あらすじ
麦畑を刈るジャンは、老いた母親から、妻セリーヌと地主の噂を聞かされます。最初は信じようとしなかったジャンですが、昼食後、主人がセリーヌを林檎の樹の下へ呼ぶ姿を目撃し、母の言葉が真実だと確信します。激しい怒りと嫉妬に駆り立てられたジャンは、恐るべき行動に出るのです。
 ジャン・マデックは、緩(ゆっ)くり調子をとってさっくさっくと鎌を打ちこんでゆくと、麦穂は末端(はし)をふるわせ、さらさらと絹ずれのような音を立てつつ素直に伏(ふせ)るのであった。
 ジャンは歩調を按排(あんばい)しながら、器用な手捌きで前へ前へと刈りこんで行った。背(うし)ろには刈られたあとの畑が鳶色の地肌を現わし、そのところどころに小石原があって、褐色になった麦藁が厚く毛羽立っていた。
 年老(と)った母親は、ジャンの後から腰をかがめて、散らばった落穂を拾いあつめていたが、彼女の重い木履(サボ)を引きずっている足や、皺だらけの節くれだった手や、襤褸衣物(ぼろきもの)を着たその胴体だけを見ると、まるで獣が四つ足で這っている恰好だった。
 太陽が地平線から昇ると、炎熱があらゆるものを押しつつんで、田園全体が痲痺したようになり、そして耕地は爛熟した大きな果実のごとく、何ともいえない甘酸(あまずっ)ぱい香気を発散するのであった。
 婆さんは落穂をひろいながら、口の中でぶつぶつと呟いた。
「コレ、嫁は今時分まで何をしくさるだ。何時になったら来るかの」
「正午(おひる)には皆んなの弁当をもって来るよ」
 婆さんは肩をゆすぶって、
「何にしても、楽なもんじゃのう」
「なアに何家(どこ)の嬶(かかあ)も同じことよ。彼女(あれ)はここへ来ても、小舎(うち)にいても、せっせと仕事をしているだ」
「ふむ、彼様(あねえ)な仕事をな」
 婆さんはなお地面を掻きながら、独りごとのようにいった。
「旦那は今朝はまだここへ来ねえようだの。大方彼女(あれ)の傍(そば)にべたべたとくっついて、手助けでもしてござらっしゃるだろうさ」
 ジャンは鎌の手を休めて、
「何いうだ」
「うんにゃ、何でもねえだよ。話がさ……ただ……」
 ジャンはまた刈り進んで行った。が、婆さんはもう一度独りごとのように呟いた。
「お前の死んだ父親(てておや)という人は、彼様(あねえ)な真似大嫌いでのう。あの人が野良へ出たあとでは、わしは只の一度だって、旦那の話相手になんかなったことねえだよ」
 ジャンはまた顔をあげた。
「何だっておれに其様(そねえ)な話をするだ」
「何でもねえがの、父親(てておや)はお前なんかよりも気が廻っていたっていうことよ」
 するとジャンはすっくと立ち直って、
「な、何だって? そねえなこと云うからには、何か理由(わけ)があるべえ」
「あるとも」婆さんは相変らず腰をかがめたままで、「皆がお前やセリーヌの噂をしているだ。何のかのと煩(うる)さくいっているだよ」
「誰がさ」
「誰ってこともねえがの……皆ながよ……もっとも無理アねえだ、眼にあまることは見まいとしても見えるものだで」
「出鱈目いっているだ」
 しかし、婆さんは倅(せがれ)の打消しを聞かぬふりをして、爪先で土塊(つちくれ)を弾きながら、
「お前のためを思えばこそ、此様(こねえ)なこともいうだよ。わしはお前の母親でねえか。隠し立ては厭だからのう、後で怨まれるか知んねえが、云うだけはいっておくだ」
「皆んな出鱈目だっていうことよ。セリーヌはいい女房(かかあ)で、よく働いてくれるだ。それに、おれはこれっぱかりも彼女(あれ)に不自由はさせてねえだから、彼女(あれ)が何でおれを袖にするもんか」
 婆さんはどっちつかずの身振りをして、
「知れたもんじゃねえわさ」
 といったが、ふと調子をかえて、
「うんにゃ、わしは悪口をいうでねえ。利益(ため)を思えばこそいうだよ。彼女(あれ)なんかは若い盛りでのう、まだ面白い思いがしたい年頃じゃ。土曜日っていうと、市場へ行くのに、しゃれた服装(みなり)もしたいじゃろ。誘惑(まどわし)にかかるのは早いもんでな。それに、初めは何でもないように思われるもんじゃ。男の方でリボンだ、ショールだ、櫛だ、時計の鎖だと、いろんなものを与(く)れる。そんで貰った女は、出物を安く買ったとか、往来で拾ったとかいうだ。それは左様(そう)かも知れねえがの……」
 婆さんの一語一語がジャンの胸をえぐった。先日(こないだ)女房が地主の旦那と一緒に町へ出かけて行って、夜になってから帰って来たことがあったが、その日曜日には、彼女が木理(もくめ)リボンをつけ、薄紗(うすしゃ)のショールをかけていたのを彼は思いだした。殊に黄金(きん)の鎖が目立った。しかも彼女はそれを往来で拾ったといっていたのだ。
 婆さんは例の単調な声で話しつづけた。
「わしは彼女(あれ)の悪口などいいともねえがの、亭主っていうものは、年中嬶(かかあ)の傍(そば)にばかりくっついていられるもんじゃねえだ。毎日野良へ出なけりゃなんねえし、また兵隊の召集で、一月も小舎(うち)を空けることもあるべえに」
 ジャンはもう、母親の言葉なんか聞いてはいなかった。鎌を杖(つ)いてその上に腕をくみ合せ、何処を見るともなくきょとんとした眼つきをして、涯(はて)しもなく種々(いろいろ)なことを思いだしていた。些細な出来事までも記憶にうかんで来たが、それ等はみんな母親の暗示を裏書きする材料なのであった。
 女たらしの主人は、他の作男にはがみがみ小言をいうくせに、自分にだけ特に優しく目をかけてくれる。それというのも、女房(かかあ)が婀娜女(あだもの)なせいにちがいない――そう考えて来てふと思いだしたのは、もう一週間経てば軍隊の方へ一ヶ月も召集されて、その間留守にせねばならぬことであった。
 そのとき、耕地の端(はず)れの大木の下から人の呼び声がしたので、ジャンはふと顔をあげると、黄金(こがね)色の麦穂の上から、彼の女房の上体がちらと浮きあがった。と思うとその背(うし)ろの数歩離れたところに、つば広の帽子をかぶった赭(あか)ら顔の主人が、太短いステッキを振りながら畑の間を歩いているのが見えた。
「昼食(おひる)だよう」
 晴々した声がひびきわたると、麦畑の処々からぽつぽつ起(た)ちあがった作男等は、皆んな木蔭に集まって来て、やがて昼食(ちゅうじき)をはじめた。
 その中で、ジャンは独り黙りこくって麺麭(パン)を割(さ)いていると、
「どうしたんだ、マデック、いやに沈黙(むっつり)しているじゃないか」
 主人が声をかけると、
「お前さん、気分がわるいんじゃないの」
 と女房も聞いた。
「うんにゃ、お日様にひどく照りつけられたせいだよ。小舎(こや)で休んだらええかも知んねえ」
 すると主人は莞爾(にっこり)して、
「うむうむ、それがよかろう」
 昼食(ちゅうじき)を終えると皆んなが昼寝をした。少し涼しくなるまで骨休めをする習慣になっているのだ。
 ジャンはしかし、眠らなかった。腹ん這いになって頬杖をついて、じっと考えこんでいた。
 二時が鳴ると、作男等は起きだして仕事にかかった。そよとの風もない黄金(こがね)色の麦畑に、さっくさっくと刈り込む節調的(リズメ)な鎌の歌がまたつづいた。
 皆んなが仕事をやっている間、主人は長々と寝そべって、眠そうな声でジャンの女房を呼んだ。
「おいセリーヌ、お前縫針を持ってるかい」
「ござりますよ、旦那さま」
「そんならここへ来て、わしのブルーズを繕うてくれ。乳牛(うし)は皆んな牧場(まきば)へ放してあるし、あれ等を牛舎(こや)へ入れるまでにはまだまだ間がある。おお、ここも暑くなって来たぞ。わしは林檎(りんご)の樹の下へ行っているから、お前も束(たば)ねが済んだら彼処(あすこ)へ来てくれないか。畦(あぜ)を歩くんだぞ、麦を倒すと可(い)けないからな」
 男女(ふたり)は窃(ぬす)み笑いをした。ジャンは注意していたので早くもそれを見て取った。そして彼は何か物をいいそうにしたが、そのまま黙って首をうな垂れて自分の持場の方へ歩いて行った。
 婆さんが小舎(こや)へ帰ってしまったので、今度は女房が彼の後について来た。
 女房が束をしめあげたとき、彼は振りむきもしずに声をかけた。
「お前は先刻(さっき)旦那の仰(おっ)しゃったことを聞いたかね」
「ああ聞いたよ」
「そんなら、何でぐずぐずしているだ」
「今行くよ」
 かがんだままに、乱れた後れ毛を掻きあげてから、両手を腰へあてて、派手な裾着(すそぎ)の下でくるっと胴体をひねると、彼女は矢車菊を一本唇(くち)に啣(くわ)えて、畦づたいにすたすた歩きだした。
 彼女の姿は海にでも入るように、次第に草の中へかくれて行った。そして彼方(むこう)の林檎の樹のところで全く見えなくなったとき、ジャンは再び刈り方をつづけた。
 彼はしかし、午前中のような落ちついた軽快さを失っていた。性急(せっかち)に進んだかと思うと、突然手を休めたり、また思いだしたように遣りはじめたりするのであった。うつ向いて、口を堅く結んで、額にはむずかしそうな八の字をよせていた。
 婆さんに聞いた言葉の一つ一つが、胸の中で新酒のように醗酵して来た。顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)(こめかみ)のあたりがずきんずきんして、総身が憤恚(いかり)で酔っぱらっているようであった。最初は半信半疑だったけれど、今の先目撃した事実によって、それが間違いのない、しかもいよいよ確かなことのように思われて来たのだ。
 彼は前へ前へと刈り進んで行ったが、何だかあの林檎の木蔭で女房と主人が笑い交わしたり、接吻したりしている容子(ようす)がまざまざと眼に見えるような気がした。
 全身の力を腕にこめてぐんぐん刈ってゆくと、後ろには麦穂の束が続々ところがり、そして、鎌に喰われたあとの畑が急に広々となって見えた。彼は血気旺(さか)んな時分でさえ、こんなに仕事の捗(はかど)ったことがなかった。
「おうい、一日で刈り仕舞いにするかよう」
 遠くの方から、作男の一人が声をかけると、
「そうかも知んねえ」
 とジャンは腰ものばさずに答えた。
 やがて、かの林檎の樹から数メートルのところまで進んで行ったとき、彼はふと手を休めて、聴き耳をたてると、そこにひそひそ話が聞えた。それは確かに女房の声で、
「厭……あの人に見つかると大変よ」
「しっ、彼(あれ)はまだ向うの端(はず)れにぐずぐずしているんだよ。ここまで刈って来るには、半時間も間のあることだ……どれ、もっと傍(そば)へお寄り」
 ジャンは陽に炎(や)けた顔を真蒼にして数秒間立ちすくんだが、屹度(きっと)思い定めた風で再び刈り進んだ。しかし今度は歩調をゆるめて、音を立てないように静かに鎌を捌きながらやってゆくと、もう少しでかの林檎の樹の下へ出ようとするとたんに、ふと接吻の音が聞えて来た。
 ジャンはすっくと起(た)ちあがると、物すごい形相で鎌を振りあげたが、その刃先が陽にきらめくよと見る間に風を切って打ちおろされた。きゃっと消魂(たまぎ)る叫びとともに宙に飛んだ二つの首級(くび)がもんどり打って地面へころげ落ちると、さらさらという音がして、折れた麦穂を鮮血(あけ)に染めた。と、真紅(まっか)になった鎌が高く投(ほう)りだされた。
 ジャンは鎌を投げ棄てると、血染めの両手を振りながら叫んだ。
「誰か来てくれい。人がいたとは知らねえで、おらアどえれえことをやっただ!」
了

底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社
   2003(平成15)年2月14日初版
底本の親本:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
初出:「夜鳥」春陽堂
   1928(昭和3)年6月23日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:ノワール
校正:栗田美恵子
2022年2月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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