その早暁そうぎょう、まだ明けやらぬ上海シャンハイの市街は、豆スープのように黄色く濁った濃霧の中に沈澱ちんでんしていた。窓という窓の厚ぼったい板戸をしっかりおろした上に、隙間すきま隙間にはガーゼを詰めては置いたのだが、霧はどこからともなく流れこんできて廊下の曲り角のあかりが、夢のようにボンヤリうるみ、部屋のうちまで、上海の濃霧に特有な生臭なまぐさい匂いが侵入していたのであった。
 その日の午前五時には本部から特別の指令があるということを同志の林田橋二はやしだはしじからうけたので僕は早速さっそく天井裏てんじょううらにもぐりこみ、秘密無線電信機の目盛盤ダイヤルを本部の印のところにまわしたところ、果して、一つの指令に接した。こんどの指令は近頃にない大物だ。
 JI13ハ直チニ海龍倶楽部かいりゅうクラブ副首領「緑十八」ヲ殺害スベシ。但シ犯跡ヲ完全ニ抹殺スベキモノトス。本部JM4指令。
 この意味を、暗号電文のうちから読みとったときには、常にも似ず、脳髄がひきしめられるような気がした。緑十八といえば、秘密結社海龍倶楽部の花形闘士の中でも、昨今中国第一の評ある策士。辣腕らつわん剽悍ひょうかんとの点においては近代これに比肩ひけんする者無しとたんぜられているひと。しかしいつも覆面しているので顔も判らず、又平生へいぜいは、どんな生活をしているひとなのだか、それも殆んど判っていない。一体、この海龍倶楽部は、表面は一秘密結社ではあるけれども、その背後には某大国の官憲の庇護ひごがあり、上海の警視庁と直通しているといわれ、何のことはない、某大国と中国警察との共同変装のようなものである。だから、その海龍倶楽部の副首領を暗殺するということは、非常に困難なことであり、危険さから云っても自ら爆弾をいだいてこれに火をけるようなものである。暗殺行為の片鱗へんりんが知られても、僕はこの上海から一歩も外に出ないうちに、銃丸じゅうがんらって鬼籍きせきに入らねばならない。
「おい井東いとう」と同志林田が、天井裏から青い顔をして降りてきた僕に、心配そうに呼びかけた。「こんどの指令は、大分だいぶ大物らしいね。僕は君のためにあらゆる援助をするようにと本部から指令されてきた。なんでもするよ」
 僕は忠実なる同志の方に振り向こうともせず、無言のまま、寝椅子の上に腰を下した。五分か、十分か、それとも一時間か、時間は意識の歯車の上をはずれて、空廻からまわりをした。僕の脳髄は発振機のように、細かい数学的計算による陰謀の波動をシュッシュッと打ちだした。
 計画は出来上った。林田を自分の寝椅子の方に手招てまねきすると、その耳に口をあてて、重要な援助事項を、簡潔に依頼した。林田の赤かった顔色が、見る見るうちに蒼醒あおざめて、話が終ると、ひたいのあたりににじた油汗が、大きなしずくとなってトロリと頬をななめあごのあたりへ落ちさがった。
「井東!」と林田が、またなつかしそうに僕の名を叫んだ。
「今度は所詮しょせん、お互に助かるまいな」
「……」僕は顔を静かにあげて微笑してみせた。
「うふふ」林田も笑った。「君はいつも自信のあるような顔をしているじゃないか。だが、この前のF鉱山事件といい、この間の松洞しょうどう事件といい、某大国や警視庁は、あの兇行きょうこうを君がやったことはよく知っているのだぜ。ただ犯跡はんせきが明白にわからないのと、君が前から海龍倶楽部の一員として活躍し相当彼等のためにもなっているところから、たとえ間諜スパイでも今殺すのは惜しいものだと躊躇ちゅうちょしているのだよ。だが今度の暗殺事件が、ちょっとでも下手に行こうものなら、さま彼奴等きゃつらは、君の自由を奪ってしまうだろう。ところで、今度の大将は、中々したたかものだ。まず君は引導いんどうをわたされていると考えてよい。つまらない自信だが、僕も骨をさらすつもりでいるよ」
 同志は大変悲観をしていた。が、悒欝ゆううつではない。僕達の特務とくむも、このたびが仕納しおさめだと思うと、湧きあがってくる感傷かんしょうをどうすることも出来ないのであろう。
 だが僕は、呼吸いきかよっている間は、常に大きな希望を持っているのだ。敵が青龍刀せいりゅうとうを僕の頭上にふりあげたとしても、僕はそのやいばが落ちて来るまでの僅かな時間にまでも希望をぐことであろう。運さえ悪くなければ、そのとき誰かがうかがいよって、その敵の胴腹どうばら銃弾たまをうちこんでくれるかも知れないのであるから……。
 いわんや僕等には敵に対して、武器以上の武器がある。そいつは、科学サイエンスである。海龍倶楽部の団員やその背後にある政府すじや某大国の黒幕連くろまくれんなどは、政治手腕はあり、金や権力もあるであろうが、要するに彼等は科学的には失業者に過ぎない。僕等は生活様式や境遇は失業者に違いないが、一度ひとたび、ハンマーを握らせ、配電盤スイッチ・ボードの前に立たせ、試験管と薬品とを持たせるならば、彼等の度胆どぎもを奪うことなどは何でもない。彼等を征服するには、科学が武器である。科学サイエンス! 科学サイエンス! 彼等の恐怖の標的である科学を以てその心臓を突いてやれ!
 僕はそこに見当をつけて、同志に指令を与えたのだ。ドアを押して帰って行く林田橋二の後姿が、人造人間ロボットのようにガッシリして見えた。

 僕は午前九時になると、いつものように職工服に身を固め、亜細亜アジア製鉄所の門をくぐり、常の如く真紅まっかにたぎった熔鉄ようてつを、インゴットの中に流しこむ仕事に従事した。焦熱しょうねつ地獄じごくのような工場の八時間は、僕のような変質者にとって、むしろ快い楽園らくえんであった。焼け鉄のっぱい匂いにも、機械油の腐りかかった悪臭にも、僕は甘美かんびな興奮をそそられるのであった。特務機関をつとめる僕にとっては、このカムフラージュの八時間の生活は、休憩時間として作用してくれる。
 夕方の五時になると、製鉄所の門から押し出されて、隠れ家の方へ歩いて行った。一丁ほども行って、十八番館の煉瓦塀れんがべいについて曲ろうとしたとき、いきなり僕の左腕さわんに、グッと重味がかかった。そしてこの頃ではもうぎなれた妖気ようき麝香じゃこうのかおりが胸を縛るかのように流れてきた。次に耳元に生温なまあたたか呼吸いきづかいがあった。
「井東さん。こんばんワ」
「こんばんは、劉夫人りゅうふじん
「劉夫人と仰有おっしゃらないで……。いじわるサン。絹子きぬこと、なぜ呼んでくださらないの!」
「劉夫人」僕は、顔をはじめて曲げて彼女の桜桃さくらんぼのように上気した、まんまるな顔を一瞥いちべつした。「僕は、あなたの餌食えじきになるには、あまりに骨ばっています。もっと若くて美しい騎士ナイトたちが沢山居ますから、その方を探してごらんになってはどうですか」
「貴方は、すこしもわたしの気持を察して下さらない。貴方と同じ国に生まれたこの妾の気持がどうして貴方にんでもらえないのでしょうかしら。こんな遠い異国に来て、毎日なみだで暮している妾を、可哀想だと思っては下さらないのですか。妾は恥を忍んでまで、祖国のためになることをしようと思っているのですのに」
「そいつは言わないのがいいでしょう。情痴じょうちの世界に、祖国も、名誉もありますまい」
「貴方は、今晩はどうしてそう不機嫌なのです。さあ機嫌を直して、今夜こそは、妾のうちへ来て下さい。主人は今朝、北の方へ立ちました。一週間はかえってきますまい。さあこれから行きましょう。ネ、いいでしょう井東いとうさん。絹子の命をかけてお願いしてよ」
 このしつっこい色情夫人しきじょうふじんには、もう三十日あまりもまといつかれていた。僕のような肺病やみのどこがよくて誘われるのであろうかと不審にたえない。しかし神経的に考えてみれば思い当らぬところがないでもないので、それは多分色道しきどう飽食者ほうしょくしゃである夫人が僕の変質に興味を持っているのであるか、それとも、ひょっとすると、同志林田の指摘したように僕の身辺しんぺんねらう一派の傀儡かいらいで、古い手だが、色仕掛けというやつかも知れない。もしそうだとすると、この劉夫人は容易に僕から離れてはれないだろう。だが夫人にあまり附きまとわれては、こっちの仕事が一向にすすまなくなるわけだ。こいつは高飛車たかびしゃに出て、一遍で夫人を追い払うのがいいと思った。さいわい、今夜の海龍倶楽部の会議迄には一時間ほどの余裕があった。
「夫人、では一時間だけお伴をしましょう」
「えッ、行って下さる。まア嬉しいわ」夫人は少女のように雀躍こおどりしてよろこんだ。「そこに自動車が待たせてありますの、さあ、早く行きましょう」
 夫人が左手をあげて相図あいずをすると、路傍に眠っていた真黒なパッカードが、ゆらゆらとこちらへ近付いて来た。僕たちの乗った自動車は、真暗な商館街にヘッド・ライトを撒きちらしつつ走って行った。二十五番街へさしかかったとき、警告もなく、もう一台の自動車が、後から追いついて来て、いきなり窓と窓とを向いあわせて並列へいれつ疾走しっそうをはじめた。僕は腰のあたりに爆弾をうちつけられたような無気味ぶきみな寒気に襲われた。もう三十秒これがつづいたならば僕は運転手を射殺しても、この車から外へ飛び出そうと決心した。
「劉夫人!」
 僕は夫人の両手をって、ひきよせた。恋の抱擁ほうようと見せかけて、夫人をこの危急の際の仮の防禦物ぼうぎょぶつにしなければならなかった。十秒十五秒――。向い合った自動車の窓がスルリと開く。
ッ」
 叫んだのは劉夫人である。夫人は僕からとびのいて背後うしろに隠れようとした。――その窓から現われ出た奇怪な顔。眼も唇も、額も頬もすべて真黒な顔。黒人か、さにあらず、構成派の彫像ちょうぞうのような顔の持主は、人間ではなくて、霊魂れいこんのない怪物のような感じがした。そのとき夫人の右手が、のびると見る間に、硝子ガラス窓越しに、短銃ピストルが怪物に向ってうち放された。怪物は真正面から射撃されて、その顔面がんめん粉砕ふんさいされたと思いきや、平気な顔をつき出して、
「三十番街を左に曲れ」
 と流暢りゅうちょうな中国語を発し、驚く僕たちを尻眼にかけて、背後うしろの方へ下って行った。
 夫人は、短銃をこわれた窓に、なおもねらいをつけつづけていた。
「なんでしょう、あの怪物は?」夫人が蒼白まっさおな顔をあげて、キッと僕の方をにらんだ。
「多分、人造人間ロボットかも知れませんね」
人造人間ロボット! 人造人間って、ほんとにあるのですか」
「ありますとも。このごろ噂が出ないのは各国で秘密に建造を研究しているからです」
「いまのは、どこの人造人間でしょう」
「さあ、どこでしょうか、もしかすると……」
「もしかすると……」
「運転手、三十番街を左に曲れ。真直まっすぐ走ると殺されちまうぞ」僕はしつけるように命令した。車はもう三十番街に来ていたので、かどを急角度に旋回した。その途端とたんに、僕たちの車の後に迫っていた高速度のイスパノ・シーサなどの車が数台、三十一番街にすべりこんだ。俄然がぜん一大爆音が彼等の飛びこんだ方面に起った。僕たちの車の硝子ガラスが、護謨ゴムまりをたたきつけたかのようにジジーンと音を立てた。
 何事か起ったらしい。このまま、通りすぎたものか、引きかえしたものか。先刻さっき、窓からのぞきこんだ人造人間ロボットらしきものは、同志林田が活動を開始したのを語っている。三十一番街の爆発事件も、彼の手で決行されたものに違いない。だがその地点に、そんなに必要な事件を指令した覚えはないので、鳥渡ちょっと、事件を解釈するのに見当がつかなかった。これは引返して、様子を見たいものだ、と思ったが、劉夫人は、僕の胸にピッタリ顔をおしつけて離れない。彼女は、なんでも自分の家に連れて行くことばかりを考えているのに違いない。僕は、象牙ぞうげのように真白な夫人の頸筋くびすじに、可憐かれん生毛うぶげふるえているのを、何とはなしに見守りながら、この厄介者やっかいものから、どうして巧くのがれたものかと思案しあんした。
「止ストップ! 止ストップ!」
 自動車の前に立ちふさがった数名の兇漢きょうかんがある。
「また、出たかな」僕はつぶやいた。夫人はすばやく身を起した。夫人は短銃ピストルを握り直したが、僕はなにも持っていなかった。武器を持つのは、いよいよ最後のときに限る。軽率けいそつに武器をとり出すことは、できるだけ避けたい。ことに先程から、劉夫人の敏捷びんしょうなる行動に、ひそかに不審をいだいていた僕は、ことさら自分の武器を秘密の隠し場所からとり出すところを夫人に見られたくなかった。自動車の速力がすこし落ちると、兇漢の一人がとびのって、運転台の窓をひらいて、こっちへ顔を向けた。それは、案に相違して、林田でも、又他の同志でもなく、全く知らない中国人の顔だった。
「夫人にお願いがあります。重傷者ができましたから、この車を鳥渡ちょっと拝借はいしゃくしたい」と中国人は丁寧に、だがしつけるような口の利き方をした。
「失礼な! お断りします」夫人は負けてはいなかった。
「どうかお許し下さい、劉夫人、病人は唯今手当をしませんと、手遅れになりますから」
 劉夫人と名をさされて、夫人の態度がちょっとかわった。
「お前はだれだい。病人は何処どこの人だい」夫人が、にわかに伝法でんぽうな言葉を吐いた。
「やんごとないお方でございます。私は現場から、電話をうけとったものです。おお、御病人の担架たんかが見えました」
 なるほど、いつの間にか、十名ばかりの中国人や西洋人が一つの担架を守って、車外にかたまっていた。だが彼等の誰もが、自動車の存在などに気がつかないかのように、顔をそむけていた。僕は、夫人が、その負傷者に充分心を引かれているのを見抜いたので、別れるのは今だと思った。しずかに挨拶あいさつすると、夫人は気の毒そうな顔をして、
「明日は是非おいで下さい」
「もし命がございましたら」そう言って僕は大胆に夫人のくびを抱えてその唇を求めた。そのとき僕の右手は、夫人の左の手首から三センチメートルばかり上を握りしめた。氷のようにつめたい痩せた手首だった。しかし象牙のようになめらかな手ざわりだった。その手ざわりをなつかしんでいると見せて、その部分にほどこされている隠し文身いれずみを、指先の触覚だけで読みとることを忘れなかった。いや、そればかりではない。あと十二分すれば、極めて正確に夫人の身体に、ちょいとした変化が起るような薬品をその皮膚にすりこむことにも美事みごと成功したのであった。
 僕が下りると、顔中に繃帯ほうたいをした男が、自動車の中にかつぎこまれた。四十をいくつか過ぎたと思われる長身の西洋人だった。
「今は何時になるか?」
 その声音こわねは、重症の病人とは思われないほど元気に響いた。
「五時三十五分です、閣下かっか
 さっきの中国人が粛然しゅくぜんとして答えた。
「時間を間違えるな。すべていつもの通りにやってくれるんだぞ」
かしこまりました」
 閣下と呼ばれたその重症者の声音こわねは、たしかに聞き覚えのあるものであった。が、それが誰だか、直ぐには考え出せそうもない。自動車は夫人と、その閣下と呼ばれる男と、家令のような中国人とをのせて、静かに動き出した。僕は三十一番街の方に駈け出した。同志に会ってにわかに計画の大変更を決行しようというのである。それで元来た道の方へと引きかえした。一丁ほど走ると、カーンと靴先に音があって何か金属製のひらったいものを蹴とばした。探してみると、それは銀製のシガレット・ケースにすぎなかった。そのようなものをしらべて居る余裕よゆうはないから、捨ててしまおうとは思ったが、事件のあった附近で発見したものだから、何か手懸りになるようなものが見当るかもしれないと思ったので、ポケットからシガレット・ライターを出して、その光の下に改めてみた。
「L・M!」
 果然かぜん頭文字かしらもじらしいL・Mの二字が、ケースの一隅いちぐうきざまれているのを発見した。L・Mとは誰であろう。なおもケースをひっくりかえしてみるうちに、遂に某大国の製品を示すぼりが眼についた。
「×国大使ルディ・シューラー氏」
 シューラー大使ならば二三度会ったことがある。あの温厚な元気な大使に会って好きにならぬものはあるまい。ことに、あの朗々ろうろうたる美音びおんで、がらにもなくシューベルトの子守歌を一とくさり歌ってきかせたときなどは、満場まんじょう大喝采だいかっさいであった。だが、その温厚な大使も、僕にとっては、敵国人に違いはなかった。その大使と、劉夫人とは、今日の有様では大変親密な間柄らしいが、一体どうしたというのであろう。大使はあのまま劉夫人の邸宅ていたくへ向ったのであろうか。それとも、大使館へ逃げかえったのであろうか。僕は、まっしぐらに三十一番街へ駈け出した。
「おお、井東君。いよいよ×国と中国とが露骨な同盟を結ぶことになるらしいぞ。その盟約の調印を長びかせろとの指令が来た。いま鳥渡ちょっと×国大使の車を三十一番街に追いこんだのさ。同志の仕掛けた爆弾を喰ってあのさわぎだ」
人造人間ロボットは、よく働くかい」
「思ったより工合がいいなア、あの爆発さわぎの中で誰も怪我けがをせんかったからなア。充分人造人間を活躍させてみせて奴等の恐怖心を養って置いた。劉夫人も驚いてたろう」
「劉夫人と言えば、オイ林田、計画は全部、建て直しだよ。チャンスは、今だ。正確に言うと、このところ十五分間だ。この間に、うまく頑張がんばって呉れるなら、あとは僕たちの勝利だ。下手に行けば、明朝みょうちょうといわず、今夜のうちに僕たちの呼吸いきの根は止ってしまうことだろう。おい林田、もっと近くによれ!」
 僕は劉夫人や×国大使に関する指令を発して、林田の援助をうた。
「よおし、そうこなくちゃならないんだった。恐ろしいことだが、僕たちが肉弾を以ってぶつかる目標がきまっただけ、心残りがしなくていい。では同志、お互の好運を祈ろうよ」
 僕たちは握手をしてわかれた。氷のように冷い同志林田の手だった。

 海龍倶楽部かいりゅうクラブへ入りこむには、会員各自に特有な抜け道がこしらえてあった。会員は真黒な衣裳で、頭巾ずきんも真黒、手にも真黒な手袋をつけねばならなかった。会場へ入るには手頸てくびのところに入墨いれずみしてある会員番号を、黙って入口の小窓の内に示せばよかった。だから僕にも「べに四」と朱色しゅいろの記号がってあり、それは死ぬまで決して消えはしないのである。
 僕は時間をはかり、すこし早や目の時刻に倶楽部へ着いた。会議室のホールには、ただ一人の先客があるばかりであった。その先客は、だらしなく卓子テーブルもたれたまま眠りこけていた。僕は、そのうしろに廻って、静かに抱き起こすと、別室に退しりぞいた。
 会議がはじまるときには、十三人の会員が全部揃って、粛々しゅくしゅく円卓子まるテーブルまわりをとりかこんだ。首領が立って説明した会議事項は、亜細亜アジア製鉄所に、空前の盟休めいきゅうが起ろうとしていること、なおその盟休は政治的意味が多分に加わっていて、所長の保管する某大国との秘密契約書などを、今夜の深更しんこう十二時を期して他へ移す必要のあること、それについて全会員が任務について貰うこと、などであった。団員は、それに対して、ただイエスノーかを表示すればよい。首領以外の者は、絶対に口を利くことを許されない規定であったが、これは恐らく各団員の正体が決して知られないこと、従って団員は外にって生活していても、けっして他から海龍倶楽部のメンバーであることを知られずにすむようにと、実に徹底した規定があるのであった。団員は会議事項の全部を承認した。首領は大変よろこんだが、引続いてその配置や実行方法について詳細なる説明を語りつづけるのであった。
 そのとき、突然、首領の前に置かれた電話機が、けたたましく鳴りはじめた。首領は手をのばして受話機をとりあげた。電話の内容は、首領を驚かせるに充分だったと見えて、彼は右手で机をおさえ、辛うじてくずちようとする全身をささえている様子だった。電話が終ると、首領はにわかに厳粛げんしゅくな態度にかえって、団員一同を見渡すと、やがて静かに口を開いた。
「皆さん、今夜の決議事項は駄目になりました」首領の英語は常に似ずほがらかさを失っていた。「亜細亜アジア製鉄所には既に暴動が起りました。製鉄所の建物は今猛火につつまれています。キューポラは爆発して熔鉄ようてつが五百メートル四方にとび散ったということです。この暴動の群衆の中に、奇怪なる人造人間ロボットが多数まじっていて、いずれも挺身ていしん破壊はかいに従事したということです。次に命令です。失礼ながら皆さん、両手をあげていただきたい。おあげにならぬと、この私が銃丸じゅうがんをさしあげますぞ」一同は不意を喰って驚きはしたが、双手そうしゅぐに挙げることには躊躇ちゅうちょしなかった。それは首領の射撃の腕前を、この部屋でしばしば目撃したことがあるからである。
「さて諸君、もう一つのニュースをおしらせする。それは副首領の緑十八が、行方不明になったことである。緑十八は、先程から見まわすところ、この席上に出ていないようである。しかるに、ここに不思議なことがある。この会議にこうして出ている人数は、いつもの通りの十三人である。従って、ここには一人の珍客ちんきゃくがお出席になっていることと拝察する。皆さん、覆面ふくめんをとっていただきたい。その代り現倶楽部員は即刻、解任されたものと御承知願いたい」
 僕は躊躇ちゅうちょなく覆面をかなぐり捨てた。それと同時にあちらこちらでも、覆面が脱ぎ取られ、その度に、意外な顔があらわれるのであった。だが唯一人、覆面をとらぬ団員があった。
貴方あなたはどうしておとりにならない」
 最後の一人は、両手を頭上にうちふって哀願しているようだったが、隣の男が素早くすすみよると、するりと覆面のぬのをひきはいだ。
ッ、人造人間ロボット!」
 一同は同時に声を立てた。
 ピューンと消音拳銃しょうおんピストルが鳴りひびくと、ねらいあやまたず、銃丸は眼窩がんかにとびこんだ。全身真黒な人造人間ロボットがドタリと横にたおれた。「人造人間が死んだ」
 誰かがそう叫んだ。ほんとに危いところだった。もうすこし気付きようが遅かったら、人造人間はこの部屋に爆弾のはなを飾って、自分一人がのがれて行くかも知れなかった、と誰もが思ったことである。
「おお、血が垂れる。人造人間の血だ」と一人が頓狂とんきょうな叫び声をあげた。
「人造人間の血はおかしい」
「早く内部なかをしらべてみろ」
 一同は人造人間をどう解剖したらばよいかとまどったが、それは意外にも手軽るに分解し、果然かぜん、鉄の外皮がいひがパクンと二つに開いた。その中には、歯車や電池がぎっしりまっているかと思いのほか、身に軽羅けいらをつけた若い女の死体があった。とり出してみると、それはりゅう夫人に違いなかった。
「おお緑十八、われ等が副首領」
 首領がみずからの覆面をとって、夫人の死体にすがりついた。それは兼ねて想像していたとおり×国大使ルディ・シューラー氏であった。劉夫人の身体は、まだ温かかった。首領が改めて僕の姿を探し求めたときには、僕は同志林田と共に、上海シャンハイの上空を飛ぶ飛行艇の内にあった。

底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
   1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
   1931(昭和6)年1月号
※表題は底本では、「人造人間(ロボット)殺害(さつがい)事件」となっています。
入力:田浦亜矢子
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月1日公開
2011年10月19日修正
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