客が少なかつた。その中にロウズ・チエスタといふ娘が交つてゐた。チエスタはアトランタから來たのだが、彼女はその都會の百貨店で働いてゐるのだつた。これは彼女の生れて初めての休暇の旅行だつた。百貨店の支配人の細君は、以前一と夏をイーグル・ハウスに送つたことがあつた。彼女はロウズを非常に可愛がつてゐたので、三週間の休暇を、そこで暮らして見るやうにすゝめたのだつた。支配人の細君は、ランキン夫人への紹介状をチエスタに與へた。ランキン夫人は喜んでチエスタを迎へ、面倒を見た。
 チエスタはあまり丈夫でなかつた。二十はたち前後の年頃で、屋内生活の爲めに、顏色も惡く、ひ弱さうだつた。しかし、レイクランヅに於ける一週間は、彼女を殆んど見違へる程明るく、元氣にした。丁度九月の初めで、カンバランドは一番美しい時だつた。山の秋色は漸く輝きを加へ、空氣はシヤンパンのやうににほひ、夜の何ともいへない凉しさは、人々をイーグル・ハウスの温い毛布の下に快くもぐり込ませた。
『エイブラム師』とチエスタ孃とは大の仲好しになつた。年とつた製粉場主はランキン夫人からチエスタ孃の話を聞いて、健氣けなげにも自活の道を立てゝゐるそのか細い、孤獨の娘に直ぐ心をかれるやうになつた。
 山國やまぐにはチエスタ孃には珍しかつた。彼女は永年暑い平野の都會アトランタで暮して來たので、カンバランドの雄大で變化に富んだ風物を喜んだ。彼女は滯在中の一刻をも惜んで樂しみ度いと思つた。彼女は自分の僅かな貯へと、保養中の入費とについて念入りに豫算を立てゝゐたので、仕事に歸つた時にどれ位の餘裕が殘るかといふことまで、精確に知つてゐた。
 チエスタ孃が『エイブラム師』を友達に持つたことはしあはせだつた。彼はレイクランヅ近傍の山については、どんな道でも、峯でも、斜面でも知らないところはなかつた。彼女は彼を通じて、松林の中の小暗い坂道の神々かう/″\しいやうな美しさや、あらはな岩の莊嚴さや、さては水晶のやうに澄んだすが/\しい朝、不思議な悲しさに滿ちた、夢見心地の秋の午後などに親しむことが出來た。そんなわけで、彼女の健康は加はり、心は輕くなつていつた。彼女は女だけにつつましさは失はなかつたが、評判の『エイブラム師』に劣らず、心の底から笑つた。彼等は二人とも、生れながらの樂天家だつた。そして、世間に對して、落着いた機嫌のいゝ顏を見せることを知つてゐた。
 或る日チエスタ孃は、お客の一人から『エイブラム師』の行方ゆくへ知れなくなつた娘の話を聞いた。彼女はすぐ驅け出して行つて、鐵鑛泉の傍の氣に入りのベンチに腰を下してゐる製粉場主を見出した。彼は彼の小さな友達が、彼の手を取つて、目に涙を浮べながら、彼を覗き込んだ時、驚いた。
「おう、エイブラムの小父さん」彼女は言つた。「ほんたうにお氣の毒に! あたし今日まで、あなたの小さな娘さんのことを存じませんでしたの。でも、いつかはおひになれますわ。――あたし、どんなにそれを祈つてゐるでせう。」
 製粉場主は彼女を見下しながら、いつものやうに、しつかりとした微笑を浮べた。
「有難う、ロウズさん。」彼は常の快活な調子で言つた。「しかし、わしはアグレイアに會へるとは思ひませんわい。何年かの間は、わしもあれが浮浪人にさらはれたんで、まだ何處どこかに生きてゐるやうな氣がしてゐました。しかし、もうそんな望みも失つてしまひました。きつと溺れたに違ひない。」
「さうお考へになることが、どんなにおつらいか、あたしなんぞには想像も出來ませんわ。」チエスタ孃は言つた。「だのに、あなたはそんなに愉快さうで、又いつでも喜んで他の人達の惱みをやはらげようとしてゐらつしやる。ほんたうにいゝエイブラム小父さん!」
「ほんたうにいゝロウズさん!」製粉場主は微笑しながら、ロウズの口眞似をして言つた。「あなたの方が一層他人思ひぢやないか?」
 チエスタ孃は一寸氣まぐれを言つて見たい氣持になつた。
「あゝ、エイブラム小父さん。」彼女は叫んだ。「若しもあたしが小父さんの娘だつたといふやうだと、どんなに素的でせう。隨分ロマンテックぢやありませんか? そして、小父さんはあたしを娘に欲しいとお思ひにならない?」
「それあ欲しいとも。」製粉場主は嬉しさうに答へた。「若しアグレイアが生きてゐたとしたら、わしは何よりもあなたのやうな娘になつてゐてくれることを、あれの爲めに望みますよ。」それから彼も冗談に、次のやうに續けた。「假りにあなたがアグレイアだとしたら、あなたは吾々が水車場に住んでゐた頃のことを思ひ出せないかね?」
 チエスタ孃はすぐ眞顏になつて考へ込んだ。彼女の大きな眼は遠方の何かに、ぼんやりと見据ゑられた。『エイブラム師』は彼女が急に眞面目に返つたのを面白く思つた。彼女は口を開くまで、長い間ぢつとそのまゝ坐つてゐた。
「いゝえ」彼女は長い溜息をつきながら、たうとう言つた。「水車場のことなんか、少しも思ひ出せませんわ。あたし小父さんの奇妙な小さな教會を見るまで、生れてから粉挽場を見たことがあるやうな氣がしませんわ。若しあたしがあなたの娘なら、思ひ出せさうなもんですわね。さうぢやなくつて? あたし、なんだか口惜くやしいやうよ、エイブラム小父さん。」
「わしもさうです。」と『エイブラム師』は彼女に調子を合はせて言つた。「しかしロウズさん、若しもあなたがわしの小娘だつたことを思ひ出せないとしたら、當然誰か外の人の子だつたことを知つてゐさうなものだね。勿論、あなたは御兩親のことを覺えてゐませうね。」
「えゝ/\、あたし兩親をようく覺えてますわ――殊に父なんかは。父はまるであなたとは違つてましたわ、小父さん。あたしほんたうに冗談を言つてただけなの。さあ、もうたんとお休みになつたでせう。あなたはおひるから、ますおよいでるのが見える池へ連れてつてやると仰しやつたぢやないの。あたしまだ鱒を見たことがないんですもの。」
 或る午後、陽も傾いてから、『エイブラム師』はたゞ一人で古い水車場へ出かけた。彼はよくそこへ出かけて行つて、道の向うの田舍家に住んでゐた頃の追憶に耽るのだつた。月日は彼の強い悲しみをやはらげて、彼は最早その頃の記憶を苦痛とは思はなくなつてゐた。しかし、エイブラム・ストロングが九月の午後、「ダムズ」が毎日黄色い捲髮まきげを振り立てゝ驅け込んで來た場所へ坐る時、彼がレイクランヅで常に見せてゐる微笑も、流石さすがに彼の面から消えるのであつた。
 製粉場主は※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた急な道を、ゆつくりと登つて行つた。樹木が道端に迫つて、蔭を爲してゐたので、彼は帽子を手にして歩いた。右手は柵になつてゐて、その上を栗鼠りすが面白さうに驅け※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた。斜陽は西に開けた山峽に薄金色の光りを注いでゐた。アグレイアがゐなくなつた思ひ出の日も、あと數日で、※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)めぐつて來る九月の初めである。
 半ば山蔦やまづたに蔽はれた古い上射水車は、樹間を漏れる暖い陽光をまだらにうけてゐる。道を隔てた田舍家はまだ建つてゐるが、恐らく冬の嵐の吹く頃には倒れてゐるだらう。その家には一杯朝顏や胡盧へうたんの蔓が這つて、戸は一つの蝶番てふつがひつてゐる。
『エイブラム師』は水車場の戸を押し開いて、靜かにはひつて行つた。そして、不審さうにぢつと立ち止つた。彼は中で誰かの悲しさうな泣聲を聞いたのである。見れば、チエスタ孃が、うす暗い會衆席に、擴げ持つた手紙の上にかゞみながら、坐つてゐるのだつた。
『エイブラム師』は彼女に近づいて行つて、彼のがつしりとした片手を、しつかりと彼女の手の上に置いた。彼女は顏を上げて、口の中で彼の名を呼び、續いて何か言はうとした。
「お待ちなさい、ロウズさん。」製粉場主はやさしく言つた。「強ひて口をきかなくともよろしい。泣きたくなつた時には靜かに泣いてゐるのが一番いゝんだから。」
 彼自身多くの悲しみを經驗して來たこの老いた製粉場主は、他人の悲しみを取り除く事に、まるで魔術師のやうな腕を持つてゐるやうに思はれた。チエスタ孃の泣きじやくりはだん/\をさまつて來た。彼女はすぐに無地のふちを取つたハンカチを取り出して、『エイブラム師』の大きな手の上に落ちた一二滴の彼女の涙を拭き取つた。それから顏を上げて、涙を浮べたまゝ微笑んだ。チエスタ孃は、『エイブラム師』が、彼の悲しみの中にも微笑むことが出來るのと丁度同じやうに、彼女の涙がまだ乾かぬうちに微笑むことが出來た。さうした點に於いて、二人は大變よく似てゐた。
 製粉場主は何もかなかつた。しかし、チエスタ孃の方から、やがて話し出した。
 それは若い人達自身には、常に重大なことのやうに思へるが、それを聽く彼等の年長者の方では、囘想的な微笑を禁ずることが出來ないやうな、世間並の話なのである。かういへば大體想像もつく通り、つまり戀愛問題なのである。アトランタに一人の非常に善良な立派な青年があつて、彼はアトランタは愚か、北はグリーンランドより、南はパンタゴニアに至るまで、何處どこを搜しても、チエスタ孃にまさる人はないと考へたのであつた、彼女は彼女が讀みながら泣いてゐた手紙を、『エイブラム師』に見せた。それは、善良で立派な青年によつて書かれた戀文らしく、男らしく、やさしく、そしてやゝ最上級的な、熱烈なものだつた。彼はチエスタ孃とすぐ結婚したいと書いてゐた。又、彼女が三週間の旅に出てからの彼の生活が如何に堪へ難いものであるかを訴へ、彼の申込に對する彼女の即答を要求し、若し承知といふ返事であれば、不便な狹軌鐵道位は物ともせず、直ちにレイクランヅへ飛んで來るとも書いてゐた。
「これで一體、何處どこに心配することがあるんだらうね?」製粉場主は手紙を讀んでしまふと、さう訊いた。
「あたしは、その人と結婚することが出來ないんです。」チエスタ孃は言つた。
「あなたはその人と結婚したいんですか?」
「えゝ、あたし彼を愛してますわ。」チエスタ孃は答へた。「でも――」さう言ひかけたまゝ、彼女は頭を垂れて、またすゝり泣き始めた。
「ねえ、ロウズさん。」製粉場主は言つた。「祕密があれば打明けなさい。わしは別に穿鑿せんさくはせんが、わしを信用して貰つてもいゝと思うとる。」
「あたし小父さんを信じてますとも。」チエスタ孃は言つた。「何故なぜあたしがラルフの申込を拒絶しなければならないか、そのわけを申しますわ。あたしは誰でもないのです。私は名さへ無い人間なのです。あたしの名乘つてる名は嘘の名なんです。ラルフは名門の出です。あたしは心から彼を愛してゐながら、彼のところへいくことが出來ません。」
「これはどうしたこつた?」『エイブラム師』は言つた。「あなたは兩親を覺えてゐると言つたぢやないか。それに、何故なぜ名前がないなどゝ言ふんです? わしにはどうも分らん。」
「あたし、ほんたうに親達を覺えてゐます。」チエスタ孃は言つた。「ようく覺えてますわ。あたしの最初の記憶は、何處どこかずうつと南の方であたし達が暮らしてゐた時のことですわ。あたし達は、幾度も違つた町や州を移つて歩きました。あたし綿もみましたし、工場で働きもしました。そして、碌に食べもせず、着もせずに暮らしたことも度々でしたわ。お母さんは時々あたしをよくしてくれました。しかし、お父さんはいつもあたしをひどくし、打つたりなんかしました。何だか親達二人共、怠けてばかりゐて、住居すまひも落着かなかつたやうです。
「あたし達がアトランタの近くの、河沿ひの小さな町に住んでゐた頃のこと、親達は大喧嘩を始めました。さうして彼等がお互に罵り合ひおどし合つてゐた時です――あゝ、エイブラム小父さん――あたしには人の妻となる權利もないといふことが分つたのは――ねお分りでせう? 私には名前さへなかつたのです。私は誰でもなかつたのです。
「あたしはその晩逃げ出しました。あたしはアトランタまで歩いて、仕事を見つけました。そして、ロウズ・チエスタと名乘つて、今日まで自活して來ました。これで、あたしが何故ラルフと結婚出來ないかといふわけがお分りになつたでせう――でも、あゝ、あたしどうしても、こんなことをラルフに言へませんわ。」
 この場合、『エイブラム師』が彼女の悲しみをつまらないことだと言つたのが、如何なる同情よりも、憐憫よりもききめがあつた。
「なあんだ、チエスタさん! それだけのことか?」彼は言つた。「つまらない! わしは又何かもつと困つたことがあるのかと思つてゐた。若しその青年がいやしくも男であるなら、あなたの家系などは、爪のあかほども氣にかけないでせう。ロウズさん、わしは請合つて言ふが、彼が愛してゐるのはあなたその人ぢや。だから、わしに今話した通りのことを、彼に言つておしまひなさい。きつと彼はそれを一笑に附してしまふばかりか、あなたをそれが爲めに一層よく思つてくれるでせう。」
「あたし、とてもそんなことは言へません。」チエスタ孃は悲しさうに言つた。「そして、決して彼と、又他の誰とも結婚しないでせう。あたしにはそんな權利がないのです。」
 その時彼等は日の照つた道を、長い影が動きながらやつて來るのを見た。續いて、それとならんで短い影が現はれた。そして間もなく、二人の見知らぬ人の姿が教會に近づいて來た。長い方の影は、オルガンの練習に來た風琴手オルガニストフィービ・サマズ孃だつた。短い方の影は十二歳になるトミ・ティーグで、その日は彼がフィービ孃の爲めにオルガンのポンプを押す番だつた。彼はむき出しの足指で誇らしげに道のほこりを蹴つて來た。
 ライラックの枝花模樣の更紗さらさの服を着て、兩耳の上に几帳きちやう面な捲髮を垂れたフィービ孃は、『エイブラム師』に叮嚀に會釋ゑしやくをし、チエスタ孃に向つて、儀式張つて捲髮を振つた。それから彼女と彼女の助手とは、急な階段を二階のオルガン臺へと登つて行つた。
『エイブラム師』とチエスタ孃とは、夕闇の迫つて來る土間から、まだ立去らうとしなかつた。彼等は默然として、恰も各自めい/\の記憶を一心に辿つてゐる樣子であつた。チエスタ孃は頬杖をついて、遠くを見据ゑながら腰かけてゐた。『エイブラム師』は隣の座席に立つたまゝ、思ひに沈みながら、入口越しに、道路と荒れ果てた昔の住居すまひとを凝視みつめてゐた。
 忽ち彼は二十年の昔の光景の中に身を置く思ひがした。といふのは、トミがポンプを押し、フィービ孃が空氣の加減を見る爲めに、オルガンの低音部をぢつと押へたからである。『エイブラム師』の眼の前には、最早教會はなかつた。その小さな木造の建物をゆるがす深い唸りは、オルガンの音ではなくて、製粉機の響きであつた。彼にはどうしても、あの古い上射水車が※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、自分が再び粉まみれの陽氣な山の水車屋さんになつたとしか思へなかつた。その上丁度夕方になつたので、間もなくアグレイアが亞麻色の髮を振り立てながら、よち/\と路を横切つて、彼を夕食に呼びに來るやうに思へてならなかつた。『エイブラム師』の眼は、ぢつと彼の昔の住居すまひの破れたドアの上に注がれた。
 それから更に一つの奇蹟が起つた。頭の上の二階には、麥粉の袋が長く並べて積んであつた。多分その一つに鼠がゐたのであらう。兎に角、オルガンの底力のある響きが、二階の床の隙間から麥粉を振り落した。そして、『エイブラム師』を頭から足の先まで、粉で眞白にしてしまつた。その時、年取つた製粉場主は通路迄歩き出して、腕を振りながら、昔うたつた粉挽歌をうたひ出した。
「くるまが※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、
がひける。
まみれ粉屋こなやは上機嫌。」
――そして、奇蹟は更に奇蹟を生んだ。チエスタ孃は彼女の座席から身を乘り出し、顏色は麥粉のやうに眞白に血のを失ひ、眼を大きく見開いて、白日夢を見る人のやうに『エイブラム師』を凝視みつめてゐた。彼が粉挽歌をうたひ出した時、彼女は彼の方へ手をさし延べた。彼女の唇は動いた。そして、夢の中で人を呼ぶやうに言つた。「とうちやん、ダムズをお家へ連れてつて!」
 フィービ孃はオルガンの低音鍵を押へてゐた指をゆるめた。しかし、彼女の仕事は立派に爲しげられたのであつた。彼女のいた音色は、ざされた記憶のドアを打ち落したのである。そして、『エイブラム師』は一旦失はれたアグレイアを、再び堅くその腕に抱き締めてゐた。
 讀者諸君にして若しレイクランヅの地をおとづれられたならば、この物語についてもつと聞かれるところがあらう。人々は、後に至つてこの物語のつながりが如何に辿られたか、又宿無しのヂプシが彼女のあどけない美しさにひかれて、あの九月の日にアグレイアを盜み去つてからどうしたかといふやうなことを、讀者諸君に語るであらう。しかし、それは諸君がイーグル・ハウスの縁廊ポーチにゆつたりと落着かれた時の樂しみにしておいて戴きたい。その時にはいくらでもゆつくりと聽けますから。で、私の話は、フィービ孃のいたオルガンの低音が、まだ靜かに餘韻を殘してゐる間にめるのが一番いゝやうに思はれる。
 しかし、私にはこの物語で一番美しいと思はれるところがまだあるから、それだけを書き加へて置かう。それは彼等親子が、口もけないばかりの喜びにひたりながら、長い黄昏の中を、イーグル・ハウスへ歸る途上のことであつた。
「お父さん、」娘の方が、少し恥かしさうに、そして未だ信じ切れないといつた樣子で言つた。「あなたは澤山お金を持つてゐらつしやる?」
「澤山だつて?」製粉場主は言つた。「さうだね、それは程度問題だね。お前がお月樣なんぞのやうなものを買つてくれとさへ言はなければ、まあ澤山お金があるといつてよからうね。」
「アトランタへ電報を打つのは、隨分お金がかゝるでせうか?」これまでつましく暮らして來たアグレイアがいた。
「あゝ、さうか。」父は輕い溜息をつきながら言つた。「ラルフに來るやうに言つて遣りたいんだね。」
 アグレイアは父を見上げて、靜かに微笑んだ。
「あたし、彼に待つてくれるやうに言ひ度いんです。」彼女は言つた。「あたしやつとお父さんを見つけたばかりですもの。だから、少時しばらくお父さんと二人きりでゐたいの。待つて貰ひ度いと言つてやりますわ。」

底本:「世界文學全集(36)近代短篇小説集」新潮社
   1929(昭和4)年7月25日発行
※「穀」と「[#「轂」の「車」に代えて「米」、U+7CD3、209-上-10]」、「フイービ」と「フィービ」の混在は、底本通りです。
※「ヂョウシア・ランキン」「バンブリッヂ師」「スクヰレル・ギャップ」「ロマンテック」「トミ・ティーグ」「ライラック」の拗音・促音が小書きは、底本通りです。
入力:sogo
校正:岡村和彦
2020年5月27日作成
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