あらすじ
ミュンヘンの美術学校「カッフェエ・ミネルワ」に集う学生たちの中に、日本の画家・巨勢が現れます。彼は、かつてドレスデンで出会った「菫花売りの少女」を忘れられず、その姿を絵にしようと決意し、ミュンヘンを訪れたのです。酒を飲み、語り合う中で、巨勢は自身の「ロオレライ」の画について語り始めます。その物語に聞き入る中で、一人の少女が「私は、あなたがかつて出会った菫花売りの娘です」と告白します。驚きと喜びに包まれた巨勢ですが、その少女は、彼をさらに驚く言葉を投げかけます。先に立ちたるは、かち色の髪のそそけたるを厭はず、幅広き襟飾斜に結びたるさま、誰が目にも、ところの美術諸生と見ゆるなるべし。立ち住りて、後なる色黒き小男に向ひ、「ここなり」といひて、戸口をあけつ。
先づ二人が面を撲つはたばこの烟にて、遽に入りたる目には、中なる人をも見わきがたし。日は暮れたれど暑き頃なるに、窓悉くあけ放ちはせで、かかる烟の中に居るも、習となりたるなるべし。「エキステルならずや、いつの間にか帰りし。」「なほ死なでありつるよ。」など口々に呼ぶを聞けば、彼諸生はこの群にて、馴染あるものならむ。その間、あたりなる客は珍らしげに、後につきて入来れる男を見つめたり。見つめらるる人は、座客のなめなるを厭ひてか、暫し眉根に皺寄せたりしが、とばかり思ひかへししにや、僅に笑を帯びて、一座を見度しぬ。
この人は今着きし汽車にて、ドレスデンより来にければ、茶店のさまの、かしことここと殊なるに目を注ぎぬ。大理石の円卓幾つかあるに、白布掛けたるは、夕餉畢りし迹をまだ片附けざるならむ。裸なる卓に倚れる客の前に据ゑたる土やきの盃あり。盃は円筒形にて、燗徳利四つ五つも併せたる大さなるに、弓なりのとり手つけて、金蓋を蝶番に作りて覆ひたり。客なき卓に珈琲碗置いたるを見れば、みな倒に伏せて、糸底の上に砂糖、幾塊か盛れる小皿載せたるもをかし。
客はみなりも言葉もさまざまなれど、髪もけづらず、服も整へぬは一様なり。されどあながち卑しくも見えぬは、さすが芸術世界に遊べるからにやあるらむ。中にも際立ちて賑しきは中央なる大卓を占めたる一群なり。よそには男客のみなるに、独ここには少女あり。今エキステルに伴はれて来し人と目を合はせて、互に驚きたる如し。
来し人はこの群に珍らしき客なればにや。また少女の姿は、初めて逢ひし人を動かすに余あらむ。前庇広く飾なき帽を被ぶりて、年は十七、八ばかりと見ゆる顔ばせ、ヱヌスの古彫像を欺けり。そのふるまひには自ら気高き処ありて、かいなでの人と覚えず。エキステルが隣の卓なる一人の肩を拍ちて、何事をか語ゐたるを呼びて、「こなたには面白き話一つする人なし。この様子にては骨牌に遁れ球突に走るなど、忌はしき事を見むも知られず。おん連れの方と共に、こなたへ来たまはずや。」と笑みつつ勧むる、その声の清きに、いま来し客は耳傾けつ。
「マリイの君のゐ玉ふ処へ、誰か行かざらむ。人々も聞け、けふこの『ミネルワ』の仲間に入れむとて伴ひたるは、巨勢君とて、遠きやまとの画工なり。」とエキステルに紹介せられて、随来ぬる男の近寄りて会釈するに、起ちて名告りなどするは、外国人のみ。さらぬは坐したるままにて答ふれど、侮りたるにもあらず、この仲間の癖なるべし。
エキステル、「わがドレスデンなる親族訪ねにゆきしは人々も知りたり。巨勢君にはかしこなる画堂にて逢ひ、それより交を結びて、こたび巨勢君、ここなる美術学校に、しばし足を駐めむとて、旅立ち玉ふをり、われも倶にかへり路に上りぬ。」人々は巨勢に向ひて、はるばる来ぬる人と相識れるよろこびを陳べ、さて、「大学にはおん国人も、をりをり見ゆれど、美術学校に来たまふは、君がはじめなり。けふ着きたまひしことなれば、『ピナコテエク』、また美術会の画堂なども、まだ見玉はじ。されどよそにて見たまひし処にて、南独逸の画を何とか見たまふ。こたび来たまひし君が目的は奈何。」など口々に問ふ。マリイはおしとどめて、「しばししばし、かく口を揃へて問はるる、巨勢君とやらむの迷惑、人々おもはずや。聞かむとならば、静まりてこそ。」といふを、「さても女主人の厳しさよ、」と人々笑ふ。巨勢は調子こそ異様なれ、拙からぬ独逸語にて語りいでぬ。
「わがミュンヘンに来しは、このたびを始とせず。六年前にここを過ぎて、索遜にゆきぬ。そのをりは『ピナコテエク』に懸けたる画を見しのみにて、学校の人々などに、交を結ぶことを得ざりき。そは故郷を出でし時よりの目あてなるドレスデンの画堂へ往かむと、心のみ急がれしゆゑなり。されど再びここに来て、君らがまとゐに入ることとなりし、その因縁をば、早く当時に結びぬ。」
「大人気なしといひけたで聞き玉へ。謝肉[#「謝肉」の左に「カルネワル」のルビ]の祭、はつる日の事なりき。『ピナコテエク』の館出でし時は、雪いま晴れて、街の中道なる並木の枝は、一つ一つ薄き氷にてつつまれたるが、今点ぜし街燈に映じたり。いろいろの異様なる衣を着て、白くまた黒き百眼掛けたる人、群をなして往来し、ここかしこなる窓には毛氈垂れて、物見としたり。カルルの辻なる『カッフェエ・ロリアン』に入りて見れば、おもひおもひの仮装色を争ひ、中に雑りし常の衣もはえある心地す。みなこれ『コロッセウム』、『ヰクトリア』などいふ舞踏場のあくを待てるなるべし。」
かく語る処へ、胸当につづけたる白前垂掛けたる下女、麦酒の泡だてるを、ゆり越すばかり盛りたる例の大杯を、四つ五つづつ、とり手を寄せてもろ手に握りもち、「新しき樽よりとおもひて、遅うなりぬ。許したまへ」とことわりて、前なる杯飲みほしたりし人々にわたすを、少女、「ここへ、ここへ」と呼びちかづけて、まだ杯持たぬ巨勢が前にも置かす。巨勢は一口飲みて語りつづけぬ。
「われも片隅なる一榻に腰掛けて、賑はしきさま打見るほどに、門の戸あけて入りしは、きたなげなる十五ばかりの伊太利栗うりにて、焼栗盛りたる紙筒を、堆く積みし箱かいこみ、『マロオニイ、セニョレ。』(栗めせ、君)と呼ぶ声も勇ましき、後につきて入りしは、十二、三と見ゆる女の子なりき。旧びたる鷹匠頭巾[#「鷹匠頭巾」の左に「カプウチェ」のルビ]、ふかぶかと被り、凍えて赤うなりし両手さしのべて、浅き目籠の縁を持ちたり。目籠には、常盤木の葉、敷き重ねて、その上に時ならぬ菫花の束を、愛らしく結びたるを載せたり。『ファイルヘン、ゲフェルリヒ』(すみれめせ)と、うなだれたる首を擡げもあへでいひし声の清さ、今に忘れず。この童と女の子と、道連れとは見えねば、童の入るを待ちて、これをしほに、女の子は来しならむとおもはれぬ。」
「この二人のさまの殊なるは、早くわが目を射き。人を人ともおもはぬ、殆憎げなる栗うり、やさしくいとほしげなるすみれうり、いづれも群ゐる人の間を分けて、座敷の真中、帳場の前あたりまで来し頃、そこに休みゐたる大学々生らしき男の連れたる、英吉利種の大狗、いままで腹這ひてゐたりしが、身を起して、背をくぼめ、四足を伸ばし、栗箱に鼻さし入れつ。それと見て、童の払ひのけむとするに、驚きたる狗、あとに附きて来し女の子に突当れば、『あなや、』とおびえて、手に持ちし目籠とり落したり。茎に錫紙巻きたる、美しきすみれの花束、きらきらと光りて、よもに散りぼふを、好き物得つと彼狗、踏みにじりては、へて引きちぎりなどす。ゆかは暖炉の温まりにて解けたる、靴の雪にぬれたれば、あたりの人々、かれ笑ひ、これ罵るひまに、落花狼藉、なごりなく泥土に委ねたり。栗うりの童は、逸足出して逃去り、学生らしき男は、欠びしつつ狗を叱し、女の子は呆れて打守りたり。この菫花うりの忍びて泣かぬは、うきになれて涙の泉涸れたりしか、さらずは驚き惑ひて、一日の生計、これがために已まむとまでは想到らざりしか。しばしありて、女の子は砕けのこりたる花束二つ三つ、力なげに拾はむとするとき、帳場にゐる女の知らせに、ここの主人出でぬ。赤がほにて、腹突きいだしたる男の、白き前垂したるなり。太き拳を腰にあてて、花売りの子を暫し睨み、『わが店にては、暖簾師[#「暖簾師」の左に「ハウジイレル」のルビ]めいたるあきなひ、せさせぬが定なり。疾くゆきね。』とわめきぬ。女の子は唯言葉なく出でゆくを、満堂の百眼、一滴の涙なく見送りぬ。」
「われは珈琲代の白銅貨を、帳場の石板の上に擲げ、外套取りて出でて見しに、花売の子は、ひとりさめさめと泣きてゆくを、呼べども顧みず。追付きて、『いかに、善き子、菫花のしろ取らせむ、』といふを聞きて、始めて仰見つ。そのおもての美しさ、濃き藍いろの目には、そこひ知らぬ憂ありて、一たび顧みるときは人の腸を断たむとす。嚢中の『マルク』七つ八つありしを、から籠の木の葉の上に置きて与へ、驚きて何ともいはぬひまに、立去りしが、その面、その目、いつまでも目に付きて消えず。ドレスデンにゆきて、画堂の額うつすべき許を得て、ヱヌス、レダ、マドンナ、ヘレナ、いづれの図に向ひても、不思議や、すみれ売のかほばせ霧の如く、われと画額との間に立ちて障礙をなしつ。かくては所詮、我業の進まむこと覚束なしと、旅店の二階に籠もりて、長椅子の覆革に穴あけむとせし頃もありしが、一朝大勇猛心を奮ひおこして、わがあらむ限の力をこめて、この花売の娘の姿を無窮に伝へむと思ひたちぬ。さはあれどわが見し花うりの目、春潮を眺むる喜の色あるにあらず、暮雲を送る夢見心あるにあらず、伊太利古跡の間に立たせて、あたりに一群の白鳩飛ばせむこと、ふさはしからず。我空想はかの少女をラインの岸の巌根にをらせて、手に一張の琴を把らせ、嗚咽の声を出させむとおもひ定めにき。下なる流にはわれ一葉の舟を泛べて、かなたへむきてもろ手高く挙げ、面にかぎりなき愛を見せたり。舟のめぐりには数知られぬ、『ニックセン』、『ニュムフェン』などの形波間より出でて揶揄す。けふこのミュンヘンの府に来て、しばし美術学校の『アトリエ』借らむとするも、行李の中、唯この一画藁、これをおん身ら師友の間に議りて、成しはてむと願ふのみ。」
巨勢はわれ知らず話しいりて、かくいひ畢りし時は、モンゴリア形の狭き目も光るばかりなりき。「いしくも語りけるかな、」と呼ぶもの二人三人。エキステルは冷淡に笑ひて聞ゐたりしが、「汝たちもその図見にゆけ、一週がほどには巨勢君の『アトリエ』ととのふべきに」といひき。マリイは物語の半より色をたがへて、目は巨勢が唇にのみ注ぎたりしが、手に持ちし杯さへ一たびは震ひたるやうなりき。巨勢は初このまとゐに入りし時、已に少女の我すみれうりに似たるに驚きしが、話に聞きほれて、こなたを見つめたるまなざし、あやまたずこれなりと思はれぬ。こも例の空想のしわざなりや否や。物語畢りしとき、少女は暫し巨勢を見やりて、「君はその後、再び花うりを見たまはざりしか、」と問ひぬ。巨勢は直ちに答ふべき言葉を得ざるやうなりしが。「否。花売を見しその夕の汽車にてドレスデンを立ちぬ。されどなめなる言葉を咎め玉はずばきこえ侍らむ。我すみれうりの子にもわが『ロオレライ』の画にも、をりをりたがはず見えたまふはおん身なり。」
この群は声高く笑ひぬ。少女、「さては画額ならぬ我姿と、君との間にも、その花うりの子立てりと覚えたり。我を誰とかおもひ玉ふ。」起ちあがりて、真面目なりとも戯なりとも、知られぬやうなる声にて。「われはその菫花うりなり。君が情の報はかくこそ。」少女は卓越しに伸びあがりて、俯きゐたる巨勢が頭を、ひら手にて抑へ、その額に接吻しつ。
この騒ぎに少女が前なりし酒は覆へりて、裳を浸し、卓の上にこぼれたるは、蛇の如く這ひて、人々の前へ流れよらむとす。巨勢は熱き手掌を、両耳の上におぼえ、驚く間もなく、またこれより熱き唇、額に触れたり。「我友に目を廻させたまふな。」とエキステル呼びぬ。人々は半ば椅子より立ちて「いみじき戯かな、」と一人がいへば、「われらは継子なるぞくやしき、」と外の一人いひて笑ふを、よそなる卓よりも、皆興ありげにうち守りぬ。
少女が側に坐したりし一人は、「われをもすさめ玉はむや、」といひて、右手さしのべて少女が腰をかき抱きつ。少女は「さても礼儀知らずの継子どもかな、汝らにふさはしき接吻のしかたこそあれ。」と叫び、ふりほどきて突立ち、美しき目よりは稲妻出づと思ふばかり、しばし一座を睨みつ。巨勢は唯呆れに呆れて見ゐたりしが、この時の少女が姿は、菫花うりにも似ず、「ロオレライ」にも似ず、さながら凱旋門上のバワリアなりと思はれぬ。
少女は誰が飲みほしけむ珈琲碗に添へたりし「コップ」を取りて、中なる水を口に銜むと見えしが、唯一。「継子よ、継子よ、汝ら誰か美術の継子ならざる。フィレンチェ派学ぶはミケランジェロ、ヰンチイが幽霊、和蘭派学ぶはルウベンス、ファン・ヂイクが幽霊、我国のアルブレヒト・ドュウレル学びたりとも、アルブレヒト・ドュウレルが幽霊ならぬは稀ならむ。会堂に掛けたる『スツヂイ』二つ三つ、値段好く売れたる暁には、われらは七星われらは十傑、われらは十二使徒と擅に見たてしてのわれぼめ。かかるえり屑にミネルワの唇いかで触れむや。わが冷たき接吻にて、満足せよ。」とぞ叫びける。
噴掛けし霧の下なるこの演説、巨勢は何事とも弁へねど、時の絵画をいやしめたる、諷刺ならむとのみは推測りて、その面を打仰ぐに、女神バワリアに似たりとおもひし威厳少しもくづれず、言畢りて卓の上におきたりし手袋の酒に濡れたるを取りて、大股にあゆみて出でゆかむとす。
皆すさまじげなる気色して、「狂人」と一人いへば、「近きに報せでは已まじ」と外の一人いふを、戸口にて振りかへりて。「遺恨に思ふべき事かは、月影にすかして見よ、額に血の迹はとどめじ。吹きかけしは水なれば。」
あやしき少女の去りてより、ほどなく人々あらけぬ。帰り路にエキステルに問へば、「美術学校にて雛形となる少女の一人にて、『フロイライン』ハンスルといふものなり。見たまひし如く奇怪なる振舞するゆゑ、狂女なりともいひ、また外の雛形娘と違ひて、人に肌見せねば、かたはにやといふもあり。その履歴知るものなけれど、教ありて気象よの常ならず、れたる行なければ、美術諸生の仲間には、喜びて友とするもの多し。善き首なることは見たまふ如し。」と答へぬ。巨勢、「我画かくにもようあるべきものなり。『アトリエ』ととのはむ日には、来よと伝へたまへ。」エキステル、「心得たり。されど十三の花売娘にはあらず、裸体の研究、危しとはおもはずや。」巨勢、「裸体の雛形せぬ人と君もいひしが。」エキステル、「現にいはれたり。されど男と接吻したるも、けふ始めて見き。」エキステルがこの言葉に、巨勢は赤うなりしが、街燈暗き「シルレル・モヌメント」のあたりなりしかば、友は見ざりけり。巨勢が「ホテル」の前にて、二人は袂を分ちぬ。
一週ほど後の事なりき。エキステルが周旋にて、美術学校の「アトリエ」一間を巨勢に借されぬ。南に廊下ありて、北面の壁は硝子の大窓に半を占められ、隣の間とのへだてには唯帆木綿の幌あるのみ。頃はみな月半ばなれど、旅立ちし諸生多く、隣に人もあらず、業妨ぐべき憂なきを喜びぬ。巨勢は画額の架[#「架」の左に「スタッファージュ」のルビ]の前に立ちて、今入りし少女に「ロオレライ」の画を指さし示して、「君に聞かれしはこれなり。面白げに笑ひたはぶれ玉ふときは、さしもおもはれねど、をりをり君がおも影の、ここなる未成の人物にいとふさはしきときあり。」
少女は高く笑ひて。「物忘したまふな。おん身が『ロオレライ』の本の雛形、すみれ売の子は我なりとは、先の夜も告げしものを。」かくいひしが俄に色を正して。「おん身は我を信じたまはず、げにそれも無理ならず。世の人は皆我を狂女なりといへば、さおもひたまふならむ。」この声戯とは聞えず。
巨勢は半信半疑したりしが、忍びかねて少女にいふ、「余りに久しくさいなみ玉ふな。今も我が額に燃ゆるは君が唇なり。はかなき戯とおもへば、しひて忘れむとせしこと、幾度か知らねど、迷は遂に晴れず。あはれ君がまことの身の上、苦しからずは聞かせ玉へ。」
窓の下なる小机に、いま行李より出したる旧き絵入新聞、遣ひさしたる油ゑの具の錫筒、粗末なる烟管にまだ巻烟草の端の残れるなど載せたるその片端に、巨勢はつら杖つきたり。少女は前なる籐の椅子に腰かけて、語りいでぬ。
「まづ何事よりか申さむ。この学校にて雛形の鑑札受くるときも、ハンスルといふ名にて通したれど、そは我真の名にあらず。父はスタインバハとて、今の国王に愛でられて、ひと時栄えし画工なりき。わが十二の時、王宮の冬園[#「冬園」の左に「ヴィンテルガルテン」のルビ]に夜会ありて、二親みな招かれぬ。宴闌なる頃、国王見えざりければ、人々驚きて、移植ゑし熱帯草木いやが上に茂れる、硝子屋根の下、そこかここかと捜しもとめつ。園の片隅にはタンダルヂニスが刻める、ファウストと少女との名高き石像あり。わが父のそのあたりに来たりし時、胸裂くるやうなる声して、『助けて、助けて』と叫ぶものあり。声をしるべに、黄金の穹窿おほひたる、『キオスク』(四阿屋)の戸口に立寄れば、周囲に茂れる椶櫚の葉に、瓦斯燈の光支へられたるが、濃き五色にて画きし、窓硝子を洩りてさしこみ、薄暗くあやしげなる影をなしたる裡に、一人の女の逃げむとすまふを、ひかへたるは王なり。その女のおもて見し時の、父が心はいかなりけむ。かれは我母なりき。父はあまりの事に、しばしたゆたひしが、『許したまへ、陛下』と叫びて、王を推倒しつ。そのひまに母は走りのきしが、不意を打たれて倒れし王は、起き上りて父に組付きぬ。肥えふとりて多力なる国王に、父はいかでか敵し得べき、組敷かれて、側なりし如露にてしたたか打たれぬ。この事知りて諌めし、内閣の秘書官チイグレルは、ノイシュワンスタインなる塔に押籠めらるるはずなりしが、救ふ人ありて助けられき。われはその夜家にありて、二親の帰るを待ちしに、下女来て父母帰り玉ひぬといふ。喜びて出迎ふれば、父舁かれて帰り、母は我を抱きて泣きぬ。」
少女は暫らく黙しつ。けさより曇りたる空は、雨になりて、をりをり窓を打つ雫、はらはらと音す。巨勢いふ。「王の狂人となりて、スタルンベルヒの湖に近き、ベルヒといふ城に遷され玉ひしことは、きのふ新聞にて読みしが、さてはその頃よりかかる事ありしか。」
少女は語を継ぎて。「王の繁華の地を嫌ひて、鄙に住まひ、昼寝ねて夜起きたまふは、久しきほどの事なり。独逸、仏蘭西の戦ありし時、加特力派の国会に打勝ちて、普魯西方につきし、王が中年のいさをは、次第に暴政の噂に掩はれて、公けにこそ言ふものなけれ、陸軍大臣メルリンゲル、大蔵大臣リイデルなど、故なくして死刑に行はれむとしたるを、その筋にて秘めたるは、誰知らぬものなし。王の昼寝し玉ふときは、近衆みな却けられしが、囈語にマリイといふこと、あまたたびいひたまふを聞きしもありといふ。我母の名もマリイといひき。望なき恋は、王の病を長ぜしにあらずや。母はかほばせ我に似たる処ありて、その美しさは宮の内にて類なかりきと聞きつ。」
「父は間もなく病みて死にき。交広く、もの惜みせず、世事には極めて疎かりければ、家に遺財つゆばかりもなし。それよりダハハウエル街の北のはてに、裏屋の二階明きたりしを借りて住みしが、そこに遷りてより、母も病みぬ。かかる時にうつろふものは、人の心の花なり。数知らぬ苦しき事は、わが穉き心に、早く世の人を憎ましめき。明る年の一月、謝肉祭の頃なりき、家財衣類なども売尽して、日々の烟も立てかぬるやうになりしかば、貧しき子供の群に入りてわれも菫花売ることを覚えつ。母のみまかる前、三日四日のほどを安く送りしは、おん身の賜なりき。」
「母のなきがら片付けなどするとき、世話せしは、一階高くすまひたる裁縫師なり。あはれなる孤ひとり置くべきにあらずとて、迎取られしを喜びしこと、今おもひ出しても口惜しきほどなり。裁縫師には、娘二人ありて、いたく物ごのみして、みづから衒ふさまなるを見しが、迎取られてより伺へば、夜に入りてしばしば客あり。酒など飲みて、はては笑ひ罵り、また歌ひなどす。客は外国の人多く、おん国の学生なども見えしやうなりき。或る日主人われにも新しき衣着よといひしが、そのをりその男の我を見て笑ひし顔、何となく怖ろしく、子供心にもうれしとはおもはざりき。午すぎし頃、四十ばかりなる知らぬ人来て、スタルンベルヒの湖水へ往かむといふを、主人も倶に勧めき。父の世にありしきとき、伴はれてゆきし嬉しさ、なほ忘れざりしかば、しぶしぶ諾ひつるを、「かくてこそ善き子なれ」とみな誉めつ。連れなる男は、途にてやさしくのみ扱ひて、かしこにては『バワリア』といふ座敷船に乗り、食堂にゆきて物食はせつ。酒もすすめぬれど、そは慣れぬものなれば、辞みて飲まざりき。ゼエスハウプトに船はてしとき、その人はまた小舟を借り、これに乗りて遊ばむといふ。暮れゆくそらに心細くなりしわれは、はやかへらむといへど、聴かずして漕出で、岸辺に添ひてゆくほどに、人げ遠き葦間に来りしが、男は舟をそこに停めつ。わが年はまだ十三にて、初は何事ともわきまへざりしが、後には男の顔色もかはりておそろしく、われにでもあらで、水に躍入りぬ。暫しありて我にかへりしときは、湖水の畔なる漁師の家にて、貧しげなる夫婦のものに、介抱せられてゐたりき。帰るべき家なしと言張りて、一日二日と過す中に、漁師夫婦の質朴なるに馴染みて、不幸なる我身の上を打明けしに、あはれがりて娘として養ひぬ。ハンスルといふは、この漁師の名なり。」
「かくて漁師の娘とはなりぬれど、弱き身には舟の櫂取ることもかなはず、レオニのあたりに、富める英吉利人の住めるに雇はれて、小間使になりぬ。加特力教信ずる養父母は、英吉利人に使はるるを嫌ひぬれど、わが物読むことなど覚えしは、彼家なりし雇女教師[#「雇女教師」の左に「グェルナント」のルビ]の恵なり。女教師は四十余の処女なりしが、家の娘のたかぶりたるよりは、我を愛すること深く、三年がほどに多くもあらぬ教師の蔵書、悉く読みき。ひがよみはさこそ多かりけめ。またふみの種類もまちまちなりき。クニッゲが交際法あれば、フムボルトが長生術あり。ギョオテ、シルレルの詩抄半ばじゆしてキョオニヒが通俗の文学史を繙き、あるはルウヴル、ドレスデンの画堂の写真絵、繰りひろげて、テエヌが美術論の訳書をあさりぬ。」
「去年英吉利人一族を率ゐて国に帰りし後は、然るべき家に奉公せばやとおもひしが、身元善からねば、ところの貴族などには使はれず。この学校の或る教師に、端なくも見出されて、雛形勤めしが縁になりて、遂に鑑札受くることとなりしが、われを名高きスタインバハが娘なりとは知る人なし。今は美術家の間に立ちまじりて、唯面白くのみ日を暮せり。されどグスタアフ・フライタハはさすがそら言いひしにあらず。美術家ほど世に行儀悪しきものなければ、独立ちて交るには、しばしも油断すべからず。寄らず、障らぬやうにせばやとおもひて、計らず見玉ふ如き不思議の癖者になりぬ。をりをりは我身、みづからも狂人にはあらずやと疑ふばかりなり。これにはレオニにて読みしふみも、少し祟をなすかとおもへど、もし然らば世に博士と呼ばるる人は、そもそもいかなる狂人ならむ。われを狂人と罵る美術家ら、おのれらが狂人ならぬを憂へこそすべきなれ。英雄豪傑、名匠大家となるには、多少の狂気なくてはぬことは、ゼネカが論をも、シエエクスピアが言をも待たず。見玉へ、我学問の博きを。狂人にして見まほしき人の、狂人ならぬを見る、その悲しさ。狂人にならでもよき国王は、狂人になりぬと聞く、それも悲し。悲しきことのみ多ければ、昼は蝉と共に泣き、夜は蛙と共に泣けど、あはれといふ人もなし。おん身のみは情なくあざみ笑ひ玉はじとおもへば、心のゆくままに語るを咎め玉ふな。ああ、かういふも狂気か。」
定なき空に雨歇みて、学校の庭の木立のゆるげるのみ曇りし窓の硝子をとほして見ゆ。少女が話聞く間、巨勢が胸には、さまざまの感情戦ひたり。或ときはむかし別れし妹に逢ひたる兄の心となり、或ときは廃園に僵れ伏したるヱヌスの像に、独悩める彫工の心となり、或るときはまた艶女に心動され、われは堕ちじと戒むる沙門の心ともなりしが、聞きをはりし時は、胸騒ぎ肉顫ひて、われにもあらで、少女が前に跪かむとしつ。少女はつと立ちて「この部屋の暑さよ。はや学校の門もささるる頃なるべきに、雨も晴れたり。おん身とならば、おそろしきこともなし。共にスタルンベルヒへ往き玉はずや。」と側なる帽取りて戴きつ。そのさま巨勢が共に行くべきを、つゆ疑はずと覚し。巨勢は唯母に引かるる穉子の如く従ひゆきぬ。
門前にて馬車雇ひて走らするに、ほどなく停車場に来ぬ。けふは日曜なれど、天気悪しければにや、近郷よりかへる人も多からで、ここはいと静なり。新聞の号外売る婦人あり。買ひて見れば、国王ベルヒの城に遷りて、容体穏なれば、侍医グッデンも護衛を弛めさせきとなり。車中には湖水の畔にあつさ避くる人の、物買ひに府に出でし帰るさなるが多し。王の噂いと喧し。「まだホオヘンシュワンガウの城にゐたまひし時には似ず、心鎮まりたるやうなり。ベルヒに遷さるる途中、ゼエスハウプトにて水求めて飲みたまひしが、近きわたりなりし漁師らを見て、やさしく頷きなどしたまひぬ。」と訛みたることばにて語るは、かひもの籠手にさげたる老女なりき。
車走ること一時間、スタルンベルヒに着きしは夕の五時なり。かちより往きてやうやう一日ほどの処なれど、はやアルペン山の近さを、唯何となく覚えて、このくもらはしき空の気色にも、胸開きて息せらる。車のあちこちと廻来し、丘陵の忽開けたる処に、ひろびろと見ゆるは湖水なり。停車場は西南の隅にありて、東岸なる林木、漁村はゆふ霧に包まれてほのかに認めらるれど、山に近き南の方は一望きはみなし。
案内知りたる少女に引かれて、巨勢は右手なる石段をのぼりて見るに、ここは「バワリア」の庭といふ「ホテル」の前にて、屋根なき所に石卓、椅子など並べたるが、けふは雨後なればしめじめと人げ少し。給仕する僕の黒き上衣に、白の前掛したるが、何事をかつぶやきつつも、卓に倒しかけたる椅子を、引起して拭ひゐたり。ふと見れば片側の軒にそひて、つた蔓からませたる架ありて、その下なる円卓を囲みたるひと群の客あり。こはこの「ホテル」に宿りたる人々なるべし。男女打ちまじりたる中に、先の夜「ミネルワ」にて見し人ありしかば、巨勢は往きてものいはむとせしに、少女おしとどめて。「かしこなるは、君の近づきたまふべき群にあらず。われは年若き人と二人にて来たれど、愧づべきはかなたにありて、こなたにあらず。彼はわれを知りたれば、見玉へ、久しく座にえ忍びあへで隠るべし。」とばかりありて、彼美術諸生は果して起ちて「ホテル」に入りぬ。少女は僕を呼びちかづけて、座敷船はまだ出づべしやと問ふに、僕は飛行く雲を指さして、この覚束なきそらあひなれば、最早出でざるべしといふ。さらば車にてレオニに行かばやとて言付けぬ。
馬車来ぬれば、二人は乗りぬ。停車場の傍より、東の岸辺を奔らす。この時アルペンおろしさと吹来て、湖水のかたに霧立ちこめ、今出でし辺をふりかへり見るに、次第々々に鼠色になりて、家の棟、木のいただきのみ一きは黒く見えたり。御者ふりかへりて、「雨なり。母衣掩ふべきか。」と問ふ。「否」と応へし少女は巨勢に向ひて。「ここちよのこの遊や。むかし我命喪はむとせしもこの湖の中なり。我命拾ひしもまたこの湖の中なり。さればいかでとおもふおん身に、真心打明けてきこえむもここにてこそと思へば、かくは誘ひまつりぬ。『カッフェエ・ロリアン』にて恥かしき目にあひけるとき、救ひ玉はりし君をまた見むとおもふ心を命にて、幾歳をか経にけむ。先の夜『ミネルワ』にておん身が物語聞きしときのうれしさ、日頃木のはしなどのやうにおもひし美術諸生の仲間なりければ、人あなづりして不敵の振舞せしを、はしたなしとや見玉ひけむ。されど人生いくばくもあらず。うれしとおもふ一弾指の間に、口張りあけて笑はずば、後にくやしくおもふ日あらむ。」かくいひつつ被りし帽を脱棄てて、こなたへふり向きたる顔は、大理石脈に熱血跳る如くにて、風に吹かるる金髪は、首打振りて長く嘶ゆる駿馬の鬣に似たりけり。「けふなり。けふなり。きのふありて何かせむ。あすも、あさても空しき名のみ、あだなる声のみ。」
この時、二点三点、粒太き雨は車上の二人が衣を打ちしが、瞬くひまに繁くなりて、湖上よりの横しぶき、あららかにおとづれ来て、紅を潮したる少女が片頬に打ちつくるを、さし覗く巨勢が心は、唯そらにのみやなりゆくらむ。少女は伸びあがりて、「御者、酒手は取らすべし。疾く駆れ。一策加へよ、今一策。」と叫びて、右手に巨勢が頸を抱き、己れは項をそらせて仰視たり。巨勢は絮の如き少女が肩に、我頭を持たせ、ただ夢のここちしてその姿を見たりしが、彼凱旋門上の女神バワリアまた胸に浮びぬ。
国王の棲めりといふベルヒ城の下に来し頃は、雨いよいよ劇しくなりて、湖水のかたを見わたせば、吹寄する風一陣々、濃淡の竪縞おり出して、濃き処には雨白く、淡き処には風黒し。御者は車を停めて、「しばしがほどなり。余りに濡れて客人も風や引き玉はむ。また旧びたれどもこの車、いたく濡らさば、主人の嗔に逢はむ。」といひて、手早く母衣打掩ひ、また一鞭あてて急ぎぬ。
雨なほをやみなくふりて、神おどろおどろしく鳴りはじめぬ。路は林の間に入りて、この国の夏の日はまだ高かるべき頃なるに、木下道ほの暗うなりぬ。夏の日に蒸されたりし草木の、雨に湿ひたるかをり車の中に吹入るを、渇したる人の水飲むやうに、二人は吸ひたり。鳴神のおとの絶間には、おそろしき天気に怯れたりとも見えぬ「ナハチガル」鳥の、玲瓏たる声振りたててしばなけるは、淋しき路を独ゆく人の、ことさらに歌うたふ類にや。この時マリイは諸手を巨勢が項に組合せて、身のおもりを持たせかけたりしが、木蔭を洩る稲妻に照らされたる顔、見合せて笑を含みつ。あはれ二人は我を忘れ、わが乗れる車を忘れ、車の外なる世界をも忘れたりけむ。
林を出でて、阪路を下るほどに、風村雲を払ひさりて、雨もまた歇みぬ。湖の上なる霧は、重ねたる布を一重、二重と剥ぐ如く、束の間に晴れて、西岸なる人家も、また手にとるやうに見ゆ。唯ここかしこなる木下蔭を過ぐるごとに、梢に残る露の風に払はれて落つるを見るのみ。
レオニにて車を下りぬ。左に高く聳ちたるは、いはゆるロットマンが岡にて、「湖上第一勝」と題したる石碑の建てる処なり。右に伶人レオニが開きぬといふ、水に臨める酒店あり。巨勢が腕にもろ手からみて、縋るやうにして歩みし少女は、この店の前に来て岡の方をふりかへりて、「わが雇はれし英吉利人の住みしは、この半腹の家なりき。老いたるハンスル夫婦が漁師小屋も、最早百歩がほどなり。われはおん身をかしこへ、伴はむとおもひて来しが、胸騒ぎて堪へがたければ、この店にて憩はばや。」巨勢は現にもとて、店に入りて夕餉誂ふるに、「七時ならでは整はず、まだ三十分待ち給はではかなはじ、」といふ。ここは夏の間のみ客ある処にて、給仕する人もその年々に雇ふなれば、マリイを識れるもなかりき。
少女はつと立ちて、桟橋に繋ぎし舟を指さし、「舟漕ぐことを知り玉ふか。」巨勢、「ドレスデンにありし時、公園のカロラ池にて舟漕ぎしことあり、善くすといふにあらねど、君独りわたさむほどの事、いかで做得ざらむ。」少女、「庭なる椅子は濡れたり。さればとて屋根の下は、あまりに暑し。しばし我を載せて漕ぎ玉へ。」
巨勢はぬぎたる夏外套を少女に被せて小舟に乗らせ、われは櫂取りて漕出でぬ。雨は歇みたれど、天なほ曇りたるに、暮色は早く岸のあなたに来ぬ。さきの風に揺られたるなごりにや、敲くほどの波はなほありけり。岸に沿ひてベルヒの方へ漕ぎ戻すほどに、レオニの村落果つるあたりに来ぬ。岸辺の木立絶えたる処に、真砂路の次第に低くなりて、波打際に長椅子据ゑたる見ゆ。蘆の一叢舟に触れて、さわさわと声するをりから、岸辺に人の足音して、木の間を出づる姿あり。身の長六尺に近く、黒き外套を着て、手にしぼめたる蝙蝠傘を持ちたり。左手に少し引きさがりて随ひたるは、鬚も髪も皆雪の如くなる翁なりき。前なる人は俯きて歩み来ぬれば、縁広き帽に顔隠れて見えざりしが、今木の間を出でて湖水の方に向ひ、しばし立ちとどまりて、片手に帽をぬぎ持ちて、打ち仰ぎたるを見れば、長き黒髪を、後ざまにかきて広き額を露はし、面の色灰のごとく蒼きに、窪みたる目の光は人を射たり。舟にては巨勢が外套を背に着て、蹲まりゐたるマリイ、これも岸なる人を見ゐたりしが、この時俄に驚きたる如く、「彼は王なり」と叫びて立ちあがりぬ。背なりし外套は落ちたり。帽はさきに脱ぎたるまま、酒店に置きて出でぬれば、乱れたるこがね色の髪は、白き夏衣の肩にたをたをとかかりたり。岸に立ちたるは、実に侍医グッデンを引つれて、散歩に出でたる国王なりき。あやしき幻の形を見る如く、王は恍惚として少女の姿を見てありしが、忽一声「マリイ」と叫び、持ちたる傘投棄てて、岸の浅瀬をわたり来ぬ。少女は「あ」と叫びつつ、そのまま気を喪ひて、巨勢が扶くる手のまだ及ばぬ間に僵れしが、傾く舟の一揺りゆらるると共に、うつ伏になりて水に墜ちぬ。湖水はこの処にて、次第々々に深くなりて、勾配ゆるやかなりければ、舟の停まりしあたりも、水は五尺に足らざるべし。されど岸辺の砂は、やうやう粘土まじりの泥となりたるに、王の足は深く陥いりて、あがき自由ならず。その隙に随ひたりし翁は、これも傘投捨てて追ひすがり、老いても力や衰へざりけむ、水を蹴て二足三足、王の領首むづと握りて引戻さむとす。こなたは引かれじとするほどに、外套は上衣と共に翁が手に残りぬ。翁はこれをかいやり棄てて、なほも王を引寄せむとするに、王はふりかへりて組付き、かれこれたがひに声だに立てず、暫し揉合ひたり。
これ唯一瞬間の事なりき。巨勢は少女が墜つる時、僅に裳を握みしが、少女が蘆間隠れの杙に強く胸を打たれて、沈まむとするを、やうやうに引揚げ、汀の二人が争ふを跡に見て、もと来し方へ漕ぎ返しつ。巨勢は唯奈何にもして少女が命助けむと思ふのみにて、外に及ぶに遑あらざりしなり。レオニの酒店の前に来しが、ここへは寄らず、これより百歩がほどなりと聞きし、漁師夫婦が苫屋をさして漕ぎゆくに、日もはや暮れて、岸には「アイヘン」、「エルレン」などの枝繁りあひ広ごりて、水は入江の形をなし、蘆にまじりたる水草に、白き花の咲きたるが、ゆふ闇にほの見えたり。舟には解けたる髪の泥水にまみれしに、藻屑かかりて僵れふしたる少女の姿、たれかあはれと見ざらむ。をりしも漕来る舟に驚きてか、蘆間を離れて、岸のかたへ高く飛びゆく螢あり。あはれ、こは少女が魂のぬけ出でたるにはあらずや。
しばしありて、今まで木影に隠れたる苫屋の燈見えたり。近寄りて、「ハンスルが家はここなりや、」とおとなへば、傾きし簷端の小窓開きて、白髪の老女、舟をさしのぞきつ。「ことしも水の神の贄求めつるよ。主人はベルヒの城へきのふより駆りとられて、まだ帰らず。手当して見むとおもひ玉はば、こなたへ。」と落付きたる声にていひて、窓の戸ささむとしたりしに、巨勢は声ふりたてて、「水に墜ちたるはマリイなり、そなたのマリイなり、」といふ。老女は聞きも畢らず、窓の戸を開け放ちたるままにて、桟橋の畔に馳出で、泣く泣く巨勢を扶けて、少女を抱きいれぬ。
入りて見れば、半ば板敷にしたるひと間のみ。今火を点したりと見ゆる小「ランプ」竈の上に微なり。四方の壁にゑがきたる粗末なる耶蘇一代記の彩色画は、煤に包まれておぼろげなり。藁火焚きなどして介抱しぬれど、少女は蘇らず。巨勢は老女と屍の傍に夜をとほして、消えて迹なきうたかたのうたてき世を喞ちあかしつ。
時は耶蘇暦千八百八十六年六月十三日の夕の七時、バワリア王ルウドヰヒ第二世は、湖水に溺れてせられしに、年老いたる侍医グッデンこれを救はむとて、共に命を殞し、顔に王の爪痕を留めて死したりといふ、おそろしき知らせに、翌十四日ミュンヘン府の騒動はおほかたならず。街の角々には黒縁取りたる張紙に、この訃音を書きたるありて、その下には人の山をなしたり。新聞号外には、王の屍見出だしつるをりの模様に、さまざまの臆説附けて売るを、人々争ひて買ふ。点呼に応ずる兵卒の正服つけて、黒き毛植ゑたるバワリア戴ける、警察吏の馬に騎り、または徒立にて馳せちがひたるなど、雑沓いはんかたなし。久しく民に面を見せたまはざりし国王なれど、さすがにいたましがりて、憂を含みたる顔も街に見ゆ。美術学校にもこの騒ぎにまぎれて、新に入し巨勢がゆくへ知れぬを、心に掛くるものなかりしが、エキステル一人は友の上を気づかひゐたり。
六月十五日の朝、王の柩のベルヒ城より、真夜中に府に遷されしを迎へて帰りし、美術学校の生徒が「カッフェエ・ミネルワ」に引上げし時、エキステルはもしやと思ひて、巨勢が「アトリエ」に入りて見しに、彼はこの三日がほどに相貌変りて、著るく痩せたる如く、「ロオレライ」の図の下に跪きてぞゐたりける。
国王の横死の噂に掩はれて、レオニに近き漁師ハンスルが娘一人、おなじ時に溺れぬといふこと、問ふ人もなくて已みぬ。
了
底本:「舞姫・うたかたの記 他三篇」岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年1月16日初版発行
1999(平成11)年7月15日36刷
底本の親本:「鴎外全集 第二巻」岩波書店
1971(昭和46)年12月初版発行
初出:「柵草紙」
1890(明治23)年8月
入力:よしだひとみ
校正:松永正敏
2000年7月18日公開
2011年8月12日修正
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