たう貞觀ぢやうくわんころだとふから、西洋せいやうは七世紀せいきはじめ日本にほん年號ねんがうふもののやつと出來掛できかかつたときである。閭丘胤りよきういん官吏くわんりがゐたさうである。もつともそんなひとはゐなかつたらしいとひともある。なぜかとふと、りよ台州たいしう主簿しゆぼになつてゐたとつたへられてゐるのに、新舊しんきう唐書たうしよでんえない。主簿しゆぼへば、刺史ししとか太守たいしゆとかふとおなくわんである。支那しな全國ぜんこくだうわかれ、だうしうまたぐんわかれ、それがけんわかれ、けんしたがうがありがうしたがある。しうには刺史ししひ、ぐんには太守たいしゆふ。一たい日本にほんけんよりちひさいものにぐんけてゐるのは不都合ふつがふだと、吉田東伍よしだとうごさんなんぞは不服ふふくとなへてゐる。りよはたして台州たいしう主簿しゆぼであつたとすると日本にほん府縣知事ふけんちじくらゐ官吏くわんりである。さうしてると、唐書たうしよ列傳れつでんてゐるはずだとふのである。しかしりよがゐなくてははなしたぬから、かくもゐたことにしてくのである。
 さてりよ台州たいしう著任ちやくにんしてから三日目かめになつた。長安ちやうあん北支那きたしな土埃つちほこりかぶつて、にごつたみづんでゐたをとこ台州たいしう中央支那ちゆうあうしなえたつちみ、んだみづむことになつたので、上機嫌じやうきげんである。それにこのあひだに、多人數たにんず下役したやく謁見えつけんをする。受持々々うけもち/\事務じむ形式的けいしきてき報告はうこくする。そのあわただしいなかに、地方長官ちはうちやうくわん威勢ゐせいおほきいことをあじはつて、意氣揚々いきやう/\としてゐるのである。
 りよ前日ぜんじつ下役したやくのものにつていて、今朝けさはやきて、天台縣てんだいけん國清寺こくせいじをさして出掛でかけることにした。これは長安ちやうあんにゐたときから、台州たいしういたら早速さつそくかうとめてゐたのである。
 なん用事ようじがあつて國清寺こくせいじくかとふと、それには因縁いんねんがある。りよ長安ちやうあん主簿しゆぼ任命にんめいけて、これから任地にんち旅立たびだたうとしたとき生憎あいにくこらへられぬほど頭痛づつうおこつた。單純たんじゆんなレウマチスせい頭痛づつうではあつたが、りよ平生へいぜいからすこ神經質しんけいしつであつたので、かりつけ醫者いしやくすりんでもなか/\なほらない。これでは旅立たびだちばさなくてはなるまいかとつて、女房にようばう相談さうだんしてゐると、そこへ小女こをんなて、「只今たゞいま御門ごもんまへ乞食坊主こじきばうずがまゐりまして、御主人ごしゆじんにおかりたいとまをしますがいかがいたしませう」とつた。
「ふん、坊主ばうずか」とつてりよしばらかんがへたが、「かくつてるから、こゝへとほせ」とけた。そして女房にようばうおくませた。
 元來ぐわんらいりよ科擧くわきよおうずるために、經書けいしよんで、五ごんつくることをならつたばかりで、佛典ぶつてんんだこともなく、老子らうし研究けんきうしたこともない。しかし僧侶そうりよ道士だうしふものにたいしては、何故なぜふこともなく尊敬そんけいねんつてゐる。自分じぶん會得ゑとくせぬものにたいする、盲目まうもく尊敬そんけいとでもはうか。そこで坊主ばうずいてはうとつたのである。
 もなく這入はひつてたのは、一にんたかそうであつた。あかつきやぶれた法衣ほふえて、ながびたかみを、まゆうへつてゐる。かぶさつてうるさくなるまでつていたものとえる。には鐵鉢てつぱつつてゐる。
 そうだまつてつてゐるのでりようて見た。「わたしにひたいとはれたさうだが、なんの御用ごようかな。」
 そうつた。「あなたは台州たいしうへおいでなさることにおなりなすつたさうでございますね。それに頭痛づつうなやんでおいでなさるとまをすことでございます。わたくしはそれをなほしてしんぜようとおもつてまゐりました。」
「いかにもはれるとほりで、その頭痛づつうのために出立しゆつたつばさうかとおもつてゐますが、どうしてなほしてくれられるつもりか。なに藥方やくはうでも御存ごぞんじか。」
「いや。四だいなやますやまひまぼろしでございます。たゞ清淨しやうじやうみづこの受糧器じゆりやうきに一ぱいあればよろしい。まじなひなほしてしんぜます。」
「はあまじなひをなさるのか。」かうつてすこかんがへたが「仔細しさいあるまい、一つまじなつてください」とつた。これは醫道いだうことなどは平生へいぜいふかかんがへてもをらぬので、どう治療ちれうならさせる、どう治療ちれうならさせぬと定見ていけんがないから、たゞ自分じぶん悟性ごせい依頼いらいして、その折々をり/\判斷はんだんするのであつた。勿論もちろんさうひとだから、かりつけ醫者いしやふのも人選にんせんをしたわけではなかつた。素問そもん靈樞れいすうでもむやうな醫者いしやさがしてめてゐたのではなく、近所きんじよんでゐてぶのに面倒めんだうのない醫者いしやかつてゐたのだから、ろくなくすりませてもらふことが出來できなかつたのである。いま乞食坊主こじきばうずたのになつたのは、なんとなくえらさうにえる坊主ばうず態度たいどしんおこしたのと、みず一ぱいでするまじなひなら間違まちがつたところ危險きけんこともあるまいとおもつたのとのためである。丁度ちやうど東京とうきやう高等官かうとうくわん連中れんちゆう紅療治べにれうぢ氣合術きあひじゆつ依頼いらいするのとおなことである。
 りよ小女こをんなんで、汲立くみたてみづはちれていとめいじた。みづた。そうはそれをつて、むねさゝげて、ぢつとりよ見詰みつめた。清淨しやうじやうみづでもければ、不潔ふけつみづでもい、でもちやでもいのである。不潔ふけつみづでなかつたのは、りよがためには勿怪もつけさいはひであつた。しばら見詰みつめてゐるうちに、りよおぼえず精神せいしんそうさゝげてゐるみづ集注しふちゆうした。
 このときそう鐵鉢てつぱつみづくちふくんで、突然とつぜんふつとりよあたまけた。
 りよはびつくりして、背中せなか冷汗ひやあせた。
「お頭痛づつうは」とそううた。
「あ。なほりました。」實際じつさいりよはこれまで頭痛づつうがする、頭痛づつうがするとにしてゐて、どうしてもなほらせずにゐた頭痛づつうを、坊主ばうずみづられて、がしてしまつたのである。
 そうしづかにはちのこつたみづゆかかたむけた。そして「そんならこれでおいとまをいたします」とふやいなや、くるりとりよ背中せなかけて、戸口とぐちはうあるした。
「まあ、一寸ちよつと」とりよめた。
 そうかへつた。「なに御用ごようで。」
寸志すんしのおれいがいたしたいのですが。」
「いや。わたくしは群生ぐんしやう福利ふくりし、※(「りっしんべん+喬」、第3水準1-84-61)けうまん折伏しやくぶくするために、乞食こつじきはいたしますが、療治代れうぢだいいたゞきませぬ。」
「なるほど。それではひてはまをしますまい。あなたはどちらのおかたか、それをうかゞつてきたいのですが。」
「これまでをつたところでございますか。それは天台てんだい國清寺こくせいじで。」
「はあ。天台てんだいにをられたのですな。おは。」
豐干ぶかんまをします。」
天台てんだい國清寺こくせいじ豐干ぶかんおつしやる。」りよはしつかりおぼえてかうと努力どりよくするやうに、まゆひそめた。「わたしもこれから台州たいしうくものであつてれば、ことさらおなつかしい。ついでだからうかゞひたいが、台州たいしうにはひにつてめになるやうな、えらいひとはをられませんかな。」
「さやうでございます。國清寺こくせいじ拾得じつとくまをすものがをります。じつ普賢ふげんでございます。それからてら西にしはうに、寒巖かんがん石窟せきくつがあつて、そこに寒山かんざんまをすものがをります。じつ文殊もんじゆでございます。さやうならおいとまをいたします。」かうつてしまつて、ついとつた。
 かう因縁いんねんがあるので、りよ天台てんだい國清寺こくせいじをさして出懸でかけるのである。

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 全體ぜんたいなかひとの、みちとか宗教しうけうとかふものにたいする態度たいど三通みとほりある。自分じぶん職業しよくげふられて、たゞ營々役々えい/\えき/\年月としつきおくつてゐるひとは、みちふものをかへりみない。これは讀書人どくしよじんでもおなことである。勿論もちろんしよんでふかかんがへたら、みち到達たうたつせずにはゐられまい。しかしさうまでかんがへないでも、日々ひゞつとめだけはべんじてかれよう。これはまつた無頓著むとんちやくひとである。
 つぎ著意ちやくいしてみちもとめるひとがある。專念せんねんみちもとめて、萬事ばんじなげうつこともあれば、日々ひゞつとめおこたらずに、えずみちこゝろざしてゐることもある。儒學じゆがくつても、道教だうけうつても、佛法ぶつぱふつても基督教クリストけうつてもおなことである。かうひとふか這入はひむと日々ひゞつとめすなはみちそのものになつてしまふ。つゞめてへばこれはみなみちもとめるひとである。
 この無頓著むとんちやくひとと、みちもとめるひととの中間ちゆうかんに、みちふものゝ存在そんざい客觀的かくくわんてきみとめてゐて、それにたいしてまつた無頓著むとんちやくだとふわけでもなく、さればとつてみづかすゝんでみちもとめるでもなく、自分じぶんをばみち疎遠そゑんひとだと諦念あきらめ、べつみち親密しんみつひとがゐるやうにおもつて、それを尊敬そんけいするひとがある。尊敬そんけいはどの種類しゆるゐひとにもあるが、たんおな對象たいしやう尊敬そんけいする場合ばあひ顧慮こりよしてつてると、みちもとめるひとならおくれてゐるものがすゝんでゐるものを尊敬そんけいすることになり、こゝに中間人物ちゆうかんじんぶつなら、自分じぶんのわからぬもの、會得ゑとくすることの出來できぬものを尊敬そんけいすることになる。そこに盲目まうもく尊敬そんけいしやうずる。盲目まうもく尊敬そんけいでは、たま/\それをさしける對象たいしやう正鵠せいこくてゐても、なんにもならぬのである。

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 りよ衣服いふくあらた輿つて、台州たいしう官舍くわんしやた。從者じゆうしやすうにんある。
 ときふゆはじめで、しもすこつてゐる。椒江せうこう支流しりうで、始豐溪しほうけいかは左岸さがん迂囘うくわいしつつきたすゝんでく。はじくもつてゐたそらがやうやうれて、蒼白あをじろきし紅葉もみぢてらしてゐる。みち出合であ老幼らうえうは、みな輿けてひざまづく。輿なかではりよがひどく心持こゝろもちになつてゐる。牧民ぼくみんしよくにゐて賢者けんしやれいするとふのが、手柄てがらのやうにおもはれて、りよ滿足まんぞくあたへるのである。
 台州たいしうから天台縣てんだいけんまでは六十はんほどである。日本にほんの六はんほどである。ゆる/\輿かせてたので、けんから役人やくにんむかへにたのにつたとき、もうひるぎてゐた。知縣ちけん官舍くわんしややすんで、馳走ちそうになりつゝいてると、こゝから國清寺こくせいじまでは、爪先上つまさきあがりのみちまた六十ある。くまでにはりさうである。そこでりよ知縣ちけん官舍くわんしやとまることにした。
 翌朝よくてう知縣ちけんおくられてた。けふもきのふにかはらぬ天氣てんきである。一たい天台てんだいまん八千ぢやうとは、いつたれ測量そくりやうしたにしても、所詮しよせん高過たかすぎるやうだが、かくとらのゐるやまである。みちはなか/\きのふのやうにははかどらない。途中とちゆう午飯ひるめしつて、西にしかたむかつたころ國清寺こくせいじの三もんいた。智者大師ちしやだいし滅後めつごに、ずゐ煬帝やうだいてたとてらである。
 てらでも主簿しゆぼ御參詣ごさんけいだとふので、おろそかにはしない。道翹だうげうそう出迎でむかへて、りよ客間きやくま案内あんないした。さて茶菓ちやくわ饗應きやうおうむと、りようた。「當寺たうじ豐干ぶかんそうがをられましたか。」
 道翹だうげうこたへた。「豐干ぶかんおつしやいますか。それは先頃さきころまで、本堂ほんだう背後うしろ僧院そうゐんにをられましたが、行脚あんぎやられたきりかへられませぬ。」
當寺たうじではどうことをしてをられましたか。」
「さやうでございます。僧共そうどもべるこめいてをられました。」
「はあ。そしてなにほか僧達そうたちかはつたことはなかつたのですか。」
「いえ。それがございましたので、はじたゞ骨惜ほねをしみをしない、親切しんせつ同宿どうしゆくだとぞんじてゐました豐干ぶかんさんを、わたくしども大切たいせつにいたすやうになりました。するとふいとつてしまはれました。」
「それはどうことがあつたのですか。」
まつた不思議ふしぎことでございました。やまからとらつてかへつてまゐられたのでございます。そしてそのまゝ廊下らうか這入はひつて、とらぎんじてあるかれました。一たいぎんずることのすきひとで、うら僧院そうゐんでも、よるになるとぎんぜられました。」
「はあ。きた阿羅漢あらかんですな。その僧院そうゐんあとはどうなつてゐますか。」
只今たゞいま明家あきやになつてをりますが、折々おり/\よるになると、とらまゐつてえてをります。」
「そんなら御苦勞ごくらうながら、そこへ御案内ごあんないねがひませう。」かうつて、りよつた。
 道翹だうげうくもはらひつゝさきつて、りよ豐干ぶかんのゐた明家あきやれてつた。がもうかつたので、薄暗うすくら屋内をくない※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)みまはすに、がらんとしてなに一つい。道翹だうげうかゞめて石疊いしだゝみうへとら足跡あしあとゆびさした。たま/\山風やまかぜまどそといてとほつて、うづたかには落葉おちばげた。そのおと寂寞せきばくやぶつてざわ/\とると、りよかみけられるやうにかんじて、全身ぜんしんはだあはしやうじた。
 りよせはしげに明家あきやた。そしてあとからいて道翹だうげうつた。「拾得じつとくそうは、まだ當寺たうじにをられますか。」
 道翹だうげう不審ふしんらしくりよかほた。「御存ごぞんじでございます。先刻せんこくあちらのくりやで、寒山かんざんまをすものとあたつてをりましたから、御用ごようがおありなさるなら、せませうか。」
「はゝあ。寒山かんざんてをられますか。それはねがつてもことです。どうぞ御苦勞ごくらうついでくりや御案内ごあんないねがひませう。」
承知しようちいたしました」とつて、道翹だうげう本堂ほんだういて西にしあるいてく。
 りよ背後うしろからうた。「拾得じつとくさんはいつごろから當寺たうじにをられますか。」
「もう餘程よほどひさしいことでございます。あれは豐干ぶかんさんが松林まつばやしなかからひろつてかへられた捨子すてごでございます。」
「はあ。そして當寺たうじではなにをしてをられますか。」
ひろはれてまゐつてから三ねんほどちましたとき食堂しよくだう上座じやうざざうかうげたり、燈明とうみやうげたり、そのほかそなへものをさせたりいたしましたさうでございます。そのうち上座じやうざざう食事しよくじそなへていて、自分じぶんつて一しよにべてゐるのを見付みつけられましたさうでございます。賓頭盧尊者びんづるそんじやざうがどれだけたつといものかぞんぜずにいたしたことゝえます。唯今たゞいまではくりや僧共そうども食器しよくきあらはせてをります。」
「はあ」とつて、りよ二足ふたあし三足みあしあるいてからうた。「それから唯今たゞいま寒山かんざんおつしやつたが、それはどうかたですか。」
寒山かんざんでございますか。これは當寺たうじから西にしはう寒巖かんがんまを石窟せきくつんでをりますものでございます。拾得じつとく食器しよくきあらひますときのこつてゐるめしさいたけつゝれてつてきますと、寒山かんざんはそれをもらひにまゐるのでございます。」
「なるほど」とつて、りよいてく。こゝろうちでは、そんなことをしてゐる寒山かんざん拾得じつとく文殊もんじゆ普賢ふげんなら、とらつた豐干ぶかんはなんだらうなどと、田舍者いなかもの芝居しばゐて、どのやくがどの俳優はいいうかとおもまどときのやうな氣分きぶんになつてゐるのである。

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はなはだむさくるしいところで」とひつゝ、道翹だうげうりよくりやうちんだ。
 こゝは湯気ゆげが一ぱいもつてゐて、にはか這入はひつてると、しかともの見定みさだめることも出來できくらゐである。その灰色はひいろなかおほきいかまどが三つあつて、どれにものこつたまき眞赤まつかえてゐる。しばらまつててゐるうちに、いしかべ沿うてつくけてあるつくゑうへ大勢おほぜいそうめしさいしる鍋釜なべかまからうつしてゐるのがえてた。
 このとき道翹だうげうおくはういて、「おい、拾得じつとく」とけた。
 りよその視線しせん辿たどつて、入口いりくちから一ばんとほかまどまへると、そこに二人ふたりそううづくまつてあたつてゐるのがえた。
 一人ひとりかみの二三ずんびたあたまして、あしには草履ざうり穿いてゐる。いま一人ひとりかはんだばうかぶつて、あしには木履ぽくり穿いてゐる。どちらもせてすぼらしい小男こをとこで、豐干ぶかんのやうな大男おほをとこではない。
 道翹だうげうけたときあたましたはうひてにやりとわらつたが、返事へんじはしなかつた。これが拾得じつとくだとえる。ばうかぶつたはう身動みうごきもしない。これが寒山かんざんなのであらう。
 りよはかう見當けんたうけて二人ふたりそばすゝつた。そしてそであはせてうや/\しくれいをして、「朝儀大夫てうぎたいふ使持節しぢせつ台州たいしう主簿しゆぼ上柱國じやうちゆうこく賜緋魚袋しひぎよたい閭丘胤りよきういんまをすものでございます」と名告なのつた。
 二人ふたり同時どうじりよ一目ひとめた。それから二人ふたりかほ見合みあはせてはらそこからげてるやうな笑聲わらひごゑしたかとおもふと、一しよにがつて、くりやしてげた。げしなに寒山かんざんが「豐干ぶかんがしやべつたな」とつたのがきこえた。
 おどろいてあと見送みおくつてゐるりよ周圍しうゐには、めしさいしるつてゐたそうが、ぞろ/\とてたかつた。道翹だうげう眞蒼まつさをかほをしてすくんでゐた。

底本:「鴎外全集 第十六卷」岩波書店
   1973(昭和48)年2月22日発行
※底本では「寒山拾得」「附寒山拾得縁起」と「附」付きでまとめてあったものを、「寒山拾得」「寒山拾得縁起」として分割しました。
入力:青空文庫
1997年10月8日公開
2004年3月24日修正
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