題だけは例によってはなはだ気が利き過ぎているが、内容が果たしてそれに伴うかどうかはみなまで書いてしまわない限り見当はつきかねる。
 だが、この題を見てスグさまドヴォルシャックを連想してくれるような読者ならまず頼もしい。でなければクワイトえんでふわらん。
 僕は至ってみすぼらしくもおかし気な一匹の驢馬を伴侶に、出鱈目な人生の行路を独りとぼとぼと極めて無目的に歩いている人間。
 鈍感で道草を食うことの好きな僕の馬は、時々嬉しくも悲しい不思議な声を出しては啼くが、僕が饒舌ることも、その調子と声色において僕の伴侶のそれとさして大差はあるまい。
 真面目ともっともらしさとエラそうなこと、さてはまた華々しいこと――すべてそういう向きのことの好きな人間は初めから僕の書くものなどは読まない方が得だろう。
 人間はさまざまな不幸や悲惨事に出遇うと気が変になったり、自殺をしたり、暴飲家になったり、精神が麻痺したり色々とするものだ。そこで、僕などはまだ自殺をやらない代りにダダイストなどという妙な者になってしまったのだ。これからまたどんな風に変わるか、先のことなど墓場へ突き当る以外にはちょっとわかりそうにもない。
 ダダイストという奴はともかくダダ的に文句をいうことがなによりも嫌いなのだ。つまり一呼吸の間に矛盾した同時性が含まれているというようなこともその条件の一つだが、元来ダダにとっては一切があるせんすなのだから、従っていか程センチメンタルでもかまわないのだ。メンタルとまちがえては困るよ。
 一九二三年の夏、僕は昨年来からある若い女と同棲、××××の結果、精神も肉体もはなはだしい困憊状態におかれて今までに覚えのない位な弱り方を[#「弱り方を」は底本では「弱を方を」]した。それで毎日煙草を吹かしては寝ころんでいた。興味索然と、はなはだミサントロープになり、一切が癪にさわって犬が可愛らしく思われたりした。友達などがたまたま訪ねてきてくれたりすると非常に失礼をいたしたりした。
 こんな風で九月一日の地震がなかったら、僕は「巻き忘れた時計のゼンマイが停止する」ような自滅の仕方をしていたのかも知れなかった。地震のお蔭で僕は壊滅しそうになっていた意識を取りかえすことが出来たのだと自分では信じている。
 裸形のまま夢中で風呂屋を飛び出して、風呂屋の前で異様な男女のハダカダンスを一踊りして、それでもまた羞恥(ダダはシウチで一杯だ)に引き戻されて、慌てて衣物を取り出してK町のとある路地の[#「路地の」は底本では「路次の」]突き当りにある自分の巣まで飛びかえってくるまでの間には、久しぶりながらクラシックサンチマンに襲われて閉口した。
 幸い老母も子供も女も無事だったが、家は表現派のように潰れてキュウビズムの化物のような形をしていた。西側にあった僕の二階のゴロネ部屋の窓からいつも眺めて楽しんでいた大きな梧桐と小さいトタン張りの平屋がなかったら、勿論ダダイズムになっていたのは必定であった。
 それから約十日程は野天生活をして、多摩川湯へはいりに行った。
 少しばかりの蔵書に執着はあったが、僕は自分勝手に「永遠の女性」と命名している人の影像と手紙と彼女の残して行ってくれた短刀を取り出すことが出来たから、その他になんの残り惜しさも感じなかった。
 いのちあっての物種!――僕は無意識ながら、この平凡極まる文句を毎日幾度かお経のようにとなえては暮らした。この上一切が灰燼になったら同気相求める人達と一緒に旅芸人の一団でも組織して、全国を巡業してまわるのも一興だなどと真実考えに耽ってもみたりした。
 幸いにしてK町は火災を免れたが、それでも地震の被害はかなりに甚大だった。僕の知っていた模範青年の妹が潰されたり、親友の女工が焼け死んだりした。
 僕は季節外れの震災談をしようとしているのではないが、ついでにちょっと思い出しているばかりなのだ。
 そうだ、僕はこの雑誌の編輯者から伊藤野枝さんの「おもいで」という題を与えられていたのだった。伊藤野枝ともN子とも野枝君ともいわないで僕は野枝さんという。なぜなら、僕の親愛なるまこと君が彼女――即ちまこと君の母である伊藤野枝君を常にそう呼んでいるからなのだ。
 僕が野枝さんのことについてなにか書くのはこれが恐らく初めてだ。これまでも度々方々から彼女についてなにか書けという注文を受けたが、一度も書かなかった。なにも僕はもったいぶっていた訳でもなんでもなかったのだ。ただ書く興味が起こらなかったばかりなのだ。去年も「怪象」で大杉君が自叙伝の一節として例の葉山事件を書いた時、それに対して神近君が痛烈な反駁をした事があったが、その時も僕に両方の批判役としてなにか書いてほしいということだったが、僕には到底そんな芸は出来ないので後免を蒙った次第だった。
 僕はそもそも事件の当初からいち早く逃げ出して、あるお寺の一室に立て籠り、沈黙三昧に耽って出来るだけ世間との交渉を断絶した。勿論新聞雑誌の類さえ一切見ず、友人達からも自分の行方をくらましていた。だからその後、大杉君らの生活の上にどんな事が起こって、どんな風な経過をとっていたかというようなことについては僕は一切知りもせず、また知りたいとも思わなかった。僕はひたすら自分のことにのみ没頭していた。僕が一管の尺八を携えて流浪の旅に出たなどと噂されたのもその時分の事だった。
 さて、十日の野天生活は僕に改めていい教訓を与えてくれた。超人哲学詩人はかつて「お前の運命を愛せ」といったが、僕もそれに似通った深い感じをさせられながら夜警というものに出たりなどした。
 友達のこともかなり心配になったが、K女のお腹のふくれていることはさらに厄介な種であった。僕は彼女に時々フクレタリヤと呼んでいた。フクレタリヤに野天生活をさせることは衛生にとってあまり好ましいことではないが、入るべき家がなければ致仕方がない。
 彼女を一時彼女の里へ預けることにきめ、老母と子供とをK町からあまり遠くないB町の妹のところへ預けて僕らは出発したのであった。
 途中の話は略すが、名古屋で彼女を汽車へ乗せて僕は一人だけ残り、それから二、三日して大阪へ下車し、そこで取りあえず金策にとりかかって一週間程くらした。
 夕方道頓堀を歩いている時に、僕は初めてアノ号外を見た。地震とは全然異なった強いショックが僕の脳裡をかすめて走った。それから僕は何気ない顔つきをして俗謡のある一節を口ずさみながら朦朧とした意識に包まれて夕闇の中を歩き続けていた[#「歩き続けていた」は底本では「歩き読けていた」]
 妹の家に預けてあるまこと君のことを考えて僕は途方にくれた。
 それから新聞を見ることが恐ろしく不愉快になりだした。だから不愉快になりたい時はいつでも新聞を見ることにきめた。
 四国のY港にはダダの新吉が病んでいる。僕はあながち彼の病気を見舞うためではないが、しばらくY港で暮らす決心がついたのでY港へやってきた。
 Y港にはS氏というモンスターのようなディレッタントがいて、僕にわがままをさせてくれるというので僕は行く気になったのだ。
 Y港へくると、早速九州の新聞社の支局の記者がきて、「大杉他二名」に対する感想を話してもらいたいといった。
 僕はどういっていいかわからないので当惑してしまった。
 ――僕はこの際なにもいう気がしませんがあなたも御職しょう柄でおいでのことですから、御推察の上よろしいようにお書き下さい――
 といった。
 すると、僕が野枝さんに対して「愛憎の念が交々」起こったりしたというような記事があくる日の新聞に出た。
 僕はそれをみてやはり記者というものはなかなかうまいことを書くものだと思って感心したりした。
 その前にはまた野枝さんが二人の子供まである僕を棄てて大杉君のところに走ったのは、よほどの事情があったらしいと書いた新聞を僕は見た。
 僕はその記者をよほどの心理学者だと思ったりした。
 野枝さんは僕と約六年たらず生活して二人の子を生んだ。だから新聞では僕のことを「野枝の先夫」だとか「亭主」だとか書くが、如何にもそれに相違なかろう。だが、僕のレエゾン・デエトルが野枝さんの先夫でのみあるような、またあたかも僕がこの人生に生まれてきたことは伊藤野枝なる女によって有名になり、その女からふられることを天職としてひきさがるようなことをいわれると、僕だとて時に癪にさわることがある。
 癪にさわるといえば、往来を歩いている人間のツラでさえ障らないのはまずまれである。それを一々気にしていたら、一生癪にさわることを天職にして暮らさなければならなくなるだろう。感情の満足を徹底すれば、殺すか殺されることか、――それ以外に出る場合は恐らく少ないであろう。
 だから僕などはダダイストにいつの間にかなって癪にさわるひまがあれば、好きな本の一頁でもよけいに読むか、うまい酒の一杯でもよけいに呑む心掛けをしているのだ、なんと素晴らしくも便利な心掛けではあるまいか。僕の思想や感情の出発点に対して全然無知な猫杓子共は、自分のことを棚へあげて時々知ったか振りの批評がましいことをやるがはなはだヘソ茶でもあり、気の毒でもある。
 僕は君達の生活に指一本でも差そうとはいわないのだ。よけいなおせッかいはしてもらいたくないものだ。
 野枝さんと僕が初めて馴れ染めてからのおもいでを十年あまりも昔にかえってやることになると、なかなか小説にしてもながくなるが今は断片に留めておく。原稿商売をしていればこそこんなことも書かなければならないのかと考えると、まことに先立つものはイヤ気ばかりだ。
 野枝さんは十八でU女学校の五年生だったが、僕は十ちがいの二十八でその前からそこで英語の先生に雇われていた。
 野枝さんは学生として模範的じゃなかった。だから成績も中位で、学校で教えることなどは全体頭から軽蔑しているらしかった。それで女の先生達などからは一般に評判がわるく、生徒間にもあまり人気はなかったようだった。
 顔もたいして美人という方ではなく、色が浅黒く、服装はいつも薄汚なく、女のみだしなみを人並以上に欠いていた彼女はどこからみても恋愛の相手には不向きだった。
 僕をU女学校に世話をしてくれたその時の五年を受け持っていたN君と僕とは、しかし彼女の天才的方面を認めてひそかに感服していたものであった。
 もし僕が野枝さんに惚れたとしたら、彼女の文学的才能と彼女の野性的な美しさに牽きつけられたからであった。
 恋愛は複雑微妙だから、それを方程式にして示すことは出来ないが、今考えると僕らのその時の恋愛はさ程ロマンティックなものでもなく、また純な自然なものでもなかったようだ。
 それどころではなく僕はその頃、Y――のある酒屋の娘さんに惚れていたのだ。そしてその娘さんも僕にかなり惚れていた。僕はその人に手紙を書くことをこよなき喜びとしていた。至極江戸前女で、緋鹿の子の手柄をかけていいわたに結った、黒エリをかけた下町ッ子のチャキチャキだった。鏡花の愛読者で、その人との恋の方が遙かにロマンティックなものだった。この人の話をしていると、野枝さんの方がお留守になるから、残念ながら割愛して他日の機会に譲るが、とにかく僕はその人とたしかに恋をしていたのだ。だから、僕はとうとうその人の手を握ることをさえしないで別れてしまった。僕はその人のことを考えてその人を幸福にしてやる自信を持たなかったのだ。
 僕は野枝さんから惚れられていたといった方が適切だったかも知れない。眉目シュウレイとまではいかないまでも、女学校の若き独身の英語の教師などというものはとかく危険な境遇におかれがちだ。
 元来がフェミニストで武者小路君はだしのイディアリストでもある僕は、女を尊敬しては馬鹿をみる質の人間なのである。従ってまた生まれながらの恋愛家でもあるのだ。
 女の家が貧乏なために、叔父さんのサシガネで、ある金持ちの病身の息子と強制的に婚約をさせられ、その男の家から学費を出してもらって女学校に通って、卒業後の暁はその家に嫁ぐべき運命を持っていた女。自分の才能を自覚してそれを埋没しなければならない羽目に落ち入っていた女。恋愛ぬきの結婚。
 卒業して国へ帰って半月も経たないうちに飛び出してきた野枝さんは、僕のところへやってきて身のふり方を相談した。
 野枝さんが窮鳥でないまでも、若い女からそういう話を持ち込まれた僕はスゲなく跳ねつけるわけにはいかなかった。
 親友のNや教頭のSに相談して、ひとまず野枝さんを教頭のところへ預けることにきめたが、その時は校長初めみんなが僕らの間に既に関係が成立していたものと信じていたらしかった。そして、野枝さんの出奔はあらかじめ僕との合意の上でやったことのように考えているらしかった。
 国の親が捜索願いを出したり、婚約の男が怒って野枝さんを追いかけて上京するというようなことが伝えられた。
 一番神経を痛めたのは勿論校長で、もし僕があくまで野枝さんの味方になって尽す気なら、学校をやめてからやってもらいたいと早速切り出してきた。いかにももっとも千万なことだと思って早速学校をやめることにした。
 こう簡単にやッつけては味もソッケもないが、実のところ僕はこんなつまらぬ話はあまりやりたくないのだ。
 高々三十や四十の安月給をもらって貧弱な私立学校の教師をやっておふくろと妹とを養っていた僕は、学校をやめればスグと困るにはきまった話なのだ。僕はだがその頃もうつくづく教師がイヤだったのだ。僕はこれでも人生の苦労は少年時代からかなりやってきているのだ。十三、四の頃『徒然草』を愛読して既に厭世を志した程に僕の境遇はよくなかったのだ。僕の頭は由来、はなはだメタフィジカルに出来あがっている。だから満足に赤門式な教育を受けていたら今頃は至極ボンクラなプロフェッサアかなにかになっていたのかも知れない。だが、through thick and thin のお蔭で、そんな者にはならずにすんだのだ。そのかわりかなり我儘な人間に生きてきた。
 十九から私塾の教師に雇われて、二十に小学校の専科教師になって幾年か暮らしている間に、僕の青春は乾涸びかけてしまった。二十三や四でもう先の年功加俸だのなにかの計算をして暮らしているような馬鹿の仲間入りをしていたら、人間もたいていやりきれたものではない。いくらか気持ちののびのびした私立女学校へやってきたが、一年とは続かずとうとう野枝さんというはなはだ土臭い襟アカ娘のためにいわゆる生活を棒にふってしまったのだ。
 無謀といえば随分無謀な話だ。しかしこの辺がいい足の洗い時だと考えたのだ。それに僕はそれまでに一度も真剣な態度で恋愛などというものをやったことはなかったのだ。そうして自分の年齢を考えてみた。三十歳に手が届きそうになっていた。
 一切が意識的であった。愚劣で単調なケチケチした環境に永らく圧迫されて圧結していた感情が、時を得て一時に爆発したに過ぎなかったのだ。自分はその時思う存分に自分の感情の満足を貪り味わおうとしたのであった。それには洗練された都会育ちの下町娘よりも熊襲の血脈をひいている九州の野性的な女の方が遙かに好適であった。
 僕はその頃染井に住んでいた。僕は少年の時分から染井が好きだったので、一度住んでみたいとかねがね思っていたのだが、その時それを実行していたのであった。山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通っていたのであった。僕のオヤジは染井で死んだのだ。だから今でもそこにオヤジの墓地がある。森の中の崖の上の見晴らしのいい家であった。田圃には家が殆どなかった。あれから王子の方へ行くヴァレーは僕が好んでよく散歩したところだったが今は駄目だ。日暮里も僕がいた十七、八の頃はなかなかよかったものだ。すべてもう駄目になってしまった。全体、誰がそんな風にしてしまったのか、なぜそんな風になってしまったのか? 僕は東京の郊外のことをちょっと話しているのだ。染井の森で僕は野枝さんと生まれて初めての恋愛生活をやったのだ。遺憾なきまでに徹底させた。昼夜の別なく情炎の中に浸った。初めて自分は生きた。あの時僕が情死していたら、いかに幸福であり得たことか! それを考えると僕はただ野枝さんに感謝するのみだ。そんなことを永久に続けようなどという考えがそもそものまちがいなのだ。
 結婚は恋愛の墓場――旧い文句だがいかにもその通り、恋愛の結末は情熱の最高調において男女相抱いて死することあるのみ。グズグズと生きて、子供など生まれたら勿論それはザッツオールだ。だが人間よほど幸運に生まれない限り、一生の中にそんな恋愛をすることはまれだ。はなはだしきは恋愛のレの字も知らずに死ぬ劣等人種の方が世間にはザラだ。
 僕は幸いにして今なお恋愛を続けている。恐らくこの恋愛は僕の生きている限り続くであろう。野枝さんの場合におけるが如き蕪雑にして不自然なものではなく、僕の思想や感情がようやく円熟しかけてきてからの恋愛なのだから、遙かに高貴でもあり純一でもある。そればかりか僕は更に若くして豊満なる肉体の所有者から愛せられている。彼女は僕のために一生を犠牲に供する覚悟でいる。それを考えると、僕は無一物の放浪児ではあるが一面なかなかの幸運児でもあるのである。故に僕は、進んで一代の風雲児をあまり羨望しようとはしないのだ。腹が減っては恋愛も一向ふるわなくなる。パンと酒なければ恋また冷やかなり羅馬のホラチウスは多分いったはずだが、金の切れ目が縁の切れ目なることはあにただに売女にのみ限ったものではない。
 無産者の教師が学校をやめたらスグト食えなくなる。教師をしていてさえ、母子三人ではあまり贅沢な生活どころか、普通のくらしだって出来はしない。だから僕は内職に夜学を教えたり、家庭教師に雇われたりしていた。――ほんの僅かの銭のために!
 僕は子供の時から文学は好きだった。しかし文学者として立つ才能を所有しているというような自信は薬にしたくも持ち合わせてはいなかった。のみならず文学は職業とすべきものではないと考えていたから、僕はそれを単に自分の道楽の如く見なしていたのである。しかしまた道楽によって生活することがもし出来たとすれば、これ程結構なことはないと考えてもいた。
 とりあえず手近な翻訳から始めて、暗中模索的に文学によって飯を食う方法を講じようとしてみた。当時の文学に対する知識は充分あったが、文壇に対するそれは全然ゼロであった。
 全体僕の最初の動機は野枝さんと恋愛をやめるためではなく、彼女の持っている才能を充分にエジュケートするためなのであった。それはかりにも教師と名がついた職業に従事していた僕にその位な心掛けはあるのが当然なはずである。で、それが出来れば僕が生活を棒にふったことはあまり無意義にはならないことだなどと、はなはだおめでたい考えを漠然と抱いていたのだ。
 キリスト教とソシアリズムを一応パスして当時ショウペンハウエルと仏蘭西のデカダン詩人とに影響せられていた僕は、自然派の人の中では泡鳴が一番好きでスバルの連中が一番自分に近いような気がしていた。しかしその連中の誰をもパアソナリティには知らなかった。
 僕の友達で文学をやっている人間は一人もなかった。勿論当時の大家には全然知己もなく、早稲田派でも赤門派でもなんでもない僕は直接にも間接にも文士らしい人物は一人も知らなかった。自分はひそかに尊敬していた人もあったが、その人に手紙を出したこともなく、訪問をしようとする気も起こらなかった。
 大杉君が「近代思想」を始め、平塚らいてう氏が「青鞜」をやっていた。僕は新聞の記事によってらいてう氏にインテレストを持ち、「青鞜」を読んで頼もしく思った。
 野枝さんにすすめてらいてう氏を訪問させてみることを考えた。
 社会主義が高等不良少年の集団なら、高等不良少女の集団は「青鞜」であった。少なくとも世間の色眼鏡にはそう映じたに相違ない。自然主義、デカダン、ニヒリズム――すべて舶来の近代思想などいうものにロクなものはない。しかし、日本固有の思想は全体どんなものか知らないが、泡鳴流の説なら僕も泡鳴が好きだったから賛成してやってもいいが、およそ思想などというようなものはみんな舶来のような気がしてならない。印度や支那の思想を日本から引き抜いたら、果たしてどんなものが残るのだろう。しかし、およそ思想といったって特別それが珍重されるべきものでなく、同じ人間の頭から生まれてきたのだから、早いおそいを論じて優劣などを争うのは馬鹿気ている。いくら借り物だろうが、よければ少しも恥ずかしがらずどしどしと自分のものにして利用したらばいいのだ。なにも遠慮することはいらない。滑稽なのは昔借りた物を如何にも祖先伝来であるかの如き顔をして、臆面もなく振りまわしている馬鹿がいることだ。そしてそれより遙かにすぐれて進んだ物を見せつけられてもそれを借りることを恥辱であるかの如く、またなにか恐ろしく危険でもあるかの如く考えている。自分には祖先伝来の二本の足があるから、危険な電車や自動車には乗らないといって威張っているのと少しも変わりはありはしない。電気にしろ機械にしろ薬品にしろ、みんな危険といえば危険でないものは一つもない。だが、それに対する精確な知識と取り扱い方を知っていさえすれば、少しも危険でもなんでもないだろうじゃないか?
 野枝さんはらいてう氏の同情と理解によって、「青鞜」社員になって働いた。僕も時々らいてう氏を尋ねるようになった。そうして随分と厄介をかけたようだ。それから当時社内の「おばさん」といわれていた保持白雨氏、小林の可津ちゃん、荒木の郁さん、紅吉などという連中とも知り合った。「新しい女」は、吉原へおいらんを買いに行き五色の酒を呑んで怪気焔を吐き、同性恋愛の争奪をやり、若き燕を至るところで拵えるというような評判によってのみ世間へ紹介された。自然主義が出歯亀によって代表されたのと少しも変わりはなかったのである。だが、昔キリスト教が魔法使いと誤られて虐殺されたことを考えると、そんなことはなんでもないことなのかも知れぬ。近い話が大杉君だが、今でも社会主義といえばやたらと巡査とケンカをしたり、金持ちをユスッテ歩く壮士かゴロツキの類だと考えている連中がいるのだから助からない。中には社会主義だと称してそんなことばかりやって歩いている人間もあるのかも知れないが、それよりも堂々ともっともらしい大看板を掲げてヒドイことをやっている奴が腐る程あるのではないか。金さえ出せば大ベラボーの売薬の広告をでさえ第一流の新聞が掲載する世の中なのだ。
 僕の文壇へのデビューは『天才論』の翻訳だったが、『天才論』は御承知の通り文学書ではない。ただその書物が面白かったので教師をやっている間に少しばかり訳しておいたのだが、それをとりあえずまとめて金に換えようとしたのであった。
 僅か今から十年も前だが、その頃のことを考えてみると、文芸がたしかに一般的になったものだ。民衆化されたとでもいうのか。当時の出版屋がロンブロゾオの名前を知らなかったのも無理はない。僕のそのホンヤク書の出版が如何に困難なものであったか、如何にバカ気た努力をそのために費やしたかは序文にもちょっと書いておいた通りだが、今でもあの本が数十版を重ねて愛読されていることを考えると僕もいささか心が慰められる。
 ある時、私の翻訳中のテキスト――即ち英訳の“Man of Genius”を本郷の郁文堂に預けて落語を聴きに行ったことがあった。その時、僕は本箱も蔵書も殆ど売り尽して僅かに辞書一、二冊とそのホンヤク中のテキストを[#「テキストを」は底本では「テストを」]座右において暮らしていた時なので、それ程困っていながら、なぜ落語などを聴きに行きたがったのか?
 染井の森から御苦労になけなしの金をこしらえて神田の立花亭のヒル席に出かけたものだ。
 馬楽と、焉馬と、小せんの三人会があったのだ。この三人はその後、吉井勇氏によってはなはだ有名になったが、その中のエン馬のみが存在して、後の二人は過去の人となってしまった。その時が馬楽のフィナーレだったのだ。エン馬といってはわからない人があるかも知れないが、今の金原亭馬生その人が即ち当時のエン馬だったのである。その時聴いた「あくび」と「伊勢屋」と「まわし」は今でもハッキリと記憶に浮かんでくる。ひと工面をして出かけただけの甲斐があった。またそれだけ身を入れて聴いたのでもあったろう。
 ながい間、それから色々な安ホンヤクをやっては暮らした。泡鳴の仕事の手伝いなどもやった。どうして暮らしてきたか今でも不思議な位なのである。
 野枝さんはそのうち「動揺」というながい小説を書いて有名になった。僕の長男が彼女のお腹にいる時、木村荘太とのイキサツを書いたもので、荘太君はその時「索引[#「牽引」と思われるが、底本の通りにする]」というやはりながい小説を書いた。荘太君のその時の鼻息はすばらしいもので、その中で僕は頭から軽蔑されているのだ。僕はその時も野枝さんの気持ちを尊重して別れてもいいといったのだが、野枝さんがイヤだというのでやめにしたのである。
 染井からあまり遠くない滝の川の中里というところに、福田英子というおばさんが住んでいた。昔大井憲太郎と云々のあった人で、自分も昔の「新しい女」だというところから「青鞜」に好意を持っていたらしかった。ちょうどその時分、仏蘭西で勉強して日本の社会問題を研究にきたとか称する支那人が、英子さんを通じて日本の新しい婦人運動者に遇いたいというので会見を申し込んできたので、一日その中里の福田英子さんのところで遇うことにした。日本語がよく解らないので英語のわかる人を連れてきてくれる方が都合がよいというので、僕が一緒に行くことになった。
 僕はその時、初めて渡辺政太郎氏に会ったのである。渡辺君は今は故人だが、例の伊豆の山中で凍死した久板君などと親友で、旧い社会主義者の間にあってはかなり人望のあった人であった。渡辺君は死ぬ前には「白山聖人」などといわれた位な人格者であったが、僕はその時から非常に仲がよくなった。
 渡辺君はその時分、思想の上では急進的なつまりアナキストであるらしかった。僕は渡辺君が何主義者であるかそんなことは問題ではなかった。僕は渡辺君が好きで、渡辺君を尊敬していた。
 その後大杉君を僕らに紹介したのもやはりその渡辺君であった。
 渡辺君は、僕の子供を僕ら以上の愛を持って可愛がってくれた。僕の親愛なるまこと君は今でもそれを明らかに記憶してその叔父さんをなつかしんでいるのである。
『或る百姓の家』の著者江渡狄嶺君を僕に紹介してくれたのもその渡辺君であった。
 狄嶺氏とはしばらく音信消息を断絶しているが、僕は江渡君のような人が存在していることをひそかに心強く感じているのである。僕が氏を信じている如く、氏もまた必ず僕のことを信じていてくれることと自分は堅く信じている。僕は時々ひどくミサントロープになるが、そういう時は必ず僕は江渡君や渡辺君のことを思い出すのである。
 野枝さんはそのうちゴルドマンの『婦人解放の悲劇』その他の論文をホンヤクしてひどくゴルドマンの思想に影響されて、やがて自分から日本のゴルドマンたらんとする程の熱情を示してきた。大杉君との間に生まれたエマちゃんは、即ちゴルドマンのエマからしかく名づけられたものである。
 平塚らいてう氏がエレンケイならば、野枝さんはゴルドマンである。
 野枝さんが「青鞜」を一人で編輯することになって、僕は小石川の指ケ谷町に住んでいた。
 野枝さんは至極有名になって、僕は一向ふるわない生活をして、碌々と暮らしていた。殊に中村孤月君などという「新しい女の箱屋」とまでいわれた位に野枝さんを崇拝する人さえ出てきた。
 野枝さんのような天才が僕のような男と同棲して、その天分を充分に延ばすことの出来ないのははなはだケシカランというような世論がいつの間にか僕らの周囲に出来あがっていた。
 その頃みんな人は成長したがっていた。「あの人はかなり成長した」とか、「私は成長するために沈潜する」とか妙な言葉が流行していた。
 野枝さんはメキメキと成長してきた。
 僕とわかれるべき雰囲気が充分形造られていたのだ。そこへ大杉君が現われてきた。一代の風雲児が現われてきた。とてもたまったものではない。
 先日「中央公論」をちょっと見たら春夫が僕を引き合いに出していた。ラフォルグかなにかの短篇の一節を訳して僕がきかせた時の気持ちを想像して書いたのだが、あれはたしかに記憶にある。聡明な春夫の御推察通りであるが、あの大杉君の『死灰の中より』はたしかに僕をして大杉君に対するそれ以前の気持ちを変化させたものであった。あの中では、たしかに大杉君は僕を頭から踏みつけている。充分な優越的自覚のもとに書いていることは一目瞭然である。それにも拘わらず僕はとかく引き合いに出される時は、大杉君を蔭でホメているように書かれる。だがそれは随分とイヤ味な話である。僕は別段改まって大杉君をホメたことはない。ただ悪くいわなかった位な程度である。僕のようなダダイストにでも、相応のヴァニティはある。それは、しかし世間に対するそれだけではなく、僕自身に対してのみのそれである。自分はいつでも自分を凝視めて自分を愛している、自分に恥ずかしいようなことは出来ないだけの虚栄心を自分に対して持っている。ただそれのみ。もし僕にモラルがあるならばまたただそれのみ。世間を審判官にして争う程、未だ僕は自分自身を軽蔑したことは一度もないのである。
 同棲してから約六年、僕らの結婚生活ははなはだ弛緩していた。加うるに僕はわがままで無能でとても一家の主人たるだけの資格のない人間になってしまった。酒の味を次第に覚えた。野枝さんの従妹に惚れたりした。従妹は野枝さんが僕に対して冷淡だという理由から、僕に同情して僕の身のまわりの世話をしてくれた。野枝さんはその頃いつも外出して多忙であった。
 しばしば別居の話が出た。僕とその従妹との間柄を野枝さんに感づかれて一悶着起こしたこともあった。野枝さんは早速それを小説に書いた。野枝さんは恐ろしいヤキモチ屋であった。
 同棲数年の間、僕はただ一度外泊した事があるばかりであった、まるでいま思うと嘘のような話である。別れるまで殆どケンカ口論のようなことをやったこともなかった。がしかし、ただ一度、酒の瓶を彼女の額に投げつけたことがあった。更に僕は別れる一週間程前に僕を明白に欺いた事実を知って、彼女を足蹴りにして擲った。前後、ただ二回である。別れる当日はお互いに静かにして幸福を祈りながら別れた。野枝さんはさすが女で、眼に一杯涙をうかべていた。時にまこと君三歳。
 大杉君も『死灰の中より』にたしか書いているはずだが、野枝さんが大杉君のところへ走った理由の一つとして、僕が社会運動に対する熱情のないことにあきたらず、エゴイストで冷淡だなどとなにかに書いたこともあったようだ。渡良瀬川の鉱毒地に対する村民の執着――みすみす餓死を待ってその地に踏みとどまろうとする決心、――それをある時渡辺君がきて悲愴な調子で話したことがあったが、それを聴いていた野枝さんが恐ろしくそれに感激したことがあった。僕はその時の野枝さんの態度が少しおかしかったので後で彼女を嗤ったのだが、それがいたく野枝さんの御機嫌を損じて、つまり彼女の自尊心を多大に傷つけたことになった。僕は渡辺君を尊敬していたから渡辺君がそれを話す時にはひそかな敬意を払って聴いていたが、また実際、渡辺君の話には実感と誠意が充分に籠っていたからとても嗤うどころの話ではないが、それに対して何の知識もなく、自分の子供の世話さえ満足に出来ない女が、同じような態度で興奮したことが僕をおかしがらせたのであった。しかし渡辺君のこの時のシンシャアな話し振りが彼女を心の底から動かしたのかも知れない。そうだとすれば、僕は人間の心の底に宿っているヒュウマニティの精神を嗤ったことになるので、如何にも自分のエゴイストであり、浅薄でもあることを恥じ入る次第である。
 その時の僕は社会問題どころではなかった。自分の始末さえ出来ず、自分の不心得から、母親や、子供や妹やその他の人々に心配をかけたり、迷惑をさせたりして暮らしていたのだが、かたわら僕の人生に対するハッキリしたポーズが出来かけていたのであった。自分の問題として、人類の問題として社会を考えて、その改革や改善のために尽すことの出来る人はまったく偉大で、エライ人だ。
 僕はこれまで度々小説のモデルになったりダシに使われたりしているが、未だ一回たりともモデル料にありついたことがない程不しあわせな人間である。
 野枝さんのことや、だが僕のことやそんな風のことが知りたい人は、僕のこんなつまらぬ話など読むよりも立派な芸術品になっているそれらの創作を読まれた方が遙かに興味がある。
 生田春月君の『相寄る魂』、宮崎資夫の『仮想者の恋』、野上弥生女史の『或る女』、大杉君の『死灰の中より』、谷崎潤一郎の『鮫人』――その他まだ色々とある。
 僕の生活はまことに浮遊で、自分では生まれてからまだなに一つ社会のためにも人類のためにも尽したことがない位にバイ菌でもあるが、僕の存在理由はだがそれらの傑作を供給したことによってもいささか意義がありそうでもある。また三面種を供給して世人をしばしの退屈から脱却せしめる点においてもあまり無意味でもなさそうだ。なにも大日本帝国に生まれたからといって朝から晩まで青筋を立てシカメッツラをして、なんら生産にもならないやかましい議論をして暮らさなけりゃならないという義務もあるまい。たまには僕のような厄介な人間一匹位にムダ飯を食わしておいたとて、天下国家のさして害にはなるまい。
 僕は絶学無為の閑道人で、ただフラリフラリとして懐中にバクダン一個持っているわけでもないから、警察の諸君も御心配は御無用だ。この上誰かのようにアマヤカされたりしては、それこそやりきれたものじゃない。
 全体神経が過敏すぎる。恐迫観念が強すぎる、洒落やユーモアのわからない野蛮人に遇っては助からない。文化は三千年程逆戻りだ。それも性からの原始人ならば獅子や虎と同じに相手が出来るが、なまじ妙な教育とかなんとかいうものがあり過ぎるので始末がわるい。
 豚に真珠ということもあるが、野蛮人に刃物ということもある。社会主義というものがどんなに立派なイズムだか知らないが、それをふりまわす人間は必ずしも立派な物じゃない。仏や耶蘇の教義だって同じことだ。仏教やヤソ教の歴史を考えてもみるがいい。神様をダシに使って殺人をやった野蛮人がどれ程いたか。
 野枝さんや大杉君の死について僕はなんにもいいたくない――あの日に僕のK町の家を尋ねてくれたそうだが、それはK町に大杉君の弟さんがいたから、そのついでによったのでもあろう。
 野枝さんは殺される少し以前に、アルスから出た大杉君と共訳のファーブルの自然科学をまこと君に送ってくれた。それが野枝さんのまこと君に対する最後の贈り物で、形見になったわけだ。
 僕はこの数年、つまり野枝さんとわかれてから、まったく、わかれてからというよりは解放されてからといった方が適切かも知れない――御存知のようなボヘエムになってしまった。心機一転して僕自身にかえり、僕は気儘に生きてきた。しかし事ある毎にいつも引き合いに出されるのは借金がいつまでたっても抜けきれない感がある。恐らく死ぬまでまた幾度となく、更に死んでからも引き合いに出されることだろう。無法庵はこないだもまた十八番の因縁をもって法とするとエラそうなことをいって訣別の辞を残したが、まったく因縁ずくというものはどうも致仕方がない。――あきらめるより致仕方はない。
 僕はおふくろとまこと君とを弟や妹とに託して、殆ど家を外にして漂泊して歩いていまでもいる。現に四国港に流れついて、またこれからどこへ行ってやろうなどと現に考えている――だから僕の留守に度々野枝さんはまこと君に遇いにきたそうだ。しかも下谷にいる時などは僕と同棲中僕のおふくろから少しばかり習い覚えた三絃をお供つきで復習にきたなどという珍談もある。僕のおふくろでも弟でも妹でもみんな野枝さんが好きなようだった。ただまこと君だけはあまり野枝さんを好いてはいなかったようだ。
 大杉君が子供が好きだということは先輩諸君もアチコチで書いていられるようだが、まこと君は大杉ヤのおじさん――とまこと君はいつでも大杉君のことを呼んでいたが――に連れられてしばしば鎌倉や葉山や小田原や方々につれて行かれたようだ。しかし、幸いにしてこんどだけは僕の家が潰れて引っ越してしまったので、まこと君は大杉ヤのおじさんに連れて行かれず、そのかわり気の毒な宗一君が身代りになったようなわけで、これを考えると僕は宗一君は知らないが、どうもやはりまこと君と同じように少しも区別がつかずに宗一君のことを連想するようになって、従って宗一君のおかあさんのことが考えられて、野枝さんのことが考えられて、――僕は思わず無意識に哀れな僕の伴侶の驢馬君のケツを思い切りヒッパタイていささか心やりとするのだが、ポケットにピストルを入れて文学をやるルウマニアのトリストラム・ツアラアのことを考えてもみるのである。
 まことに植木鉢はいつバルコニーから頭上に落ちてきまいものでもないこの人生において、今夜カフェの女給さんにやるチップが一銭もないことを徒に下宿の二階で瞑想するハンス・アルプも随分と馬鹿ではあるが、親愛なるまこと君と上総の海岸にいる流二君のことを徒に考えて、阿呆らしき原稿を書いている僕の如きオヤジも随分と唐変木ではある。
 流二君はまこと君に二歳の弟にして、野枝さんはかって大杉君と一緒に駈け落ちして、困りぬいた揚句、乳児の流二君を上総の海岸にオイテキボリをくわしたのであった。
 幸運なる流二君は親切にも無教育な養父母の手に養われて目下プロレタ生活修業中であるが、上総ナマリのテコヘンなるアクセントにはさすがの僕も時々閉口するのである。しかし流二君は恐ろしく可愛がられている。わがまま放題に育てられている。――それ以上を望むことは僕の如き人間の要求する方がまちがいである。流二君、願わくば素敵なダダになれ!
 僕角帯をしめ、野枝さん丸髷に赤き手柄をかけ、黒襟の衣物を着し、三味線をひき、怪し気なる唄をうたったが、一躍して婦人解放運動者となり、アナーキストとなって一代の風雲児と稀有なる天災の最中、悲劇的の最後を遂げたるはまことに悲惨である。惜しむべきである。更に恐ろしいことである。お話にならぬ出来事である。開いた口が塞がらぬ程に馬鹿気たことである。
 同じ軍人でもネルソンもあればモルトケもいれば、乃木大将のような人もあるかと思うとアマカスとか、マメカスとかいうような軍人もいる。児雷也もドロボーなら石川五右衛門もドロボーである。ネズミ小僧やイカケの松君もドロボーである。ナポレオンなどは偉大なる火事場ドロボーだそうである。かと思うと、戦争中に兵隊に送る罐詰の中に石を入れたりするドロボーもいるそうである。同じドロボーでも随分と色々あるものだ。だから、十束一からげにされてはどんな人間でもやりきれない。鮮人が放火人で、社会主義がバクダンで、ボルシェビキが宣伝ビラで、無政府主義が暗殺で、資本家が搾取で、プロレタリヤが正直で、唯物史観がマルクスで、進化論が猿で、大本教がお筆先で、正にあるべきはずなのが大地震だったりしては、一切は鮒が源五郎で、元結は文七であるより以上にたまらない、迷惑至極な道理である。
 耶蘇は小便をしても手を洗わなかったり、酒を呑んだり、淫売と交際したり、漁師と友達だったりしたということであるが、僕も実に交遊天下にあまねく、虫の好く人間なら、その境遇と職業と主義と、人格と才能と美醜と、賢愚と貧富とエトセトラの如何を論ぜず、友達になる。だから、僕の交遊の種類はまことに千差万別で、僕はどうやら、社会の職業は文士であるようではあるが、文士や芸術家以外に職人、役者、相場師、落語家、娼婦、社会主義、船乗り、アナーキスト、坊主、女工、芸者、――その他なんでもござれである。
 たとえ文士や芸術家や学者や社会主義だろうがなんだろうが、虫の好かない奴は大キライである。自分と精神的生活の色彩が似ているだけそういう連中にヨケイ嫌いな人間がいるようだ。
 殺された高尾の平公などは僅か二、三度遇ったきりだが随分好きな人間だったから、葬式にも出かけたのだ。僕は彼と社会主義の話なんか一度もしたことはなかった。彼は全体、ボルなのかアナなのだかなんなのだか僕はいまだに一向知らない。知る必要もない。ただ僕は平公という人間が好きだった。
 またパンタライの黒瀬春吉の如きは十年来僕の浅草放浪時代からの親友だが、彼はある主義者にいわせるとスパイなのだそうだが、スパイかアマイか僕は一度も彼をなめてみた事はないが、彼奴はこんどの地震で潰されて死にはしないかと僕は時々心配している。パンタライという名も僕が命名してやったので、千束町にいたヘイタイ虎などと同様――僕にはありがたい友達なのである。デ・クインシイが倫敦で餓死しかけた時、彼を救ったのは少女の淫売婦であったことは僕の名訳『阿片溺愛者の告白』を読んだ諸者はつとに御存知のはずだが、僕が千束町流浪時代に僕に酒を呑ましてくれたり、飯を食わしてくれたり、小遣い銭をくれたりしたのは、やはり私娼やバク徒やその他異体の知れぬ人達であったのだ。僕の親類にも岩崎家に関係があったり、数万の財産を持っている人間もなくはないが、そんな時には一向お役には立たないのである。
 しかし日本もかなり文化したのだから、僕のようなスカラア・ジプシイの思想と芸術を尊重して、仏蘭西に洋行でもさせてくれる酔狂な金持ちの二、三人位はそろそろ出てきてもよさそうなものだ。僕は決して遠慮や辞退はしないつもりだから安心してもらいたい。僕はまたダダイストで社会主義でも無政府主義でもなんでもないから、洋行させてもらった返礼にプロレタリアを煽動したりなにかはやらないからこの点にも安心してくれたまえ。
 野枝さんは子供の時に良家の子女として教育され、もっとすなおに円満に、いじめられずに育ってきたら、もっと充分に彼女の才能を延ばすことが出来たのかも知れなかった。もっと落ち着いて勉強したのかも知れなかった。不幸にして変則な生活を送り、はなはだ変則に有名になって、浅薄なヴァニティの犠牲になり、煽てあげられて、向こう見ずになった。強情で、ナキ虫で、クヤシがりで、ヤキモチ屋で、ダラシがなく、経済観念が欠乏して、野性的であった――野枝さん。
 しかし僕は野枝さんが好きだった。野枝さんの生んだまこと君はさらに野枝さんよりも好きである。野枝さんにどんな欠点があろうと、彼女の本質を僕は愛していた。先輩馬場孤蝶氏は大杉君を「よき人なりし」といっているが、僕も彼女を「よき人なりし」野枝さんといいたい。僕には野枝さんの悪口をいう資格はない。
 大杉君もかなりオシャレだったようだが、野枝さんもいつの間にかオシャレになっていた。元来そうであったかも知れなかったが、僕と一緒になりたての頃はそうでもなかったようだ。だが、女は本来オシャレであるべきが至当なのかも知れぬ。しかし、お化粧などはあまり上手な方ではなかった。
 僕のおふくろが世話をやいて妙な趣味を野枝さんに注入したので、変に垢ぬけがして三味線などをひき始めたが、それがオシャレ教育の因をなしたのも知れなかった。
 だが文明とか文化というのはオシャレの異名に過ぎない。オシャレ本能をぬきにして文明は成立しないだろう。僕も精神的にはかなりオシャレで贅沢なつもりである。仏蘭西のデカダン等はみなみな然りであった。
 ブルジョア文化だかなに文化だか知らぬが、とにかく人間が進化するというのはオシャレになるということに過ぎない。いくらブルジョア文化に反対するプロレタ文化だって、みんなが青服を着て得意になるということばかりじゃあるまい。みんなが、人間みんなが一様に贅沢な、文化的な生活をしなくてはならないということなのじゃあるまいか?
 今の資本家など称する輩はだが、たいてい財力を握っている野蛮人に過ぎないような観がある。金ピカ崇拝の劣等動物で、芸術だの学問などの趣味のわかる人間は殆ど皆無といっていい位である。だから、かれらがこしらえている都会をまず見るがいい、――いかにゴミタメの如く小汚なく、メリケン町の場末の如く殺風景であるか!
 自分はすき好んで放浪している訳ではない。僕をして尻を落ち着けさせてくれる気持ちのいいところがないからなのだ。恐らく贅沢でわがままな僕を満足させてくれるような処はどこへ行ったッてないのかも知れない。
 イジイジコセコセと変に固苦しく、生活を心の底からエンジョイすることを知らず、自分の感情を思う存分に托する歌一ツだに持たず、狭い自分達の箱の中でお互いに角つき合い、眼くじらを立て、低能児をやたら生産し、金力と腕力を自慢にする他になに一ツ能がなく、他人の生活をやたら干渉し、自分の人生観がなく、弱い者を苛め、無知で厚顔で粗野で、数え立てればまことに言語道断である。
 野村隈畔君や有島武郎さんが心中した気持ちは察するにあまりがある。僕は不幸心中の相手がないので、ノメノメとダダイストになって臆面もなくノサバリかえっている。僕は自分の生き方がいいかわるいかは知らないが、これ以外に今のところ生きるせんすべを知らないのだ。
 野枝さんのおもいでを書くつもりであまり書けなかった。初めからあまり気が乗らなかったのだ。それに自分は発端から克明に物語る田舎者のような話し方は至極不得手だ。のみならずくる時の道はなるべく忘却することに努めている。努めずとも飲酒の習癖がひとりでに忘却させてくれる。楽しい過去なら努めて思い出しもしよう。
 未練がなかったなどとエラそうなことはいわない。だが周囲の状態がもう少しどうにかなッていたら、あの時僕らはお互いにみんなもッと気持ちをわるくせず、つまらぬ感情を乱費せずにすんだのでもあろう。
(一九二三年十一月、四国Y港にて)

底本:「辻潤全集 第1巻」五月書房
   1982(昭和57)年4月15日発行
入力:田島曉雄
校正:松陽
1998年12月21日公開
2006年1月4日修正
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