當初五六十囘の豫定であつた「土」は、同時に意外の長篇として發達してゐた。途中で話の緒口を忘れた余は、再びそれを取り上げて、矢鱈な區切から改めて讀み出す勇氣を鼓舞しにくかつたので、つい夫限に打ち遣つたやうなものゝ、腹のなかでは私かに作者の根氣と精力に驚ろいてゐた。「土」は何でも百五六十囘に至つて漸く結末に達したのである。
冷淡な世間と多忙な余は其後久しく「土」の事を忘れてゐた。所がある時此間亡くなつた池邊君に會つて偶然話頭が小説に及んだ折、池邊君は何故「土」は出版にならないのだらうと云つて、大分長塚君の作を褒めてゐた。池邊君は其當時「朝日」の主筆だつたので「土」は始から仕舞迄眼を通したのである。其上池邊君は自分で文學を知らないと云ひながら、其實摯實な批評眼をもつて「土」を根氣よく讀み通したのである。余は出版界の不景氣のために「土」の單行本が出る時機がまだ來ないのだらうと答へて置いた。其時心のうちでは、隨分「土」に比べると詰らないものも公けにされる今日だから、出來るなら何時か書物に纏めて置いたら作者の爲に好からうと思つたが、不親切な余は其日が過ぎると、又「土」の事を丸で忘れて仕舞つた。
すると此春になつて長塚君が突然尋ねて來て、漸く本屋が「土」を引受ける事になつたから、序を書いて呉れまいかといふ依頼である。余は其時自分の小説を毎日一囘づゝ書いてゐたので、「土」を讀み返す暇がなかつた。已を得ず自分の仕事が濟む迄待つてくれと答へた。すると長塚君は池邊君の序も欲しいから序でに紹介して貰ひたいと云ふので、余はすぐ承知した。余の名刺を持つて「土」の作者が池邊君の玄關に立つたのは、池邊君の母堂が死んで丁度三十五日に相當する日とかで、長塚君はたゞ立ちながら用事丈を頼んで歸つたさうであるが、それから三日して肝心の池邊君も突然亡くなつて仕舞つたから、同君の序はとう/\手に入らなかつたのである。
余は「彼岸過迄」を片付けるや否や前約を踏んで「土」の校正刷を讀み出した。思つたよりも長篇なので、前後半日と中一日を丸潰しにして漸く業を卒へて考へて見ると、中々骨の折れた作物である。余は元來が安價な人間であるから、大抵の人のものを見ると、すぐ感心したがる癖があるが、此「土」に於ても全くさうであつた。先づ何よりも先に、是は到底余に書けるものでないと思つた。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだらうと物色して見た。すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。
尤も誰にも書けないと云ふのは、文を遣る技倆の點や、人間を活躍させる天賦の力を指すのではない。もし夫れ丈の意味で誰も長塚君に及ばないといふなら、一方では他の作家を侮辱した言葉にもなり、又一方では長塚君を擔ぎ過ぎる策略とも取れて、何方にしても作者の迷惑になる計である。余の誰も及ばないといふのは、作物中に書いてある事件なり天然なりが、まだ長塚君以外の人の研究に上つてゐないといふ意味なのである。
「土」の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。先祖以來茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多數の小作人を使用する長塚君は、彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此「土」の中に收め盡したのである。彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、あり/\と眼に映るやうに描寫したのが「土」である。さうして「土」は長塚君以外に何人も手を著けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獸類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云ふのである。
人事を離れた天然に就いても、前同樣の批評を如何な讀者も容易に肯はなければ濟まぬ程、作者は鬼怒川沿岸の景色や、空や、春や、秋や、雪や風を綿密に研究してゐる。畠のもの、畔に立つ榛の木、蛙の聲、鳥の音、苟くも彼の郷土に存在する自然なら、一點一畫の微に至る迄悉く其地方の特色を具へて叙述の筆に上つてゐる。だから何處に何う出て來ても必ず獨特である。其獨特な點を、普通の作家の手に成つた自然の描寫の平凡なのに比べて、余は誰も及ばないといふのである。余は彼の獨特なのに敬服しながら、そのあまりに精細過ぎて、話の筋を往々にして殺して仕舞ふ失敗を歎じた位、彼は精緻な自然の觀察者である。
作としての「土」は、寧ろ苦しい讀みものである。決して面白いから讀めとは云ひ惡い。第一に作中の人物の使ふ言葉が余等には餘り縁の遠い方言から成り立つてゐる。第二に結構が大きい割に、年代が前後數年にわたる割に、周圍に平たく發達したがる話が、筋をくつきりと描いて深くなりつゝ前へ進んで行かない。だから全體として讀者に加速度の興味を與へない。だから事件が錯綜纏綿して縺れながら讀者をぐい/\引込んで行くよりも、其地方の年中行事を怠りなく丹念に平叙して行くうちに、作者の拵らへた人物が斷續的に活躍すると云つた方が適當になつて來る。其所に聊か人を魅する牽引力を失ふ恐が潛んでゐるといふ意味でも讀みづらい。然し是等は單に皮相の意味に於て讀みづらいので、余の所謂讀みづらいといふ本意は、篇中の人物の心なり行なりが、たゞ壓迫と不安と苦痛を讀者に與へる丈で、毫も神の作つてくれた幸福な人間であるといふ刺戟と安慰を與へ得ないからである。悲劇は恐しいに違ない。けれども普通の悲劇のうちには悲しい以外に何かの償ひがあるので、讀者は涙の犧牲を喜こぶのである。が、「土」に至つては涙さへ出されない苦しさである。雨の降らない代りに生涯照りつこない天氣と同じ苦痛である。たゞ土の下へ心が沈む丈で、人情から云つても道義心から云つても、殆んど此壓迫の賠償として何物も與へられてゐない。たゞ土を掘り下げて暗い中へ落ちて行く丈である。
「土」を讀むものは、屹度自分も泥の中を引き摺られるやうな氣がするだらう。余もさう云ふ感じがした。或者は何故長塚君はこんな讀みづらいものを書いたのだと疑がふかも知れない。そんな人に對して余はたゞ一言、斯樣な生活をして居る人間が、我々と同時代に、しかも帝都を去る程遠からぬ田舍に住んで居るといふ悲慘な事實を、ひしと一度は胸の底に抱き締めて見たら、公等の是から先の人生觀の上に、又公等の日常の行動の上に、何かの參考として利益を與へはしまいかと聞きたい。余はとくに歡樂に憧憬する若い男や若い女が、讀み苦しいのを我慢して、此「土」を讀む勇氣を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」を讀ましたいと思つて居る。娘は屹度厭だといふに違ない。より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧から射して來るのだと余は固く信じて居るからである。
長塚君の書き方は何處迄も沈着である。其人物は皆有の儘である。話の筋は全く自然である。余が「土」を「朝日」に載せ始めた時、北の方のSといふ人がわざ/″\書を余のもとに寄せて、長塚君が旅行して彼と面會した折の議論を報じた事がある。長塚君は余の「朝日」に書いた「滿韓ところ/″\」といふものをSの所で一囘讀んで、漱石といふ男は人を馬鹿にして居るといつて大いに憤慨したさうである。漱石に限らず一體「朝日」新聞の記者の書き振りは皆人を馬鹿にして居ると云つて罵つたさうである。成程眞面目に老成した、殆んど嚴肅といふ文字を以て形容して然るべき「土」を書いた、長塚君としては尤もの事である。「滿韓所々」抔が君の氣色を害したのは左もあるべきだと思ふ。然し君から輕佻の疑を受けた余にも、眞面目な「土」を讀む眼はあるのである。だから此序を書くのである。長塚君はたまたま「滿韓ところ/″\」の一囘を見て余の浮薄を憤つたのだらうが、同じ余の手になつた外のものに偶然眼を觸れたら、或は反對の感を起すかも知れない。もし余が徹頭徹尾「滿韓ところ/″\」のうちで、長塚君の氣に入らない一囘を以て終始するならば、到底長塚君の「土」の爲に是程言辭を費やす事は出來ない理窟だからである。
長塚君は不幸にして喉頭結核にかゝつて、此間迄東京で入院生活をして居たが、今は養生旁旅行の途にある。先達てかねて紹介して置いた福岡大學の久保博士からの來書に、長塚君が診察を依頼に見えたとあるから、今頃は九州に居るだらう。余は出版の時機に後れないで、病中の君の爲に、「土」に就いて是丈の事を云ひ得たのを喜こぶのである。余がかつて「土」を「朝日」に載せ出した時、ある文士が、我々は「土」などを讀む義務はないと云つたと、わざ/\余に報知して來たものがあつた。其時余は此文士は何の爲に罪もない「土」の作家を侮辱するのだらうと思つて苦々しい不愉快を感じた。理窟から云つて、讀まねばならない義務のある小説といふものは、其小説の校正者か、内務省の檢閲官以外にさうあらう筈がない。わざ/\斷わらんでも厭なら厭で默つて讀まずに居れば夫迄である。もし又名の知れない人の書いたものだから讀む義務はないと云ふなら、其人は唯名前丈で小説を讀む、内容などには頓着しない、門外漢と一般である。文士ならば同業の人に對して、たとひ無名氏にせよ、今少しの同情と尊敬があつて然るべきだと思ふ。余は「土」の作者が病氣だから、此場合には猶ほ更らさう云ひたいのである。
一
烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうつと打ちつけては又ごうつと打ちつけて皆痩こけた落葉木の林を一日苛め通した。木の枝は時々ひう/\と悲痛の響を立てゝ泣いた。短い冬の日はもう落ちかけて黄色な光を放射しつゝ目叩いた。さうして西風はどうかするとぱつたり止んで終つたかと思ふ程靜かになつた。泥を拗切つて投げたやうな雲が不規則に林の上に凝然とひつゝいて居て空はまだ騷がしいことを示して居る。それで時々は思ひ出したやうに木の枝がざわ/″\と鳴る。世間が俄に心ぼそくなつた。
お品は復た天秤を卸した。お品は竹の短い天秤の先へ木の枝で拵へた小さな鍵の手をぶらさげてそれで手桶の柄を引つ懸けて居た。お品は百姓の隙間には村から豆腐を仕入れて出ては二三ヶ村を歩いて來るのが例である。手桶で持ち出すだけのことだから資本も要ない代には儲も薄いのであるが、それでも百姓ばかりして居るよりも日毎に目に見えた小遣錢が取れるのでもう暫くさうして居た。手桶一提の豆腐ではいつもの處をぐるりと廻れば屹度なくなつた。還りには豆腐の壞れで幾らか白くなつた水を棄てゝ天秤は輕くなるのである。お品は何時でも日のあるうちに夜なべに繩に綯ふ藁へ水を掛けて置いたり、落葉を攫つて見たりそこらこゝらと手を動かすことを止めなかつた。天性が丈夫なのでお品は仕事を苦しいと思つたことはなかつた。
それが此日は自分でも酷く厭であつたが、冬至が來るから蒟蒻の仕入をしなくちや成らないといつて無理に出たのであつた。冬至といふと俄商人がぞく/\と出來るので急いで一遍歩かないと、其俄商人に先を越されて畢ふのでお品はどうしても凝然としては居られなかつた。蒟蒻は村には無いので、仕入をするのには田圃を越えたり林を通つたりして遠くへ行かねばならぬ。それでお品は其途中で商をしようと思つて此の日も豆腐を擔いで出た。生憎夜から冴え切つて居た空には烈しい西風が立つて、それに逆つて行くお品は自分で酷く足下のふらつくのを感じた。ぞく/\と身體が冷えた。さうして豆腐を出す度に水へ手を刺込むのが慄へるやうに身に染みた。かさ/\に乾燥いた手が水へつける度に赤くなつた。皹がぴり/\と痛んだ。懇意なそここゝでお品は落葉を一燻べ焚いて貰つては手を翳して漸と暖まつた。蒟蒻を仕入れて出た時はそんなこんなで暇をとつて何時になく遲かつた。お品は林を幾つも過ぎて自分の村へ急いだが、疲れもしたけれど懶いやうな心持がして幾度か路傍へ荷を卸しては休みつゝ來たのである。
お品は手桶の柄へ横たへた竹の天秤へ身を投げ懸けてどかりと膝を折つた。ぐつたり成つたお品はそれでなくても不見目な姿が更に檢束なく亂れた。西風の餘波がお品の後から吹いた。さうして西風は後で括つた穢い手拭の端を捲つて、油の切れた埃だらけの赤い髮の毛を扱きあげるやうにして其垢だらけの首筋を剥出にさせて居る。夫と共に林の雜木はまだ持前の騷ぎを止めないで、路傍の梢がずつと繞つてお品の上からそれを覗かうとすると、後からも/\林の梢が一齊に首を出す。さうして暫くしては又一齊に後へぐつと戻つて身體を横に動搖ながら笑ひ私語くやうにざわ/\と鳴る。
お品は身體に變態を來したことを意識すると共に恐怖心を懷きはじめた。三四日どうもなかつたから大丈夫だとは思つて見ても、恁う凝然として居ると遠くの方へ滅入つて畢ふ樣な心持がして、不斷から幾らか逆上性でもあるのだがさう思ふと耳が鳴るやうで世間が却て靜かに成つて畢つたやうに思はれた。不圖氣が付いた時お品ははき/\として天秤を擔いだ。林が竭きて田圃が見え出した。田圃を越せば村で、自分の家は田圃のとりつきである。青い煙がすつと騰つて居る。お品は二人の子供を思つて心が跳つた。林の外れから田圃へおりる處は僅かに五六間であるが、勾配の峻しい坂でそれが雨のある度にそこらの水を聚めて田圃へ落す口に成つて居るので自然に土が抉られて深い窪が形られて居る。お品は天秤を斜に横へ向けて、右の手を前の手桶の柄へ左の手を後の手桶の柄へ掛けて注意しつゝおりた。それでも殆んど手桶一杯に成り相な蒟蒻の重量は少しふらつく足を危く保たしめた。やつと人の行き違ふだけの狹い田圃をお品はそろ/\と運んで行く。お品は白茶けた程古く成つた股引へそれでも先の方だけ繼ぎ足した足袋を穿いて居る。大きな藁草履は固めたやうに霜解の泥がくつゝいて、それがぼた/\と足の運びを更に鈍くして居る。狹く連つて居る田を竪に用水の堀がある。二三株比較的大きな榛の木の立つて居る處に僅一枚板の橋が斜に架けてある。お品は橋の袂で一寸立ち止つた。さうして近づいた自分の家を見た。村落は臺地に在るのでお品の家の後は直に斜に田圃へずり落ち相な林である。楢や雜木の間に短い竹が交つて居る。いゝ加減大きくなつた楢の木は皆葉が落ち盡して居るので、其小枝を透して凹んだ棟が見える。白い羽の鷄が五六羽、がり/\と爪で土を掻つ掃いては嘴でそこを啄いて又がり/\と土を掻つ掃いては餘念もなく夕方の飼料を求めつゝ田圃から林へ還りつゝある。お品は非常な注意を以て斜な橋を渡つた。四足目にはもう田圃の土に立つた。其時は日は疾に沒して見渡す限り、田から林から世間は只黄褐色に光つてさうしてまだ明るかつた。お品は田圃からあがる前に天秤を卸して左へ曲つた。自分の家の林と田との間には人の足趾だけの小徑がつけてある。お品は其小徑と林との境界を劃つて居る牛胡頽子の側に立た。鷄の爪の趾が其處の新らしい土を掻き散らしてあつた。お品は土を手で聚めて草履の底でそく/\とならした。お品の姿が庭に見えた時には西風は忘れたやうに止んで居て、庭先の栗の木にぶつ懸けた大根の乾びた葉も動かなかつた。白い鷄はお品の足もとへちよろ/\と駈けて來て何か欲し相にけろつと見上た。お品は平常のやうに鷄抔へ構つては居られなかつた。お品は戸口に天秤を卸して突然
「おつう」と喚んだ。
「おつかあか」と直におつぎの返辭が威勢よく聞えた。それと同時に竈の火がひら/\と赤くお品の目に映つた。朝から雨戸は開けないので内はうす闇くなつて居る。外の光を見て居たお品の目には直ぐにはおつぎの姿も見えなかつたのである。戸口からではおつぎの身體は竈の火を掩うて居た。返辭すると共に身體を捩つたので其赤い火が見えたのである。
おつぎの脊に居た與吉はお品の聲を聞きつけると
「まん/\ま」と兩手を出して下りようとする。お品はおつぎが帶を解いてる間に壁際の麥藁俵の側へ蒟蒻の手桶を二つ並べた。與吉はお袋の懷に抱かれて碌に出もしない乳房を探つた。お品は竈の前へ腰を掛けた。白い鷄は掛梯子の代に掛けてある荒繩でぐる/\捲にした竹の幹へ各自に爪を引つ掛けて兩方の羽を擴げて身體の平均を保ちながら慌てたやうに塒へあがつた。さうして青い煙の中に凝然として目を閉ぢて居る。
お品は家に歸つて幾らか暖まつたがそれでも一日冷えた所爲かぞく/\するのが止まなかつた。さうして後に近所で風呂を貰つてゆつくり暖まつたら心持も癒るだらうと思つた。竈には小さな鍋が懸つて居る。汁は葢を漂はすやうにしてぐら/\と煮立つて居る。外もいつかとつぷり闇くなつた。おつぎは竈の下から火のついてる麁朶を一つとつて手ランプを點けて上り框の柱へ懸けた。お品はおつぎが單衣へ半纏を引つ掛けた儘であるのを見た。平常ならそんなことはないのだが自分が酷くぞく/\として心持が惡いのでつい氣になつて
「おつう、そんな姿で汝や寒かねえか」と聞いた。それから手拭の下から見えるおつぎのあどけない顏を凝然と見た。
「寒かあんめえな」おつぎは事もなげにいつた。與吉は懷の中で頻りにせがんで居る。お品は平常のやうでなく何も買つて來なかつたので、ふと困つた。
「おつう、そこらに砂糖はなかつたつけゝえ」お品はいつた。おつぎは默つて草履を脱棄てゝ座敷へ駈けあがつて、戸棚から小さな古い新聞紙の袋を探し出して、自分の手の平へ少し砂糖をつまみ出して
「そら/\」といひながら、手を出して待つて居る與吉へ遺つた。おつぎは砂糖の附いた自分の手を嘗めた。與吉は其砂糖をお袋の懷へこぼしながら危な相につまんでは口へ入れる。砂糖が竭きた時與吉は其べとついた手をお袋の口のあたりへ出した。お品は與吉の兩手を攫へて舐つてやつた。お品は鍋の蓋をとつて麁朶の焔を翳しながら
「こりや芋か何でえ」と聞いた。
「うむ、少し芋足して暖め返したんだ」
「おまんまは冷たかねえけ」
「それから雜炊でも拵えべと思つてたのよ」
お品は熱い物なら身體が暖まるだらうと思ひながら、自分は酷く懶いので何でもおつぎにさせて居た。おつぎは粘り氣のない麥の勝つたぽろ/\な飯を鍋へ入れた。お品は麁朶を一燻べ突つ込んだ。おつぎは鍋を卸して茶釜を懸けた。ほうつと白く蒸氣の立つ鍋の中をお玉杓子で二三度掻き立てゝおつぎは又葢をした。おつぎは戸棚から膳を出して上り框へ置いた。柱に點けてある手ランプの光が屆かぬのでおつぎは手探りでして居る。お品は左手に抱いた與吉の口へ箸の先で少しづゝ含ませながら雜炊をたべた。お品は芋を三つ四つ箸へ立てゝ與吉へ持たせた。與吉は芋を口へ持つていつて直ぐに熱いというて泣いた。お品は與吉の頻をふう/\と吹いてそれから芋を自分の口で噛んでやつた。お品の茶碗は恁うして冷えた。おつぎは冷たくなつた時鍋のと換てやつた。お品は欲しくもない雜炊を三杯までたべた。幾らか腹の中の暖かくなつたのを感じた。さうして漸く水離れのした茶釜の湯を汲んで飮んだ。おつぎは庭先の井戸端へ出て鍋へ一杯釣瓶の水をあけた。おつぎが戻つた時
「おつう、今夜でなくつてもえゝや」とお品はいつた。おつぎは默つて俵の側の手桶へ手を掛けて
「此へも水入て置かなくつちやなんめえな」
「さうすればえゝが大變だらえゝぞ」
お品がいひ切らぬうちにおつぎは庭へ出た。直ぐに洗つた鍋と手桶を持つて暗い庭先からぼんやり戸口へ姿を見せた。閾へ一寸手桶を置いてお品と顏を見合せた。手桶の水は半分で兩方の蒟蒻へ水が乘つた。
お品は三人連で東隣へ風呂を貰ひに行つた。東隣といふのは大きな一構で蔚然たる森に包まれて居る。
外は闇である。隣の森の杉がぞつくりと冴えた空へ突つ込んで居る。お品の家は以前から此の森の爲めに日が餘程南へ廻つてからでなければ庭へ光の射すことはなかつた。お品の家族は何處までも日蔭者であつた。それが後に成つてから方方に陸地測量部の三角測量臺が建てられて其上に小さな旗がひら/\と閃くやうに成つてから其森が見通しに障るといふので三四本丈伐らせられた。杉の大木は西へ倒したのでづしんとそこらを恐ろしく搖がしてお品の庭へ横たはつた。枝は挫けて其先が庭の土をさくつた。それでも隣では其木の始末をつける時にそこらへ散らばつた小枝や其他の屑物はお品の家へ與へたので思ひ掛けない薪が出來たのと、も一つは幾らでも東が隙いたのとで、隣では自分の腕を斬られたやうだと惜しんだにも拘らずお品の家では竊に悦んだのであつた。それからといふものはどんな姿にも日が朝から射すやうになつた。それでも有繋に森はあたりを威壓して夜になると殊に聳然として小さなお品の家は地べたへ蹂つけられたやうに見えた。
お品は闇の中へ消えた。さうして隣の戸口に現はれた。隣の雇人は夜なべの繩を綯つて居た。板の間の端へ胡坐を掻いて足で抑へた繩の端へ藁を繼ぎ足し/\してちより/\と額の上まで揉み擧ては右の手を臀へ廻してくつと繩を後へ扱く。繩は其度に土間へ落ちる。お品は板の間に小さくなつて居た。軈て藁が竭きると傭人は各自に其繩を足から手へ引つ掛けて迅速に數を計つては土間から手繰り上げながら、繼がつた儘一房づゝに括つた。やがて彼等は板の間の藁屑を土間へ掃きおろしてそれから交代に風呂へ這入つた。お品はそれを見ながら默つて待つて居た。お品は此處へ來ると恁ういふ遠慮をしなければならぬので、少しは遠くても風呂は外へ貰ひに行くのであつたが其晩はどこにも風呂が立たなかつた。お品は二三軒そつちこつちと歩いて見てから隣の門を潜つたのであつた。傭人は大釜の下にぽつぽと火を焚いてあたつて居る。風呂から出ても彼等は茹つたやうな赤い腿を出して火の側へ寄つた。
「どうだね、一燻べあたつたらようがせう、今直に明くから」と傭人がいつてくれてもお品は臀から冷えるのを我慢して凝然と辛棒して居た。懷で眠つた與吉を騷がすまいとしては足の痺れるので幾度か身體をもぢ/\動かした。漸く風呂の明いた時はお品は待遠であつたので前後の考もなく急いで衣物をとつた。與吉は幸ひにぐつたりと成つてお袋の懷から離れるのも知らないのでおつぎが小さな手で抱いた。お品は段々と身體が暖まるに連れて始めて蘇生つたやうに恍惚とした。いつまでも沈んで居たいやうな心持がした。與吉が泣きはせぬかと心付いた時碌に洗ひもしないで出て畢つた。それでも顏がつや/\として髮の生際が拭つても/\汗ばんだ。さうしてしみ/″\と快かつた。お品は衣物を引つ掛けると直ぐと與吉を内懷へ入れた。お品の後へは下女が這入つたので、おつぎは其間待たねばならなかつた。おつぎが出た時はお品の身體は冷め掛けて居た。お品は自分が後ではいればよかつたのにと後悔した。
お品が自分の股引と足袋とをおつぎに提げさせて歸つた時に月は竊に隣の森の輪郭をはつきりとさせて其森の隙間が殊に明るく光つて居た。世間がしみ/″\と冷えて居た。お品は薄い垢じみた蒲團へくるまると、身體が又ぞく/\として膝かしらが氷つたやうに成つて居たのを知つた。
二
次の朝お品はまだ戸の隙間から薄ら明りの射したばかりに眼が覺めた。枕を擡げて見たが頭の心がしく/\と痛むやうでいつになく重かつた。狹い家の内に羽叩く鷄の聲がけたゝましく耳の底へ響いた。おつぎはまだすや/\として眠つて居る。戸の隙間が瞼を開いたやうに明るくなつた時鷄が復た甲走つて鳴いた。お品はおつぎを今朝は緩くりさせてやらうと思つて居た。それでもおつぎは鷄が又鳴いた時むつくり起きた。いつもと違つて餘りひつそりして居るので驚いたやうにあたりを見た。さうしてお袋がまだ自分の傍に蒲團へくるまつてるのを見た。
「おつう、せかねえでもえゝぞ、俺ら今朝少し工合が惡いから緩くりすつかんなよ」お品はいつた。おつぎは暫くもぢ/\しながら帶を締て大戸を一枚がら/\と開けて目をこすりながら庭へ出た。井戸端の桶には芋が少しばかり水に浸してあつて、其水には氷がガラス板位に閉ぢて居る。おつぎは鍋をいつも磨いて居る砥石の破片で氷を叩いて見た。おつぎは大戸を開け放して置いたので朝の寒さが侵入したのに氣がついて
「おつかあ、寒かなかつたか、俺ら知らねえで居た」いひながら大戸をがら/\と閉めた。闇くなつた家の内には竈の火のみが勢ひよく赤く立つた。おつぎは
「おゝ冷てえ」といひながら竈の口から捲れて出るへ手を翳して
「今朝は芋の水氷つたんだよ」とお袋の方を向いていつた。
「うむ、霜も降つたやうだな」お品は力なくいつた。戸口を後にしてお品は竈の火のべろ/\と燃え上るのを見た。
「何處でも眞白だよ」おつぎは竹の火箸で落葉を掻き立てながらいつた。
「夜明にひどく冷々したつけかんな」お品はいつて一寸首を擡げながら
「俺ら今朝はたべたかねえかんな、汝構あねえで出來たらたべた方がえゝぞ」お品はいつた。又氷つた飯で雜炊が煮られた。
「おつかあ、ちつとでもやらねえか」おつぎは茶碗をお袋の枕元へ出した。雜炊の焦げついたやうな臭ひがぷんと鼻を衝いた時お品は箸を執つて見ようかと思つて俯伏しになつて見たが、直に壓になつて畢つた。お品が動いたので懷の與吉は泣き出した。お品は俯伏した儘乳房を含ませた。さうして又芋の串を拵へて持たせた。
お品が表の大戸を開けさせた時は日がきら/\と東隣の森越しに庭へ射し掛けてきつかりと日蔭を限つて解け殘つた霜が白く見えて居た。庭先の栗の木の枯葉からも、枝へ掛けた大根の葉からも霜が解けて雫がまだぽたり/\と垂れて居る。庭へ敷いてある庭葢の藁も只ぐつしりと濕つて居る。冬になると霜柱が立つので庭へはみんな藁屑だの蕎麥幹だのが一杯に敷かれる。それが庭葢である。霜柱が庭から先の桑畑にぐらり/\と倒れつゝある。
お品は蒲團の中でも滅切暖かく成つたことを感じた。時々枕を擡げて戸口から外を見る。さうしては麥藁俵の側に置いた蒟蒻の手桶をどうかすると無意識に見つめる。横に成つて居る目からは東隣の森の梢が妙に變つて見えるので凝然と見つめては目が疲れるやうに成るので又蒟蒻の手桶へ目を移したりした。お品はどうかして少しでも蒟蒻を減らして置きたいと思つた。お品は其内に起きられるだらうと考へつゝ時々うと/\と成る。
「切干でも切つたもんだかな」おつぎが庭から大きな聲でいつた時お品はふと枕を擡げた。それでおつぎの聲は意味も解らずに微かに耳に入つた。
暫くたつてからお品は庭でおつぎがざあと水を汲んでは又間を隔てゝざあと水を汲んで居るのを聞いた。おつぎは大根を洗つた。おつぎは庭葢の上に筵を敷いて暖かい日光に浴しながら切干を切りはじめた。大根を横に幾つかに切つて、更にそれを竪に割つて短册形に刻む。おつぎは飯臺へ渡した爼板の上へとん/\と庖丁を落しては其庖丁で白く刻まれた大根を飯臺の中へ扱き落す。お品は切干を刻む音を聞いた時先刻のは大根を洗つて居たのだなと思つた。お品は二三日此來もう切干も切らなければならないと自分が口について云つて居たことを思ひ出して、おつぎが能く機轉を利かしたと心で悦んだ。庖丁の音が雨戸の外に近く聞える。お品は身體を半分蒲團からずり出して見たら、手拭で髮を包んで少し前屈みになつて居るおつぎの後姿が見えた。
「大根は分つたのか」お品は聞いた。
「分つてるよ」おつぎは庖丁の手を止めて横を向て返辭した。お品は又蒲團へくるまつた。さうしてまだ下手な庖丁の音を聞いた。お品の懷に居た與吉は退屈してせがみ出した。おつぎは夫を聞いて
「そうら、※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、24-7]が處へでも來て見ろ」といひながら忙しくぽつと一燻べ落葉を燃して衣物を灸つて與吉へ着せた。
「よきは利口だから※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、24-9]が處に居るんだぞ」お品はいつた。おつぎは自分の筵の上へ抱いて行つた。おつぎの手は落葉の埃で汚れて居た。再び庖丁を持つた時大根には指の趾がついた。おつぎは其手を半纏で拭つた。與吉は側で刻まれた大根へ手を出す。
「危險よ、さあ此でも持つて居ろ」おつぎは切り掛けの大根をやつた。與吉は直にそれを噛ぢつた。
「辛くて仕やうあんめえなよきは」おつぎは甘やかすやうにいつた。お品にはそれが能く聞えて二人がどんなことをして居るのかゞ分つた。お品の耳には續いて
「ぽうんとしたか、そらそつちへ行つちやつた」といふ聲がしたかと思ふと
「こんだはぽうんとすんぢやねえかんな」といふ聲やそれから又
「それ持ち出すんぢやねえ、聽かねえと此で切つてやんぞ、赤まんまが出るぞおゝ痛え」抔とおつぎのいふのが聞えた。其度に庖丁の音が止む。お品には與吉が惡戯をしたり、おつぎが痛いといつて指を啣へて見せれば與吉も自分の手を口へ當て居るのが目に見えるやうである。お品はおつぎを平常から八釜敷して居たので餘所の子よりも割合に動けると思つて居るけれど、與吉と巫山戯たりして居るのを見るとまだ子供だといふことが念頭に浮ぶ。自分が勘次と相知つたのは十六の秋である。おつぎは恁うして大人らしく成るであらうかと何時になくそんなことを思つた。おつぎは十五であつた。
午餐もお品は欲しくなかつた。自分でも今日は商に出られないと諦めた。明日に成つたらばと思つて居た。然しそれは空頼であつた。お品は依然として枕を離れられない。有繋に不安の念が先に立つた。お品はつい近頃行つた勘次の事が頻りに思ひ出されて、こつちであれ程働いて行つたのに屹度休みもしないで錢取をして居るのだらうと思ふと、寒くてもシヤツ一つになつて、後には其シヤツの端が拔け出して能く臍が出ることや、夜になると能く骨がみり/\する樣だといつたことが目の前にあるやうで何だか逢ひたくて堪らぬやうな心持がするのであつた。
勘次は利根川の開鑿工事へ行つて居た。秋の頃から土方が勸誘に來て大分甘い噺をされたので此の近村からも五六人募集に應じた。勘次は工事がどんなことかも能く知らなかつたが一日の手間が五十錢以上にもなるといふので、それが其季節としては法外な値段なのに惚れ込んで畢つたのである。工事の場所は霞ヶ浦に近い低地で、洪水が一旦岸の草を沒すと湖水は擴大して川と一つに只白々と氾濫するのを、人工で築かれた堤防が僅に湖水と川とを區別するあたりである。勘次は自分の土地と比較して茫々たるあたりの容子に呑まれた。さうして工夫等に權柄にこき使はれた。
勘次は愈傭はれて行くとなつた時收穫を急いだ。冬至が近づく頃には田はいふまでもなく畑の芋でも大根でもそれぞれ始末しなくてはならぬ。勘次はお品が起きて竈の火を點けるうちには庭葢へ籾の筵を干したりそれから獨りで磨臼を挽いたりして、それから大根も干したり土へ活けたりして闇いから闇いまで働いた。それでも籾が少しと畑が少し殘つたのをお品がどうにかするといつたので出て行つたのである。
工事の箇所へは廿里もあつた。勘次は行けば直に錢になると思つたので漸く一圓ばかりの財布を懷にした。辨當をうんと背負つたので目的地へつくまでは渡錢の外には一錢も要らなかつた。
勘次は夜ついて其次の日には疲れた身體で仕事に出た。彼は半日でも無駄な飯を喰ふことを恐れた。然し其の次の日は過激な勞働から俗にそら手というて手の筋が痛んだので二三日仕事に出られなかつた。それから六七日たつて烈しい西風が吹いた。勘次は薄い蒲團へくるまつて日の中から冷えてた足が暖らなかつた。うと/\と熟睡することも出來ないで輾轉して長い夜を漸く明した。
其の次の日彼は硬ばつたやうに感ずる手を動かして冷たいシヤブルの柄を執つて泥にくるまつて居た。さうして居る處へ村の近所のものがひよつこり尋ねて來たので彼は狐にでも魅まれたやうに只驚いた。近所の者は大勢が只泥のやうになつて動いて居るのでどれがどうとも識別がつかないで困つたといつて、勘次に逢うたことを反覆して只悦んだ。途中へ一晩泊つたといふやうなことをいつて勘次が心忙しく聞く迄は理由をいはなかつた。勘次は漸くお品に頼まれて來たのだといふことを知つた。勘次はお品が病氣に罹つたのだといふのを聞いて萬一かといふ懸念がぎつくり胸にこたへた。さうして反覆してどんな鹽梅だと聞いた。噺の容子ではそれ程でもないのかと思つても見たが、それでも勘次は口を利くにも唾が喉からぐつと突つ返して來るやうで落付かれなかつた。
其の日の夜中に彼等は立つた。勘次は自分も急ぐし使を疲れた足で歩かせることも出來ないので霞ヶ浦を汽船で土浦の町へ出た。夜は汽船で明けたがどうしたのか途中で故障が出來たので土浦へ着いたのは豫定の時間よりは遙に後れて居た。土浦の町で勘次は鰯を一包み買つて手拭で括つてぶらさげた。土浦から彼は疲れた足を後に捨てゝ自分は力の限り歩いた。それでも村へはひつた時は行き違ふ人がぼんやり分る位で自分の戸口に立つた時は薄暗い手ランプが柱に懸つて燻ぶつて居た。勘次はひつそりとした家のなかに直に蒲團へくるまつて居るお品の姿を見た。それからお品の足を揣つて居るおつぎに目を移した。
勘次は大戸をがらりと開けて閾を跨いだ時何もいはずに只
「どうしてえ」といふのが先であつた。お品は勘次の聲を聞いて思はず枕を動かして
「勘次さんか」といつて更に
「南のおとつゝあは行き違にでもならなかつたんべかな」といつた。
「行逢つたよ。そんだがお前どんな鹽梅なんでえ」
「俺らそれ程でねえと思つて居たが三四日横に成つた切でなあ、それでも今日等はちつたあえゝやうだから此分ぢや直に吹つ返すかとも思つてんのよ」
「そんぢやよかつた、俺ら只ぢや歩いてもよかつたが、南こと又歩かせちや濟まねえから同志に土浦まで汽船で乘つ着けたんだが、南は草臥れたもんだから俺ら先へ出たんだがな、南もあの分ぢや今夜もなか/\容易ぢやあんめえよ、それに汽舩が又後れつちやつてな」
勘次はいひながら草鞋をとつた。手拭の端へ括つて來た鰯の包みをかさりとお品の枕元へ投げて、首へつけて居た風呂敷包をどさりと置いて勘次は庭へ出て足を洗つた。勘次はお品の枕元へ座を占めた。
「そんなに惡くなくつちやそれでもよかつた、俺らどうしたかと思つてな」勘次は改めて又いつた。
「お品おまんまは喰べてか」勘次はつけ足した。
「先刻おつうに米のお粥炊いて貰つてそれでもやつと掻つ込んだところだよ」
「それぢやどうした、途中で見付けて來たんだから一疋やつて見ねえか」勘次は手ランプをお品の枕元へ持つて來て鰯の包を解いた。鰯は手ランプの光できら/\と青く見えた。
「ほんによなあ」お品は俯伏しになつて恁ういつた。
「おつう、其處へ火でも吹つたけて見ねえか」勘次はいつた。
「勘次さんそら大變だつけな、俺らそんなにや要らなかつたな」
「今だから何時までも保つよ、さうしてお前も力つけろな」
「汽船に乘つて來たつて餘つ程費用も掛つたんべな」
「さうよ、二人で六十錢ばかりだが此は俺出したのよ、南に出させる譯にも行かねえかんな」
「それぢや稼えだ錢それだけ立投にしつちやつたな」
「そんでも財布にやまあだ有るよ、七日ばかり働えてそれでも二兩は殘つたかんな、そんで又行く筈で前借少しして來たんだ、こつちの方から行つてる連中が保證してくれてな」勘次は誇り顏にいつた。
「俺ら今日見てえだらえゝが、酷く行逢ひたくなつてなあ」お品は俯伏した額を枕につけた。
「どうせ此處らの始末もしねえで行つたんだから、一遍は途中で歸つて見なくつちや成らねえのがだから同じ事だよ」勘次はお品を覗き込やうにしていつた。
「それでも俵にしちや置いたな」勘次は壁際の麥藁俵を見ていつた。お品はまだ俯伏した儘である。
「あつちに居ちや錢は要らねえな、煙草一服吸ふべえぢやなし、十五日目が晦日でそれまでは勘定なしで其間は米でも薪でもみんな通帳で借りて置く位なんだから、十五日目に成らなくつちや財布も膨れねえが、又百でも出つこはねえかんな」勘次は更に出先のことをお品へ聞かせた。
「米ばかり炊えても毎日一升づゝは要る位だから骨も隨分折れんが出せえすりや二貫と三貫は殘せつから、歸るまでにや俺もどうにか成ると思つてんのよ、さうすりや鹽鮭位は買あことも出來らな」
「そんぢやよかつた、土方なんちや碌な奴等は居ねえつていふからどうしたかと思つてな」お品は首を擡げた。
「そんな奴等と交際した日にや限はねえが、隅の方にちゞまつてりや何ともゆはねえな」勘次がついて居る間におつぎは枯粗朶を折て火鉢へ火を起した。勘次は火箸を渡して鰯を三つばかり乘せた。鰯の油がぢり/\と垂れて青い焔が立つた。鰯の臭が薄い煙と共に室内に滿ちた。さうして其臭がお品の食慾を促した。お品は俯伏したなりで煙臭くなつた鰯を喰べた。
「どうした鹽辛かあ有んめえ」
「有繋佳味えな」
「此でもこゝらの商人は持つちや來ねえぞ」勘次は一心に見ながらいつた。
お品は二匹へ手をつけて箸を置きながら懷で眠つて居る與吉を覗いて
「起きて居たら大騷ぎだんべ」といつた。
「いまつとたべろな」勘次はいつた。
「澤山だよ、おつうげもやつてくろうな」
「俺も飯でも食はうかえ」勘次は風呂敷包から辨當の殘を出して冷たい儘ぷす/\と噛つた。
「おうつ、お茶は冷めたくなつたつけかな」お品はいつた。
「要ねえぞ仕事に出りや毎日かうだ」勘次は梅干を少しづゝ嘗め減らした。辨當が盡きてから勘次は鰯をおつぎへ挾んでやつた。さうして自分でも一口たべた。
「此りや佳味えこたあ佳味えが餘りあまくつて俺がにや胸が惡くなるやうだな」勘次は冷めた湯を幾杯か傾けた。勘次は風呂敷から袋を出してお品の枕元へ置いて
「米これだけ殘つたから持つて來たんだ、あつちに居ればえゝが幾日でも明けると炊かれつちやつても仕やうねえかんな、そんぢや此りやおつうげやつて置くんだ」
勘次は米の小さな袋をおつぎへ渡した。
「袋なんぞ又何だと思つたよ」お品は輕くいつた。
「それでも薪は持つて來る譯にも行かねえから置いて來つちやつた」勘次は自ら嘲るやうに目から口へ掛けて冷たい笑が動いた。
「お品、足でもさすつてやんべぢやねえか」勘次はお品の裾の方へ行つた。
「えゝよ勘次さん、俺ら今日は日のうちから心持えゝんだから、先刻もおつうが揣つてやんべなんていふもんだから少しもやつてくろつて云つた處だよ、こんぢや二三日も過ぎたら勘次さんは又行けべえよ」お品は快よげにいつた。
「今夜はひどく心持えゝんだよ、えゝよ本當だよ勘次さん、お前草臥たんべえな」更にお品は威勢がついていつた。
夜は深けた。外の闇は氷つたかと思ふやうに只しんとした。蒟蒻の水にも紙の如き氷が閉ぢた。
三
次の朝霜は白く庭葢の藁におりた。切干の筵は三枚ばかり其庭葢の上に敷いた儘で、切干には氷を粉末にしたやうな霜が凝つて居て、東の森の隙間から射し透す朝日にきら/\と光つた。白い切干は蒸さずに干したのであつた。切干は雨が降らねば埃だらけに成らうが芥が交らうが晝も夜も筵は敷き放しである。
勘次は霜柱の立てる小徑を南へ行つた。昨夜遲かつたことやら何やら噺をして暇どつた。庭先から續く小さな桑畑の向に家が見えるので、平生それを勘次の家でも唯南とのみいつて居る。彼が薦つくこを擔いで歸つて來た時は日向の霜が少し解けて粘ついて居た。お品は勘次が一寸の間居なく成つたので酷く寂しかつた。此の朝になつてからもお品の容態がいゝので勘次はほつと安心した。さうして斜に遠くから射す冬の日を浴びながら庭葢の上に筵を敷いて俵を編みはじめた。薦つくこは兩端に足が附いて居る。丁度荷鞍の骨のやうな簡單な道具である。其足から足へ渡した棒へ藁を一掴みづゝ當てゝは八人坊主をあつちへこつちへ打つ違ひながら繩を締めつゝ編むのである。八人坊主といふのは其繩を捲いたいはゞ小さな錘である、八つあるので八人坊主といつて居る。小作米を入れる藁俵を四五俵分作らねば成らぬことが稼ぎに出る時から彼には心掛りであつた。すぐつた藁も繩も別に取つて置きながら只忙しくて放棄つて出て行つたのである。
お品は毎日閉め切つて居た表の雨戸を一枚だけ開けさせた。からりとした蒼い空が見えて日が自分の居る蒲團に近くまで偃つた。お品は此れまでは明るい外を見ようと思ふには餘りに心が鬱して居た。お品は庭先の栗の木から垂れた大根が褐色に干て居るのを見た。おつぎも勘次の横へ筵を敷いて又大根を切つて居る。其庖丁のとん/\と鳴る間に忙しく八人坊主を動かしてはさらさらと藁を扱く音が微かに交つて聞える。お品は二人の姿を前にして酷く心強く感じた。其の日は栗の木に懸けた大根の動かぬ程穩かな日であつた。お品は此の分で行けば一枚紙を剥がすやうに快よくなることゝ確信した。勘次は藁俵を編み了へて、さうして端を縛つた小さな藁の束を丸く開いて、それを足の底に踏んで踵を中心に手と足とを筆規のやうにしてぐる/\と廻りながら丸い俵ぼつちを作つた。勘次はお品がどうにか始末をして置いた麥藁俵を明けて仕上げた計りの藁俵へ米を量り込んだ。米には赤い粒もあつたが籾が少し交つて居てそれが目に立つた。
「籾が少したかゝつたな」勘次はふとさういつた。
「さうだつけかな、それでも俺ら唐箕は強く立てた積なんだがなよ、今年は赤も夥多だが磨臼の切れ方もどういふもんだか惡いんだよ」とお品は少し身を動かして分疏するやうにいつた。
「尤も此位ぢや旦那も大目に見てくれべえから心配はあんめえがなよ」勘次は直にお品の病氣に心付いて恁ういつた。壁際には藁の器用な俵が規則正しく積み換られた。お品はそれを一心に見た。それもお品を快よくする一つであつた。勘次は俵の側な手桶の蓋をとつて
「此りや蒟蒻だな」といつた。
「俺らそれ仕入たつきり起られねえんだよ」お品は枕を手で動かしていつた。勘次は又葢をした。
靜かな空をぢり/\と移つて行く日が傾いたかと思ふと一散に落ちはじめた。冬の日はもう短い頂點に達して居るのである。勘次はまだ日が有るからといつて鍬を擔いで麥畑へ出た。然し幾らも耕さぬうちに日は落ちて俄かに冷たく成つた世間は暗澹として來た。お品は勘次を出して酷く遣瀬ないやうな心持になつて、雨戸を引せて闇い方へ向て目を閉ぢた。
冬至はもう間が二日しか無くなつた。朝の内に勘次は蒟蒻の葢をとつて見て
「どうしたもんだかな、俺でも擔いて歩つてんべかな、恁して置いたんぢや仕やうねえかんな」お品へ相談して見た。
「さうよな、それよりか俺らどつちかつちつたら大根でも漬て貰へてえな、毎日栗の木見て居て干過ぎやしめえかと思つて心配してんだからよ」お品は訴へるやうにいつてさうして更に
「自分で丈夫でせえありや疾くにやつちまつたんだが」と小聲でいつた。お品はどうも勘次を出すのが厭であつた。然し何だかさう明白地にもいはれないので恁ういつたのであつた。
「勘次さん鹽見てくんねえか、俺ら大丈夫有ると思つてたつけがなよ、それからこつちの桶の糠がえゝんだよ、そつちのがにや房州砂交つてんだから」お品はいつた。
「おうい」勘次はいつて、
「房州砂でも何でも構あめえ、どうで糠喰ふんぢやあんめえし、それにこつちなちつと凝結つてら」
「勘次さんそんでも入えんなよ、毒だつちんだから、俺折角別にしてたんだから」お品は少し身を起し掛けていつた。
「さうかそんぢやさうすべよ」それから鹽を改めて見て
「どうして此れだけ使へ切れるもんけえ」と勘次はいつた。お品は勘次が梯子を掛けて一つ/\に大根を外すのも小糠を筵へ量るのも白い鹽を小糠へ交ぜるのも滿足氣に見て居た。
お品は勘次を外へ遣るのが厭なのでさうはいはずに時々おつぎに足をさすらせた。さうすると勘次は
「どうした幾らか惡いのか」と自分も一心に蒲團の裾へ手を掛ける。勘次は庭から外へは出られなかつた。
それでも冬至が明日と迫つた日に勘次は蒟蒻を持つて出た。お品もそれは止めなかつた。もう幾人か歩いた後なので、思ふやうには捌けなかつたがそれでも勘次はお品にひかされて、まだ殘つて居る蒟蒻を擔いで歸つて來て畢つた。
「蒟蒻はお品がもんだから、錢はみんなおめえげ遣つて置くべ」勘次は銅貨をぢやら/\とお品の枕元へ明けた。お品は銅貨を一つ/\勘定した。さうして資本を引いても幾らかの剩餘があつたので
「勘次さん思ひの外だつけな、まあだあと餘程あんべえか」といつた。
「幾らでもねえな、はあ此丈ぢや又出る程のこつてもあんめえよ」勘次はいつた。お品は自分の手で錢を蒲團の下へ入れた。其の日お品は勘次を出して情ないやうな心持がして居たのであるが、思つたよりは商をして來て呉れたので一日の不足が全く恢復された。さうして
「菜は畑へ置きつ放しだつけべな」勘次がいつた時お品も驚いたやうに
「ほんにさうだつけなまあ、後れつちやつたつけなあ、俺ら忘れてたつけが大丈夫だんべかなあ」といつた。
「そんぢや俺ら今つからでも曳ける丈曳くべ」勘次はおつぎを連れて出た。冬至になるまで畑の菜を打棄つて置くものは村には一人もないのであつた。勘次は荷車を借りて黄昏までに二車挽いた。青菜の下葉はもうよく/\黄色に枯れて居た。お品は二人を出し薄暗くなつた家にぼつさりして居ても畑の收穫を思案して寂しい不足を感じはしなかつた。
夏季の忙しいさうして野菜の缺乏した時には彼等の唯一の副食物が鹽を噛むやうな漬物に限られて居るので、大根でも青菜でも比較的餘計な蓄へをすることが彼等には重大な條件の一つに成つてるのである。
冬至の日も靜かであつた。此の頃になつてから此處ばかりは忘れたかと思ふやうに西風が止んで居る。晝の一しきりは冷たい空氣を透して日が暖かに射し掛けた。お品は朝から心持が晴々して日が昇るに連れて蒲團へ起き直つて見たが、身體が力の無いながらに妙に輕く成つたことを感じた。自分の蒲團の側まで射し込む日に誘ひ出されたやうに、雨戸の閾際まで出て與吉を抱いては倒して見たり、擽つて見たりして騷がした。
勘次はおつぎを相手に井戸端で青菜の始末をして居る。根を切つて桶で洗つた青菜は、地べたへ横へた梯子の上に一枚外して行つて載せた其戸板へ積まれた。菜が洗ひ畢つた時枯葉の多いやうなのは皆釜で茹でゝ後の林の楢の幹へ繩を渡して干菜に掛けた。自分等の晝餐の菜にも一釜茹でた。お品は僅な日數を横に成つて居たばかりに目が衰へたものか日の稍眩いのを感じつゝ其の日の光を全身に浴びながら二人のするのを見て居た。さうして茹菜の一皿が幾らか渇を覺えた所爲か非常に佳味く感じた。
青菜の水が切れたので勘次は桶へ鹽を振つては青菜を足でぎり/\と蹂みつけて又鹽を振つては蹂みつける。お品は鹽の加減やら何やら先刻から頻りに口を出して居る。勘次はお品のいふ通りに運んで居る。
お品は起きて居ても別に疲れもしないのでそつと草履を穿いて後の戸口から出て楢の木へ引つ張つた干菜を見た。それから林を斜に田の端へおりて又牛胡頽子の側に立つて其處をそつと踏み固めた。それから暫く周圍を見て立つて居た。お品は庭先から喚ぶ勘次の大きな聲を聞いた。竹や木の幹に手を掛けながら斜めに林をのぼつて後の戸口から家へもどつた時更に叫んだ勘次の聲を聞くと共に、天秤を擔いだ儘ぼんやり立つて居る商人の姿を庭葢の上に見た。
「お品卵欲しいと」勘次は次の桶の青菜に鹽を振り掛けながらいつた。
「幾らか有つたつけな」お品は戸棚の抽斗から白い皮の卵を廿ばかり出した。
「おつう、四五日見ねえで居たつけが塒にも幾らか有つたつけべ、あがつて見ねえか」おつぎに吩附けた。おつぎは米俵へ登つて其上に低く釣つた竹籃の塒を覗いた時、牝が一羽けたゝましく飛び出して後の楢の木の中へ鳴き込んだ。他の鷄も一しきり共に喧しく鳴いた。おつぎは手を延ばしては卵を一つ/\に取つて袂へ入れた。おつぎは袂をぶら/\させて危相に米俵を降りた。其處にも卵は六つばかりあつた。商人は卸した四角なぼて笊から眞鍮の皿と鍵が吊された秤を出した。
「掛は幾らだね」お品は聞いた。
「十一半さ、近頃どうも安くつてな」商人はいひながら淺い目笊へ卵を入れて萠黄の紐のたどりを持つて秤の棹を目八分にして、さうして分銅の絲をぎつと抑へた儘銀色の目を數へた。玩具のやうな小さな十露盤を出して商人は
「皆掛が四百廿三匁二分だからなそれ」秤の目をお品に見せて十露盤の玉を彈いた。
「風袋を引くと四百八匁二分か、どうした幾つだ廿六かな、さうすると一つが」商人のいひ畢らぬうちにお品は
「幾らなんでえ、此の風袋は」と聞いた。
「十五匁だな」
「大概十匁ぢやねえけえ」
「そんだら見さつせえそれ、十五匁だんべ、俺がな他人のがよりや大けえんだかんな」商人は目笊の目を掛けて見せて
「はて、一つ十五匁七分づゝだ、粒は小せえ方だな」商人はゆつくり十露盤の玉を彈いて
「四十六錢八厘六毛三朱と成るんだが、此りや八厘として貰つてな」と商人は財布から自分の手へ錢を明けた。
「お品おめえ自分でも喰つたらよかねえけ、幾つでも取つて置けな」勘次は鹽だらけにした手を止めて遠くから呶鳴つた。
「此の錢で外の物買つて喰つた方がえゝから此れ丈は遣るとすべえよ、折角勘定もしたもんだからよ、俺ら大層よくなつたんだから大丈夫だよ」お品はいつた。
「そんなこといはねえで幾つでも取つて置けよ、癒り際が氣を附けねえぢやえかねえもんだから」勘次は漬菜の手を放して檐下へ來た。手も足も茹でたやうに赤くなつて居る。
「それぢやちつとも殘したものかな」お品は小さなのを二つ取つた。
「そんなんぢやねえのとれな」勘次は大きなのを選んで三つとつた。卵の皮には手の鹽が少し附いた。
「そんぢやそれ掛けてんべ」商人は今度は眞鍮の皿へ卵を乘せて
「こつちなんぞぢや、後幾らでも出來らあな」といひながらたどりを持つた。卵が少し動くと秤の棹がぐら/\と落付かない。
「誤魔化しちや厭だぞ」お品は寂しく笑ひながらいつた。
「どうしておめえ、此の秤なんざあ檢査したばかりだもの一分でも此の通り跳ねたり垂れたりして、どうして飛んだ噺だ」商人は分銅の手を抑へて又目を讀んだ。
「五十匁一分だな、さうすつと一つ十六匁七分づゝだ、大けえからな」
「鹽がくつゝいてつから鹽の目方もあんぞ」勘次は側からいつて笑つた。商人は平然として居る。
「五錢五厘六毛幾らつていふんだ、さうすつと先刻のは幾らの勘定だつけな」
「四十六錢八厘幾らとか言たつけな」お品は直にいつた。
「それぢや差引四十一錢三厘小端か、こつちのおつかさま自分でも商してつから記憶がえゝやな」商人は十露盤を持つて
「どうしたえ、鹽梅でも惡いやうだが風邪でも引いたんぢやあんめえ」といつた。
「うむ、少し惡くつて仕やうねえのよ」お品はいつて
「小端は幾らになんでえ」と更に聞いた。
「勘定にや成んねえなどうも、近頃は仕やうねえよ文久錢だの青錢だのつちうのが薩張出なくなつちやつてな、それから何處へ行つても恁して置くんだ」商人がぼて笊から燐寸を出さうとすると
「又燐寸ぢやあんめえ」お品は微笑した。
「こまけえ勘定にや近頃燐寸と極めて置くんだが、何處の商人もさうのやうだな」商人は卵を笊へ入れながらいひ續けた。
「酷く安くなつちやつたな、寒く成つちや保存がえゝのに却て安いつちうんだから丸で反對になつちやつたんだな」勘次は青菜を桶へ並べつゝいつた。
「上海がへえつちやぐつと値が下つちやつてな、あつちぢやどれ程安いもんだかよ、品が少ねえ時に安くなるつちうんだから商人も儲からねえ」天秤を擔いで彼は又更に
「相場が下げ氣味の時にやうつかりすつと損物だかんな、なんでも百姓して穀積んで置く者が一等だよ、卵拾ひもなあ、赤痢でも流行つて來てな、看護婦だの巡査だの役場員だのつちう奴等病人の口でもひねつてみつしり喰つてゞも呉んなくつちや商人は駄目だよ」商人は行き掛けて
「また溜めて置いておくんなせえ」今度は少し叮寧にいひ捨てゝ去つた。
お品は錢を蒲團の下の巾着へ入れた。さうして棚からまるめ箱を卸して三つの白い卵を入れた。以前は此の土地でも綿が採れたので、夜なべには女が皆竹で絲を引いた。綿打弓でびんびんとほかした綿は箸のやうな棒を心にして蝋燭位の大きさにくる/\と丸める。それがまるめである。此のまるめから不器用な百姓の手が自在に絲を引いた。此の頃では綿がすつかり採れなくなつたので、まるめ箱も煤けた儘稀に保存されて居るのも絲屑や布の切端が入れてある位に過ぎないのである。お品はそれから膨れた巾着の爲めに跳ねあげられた蒲團の端を手で抑へた。それから又横になつた。先刻から疲勞したやうな心持に成つて居たが横になると身體が溶けるやうにぐつたりして微かに快よかつた。
其の晩一年中の臟腑の砂拂だといふ冬至の蒟蒻を皆で喰べた。お品は喰の日は明日からでも起きられるやうに思つて居た。さうして勘次は仕事の埓が明いたので又利根川へ行かれることゝ心に期して居た。
四
お品の容態は其の夜から激變した。勘次が漸く眠に落ちた時お品は
「口が開けなく成つて仕やうねえよう」と情ない聲でいつた。お品は顎が釘附にされたやうに成つて、唾を飮むにも喉が狹められたやうに感じた。それで自分にもどうすることも出來ないのに驚いた。勘次も吃驚して起きた。
「どうしたんだよ大層惡いのか、朝までしつかりしてろよ」と力をつけて見たが、自分でもどうしていゝのか解らないので只はら/\しながら夜を明した。勘次は只お品が心配になるので、近所の者を頼んで取り敢ず醫者へ走らせた。さうして自分は枕元へくつゝいて居た。彼等は容易なことで醫者を聘ぶのではなかつた。然し其最も恐れを懷くべき金錢の問題が其心を抑制するには勘次は餘りに慌てゝ且驚いて居た。醫者は鬼怒川を越えて東に居る。
勘次は草臥れやしないかといつてはお品の足をさすつた。それでもお品の大儀相な容子が彼の臆した心にびり/\と響いて、迚も午後までは凝然として居ることが出來なくなつた。近所の女房が見に來て呉れたのを幸ひに自分も後から走つて行つた。鬼怒川の渡の船で先刻の使ひと行違に成つた。船から詞が交換された。勘次は醫者と一緒に歸るからさういつてお品に安心させて呉れといつて醫者の門を叩いた。醫者は丁度そつちへ行く序も有つたからと悠長である。屹度行つては呉れるにしても其の後に跟いて行くのでなくては勘次には不安で堪らないのである、さうして彼はぽつさりと玄關に踞つて待つて居ることがせめてもの氣安めであつた。醫者は小さな手鞄を一つ持つて古い帽子をちよつぽり載いて出た。手鞄は勘次が大事相に持つた。醫者は特別の出來事がなければ俥には乘らないので、いつも朴齒の日和下駄で短い體躯をぽく/\と運んで行く。それで車錢だけでも幾ら助かるか知れないといふので貧乏な百姓から能く聘れて居るのであつた。勘次は途次お品の容態を語つて醫者の判斷を促して見た。醫者は一應見なければ分らぬといつて五月蠅い勘次に返辭しなかつた。お品の病體に手を掛けると醫者は有繋に首を傾けた。それが破傷風の徴候であることを知つて恐怖心を懷いた。さうして自分は注射器を持たないからといつて辭退して畢つた。勘次は又慌てゝ他の醫者へ駈けつけた。其の醫者は鉛筆で手帖の端へ一寸書きつけて、それでは直に此を藥舖で買つて來るのだといつた。それから自分の家へ此を出せば渡して呉れるものがあるからと此も手帖の端を裂いた。勘次は又川を越えて走つた。藥舖では罎へ入れた藥を二包渡して呉れた。一罎が七十五錢づゝだといはれて、勘次は懷が急にげつそりと減つた心持がした。彼は蜻蛉返りに歸つて來た。醫者の家からは注射器を渡してくれた。他の病家を診て醫者は夕刻に來た。醫者はお品の大腿部を濕したガーゼで拭つてぎつと肉を抓み上げて針をぷつりと刺した。暫くして針を拔いて指の先で針の趾を抑へて其處へ絆創膏を貼つた。それが凡て薄闇い手ランプの光で行はれた。勘次に手ランプを近づけさせて醫者はやつと注射を畢つた。
翌日の午前に來て醫者は復注射をして大抵此れでよからうといつて去つた。然しお品の容態は依然として恢復の徴候がないのみでなく次第に大儀相に見えはじめた。お品は其の夕刻から俄かに痙攣が起つた。身體がびり/\と撼ぎながら手も足も引き緊められるやうに後へ反つた。痙攣は時々發作した。其度毎に病人は見て居られない程苦惱する。顏が妙に蹙んで口が無理に横へ引き吊られるやうに見える。勘次はたつた一人のおつぎを相手に手の出しやうもなかつた。さうしてしら/\明けといふと直に又醫者へ駈けつけた。醫者は復藥舖へ行つて來いといつた。勘次は又飛んで行つた。然し其の二號の血清は何處にも品切であつた。それは或期間を經過すれば効力が無くなるので餘計な仕入もしないのだと藥舖ではいつた。それに値段が不廉ものだからといふのであつた。勘次はそれでも幾ら位するものかと思つて聞いたら一罎が三圓だといつた。勘次は例令品物が有つた處で、自分の現在の力では到底それは求められなかつたかも知れぬと今更のやうに喫驚して懷へ手を入れて見た。
醫者は更に勘次を藥舖へ走らせた。勘次は只醫者のいふが儘に息せき切つて駈けて歩く間が、屹度どうにか防ぎをつけてくれるだらうとの恃もあるので僅に自分の心を慰め得る唯一の機會であつた。醫者は一號の倍量を注射した。然しそれは徒勞であつた。病人の發作は間が短くなつた。病人は其度に呼吸に壓迫を感じた。近所の者も三四人で苦惱する枕元に居て皆憂愁に包まれた。お品は突然
「野田へは知らせてくれめえか」と聞いた。勘次も近所の者も卯平へ知らせることも忘れて只苦惱する病人を前に控へて困つて居るのみであつた。
「明日は屹度來るやうにいつて遣つたよ」勘次はお品の耳へ口を當ていつた。今更のやうに近所の者が頼まれて夜通しにも行くといふことに成つた。
次の日の午餐過に卯平は使と共にのつそりと其の長大な躯幹を表の戸口に運ばせた。彼は閾を跨ぐと共に、其時はもう只痛い/\というて泣訴して居る病人の聲を聞いた。
「何處が痛いんだ、少しさすらせて見つか」勘次が聞いても
「背中が仕やうがねえんだよ」と病人はいふのみである。
「お品さん、おとつゝあ來たよ、確乎しろよ」と近所の女房がいつた。それを聞いてお品は暫時靜かに成つた。
「品どうしたえ、大儀えのか」寡言な卯平は此だけいつた。
「おとつゝあ待つてたよ、俺ら仕やうねえよ」お品は情なさ相にいつた。
「うむ、困つたなあ」卯平は深い皺を蹙めていつた。さうして後は一言もいはない。お品の病状は段々險惡に陷つた。醫者はモルヒネの注射をして僅に睡眠の状態を保たせて其の苦痛から遁れさせようとした。それでも暫くすると病人は復た意識を恢復して、びり/\と身體を撼はせて、太い繩でぐつと吊されたかと思ふやうに後へ反つて、其劇烈な痙攣に苦しめられた。
「先生さん、わたしや此れでもどうしたものでがせうね」お品は突然に聞いた。醫者は只口髭を捻つて默つて居た。
「どうでせうね先生さん」勘次も聞いた。
「まあ大丈夫だらうつて病人へだけはいつて居たらいゝでせう」醫者は耳語いた。
「お品、大丈夫だとよ、夫から我慢して確乎してろとよ」勘次は病人の耳で呶鳴つた。
「そんでも俺ら明日の日まではとつても持たねえと思ふよ。本當に俺ら大儀いゝなあ」お品は切な相にいつた。齒の間を漸くに洩れる聲は悲しい響を傳へて然かも意識は明瞭であることを示した。醫者は遂に極量のモルヒネを注射して去つた。
夜になつて痙攣は間斷なく發作した。熱度は非常に昂進した。液體の一滴をも攝取することが出來ないにも拘らず、亂れた髮の毛毎に傳ひて落るかと思ふやうに汗が玉をなして垂れた。蒲團を濕す汗の臭が鼻を衝いた。
「勘次さん此處に居てくろうよ」お品は苦しい内にも只管勘次を慕つた。
「おうよ、こゝに居たよ、何處へも行やしねえよ」勘次は其度に耳へ口を當ていつた。
「勘次さん」お品は又喚んた。
「怎的したよ」勘次のいつたのはお品に通じなかつたのか
「おとつゝあ、俺らとつてもなあ」とお品は少時間を措いて、さうして勘次の手を執つた。
「おつう汝はなあ、よきもなあ」といつて又發作の苦惱に陷つた。
「勘次さん、俺死んだらなあ、棺桶へ入れてくろうよ……」勘次は聞かうとすると暫く間を隔てて
「後の田の畔になあ、牛胡頽子のとこでなあ」お品は切れ/″\にいつた。勘次は略其の意を了解した。
お品はそれから劇烈な發作に遮ぎられてもういはなかつた。突然
「風呂敷、/\」
と理由の解らぬ囈語をいつて、意識は全く不明に成つた。遂には異常な力が加はつたかと思ふやうにお品の足は蒲團を蹴て身體が激動した。枕元に居た人々は各自に苦しむお品の足を抑へた。恁うして人々は刻々に死の運命に逼られて行くお品の病體を壓迫した。お品の發作が止んだ時は微かな其の呼吸も止つた。
夜は森として居た。雨戸が微かに動いて落葉の庭を走るのもさら/\と聞かれた。お品の身體は足の方から冷たくなつた。お品が死んだといふことを意識した時に勘次もおつぎもみんな怺へた情が一時に激發した。さうして遠慮をする餘裕を有たない彼等は聲を放つて泣いた。枕元のものは皆共に泣いた。與吉は獨り死んだお品の側に熟睡して居た。卯平は取り取ずお品の手を胸で合せてやつた。さうして機の道具の一つである杼を蒲團へ乘せた。猫が死人を越えて渡ると化けるといつて杼は猫の防禦であつた。杼を乘せて置けば猫は渡らないと信ぜられて居るのである。
夜は益深けて冷え切つて居た。家の内には一塊のも貯へてはなかつた。枕元に居た近所の人々は勘次とおつぎの泣き止むまでは身體を動かすことも出來ないで凝然と冷たい手を懷に暖めて居た。おつぎは漸く竈へ落葉を燻べて茶を沸した、みんな只ぽつさりとして茶を啜つた。
「勘次もかせえて知らせやがればえゝのに」卯平がぶすりと呟く聲は低くしかもみんなの耳の底に響いた。卯平は其の日の未明に使の來るまではお品の病氣はちつとも知らずに居た。驚いて來て見ればもうこんな始末である。卯平も泣いた。彼は煙管を噛んでは只舌皷を打つて唾を嚥んだ。勘次は只泣いて居た。彼はお品の發病からどれ程苦心して其身を勞したか知れぬ。お品の病氣を案ずる外彼の心には何もなかつた。其當時には卯平に不平をいはれやうといふやうな懸念は寸毫も頭に起らなかつたのである。
お品の死は卯平をも痛く落膽せしめた。卯平は七十一の老爺であつた。一昨年の秋から卯平は野田の醤油藏へ火の番に傭はれた。卯平はお品が三つの時に、死んだお袋の處へ入夫になつたのである。五つの時から甘へたのでお品は卯平に懷いて居た。お袋の生きて居るうちは卯平もまだ壯であつたが、お袋が亡くなつて卯平の皺が深く刻まれてからは以前から善くなかつた勘次との間が段々隔つて、お品もそれには困つた。到頭村の紹介業をして居る者の勸めに任て卯平がいふ儘に奉公に出したのであつた。
病人の枕元に居た近所の者は一杯の茶を啜つて村の姻戚へ知らせに出るものもあつた。それから葬式のことに就いて相談をした。葬式はほんの姻戚と近所とだけで明日の内に濟すといふことに極めた。夜があけると近所の人々は寺へ行つたり無常道具を買ひに行つたり、他村の姻戚への知らせに行つたりして家には近所の女房が二三人義理をいひに來て居た。姻戚といつてもお品の爲めには待たなくては成らぬといふものはないので勘次はおつぎと共に筵を捲つて、其處へ盥を据ゑてお品の死體を淨めて遣つた。劇烈な病苦の爲めに其力ない死體はげつそりと酷い窶れやうをして居た。卯平は只ぽつさりとしてそれを見て居た。死體は復其の穢い夜具へ横へられた。盥の汚れた微温湯は簀の子の上から土に注がれた。さうして其の沾れた簀の子には捲くつた筵が又敷かれた。朝から雨戸は開け放たれて歩けばぎし/\と鳴る簀の子の上の筵は草箒で掃かれた。さうして東隣から借りて來た蓙が五六枚敷かれた。それから土地の習慣で勘次は淨めてやつたお品の死體は一切を近所の手に任せた。
近所の女房等は一反の晒木綿を半分切てそれで形ばかりの短い經帷子と死相を隱す頭巾とふんごみとを縫つてそれを着せた。ふんごみは只三角にして足袋の代に爪先へ穿かせるのであつた。脚絆は切の儘麻で足へ括り附けた。此れも其の木綿で縫つた頭陀袋を首から懸けさせて三途の川の渡錢だといふ六文の錢を入れてやつた。髮は麻で結んで白櫛をして遣つた。お品の硬着した身體は曲げて立膝にして棺桶へ入れられた。首が葢に觸るので骨の挫けるまで抑へつけられてすくみが掛けられた。すくみといふのは蹙めた儘の形が保たれるやうに死體の下から荒繩を廻して置いて首筋の處でぎつしりと括ることである。麁末な松板で拵へた出來合の棺桶はみり/\と鳴つた。恁ういふ無残な扱はどうしても他人の手に任せられねばならなかつた。板の儘ばら/\に成つて居る棺臺は買つて來てから近所の手で釘付にされた。其處には淺い箱の倒にしたものが出來た。其の棺臺の上には死體を入れた棺桶が載せられた。
勘次は其朝未明にそつと家の後の楢の木の間を田の端へおりて境木の牛胡頽子の傍を注意して見た。唐鍬か何かで動かした土の跡が目に附いた。勘次は手にして行つた草刈鎌でそく/\と土をつゝくやうにして掘つた。さうして其軟かに成つた土を手で浚つた。襤褸の包が出た。彼は其處に小さな一塊肉を發見したのである。勘次はそれを大事に懷へ入れた。惡事の發覺でも恐れるやうな容子で彼は周圍を見廻した。彼は更に古い油紙で包んで片付けて置いて、お品の死體が棺桶に入れられた時彼はそつとお品の懷に抱かせた。お品の痩せ切つた手が勘次のする儘にそれを確乎と抱き締めて、其の骨ばかりの頬が、ぴつたりと擦りつけられた。葬式の日は赤口といふ日であつた。
勘次は近所と姻戚との外には一飯も出さなかつたがそれでも村のものは皆二錢づゝ持つて弔みに來た。さうしてさつさと歸つて行つた。遠く離れた寺からは住職と小坊主とが、褪めた萠黄の法被を着た供一人連れて挾箱を擔がせて歩いて來た。小坊主は直に棺桶の葢をとつて白い木綿を捲くつて窶れた頬へ剃刀を一寸當てた。此の形式的の顏剃が濟んでから葢は釘で打ち附けられた。荒繩が十文字に掛けられた。晒木綿の残つた半反でそれがぐる/\と捲かれた。桶には更に天葢が載せられた。天葢というても兩端が蕨のやうに捲れた狹い松板を二枚十字に合せたまでのものに過ない簡單なものである。煤けた壁には此れも古ぼけた赤い曼荼羅の大幅が飾のやうに掛けられた。棺は僅な人で葬られた。それでも白提灯が二張翳された。裂き竹を格子の目に編んでいゝ加減の大きさに成るとぐるりと四方を一つに纏めて括つた花籠も二つ翳された。孰れも青竹の柄が附けられた。其の籠へは髭のやうに裂き竹を立てゝ其の裂き竹には赤や黄や青や其の他の色紙で刻んだ花を飾つた。其の花籠は又底へ紙を敷いて死んだものゝ年齡の數だけ小錢を入れて、それを翳した人が時々ざら/\と振つては籠の目から其の小錢を振り落した。村の小供が爭つてそれを拾つた。提灯と花籠は先に立つた。後からは村の念佛衆が赤い胴の太皷を首へ懸けてだらりだらりとだらけた叩きやうをしながら一同に聲を擧て跟いて行つた。柩は小徑を避けて大道を行つた。村の者は自分の門からそれを覗いた。棺桶は据りが惡い所爲か途中で止まずぐらり/\と動搖した。勘次はそれでも羽織袴で位牌を持つた。それは皆借りたので羽織の紐には紙撚がつけてあつた。
墓の穴は燒けた樣な赤土が四方へ堆く掻き上げられてあつた。其處には從來隙間のない程穴が掘られて、幾多の人が埋められたので手の骨や足の骨がいつものやうに掘り出されて投げられてあつた。法被を着た寺の供が棺桶を卷いた半反の白木綿をとつて挾箱に入た。軈て棺桶は荒繩でさげて其の赤い土の底に踏みつけられた。麁末な棺臺は少し堆く成つた土の上に置かれて、二つの白張提灯と二つの花籠とが其傍に立てられた。お品は生來土を踏まない日はないといつていゝ位であつた。さうしてそれは凍てる冬の季節を除いては大抵は直接に足の底が土について居た。お品は恁して冷たい屍に成つてからも其の足の底は棺桶の板一枚を隔てただけで更に永久に土と相接して居るのであつた。
小さな葬式ながら柩が出た後は旋風が埃を吹つ拂つた樣にからりとして居た。手傳に來て居た女房等はそれでなくても膳立をする客が少くて暇であつたから滅切手持がなくなつた。それでも立ちながら椀と箸とを持つて口を動かして居るものもあつた。膳部は極つた通り皿も平も壺もつけられた。それでも切昆布と鹿尾菜と油揚と豆腐との外は百姓の手で作つたものばかりで料理された。皿には細かく刻んで鹽で揉んだ大根と人參との膾がちよつぽりと乘せられた。さういふ残物と冷たく成つた豆腐汁とをつゝいても麥の交らぬ飯が其の口には此の上もない滋味なので、女房等は其の強健で且擴大された胃の容れる限りは口が之を貪つて止まないのである。彼等は裏戸の陰に聚まつて雜談に耽つた。
「どうしたつけまあ、酷く棺桶ぐら/\したんぢやなかつたつけゝえ」
「其筈だんべな、後が心配で仕やうねえ佛はあゝえに動くんだつちぞおめえ」
「勘次さんこと欲しくつて後へ残してくのが辛えんだごつさら」
「そんだがよ、餘り欲しがられつと遂にや迎に來て連れ行かれつとよ」
「おゝ厭だ俺ら」
「連れてつてくろつちつたつておめえ等こた迎に來るものもあんめえな」
口々に恁んなことが遠慮もなく反覆された。間が少時途切れた時
「お品さんも可惜命をなあ」と一人が思ひ出したやうにいつた。
「本當だ他人のやらねえこつてもありやしめえし」他の女房が相槌を打つた。
「風邪引いたなんてか、今度の風邪は強えから起きらんねえなんて、しらばつくれてな」
「死ぬ者貧乏なんだよ」
「そんだがお品さんは自分のがばかりぢやねえつちんぢやねえけ」
「さうだとよ、大けえ聲ぢやゆはんねえが、五十錢とか八十錢とか取つて他人のがも行つたんだとよ」
「八十錢づゝも取つちやおめえ、女の手ぢやたえしたもんだがな、今度自分で死んちまあなんて、行んねえこつたなあ」
「罪作つた罰ぢやねえか」
遠慮もなくそれからそれと移のである。
「そんなことゆつて、今出た佛のことをおめえ等、とつゝかれつから見ろよ」
他の一人の女房がいつた時噺が暫時途切れて靜まつた。一人の女房が皿の大根を手で撮んで口へ入れた。
「さうえ處他人に見られたらどうしたもんだえ」側からいはれて
「見てやあしめえな」と其女房は裏戸の口から庭の方を見た。さうして
「俺ら見てえな婆はどうで此れから娶にでも行くあてがあんぢやなし、構あねえこたあ構あねえがな」といつて笑つた。
一同どつと笑聲を發した。
柩を送つた人々が離れ/″\に歸つて來るまでは雜談がそれからそれと止まなかつた。平日何等の慰藉を與へらるゝ機會をも有して居ないで、然も聞きたがり、知りたがり、噺たがる彼等は三人とさへ聚れば膨脹した瓦斯が袋の破綻を求めて遁げ去る如く、遂には前後の分別もなく其舌を動かすのである。偶抽斗から出した垢の附かぬ半纏を被て、髮にはどんな姿にも櫛を入れて、さうして弔みを濟すまでは彼等は平常にないしほらしい容子を保つのである。それは改まつて不馴な義理を述べねばならぬといふ懸念が、僅ながら彼等の心を支配して居るからである。然し土間へおりて、襷が掛けられて、膳や椀を洗つたり拭いたり其手を忙しく動かすやうに成れば、彼等の心はそれに曳かされて其の聞きたがり、知りたがり、噺したがる性情の自然に歸るのである。假令他人の爲には悲しい日でも其の一日だけは自己の生活から離れて若干の人々と一緒に集合することが彼等には寧ろ愉快な一日でなければならぬ。間斷なく消耗して行く肉體の缺損を補給するために攝取する食料は一椀と雖も悉く自己の慘憺たる勞力の一部を割いて居るのである。然し他人を悼む一日は其處に自己のためには何等の損失もなくて十分に口腹の慾を滿足せしめることが出來る。他人の悲哀はどれ程痛切でもそれは自己當面の問題ではない。如斯にして彼等の聚る處には常に笑聲を絶たないのである。
お品も恁ういふ伴侶の一人であつた。それが今日は其の笑聲を後にして冷たい土に歸したのである。
五
お品は自分の手で自分の身を殺したのである。お品は十九の暮におつぎを産んでから其次の年にも亦姙娠した。其の時は彼等は窮迫の極度に達して居たので其の胎兒は死んだお袋の手で七月目に墮胎して畢つた。それはまだ秋の暑い頃であつた。強健なお品は四五日經つと林の中で草刈をして居た。それでも無理をした爲に其後大煩ひはなかつたが恢復するまでには暫くぶら/\して居た。それからといふものはどういふものかお品は姙娠しなかつた。おつぎが十三の時與吉が生れた。此の時は勘次もお品も腹の子を大切にした。女の子が十三といふともう役に立つので、與吉を育てながら夫婦は十分に働くことが出來た。與吉が三つに成つたのでおつぎは他へ奉公に出すことに夫婦の間には決定された。其の頃十五の女の子では一年の給金は精々十圓位のものであつた。それでもそれ丈の收入の外に食料の減ずることが貧乏な世帶には非常な影響なのである。それが稻の穗首の垂れる頃からお品は思案の首を傾げるやうになつた。身體の容子が變に成つたことを心付いたからである。十年餘も保たなかつた腹は與吉が止つてから癖が附いたものと見えて又姙娠したのである。お品も勘次もそれには當惑した。おつぎを奉公に出して畢へば、二人の子を抱いてお品は從來のやうに働くことが出來ない、僅な稼でもそれが停止されることは彼等の生活の爲には非常な打撃でなければならぬ。其の内に稻を刈つたり、籾を干したり忙しい收穫の季節が來て、冴えた空の下に夫婦は毎日埃を浴びて居た。有繋に罪なやうな心持もするので夫婦は只困つて其の日を過して居た。それも夜に成つて疲れた身體を横にし甘睡に陷るまでの少時間彼等は互に決し難い思案を交換するのであつた。從來も夫婦の間は孰れが本位であるか分らぬ程勘次には決斷の力が缺乏して居た。
「どうでもおめえの腹だから好きにした方がえゝやな」勘次は恁ういふのである。然しそれは怎的でもいゝといふ云ひ擲りではなくて、凡てがお品に對して命令をするには勘次の心は餘り憚つて居たのである。
「そんでも、俺がにも困んべな」お品は投げ掛けるやうにいふのである。勘次はお品が恁うする積だときつぱりいつて畢へば決して反對をするのではない。といつてお品は獨斷で決行するのには餘り大事であつたのである。さうしてそれは決定される機會もなくて夫婦は依然として農事に忙殺されて居た。
其の間に空を渡る凩が俄に哀しい音信を齎した。欅の梢は、どうでもう此れまでだといふやうに慌しく其の赭く成つた枯葉を地上に投げつけた。其の棄て去られた輕い小さな落葉は、自分を引き止めて呉れる蔭を求めて轉々と走つては干した藁の間でも籾の筵でも何處でも其の身を託した。周圍は凡てが只騷がしく且つ混雜した。其の内に勘次は秋から募集のあつた開鑿工事へ人に任せて行つたのである。
「只かうしてぐづ/\して居ても仕やうあんめえな」お品は其の時も勘次の判斷を促して見た。
「俺もさうゆはれても困つから、おめえ好きにしてくろうよ」勘次は只恁ういつた。
勘次が去つてからお品は其混雜した然も寂しい世間に交つて遣瀬のないやうな心持がして到頭罪惡を決行して畢つた。お品の腹は四月であつた。其の頃の腹が一番危險だといはれて居る如くお品はそれが原因で斃れたのである。胎兒は四月一杯籠つたので兩性が明かに區別されて居た。小さい股の間には飯粒程の突起があつた。お品は有繋に惜しい果敢ない心持がした。第一に事の發覺を畏れた。それで一旦は能く世間の女のするやうに床の下に埋めたのをお品は更に田の端の牛胡頽子の側に襤褸へくるんで埋めたのである。
お品は身體の恢復するまで凝然として蒲團にくるまつて居れば或はよかつたかも知れぬ。十幾年前には一切を死んだお袋が處理してくれたのであつたが、今度は勘次も居ないしでお品は生計の心配もしなくては居られなかつた。一つにはそれを世間に隱蔽しようといふ念慮から知らぬ容子を粧ふ爲に強ひても其の身を動かしたのであつた。然しながら其の身を殺した黴菌がどうして侵入したであつたらうか。お品は卵膜を破る手術に他人を煩はさなかつた。さうして其入した酸漿の根が知覺のないまでに輕微な創傷を粘膜に與へて其處に黴菌を移植したのであつたらうか、それとも毎日煙の如く浴せ掛けた埃から來たのであつたらうか、それを明らめることは不可能でなければならぬ。然し孰れにしても病毒は土が齎したのでなければならなかつた。
葬式の次の日は又近所の人が來た。勘次は其の借りた羽織と袴を着て村中へ義理に廻つた。土瓶へ入れた水を持つて墓參りに行つて、それから膳椀も皆返して近所の人々も歸つた後勘次は然として古い机の上に置かれた白木の位牌に對して堪らなく寂しい哀れつぽい心持になつた。二三日の間は片口や摺鉢に入れた葬式の時の残物を喰べて一家は只ばんやりとして暮した。雨戸はいつものやうに引いた儘で陰氣であつた。卯平を加へて四人はお互が只冷かであつた。卯平は其の薄暗い家の中に只煙草を吹かしては大きな眞鍮の煙管で火鉢を叩いて居た。卯平と勘次とは其の間碌に口も利なかつた。勘次は自分の身體と自分の心とが別々に成つたやうな心持で自分が自分をどうする事も出來なかつた。それでも小作米のことは其の念頭から沒し去ることはなかつた。貧乏な小作人の常として彼等は何時でも恐怖心に襲はれて居る。殊に其の地主を憚ることは尋常ではない。さうして自分の作り來つた土地は死んでも噛り附いて居たい程それを惜むのである。彼等の最初に踏んだ土の強大な牽引力は永久に彼等を遠く放たない。彼等は到底其の土に苦しみ通さねばならぬ運命を持つて居るのである。
勘次はお品の葬式が濟むと直に新しい俵へ入れた小作米を地主へ運んで行かねば成らぬとそれが心を苦しめて居た。然し其の時は其の新しい俵の一つは輪に成つた繩から拔けて、米は叩いても幾らも出なかつた。勘次は次の年には殆ど自分一人の手で農事を勵まなくてはならぬ。例年のやうに忙しい季節に日傭に行くことも出來まいし、それにはお袋に捨てられた二人の子供も有ることだし、今から穀の用意もしなくては成らぬと思ふと自分の身上から一俵の米を減じては到底立ち行けぬことを深く思案して彼は眠らないこともあつた。然し他に方法もないので彼は地主へ哀訴して小作米の半分を次の秋まで貸して貰つた。地主は東隣の舊主人であつたのでそれも承諾された。彼は更に其の僅な米の一部を割いて錢に換へねばならぬ程懷が窮して居たのである。
勘次はそれから復た利根川の工事へ行かねばならないと思つて居た。それは彼が僅の間に見た放浪者の怖ろしさを思つて、假令どうしても其統領を欺いて其の僅少な前借の金を踏み倒す程の料簡が起されなかつたのである。其の内に張元から葉書が來た。彼は只管恐怖した。然し二人の子を見棄てゝ行くことが出來ないので、どうしていゝか判斷もつかなかつた。さうする内にお品の七日も過ぎた。彼は煩悶した。唯一つ卯平が野田へ行くのを暫く猶豫して貰つて自分は其の間に少しでも小遣錢を稼いで來たいと思つた。然しそれも直接には云ひ出せないので、例の桑畑一枚隔てた南へ頼んだ。數日來彼は卯平が其の大きな體躯を火鉢の側に据ゑて煙管を噛んではむつゝりとして居るのを見ると、何となく憚つて成るべく其の視線を避けるやうに遠ざかつて居ることを餘儀なくされるのであつた。
勘次とお品は相思の間柄であつた。勘次が東隣の主人に傭はれたのは十七の冬で十九の暮にお品の婿に成つてからも依然として主人の許に勤めて居た。彼は其當時お品の家へは隣づかりといふので能く出入つた。一つには形づくつて來たお品の姿を見たい所爲でもあつた。彼は秋の大豆打といふ日の晩などには、唐箕へ掛けたり俵に作つたりする間に二升や三升の大豆は竊に隱して置いてお品の家へ持つて行つた。さうして豆熬を噛つては夜更まで噺をすることもあつた。お品の家からは近所に風呂の立たぬ時は能く來た。忙しい仕事には傭はれても來た。さういふ間に彼等の關係が成立つたのである。それはお品が十六の秋である。それから足掛三年經つた。勘次には主人の家が愉快に能く働くことが出來た。彼の體躯は寧ろ矮小であるが、其きりつと緊つた筋肉が段々仕事を上手にした。
假令どんな物が彼等の間を隔てようとしても彼等が相近づく機會を見出したことは鬱蒼として遮つて居る密樹の梢を透してどこからか日が地上に光を投げて居るやうなものであつた。彼等の心は唯明るかつたのである。
お品は十九の春に懷胎した。自分でもそれは暫く知らずに居た。季節が段々ぽかついて、仕事には單衣でなければならぬ頃に成つたので女同士の目は隱しおほせないやうに成つた。お袋はお品をまだ子供のやうに思つて迂濶にそれを心付かなかつた。本當にさうだと思つた時はお品は間もなく肩で息するやうに成つた。さうして身體がもう棄てゝ置けない場合に成つたので兩方の姻戚の者でごた/\と協議が起つた。勘次もお品も其時互に相慕ふ心が鰾膠の如く強かつた。彼等は惡戲者に水をさゝれて慌てた機會に或夜遁げ出して畢つた。それは、此の儘では二人は迚ても添はされぬ容子だからどうしても一つに成らうといふのならば何處へか二人で身を隱すのである。さうして愈となれば俺がどうにでも其處は始末をつけて遣るから、何でも愚圖/\して居ちや駄目だとお品の心を教唆つたのであつた。お品から一心に勘次へ迫つた。勘次は其の頃からお品のいふなりに成るのであつた。二人は遠くは行けないので、隣村の知合へ身を投じた。兩方の姻戚が騷ぎ出した。恁ういふ同志へのこんな惡戲は何處でも能く反覆されるのであつた。さうして成功した惡戲者は
「仕事は何でも牝鷄でなくつちや甘く行かねえよ」といつては陰で笑ふのである。
「外聞曝しやがつて」と卯平は怒つたがそれが爲に事は容易に運ばれた。勘次は婿に成つたのである。簡單な式が行はれた。俄に媒妁人と定められたものが一人で勘次を連れて行つた。卯平はむつゝりとしてそれを受けた。平生行きつけた家なので勘次は極り惡相に坐つた。お品は不斷衣の儘襷掛で大儀相な體躯を動かして居て勘次の側へは坐らなかつた。媒妁人が只酒を飮んで騷いだ丈であつた。お品は間もなく女の子を産んだ。それがおつぎであつた。季節は暮の押し詰つた忙しい時であつた。お袋はお品が好いて居るので、勘次を不足な婿と思つては居なかつた。勘次は其暮も亦主人へ身を任せる筈で前借した給金を、お品の家へ注ぎ込んだのでお袋は却て悦んで居た。卯平は唯勘次を蟲が好なかつた。自分は其大きな體躯でぐい/\と仕事をしつけたのに勘次が小さな體躯でちよこ/\と駈け歩いたり、ただ吩咐ばかり聞いて居るので自分の機轉といふものが一向なかつたりするので酷く齒痒く思つて居た。然し自分は入夫といふ關係もあるしそれに生來の寡言なので姻戚の間の協議にも彼は
「どうでもわしはようがすからえゝ鹽梅に極めておくんなせえ」とのみいふのであつた。
勘次は百姓の尤も忙しい其の頃の五月に病氣に成つた。彼は轡へ附けた竹竿の端を執つて馬を馭しながら、毎日泥だらけになつて田の代掻をした。どうかするとそんな季節に東南風が吹いて慄へる程冷えることがある。勘次は其の冷えが障つたのであつたらうか心持が惡いというて田から戻つて來るとそれつ切り枕も上らぬやうになつた。能く馬の病氣に飮ませる赤玉といふ藥を幾粒か嚥んで彼は蒲團へくるまつて居た。彼はどうにか病氣の凌ぎがつけば卯平の側へは行きたくなかつた。それと一つには我慢して仕事に出れば碌には働けなくても一日の勤めを果したことに成るけれども、丸で休んで畢へば其の日だけの割當勘定が給金から差引かれなければ成らぬので彼はそれを畏れた。然し病氣は馬に飮ませる藥の赤玉では直には癒らなかつた。それで彼はお品の厄介に成る積で、次の朝早く朋輩の背に運ばれた。卯平は澁り切つた顏で迎へた。お品が蒲團を敷いて遣つたので勘次はそれへごろりと俯伏しになつて其の額を交叉した手に埋めた。家の者は皆田へ出なければならなかつた。病人に構つて居ることは仕事が許さなかつた。お袋は出る時に表の大戸も閉てながら
「腹減つたら此處にあんぞ」といつてばたりと飯臺の蓋をした。後で勘次は蒲團からずり出して見たら、麥ばかりのぽろ/\した飯であつた。其の時分お品の家ではさういふ食料で生命を繋いで居たのである。勘次は奉公にばかり出て居たのでそれ程麁末な物を口にしたことはない。それでどうしても手を出さうといふ心が起らなかつた。午餐に家の者は田から戻つて其の飯を喰べた。ちつとはどうだとお袋に勸められても勘次は唯俯伏に成つて居た。
「此の野郎こんな忙しい時に轉がり込みやがつてくたばる積でもあんべえ」と卯平は平生になく恁んなことをいつた。勘次は後で獨り泣いた。彼はお品がこつそり蒲團の下へ入て呉れた煎餅を噛つたりして二三日ごろ/\して居た。其の頃は駄菓子店も滅多に無かつたので此れ丈のことがお品には餘程の心竭しであつたのである。勘次はどうも卯平が厭で且つ怖ろしくつて仕やうがないので少し身體が恢復しかけると皆が田へ出た後でそつと拔けて村の中の姻戚の處へ行つて板藏の二階へ隱れて寢て居た。夜になつたらどうして知つたかお品はおつぎを背負つて鷄を一羽持つて來た。
「勘次さん惡く思はねえでくろうよ、俺惡くする積はねえが、仕やうねえからよ」とお品は訴へるやうにいふのであつた。お品は毎晩のやうに來て板藏のさるを内から卸して泊つて行つた。それでも勘次は卯平の側が厭なので戻らないといふ積で他の村落へ漂泊した。復土地へ歸つて來ると、畑に居ても田に居てもお品が迫つて來るので、彼は農具を棄てゝ遁げることさへあつた。それが如何したものか何時の間にやら酷く自分からお品の側へ行きたく成つて畢つて、他人から却て揶揄はれるやうに成つたのである。
勘次は奉公の年季を勤めあげて歸つたと成つた時、卯平とは一つ家で竈を別にすることに成つた。夫婦と乳呑兒と三人の所帶で彼等は卯平から殼蕎麥が一斗五升と麥が一斗と、後にも先にもたつた此れ丈が分けられた。正月の饂飩も打てなかつた。有繋にお袋は小麥粉を隱してお品へ遣つた。それでも勘次は怖ろしい卯平と一つ竈であるよりも却て本意であつた。お袋が死んでから老いた卯平は勘次と一つに成らなければならなかつた。其時はもう勘次が主であつた。さうして疾に自分の住んで居る土地までが自分の所有ではなかつた。それは借錢の極りをつける爲に人が立つて東隣へ格外な値で持たせたのである。それ程彼の家は窮して居た。勘次には卯平は畏ろしいよりも其時では寧ろ厭な老爺に成つて居た。二人は滅多に口も利かぬ。それを見て居なければ成らぬお品の苦心は容易なものではなかつたのである。
勘次に頼まれて南の亭主が話をした時に卯平はどうしたものかと案じた程でもなく「子奴等が困るといへばどうでも仕ざらによ、仕ねえでどうするもんか」と煙管を手に持つて其の癖の舌皷を打ちながらいつた。南に居て案じながら挨拶を待つて居た勘次は勢ひづいて
「そんぢや、おとつゝあ俺行つ來つから」といつた。此の時ばかりは穩かな挨拶が交換された。
勘次が居なく成つてから卯平はむつゝりした顏に微笑を浮かべては與吉を抱いて泣かれることもあつた。與吉は夜俄に泣き出して止まぬことがある。お品が死ぬまで被て居た蒲團の中におつぎは與吉を抱いてくるまるのであつた。與吉が夜泣きをする時卯平は枕元の燐寸をすつて煙草へ火を移しては燃えさしを手ランプへ點けて
「おつかあが見えんだかも知んねえ、さうら明るく成つた。汝りや※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、69-12]に抱かさつてんだ。可怖ことあるもんか」卯平は重い調子でいふのである。與吉は壁の何處ともなく見ては火の附いたやうに身を慄はして泣いて犇とおつぎへ抱きつく。おつぎは與吉を膝へ抱いて泣き止むまでは兩手で掩うて居る。それが泣き出したら毎夜のやうなのでおつぎは、玉砂糖を蒲團の下へ入れて置いて泣く時には甞めさせた。それでも泣き募つた時は口へ入れた砂糖を吐き出しては愈烈しく泣くのである。おつぎは焦れて邪險に與吉をゆさぶることもあつた。それで與吉は遂には砂糖を口にしながらすや/\と眠る。卯平は與吉が靜かに成るまでは横に成つた儘おつぎの方を向いて薄闇い手ランプに其の目を光らせて居る。
與吉はおつぎに抱かれる時いつも能くおつぎの乳房を弄るのであつた。五月蠅がつて邪險に叱つて見ても與吉は甘えて笑つて居る。それでも泣く時にお品のしたやうに懷を開けて乳房を含ませて見ても其の小さな乳房は間違つても吸はなかつた。砂糖を附けて見ても欺けなかつた。おつぎは與吉が腹を減らして泣く時には米を水に浸して置いて摺鉢ですつて、それをくつ/\と煮て砂糖を入て嘗めさせた。與吉は一箸嘗めては舌鼓を打つて其小さな白い齒を出して、頭を後へひつゝける程身を反らしておつぎの顏を凝然と見ては甘えた聲を立て笑ふのである。與吉はそれが欲くなれば小さな手で煤けた棚を指した。其處には彼の好む砂糖の小さな袋が載せてあるのであつた。
おつぎは勘次が吩咐けて行つた通り桶へ入れてある米と麥との交ぜたのを飯に炊いて、芋と大根の汁を拵へる外どうといふ仕事もなかつた。其の間には與吉を背負つて林の中を歩いて竹の竿で作つた鍵の手で枯枝を採つては麁朶を束ねるのが務であつた。おつぎは麥藁で田螺のやうな形に捻れた籠を作つてそれを與吉へ持たせた。卯平はぶらりと出て行つては歸りには駄菓子を少し袂へ入れて來る。さうして卯平は菓子を持つた右の手を左の袖口から出して與吉へ見せる、與吉はふら/\と漸く歩いて行つては、衝き當り相に卯平へ捉つて袂を探す。さうすると菓子を持つた手が更に卯平の左の袂から出る。與吉は危な相に卯平の身體を傳ひつゝ左へ廻つて行く。さうすると卯平の手が與吉の頭の上に乘つて菓子が頭へ落される。與吉が頭へ手をやる時に菓子は足下へぽたりと落ちる。與吉は慌てゝ菓子を拾つては聲を立てゝ笑ふのである。菓子は何時までも減らないやうに砂糖で固めた黒い鐵砲玉が能く與へられた。頭から落ちてころ/\と鐵砲玉が遠く轉がつて行くのを、倒れながら逐ひ掛けて行く與吉を見て卯平のむつゝりとした顏が溶けるのである。與吉は躓いて倒れても其時は決して泣くことがない。鐵砲玉は麥藁の籠へも入れられた。與吉はそれを大事相に持つては時ゝ覗きながら、おつぎが炊事の間を大人しくして坐つて居るのであつた。
六
春は空からさうして土から微に動く。毎日のやうに西から埃を捲いて來る疾風がどうかするとはたと止つて、空際にはふわ/\とした綿のやうな白い雲がほつかりと暖かい日光を浴びようとして僅に立ち騰つたといふやうに、動きもしないで凝然として居ることがある。水に近い濕つた土が暖かい日光を思ふ一杯に吸うて其勢ひづいた土の微かな刺戟を根に感ぜしめるので、田圃の榛の木の地味な蕾は目に立たぬ間に少しづゝ延びてひら/\と動き易くなる。其の刺戟から蛙はまだ蟄居の状態に在りながら、稀にはそつちでもこつちでもくゝ/\と鳴き出すことがある。空から射す日の光はそろ/\と熱度を増して、土はそれを幾らでも吸うて止まぬ。土は凡てを段々と刺戟して堀の邊には蘆やとだしばや其の他の草が空と相映じてすつきりと其の首を擡げる。軟かさに滿たされた空氣を更に鈍くするやうに、榛の木の花はひら/\と止まず動きながら煤のやうな花粉を撒き散らして居る。蛙は假死の状態から離れて軟かな草の上に手を突いては、驚いたやうな容子をして空を仰いで見る。さうして彼等は慌てたやうに聲を放つて其長い睡眠から復活したことを空に向つて告げる。それで遠く聞く時は彼等の騷がしい聲は只空にのみ響いて快げである。
彼等は更に春の到つたことを一切の生物に向つて促す。草や木が心づいて其の活力を存分に發揮するのを見ないうちは鳴くことを止めまいと努める。田圃の榛の木は疾に花を捨てゝ自分が先に嫩葉の姿に成つて見せる。黄色味を含んだ嫩葉が爽かで且つ朗かな朝日を浴びて快い光を保ちながら蒼い空の下に、まだ猶豫うて居る周圍の林を見る。岬のやうな形に偃うて居る水田を抱へて周圍の林は漸く其の本性のまに/\勝手に白つぽいのや赤つぽいのや、黄色つぽいのや種々に茂つて、それが氣が付いた時に急いで一つの深い緑に成るのである。雜木林の其處ら此處らに散在して居る開墾地の麥もすつと首を出して、蠶豆の花も可憐な黒い瞳を聚めて羞かし相に葉の間からこつそりと四方を覗く。雜木林の間には又芒の硬直な葉が空を刺さうとして立つ。其麥や芒の下に居を求める雲雀が時々空を占めて春が深けたと喚びかける。さうすると其同族の聲のみが空間を支配して居可き筈だと思つて居る蛙は、其囀る聲を壓し去らうとして互の身體を飛び越え飛び越え鳴き立てるので小勢な雲雀はすつとおりて麥や芒の根に潜んで畢ふ。さうしては蛙の鳴かぬ日中にのみ、之を仰げば眩ゆさに堪へぬやうに其の身を遙に煌めく日の光の中に沒して其小さな咽の拗切れるまでは劇しく鳴らさうとするのである。蛙は愈益鳴き矜つて樫の木のやうな大きな常緑木の古葉をも一時にからりと落させねば止まないとする。
此の時凡ての樹木やそれから冬季の間にはぐつたりと地に附いて居た凡ての雜草が爪立して只空へ/\と暖かな光を求めて止まぬ。土がそれを凝然と曳きとめて放さない。それで一切の草木は土と直角の度を保つて居る、冬季の間は土と平行することを好んで居た人も鐵の針が磁石に吸はれる如く土に直立して各自に手に農具を執る。紺の股引を藁で括つて皆田を耕し始める。水が欲しいと人が思ふ時蛙は一齊に裂けるかと思ふ程喉の袋を膨脹させて身を撼がしながら殊更に鳴き立てる。白い絲のやうな雨は水が田に滿つるまでは注いで又注ぐ。鳴くべき時に鳴く爲にのみ生れて來た蛙は苅株を引つ返し/\働いて居る人々の周圍から足下から逼つて敏捷に其の手を動かせ/\と促して止まぬ。蛙がぴつたりと聲を呑む時には日中の暖かさに人もぐつたりと成つて田圃の短い草にごろりと横に成る。更に蛙はひつそりと靜かな夜になると如何に自分の聲が遠く且遙に響くかを矜るものゝ如く力を極めて鳴く。雨戸を閉づる時蛙の聲は滅切遠く隔つてそれがぐつたりと疲れた耳を擽つて百姓の凡てを安らかな眠りに誘ふのである。熟睡することによつて百姓は皆短い時間に肉體の消耗を恢復する。彼等が雨戸の隙間から射す夜明の白い光に驚いて蒲團を蹴つて外に出ると、今更のやうに耳に迫る蛙の聲に其の覺醒を促されて、井戸端の冷たい水に全く朝の元氣を喚び返すのである。草木は遠く遙に響けと鳴く其の聲に撼られつゝ夜の間に生長する。櫟や楢や其他の雜木は蛙が鳴けば鳴く程さうしてそれが鳴き止む季節までは幾らでも繁茂することを繼續しようとする。其處には毛蟲や其の他の淺猿しい損害が或は有るにしても、しと/\と屡梢を打つ雨が空の蒼さを移したかと思ふやうに力強い深い緑が地上を掩うて爽かな冷しい陰を作るのである。
鬼怒川の西岸一部の地にも恁うして春は來り且推移した。憂ひあるものも無いものも等しく耒※[#「耒+巨」、74-15]を執つて各其の處に就いた。勘次も其の一人である。
勘次は春の間にお品の四十九日も過した。白木の位牌に心ばかりの手向をしただけで一錢でも彼は冗費を怖れた。彼が再び利根川の工事へ行つた時は冬は漸く險惡な空を彼等の頭上に表はした。霙や雪や雨が時として彼等の勞働に怖るべき障害を與へて彼等を一日其寒い部屋に閉ぢ込めた。一日の工賃は非常な節約をしても次の日に仕事に出なければ一錢も自分の手には残らなくなる。それは食料と薪との不廉な供給を仰がねばならぬからである。勘次はお品の發病から葬式までには彼にしては過大な費用を要した。それでも葬具や其の他の雜費には二錢づつでも村の凡てが持つて來た香奠と、お品の蒲團の下に入てあつた蓄とでどうにかすることが出來た。それでも醫者への謝儀や其の他で彼自身の懷中はげつそりと減つて畢つた。さうして小作米を賣つた苦しい懷からそれでも彼は自分の居ない間の手當に五十錢を託して行つた。それも卯平へ直接ではなくて南へ頼んで卯平へ渡して貰つた。勘次が行つてから其の錢を出された時卯平は
「さう疑ぐるならわしは預かりますめえ」といつて拒絶した。
「まあ其ことゆはねえで折角のことに、勘次さんも惡い料簡でしたんでもなかんべえから」と宥めても到頭卯平は聽かなかつた。
勘次はどうにか稼ぎ出して歸りたいと思つて一生懸命になつたがそれは僅に生命を繋ぎ得たに過ないのであつた。近所の村落から行つたものは凌ぎ切れないで夜遁して畢つたものもあつた。それでも勘次は僅に持つて出た財布の錢を減らさなかつたといふ丈のことに繋ぎ止めた。
「おとつゝあ居て呉れたなあ」と媚びるやうにいつて自分の家の閾を跨いだ時は足に知覺のない程に彼は草臥れて夜は闇くなつて居た。有繋に二人の子は悦んで與吉は勘次の手に縋つた。卯平がしたやうに鐵砲玉が勘次の手から出ることゝ思つたらしかつた。勘次は苦しい懷から何も買つては來なかつた。彼は什にしても無邪氣な子の爲に小さな菓子の一袋も持つて來なかつたことを心に悔いた。
「まんま」というて小さな與吉は勘次に求めた。
「そんぢや爺が砂糖でも嘗めろ」とおつぎは與吉を抱て棚の袋をとつた。寡言な卯平は一寸見向いたきりで歸つたかともいはない。勘次が草臥れた容子をして居るのが態とらしいやうに見えるので卯平は苦い顏をして、火の消えた煙管をぎつと噛みしめては思ひ出したやうに雁首を火鉢へ叩き付けた。吸穀がひつゝいてるので彼は力一杯に叩きつけた。勘次にはそれが當てつけにでもされるやうに心に響いた。
「おつぎみんなでも嘗めさせろ、さうして汝も嘗めつちめえ、おとつゝあ稼えで來たから汝等も此れからよかんべえ」卯平はいつた。勘次は漸く歸つた其の箭先にかういふことで自分の家でも酷く落付かない、こそつぱくて成らない心持がするので彼は足も洗はずに近所へ義理も足すからといつて出て行つた。
「明日だつてえゝのに」卯平は後で呟いた。彼はぶすり/\と口は利くのであつたがそれでも先刻からのやうにひねくれ曲つたことは此れまではいつたことはなかつた。
彼は死んだお品のことを思つて二人の子が憐れになつて勘次の居ない間の面倒を見る氣に成つた。彼は僅な菓子の袋から小さな與吉に慕はれて見ると有繋に憎い心持も起らなかつた。其の間彼は何にも不足に思つては居なかつた。それを勘次が歸つて見ると性來好きでない勘次へ忽ちに二人の子は靡いて畢つた。彼は此までの心竭しを勘次に奪はれたやうで、ふつと不快な感じを起したのである。それもどんな姿にも勘次が義理を述ればそれでもまだよかつたが、勘次は妙に身がひけてそれが喉まで出ても抑へつけられたやうで聲に發することが出來なかつたのである。
懷のさむしい勘次はさうして身がひけるのを卯平には却て餘所/\しくされるやうな感じを與へた。勘次は卯平にも子供にも濟ぬやうな氣がしたので近所へ義理を足すというて出て菓子の一袋を懷へ入れて來た。其の時與吉はもう眠つて居た。卯平は變なことをすると思つて見て居た。さうして又更に自分が酷く隔てられるやうに思つた。彼は五十錢の錢のことを思ひ出して忌々敷なつた。
「勘次等懷はよかつぺ」卯平はぶつゝりと聞いた。
「おとつゝあ、俺らえゝ所なもんぢやねえ、やつとのことで逃げるやうにして來たんだ、あんな所へなんざあ決して行くもんぢやねえ、とつても駄目なこつた、俺も懲りつちやつたよ」勘次は慌てゝいつた。彼は逢ふ人毎に必ずよからう/\といはれるのを非常に怖れて居た。
「うむ、さうかなあ」卯平は氣のないやうにいつた。
「どうで俺ら餘計者だ、居やしねえからえゝや、幾ら持てたつて構やしねえ」彼は更に獨語いた。勘次は蒼くなつた。卯平は勘次が屹度錢を隱して居るのだと思つたのである。彼はそんなこんなが不快に堪へないので次の日野田へ立つて畢つた。
野田で卯平の役目といへば夜になつて大きな藏々の間を拍子木叩いて歩く丈で老人の體にもそれは格別の辛抱ではなかつた。晝は午睡が許されてあるので其の時間を割いて器用な彼には内職の小遣取も少しは出來た。好きな煙草とコツプ酒に渇することはなかつた。暑い時にはさつぱりした浴衣を引つ掛けて居ることも出來た。其處は彼には住み辛い處でもなかつた。只凍ての酷い冬の夜などには以前からの持病である疝氣でどうかすると腰がきや/\と痛むこともあつたが、其の時丈は勘次とまづくなければお品の側でおとつゝあといはれて居たい心持もするのであつた。生來子を持つたことのない彼はお品一人が手頼であつた。お品に死なれて彼は全く孤立した。さうして老後は到底勘次の手に託さねばならぬことに成つて畢つたのである。それでも不見目な貧相な勘次は依然として彼には蟲が好かなかつた。彼は野田へ行けば比較的に不自由のない生活がして行かれるので汝等が厄介には成らねえでも俺はまだ立て行かれると、恁うして哀愁に掩はれた心の一方には老人の僻みと愚癡とが起つたのであつた。卯平は心に涙を呑んだ。
勘次は悄然として居た。與吉が泣く度に彼は困つた。さうして毎日お品のことを思ひ出しては、天秤で手桶を擔いだ姿が庭にも戸口にも時としては座敷にも見えることがあつた。側に居るやうな氣がして思はず顧みることもあるのであつた。彼はお品を思ひ出すと與吉を抱いては「なあ、おつかあは居ねえんだぞ、おつかあが乳房欲しがんねえんだぞ」と始終いつて聞かせた。お品が居ないと殊更にいふのはそれは一つには彼自身の斷念の爲でもあつたのである。
お品は豆腐を擔いで居る時は能く麥酒の明罎を手桶へ括つて行つた。それで歸りの手桶が輕くなつた時は勘次の好きな酒がこぼ/\と罎の中で鳴つて居た。お品は酒店へ豆腐を置いては其錢だけ酒を入れて貰ふので豆腐の儲けだけ廉い酒を買つて勘次を悦ばせるのであつた。それはお品の死ぬ年のことだけである。お品は漸く商を覺えたといつて居たのはまだ其の夏の頃からである。初めは極りが惡くて他人の閾を跨ぐのを逡巡して居た。其の位だから變な赤い顏もして餘計に不愛想にも見えるのであつたが、後には相應に時候の挨拶もいへるやうに成つたとお品は能く勘次へ語つたのである。勘次は追憶に堪へなくなつてはお品の墓塋に泣いた。彼は紙が雨に溶けてだらりとこけた白張提灯を恨めし相に見るのであつた。
勘次は悄れた首を擡げて三人の口を糊するために日傭に出た。彼は能く隣の主人に使つて貰つた。米は屹度彼が搗かせられた。上手な彼は減らさないでさうして白く搗いた。彼は時としては主人のうつかりして居る間に藏から餘計な米を量り出して、そつと隱して置いて夜自分の家に持つて來ることがあつた。それも僅か二升か三升に過ぎない。其の位では主人の注意を惹くには足らなかつた。さうして其の米は窮迫した彼の厨を少時濕すのである。或る時彼れは復た主人の米をそつと掠めて股引へ入れて目につかぬやうに薪の積んだ間へ押し込んで置いた。傭人がそれを發見して竊に主人の内儀さんに告げた。内儀さんは僅かなことだから棄てゝ置いて遣れといつたが然し傭人は一つには惡戯から米を明けて其の代に一杯に土を入れて置いた。勘次は發覺したことを怖れ且つ恥ぢて次の日には來なかつた。それから數日間は主人の家に姿を見せなかつた。内儀さんは傭人の惡戯を聞いて寧ろ憐になつて又こちらから仕事を吩咐けてやつた。更に袋へ米と挽割麥とを交ぜたのを入れて、それから此れは傭人にも炊いてやれないのだからお前がよければ持つて行つて秋にでもなつたら糯粟の少しも返せと二三斗入つた粳粟の俵とを一つに遣つた。勘次は主人の爲に一所懸命働いた。其の以前からも彼は只隣の主人から見棄てられないやうと心には思つて居るのであつた。然し非常な勞働は傭人の仲間には忌まれた。それは傭人も彼に倣つて自分も其の勞力を偸むことが出來ないからである。
さうする内に世間は復春が移つて雨が忙しく田畑へ水を供給した。勘次は自分の後の田へ出て刈株を引つ返しては耕した。おつぎも萬能を持つて勘次の後に跟いた。勘次はお品の手が減つた丈はおつぎを使つてどうにか從來作つた土地は始末をつけようと思つた。殊に田は直後なので什にしても手放すまいとした。一且地主へ還して畢つたら再び自分が欲しくなつても容易に手に入れることが出來ないのを怖れたからである。今におつぎを一人前に仕込んで見ると勘次は心に思つて居る。勘次は萬能をぶつりと打ち込んではぐつと大きな土の塊を引返す。おつぎは漸く小さな塊を起す。勘次の手は速かに運動してずん/\と先へ進む。おつぎは段々後れて小さな塊を淺く起して進んで行く。さうすると
「そんなに可怖びつくりやんぢやねえかうすんだ」勘次は遲緩し相におつぎの萬能をとつて打ち込んで見せる。
「そんでもおとつゝあ、俺がにやさういにや出來ねえんだもの」
「そんな料簡だから汝等駄目だ、本當にやつて見る積でやつて見ろ」
おつぎは勘次に後れつゝ手の力の及ぶ限り働いた。
與吉は田圃の堀の邊に筵を敷いて其處に置いてある。
「えんとして居ろ、動くんぢやねえぞ動くとぽかあんと堀の中さ落こちつかんな、そうら蛙ぽかあんと落こつた。動くなあ、此處に棒あつた、そうら此でも持つてろ、泣くんぢやねえぞ、姉は此の田ン中に居んだかんな、泣くとおとつゝあにあつぷつて怒られつかんな」おつぎは頬を擦りつけて能くいひ含めた。與吉は土だらけの短い棒で岸の土を叩いて居る。さうして時々後を向いては姉の姿を見て安心して棒でぴた/\と叩いて居る。棒の先が水を打つので與吉は悦んだ。それも少時の間に飽いた。おつぎは與吉がまた見た時には田の向の端に行つて居た。
「姉よう」と與吉は喚んだ。おつぎは返辭しなかつた。與吉は又喚んだ。さうして泣き出した。おつぎは立つて行かうとすると
「構あねえで置け、耕つてあつちへ行つてからにしろ」勘次は性急に嚴しくおつぎを止めた。おつぎは仕方なく泣くのも構はずに耕した。
勘次は先へ/\と耕して堀の側まで來た。
「泣くな、今姉が後から來らあ」勘次はかういつて、與吉に一瞥を與へたのみで一心に其の手を動かして居る。與吉はおつぎが漸く近づいた時一しきり又泣いた。
「よきはどうしたんだ」おつぎは岸へ上つて泥だらけの足で草の上に膝を突た。與吉は笑交りに泣いて兩手を出して抱かれようとする。
「姉は泥だらけで仕やうあんめえな、汚れてもえゝのかよきは」いひながらおつぎは與吉を抱いた。
「どうした、蛙奴居ねえか、此の棒でばた/″\と叩いてやれ、さうしたら痛えようつて蛙奴が泣くべえな、泣くな蛙だよう、よきは泣かねえようつてなあ」おつぎは與吉を抱いた儘勘次の方を見て
「おとつゝあ、あつちへ行つちやつた、姉も行かなくつちやなんねえ、おとつゝあに怒られつかんな、又えんとして居ろ」おつぎはそつと與吉を筵へ卸した。
「かせえてやれ、何してんだ、えゝ加減にしろ」勘次は後を向いて呶鳴つた。
「それ見ろな怒られつから、そら此處にえゝものが有つた」おつぎは田圃にある鼠麹草の花をつて筵へ載て遣つた。さうして又危いやうにそうつと田へおりた。與吉は只鼠麹草の花を弄つて居た。
堀は雨の後の水を聚めてさら/\と岸を浸して行く。青く茂つて傾いて居る川楊の枝が一つ水について、流れ去る力に輕く動かされて居る。水は僅に觸れて居る其枝の爲に下流へ放射線状を描いて居る。蘆のやうで然も極めて細い可憐なとだしばがびり/\と撼がされながら岸の水に立つて居る。お玉杓子が水の勢ひに怺へられぬやうにしては、俄に水に浸されて銀のやうに光つて居る岸の草の中に隱れやうとする。さうしては又凡ての幼いものゝ特有で凝然として居られなくて可憐な尾をひら/\と動かしながら、力に餘る水の勢にぐつと持ち去られつゝ泳いで居る。與吉は鼠麹草の花を水へ投げた。花が上流に向いて落ちると、ぐるりと下流へ押し向けられてずんずんと運ばれて行く。岸の草の中に居た蛙は剽輕に其花へ飛び付いて、それからぐつと後の足で水を掻いて向の岸へ着いてふわりと浮いた儘大きな目をつてこちらを見る。鼠麹草の花が皆投げ竭されて與吉は又おつぎを喚んだ。
「おうい」とおつぎの情を含んだ聲が遠くからいつた。おつぎの返辭を聞いては與吉は口癖のやうに姉よと喚ぶ。其度毎におつぎは忙しい手を動かしながらそれに應ずるのである。
正午にはまだ間があるうちに午餐の支度を急いでおつぎは田圃から茶を沸しにのぼる。與吉は悦んでおつぎの背に噛りついた。勘次は後で獨り耕した。青い煙が楢の木から立つて軈て
「沸いたぞう」とおつぎの聲で喚ばれるまでは勘次は忙しい其の手を止めなかつた。
午餐過からおつぎは縫針へ絲を透して竿へ附けて與吉に持たせた。與吉は外の子供のするやうに其の針を擧げて見ては又水へ投げて大人しくして居る。暫く時間が經つと又姉ようと喚ぶ。おつぎは堀の近くへ耕して來た時に見ると與吉の竿は絲がとれて居た。おつぎは岸へ上つた。
「どうしたんでえ、よきは」おつぎは見ると針が向の岸から出た低い川楊の枝に纏つて絲の端が水について下流へ向いて居る。おつぎは二町ばかり上流の板橋を渡つて行つて、漸くのことで枝を曲げて其針をとつた。さうして又與吉の棒へ附けてやつた。
「はあ引つ懸けんぢやねえぞ大變だかんな」おつぎは極めて輕く叱つて又田へおりた。勘次は又呶鳴つた。
「そんでもよきは絲切つちまつたんだもの」
おつぎは危ぶむやうにして控へ目に聲を立てゝいつた。おつぎは默つて其の手を動かして居る。與吉は返辭がなくても懷かし相に姉ようと數次喚び掛けた。おつぎの姿が遠くなれば筵へ口のつく程屈んで聲を限りに喚んだ。
其の晩勘次は二人を連れて近所へ風呂を貰ひに行つた。おつぎは其處へ聚つた近所の女房に自分の手を見せて
「俺らこんなに肉刺出つちやつたんだよ」と呟いた。
「ほんによな、痛かつぺえなそりや、そんでもおつかあが居ねえから働かなくつちやなんねえな」女房は慰めるやうにいつた。
「おつかあのねえものは厭だな」おつぎはいつて勘次を見ると直に首を俛た。勘次は側で凝然とそれを聞いて居た。
「おつう等だつて今に善えこともあらな、そんだがおつかゞ無くつちや衣物欲しくつても此ばかりは仕やうがねえのよな」女房はいつた。勘次は其ことは云はずに居て呉れゝばいゝのにと思ひながら六か敷い顏をして默つて居た。
「此の肉刺はとがめめえか」おつぎは手の平の處々に出た肉刺を見て心配相にいつた。
「何でとがめるもんか」勘次は抑制した或物が激發したやうに直に打消した。
勘次は家に戻ると飯臺の底にくつゝいて居る飯の中から米粒ばかり拾ひ出してそれを煙草の吸殼と煉合せた。さうして針の先でおつぎの湯から出たばかりで軟かく成つた手の肉刺をついて汁液を出して其處へそれを貼つて遣つた。
「しく/\すんな」おつぎは貼つた箇所を見ていつた。
「液汁出したばかりにやちつた痛えとも、その代すぐ癒つから」勘次はおつぎを凝然と見てそれからもう鼾をかいて居る與吉を見た。
「肉刺なんぞ出たらば出たつておとつゝあげいふもんだ、他人のげなんぞ見せたりなにつかするもんぢやねえ、汝等なんにも知らねえから仕やうねえ、田耕え始まりにやおとつゝあ等見てえな手だつてかうえに出んだか見ろ。それ痛えの我慢しい/\行りせえすりや固まつちあんだ」勘次は自分の手をおつぎへ示した。
「おつかゞ無くなつて困んな汝ばかしぢやねえんだから」勘次は暫く間を置てぽつさりとしていつた。
「身上の爲だから汝も我慢するもんだ、見ろ汝等處ぢやねえ、武州の方へなんぞ遣られて泣き拔いてるものせえあら」と彼は又辛うじていつた。大人しく默つて居たおつぎは
「武州ツちやどつちの方だんべ」寧ろあどけなく聞いた。
「あつちの方よ、汝が足ぢや一日にや歩けねえ處だ」勘次は雨戸の方を向いて西南を示した。
「遠いんだな、其處へ行つたらどうすんだんべ」
「機織するものもあれば百姓するものもあんのよ」
「機教れぢやよかんべな」
「何でえゝことあるもんか、家へなんざあ滅多に來られやしねえんだぞ、そんで朝から晩迄みつしら使あれて、それ處ぢやねえ病氣に成つたつて餘程でなくつちや葉書もよこさせやしねえ」
「そんぢや、さうえ處へ行つちやひでえな、逃げて來ることも出來ねえんだんべか」
「直ぐ捉めえられつちあからそんなに遁げられつかえ」
「巡査に捉まんだんべか」
「さうなもんか、巡査でなくつたつて遁げ出せば直ぐ捉めえるやうに人が番してんのよ、なあ、そんでもなくつちや遠くの者ばかり頼んで置くんだもの仕やうあるもんか」
「そんでも厭だつちつたらどうすんだんべ」
「厭だなんていつた位ひでえとも立金しなくつちやなんねえから」
「どういにすんだんべそら」
「そらなあ、幾ら勤めたつて途中で厭だからなんて出つちめえば、借りた丈の給金はみんな取つくる返えされんのよ、なあ、それから泣き/\も居なくつちやなんねえのよ」
「そんぢや俺らさうえ處へ行かねえでよかつたつけな」おつぎは熱心にいつた。
「そんだから汝等こた遣りやしねえ。汝こと奉公にやれば其の錢で俺ら借金も無くなるし、よきことだつて輕業師げでも出しつちめえばそれこそ樂になつちあんだが、おつかゞ無くつちや辛えつて後で泣かれんの厭だから俺ら土噛つてもそんな料簡は出さねんだ」
「おとつゝあ、奉公すれば借金なくなんだんべか」
「おつかせえ居れば汝ことも奉公に出して、おとつゝあ等もえゝ錢捉めえんだが、おつかゞ無くなつておとつゝあだつて困つてんだ、それから汝だつて奉公に行つた積で辛抱するもんだ、なあ、俺ら汝等げみじめ見せてえこたあ有りやしねんだから」
勘次はしみ/″\と反覆した。
勘次はおつぎに身體不相應な仕事をさせて居ることを知つて居る。それで自分が朝は屹度先へ起きて竈の下へ火を點ける。其の時疲れた少女はまだぐつたりと正體もなく枕からこけて居る。白い蒸氣が釜の蓋から勢ひよく洩れてやがて火が引かれてからおつぎは起される。帯を締た儘横になつたおつぎは容易に開かない目をこすつて井戸端へ行く。蓬々と解けた髮へ櫛を入れて冷たい水へ手を入れた時おつぎは漸く蘇生つたやうになる。それでも目はまだ赤くて態度がふら/\と懶相である。
「さあ、飯出來たぞ」勘次は釜から茶碗へ飯を移す。さうして自分で農具を執つておつぎへ持たせてそれからさつさと連れ出すのである。
籾種がぽつちりと水を突き上げて萌え出すと漸く強くなつた日光に緑深くなつた嫩葉がぐつたりとする。軟かな風が凉しく吹いて松の花粉が埃のやうに濕つた土を掩うて、小麥の穗にもびつしりと黴のやうな花が附いた。百姓は皆自分の手足に不足を感ずる程忙しくなる。勘次は一意只仕事の手後れになるのを怖れた。草臥れても疲れても彼は毎日未明に起きて夜まで其の手足を動かして止まぬ。おつぎも其の後に跟いて草臥れた身體を引きずられた。晩餐の支度に與吉を負うて先へ歸るのがおつぎにはせめてもの骨休めであつた。
勘次は麥の間へ大豆を蒔いた。畦間へ淺く堀のやうな凹みを拵へてそこへぽろ/\と種を落して行く。勘次はぐい/\と畦間を掘つて行く。後からおつぎが種を落した。おつぎのまだ短い身體は麥の出揃つた白い穗から僅に其の被つた手拭と肩とが表はれて居る。與吉は道の側の薦の上に大人しくして居る。おつぎの白い手拭が段々麥の穗に隱れると與吉は姉ようと喚ぶ。おつぎはおういと返辭をする。おつぎの聲が聞えると與吉は凝然として居る。勘次は畦間を作りあげてそれから自分も忙しく大豆を落し初めた。勘次は間懶つこいおつぎの手もとを見て其の畝をひよつと覗いた。種と種との間隔が不平均で四粒も五粒も一つに落ちてる處があつた。
「此のざまはどうしたんだ、こんなこつて生計が出來つか」と呶鳴りながら彼は突然おつぎを擲つた。おつぎは麥の幹と共に倒れた。おつぎは倒れた儘しく/\と泣いた。
「大概解り相なもんぢやねえか、こんなざまぢや種ばかし要つて仕やうありやしねえ」勘次は後を呟いた。隣の畑に此も大豆を蒔いて居た百姓は駈けて來た。
「勘次さんどうしたもんだいまあ、其荒つぺえことして」と勘次を抑へた。
「おつぎ泣かねえでさあ起きて仕事しろ、おとつゝあげは俺謝罪つてやつかんなあ、與吉が泣てら、さあ行つて見さつせ」百姓は更におつぎを賺した。與吉はおつぎの姿が見えないので頻りに喚んだ。それでもおつぎの聲は聞えないので火の點いたやうに泣き出したのである。おつぎは啜り泣きしながら與吉を抱いた。
「お袋もねえのにおめえいゝ加減にしろよ、可哀想ぢやねえか、そんなことしておめえ幾つだと思ふんだ、さう自分の氣のやうに出來るもんぢやねえ、佛の障にも成んべぢやねえか」隣畑の百姓はいつた。勘次は默つて畢つて何ともいはなかつた。與吉はおつぎに抱かれたので、おつぎの目がまだ濕うて居るうちに泣き止だ。
勘次は其の日の夕方おつぎが晩餐の支度に立つた時自分も一つに家へ戻つた。
彼は膝がしらで四つ偃に歩きながら座敷へあがつて財布を懷へ捩ぢ込んでふいと出た。彼は風呂敷包を持つて歸つた。彼が戸口に立つた時は家の内は眞闇で一寸は物の見分もつかなかつた。
草臥れ切つた身體で彼は其夜も二人を連れて、自分の所有ではない其茂つた小さな桑畑を越えて南の風呂へ行つた。其處にはいつものやうに風呂を貰ひに女房等が聚つて居た。
「能くなあ、おつうはよきこと面倒見んな、女の子は斯うだからいゝのさな、直ぐ役に立つかんな」女房の一人がいつた。
「おつぎはどうしたんでえ、今夜ひどく威勢惡いな」他の女房がいつた。
「先刻俺に打つとばされたかんでもあんべえ」勘次は苦笑しながらいつた。
「何でだつぺなまあ、おめえそんなに仕ねえで面倒見てやらつせえよ、此れがおめえ女つ子でもなくつて見さつせえ、こんな小えの抱えて仕やうあるもんぢやねえな」
「さうだともよ、こらおつうでも無くつちや育たなかつたかも知んねえぞ、それこそ因果見なくつちやなんねえや、なあおつう」女房等はいつた。
「俺がとこちつともこら離んねえんだよ仕やうねえやうだよ本當に」おつぎはもう段々手に餘つて來た與吉を膝にしていつた。
「今ぢや、まるつきしおつかのやうな氣がしてんだな、屹度」女房らはまた與吉を見ていつた。勘次は側で只目を屡叩いた。
家へ戻つてから勘次は
「おつう、手ランプ持つて來て見せえ、汝げ見せるものあんだから」
おつぎは出る時に吹消たブリキの手ランプを點けて、まだ容子がはき/\としなかつた。勘次は先刻の風呂敷包を解いた。小さく疊んだ辨慶縞の單衣が出た。
「汝げ此遣んべと思つて持つて來たんだ。此んでもなよ、おつかゞ地絲で織つたんだぞ、今ぢや絲なんぞ引くものなあねえが、おつか等毎晩のやうに引いたもんだ、紺もなあ能うく染まつてつから丈夫だぞ、おつかは幾らも引つ掛ねえつちやつたから、まあだまるつきり新しいやうだ見ろ、どうした手ランプまつとこつちへ出して見せえまあ」勘次は單衣を少し開いて鼻へ當て臭を嗅いで見た。
「ちつたあ黴臭くなつたやうだが、そんでも此位ぢや一日干せば臭えな直つから」勘次は分疏でもするやうにいつた。
おつぎは左手に持ち換た手ランプを翳して單衣を弄つては浴後のつやゝかな顏に微笑を含んだ。勘次はおつぎの顏ばかり見て居た。さうして其の機嫌が恢復しかけたのを見て
「どうした、それでも汝りや氣につたか、おつかゞ物はみんな汝がもんだかんな、俺ら汝ツ等がだとなりや幾ら困つたつて、はあ決して質になんざ置かねえから、大事にして汝能うく藏つて置いたえ」と彼は滿足らしく見えた。おつぎは手ランプを置いて勘次がしたやうに鼻へ當てゝ臭を嗅いで見たり、左の手だけを袖へ透して見たりした。
「俺がにや此んぢや引きじるやうぢやあんめえか」おつぎはそれから手で釣るして見たりした。
「藏つて置いて、俺らいまつと大く成つてから着べかな」
「どうでも汝がもんだから汝が好きにしろな」勘次はおつぎの手が動くに從つて目を移した。手ランプのぼうと立つ油煙がほぐれた髮へ靡き掛るのも知らずにおつぎはそつちこつちへ單衣を弄つて居た。
「汝うつかりして、そうれ燃えつちまあぞ」勘次は油煙が復た傾いた時慌てゝおつぎの髮へ手を當てゝいつた。
七
勘次の田畑は晩秋の收穫がみじめなものであつた。それは氣候が惡いのでもなく、又土地が惡いのでもない。耕耘の時期を逸して居るのと、肥料の缺乏とで幾ら焦慮つても到底滿足な結果が得られないのである。貧乏な百姓はいつでも土にくつゝいて食料を獲ることにばかり腐心して居るにも拘はらず、其の作物が俵になれば既に大部分は彼等の所有ではない。其の所有であり得るのは作物が根を以て田や畑の土に立つて居る間のみである。小作料を拂つて畢へば既に手をつけられた短い冬季を凌ぐ丈けのことがともすれば漸くのことである。彼等は自分で田畑が忙しい時にも其の日に追れる食料を求る爲に比較的收入のいゝ日傭に行く。百姓といへば什に愚昧でも凡ての作物を耕作する季節を知らないことはない。村落の端から端まで皆同一の仕事に屈託して居るのだから其の季節を假令自分が忘れたとしても全く忘れ去ることの出來るものではない。然しもう季節だと知つて見ても其の日/\の食料を求める爲めに勞力を割くのと、肥料の工夫がつかなかつたりするのとで作物の生育からいへば三日を爭ふやうな時でも思ひながら手が出ないのである。以前のやうに天然の肥料を獲ることが今では出來なくなつて畢つた。何處の林でも落葉を掻くことや青草を刈ることが皆錢に餘裕のあるものゝ手に歸して畢つた。それと共に林は封鎖されたやうな姿に成つて居る。冬毎に熊手の爪の及ぶ限り掻いて行くので、草も隨つて短くなつて腰を沒するやうな處は滅多にない。其の草も更に土から刈つて行くので次第に土が痩せて行く。だから空手では何處へ行つても竊取せざる限は存分に軟かな草を刈ることは出來ない。貧乏な百姓は落葉でも青草でも、他人の熊手や鎌を入れ去つた後に求める。さうして瘠せて行く土を更に骨まで噛むやうなことをして居るのである。一般には落葉や青草の缺乏を感ずると共に便利な各種の人造肥料が供給される。然しそれも依然として金錢に幾らでも餘裕のある人にのみ便利なのであつて、貧乏な百姓には牛や馬が馬塞棒で遮られたやうな形でなければならぬ。さうかといつて其れ等の肥料なしには到底一般に定められてある小作料を支拂ふ丈の收穫は得られないので慘憺たる工夫が彼等の心を往來する。さうして又食料を求める爲に勞力を他に割くことによつて、作物の畦間を耕すことも雜草を除くことも一切が手後れに成る。季節が暑くなれば雨があつて三日も見ないうちには雜草は驚くべき迅速な發育を遂げる。それが著しく作物の勢力を阻害する。それだけ收穫の減少を來さねばならぬ筈である。要するに勤勉な彼等は成熟の以前に於て既に青々たる作物の活力を殺いで食つて居るのである。收穫の季節が全く終りを告げると彼等は草木の凋落と共に萎靡して畢はねばならぬ。草木の眠りに落ち去る少くとも五六十日の間は、彼等は稀に冬懇というて麥の畦間を耕すことや林の間に落葉や薪を求めることがあるに過ぎぬ。自分の食料に換る丈の錢を獲ることが其の期間の仕事に於ては見出されないのである。蛇や蛙や其の他の蟲類が假死の状態に在る間に彼等は目前に逼つて居る未來の苦しみを招く爲に、過去の苦しかつた記念である其の缺乏した米や麥を日毎に消耗して行くのである。彼等は手に内職を持つて居らぬ。自分の使用すべき爲にのみは筵も草履も畚も草鞋も其の他のものも藁で作ることを知つて居れども、大抵は刈り後れになつた藁では立派な製作は得られないのである。それであるのに彼等は肥料の缺乏を訴へつゝ其の藁屑や粟幹や其の他のものが庭に散らばつて居ても容易にそれを始末しようとしない。他人の注意を受けてもそれでも改めることをしない。彼等は苦しい時に苦しむことより外に何にも知ることがないのである。
勘次も彼等の仲間である。然しながら彼は境遇の異常な刺戟から寸時も其の身を安住せしむる餘裕を有たなかつた。彼も他の貧乏な百姓のするやうに冬の季節になれば薪を採つて壁に積んで置くことをした。彼は近來に成つてから隣の主人が林を改良する爲に雜木林を一旦開墾して畑にするといふことに成つたので其の一部を擔當した。彼は小さな身體である。然し彼は重量ある唐鍬を振り翳して一鍬毎にぶつりと土をとつては後へそつと投げつゝ進む。彼は其開墾の仕事が上手で且つ好きである。其のきりつと緊つた身體は小さいにしてもそれが各部の平均を保つて唐鍬を執るときには彼と唐鍬とは唯一體である。唐鍬の廣い刄先が木の根に切り込む時には彼の身體も一つにぐざりと其の根を切つて透るかと思ふやうである。土を切り起すことの上手なのは彼の天性である。それで彼は遠く利根川の工事へも行つたのであつた。彼は自分の伎倆を恃んで居る。彼は以前からも少しづつ開墾の仕事をした。其の賃錢によつて其の土地を深くも淺くも速くも遲くも仕上げることを知つて居た。竹林を開墾した時彼は根の閉ぢた儘一坪の大きさを只四つの塊に掘り起したことがある。それでも其の頃まではさういふ仕事が幾らも無かつたので、其の賃錢は仕事を始める時其の研ぎ減らした唐鍬の刄先を打たせる鍛冶の手間と、異常な勞働の爲に費す其の食料を除いては幾らもなかつたのである。
彼は主人の開墾地が春一杯の仕事には十分であることを悦んだ。錢の外に彼は米と麥との報酬を受けることにした。おつぎは別に仕事といつてはなかつたが彼はおつぎを一人では家に置かなかつた。與吉を連れておつぎは開墾地へ行つて居た。勘次が其の鍛錬した筋力を奮つて居る間におつぎはそこらの林から雀枝を採つて小さな麁朶を作つて居る。小さな枝は土地では雀枝といはれて居る。枯た雀枝を採ることは何處の林でも持主が八釜敷いはなかつた。
勘次は雨でも降らねば毎日必ず唐鍬を擔いで出た。或日彼は木の株へ唐鍬を強く打込んでぐつとこじ扛げようとした時鍛へのいゝ刃と白橿の柄とは強かつたのでどうもなかつたが、鐵の楔で柄の先を締めた其の唐鍬の四角な穴の處が俄に緩んだ。其處はひつといはれて居る。ひつに大きな罅が入つたのである。柄がやがてがた/\に動いた。
「えゝ、箆棒、一日の手間鍛冶屋へ打つ込んちあなくつちやなんねえ」彼は呟いた。
次の朝彼は未明に鍛冶へ走つた。
「わし行つて來あんすから、此等こと見てゝおくんなせえ」おつぎと與吉とを南の女房へ頼んだ。
「他へは行くんぢやねえぞ、えゝか、よきは泣かさねえやうにしてんだぞ」彼はおつぎへもいつて出た。おつぎは其注意を人前でされることがもう耻かしく厭な心持がするやうに成て居た。
勘次は鬼怒川の渡を越えて土手を傳ひて、柄のない唐鍬を持つて行つた。鍛冶は其の時仕事が支へて居たが、それでも恁ういふ職業に缺くべからざる道具といふと何處でもさういふ例の速に拵へてくれた。
「隨分荒えことしたと見えつけな、俺らも近頃になつて此の位えな唐鍬滅多打つたこたあねえよ、」鍛冶は赤く熱した其の唐鍬を暫く槌で叩いて、それから土中へ据ゑた桶の泥を溶いたやうな水へぢうと浸して、更に又小さな槌でちん/\と叩いて
「こんだこさ大丈夫だ、先にやどうして罅なんぞいつたけかよ」鍛冶は汗の額を勘次に向けて
「柄が折つちよれねえうちは動きつこねえから」といつて又
「身體の割にしちや圖無えな」と鍛冶は微笑した。鐵の臭のする唐鍬を提げて勘次は復土手を走つた。
其の日も西風が枯木の林から麥畑からさうして鬼怒川を渡つて吹いた。鬼怒川の水は白い波が立つて、遠くからはそれが粟を生じた肌のやうに只こそばゆく見えた。西風は川に吹き落ちる時西岸の篠をざわ/\と撼がす。更に東岸の土手を傳うて吹き上げる時、土手の短い枯芝の葉を一葉づゝ烈しく靡けた。其の枯芝の間にどうしたものか氣まぐれな蒲公英の黄色な頭がぽつ/\と見える。どうかすると土手は靜かで暖かなことがあるので、遂騙されて蒲公英がまだ遠い春を遲緩しげに首を出して見ては、また寒く成つたのに驚いて蹙まつたやうな姿である。
勘次は唐鍬を持つて復た自分の活力を恢復し得たやうに、それから又一日仕事を怠れば身内がみり/\して何だか知らぬが其の仕事に催促されて成らぬやうな心持がした。
鬼怒川の水は落ちて此方の土手から連つて居る大きな洲が其の流れを西岸の篠の下まで蹙めて居る。廣く且遠い洲には只西風が僅に乾いた砂をさら/\と掃くやうにして吹いて居る。それで白く乾燥した洲は只からりと清潔に見える。さういふ間にどうしたものか此れも氣まぐれな人が、遠くは其の砂から生えたやうに見えてちらほらと散らばつて少しづゝ動いて居る。勘次は土手からおりて見た。動いて居る人々は萬能で其の砂を掘つて居るのであつた。西風が乾かしてはさらさらと掃いて居ても洲には猶幾らか波の趾がついて居る。其砂の中からは短い木片が出る。二三寸から五六寸位な稀には一尺位なものも掘り起される。皆研ぎ減したやうな木片のみである。人々は冷たく成つた手を口へ當てゝ白い暖かい息を吹つ掛けながら一心に先へ先へと掘り起しつゝ行く。
「どうするんだね」勘次は一人の側へ立つて聞いた。ひよつと首を擡げたのは婆さんであつた。婆さんは腰をのして強い西風によろける足を踏しめて
「此れ干して置いて燃すのさ」と穢い白髮と手拭とを吹かれながら目を蹙めていつた。
「どうしても斯う成つちやべろ/\燃えて飽氣なかんべえね」勘次は聞いた。
「赤え灰に成つてな、火も弱えのさ、そんでも麁朶買あよりやえゝかんな、松麁朶だちつたつてこつちの方へ來ちや生で卅五把だの何だのつて、ちつちえ癖にな、俺らやうな婆でも十把位は背負へんだもの、近頃ぢや燃す物が一番不自由で仕やうねえのさな」婆さんはいつた。
「松麁朶で卅五把ぢや相場はさうでもねえが、商人がまるき直すんだから小さくもなる筈だな」勘次は首を傾けていつた。
「さうだごつさらよなあ、そりやさうとおめえさん何處だね」萬能を杖にして婆さんはいつた。
「俺ら川向さ」
「そんぢや燃す木は有つ處だね」婆さんは更に勘次の唐鍬を見て
「たいした唐鍬だが餘つ程すんだつぺな」
「さうさ今打たせちや三十掛は屹度だな」
「三十掛ツちや幾らするごつさら、目方もしつかり掛んべな」
「一貫目もねえがな」勘次は自慢らしく婆さんへ唐鍬を持たせた。
「おういや、俺らがにや引つたゝねえやうだ、おめえさん自分で使あのけまあ、何したごつさらよ此んな道具なあ」
「毎日木根つ子起してたんだが、唐鍬のひつ痛つちやつたから直し來た處さ」
「そんぢやおめえさん燃す物にや不自由なしでえゝな」婆さんは羨まし相にいつた。さうして小さな木片を入る爲に持て來た麻の穢い袋を草刈籠から出した。
僅に鬼怒川の水を隔てゝ西は林が連つて居る。村落も田も畑も其の林に包まれて居る。東は只低い水田と畑とで村落が其の間に點在して居る。其處に家を圍んで僅かな木立が有るばかりである。隨つて薪の缺乏から豆幹や藁のやうなものも皆燃料として保存されて居ることは勘次も能く知つて居た。然し其の薪の缺乏から自然にかういふ砂の中に洪水が齎した木片の埋まつて居るのを知つて之を求めて居るのだといふことは彼は始めて見て始めて知つた。彼は滅多に川を越えて出ることはなかつたのである。
勘次は自分の壁際には薪が一杯に積まれてある。其上に開墾の仕事に携はつて何といつても薪は段々殖えて行くばかりである。更に其の開墾に第一の要件である道具が今は完全して自分の手に提げられてある。彼は恁ういふ辛苦をしてまでも些少な木片を求めて居る人々の前に矜を感じた。彼は自分の境遇が什であるかは思はなかつた。又恁ういふ人々の憐れなことも想ひやる暇がなかつた。さうして彼は自分の技倆が愉快になつた。彼は再び土手から見おろした。萬能を持つて居るのは皆女で十三四の子も交つて居るのであつた。人々の掘り起した趾は畑の土を蚯蚓が擡げたやうな形に、濕つた砂のうね/\と連つて居るのが彼の目に映つた。
彼は家に歸ると共に唐鍬の柄を付た。鉈の刀背で鐵の楔を打ち込んでさうして柄を執つて動かして見た。次の朝からもう勘次の姿は林に見出された。
主人から與へられた穀物は彼の一家を暖めた。彼は近來にない心の餘裕を感じた。然しさういふ僅な彼に幸ひした事柄でも幾らか他人の嫉妬を招いた。他の百姓にも悶躁いて居る者は幾らもある。さういふ伴侶の間には僅に五圓の金錢でもそれは懷に入つたとなれば直に世間の目に立つ。彼等は幾らづゝでも自分の爲になることを見出さうといふことの外に、目を峙てゝ周圍に注意して居るのである。彼等は他人が自分と同等以下に苦んで居ると思つて居る間は相互に苦んで居ることに一種の安心を感ずるのである。然し其の一人でも懷のいゝのが目につけば自分は後へ捨てられたやうな酷く切ないやうな妙な心持になつて、そこに嫉妬の念が起るのである。それだから彼等は他の蹉跌を見ると其僻んだ心の中に竊に痛快を感ぜざるを得ないのである。
勘次の家には薪が山のやうに積まれてある。それが彼等の伴侶の注目を惹いた。それとはなしに數次彼の主人に告げられた。開墾地で木を焚いた其灰をも家に運んだといふことまで主人の耳に入つた。勘次は開墾の手間賃を比較的餘計に與へられる代りには櫟の根は一つも運ばない筈であつた。彼等の伴侶はさういふことをも知つて居た。晝餐の後や手の冷たく成つた時などには彼はそこらの木を聚めて燃やす。木の根が燻ぶつていつでも青い煙が少しづゝ立つて居る。彼は其煙に段々遠ざかりつゝ唐鍬を打ち込んで居る。毎日火は別な處で焚かれた。彼は屹度其の灰を掻つ掃いで去つたのである。然し壁際に積んだ木の根はそこには不正なものが交つて居るにしても、大部分は彼の非常な勞苦から獲たものである。彼は林の持主に請うて掘つたのである。それでも餘りに人の口が八釜敷ので主人は只幾分でも將來の警めをしようと思つた。其の以前から勘次は秋になれば掛稻を盜むとかいふ蔭口を利かれて巡査の手帖にも載つて居るのだといふやうなことがいはれて居たのであつた。主人はそれでも竊に人を以て木の根を運んだかどうかといふことを聞かせて見た。彼が心づいて謝罪するならばそれなりにして遣らうと思つたからである。彼は主人の心を知る由はなかつた。
「何處でも見た方がようがす、わしは決して運んだ覺えなんざねえから」彼は恐ろしい權幕できつぱり斷つた。
主人は村の駐在所の巡査へ耳打ちをした。巡査は或日ぶらつと勘次の家へ行つた。其の日は朝から雨なので勘次は仕事にも出られず、火鉢へ少しづゝ木の根を燻べてあたつて居た。
「雨で困つたな、勘次は大分勉強する相だな」巡査は帶劍の鞘を掴んでいつた。
「へえ」勘次は急に膝を立て直した。表の戸口へひよつこり現れた巡査の、外套の頭巾を深く被つて居る顏が勘次には只恐ろしく見えた。さうして其の聲が刺を含んで響いた。巡査はぶらりと家の横手へ行つて壁際の木の根を見た。勘次は巡査の後から跟いて行つた。
「大分有るな、此れは又わしの來るまで動かしちやならないからな」巡査はいつた。勘次は蒼くなつた。
「此らわしが貰つて掘つたんでがすから何處と何處つて穴つ子までちやんと分つてんでがすから」彼は慌てゝいつた。
「そんなことはどうでもいゝんだ、動かすなといつたら動かさなけりやいゝんだ」
巡査は呼吸で霧のやうに少し霑れた口髭を撚りながら
「櫟の根が大分あるやうだな」といひ棄てゝ去つた。勘次は雨に打たれつゝ喪心したやうに庭に立つて居る。戸口の蔭に隱れて聞いて居たおつぎは巡査の去つた後漸く姿を表はした。
「おとつゝあ」と小聲で喚んだ。
「そんだから俺ら持つて來んなつてゆつたのに」更に小聲でおつぎはいつた。
「おとつゝあ、どうしたもんだべな」おつぎは聞いた。
「俺ら旦那に見放されちや、迚も助かれめえ」勘次は漸く此れだけいつた。
「おとつゝあ、それぢや旦那げ謝罪つたらどうしたもんだんべ」
「そんなことゆつたつて、聽くか聽かねえか分るもんか」
「南のおとつゝあげでも頼んで見たらどうしたもんだんべ」
「汝等頼まなくつたつてえゝから」
「そんぢやおとつゝあ、櫟の根つ子せえなけりやえゝんだんべか」
「そんだつて汝は駐在所に見られつちやつたもの仕やうあるもんか」
勘次はそれでも他に分別もないので仕方なしに桑畑を越て南へ詑を頼みに行つた。彼は古い菅笠を一寸頭へ翳して首を蹙めて行つた。主人の挨拶は兎に角明日のことにするからといつた丈だといふ返辭である。勘次はげつそりとして家へ歸ると蒲團を被つて畢つた。おつぎは自分も毎日行つて居たので開墾地から運んだ櫟の根は皆知つて居る。おつぎは其の櫟の根を獨りで竊に引き出した。さうして黄昏時におつぎはそれを草刈籠へ入れて後の竹藪の中の古井戸へ投げ落した。古井戸は暗くして且深い。おつぎは冷たい雨に沾れてさうして少し縮れた髮が亂れてくつたりと頬に附いて足には朽ちた竹の葉がくつゝいて居る。
「おとつゝあ」おつぎは勘次を喚び起した。
「俺ら櫟根つ子うつちやつたぞ」おつぎは更に聲を殺していつた。勘次はひよつこり起きて何もいはずにおつぎの顏を凝然と見つめた。暗い家の中には漸く手ランプが點された。勘次もおつぎも唯其の目が光つて見えた。
次の日巡査は隣の傭人を連れて來て壁際の木の根を檢べさせたが櫟の根は案外に少かつた。それでもおつぎの手では棄て切れなかつたのである。
「此りや櫟がもつと有つた筈ぢやないか勘次はどうかしやしないか」巡査は恁ういつてあたりを見たが勘次の小さな建物の何處にもそれは發見されなかつた。さういつても實際に巡査の目には櫟と他の雜木とを明瞭に識別し得なかつたのである。
「勘次、それぢや此れを持つて跟いて來るんだ」巡査はいつた。勘次は顫へた。
「草刈籠でも何でもいゝ、此れを入れて後から跟いて」
「へえ、何處まで持つて行くんでがせう」勘次は逡巡して居る。
「何處までゝもいゝんだ」巡査は呶鳴つてぴしやりと横手で勘次の頬を叩いた。
勘次は草刈籠を脊負つて巡査の後に跟いて主人の家の裏庭へ導かれた。巡査が縁側の坐蒲團へ腰を掛けた時勘次は籠を脊負つた儘首を俛れて立つた。それは餘りに見え透いた仕事なので有繋に分別盛の主人は出なかつた。内儀さんが出た。勘次は益萎れた。
「勘次、お前まあそれを置いて此處へ掛けて見たらどうだね」内儀さんはいつた。勘次はそれでも只立つて居る。
「品物は此だけなんでしたらうか」内儀さんは巡査に聞いた。
「此の位のものらしいやうでしたな、案外少かつたんですな」巡査は手帖を反覆しながらいつた。
「さうでございますか」内儀さんは巡査に會釋してさうして
「どうしたね勘次、恁うして連れて來られてもいゝ心持はすまいね」といつた。藁草履を穿いた勘次の爪先に涙がぽつりと落ちた。
「こんなことでお前世間が騷がしくて仕やうがないのでね、私の處でも本當に困つて畢ふんだよ」内儀さんは巡査を一寸見てさうして
「此れから屹度やらないなら今日の處だけは大目に見て戴いて警察へ連れて行かれないやうに伺つて見てあげるがね、どうしたもんだね」と勘次へいつた。
「何卒はあ、決してやりませんから、へえお内儀さんどうぞ」勘次は草刈籠を脊負うて前屈になつた身體を幾度か屈めていつた。涙が又ぼろ/\と衣の裾から跳ねてほつ/\と庭の土に點じた。
「如何なもんでござんせうね此れは」内儀さんは微笑を含んで巡査に向つていつた。
「さうですなあ」巡査は首を傾けていつて更に帶劍の鞘を膝へとつて
「どうだ勘次、以來愼めるか、此の次にこんなことが有つたら枯枝一つでも赦さないからな、今日はまあ此れで歸れ、其の櫟の根は此處へ置いて行くんだぞ」勘次は草刈籠を卸さうとした。
「そんなもの此の庭へ置けといふんぢやないんだ、置く處は知つてるんだろう、解らない奴だな、それうつかりしないで足下を氣をつけるんだ」巡査は叱つた。勘次はそつと土を踏んで庭を出た。
門の外にはおつぎが與吉を連れて歔欷して居る。與吉はおつぎの泣くのを見て自分も聲を放つ。おつぎは聲の洩れぬやうに袂でそれを掩うて居る。
「よき泣かねえで歸えれ」勘次は與吉の手を執つた。三人は默つて歩いた。傭人等は笑つて勘次の容子を見て居た。
「おとつゝあ、どうしたつけ」おつぎは家に歸ると共に聞いた。
「そんでもまあ大丈夫になつた、櫟根つ子なくつて助かつた」勘次はげつそりと力なくいつた。
「俺ら昨日は重たくつて酷かつたつけぞ、其の所爲か今日は肩痛えや」おつぎは悦ばしげにいつた。
「俺こゝで居なくなつちや汝等も大變だつけな」勘次は間を暫く措いてぽさ/\としていつた。
此の事があつてからも勘次の姿は直に唐鍬持つて林の中に見出された。
五六日經つて勘次は針立と針箱とを買つて來た。
「おつう、汝も此れからお針にいけつかんな、そら此れ持つて行ぐんだ、おつかゞ持つてた古いのなんざあ外聞惡くつて厭だなんていふから、此んでもおとつゝあ等酷え錢で買つて來たんだぞ、それから善えだの惡いだのつて膨れたり何つかすんぢやねえぞ、なあ」勘次は又
「よき汝はおとつゝあが側に居るんだぞ、えゝか、※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、109-8]は此から汝が衣物拵えんでお針に行くんだかんな、聽かねえと酷えぞ」と與吉を抱いて能くいひ含めた。
おつぎはそれから村内へ近所の娘と共に通つた。おつぎは與吉の小さな單衣を仕上げた時其の風呂敷包を抱へていそ/\と歸つて來た。おつぎは針持つやうに成つてからはき/\として俄にませて來たやうに見えた。おつぎはもう十六である。辛苦の間に在る丈に去年からでは何れ程大人びて勘次の助に成るか知れない。殊に秋の頃に成つてからは滅切機轉も利くやうになつて、死んだお品に似て來たと他人にはいはれるのであるが、毎日一つに居る自分にもさういへば身體の恰好までどうやらさう見えて來たと勘次も心で思つた。おつぎは今が遊びたい盛りに這入つたのであるが、勘次からは一日でも唯一人で放されたことがない。村の休日には近所の女房に連れられて出て見ることもあるが、屹度與吉がくつゝいて居るのと、自分は炊事の間を缺かすことが出來ないのとで晝餐でも晩餐でも他人より早く歸つて來なければならない。
「俺らいつそもの日なんざ無え方がえゝ、さうでせえなけりや出てえた思はねえから」おつぎは熟呟くことがあつた。
「どうにか俺らだつて成つから」おつぎの呟くのを聞いて勘次は有繋に心が切なくなる。それで云ひやうが無くては恁うぶすりと云つて畢ふのであつた。
與吉は四つに成つた。惡戯も知つて來てそれ丈おつぎの手は省かれた。それでも與吉の衣物はおつぎの手には始末が出來ないので、近所の女房へ頼んではどうにかして貰つた。お品が生きて居ればそんな心配はまだ十六のおつぎがするのではない。おつぎは更に自分の衣物に困つた。短くなるばかりではなく綻びにさへおつぎは當惑するのである。
「お針出來なくつちや仕樣ねえなあ」おつぎは何時でも嘆息するのであつた。
「お針にでも何でも遣れる時にや遣つから、奉公にでも行つて見ろ、幾つに成つたつて碌なこと出來るもんか、十六位ぢや貧乏人はまあだ行けねえたつて仕やうがあるもんか、さう汝見てえに痩虱たかつたやうにしつきりなし云ふもんぢやねえ」
「おとつゝあはそんだつて奉公にでも行つてるものげは家で拵えてやんだんべな」
「そんだつてなんだつて遣れつ時でなくつちや遣れねえから」
十六ではまだ針を持たなくつてもいゝといふのはそれは無理ではない。然し勘次の家でおつぎの一向針を知らぬことは不便であつた。勘次もそれを知らないのではないが、今の處自分には其の餘裕がないのでおつぎがさういふ度に彼の心は堪へず苦しむので態と邪慳にいつて畢ふのであつた。其の冬になつてからもおつぎは十六だといふ内に直十七になつて畢ふと呟いたのであつた。
「春にでもなつたらやれつかも知んねえから」と勘次は其の度にいつて居た。おつぎは到底當にはならぬと心に斷念めて居たのであつた。それだけおつぎの滿足は深かつた。
或晩どうして記憶を復活させたかおつぎはふいといつた。
「井戸へ落した櫟根つ子は梯子掛けても取れめえか」
「何故そんなこといふんだ」勘次は驚いて目をつた。
「そんでも可惜もんだからよ」
「汝自分で梯子掛けて這入んのか」
「俺ら可怖から厭だがな」
「そんなこといふもんぢやねえ、又拘引れたらどうする、そん時は汝でも行くのか」勘次は恁ういつて苦笑した。
其晩は其れつ切り二人の間に噺はなかつた。
八
與吉が五つの春に成つた。ずん/\と生長して行く彼の身體はおつぎの手に重量が過ぎて居る。しがみ附いて居た筍の皮が自然に其の幹から離れるやうに、與吉は段々おつぎの手から除かれるやうに成つた。それでも筍の皮が竹の幹に纏つては横たはつて居るやうに、與吉がおつぎを懷しがることに變りはなかつた。
與吉は近所の子供と能く田圃へ出た。暖かい日には彼は單衣に換て、袂を後でぎつと縛つたり尻をぐるつと端折つたりして貰ふ間も待遠で跳ねて居る。
「堀の側へは行ぐんぢやねえぞ、衣物汚すと聽かねえぞ」おつぎがいふのを耳へも入れないで小笊を手にして走つて行く。田圃の榛の木はだらけた花が落ちて嫩葉にはまだ少し暇があるので手持なさ相に立つて居る季節である。田は僅に濕ひを含んで足の底に暖味を感ずる。耕す人はまだ下り立たぬ。白つぽく乾いた刈株の間には注意して見れば處々に極めて小さな穴がある。子供等は其の穴を探して歩くのである。彼等は小さな手を粘る土に込んでは兩手の力を籠めて引つ返す。其處には鰌がちよろ/\と跳返りつゝ其身を慌しく動かして居る。さうすると彼等は孰も聲を立てゝ騷ぎながら、其の小さな泥だらけの手で捉へようとしては遁げられつゝ漸くのことで笊へ入れる。鰌は其のこそつぱい笊の中で暫く其の身を動かしては落付く。他の鰌が又入れられる時先刻の鰌が一つに騷いでは落付く。彼等は斯うして其小さな穴を求めて田から田へ移つて歩く。土地ではそれを目掘りというて居る。與吉には幾ら泥になつても鰌は捕れなかつた。仲間の大きな子はそれでも一匹位づつ與吉の笊にも入れて遣るのであつた。それで彼は後れながらも他の子供に跟いて歩かずには居られなかつたのである。
堀には動かない水が空を映して湛へて居る處がある。さうかと思へば或は水は一滴もなくて泥の上を筋のやうに流れた砂の趾がちら/\と春の日を僅に反射して居る處がある。子供等は疎らな枯蘆の邊からおりて其處にも目掘りを試みる。大きな子供は大事な笊をそつと持ておりる。小さな子供は堀へおりながら笊を傾けて鰌を滾すことがある。大きな子供はそれつといつて惡戯に其を捕うとする。子供等は順次に皆それに傚はうとする。さうすると小さな小供は唯火の點いたやうに泣く。それと同時に鰌が小さな子供の笊に返されて子供は其鰌を覗くと共に其の泣く聲がはたと止つて畢ふのである。堀の粘ついた泥はうつかりすると小さな足を吸ひ附けて放さない。さうするとみんなが遁げるやうに岸へ上つて指を出して其の先を屈曲させながら騷ぐ。小さな子供は笊を手にした儘目には手も當ずに聲を放つて泣く。與吉は恁うして能く泣かされた。彼には寸毫も父兄の力が被つて居ない。頑是ない子供の間にも家族の力は非常な勢ひを示して居る。其家族が一般から輕侮の眼を以て見られて居るやうに、子供の間にも亦小さい與吉は侮られて居た。それでも與吉は歸りには小笊の底に鰌があるので悦んで居た。泣いた當座は萎れても彼は直に機嫌が出て、其僅な獲物の笊を誇つておつぎの側に來る時は何時もの甘えた與吉である。彼は何處へでもべたりと坐るので臀を丸出しにげてやつても衣物は泥だらけにした。それで叱られても泥の乾いた其臀を叩かれても、おつぎにされるのは彼にはちつとも怖ろしくなかつた。彼は小言は耳へも入れないで「※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、114-8]よう見ろよう」と小笊を枉げてはちよこ/\と跳ねるやうにして小刻みに足を動かしながらおつぎの譽める詞を促して止まない。
彼は餘りに悦んで騷いでひよつとすると危い手もとで鰌を庭へ落す事がある。鰌は乾いた庭の土にまぶれて苦しさうに動く。與吉が抑へようとする時鷄がひよつと來て嘴で啄いて駈けて行つて畢ふ。他の鷄がそれを追ひ掛ける。與吉はさうすると又一しきり泣くのである。
「汝あんまりうつかりしてつかんだわ」おつぎは笑ひながら、立つてる與吉の頭を抱いてそれから手水盥へ水を汲んで鰌を入れて遣る。與吉は水へ手を入れては鰌の騷ぐのを見て直に聲を立てて笑ふ。おつぎはさうして置いて泥だらけの手足を洗つてやる。
與吉は時々鰌を持つて來た。おつぎは衣物の泥になるのを叱りながらそれでも威勢よく田圃へ出してやつた。其の度に他の子供等の後から
「泣かさねえでよきことも連れでつてくろうな」といふおつぎの聲が追ひ掛けるのであつた。僅な鰌は味噌汁へ入れて箸で骨を扱いて與吉へやつた。自分では骨と頭とを暫く口へ含んでそれから捨てた。
田がそろ/\と耕されるやうに成た。子供等は又一つ/\の塊に耕された田を渡つて、其塊の上を辷りながら越えながら、極めて小さい慈姑のやうなゑぐの根をとつた。それは土地では訛つてゑごと喚ばれて居る。そこらの田にはゑぐが多いので秋の頃に成ると茂つた稻の陰に小さな白い花が咲く。與吉も他の子供のするやうに小笊を持て出た。鰌とは違つて此れは彼の手にも僅づゝは採ることが出來た。少しづゝ採ては毎日のやうに蓄へた。おつぎは茶を沸す度にそれを灰の中へ投げ込んで燒いてやる。火を弄ることが危いので與吉は獨りで竈へ手をつけることは禁ぜられて居る。灰の中へ入れたばかりで與吉は
「よう/\」といつておつぎに迫る。與吉は燒ける間が遲緩しいのである。
「そんなに燒けめえな、そんぢや※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、115-14]は構あねえぞ」とおつぎはゑぐを掻き出して遣る。與吉は口へ入れてもまだがり/\で且苦いので吐き出して畢ふ。
「そうら見ろ、大けえ姿していふこと聽かねえから」おつぎは怒つたやうな容子をして見せる。
「※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、116-2]よ、よう」と與吉は又強請む。其の時はもう皮に皴が寄つて燒けたゑぐが與吉の手に載せられる。
「汝熱えぞ」とおつぎがいへば與吉は手を引いてゑぐは土間へ落ちる。それを又手に載せてやると與吉はおつぎがするやうにふう/\と灰を吹く。與吉は後も後もとおつぎにせがんで、勘次に呶鳴られては止めるのである。
蓄へられたゑぐが小笊に一杯に成つた時おつぎは小笊を手に持つて
「よきげ此煮てやつぺか、砂糖でも入たら佳味かつぺな」獨語のやうにいつた。
「煮てくろうよう」與吉はそれを聞いて又せがんでおつぎへ飛びついて、被つて居る手拭を引つ張つた。おつぎは
「おゝ痛えまあ」と顏を蹙めて引かれる儘に首を傾けていつた。亂れた髮の三筋四筋が手拭と共に強く引かれたのである。
「其もの鹽でゞも茹てやれ」勘次は俄に呶鳴つた。
「砂糖だなんて、默つてれば知らねえでるもの、泣かれたらどうすんだ、砂糖だの醤油だのつてそんなことしたつ位なんぼ損だか知れやしねえ、おとつゝあ等そんな錢なんざ一錢だつて持つてねえから、鹽だつて容易なもんぢやねえや、そんな餘計なもの何になるもんぢやねえ」勘次は反覆して叱つた。與吉はおつぎの陰へ廻つて抱きついた。
「どうしたもんだんべまあ、ぢつき怒んだから」おつぎは小言を聞いて呟いた。
「そんだつて、おとつゝあ等そんな處ぢやねえから」勘次はがつかり聲を落していつた。さうして沈默した。
おつぎもお品が死んでから苦しい生活の間に二たび春を迎へた。おつぎは餘儀なくされつゝ生活の壓迫に對する抵抗力を促進した。餘所の女の子のやうに長閑な春は知られないでおつぎは生理上にも著るしい變化を遂げた。お品が死んだ時はおつぎはまだ落葉を燻べるとては竹の火箸の先を直ぐに燃やして畢ふ程下手な子であつた。それが横にも竪にも大きくなつて、肌膚もつやゝかに見えて髮も長くなつた。おつぎの家の後の崖のやうに成つた處からは村のものが能く黄色な粘土を採つた。髮が黏るやうになるとおつぎは其の粘土をこすりつけて、肌ぬぎになつた儘黄色く染まつた頭を井戸の側で洗ふのである。さうして其のふつさりとした髮は二度梳く處は三度梳くやうに成つた。おつぎは又髮へつける胡麻の油を元結で縛つた小さな罎へ入れて大事に藏つて置くのである。短い期間ではあるが針持つやうになつてからは赤い襷も絎けた。半纏も洗濯した。どうにか自分の手で仕上げた身丈に足りる衣物を着ておつぎは俄に大人びたやうに成つた。田や畑に出る時にはまだ糊のぬけない半纏へ赤い襷を肩から掛けて勘次の後に跟いて行く。おつぎは仕事にかゝる時には其の半纏はとつて木の枝へ懸ける。おつぎの姿は漸く村の注目に値した。
春の野を飾つて黄色な布を掩うたやうな菜の花も、春らしい雨がちら/\と降つて霜に燒けたやうな葉が滅切と青みを加へて來た頃は其開いた葉の心部には只僅な突起を見出す。然しそこには蕾が明かに形を成して居るのである。空からは暖かい日光が招いて土からは長い手がずん/\とさし扛げては更に長くさし扛げるので其の派手な花が麥や小麥の穗にも沒却されることなく廣い野を占めるのである。おつぎも其の心部に見える蕾であつた。然し其蕾はさし扛げられないのみではなく壓へる手の強い力が加へられてある。勘次は寸時もおつぎを自分の側から放すまいとして居る。隨つて空の日光が招くやうに女の心を促すべき村の青年との間にはおつぎは何の關係も繋がれなかつた。おつぎが十七といふ年齡を聞いて孰れも今更のやうに其の注意を惹起したのである。冬の季節に埃を捲いて來る西風は先づ何處よりもおつぎの家の雨戸を今日も來たぞと叩く。それは村の西端に在るからである。位置がさういふ逐ひやられたやうな形に成つて居る上に、生活の状態から自然に或程度までは注意の目から逸れて日陰に居ると等しいものがあつたのである。勘次の監督の手は蕾の成長を止める冷かな空氣で、さうして之を覗ふものを防遏する堅固な牆壁である。然し春の季節を地上の草木が知つた時、どれ程白く霜が結んでも草木の活力は動いて止まぬ如く、おつぎの心は外部から加へる監督の手を以て奪ひ去ることは出來ない。
おつぎは勘次の後へ跟いて畑へ往來する途上で紺の仕事衣に身を堅めた村の青年に逢ふ時には有繋に心は惹かされた。肩にした鍬の柄へおつぎは兩手を掛けて居る。其握つた手に頬を持たせるやうにして、おつぎは幾らか首を傾けつゝ手拭の下から黒い瞳で青年を見るのであつた。勘次は後から跟いて來るおつぎの態度まで知ることは出來なかつた。おつぎは數次さうして村の青年を見た。然し一語も交換する機會を有たなかつた。おつぎはどうといふこともなく寧ろ殆ど無意識に行き交ふ青年を見るのであつたが、手拭の下に光る暖かい二つの瞳には情を含んで居ることが青年等の目にも微妙に感應した。恁うしておつぎもいつか口の端に上つたのである。それでも到底青年がおつぎと相接するのは勘次の監督の下に白晝往來で一瞥して行き違ふ其瞬間に限られて居た。それ故一般の子女のやうではなくおつぎの心にも男に對する恐怖の幕を無理に引拂はれる機會が嘗て一度も與へられなかつた。おつぎは往來を行くとては手拭の被りやうにも心を配る只の女である。それが家に歸れば直に苦しい所帶の人に成らねばならぬ。そこにおつぎの心は別人の如く異常に引き緊められるのであつた。
復爽かな初夏が來て百姓は忙しくなつた。おつぎは死んだお品が地機に掛けたのだといふ辨慶縞の單衣を着て出るやうに成つた。針を持つやうに成つた時おつぎは此も自分の手で仕上たのであつた。夫は傍で見て居ては危な相な手もとで幾度か針の運びやうを間違つて解いたこともあつたが、遂には身體にしつくり合ふやうに成つて居た。死んだお品はおつぎが生れたばかりに直に竈を別にして、不見目な生計をしたので當時は晴の衣物であつた其の單衣に身を包んで見る機會もなく空しく藏つた儘になつて居たのである。それに其の頃は紺が七日からも經たねば沸ないやうな藍瓶で染られたので、今の普通の反物のやうな水で落ちないかと思へば日に褪めるといふのではなく、勘次がいつたやうに洗濯しても却て冴えるやうなので、それに地質もしつかりと丈夫なものであつた。おつぎが洗ひ曝しの袷を棄てゝ辨慶縞の單衣で出るやうに成つてからは一際人の注目を惹いた。例の赤い襷が後で交叉して袖を短く扱あげる。其扱きあげられた肩は衣物の皴で少し張つて身體を確乎とさせて見せる。現れた腕には紺の手刺が穿たれてある。漸く暑い日を厭うておつぎは白い菅笠を戴いた。白い菅笠は雨に曝されゝばそれで破れて畢ふので、夏のはじめには屹度何處でも新しいのに換られるのである。おつぎは勘次に引かれて麥の畦間を耕した。鍬を入れるのが手後れになつた麥は穗が白く出て居る。時々立つて鍬に附いた土を足の底で扱きおろすおつぎの姿がさや/\と微かな響を立てゝ動く白い穗の上に見える。餘所を一寸見る度に大きな菅笠がぐるりと動く。菅笠は日を避けるのみではなく女の爲には風情ある飾である。髮には白い手拭を被つて笠の竹骨が其の髮を抑へる時に其處には小さな比較的厚い蒲團が置かれてある。さういふ間隔を保つて菅笠は前屈みに高く据ゑられるのである。女等は皆少時の休憩時間にも汗を拭ふには笠をとつて地上に置く。一つには紐の汚れるのを厭うて屹度倒にして裏を見せるのである。さうして厚い笠蒲團の赤い切が丸く白い笠の中央に黒い絎紐と調和を保つのである。おつぎの笠蒲團は赤や黄や青の小さな切を聚めて縫つたのであつた。然しおつぎの帶だけは古かつた。餘所の女の子は大抵は綺麗な赤い帶を締めて、ぐるりとげた衣物の裾は帶の結び目の下へ入れて只管に後姿を氣にするのである。一杯に青く茂つた桑畑抔に白い大きな菅笠と赤い帶との後姿が、殊には空から投げる強い日光に反映して其の赤い帶が燃えるやうに見えたり、菅笠が更に大きく白く光つたりする時には有繋に人の目を惹かねばならぬ。彼等の姿は斯くして遠く隔てゝ見るべきものであるが然しながら其の近づいた時でも、跳ねあげられた笠の後には兩頬へ垂れてさうして其の黒い絎紐で締められた手拭の隙間から少し亂れた髮が覗いて居て其處にも一種の風情が發見されねばならぬ。
雨を含んだ雲が時々遮るとはいへ、暑い日のもとに黄熟した麥が刈られた時畑はからりと成つて境木に植られてある卯木のびつしりと附いた白い花が其處にも此處にも目に立つて、俄に濶々としたことを感ずると共に支へるものが無くなる丈目に入る女の姿が殖えるのである。彼等は少時の休憩にも必ず刈り倒した麥を臀に敷いて其の白い卯木の下に僅でも日を避ける。
到底彼等の白い菅笠と赤い帶とは廣い野を飾る大輪の花でなければならぬ。其の一つの要件がおつぎには缺けて居た。
暑い氣候は百姓の凡てを其狹苦い住居から遠く野に誘うて、相互に其青春のつやゝかな俤に憧憬しめるのに、さうして刺の生えた野茨さへ白い衣を飾つて快よいひた/\と抱き合ては互に首肯きながら竭きない思を私語いて居るのに、おつぎは嘗て青年との間に一語を交へることさへ其權能を抑へられて居た。孰れにしてもおつぎの心には有繋に微かな不足を感ずるのであつた。勘次は洗ひ曝しの襦袢を褌一つの裸へ引つ掛て、船頭が被るやうな藺草の編笠へ麻の紐を附けて居る。
勘次に導かれておつぎは仕事が著るしく上手になつた。おつぎが畑へ往來する時は村の女房等は能くいつた。
「何ちう、おつかさまに似て來たこつたかな、歩きつきまでそつくりだ」
「雀斑がぽち/\してつ處までなあ」お品には目と鼻のあたりに雀斑が少しあつたのである。おつぎにも其れがその儘で嫣然とする時にはそれが却て科をつくらせた。
「勘次さん譯のねえもんだな、まあだ此間だと思つてたのにな、嫁にやつてもえゝ位ぢやねえけえ、お品さんもおめえ此位の時ぢやなかつたつけかよ」女房等は又揶揄半分に恁ういふこともいつた。おつぎは勘次がさういはれる時何時も赤い顏をして餘所を向いて畢ふのである。勘次はお品のことをいはれる度に、おつぎの身體をさう思つては熟々と見る度に、お品の記憶が喚返されて一種の堪へ難い刺戟を感ぜざるを得ない。それと同時に女房が欲しいといふ切ない念慮を湧かすのである。遠慮の無い女房等にお品の噺をされるのは徒らに哀愁を催すに過ぎないのであるが、又一方には噺をして見て貰ひたいやうな心持もしてならぬことがあつた。
「勘次さんどうしたい、えゝ鹽梅のが有んだが後持つてもよかねえかえ」と彼に女房を周旋しようといふ者はお品が死んでから間もなく幾らもあつた。勘次は只お品にのみ焦れて居たのであるが、段々日數が經つて不自由を感ずると共に耳を聳てゝさういふ噺を聞くやうに成つた。然し其噺をして聞かせる人々は勘次の酷い貧乏なのと、二人の子が有るのとで到底後妻は居つかれないといふ見越が先に立つて、心底から周旋を仕ようといふのではない。唯暇を惜しがる勘次が何處へでも鍬や鎌を棄てゝ釣込まれるので遂惡戯にじらして見るのである。殊におつぎが大きくなればなる程、其の働きが目に立てば立つ程後妻には居憎い處だと人は思つた。貧乏世帶へ後妻にでもならうといふものには實際碌な者は無いといふのが一般の斷案であつた。他人は只彼の心を苛立たせた。さうして彼の尋常外れた態度が、却て惡戯好きの心を挑發するのみであつた。
「まゝよう、まゝようでえ、まゝあな、ら、ぬう」
勘次は小聲で唄うて行くのがどうかすると人の耳にも響くやうに成つた。
其の頃は勘次の庭の栗の梢も、それへ繁殖して残酷に葉を喰ひ荒す栗毛蟲のやうな毒々しい花が漸く白く成つて、何處の村落にもふつさりとした青葉の梢から栗の木が比較的に多いことを示して其の白い花が目についた。村落を埋めて居る梢からふわ/\と蒸氣が立ち騰らうといふ形に栗の花は一杯である。空は降らないながらに低い雲が蟠つて、時々目に鮮かで且黒ずんだ青葉の上にかつと黄色な明るい光を投げる。何處となく濕つぽく頭を抑へるやうに重苦しい感じがする。
悉く畑へ走つた村落の内には稀にさういふ青葉の間に鯉幟がばさ/\と飜つてはぐたりと成つて、それが朝から永い日を一日、さうして其の家族が日は沒したにしても何時になくまだ明るい内に浴みをして女までが裂いた菖蒲を髮に卷いて、忙しい日と日の間をそれでも晴衣の姿になる端午の日の來るのを懶げに待つて居る。さういふ青葉の村落から村落を女の飴屋が太皷を叩いて歩いた。明屋ばかりの村落を雨が降らねば女は端から端と唄うて歩く。勘次が唄うたのは其の女の唄である。女は聲を高く唄うては又聲を低くして其の句を反覆する。其の唄ふ處は毎日唯此の一句に限られて居た。女は年増で一人の子を負うて居る。鬼怒川を徃復する高瀬船の船頭が被る編笠を戴いて、洗ひ曝しの單衣を裾は左の小褄をとつて帶へ挾んだ丈で、飴は箱へ入れて肩から掛けてある。暮い日は笠の編目を透して女の顏に細い強い線を描く。女の顏は窶れて居た。子は概ね眠つて居た。耳もとで鳴る太皷の喧しい音とお袋の唄ふ聲とがいつとはなしに誘つたのであつたかも知れぬ。首は寧ろ倒に垂れて額がいつでも暑い日に照られて汗ばんで居た。百姓は皆此の見窄しい女を顧みなかつた。村落から村落へ野を渡る時女の姿は人目を惹くべき要點が一つも備はつて居なかつた。然しいつの間にか人が遠くより見るやうに成つた。行き違ふ女房等は額に照られて眠つて居る子を見て痛々敷と思ふのであつた。女は唄はなくても太皷の音が村落の子を遠くから誘ふのに氣の乘らぬ唄ひやうをして只其の一句を反覆のである。女は背中の子が眠つて居るのを悦んで其の子が什姿であるかは心付かない。只小さな銅貨を持つて走つて來る村落の子を待ちつゝ誘ひつゝ歩くのである。女は何處から出てどう行くといふことも忙しく只田畑に勞働して居る百姓の間には知られなかつた。毎日さうして歩いて居た女が知りたがり聞きたがる女房等の間に、各自に口喧しい陰占を逞しくされると間もなく、或日村外れの青葉の中へ太皷の音と唄の聲とが遠く微かに沒し去つた切り、軈て梅雨が夥しく且つ毒々しい其の栗の花の腐るまではと降り出したので其の女の穢げな窶れた姿は再び見られなかつた。
勘次は耳の底に響いた其の句を獨り感に堪へたやうに唄うては行くのである。彼は自分の聲が高いと思つた時他人に聞かれることを恥づるやうに突然あたりを見ることがあつた。曲り角でひよつと逢ふ時それが口輕な女房であれば二三歩行り過しては
「どうしたえ、勘次さん彼女げ焦れたんぢやあんめえ、尤も年頃は持つゝけだから連つ子の一人位は我慢も出來らあな、そんだがあれつ切り來なくなつちやつて困つたな」と遠慮もなく揶揄うては、少し隔たると態と聲を立てゝ其の句を唄つたりする。さうすると勘次は家に歸るまで一句も唄はない。然し彼は暫くそれを唄ふことを止めなかつた。
彼は只女房が欲い/\とのみ思つた。
九
勘次は依然として苦しい生活の外に一歩も遁れ去ることが出來ないで居る。お品が死んだ時理由をいうて借りた小作米の滯りもまだ一粒も返してない。大暑の日が井戸の水まで減らして炒りつける頃はそれまでに幾度か勘次の※桶[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、126-10]は空に成るのである。彼は一般の百姓がすることは仕なくては成らないので、殊には副食物として必要なので茄子や南瓜や胡瓜やさういふ物も一通りは作つた。彼は村外れの櫟林の側に居たので自分の家の近くにはさういふ物を作る畑が一枚もなかつた。それでも胡瓜だけは垣根の内側へ一列に植ゑて後の林に交つた短い竹を伐つて手に立てた。竹の立つてる林は彼の所有ではないけれど、彼は恁うして必要の度毎に強ひては隱さない盜みを敢てするのである。南瓜も庭の隅へ粟幹で圍うた厠の側へ植ゑた。それから庭の栗の木へも絡ませた。茄子だけは遠い畑の麥の畦間へ植ゑた。彼は甘藷の外には到底さういふ凡ての苗を仕立てることが出來ないので、又立派な苗を買ひに行く丈の餘裕もないので、容子から見れば近村ではあるが何處とも確乎とは知れない天秤商人からそれを求めた。天秤商人の持つて來るのは大抵屑ばかりである。それでも勘次は廉いのを悦んだ。彼は其の僅な錢を幾度か勘定して渡した。
麥が刈られて其の束が兩端を切つ殺いだ竹の棒へ透して畑の外へ擔ぎ出された時、趾には陸稻や大豆がひよろ/\と青ばんだ畑に勘次の茄子は短い畝が五畝ばかりになつて立つて居た。下葉は黄色くなつて居たがそれでも麥が暫く日を掩うたので皆根づいて生長しかけて居た。假令痩せさせないまでも肥して行くことをしない畑の土に茄子は干稻びてそれで處々に一つ宛花を持つて居た。勘次は朝のまだ凉しい、葉に濕りのある間に竈の灰を持つて行つて其の葉に掛けて遣る丈の手數は竭したのである。それで幾らでも活溌に運動する瓜葉蟲は防がれた。それは羽が赤いので赤蠅と土地ではいつて居る。木の灰では油蟲の湧くのはどうも出來なかつた。それから又根切蟲が残酷に堅い莖を根もとからぷきりと噛み倒して植た數の減るにも拘らず、彼は遠く畑に出て土に潜伏して居る其憎むべき害蟲を探し出して其丈夫な體をひしぎ潰して遣る丈の餘裕を身體にも心にも持つて居ない。垣根の胡瓜は季節の南が吹いて、朝の靄がしつとりと乾いた庭の土を濕しておりると何を僻んでか葉の陰に下る瓜が、萎んだ花のとれぬうちに尻が曲つて忽ちに蔓も葉もがら/\に枯て畢つたのであつた。只南瓜だけは其の特有の大きな葉をずん/\と擴げて蔓の先が忽ちに厠の低い廂から垂れた。殊に栗の木に絡んだのは白晝の忘れる程長い間雨戸は閉ぢた儘で、假令油蝉が炒りつけるやうに其處らの木毎にしがみ附いて聲を限りに鳴いたにした處で、凡てが暑さに疲れたやうで寧ろ極めて閑寂な庭を覗いては、葉の陰ながら段々に日に燒けつゝ太りつゝ臀の臍を剥き出してどつしりと枝から垂れ下つた。それが僅に庭に威勢をつけて居る。
一般にさうではあるが殊に勘次の手に作られた蔬菜は凡て其の成熟が後れた。それで其の蔬菜が庖丁にかゝる間は口にこそつぱい干菜や切干やそれも缺乏を告げれば、此れでも彼等の果敢ない貯蓄心を最も發揮した菜や大根の鹽辛い漬物の桶にのみ其の副食物を求めるのである。彼等は勞働から來る空腹を意識する時は一寸も動くことの出來ない程俄に疲勞を感ずることさへある。什麁末な物でも彼等の口には問題ではない。彼等は味ふのではなくて要するに咽喉の孔を埋めるのである。冷水を注いで其のぼろ/\な麥飯を掻き込む時彼等の一人でも咀嚼するものはない。彼等は只多量に嚥下することによつて其の精力を恢復し滿足するのである。牛や馬でも地上に軟かな草の繁茂する季節が來れば自然に乾草や藁を厭ふやうになる。それが貧しい生活の人人のみは恁うして甘んじて居ることを餘儀なくされつゝあるのである。
然し孰れも發汗に伴うて渇した口に爽かな蔬菜の味を欲しないものはない。貧苦に惱んでさうして其の蔬菜の缺乏を感じて居るものは勘次のみではない。さういふ伴侶の殊に女は人目の少い黄昏の小徑につやゝかな青物を見ると遂した料簡からそれを拗切つて前垂に隱して來ることがある。畑の作主が其損失以外にそれを惜む心から蔭で勢ひ激しく怒らうともそれは顧みる暇を有たない。勘次の痩せた茄子畑もさうして襲はれた。其の莖を痛めても構はぬ拗切りやうを見て失望と憤懣の情とを自然に經驗せざるを得なかつた。然しながら彼はつく/″\と忌々敷い其心持に熟して居ながら自分も亦他の虚に乘ずることを敢てするのであつた。一つにはどうで他人にも盜られるのだからといふ自暴自棄の理窟が心のうちに捏造されるのである。一つには良心の苛責を餘所にしてさうして又それが何處までも發見せられないものであるならば他人の物を盜ることは口腹の慾を滿足せしむるには容易で且輕便な手段でなければならぬ筈である。恁ういふ理由で比較的餘裕のある百姓よりも貧乏な百姓は十分早く然かも數次其の新鮮な蔬菜を味ふのである。偶市場に遠く馬の脊で運ぶ者は其の成熟の期を早めたつやゝかな數が幾ら有つても自分の口には入れない。少しづゝでも他の必要品を求める爲に錢に換へようとするのである。季節が熟さねば收穫の多量を望むことが出來ないので、彼等が食料として畑へ手をつけるのは凡てが存分の生育を遂げた後でなければならぬ。其處が相互に盜むものをして乘ぜしめる機會である。
與吉は能く貧乏な伴侶の子が佳味相に青物を噛つて居るのを見ておつぎに強請むことがあつた。勘次の家ではどうかすると朝に成つて大きな南瓜が土間に轉がつて居ることがある。それで庭の南瓜は一つも減つて居ない。
「こらどうしたんでえおとつゝあ」與吉は悦んで危な相に抱いては聞く。
「弄んぢやねえ」勘次は只恐ろしい目をして叱るやうに抑へる。勘次はまだ肌の白く且薄赤味を帶びた人形の手足のやうな甘藷を飯へ炊き込むことがあつた。
「佳味えな」とおつぎがいつた時
「〆粕で作つからよ」勘次はいつた。
「旦那ぢや、〆粕許り使あんだつぺか」おつぎは自分の知らぬ不廉な肥料のことに就いて聞いた。勘次は氣がついて
「甘藷喰たなんていふんぢやねえぞ」與吉を警めた。勘次は彼の大豆畑の近くに隣の主人の甘藷畑とそれから其の途中に南瓜畑があつたので、他の畑のものよりも自然にそれを盜つた。少しづつ盜つた。南瓜は晝間見て置いて夜になるとそつと蔓を曳いて所在を探すのである。甘藷は土を掻つ掃いて探し掘りにするのは心が忙し過ぎるのでぐつと引き拔く。彼は日中甘藷畑の側を過ぎては自分の荒した趾を見て心に酷いとは思ふのであるがそれを埋て置くには心が咎めた。恁ういふ伴侶は千菜荒しといふ名稱の下に喚ばれた。
與吉は獨で村を遊んで歩いた。秋が深けて甘藷が蒸されるやうに成つた。與吉は能くさういふ處へ行つては欲し相な顏をして默つて見て居るので何處でも熱い甘藷が與へられるのであつた。或時彼は
「俺らあ家で甘藷くつたなんてゆはねえんだ」甘藷を手に持つて怖づ/\いつた。彼は只嬉しかつたのである。
「何故ゆはねえんだ」與へた人は聞いた。
「何故でもだ」
「そんぢやえゝ、其甘藷取つ返しつちまあから」と驚かされて
「そんでも俺家のおとつゝあ甘藷喰つたなんてゆふんぢやねえぞつて云つたんだ」與吉は媚びるやうな容子でいつた。
「よきら家の甘藷うめえか」
「旦那のがはうめえつて云つたんだ」
「おとつゝあ云たのか※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、131-15]云たのか」
「※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、132-1]ぢやねえ、おとつゝあだ」
「おとつゝあは家で甘藷くつて旦那のがうめえつちつたのか」
「さうなんだわ」無心な與吉は誘ひ出されるまゝにいつて畢つた。然し相互に畑を荒しては、痩せた骨身を噛り合うて居るやうな彼等の間にこんなことが無ければ殊更に勘次ばかりが注目されるのではなかつたのである。
一〇
秋も朝は冷かに成つた。稻の穗は北が吹けば南へ向いたり、南が吹けば北へ向いたりして其の重相な首を止まず動かしてはさら/\と寂しく笑ひはじめた。強い秋の雨が一夜ざあ/\と降つた。次の日には空は些の微粒物も止めないといつたやうに凄い程晴れて、山も滅切り近く成つて居た。しつとりと落付いた空氣を透して、日光が妙に肌膚へ揉み込むやうに暖かで且つ暑かつた。春のやうな日に騙されて雲雀は、そつけない三稜形の種が膨れつゝまだ一杯に白い蕎麥畑やそれから陸稻畑の上に囀つた。それでも幾らか羽の運動が鈍く成つて居るのか春のやうではなく低く徘徊うて皺嗄れた喉を鳴らして居る。周圍の臺地からは土瓶の蓋をとつて釣瓶をごつと傾けたやうに雨水が一杯に田に聚つて稻の穗首が少し浸つた。田圃も堀も一つに成つた水は土瓶の口から吐き出すやうに徐に低い田へと落る。村落の子供等は「三平ぴいつく/\」と雲雀の鳴聲を眞似しながら、小笊を持つたり叉手を持つたりしてぢやぶ/\と快よい田圃の水を渉つて歩いた。其處には又此れも春のやうな日に騙されて、疾から鳴かなく成つて居た蛙がふわりと浮いてはこそつぱい稻の穗に捉りながらげら/\と鳴いた。一杯に塞がつて居る稻の穗の下をそろ/\と偃ひながら水が低く成つた時秋の日は落ち掛けた。さうして什時でも其の本能を衝動る機會があれば鳴くのだといつて待つて居る其の蛙もひつそりとした。大雨の後の畑へは百姓は大抵控へ目にして出なかつた。
勘次は黄昏近くなつてから獨で草刈籠を背負つて出た。彼は何時もの道へは出ないで後の田圃から林へ、それから遠く迂廻して畑地へ出た。日はまだほんのりと明るかつたので勘次はそつちこつちと空な草刈籠を背負つた儘歩いた。彼は其れでも良心の苛責に對して編笠で其の顏を隔てた。日がとつぷりと暮れた時彼は道端へ草刈籠を卸した。其處には畑の周圍に一畝づつに作つた蜀黍が丈高く突つ立つて居る。草刈籠がすつと地上にこける時蜀黍の大な葉へ觸れてがさりと鳴つた。更に其葉は何處にも感じない微風に動搖して自分のみが怖たやうに騷いで居る。穗は何を騷ぐのかと訝るやうに少し俯目に見おろして居る。勘次は菜切庖丁を取出して、其高い蜀黍の幹をぐつと曲ては穗首に近く斜に伐つた。穗は勘次の手に止つて幹は急に跳ね返つた。さうして戰慄した。勘次は重く成つた草刈籠を背負つて今度は野らの道を一散に自分の家へ歸つた。次の朝勘次は軒端へ横に竹を渡して、ゆつさりとする其の穗を縛つて打つ違ひに掛けた。南へ低くなつた日が其れを覗くやうに射し掛けた。
其の日は孰れもいひ合せたやうに畑へ出た。一日照つたので畑は大抵ぱさ/\に乾いて居る。蜀黍の穗を伐りに出た村の一人は自分の畑がぞつくりと荒されて居るのを發見して驚いた。彼は畑へ來たなり穗は一本も伐らないで其の儘駐在所へ驅けつけた。巡査はそれでも直ぐに官服を着て被害者と一緒に現場へ來て見て伐られた穗の數を改めて手帖へ止めた。被害者が駐在所へ驅けつける間に、畑の遠くに離れ/″\に散らばつて居る百姓等は悉く其れを知つた。被害者は途次大聲を出して呶鳴つて行つたからである。なんでも昨夜遲く野らから歸るものが有つたといふがそれぢや其れに相違ないだらうといふことが傳へられた。勘次も畑へ出て居て騷ぎに成りはじめたのを知つた。彼は直に飛んで歸つて悉く蜀黍の穗を外して、そつと近くの林へ隱して筵を二枚ばかり掩うた。
「癖になつから、みつしら懲りらかした方がえゝ、俺方は畑が五月蠅くつて本當に仕やうねえ」
「見せしめに行つ時にや、こつぴどく行んなくつちやえかねえよ」
「村落の内ようく見せえすりや直に分らな、蜀黍なんぞ何處へ隱せるもんぢやねえ」
抔と近い畑同士は呶鳴り合つた。其の聲は被害者の耳にも這入つてむか/\と激した其の心に勢ひを附けた。
「數が分つたらもう後へ手を附けてもえゝ」巡査は畑を去つた。
「わしも行つて見あんせう、自分の畑のがは一目見りや分りあんすから」恁ういつて被害者は蜀黍の穗を二三本持つて村落へ戻つた。巡査は其處ら此處らと二三軒見て歩いて勘次の庭へ立つた。それは勘次は二三の者と共に巡査の注意人物であつたからである。然し彼の貧しい建物の何處にも隱匿される餘地を發見することが出來なかつた。其の時は勘次が餘所へ運んだ後なのである。巡査は檐に渡した竹の棒を見て
「此りやどうするんだい」と聞いた。被害者は先刻から雨垂の水で土の窪んだあたりを見て居たが
「はてな」と首を傾けて
「蜀黍粒落つてあんすぞ、さうすつと此處へ引つ懸けたの又何處へか持つてつちやつたな」被害者はいつた。巡査は首肯いた。
「此の粒でがすから、わしがに相違ありあんせん、彼等がな此んなに出來つこねえんですから、それ證據にや屹度自分の畑のがな一つ穗でも伐つちやねえから見さつせ、わしが此んでも〆粕入えて作つたんでがすから」被害者は熱心にいつた。勘次は其時不安な態度でぽつさりと自分の庭に立つた。彼は既に巡査の檐下に立つてるのを見て悚然とした。
「勘次、此の竹はどうしたんだな」巡査は横目に勘次を見ていつた。
「わし此らあ、蜀黍伐つて引つ懸けべと思つたんでがす」
「うむ、此の粒の零れたのはどうしたんだ、蜀黍なんだらう此れは」
「へえ、なに、わしが一攫み引つ扱いて來て見たの打棄つたんでがした」勘次は恁ういつて蒼く成つた。巡査は更に被害者に勘次の畑を案内させた。悄然として後に跟いて來る勘次を要はないからと巡査は邪慳に叱つて逐ひやつた。勘次の畑の蜀黍は被害者がいつたやうに、情ないやうな見窄らしい穗がさらりと立つてそれでも其の恐怖心に驅られたといふやうに特有な一種の騷がしい響を立てつゝあつた。穗は一つも伐つてはなかつた。
「此れだからわし云つたんでがす、ねえそれ、此の粒でがすかんね」被害者は威勢が出た。
「稻つ束擔ぐんだつて、わし等口へ出しちや云はねえが、ちやんと知つてんでがすから、さう云つちや何だが其ことするもなあ、極つたやうなもんですかんね」被害者は更に手柄でもしたやうにいつた。
「もう解つたから、それぢや自分の仕事をするがいい、後にわしが申報書を拵へて來て遣るから、それへ印形を捺せばそれで手續は濟むんだからな」巡査はさういつてさうして被害者が
「そんぢや、わし蜀黍隱して置く處見出あんすから、屹度有んに極つてんだから」といふ聲を後にして畑の小徑をうねりつゝ行つた。
「今度こさあ、捕縛つちや一杯に引つ喰らあんだんべ」畑同士は痛快に感じつゝ口々に恁ういふことをいつた。
「おつう俺らとつても今度駄目だよ」勘次は果敢ない自分の心持を唯一の家族であるおつぎの身體へ投げ掛けるやうに萎れ切つていつた。勘次は衷心から恐怖したのである。其れ程ならば何故彼は蜀黍の穗を伐ることを敢てしたのであつたらうか。彼は此れまでも畑の物を盜つたのは一度や二度ではない。其れは些少であつたが彼は盜りたくなつた時機會さへあれば何時でも盜りつゝあつたのである。彼は身を殺さうとまで其の薄弱な意思が少しのことにも彼を苦しめる時、彼を衝動つて盜性がむか/\と首を擡げつゝあつたのである。勘次はもう仕事をする處ではない。彼は到底寸時も其の家に堪へられなく成つて、隣の彼の主人に縋らうとした。其の閾を越すことが彼にはどれ程辛かつたか知れぬ。主人は不在であつた。
「お内儀さん、わしも又間違しあんしてどうも此れお内儀さん處へは閾が高くつて何でがすが、わし居なくでも成つちや子奴等仕やうがあせんから、助かれるもんならわしもはあ……」と彼はぐつたり首を俛れた。
主人の内儀さんは勘次が蜀黍を伐つたことはもう知つて居た。まだ癖が止まないかと一度は腹を立ても見たり惘れもしたりしたが、然し何處といつて庇護つてくれるものが無いので恁うして來るのだと、目前に其萎れた姿を見ると有繋に憐に成つて叱る處ではなかつた。それではどうか心配して見てやらうといはれて勘次は顏が蘇生つたやうに成つた。彼は何でも主人が盡力して呉れゝば成就すると思つて居るのである。それでも自分の家には居られないので、どうか隱してくれと彼は土藏へ入れて貰つた。勘次は其處でも不安に堪へないので其處に暫く使はずに藏つてある四尺桶へこつそりと潜つて居た。
巡査は午後に申報書の印を取りに來て勘次の家へ行つて見た。勘次は何處へ行つたと巡査に聞かれておつぎは只知らないといつた。さうして巡査の後姿が垣根を出た時竊に泣いた。
被害者は到頭隱匿した箇處を發見して巡査を導いた。雜木林の繁茂した間の、もう硬く成つた草の中へ蜀黍の穗は縛つた儘どさりと置いてあつたのである。其處にはもうそつけなくなつた女郎花の莖がけろりと立つて、枝まで折られた栗が低いながらに梢の方にだけは僅に笑んで居る。其の小さな芝栗が偶然落ちてさへ驚いて騷ぐだらうと思ふやうに薄弱な蟋蟀がそつちこつちで微かに鳴いて居る。一寸他人の目には觸れぬ場所であつた。穗を掩うた其の筵が勘次の所業であることを的確に證據立てゝ居た。
主人の内儀さんは一應被害者へ噺をつけて見た。被害者の家族は律義者で皆激し切つて居る。七十ばかりに成る被害者の老人が殊に頑固に主張した。
「泥棒なんぞする奴あ、わし大嫌でがすから、わし等畑の茄子引んつたんだつてちやんと知つちや居んでがすから、いや全くでがす、お内儀さん處の甘藷も盜りあんしたとも、ぐうづら蔓引つこ拔いて打棄つて、いや本當でがす、わしや嘘なんざあいふな嫌でがすから、其れ處ぢやがあせんお内儀さん、夜伐つて來て、朝つぱらに成つたらはあ引つ懸けたに相違ねえつちんでがすから、なにわしも筵打つ掛けた處見あんした、筵で分るから駄目でがす、いや全く酷え野郎でがすどうも」内儀さんは其れは豫期して居た。
「そりやさうさね、此の前も私の處で救つて遣つたのにそれに復たかうなんだから、まあ病氣さね此も、困つたもんだが然しあれを懲役に遣つて見た處で子供等が泣くばかりだからね、それにまあ本當いへば一つ村落に斯うして居るんだから先が困り切つてる内に勘辨して遣つたと成ると一生先は身がひけて居る道理だがそれが一杯の罪にでも落して見ると、先では帳消しにでも成つたやうな積で居まいものでもなし、さうすると敵一人拵へて置くやうなものだしね、他人に叩かれたのでは眠れるが、叩いたのでは眠れないとさへいふんだから、何でも後腹の病めない方が善いやうだがどうだね」
「そんでもお内儀さん、わしや卯平ことみじめ見せてんのが他人のこつても忌々敷んでさ、わしや血氣の頃から卯平たあ棒組で仕事もしたんでがすが、卯平はあんでもあれが嚊等育つ時分の事なんぞ思つちや疎末にや成んねえんでがすかんね、それお内儀さん卯平は幾つに成りあんすね、わし等だらなあに、あゝた野郎なんざあ槍でゝも何でも突つ刺しつちあんでがすがね」老人は憤慨に堪へぬやうに固めた拳を膝がしらへ當てゝいつた。
「尤もさねそりや、それだが腹の立つ時分は憎い奴だと思つても後悔する時が無いともいひないしね、少しのことで二代も三代も仲直りが出來ないやうな實例が幾らも世間には有るもんだからね」内儀さんは反覆していつた。然し容易に彼等の心は落居ない。暫く噺は途切て居た。
「遠くの方へ遣つたなんていつたつけがおりせは又孫が出來た相だね、今度のは男だつてそれでも善かつたねえ」
内儀さんは側に居た老母へ向いて突然恁ういひ掛けた。さうして内儀さんは冷たく成つて居た茶碗を手にした。其れを見て被害者の女房は土間へ駈けおりて竈の口へ火を點けてふう/\と火吹竹を吹いた。
「はあいさうでござりますよ、お内儀さんの厄介に成りあんしたつけが、あれも今ぢや大層えゝ鹽梅でがしてない、四人目漸とそんでも男でがすよ、お内儀さんに云あれた時にやわし等もはあ澁れえて居たんでがしたが、身上もあん時かんぢやよくなるしね、兄弟中で今ぢやりせが一番だつて云つてつ處なのせ、お内儀さんあれなら大丈夫だからつて云て呉れあんしたつけが婿も心底が善くつてね、爺婆げつて、わし等げ斯うた物遣しあんしたよ」老母は待ち構へてゞも居たやうに小風呂敷の包を解いて手織のやうに見える疎末な反物を出して手柄相に見せた。内儀さんは仕方ないといふ容子で反物へ手を掛けて
「それでも孫抱きには行つたかね」
「ほんに、わしや今日らお内儀さん處さ行くべと思つて居たら、何ちこつたか恁んな騷ぎではあ行くも出來ねえで、わしや昨日歸つて來た處なのせえ、お内儀さん」老母は幾らでも勢ひづいて饒舌らうとする。熱い茶が漸く内儀さんの前に汲まれた。被害者は老父と座敷の隅で先刻からこそ/\と噺をして居る。さうして更に老母を喚んだ。
「うむ、さうだともよ」といふ老母の聲がすると皆坐に直つて
「それぢや、お内儀さん、先刻のがなお内儀さんえゝやうに行つて見ておくんなせえ」被害者はいつた。
「わしや、一剋者だからお内儀さん惡く思はねえでおくんなせえ」老父もいつた。
「どうぞねえお内儀さん」老母もいつた。内儀さんはそれから又暫く雜談をして皆で笑つて歸つた。腹に在るだけのことをいはして畢へば彼等はそれだけ心が晴々として勢が段々鈍つて來るので、其間は機嫌もとつて見て、さうして極り切つた理窟も反覆して聞かせて居るうちにはころりと落ちて畢ふといふ其の呼吸を内儀さんは能く知つて居るのである。
其の夜おつぎは内儀さんに喚ばれて隣へ泊つた。内儀さんはおつぎと與吉を只二人其の家に置くには忍びなかつたのである。夜になつてから勘次は土藏から出されて傭人の側に一夜を明した。彼は未明に復土藏へ隱れた。内儀さんは傭人の口を堅く警めて外へ洩れないやうと苦心をした。其の日も巡査は勘次の家のあたりを徘徊したがそれでも其の東隣の門を叩いて穿鑿するまでには至らなかつた。内儀さんは什にしても救つて遣りたいと思ひ出したら其處に障害が起れば却てそれを破らうと種々に工夫も凝して見るのであつた。それで被害者の方の噺も極つたのだから此の上は警察の手加減に俟つより外に道は無いのであるが、不在であつた主人は其の日も歸らない。勘次は只管に主人の力に倚つてのみ救はれるものと念じて居る。内儀さんも主人を待ちあぐんで居る。さうして復夜が來た。内儀さんはもう凝然としては居られない。それでおつぎを連れて、提灯を點けて竊に土藏の二階へ昇つた。
「おとつゝあ」おつぎは聲を殺しながら力を入れていつた。勘次は返辭がない。おつぎは更に幾度か喚んでそれからお内儀さんが喚んだ時汚れた身體を桶の中から現はした。
「旦那がまだ歸らないのでね、警察の方の噺が出來ないで困つて居るんだが、どうだねお前警察へ出ても盜らないといひ切れるかね、さうすりや私が始末をして遣るがね」内儀さんはいつて聞かせた。
「へえ」勘次は只首を俛れて居る。
「どうだね」内儀さんは反覆した。
「わしがにや、とつても持ち切れあんせん」勘次は萎れて顫へて居る。
「おとつゝあは何ちんだんべな」おつぎは齒痒相にいつて一聲更に
「おとつゝあ」と力を入れて
「盜らねえつて云へよ、おとつゝあ」
おつぎは熱心に勘次を見た。
「そんでも俺、あすこへ出ちや、とつても白状しねえ譯にや行かねえよ」
「そんな料簡でなく私は自分のが伐つたんですつていへば、そんでいゝやうに始末してやるだから」内儀さんが力を附けて見ても勘次は只首を俛れて居る。
「さう云へせえすりやえゝつちのになあ、おとつゝあは」おつぎは落膽したやうにいつた。内儀さんとおつぎは恁うして熟睡した身體を直立せしめやうと苦心する程の徒な力を盡したのであつた。
傭人もすつかり眠りに落ちたと思ふ頃内儀さんとおつぎとの黒い姿が竊に裏の竹藪に動いた。落ちて居る竹の枝が足の下にぽち/\と折れて鳴つた。乾の方の垣根の側へ來た時に内儀さんは、垣根の土に附いた處を力任せにぼり/\と破つた。おつぎも兩手を掛けて破つた。幾年となしに隙間を生ずれば小笹を繼ぎ足し/\しつゝあつた竹の垣根は、土の處がどす/\に朽ちて居るので直に大きな穴が明いた。おつぎは其處から潜つて出た。突然ぱた/\とけたゝましい羽音が直頭の上で騷いだ。竹の梢に泊つて居た鳩が俄に驚いて遠く逃げたのである。
「さむしかないかい」内儀さんは垣根越しに聞いた。
「大丈夫ですよ、お内儀さん」おつぎは少し歩き掛けていつた。
「おやもうそつちの方へ行つたのかい、それぢや彼處を叩くんだよ」内儀さんはいつて分れた。おつぎは直に自分の裏戸口に立つた。そつと開けて這入つて見ると、自分の家ながらおつぎはひやりとした。塒の鷄は闇い中で凝然として居ながらくゝうと細い長い妙な聲を出した。鼠が二三匹がた/\と騷いで、何かで壓へつけられたかと思ふやうにちう/\と苦しげな聲を立て鳴いた。おつぎは手探りに壁際の草刈鎌を執つた。又そつと戸を閉てゝ出る時頸筋の髮の毛をこそつぱい手で一攫みにされるやうに感じた。おつぎは外の壁際の草刈籠を脊負つた。どうした機會であつたか此も壁際に立て掛けた竹箒が倒れて柄がかちつと草刈籠を打つた。おつぎはひよつと顧みた。
夜は闇である。凄く冴えた空へぞつくりと立つた隣の森の梢にくつゝいて天の川が低く西へ傾きつゝ流れて居る。
暫くしておつぎは自分等の手で作つた蜀黍の側に立つた。痩せた蜀黍は眠つたかと思ふやうにしつとりとして居ては、軈てざわ/\と鳴つた。おつぎは草刈鎌でざくり/\と其の穗を伐つた。さうしてぎつと押し込んで重く成つた草刈籠を脊負つた。其處らの畑には土が眼を開いたやうに處々ぽつり/\と秋蕎麥の花が白く見えて居る。おつぎは足速に臺地の畑から蜀黍の葉のざわつく小徑を低地の畑へおりて漸くのことで鬼怒川の土手へ出た。おつぎは四つ偃に成つて芝に捉りながら登つた。其の時おつぎの心には斜に土手の中腹へつけられた小徑を見出して居る程の餘裕がなかつたのである。土手の内側は水際から篠が一杯に繁茂して夜目にはそれがごつしやりと自分を壓して見える。篠の間から水がしら/\と見えて、篠の根を洗つて行く水の響がちろ/\と耳に近く聞える。おつぎは汀へおりようと思つて篠を分けて見ると其處は崖に成つて居て爪先から落ちた小さな土の塊がぽち/\と水に鳴つた。おつぎは更に篠を分けておりようとすると、其處も崖で目の前にひよつこりと高瀬船の帆柱が闇を衝いて立て居る。水に近くこそ/\と人の噺聲が聞える。黄昏に漸く其處へ繋つた高瀬船が、其處らで食料を求め歩いて遲く晩餐を濟してまだ眠らずに居たのであつたらう。それは高瀬船の船頭夫婦が、足りても足りなくても自分の家族の唯一の住居である其の舳に造られた箱のやうな狹いせえじの中で噺して居る聲であつた。乳呑兒の泣く聲も交つて聞えた。おつぎは後へ退去つた。おつぎは殆んど無意識に土手を南へ走つた。處々誰かゞ道芝の葉を縛り合せて置いたので、おつぎは幾度かそれへ爪先を引つ掛けて蹶いた。
土手の篠は段々に疎らに成つて水が一杯に見えて來た。鬼怒川の水は土手より遙に低く闇の底にしら/\と薄く光つて居る。夜の手は對岸の松林の陰翳を其の水に投げて、川幅は僅に半分に蹙められて見える。蟋蟀は其處らあたり一杯に鳴きしきつて、其の聚つた聲は空にまで響かうとしては沈みつゝ/\、それがゆつたりと大きな波動の如く自然に抑揚を成しつゝある。おつぎは到頭渡船場まで來た。おつぎはそれから水際へおりようとすると水を渡つて靜かに然も近く人の聲がして、時々しやぶつといふ響が水に起る。不審に思つて躊躇して居ると突然目の前に對岸の松林の陰翳から白く光つて居る水の上へ舳が出て船が現はれた。渡し船が深夜に人を乘せたのでしやぶつといふ響は舟棹が水を掻つ切る度に鳴つたのである。おつぎは又土手へ戻つて大きな川柳の傍に身を避けた。二三語を交換して人は去つたやうである。船頭は闇い小屋の戸をがらつと開けて又がらつと閉ぢた。おつぎは暫く待つて居てそれからそく/\と船を繋いだあたりへ下りた。おつぎは直ぐ側でかさ/\と何かが動くのを聞くと共に、ゐい/\と豚らしい鳴聲のするのを聞いた。
「行くのかあ」とまだ眠らなかつた船頭は突然特有の大聲で呶鳴つた。おつぎは驚いて又一散に土手を走つた。船頭はがらつと戸を開けて、人の走つたやうな響きが明かに耳に感じたので、遙に闇い土手を透して見てぶつ/\いひながら彼は更に豚小屋に近づいて燐寸をさつと擦つて見て「油斷なんねえ」と呟いて又戸を閉ぢた。彼は内職に飼つた豚が近頃子を生んだので他人が覘はせぬかと懸念しつゝあつたのである。おつぎは何處でも構はぬと土手の篠を分けて一つ/\に蜀黍の穗を力の限り水に投じた。おつぎは空な草刈籠を脊負つて急いで歸つた。
おつぎがこと/\と叩いた時内儀さんは直に戸を開けて
「どうしたい、大變遲かつたね」と聞いた。
「お内儀さんいふ通にしあんしたよ」
「其の蜀黍は何處へ遣つたい」
「わたしやどうしてえゝか知んねえから川へ持つて行つて打棄りあんした」
「さうかい、能く行つて來たね、まあ上りな」内儀さんはランプを自分の頭の上に上げて凝然と首を低くしておつぎの容子を見た。
「どうしたんだえ、おつぎはまあ、其の衣物は」
「本當にまあ」おつぎは始めて心付いたやうで
「先刻土手さ行く時、堀つ子ん處へ辷つたんですが、其ん時かうえに汚したんでせうよ」とおつぎは泥に成つた腰のあたりへ手を當てた。
「お内儀さん、わたしや飛んだことを仕あんした」おつぎは又いつた。
「どうしたんだえ」
「わたしや、鎌何處へ遣つちやつたか分んなく仕つちやつたんでさ」
「今夜持つてつたのかえ」
「さうなんでさ、わたしや蜀黍打棄つ時まで有つと思つてたら見えねえんでさ、私等家のおとつつあは道具つちと酷く怒んですから」
「草刈鎌の一挺や二挺お前どうするもんぢやない、あつちへ廻つて足でも洗つてさあ」内儀さんの口もとには微かな笑ひが浮んだ。
次の日に漸く主人は歸つた。巡査へ噺をして見たが其の時はもう被害者からの申報書が分署へ提出されてあつたので更に分署長へ懇請して見た。さうして被害者から事實が相違したといふ意味の取消を出せばそれで善いといふことにまで運びがついた。微罪といふので其筋の手加減が出來たのである。内儀さんは復た被害者の家へ行つて其れ丈の筋道を聞かせたが、どうしても今度はうんといはない。
「どうもわし等分署へなんぞ出んな、なんぼにも厭でがすかんね、屹度怒られんでがすからはあ」とのみいふのである。
「さうだがね、此處まで噺がついて居るんだから此方でそれだけのことは仕て呉れなくつちや此れまでのことが水の泡なんだからね」と道理を聞かせても
「盜らつた上に恁うして暇潰して、おまけに分署へ出て怒られたり何つかすんぢや、こんな詰んねえこたあ滅多ありあんせんかんね、それに書付だつてどうしてえゝんだか分んねえし」彼は只嚴めしく見える警察官が恐ろしくてどうしても足が進まないのである。
「そりや書付なんぞは、旦那が書いて遣るから心配にや成らないがね」内儀さんは漸く近所の者を一人跟いてくやうにして遣るといふことにしたので被害者も思ひ切つて出ることに成つた。彼等が歸つた時は反對に威勢がよかつた。
「どうしたつけね」聞かれて
「髭のかう生えた部長さんだつていふ可怖え人でがしたがね、盜まつたなんて屆けしてゝさうして警察へ餘計な手間掛けて不埓な奴だなんて呶鳴らつた時にやどうすべかと思つて、そんぢや其の書付持つて歸りますべつて云ふべかと思ひあんしたつけ、さうしたら暫く書付見てたつけが此は誰れが書いたつて聞くから、わし等方の旦那でがすつて云つたら、さうかそんぢやよし/\歸れなんていふもんだからほつと息つきあんした、瘧落ちたやうでさあはあ、そんだからわし等なんぼにもあゝい處へは出んな厭で」
彼は少時間を措いて
「そんだが、旦那はたいしたもんでがすね、旦那書いたんだつて云つたらなあ」と彼は更に跟いて行つた近所の者を顧みていつた。
事件は如此にして一見妙な然も最も普通な方法を踏んで終局が告げられた。被害者の損害に對する賠償は僅であるとはいひながら一時主人の手から出てそれが被害者に渡された。
「わしも此れからは決して他人の物は塵つ葉一本でも盜りませんからどうぞ」
と勘次は有繋に泣いた。彼はまだお品が死んだ年の小作米の滯りも拂つてはないし、加之卯平から譲られた借財の残りもちつとも極りがついて無いのに又今度の間違から僅ながら新な負擔が加はつたのである。彼が懸命の勞働は舊に倍して著るしく人の目に立つた。
或日主人の内儀さんは偶然とした機會があつて勘次に噺をした。
「あれでなか/\おつぎにも驚いたもんだね」内儀さんはいつた。
「はあどうか仕あんしたんべか、お内儀さん」勘次は怪訝な容子をして且辛い厭なことでもいひ出されるかと案ずるやうに怖づ/\いつた。
「どうしたつていふんぢやないが、此の間の晩のことを知つてるかね」
「何でがせうね、お内儀さん」
「夜中にあの蜀黍伐らせたことだがね、實はあの時はね、警察の方が間に合はなければお前に盜らないと何處までもいはして置いて、さうして旦那が歸つてからのことと思つたもんだから、それにやお前が白状して畢つても困るし、自分の畑がそつくりして居ても不味いからね、それも今に成つちや何もそんなこと仕なくつても善かつたやうなものだが、其の時は私もどうかしてと思つてね、それだがおつぎが度胸のあるのぢや私も喫驚したよ」内儀さんはいつた。
「へえわしもおつうに聞きあんした、鎌一挺見えねえもんだからどうしたつちつたら、お内儀さんいふから伐つたんだなんて、そんでも鎌は笹ん中に有りあんしたつけや」
「さうかい、どんな鎌だかおつぎは心配して居たからね」
「なあにはあ、減つちやつた鎌だから惜しかあねえんですがね」
「おつぎのことはそんなことでは無闇に怒らないやうにしなよ、面倒見てね」
「それからわしもお内儀さん、恁うして獨で辛抱してんでがすが、わし等嚊も死ぬ時にや子奴等こたあ心配したんでがすかんね、夫からわしもおつうが行きてえつちもんだからお針にも遣りあんすしね、襷なんぞも欲い/\つちもんだからわし等見てえな貧乏人にや餘計なもんぢやありあんすが赤えの買つて遣つたんでがさ、此さうだことしてお内儀さん處へも小作の借も持つて來ねえで濟まねえんですが、嚊が單衣物も質に入えてたの出して遣つたんでがすがね、畑へなんぞ出んのにや餘り過ぎ物なんだが、それ一枚切りだからわしも構あねえで見てんのせ、そんだがお内儀さん奇態に汚しあんせんかんね」勘次は最後の一語に力を入れていつた。
「さうだよ、さうして遣れば勵みが違ふからね」内儀さんはいつて又
「おつぎも能く働けるやうに成つたね、それだが此の間のやうな處を見ると死んだお品が乘り移つたかと思ふやうさね」
「わしもはあ、あれがこたあ魂消てつことあんでがすがね」
「さういつちや何だがお品も隨分お前ぢや意地燒いて苦勞したことも有るからね」
「へえ、わしやはあ可怖くつて仕やうねえんですから、わし出らんねえ處へは嚊ばかり出え/\仕たんでがすから」
「さうだつけねえ」内儀さんは微笑して
「おつぎは心持までお袋の方だね、お前の※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、153-2]だがおつたはあゝいふ性質なのに一つ腹から出ても違ふもんだね」
「わし等※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、153-4]はお内儀さん、碌でなしですかんね」彼は恥ぢてさうして自分を庇護ふやうに其の※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、153-4]といふのを卑下して僻んだやうな苦笑を敢てした。
「おつたは今何處に居るね」
「下の方に居あんすがね、わしは往來なしでさ、同胞だたあ思はねえからつてわし斷つたんでがすから、わし等嚊死んだ時だつて來もしねえんですかんね、お内儀さんさうえ者あ有りあんすめえね」
「さうだつけかね」
「わしや、※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、153-11]にや到頭小作に持つてくべと思つてたの一俵ぺてんに掛けられたことあんですから、自分のが始末すれば直返すからつて持つて行つてそれつ切りなんでさ、わし等嚊生きてる頃なもんだから、嚊とろつぴ催促に行き/\したんだが、無くつちや遣らんねえからつて喧嘩吹つ掛るつちんだから嚊も忌々敷がつて居たが先が不法なんだから駄目でさね、それ處ぢやねえ、盲目に成つた自分の餓鬼の錢せえ騙して叩くんだから」
「盲目といふのはどうしたんだねそれは」
「野田へ醤油屋奉公に行つてゝ餘り飯食ひ過ぎたの原因で眼へ出たなんていふんですが、廿位で潰れつちやつたんでさ、さうしたらそれ打棄つて夜遁げ見てえせまるで、自分の村落にだつて居らんなく成つたんでがすから」
「さういふことがねえ、能く出來たもんだね、自分の本當の子をねえまあ、おつたは酷いといふことは聞いちや居たがねえ」内儀さんは驚いた容子でいつた。
「そんだがお内儀さん其盲目奇態で、麥搗でも米搗でも畑耕でも何でも百姓仕事は行んでさ、薄ら明りにや見えんだなんていふんだがそんでも奇態なのせどうも、そんで極く堅てえもんだから他人にも面倒見られて其の位だから錢も持つてんでさ、さうしたら何處で聞いたか來て騙して連れてつてね、えゝわしら等※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、154-10]せお内儀さん」彼は目を峙てた。
「盲目も有繋お袋だから畸形に成つちや他人の處なんぞよりやえゝと思つたんでがせうね、さうしたらお内儀さん盲目が錢叩いつちやつたら又打棄つて、聞いて見ちや酷でえ噺なのせ本當に、そん時にや盲目もわしが處へ泣きついて來て、わしもはあ、二十先にも成つて幾らなんだつて騙さつるなんて盲目ことも忌々敷やうでがしたが、わしも其ん時や嚊に死なれた當座なもんだからさう薄情なことも出來ねえと思つて、そんでも一晩泊めて、わしも困つちや居たが※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、154-15]もちつたあ遣つたのせ、わしやお内儀さん嚊おつ殺してからつちものは乞食げだつて手攫みで物出したこたあねえんでがすかんね、そらおつうげもはあ斷つて置くんでがすから、わしやお内儀さん其れ丈は心掛てんでがすよ」勘次は内儀さんの心裡に伏在して居る何物かを求めるやうな態度でいつた。
「さうだともさね、さういふ心掛で居さへすりや決して間違はないからね」内儀さんはいつて更に以前からの噺に幾らか釣り込まれて居るやうで
「そりやさうと其盲目はどうしたね」
「村落に居あんさ、何處つちつたつて行き場所はねえんですから、なあに獨りでせえありや却つて懷はえゝんでがすから」
「それはまあ、おつたはさうとしても、それがさ、彦次はどうしたんだね、私もおつたのことは暫く前に見たつ切だが」
「お内儀さん、夫婦揃つてなくつちや行れるもんぢやありあんせんぞ、親爺だつてお内儀さん自分の女つ子女郎に賣つて百五十兩とかだつていひあんしたつけがそれ歸りに軍鷄喧嘩へ引つ掛つて、七十兩も奪られて來たつちんでがすから噺にや成んねえですよ、そつからわしや※等夫婦[#「姉」の正字、「女+のつくり」、155-13]のこたあ大嫌なんでさあ」
「本當とは思へないやうなことだね」
「お内儀さん本當ですともね、わしあ嘘なんざお内儀げいひあんせんから」
「そりや本當にや相違ないだらうがね」
「そんだがお内儀さん、其女つ子も直遁げて來つちめえあんしたね、今ぢや何とか云つて厭だら構あねえ相でがすね」
「私もそんなことは知らないが、新聞で騷ぎはあつたやうだつけね」内儀さんは何處かさういふ噺には氣が乘ぬやうで
「おつたも見た處ぢや體裁がよくてね」
「さうなんでさ、うまいもんだからわしも到頭米一俵損させられちやつて」勘次はそれをいふ度に惜し相な容子が見えるのである。
「さういつちやお前の※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、156-10]のこと惡くばかりいふやうだが、舅が鬼怒川へ落ちて死んだなんて大騷ぎしたことが有つたつけねえ」
「さうでさ、餘つ程に成りあんすがね、ありや鬼怒川へ蚤叩くつて行つてそれつ切りに成つちやつたのせ」
「彦次は實子なんだね」
「えゝ、暫く目が不自由で別に小さく作つて隱居してたんですが、蚤は居た容子なんでがすね、一度なんざあ畑の側で叩えたら其處ら通つた人みんなぞよ/\偃ひ上られて酷でえ目に逢つたちんですから、そんで其處らで叩えちや仕やうねえからなんて云はれたんでがせうね、それから何でも蓙持つて鬼怒川さ行く積に成つたんでがすね、鬼怒川までは有繋餘つ程ありあんさね、足もとが本當ぢやねえからずんぶらのめつちやつたもんでさ、本當に飽氣ねえ噺で、それお内儀さんわし等※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、157-5]は他人が死骸見付けて大騷ぎして知らせに來たら、直はあ死人の衣物から始末して掛つたつちんですから」
「自分で取つて畢ふ積なんだね」
「兄弟等げ分けてなんざあ遣んねえ積なんでさね」
「衣物だつて幾らも無いんだらうがね、それにまあどうして川へなんて其遠くへ蓙ばかり持つてね、行くうちにや居た蚤もみんな飛んで了ふだらうがね、まあさういのも運り合せだね」
「はあ耄碌してたんでがすから、餘まり耄碌しちや厭がられあんすかんね」
「厭がられるつてお前そんなものぢやないよ、舅だもの、婿だの娘だのといふものは餘計氣をつけなくちや成らないものなんだね」内儀さんは窘める樣にいつた。
「そりやさうですがね、お内儀さん」勘次は何だが隱事でも發かれたやうに慌てゝいつてさうして苦笑した。
「おつたは本當に舅は善くしなかつた相だな、自分等の方のへは砂糖を入れても舅の方へは砂糖を入れなかつたなんて暫く前に聞いたつけが」内儀さんは獨で低聲にいつた。
「どうでがしたかねそれは」勘次は先刻の容子とは違つて、俄に庇護ひでもするやうな態度でいつた。
「そんなに仕なくつたつて幾らも生きやしない老人のことをな」内儀さんは熟と復いつた。勘次は餘計に萎れた。
「勘次も錢は自分の手から湧すやうにして辛抱してりや辛いことばかり無いから、何でも人間は子供次第だよ、後で厄介に成らなくちや成らないんだから子供の面倒は見ないな間違だよ」内儀さんは勵すやうにさうしてしんみりといつた。暫く噺が途切れた時勘次は突然
「お内儀さん變なこと聞くやうでがすが帶にする布片はどの位有つたらえゝもんでがせうね」と聞いた。
「おつぎにでも締めさせるのかい」
「へえ、今のが古くつて厭だなんて強請れんで、何時でもわし怒んでがすが、お内儀さん處へも不義理ばかりしてそんな處ぢやねえつて云つて聞かせても、みんな赤えの締めてるもんだから欲しくつて仕やうねえんでさ」
「さうだね、帶はまあ一丈つていふんだが、其處らの子の締めるのは什ものだかさね」
「わしらおつうはそれ四尺もあればえゝつちんですがね、それだからわしお内儀さんにでも聞かねえぢや分んねえと思つて」
「さうさ成程、外へ出る處だけ有れば善いんだから、それにや四尺もあつたら澤山だね、斯うこつちばかり附ければね」内儀さんは自分の帶へ手を當てゝ見ていつた。
「それお内儀さん、兩方へ附けんだつて恁ういに縛つて中へたぐめた端つ子が赤くなくつちや見つともねえつてね、そんな處どうでもよかんべと思ふんだが、尤も其處は一尺でえゝなんて云んでさ」
「成程ね、私等今までさういふことにや氣が附かなかつたが、結び目も仕事するんだから其に大きくなくつたつて構はないし、四尺五寸もあれば丸で新しいやうに見えるんだね」
「そんでお内儀さん、どの位したもんでがせうね錢は、たんと出んぢやはあ仕やうねえが」勘次は危むやうにいつた。
「幾らもしないね、其れ丈ぢや」
「そんでも大凡まあどの位したもんでがせうね」勘次は又反覆して促した。
「唐縮緬も近頃ぢや廉くなつたから一尺十二三錢位のものかね、上等で十四五錢しかしないだらうね」
「さうでがすか、わしやまた大變出んだとばかし思つてあんした」
「それも反物に成つてるのを切らしてさうだよ、それからもつと廉くも出來るのさ、村の店なんぞぢや錢ばかりとつて虱が潜り相なのでね」内儀さんは微笑した。
「さういふ短いのは端布片で買ふに限るのさ、幾らにもつかないもんだよ、私が近頃出る序もあるから買つて來て遣つても善いよ」
「さうですか、そんぢやお内儀さんどうかさうしておくんなせえ、お内儀さんに見て貰えせえすりや大丈夫でがすから、なあに赤くせえありや什んでも構あねえんでがすがね」
「一日お前が日傭に來さへすりやそれ丈は出て畢ふから、欲しいといふものなら拵へて遣るが善いよ、そりや欲しい筈さおつぎも明ければ十八に成るんだつけね」内儀さんは同情していつた。
「わしに怒らつるもんだから蔭でぐず/\云つて困んでさ」勘次は更に
「そんぢやまあ善かつた、わし等そんなこたあちつとも分んねえから、夫からはあお内儀さんに聞いてんべと思つてたのせ」といつて何處となくそわ/\と悦ばしさを禁じ得ないものゝ如くである。
「女の子は此れで飾だから他人にも見られるからね」内儀さんは懇にいつた。
「わし等自分ぢや什襤褸だつて構あねえが此れで女つ子にやねえ、わしもこんでお内儀さんに聞く迄にや心配しあんしたよ」勘次は僅な帶のことが大きな事件の解決でも與へられたやうに心の底から勢ひづいて内儀さんの前に感謝した。
一一
勘次は極めて狹い周圍を有して居る。然し彼の痩せた小さな體躯は、其の狹い周圍と反撥して居るやうな關係が自然に成立つて居る。彼は決して他人と爭鬪を惹き起した例もなく、寧ろ極めて平穩な態度を保つて居る。唯彼等のやうな貧しい生活の者は相互に猜忌と嫉妬との目を峙てゝ居る。勘次は異常な勞働によつて報酬を得ようとする一方に一錢と雖も容易に其の懷を減じまいとのみ心懸けて居る。彼等のやうな低い階級の間でも相互の交誼を少しでも破らないやうにするのには、其處には必ず其に對して金錢の若干が犧牲に供されねばならぬ。絶對に其犧牲を惜むものは他の憎惡を買ふに至らないまでも、相互の間は疎略にならねばならぬ。然し其ことは勘次を苦めて其のさもしい心の或物を挽囘させる力を有して居ないのみでなく、殆んど何の響をも彼の心に傳ふるものではない。彼は只其の日/\の生活が自分の心に幾らでも餘裕を與へて呉れればとのみ焦慮つて居るのである。彼の心を滿足せしめる程度は、譬へば目前に在る低い竹の垣根を破壤して一歩足を其域内に趾つけるだけのことに過ぎないのである。然も竹の垣根は朽ちて居る。朽ちた低い竹の垣根は其の強い手の筋力を以て破壤するに何の造作もない筈であるが、手の先端を觸れしめることさへ出來ないで居るのである。彼は長い時間氷雪の間を渉つた後、一杯の冷たい釣瓶の水を注ぐことによつて快よい暖氣を其の赤く成つた足に感ずる樣に、僅少な或物が彼の顏面の僻んだ筋を伸るに十分であるのに、彼は其の冷水の一杯をさへ空しく求めつゝあつたのである。自然に形られて居る階級の相違を有して居る者又は長い間彼の生活の内情を知悉して居る者からは彼は同情の眼を以て視られて居るけれども、こせ/\とした其の態度と、狐疑して居るやうな其容貌とは其處に敢て憎惡すべき何物も存在して居ないにしても到底彼等の伴侶の凡てと融和さるべき所以のものではない。彼は彼等の伴侶に在つては、幾度かいひふらされて居る如く水に落した菜種油の一滴である。水が動く時油は隨つて動かねば成らぬ。水が傾く時油は亦傾かねば成らぬ。併し水が平靜の度を保つ時油は更に怖れたやうに一所に凝集する。兩者の間には何等其の性質を變化せしむべき作用の起るでもなく、其れは水が油を疎外するのか、油が水を反撥するのか遂に溶け合ふ機會が無いのである。之を攪亂する他の力が加へられねば兩者は唯平靜である。村落の空氣が平靜である如く、勘次と他の凡てとの間も極めて平靜でそれで相容ないのである。勘次は其の菜種油のやうに櫟林と相接しつゝ村落の西端に僻在して親子三人が只凝結したやうな状態を保つて落付て居るのである。
偶然に起つた彼の破廉耻な行爲が俄に村落の耳目を聳動しても、兎にも角にも一家を處理して行かねばならぬ凡ての者は、彼等に共通な聞きたがり知りたがる性情に驅られつゝも、寧ろ地味で移氣な心が際限もなく一つを逐ふには年齡が餘に彼等を冷靜な方向に傾かしめて居る。それでなくても其の知りたがり聞きたがる性情を刺戟すべきことは些細であるとはいひながら相尋で彼等の耳に聞えるので勘次のみが問題では無くなるのである。然しながら若い衆と稱する青年の一部は勘次の家に不斷の注目を怠らない。其れはおつぎの姿を忘れ去ることが出來ないからである。苟且にも血液の循環が彼等の肉體に停止されない限りは、一旦心に映つた女の容姿を各自の胸から消滅させることは不可能でなければならぬ。然し彼等は一方に有して居る矛盾した羞耻の念に制せられて燃えるやうな心情から竊に果敢ない目の光を主として夜に向つて注ぐのである。
夜は彼等の世界である。
熟練な漁師は大洋の波に任せて舷から繩に繼いだ壺を沈める。其の繩を探つて沈めた赤い土燒の壺が再び舷に引きつけられる時、其處には凝然として蛸が足の疣を以て内側に吸ひついて居る。恁うして漁師は烱眼を以て獲物を過たぬ道を波の間に窮めて居るのである。僅な村落の内で毎日凡ての目に熟して居る女の所在を覘ふことは、蛸壺を沈めるやうな其寧ろあてどもないものではない。木の葉が陰翳を落として呉れぬ冬の夜には覘うて歩く彼等は自分の羞耻心を頭から褞袍で被うて居る。短い夜の頃でも、朝の眠たさが覿面に自分を窘めるにも拘はらずうそ/\と歩いて見ねば臭い古ぼけた蚊帳の中に諦めて其身を横たへることが出來ないのである。彼等が女の所在を覘ふのは極めて容易なものの樣ではありながら蛸壺が少しの妨げもなく沈められる樣ではなく、父母の目が闇の夜にさへ光を放つて女を彼等から遮斷しようとして居る。彼等はそれで目の光の及ぶ範圍内には自分の身を表はさないで目的を遂げようと苦心する。譬て見れば彼等は狹いとはいひながら跳ては越せぬ堀を隔てゝ、然かも繁茂した野茨や川楊に身を沒しつゝ女の軟かい手を執らうとするのである。其れは到底相觸れることさへ不可能である。焦燥つて堀を飛び越えようとしては野茨の刺に肌膚を傷けたり、泥に衣物を汚したり苦い失敗の味を嘗めねばならぬ。其れ故彼等は隱約の間に巧妙な手段を施さうとして其處に工夫が凝されるのである。
既に漁師の手に生命を握られて居る蛸は力を極めて壺の内側に緊着すれば什強い手の力が袋のやうな其の頭を持つて曳かうとも、蛇が身體の一部を穴に入したやうに拗切るまでも離れない。刄物を以て突つ刺しても同一である。蛸壺の底には必ず小さな穴が穿たれてある。臀からふつと息を吹つ掛けると蛸は驚いてすると壺から逃げる。それでも猶旦騙されぬ時は小さな穴から熱湯をぽつちりと臀に注げば蛸は必ず慌てゝ漁師の前に跳り出す。熱い一滴によつて容易に蛸は騙されるのである。假令監視の目かられて女に接近したとしても、打ち込んだ女の情が強ければ蛸壺の蛸が騙される樣にころりと落す工夫のつくまでは男は忍耐と寧ろ危險とを併せて凌がねば成らぬ。さうして纔に相接した兩性が心から相曳く時相互に他の凡てに對して恐怖の念を懷きはじめるのである。
空が夕日の消え行く光を西の底深く鎖して畢つて、薄い宵が地を低く掩うて夜が到つた時女は井戸端で愉快に唄ひながら一種の調子を持つた手の動かし樣をして米を研ぐ。女は研桶と唄との二つの聲が錯綜しつゝある間にも木陰に佇む男のけはひを悟る程耳の神經が興奮して居る。其れが凉しい夏の夜で女が男を待つ時には毎日汗に汚れ易いさうして其の飾りでなければ成らぬ手拭の洗濯に暇どるのである。庭の木陰に身を避けてしんみりと互の胸を反覆す時繁茂したや栗の木は彼等が唯一の味方で月夜でさへ深い陰翳が安全に彼等を包む。空に冴えた月は放棄してある手水盥を覗いては冷かに笑うて居る。彼等が餘りに暇どつて居れば月はこつそりと首を傾けて木の葉の間から覗いて見る。其れでも猶彼等が屈託して居れば、彼等を庇護して居る木がの木であれば梢からまだ青い實を投げて、其の瞬間驚き易い彼等が欺かれて、彼等の伴侶の惡戯であるかを疑うては慌てゝ周圍を見る時、繁茂した大きな葉が凉しい風にさや/\と微笑する。彼等はかうして家の内から聲を立てゝ劇しく呼ばれるまでは怖れ/\も際限のない噺に耽るのである。
彼等がさういふ苦辛の間に次の日の身體の疲れを犧牲にしてまでも僅な時間を相對して居ながら互の顏も見ることが出來ないで低く殺した聲にのみ滿足する外に、彼等は林の中に放たれた時想ひ想はぬ凡てが只管に甘い味を貪るのである。林は彼等の天地である。落葉を掻くとて熊手を入れる時彼等は相伴うて自在にふことが默託されてある。然し熊手の爪が速かに木陰の土に趾つける其の運動さへ一度は一度と短い日を刻んで行く樣な冬の季節は餘りに冷たく彼等の心を引き緊めて居る。
到る處畑の玉蜀黍が葉の間からもさ/\と赤い毛を吹いて、其の大きな葉がざわ/\と人の心を騷がす樣に成ると、男女の群が霖雨の後の繁茂した林の下草に研ぎすました草刈鎌の刄を入れる。初は朝まだきに馬の秣の一籠を刈るに過ないけれど、燬くやうな日のもとに畑も漸く極がついて村落の凡てが皆草刈に心を注ぐ樣に成れば、若い同志が相誘うては遠く林の小徑を分て行く。さうして自分の天地に其羽を一杯に擴げる。何處を見ても只深い緑に鎖された林の中に彼等は唄ふ聲に依つて互の所在を知つたり知らせたりする。彼等のしをらしい者はそれでも午前の幾時間を懸命に働いて父なるものゝ小言を聞かぬまでに厩の傍に草を積んでは、午後の幾時間を勝手に費さうとする。一度でもしめやかに語り合うた兩性が邂逅へば彼等は一切を忘れて、それでも有繋に人目をのみは厭うて小徑から一歩木の間に身を避ける。繁茂した青草が側行く人にも知られぬ樣に屈んだ彼等を幾らでも掩ひ隱す。彼等は極つた何の噺も持つて居ないのに快よく冷たい土に坐つて、遂には手にした鎌の刄先で少しづゝ土をほじくりつゝ女は白い手拭の端を微動させては俯伏しなから微笑しながら際限もなく其處に凝然として居ようとする。熬りつける樣な油蝉の聲が彼等の心を撼がしては鼻のつまつたやうなみん/\蝉の聲が其の心を溶かさうとする。藪蚊が彼等の日に燒けた赤い足へ針を刺して、臀がたはら胡頽子の樣に血を吸うて膨れても、彼等はちくりと刺戟を與へられた時に慌てゝはたと叩くのみで蚊が逃げようとも知らぬ顏である。暑い日が草いきれで汗びつしりに成つて居る彼等の身體に時刻が過ぎたと枝の間から強い光を投掛けて促す迄は、稀には痺れた足を投出して聞きも聞かせもしなくて善い噺を反覆してのみ居るのである。彼等は恁うして時間を空しく費しては遠く近く蜩の聲が一齊に忙しく各自の耳を騷がして、大きな紗で掩うたかと思ふ樣に薄い陰翳が世間を包むと彼等は慌てゝ皆家路に就く。どうかして餘りに後れると空な草刈籠を倒に脊負つて、歩けばざわ/\と鳴る樣に、大きな籠の目へ楢や雜木の枝をして黄昏の庭に身を運んで刈積んだ青草に近く籠を卸す。父なるものは蚊柱の立てる厩の側でぶる/\と鬣を撼がしながら、ぱさり/\と尾で臀の邊を叩いて居る馬に秣を與へて居る。母なるものは青い烟に滿た竈の前に立つては裾りつゝ、燈火を點ける餘裕もなく我が子をぶつ/\と待つて居る。恁うして忙しさに楢や雜木の枝で欺いた手段が發見されないのである。うしろめたい女は默つて何よりも先づ空な手桶を持つて井戸端へ驅けて行つてはざあと水を汲んでそれから汁の身でも切れてなければ慌しくとん/\と庖丁の響を立てゝ、少しづゝでも母なるものゝ小言から遁れようとする。狹い庭の垣根に黄色な蝶が幾つも止つて頻りに羽を動かして居るやうに一つ/\にひらり/\と開いては夜目にもほつかりと匂うて居る月見草は自分等の夜が來たと、駈け歩いて居る女に對して懷し相に目をるのである。彼等の或者は更に夜の眠りに就く前に戸口に近く蚊帳の裾にくるまつては竊に雨戸の外に訪るゝ男を待たうとさへするのである。男は雨戸を開けて忍ぶ時月が冴え居てさへ躊躇せぬ。彼はそれでも疊の上に射し込む光を厭うて廂に近く筵を吊る。歪んだ戸がぎし/\と鳴るのにそれが彼等の西瓜や瓜の畑を襲ふ頃であれば道端の草村から轡蟲を捕つて行つて雨戸の隙間から放つ。轡蟲は闇いなかへ放たれゝば、直に聲を揃へて鳴く。土地で其れが一般にがしや/\といふ名稱を與へられて居るだけ喧しく只がしや/\と鳴く。がしや/\が鳴き出せば彼等は安んじて雨戸をこじるのである。それから又箱を轉したやうな、隔ての障子さへ無い小さな家で女が男を導くとて、如何しても父母の枕元を過ぎねば成らぬ時は、踏めばぎし/\と鳴る床板に二人の足音を憚つて女は闇に男を脊負ふのである。其處には假令重量が加へられても、それは巧に疲れて眠い父母の耳を欺くのである。
一般の子女の境涯は如此にして稀には痛く叱られることもあつて其時のみは萎れても明日は忽ち以前に還つて其性情の儘に進んで顧みぬ。おつぎは其伴侶と一日でも一つに其身を放たれたことがないのである。
勘次が什に八釜敷おつぎを抑へてもおつぎがそれで制せられても、勘次は村の若者がおつぎに想を懸けることに掣肘を加へる些の力をも有して居らぬ。凡ての村落の若者が女を覘はうとする時は隨分執念く其れは丁度、追へば忽ちに遁げる鷄がどうかして狹く戸口を開いてある※倉[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、169-5]に好む餌料を見出して這入らうとする時に其の狹い戸口が身を入るゝに足りなければ徒らに首をし込んでは足掻いて/\さうして他へ行つて畢ふ。其れが一度で斷念すれば其れ迄であるけれど、二度三度戸口に立つて足掻き始めれば、去つては來り、去つては來り、首筋の皮が擦り剥けて戸口に夥か血の趾を印しても執念く餌料を求めて止まぬやうな形でなければならぬ。各自の心におつぎを何れ程深く思はうともそれは各自が有する權能に屬して居る。然しながらおつぎへ加へようとする其手を極端に防遏しようとすることも勘次が有する權能である。相互に其の權能を越えて他の領域を冒す時其處には必ず葛藤が伴はれる筈でなければ成らぬ。若者は相聚まれば皆不平の情を語り合うて、勝手に勘次を邪魔なこそつぱい者にして居た。其癖彼等は皆互に自分獨りのみがおつぎを獲ようとして及ばぬ手を延ばして居るのである。萬一目的が遂げられたことが有つたとしても其れは只一人に限られて居て、爾餘の幾人は空しく然も極めて輕い不快と嫉妬とから口々に其一人に向つて厭味をいうて止まねば成らぬ。然しながら遂に其一人が彼等の間に發見されなかつた。彼等の怨恨が凡て勘次の一身に聚つた。それでも淡白な彼等の怨恨は三人以上が聚つて口を開けば必ず笑聲を絶たぬ程のものであつた。怨恨といふよりも焦燥つたさであつた。おつぎの身體には恁うして事件を惹き起すべき機會が與へられなかつた。それでも只一人おつぎと手を執つて語ることにまで近づき得たものがあつた。勘次はどれ程嚴重にしてもおつぎが厠に通ふ時間をさへ狹い庭の夜の中へ放つことを拒むことは出來なかつた。執念深い一人が偶然さういふ機會を發見した。彼は、まだ羞恥と恐怖とが全身を支配して居るおつぎを捕へて只凝然と動かさないまでには幾度か手を換て苦心した。勘次が戸の内から呼んでも厠の側で返辭をするおつぎの聲は最初の間は疑念を懷かせるまでには至らなかつた。其れでも彼等が心に深く互の情を刻むまで猜忌の目をつて居る勘次を欺きおほせることは出來なかつた。
或晩勘次はがらつと戸を開けて出た。劇しく開けた戸が稍朽ち掛けた閾の溝を外れようとしてぎつしりと固着した。彼は苛立つて戸を叩いて溝に復すと其の儘飛び出した。彼は直自分に近く手拭被つたおつぎの姿が徐ろに動いて來るのを見た。其と同時に竊に落ち行く草履の音が勘次の耳に響いた。彼は其を耳に感ずる瞬間右の手が壁際の木の根に掛つて、木の根は彼の力一杯に木陰の闇に投ぜられた。木の根はどさりと遠く落ちて庭の土をさくつて餘勢が幾度かもんどりを打つた。勘次は續いて擲つた。曲者は既に遁げ落ちたけれど彼の不意の襲撃に慌てゝ節くれ立つたの根に蹶いて倒れた。彼は次の日足を引ずらねば歩けぬ程足首の關節に疼痛を感じたのであつた。勘次はぽつさりと立つて居るおつぎを突きのめす樣に戸口に送つてがらりと戸を閉ぢて掛金を掛けた。
其夜はまだ各が一つ加はつた年齡の數程の熬豆を噛つて鬼をやらうた夜から、幾らも隔たらないので、鹽鰮の頭と共に戸口にした柊の葉も一向に乾いた容子の見えない程のことであつた。おつぎは十八というても其の年齡に達したといふばかりで、恁んな場合を巧に繕らふといふ料簡さへ苟且にも持つて居ない程一面に於ては濁のない可憐な少女であつた。おつぎは萎れて只ぽつさりと立つて居る。勘次の目は薄闇い手ランプに光つた。
「おつう」と一聲呶鳴つて情の激した勘次は咄嗟に次の語が出せなかつた。
「何してけつかつたんだ」勘次はおつぎを睨みつけた。おつぎは俯向いて默つて居る。
「さあ云つて見ろ、嘘云つたつて知つてつゝお」勘次は猶も激しく訊ねた。
「汝りや何時でも何ちつた、おとつゝあげは決して心配掛けねえからつて云つたんぢやねえか、そんでも汝りや心配掛けねえのか、掛けねえつちんだら云つて見ろ」彼は忌々敷相に且つ刄を以て心部を突き通される苦しさを忍んだかと思ふやうな容子でわく/\する胸から聲を絞つていつた。彼は暫く間を措いては又、噛んで/\噛締めても噛み切れぬ或物に對するやうな焦燥つたさと、期待して居た或物を俄に奪ひ去られた樣な絶望とが混淆し紛糾した自暴自棄の態度を以ておつぎを責めた。彼の擧動は殆ど發作的であつた。おつぎの聲を殺して泣く聲は隙間だらけな戸の外に絶え/″\に漏れた。
從來とてもおつぎは假令異性を慕ふ性情が漸く發達して來たとはいひながら、竊に其手を執られた時は、後では寧ろ悔いるまでも羞恥と恐怖とそれから勘次を憚ることから由つて來る抑制の念とが慌てゝ其の手を振りらせるのであつた。其れが段々厭でない誘惑の手に乘つて甘い味を僅に感ずる程度まで近づいた刹那一切が破壞し去られたのである。おつぎは以前に還つて恐怖の手に深く其の身を沒却せねばならなく成つた。深い罪惡を包藏して居ない其の夜の事件はそれで濟んだ。勘次は依然おつぎには只一つしか無い大樹の陰であつた。然し勘次自身には如何な種類の物でも現在彼の心に與へ得る滿足の程度は、失うたお品を追憶することから享ける哀愁の十分の一にも及ばない。彼は最早それ以上彼の心裏に残存して居る或る物をまで奪ひ去られることには堪へないのである。彼は僅に三人の家族が油の如く水に彈かれても疎外されても只凝結して居ることにのみ、假令慰藉されないまでも不安を感ずることなしに其の日/\と刻んで暮して行くことが出來るのである。彼は一度でもおつぎが自分を離れたことを發見し或は意識しては一種の嫉妬を感ぜずには居られなかつた。彼はさうして悲痛の感に責め訶まれた。村落の若者は彼の爲には仇敵である。それと同時に若者の爲には彼は蝮蛇の毒牙の如きものでなければ成らぬ。其れでありながら些の威嚴も勢力もない彼は凡ての若者から彼を苛立たしめる惡戯を以て報いられた。青草の中に身を沒して居る毒蛇に直接手を觸れようとするものは一人もないけれど、遠くから土塊を擲つたり、棒の先でつゝいたり徒らに怒る牙を振はせることは彼等の好んでする處であつた。勘次の削つたやうな痩せた顏が何時でも僻んでさうして怒り易いのを彼等は嘲笑の眼を以て遠くから覗くのである。彼等は夜垣根の側に立つて指を口に啣へてぴゆう/\と劇しく鳴らして見たり、戸口に近く竊に下駄の齒の趾を附けて置いたり、勘次が眠に落ちようとする頃假聲を使つておつぎを喚んだりした。勘次は其の度に心が苛立つたけれど、霧でも捉む樣な、誰の所爲とも判明しない惡戯をどうすることも出來なかつた。然し表面に現れた影響の無い惡戯は永く持續しなかつた。
春は冬に遠くして又冬と相隣して居る。季節の變化を反覆しつゝ月日は容赦なく推移した。
一二
冬は低く地を偃うて沈んだ。舊暦の暮が近く成つて婚姻の多く行はれる季節が來た。町の建具師の店先に据ゑられた簟笥や長持から疎末な金具が光るのを見るやうに成つた。おつぎが通うた針の師匠の家でも嫁が極つた。其の當日に成ると針子は孰れも藏つて置いた半纏へ赤い襷を掛けて、其處らの掃除やら、芋や大根を洗ふことやら朝から大騷ぎをして笑ひながら手傳をした。おつぎも行つて皆と一緒に働いた。おつぎは赤絲大名の半纏で萌黄の襷を掛けて居た。針子等は毎年春が漸く暖かく成つて百姓の仕事が忙しくなると又の冬まで暇をとるとて一日皆で鍬を持つて畑の仕事の手傳に行く。廣くもない畑へ残らずが一度に鍬を入れるので各が互に邪魔に成りつゝ人數の半は始終鍬の柄を杖に突いては立つて遠くへ目を配りつゝ笑ひさゞめく。彼等の白い手拭が聚つて遙に人の目を惹く外師匠の家に格別の利益もなく彼等自分等のみが一日を樂く暮し得るのである。其れだから彼等は婚姻の當日にも仕事の割合にしては餘りに多人數に過ぎるので、一つ仕事に集つては屈託ない容子をして饒舌るのであつた。
「どうえ嫁樣だんべな」
「善え女だんべえな」
「早く來ればえゝな、俺ら見てえな」
彼等はさういふことをすら口々に反覆しつゝ密々と耳語いた。
「白粉附けて來んだな」一番年の少い子がいつた。
「どうしたもんだえ、白粉附けんだんべかとまあ」年嵩が笑つた。
「水白粉持つて來んだか知んねえぞ」
「只の水見てえな白粉も有んだつて云つけぞ」
彼等はさういふ罪のない穿鑿からそれから
「俺らお給仕に出なくつちや成んねえか知んねえが、耻かしくつて厭だな」
「嫁樣まつと耻かしかつぺな」
「そんだが俺ら嫁樣の衣物どういんだか見てえもんだな」半分は望むやうな半分は氣遺ふやうな互の心を語るのであつた。
夜に成つて板の間の娘等が座敷の方へ引かれた頃勝手口に村落の若者が五六人立つた。彼等は婚姻の夜には屹度極つた例の饂飩を貰ひに來たのである。晝の間に用意された饂飩が彼等に與へられた。彼等の手には饂飩の大きな笊と二升樽とそれから醤油の容器である麥酒罎とが提げられた。垣根の外へ出た時彼等は假聲を出してどつと囃し立てゝ又囃した。彼等は途次も騷ぐことを止めないで到頭村落の念佛寮へ引とつた。其處には此も褞袍を被つた彼等の伴侶が圍爐裏へ麁朶を燻べて暖まりながら待つて居た。念佛衆の使つて居る鍋や土瓶や茶碗が只ごた/\と投げ出されてあつた。臺つきの手ランプは近所から借りて來たのであつた。麁朶の焔が手ランプに光を添へて居た。婚姻の席上では酒の後には長く繼がる樣といふ縁起を祝うて、一つには膳部の簡單なのとで饂飩を饗すのである。蕎麥は短く切れるとて何處でも厭うた。どんな婚姻でもそれを若い衆が貰ひに行く。貧乏な所帶であれば彼等は幾ら少量でも不足をいはぬ。然し多少の財産を有して居ると彼等が認めて居る家でそれを惜めば彼等は不平を訴へて止まぬ。どうかすると闇い木陰に潜伏して居て嫁の車が近づいた時突然、其の車を顛覆させてやれといふやうな威嚇的の暴言をすら吐くことがある。然し從來其ことは滅多になく、別段に認むべき弊害が伴ふのでもないのであつた。それで普通どの家でも彼等が滿足を買ひ得る分量を前以て用意して居るのである。
彼等はさういふ夜に褞袍を被つて他人の裏戸口に立たねば成らぬ必要な條件を一つも有つて居ない。只彼等の凡ては藁を打つて繩を綯ふべき夜の務めを捨て公然一所に集合する機會を見出すことを求めて居る。集合することが直に彼等に娯樂を與へるからである。兩性が然も他人の手を藉りて一つに成る婚姻の事實を聯想することから彼等の心が微妙に刺戟される。彼等の凡ては悉く異性を知り又知らんとして居る。彼等は他人の目を偸むのには幾多の支障、それは其の爲に相慕ふ念慮が寧ろ却て熾に且つ永續することすら有りながら、當事者たる彼等には五月繩い其の支障をこつそりと拂ひ退けねば成らぬ焦燥つたい感が止まないのに、周圍の凡てが杯を擧げてくれる其の夜の當人同士を念頭に浮べる時彼等は淡い嫉妬を沸かさねば成らぬ。それで彼等の心には喰つてやれ、飮んでやれ、さうして遣らねば腹が癒えぬといふ觀念が期せずして一致するのである。笊で運んだ饂飩が多人數の彼等に到底十分の滿足を與へ得るものではない。然し彼等は其ことに頓着を持たぬ。
酒が煤けた土瓶で沸かされた。彼等は各自に茶碗へ注いでぐいと飮んだ。其處には燗の加減も何も無かつた。各自の喉がそれを要求するのではなくて一種の因襲が彼等にそれを強ひるのである。彼等はじり/\と喉が焦げる樣に感じても苦い顏を蹙めつゝ飮んで見る者さへある。比較的少量な酒が注ぐ度に手にする度に筵の上に滾れても彼等は惜まない。彼等はそれから茶碗も箸もべたりと筵の上へ置いて、單純に水へ醤油を注した液汁に浸して騷々敷饂飩を啜つた。
彼等は平生でもさうであるのに酒の爲に幾分でも興奮して居るので、各自の口から更に聞くに堪へぬ雜言が吐き出された。不作法な言辭に麻痺して居る彼等はどうしたら相互に感動を與へ得るかと苦心しつゝあつたかと思ふ樣な卑猥な一句が唐突に或一人の口から出ると他の一人が又それに應じた。彼等の間には異分子を交へて居らぬ。彼等は時によつては怖れて控目にしつゝ身體が萎縮んだやうに成つて居る程物に臆する習慣がある。然し恁うして儕輩のみが聚まれば殆んど別人である。饂飩が竭きて茶碗が亂雜に投げ出された時夜の遲いことに無頓着な彼等はそれから暫く止めどもなく雜談に耽つた。彼等は遂に自分の村落に野合の夫婦が幾組あるかといふことをさへ數へ出した。そつちからもこつらからも其れが數へられた。左手の指が二度曲げて二度起されても盡せなかつた。勿論畢には配偶の缺けたものまで僂指された。其れ等の夫婦の間に生れた者も幾人か彼等の間に介在して居た。有繋に其の幾人は自分の父母が喚ばれるので苦い笑を噛んで控へて居る。さうすると他の者はそれを興あることにがや/\と囃し立てた。
噺が少しだれた時
「勘次さん等見てえなゝ、ありや勘定にやへえんねえもんだんべか」と呶鳴つたものがあつた。此の唐突な發言で暫く靜止して居た彼等は俄に威勢が出て拍手した。
「勘次さんに聞いて見ろ」といふ聲が隅の方から出た。
「其こと云つたつ位、打ん擲らつら篦棒臭え」打ち消す聲が聞えた。
「そんぢや、おつぎに聞いて見ろ」
「足でも打折られんなえ」
「薪雜棒ふられてか」
笑聲が雜然として寮の内は一層騷がしく成つた。
「今日らも見ろ、角の店で自棄酒飮んで怒つてたつけぞ」一人が自慢らしく新な事實を提供した。
「どうしてよ」一同が耳を峙てた。
「おつぎことお針つ子等と一緒に手傳に遣つたの知つてべな」
「知つてらなそら」
「そんでよ、手傳に遣つてゝも、はあ、日暮に成つたら、あつかもつかして凝然としちや居らんねえんだ、そんで愚圖/\云つてんの面白えから俺ら聞いてたな、丁度えゝ鹽梅に俺草履買ひに行つて出つかせてな」
「毎日暮ぢやねえけ徳利おつ立てゝんな」
「さうなんだ、近頃唐鍬使え骨折つからつて仕事畢つちや一合位引つ掛けて直ぐ行つちやあんだつちけが、それ今日は早くから來てたんだつちきや、店のおとつゝあに聞いたな俺ら」噺手は自分が先づ興に入つた樣に又いつた。
「俺ら今日うめえ處聞いつちやつたな」
「何だつて云つけ」
「酷でえ阿魔だ、夕飯も何も仕やうありやしねえなんてな、獨りでぐうづ/″\云つてな、そんで與吉こと何遍も迎に遣つてな、さうすつとあの與吉の野郎また、今直に饂飩饗つてよこすとう、なんてのたくり/\歸つて來んだ、さうすつと又駄目だ汝りや復た行つて來う、直に來うつて云ふんだぞなんて怒つた見てえになあ、俺ら可笑しくつて仕樣無かつたつけぞ」噺手は左右を向きつゝいつた。皆復た拍子して囃し立てた。
「そんぢや直ぐよこしたつぺ」
「うむ、途中で行逢つたんだんべ、直ぐ來たつきや」
「あつちだつて其の位知つてらな」
「おつぎは店へよつたつけか」二人が一度にいつた。
「寄んねえや、さうしたらおつう、なんておとつゝあ喚ばつたんだ、たいした聲してな、そんでもおつうは行つちまあのよ、さうしたら又、おつうなんて呶鳴つてな、勘定すんのにも慌くつて錢落つことしたり何かして後から駈けてつたんだ、五合も飮んだつぺつちけな、可怖え目つきしつちやつてな、そんだがおつぎは聽かねえぞなか/\、つツ/\と行つちやつてな」噺手は暫時口を鎖した。
「今日は若え衆等行くと思つてはあ、夜まで置けねえんだな」
「極つてらあな」
「そんだつて箆棒、若え衆等だつてさうだことばかりするものぢやねえ、詰んねえ」憤慨してかういふものも
「外聞惡いも何にも知んねえんだな」嘲笑の意味ではあるが何處となく沈んで又斯ういふ者も有つた。
「おつぎはそんだが頭髮てか/\光らかせた處ら善く成つちやつたつけぞ」俄に思ひ出した樣に先刻の噺手がいつた。
「そんで、おとつゝあ餘計仕やう無くなつちやつたんだんべえ」臀へ釘をして臺に乘つて居る手ランプの油煙がそつちへこつちへ靡く光の下に茶碗を箸で叩きながら又わあつと騷ぎ出した。
勘次は今開墾の仕事の爲に春までには主人の手から三四十圓の金を與へられる樣にまで成つた。大部分は借財の舊い穴へ埋めても彼は懷に窮屈を感じない程度に進んだ。一圓の錢が絶えず財布に在り得るならば彼等は嘆く處は無いのである。彼は只主人に倚つて居さへすれば善いと思つて居る。恁ういふ遠慮のない蔭口を利かれるまでには苦しい間の三四年を過して來たのである。彼の生活はほつかりと夜明の光を見たのであつた。おつぎは此時廿の聲を聞いて居たのである。
一三
初秋の風が吊放しの蚊帳の裾をさら/\と吹いて、疾から玉蜀黍が竈の灰の中でぱり/\と威勢よく燃える麥藁の火に燒かれて、其の殼がそつちにもこつちにも捨てられる。畑の仕事が暫時極りがついて百姓の家には盆が來た。其の日も晝過迄仕事をして居た勘次はそれでも慌しく庭へ箒を入れて目に立つ草は鎌の刄先で掻つ切つた。戸も障子もない煤け切つた佛壇はおつぎを使つて佛器や其他の掃除をして、賽の目に刻んだ茄子を盛つた芋の葉と、寂しいみそ萩の短い小さな花束とを供へた。みそ萩の側には茶碗へ一杯に水が沒まれた。夕方近く成つてから三人は雨戸を締て、火のない提灯を持つて田圃を越えて墓地へ行つた。お品の塔婆の前にそれから其處ら一杯の卵塔の前に線香を少しづゝ手向けて、火を點けてほつかりと赤く成つた提灯を提げて戻つた。冥途から來た佛が其の火に宿つたしるしだといつて必ず提灯が墓地から點けられるのである。おつぎは勘次の懷が幾らか暖かに成つたので、廉物ではあるが中形の浴衣地も拵へて貰つた。おつぎはもう十九の秋であつた。おつぎは其の浴衣地を着てお品の墓へ行つたのである。髮は晝の内に近所の娘同士が汗染みた襦袢一つの姿で互に結ひ合うたのである。おつぎは浴衣地へ赤い帶を締めた。勘次は紺の筒袖の單衣で日に燒た足が短い裾から出て居た。おつぎの裝ひは側では疎末であつても、處々ちらり/\と白い穗先が覗いて大抵はまだ冴え/″\として只一枚の青疊を敷いた樣な田圃の間をくつきりと際立つて目に立つのであつた。三人が田甫を往復してから暫く經つて村落の内からは何處の家からも提灯持て田甫の道を老人と子供とがぞろ/″\通つた。勘次は提灯の火を佛壇の燈明皿へ移した。煤け切つた佛壇の菜種油の明りは遠い國からでも光つて來るやうにぽつちりと微かに見えた。お袋のよりも先づ白木の儘のお品の位牌に心からの線香の煙が靡いた。勘次もおつぎもみそ萩の小さな花束の先を茶碗の水に浸して其の水をはらりと芋の葉へ盛つた茄子へ振り掛けた。勘次は雨戸を一杯に開けた。おつぎは浴衣をとつて襦袢一つに成つて、笊に水を切つて置いた糯米を竈で蒸し始めた。勘次は裸で臼や杵を洗うて檐端に据ゑた。彼等はさういふ仕事があるので墓へ行くにも人よりも先立つて非常に急いだのであつたが、それでも米が蒸せるまでには家の内は薄闇く成つて居た。日のまだ落ちない内から庭を覗いて居た月が白く、軈てそれが稍黄色味を帶びて來て庭の茂つた柿の木や栗の木にほつかりと陰翳を投げた。おつぎが忙しくどさりと臼へ落したふかしからぼうつと白い蒸氣が立つた。其の蒸氣の中に月が一瞬間目を蹙めて直につやゝかな姿に成つた。おつぎは熱いふかしを蒸籠から杓子で臼へ扱き落しながら側に立つて居る與吉へ少し遣つた。程よく蒸した其ふかしを與吉は甘相にたべた。おつぎも指に附いたのを前齒で噛むやうにして口へ入れた。蒸氣の立つ臼を勘次は暫く杵の先で捏ねた。杵の先が粘つて離れなく成る。おつぎは米研桶へ水を汲んでそれへ浮べた杓子で杵の先を扱落して臼の中を丸い形に直す。さうすると勘次は力を極めて臼の中央を打つ。それが幾度も反覆された。庭の木立の陰翳が濃く成つて月の光はきら/\と臼から反射した。蒸暑い中にも凡てが水の樣な月の光を浴びて凉しい微風が土に觸れて渡つた。おつぎは臼から餅を拗切つて茗荷の葉に乘せて一つ/\膳へ並べた。少し丸みを缺いた十三日の月が白く其の一つ/\の茗荷の葉の上に光つた。冷水を打つた樣なの葉がゆら/\と動いて後の林の竹の梢もさら/\と鳴つた。
それでも忙しいおつぎは汗を流しながら先づ茗荷の餅を佛壇に供へた。それから別に拗切つた餅が豆粉と共に手ランプの下に置かれた。與吉は直に座敷へ坐つて待つた。晩餐が畢ると踊子を誘ふ太鼓の音が漸く沈み掛けた夜氣を騷がして聞え始めた。檐に立つた蚊柱が崩れて軈て座敷を襲うた。勘次は麥藁を一捉み軒端へ投げて、刈つた青草をそれへ打つ掛けて、燐寸の火を點けてさうして抑へつけた。ぷす/\と燻る煙が蚊を遠く散亂せしめる。ぽつと焔が立つて燃えあがれば水を打つた。彼等は目鼻にしみる青い煙の中に裸體の儘凝然として居る。煙が餘所へ逸れゝば箕で煽つて家の内へ向はせた。おつぎは勝手の始末をしてそれから井戸端で、だら/\と垂れる汗を水で拭つた。手拭を浸す度に小さな手水盥の水に月が全く其の影を失つて暫くすると手水盥の周圍から聚る樣に段々と月の形が纏まつて見えて來る。踊子を誘ふ太鼓の音が自分の村落のは直垣根の外の樣に、遠い村落のは繁茂して居る林の彼方に空に響いて聞える。それが井戸端に立つて居るおつぎの心を誘導つた。同年輩の子は皆踊に行くのである。おつぎには幾分それが羨ましくぼうつとして太鼓に聞き惚れて居た。軟かな月の光におつぎの肌膚は白く見えて居た。おつぎは耳に響く太鼓の音を聞きながら、まだ縺れぬ髮を少し首を傾けつゝ兩方の拇指の股で代り代りに髱を輕く後へ扱いた。おつぎは汗を拭つてさつぱりとした身體へ復た浴衣を着た。
「おとつゝあ、あの太鼓は何處だんべ」おつぎは帶の端を氣にして後へ手を廻しながら聞いた。
「どれ、あの遠くのがゝ、分るもんか何處だか」勘次は燃えた處だけがつくりと減つた蚊燻しの青草に目を注ぎながら氣乘のしない樣にいつた。
「俺ら方へはまあだ、他村から來る頃ぢやあんめえな」
「おとつゝあ等がにや分るもんかよ、そんなこと」
「そんでも、他村から來んだつて云つけぞ、支度して來んだつて俺ら今日頭髮結つてゝ聞いたんだぞ」
「さうえ者な、さうえ者よ」
「俺ら行つてんべ、よきも行つて見ろなあ、姉と一緒に」おつぎは獨語した。
「汝ツ等ことばかし遣れつかえ」勘次は突然呶鳴つた。
「そんでも、南のおつかさん行きたけりや連れてくつちつたんだぞ」
「箆棒、そんなことされつかえ、踊なんざあ後幾日だつてあらあ、今夜らつから行かねえつたつてえゝから、他人に云はれつとはあ、其れに乘つてあふり/\出たがんだから」勘次は一概に叱りつけた。おつぎは締め掛けた帶を解いて傍へ投げ棄てた。
次の日の晩餐には例年の如く饂飩が打たれた。小麥粉を少し鹽を入れた水で捏ねて、それを玉にして、筵の間へ入れて足で蹂んで、棒へ卷いては薄く延ばして、更に幾つかに疊んでそく/\と庖丁で斷つた。饂飩の切り端は皆一寸一箇所を撮んで三角形に拵へて膳へ並べて佛壇へ供へた。其の切り端は其の翌朝各自が自分の田畑をぐるりと廻つては菽や稻の穗や其の他の作物を佛へ供へるのであるが、佛も其の朝野廻りに出るのだといふので其佛の笠に供へるのだといふのである。
踊子を誘ふ太鼓の音は夜を待ち兼ねて鳴り出した。勘次は其の夜蚊燻しの支度もしないで紺の單衣へぐる/\と無造作に三尺帶を卷いて、雨戸をがら/\と閉て始めた。さうして
「おつう支度して見ろ、俺連れてんから」勘次は性急におつぎを促し立てた。大戸の鍵を外から掛けて三人が庭に立つた時月は雲翳を遠ざかつて靜かにの木の上に懸つて居た。
毎年極つた踊の場所は村の社の大きな樅の木陰である。勘次等三人が行つた時は踊子はもう大分集つて居た。一足森に入れば劇しく叩く太鼓の音が、その急いで遠くへ響き去るのを周圍から遮り止めようとして錯雜して茂つて居る幹や小枝に打當つて紛糾つて居るやうに、森一杯に鳴り響いて上へ/\と恐ろしく人々の心を誘導つた。男女が入り交つて太鼓を中央に輪を描いて居る。それが一定の間隔を措いては一同が袋の口の紐を引いた樣に輪が蹙まつて、ぱらり/\と手拍子をとつて、復以前のやうに擴がる。さうしては其の踊の手を反覆しつゝ徐ろに太鼓の周圍を廻る。女は袖を長く見せる爲に手拭を折つて兩方の袂の先へ縫つけて、それから扱帶を襷にして結んだ長い端を後へだらりと垂れて居る。扱帶は踊の手を描く度毎に袂と共にゆらり/\と搖れる。男は少し亂暴に女の身體にこすりつきながら踊る。女は五月繩い時には一時踊の手を止めて對手を叱つたり叩いたり、然も其特性のつゝましさを保つて拍子を合せ乍ら多勢の間に揉まれつゝ同一線を反覆しつゝ踊る。漸次に人勢が殖えて大きな輪の内側に更に小な輪が描かれた。太鼓が倦怠れば
「太鼓が疎かぢや踊もおろかだ」と口々に促し促し交互に唄の聲を張り揚げて踊る。太鼓の手は疲れゝば更に人が交代して撥も折れよと鳴らす。踊子は皆一杯に裝飾した笠を戴いて居る。裝飾といつても夜目に鮮やかな樣に、饅頭や其の他の物を包む白いへぎ皮を夥しく括り附けて置くのである。其れが月光を遮つて居る樅の木陰に著るしく目に立つて、身を動かす度に一齊にがさがさと鳴りながら波の如く動いて彼等の風姿を添へて居る。彼等が幾夜も踊つて不用に歸した時には、それが彼等の歩いた路の傍に埃に塗れながら到る處に抛棄せられて散亂して居るのを見るのである。
其の踊の周圍には漸く村落の見物が聚つた。混雜して群集と少し離れて村落の俄商人が筵を敷いて駄菓子や梨や甜瓜や西瓜を並べて居る。油煙がぼうつと騰るカンテラの光がさういふ凡てを凉しく見せて居る。殊に斷ち割つた西瓜の赤い切は小さな店の第一の飾りである。踊子の渇した喉には自分等が立てる埃の掛るのも頓着なく只管それを佳味く感ずるのである。それが少女であれば少くとも三四人が群れて飾られた花笠深く顏が掩はれて居るのにそれでも猶且知られることを恥らうて漸く手の及ぶ程度にカンテラの光の範圍から遠ざからうとしつゝ西瓜の一片づつを求める。俄商人はカンテラの光明と木陰の薄い闇との間に立つた其の姿が明瞭と見極め難いので、頻りに目を蹙めつゝ求められる儘に筵の端に立つて西瓜を出して遣る。踊子は其れを手にして慌しく木陰に隱れる。其處には必ず各の口から發する笑聲が聞かれるのである。カンテラの光の爲に却て眼界を狹められた商人は木陰の闇から見れば滑稽な程絶えず其の眼を蹙めつゝ外の闇を透して騷がしい群集を見て居る。
勘次は與吉の求める儘に西瓜の一片を與へて自分は商人の狹い筵の端へ腰を卸した。おつぎは暫く店の側に立つて居たが、明るい光を厭うて軈て樅の木の下に與吉と共に身を避けた。勘次は俄に眼を聳かすやうにして木陰の闇を見た。彼は其處におつぎの浴衣姿が凝然として居るのを見て筵から離れることは仕なかつた。
「おつぎさん能く來たつけな」列を離れた踊子が汗の胸を少し開いて、袂で頻りに煽ぎながら樅の木の側に立つていひ掛けた。
「おゝ暑いやまあ、咽つ返る樣だ」と、袂の端で汗を拭きながら
「おつぎさん、踊んねえか」と他の一人がいつた。
「俺ら厭だよ、おとつゝあ居つから」おつぎは小聲でいつた。誘うた踊子は目を蹙めて居る勘次の容子を見て自分が睨みつけられて居る樣に感じたので、他へ孤鼠々々と身を避けた。女同士の眼には姿を變じた踊子が皆一見して了解されるのであつた。
踊を見ながら輪の周圍に立つて居る村落の女等は手と手を突き合うて勘次の容子を見てはくすくすと竊に冷笑を浴せ掛けるのであつた。カンテラの光は樅の木陰の何處からでも明瞭と勘次の容子を目に立たせる樣にぼう/\と油煙を立てながら、周圍の眼と首肯き合うて赤い舌をべろべろと吐きつゝゆらめいた
おつぎの姿が五六人立つた中に見えなく成つた時勘次は商人の筵を立つてすつと樅の木の側へ行つた。おつぎは一二歩位置を變へた丈であつたので、彼は直におつぎの白い姿と相接して立つた。女同士は勘次の姿を見て少し身を避けた。五六本屹立した樅の木は引つ扱いた樣な梢が相倚つて、先刻から明かるい光を厭ふ踊子を掩うて一杯に陰翳を投げて居たのであるが、凝然とした靜かな月が幾らか首を傾けたと思つたら樅の梢の間から少し覗いて、踊子が形づくつて居る輪の一端をかつと明かるくした。彼等の戴いて居る裝飾が其光に觸れゝば悉く目を射るやうにはつきりと白く見え出した。殆んど疲勞といふことを感じないであらうかと怪しまれる彼等は益々興に乘じて少し亂雜に成り掛けた。白いシヤツの上に浴衣を肩まで捲くつて、臀をげて草鞋を穿た幾人が列から離れたと思つたら、其處らに立つて見物して居る女等に向つて海嘯の如く襲うた。女同士はわあと只笑ひ聲を發して各自に對手を突いたり叩いたりして亂れつゝ騷いだ。突然一人がおつぎの髮へひよつと手を掛けた。
「此らまあ、どうしたもんだ」おつぎが驚いて叫んだ時、對手はおつぎの櫛を奪つて混雜した群集の中へ身を沒した。おつぎは髮へ惡戯されたことを嫌つて思はず手を當て見て櫛の無くなつたのを知つた。
「他人の櫛まあ」おつぎは其れを追はうとして覺えず足を蹂み出すと、一歩運んだ勘次の手がむづとおつぎの首筋を捉へた。彼は同時におつぎの小鬢を横に打つた。おつぎが慌てゝ後を向かうとする時、復び劇しく打つた手がおつぎの鼻に當つた。おつぎは兩手で鼻を抑へて縮まつた。女同士は樅の木陰に身を峙めて手の出し樣もなかつた。
一つには平生からおつぎに對する勘次の態度を知つて居て其處に一種の恐怖を感じて居たからでもあつた。
「どうして汝りや、櫛なんぞ取らつたんだ」勘次はからびた喉から絞り出す樣な聲で詰問した。
「こうれ、此阿魔奴、しらばくれやがつて、どうしたんだよ」勘次は屈んだ儘のおつぎをぐいと突いた。おつぎは轉がり相にして漸く土へ手を突いた。
「何爲んだな、おとつゝあ」おつぎは慌てゝ顏を捩ぢ向けて少し泣き聲で寧ろ鋭くいつた。
「何爲んだとう、づう/\しい阿魔だ、櫛何故して取らつたんだか云つて見ろつちんだ、此んでも分んねえのか、云つて見ろよ」勘次は暫く間を措いて、又かつと忌々敷なつたやうに
「云つて見ろつちのに、云つて見ろよ」と反覆しておつぎを責めた。
「どうしてつちつたつて、俺らがにや分んねえよ」おつぎは恨めし相に然しながら周圍に憚る樣にして小聲でいつた。袂は顏を掩うた儘である。
「分んねえとう、何にも知らねえ者で他人の櫛なんぞ取つか」勘次は苦しい息を吐くやうにして
「そんだら汝りや」と齒でぎつと噛み殺した樣な聲でいつた。暫時凝然と見て居た彼はおつぎを蹴つた。おつぎは前へのめつた。然しおつぎは泣かなかつた。「おゝ痛てえまあ」群集の中から假聲でいつた。踊の列は先刻から崩れて堵の如く勘次とおつぎの周圍に集まつたのである。おつぎは此聲を聞くと共に亂れ掛けた衣物の合せ目を繕うた。
「櫛とつたな此處に居たよう」と此れも喉の底からかすれて出るやうな聲が群集の中から發せられた。
「持つてたら、やつちめえ」
「厭だよう、おとつゝあに打ん擲られつから、おとつゝあ勘辨してくろよう」と歔欷くやうな假聲が更に聞えた。惘然として見て居た凡てがどよめいた。
「おとつゝあ明り點けべえかあ」と群集の後から呶鳴ると共に凡てが復たどつと笑つた。
おつぎはむつくり起きてさつさと行き掛けた。
「汝何處さ行くんだ。こうれ」勘次は引つ捉まうとしたがおつぎは身を捩つてさつさと行く。勘次は慌てゝ草履の爪先が蹶きつゝおつぎの後に跟いた。
「おつう」彼は心もとなげに喚んだ。與吉はどうした理由とも分らないので先刻から只泣いて居た。
太鼓が止んで踊は全く亂れて畢つた。それでなくても彼等は一しきり踊れば田圃を越えて三々五々と男は女を伴うて、畑の小徑から林を過ぎて村落から村落へと太鼓の音を尋ねて行くのである。
勘次の後から彼等はぞろ/\と跟いて行つた。或者は足速に駈け拔けては
「燒餅燒くとて手を燒いてえ、其の手でお釋迦の團子捏ねたあ」と當てつけに唄うてずん/\行つて畢ふ。後の群集はそれに應じて指を啣へてぴう/\と鳴らしながら勘次の心を苛立たせた。勘次は何れ程それが激した心に忌々敷くても其れを窘めて叱つて遣る何の手がかりも有つて居らぬ。三人は只默つて歩いた。
社の森の外は白い月夜である。勘次が村落外れの家に歸つた時は踊子は皆自分の嚮ふ處に赴いて三人のみが靜に深け行く庭にぽつさりと立つたのであつた。各所の太鼓の音が興味は却て此れからだといふ樣に沈んだ夜を透して一直線に響いて來る。唄の聲は遠く近く聞える。夜は全く踊るものゝ領域に歸した。彼等は玉蜀黍の葉がざわ/\と妙に心を騷がせて、花粉の臭ひが更に心の或物を衝動る畑の間を行くとては、踊つて唄うて渇した喉に其處に瓜が作つてあるのを知れば竊に瓜や西瓜を盗んで路傍の草の中に打ち割つた皮を投げ棄てゝ行くのである。彼等の間に惡戯の好きな五六人が夜が深けてからそつと勘次の庭へ立つて見た。其の時は只自分等の陰翳が稍長く庭の土に映じて、月は隙間だらけの古ぼけた雨戸をほのかに白く見せて居た。周圍は泣き止んだ後のやうに餘りに寂しかつた。五六人は只ぽつさりと歸つて畢つた。
おつぎは次の朝櫛を探しに出た。同じ年輩の間には誰の惡戯であるかが其の場で凡ての耳に知れ渡つて居た。
「櫛なんざ持つてゐねえぞはあ、それよりやあ、歸つての木のざく股でも見た方がえゝと」朋輩の一人がおつぎへいつた。おつぎは自分の庭の木の幹が二股に成つた處に櫛がそつと載せてあるのを發見した。櫛は鼈甲模擬のゴムの櫛であつた。齒が二枚ばかり缺けて居た。おつぎは損所を凝然と見て直に髮へした。
櫛の事件は其れつ切で畢つた。勘次は何かにつけてはおつう/\と懷かしげに喚んで一家は人の目に立つ程極めて睦ましかつた。然しかういふ事件は村落の凡ての口を久しく防ぐことは出來なかつた。殊に女房等の間には
「勘次さんもどうしたつちんだんべ、俺ら可怖えやうだつけぞ」
「本當によ、丸つきり狂氣のやうだものなあ」といふ驚異の聲が到る處に反覆された。
「唯たあ思へねえよ、勘次さんもあゝいに仕ねえでもよかんべと思ふのになあ」嘆聲を發しては各自の心に伏在して居る或物を口には明白地に云ふことを憚る樣に眼と眼を見合せて互に笑うては僅に
「厭だ/\」といふ底に一種の意味を含んだ一語を投げ棄てゝ別れるのである。殊には村落の若者の間へは寸毫も遠慮の無い想像に伴ふ陰口を逞しくせしめる好箇の材料を提供したのであつた。
一四
夏が循環した。
暑い日の刺戟が驚くべき活動力を百姓の手足に與へる。百姓は馬や荷車を駈つて刈り倒した麥をせつせと運ぶ。永い日は僅な日數の内に目に渺々たる畑をからりとさせて、暫くすると天候は極りない變化の手を一杯に擴げて、黄色に熟する梅の小枝を苦めて居る蟲も滅亡して畢ふ程の霖雨が惘れもしないで降り續く。さうすると麥を刈つた跟の菽や陸穗が渇した口へ冷たい水を獲た樣に勢づいて、四五日の内に青い葉を以て畑の土が寸隙もなく掩はれる。雨は蹂み固めてある百姓の庭の土にも※菜[#「くさかんむり/(火+旱)」、195-5]や石龍の黄色い小粒な花を持たせて、棟にさへ長い短い草を生ぜしめる。自然の意志は只管に地上の到る處に軟かな青い葉を以て掩ひ隱さうとのみ力を注いで居るのである。其の意志に逆らうて猶豫うて居るのは百姓の手で丁寧に捏ねられた水田のみである。夏が漸く深けると自然は其の心を焦燥らせて、霖雨が低い田に水を滿たしめて、堀にも茂つた草を沒して岸を越えしめる。稻草を以て田の空地を埋めることが一日でも速かなればそれだけ餘計な報酬を晩秋の收穫に於て與へるからと教へて自然は百姓の體力の及ぶ限り活動せしめる。さうすると百姓は田のやうにどろ/\と往來の土をも捏ねて馬と共に泥に塗れながら田植にのみ屈託する。彼等は雨を藁の蓑に避けて左手に持つた苗を少しづつ取つて後退りに深い泥から股引の足を引き拔き引き拔き植ゑ退く。恁うして宏濶な水田は、一日泥に浸つた儘でも愉快相に唄ふ聲がそつちからもこつちからも響くと共に、段々に淺い緑が掩うて、多忙で且活溌な夏の自然は先に植ゑられた田から漸次に深い緑を染めて行く。田が凡て植ゑ畢つた時には畦畔にも短い草が生えて居て土の黒い部分が何處にも見えなく成る。自然は始めて自己の滿足を得た樣にからりと快よい空を拭うて暑い日の光を投げ掛ける。青田の畦畔には處々に萱草が開いて、田の草を掻くとては村落の少女が赤い帶を暑い日に燃やさない日でも、萎んでは開いて朱杯の如く點々と耕地を彩るのである。百姓は忙しい田植が畢れば何處の家でも秋の收穫を待つ準備が全く施されたので、各自の勞を劬ふ爲に相當な饗應が行はれるのである。其が早苗振である。
勘次とおつぎは南の早苗振の日に傭はれて行つて居た。勘次の家から南へ行く小徑を挾んだ桑畑は刈取つてから草の生えた位に枝が立ち始めて居た。桑の間には馬鈴薯が茂つて花を持つて居た。南の家では少しばかり養蠶をしたので百姓の仕事が凡て手後れに成つたのであつた。村落の大抵が田植を畢り掛けたので慌てゝ大勢の手を傭うた。其の日は晴れて心持がよかつたのと、一同が非常な奮發をしたのとで仕事は日の高い内に濟んだ。南の女房は仕事の見極めがついたのでおつぎを連れて、其晩の惣菜の用意をする爲に一足先へ田から歸つた。女房は忙しい思ひをしながら麥を熬つて香煎も篩つて置いた。
田植の同勢は股引穿いた儘泥の足をずつと堀の水に立てゝ、股引の紺地がはつきりと成るまで兩手でごし/\と扱いた。溶けた泥が煙の如く水を濁らしてずん/\と流される。さうしてから其の股引を脱いでざぶ/\と洗ふ者も有つた。彼等が歸つて家の内は急にがや/\と賑かに成つた。裏戸口のの木の下に据ゑられた風呂には牛が舌を出して鼻を舐めづつて居る樣な焔が煙と共にべろ/\と立つて燻りつゝ燃えて居る。傭はれて來た女房等の一人が蓋をとつてがら/\と掻き廻して、それから復た火吹竹でふう/\と吹いた。焔の赤い舌がべろ/\と長く立つた。
再び蓋をとつた時には掃除の足らぬ風呂桶のなかには前夜の垢が一杯に浮いて居た。其ことには關はずに田植の同勢はずん/\と這入つた。彼等は殆んど只手拭でぼちや/\と身體をこすつて出た。足の爪先に詰まつた泥を落すことさへ仕なかつた。
「燻つてえのそつちへおん出さなくつちや仕やうねえや」風呂から出た儘拭ひもせぬ足に下駄を穿いて裸の臀を他人に向けて立つた一人が後を顧みていつた。
「なあに管あねえ」後から目を蹙めながら一人が首筋まで沈んだ。それから風呂桶へ腰を掛けてごし/\と洗ひながら
「此りや燻つてえ」と復沈んだ儘ごし/\と垢を落して居たが
「あゝ善え處だ、よう、おつぎ、少と此處まで來てくんねえか」といつた。彼は百姓の間には馬を曳いて歩く村落の博勞であつた。
「どうしたもんだんべ、兼さん等自分で這入んのに燻つたけりや、おん出してからへえつたら善かんべなあ、それに怎的したもんだ一同居て、水汲みに來たものなんぞ使あねえたつてよかんべなあ」おつぎは輕く窘める樣にいつて二つの手桶をそつと置いて、燻つて居る薪を出して遣つた。
「おつぎに掻ん出して貰あんでなくつちや厭だつちから俺ら管あねえんだな、そんでなけりや幾らでも出して遣らざらによ」側から直にいつた。
「燻つてえの無く成つたら酷く晴々してへえつてる樣ぢやなくなつた。俺ら莫迦な目に逢つちやつたえ」兼博勞はがぶりと風呂の音をさせて立ながらいつた。
「どうしたもんだ、他人のこと使つて小憎らしいこと、そんなこと云ふとおつけて遣つから」おつぎは燻つた薪を兼博勞の近くへ出した。兼博勞は慌てゝ
「謝罪つた/\」とずつと身を引いた。おつぎが手桶の側へ戻つたら
「ああ、おつぎ/\少と待つてゝくろえ、俺れえゝ物出すから」兼博勞は口速に喚び掛けた。
「おゝ厭なこつた、要らねえよ」おつぎは少し身を屈めて手桶の柄を攫んで其の儘身を延すと手桶の底が三寸ばかり地を離れた。
「えゝ、此れ出すべつちのに」兼博勞は後から投げた。それは梢から風呂の中へ落ちた蔕のない青いであつた。は手桶の水へぽたりと落ちて、水のとばちりが少しおつぎの足へ掛つた。
「憎らしいことまあ、惡戯ばかし仕て」おつぎは嫣然として後を見た。
「後見せえすりやそんでえゝんだ」と風呂の側に居た一人がいつた。
「俺ら其の雀班見せえすりや氣が濟んでんだよ」兼博勞は後に跟いていつた。
「何程すれつからしなんだんべ兼さんは、他人のこと本當に」とおつぎは手桶を置いて水に泛んだ青いを兼博勞へ投げた。
「兼さんすつかり惚られつちやつた」と風呂桶の傍からいつた。おつぎは顏を赧くして慌しく手桶を持つて遁げた。一杯に汲んだ手桶の水が少し波立つて滾れた。風呂桶の傍では四十五十に成る百姓も居て一同が愉快相にどよめいた。おつぎが手桶を持つた時勘次は裏戸の垣根口にひよつこりと出た。彼は衣物を換へに桑畑の小徑を越えて自分の家へ行つたのであつた。彼は風呂の側の騷ぎをちらと耳にしてそれからおつぎの後姿を目にしたので怪訝な容子をして庭にはひつて來た。一同は打合せた樣に默して畢つた。
落ち掛けた日が少時竹藪を透して濕つた土に射し掛けて、それから井戸を圍んだ井桁にんで陰氣に茂つた山梔子の花を際立つて白くした。暫くして青い煙の滿ちた家の内には心も切らぬランプが釣るされて、板の間には一同ぞろつと胡坐を掻いて丸い坐が形づくられた。
此も傭はれて來た若い女房等は竈の前に立つて内の女房とおつぎとに手を藉して居た。徳利が三四本膳の前に運ばれた。
「お蔭でどうも捗行きあんした。どうぞゆつくり行つておくんなせえ」亭主は改まつて挨拶した。
「はい」と一同が時儀をした。各自の膳の隅へ一つ宛渡された茶呑茶碗へ酒が注がれようとした時
「あれ待つてゝくんねえか」と内の女房が慌てゝいつた。
「おとつゝあん、お竈樣忘れたつけべな」女房は竈から飯の釜を卸して布巾を手にした儘いつた。
「さうだつけな、ほんに」亭主はいきなり一本の徳利を手にして土間へおりた。竈の上の煤けた小さな神棚へは田から提げて來た一把の苗が載せてあつた。彼は其苗束へ徳利から少し酒を注いだ。
「酒そつちの方へたんと掛けねえで貰れえてえな」兼博勞はけろりとした容子をして戯談をいつた。
「酒飮む者な、さうだに惜しいもんだんべか」おつぎはこつそりいつた。
「そんだつて酒つちや人の口さ入える樣に出來てんだから、それ證據にや俺らが口さ入えりやすぐ利くから見ろえ」兼博勞はいつた。亭主は又苗束へ香煎を少し振り掛けた。それは稻の花に模擬つたので、稻の花が一杯に開く樣との縁起であつた。兼博勞は其れを見て急に土間へ下りて行つた。
「どうれ、おめえ等饂飩粉少と持つて來て見せえ、一ツ爪尻でえゝんだ、おゝえ持つて來うな、おつぎでもえゝや、よう」と兼博勞は促した。
「どうしたもんだ、大威張して」おつぎは呟きながら内の女房に聞いて小麥粉を一捉み出して遣つた。
「さうら此れ掛けて、此れが晩稻の花だ」兼博勞は手にした小麥粉を悉く掛けて畢つた。苗束は少し白く成つた。
「何處にもさういに掛けるもな有んめえな」女房の一人が見て居ていつた。
「俺ら晩稻作んだから、役場の奴等作つちやなんねえなんちつたつて、俺ら見てえな、うつかりすつと乳ツ岸までへえるやうな深ん坊の冷えつ處ぢやどうしたつて晩稻でなくつちや穫れるもんぢやねえな、それから俺れ役場で役人が講釋すつから深ん坊ぢや斯うだつち噺したら、はつきり惡りいたあ云はねえんだから、夫から俺れ糞攫んで見ねえ奴ぢや駄目だつちんだ」彼は笑ひながら獨り饒舌つた。
「根性捩れてつからだあ、晩稻は作んなつちのに」女房の一人が又いつた。
「俺れか、いやどうも捩れてんにもなんにも」兼博勞はいつて
「そうれ見ろえ、稻へ白え花が咲えたぞ、白坊主の花だこりや」彼は手に附いた粉を能く叩いた。
「厭だよ、白坊主ツち稻はあんめえな」女房が又いつた。
「そんでも俺ら勘次さんに聞いたぞ」彼は少し首をすくめながら聲を低めていつた。袂で口を抑へて女房等は笑を殺した。兼博勞は態と笑を嚥んで再び板の間に胡坐を掻いた。
勘次は小さな時分から侮られて能く泣かされた。彼は恐ろしい泣蟲であつた。彼は何時の間にか燗鍋といふ綽名を附けられた。彼は心に幾ら其れを嫌つたか知れない。卅越えて四十に成つても彼は鍋といふのが酷く厭であつた。村落ではそれを知らぬ者はない。或時惡戯好な兼博勞が勘次の刈て居る稻を、此は何だえと聞いた。態と聞いたのであつた。其れは鍋割れとも、それから芒が白いので白芒とも云ふのであつたが勘次は
「此は白坊主」とそつけなくいつた。彼は鍋といふのが厭でさういつたのである。兼博勞はうまく或物を攫へた樣に得意に成つて村落中へ響かせた。口の惡い百姓等は勘次がおつぎを連れて田へ出て居るのを見て
「白坊主等夫婦して耕つてら」抔と放言することすらあるのであつた。
茶碗には一杯づつ酒が注がれた。一同はしをらしく茶碗を口に當てた。
「恁んな物でよけりや、夥多やつておくんなせえ、まあだ後にも有りやんすから」内の女房は鹽で煮たかと思ふ樣な白つぽい馬鈴薯の大きな皿を膳へ乘せて二處へ置いた。忽ち一杯を干して獻酬が始まつた。注がれるものは茶碗の手を擧げて相手が持てる徳利の口へ手を掛けて酒の滾れるのを防いだ。酒が始まつてから皆が妙に鹿爪らしく居ずまひを改めた。
「さあ、何卒ずん/\干しておくんなせえね」亭主は促した。
「はい」挨拶が又口々に出た。
此の頃では不廉な酒は容易に席上へは運ばれなく成つて居たので隨つて他人の買つたのでも皆控へ目にする樣に成つて居た。南では養蠶の結果が好かつたのと少しばかり餘つた桑が意外な相場で飛んだのとで、一圓ばかりの酒を奮發したのであつた。其の晩の料理に使ふ醤油が要るので兩方を兼ねて亭主は晝餐休みの時刻に天秤擔いで鬼怒川を渡つた。村落の店では買はずに直接酒藏へ行つたので酒は白鳥徳利の肩まで屆いて居た。
各自の平生渇して居る口には酒は非常に佳味く感ずると共に、其の痲痺する力に對する抵抗力が衰へて居るので徳利が一本づつ倒されて次の徳利に手が掛つたと思ふ頃板の間では一同のたしなみが亂れて威勢が出た。
「おめえ、さういに自分の處えばかし置かねえで干せな」と弱い者の處へ杯を聚めて困るのを見ようとさへする樣に成つた。勘次は獨り側なる徳利を引きつけて幾抔か傾けて他人よりも先に小鬢の筋が膨れて居た。
「俺ら、鉋の持たねえ大工だ、鑿一方つちんだから」といつて勘次は相手もないのに態とらしい笑ひやうをして女房等の居る方を見た。彼は俛れ相に成る首を起して數々見ることを反覆した。おつぎは後の方へ隱れて居た。勘次は箸を一本持つて危險い物にでも觸るやうに平椀の馬鈴薯を其先へ刺しては一杯に口を開いて頬張つた。平椀には牛蒡と馬鈴薯とが堆く盛られて油揚が一枚載せてある。
「箆棒に大かく成つたつけな、此の馬鈴薯はなあ」一人がいつた。
「此んでも桑の間さ作つたんだが、思ひの外だつけのさ」亭主は自慢らしくそれでも態と聲を落していつた。
「桑の間でかう出來つかな、そりやさうと何處さ作つたんでえまあ」
「裏の垣根外さ、土はかたで赤つぽうろくだが、掃溜みつしら掘つ込んで置いた處だから、其れが出たと見えんのさ、思ひの外土地は嫌あねえもんだよ、此んなもんでも作つちや桑にや惡かんべが」
「大丈夫だとも、馬鈴薯が大かく成る樣ぢや其肥料は桑も吸ふから、いや桑の根つ子の遠くへ踏ん出すんぢや魂消たもんだから、目も有りもしねえのに肥料の方へ眞直にずうつと來つかんな」
「此れでどの位殖えるものだと思つたら一ツ株で一升位づゝも起せるよ」亭主がいへば
「うむ、さうかな、さうすつと割の善えもんだな」各自にさういつて居ると
「能く牛蒡は保たせたつけな」といふものがあつた。
「なあに、踏ん固める處へ活けてせえ置けば大丈夫なものさ、俺ら家や田植迄は有るやうに庭へ埋めて置くのよ」亭主は自分も椀の牛蒡を挾んでいつた。
「さうだが、俺ら家なんぞぢや、それまでにや無く成つちまあから一度でもさういに活けて置いたことあねえな」と一人がいへば
「俺らなんざ、腹さ藏つて置くから盜られつこなしだ」兼博勞は口を出した。
「牛蒡もうつかりして繩で縛つて活けちや、其處から腐れがへえつて酷えもんだな、藁は餘つ程嫌えだと見えんのさな」勘次は横合からいつた。
「どうしたかよ」疑ひの聲が發せられた。
「どうしたかなもんぢやねえ、俺ら家で行つたこと有んだもの」彼は相手に壓せられた樣に聲を低めて
「なあおつう、さうだな」と身體を横に向けていつた。板の間と土間との界に立つて居る柱の陰にランプの光から身を避けるやうにして一座の獻酬を見て居た女房等の手が俄におつぎの臀をつゝいて
「おつうとそれ、返辭するもんだ」小聲でいつて微に笑つた。勘次は怪訝な容子をして柱の陰を凝然と見て目を蹙めた。
「おつぎは居るよおめえ、さういに見ねえでも」柱の陰からいつて私語いた。勘次は板の間の端に近く居たのであるが膳を越えて身體をぐつと前へ延ばしては徳利を動かして空に成つたのは女房等へ渡して何處となしに心を配る樣にそわ/\として居る。
「はてな、懷え入えた筈だつけが」と兼博勞は懷から周圍を探して側へ落ちた小さな紙包を手にして
「こうれ、うめえ物見ろえまあ」といつて開けて見ると一寸ばかりの蟷螂が斧を擡げてちよろちよろと歩き出した。
「へゝえ、此ん畜生奴こんでも怒つてらあ」兼博勞はちよいと蟷螂をつゝいて見て獨り興がつて笑つた。
「どうしたもんだんべ大けえ姿して」と女房は皆笑つた。
「あれ俺ら知つてら」おつぎの傍に居た與吉は兼博勞の側へ行つて
「鴉のきんたまから出んだぞこら」といつた。
「汝ツ等知りもしねえで」勘次は與吉を甘やかす樣にしていつた。
「そんだつて俺ら見た、笹つ葉の枝にくつゝいてた處から出たんだ」與吉は蟷螂を弄りながらいつた。
「勘次さん駄目だよ、學校へ遣つちや半年たあ云はんねえから、下手んすつと今の子奴等にや遣り込められつちやからおとつゝあ此れ知つてつかなんちあれたつて、困らなどうもなあ」側からいつたので勘次は有繋に嫣然とした。
白鳥徳利の口が底よりも低く成つた時一座の間には馬の噺が出た。馬といふ奴はあの身體で酒の二杯も口へ入てやると忽ちにどろんとして駻馬でも靜に成る、博勞は以前はさうして惡い馬を嵌め込んだものである。現在でもそんなことで油斷は成らぬ、村落が貧乏したから荷車ばかり殖えて馬が減つて畢つたが荷車の檢査に行つて見て驚いた抔といふことや、朝鮮牛が大分輸入されたが狗ころの樣な身體で割合に不廉いからどうしたものだか抔といふことが際限もなくがや/\と大聲で呶鳴り合うた。
「博勞なんちい奴等は泥棒根性無くつちや出來ね商賣だな、嘘らつぽう打んぬいて、兼等汝りや、俺れことせえおつ嵌める積しやがつて」兼博勞の向側から戯談らしい調子でいふと
「箆棒、おつ嵌めんなもんぢやねえ、それ厭だら錢出せよ錢、なあ、錢出さねえ積すんのが泥棒より太えんだな、西のおとつゝあ等躊躇逡巡だから、かたで」
「そんだから見ろえ、博勞で藏建てた奴あ有りやしねえ、罰たかつてつから」
「どうした、そんだが此間の白は善かつたんべ、彼れさ打てな、あゝ西のおとつゝあ、白ぢや徴發はさんねえぞ」
「えゝから、それよりか、そんなに不廉えこと云はねえで、なあ、米一俵打つべえぢやねえか」
「徒勞だよそんぢや、あんでも六錢の横薦乘つけて曳いて來たんだぞ、血統證まで有んぞ、あゝ、彼の手はねえぞ」
「何んでえ汝がまた、牡馬と牝馬だけの血統證だんべ、そんなもの何に成るもんぢやねえ、俺れ知らねえと思つて、俺ら白河の市で聞いてらあ」
「博勞うまく練れねえ樣だな、ようしそんぢや俺れ一つ打つてやんべ」二人が戯談交りに劇しく惡口を云つて居るとふと側から凭ういつた。
「そんぢや、それ干せな、兼さんもそれ」彼は二人の茶碗を自分の手で交換させて、それを兩方へ渡して酒を注いだ。
「どうだえ、博勞うまく打てたんべ、どつちも依怙贔負なしつち處だ」相手は得意に成つて云つた。
「こつちのおとつゝあ、幾つだつけな、少つと白く成つたな」突然一人が呶鳴つた。
「さうよな」亭主は頭髮に手を當てゝいつた時
「おめえ、俺ら家のおとつゝあもどうしてか酷く白く成つたんだが、斯んで年齡はさういにとつちや居ねえんだぞ」其處へ小さな子を抱いて坐つた内の女房が微笑しながらいつた。
「俺れと同年齡だよ」獨りぼつちに成つて居た勘次は横から口を挾んだ。
「どうだかよ」
「なあに、どうだかなもんぢやねえ」
勘次は口を角のやうにしていつた。
「本當にさうなんだよおめえ」女房は側からいつた。
「そんぢや勘次さんおめえ幾つでえ」相手は乘地になつて聞いた。
「さうよ、俺らこつちのおとつゝあと同年齡だつけな」彼は自身の創意ではなくて何處かで聞いた記憶を其の儘反覆してさうして戯談を敢てした。
「えゝ箆棒な」と相手はいつて畢つた。内の女房は兩方の頭髮を熟と見て
「そんだが勘次さんは本當に若けえな。俺ら家のおとつゝあ等たあ、たえした違えだな」といつた。
「勘次さん等まあだ十七だな」兼博勞は直に後を跟いていつた。女房等は復た竊に袂で口を掩うた。兼博勞が顧みた時女房等は割つた燭奴の先を突つ掛けては香煎を口へ含んで面倒に嘗めて居たのであつた。
「香煎嘗めんのにや、笑つちやいかねえつちけぞ、おめえ等」兼博勞はいつた。先刻から笑ふ癖のついてた女房等は一時にぷつと吹出して粉が其處らに散つた。乾燥して居る粉の爲に咽せて女房等は頻りに咳をした。彼等は驅けおりて手桶の水をがぶりと飮んで漸く胸を落附けた。
「おゝ、酷え目に逢つた。粉鼻の方さへえつて鼻つん/\して仕やうありやしねえや、本當に兼さんは人が惡りいや、なんぼ憎らしいか知れやしねえ、其處らに薪雜棒でも有れば打つ飛ばして遣りてえ樣だ」涙の目を拭つて恨めしげに女房等は云ふのであつた。
「そんだから俺れ、笑つちやえかねえつて云つたんだな、それ聽かねえから」兼博勞は態と平然として云つた、恁うしてがみ/\いふ聲が錯雜つた時
「博勞さん一つやつゝけつかな」兼博勞は一聲殊に大きく呶鳴つたと思つたら茶碗の酒を一口にぐつと干して兩手に茶碗を伏せて、板の間にぱか/\ぱか/\と蹄に傚うて拍子取つた響を立てながら
「三春から白河の方へこんでも横薦乘つけたの繋いで曳いて來つ處らえゝかんな、能く聞いて見せえ、此の手にや行かねえぞ」彼は其の自慢の下から
「どう/\どうよ、ほうい、ほいとう」
と馬への掛聲を尤もらしくした。茶碗の拍子に連れて一同はぴつたり靜かに成つた。
「はあえゝえゝえゝ」とぼうと太い聲で唄ひ出して
「枯芝あえにいゝゝゝゝえゝ、はあえ、止るうえ、てふ/\のおゝゝゝゝえ、はあ、ありや氣があゝゝゝゝえ、え、はあ知れえゝぬうよおうゝゝ」と彼は眼を瞑つて少し上向に首を傾けて一杯の聲を絞つて極めて悠長にさうして句の續きを
「えゝ傍にえゝ、菜種えのおゝゝゝゝえ、えゝ花があえ、あゝえるうゝゝゝゝえゝ、ほういほい」と唄ひ畢つた時顏が殊更に赤く成つて汗が吊るしランプに光つて見えた。彼は手でぐるりと拭つた。
「箆棒に迂遠つけえ唄だな、此の夜の短けえのに眠つたく成つちやあな」側から惡口を吐いた。
「えゝから西のおとつゝあ、耳糞ほじくつて聞いてろえ」兼博勞はいつて
「はあえゝえゝ、えゝ朝のうゝゝえゝえ、はあ出掛えにいゝゝゝゝえ」と又唄ひ出した。
「朝の出掛にどの山見ても雲の掛らぬ山はない」と唄つて茶碗を動かしては
「ぱか/\ぱか/\となあ斯う、廿三坂越えて引く處だぜ、畜生あばさけんなえ」と彼は更に
「ひゝいん」と馬の啼き聲をしてそれから
「廿三坂か、白河のこつちだ、畢の坂が箆棒に長くつてな」といつて又
「はあえゝえゝえゝ」と左も氣の乘つたらしく
「奧の博勞さん何處で夜が明けた、廿三坂七つ目で」と愉快な聲で唄つた。
「夜引すつ時にや人間も眠つたく成りや馬も眠つたく成つてな、石坂だから畜生等がくたり/\はあ、なんぼにも歩かねえな、そん時にや、おうい一つどうだね遣つゝけちやあと許でなあ、博勞等ぞろ/\繼つて來んだから、峯の方でも谷底の方でも一度に大變だあ、さうすつと駒つ子奴等ひゝんなんてあばさけてぱか/\ぱか/\と斯う運びが違つて來らな、皆おつかげばかし喰つ附いてたの引つ放して來んだから足が不揃ひだなどうしても、それに坂が急だつちと倒旋毛おつ立てる樣だから畜生なんぼにも足が出ねえな、其奴へ合せて唄あんだからゆつくり行んなくつちやなんねえな」兼博勞は帶を解いて裸に成つて衣物を後へ投た。帶は一重で左の腰骨の處でだらりと結んであつた。兩方の端が赤い切で縁をとつてある。粗い棒縞の染拔でそれは馬の飾りの鉢卷に用ひる布片であつた。
「此處らの馬だつて見ろえ、博勞節門ツ先でやつたつ位厩ん中で畜生身體ゆさぶつて大騷ぎだな」彼は獨りで酒席を賑した。彼はさうして土のやうな汗と埃とで染まつた手拭で首筋から身體一杯に拭つた。それから
「おゝ痒い」とぴしやり手で蚊を叩いた。彼の唄に連て各自が更に唄つた。皆箸で茶碗を叩いて拍子を合せた。さういふ騷ぎに成つてから酒は減らなかつた。勘次は獨りで唄ふこともなく絶えず何物かを探すやうな目で土間のあたりをきよろ/\と見て居たが
「おつう」と唐突に喚んだ。彼は勢ひよく喚んで見て自分で拍子拔した樣にして居たが
「此れさ馬鈴薯でもくんねえか」と椀をづうつと出した。
「どうしたもんだおとつゝあは、お平の盛換えするもな有んめえな、馬鈴薯は前に幾らでも有んのに」おつぎは更に窘めるやうに
「おとつゝあは酩酊つたつてそんなに顛倒なけりやよかつぺなあ」と獨り呟いた。
「云つて見たのよ」勘次は態と笑つて椀を膳へ置いた。
「おつか樣等もこつちへ來うな、一杯やれな」彼は更に板の間の隅の方に居る女房等にいつた。
「ほんに仲間入したらよかつぺ」内の女房もいつた。若い女房等は仲間には成らなかつた。さうして唯笑つて居た。唄ひ騷ぐ聲に凡てが心を奪られて居ると
「汝りや梅噛つたんべ、學校の先生げ※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、213-12]訴けてやつから、腹痛くつたつて我慢してるもんだ」
おつぎは眠い眼をこすりながらしく/\泣いて居る與吉を横にして背中を叩いては撫りながらいつた。
「どうしたんだあ、腹痛えのか毒消しでも呑ませて見つか、俺らもはあ、梅だの李だの成熟ちやびや/\すんだよ、出て行んだから云つたつて聽かねえしなあ」内の女房はすや/\と眠つた膝の子の蚊を追ひながらいつた。
「汝れ梅なんぞ噛じつて、おとつゝあ腹抉り拔いてやつから待つてろ」勘次は疾から澁つて居た舌でいつた。
「そんなこと云はねえつたつて泣いてんのに何だつぺな、おとつゝあ」おつぎは勘次を叱つた。勘次は口を嵌んで箸の先へ馬鈴薯を刺した。與吉は瞼が弛んでいつか輕い鼾を掻いた。
「さあ、お飯だえ」唄も騷ぎも止んで一同の口から俄に催促が出た。女房等は皆で給仕をした。内の女房は
「おつぎも身體みつしりして來たなあ、女も廿と成つちや役に立つなあ」とおつぎを見ていつた。勘次は茶碗から少し飯粒を零しては危險い手つきで箸を持つた儘指の先で抓んで口へ持つて行つた。
「おとつゝあ、さういに零しちや駄目だな」おつぎは勘次の茶碗へ手を添へた。
「勘次さん」と内の女房は喚び掛けた。勘次が目を蹙めて見た時
「勘次さん、はあおつぎこたあ出しても善かねえけえ」女房はいつた。
「嫁になんざ出せねえよ、今ん處俺れ困つから」勘次はそつけなくいつた。
「不自由な處ありや出して、自分でも引つ込むのよ」兼博勞は遠慮なくいつた。
「俺らそんな噺や聽かねえ、貰ひたけりや幾らでも有らあ」勘次は斥けた。
「そんだつておめえ、そつちこつち口掛けて置かねえぢや、直年齡ばかしとらせつちやつて仕やうねえぞ、俺らも一人出したがおめえ容易ぢやねえよ、さうだかうだ云はれねえ内だぞおめえ」女房はいつた。
「えゝよ卅まで獨りぢや置かねえから此れげはいまに聟とんだから」勘次は喧嘩でもする樣な容子で硬ばつた舌でいつた。女房は默つて口の邊に冷かな笑を含んで膝をそつと動かしてぐつすり眠りこけた自分の子を見た。
「どうしたえ、儘よ/\でもやんねえか勘次さん。まゝにならぬとお鉢を投げりや其處らあたりは飯だらけだあ、過多に六かしいこと云ふなえ」兼博勞は米の飯を掻つ込みながらいつた。腹を一杯に膨らませた一座は
「どうも御馳走樣でがした」と義理を述べて土間の下駄をがら/\掻き探つてがや/\騷ぎながら歸り掛けた。
「おつう、よきこと起せ」勘次はさういつて自分も一つに蹣跚けながら立つた。おつぎは與吉の身體を劇しく動かしたが熟睡して畢つたので容易に目を開かなかつた。與吉は草履を穿くにもおつぎの心を苛立たせた。
「おつう」と劇しく喚ぶ勘次の聲が裏の垣根の外から聞えた。さうすると又
「何してけつかんだ」と勘次は裏戸口から一同を驚かして呶鳴つた。
「勘次さん與吉こと起してた處なんだよ」内の女房は分疏してやつた。
「汝りや何時でもさうだ、ぐづ/\してやがつて」勘次は猶も憤つていつた。
「待つてれば善えんだなおとつゝあ、洗ひまでも仕ねえのにどうしたもんだ」酒席の趾を見ておつぎは呟いた。
「管あねえで歸れよ、おとつゝあ酩酊つてんだから」女房はおつぎの意を汲んでやつた。後では亂雜に散らかした道具の始末をしながら女房等はいつた。
「勘次さんが心持も分んねえな」
「幾ら嚊の嫉妬燒くもんでも、あゝえもなあねえな」
「あゝえのが何かの生れ變りつちんでも有んべな、可怖えやうだよ本當にな」
「近頃それに何ぢやねえけえ、あら程欲しがつたのに後妻貰あべえたあ、云はねえんぢやねえけえ」孰れの心にも口にはいはなくて了解されて居る或物を少しづつ現さうとして有繋に躊躇する樣にして噺合うた。勘次等三人が出て垣根の外へ行つたと思ふ頃、椀を拭いて居た一人が慌だしく立つて外へ出た。暫くして歸つて來るといきなり
「どうしたものだおめえは、他人の後なんぞ尾行けて行つて、罪だから見ろよ」一人がいつた。
「さうぢやねえよ、有撃おめえ、他人のこと俺だつて」分疏した。
「そんぢや何に行つたんだ」
「小便垂つたく成つたからよ」軈て抑へ切れぬ笑ひが顏に浮かんで
「そんだから過多に飮むなつちんだ、なんておつぎに怒られ/\行んけわ」といつた。
「そうれおめえ、罪だよ」遠慮もなく皆どつと笑つた。
夜は深けて居た。きろ/\きろ/\と風船玉を擦り合せる樣な蛙の聲が錯雜して聞えて居た。
十五
霜が竊に地を掩うた。
晩秋の冴えた空氣は地上の凡てを乾燥せしめる。思ひの儘に枝葉を擴げた獨活の實へ目白の聚つて鳴くのが愉快らしくもあれど、何となく忙しげであつて、それも少時の間に何處でも草木の葉が硬ばつたり傷ついたりして一切が只がさ/\と混雜して畢つた。さういふ處へ季節の冬は厭でも行き渡らねばならないのであるがそれでも暖かい日があつたり、冷たい日があつたりして冬は只管躊躇しつゝ地上に沈まうとした。さうして霜を一度偃はせて見た。凡ての草木は更に慌てた。地味な常磐木を除いた外に皆次の春の用意の出來るまでは凄い姿に成つてまでも凝然としがみついて居る。冬は復た霜を偃はせて見た。恐ろしく潔癖な霜は其の見窄らしい草木の葉を地上に躪りつけた。人間の手を藉りたものは田でも畑でも人間の手を藉りて到處をからりとさせる。其の時畑には刷毛の先でかすつた樣に麥や小麥で仄に青味を保つて居る。それから冬は又百姓をして寂しい外から專ら内に力を致させる。百姓等は忙しく藁で俵を編んで米を入れて春以來の報酬を目前に積んで娯ぶのである。
彼等の間には恁ういふ時に、さうして冬が本當にまだ彼等の上に泣いて見せない内に相前後して何處の村落にも「まち」が來るのである。其れは村落毎に建てられてある社の祭のことである。貧乏な勘次の村落でも以前からの慣例で村落に相應した方法を以て祭が行はれた。
當日は白い狩衣の神官が獨で氏子の總代といふのが四五人、極りの惡相な容子で後へ跟て馬場先を進んで行つた。一人は農具の箕を持つて居る。總代等はそれでも羽織袴の姿であるが一人でも滿足に袴の紐を結んだのはない。更に其の後から鏡を拔いた四斗樽を馬の荷繩に括つて太い棒で擔いで跟いた。四斗樽には濁つたやうな甘酒がだぶ/\と動いて居る。神官の白い指貫の袴には泥の跳ねた趾も見えて隨分汚れて居た。神官は埃だらけな板の間へ漸く蓙を敷いた狹い拜殿へ坐つて榊の小さな枝をいぢつて、それから卓の供物を恰好よくして居る間に總代等は箕へ入れて行つた注連繩を樅の木から樅の木へ引つ張つて末社の飾をした。
村落の者は段々に器量相當な晴衣を着て神社の前に聚つた。目に立つのは猶且女の子で、疎末な手織木綿であつてもメリンスの帶と前垂とが彼等を十分に粧うて居る。十位の子でもそれから廿に成るものでも皆前垂を掛けて居る。前垂がなければ彼等の姿は索寞として畢はねば成らぬ。彼等は足に合はぬ不恰好な皺の寄つた白い足袋を穿いて居る。遠國の山から切り出すのだといふ模擬の重い臺へゴム製の表を打つた下駄を突つ掛けて居るものもある。彼等は其の年齡に應じて三人五人と互に手を曳きながら垣根の側や辻の角に立つて居ては思ひ出した時に其處ら此處らと移つて歩くのである。彼等は只朋輩と共に立つて居ることより外に「まち」というても別に目的もなければ娯樂もないのである。其れで彼等は少しでも異つた出來事を見逃すことを敢てしないのである。
神官は小さな筑波蜜柑だの駄菓子だの鯣だのを少しばかりづつ供へた卓の前に坐つて祝詞を上げた。其れは大きな厚い紙へ書いたので、それを更に紙へ包んだのであつた。包紙は幾度か懷へ出し入れしたと見えて痛く擦れて汚れて居る。祝詞は極めて短文であつた。神官はそれを極めて悠長に聲を張り上げて讀んだがそれでも幾らも時間が要らなかつた。
それが一枚あれば何處の神社へ行つても役に立てゝ居るものと見えて短い文中に讀上ぐべき神社の名は書いてなくて何郡何村何神社といふ文字で埋めてある。神官は其處に讀み至ると當日の神社を只口の先でいふのである。有繋に彼は間違ふことなしに讀み退けた。神官が卓の横手へ座を換て一寸笏で指圖をすると氏子の總代等が順次に榊の小枝の玉串を持つて卓の前に出て其の玉串を捧げて拍手した。彼等は只怖づ/\して拍手も鳴らなかつた。立ちながら袴の裾を踏んで蹌踉けては驚いた容子をして周圍を見るのもあつた。恁ういふ作法をも見物の凡ては左も熱心らしい態度で拜殿に迫つて見て居た。
おつぎも與吉の手を執つて群集に交つて立つて居た。勘次も其處に在つたのであるが然し彼はずつと後の樅の木陰にぽつさりとして居たのであつた。簡單乍ら一日の式が畢つた時四斗樽の甘酒が柄杓で汲出して周圍に立つて居る人々に與へられた。主として子供等が先を爭うて其大きな茶碗を換へた。彼等は寧ろ自分の家で造つたものゝ方が佳味いにも拘らず大勢と共に騷ぐのが愉快なので、水許りのやうな甘酒を幾杯も傾けるのである。當日からでは數日前に當番の者が村落中を歩いて二合づゝでも三合づゝでも白米を貰つて、夜になれば當番の者等は集つた白米で晩餐の飯を十分に焚いて其他は悉く甘酒に造り込む。甘酒は時間が短いのと麹が少いのとで熱い湯で造り込むのが例である。それだから忽ちに甘く成るけれども亦忽ちに酸味を帶びて來る。彼等は當日の前夜に口見だといつて近隣の者等が寄つてたかつて、鍋で幾杯となく沸しては飮むので夥か減らして畢つて、それへ一杯に水を注して置くのである。
子供等の間に交つて與吉も互の身體を掻き分ける樣にして飮んだ。村落の者が飮んでる後から木陰に佇んで居た乞食がぞろ/\と來て曲物の小鉢を出して要求した。
「よき、それえゝ加減にするもんだよ汝りや」おつぎはまだ茶碗を放さない與吉の手を曳いた。
「待つてろ汝ツ等、さうだにさはり出ねえで、小穢え」
「此奴等、汝ツ等げ呉れはぐつたこた有りやしねえ、それにさうだに騷ぎやがつて、五月繩え奴等だ待つてるもんだ」
「そうれお前等注えで遣んのにそんな小鉢なんぞ桶の上さ突出させちや畢へねえな、それだらだら垂ツらあ、柄杓そつちへおん出して行るもんだ」
下駄を穿いて立つた氏子の總代等が乞食を叱つたり當番に注意したりした。神官等が石の華表を出て行つた後は暫くして人も散つて、華表の傍には大きな文字を表はした白木綿の幟旗が高く突つ立つてばさ/\と鳴つて居た。散亂した人々は其の癖の其處にぼつゝり此處にぼつゝりと固まつて立つてるのであつた。
暫くして短い日が傾いた。社の森を包んで時雨の雲が東の空一杯に擴がつた。濃厚な鼠色の雲は凄く人に迫つて來るやうで、然もくつきりと森を浮かした。かつと横に射し掛る日の光が其の凄い雲の色を稍和げて天鵞絨のやうな滑かな感じを與へた。更にくすんだ赭い欅の梢にも微妙な色彩を發揮せしめて、殊に其の間に交つた槭の大樹は此も冴えない梢に日は全力を傾注して驚くべき莊嚴で且つ鮮麗な光を放射せしめた。時雨の雲に映ずる槭の梢は確然と浮き上つて居ながら天鵞絨の地に深く浸み込んで居る樣にも見えた。其の前に空を支へて立つた二條の白い柱は幟旗であつた。幟旗は止まずばた/\と飜つた。更に俄にごつと立つた風に森の梢の葉は散亂して鮮かな光を保ちながら空中に閃いた。數分時の後世間は忽ちに暗澹たる光に包まれて時雨がざあと來た。村落の何處にも晴衣の姿を見なく成つた。おつぎは與吉を連れて疾くに歸つて居たのであつた。
夜に成つて雨が歇んだ。
村落の者は段々に瞽女の泊つた小店の近くへ集まつて戸口に近く立つた。戸は悉く開放つて障子も外してある。瞽女は各自に晩餐を求めて去つた後であつた。瞽女は村落から村落の「まち」を渡つて歩いて毎年泊めて貰ふ宿に就てそれから村落中を戸毎に唄うて歩く間に、處々で一人分づゝの晩餐の馳走を承諾して貰つて置く。それで彼等は夜の時刻が來ると、目明の手曳がだんだんと其の家々に配つて歩く。さうしては復た手曳がそれを集めて打ち連れて歸つて來る。目の不自由な彼等は漸くのことで自分の求める家に就いても板の間の端などにぽつさりとして膳の運ばれるのを待つて居るので一同の腹が滿たされて再び杖に縋るまでには面倒な時間を要するのである。
小店の座敷には瞽女の大きな荷物と袋へ入れた三味線とが置いてあつて淋しく見えて居た。只一人の巫女が彼等に特有の態度を保つて正座を張つて、其の何時でも放さない荷物を前へ置いてしやんと坐つて居るのであつた。表には村落の者が漸く殖えて土間から座敷へ上る者もあつた。彼等は理由もなしに只騷ぎはじめた。彼等は沼邊の葦のやうに集れば互に只ざわ/\と騷ぐのである。巫女はかなりの婆さんであつたので、白粉つけた瞽女等に向つて揶揄ふ樣な言辭は彼等の間には發せられなかつた。
「どうしたえ、口寄一つやつて見ねえかえ」大勢の中から切り出したものがあつた。葦の葉末が微風にも靡けられる樣に此一語の爲に皆ぞよ/\と復騷いだ。群集の中にはおつぎも交つて居た。若い衆等は先刻からそれに注目して居たが
「どうした、彼奴等こと寄せてんべぢやねえか」
「おつぎこと出してんべぢやねえか」彼等はひそ/\と竊に喋し合せた。
「寄せてんべえと」群集の後の方から呶鳴つた。
「そんぢや此方へ出さつせえな」店の女房はいつた。群集は一時に威勢がついて巫女の膝近くまでぎつしりと座敷を塞いだ。勘次もおつぎも座敷に窮屈な居ずまひをして居た。店の女房は少し剥げた塗盆へ水を一杯に汲んだ飯茶碗を載せて
「ちつとおめえ等退つてくんねえか」といひながら人々の間を足探りに歩いて巫女の婆さんの前へ置いた。
「そんぢや誰だんべ、寄せんな」女房は立つた儘一同を見廻して嫣然としていつた。それでも暫くは凡てが口を緘んで居た。巫女の婆さんは箱を包んだ荷物を其儘自分の膝へ引きつけて待つて居る。
「俺れやんべ、そんぢや」若い衆の一人が婆さんの前へ出て
「俺ら生口寄せて見てえんだが、幾らだんべ一口は」
「五錢づゝでさ」巫女の婆さんは落付いていつた。
「此ら只默つてゝえゝんだつけかな」といふと
「えゝんだよそんで、自分の思つてたの出て來んだから」
「かんぜん撚拵えて水掻ん廻せば、えゝんだよ」側から巫女の婆さんのいふのも待たずに口を出した。
「三度でえゝんだつけかな」婆さんの前へ坐つた一人は後の方を向いていつて彼は不器用な紙捻を拵へて其の先を茶碗の水へ浸して三度丁寧に掻き廻して其の儘紙捻を水に浸して置いた。
「見ろよ、近頃薩張來てくんねえが、俺れこと厭にでも成つたんぢやねえかなんて出つから」と店の女房は戯談を交へた。
巫女は暫く手を合せて口の中で何か念じて居たが風呂敷包の儘箱へ兩肘を突いて段々に諸國の神々の名を喚んで、一座に聚めるといふ意味を熟練したいひ方で調子をとつていつた。がや/\と騷いで居た家の内外は共にひつそりと成つた。
「行々子土用へ入えつた見てえに、ぴつたりしつちやつたな」と呶鳴つたものがあつた。漸く靜まつた群集は少時どよめいた。然し直に復た靜まつた。
「白紙手頼り水手頼り、紙捻手頼りにい……」と巫女の婆さんの聲は前齒が少し缺けて居る爲に句切が稍不明であるがそれでも澁滯することなくずん/\と句を逐うて行つた。斜に茶碗の水に立つた紙捻がだん/\に水を吸うて點頭いた樣にくたりと成つた。
「どうせよ一つにや成れぬ身を、別れたいとは思へども……」と一同の耳に響いた時「出た/\」と靜まつて居た群集の中から聲が發せられた。巫女の婆さんは突て居る肘を少し動かして乘地に成つた。
「俺れが我が身というたとて、自由自儘に成るならば、今日の巫女も要るまいにい……」婆さんは同じやうな句を反覆した。
「出た處でまつと饒舌らせろえ」と一人が更に紙捻を持つて水を掻き廻した。
「かんぜん捻くた/\して云ふこと聽かねえや」いひながら彼は手を止めた。
「俺れがよ心はこうなれど、怒るまえぞえ見棄てまえ、互に顏も合せたら、言辭も掛けてくだされよう……」巫女は時々調子を張り上げていつた。
「さうださうだ、そんでなくつちやおとつゝあ泣くぞ」群集の後から呶鳴つた。群集は少時復たどよめいたが一句でも巫女のいふことを聞き外すまいとして靜まつた。巫女の婆さんの姿勢が箱を離れて以前に復した時抑壓されたやうに成つて居た凡てが俄にがや/\と騷ぎ出した。彼等は絶えず勘次とおつぎとに對して冷笑を浴せ拂けてゐるのであつたが、然しそれを知らぬ二人は只凝然として居た。凡てが騷ぐ間に在つてさうして居る二人の容子は態とらしく見えるまで際立つて居た。巫女の唱へたことだけでは惡戯な若い衆の意志も知らない二人には自分等がいはれて居ることゝは心づく筈がなかつたのである。
群集の後の方からの俄な騷ぎが内側に及んだ。晩餐を濟まして瞽女が手を曳き連れて來た處なのである。それを若い衆が揶揄半分に道を開いてやらうとしては遣るまいとして騷いだのであつた。瞽女は危險相にして漸く座敷へ上つた時
「目も見えねえのにさうだに押廻すなえ」瞽女の後に跟いて座敷の端まで割込んで來た近所の爺さんさんがいつた。若い衆等は只
「ほうい/\」と假聲で囃した。爺さんは勘次が側に居たのを見つけて
「なあ、勘次さん、こんで若えものゝ處がえゝかんな」といひ掛けた。外では再び囃し立てゝ騷いだ。白い手拭を髷の後が少し現はれた瞽女被りにして居る瞽女が殖えたので座敷は俄に生たやうに成つた。瞽女は一つに固まつて成るべくランプの明るい光を避けようとして居る。其の態度を心憎く思ふ若い衆が
「俺ら其の手拭被つてこつち向いてる姐樣こと寄せて見てえもんだな」立ち塞がつた陰から瞽女の一人へ揶揄つていつたものがある。
「何んちいか寄せて見せえ」先刻の爺さんはいつた。彼の顏には痘痕を深く印して居る。
「どうした寄せて見んのか、そんだら俺れかんぜん捻拵えてやつかれえ」爺さんが更にいつた時返辭がなかつた。
「えゝ、情ねえ奴等だな」爺さんは捻り掛た紙を棄てた。店先の駄菓子を入れた店臺をがた/\と動かす者があつた。
「菓子なんぞまた盜つちや畢へねえぞ、うむ、そつちの方の酒樽ん處にも立つてゝ飮み口でも引つこ拔かねえで貰あべえぞ、みんな」と痘痕の爺さんは獨り乘地に成つていふのであつた。
「さうぢやねえんだよ、店臺自分で歩き出し始まつたから俺れ抑めえた處なんだよ」
「えゝからガラスでもおつ缺かねえやうにしろえ、此方のおつかさまに怒られつから」
「そんでも店臺は四つ足へ何か穿いてら、土鍋に片口に皿だ、どれも/\能く打つ缺けてらあ」
「何處らか歩いて來たと見えて足埃だらけだと」二三人の聲で戯談を返した。家の内外のむつとした空氣が益ざわついた。店臺へは暑い頃には蟻の襲ふのを厭うて四つの足へ皿や丼の類を穿かせて始終水を湛へて置くことを怠らないのであつた。
「どうれ、誰も寄せねえけりや俺れでも寄せてんべかえ」後の方から一人進んで來たものがあつた。
「只ぢや駄目だぞ」痘痕の爺さんは直ぐに要らぬことをいつた。
「そんぢや困つたなあ、おめえどうした婆さまこと死口でも寄せて見ねえか」
「俺ら厭だよ、待つてつから早く來てくろなんて云はれた日にや縁起でもねえから」爺さんは爪で頭を掻いた。
「酷くおめえ近頃ぽさ/\しつちやつてんだな、あゝだ婆でも焦れてる所爲ぢやあんめえ、頭髮まで拔た樣だな」剽輕な相手は爺さんの頭へ手を掛てゆさ/\と動かした。乘地に成つて居た爺さんは少し白い膜を以て掩はれた樣な眼をつて稍辟易した。
「大豆打にかつ轉がつた見てえに面中穴だらけにしてなあ」剽輕な相手は益惡口を逞しくした。群衆は一聲の畢る毎に笑ひどよめいた。
「篦棒、さうだ軟けえ面で風吹く處歩けるもんぢやねえ」爺さんはむきに成つていつた。
「どうした赤え手拭被らせらつたんべえ」
「俺らさうだ手拭なんざあ被つたこたねえよ」
「そんでも疱瘡神は赤え手拭好きだつちげな」
「そんだつて俺ら被んねえよ」痘痕の爺さんはすつかり悄れて畢つた。群集は皆腹を抱へた。
「どうれ、俺ら歸つて牛蒡でも拵えべえ、明日天秤棒檐いで出る支障にならあ」剽輕な相手は思ひ出したやうにいつた。
「どうせ、おめえ等やうに紺屋の弟子見てえな手足の者な牛蒡でも檐いで歩くのにや丁度よかんべ」復讎でも仕得たやうな容子で爺さんはいつた。
「資本の二兩二分位でこんで餓鬼奴等までにや四五人も命繋いで行くのにや赤え手拭でも被つてる樣な放心した料簡ぢや居らんねえかんな」彼は復た爺さんの頭へ手を掛けていつてついと行つて畢つた。後では波が巖に打ちつける樣に暫らく騷いだ。若い女は皆十分笑つて、又痘痕の爺さんを熟々と見ては思ひ出して袂で口を掩うた。到頭極り惡相にして爺さんも去つて畢つた。
「此の箱ん中にや何だね入えつてんなあ、人形坊だつて本當かね」前の方に居た若い衆が巫女の荷物へ手を掛ていつた。
「なあに今ぢや幣束だとよ」と他の者がいつた。
「此ら見せらんねえんでさ、此れ見られつと何程寄せて見ても當んなくなつちやつてね、自分で居ねえ間に見らつても屹度知れんでさ」婆さんは風呂敷を捲り掛た若い衆の手をそつと拂つていつた。さうすると
「見せらんねえよ、其れが種だから」呶鳴つたものがあつた。
さういふ騷ぎをして居る間に幾度かもぢ/\と身體を動かして居た勘次は思ひ切つて婆さんの前へ進んだ。
「わしげ一つ寄せて見ておくんなせえ、死口でがさ」
「そんぢや笹つ葉折つちよつて來ておくんなせえ」巫女の婆さんはいつた。
「此方で折つちよつて遣んべ」と勘次が立ち掛た時後の方で呶鳴つた。暫くして小さな竹の葉が手から手へ傳へられて茶碗の水の中に置かれた。一同は再び靜まつた。勘次は竹の葉を以て茶碗の水を三度掻き廻してそつと手を放した。ランプの光に竹の葉は水から出た部分は青く、水に沒した部分は水銀のやうに白く光つた。巫女の婆さんは先刻と同じく箱へ肱を突いて
「能く喚び出してくれたぞよう……」と極つたやうな句を反覆しつゝまだ十分の意味を成さないのに勘次は整然と坐つた膝へ兩手を棒のやうに突いてぐつたりと頭を俛れた。おつぎもしをらしく俯向いた。島田に結うたおつぎの頭髮が明かるいランプに光つた。おつぎは特に勘次に許されて未明に鬼怒川の渡を越えて朋輩同志と共に髮結の許へ行つたのであつた。髷には油が能く乘つて居て上手掛けた金房が少しざらりとして動搖いた。巫女が漸次に句を逐うて行くうちに
「姿隱れて出て見れば、何知るまいと思だろが、俺れは其の身の處へは、日日毎日ついてるぞ、雨は降らねど箕に成り、笠に成りてよ……」と巫女の聲は前齒の少し缺けたにも拘らず、一つには一同がひつそりとして咳拂をもせぬ故であらうが極めて明瞭に聞きとられた。
「一度ならず、二度三度、不思議打たせて知らせたに……」婆さんの聲が次で響いた。勘次もおつぎも只凝然として居るのみである。
「俺れが達者で居るならば……」といふ句が讀まれたと思ふと軈て
「呉れるよ程の心なら、ほんに苦勞でも大儀でも、蕾の花を散らさずに、どうか咲かせてくだされよう……」熟練した聲の調子が、さうでなくても興味を持つて居る一同の耳にしみじみと響いた。
「鴉の鳴かない日はあれど、草葉の陰で……」婆さんが自分の聲に乘つて來た時勘次はぼろ/\と涙を零した。おつぎもそつと涙を拭つた。
「ほんの假座のことなれば、此れにて俺れは歸るぞよう……」それから又
「鴉の鳴きがそでなくもう……」と反覆しつゝ巫女の婆さんの聲は輕く引いてそつと拔いたやうに止んだ。
「俺れ濟まねえ」勘次はぽつさりといつて又涙を横に拭つた。
「本當に出たんだよ、可怖えやうだな」其處に居た若い女房はしみ/″\といつた。それから續いて他の二三人が身の上やら生口やらを寄せた。さうして座敷の隅に居た瞽女が代つて三味線の袋をすつと扱きおろした時巫女は荷物の箱を脊負つて自分の泊つた宿へ歸つて行つた。
三味線の撥が一度絃に觸れるとしんみりとした座敷が急に勢ひづいてランプの光が俄に明るいやうに成つた。勘次はそれを聞くに堪へないで、彼は其の夜に限つて自分で與吉の手を曳いて自分の家へと闇の中へ身を沒した。若い衆は三人の後姿を見て
「蛬ぢやねえが、口鳴らさねえぢや居らんねえな」といつた。
「そんだが、今夜はしみ/″\泣いたんぢやねえけ、あんでもお品さんこた何程惜しいか知んねえのがだかんな」
「今だつて其噺すつと幾らでもしてんだかんな」
「そんだがよ、先刻見てえに泣いてんのに惡口なんぞいふな罪だよなあ」と若い女房等はそれでもしんみりといつた。
其の夜から暫くの間勘次は以前とは異つておつぎを獨り放して出すことが有る樣に成つた。さうかと思つて居る内に村落中が復た勘次のおつぎに對する態度の全く以前に還つたことを認めずには居られなくなつた。村落の目は勢ひ嫉妬と猜忌とそれから新に起つた事件に對するやうな興味とを以て勘次の上に注がれねばならなかつた。
十六
勘次は殆んど事毎に冷笑の眼を以て見られて居るのであつたが然しそれが厭な感情を彼に與へるよりも、彼は彼の懷に幾分の餘裕を生じて來たことが凡ての不滿を償うて猶餘あることであつた。お品がまだ生きて居る頃隣の主人の内儀さんに向つて
「お内儀さん等何にも心配なんざ無くつて晴々として居んでござんせうね」お品はつく/″\といつたことがある。
「何故そんなこといふんだい」内儀さんは怪しんで聞いたら
「そんでもお内儀さん等喰べる心配なんざちつともねえんだから、わたしやさうだと思つてせえ」お品はいつた。内儀さんは成程さういふ心持で居るのかと、それから種々と身分相應な苦勞の止まぬことを噺て聞かせると
「さうでござんせうかねお内儀さん、わたし等また明けても暮れても無え足んねえの心配ばかしゝてんだから、さういことねえ人は心配なんちやねえんだとばかし思つてたんでござんすよ、ねえ本當に」お品は感に堪へたやうにいつたのであつた。お品がそれ程苦勞した米※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、234-7]の問題が其の死後四五年間の惨憺たる境遇から漸く解決が告げられようとしたのである。彼は毎年冬からまだ草木の萌え出さぬ春までの内に彼等にしては驚くべき巨額の四五十圓を贏ち得るのであつた。其れは古い創痍の穴に投ぜられるにしても彼は土間の鷄の塒の下に三人が安心して居るだけの食料を求めて置くことが出來る樣に成つた。おつぎは二十の聲を聞いて與吉は學校へ出る樣に成つた。彼は絶えず或物を探すやうな然も隱蔽した心裏の或物を知られまいといふやうな、不見目な容貌を村落の内に曝す必要が漸く減じて來た。彼は段々彼等の伴侶に向つて以前の如くこせ/\と徒らに遠慮した態度がなくなつた。彼は村落の凡てに向つて拂つた恐怖の念を悉く東隣の家族にのみ捧げて畢つた。
其の間彼と卯平とは只一回逢つたのみである。卯平はお品が三年目の盆にふいと來てふいと立つたのである。卯平は八十に近く成つて居ながら恐ろしい岩疊な身體が髮は白く且少く成つたが肌膚には潤澤があつた。卯平は夜は火の番をしても暑い日には庭の草をしたり、他の藏々への使ひに行つたり、幾分の忙しさを感じても、使ひに行けば屹度茶菓子を包まれたり、手拭を貰つたり、それから主人からは給料以外の賞與があつたりするので少し堅固にすれば、懷には小錢を蓄へて置くことも出來るのであつたが彼は能くコツプ酒を傾けたので彼の懷は決して餘裕を存しては居なかつた。野田は郷里からは比較的近いので醤油藏が段々發達して行くに連れて傭はれて行く壯丁が殖えて來た。郷里では傭人の給料が暴騰して來た程どの村落からも壯丁が行つた。其れが頻りに交代されるので、卯平は一度しか郷里の土を踏まなくても種々の變化を耳にした。彼は一番おつぎのことが念頭に浮ぶ。十七の秋に見たおつぎの姿がお品に能くも似て居たことを思ひ出しては、他人の噂も聞いて見て時々は逢つても見たい心持がした。然しお品が死んだ時野田への立ち際がよくなかつたことを彼自身の心にも悔ゆる處があつたので強ひて厭な勘次へ挨拶をして一時なりとも肩身を狹くせねばならないのを厭うて遂憶劫に成るのであつた。年齡を積むに從つて短く感ずる月日がさういふ間に循環して、くすんで見えることの多い江戸川の水を往復する通運丸の牛が吼えるやうな汽笛も身に沁みて、冬の寒さが酷くなると以前からの癖で腰に疼痛を感ずることがあつた。藏の傭人の爲に抱へてある醫者に見て貰つても、老病だから藥を飮んで見た處で、さう效驗が見えるのではないがそれでも、飮みたけりや飮むが善いといふのみで別段身に沁みていつてくれるのでもない。卯平は幾ら飮んでも自分の懷が痛まないのだからと思つて見ても醫者のいふ通りどうもはき/\としないので晝間は成るべく蒲團にくるまる樣にして居た。
卯平は年末の出代の季節になれば其の持病を苦にして、奉公もどうしたものかと悲觀することもあるが、我慢をすれば凌げるので遂居据りに成つて居るうちに何時でも春の季節に還つて、郊外に際涯もなく植られた桃の花が一杯に赤くなると其の木陰の麥が青く地を掩うて、江戸川の水を溯る高瀬船の白帆も暖く見えて、大きな藏々の建物が空しく成る程一切の傭人が桃畑に一日の愉快を竭すやうになれば病氣もけそりと忘れるのが例であつた。
清潔好な彼は命令されるまでもなく、庭にぽつちりでも草が見えればらずには居られない。狹苦しいにしてもきちんとした傭人部屋の周圍の土に箒目を入れて水でも打つて見たり、其處らで作る朝顏の苗を貰つてどんな姿にも鉢へ植て見たりして居ると奉公が辛くも思はないのであつた。それも二三年の間で普通の人間ならばもう到底役にも立たぬ年齡に達して居るので、假令彼の境遇が安佚を許さない爲に恁うして精神的に健康が保たれて居るのだとしても、彼の老躯は日毎に空腹から來る疲勞を醫する爲に食料を攝取する僅な滿足が其の度毎に目先の知れてる彼を拉して其の行く可き處に導いて居るのである。
復た冬が來た時、彼は今までの腰の痛みと違つた一種の疾患を生じたやうに感じた。醫者は依然僂痲質斯なのだといつて、寒い夜に火の番をして歩くのは絶對に惡いといふのであつた。それでも彼は我慢の出來るだけ務めた。出代の季節が來た時彼はまた頻りに惑うたが、どうも其處を立つて畢ふのが惜しい心持もするし、逡巡して復た居据りになつた。郷里から來たものに聞いて彼は勘次が次第に順境に赴きつゝあることを知つた。彼は心が復た動搖して脆く成つた心が酷く哀つぽく情なくなつた。然し長い間機嫌を損ね合うた勘次の許へ歸るのには彼は空手ではならぬといふことを深く念とした。彼は夫からといふもの成るべくコツプ酒も節制して懷を暖めようとした。從來彼が遠く奉公に出て居て幾らでも慰藉の途を發見して居たのは割合に暖かな懷を殆んど費しつゝあつたからである。それで彼は今さう氣がついて見ても身體の養生をしなくてはならぬといふことが一方に有るのでそれが思ふ程にはいかなかつた。さういふ心配が又春も暖かに成つて病氣を忘れると歸ることも其の儘に消滅して畢ふのである。然しどう我慢をして見ても後幾年も勤まらないといふことを周圍の人も見て居るのである。殊に永い間野田へ身上を持つて近所の藏の親方をして居るのが郷里の近くから出たので自然知合であつたが、それが卯平に引退を勸めた。彼は故郷へ幾年目かで行く序もあるし、幸ひ勘次のことは村落に居る内に知つて居たから相談をして來てやらうといつた。卯平は近頃滅切窪んだ茶色の眼を蹙めるやうにしながら微かな笑を浮べた。
親方が勘次へ噺をした時
「わしや、なあに、家のもんだから面倒見ねえた云はねえね」勘次は油の乘らぬ態度でいつた。
「勘次さん近頃工合がえゝといふ噺だが」親方も義理一遍のやうにいふと
「工合えゝつちこともねえが、此んでも命懸けで働えてんだから、他人のがにや大けえ錢になるやうにも見えべが、俺らにこんで爺樣が代の借金拔けねえで居んだからそれせえなけりや泣かねえでも畢へんだよ、そんだがそれでばかり動き取れねえな」
「そんぢや、其の時にや勘次さんも善い理由だね」
「そりやさうだが」勘次は何處となく拍子を變へていつた。
「勘次さん等それでも※類[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、238-12]はなか/\有る容子だね」突込んで聞くと
「其の位なくつちや仕やうねえもの、俺ら此處へ來た當座にや病氣ん時でもからつき挽割麥ばかしの飯なんぞおん出されて、俺ら隨分辛え目に逢つたんだよ、こんでさうえこた、忘らんねえもんだかんな」勘次は到頭要領を得ない返辭をするのみであつた。
藏の親方は勘次がどういふ料簡であるといふことは卯平へはいはなかつた。假令どうした處で勘次の許へ歸らねばならぬことに極つて居るのだから、それには戸板へ乘せてやる樣な病氣の起るまで奉公させて置くよりも、丈夫なうちに暇を取らせて還して畢へば、或は勘次との間も思つた程のこともないだらうと、程よいことに卯平へ噺した。卯平は固より親方から家の容子やおつぎの成人したことや、隣近所のことも逐一聞かされた。卯平は窪んだ茶色の眼に暖かな光を湛へた。
卯平は短い時間であつたが氣がついてから心掛けたので財布には幾らかの蓄へもあつた。僅な衣物であるがそれでも煤けたやうに褪めた風呂敷に大きな包が二つ出來た。一つの不用の分は運河から鬼怒川へ通ふ高瀬船へ頼んで自分の村落の河岸へ揚げて貰ふことにして、彼は煙草の一服をも忘れない樣に身につけた。彼は股引に草鞋を穿いて其の大風呂敷を脊負つて立つた。麥酒の明罎二本へ一杯の醤油を莎草繩で括つて提げた。それから彼は又煎餅を一袋買つた。醤油と米とが善いので佳味い煎餅であつた。彼は三つの時に別れて五つの秋に一寸見た與吉がもう八つか九つに成つて居ると恁う數へて見て土産が買ひたく成つたのである。煎餅の袋は毎日使つて居た手拭で括つて荷締めの紐へ縛りつけた。彼は冬になつてまた起りかけた僂痲質斯を恐れて極めてそろ/\と歩を運んだ。利根川を渡つてからは枯木の林は索寞として連續しつゝ彼を呑んだ。彼は處々へのつそりと腰を卸して好きな煙草をふかした。荷物を路傍へ卸す時彼は屹度縛りつけた手拭の包へ手を掛けて新聞紙の袋のがさ/\と鳴るのを聞いて安心した。枯木の林は立ち騰る煙草の煙が根の切れた儘すつと急いで枝に絡んで消散するのも隱さずに空洞として居る。卯平が凝然として居ると萵雀が忍び/\に乾いた落葉を踏んで彼の近くまで來てはすいと枝へ飛んだ。彼は周圍には一切心を惹かされることもなく袂の燐寸へ火を點けては又燐寸を袂へ入て、さうしてからげつそりと落ちた兩頬の肉が更にぴつちりと齒齦に吸ついて畢ふまで徐りと煙草を吸うて、煙管をすつと拔いてから又齒齦へ空氣を吸うて煙と一つに飮んで畢つたかと思ふやうにごくりと唾を嚥んで、それから煙を吐き出すのである。彼は周圍が寂しいとも何とも思はなかつた。然し彼自身は見るから枯燥して憐れげであつた。彼は少しきや/\と痛む腰を延して荷物を脊負つて立つた。捨てた燐寸の燃えさしが道端の枯草に火を點けて愚弄するやうな火がべろ/\と擴がつても、見向かうともせぬ程彼は懶げである。野田からは十里に足らぬ平地の道を鬼怒川に沿うた自分の村落まで來るのに、冬の短い日が雜木林の梢に彼を待たなかつた。彼は自分の家に着いた時は醤油を提げた手が痛い程冷えて居た。彼は漸のことで戸口に立つた。勘次を喚ばうとして見たら内はひつそりと闇い。戸口に手を當てゝ見たら鍵が掛てあつた。
「居たかえ」それでも卯平は呶鳴つて見たが返辭がない。卯平は口の内で呟いて裏戸口へ廻つて見たら其處は内から掛金が掛つて居る。彼はそれでも煙管を出して戸の隙間から掛金をぐつと突いたら栓をてなかつたので直に外れた。彼は闇い閾を跨いで袂の燐寸をすつと點けた。幾年居なくても勝手を知つて居るので彼は柱へ懸てある手ランプを點けて、取り敢ず手足を暖める爲に麁朶をぽち/\と折つて火鉢へ燻べた。煤けた藥罐を五徳へ掛てそれから彼は草鞋をとつた。乾いた道を歩いて來たので幾らも汚れない足の底を二三度づゝ手でこすつて座敷へ上つた。
勘次は南の風呂へ行つて居た。彼は晝は寸暇をも惜んで勞働をするので一つには其れが夜なべの仕事を勵み得ない程の疲勞を覺えしめて居るのでもあるが、少し懷が窮屈でなくなつてからは長い夜の休憇時間には滅多に繩を綯ふこともなく風呂に行つては能く噺をしながら出殼の茶を啜つた。
其夜與吉は南の女房から薄荷の入つた駄菓子を二つばかり貰つた。裏の垣根から桑畑を越えて歩きながら與吉は菓子を舐つた。
「どれ、俺げもちつと出て見ねえか」おつぎは與吉の手から少し缺いて自分の口へ入れた。
「※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、241-12]は大かくおつ缺えちや厭だぞう」與吉は懸念していふと
「おゝ薄荷だこら、口ん中すう/\すら、おとつゝあげも遣つて見ろ」おつぎは又た菓子へ手を掛けようとすると
「えゝから、よきげ嘗めさせろ」勘次はおつぎを制した。三人は他人の目が開いてない闇夜の小徑を恁うして自分の庭へ戻つた。
「どうしたんだんべ、おとつゝあ」おつぎは戸の隙間から射す明りを見て俄に立ち止つていつた。勘次は竦んだやうに成つて默つた。おつぎは戸の隙間から覗いて
「爺見てえだな、おとつゝあ」と小聲で告げた。それから勘次も覗いて、鍵を外して這入つた。與吉は見識らぬ爺さんが居るので羞かんでおつぎの後へ隱れた。
「爺だ」とおつぎは叫んで卯平の側へ寄つた。
「爺は今日來たのか」おつぎの挨拶に續いて
「おとつゝあ遲かつたな」勘次もいつた。
「出だすのもそんなに早かなかつたつけが、暫く歩きつけねえ所爲かなんぼにも足が出ねえで、かういに遲くなる積もなかつたつけが」卯平は重い口でいつた。
「餘つ程待つてゝか爺は」おつぎは麁朶を折り足しながらいつた。
「火吹つたけたばかりよ」卯平は其の窪んだ茶色の眼を蹙めるるやうにして
「おつうも大かくなつたな、途中でなんぞ行逢つちや分んねえな、そんだが汝りや有繋俺れこた忘れなかつたつけな」
「忘れめえな爺は」おつぎは卯平に對してこそつぱい一皮が間を隔てゝ居るやうな感じがして居ながら、其の癖の甘えた樣な舌でいつてちう/\と鳴り出した藥罐へ手を掛けた。卯平はおつぎの挨拶を今更の如くしみ/″\と嬉しく感じた。卯平はお品が死んで三年目の盆に來た時不器用な容子の彼がどうして思ひついたかおつぎへ花簪を一つ買つて來た。十七のおつぎがどれ程それを喜んだか知れなかつた。おつぎは決してそれを忘れなかつた。
「爺げお茶入えべえ」おつぎは立つて茶碗を洗つた。卯平は濃霧に塞がれた森の中へ踏込むやうな一種の不安を感じつゝ來たのであつたが、彼はおつぎの仕打に心が晴々した。卯平は、まだ菓子を舐りながら隱れるやうにして居る與吉を見て
「俺れこと忘れたんべ此ら、大かく成つたと思つて來たつけが本當に分んねえ程大かく成つたな」寡言な卯平が此の夜は種々に饒舌つた。
「此んでも學校へ行くんだもの」おつぎは茶を入れながらいつた。
「さうら」と卯平は荷物へ縛りつけた煎餅の包を與吉へ投げ出してやつた。
「おつう、手拭解えて見ねえか、野田でも一番うめえんだから」卯平はいつたがおつぎの手が暇どれるので自分で手拭を解いて勘次の前へ出して、彼は更に一枚をとつて與吉へ遣つた。
「よき、それ貰あもんだ。爺呉れるつちのに」おつぎは茶碗を卯平と勘次との前へ据ゑつゝいつた。
「こつちへ上つて貰あもんだ」勘次もいつた。土間に立つて居た與吉はそつと草履を脱いで危險相に手を出して取た。さうして直ぐに偸むやうに噛んだ。
「遠くの方のがんだぞ、汝うまかんべ」おつぎは自分も一枚を噛り乍らいつた。
「うまかねえやそんなに」與吉はおつぎの袂へ隱れるやうにしていつた。甘味の強い菓子を噛んだ口に、さうして醤油の味を區別するまで發達した舌を持たない與吉は卯平が遠く齎したと聞かせられた程には感じなかつたのである。
「其こといふもんぢやねえ、そんだら※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、244-8]げよこしつちめえ」おつぎは小さな聲でいつて尻目に掛けた。與吉はさういひ乍ら手にした丈はぽり/\と噛んだ。乾燥した響が三人の口に鳴つた。
卯平は幾杯も只茶を啜つた。壯健だといつても彼は齒がげつそりと落ちて軟かな物でなければ噛めなくなつて居た。卯平は又おつぎへ醤油の罎を出して
「俺れ持つて來ればなんぼでも譯ねえんだが荷物があるもんだから、此れつ切しか持つちや來ねえつちやつた、此んでも俺ら藏ぢや此上はねえんだ、炊事は汝すんだんべから、汝そつちへ藏つて置けな」
「大變だつけな爺、荷物あんのになあ、此れだけぢや暫らくあんべよ」おつぎは罎を柱の傍へ置いた。
「荷物はさうでもねえが、身體利かねえでな、どうも」卯平は煙管を噛んだ。
「爺はどうしたつぺ、お飯たべたんべか」おつぎは敢ていひ掛けるといふ態度でもなく勘次に向つていつた。
「おらどつちでもえゝや」卯平は少し遠慮を交へていつた。
「どつちでもえゝつて腹減つちやしやうあんめえな」おつぎは茶碗と箸とを棚から卸した。
「菜つ葉の漬たなどうしたんべ」おつぎは顧みて聞いた。
「俺ら要らねえや、齒悪くなつちやつて噛まんねえから」
「そんぢや細かく刻んだらどうしたんべ」おつぎはとん/\と庖丁を使つた。
「お汁まあ、ちつとも身なんざねえや、よき汝みんな芋すくつちやつたな」
おつぎは鍋葢をとつていつた。
「お汁も何も要らねえから一杯掻つ込んべ」卯平は遲緩し相にいつた。
「そんぢや此醤油掛けてんべな」おつぎは卯平の前に膳を据ゑて罎の醤油を菜漬へ掛けた。
「それ、底の方へ廻つて零れらな」勘次は先刻から、怒つたやうな羞かんだやうな、何だか落付の惡い手持のない顏をして、却て自分をば凝然と見もせぬ卯平の目から外れるやうに、餘所を見ては又ちらと卯平を見つゝあつたが此時おつぎの手許へ嘴を容れた。其の時醤油がごつと出て菜漬が漂ふばかりに成つた。
「そうれ見ろ」勘次はそつけなくいつた。おつぎが罎を再び柱の傍へ置くと、
「まだ其處で引つくるけえしちや大變だぞ、戸棚へでも入えて置け」勘次は復た注意した。卯平は藥罐の湯を注いで三杯を喫した。僅に醤油の味のみが數年來の彼の舌に好味たるを失はなかつたが、挽割麥の勝つた粗剛い飯は齒齦が到底それを咀嚼し能はぬのでこそつぱい儘に嚥み下した。おつぎが膳を引かうとすると
「其の醤油は打棄らねえで大事にして置け」勘次は小皿の數滴を惜んだ。
「其こと云はねえつたつて打棄るもなあんめえな」おつぎは干渉に過ぎた勘次の注意が厭だと思ふよりも、偶逢つた卯平の側でいはれるのが極りが惡いので喉の底で呟いた。
「※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、246-11]今一枚くんねえか」與吉は流し元に手を動かして居るおつぎへ極めて小さな聲で請求した。
「汝りや、そつから佳味かねえなんていふもんぢやねえ、直ぐ欲しくなる癖に」おつぎはこつそり叱つた。
「そうら汝げ買つて來たんだ、欲しけりや幾らでも持つてけ」卯平は不器用ないひ方をしながら煎餅をとつて遣つた。與吉はそれでも窪んだ目を蹙めて居る卯平がまだこそつぱくて指の先で下唇を口の中へ押し込むやうにしながら額越しに卯平を見た。
十七
次の朝與吉はまだ皆の膳の据ゑられぬうちから學校へ行くとては騷いだ。村落の生徒等は登校の早いことを教師から只一言でも褒められて見たいので、慌てなくても善いのに汁も煮立たぬうちから強請むのである。與吉は此れで毎朝おつぎから五月蝿がられて居た。與吉は風呂敷包を脊負つておつぎに辨當を包んで貰ひながら
「煎餅くんねえか」と要求した。
「まださうだこと、そんだから汝げは見せらんねえつちんだ、爺に怒られつから見ろ」おつぎは叱つて顧みなかつた。勘次は其の時外の壁際に積んだ木の根をぱかり/\と割つて居た。卯平は一日歩いた草臥が酷く出たやうでもあるし、又自分の村落へ歸つたので心が悠長とした樣でもあるし、それに此の數年來は火の番の癖で朝はゆつくりとして居るのが例であつたので、彼は其の時蒲團の中に凝然と目を開いておつぎの働いて居るのを見て居たが
「欲しいつちんだら出して遣れえ」彼はいつた。おつぎは戸棚から煎餅を一枚出して與吉へ渡した。與吉はすつと奪ふ樣にして取つた。
「しらばつくれて」おつぎは斜に脊負つた書藉の上から與吉をぱたと叩いた。與吉は霜の白く掩た庭を小さな下駄でから/\と鳴らしながら遁げるやうに駈けて行つた。卯平は窪んだ目を蹙めて一種の暖かな表情を示して與吉の後姿を見た。勘次は割つた薪を草刈籠へ入れて竈の前へ置いて朝餉の膳に向つて、一碗を盛つた。おつぎは氣がついた樣に
「爺こと起すべか」といつて勘次が返辭せぬ内に
「爺、お飯出來たよ」卯平を喚んだ。
「先やつてくろえ」卯平はさういつて暫く經つてから蒲團を出て井戸端へ行つた。卯平は幾年目かで冷たい水で顏を洗つた。彼は近來にない晨起きをしたので、霜の白い庭に立つて硬ばつた足の爪先が痛くなる程冷たいのを感じた。火鉢の側へ坐つても煙草の火もないので彼は自分で竈の下の燃えさしを灰の儘とつた。おつぎは勘次が煙草を吸はないので一寸煙草の火をとることにまでは心附かなかつた。野田では始終かん/\と堅炭を熾して湯は幾らでも沸つて夜でも室内に火氣の去ることはないのである。卯平は後れて箸を執つたが、飯は暖かいといふ迄で大釜で炊いた樣に程よい軟かさを保つては居ないし、汁も其の舌に酷くこそつぱく且不味かつた。彼は味噌には分量を増す爲に醤油粕が掻き交ぜてあることを知つた。勘次は鍬を執つて立つた。彼は毎日唐鍬を持つて出て居るのであつたが此の日はおつぎを連れて麥畑の冬墾に出るのであつた。卯平は獨で然と残された。丈夫な建物に箒を入れて清潔に住んで來た彼は天井もない屋根裏から煤が垂れてさうして雨戸を開けてない薄闇い家の内に凝然としては妙に心が滅入つた。毎日朝から尻切襦袢一つで熱湯の桶を右の手で肩に支へては駈け歩く威勢の善い壯丁の間に交つて唄の聲を聞て居たのに、一つには草臥も出た爲でもあるが僅一日の隔で彼は俄に年齡をとつた程げつそりと窶れたやうな心持に成つた。皆の夜具は只壁際に端を捲くつた儘で突きつけてある。卯平は其處を凝然と見た。箱枕の括りは紙で包んでないばかりでなく、切地の縞目も分らぬ程汚なく脂肪に染つて居る。土間の壁際に吊つた竹籃の塒には鷄の糞が一杯に溜つたと見えて異臭が鼻を衝いた。卯平は天性が清潔好であつたが、百姓の生活をして、それに非常な貧乏から什にしても穢ない物の間に起臥せねばならぬので彼も野田へ行くまではそれをも別段苦にはしなかつたのであるが、假令幾年でも清潔な住ひをした彼は天性を助長して一種の習慣を養つた。彼が家に歸つたのはお品が死んだ時でも、それから三年目の盆の時でも家は空洞と清潔に成つて居てそれほど汚穢い感じは與へられなかつた。彼は今熾な暑い日を仰いだ目を放つて俄に物陰を探さうとするものゝやうに酷く勝手が違つたのである。
彼は暫く好な煙草に屈託して居たが漸く日が暖く成り掛けたので、稀に生存して居る往年の朋輩や近所への義理かた/″\顏を出す積で外へ出た。勘次とおつぎとが晝餐に歸つて來た時に卯平は居なかつた。彼は夜に成つてのつそりと戸口に立つた。勘次が庭へ出ようとして大戸をがらりと開けた時卯平と衝突り相に成つた。勘次は足もとにずる/\と横はつた蛇を見つけた刹那の如く悚然として退去つた。
卯平は缺けた齒齦で煙管を横に噛んでは脣をぎつと締めると口が芒で裂いた樣に見えた。老衰してから餘計にのつそりした卯平の身體は、それでも以前のがつしりした骨格が聳えて側に居る勘次を異樣に壓した。卯平は五六日の間毎日唯ぶら/\と出ては黄昏近くかそれでなければ夜に成つて歸つた。勘次は毎日唐鍬持つて林へ出た。おつぎは半纏を引掛けて針の師匠へ通つた。おつぎはもう幾年といふ永い間のことではあるが、それでも極つた月日を繼續して針仕事を勵む餘裕がなく漸く手についたかと思ふと途中を切つたり止めたりするので思ふ樣な上達はなかつた。おつぎは暇を偸んでは一生懸命で針を執つた。卯平がのつそりとして箸を持つのは毎朝こせ/\と忙しい勘次が草鞋を穿て出ようとする時である。おつぎは卯平の爲に火鉢へを活けてやつたり、お鉢を側へ供へたりするので幾らか時間が後れる。さうすると勘次は擔いだ唐鍬をどさりと置いたり、閾を出たり這入つたり、唯忸怩として居ては、口に出せない或物を包むやうな恐ろしい權幕でおつぎを見る、勘次はそれでも慊らないでおつぎの姿が戸口を出るまでは庭に立つて居ることもある。勘次は毎朝出て行く方面が異つて居るにも拘らず、同時に立つて行くのを見なければ心が濟まないのであつた。毎朝さうするので
「おとつゝあは行けな、爺こと見てやんなくつちや成んめえな」おつぎは竊に勘次を窘めていふことがある。勘次は恐ろしい權幕で凝然と立つた儘おつぎを睨んでさうして卯平をちらと一瞥しては、卯平の目を憚る樣にしてさつさと唐鍬を擔いで出て行く。卯平は自分の爲におつぎが遲く成る時には
「俺ら自分でやつから汝りや構あねえで行けよ」おつぎを促し立てた。卯平は當座の内は其處ら此處らへ行つては自分からは求めないでも、暫く遭はなかつた間柄で、短い日の落ちるのも知らずに噺をしては百姓相當な不味い馳走に成るのであつたが、段々互に珍らしくなくなつてからは彼は餘り外へも出ないで然として好きな煙草にのみ屈託した。彼は晝飯といふと殊に冷たい粗剛い飯を厭うて箸を執るのが辛いやうでもあつた。其れで彼は時々村落の店へ行つて豆腐の一丁位に腹を塞げた。皿の豆腐を隅から箸で拗切つて見ては餘りに冷いので、腰の痛みを思ひ出して小さな鍋を借りて暖めた。さうしては遂一杯の酒が欲くなつて其處でむつゝりと時間を潰した。豆腐は彼の齒齦に最も適當した食料であつた。
卯平は身體が惡く成つてから僅の間でも覺悟をしたので幾らでも財布には蓄へが出來て居た。彼は何程節約しても遂にじり/\と減て行くのみである財布に縋つて、芒で裂いた樣に閉ぢた其の口に何でも噛み殺して居るのだといふ容子をして其日々々と刻んで過した。彼は一日凝然として冷たい火鉢の前に胡坐を掻いて居ることもあつた
與吉は學校から歸つてひつそりとした家に只卯平がむつゝりとして居るのを見ると威勢よく駈けて來たのも悄げて風呂敷包の書籍をばたりと座敷へ投げて庭へ出て畢ふ。卯平は
「よき、待つてろ、そら」と財布から面倒に五厘の銅貨を拾ひ出して投てやる。與吉は戸の陰に居ては忸怩して容易に取らないで然も欲し相に筵の上の銅貨を見る。卯平はさうすると又のつそりと懶げに身體を戸口まで動かして與吉の手に渡してやる。與吉は一散に駈けて菓子を求めに行く。卯平の窪んだ茶色の眼が後で獨蹙んだやうに成るのである。
卯平が村落の店に懶い身體を据ゑて煙草を吹かして居る處へ與吉は行合せることがあつても遠くの方から卯平を見て居て、近づきもしないが去らうともしないで居る。卯平は屹度ガラス戸を立て店臺から自分で菓子をとつてやる。それでも與吉は菓子を噛ぢりながら側へは寄らうともしなかつた。
「與吉らたえしたもんだな、始終もらつてな」店の女房がいふのを聞くのは與吉よりも寧ろ卯平が心に滿足を感ずるのであつた。然し與吉は恁うして段々卯平に近づいて學校から歸つたといつては
「爺」といつて戸口に立つやうに成つた。遂には彼は
「爺くんねえか」と上り框に胸を持たせて、ばた/\と下駄で土間を叩きながら卯平に錢を請ふやうに成つた。それでも彼は錢とは明白地にはいはない。
「汝りや、何くろつちんでえ」むつゝりした卯平が態とかう聞くと
「呉んねえか、買あんだから」與吉は又ぼんやりと然も熱心に要求する。其態度を卯平は只快よく思ふのであつた。
與吉が懷くまでには日數が經つた。卯平は勘次との間は豫期して居た如く冷がではあつたが、丁度落付かない藁屑を足で掻つ拂いては鷄が到頭其の巣を作るやうに、彼は互にこそつぱい勘次の側に幾分づゝでも身も心も落付ねばならなく餘儀なくされた。さうして彼は自分の定まつた家其の物は假令どうであらうとも、心の一部には遠慮から離れた餘裕が生じて來て彼は僅に五六日と思ふ内に卅日以上を經過して畢つたのであつた。其の間彼は只の一度でも軟かな飯を快よく嚥み下したことがない、勞働者の多く貪らねばならぬ強健なる胃は到底軟な物に堪へ得る處ではない。齒に硬く感ずる物でなければ食事から食事までの間を保ち能はぬ程忽ちに空腹を感じて畢ふからである。隨つて孰れの家庭に在つても老者と壯者との間には此の點の調和が難事である。然し卯平は老衰の身を漸くのことで投げ掛けた心の底に蟠つた遠慮と性來の寡言とで、自分から要求することは寸毫もなかつた。彼は只空腹を凌ぐ爲に日毎に不味い口を強ひて動かしつゝあるのである。疎惡な食料は少時からおつぎの目にも口にも熟して居るので、其處には何の心も附かなかつた。不味相な容子をして箸を執るのは卯平が凡ての場合を通じての状態なので、おつぎの目には格別の注意を起さしむべき動機が一つも捉へられなかつた。恁うしておつぎは卯平に向つて彼が幾分づゝでも餘計に滿足し得る程度にまで心を竭すことが、善意を以てしても寧ろ冷淡であるが如く見えねばならなかつた。然し卯平は決して衷心からおつぎを憎まなかつた。卯平は時々外へ出ては豆腐を喫して自分の膳の箸を執らぬことはあるのであつたが、それでも勘次は三人のみが家族であつた時よりも※物[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、254-8]の減少する量が殖えて來たことを忽ちに目に止めた。何れ程大きな身體でも卯平は八十に近い老衰者である。一日の食料がどれ程要るかそれは知れたものである。それでも勘次は從來よりも餘計に費やさねばならぬ※物[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、254-10]に就いて彼の淺猿しい心が到底騷がされねばならなかつた。勘次は卯平の居ぬ時にはそれとはなく獨りぶつ/\と呟くことがあつた。與吉はそれを聞いて居た。彼は、火鉢の前に凝然として居ては座敷へ上る鷄をしい/\と逐ひつつむつゝりとして居る卯平に小さな銅貨を貰つては、それを口へ入れたり座敷へ落したりしながら卯平へ種々なことを饒舌つて聞かせた。
「爺」と喚び掛けて彼は或る日斯ういつた。
「爺來てから米しつかり減つてしやうねえつて云つたぞう」
「うむ」卯平は口に銜へた煙管を徐ろに手に取つて
「おとつゝあでもあんべ」卯平はげつそりといつた。
「おとつゝあ、何遍も云つたんだわ」卯平は又煙管を噛んで手が少し顫へた。
「云はざらに」と卯平は凝然と目を蹙めつゝ少し壤れた壁の一方を睨めつゝいつた。
霜解の庭を掻き立てゝ居た鷄がくるりと指を捲いては足を擧げて驚いた樣に周圍を見て、又足を踏みつけ/\のつそり歩いて戸口の閾へ暫く乘つてずつと延ばした首を少し傾けて卯平を見てついと座敷へ立つた。卯平はいきなり煙管を叩きつけた。鷄は慌てゝ座敷の筵へ泥を落して閾の外に脚を突き出した儘暫く轉がつて居たが、遂には蹌跟け/\鳴き騷ぎつゝ遠く遁た。白い毛が拔けて其處ら中に夥しく散亂した。煙管は鷄から更に強く戸口の閾を打つて庭の土に止つた。
「爺とつてやんべか」暫くして與吉は卯平の顏を覗くやうにしていつた。
「よこせ」卯平は暫く經つてからむつゝりとして舌を鳴らしながらいつた。
「さあ」與吉の出した煙管を卯平は拭きもせずに口へ銜へた。暫くしてから卯平は苦い顏をしてぢより/\とこそつぱい口の泥をぴよつと吐き出してそれから口を衣物でこすつた。彼は又煙草を吸ひつけようとしては羅宇に罅が入つたのを知つた。彼はくた/\に成つた紙を袂から探り出してそれを睡で濡らして極めて面倒にぐる/\と其の罅を捲いた。卯平はそれからふいと出て夜まで歸らなかつた。勘次は鷄の拔毛を見て鼬が出たのではないかといふ懸念を懷いて其處ら中を隈なく見た。鷄は他の鷄が悉く塒に就いても歸らなかつた。鼬は一羽殺せば必ず復他を襲ふので勘次は少からず其の心を騷がしたのであつた。
「爺打つとばしたんだわ」與吉は勘次へいつた。
「どうしてだ」勘次は驚いた眼をつて慌てゝ聞いた。
「座敷へ上つたら煙管打つゝけたんだ。そんで俺れ煙管とつてやつたんだ」勘次は餌料を撒いて鷄を聚めて見た。一旦塒に就いた鷄が餌料を見てはみんな籃からばさ/\と飛びおりてこツこツと鳴きながら爪で掻つ拂き/\爭うて啄いた。勘次は遂に鷄の數の不足して居ることを確めざるを得なかつた。卯平は例の如く豆腐でコツプ酒を傾けて來て晩餐を欲しなかつた。彼の皺深く刻んだ頬にほんのりと赤味を帶びて居た。彼は火鉢の前に胡坐を掻いた儘一言もいはない。おつぎが甘えた舌でいつても返辭もしなかつた。勘次も卯平の側を退去つて只恐ろしく僻んだ容子をして居た。おつぎも遂にいはなかつた。與吉は只ぐつすりと眠つて居た。
驚怖の餘り物陰に凝然と潜伏して居た鷄は次の朝漸く他の鷄の群に交つて歩いたけれど幾らかまだ跛足曳いて居た。勘次は態と卯平へ見せつける樣に其の夜塒に就いた時其の鷄を籠に伏せて、戸口の庭葢の上に三日も四日も置いたのであつた。卯平は捲きつけた紙へ煙脂の浸みた煙管をぢう/\と鳴らしながら難かしい顏が暫く解けなかつた。
卯平は清潔好なのでむつゝりとしながら獨で居る時には草箒で土間の軒の下を掃いては鷄が足の爪で掻き亂した庭葢の周圍をも掃きつけて置いた。彼は座敷の内も掃除をして毎朝蒲團を整然と始末する樣に寡言な口からおつぎに吩咐けた。清潔に成ることは勘次も惡いことには思はなかつたが、幾らもない家財道具へ少しでも手を掛けられるのが懷でも探られる樣に勘次には何となく不安の念が起されるのであつた。勘次の目には卯平が能く村落の店に行くのは贅澤な老人である樣に僻んで見える廉もあつた。只さうして居る間に舊暦の年末が近づいて何處の家でも小麥や蕎麥の粉を挽いた。
卯平は時々は東隣の門をも潜つた。主人夫婦は丈夫だといつても窶れた卯平を見ると憐れになつて
「身體はどうしたえ」と能く聞いた。
「えゝ、今分ぢや、さうだに惡りいつちこともねえが」と卯平はいつも煮え切らぬいひ方をして、其れを聞かれることを有繋に心の内に悦んで窪んだ目を蹙める樣にした。
「それでも勘次は能くするかえ」内儀さんが聞けば
「ありや、はあ、以前つからあゝゆんだから」卯平はぶすりといふのである。
「おつぎはどうだえ」
「ありやあそれ、勘次たあ違あから、何ちつても有繋赤ん坊ん時つからのがだから」
「節挽はたんとした容子かえそれでも」
「えゝ、おつうこと連れてつて、南で挽くなあ挽いたやうだが、桶さ入えた儘で蓋したつ切藏つて置くから、わしやどのつ位あるもんだか見もしねえが」
「勘次は軟かい物でも少しは拵えてくれるかね」
「えゝ、毎日同士にたべちや居んだがなあに齒せえ丈夫なら粗剛つたつて管やしねえが」
「それぢや蕎麥粉でも少し遣らうかね蕎麥掻でも拵へてたべた方が善いよ、蕎麥に打つちや冷えるが蕎麥掻は暖まるといふからね」内儀さんは木綿で作つた袋へ蕎麥粉を二升ばかり入れて
「勘次も泣きだから、それでも今に生計もだん/\善くなんだらうから、さうすりや惡くばかりもすまいよ、どうも昔から合性が惡いんだからね、まあ年齡とつたら仕方がないから我慢して居るんだよ、餘り酷けりや他人が共々見ちや居ないから、それだが勘次も有繋それ程でもないんだらうしね」内儀さんは慰めていつた。卯平は蕎麥粉を大事にして、勘次が開墾に出た後で藥罐の湯を沸しては蕎麥掻を拵へてたべた。其の頃は彼の提げて來た二罎の醤油はもう無くなつて居た。彼は其の減つて行くのを更に惜いとは思はなかつたが、然し彼は自分が居る内は容易に罎の分量が減らないのに、一日餘處へ行つて居た日は滅切と少くなつて居るのを或時ふと發見して少し不快に且變に思ひつゝあつた。繩で括つた別の罎の底の方に醤油が少しあつた。卯平はそれでも其れを見つけて漸く蕎麥掻の味を補つた。罎の底になつた醤油は一番の醤油粕で造り込んだ安物で、鹽の辛い味が舌を刺戟するばかりでなく、苦味さへ加はつて居る。彼等は平生さういふ醤油でも滅多に用ゐないので多量に求める時でも十錢を越えないのである。以前の卯平であればさういふ味が普通で且佳味く感ずる筈なのであるが、數年來佳味い醤油を惜氣もなく使用して來た口には恐ろしい不味さを感ぜずには居られなかつた。それでも蕎麥掻は身體が暖まる樣で快かつた。彼はたべた後の茶碗へ沸つた湯を注いで箸で茶碗の内側を落して其の儘棚へ置いた。さうしては彼は毎日の仕事のやうに外へ出た。勘次は一日の仕事を畢へて歸つて來ては目敏く卯平の茶碗を見て不審に思つて桶の蓋をとつて見た。遂に彼は卯平の袋を發見した。
「おつう、汝此の蕎麥つ粉出して遣つたのか」勘次はおつぎに聞いた。
「俺ら出すめえな」おつぎは何も解せぬ容子でいつた。
「蕎麥ツ掻なんぞにしたつて詰りやしねえ、碌に有りもしねえ粉だ」彼は呟いた。それから彼は又
「此れも、はあ、有りやしねえ」醤油の罎を透して其から振つて見ていつた。
「おとつゝあ、それにやねえのがんだぞ」おつぎは打ち消した。
「えゝから、此れつ切ぢやきかねえのがんだから」勘次はおつぎを呶鳴りつけた。彼は更に袋の蕎麥粉を桶へ明けて畢つて猶ぶつ/\して居た。手ランプが薄闇く點された時卯平はのつそり歸つて來た。彼は膳に向はうともしないが火鉢の前にどさりと坐つた儘、例の蟠りの有相な容子をしては右手の人さし指を掛けてぎつと握つた煙管を横に噛んで居た。
「おつう、汝まつと此處さ火とつてくんねえか」卯平はそれだけいつて依然として火もない煙管を噛んだ。おつぎは麁朶を折つて藥罐の下を燃やしてやつた。藥罐が鳴り出した時卯平は懶さ相な身體をゆつさりと起して其處らを頻りに探しはじめた。
「何でえ爺」おつぎは直に聞いた。
「うむ、袋よ」卯平は極めて簡單にいつた。
「此れだんべ爺、蕎麥つ粉へえつてたのな、俺らどうしたんだか知んねえから桶ん中さ明けて置いたつきや、そんぢや爺がんだつけなあそら、どうして袋さなんぞ入えてたんでえ爺は」おつぎは事もなげにいつた。
「蕎麥ツ掻でもしたらよかつぺつてお内儀さん出したつけのよ」卯平は舊の位置に坐つていつた。
「さうかあ、そんぢや惡かつたつけな爺そんぢや俺れ今入えてやつかんなよ」おつぎは勘次が寢る壁際の桶から先刻のよりは遙かに多量を袋へ入れてやつた。さうしておつぎは勘次を尻目で見た。卯平は復た蕎麥掻を拵へた。
「俺れ注いでやつべか爺」火鉢の側に居た與吉は藥罐へ手を掛けた。卯平は與吉のするが儘に任せた。卯平は比較的悠長に茶碗を箸で掻き交ぜた。
「出來たかあ」與吉は卯平の腕へ小さな手を掛けて覗く樣にしていつた。
「よき、何でえ汝りや、お飯くつたばかしで」おつぎは與吉を叱つた。
「汝も喰へ」卯平は蕎麥掻を分けてやつた。彼はさうして更に後の一杯を喫して其茶碗へ湯を汲んで飮んだ。藥罐は輕くなつた。勘次は冷たい手を火にも翳さないで殊更に遠く卯平の側を離れて蹙めた酷い顏に恐怖の相を表はして唯凝然と默つて居た。冷たい三人は夜の温度のしん/\と降下しつゝあるのを感じた。
一八
卯平は久振で故郷に歳を迎へた。彼等の家の門松は只短い松の枝と竹の枝とを小さな杙に縛り付けて垣根の入口に立てたのみである。神棚へは藁で太く綯つた蝦の形を横に飾つて其處にも松の短い枝をつけた。藁の蝦は卯平が造つた。彼はむつゝりとしながらも軟かに藁を打つて熱心に手を動かした。それで歳男の役で飾は勘次にさせた。煤け切つた棚に新しい藁の蝦が活々として見えた。
三ヶ日は與吉も穢い衣物を棄てゝ、おつぎも近所で髮を結うて炊事の時でも餘所行の半纏に襷を掛けて働いた。勘次は三ヶ日さへ全然安佚を貪つては居なかつた。彼は唐鍬を擔いで必ず開墾地へ出たのである。彼は次第に懷の工合が善く成り掛けたので、今では其の勢ひづいた唐鍬の一打は一打と自分の蓄へを積んで行く理由なので、彼は餘念もなく極めて愉快に仕事に從つて居るやうに成つたのである。歳の首といふので有繋に彼の家でも相當に餅や饂飩や蕎麥が其の日/\の例に依て供へられた。軟かな餅が卯平の齒齦には一番適當して居た。殊に陸稻の餅は足が弱いので、少し煮れば直ぐくた/\に溶けようとする。卯平には却てそれが善いので、彼はさうして呉れるおつぎを何處までも嬉しく思つた。彼は只一つでも善いから始終汁の中で必ずくつ/\と煮て欲しかつた。然しそれは一同で祝ふ時のみで、それさへ卯平が只獨ゆつくりと味ふには焙烙に乘せる分量が餘りに足らなかつた。餅は四角に庖丁を入れると直ぐに勘次は自分の枕元の桶へ藏つて無斷にはおつぎにさへ出すことを許容さないのであつた。勘次は假令什ことがあつても面り卯平に向つて一言でも呟いたことがないのみでなく、只管或物を隱蔽しようとするやうな恐怖の状態を現して居ながら、陰では爪の垢程のことを目に止て獨でぶつ/\として居た。勘次は只一度おつぎが自分の留守に卯平の爲に其の餅の僅を燒いてやつたのをすら發見しておつぎを叱つた。
「そんだつておとつゝあは、よき欲しいつちから出して俺れと燒いたんだあ、食へたくなつちやしやうあんめえな」おつぎは甘えた舌で言辭は荒く勘次を窘めた。勘次は其の以上を越して再びおつぎを叱ることは能くしなかつた。僅な餅はさういふことで幾らも減らないのに時間が經つて、寒冷な空氣の爲に陸稻の特色を現して切口から忽ちに罅割れになつて堅く乾燥した。だん/\燒いて膨れても外側は齒齦を痛める程硬ばつて來た。卯平は其の一つさへ滿足に嚥み下さうとするには寧ろ粗剛いぼろ/\な飯よりも容易でなかつた。さうなつてからは勘次は竭きるまで能く燒いた。卯平はむつゝりとして額に深く刻んだ大きな皺を六ヶ敷相に動かしては堅い餅を舐つた。卯平の膳には冷たく成つた餅が屹度残された。腹を減らして學校から歸つて來る與吉が何時でもそれを噛るのであつた。
勘次は又蕎麥を打つたことがあつた。彼は黄蜀葵の粉を繼ぎにして打つた。彼は又おつぎへ注意をして能くは茹でさせなかつた。手桶の冷たい水で曝した蕎麥は杉箸のやうに太いのに、黄蜀葵の特色の硬さと滑らかさとで椀から跳り出し相に成るのであつた。黄蜀葵は能く畑の周圍に作られて短い莖には暑い日に大きな黄色い花を開く。其の根を乾燥して粉にして入れゝば蕎麥の分量が滅切殖えるといふので、滿腹する程度に於ては只管食料の少量なることのみを望んで居る勘次は毎年作つて屹度それを用ひつゝあつた。
卯平の齒齦には蕎麥が辷つて噛めなかつた。
「爺がにや佳味かあんめえ、おとつゝあはまつと丁寧に打てばえゝのに疎忽敷から」おつぎはどうかすると椀から落ち相になる蕎麥を啜りながら卯平の手もとを見ていつた。
「どうせ俺らあ、佳味えつたつてさうだに減る程でも食ふべぢやなし、管やしねえが」卯平は皮肉らしい口調でいつた。勘次は只默つてむしや/\と不味相に噛んだ。
恁うして居る間に春の彼岸が來て日南の垣根には耳菜草や其他の雜草が勢よく出だして桑畑の畦間には冬を越した薺が線香の樣な薹を擡げて、其の先に粉米に似た花を聚めた。そつけない杉の木までが何處から枝であるやら明瞭とは區別もつかぬ樣な然も燒けたかと思ふ程赤く成つて居る葉先にざらりと蕾が附いてこつそりと咲いて畢つた。淋しい内にも春らしい空氣が凡ての物を撼かした。日はまだ南を低く渡りながら暖かい光を投げる。偶夜の雨が歇んでふうわりと軟かな空が蒼く割れて稍昇つた其暖かな日が斜に射し掛けると、枯れた桑畑から、青い麥畑から、凡てから濕つた布を火に翳したやうに凝つた水蒸氣が見渡す限り白くほか/\と立ち騰つて低く一帶に地を掩ふことがあつた。
卯平は村落に歸つてから往年の伴侶の間へ再び加つて念佛衆の一人になつた。家に在つては孫の守をしたりしてどうしても獨離れた樣に成つて居る各自が暢氣にさうして放埓なことを云ひ合うて騷ぐので念佛寮は只愉快な場所であつた。彼岸へ掛けては殊に毎日愉快であつた。何處の家からもそれ相應に佛へというて供へる馳走に飽いて卯平は始めて滿足した口を拭ふことが出來たのであつた。卯平は段々時候が暖かく成るに連れて身體ものんびりとして案じて居た病氣の惱みも少しづつ薄らいだ。彼は手もとの凡てが不自由だらけな生活に還つて來たとはいふものゝ衰へた身體を自分から毎夜苛める樣に引き立てゝ居る奉公の務めをして居た當時と比べて、寧ろ相反した放縱な日頃が自然に精神にも肉體にも急激な休養を與へたので彼は自分ながら一時はげつそりと衰へた樣にも思はれて、懶さに堪へぬ樣に成つたがそれでも其の休養の爲に幾らづゝでも持病の苦しみを減じたので、さういふ理由を知らない彼は、此の分では二三年はまだ野田に居た方が増しであつたと後悔の念が湧くこともあつた。
季節は雨に濕つた土へ稀にかつと暑い日の光が投げられて、日歸りの空が強健な百姓の肌膚にさへぞく/\と空氣の冷かさを感ぜしめて、更にじめ/\と霧のやうな雨が斜に降り掛けては軟かに首を擡げはじめた麥の穗の芒に微細な水球を宿して白い穗先を更に白くして世間が只濕つぽく成つたかと思ふと、又かつと日の光が射して、空洞と明るく成つて畑にはしどろに倒れ掛た豌豆の花も心よげに首を擡げて微笑する。さうすると畑を包む遠い近い林には嫩葉の隙間から少い日の光がまた軟かなさうして稍深い草の上にぽつり/\と明るく覗き込で、松の木からはみんみん蝉の樣な松蝉の聲が擽つたい程人の鼓膜に輕く響いて凡ての心を衝動する。卯平も他の百姓に誘はれたやうに只其身を凝然とさせてのみは居られなかつた。他人に倍して忙しい勘次がだん/\に減りつゝある俵の内容を苦にして酷い目をしつゝ戸口を出入するのを卯平は見るのが厭で且辛かつた。それで彼は其處ら此處らと他人の仕事を求めて歩いたのであつた。
卯平は見るから不器用な容子をして居て、恐ろしく手先の業の器用な性來であつた。それで彼は仕事に出ると成つてからは方々へ傭はれて能く俵を編んだ。麥俵もそれから堆肥を入れて運ぶ肥俵も編んだ。ゆつくりと然も暇なく手を動かしては時々好な煙草を吸うて少し口を開いた儘煙管の吸口をこけた頬に當て深い考へにでも惱んだ樣に只凝然として居る。煙は口から少しづゝ漏れて鼻を傳ひて騰る。彼は煙が騰る度に窪んだ黄色な目を蹙めるやうにして、心づいた樣に吸殼を手の平に吹くのである。彼はかうして極めて悠長に手を動かす樣でありながら、それでも傭はれた先で其の日の扶持はして貰ふので、相應な錢を獲つゝあるのであつた。
卯平は夏になれば何處でも忙しい麥扱や陸稻の草取に傭はれた。彼は自分の村落を離れて五日も六日も泊つて居て歸らぬことがある。卯平には先から先と歩いて居ることが却て幸ひであつた。彼は鬼怒川の高瀬船の船頭の衣物かと思ふ樣な能くも/\繼ぎだらけな、それも自分の手で膳つて清潔に洗ひ曝した仕事衣を裾長に着て、手拭を被つて暑い庭に小麥を叩いて居るのを其處此處に見ることがある。横に轉がした臼を前に据ゑて小麥を攫んでは穗先を其の臼の腹に叩きつけると種がぼろ/\と向へ落ちる。のつそりとして悠長な卯平は壯時に熟して居た仕事の呼吸で大きな手が肩から打ち下す時、まだ相當に捗どるのであつた。彼は恁うしてぐる/\と傭はれて歩きながら綺麗な花が咲いて居るのを見ると種を貰つたり根分けをして貰つたりして庭先の栗の木の側や井戸端に近く植ゑた。
彼は忙しい仕事が畢になつた時即ち稻刈から稻扱からさうして籾すりも濟んで彼が得意の俵編みもなくなつて、世間がげつそりと寂しく沈んだ時に彼は急に勘次と別な住まひが仕たくなつた。彼は少しばかり餘してあつた蓄へから蝕でも何でも柱になる木やら粟幹やらを求めて、家の横手へ小さな二間四方位な掘立小屋を建てる計畫をした。彼は寒い西風を厭うて殆ど勘次の家と相接して東脇へ建ようとした。勘次は固より自分の懷が目に見えて減るのでもなし、それに就ては決して陰で呟くことはなかつた。簡單な普請には大工が少し鑿を使つた丈で其他は近所の人々が手傳つたので仕事は只一日で畢つた。長い嵩張つた粟幹で手薄く葺いた屋根は此れも職人の手を借らなかつた。必要な繩は卯平が丈夫に綯つて置いた。それから壁を塗るのには間を措いて二三日かゝつた。勘次も有繋に勞力を惜まなかつた。彼は粟幹が葺き上げられた次ぎの日から二三日近所の馬を借りて田の傍の畑から土を運搬けた。畑には其の時麥が青く生えて居たが、それでも持主は畑が減るだけ田の面積が増す理由なのと、土の分量も格別の事でないのとで切り取ることを否まなかつた。庭へ卸した土にはちらり/\と青い麥の軟かな葉が交つて居た。勘次は夕方に成つて馬を返しながら、一日の餌料としておつぎに煮させた麥を笊へ入れて、それから刻んだ藁も添へてやつた。勘次は其の序に餘計な藁を切つた。土は畢の日の夕方に周圍に土手のやうな輪を拵へて其處に水を打つてはぐちや/\と足で溲ねながら刻んだ藁を撒いては踏み込んでさうして一晩置いた。さういふ間に卯平は鉈で篠を幾つかに裂いて柱と柱との間へ壁の下地に細かな格子目を編んで居た。篠は東隣の主人から請うて苦竹に交つたのを後の林から伐つたのである。次の日土は能く水を引いて居て程よく溲ねられた。勘次はおつぎに其の泥を盥へ運ばせて置いて不器用な手もとで塗つた。卯平は猶も篠で編み残した箇所を拵へて居た。
塗りたての壁は狹苦しい小屋の内側を濕つぽく且闇くした。壁の土の段々に乾くのが待遠で卯平は毎日床の上の筵に坐つて火を焚た。彼は近頃に成つてから毎日の樣に林を歩いては麁朶を脊負つて來て折つては焚き折つては焚きして居た。壁を塗る時格子目から内側へ捲くれ出た泥の一つ/\がだん/\に白つぽく乾いて明るく成つた時勘次は又内側から塗つて捲れて出た一つ/\を一帶に隱した。卯平は掘立小屋を建てるとなつたら勘次が此れ迄になく油が乘つた樣に威勢よく仕事をしてくれるのを何となく嬉しく思つて見たが、夫でも仕事をしながらしみ/″\口を利くのでもなければ、毎日膳を竝べると屹度僻んだやうな顏をされるので、卯平は一日も速く別に成つて見たい心から更に塗つた壁の爲に再び闇くなつた小屋の明るく成るのが遲緩しさに堪へぬのであつた。卯平は狹いながらにどうにか土間も拵へて其處へは自在鍵を一つ吊して蔓のある鐵瓶を懸たり小鍋を掛けたりすることが出來る樣にした。彼は勘次から幾らかづゝの米や麥を分けさせて別居した當座は自分の手で煮焚をした。それが却て氣藥でさうして少しづゝは彼の舌に佳味く感ずる程度の物を求めて來ることが出來た。
然しさうして居ても寒さが非常に嚴しい時は彼は只狹苦しい小屋の中に麁朶を少しづつ折り燻べるよりも比較的廣い竈の前で横に轉がした大籠からがさ/\と木の葉を掻き出してぼう/\と焔を立てゝ暖まりたい心持がするのであつた。それで彼は勘次の留守には竈の前で悠長に木の葉を焚いて顏や手足の皮の燒けた樣に赤くなるまであたつた。勘次は時々持ち込んだ麁朶や木の葉が理由もなく減つて居ることを知つて不快な感を懷いてはこつそりと呟きつゝおつぎに當るのであつた。
卯平は暫く隱居に落付いてからは一錢づゝでも懷を拵らへねばならぬといふ決心から促されて、毎日煙管を横に銜へては悠長ではあるが、然も間斷なく繩をちより/\と綯つたり、それから草鞋を作つたりした。彼は原料の藁を勘次に要求せずに五錢か十錢位づゝ懷錢を出して能く選つた藁を其處此處で買つて、穗先の處を持ては肩から打つ掛けてがさ/\と背負つて來るのである。藁の小さな極つた束が一把は大抵一錢づゝであつた。其の一把の藁が繩にすれば二房半位で、草鞋にすれば五足は仕上るのであつた。それで彼の一日の仕事は繩ならば二十房の大束が一把、草鞋ならば五足といふ處なので、一房の繩が七錢五毛で一足の草鞋が一錢五厘といふ相場だからどつちにしても一日熱心に手を動かせば彼は六七錢の儲を獲るのである。卯平が求める副食物は一日僅に二錢もあれば十分なので彼は毎日藁を使つて居れば四五錢づつの剰餘を得る理由ではあるが、品物を商ひに出る日を別にしても氣が乘らないといつては朝からごろりと轉がつて居ることもあるので平均して見ると一日が幾らにも成らないのであつた。然し其れ丈でさへ卯平は始終財布の錢の出入するのを心丈夫に思ふのであつた。
勘次はむつゝりとした卯平の戸口を覗いたこともないが、卯平が直に來ても來なくても飯の出來た時に喚びに行くのはおつぎであつた。卯平は熱心に藁仕事をする時は自分で炊事をするのは時間が酷く惜しくも成つたり、面倒にも成つたり、唯獨のみで然として居ると情なくもなつたりするので、平生は再び一同と一緒に箸を執ることにしたのである。彼はおつぎがはき/\と一言でもいうて呉れる毎に其の僻まうとする心がどれ程和げられるか知れないのである。彼は草鞋を作るとて四筋の竪繩に軟かな藁をうね/\と透しては其の繩の間に指を入れてぎつと前へ引き緊める微かな運動の間にも彼は勘次に對して口にも擧動にも出せぬ忌々敷さが心の底に勃々と首を擡げ始めることもあるのであつたが、おつぎの言辭はいつでも其の火を消し止める一杯の水なのであつた。おつぎはどうかすると目の邊に在る雀斑が一種の嬌態を作つて甘えたやうな口の利方をするのであつた。
おつぎは勘次の居ない時は牝鷄が消魂しく鳴いて出れば直ぐに塒を覗いて暖かい卵の一つを採つて卯平の筵へ轉がしてやることもあつた。おつぎは勘次の敏捷な目を欺くには此だけの深い注意を拂はなければならなかつた。それも稀なことで數は必ず一つに限られて居た。然し卯平は其の僅少な厚意に對して窪んだ茶色の眼を蹙める樣にして、洗ひもせぬ殼の兩端に小さな穴を穿つて啜るのであつた。彼はおつぎの意中を能く解して居るので其の吸殼は決して目につく處へは棄てないで細かに押し揉んで外へ出る序に他人の垣根の中などへ放棄つた。それからも一つ僻まうとする彼の心を爽かにするのは與吉であつた。疾から甘え切つて居る與吉は卯平の戸口に立ち塞がつては錢を請うた。狹い戸口は與吉の小さな身體でさへ卯平の藁をいぢつて居る手もとを薄闇くした。卯平は藁屑と一つに投出してある胴亂から五厘の銅貨を出してやるのが例であるが、與吉は自分で錢を出さうとして胴亂の大きな金具が容易に開かないので怒つて投げ出して見たり、卯平へ縋つたりした。卯平は態と與吉に倒されて轉がることもあつた。
勘次は與吉が卯平から錢を貰ふことを知つてから只さへ滅多にくれたことのない彼は決して一度も與へることがなかつた。卯平はそれを知つてさへ與吉に要求されることが却て彼の爲にはどれ程の慰藉であるか知れないのであつた。卯平は悲慘な隱居に移るまでには野田から持つて來た少し許りの蓄へは幾らも財布に残つては居なかつた。彼は俄に思ひ出した樣に一日熱心に仕事に屈託して見たり、又勘次に對する自棄から酒も飮んで見たりした。酒といつても知れた分量であるが、それでも藁一筋づつを刻んで行く仕事の儲にのみ手頼る彼の懷を悲しくした。卯平は其果敢ない仕事でも、彼の身體が滯りなく又勘次との間が融和されて居るならば彼は好きなコツプ酒の一杯を傾ける序に、酒を壜に買て勘次に與へることさへ不自由を感じもしなければ、惜しむこともないのであつた。勘次も疲勞した日の夕方には唐鍬を村落の店の軒下へ卸して一杯を傾けて來るのであるが、嘗て自分の家に運んだこともなければ臭い息を吐く間は卯平へ顏を合せたこともなかつた。
卯平は腰の疼痛に惱まされて、餘計にかさ/\と乾びて硬ばつて居る手を動かし難くなると彼は一塊のもない火鉢を枕元に置いて凝然と蒲團を被つた儘である。彼はさうでなくても嘗てはき/\と口を利いたこともなく、殊更勘次に對しては皺びた顏の筋肉を更に蹙めて居るので、恁うして凝然として居ることをも勘次は僂麻質斯が惱まして居るのだとは知らないで、寧ろ老人に通有な倦怠に伴ふ睡眠を貪つて居るのだらう位に見るのであつた。枕元の火鉢は戸口からでは彼の薄い白髮の頭を掩うて居た。彼はさうかと思ふと起きて一心に草鞋を作ることがある。彼の仕事は老衰して面倒な樣であるが、其の天性の器用は失はれなかつた。彼は五足づつを一つに束ねた草鞋とそれから繩が一荷物に成ると大風呂敷で脊負つて出た。それは大抵暖かな日に限られて居るのであつたが、其時は彼の大きな躯幹はきりゝと帶を締めて、股引の上に高く尻を端折つてまだ頼母しげにがつしりとして見えるのであつた。
卯平は斯うして仕事をして見たり寐て見たり、それから自分で小鍋立をするかと思へば家族三人と共に膳へ向つたり、側から見て居る勘次には氣が知れぬ爺さんであつた。卯平は時々鹽鮭の一切を古新聞紙の端へ包んで來ては火鉢へ鐵の火箸を渡して、少し燻る麁朶の火に燒いた。彼は危險い手もとで間違つて落しては灰にくるまつても口でふう/\と吹いて手でばた/\と叩くのみで洗ふこともしなかつた。じり/\と白く火箸へ燒け附いた鹽が長く火箸に臭氣を止めた。勘次は小屋で卯平が鹽鮭を燒く臭を嗅いでは一種の刺戟を感ずると共に卯平を嫉むやうな不快の念がどうかすると遂起つた。それだが卯平は又獨でむつゝりと蒲團にくるまつて居る時は父子三人の噺が能く聞えた。彼は自分が一緒に居る時は互に隔てが有相で居て、自分が離れると俄に陸まじ相に笑語くものゝ樣に彼は久しい前から思つて居た。其を聞くと彼は一種の嫉妬を伴うた厭な心持に成つて、蒲團を深く被つて見ても何となく耳について、おつぎの一寸甘えた樣な聲や與吉の無遠慮な無邪氣な聲を聞くと一方には又彼等の家族と一つに成りたいやうな心持も起るし、彼は凝然と眼を閉ぢて居るので頭の中が餘計に紛糾かつて、種々な状態が明瞭と目先にちらついてしみ/″\と悲しい樣に成つて見たりして猶更に僂麻質斯の疼痛がぢり/\と自分の身體を引緊めて畢ふ樣にも感ぜられた。彼はさういふ時おつぎでも與吉でも
「爺よう」と喚んでくれゝばふいと懶い首を擡げて明るい白晝の光を見ることによつて何とも知れぬ嬉しさに涙が一杯に漲ることもあるのであつた。
おつぎは八釜敷勘次に使はれて晝の間は寸暇もなかつた。夜がひつそりとする頃はおつぎは能く卯平の小屋へ來て惱んで居る腰を揉んでやつた。おつぎは卯平を勦るには幾ら勘次が八釜敷ても一々斷りをいうては出なかつた。勘次はおつぎが暫時でも居なくなると假令卯平の側に居るとは知つても
「おつう」と例のやうに激しく呶鳴つて見るのである。
「此處に居たよ、そんなに喚ばらなくつたつてえゝから、何だかおとつゝあは」おつぎの勘次を叱る聲は軟かでさうして明瞭に勘次の耳に響いた。勘次は手ランプの光に只目が酷く光るのみで一言もなく屏息して畢ふのである。彼は又暫くして大戸をがらりと勢ひよく開けて出ては又少し隙間を残して大戸を引いて丁度内へ還つたと見せて、殆んど壁に接した卯平の戸口に近く立つて見るのである。手ランプも點けぬ卯平の狹い小屋の空氣は黒く悄然として死んだ樣である。勘次は拔き足して戻つては出來るだけ靜に戸を閉ぢる。非常に不平な相形をして居ても勘次はおつぎが歸ると直に機嫌が直つて
「汝りやそんなに夜更しするもんぢやねえ」と勦はるやうな窘めるやうな調子ていつて見るのである。さうすると、
「明日の障りにでも成りやしめえし管あこたあんめえな、おとつゝあは」といつておつぎは勘次を壓しつけて畢ふのである。
卯平はおつぎが看病に來る時は大抵
「汝りやえゝよ」といふのが例である。彼は勘次に遠慮をするのではなくて、おつぎがぶつ/\いはれるのを懸念するのであつた。それでも卯平は心竊におつぎを待ちつゝあつた。彼が惱まされた僂麻質斯は病氣の性質として彼の頑丈な身體から其の生命を奪ひ去るまでに力を逞しくすることはなく、起つたり和いだりして彼が歸つてから二度目の冬も一日々々と短い日を刻んで行つた。
狹苦しい掘立小屋は彼が當初に思ひ込んだ程彼の爲に幸な處ではなかつた。
一九
「おゝ暑え/\、なんち暑えこつたかな」おつたは前駒の下駄を引き擦つて
「おや/\まあ能く斯うなあ、何處にも草だら一つなくつて、見ても晴々とする樣だ」と態とらしい樣にいつて庭に立つた。さうしてから
「たんと穫れべえなこんぢや、幹ばかしでもたえした出來だな」といつて勘次に近く歩を運んだ。勘次は庭先の栗の木の陰へ二つの臼を横に轉がしておつぎと二人で夏蕎麥を打つて居た。夏蕎麥は小麥でも打つ樣に一つ攫んでは肩から背負ふやうにして臼の腹へ叩きつけると三稜形の種子がまだ少し青い葉と共に落ちて殆ど直射する日光を遮つて居る栗の木の陰から遠ざかつて遙に先の方まで轉がつて行く。小麥と違つて濕つぽい夏蕎麥は幹がくた/\として幾度も叩きつけねばなか/\落ちない。それでも種子は不規則な成熟をして居るので、まだ青いのはどうしてもしがみ附いて居る。二人は藁で縛つた大きな束を解いては粘つた物でも引き剥す樣に攫み取つて熱心に忙しく臼の腹へ叩きつけた。庭は卯平が始終草をつて掃除してあるのに、蕎麥を打つ前に一旦丁寧に箒が渡つたので見るから清潔に成つて居たのである。勘次は暑いので紺の襦袢も腰のあたりへだらりとこかして、焦たやうな肌膚をさらけ出して居る。彼は更に栗の木の茂つた葉の間から針の先で突くやうにぽちり/\と洩れて射す光を避けて例もの如く藺草の編笠を被つて、麻の紐を顎でぎつと結んである。毎日必ず汗でぐつしりと濕るので、其の強靱な纎維の力が脆く成つて、秋の冷たい季節までにはどうしても中途で一度は換へねばならぬと勘次が自慢して居る紐は埃が加はつて汚れて居た。勘次はおつたの姿をちらりと垣根の入口に見た時不快な目を蹙めて知らぬ容子を粧ひながら只管蕎麥の幹に力を注いだのであつた。おつたは稍褐色に腿めた毛繻子の洋傘を肩に打つ掛けた儘其處らに零れた蕎麥の種子を蹂まぬ樣に注意しつゝ勘次の横手へ立ち止つた。おつたは幾年か以前の仕立と見える滅多にない大形の鳴海絞りの浴衣を片肌脱にして左の袖口がだらりと膝の下まで垂れて居る。裾は片隅を端折つて外から帶へ挾んだ。勘次は何處までも知らぬ容子を保つことは出來なかつた。彼はおつたの態とらしい聲も聞かず、又近く立つた其の姿を眼に映さない譯には行かなかつた。彼は蕎麥を攫むのを止めておつたの方を向いた。彼は蹙めて居た顏に少し極りの惡相な一種の表情を浮べた。
「何でえ※等[#「姉」の正字、「女+のつくり」、277-15]」勘次は無意識にさういつた。彼の胸のあたりに湧き出る汗は、僅に曲折をなしつゝ幾筋かの流るゝ途を作つて居る。其處には蕎麥の幹から知られぬ程づつ立つ埃が付いて濕つて居る。ぢり/\と汗腺から搾れ出る汗が其の趾つけられた流れの途を絶たないで其處だけ蕎麥の埃を洗ひ去つて居る。彼はおつたの前に其の暑相な身を向けた。
「どうしたつちこともねえがなよ、俺らこつちの方通つたもんだから一寸踏ん掛つて見た處さ」おつたは何か理由の有相な口吻で輕くいつた。
「俺ら暫くこつちへも來なかつたつけが、此らおつぎぢやあんめえか、大層えゝ娘に成つちやつたなあ、尤もはあ恁うい手合はちつと見ねえでちや分んなく成んな直だかんな、其の割にしちや俺ら見てえなもな年齡はとんねえものさな」おつたは立つた儘獨語の樣に、さうして少し張合のない樣に、何か噺の端緒でも求めたいといふ容子で栗の木の梢からだらりと垂てる南瓜の臀を見上げながらいつた。
おつぎは此の時菅笠の端へ一寸手を掛けておつたへ腰を屈めた。おつぎは白い襦袢の襟を覗かせて、單衣の胸をきちんと合せて、さうして襷と手刺とで身を堅めて、暑いのにも拘らず女の節制を失はなかつた。おつぎは蕎麥の手を放して小走りに驅けて行つた。菅笠をとつてだらりと被つた手拭を外した時少し亂れた髮がぐつしやりと汗に濡れてげつそりと衰へたものゝ樣に覺えた。おつたは開いた儘の洋傘を栗の木の側へ仰向に置いて默つて井戸端へ行つて手水盥に一杯の水を汲んだ。
「冷たくつて本當に晴々とえゝ水ぢやねえか、俺ら方の井戸見てえに柄杓で汲み出すやうなんぢや、ぼか/\ぬるまつたくつて」おつたは復た獨語をいつた。勘次は側を去つたおつたを棄てゝ、然も氣の乘らぬ樣に又蕎麥を臼へ打ちつけ始めた。おつたは汗沁みた手拭を頻りにごし/\と揉み出して首筋のあたりから一帶に幾度となく拭つて手水盥の水を換へた。暫くして家の廂からは青い煙が偃つてだん/\に薄い煙が後から/\と暑い日に消散した。
「おとつゝあ、お茶沸いたぞ」おつぎは戸口へ出て小聲で勘次へ告げた。
「うむ」勘次は喉の底でいつて
「※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、279-9]、お茶沸いたとう」彼は又ぶすりといつて蕎麥の手を止めなかつた。
「お茶おあがんなせえね」おつぎは勘次の尾に跟いて少し聲高にいつた。おつたはぎりつと絞つた手拭を開いてばた/\と叩いた。井戸端にぼつさりと茂りながら日中の暑さにぐつたりと葉が萎れて居る鳳仙花の、やつと縋つて居る花が手拭の端に觸れてぼろつと落ちた。側には長大な向日葵が寧ろ毒々しい程一杯に開いて周圍に誇つて居る。草夾竹桃の花がもさ/\と茂つた儘向日葵の側に列をなして居る
「能くまあかういに作つたつけな、俺らもはあ、好きは好きだが自分ぢやそつちだこつちだで作れねえもんだ、此れまあ朝つぱら凉しい内に見たらどら程えゝこつたかよ」おつたは濕つた手拭を幾つかに折つて手に攫んだ儘、栗の木の側に置いた洋傘を窄めてゆつくりと家へ這入つた。おつぎは茶を沸す火の爲に汗が更に湧いたのを手拭でふいて、それから亂れた髮に櫛を入て更に丁寧に手拭を被つてさうしておつたを喚んだのであつた。おつたは何處か落付かぬ容子で洋傘も外の壁際に立て掛て閾を跨いだ。
「お暑うござんすねどうも」おつぎは襷をとつて時儀を述べながらおつたへ茶を侑めた。三人は暫く沈默して居た。
東隣の庭からは大勢が揃つて連枷で麥を打つて居る響が、森を透して夫からどろり/\と地を搖つて聞えた。自分等が立てる響に誘はれて騷ぐ彼等の極つた囃の聲が「ほうい/\」と一人の口からさうして段々と各自の口から一齊に迸つて愉快相に聞えた。三人の耳は同じく誘はれた樣に一種の調子を持つた隣の庭の響に耳を傾けつゝ沈默の時間を繼續した。おつたは茶柱の立つた茶碗の中を見てそれから一寸嫣然として見たり、庭の方を見たりして居た。おつたが庭を見ると勘次は幾年も遭はなかつた※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、280-13]の容子を有繋にしみ/″\と見るのであつた。おつたは五十を幾つも越えて居る。小柄な少しくり/\と丸みを持つた顏は、年齡程には見えないにしても漸く深い皺が刻んで居るのに、髮は恐ろしくつや/\として居る。おつたは髮を染めて居た。然し藥の力は肌膚を透して其の下にまで及ぼすことは出來なかつた。髮は染めてから暫く經つたと見えて一帶に肌膚についた僅の部分が髮の凡てをそつくり突き扛げた樣に仄かに白く見えて居た。勘次は只響を立てながら容易に冷めぬ熱い茶碗を啜つた。おつぎも幾年か逢はぬ伯母の人なづこい樣で理由の分らぬ樣な容子を偸み視た。
「夏蕎麥でもとれんなかうい鹽梅ぢや粒も大え樣だな」おつたは庭を見た儘復た第一に目に觸れる蕎麥に就ていつた。此方へ向いて居る二つの臼の腹が、まだ先の軟かな夏蕎麥の莖で薄青く染まつたのが見えて居る。
「馬鹿に降つてばかし居た所爲か幹ばかし延びつちやつて、そんだがとれねえ方でもあんめえが、夏蕎麥とれる樣ぢや世柄よくねえつちから、恁んなもなどうでもえゝやうなもんだが」勘次のいひ方はこそつぱかつた。庭の油蝉が暑くなれば暑くなる程酷くぢり/\と熬りつけるのみで、閑寂な村落の端に偶遭うた※弟[#「姉」の正字、「女+のつくり」、281-11]はかうして只餘所々々しく相對した。
「本當に俺ら先刻からさう思つてんだが立派な花ぢやねえかな」おつたは庭先の草花に復た噺を繼いだ。
「うむ、そんだが碌に有りもしねえ肥料ばかし使あれて」
「おめえ植ゑたんぢやねえのか」
「なあに爺樣そつちこつちから持つて來て植ゑたてたのよ、去年はそんでも其處らへ玉蜀黍位作れたつけが、此れ、邪魔だとも云はんねえしなあ」
「俺ら暫く來ねえから知らなかつたつけが、そんでも野田から引つこんでか」
「うむ、はあ二年に成らえ」
「餘つ程の年齡だつぺが丈夫けえそんでも」
「丈夫なこたあ、魂消る程丈夫だが何でも自分の好きなら働く容子で、其處らほうつき歩いちや小遣錢位はとつてんだな鹽梅しきが」
「そんぢや忙しい時にやちつたあ手傳つて貰へてよかんべな」
「なんだら一つ手傳あなんちや有りやしめえし、それからはあ、此方も頼んもしねえが」
「尤もさういへば壯の頃でも俺らあ知つてからは仕事は上手で行ると出しちやみつしら行る樣だつけが、好きぢやねえ鹽梅だつけのさな」
「其れ處ぢやねえや、俺らと一緒に居んのせえ厭なんだんべが、別々に成つちやつたな、つまんねえ、餘計な錢なんぞ遣つて、俺らだつて大えこと手間打つこんだな、なあに俺ら爺樣せえちつと其積で行つて呉れせえすりや、幾らでも面倒見るつちつてんだが、如何いふ料簡のもんだか俺らがにや分んねえが」
「そんぢや、此の側な小屋ぢやあんめえ、俺ら先刻見た時や肥料小屋だとばかし思つてたな、本當にかうだ處へ醉狂な噺よな、なんでも世を渡しちや誰でも同じこと相續人の氣味惡くしねえ樣にやんなくつちや畢へねえよ、そんだがそれも性分でなあ、他からぢやしやうねえものよ」
「俺らだつてこんで一人殖えちや殖えた丈に麥米の心配からして掛んなくつちやなんねえんだから、其の積で居てくんなくつちや、此んで心持ぢや餘り面白かねえかんな、毎日苦蟲喰つ潰したやうな面つきばかしされたんぢや厭んなつちまあぞ、本當に」
「そりやさうにも何にもよ、他人でせえこんで軟けえ言辭でも掛けられつと、後ぢや欲しく成るやうな物でも出す料簡にもなるもんだかんなあ」おつたは斯ういひながら先刻からの塒の下に在る二俵の俵へ目を注いで居た。
「そんだがおめえもたえした働きだと見えんな、かうえに俵までちやんとして、大概な百姓ぢやおめえ此手にや行かねえぞ、俺ら世辭いふわけぢやねえが」
勘次は漸く噺に吊り込まれた樣に此の時微笑を洩らして
「俺らも今んなつてからぢやこれ、噺するやうなもんだが一しきりや泣いたかんな本當に、こんでも此の位にすんにやゝつとこせえだぞ」といつた。
「おつぎも働け相だな、きり/\としてなあ、先刻俺ら蕎麥打つてんの見てゝも心持えゝ樣だつけよ、仕事はなんでも身拵えのえゝもんでなくつちやなあ、此れもおめえが仕込の所爲だんべが」おつたはさういつて又
「そりやさうとおつかさまに其儘だなあ」と側に居たおつぎに目を移した。おつぎはそれを聞くと共に身を避ける樣に手桶を持つて庭へ出た。
「俺らもこんで嚊に死なれた當座にや此れも役に立たねえから泣きぬいたよ」勘次は俄にしんみりとしていつた。おつたはお品のことが勘次の口から出た時微かに苦笑して
「ほんに、俺ら彼ん時にや來ねえつちやつたつけが、遠くの方へ行つてたもんだから、おめえにやはあ惡く思はれべえたあ思つてたのよ」おつたは漸くのことで然も表面は事もなげにいつて畢つた。
「俺ら先刻から見てんだが道具は能く大事にすつと見えて鎌なんぞでも光つてつことなあ、それに能くかう三日月姿に減らせたもんだな、研ぎ方も餘つ程氣をつけなくつちやかうは出來ねえな、道具も斯うすりや何時までゝも使へて廉えものさな」おつたは少し慌てた樣に然も成るべく落附かうと勉めつゝ噺を外した。
「唐鍬もたえしたもんぢやねえかな」おつたは態と唐鍬の側に立つた。
「うむ、そんでも俺らが見てえなゝ、滅多持つてるもなねえかんな」
「どうすんでえこんな大えの、引つ立てるばかしでも大變なやうぢやねえけ」
「そんだつて※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、285-2]は此れ見ろな」勘次は掌をおつたの前へ出した。百姓にしては比較的小さな手は腫れたかと思ふ程ぽつりと膨れて、どれ程樫の柄を攫んでも決して肉刺を生ずべき手でないことを明かに示して居る。
「此んだから知らねえもな俺れ手懷してつと、如何したんでえなんて聞くから俺らかういに腫つちやつて痛くつてしやうねえんだなんて、そろうつと出して見せつと、成る程こりや痛かんべえなんて魂消らあな、唐鍬なんざ錢出しせえすりや幾らでも有んが、此の手つ平はねえぞ、二年三年唐鍬持つたんぢや恁うは成んねえかんな、俺らがな唐鍬の柄さすつかりくつゝいちやつたんだから、こんで毎年四五反歩位は打開墾すんだから」勘次は蹙めた顏の筋がゆるんだ樣になつておつたの前に誇つた。
「旦那の山林開墾しちやうめえのよ、場所によつちや陸稻も作れるし、俺らこんでも三四反歩づつは作つてんだが、今年はえゝ鹽梅な降りだから大丈夫だたあ思つてんのよ、どうえもんだか以前は陸稻つちとはあ、とれねえ樣なもんだつけがな」
「其に作つちや大層なもんぢやねえかな」おつたは驚いたやうにいつた。
「陸稻も地が珍らしい内は出來るもんだわ、穗の出た割にや分は拔けねえが、そんでも開墾したばかしにや草は出ねえから手間が要らねえしな、それに肥料つちやなんぼもしねえんだから、尤も三年も作つちや其の手にや行かねえが、其ん時や以前の山林になんだから可怖えこともなんにもねえのよ」
「餘つ程とれべえな、三四反歩も作つちやなあ」
「こんで穗の出際に雨でもえゝ鹽梅なら、反で四俵なんざどうしてもとれべと思つてんのよ」
「陸稻とも云はんねえもんだな、以前と違つて今の時世ぢやさうだからこんで場所によつちや、百姓にもたえした起き轉びがあるのよなあ、俺ら方見てえに洪水で持つてかれてばかし居つ處も有んのに山林んなかで米とれるなんて」
「さうよ、此處らは洪水の心配はさうだにしねえでもえゝ處だかんな」勘次は從來其の間がどうであつたにしても偶然逢つたおつたに對してだん/\噺して居るうちには同じ乳房に縋つた骨肉の關係が彼の淺猿しい心の底を披瀝いてそれを陰蔽するのには餘りに彼を放心とさせたのであつた。
「おつう、彼の薤でも出して見せえ、土用前に採つて直ぐ漬たんだから、はあよかんべえ」
勘次は快よくおつぎに命じた。おつぎは古い醤油樽から白漬の薤を片口へ出しておつたの側へ侑めた。勘次は一つ撮んでかり/\と噛つた。少し丸みがかつた頬に絶ず微笑を含んで勘次のいふことを聞いて居たおつたは何か更にいはうとして一寸躊躇しつゝある容子が見えた。勘次もおつぎもそれは知らなかつた。おつたは一杯に注いである茶碗へ又茶を注がうとして俄に止めた。おつたは茶碗をぐつと嚥み干した。
「こんで同胞のえゝ噺聞くな惡かねえもんだよ、有繋自分ばかしよくつて他の同胞にや管あねえつちいものもねえかんな」といつて庭の便所へ立つてそれから再び上り框に腰を卸した。
「俺らおめえにちつと相談に乘つて貰えてえと思ふこと有つて來たんだつけがなよ」おつたは態と改まつた容子でなくいひ掛けた。
「何だんべ」勘次はふつと彼の平生に還らうとして例の不安らしい目をつておつたを見た。
「なあにたえしたこつちやねえが、盲目の野郎げ嫁世話されるもんだからどうしたもんだんべかと思つてよ」
「※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、287-11]貰へたけりや他人にや管あこたあ有んめえな」勘次はおつたがゆつくりといふのが畢らぬのにそつけなくいつた。
「さう云つちめえばさうだがなよ、そんだつて同胞に一噺もねえなんて後で文句云はれても、默つてちやおめえ口が開けめえな、そんだから俺らおめえげ耳打して置くべと思つたんだな」
「俺ら何も不服いふ席はねえな」勘次は少し安心したらしく、恁う輕くいひ退けた。
「そんだらえゝがなよ、彼れもはあ廿七に成んだから俺らもこんでまあ心配はしてたんだが、自分でもそれ無え足んねえの心配が絶えねえもんだから、思つちや居ても手が出ねえのよ、自分の餓鬼のことおめえ全然どうなつても管あねえたあ思へねえよこんで」勘次は足の先で土間の土を擦りながら默つておつたのいふのを聞いた。
「彼もそれ中途で盲目に成つたんだから、それまでに働いて身體は成熟てるしおめえも知つてる通りあんで居て仕事も出來るしするもんだから、難有えことに不具でも嫁世話すべつちいものもあるやうな譯さなあ、何でも人間は働き次第だよ、おめえだつて働くんでばかり他人にや好く云はれてべえぢやねえけえ、そんで俺れも其の女は見たが、女はそれ惡りいがな、そんだつて盲目だもの目鼻立見べえぢやなし、心底せえよけりやえゝと思つてな」おつたは頻りに勘次の衷心からの同意を得ようとした。
「そりやよかんべなそんぢや」勘次は只簡單にさういつた。
「そんで娵持たせるにしても折角こつちに居て働いてんだから俺ら自分の處へは連れて行く譯にや行かねえと思つてな何ちつてもそれ、知てつ處でなくつちや盲目だから面倒見てくれるつち人もあんめえしなあ、それから俺ら其處んとこも心配して居たんだが、丁度此村落にえゝ鹽梅貸してもえゝつち家有るつちもんだから、序だと思つて見て來たが、此處からぢやあつちの方のそれ知つてべえ仕切つて貸すつちんだから、俺ら其處さ入れてえと思つて、おそこそ聞いて見たんだが借りんのにや保證人無くつちや駄目だつちから、近くぢやあるしおめえに保證に立つて貰えてえと思つてな」
「厭だよ俺らそんなこと」勘次は慌てたやうにいつた。
「そんぢや仕やうねえな、どうしてだんべなまた、折角彼が身も堅まんだからさうして呉れゝばえゝんだがな」おつたはがつかり投げ掛けた態度でいつた。
「箆棒、家賃でも滯つた日にや、俺れ辨償はなくつちや成りやすめえし、それこさあ俺らが身上なんざ潰れても間にやえやしねえ、厭だにもなんにも」
「そんなこと云つたつておめえ、彼だつて獨でゝも居んぢやなし持つもの持つて働くのに三十錢や五十錢の家賃の拂へねえことも有んめえな、それも何ならおめえ一月でも二月でも見試して、そん時見込なけりや身拔しても管えやしねえな」
「そんでも厭だよ、俺らさうい噺ぢや聞きたくもねえ」勘次は素氣なくいつてすいと庭へ立つて復た夏蕎麥へ手を掛けた。
「酷く忙しいこつたな」おつたは口を引き締めて勘次の後姿を見た。
「忙しいとも田の草もまあだ掻きやしねえんだ、土用になつてからだつて幾らも照りやしめえし、降つてばかし居つから見ろうあれ、隣の旦那等だつて今頃麥打つてる騷ぎだあ、百姓は此の頃の時節に餘計な暇なんざねえから」勘次は呟くやうにいつた。
隣の庭では先刻よりも更に勢がついた樣に連枷の響が囃の聲を伴ひつゝ森を洩れて聞えた。
「うむ、たえした挨拶だな、俺らまた※弟[#「姉」の正字、「女+のつくり」、290-4]つちやさうえもんぢやあんめえと思つてたんだつけな」おつたは少し勃然とした容子を見せた。
「※等[#「姉」の正字、「女+のつくり」、290-6]が云ふこと聽いたつ位どんなことされつか分んねえから」勘次は自棄に蕎麥の幹を打ちつけ/\しつゝいつた。彼は而して一目もおつたを見なかつた。
「什ことするつて俺ら泥棒はしねえぞ、勘次」其の切れた目尻に一種の凄味を持つておつたが立つた時、卯平はのつそりと戸口に大きな躯幹を運ばせた。
卯平はおつたを見て例の如く窪んだ茶色の目を蹙める樣にした。
「おやこつちのおとつゝあん、暫くでがしたねどうも、御機嫌よろしがすね」おつたはそら/″\しい程打つて變つた調子でいつた。
「まあこつちへでも來さつせえね」卯平は隱居へおつたを導いた。
「俺らいま外から歸つて來たばかしだが、何でがすね」卯平はぶすりと聞いた。
「ほんにはあ、他人にや聞かせたくもねえこつたがねえ、わしもそれ盲目の野郎が一人あんだが、これ三十近くにもなるものをねえ、只打棄つても置けねえから嫁とらせべと思つて、えゝ鹽梅のがそれ口掛つたもんだから勘次げも一噺すべと思つて來た處なのさ、わしもこんで義理は缺くの厭だかんね」
「さうしたら此の村落にえゝ鹽梅の家あるもんだから借りて身上持たせべと思つて保證に立つてくろつちつた處がたえした挨拶なのさ、三十錢か五十錢の家賃をねえ、不便だんべぢやねえかねえ不具の甥つ子のことをねえ、保證に立つた位身上潰れるつち挨拶なのさ、ねえこれ、年齡とつちやこつちのおとつゝあん先も短けえのに心底のえゝものでなくつちや、萬一の時が心配だからねえ、後の者の厄介に成りてえつちな皆おんなじだんべぢやねえか、ねえこつちのおとつゝあんさうでがせう、そんでそれ娵つちのが心底のえゝ女だつちんだからわしも欲しいのさ本當の噺がねえ、さう云つちや我慾の樣だがおんなじもんなら軟けえ言辭でも掛けてくれる嫁でなくつちやねえ、さうぢやあんめえかね」おつたは狹い戸口に立つた儘洋傘の先で土へ穴を穿ちながら勘次の方をぢろつと見つゝいきり立つていつた。
「そりや、はあ、さうだが」只此だけいつて寡言な卯平は自分の意を得たといふ樣に始終窪んだ目を蹙めて手からは煙管を放さなかつた。勘次は庭から偸むやうに視ては卯平がおつたへ威勢をつけて居るやうに思つた。彼は解いて打つて更に藁で括つた蕎麥の束をどさりと遠くへ擲つた。葉が更にぐつたりと萎れた鳳仙花の枝がすかりと裂て先が地についた。
「※等[#「姉」の正字、「女+のつくり」、292-2]、大層なこと云つたつて、老人の面倒見たゝ云へめえ」勘次はぶつ/\と獨語した。おつたの耳にも微かにそれが聞えた。おつたは屹と見た。
「おとつゝあ默つてるもんだ」おつぎは輕く勘次を制して
「お晝餐だぞはあ」とおつぎは更に勘次へ注意した。
「そんぢやこつちのおとつゝあん、お八釜敷がした、わしや歸りませうはあ、一刻も居ちや邪魔でがせうから、こつちのおとつゝあんも邪魔に成んねえ方がようがすよねえ」おつたは洋傘を開いて
「岡目でも知れまさあねえ、假令どうでも俵まで持つてられて、辨償つて見た處で三十錢か五十錢のことだんべぢやねえか、出來るも出來ねえもあるもんぢやねえ」とおつたは忌々敷さに其の口を止めなかつた。
「お晝餐はどうでがすね」おつぎはそれでも怖づ/\おつたへいつた。
「俺ら、はあ要らねえともね」おつたは蕎麥の種子の一杯に散らけた庭を遠慮もなく一直線に不駄の跡をつけた。
「勘次等、親子仲よくつてよかんべ、世間の聞えも立派だあ、親身のもなあ、お蔭で肩身が廣くつてえゝや」おつたは庭の出口から一寸顧みていつた。さうしてさつさと行つて畢つた。隣の庭の麥打の連中は、靜かになつたこちらの庭を嘲るやうに騷いでは又騷ぐのが聞えた。勘次は只力を極めて蕎麥の幹を打つて遂に一言も吐かなかつた。おつぎは垣根の上に浮んだおつたの洋傘が見えなくなるまで暫くぽつさりとして庭に立た。卯平は煙管を噛んだ儘凝然として默つて居た。卯平は暫くして鳳仙花の折れたのを見つけて井戸端へ立つた。彼はいきなり蕎麥幹の束を大きな足で蹴つた。彼は更に短い竹の棒を持つて行つてきつと力を極めて地に突き透した。垂れた鳳仙花の枝は竹の杖に縛りつけようとして手を觸れたらぽろりと莖から離れて畢つた。卯平は忌々敷相に打棄つた。卯平がのつそりと大きな躯幹を立てた傍に向日葵は悉く日に背いて昂然として立つて居る。向日葵は蕾が非常に膨れて黄色に成つてから卯平が植ゑたのであつた。其の時はもう蕾はどうしても日のいふこと聽いて動かないので、暑いさうして乾燥の烈しい日がそれを憎んで硬い下葉をがさ/\に枯らした。それでも強い莖はすつと立つて、大抵はがつかりと暑さに打たれて居る草木の間に誇つたやうに見えた。其の一杯に開いた皿の樣な花が庭先からいつでも冷かな三人を嘲るものゝやうに見えるのであつた。
竹の棒はぎつと突き透した儘いつまでも空しく鳳仙花の傍に立つて居た。
二〇
秋だ。
孰れの梢も繁茂する力が其の極度に達して其處に凋落の俤が微かに浮んだ。毎日透徹した空をぢり/\と軋りながら高熱を放射しつゝあつた日も餘りに長い晝の時間に倦まうとして、空からさうして地上の凡てが漸く變調を呈した。心もとなげな雲が簇々と南から駈け走つて、其度毎に驟雨をざあと斜に注ぐ。雨は畑の乾いた土にまぶれて、軈て飛沫を作物の下葉に蹴つて、更に濁水が白い泡を乘せつゝ低きを求めて去つた。それも僅に桑の木へ絡んだ晝顏の花に一杯の量を注いでは慌てゝ疾驅しつゝからりと熱した空が拭はれることも有るのであるが、驟雨は後から後からと驅つて來るので曉の白まぬうちから麥を搗いて庭一杯に筵を干た百姓をどうかすると五月蠅く苛めた。土地でいふ其の降つ掛けは一日で止まねば三日とか五日とか必ず奇數の日で畢つた。降つ掛けが來てから瓜畑は悉く蔓も葉も俄にがら/\に枯れて悲慘に成つて畢つた。極めてそつと然も騷がし相に動く雲が高く低く反對の方向に交叉しつゝあるのを見ると共に、枯燥しかけた草木の葉が相觸れ相打つてはだん/\と破れつゝざわ/\と悲しげな響を立てゝ鳴つた。凄い程冴えた夜の空は忙しげな雲が月を呑んで直に後へ吐き出し/\走つた。月は反對に遁げつゝ走つた。秋風だ。櫟や楢や雜木や凡てが節制を失つて悉く裏葉も肌膚も隱す隙がなくざあつと吹かれて只騷いだ。夜は寂しさに凡ての梢が相耳語きつゝ餘計に騷いだ。まだ暑い空氣を冷たくしつゝ豪雨が更に幾日か草木の葉を苛めては降つて/\又降つた。例年の如き季節の洪水が残酷に河川の沿岸を舐つた。洪水の去つた後は、丁度過激な精神の疲勞から俄に老衰した者の如く、半死の状態を呈した草木は皆白髮に變じて其の力ない葉先を秋風に吹き靡かされた。鬼怒川の土手に繁茂した篠の根に纏はつて居る短い鴨跖草も葉から莖から泥に塗れて居ながら尚生命を保ちつゝ日毎に憐れげな花をつけた。が滅入る樣に其の蔭に鳴いた。空を遙に飛んだ椋鳥の群が幾つかに分れて、地上に低く騷いでは梢を求めてぎい/\と鳴きつゝ落付かなかつた。到る處荒れた藪の端や土手の瘠せた篠の梢に乘り掛つて、之を噛めば齒がこぼれるといはれて居る毒な仙人草が其の手を幾らでも延して思ひ切つて蟠つた蔓が白い花を一杯につけて、さうして活々としたものは自分のみであることを誇るものゝ如く、秋風に吹かれつゝ白い布の樣にふは/\と動いた。
勘次の村落は臺地であるのと鬼怒川の土手が篠の密生した根の力を以て僅ながら崩壤する土を引き止めたので損害が輕く濟んだ。それでも幾日か降り續いた雨が水を蓄へて低い畑は暫く乾くことがなかつた。田も其の水の爲に浸つた箇所が少くなかつた。勘次は日となく夜となく田畑を歩いて只管心を惱ましたが、漸く自分の田畑の作物が僅な損害に畢つたことを慥めた時は彼は激甚な被害地の状况を傳聞して自分の寧ろ幸であつたことを竊に悦んだ。彼が大豆を引いて庭に運んだ頃はまだ暑い日が落付いて毬の割れ始めた栗の木の梢から庭をぢり/\と照して居た。根が幾日もぐつしりと水に浸つてた大豆は黄色味の勝つた褐色の莢も幹も泥で汚れた樣に黒ずんで居た。
大豆を引いたのはそれでも稀な晴天であつたので「いひ返し」に來る筈に成つて居た南の女房を頼んだ。彼等は相互の便宜上手間の交換をするのであるが、彼等はそれを「いひどり」というて居る。それで其の借りた手間を返すのがいひがへしである。大豆は庭に運ぶと共に一攫みにしては根を上にして先を丸く開いて互の幹が支柱に成るやうにして庭一杯に立てゝ干した。煙草を一服吸ふだけの時間に、成熟しきつた大豆は漸くぱち/\と輕い快い響を立てつゝ爆ぜ始めた。大豆は悉く庭の土に倒された。三人は連枷を執つて端からだん/\と幹を打つた。おつぎと南の女房とは相竝んで勘次に對して交互に打ち卸す連枷がどさり/\と庭の土を打つと硬ばつた大豆の幹はしやりゝ/\と乾燥した輕い響を交へてくすんだ穢い莢が白く割れて薄青いつやゝかな豆の粒が威勢よく跳ね出してみんな幹の下に潜り込んで畢ふ。三人が一遍大豆の幹を踏んで渡つたら幹がぐつと落付いた。
おつぎは晝餐の支度の茶を沸した。三人は食事の後の口を鳴らしながら戸口に出てそれから栗の木の陰に暫く蹲まつた儘憩うて居た。
「おや/\まあ、こつちの方はえゝこつたなあ、大豆でもかうだにとれて」おつたは小柄な身體を割合に大股に運んで妙な足拍手を取りつゝ這入つて來た。勘次はちらと見て栗の木の幹を後にした儘俯向いて畢つた。おつたは更に介意ないやうな態度でずつと戸口へ行つて、斜に肩へ掛けた風呂敷包をおろした。
「おゝ重たかつた」と少し汗ばんだ額を手拭でふきながら洋傘を仰向に戸口へ置いて、洋傘の中へ其の風呂敷包を置いた。南の女房はおつたを見て立つた。
「おやまあ、暫らくでがしたね」とおつたは、先に世辭をいうた。
「さういへばまあ、あつちの方は酷え洪水だつち噺だつけがどうでござんしたね」女房は手拭をとつていつた。
「噺の外でがさどうも、彼此れはあ、小卅日にも成んべが、まあだかたでどつちから手つけてえゝか分んねえんでがさどうもはあ、わし等方見てえに洪水ばかし出たんぢや、居んのも厭んなつちまあやうなのせ本當に、さう云つてもこつちの方はようがすね」おつたは相手を見つけて力を得たやうにいつた。
「此んでもまさか、此の村落だつて隨分かぶつた處も有んだから全然なんともねえつちこともねえがねえ」南の女房は聲を低くしていつた。
「そんでも此處らぢや居る處にや支障ねえんだからなんちつても諦めはようがさね、わし等方なんぞぢや、土手へ筵圍ひしてやつとこせ凌いだものなんぼ有つたかせ、土手に居ても雨せえなけりやえゝが、降られちや酷えつち噺でがしたよ、そんでもまあわし等、家に居られんな居られたんだからまあ同じにもようがしたのせ、そんでも床の上へ四斗樽かう倒にして置えてね、其上へ板渡してやつとまあ居通しあんしたがね、煮燒すんのもやつとこせで、隣近所は有つたつて往つたり來たりすんぢやなし、何程心細えか分んねえもんですよ、尤もこれ、死ぬ者せえあんだから斯うして居られんな難有え樣なもんぢやあるが、そんでも四斗樽の太え箍ん處むぐつた時や、夜横に成つて見たつて直耳の側でさら/\つとかう水が動いてんだから、放心眠つたらそつくり持つてかれつかどうだか分んねえと思つてね、ぼつちりともはあ云はんねえで居たのせえ、
それから板の端ん處からそろつと手出して見つと宵の口にやさうでもねえのがひやつと手の先が直ぐ水へ觸つた時にや悚然とする樣でがしたよ、それからはあ船は枕元へ繋いでたんだが、本當に枕元なのせえ、みんなして凝つて狹えつたつて窮屈だつてやつと居る丈なんだから、天井へは頭打つゝかり相で生命でも何でも蹙めらつる樣なおもひでさ、そんでもまあ到頭遁げもしねえで居らつたんだから、家でも持つてかれたものからぢや運がえゝのせえ、まあ晝間はなんちつても方々見えてえゝが、夜がなんぼにも小凄くつてねえ」おつたは自分の怖ろしかつた經驗を聞いてくれるのを悦ぶやうに語り續けるのであつた。
「そんでまあ、それもえゝが蛙だの蛇だのが來てね、蛙はなんだが蛇がなんぼにも厭ではあ、棒で引つ掛けて遠くの方へ打ん投げて見ても、執念深えつちのか又ぞよ/\泳いで來て、それも夜がねえ萬一のことが有つちやと思ふもんだから明り點けてたんだが其の所爲か餘計に來る樣で、薄つ闇え明りだからぢつき側へ來てからでなくつちや分んねえし、首擡げてんの見ちや本當に厭でねえ」おつたは幾らいつても竭きない當時を髣髴せしめようとする容子でいつた。
栗の木の陰に居た勘次はだん/\と幾らづゝでも洪水の噺に興味を感じても來たし、それから假令どうでも尋ねて來た※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、299-10]に挨拶もせぬのは他人の手前が許容さないので漸く立つて
「※等[#「姉」の正字、「女+のつくり」、299-11]も隨分ひでえ目に遭たんだな」彼はいひながら家の内へおつたを導いた。大豆の埃を厭うて雨戸は閉め切つてあつたので、大戸を一杯に開けても内は少し闇く且暑かつた。おつぎは先頃の樣に直に竈を焚いて柄杓で二三杯の水を茶釜へ注した。
「なんちつても、かうえ豆とれるなんておめえ等方はえゝのよなあ、俺ら方ぢや土手の近くで手の有るもなあ、田の畦豆引つこ拔えて土手の中ツ腹へ干しちや見た樣だが、まあだなんちつても莢が本當に膨れねえんだから、ほんの豆の形したつち位なもんだべな、そりやさうと此の豆はえゝ豆だな、甘相でなあ」おつたは閾を跨いで手先の豆を少し攫んで見ていつた。それからおつたは洋傘と一つに置いた先刻の風呂敷包を持ち込んでさうして又臀を据ゑた。
「水ん中に居ちや仕事するにも仕事はなしさなあ、それからみんな棒の先へ鈎くつゝけて魚釣りしたのよ、庭で幾らでも鮒釣れるつちんだから知らねえものが見ちや酷く困んねえ奴等だと思ふ位なもんだんべのさ」おつたは一杯の茶を啜つて喉を濕した。おつぎも南の女房も眼を据ゑて默つて聞いて居た。勘次は六ヶ敷顏をして居ながらも熱心に聞いた。
「後が酷くつてな、縁の下でも何でも泥が一杯で、そえつあゝ掻ん出せばえゝんだが床板が白つ黴に成つちやつて此れがまだなか/\干ねえから疊なんざ何時敷つ込めるもんだか分んねえのさ、そんでまた田でも畑でも引つ被つた處は水干てから腐つてるもんだから其の臭えことが又噺にやなんねえや、俺ら作物ばかし困んだと思つたら、畑の桐の木でも樫の木でも今ん成つてからぼろ/\葉々が落こつちやつて可怖えもんだよ」おつたはいひながら風呂敷を解いた。やまと煮と書いた牛肉の鑵詰が三本と菓子でもあるかと思ふ小さな紙包の堅めた食鹽の四つ五つとが出た。
「此れなあ、そんでも難有えことに、水浸に成つた家さは役場から一軒毎に下げ渡しになつたんだよ、俺らまたこつちの家なんぞぢやどうえ鹽梅だと思つて暫く外へも出たことねえもんだから出ても見てえし、かうえ物自分でばかし口開けつちやあのも何だと思つて持て來て見たのよ、俺ら一つ手つけて見たが何程えゝ味のもんだか知んねえや」おつたは空になつたかなり大きな風呂敷を幾つかに折つた。
「おゝえや、たえしたもんだね、此れ鹽だんべけまあ、見てえたつて見らつるもんぢやねえよ、かうえ物あねえ、能くまあ持つて來て勘次さん此ら大變だ」
南の女房は食鹽の一箇を手にして見ながら羨ましげにいつた。おつぎも珍らし相にして南の女房の手を覗いた。勘次も白い食鹽を爪の先で少しとつて口へ入た。
「鹽辛えやまさか」彼は嫣然とし乍ら
「おつう、此れ藏つて置け、そんぢや」
といつて更に
「※等[#「姉」の正字、「女+のつくり」、301-11]も酷かんべ野らは」と彼はおつたの染めつゝあつた髮が、交つた白髮をほんのりと見せるまでに藥の褪めて穢なく成つたのを見つゝいつた。
「米でも何でも一粒もとれやしねえのよ」おつたはぽさりとした樣にいつた。
「汁の身なんざそんでも、どうにか出來んのか」
「どうしてよおめえ、青えもな土手の草ばかしだつて云つてる位だもの、今日が今日困つてんだな」
「そんぢや、※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、302-2]げ茄子か南瓜でもやんべかなあ」勘次は同情が小し動いたやうにいつた。
「おやそんぢや俺ら家でも葱の少しもあげあんせう」南の女房はいつて桑畑の小徑を小走りに駈けて行つた。
「おとつゝあ、それもなんだが、さうえに持てやしめえし、米でも少しやつたらよかんべな、どうせ少し經つと陸稻刈れんだもの」おつぎは口を添へた。
「うむさうだなあ」と勘次は南京米の袋へ米を五升ばかり、もう痩せて居る俵から量り出した。
「挽割麥もやつたらよかんべな」おつぎは又いつた。
「此れさ交ぜてえゝけ」勘次はおつたを顧みていつた。
「うむ、一緒にしてくろ」とおつたは軟かにいつた。勘次は二つを等半に交ぜてそれから又大きな南瓜を三つばかり土間へ竝べた。
「そんぢや大層厄介掛けて濟まねえな、そんぢや俺ら米ばかし脊負つてつて明日でも又南瓜はとりに來るとすべえよ、そんぢや此ら、米大變だから俺れが風呂敷ぢやちつと小つちえんだが大かえの有れば貸してくんねえか」おつたはおつぎへいひ掛けた。
「俺ら家にやねえが、爺がな有つたつけな、おとつゝあ」さういつておつぎは小走りに卯平の小屋へ行つた。先刻まで見えなかつた卯平が何處から歸つて來たかむつゝりとして獨で煙管を噛で居た。
「爺居たんだな、俺居ねえけりや默つて借りてくべと思つたんだつけが、明日まで伯母さん大かえ風呂敷要るつちから貸してくんねえか、米脊負つて行くんだから」おつぎは突然にいつた。
「うむ」と卯平は不器用に風呂敷を出してさうしておつぎの後からおつたの側へのつそりと來て立つた。
「此れまあ、勘次等にも濟まねえつちつてつ處さ、わし等も洪水でねえ」おつたは風呂敷で南京米の袋をきりつと包んだ。
「そんぢや此の南瓜も俺れ貰つてえゝんだな、馬鹿に大けえ南瓜ぢやねえかな、明日まで置いてくろうな」おつたは始終笑顏を作つて居る處へ南の女房は葱を一束藁でくるんだのを抱へて來た。
「どうも濟みませんねこら」おつたは勘次を見て
「どうしたもんだ、たえした葱ぢやねえか、本當に濟まねえな、そんぢや此れも明日までとつて置いてくろうな」と更に又臀を据ゑて一杯の茶を啜つた。
「おやツ、此の栗は笑んでんだなはあ」庭先の栗の梢に始めて目をつけた樣におつたはいつた。
「此間からなんでさ、ちつとばかしだが落ちたの有りあんさ」おつぎは小笊の底の粒栗を出して
「あつちになけりや持つてつたらようござんせう、大豆もこれ打つた處なら持つてくとえゝんでがしたがね」おつぎは快くいつた。
「さうだな、そんぢや貰つて行くかな」おつたは手拭の兩端へ栗を括つた。
「こつちのおとつゝあん、此れわし役場から下つたの持つて來て見たんだが一つ分けて貰つたらようがせう、滅多ねえ味のもんだから」おつぎが先刻藏ふことを勘次に促されてもおつたの手前を憚つた樣にして其の儘にして置いた牛肉の鑵詰の一つをおつたは卯平へやつた。卯平は窪んだ目を蹙めるやうにした。勘次は放心した自分の懷の物を奪はれた程の驚愕と不快との目を以て卯平とおつたとを見た。おつたは重相な風呂敷包をうんと脊負つて胸の結び目へ兩手を掛けて包の据りを好くする爲に二三度搖つた。
「そんぢや明日またお目にかゝりあんせう」おつたは一同へ挨拶して
「此りやよかつた、本當にまあ」聞えよがしに獨語しながらおつたは庭から垣根を出た。勘次は自分の側に牛鑵を手にして立つた卯平を改めて更に不快な目を以て凝視しながら、彼の心の裡には惜しかつたといふ念慮が何といふことはなしに只ふいと湧いたのであつた。
「袋は明日持つて來てくんなくつちや畢へねえぞ」と勘次はおつたの後から追ひ掛けるやうにしていつた。
おつたは垣根に添うて後の林の側から田圃へ出た。道端の竹の梢には何處までも偃うて一杯に乘り掛らねば止むまいとする毒なせんにん草がくつきりと白く誇つて居る。小さな身體でありながら少し鋭い嘴を持つたばかりに、果敢ない雀や頬白の前にのみ威力を逞しくする鵙が小さな勝利者の聲を放つてきい/\と際どく何處かの木の天邊で鳴いて居た。
其の夜勘次の家には突然一同を驚愕せしめた事件が起つた。それは事もなく濟んでさうして餘りに滑稽な分子を交へて居た。與吉は其の日の夕方、紙へ包んだ食鹽を一つ盜んだ。彼は從來見たことのない綺麗な菓子を發見したと思つて心が躍つた。それでも彼は其の半分を割つていきなり嚥み下した。彼は喉がぢり/\と焦げつく程非常な苦惱を感じた。勘次もおつぎも只慌てた。勘次は其の原因を知つて
「汝りや馬鹿だな本當に、何ち馬鹿だんべなあ」と叱つて見るだけであつた。勘次が餘りに叱るので
「そんなに怒つたつて癒るめえな、おとつゝあは」と遂にはおつぎが勘次を叱つた。與吉は只苦しんで胸を掻きる樣にしつゝ顛がつて泣いた。卯平は騷ぎを聞いてのつそりと來た。
「水飮ませて見ろ」彼は慌てるといふことを知らぬものゝ如く一言いつた。おつぎは直に柄杓で水を汲んだ。與吉は幾らでも柄に縋つて飮んだ。
「納豆くつたつて死なねえ内に水飮ませりや何ともねんだもの、水飮ませりやそんなに騷ぐにやあたらねえ」卯平はいつて自分でも又飮ませた。與吉の枕元に三人は徹宵眠らなかつた。恐ろしく多量の水を飮んだ與吉は遂にすや/\と眠つた。さうして翌朝けそ/\と癒つて驅け出したのであつた。
次の日おつたは復來た。おつたは自分が無意識に種を蒔いた昨夜の騷ぎを知つてる筈がないので、昨日の如く威勢がよかつた。勘次は睡眠の不足から更に餘計に不快の目を蹙めた。自分の風呂敷へ軒の下に竝べてある三つの南瓜を包まうとしておつたは
「俺れが南瓜は此れだつけかな」と不審相にいつた。
「それだんべな」勘次は漸くこれだけいつた。淺猿しい彼はおつたへやつた南瓜を換へて置いたのであつた。
「どうしたつけ、昨日の豆はそんでもたんと收穫れた割合だつけが」おつたが謎のやうにいつても勘次は更にはき/\といはなかつた。おつたも不快な容子をしながら南瓜と葱とを脊負つて別に口を利くでもなく、只卯平と二言三言いつてもうどうでも好いといふ態度で出て行つた。勘次はつく/″\と中間の痛く痩せて括れた俵を見た。
財貨によつて物質的の滿足を自分の暖かな懷に感じた時凡ては此れを失ふまいとする恐怖から絶えず其心を騷がせつゝあるやうに、無盡藏な自然の懷から財貨が百姓の手に必ず一度與へられる秋の季節に成れば、其の財貨を保つた田や畑の穗先が之を嫉む一部の自然現象に對して常に戰慄しつゝ且泣いた。二百十日から廿日の間に渡つての暴風は懸念した程のことはなく、只秋の空は六かし相に低く成つて棒のやうな雲へ煙の樣な雲がぽつり/\と纏つて居る日が續いて二三日晝から夜へ掛けてぼか/\と暖かい空つ風が思ひ切り吹いた。小松や櫟の林に交つて、之に觸れゝば人の肌膚に血を見せる程の硬い意地の惡い葉を持つた芒までが、さうしなければ目にも立たないのに態々と薄赤い軟かな穗先を高くさし扛げて、他一倍に騷いだ。暫くして秋は眩い程冴えた空を見せた。畑には晝が餘計に明るい程黄褐色に成熟した陸稻が一杯に首肯いた。蕎麥は爽かで且つ細く強い秋雨がしと/\と洗つて秋風がそれを乾かした。洗つては乾し/\屡それが反覆されてだん/\に薄青く、さうして闇の夜をさへ明くする程純白に曝された。臺地の畑は黄白相交つて地勢の儘になだらかに起伏して鬼怒川の土手に近く向方へ低くこけて居る。さういふ畑の周圍に立て居る蜀黍は強い莖がすつくりと穗を支て、それが疎らな垣根のやうに連つて畑から畑を繼いでは幾十度の屈折をなしつゝ段々に短くなつて此れも鬼怒川の土手に近く竭きる。土手の篠の高さに見える蜀黍は南風を受けて、さし扛げた手の如き形をなしては先から先へと動いて、其の手が溯る白帆を靜かに上流へ押し進めて居る。さうしては又其の疎らな垣根は長い短いによつて遠くの林の梢や冴えた山々の頂を撫でゝ居る。爽かな秋は斯くしてからりと展開した。
然し勘次の作つた陸稻はかういふ畑ではなく、梢の荒んだ雜木林の間のみであつた。彼の開墾地へは周圍に隱れる場所が有る所爲か、村落の何處にも俄に其聲を聞かなくなつた雀が群をなして日毎に襲うた。彼はそれでも根よく白い瓦斯絲を縱横に畑の上に引つ張つてひら/\と燭奴を吊つて威して見た。それでも狡獪な雀の爲に籾のまだ堅まらないで甘い液汁の如き状態をなして居る内から小さな嘴で噛んで夥かに籾殼が滾された。彼は空つ風が障つたとは思つて居ても、長い幹を刈り倒した時はそれでも熱心で且愉快であつたが、然し乾燥して米にした時には彼は夏の頃の豫想と非常な相違であることを確めて落膽せざるを得なかつた。
彼の淺猿しい心が僅な米や麥を※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、308-10]なるものゝおつたに騙して取られたかと思ひ出しては暫くの間忌々敷さに堪へなかつた。彼は勢ひ何かに當り散らさうとするのにおつぎと與吉とに對しては餘りに深い親しみを有つて居た。斯うして彼の卯平に對する憎惡の念が彼の心へ錐を穿つて更に釘を以て確然と打ちつけられたのであつた。
二一
勘次が走つて鬼怒川の岸に立つた時は霧が一杯に降りて、水は彼の足許から二三間先が見えるのみであつた。岸には船が繋いでなかつた。彼は焦慮つて例するやうに大聲出して對岸へ行つた筈の船を喚んだ。「おうえ」と應ずる聲が水を渉つて強く然かも近く聞えた。勘次は其の聲に壓せられて默つた。直ぐに舳が薄く霧の中から見えた。勘次は殆んど咽ぶやうな霧に包まれて船に立つた。處々さら/\と微かに響を傳ひて船の底が支へられようとする。初秋の洪水以來河の中央には大きな洲が堆積されたので、船は其の周圍を偃うて遠く彎曲を描かねば成らぬ。勘次は目を掩はれたやうで心細い霧の中に、其ことで著しく延長された水路を辿つて居ながら、悠然として鈍い棹の立てやうをするのに心を焦慮らせて
「どうしたんべ、入つちや越せめえか」船頭の方を向いて彼はいつた。
「ぶく/\やりたけりや入つた方がえゝや」船頭はそつけなくいつて徐ろに棹を立てる。船底が觸つて立つて居る身體がぐらりと後へ倒れ相に成つた。勘次は船頭が態と自分を突きのめしたものゝやうに感じて酷く手頼ない心持がした。彼は凝然と屈んで船頭の操る儘に任せた。中央の大きな洲から續く淺瀬に支へられて船は例の處へは着けられなく成つて居る。只一人の乘客である勘次は船頭の勝手な處へおろされたやうに思つた。河楊が痩せて、赤い實を隱した枸杞の枝がぽつさりと垂れて、大きな蓼の葉が黄色くなつて居る岸へ船はがさりと舳を突つ込んだのである。それでも其處にはもう幾度か船がつけられたと見えて足趾らしいのが階段のやうに形づけられてある。勘次は河楊の枝に手を掛けて他人の足趾を踏んだ。枝や葉がざら/\と彼の蓙に觸れて鳴つた。彼は三足目に岸に立つた。岸は畑で、洪水が齎した灰に似てる泥が一杯に乾いて大きな龜裂を生じて居る。周圍の蜀黍が穗を伐られた儘、少し遠くはぼんやりとして此れも霧の中に悄然と立つて居る。勘次が顧つた時、彼を打棄つた船は沈んだ霧に隔てられて見えなかつた。彼は蜀黍の幹に添うて足趾に從つて遙に土手の往來へ出た。霧が一遍に晴れた。彼は何かに騙された後のやうに空洞とした周圍をぐるりと見廻さない譯にはいかなかつた。彼は沿岸の洪水後の變化に驚愕の目をつた。偶然彼は俄に透明に成つた空氣の中から驅つて來て網膜の底にひつゝいたものゝやうにぽつちりと一つ目についたものがある。それは遠い上流に繋つて居る小さな船であつた。
其處には數本の竹竿が立てられてあるのも同時に彼の目に入つた。彼は直ぐにそれが鮭捕船であることを知つた。漁夫は鮭が深夜に網に懸るのを待ちつゝ、假令連夜に渡つてそれが空しからうともぽつちりとさへ眠ることなく、又獲物が鋭く水を切つて進んで來るのを彼等の敏捷な目が闇夜にも必ず逸することなく、接近した一刹那彼等は水中に躍つて機敏に網を以て獲物を卷くのである。彼等は夜が明けると銀の如く光つて居る獲物が一尾でも船に在ればそれを青竹の葉に包んで威勢よく擔いで出る。さもなければ怜悧な鮭が澱みに隱れて動かぬ白晝の間のみぐつたりと疲れた身體に僅に一睡を偸むに過ぎないので、朝の明るく白い水にさへ凝然と其の目を放たないのである。孰れにしても小さな船は今冷たい朝の靜けさを保て居るのである。只遙に隔つた村落の木立の梢から騰る炊煙が冴えた冷たい空に吸ひこまれて居るのみで、其の小さな船が中心點をなして勘次の目には一つも動く物を見なかつた。彼は暫く又凝然として上流の小船を見て居た。彼は氣がついた時土手を一散に北へ急いだ。土手は軈て水田に添うてうね/\と遠く走つて居る。土手の道幅が狹くなつた。それは刈られてぐつしやりと濕つて居る稻が土手の芝の上一杯に干されてあつたからである。稻はぼつ/\と簇つて居る野茨の株を除いて悉く擴げられてある。野茨の葉はもう落ちて畢つて、小さな枝の先には赤いつやゝかな實が一つづゝ翳されて居る。草刈の鎌を遁れて確乎と其株の根に縋つた嫁菜の花が刺立つた枝に倚り掛りながらしつとりと朝の濕ひを帶て居る。濡れた稻の臭が勘次の鼻を衝いた。螽がぱら/\と足の響に連れて稻を渉つて遁た。彼は其干された稻の穗先を攫んで籾の幾粒かを手に扱いて見た。彼は更に其籾粒を齒で噛んで見た。彼は夫から又一散に走つた。彼は少しの間に酷く暇どつたやうに感じた。足には脚絆と草鞋とを穿て背には蓙を負うて居る。蓙は終えず彼の背後にがさ/\と鳴つて其の耳を騷がした。彼は遂に土手から折れて東へ/\と走つた。
村落がぽつり/\と木立を形つて居る外には一帶に只連續して居る水田を貫いて道は遙に遠く、ひつゝいたやうな臺地の林を望んで一直線である。彼は嘗て其處を歩いたことはあつた。然し彼の知つてるのは幾屈曲をなして居た當時である。彼は何時の間にか極端に人工的の整理を施された耕地に驚愕の目をつた。彼は溝渠の井然として居るのに見惚れて畢つた。
日は漸く朝を離れて空に居据つた。凡ての物が明るい光を添へた。然しながら周圍の何處にも活々した緑は絶えて目に映らなかつた。まだ幾らも刈られてない田は、黄褐色の明るい光を反射して、處々の畑に仕る桑も、霜に逢ふまではと梢の小さな軟かな葉の四五枚が潤ひを有つて居るのみである。ぽつ/\と簇つた村落の木立の孰れも悉く赭いくすんだ葉を以て掩はれて居る。さうして低く相接して居る木立との間に截然と強い線を描いて空は憎い程冴て居る。さうだ。凡ての植物が有つて居る緑素は悉皆空が持つて居るのだ。春になると空はそれを雨に溶解して撒いてやるのだ。それだから濕うた枝はどれでも青く彩られねばならぬ筈である。それだから幾度百姓の手が耕さうとも其の土を乾燥して濡らさぬ工夫を立ない限りは、思はぬ處にぽつり/\と草の葉が青く出て、雨が降れば降る程何處でも一杯に其の草の葉が濃く成つて行かねばならぬ筈である。それを晩秋の空が悉皆持ち去るので滅切と冴える反對に草木は凡てが乾燥したりくすんだりして畢ふのに相違ないのである。
明るい日は全く晝に成つた。處々の島のやうな畑の縁から田へ偃ひ掛つて居る料理菊の黄な花が就中一番強く日光を反射して近いよりは遠い程快よく鮮かに見えて居る。勘次は始終手拭を以て捲いた右手の肘を抱へるやうにして伏目に歩いた。道に添うて狹い堀の淺い水に彼の目が放たれた。がら/\に荒んだ狼把草やゑぐがぽつ/\と水に浸つて居る。蒼い空は淺い水の底から遙かに深く遠く光つた。さうして何處からか迷ひ出して落付く場所を見出し兼ねて困つて居るやうな白い雲が映つて、勘次が走れば走る程先へ/\と移つた。勘次はそれを凝視めて行くと何だか頭腦がぐら/\するやうに感ぜられた。彼は昨夜は眠らなかつた。彼の自分獨で噛み殺して居ねばならぬ忌々敷さが頭腦を刺戟した。彼は只管肘の瘡痍の實際よりも幾倍遙に重く他人には見せたい一種の解らぬ心持を有つて居た。寸暇をも惜んだ彼の心は從來になく、自分の損失を顧みる餘裕を有たぬ程惑亂し溷濁して居た。白晝の日は横頬に暑い程に射し掛けたが周圍は依然冷たかつた。堀の淺い水には此れも冷たげに凝然と身を沈めた蛙が默つて彼を見て居た。遠い田圃を彼は前後に只一人の行人であつた。遙にぽつり/\と見える稻刈の百姓は然とした彼の目から隱れようとする樣に悉皆ずつと低く身を屈めて居る。明るい光に滿ちた田圃を其の惑亂し溷濁した心を懷いて寂しく歩數を積んで行く彼は、玻璃器の水を日に翳して發見した一點の塵芥であつた。
勘次は田圃が竭きた時村落を過ぎて臺地へ出た。村落の垣根には稻を掛けて居る人々があつた。道行く人を見たがる癖の彼等は皆忙しげな勘次を見た。勘次は他人が自分を見ることを知つた時肘を復た叮嚀に抱いた。臺地には林の間に陰氣な畑が開墾されてあつた。彼は開墾地の土質と作物とを非常な注意で見た。又村落があつて廣い畑が展開した。畑は陸稻を刈つた儘の處が幾らもあつた。彼は陸稻の刈株を叮嚀に草鞋の先で蹂んで見た。百姓がちらほらと動いて麥を蒔くべき土が清潔に耕されつゝある。畑の黒い土は彼等の技巧を發揮して叮嚀に耕されゝば日がまだそれを乾さない内は只清潔で快よい感じを見る人の心に與へるのである。
さういふ村落を包んで其處にも雜木林が一帶に赭くなつて居る。他に先立つて際どく燃えるやうになつた白膠木の葉が黒い土と遠く相映じて居る。勘次は自分の麥を蒔くべき畑の用意がまだ十分でないことを思つた。彼は前年寒さが急に襲うた時、種蒔く日が僅に二日の相違で後れた麥の意外に收穫の減少した苦い經驗を忘れ去ることが出來なかつた。彼は標準として教へられた其の日を外すことなく麥は蒔かねばならぬものと覺悟をして居るのである。それと共に一日でも斯うして時間を空費する自分の瘡痍に就いて彼は深く悲しんだ。然しそれで居ながら彼は悲痛から來る憤懣の情が、只其瘡痍を何人にも實際以上に重く見せもし見られもしたい果敢ない念慮を湧かしむることより外に何物をも有たなかつた。彼は殆んど絶對に同情と慰藉とに渇して居たのである。
畑の黒い土にはぽつ/\と大根の葉が繁つて居る。周圍に冴えた青い物は大根の葉のみである。大根の葉は、一旦地上の緑を奪うて透徹した空が其の濃厚な緑を沈澱させて地上に置いた結晶體でなければならぬ。晩秋の氣は只管に沈まうとのみして居る。生殖作用を畢つた凡ての作物の穗先は悉皆もう俛首れて居る。蟲の聲も地に沁み入らうとして居る。獨り爽かな緑を與へられた大根の葉も、幾ら成長しても強く引き締める晩秋の氣を受けて地にひつゝくやうにして漸と斜に廣がるのみで、毫でも高く立ち昇ることを許容されて居らぬ。恁うして畑の土は只冷たく凍るのを待つて居るのである。
勘次は漸く整骨醫の門に達した。整骨醫の家はがら竹の垣根に珊瑚樹の大木が掩ひかぶさつて陰氣に見えて居た。戸板を三角形に合せて駕籠のやうに拵へたのが垣根の内に置かれてあつた。誰か重い怪我人が運ばれたのだと勘次は直ぐに悟つてさうして何だか悚然とした。彼は業々しい自分の扮裝に恥ぢて躊躇しつゝ案内を請うた。ぽつさりとして玄關に待つて居るのは悉皆怪我人ばかりである。首から白い布片を吊つて此れも白く繃帶した手を持たせたものもあつた。其處に蒼い顏をしてぐつたりと横はつて居るものもあつた。勘次は怪我人の後に隱れるやうにして自分の番になるのを待ちながら周邊が何となく藥臭くて恐ろしいやうな感じに囚はれた。醫者は一人の患部を軟かに柔んでやつて居たが勘次をちらと見た。勘次は何だか睨まれたやうに感じた。醫者は爼板のやうな板の上に黄褐色な粉藥を少し出して、白い糊と煉り合せて、罎の酒のやうな液體でそれを緩めてそれから長い鋏で白紙を刻んで、眞鍮の箆で其藥を紙へ塗抹つて患部へ貼つてやつた。怪我人等は只凝然として醫者の熟練した手もとを凝視した。勘次は他人の後から爪立をした。二三人小さな療治が濟んで十二三の男の子が仕事衣の儘な二十四五の百姓に負はれて醫者の前に据ゑられた。醫者は縁側の明るみへ座蒲團を敷いて出た。怪我人は醫者の前へ出ると恐怖に襲はれたやうに俄に鳴咽した。醫者は横に膨れた大な身體でゆつたりと胡坐をかいた儘怪我人の左の手を捲つて見た。怪我人の上膊が挫折してぶらりと垂れて居た。醫者は怪我人の患部に手を觸れて見て
「お前そつち持つて」と簡單に顎で百姓へ指圖した。百姓は怖づ/\怪我人の後へ廻つて蒼い顏をして抱いた。
「えゝか、ぎつと抱いてるんだぞ」醫者は足を怪我人の腹部に當てゝ兩手に挫折した手を持つて曳かうとした。怪我人は恐ろしさにわつと聲を放つて泣いた。醫者は手を止めた。
「お前兄貴だな、そんぢやえゝ、徒勞だ」と抱いた手を放たしめた。百姓は骨肉の勦りが泣き號ぶ子をぎつと力を籠めて曳かせない。そんな思ひきつた手段に加はることは出來ないのであつた。百姓は泣けば泣く程手を緩めた。醫者はそれで徒勞だといつた。百姓は只蒼い顏をしてぼつとして居るのみであつた。
醫者は更に家族に命じて近所の壯者を喚びにやつた。
「木から落つたな」醫者は百姓に聞いた。
「えゝ、わしやはあ、どうしてえゝもんだか分んねえから畑耕つてた儘衣物も着ねえで斯うして負つて來たんだが」と百姓はいつて、それから
「わしの木さ登んな見てたんだつけが、落つたから驅けてつて見たら、目引つゝけつちやつて、そんでも暫く經つたら泣き出したんでわし抱き起して手へ觸つたら、痛てえ/\つちから捲つて見たら、斯うぶらんと成つたつ切でわしもはあ、魂消つちやつて」百姓は只管に慌てゝいつた。
「本當に此處へ來て居ちや毎日のやうに木から落つたつち怪我人が來んだよまあ、椎の木から落つたの栗の木から落つたのつて、子供の怪我は大概さうなんだから、男つ子持つちや心配さねえ、そんだがこれ、怪我つちや過だから、わし等も下駄穿きながらひよえつと轉がつた丈で手つ首折れたんだなんて」と側に居た婆さんがいつた。
「わし等がも毎日のやうにの木さ登つてゝ木登りは上手なんだから、それも雨でも降つたばかしならつる/\して足引つ掛んねえもんだが雨は降んねえし、そんなこたねえ筈なんだが、攫つてた枝ん處に蛇居たとかつて慌くつておりべと思つたつちんだから、いつでもはあ枝なんざがさがさやつて天邊の方で呶鳴つたりなにつかしてたんだつけが、かさあつちのが酷く變な音だと思つて見る内にや落んな早えゝもんで、困つたこと出來たのせ」百姓は乘地になつていひ續けた。勘次は恐怖の目をつて耳を傾けた。
「の木さ蛇があがるやうぢや雨でもまた降らなけりやえゝが、百姓にや大事な處なんだからまあ、ちつと續けさせてえもんだが」側から又一人の怪我人が口を添へた。勘次は又其の噺を聞きながら定まりない天候の變化を案じた。
軈て近所の壯者が來て以前の如く怪我人を懷いた。醫者は先刻のやうにして怪我人の恐怖した顏を見ながら口を締めてぎつと其の手を曳いた。怪我人の手はぼぎつと恐ろしい音を立た。怪我人は只泣き號んだ。
「よし/\癒つちやつた」醫者は手を放つて、太い軟らか相な指の腹で暫く揉むやうにしてそれから藥を塗つた紙を一杯に貼つて燭奴のやうな薄い木の板を當てゝぐるりと繃帶を施した。
「どのつ位で癒つたもんでござんせうね、先生さん」百姓は懸念らしく聞いた。
「さう直ぐにや癒らねえな」醫者は無愛想にいつた。百姓は依然として蒼い顏をしながら怪我人を脊負つて歸つて行つた。それから二三人の療治が濟んで勘次の番に成つた。
「此りや大層大事にしてあるな」醫者は穢い手拭をとつて勘次の肘を見た。鐵の火箸で打つた趾が指の如くほのかに膨れて居た。
「どうしたんだえ此ら、夫婦喧嘩でもしたか」醫者は毎日百姓を相手にして碎けて交際ふ習慣がついて居るので、どつしりと大きな身體からかういふ戯談も出るのであつた。
「なあにわしやはあ、嚊に死なれてから七八年にもなんでがすから」勘次は少し苦笑していつた。
「さうか、そんぢや誰に打たれたえ、まあだ壯だからそんでも何處へか拵えたかえ」輕微な瘡痍を餘りに大袈裟に包んだ勘次の容子を心から冷笑することを禁じなかつた醫者はかう揶揄ひながら口髭を捻つた。
「先生さん戯談いつて、なあにわしや爺樣に打たれたんでさ」勘次は只管に醫者の前に追求の壓迫から遁れようとするやうにいつた。
醫者はそれからはもう默つて藥を貼つて形ばかりの繃帶をした。
「先生さん、わしやまあだ來なくつちやなりあんすめえか」勘次は懸念らしい目を以て聞いた。
「此の藥をやるから、自分で貼つた方がえゝ、此れで癒るから」と醫者は一袋の藥を與へた。勘次は一度整骨醫の門を潜つてからは、世間には這に怪我人の數が有るものだらうかと絶えず驚愕と恐怖との念に壓せられて居たが、珊瑚樹の繁茂した木蔭から竹の垣根を往來へ出た時彼は身も心も俄に輕くなつたことを感じた。彼は小さな怪我人から聯想して此れも毎日庭の木を覘つて居る與吉を憂へ出した。彼は脚力の及ぶ限り歸途を急いだ。彼は行く/\午前に見て暫く忘れて居た百姓の活動を再び目前に見せ付られて隱れて居た憤懣の情が復た勃々と首を擡げた。彼は自分の瘡痍が輕く醫者から宣告された時は何となく安心されたのであつたが、然し又漸次道程を運びつゝ種々な雜念が湧くに連れて、失望と不滿足を心に懷きはじめた。彼は家に歸つた後瘡痍を重く見せ掛けようとするのには醫者の診斷が寸毫も彼に味方して居なかつたからである。
彼の家に歸つたのは日が西に連つた雜木林の上に傾かうとした頃であつた。彼は只其儘に自分の怪我と其事實とを掩うて置くのが残り惜い心持がした。それで彼は其の足で直に南の家へ行つた。脚絆と草鞋とで身を堅めた勘次の容子を不審に思つた南の亭主へ勘次は突然訴へるやうにいつた。
「俺ら、爺樣に鐵火箸で打つ飛ばさつて、骨接へ行つて來た處だが、忙し處酷え目に逢つちやつた」勘次はそれでも口が澁つて思ふ樣にいへなかつた。南の亭主は態々來て噺をされては棄てゝ顧みぬことも出來なかつた。
「どうしたつちんでえまあ、勘次さん」幾らか態とらしく驚いたやうに聞いた。
「昨日の日暮に俺れ野らから歸つて來たら爺樣げ餌料撒えてやつてつから見たら、米交ぜて置いた食稻の方掻ん出して撤いてんぢやねえけ、夫から俺らもそれ遣つたんぢや畢ねつちつたな、げやんなそつちに別にして有んだから撒いてやんだらそつちのがにして呉ろつちつたのよ、げなんざ勿體ねえな、さうしたらいきなり鐵火箸で俺れこと打つ飛ばして、汝りや俺げ食はせんのせえ惜いつ位だからげやつてせえ其こと云へやがんだんべなんて、ら放心してたもんだから逃げ間にやあねえで、此れかうえに怪我しつちやつたな、今蒔物の忙しい處へ打つ込んで、何處までも癒んねえやうでもしやうねえから朝つ稼ぎに骨接へ行つたんだが、遠いのにそれに行つて見つと怪我人が來て居てちよつくらぢやねえもんだから、隨分急えだ積だつけがこんなに遲くなつちやつて、何ちつても日は短くなつたかんな、さう云つても怪我人ちや有るもんだな、」勘次は漸くさうして仔細に事の顛末を打ち明けた。
「そんだが怪我は大變なこたねえのか」南の亭主はそれも義理だといふやうに聞いた。
「うむ」と勘次はいひ淀んだ。南の亭主は其の理由を覺ることは出來ないのみでなく、其のいひ澱んだことを不審に思ふ心さへ起さぬ程放心と聞いて居た。
「そんで爺樣はどうしたつちんでえ」南の亭主はそれから先を聞いた。
「俺ら朝つぱら出掛つちやつてまあだ行逢えもしねえから、どうするつちんだか分んねえが、どうせ甘え面付もしちや居らんめえな、此んで怪我なんぞさせてえゝ心持ぢやあんめえな、さうぢやねえけ」勘次はだん/\勢ひがついていつた。
「そんぢや噺はどうゆ姿にもして置かなくつちやしやうあんめえな、俺れまあ噺はして見つから、どつちがどうのかうのつちつたつて仕やうねえし、まさかおめえ手越したな爺樣だつちつたつて、親のこと謝罪れつちことも云はんねえから何氣なしのことにして押つゝけべぢやねえか、なあ」南の亭主はさういつて卯平の狹い戸口に立つて居た。
「こつちのおとつゝあん、わしも此れ變な噺だが勘次さんに頼まれたやうな形でまあ來たんだがね、昨日の日暮とかにそれ、そつちこつち仕たつちことだつけが、勘次さんもそんなに惡りい心持で云つたんでもねえ鹽梅だし、まあ手ついて謝罪らせんの何だのつちことでなく、此ら其の場限りとして仲善くやつて貰えてえんだがどうしたもんだんべね、腹立たせんなこら惡りいかも知んねえが、親子と成つてゝ此れ、ちつとのことで後で考へて見ちやつまんねえもんだから、なあこつちのおとつゝあん」仲裁者は軟かにさうして然も厭といはれぬやうに打ち解けて突つ込んだ。
「なあに俺らあどうもかうもねえんだが、彼の野郎奴はあ、何ぢやねえ、俺れこと邪魔なんだから、俺らあ俺れだと思つてつから管やしねえが、俺れげ食はせる物惜しくつて仕やうねえんだから、俺れ家の物一粒でも減らさねえやうに外に行つてりやえゝんだんべが、俺れえそれから、俺れことさうだに厭なんだら自分で何處さでもけつかつた方がえゝ、厭だら後から來た者出ろつち氣なんだから」卯平は銜へた煙管を少し顫へる手に持つて途切れながら漸く此れだけいつた。
「そりちこつちのおとつゝあんさうだがな、先刻もいふ通り腹も立つべえが親子となつて見りや此れ、えゝことも有るもんだからなあ、さう云はねえでそれ、わしげ任せて不承しさつせえね」南の亭主は只反覆していつた。
「斯うだこた此れ、默つてりや隣近所でも分んねえもんだが勘次等えゝ暫く味噌せえ無くして置くんだから、一杓子も有りやしねえんだ。去年の暮にや味噌搗くつちんで俺ら働えた錢で鹽迄買つたんだな、俺れも硬え物な噛めねえから味噌なくつちや仕やうねえな、俺ら壯の頃つから味噌は好きで味噌なくつちやなんぼにも身體に力つかねえで困り/\したんだから、麥麹は鹽まで切つて有んだから豆せえ煮りや直なのに、それ今んなつたつて搗くべぢやなし、なんでも俺れ死ねばえゝ位にして待つてんだんべが、此れ、味噌なんざ搗いたからつてさう直ぐに手つけらつるもんぢやなし、俺ら明日が日にも死ぬかどうだか分りやしねえが、そんでも自分の見てつ處で搗きせえすりや明日死ぬにしたつて心持やえゝから」卯平は獨り呟くやうにしてそれから
「あん時搗せえすりや今頃ら食へば食へんのに」と彼は其癖の舌を鳴らした。
「俺れ小忌々敷から打つ飛ばしてやつたに」卯平は暫く措いて又少し聲に力を入れていつた。
「さうかね、俺らそんなこた知らなかつたつけが、さうえこた幾ら懇意だ近所だつちつたつて一々他人の飯臺まで蓋とつちや見られねえから俺らも知らねえでたな、そんぢやそらまあ、味噌でも何でもさうえ理由ぢやこつちのおとつゝあん好きなやうに搗かせることにしてな、大豆はそれとつたしすつから行る積にせえなりや譯ねえ噺だな、さうしてこつちのおとつゝあん胸撫でさつせえ、俺れ惡りいこた云はねえから、なあこつちのおとつゝあん、そつちだこつちだやつちや誰よりも子奴等可哀想だから、それに同じもんぢや東の旦那等が耳へは入れたくねえから、さうしさつせえよなあ」南の亭主はさういつて心では段々に臀ごみするのであつた。卯平は再び煙管を口にして沈默した。南の亭主は勘次を卯平の狹い戸口に導いた。勘次は平常ならば自分の心から決して形式的な和睦を希望しなかつた筈である。彼は反目して居るだけならば久しく馴れて居た。然し彼は從來嘗てなかつた卯平の行爲に始めて恐怖心を懷いたのであつた。
「そんぢやねえおとつゝあん、お互に斯う根に持たねえことにしてね、勘次さんおめえも忙しくつて手つけねえでたかも知んねえが、麹も鹽まで切つて有るつちんだから、後は豆るだけのことだし、味噌は搗くことにしてな、斯うえゝ鹽梅にしてくれさつせえね、先刻もいふ通りそつちだこつちだねえやうにしなくちやねえ、こつちのおとつゝあん」南の亭主は二人を見較べるやうにしていつた。勘次は卯平の前へ出ては只首を俛れた。卯平は凝然と横を向いて勘次をちらりとも見なかつた。彼は從來とは容子が幾分違つて居た。彼は其の癖の舌を鳴らして居たが
「畜生奴」と只一言いつた。さうして又暫く間を措いて
「畜生つちはれんの口惜しけりや、口惜しいちつて見た方がえゝ、原因はつちへば己奴が手出しすんのが惡りいんだから」と低く然も鋭く彼は呟いて、芒で裂いたやうに口をぎつと閉ぢて畢つた。勘次は刈られた草の如く悄然とした。
「こつちのおとつゝあん、そんぢや仕やうねえよ、先刻も俺れそつから不承してくろうつて堅しく云つたんだつけな、そんぢや俺れも困つから其處はお互にかう物は云はねえことにしてやつてくんなくつちやなあ」と南の亭主は一旦橋渡しをすれば後は再びどうならうともそれは又其の時だといふ心から其處は加い加減に繕うて遁るやうに歸つた。彼はどちらからも依頼された仲裁人ではなかつた。彼等は漸次家族の間の殊に夫婦の爭ひに深入して却て雙方から恨まれるやうな損な立場に嵌つた經驗があるので、壞れた茶碗をそつと合せるだけの手數で巧に身を引く方法と機會とを知つて居た。黄昏が彼に其の機會を與へた。
勘次は彼の輕微な瘡痍を假令表面だけでも好いから思ひ切つて重く見てさうして彼に同情の言葉を惜まないものを求めたが、彼には些少でも其顛末を聞いてくれべきものは醫者と南の亭主とより外はなかつた。然し餘りに能く瘡痍其物の性質を識別した醫者は、彼に其果敢ない心を訴へる餘裕を與へずに彼を頭から壓る樣に揶揄うた。彼は其處に何物をも得ないで遁るやうに珊瑚樹の木蔭を出た。南の亭主も殊更に彼に同情して慰藉の言辭を惜まぬ程其心が動かされなかつたのみでなく、彼は寧ろ仲裁者の地位に立たねば成らぬことに幾分の迷惑を感じた。勘次は決して仲裁を依頼しなかつた。彼は只自分の調子に乘つて噺をしてくれることに滿足を求めようとしたのみであつた。然しそれは悉く徒勞であつた。勘次は羞恥と恐怖と憤懣との情を沸したが夫でも薄弱な彼は、それを僻んだ目に表現して逢ふ人毎に同情してくれと強ふるが如く見えるのみであつた。百姓の凡ては彼の心を推測する程鋭敏な目を有つて居なかつた。彼は自棄に態と繃帶の手を抱いて數日間ぶら/\と遊んで居た。忙しい麥蒔の季節が迫つて百姓は悉く畑へ出て居るので晝間は彼の相手になるものがなかつたのみでなく、今に働かずには居られぬからと陰で冷笑を浴びせて居るのであつた。此の季節を空しく費すことが一日でも非常な損失であるといふ見易い利害の打算から彼は到頭打ち負されて復一所懸命に勞働に從事した。彼はもう卯平と一言も口を利かなくなつた。寡言なむつゝりとした卯平は固より勘次を顧みようともしなかつた。おつぎはそれを心に苦しんで見たがそれは到底及ばぬことであつた。村落の内には卯平との衝突がぱつと又傳播された。然しそれは分別ある壯年の間にのみ解釋し記憶された。其の事件の内容は勘次のおつぎに對する行爲を猜忌と嫉妬との目を以て臆測を逞しくするやうに興味を彼等に與へなかつた。誰も自分から彼等の間に嘴を容れようとはしない。遠い以前から紛糾けて來た互の感情に根ざした事件がどんな些少なことであらうとも、決して快よく解決される筈でないことを知つて居る人々は幾ら愚でも自ら好んで其の難局に當らうとはしないのであつた。
二二
拂曉の光はまだ行き渡らぬ。薄い蒲團にくるまつて居る百姓等の肌膚には寒冷の氣がしみ/″\と透つて、睡眠に落ちて居ながら、凡てが顎を掩ふまでは無意識に蒲團の端を引いてもぢ/\と動く頃であつた。かん/\と凍つて鳴る鉦の音が沈んだ村落の空氣に響き渡つた。希望と娯樂とに唆かされて待つて居た老人等は悉皆、其の左の手に提げて撞木で叩いて居る鉦の響を後れるな急げ/\と耳に聞いた。老人は何處の家からも一齊に念佛寮を指して集つた。彼等は孰れも、まだぐつすりと眠つて居る家族の者には竊と支度をして、動けぬ程褞袍を襲ねて節制なく紐を締めて、表の戸を開けるとひやりとする曉近い外氣に白い息を吹きながら、大きな塊が轉がつて行くやうに其の姿を運んだ。彼等は外の壁際から麁朶の一把を持つて行く者も有つた。舊暦の二月の半に成ると例年の如く念佛の集りが有るのである。彼等はそれが日輪に對する報謝を意味して居るのでお天念佛というて居る。彼等の口からさうして村落の一般から訛つて「おで念佛」と喚ばれた。先驅の光が各自の顏を微明るくして日が地平線上に其の輪郭の一端を現はさうとする時間を誤らずに彼等は揃つて念佛を唱へる筈なので、まだ凡てが夜の眠から離れぬ内に皆悉口を嗽いで待つて居ねばならぬのである。念佛衆の内には選ばれて法願と喚ばれて居る二人ばかりの爺さんが、難かしくもない萬事の世話をした。法願は凍り相な手に鉦を提げてちらほらと大な塊のやうな姿が動いて來るまでは力の限り辻に立つてかん/\と叩くのである。念佛寮の雨戸は空洞と開け放たれて、殊更に身に沁む寒さに圍爐裏には麁朶の火が焔を立てた。蔓のある煤けた鐵瓶が自在鍵から低く垂れて焔を臀で抑へた。ぐるりと圍んだ老人の不恰好な姿を火は明瞭と見せた。軈て二番が遠く近く鳴いて時間が來た。法願は閾の側に太鼓を据ゑて、其の後へ段々と一同が坐つて一齊に聲を合せた。横に据ゑた太鼓を兩手に持つた二本の撥が兩方から交互に打つて悠長な鈍い響を立てた。撥に合せる一同の聲は皺びて痩せた喉から出る濁つた聲であつた。雜然たる其の聲が波の如く沈んで復た起つた。太鼓の撥は強く打ち輕く打ち、更に赤く塗つた胴をそつと打つて、さうして又だらり/\と強く輕く打つことを反覆した。念佛が畢るまでには段々と遠い近い木立の輪郭がくつきりとして青い蜜柑の皮が日に當つた部分から少しづゝ彩られて行くやうに東の空が薄く黄色に染つて段々にそれが濃く成つて、さうして寒冷なうちにもほつかりと暖味を持つたやうに明るく成つた。念佛の濁つた聲も明るく響いた。地上を掩うた霜が滅切と白く見えて寮の庭に立てられた天棚の粧飾の赤や青の紙が明瞭として來た。中心に一本の青竹が立てられて其の先端は青と赤と黄との襲ねた色紙で包んである。其の周圍には此れも四本の青竹が立てられてそれには繩が張つてある。繩には注連のやうに刻んだ其の赤や青や黄の紙が一杯にひら/\と吊られてある。彼等は昨日の内に一切の粧飾をしての鳴くのを待つたのである。其天棚は以前は立派な木の柱を丁度小さな家の棟上げでもしたやうな形に組まれたのであつた。現今ではそれが無く成つたといふのは、一度此の地を襲うた暴風の爲に、厚い草葺の念佛寮はごつしやりと潰された。其の時は幾多の民家が猶且非常な慘害を蒙つて、村落の凡ては自分の凌ぎが漸とのことであつたので、殆んど無用である寮の再建を顧みるものはなかつた。さういふ間に他人の林に鉈を入れねば薪が獲られぬ貧乏な百姓等がこそ/\と寮の木材を引いた。漸とのことで現今の寮が以前の幾分の一の大きさに再建されるまでには其の棚も無残な鋸の齒に掛つて居たのである。それでも、老人等は念佛の復活したことに十分の感謝と滿足とを有つた。彼等はそこに老後に於ける無上の娯樂と慰藉とを發見しつゝあるのである。
太鼓が撥と共にぽつさりと置かれて悉皆窮屈な圍爐裏の邊に聚つた。寮の内も明るく成つて立ち騰る焔の光が稍消されて來た。近所の百姓の雨戸を開ける音が性急にがたぴしと聞えた。庭へおりたが欠伸でもするやうに身體を反らしながら、放心して居てまだ鳴き足らなかつたといふ容子をして喉の痛い程鳴くのが聞えた。何處の家にも青い煙が廂を偃うて騰つた。
老人等は一先自分の家に歸つた。卯平も隣の森の陰翳が一杯に掩うて居る狹い庭に立つた時は、勘次はおつぎを連れて開墾地へ出た後であつた。卯平は庭に立つた儘、空虚になつてさうして雨戸が閉してある勘次の家を凝然と見た。家は窶れて居る。然しながら假令どうでも噺聲が聞えて青い煙が立つて居れば、僅でも血が循環つて居るものゝやうに活きて見えるのであるが、靜寂と人氣のなくなつた時は頽廢しつゝある其建物の何處にも生命が保たれて居るとは見られぬ程悲しげであつた。卯平が薄闇い庭の霜に下駄の趾をつけて出てから間もなく勘次は褥を蹴つて竈に火を點た。それからおつぎが朝餐の膳を据ゑる迄には勘次はきりゝと仕事衣に換て寒さに少し顫へて居た。おつぎも箸を執る時は股引の端を藁で括つて置いた。勘次は開墾の土地が年々遠くへ進んで行つて、現在では例年の面積では廣過て居たことを心づいたので、彼は少しの油斷も出來なくなつた。彼は毎日のやうにおつぎを連て、唐鍬で切り起した土の塊を萬能の背で叩いては解して平坦にならさせつゝあつたのである。
卯平は先づ勘次の戸口に近づいた。表の大戸には錠がおろしてあつた。鍵は固より勘次の腰を離れないことを知つて卯平は手も掛けて見なかつた。彼は又裏戸の口へ行つて見たが、掛金には栓をしたと見えて動かなかつた。卯平はそれから懷手をした儘其の癖の舌を鳴らしながら悠長に自分の狹い戸口に立つた。内は只陰氣で出る時に端を捲つた夜具も冷たく成つて居た。彼は漸く火鉢に麁朶を燻た。彼は側に重箱と小鍋とが置かれてあるのを見た。蓋をとつたら重箱には飯があつた。蓋の裏には少し濕ひを持つて居た。其の朝おつぎは知らずに喚んだのであつたが、卯平は居なかつた。それでおつぎは出る時飯と汁とを卯平の小屋へ置いて行つたのである。卯平は兎に角おつぎに喚ばれて毎朝暖かい飯と熱い汁とに腹を拵へつゝあつたのである。彼は其の朝は褞袍を着ても夜のまだ明けない内からの騷ぎなので身體が冷えて居た。夫で彼は家に歸つたならば汁はどうでも、飯臺の中はまだ十分に暖氣を保つて居るだらうといふ希望を懷いて、戸の開かないことにまでは思ひ至らなかつた。重箱はもう冷えて畢つた。彼は仕方なしに小鍋を火鉢へ掛けた。彼は微かに白い水蒸氣が鍋から立ち始めた時お玉杓子で掻き立てゝ吸つて見たが猶且冷たかつた。彼は復た火鉢へ麁朶を足して重箱の飯を鍋へ入れた。火鉢の割合には大きな鍋に頬が觸るばかりにしてふう/\と火を吹いた。鍋のぐず/\と濁つた聲を立てゝ居る間彼は皺びた大きな手を火に翳しながら目を蹙めて居た。彼は凝然と遠くへ自分の心を放つたやうにぽうつとして居ては復思ひ出したやうに麁朶をぽち/\と折つて燻べた。
彼は例年になく身體の窶れが見えた。かさ/\と乾燥した肌膚が一般の老衰者に通有な哀れさを見せて居るばかりでなく、其大きな身體は肉が落てげつそりと肩がこけた。彼は身體の窶れを自分でも知つた。彼は此一年の間に持病の僂麻質斯が執念く骨の何處かを蝕みつゝあるやうに感じた。暑い季節になれば必ず其の勢ひを潜めた持病が彼を忘れて去らなかつた。
鍋の中は少しぷんと焦つく臭がした。彼はお玉杓子で掻き立てた。鍋の底は手を動かす毎にぢり/\と鳴つた。彼は僅に熱い雜炊が食道を通過して胃に落ちつく時ほかりと感じた。さうして箸を措いた後漸く身體に快よい暖氣の加はつたことを知つた。少量の水を注だ鐵瓶の沸くのを彼は復凝然として待つた。彼は先刻からどうかすると手もとを探るやうにして煙草入を膝にした。煙草入は虚空であつた。彼は自分の體力が滅切と減て仕事をするのに手が利かなくなつて、小遣錢の不足を感じた時、自棄に成つた心から斷然其噛む程好な煙草を廢さうとした。彼は悲慘な自分を自分が苛めてやるやうな心持を一方には有つた。一方には又無智な彼等の伴侶が能くするやうに彼は持病の平癒を佛に祈つたのでもあつた。それが明日からといふ日に彼は其残つた煙草を殆ど一日喫ひ續けた。煙草入の叺を倒にして爪先でぱた/\と彈いて少しの粉でさへ餘さなかつた。其後手についた癖が何かにつけては煙管を掴ませるので、止めたことを彼は心に悔いることもあつた。然し彼は又直に佛に對しての誓約を破ることに非常な恐怖を懷いた。彼はどうしても斷念せねばならぬ心の苦しみを紛らす爲に蕗の葉や桑の葉を干して煙管の火皿につめて見たが、どれでも煙草のやうにしつとりとした一種の潤ひが火の足を引止めるやうな力はなくて一度吸へば直に灰になつて、煙脂で塞がらうとして居る羅宇の空隙を透して煙が口に滿ちる時はつんとした厭な刺戟を鼻に感ずるのであつた。葡萄の葉を他人に勸められて見たが、此れも到底彼の嗜好を欺くことは出來なかつた。彼は煙管を手にすることが慾念を忘れ得る方法でないことを知つて、彼は丁度他人に對する或憤懣の情から當てつけに自分の愛兒を夥かに打ち据ゑる者のやうに羅宇を踏み潰した。然しそれを誰も見ては居なかつた。それでも彼は空虚な煙草入を放すに忍びない心持がした。彼は僅な小遣錢を入れて始終腰につけた。此れも空虚に成つてはくた/\として力のない革の筒には潰れた儘の煙管をして居た。彼は暫くさうして居たがどうかしては忘れて癖づけられた手先が不用な煙草入を探らせるのであつた。
日は漸く庭の霜を溶して射し掛けた。彼は不快な朝を目に蹙めた復たぽつさりと念佛寮へ窶れた身を運んだ。彼は田圃の側へおりて小徑を行つた。道筋には處々離れ離れな家の隙間に小さな麥畑があつた。麥畑の畝は大抵東西に形づけられてあつた。遠くから南へ廻らうとして居る日は思ひの外に暖かい光で一帶に霜を溶かしたので、何處でも水を打つたやうな濕ひを持つて居た。然し薄い日の光は畑の畝が形づくつて居る長い小山の頂點を越えて幾らも其の力を及ぼさなかつた。どの畝でも其陰は依然として白かつた。卯平は田圃に從いて北側の道を歩いたので彼の目には悉く夜明の如き白い冷たい霜を以て掩はれて居る畑のみが映つた。
午後から村落のどの家からも風呂敷包の飯つぎや重箱が寮へ運ばれた。老人等は皆夫を埃だらけな佛壇の前に供へた。穢い風呂敷包が小山の如く積まれた時念佛の太鼓が復鳴つた。それから庭に聚つた子供等の前に其の飯つぎや重箱の供物が分與された。念佛衆はそれから更に酒を飮んで各自に重箱や飯つぎを箸でつゝいて近頃にない口腹の慾を充たしめた。獨卯平は杯を手にしなかつた。彼は他の老人に先立つて自分の家の重箱を持つてぽさ/\と歸つた。大抵の家では米の菱餅を出すのが常例であるが勘次にはさういふ暇がないのでおつぎは僅に小豆飯を炊て重箱を持て行つたのであつた。凡ての老人が殆ど狂するばかりに騷ぐ二日の其一日が卯平には不快でさうして無意味に費された。彼は夜になつてから
「爺、今朝のお飯冷たく成つたつけべ俺ら忘れて喚ばりに行つたのがよ、さうしたら爺は疾に居ねえのがんだもの、そんでも先刻はがや/\一杯居るやうだつけがあつちぢや甘え物あつて爺等とつ返しとつたんべなあ」とおつぎが少し甘えたやうにいつたことを彼は有繋に憎いと思つては聞かなかつた。
二三
念佛は次の日も同一に反覆された。午後になつて村落のどの家からも復た風呂敷包が運ばれた。子供等は學校から歸つて風呂數包を脊負つたのも、乳呑兒を帶で括つたのも大抵は寮の庭へ集つた。
「さあそんぢや又、みんな上れ」と婆さん等がいふと閾際に迫つて待つて居た子供等は爭うて席をとつた。彼等は今日も狹い寮の内側にぎつしりと膝を窄めて坐つた。四五人の婆さん等は佛壇の前に積まれてあつた風呂敷包を解きながらひそ/″\と耳語いた。
「此りや何だと思つたら、鮨だよ」と一人の婆さんがいへば
「そんぢや、そつちへ別にして置けよおめえ」
「そんぢやこつちのがも別にして置くべよ、なあ」婆さん等は頗る慌てたやうに手もと忙しく三つ四つの風呂敷包をそつと佛壇へ隱した。さうして居る内に他の婆さん等は
「みんな、おとなしく仕なくつちや、呉んねえぞ」
「さうだに洟垂らしてるものげはやんねえことにすべえ」口々に揶揄つた。子供等は一齊に洟を啜つてさうして衣物で横に拭つた。白い紙が一枚づつ子供等の前に擴げられた。
「子奴等こと云つて、手洟なんぞかんだ手ぢや引かねえで呉ろえ、おめえ等も勿體ねえから」婆さん等が飯つぎを左の手に抱へて立つた時、かう圍爐裏の側から呶鳴つた。彼は小柄な爺さんで一寸婆さん等を顧みて微笑しながらいつたのである。彼は喉へ二重にした珠數を卷いて居た。彼の聲は恐ろしく大きかつた。婆さん等は
「はい/\、そんぢや手でも洗ひますべよ」といつたり
「俺らおめえ、手洟はかまねえよ」といつたりがら/\と騷ぎながら、笑ひ私語きつゝ、濡れた手を前掛で拭いて再び飯つぎを抱へた。婆さん等は箸の先で少しづつ、飯つぎの物を突つ掛けて其の擴げられた紙へ置きつゝ、端からぐるりと廻つて行く。紙は子供等の數の外にも敷かれてあつた。それは空虚になつた飯つぎを返す時に其の中へ入れてやる爲であつた。飯つぎには大抵菱餅と小豆飯とが入れられてあつた。小豆飯はどれも/\米が能く搗けてないのでくすんでさうして腹の裂けた小豆が粉を吐いて餘計に粘氣のないぼろ/\な飯になつて居た。それでも飯つぎの異る毎に小豆飯の赤さが幾らかづつ變つて居た。子供等は變つた小豆飯が一箸々々と殖えて行くのが嬉しくて、外へ轉がつたのは慌てゝ手でとつて紙へ載せた。小豆飯は昨日に異つたことはなかつたが、菱餅は昨日のやうに米のではなくてどれでも粟ばかりであつた。子供等は大小異つた粟の菱餅が一つは一つと紙の上に分量を増して積まれるのを樂しげにして、自分の紙から兩方の隣の紙から遠くの方から、それから一つ/\に屈んで箸を動かして居る婆さん等の忙しい手もとに目を奪られるのであつた。婆さん等はそは/\としつゝ狹いので互に衝突つては騷ぎながら、自分の家に居る時のやうな節制が少しも保たれて居なかつた。
「さあ、汝つ等此れつきりだ」婆さん等が空虚になつた最後の飯つぎの底を叩いて腰を伸ばした時、子供等は危な相な手で漸く紙を包んで、がた/\と先を爭うて立つた。下駄を遠くへ跳ね飛ばされたり、轉つたり、紙包の餅を落したりして泣く聲が相交つた。彼等は庭へおりてから徐ろに其の紙を開いて小豆飯を手で抓んで喫べた。紙にくつゝいた小豆飯を彼等は齒で噛るやうにしてとつた。破れた紙を棄てゝ菱餅を懷へ入れるものもあつた。庭にはそつちにもこつちにも棄てられた紙が白く亂れて散らばつて居た。
老人等は圍爐裏に絶えず薪を燻べながら酒を沸し始めた。村落のどの家からか今日も念佛衆へというて供へられた二升樽を圍爐裏の側へ引きつけて、臀の煤けた土瓶へごぼ/\と注いで自在鍵へ掛けた。外が餘りに寒いからといふので念佛が濟んでから誰かゞ雨戸を二三枚引いたので寮の内は薄闇くなつて居た。佛壇の前には婆さんが三四人でひそ/″\と額を鳩めて居る。
「此の婆奴等、そつちの方で偸嘴してねえで、佳味え物有つたら此方へ持つて來う」先刻の首へ珠數を卷いた小柄な爺さんが呶鳴つた。
「盜んだつち譯ぢやねえが、蓋とつて見た處なんだよ」さういつて婆さん等は風呂敷の四隅を掴んで圍爐裏の側へ持つて來た。飯つぎには干瓢を帶にした稻荷鮨が少し白い腹を見せてそつくりと積まれてあつた。鮨は少し減つて居た。
「獨でせしめちやえかねえから」爺さんは戲談らしくいつた。
「獨ぢやあんめえな、かうやつて三人も四人も居たんだものなあ」
「さうだとも、此の位俺らげよこしたつて本當にすりやえゝんだよ、なあ、俺らなんざ上つた酒だつてさうだに飮むべぢやなし」婆さん等は抗辯するやうにいつた。悉皆が一つ/\と鮨を撮んだ。
「そりやさうと、酒どうしたえ」小柄な爺さんはひよつと自在鍵の儘土瓶を手もとへ引つけて、底へ手を當てゝ見た。
「放心してゝ此ら立ツちやあ處だつけ」と急いで土瓶を外して
「俺らさうだ鮨なんざ自分ぢや一つでも欲しかねえんだから、さうだ物で滿腹くしたつ位酒からツき甘くなくしつちやあから、」爺さんは土瓶を疊の上へ置いていつた。悉皆がずらりと座を作つた。茶呑茶碗が一つ/\に置かれて、何處からか供へられた芋や牛蒡や人參や其の他の野菜の煮〆が重箱の儘置かれた。其處には膳も臺も何もなかつた。土瓶の酒が徳利へ移されて土瓶は再び自在鍵へ吊された。二度目の酒が茶碗へ注がれた時
「此ら駄目だ、焦臭くしツちやつた、酒沸すのにや畢へねえどうも氣をつけなくつちや、酒と茶はちつとでも臭味移らさんだから」小柄な爺さんは茶碗を口へ當てゝ左も憤慨に堪へぬものゝやうにいつた。
「なあに、土瓶だつて二度目のが少しに仕ねえで、先刻のがより餘計なツ位注ぎせえすりや大丈夫なんだが、それさうでねえと周圍がそれ焦びつから」と側から直ぐに口が出た。
「そんぢや、今度澤山入えびやな、俺ら碌に飮んもしねえで、怒られちやつまんねえな」土瓶を手にした婆さんは笑ひながらいつた。
「本當にすりや、一遍毎に土瓶の中水でゆすがなくつちや駄目なんだがな」
「そつから、はあ、鐵瓶の中さ徳利おしこめばえゝんだな、さうすりやどうだもかうだもねえんだな」
「折角甘え酒臺なしにして可惜物だな、此らこんで餘程えゝ酒だぞ」抔といふ聲が雜然として聞えた。
「鐵瓶ぢや徳利一本づつしかへえんねえから面倒臭かんべと思つてよ」と婆さんはいひながら、一旦沸つた鐵瓶を懸けた。樽が空虚になつて悉皆飮む者は銘酊つてがや/\と只騷いだ。
卯平は圍爐裏の側を離れずにむつゝりとして杯をとらぬ婆さん等と火にあたりながら、煙管を持たぬ所在なさに麁朶の先を折つて其癖の舌を鳴らしつゝ齒齦をつゝいて居た。彼は悉皆が騷いで居る間に自分の腹に足りるだけの鮨や惚菜やらを箸に挾んで杯へは手を觸れようとしなかつた。老人等は自分の騷ぐ方にばかり心を奪はれて卯平のことはそつちのけにした儘であつた。卯平はそれでも種々な百姓料理の鹽辛い重箱へ箸をつけて近頃になく快よかつた。彼は腹に一杯になる迄には、缺けた齒齦で噛んで嚥下して、更に次の箸が口まで來る其の悠長な手の運動が待遠で口腔の粘膜からは自然に薄い水のやうな唾液の湧いて出るのを抑へることが出來ない程であつた。
威勢よく成つた老人等は赤い胴の太鼓を首筋から胸へ吊つて、だらり/\と叩いて先に立つと足もと手もと節制なくなつた凡てが後から/\と、殊に婆さん等は騷ぎながら跟て出る。軒端から青竹の棚に添うて敷いてある筵を渡つて徐に廻る。彼等はそれをお山廻りといふのである。相互に踉蹌けながら踊とも何ともつかぬ剽輕な手足の動かしやうをして、蓄へて置いた一年中の笑を一時に吐き出したかと思ふ程の聲を放つて止めどもなくどよめいた。遂には列が亂れて互に衝突しては足を踏んだり踏まれたりして、一人が倒れゝば後から/\と折重つて一しきり同じ處に止まつてはがや/\と騷いだ。彼等は殆ど冷却しようとしつゝある肉體の孰れの部分かに失はれんとしてほつちりと其俤を止めて居た青春の血液の一滴が俄に沸いて彼等の全體を支配し且活動せしめたかと思ふやうに、枯燥しつゝある彼等の顏にはどれでも華やかな紅を潮して居る。彼等は全く節制を失つて居る。彼等は平生家族に交つて、其老衰の身がどうしても自然に壯者の間に疎外されつゝ、各自は寧ろ無意識でありながら然も鬱屈して懶い月日を過しつゝある時に、例年の定めである念佛の日はさういふ凡てを放つ自由境である。彼等は其處に些の遠慮をも有つて居らぬ。彼等は冬季の間を長い夜の眠りに飽きつゝ寒さに苛められて居た苦しさを、もう空の何處にか其の勢ひを潜めて躊躇して居る筈の春に先立つて一度に取返さうとするものゝ如く騷いで/\又騷ぐのである。酒が其處に火を點じた。庭の四本の青竹に長つた繩の赤や青や黄の刻んだ注連がひら/\と動きながら老人等と一つに私語くやうに見えた。日は陽氣な庭へ一杯に暖かな光を投た。庭には子供等や村落の者がぞろつと立て此騷ぎを笑つて見て居た。其邊には難かし相なものは一つも見られなかつた。彼等を包んだ軟かな空氣が春の徴候でなければならなかつた。
然しながら卯平は只獨り其群に加はらなかつた。老人等の勢ひがごつと庭に移つた時寮の内は其の騷ぎの聲が一杯に襲ひ來て喧しいにも拘らず寂しかつた。圍爐裏の火も灰が白く掩うて滅切と衰へた。卯平は凝然と腕を拱いた儘眼を蹙めて燃え退いた薪をすら突き出さうとしなかつた。彼には庭の節制のない騷ぎの聲が其の耳を支配するよりも遠く且遙な闇に何物をか搜さうとしつゝあるやうに只惘然として居るのであつた。與吉は紙包みの小豆飯を盡して暫らく庭の騷ぎを見て居たが寮の内に然として居る卯平を見出して圍爐裏に近く迫つた。
「爺くんねえか」と彼は又何時ものやうに卯平に甘えた。卯平は其聲を聞いても暫く蹙んだ儘で居た。
立春の日を過ぎてから、却て黄昏の果敢ない薄い光の空に吹き落ちる筈の西風が何を憤つてか吹いて/\吹き捲つて、夜に渡つても幾日か止まぬ程な稀有な現象に伴うて、鬼怒川の淺瀬が氷に閉されて、軈て氷の塊が流れたといふ噂が立つたことがあつた。卯平はそれと共に其の乾燥した肌膚が餘計に荒れて寒冷の氣が骨に徹したかと思ふと俄に手の自由を失つて來たやうに自覺した。彼は繩を綯ふにも草鞋を作るにも、其が或凝塊が凡ての筋肉の作用を阻害して居るやうで各部に疼痛をさへ感ずるのであつた。器用な彼の手先が彼自身の物ではなくなつた。彼は與吉が狹い戸口に立つ毎に心から迎へる以前の卯平ではなくなつて居た。それでも彼は與吉を愛して居た。
「明日にしろ」と彼は簡單に拒絶してさうしてそれつきりいはないことが有るやうになつた。與吉は屡さういはれて悄然として居るのを、卯平は凝視めて餘計に目を蹙めつゝあるのであつた。さういふことが幾度か幾日か反覆された後卯平は與吉へ一錢の銅貨を與へた。從來に倍して居るのと殆ど復拒絶されるのではないかといふ懸念を懷きつゝある與吉は何時でも其に非常な滿足を表はした。其容子を見る卯平は勢ひ心が動かされた。
自分の老衰者であることを知つた時諦めのない凡ては、動もすれば互に餘命の幾何もない果敢なさを語り合うて、それが戲談いうて笑語く時にさへ絶えず反覆されて、各自が痛切に感ずる程度の相違はあるにしても、死の問題に苦しめられて居るのは事實である。卯平の心にも同じく死の觀念が止まず往來した。
彼は其手先の自由を失うた時自棄の心から彼の風呂敷包を解いた。野田に居た頃主人や又は主人の用での出先から貰つた幾筋の手拭を繼ぎ合せて拵へた浴衣を出した。清潔好な彼には派手な手拭の模樣が當時矜の一つであつた。彼はもう自分の心を苛めてやるやうな心持で目欲しい物を漸次に質入した。彼は眼前に氷が閉ぢては毎日暖い日の光に溶解されるのを見て居た。彼にはそれが只さういふ現象としてのみ眼に映つた。彼は自由を失うた其手先が暖い春の日が積つて漸次に和らげられるであらうといふ微かな希望をさへ起さぬ程身も心も僻んでさうして苦しんだ。彼の風呂敷包から獲つゝあつた金錢は些少のものであつたが、それは時として彼の硬ばつた舌に適した食料の或物を求める外に一部分は與吉の小さな手に落されるのであつた。果敢ない煙草入の叺の中を懸念するやうに彼は數次覗いた。陰鬱な狹い小屋の中で覗く叺の底は闇かつた。僅かに交つた小さな白い銀貨が見る度に彼の心に幾らかの光を與へた。彼が什に惜んでも叺の中の減つて行くのを防ぐことは出來ない。然も寡言な彼は徒らに自分獨が噛みしめて、絶えず只憔悴しつゝ沈鬱の状態を持續した。彼は其状態を保つて念佛寮の圍爐裏にどつかと懶い身體を据ゑて居た。
庭の騷ぎは止んで疾風の襲うた如く寮の内は復雜然として卯平を圍んだ沈鬱な空氣を攪亂した。軈て老人等が互の懷錢を出し合うた二升樽が運ばれて酒が又沸された。酒の座は圍爐裏に近く形られた。其の時まだ與吉は去らなかつた。卯平は默つて五厘の銅貨を投げた。側に居た一人の老人がそれを拾はうとして見せると與吉は兩方の手を掛てそれから身を以て俺うた。彼はそれを堅く掴んで
「爺、いま一つくんねえか」と更に強請んだ。彼は五厘の銅貨を大事にした。然し彼は暫く一錢の銅貨に訓れて居たので心に僅な不足を感じたのであつた。卯平は口を緘んで居る。
「汝りや、さうだこと云ふんぢやねえ、先刻あゝだに何か貰つて要るもんか、まつと欲しいなんちへば俺れ腹掻裂えて小豆飯掻出してやつから、汝りや口ばかし動かしてつから見ろうそれ、鴉に灸据ゑらツてら」と先刻の首へ數珠を卷いた爺さんががみ/\といつた。與吉は羞んだやうにして五厘の銅貨で脣をこすりながら立つて居た。彼の口の兩端には鴉の灸といはれて居る瘡が出來て泥でもくつゝけたやうになつて居た。
「汝りや錢欲しけりやおとつゝあに貰へ」爺さんは又呶鳴つた。
「そんだつて駄目だあ、おとつゝあ等呉れやしめえし」與吉は漸といつた。
「おとつゝあ聾だから聞えねんだ、おとつゝあ呉ろうつと俺れ見てえに呶鳴つて見ろ、そんでなけれ耳引張てやれ」
「そんだつて厭だあ俺ら、おとつゝあに打つ飛ばされつから」
「えゝから行けはあ、汝等見てえな餓鬼奴等ごや/\來ちや五月蠅くつて仕やうねえから」與吉は悄々と立つた。
「さうら」と卯平は後から五厘の銅貨を庭へ投げてやつた。
さうして居る間に二度目の酒に與らぬ婆さん等は表の雨戸を更に二三枚引て餘計に薄闇く成つた佛壇の前に凝集つた。何時の間にか念佛衆以外の村落の女房も加はつて十人ばかりに成つた。彼等は外からの人目を雨戸に避けて其の唯一の娯樂とされてある寶引をしようといふのであつた。疊には八本の紺の寶引絲がざらりと投げ出された。彼等はそれを絲と喚んで居るけれども、機を織つて切り放した最後の絲の端を繩のやうに綯つた綱である。婆さん等は圓い座を作つて銘々の前へ二錢づつの錢を置いた。親に成つた一人が八本の綱の本を掴んで一度ぎつと指へ絡んでばらりと投げ出すと、悉皆が一つづゝ掴んで此れも其の端を指へぎりつと絡んで一度に引くと七本の綱が空しくすつとこける。只一本の綱の臀には彼等のいふ「どツぺ」が附いて居てそれがどさりと疊を打つて一人の手もとへ引かれる。どつぺは一厘錢を三寸ばかりの厚さに穴を透してぎつと括つた錘である。一厘錢は黄銅の地色がぴか/\と光るまで摩擦されてあつた。どつぺを引いたのが更に親になつて一度毎にどつぺは解いて他の綱へつける。さうすると婆さん等は思案しつゝ然も速かに綱の一つを抓んでは放したり又抓んだり極めて忙しげに其の手を動かす。彼等は丁度を引くやうに屹度一つは當る筈のどつぺを悉皆が心あてに掴んで引くのである。一度毎に失望と滿足とが悉皆の顏にそれからそれと移つて行く。
綱をぎつと束ねて引かせる手もとや、一つづゝに思案しながら然も掴んだら威勢よくすいと引く手もとは彼等が硬ばつた手でありながら熟練してさうして敏捷に運動する。綱の周圍から悉皆の形づくつて居る輪が縮まるやうにして、一つ掴んでは又其の輪が擴がるやうにしつゝ引く容子は大勢が一つの紐を打つて居るやうな形にも見えた。彼等は忙しく手を動かして居ると共に聲を殺してひそ/\と然かも力を入れて笑語いた。彼等は戸外の聞えを憚らぬならば興味に乘じて放膽に騷ぐ筈でなければならぬ。各自の前に在る錢はどつぺを引き當てた者の手に一つづゝ引き去られて誰の前にも全くなくなつた時又更に置かれるのである。彼等はそれに熱中して全く他を忘れて居る。寶引にも酒にも加はらぬ老人等は棚の周圍を廻つてからは歸つたものも有つて寮には幾らか人數も減つて居たが、圍爐裏の邊は醉が加はつて寶引の群に行かぬ婆さん等は酒の好きな孰れも威勢のいゝものばかりであつた。
「なあおめえ、こんで俺らも若けえ時にや面白えのがんだよなあ」と爺さんの肩へ靠れ掛るものもあつた。
「篦棒、以前のことなんぞ、外聞惡りい、俺らなんざこんで隨分無鐵砲なこたあしたが、こんで女にや煎れねえつちやつたから」と首に珠數を卷いた爺さんが側でそれを見て居て呶鳴つた。
「おめえ、怒んなくつてもえゝやな、酒の座敷ぢや其つ位なこた仕方あんめえな」と叱られた婆さんは右の手を上から左の手の平へ打ちつけて、大聲を立てゝ笑ひながら
「どうしたんでえまあ一杯やらつせえね」と婆さんは更に卯平へ茶碗を突きつけた。卯平は一杯をも口へ銜まぬのに先刻から只凝然として、騷ぎを聞くでもなく聞かぬでもない容子をして胡坐をかいて居た。二度目の酒は幾らか腹に餘計であつた老人等はもう卯平を見遁しては置かなかつたのである。
「俺ら暫くやんねえから」卯平はそつけなくいつて其の癖の舌を鳴らした。
「何でまた飮まねえんだ、さうだにしんねりむつゝりしてねえで、ちつた威勢つけて見るもんだ、そうれ」と先刻からの爺さんは茶碗を突きつけた。卯平は復た舌を鳴らして、唾をぐつと嚥んだ。
「俺らはあ、暫くやんねえから、煙草は身體の工合惡りいから斷つたんだから何だが、酒は此れ錢は稼げねえし、ちつとでも飮めば又飮みたくなつから廢めつちやつたな、酒もはあ以前た違つて一杯幾らつちんだから錢くんのむやうで」彼はぶすりとして然も力のない聲を投げ掛けるやうにしていつた。
「さうだこと云あねえで、そら來たつとかう手つんだすもんだ、倦怠くつて仕やうねえ此等がな」先刻の爺さんは又一杯をぐつと干して呶鳴つた。
「さうだよ、飮まつせえよおめえ、めでゝえ酒だから、威勢つければおめえ身體の工合だつてちつと位なら癒つちやあよ」婆さん等は又侑めた。
「此の人も勘次どんにや善くさんねえごつさら、困つたもんさな、そんだつておめえさうえもな仕やうねえから、さうえにくよくよしねえ方がえゝよ」他の婆さんもいつた。
「身體の工合惡りいなんて、さうだ料簡だから卯平等仕やうねえ、此等ようまづだなんて、ようまづなんち病氣は腹の蟲から出んだから、なあに譯あねえだよ、蛇でかう扱きおろすんだ、えゝか、俺れこすつてやつから、いや本當だよ俺らがなんざあ」小柄な爺さんは非常な勢ひでいつた。
首の珠數は彼の聲が喉を膨脹させるので其度毎に少しづゝ動いた。
「俺ら蛇は嫌えだから」卯平は苦し相にいつた。
「蛇嫌えだと、さうだ大え姿してあばさけたこといふなえ、俺らなんざ蛇でも毛蟲でも可怖えなんちやねえだから、かうえゝか、斯うだぞ」といひながら爺さんは後向に立つて、十分に酩酊つた足を大股に踏んで、肌を脱いだ兩方の手をぎつと握つて、手拭で背中を擦るやうな形をして見せた。
「俺らようまづぢや八九年も惱んだんだが、蛇でこすればえゝつちから、此ら甘えこと聞たと思つてな、大え青大將ぶらんとの木からぶらさがつたから竹竿で掻き落すべと思つたら、俺ら家の婆奴等構あななんて云つけが、えゝから汝等默つて見てろ、なんてそれから俺ぐうつと頭ふん掴めえて、斯う俺れ背中こすつたな、大え青大將だから畜生縮つて屈曲した時や引つ掛つて仲々動かねえだ、それからうゝんと引き伸しちやこすつたな、さうしたら斯う塊ごりつ/\とこけんの知れたつけな、さうしたらなあにけろりよ」
彼は一同へ向けた背中へ手を廻して
「此處らんとこに塊有たのがだが、それつきり何處さか行つちやつたな、それから俺れはあ、ようまづなんざ譯あねえつちつてんだ」彼の手先が脊椎に近く觸れた。
「おゝえやまあ、大え灸の痕ぢやねえけえ」と一人の婆さんが驚いていつた。
「俺らがな此んで三百挺一遍に火點けたんだから、俺らがむしやらなこと大好のがんだから、いや本當だよ、俺ら恁んで腹疫病くつゝいた時だつて到頭寢ねえつちやつたかんな、今ぢや教つてつから餓鬼奴等まで赤れえ病だなんて知つてんが、俺ら壯の頃あ何でも疫病と覺えてたのがんだから、なあ卯平、此ツ等もそん時やつたから知つてらな、俺ら一日に十六度手水場へ行つたの一等だつけが、なあに病氣なんぞにや負けらツるもんかつちんだから、其ん時にや村落中かたではあ、みんなごろ/\してんで俺ればかり藥箱持つて醫者の送迎えしたな、隣近所一軒毎役にや立たねえだから、いや本當だよ、俺ら十五日下痢つて癒つたが俺ら強かつたかんな、いや強えとも全く、なあにツちんで俺れ毎日酒ぴん飮んだな、酒飮んぢや惡いなんて醫者なんちや駄目だなかたで、檳榔樹とか何とかだなんてちつとばかしづゝ、削つた藥なんぞ倦怠くつて仕やうねえから、當藥煎じ出して氣日俺れ片口で五杯づゝも飮んだな、五合位へえつけべが、俺ら呼吸つかずだ、なあに呼吸ついちや苦くつて仕やうねえだよ」と彼は穢い手拭で顏の汗を一度ふいた。彼は七十を越えても髮はまだ幾らも白くなかつた。彼は石の塊を投げ出したやうな堅い身體に力を入れて獨り威勢づいた。
「俺らそれから五百匁位な軍鷄雜種一羽引つ縊つて一遍に食つちまつたな、さうしたら熱出た」彼は俄に聲を低くしたが、更に以前に還つて
「熱は出たがそれで俺れぐつと身體にや力つけつちやつたな、其の所爲だな十五日で癒つたな、そんだから俺ら直ぐに麥の八斗はずん/\搗けたな、俺らこんで體格はちつちえが強かつたな、俺らがな無垢に強えのがだから、いや本當だよ、卯平等も仕事ぢや強かつたが、そりや強えとも、そんだが此ら根性やくざだから、疫病くつゝいて太儀くつて仕やうねえなんて、それから俺れ、確乎しろツちへばどうも下痢つちや力拔けて仕やうねえ、うん/\なんて唸つて、そんだがあん時にや嚊は可哀相なことしたな世間の奴等卯平は嚊に崇れべえなんちから心配すんなつて俺れ云つたんだな、そんだが此ら根性ねえから、俺ら心配するもな大嫌だ、それ、心配しねえで一杯引つ掛けろつちんだ」爺さんは幾らでも乘地になつてまくしかけた。
「さうだよおめえ、酒の座敷でむつゝりしてるもな有るもんぢやねえ」
「婆さまの手だつておめえ酒ぢや酩酊あからやつて見さつせえよ」婆さん等は側から交互に杯を侑めた。彼等は情なげな卯平を慰めようとするよりも、獨むつゝりとして居る彼を伴侶に引つ込まうといふのと、變つて居る彼の容子に對して揶揄つても見たいからとであつた。
「俺ら錢出しもしねえで、他人の酒なんぞ」卯平は口が粘つて舌が硬ばつたやうにいつた。
「おめえ管あもんぢやねえな、其こと」婆さん等は又いつた。
「酒代足んなけりや、こつちの方に寺錢出來てるよおめえ等」寶引の仲間がこちらを顧みていつた。
「要らねえともそんな錢なんざ、俺ら博奕なんざ何でも嫌えだから」小柄な爺さんは直に呶鳴つた。
「俺らはあ錢も有りもしねえで」卯平は他人の騷ぎに釣り込まれようとするよりも、自分の心裏の或物を漸とのこと吐き出さうとするやうに呟いた。
「又さうだこつたから仕やうねえ、勘次等懷工合えゝつちんだから、要らば何でも、汝れよこせつと斯ういふんだ。管あねえから奪取つてやれ、俺らだらさうだ、いや本當だとも、聟なんぞに威張られてるなんちこと有るもんか、卯平等根性薄弱だから仕やうねえ」小柄な爺さんは髮を一杯に汗で濕した。
「威張らツる理由ぢやねえが、俺ら俺れでやんべと思つてんだから」卯平は自分を庇護するやうにいつた。
「聟なんぞ、承知するもんぢやねえ、あゝだ泥棒野郎、俺ら嫌えだ、畑でも田でも油斷なんねえから」
「そんだが、今ぢや懷ちつたえゝ所爲か盜るな盜んねえよ」
「なあに俺れ、蜀黍伐つた時にや勘辨しめえと思つたんだつけがお内儀さんに來らツたから我慢したんだ、俺れ卯平だら槍で突つ刺してやんだ、いや俺れにや本當に行られつとも、俺ら家族の奴等げなんざぐづ/\は云あせねえだ、俺ら家ぢや元日にや闇えに起きて、蓑着て、圍爐裏端で芋燒えてくふ縁起なんだが、俺ら家の奴等外聞惡いから厭だなんて吐かしやがつから、俺れ、何だとう汝ツ等、厭だつちんだら厭だつて今一遍云つて見ろ、俺れ目玉の黒え内やさうはえがねえぞつちんだから、いや本當に俺ら聽かねえだから」彼は髮が餘計に濕ひを増して悉皆の耳の底に徹る程呶鳴つて見せた。
「おめえ見てえにさうは行かねえよ、他人は」卯平はぽさりといつた。
「本當におめえ見てえなもなねえよ、若けえ時から毎晩酩酊つちや後夜が鷄でも構あねえ馬曳て歸つちや戸の割れる程叩いて、さうしちや馬の裾湯沸えてねえつて云つちや家族の者こと追ひ出してなあ、百姓はおめえ夜中まで眠んねえで待つちや居らんねえな、そんだがおめえも相續人善く出來て仕合だよなあ」側に居て先刻から聞いて居た婆さんの一人がいつた。其の服裝は他の老人等とは異つて居た。
「俺れにや打ち出されつとも、此んで俺ら力は強かつたかんな、仕事ぢや卯平も強かつたが、かうだ大え體格して相撲ぢや俺れにやかたでぺた/\だ。俺らやあつち内にや打ん投げつちやあだから、あゝ、俺ら腕ばかしぢやねえ、そらつ位だから齒も強えだよ、俺ら麥打ん時唐箕立てゝちや半夏桃貰つたの、ひよえつと口さ入えたつきり、核までがり/\噛つちやつたな、奇態だよそんだが桃噛つてつと鼻ん中さ埃へえんねえかんな、俺れが齒ぢや誰れでも魂消んだから眞鍮の煙管なんざ、銜えてぎり/\つとかう手ツ平でぶん廻すとぽろうつと噛み切れちやあのがんだから、そんだから今でも、かうれ、此の通りだ」爺さんはぎり/\と齒を噛み合せて見せた。
「俺らそれから、喧嘩ぢや負けたこたねえだよ、野郎何だつち内にや打つ張るか、掻つ轉すかだな、ごろり轉がつた處爪先と踵持つてかうぐる/\引ん廻すとどうだ大え野郎でも起きらんねえだよ、から笑止しくつて仕やうねえな、えゝか、斯う、かうやんだよ、あゝ、俺ら本當に強えのがんだよ、それ卯平等駄目だな後の方にばかし隱れてゝからつき」と爺さんは少し座を退つて兩手を以て喧嘩の相手を苛めるやうな容子をして見せた。
「そんだが俺れ旦那に云あれてから、家族の奴等ことも怒んねえはあ、俺れうめえ處見られつちやつたな、いや云あれちや勿體ながす、本當に勿體ねえだよ、お婆さん」爺さんは首を俛て滅切靜かになつていつた。さうして彼は茶碗の酒をだら/\と零しながらに一口に嚥んだ。
此の時外から女房が一人忙しく來た。女房は佛壇の前へ行つて
「駐在所來たよ」悉皆の中へ首を突き入れるやうにして竊と語つた。悉皆は頻りに輸※[#「羸」の「羊」に代えて「果」、354-14]にのみ心を奪はれて居た。彼等の顏はにこ/\としたり又は暫くどつぺを掴まぬものは難かしくなつた目を蹙めたり口をむぐ/\と動かしたりして自分は一向それを知らないのであつた。彼等の各自が持つて居る種々な隱れた性情が薄闇い室の内にこつそりと思ひ切つて表現されて居た。女房の言辭は悉皆の顏を唯驚愕の表情を以て掩はしめた。一度に女房を見た彼等には其の時まで私語き合うた俤がちつともなかつた。彼等は慌てゝ寶引絲も懷へ隱して知らぬ容子を粧うて圍爐裏の側へ集つた。
「こつちの方酷く威勢えゝから俺らも仲間入させてもらえてもんだ」寶引の婆さん等はいつた。
「此の婆等寄れば觸れば博奕なんぞする氣にばかし成つて」爺さんは依然として惡口を止めなかつた。
「かうだ婆等だつてさうだに荷厄介にしねえでくろよ、こんで俺ら家ぢやまあだ俺れなくつちや闇だよおめえ、嫁があの仕掛だもの」婆さんは更に
「俺らあ仲間も寺錢で後買あから、獨でむつゝりしてねえで一つやらつせえね」と卯平へ杯を侑めた。一同の威勢が漸次に卯平の心を惹き立てゝ到頭彼の大きな手に茶碗を執らせた。婆さん等の袂が觸れて輕く成つてた徳利が倒された。婆さん等は慌てゝ手拭でふかうとした。小柄な爺さんは突然疊へ口をつけてすう/\と呼吸もつかずに酒を啜つてそれから強い咳をして、ざら/\に成つた口の埃を手拭でこすつた。
「婆等勿體ねえことすつから仕やうねえ、いや勿體ねえとも米の油だからこんで、それ證據にや酒飮んだ明日ぢや面洗あ時つる/\すつ處奇態だな、何でも人間は油吹き出すやうだら身體は大丈夫だから、卯平そうれ一杯飮め」爺さんは又口を手拭でこすりつゝいつた。
「畜生だからあゝだ野郎は、畜生とおんなじだから」爺さんは小さな頭の濕ひを又すつと手拭でふいた。
「其におめえ、畜生だなんて、手もとも見もしねえで」と先刻の服裝の好い婆さんが窘めるやうにいつた。
「いやツ、お婆さん、手もと見ねえつたつてさうに極つてんだから、いや本當だよ。俺ら嘘いふな嫌えだから、そんだがあの阿魔もづう/\しい阿魔だ、此間なんざおつかこた思ひ出さねえかつちつたら、思ひ出さねえなんて吐かしやがつて」爺さんは又乘地に成つた。
「ありやあそれ、俺れがにやえゝんだよ、隨分辛え目に逢つたから、お袋こと思あねえこたねえが、悉皆揶揄え/\したからそんでさうだこといふやうん成つたんだな、有繋あれだつて困つちや居んだから、何ちつたつてあれにや罪あねえよ」最後の一句をすつと低くいつて彼は漸く茶碗の底を干した。
「勘次も辛かつたんべが、俺らも品に死なつた時にや泣えたよ、あれこた三つの時ツから育ツたんだから」卯平は又情なげな舌がもう硬ばつて畢つた。
「ほんにおめえもお品さんに死ならつたのが不運だつけのさな、そんだがおめえ長命したゞけええんだよ」婆さん等は口々に慰めつゝいつた。
「手足も利かなくなつちやつて錢はとれずはあ、野田で拵えた單衣物もなくしつちやつたな、どうせ此れ、來年の夏まで生きてられつか何うだか分りやすめえし、管あねえな」卯平は口獨りで呟やくやうにぶすりといつた。彼は殆んど其の舌が味を感ぜぬであらうと思ふやうに只茶碗の酒を傾けるのみであつた。
「そんだが娘も年頃來てんのに遣るとかとるとかしねえぢや可哀相だよなあ」婆さん等の口はそれからそれと竭きなかつた。酒に勢ひつけられた婆さん等は何かの穿鑿をせねば氣が濟まないのであつた。
「どうするこつたか自分の子供でもありやすめえし、俺らがにや分んねえな」卯平は何處までも乾たいひやうである。
「そんだがよ、噺してやつとえゝんだな、出すと極りや幾らでも口は有らな」
「徒勞だよおめえ、誰がいふことだつて聽く苦勞はねえんだから」婆さん等は互に勝手なことをがや/\と語り續けた。
「そんぢや隣の旦那にでもようく噺してもらつたら聽くかも知んねえぞ、それより外あねえぞおめえ」婆さんの一人が卯平に向つていつた。
「さうすりやはあ、お互にえゝ鹽梅で疵もつかねえんだから、俺れもさうは思つちや居んだが、此れ、いふのもをかしなもんで」卯平の頬には稍紅を潮して彼は婆さんにいはれたことが嬉し相に見えるのであつた。
「なあに、さうだもかうだも有るもんか、えゝから、さうだ奴等打つ飛ばしてやれ」暫く默つて居た先刻の爺さんは小柄な身體を堅めて又呶鳴つた。
「うむ、なあに俺れもそれから去年の秋は火箸で打つ飛ばしてやつたな」卯平は斯ういつて彼にしては著るしく元氣を恢復して居た。
「さうだとも、錢でも何でも呉んなけりや、よこせつちばえゝんだ、錢ねえなんちへば米でも麥でも奪取つてやれ」爺さんは周圍へ唾を飛ばした。
「それでも俺れ打つ飛ばしてから質の流れだなんち味噌一樽買つたな、麩味噌で佳味かねえが今ぢやそんでもお汁は吸へるこた吸へんのよ」卯平は自分の手柄でも語るやうないひ方であつた。
「食料措しがるなんち業つくばりもねえもんぢやねえか、本當に罰つたかりだから、俺らだら生かしちや置かねえ、いや全くだよ、親のげ食あせんの惜いなんち野郎は突つ刺したつて申し開き立つとも、俺らだら立派に立てゝ見せらな、卯平確乎しろ、俺らだら勘次等位なゝ又うんち目に逢あせらな、いや本當に俺れに掛つちや酷えかんなこんで」爺さんは激しくさうして例の自慢をいひ續けた。
「さうだこと云つたつておめえ、以前から他人のこと切つたこともねえ癖に」側から服裝の好い婆さんが貶していつた。
「そんだが、此の年齡になつて懲役に行ぐな厭よ俺れも」爺さんはずつと垂れた頭を手で抑へて笑ひこけた。婆さん等もどつと哄笑いた。
「勘次等、そん時から俺れた口も利かねえや」卯平は他人には頓着なしにかういつて其の舌を鳴らして唾を嚥んだ。
「口利かねえ、そんだら口兩方へふん裂えてやれ、さあ利くか利かねえかと斯うだ」小柄な爺さんは自分の口を兩手の指でぐつと擴げていつた、圍爐裏の邊は暫く騷ぎが止まなかつた。卯平の心も假令一時的でも周圍の刺戟から幾分の力を添られて或勢ひを恢復したのであつた。
「確乎しろえ、えゝから」小柄な爺さんは別れる時復呶鳴つた。卯平の足もとは稍力づいて見えて居た。
卯平は念佛寮から歸つて來た時どかりと火鉢の前に坐つた。彼は勢ひづけられて居た。勘次は例の如く遠ざかつた。
「おつう、米と挽割麥出せ」卯平は座に就くと突然かういつた。
「夥多出せ」間を措いて又いつた。
「何すんでえ、爺は」おつぎはそれを輕く受て斯ういつた。卯平は目を蹙めた。彼は闇夜にずんずんと運んだ足が急に窪みを踏んでがくりと調子が狂つたやうな容子であつた。
「明日、要れば出してやんびやな、爺等どうせ夜なんぞ要りやすめえしなあ」おつぎは又賺すやうにいつた。卯平はもう反覆していはなかつた。彼は只其癖の舌を鳴らしてごくりと唾を嚥むのみであつた。次の朝に成つて酒氣が悉く彼の身體から發散し盡したら彼は平生の卯平であつた。
二四
卯平は決して惡人ではなかつた。彼は性來嚴疊で大きな身體であつたけれど、其の蹙めたやうな目には不斷に何處か軟かな光を有つて居るやうで、思ひ切つてせねば成らぬ事件に出逢うても二度や三度は逡巡するのがどうかといへば彼の癖の一つであつた。ぶすりと膠ない容子でも表面に現れたよりも暖かで、女に脆い處さへあるのであつた。彼が盛年の頃に他人の目についたのは、自分自身の仕事には餘り精を出さないやうに見えることであつた。大概のことでは一向に騷がぬやうな彼の容子が外からではさうらしくも見えるのであつた。も一つは服裝を決して崩さぬことであつた。彼は他人に傭はれて居ながら、草刈にでも出る時は手拭と紺の單衣と三尺帶とを風呂敷に包んで馬の荷鞍に括つた。其頃は草というては悉皆薙倒して麁朶でも縛るやうに中央を束ねて馬に積むのであつた。雜木林の間に馬を繋いだ儘で彼は衣物を改めてあてどもなくぶらつくのが好きであつた。それでも彼の強健な鍛練された腕は定められた一人分の仕事を果すのは日が稍傾いてからでも強ち難事ではないのであつた。此の二つの外には別段此れというて數へる程他人の記憶にも残つて居なかつた。それでも彼の大きな躰躯と性來の器用とは主人をして比較的餘計な給料を惜ませなかつた。彼は其の奉公して獲た給料を自分の身に費して其の頃では餘所目には疑はれる年頃の卅近くまで獨身の生活を繼續した。其間に彼は黴毒を病んだ。一時はぶら/\と懶相な蒼い顏もして居たが、病氣は暫くして忘れたやうに其の強健な身體の何處にか潜伏して畢つた。彼は勿論それを癒つたことゝ思つて居た。其の内に彼は娶をとつて小さな世帶を持つて稼ぐことになつた。娶は間もなく懷姙したが胎兒は死んでさうして腐敗して出た。自分も他人も瘡ツ子だといつた。二三人生れたがどれも發育しなかつた。それでも幼兒の死ぬのは瘡ツ子だからといふのみで病毒の慘害を知る筈もなく隨つて怖れる筈もなかつた。お品の母は非常な貧乏な寡婦で、足が立つか立たぬのお品を懷にして悲慘な生活をして居た。それを卯平は心から哀憐の情を以て見て居た。お品の母は百姓としては格別の働きを有たなかつたから、寡婦として獨立して行くには非常な困難でなければ成らぬだけ身體の何處にか軟かな容子があつて、清潔好な卯平の心を惹いた。何處か人懷こい處があつて只管に他人の同情に渇して居たお品の母の何物をか求めるやうな態度が漸く二人を近づけた。
其の頃彼の女房は長い間病氣に惱まされて居た。病氣は遂に恢復しなかつた。女房は或年復た姙娠して臨月が近くなつたら、どうしたものか數日の中に腹部が膨脹して一夜の内にもそれがずん/\と目に見える。女房は横臥することも其の苦痛に堪へないで、積んだ蒲團に倚り掛つて僅に切ない呼吸をついて居た。胎兒を泛かしめた水が餘計に溜つたのである。其の頃は醫者の手でさへそれをどうすることも出來なかつた。加之彼は醫者を聘ぶことが億劫で、大事な生命といふことを考へることさへ心に暇を持たなかつた。僥倖にも卵膜を膨脹させた液體が自分から逃げ去る途を求めて其の包圍を破つた。數升の液體が迸つて、驚いて横へた身を蒲團の上に浮かさうとした。それと共に安住の場所を失うた胎兒は自然に母體を離れて出ねばならなかつた。胎兒は勿論死んでさうして手を出した。其の時女房は非常に疲憊して居たが、我慢をするからといつたばかりに卯平はぐつと力を入れて引き出した。彼の惡意を有たぬ手が斯の如く残酷に働かされたのは、夫婦の間には僅でも他人の手を藉ることに金錢上の恐怖を懷かしめられたからであつた。女房はそれでも死なゝかつた。然し殆んど想像されなかつた疼痛が滿身に沁み渡つた。軈て非常な發熱が伴つた。それからといふものは三年も臥つた儘で季節が暖かに成れば稀には蒲團からずり出して僅に杖に縋つては軟かな春の日をさへ刺戟に堪へぬやうに眩しがつて居た。
お品の母との關係が餘計な告口から女房の耳に入つた。其の頃暑さに向いて居た所爲でもあつたが女房はそれを苦にし始めてからがつかりと窶れたやうに見えた。女房が死んだ時は卯平は枕元に居なかつた。村落には赤痢が發生した。豫防の注意も何もない彼等は互に葬儀に喚び合うて少しの懸念もなしに飮食をしたので病氣は非常な勢ひで蔓延したのであつた。卯平も患者の一人でさうしてお品の家に惱んで居た。お品の母の懇切な介抱から彼は救はれた。彼はどうしても瀕死の女房の傍に病躯を運ぶことが出來なかつた。其の窶れた目の憂へるのを彼は見るに忍びなかつたからである。彼のさういふ意志は長い月日の病苦に嘖まれて僻んだ女房の心に通ずる理由がなかつた。さうして女房は激烈な神經痛を訴へつゝ死んだ。卯平は有繋に泣いた。葬式は姻戚と近所とで營んだが、卯平も漸と杖に縋つて行つた。
其の秋の盆には赤痢の騷ぎも沈んで新しい佛の數が殖えて居た。墓地には掘り上げた赤い土の小さな塚が幾つも疎末な棺臺を載せて居た。大抵は赤痢に罹つて漸く身體に力がついたばかりの人々が例年の如く草刈鎌を持つて六日の日の夕刻に墓薙というて出た。墓の邊は生るに任せた草が刈拂はれて見るから清潔に成つた。中央に青竹の線香立が杙のやうに立てられて、石碑の前には一つづゝ青竹の簀の子のやうな小さな棚が作られた。卯平も墓薙の群に加はつた。彼のまだ力ない手に持つた鎌の刄先が女房の棺臺の下を覗いてからりと渡つた時彼は悚然として手を引いた。蛇が身體の後半を彼の足もとに現して白い腹を見せた。鎌の刄先が蛇を切つたのである。蛇は暫く凝然として居て極めて徐ろに棺臺の下に隱れた。卯平の顏は黄昏の光に蒼かつた。彼はそれから他出することも稀になつた。恢復しかけた病後の疲勞が夜は粘るやうな汗を分泌させた。それから八日目に村落の者が佛を迎へに提灯持つて行つた時は刈り拂はれた草が暑いといつても秋らしくなつた日に其の生殖作用を急がうとして聳然と首を擡げて居た。村落の人々は好奇心に驅られて怖づ/\も棺臺をそつと揚げて見た。蛇は依然としてだらりと横たはつた儘であつた。人々はつた目を見合せた。村落の者が去つた後には小さな青竹の線香立からそこらの石碑の前からぢり/\と身を燒いて行く火に苦んで悶えるやうに煙はうねりながら立ち騰つて寂寥たる黄昏の光の中に彷徨うた。それから又四日目に佛を送つて村落の者は黄昏の墓地に落ち合うた。蛇は猶且棺臺の陰を去らなかつた。蛇は自由に匍匐ふには餘りに瘡痍が大きかつた。反り返つた唇のやうに膨れた肉は埃に塗れて黒く變じて居た。棺臺を透かして人が之を覗へば恐怖を懷いて少しづゝのたくるのであつた。女房が出たのだといつて村落の者は減らず口を叩いた。暫くしてお品の母の耳へも蛇の噂が傳はつた。それからといふものお品の母は一夜でも卯平を自分の家から放さない。三つに成つて居たお品が卯平を慕うて確乎と其の家に引き留めたのはそれから間もないことである。蛇の噺は何時の間にか消滅した。それは悉皆が互に心に記憶を反覆して快よしとする程彼等を憎んでは居なかつたからである。其後長い歳月を經てお品の母が死んだ時以前の噺を見たり聞いたりして居た者の間にのみ僅に記憶が喚び返された。お品の母は腰に病氣を持つて居た。卯平は自分の手から作つた罪といふものは殆んど見られなかつた。唯彼は盛年の頃は他の傭人等と共に能く猫を殺して喫べてた。尤も其頃は猫でも犬でも飼主を離れてを狙ふのが彷徨いた。彼等は罠を掛けてそれを待つた。然し大抵の家々ではでさへ家の内では煮るのを許容さないので、後の庭へ竹で三本の脚を作つてそれへ鍋蔓を掛けた程であつたから、猫を殺すことが恐ろしい罪惡のやうに見られたのであつた。猫は辛い鹽鮭を與へれば腰が利かない病氣に罹ると一般にいはれて居るので卯平が腰を惱んで居るのを稀には猫の祟だと戯談にいふものもあつた。それでもさういふ噂は擴がらなかつた。彼は憎惡と嫉妬とを村落の誰からも買はなかつた。憎惡も嫉妬もない其處に故意と惡評を生み出す程百姓は邪心を有つて居なかつた。村落の西端に僻在して居る彼には興味を以て見させる一つの條件も具へて居なかつた。只むつゝりとして他人に訴へることも求めることもない彼は一切村落との交渉がなかつた。彼の一身の有無は少しも村落の爲には輕重する處がなかつた。
二五
初冬の梢に慌しく渡つてそれから暫く騷いだ儘其の後は礑と忘れて居て稀に思ひ出したやうに枯木の枝を泣かせた西風が、雜木林の梢に白く連つて居る西の遠い山々の彼方に横臥て居たのが俄に自分の威力を逞しくすべき冬の季節が自分を棄てゝ去つたのに氣がついて、吹くだけ吹かねば止められない其の特性を發揮して毎日其の特有な力が輕鬆な土を空に捲いた。
其の日も拂曉から空が餘りにからりとして鈍い軟かな光を有たなかつた。毎日吹き捲くる疾風が其の遠い西山の氷雪を含んで微細に地上を掩うて撒布したかと思ふやうに霜が白く凝つて居た。
勘次は平生の如くおつぎを連れて開墾地へ出た。おつぎは半纏を後へふはりと掛けた儘手も通さないで、肩へは襷を斜に掛けて萬能を擔いで居た。白い手拭とそれから手拭の外に少し覗いた後れ毛の歩く度にふら/\と動くのもしみ/″\と冷た相であつた。草木及び地上の霜に瞬きしながら横にさうして斜に射し掛ける日に遠い西の山々の雪が一頻光つた。凡てを通じて褐色の光で包まれた。其の遠く連つた山々の頂巓にはぽつり/\と大小の簇雲が凝つた儘に掻き亂されて暫く動かなかつた。遂にはそれが一つに成つて山々の所在を暗まして、其の末端が油煙の如く空に向つて消散しつゝあるやうに見え始めた。其處には毎日必ず喧な跫音が人の鼓膜を騷がしつゝある其の巨人の群集が、其の目からは悲慘な地上の凡てを苛めて爪先に蹴飛ばさうとして、山々の彼方から出立したのだ。其の驚くべき迅速な脚が空間を一直線に、さうして僅な障害物であるべき梢の凡てを壓しつけ壓しつけ林を越えて疾驅して來るのは今もう直である。竹を伐つて束ねたやうに寸隙もなく簇がつて居る其の爪先に蹴られては怖えに怖えた草木は皆聲を放つて泣くのである。さうしてもう泣かねば成らぬ時間が迫つて居る。
勘次は霜白い自分の庭を往來へ出ると無器用な櫟の林が彼の行くべき方に從つて道に沿うて連つて居る。彼の破れて、毎日打ちつける疾風の爲めに傾むけられた笹の垣根には、狹い往來を越えて櫟の落葉が熊手で掻いたやうに聚つて且つ連つて居る。凡そ櫟の木程頑健な木は他に有るまい。乾燥した冬枯の草や落葉に煙草の吸殼が誤つて火を點じて、それが熾に林を燒き拂うても澁の強い、表面が山葵おろしのやうな櫟の皮は、黒い火傷を幹一杯に止めても、他の針葉樹に見るやうではなく、春の雨が數次軟かに濕せば遂にはこそつぱい皮の何處からか白つぽい芽を吹いて、粗剛な厚い皮の圍みから遁れて爽快な呼吸を仕始めたことを悦ぶやうにずん/\と伸長して、遂には伐つても/\、猶且ずん/\と骨立つて幹が更に形づくられる程旺盛な活力を恢復するのである。彼等はさういふ特性を有つて居ながら了解し難い程臆病である。黄色な光が快よく鮮かに滿ちて居る晩秋の水のやうな淡い霜が竊におりる以前から其の葉は悉くくる/\と其の周圍が捲れ始めて、他の雜木は其の葉をからりと落して其の梢よりも遙に低く垂れて居る西の空の明るい入日を透して見せるやうに疎に成るのに、確乎としがみついて離れない。彼等は漸く樹相を形づくると共に鋸の齒が残酷に渡つて少しでも餘裕を與へられないのである。それで彼等の間には自然に只恐怖する性質のみが助長されたのであるかも知れない。それだから既に薪に伐るべき時期を過して、大木の相を具へて團栗が其の淺い皿に載せられるやうに成れば、枯葉は潔く散り敷いてからりと爽かに樹相を見せるのである。丁度それは子孫の繁殖と自己の防禦との必要を全く忘れさせられた梨の接木が、大きな刺を幹にも枝にも持たなく成つたやうに、恐怖が彼等を去つたのである。
然しながら林の櫟は幾ら遠く根を伸して迅速な生長を遂げようとしても、冷かな秋が冬を地上に導くのである。彼等は其の冬の季節に於て生命を保つて行くのには凡ての機能を停止して引き緊らねば成らぬ。それでなければ彼等は氷雪の爲に枯死せねばならぬ。其季節に彼等の最後の運命である薪や炭に伐られるやうに一番適當した組織に變化することを餘儀なくされるのである。彼等はそれから其の貴重な呼吸器であつた枯葉を一枚でも枝から放すまいとし又離れまいとして居る。生育の機能が停止されると共に粘着力を失ふべき筈の葉柄が確乎と保たれてある。そこで乾燥した枯葉は少しのことにさへ相倚つてさや/\と互に恐怖を耳語くのである。然し樹木が吸收して獲た物質の一部を地及び空氣に還元せしめようとして凡ての葉を梢から奪つて、到る處空濶で且簡單にすることを好む冬の目には、櫟の枯葉は錯雜し、溷濁して見えねばならぬ。それで巨人を載せた西風が其爪先にそれを蹴飛ばさうとしても、恐ろしく執念深い枯葉は泣いてさうして其の力を保たうとする。偶力が足りないで吹き散らされたのは、さういふ時に非常に便利なやうに捲いてあるので、どんな陰でも其の身を託する場所を求めてころ/\と轉がつて行つては、自分の伴侶が一つに相倚り相抱いて微風にさへ絶えず響を立てゝ戰慄しつゝあるのである。
勘次は斯ういふ櫟の木を植ゑて林を造るべき土地の開墾をする爲にもう幾年といふ間雇はれて其の力を竭した。彼は漸く林相を形づくつて來た櫟林に沿うて田圃を越えて走つた。田圃の鴫が何に驚いたかきゝと鳴いて、刈株を掠めるやうにして慌てゝ飛で行た。さうして後は白く閉した氷が時々ぴり/\と鳴てしやり/\と壞れるのみで只靜かであつた。田圃を透して林の間から見える其遠い山々の雲は稍薄くなつて空を濁して居た。軈て雜木林の枝頭が少し動いたと思つたらごうつといふ響が勘次の耳に鳴つた。巨人の脚が逼つたのである。彼はむつと思はず呼吸が切迫した。
毎日吹き渡る西風は乾燥しつゝある凡ての物を更に乾燥させねば止まない。雨が稀にしんみりと降つても西風は朝から一日青い常緑木の葉をも泥の中へ拗切つて撒布らす程吹き募れば、それだけで土はもう殆んど乾かされるのである。土が保有すべき水分がそれ程蒸發し盡しても其の吹き渡る間は西風は決して空に一滴の雨さへ催させぬ。それでも有繋に深く水を藏して居る土は垢の如き表皮のみを掻き拂つて行く疾風の爲には容易に其の力を失はないで、夜が更ければ幾らでも空氣中に保たれた水分を微細に結晶させて一杯に白く引きつける。土が徹宵さういふ作用を營んだばかりに、日は拂曉の空から横にさうして斜に其の霜を解かして、西風は直にそれを乾かして残酷に表土の埃を空中に吹き捲くる。其の力が烈しい程拂曉の霜が白く、其れが白い程亂れて飛ぶ鴉の如き簇雲を遠い西山の頂巓に伴うて疾風は驅るのである。兩方が疲憊して勢を消耗する季節の變化を見るまでは其の爭ひは止むことがない。
其の日も埃が天を焦して立つた。其の埃は黄褐色で霧の如く地上の凡てを掩ひ且つ包んだ。雜木林は一齊に斜に傾かうとして梢は彎曲を描いた。樹木は皆互に泣いて囁きながら、幾らか日の明るさをも妨げて居る其の濃霧から遁れようとするやうに間斷なく騷いだ。霧は悲慘な凡ての物を互に知らせまいとして吹き立ち/\數十間の距離に於ては其の物體の形状をも明かに示さない。雜木林の樹木は開墾地の周圍にも混亂した。然し勘次が目を放つて居るのは足の爪先二三尺の、今唐鍬を以て伐去つて遙に後へ引いてそつと棄てた趾の一點である。埃は土に幾らでも濕ひを持つた彼の足もとからは立たなかつた。おつぎは勘次が起した塊を一つ/\に萬能の脊で叩いてさらりと解して平にならして居る。輕鬆な土から凝集つて居た塊は解せば直に吹き拂はれた。おつぎは當面に埃を受けるのには遠く吹きつける土砂が頬を走つて不快であつた。手拭の端を捲くつて沿びせる埃の爲に髮の毛の荒れるのを酷く嫌つた。それでも其手もとは疎略ではなかつた。勘次は矢立の如き硬直な身體を伸長し屈曲させて一歩/\と運んだ。彼は周圍に無數な樹木の泣いて囁くのを耳に入れなかつた。加之彼は自分の耳朶に鳴るさへ心づかぬ程懸命に唐鍬を打つた。彼は滿身に汗して居た。
卯平は暇を惜しがる勘次が唐鍬を執て出た時朝餉の後の口を五月蠅く鳴らしながら火鉢の前にどつかりと坐つて居た。破れた草葺の家をゆさぶつて西風がごうつと打ちつけて來た時には火鉢のはまだ白く灰の皮を被つて暖かゝつた。天井もない屋根裏から煤が微かにさら/\と散つて、時々ぽつりと凝集つた儘に落ちた。喬木が遮り立つて其の梢に蒼い空を見せて居る庭へすら疾風の驚くべき周到な手が袋の口を解いて倒にしたやうに埃が滿ちてさら/\と沈んだ。一日さうして止め處もなく駈つて行く巨人の爪先には此の平坦な田や畑や山林の間に介在して居る各村落の茅屋は悉く落葉を擡げて出た茸のやうな小さな悲慘な物でなければならなかつた。各自の直上を中心點にして空に弧を描いた其の輪郭外の横にそれから斜に見える廣く且つ遠い空は黄褐色な霧の如き埃の爲に只に燒かれたやうである。卯平は自分の小屋に身を窄めた。暫く彼の火鉢から立つて、狹い壁から壁に衡突つて彷徨ひ出た薄い煙が疾風の爲に直ぐにごうつと蹴散らされて畢つた。狹い小屋の内はそれから復た沈んだ。卯平は少し開いた戸口から其の小さく蹙めた目で外を見た。狹い庭の先に紙捻を植ゑたやうな桑畑の乾燥しきつた輕鬆な土が黄褐色な霧の中へ吹つ立つて行くのが見える。さうして南の家は極めてぼんやりとして其の形態が現はれて又隱れた。栗の木の側に木の枝を杙に打つて拵へた鍵の手へ引つ掛けた桔槹が、ごうつと吹く毎にぐらり/\と動いて釣瓶が外れ相にしては外れまいとして爭うて騷いで居る。卯平は彼ぼんやりした心が其處へ繋がれたやうに釣瓶を凝視した。彼は暫くしてから庭に立つた。彼は其癖の舌を鳴らしながら釣瓶へ手を掛けた。釣瓶の底には僅に保たれた水に埃が浸されて沈んで居た。外側は青い苔の儘に乾燥して居た。彼は鍵の手の杙を兩手に持つて其大きな身體の重量を加へて竪に壓へて見た。小さな杙は毎日水の爲に軟かにされて居る土へぐつと深くはひつた。鍵の手は深く釣瓶の内側を覗いて居たので先刻よりも確乎と釣瓶を引き止めた。彼はそれから狹い戸口をぴたりと閉して枯燥した手足を穢い蒲團に包んでごろりと横に成つた。
午餐に勘次が戻つて、復口中の粗剛い飯粒を噛みながら走つた後へ與吉は鼻緒の緩んだ下駄をから/\と引きずつて學校から歸つて來た。足袋も穿かぬ足の甲が鮫の皮のやうにばり/\と皹だらけに成つて居る。彼はまだ冷め切らぬ茶釜の湯を汲んで頻りに飯を掻込んだ。粘膜のやうに赤く濕ひを持つた二つの道筋を傳ひて冷たく垂れた洟を彼は啜りながら、箸を横に持ち換へて汁椀の鹽辛い干納豆を抓んで口へ入れたり茶碗の中へ撒いたりして幾杯かの飯を盛つた。飯粒は茶碗から彼の胸を傳ひて土間へぼろ/\と落ちた。彼は土間に立つた儘喫べて居た。彼は飯粒の少し底に残つた茶碗を膳の上に轉がしてばたりと飯臺の蓋をした。卯平は横臥した儘でおつぎが喚んだ時に來なかつた。おつぎが再び聲を掛けて開墾地へ出てからも彼は暫く懶い身體を蒲團から起さなかつた。彼がふと思ひ出したやうに狹い戸口を開けて明るい外の埃に目を蹙めて出て行つた時與吉は慌しく飯臺の蓋をした處であつた。
「汝りや、今日はどうしてさうえに早えんでえ」卯平は太い低い聲で聞いた。
「あゝ」と與吉は脣を反らして洟を啜りながら
「先生そんでも、明日は日曜だから此れつ切で歸つてもえゝつちつたんだ」
「午餐くつたか」卯平はのつそりと飯臺の側に近づいた。
「汝りや、爺が膳さかうだに滾して」と彼は先刻よりも低い聲で
「おとつゝあに見らつたら怒られつから」斯ういつて又
「汝ツ等おとつゝあは怒りつ坊だから」と沈んで呟くやうにいつた。彼は膳の上に散つて居る飯粒を一つ/\に撮んで、それから干納豆は此れも一つ/\に汁椀の中へ入れた。汁椀は手に取つて、椀の腹を左の手に輕く打ちつけるやうにして納豆を平にした。おつぎは午餐から開墾地へ出る時、菜にする干納豆を汁椀へ入て彼の爲に膳を据ゑて行つたのである。與吉は遠慮もなく其の膳に向つたのである。卯平は飯臺の蓋を開けて見たが暖味がないので彼は躊躇した。茶釜の蓋をとつて見たが、蓋の裏からはだら/\と滴りが垂れて僅かに水蒸氣が立つた。茶釜は冷めて居たのである。それ程に空腹を感ぜぬ彼は箸を執るのが厭になつた。彼は身體が非常に冷えて居ることを知つた。それに右の手が肩のあたりで硬ばつたやうで動かしやうによつてはきや/\と疼痛を覺えた。彼は病氣が其處に聚つたのではないかと思つた。それが睡眠中の身體の置きやうで一時の變調を來したのだかどうだか分らないにも拘はらず、彼は唯病氣故だと極めて畢つた。極めたといふよりも彼の果敢ない僻んだ心にはさう判斷するより外何もなかつたのである。彼の心は只管自分を悲慘な方面に解釋して居ればそれで濟んで居るのであつた。彼の窶れた身體から其の手が酷く自由を失つたやうに感ぜられた。手は輕く痺れたやうになつて居た。彼は冷えた身體に暖氣を欲して、茶釜を掛けた竈の前に懶い身體を据ゑて蹲裾つた。彼は更らに熱い茶の一杯が飮みたかつたのである。彼は竈の底にしつとりと落ちついた灰に接近して手を翳して見た。まだ軟かに白い灰は微に暖かゝつた。彼はそれから大籠の落葉を攫み出して茶釜の下に突込んだ。與吉も側から小さな手で攫んで投げた。卯平の足もとには灰を掩うて落葉が散亂した。落葉は卯平の衣物にも止つた。卯平は竹の火箸の光で落葉を少し透すやうにして灰を掻き立てゝ見ても火はもうぽつちりともなかつたのである。彼はそれから燐寸を深して見たが何處にも見出されなかつた。彼は自分の燐寸を探しに狹い戸口へ與吉をやらうとした。與吉は甘えて否んだ。彼はどうしても懶い身體を運ばねばならなかつた。
卯平の手もとは餘程狂つて居た。彼はすつと燐寸を擦つたが其の火は手が落葉に達するまでには微かな煙を立てゝ消えた。燐寸はさうして五六本棄てられた。與吉は其の不自由な手から燐寸を奪ふやうにして火を點けて見た。卯平は與吉のする儘にして、丸太の端を切り放した腰掛に身體を据ゑて其の窶れた軟かな目を蹙めて居た。慌てた與吉の手は其の軸木の先から徒らに毛のやうな煙を立てるのみであつた。彼は焦躁れて卯平の足もとの灰へ燐寸の箱を投げた。箱はからりと鳴つた。箱の底はもう見えて居たのである。卯平は目を蹙めた儘燐寸をとつて復すつと擦つて、ゆつくりと軸木を倒にして其の白い軸木を包んで燃え昇らうとする小さな火を枯燥した大きな手で包んで、大事相に覗いた。それが復二三度反覆された。手の内側がぼんやりとしてそれから段々に明るく成つて火は漸く保たれた。茶釜の底に觸れるばかりに突込まれた落葉には斯うして火が點けられた。落葉には灰際から其の外側を傳ひて火がべろ/\と渡つた。卯平は不自由な手の火箸で落葉を透した。火は迅速に其の生命を恢復した。彼等の爲に平生殆んど半以上を無駄に使はれて居る焔が竈の口から捲れて立つた。然し其の餘計に洩れて出る焔が彼の自由を失うて凍らうとして居る手を暖めた。彼は横に轉がした大籠からかさ/\と掻き出しては燃え易い落葉を間斷なく足した。
與吉は卯平の側から斜に手を出して居た。卯平は與吉の小さな足の甲へそつと手を觸れて見た。手も足も孰もざら/\とこそつぱかつた。與吉は斜に身を置くのが少し窮屈であつたのと、叱言がなければ唯惡戲をして見たいのとで側な竈の口へ別に自分で落葉の火を點けた。針金のやうな火をちらりと持つた落葉の一ひら/\が煙と共に輕く騰つた。落葉は直ぐに白い灰に化つて更に幾つかに分れて與吉の頭髮から卯平の白髮に散つた。煙の中には其の白い灰が後から/\と立て落ちた。與吉はいつも彼等の伴侶と共に路傍の枯芝に火を點じて、それが黒い趾を残してめろめろと燃え擴がるのを見るのが愉快でならなかつた。彼は又火が野茨の株に燃え移つて、其處に茂つた茅萱を燒いて焔が一條の柱を立てると、喜悦と驚愕との錯雜した聲を放つて痛快に叫びながら、遂には其處に恐怖が加はれば棒で叩いたり土塊を擲つたり、又は自分等の衣物をとつてぱさり/\と叩いたりして其火を消すことに力めるのであつた。迅速で且壯快な變化を目前に見せる火が彼等の惡戲好な心をどれ程誘導つたか知れない。彼は落葉を攫んでは竈の口に投じてぼうぼうと燃えあがる焔に手を翳した。茶釜がちう/\と少し響を立てゝ鳴り出した時卯平は乾びたやうに感じて居た喉を濕さうとして懶い臀を少し起して膳の上の茶碗へ手を伸した。自由を缺いて居た手が、爪先で持つた茶碗をころりと落させた。茶碗の底に冷たく成つて居た少しの水が土間へぽつちりと落ちてはねた。飯粒が共に散らばつた。彼は又悠長に茶碗をとつて汚れた部分を手でこすつて、更に茶釜の熱湯を注いで足もとの灰へ傾けた。蓋をとつたのでほう/\と威勢よく立つて居る水蒸氣がちら/\と白く立つて落ちる灰を吸うた。彼は漸くにして柄杓の手を放つて再び茶釜の蓋をした時俄にぼうつと立つた焔の聲を聞いた。彼が思はず後を見た時與吉の驚愕から發せられた泣き聲が耳を打つた。熾な火の柱が近く目を掩うて立つて居た。彼は又直に激しい熱度を顏一杯に感じた。火はどうした機會か横に轉がした大籠の落葉に移つて居たのである。與吉は初め野外の惡戲に用ゐた手段を以て其の火を叩いて消さうとし又掻き出さうとした。乾燥した落葉は迅速に火を誘導して彼の横頬を舐つて、彼は思はず聲を放つたのである。卯平は慌てて再び茶碗を落した。彼は突然與吉を傍に掻き退けた。彼はさうして無意識に火に成つた落葉を掻き出さうとして、自由を失うた手の鈍い運動が其の火を消すに何の功果もなかつた。彼は焔の儘に輕い落葉の籠を庭へ投げればよかつたのである。疾風は必ず其の落葉を散亂せしめて、火は遠く燃えながら走るにしても、片々たる落葉は廣い區域に悉く其の俤をも止めないで消滅して畢はねば成らぬのであつた。然しながら慌てた卯平の手は此の如き簡單で且最良である方法を執る暇がなかつた。火は復怒つて彼の頬を舐り彼の手を燒いた。彼の目は昏んだ。一時に激した落葉の火はそれが久しく持續されなくても老衰した卯平の心を奪ふには餘りあつた。卯平の視力が再び恢復した時には火は既に天井の梁に積んだ藁束の、亂れて覗いて居る穗先を傳ひて昇つた。火は乾燥した藁束の周圍を舐つて、更に其焔が薄闇い家の内から遁れようとして屋根裏を偃うた。それが迅速な火の力の瞬間の活動であつた。舐つた火は更に此れを噛んでずた/\に崩壞した藁束は其の火を保つた儘既に其の勢ひを沈めた落葉の上にばら/\と亂れ落て其處に復た火勢が恢復された。惘然として自失して居た卯平は藁の火を浴びた。彼は慌てゝ戸口へ遁げ出した時火は既に赤い天井を造つて居た。煙は四方から檐を傳ひてむく/\と奔つて居た。蛇の舌の如くべろ/\と焔が吐き出された。吹き募つて居る疾風は直ぐに其赤い舌を吹き拗切らうとした。後から/\と勢力を加へて吐き出す煙や焔は穗の如く壓し靡かされた。
火は瞬間に處々落ち窪んで窶れた屋根を全く包んで畢つた。卯平は數分時の前に豫期しなかつた此の變事を意識した時殆んど喪心して庭に倒れた。土塊の如く動かぬ彼の身體からは憐に微かな煙が立つて地を偃うて消えた。藁の火を沿びた時其の火が襤褸な彼の衣物を焦したのである。然し其の火は灸の如き跡をぽつ/\と止めたのみで衣物の心部は深く噛まなかつた。埃は彼を越えて走つた。與吉は火傷の疼痛を訴へて獨悲しく泣いた。
疾風は其の威力を遮つて包んだ焔を掻き退けようとして其餘力が屋根の葺草を吹き捲つた。火は直に其の空隙に噛み入つて益其處に力を逞しくした。聳然と空に奔騰しようとする焔を横に壓しつけ/\疾風は遂に塊の如き火の子を攫んで投げた。其の礫はゆらり/\とのみ動いて居る東隣の森の木がふはりと受けて遮斷した。只一部、三角測量臺の見通しに障る爲に切り拂はれた空隙がそれを導いた。火の子は東隣の主人の屋根の一角にどさりと止つた。勘次の家を包んだ火は屋根裏の煤竹を一時に爆破させて小銃の如き響を立てた。其の響は近所の耳を驚かした。其の人々が驅けつけた時は棟はどさりと落ちて、疾風の力を凌いで空中遙に焔を揚げた。其の時は既に東隣の主人の家を火がべろ/\と甞めつゝあつたのである。村落の者が萬能や鳶口を持つて集まつた時は火は凄まじい勢ひを持つて居た。それでも大きな建物を燒盡するには時間を要した。其の間に村落の者は手當り次第に家財を持つて其れを安全の地位に移した。其の點に於て白晝の動作は敏活で且つ容易であつた。家財道具が門の外に運ばれた時火勢は既に凡ての物の近づくことを許容さなかつた。家を圍んで東にも杉の喬木が立つて居た。森の梢の上に遙に立ち騰らうとして次第に其の勢ひを加へる焔を、疾風はぐるりと包んだ喬木の梢からごうつと壓しつけ壓しつけ吹き落ちた。焔は斜にさうして傾きつゝ、群集の耳には疾風の響を奪つて轟々と鳴り續いた。吹き落す疾風に抵抗して其の力を逞しくしようとする焔は深く木材の心部にまで確乎と爪を引つ掛けた。さうして其の焔は近く聳えた杉の梢から枝へ掛けて爪先で引つ掻いた。其の度に杉は針葉樹の特色を現して樹脂多い葉がばり/\と凄じく鳴つて燒けた。屋根裏の竹が爆破した。消防の群集は殆んど皮膚を燒かれるやうな熱さを怖れて段々遠ざかつた。小さな喞筒は其熾な焔の前に只一條の細い短い彎曲した白い線を描くのみで何の功果も見えなかつた。他の村落の人々が聞き傳へて田圃や林を越えて、其の間に各自の體力を消耗しつゝ驅けつけるまでには大きな棟は熱火を四方に煽つて落ちた。疾風の力が此れを壓しつけて、周圍の喬木の梢が他と隔てゝ白晝の力が其の光を奪はうとして居るので、空に立つて見えるのは遠いやうで且つ近いやうで一種の凄慘な氣を含んだ煙である。それでも喬木の梢の上に火は壓迫に苦んで居るやうに稀に立ち騰つては又壓つけられた。徒勞である喞筒へ群集は水を汲むのに近所の有ゆる井戸は皆釣瓶が屆かなくなつた。群集は唯囂々として混亂した響の中に騷擾を極めた。火の力は此の如くにして周圍の村落をも一つに吸收した。然しながら、其の群集は勘次の庭を顧みようとはしなかつた。
黄褐色の霧を以て四圍を塞がれつゝ只管に其の唐鍬を打つて居た勘次は田圃を渡つて林を越えて遠く行つて居た。彼は此の凶事を知る理由がなかつた。開墾地に近い小徑を走つて行く人の慌しい容子を見咎めて彼は始めて其火を知つた。それが東隣の主人の家に起つたことを聞かされて彼はおつぎを促して立つた。彼は疾驅しようとして、其の確乎と身を据ゑた位置から一歩を踏み出した時、じやりつと其爪先を打つて財布が落ちた。彼が顧みた時財布は二三歩後に發見された。彼は簡單な三尺帶を解いて、ぎりつと其處に大きな塊のやうな結び目を作つて其の財布を包んだ。
彼は殆ど其の脚力の及ぶ限り走つた。彼はおつぎが後に續かぬことを顧慮する暇もなかつた。彼は其の主人を懷つたのである。勘次は後の田圃へ出た時霧の如き埃を隔てゝ主人の家の森から騰る熾な煙を見て今更の如く恐怖した。彼は又ふと自分の後の林に少し見えて居た自分の家の棟が見えないのに其心を騷がせた。毫も其の力を落さぬ疾風は雜木に交つた竹の梢を低くさうして更に低く吹靡けて居れど棟はどうしても見えなかつた。彼は又煙が絲の如く然も凄じく自分の林の邊から立ては壓しつけられるのを見た。彼が自分の庭に立つた時は、古い煤だらけの疎末な建築は燒盡して主要の木材が僅に焔を吐いて立つて居る。火は尚ほ執念く木材の心部を噛んで居る。何物をも吹き拂はねば止むまいとする疾風は、赤いを包む白い灰を寸時の猶豫をも與へないで吹き捲つた。心部を噛まれつゝある木材は赤い齒を喰ひしばつたやうな無數の罅が火と煙とを吐いて居た。勘次は殆んど惘然として此の急激な變化を見た。彼は足もとが踉蹌る程疾風の手に突かれた。彼は庭に立つて泣いて居る與吉を見た。與吉の横頬に印した火傷が彼の惑亂した心を騷がせた。勘次は又其の側に目を瞑つて後向に成つて居る卯平を見た。卯平は何時の間に誰がさうしたのか筵の上に横たへられてあつた。彼は少い白髮を薙ぎ拂つて燒いた火傷のあたりを手で掩うて居た。
「汝りやどうしたんだ」勘次は忙しく聞いた。
「木の葉へ火くつゝえたんだ」與吉は咽び入りながらいつた。
「汝でも惡戲したんぢやねえか」勘次は遲緩しげに烈しく追求した。
「俺ら爺と火あたつてたんだ、さうしたらくつゝかつたんだ」さういつて與吉は俄に聲を放つて泣いた。彼は何の爲にさう悲しくなつたのか寧ろ頑是ない彼自身には分らなかつた。彼は只涙がこみあげて止め處もなく悲しくさうしてしみ/″\と泣き續けた。勘次はそれを聞いた瞬間肩の唐鍬を轉がしてぶつりと土を打つた。唐鍬の刄先は卯平の頭に近く筵の一端を掠つて深く土に立つた。彼はそれから燒盡して一杯のになつた自分の家に近く駈け寄つた。彼は火の恐ろしい熱度を感じて少時躊躇して立つた。後の林の稍俛首れた竹の外側がぐるりと燒かれて變色して居たのが彼の目に映じた。それと共に彼は隣の森の中の群集の囂々と騷ぐのを耳にして自分が今何の爲に疾走して來たかを心づいた。然し彼はもう其の群集の間に交つて主人の災厄に赴く心は起らなかつた。彼は其の群集の聲を聞いて、自ら意識しない壓迫を感じた。彼は酷く自分の哀つぽい悲慘な姿を泣きたくなつた。彼は疾走した後の異常な疲勞を感じた。彼は自分の燒趾を掻き立てようとするのに鳶口も萬能も皆其火の中に包まれて畢つて居た。彼は空手であつた。唐鍬を執つて彼は再び熱い火の側に立つた。熱さに堪へぬ火の側を彼は飛び退つて又立つた。彼は其の刃先の鈍く成るのを思ふ暇もなく唐鍬で、また立つて居る木材を引つ掛けて倒さうとした。
おつぎは後れて漸く垣根の入口に立つた。おつぎはもう自分の家が無いことを知つた。貧窮な生活の間から數年來漸く蓄へた衣類の數點が既に其の一片をも止めないことを知つてさうして心に悲しんだ。汗がびつしりと髮の生際を浸して疲憊した身體をおつぎは少時惘然と庭に立てた。
おつぎはそれから又泣いて居る與吉と死骸の如く横はつて居る卯平とを見た。おつぎは萬能を置いて與吉の火傷した頭部をそつと抱いた。與吉は復涙がこみあげて咽びながらしみ/″\と悲しげに泣いた。其の聲は聞くものを只泣きたくさせた。疲れたおつぎの目にはふつと涙が泛んだ。おつぎは又手で抑へた卯平の頭部に疑ひの目を注いで、二人の悲しむべき記念におもひ至つた。おつぎは其の原因を追求して聞かうとはしなかつた。おつぎはしみ/″\と與吉を心に勦つて更に、「爺」と卯平の蓆に近づいてそつと膝をついた。平生のおつぎは勘次との間を繋がうとする苦心からの甘えた言辭が卯平の心に投ずるのであつた。現在おつぎの心裏には何の理窟もなかつた。只しみ/″\と悲しい痛はしい心からの言辭が自然に其の口から出るのであつた。おつぎは未だ燃えてる火を忘れたやうに卯平を越えて覗いた。卯平はおつぎの聲が耳に入つたので後を向かうとして僅に目を開いた。地を掠つて走りつゝある埃が彼の頬を打つて彼の横たへた身體を越えた。彼は直に以前の如く目を閉ぢた。
「爺も火傷したのか」おつぎは靜にいつて卯平の手をそつと退けて左の横頬に印した火傷を見た。
「痛てえか、そんでもたえしたこともねえから心配すんなよ」おつぎは火に薙ぎ拂はれた穢い卯平の白髮へそつと手を當た。卯平はおつぎのする儘に任せて少し口を動かすやうであつたが、又ごつと吹きつける疾風に妨げられた。おつぎは隣の庭の騷擾を聞いた。然も其種々な叫びの錯雜して聞える聲が自分の心部から或物を引つ攫んで行くやうで、自然にそれへ耳を澄すと何だか遣る瀬のないやうな果敢なさを感じて涙が落ちた。涙は卯平の白髮に滴つた。おつぎが心づいた時勘次は徒らにさうして發作的に汗を垂らして動いて居るのを見た。おつぎの心も屹として未だ燃えつゝある火に移つた。おつぎは俄に自分の萬能を執つて勘次の手に攫ませた。勘次は始めて心づいて、熱した唐鍬を冷さうとして井戸端へ走つた。鍵の手を離れた釣瓶は高く空中に浮んでゆつくりと大きく動いて居た。彼は流し尻にずぶりと唐鍬を投じて又萬能を執つた。
一日吹いた疾風が礑と其の力を落したら、日が西の空の土手のやうな雲の端に近く据つて漸次に沒却しつゝ瞬いた。其の一瞬時強烈な光が横に東の森の喬木を錆た橙色に染めて、更に其の光は隙間を遠くずつと手を伸した。冷たく且薄闇く成るに從つて燒趾の火が周圍を明るくした。隣の火はほんのりと空をぼかした。隣の庭には自分の村落から他の村落から手桶や飯臺へ入れた握り飯が數多く運ばれた。消防に力を竭した群集は白い握飯を貪つた。群集は更に時分を見計らつてはぐら/\と柱を突き倒さうとした。丈夫な柱はまだ火勢があたりを遠ざけて確乎と立つて居た。他の村落の人々は漸次に歸り去つた。自村の人々は交代に残つて熾な火の番をした。歸り行く人々が其の序に勘次の庭に挨拶に立つたのみで、南の家から笊へ入れた握飯が來た丈であつた。彼はそれでも其の爲に空腹を遁れた。隣の主人からは暫くして其の集つた握り飯の手桶を二つ三つ持たせてよこした。夜に成つてから近所の者の手で卯平は念佛寮へ運ばれた。勘次は卯平を乘せた荷車を曳いた。彼はそれから隣の主人へ挨拶に出たが、自分の喉の底で物をいうて逃げるやうに歸つた。彼は其の夜は三人が凍つた空を戴いて燒趾の火氣を手頼りに明かした。卯平を横へた筵は誰も取りには來なかつた。筵は三人に席を與へた。勘次は失火に就いて與吉から要領を得なかつた。然しながら彼の悲憤に堪へぬ心が嘖まうとするには與吉の泣いて止まぬ火傷がそれを抑へつけた。勘次は疲れた。
二六
夜が深けるに隨つて霜は三人の周圍に密接して凝らうとしつゝ火の力をすら壓しつけた。彼等は冷めて行く火に段々と筵を近づけた。勘次もおつぎも薄い仕事衣にしん/\と凍る霜の冷たさと、ぢり/\と焦すやうな火の熱さとを同時に感じた。與吉は火傷へ夜の冷たさが沁みた。さうかといつて火に當らうとするのには猶且火傷の疼痛を加へるだけであつた。彼は思出したやうに泣いては又泣いた。遂には泣き疲れてしく/\と只聲を呑んだ。それが却て勘次とおつぎの心を掻き亂した。疲れた二人はうと/\としながら到頭眠ることが出來なかつた。
燒趾に横はつた梁や柱からまだ微かな煙を立てつゝ次の日は明けた。勘次はおつぎを相手に灰燼を掻き集めることに一日を費した。手桶の冷たい握飯が手頼ない三人の口を糊した。勘次は炭のやうに成つた痩せた柱や梁を垣根の側に積んだ。彼は其の新しい手桶へ水を汲んでまだ火の有り相な梁や柱へばしやりと其の水を掛けた。彼は灰を掻き集めて處々圓錘形の小山を作つた。彼は灰燼の中から鍋や釜や鐵瓶や其の他の器物をだん/\と萬能の先から掻き出した。鐵製の器物は其の形を保つて居ても悉皆幾年も使はずに捨てあつたものゝやうに變つて居た。彼はそれをそつと大事に傍へ聚めた。茶碗や皿や凡ての陶磁器は熱火に割ねて畢つて一つでも役に立つものはなかつた。勘次は赤く燒けた土を草鞋の底で段々に掻つ拂かうとした時、黒く焦げたやうな或物が草鞋の先に掛つた。燒けて變色した銅貨の少し凝つたやうになつたのが足に觸れてぞろりと離れた。彼は周圍にひよつと目を放つた。彼の目に入るものは此も一心に灰の始末をして居るおつぎの外にはなかつた。彼は銅貨を竊と竹の林の側へ持つて行つた。彼はぎりつと縛つた三尺帶を解いて、財布を括つた結び目に齒を掛けて漸く其財布を取り出した。燒けた銅貨を彼は財布へ投げ込んで復たぎりつと腰へ括つた。彼はさうして再びきよろ/\と周圍を見た。勘次は幾つかの小山を形づくつた灰へ藁や粟幹でしつかと蓋をした。彼はそれを田や畑へ持ち出さうとしたので、雨に打たせぬ工夫である。其の藁や粟幹は近所の手から與へられた。彼は住居を失つた第二日目に始めて近隣の交誼を知つた。南の女房は古い藥鑵と茶碗とを持つて來てくれた。勘次は平生何とも思はなかつた此れ等の器物にしみ/″\と便利を感じた。彼は藥鑵のまだ熱い湯を茶碗に注いで彼等の身を落ちつける唯一枚の筵の端に憩うた。俄に空洞とした燒趾を限つて立つて居る後の林の竹は外側がぐるりと枯れて、焦げた枝が青い枝を掩うて幹は火の近かつた部分は油を吹いてきら/\と滑かに變つて居た。
東隣の主人の庭には此の日も村落の者が大勢集まつて大きな燒趾の始末に忙殺された。それで其人々は勘次の庭に手を藉さうとはしなかつた。彼等は隣の主人に對して平素に報いようとするよりも將來を怖れて居る。彼等は皆齊しく靜かに落ついた白晝の庭に立ことが其の家族の目に觸れ易いことを知つて居るのである。勘次は疲れた身體を其の日も餘念なく使役した。其の夜は三人が空を戴いて狹い筵に明すのには、僅でも其身體を暖める火は消滅して居たのである。三人は其夜南の家に導かれた。勘次もおつぎも汗と灰と埃とに汚れた身體を風呂に洗ひ落した。快よかつた其風呂が氣盡しな他人の家に彼等をぐつすりと熟睡させて二日間の疲勞を忘れさせようとした。
與吉の横頬は皮膚が僅に水疱を生じて膨れて居た。彼は其の日の機嫌が惡かつた。南の女房は其の水疱に頭髮へつける胡麻の油を塗つてやつた。
勘次は燒木杙を地に建てゝ彼に第一の要件たる假の住居を造つた。近所から聚めた粟幹の僅少な材料が葺草であつた。それは漸と雨の洩るか洩らないだけの薄い葺方であつた。固より壁を塗る暇はない。そこらこゝらの林の間に刈り残された萱や篠を刈つて來て、乏しい藁と交ぜて垣根でも結ふやうにそれを内外から裂いた竹を當てゝぎつと締めた。彼は南の家から借りた鋸で大小の燒木杙を挽切つた。遂に彼は後から燒けた竹を伐つて來て簀の子のやうに横へて低い床を造つた。竹を伐つた鉈も彼の所有ではなかつた。彼の熱火に燒かれて獨で冷めた鉈も鎌も凡ての刄物はもう役には立たなかつた。彼の手に完全に保たれたものは彼が自分の手を恃んで居る唐鍬のみである。彼は此の壁もない小屋を造る爲に二日ばかりの間は毫も他を顧みる暇がなかつた程心が忙しかつた。彼の悲慘な狹い小屋には藥鑵と茶碗とそれから火事の夕方に隣の主人がよこした新しい手桶とのみで、夜の身を横へるのに一枚の蒲團もなかつた。砥石を掛けて磨かねば使用に堪へぬ鍋や釜は彼の更に狹い土間に徒らに場所を塞げて居た。其の土間にはまだ簡單な圍爐裏さへなくて、彼は火を焚くのに三本脚の竹を立てゝそれへ藥鑵を掛けた。
おつぎは只勘次の仕事を幇けて居た。然し其の間にも念佛寮へ運ばれた卯平を忘れては居なかつた。おつぎは火事の次の日に勘次へは默つて念佛寮を覗いて見た。おつぎは卯平へ目に見えた心盡をするのに何の方法も見出し得なかつた。おつぎの懷には一錢もないのである。おつぎは手桶の底の凍つた握飯を燒趾の炭に火を起して狐色に燒いてそれを二つ三つ前垂にくるんで行つて見た。おつぎはこつそりと覗くやうにして見た。卯平は誰がさうしてくれたか唯一人で蒲團にゆつくりとくるまつて居た。枕元には小さな鍋と膳とが置かれて、膳には茶碗が伏せてある。汁椀は此れも小皿を掩うて伏せてある。卯平は窶れた蒼い顏をこちらへ向けて居た。彼は眠つて居た。おつぎはすや/\と聞える呼吸に凝然と耳を澄した。おつぎはそれから枕元の鍋蓋をとつて見た。鍋の底には白いどろりとした米の粥があつた。汁椀をとつて見たら小皿には醤が少し乘せてあつた。卯平は冷めた白粥へまだ一口も箸をつけた容子がない。おつぎは燒いた握飯を一つ枕元にそつと置いて遁げるやうに歸つて來た。老人の敏い目が到頭開かなかつた。卯平は疲れた心が靜まつて漸く熟睡した處なのであつた。
掘立小屋が出來てから勘次はそれでも近所で鍋や釜や其の他の日用品を少しは貰つたり借りたりして使つた。おつぎは其の間一心に燒けた鍋釜を砥石でこすつた。竹の床へ數く筵が三四枚、此も近所で古いのを一枚位づつ呉れた。さうしてから漸く蒲團が運ばれた。それは彼がぎつしりと腰に括つた財布の力であつた。米や麥や味噌がそれでどうにか工夫が出來た。彼は斯うして命を繼ぐ方法が漸と立つた。二三日過ぎて與吉の火傷は水疱が破れて死んだ皮膚の下が少し糜爛し掛けた。勘次は心から漸く其の瘡痍を勦つた。彼は平生になくそれを放任つて置けば生涯の畸形に成りはしないかといふ憂をすら懷いた。さうして彼は鬼怒川を越えて醫者の許に與吉を連れて走つた。醫者は微笑を含んだ儘白いどろりとした藥を陶製の板の上で練つて、それをこつてりとガーゼに塗つて、火傷を掩うてべたりと貼てぐる/\と白い繃帶を施した。手先の火傷は横頬のやうな疼痛も瘡痍もなかつたが醫者は其處にもざつと繃帶をした。與吉は目ばかり出して大袈裟な姿に成つて歸つて來た。
與吉は繃帶をしてから疼痛もとれた。繃帶は又直接他の物との摩擦を防いで、彼に快よく村落の内を彷徨はせた。繃帶が乾いて居れば五六日は棄てゝ置いても好いが、液汁が浸み出すやうならば明日にも直に來るやうにと醫者はいつたのであるが、液汁は幸ひにぱつちりと點を打つたのみで別段擴がりもしなかつた。
おつぎは燒趾の始末の忙しい間にも時々卯平を見た。然し卯平を慰めるに一錢の蓄へもないおつぎは猶且何の方法も手段も見出し得なかつたのである。
おつぎは勘次が漸くにして求めた僅な米を竊と前垂に隱して持つて行つた。米には挽割麥が交つて居る。おつぎは決して卯平を滿足させ得ることとは思はなかつたが、彼が喫べて見ようといへば粥にでも炊いてやらうと思つたのである。然しおつぎが恥ぢつゝそれでも餘儀なく隱して持つて行つた米の必要はなかつた。念佛の伴侶が交互に少しづゝの食料を持つて來てくれるのを卯平は屹度餘して居た。
「爺、そんでもちつた鹽梅よくなつたやうだが、痛かねえけえ」おつぎは毎度のやうに反覆して聞いた。言辭は軟かでさうして潤んで居た。卯平の火傷へも油が塗られてあつた。水疱はいつか破れて糜爛した患部を、油は見るから厭はしく且つ穢くして居た。死んだ細胞の下から鮮かに赤く見え始めた肉芽は外部の刺戟に對して少しの抵抗力も持つて居ない細胞の集りである。朝夕の冷たさすら其の過敏な神經を刺戟した。卯平は何時でも右の横頬を上にして居る外はなかつた。
「さうだにかゝんなくつても癒んべなあ」おつぎは、油が穢くした火傷を凝然と見て居ると自然に目が蹙められて、寧ろ自分の瘡痍の經過でも聞くやうに卯平の枕へ口をつけていつた。
「うむ」と卯平の低く響く聲が決して其の言辭のやうな簡單な意味のものではなかつた。
「そんでもどうにか家も拵えたから、爺ことも連れてくべよなあ」おつぎの聲は漸次に潤んで低くなつた。卯平はそれでもおつぎの聲を聞くと目を瞑つた儘、殆ど明瞭とは見られぬやうな微かな笑ひが泛ぶのであつた。
「どうえの建てゝえ」卯平は有繋に聞きたかつた。
「どうえのつて爺は、燒けた柱掘立てたのよ、そんだから壁も塗んねえのよ」
「そんぢや、藁か萱でおツ塞えたんでもあんびや」
「うむ、さうだあ、そんだから觸つとがさ/\すんだよ」斯ういつておつぎの聲は少し明瞭として來た。おつぎは羞を含んだ容子を作つた。卯平は悲慘な燒小屋を思ふと、自分が與吉と共に失錯つたことが自分を苦めて酷く辛かつた。彼は俄に目を蹙めた。
「痛えのか」おつぎは目敏くそれを見て心もとなげにいつた。おつぎは窶れて沈んだ卯平の側に居ると、遂自分も沈んで畢つて只凝然と悚んだやうに成つて居るより外はなかつた。それでもおつぎは長い時間をさうして空しく費すことは許容されなかつた。
「又來つかんな」とおつぎは沈んだ聲でいつて出て行くのを、後で卯平の眥からは涙が少し洩れて、其の小さな玉が暫く窶れた皺に引掛つてさうしてほろりと枕に落ちるのであつた。
勘次は一度も念佛寮を顧みなかつた。五六日過ぎて與吉は復た醫者へ連れられた。醫者は穢く成つた繃帶を解いてどろりとした白い藥を復た陶製の板で練つて貼つた。先頃のよりも濃くして貼つたからもう此れで遠い道程を態々來なくても此れを時々貼つてやれば自然に乾いて畢ふだらうと、其の白い藥とそれからガーゼとを袋へ入れてくれた。與吉は俄に勢ひづいた。彼は時々卯平の側へも行つた。卯平は横臥した目に與吉の繃帶を見て其の心を痛めた。
或日與吉が行つた時、先頃念佛の時に卯平へ酒を侑めた小柄な爺さんが枕元に居た。
「おめえ、さうだに力落すなよ、此らつ位な火傷なんぞどうするもんぢやねえ、俺れ癒してやつから、どうした彼ん時からぢや痛かあんめえ、彼の禁厭で火しめしせえすりや奇態だから」さういつて爺さんは佛壇の隅に置いた燈明皿を出して其の油を火傷へ塗つた。卯平は其の爲る儘に任せて動かなかつた。
「力落しちや駄目だから、俺らなんざこんな處ぢやねえ、こつちな腕、馬に咬つた時にや、自分で見ちやえかねえつて云はつたつけが、そんでも俺れ自分で手拭の端斯う齒で咥えてぎいゝつと縛つて、さうして俺ら馬曳いて來たな、汗は豆粒位なのぼろ/\垂れつけがそんでも到頭我慢しつちやつた、何でも力落しせえしなけりや癒んな直だから、年寄つちや癒りが面倒だの何だのつてそんなこたあねえから」爺さんは只管卯平の元氣を引立てようとした。
「俺らそんだが、さうえ怪我しても馬は憎かねえのよ、馬に煎れんのが癖でひゝんと騷いだ處俺れ手横さ出して抑えたもんだから畜生見界もなく噛ツたんだからなあ」と彼は酒を飮んでは居なかつたので聲は低かつたが、それでも漸々に勢ひを加へて居た。
「俺ら白え藥貼つたんだぞ」與吉は先刻から油を塗つた卯平の瘡痍に目を注いで居てかう突然にいつた。
「なあに、さうだ物なんざ貼んねえツたつて汝ツ等がよりやこつちの方が早く癒つから」小柄な爺さんは暫く手もとへ置いた油の皿を再び佛壇の隅へ藏つた。
「そんでも俺れこたはあ、來なくつても癒つからえゝつて藥よこしたんだぞ」與吉は少し間を隔てゝ怖づ/\いつた。
「癒るもんかえ、汝等が」小柄な爺さんは揶揄ふやうにして呶鳴つた。
「癒らあえ、そんだつて痛かねえ俺ツ等」與吉は驚いたやうにいつた。
「其の白え藥だツちのよこしたのか」卯平は微かな聲で聞いた。
「さうなんだわ」
「汝りや、それ※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、394-15]にでも貼つてもらあのか」
「俺ら貼んねえ」
「そんぢや藥はどうしたんでえ、汝りやあ」
「おとつゝあ持つてんだから俺ら知んねえ」與吉は上り框に胸を持たせて下駄の爪先で土間の土を叩きながら卯平と斯うして數語を交換した時
「えゝからそんな藥なんぞのこと構えたてんなえ、此れで癒つから」と小柄な爺さんは傍から打ち消した。
「乞食野郎奴、汝ツ等が親爺は見やがれ、汝こた醫者さ連れてく錢持つてけつかつて、此處さは一度でも來やがんねえ畜生だから、見ろう。其のツ位だから罰當つて丸燒に成つちやあんだ」と爺さんは更に獨憤つた語勢を以ていつた。
「おとつゝあは爺に燒かつたツちツてんだあ」與吉は勢ひに壓せられて羞むやうにしながら漸といつた。
「汝等親爺奴云つたのか」爺さんは更に
「汝りや何ちつたそんで」と呶鳴つた。與吉は悄れて暫く沈默した。
「俺ら火あたつてたら木の葉さくつゝえたんだつて云つたんだあ」
「さう云はつても仕方ねえよ」與吉のいひ畢らぬ内に卯平は言辭を挾んだ。
「箆棒、つん燃したくつて、つん燃すもの有るもんか」爺さんは少し激して
「過失だもの後で何ちつたつて仕やうあるもんぢやねえ」と獨で力んだ。
「そんでも氣の毒で來らんめえつて云つたあ」與吉はぽさりといつた。稍大きく成つた彼は呶鳴る爺さんの前に恐怖を懷いたが又壓へられることに微かな反抗力を持つて居た。
「爺こと來らんめえつて云つたのか、※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、396-5]も云つたのかあ」
「※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、396-6]は云はねえ、※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、396-6]爺が處さ行ぐつちとおとつゝあ怒んだ、さうしたら※[#「姉」の正字、「女+のつくり」、396-6]に怒らつたんだあ」與吉は自分の心に少しの隔てをも有して居らぬ卯平の前に知つてることを矜るやうにいつた。
「汝こた怒んねえのか」小柄な爺さんは與吉の隱さぬ言辭に少し力んだ勢ひが拔けたやうになつて斯ういつた。
「俺れこた怒んねえ、俺ら怒つたつ位遁げつちやあから」與吉のいふのを聞いて爺さんの憤りは和げられた。卯平は蒼い顏をして凝然と瞑つた目を蹙めて聞いて居た。圍爐裏には麁朶の一枝も燻べてなかつた。三人は暫くぽさりとした。
「爺くんねえか」與吉は危むやうにいつた。
「汝りや何欲しいつちんだ」小柄な爺さんは底力の有る聲を低くしていつた。
「俺ら一錢もねえから」と卯平はこそつぱい或物が喉へ支へたやうにごつくりと唾を嚥んだ。彼の目の皺が餘計にぎつと緊つた。
「俺らまあだ、ちつた有つたんだつけが、煙草入と同志に燒えつちやつたから」彼はぽさりと投げ出していつた。
「煙草入は燒けたつて錢だら灰掻掃けば有る筈だ、外に盜る奴ざ有りやすめえし」小柄な爺さんの目は光つた。
「なあに分んねえよ、おつう等毎日來てゝも其の噺やねえんだから、俺らどうせ癒つか何だか分りやすめえし、要らねえな」
「なあに、俺れ聞いて見なくつちやなんねえ、出すも出さねえも有るもんか」小柄な爺さんは呟いて
「行けはあ、汝りや大けえ姿して、呉ろうの何だのつて」と與吉を呶鳴りつけた。與吉は悄々と出て行つた。卯平は少し目を開いて與吉の後姿を見た。涙が止めどもなく出た。彼はそれを拭はうともしなかつた。
二七
其の夜温度が著るしく下降した。季節は彼岸も過ぎて四月に入つて居るのであるが、寒さは地に凝りついたやうに離れなかつた。夜半に卯平はのつそりと起きて圍爐裏に麁朶を燻べた。ちろちろと鐵瓶の尻から燃えのぼる火は周圍の闇に包まれながら窶れた卯平の顏にほの明るい光を添へた。彼は勢ひない焔の前に目を瞑つた儘只沈鬱の状態を保つた。彼は殆んど動かぬやうにして棄てゝ置けばすつと深く沈んで畢つたやうに冷めて行く火へぽちり/\と麁朶を足して居た。彼は暫く自失したやうにして居て麁朶の火が周圍の闇に壓しつけられようとして僅に其の勢ひを保つた時彼はすつと立ち上つた。彼の糜爛した横頬はもう火の氓びようとして居る薄明りにぼんやりとした。火はげつそりと落ちて彼の姿が消え入らうとした。彼は戸を開けて踉蹌けながら出た。寒い風が冷たい刄を浴びせた。卯平は悚然とした。
勘次等三人は其の夜も凝集つて薄い蒲團にくるまつた。勘次は足に非常な冷たさを感じて、うと/\として居た眠から醒めた。手足を伸せば括りつけた萱や篠の葉に觸れてかさ/\と鳴る程狹い室内を、寒さは束ねた松葉の先でつゝくやうに徹宵其隙間を狙つて止まなかつた。勘次は目が冴えて畢つた。彼は北に枕して居た。後の林が性急に騷いでは又靜まつてさうしてざわ/\と鳴つた。北風が立つたのだ。低い粟幹の屋根から其括りつけた萱や篠の葉には冴えた耳に漸と聞とれるやうなさら/\と微かに何かを打ちつけるやうな響が止まない。漸次に其の響を消滅して、隙間を求めて侵入する寒さの度が加はつた。何處かで凍てた土へ響くやうなの聲が疳走つて聞えると夜は檐の隙間から明るくなつた。勘次はおつぎを起した。彼は夜が明ければ蒲團に堅くなつて居るよりも火にあたつた方が遙によかつた。彼は明けるのを待遠にして居た。おつぎは外へ出ようとした。外は意外に積り掛けた雪が白かつた。更に積りつゝある大粒な雪が北から斜に空間を掻亂して飛んで居る。おつぎは少時立ち悚んだ。大粒な雪を投げつゝ吹き落ちる北風がごつと寒さを煽つた。勘次は狹い土間に掻き集めてあつた落葉や麁朶に火を點けた。烟は低い檐を偃つて、ぐる/\と空間が廻轉するやうに見えつゝ飛び散る忙しい雪の爲に遁げ行く道を妨げられたやうに低く彷徨うて行く。おつぎは外側に置いた手桶を執つた。北風の吹きつける雪は一つの手桶を半分白くして居た。おつぎは低い檐の下を一歩踏み出したら、北風は待つて居たといふやうに、其の亂れた髮の毛を吹き捲つて、大粒な雪が爭つて首筋へ群り落て瞬間に消えた。さうして又衣物の上に輕く軟かに止つた。おつぎは釣瓶の竹竿が北から打つける雪の爲に竪に一條の白い線を描きつゝあるのを見た。ちら/\と目を昏すやうな雪の中に樹木は悉皆純白な柱を立て、釣瓶の縁は白い丸い輪を描いて居る。おつぎは竹竿へ手を掛けると輕い軟かな雪はさらりと轉けて落ちた。おつぎは一杯を汲んでひよつと顧つた時後の竹の林が強い北風に首筋を壓しつけては雪を攫んでぱあつと投げつけられながら力の限は爭はうとして苦悶いて居るのを見た。おつぎは見るなと吹きつける北風を當面に受けて呼吸がむつとつまるやうに感じてふと横手を向いた。少し離れたの木の下におつぎは吸ひつけられたやうに疑ひの目をつた。おつぎは釣瓶を放して少しの木の下に近づいた。
「おとつゝあ」とおつぎは底の粘る草履を捨てゝ激しく呼んで驅け込んだ。
「大變だよ、おとつゝあ」と今度は少し聲を殺すやうにして勘次を促した。勘次は怪訝な鋭い目を以ておつぎを見た。
「よう、おとつゝあ」おつぎの節制を失つた慌しさが勘次を庭に走らせた。勘次は戰慄した。の木の下には冷たい卯平が横たはつて居たのである。其大きな體躯は少しの木に倚り掛りながら、胸から脚部へ斑に雪を浴びて居た。荒繩が彼の手を轉けて横に體躯を超えて居た。
「爺」とおつぎは其の耳に口を當てゝ呶鳴つた。冷たい卯平はぐつたりと俛首れた儘である。少し傾げた彼の横頬に糜爛した火傷が勘次を悚然とさせた。勘次は夜荷車で運んだ後卯平を見るのは始めてゞあつた
「おとつゝあは、どうしたつちんだんべな」おつぎは勘次を叱つて、卯平の身體を起しながら白く掛つた雪を手で拂つた。勘次は怖づ/\手を藉した。卯平の力ない身體は漸く二人の手で運ばれた。勘次は簀の子の上の筵に横へて、喪心したやうに惘然として立つた。彼は復た卯平の糜爛した火傷を見た。彼は何を思つたか忙しく雪を蹴立てゝ、桑畑の間を過ぎて南の家に走つた。一旦開けて又そつと閉した表の戸口から突然に
「起きめえか」と彼は激しく呶鳴つた。彼は褞袍を着て竈の前に火を焚いて居る女房を見た。
「何でえ」と亭主の驚いていふ聲が近く聞えた。勘次も驚いて上り框の蒲團から首を擡げた亭主を見た。
「大變なこと出來たよ、俺ら家の」と勘次はこそつぱい喉から漸くそれだけを吐き出した。
「來てくんねえか」と彼は簡單にさういつて、思ひ出したやうに又雪を蹴つて走つた。慌てた彼は閾も跨なかつた。南の家の亭主は勘次の容子を見て尋常でないことを知つた。然しながら彼は極めて不判明な事件に赴くには、直に起る多少の懸念が吹き捲る雪に逆つて、蓑も笠も持たずに走つて行く程慌てさせる譯には行かなかつた。彼は土間に轉がつた下駄を探した。非常な勢ひで積らうとする雪は、庭から庭を繼ぐ桑畑の間に下駄の運びを鈍くした。彼が勘次の小屋を覗いた時は低く且狹い入口を自分の身體が塞いで内を薄闇くした。外の白い雪を見た彼の目が暫く昏んだ。彼は只勘次が與吉を叱る聲を耳の傍で聞いた。
勘次が歸つた時卯平は横へた儘であつた。淺く掛つて居た雪が溶けて卯平の褞袍が少し濡れて居た。彼は復た糜爛した火傷を見ると共に、卯平の懷へ手を入れて居るおつぎを見た。
「おとつゝあ、暖えんだよ」おつぎはいつて又
「呼吸つえてんだよ」他を憚るものゝやうに低く聲を殺していつた。勘次は勢ひづいた。彼は突然與吉を起した。蒲團を捲つて與吉の腕を引いた。與吉は例にない苛酷な扱ひに驚いてまだ眠い目をつた。
「急えて、それ、衣物」と勘次は只おろ/\して居る與吉を叱りつけた。
「そんぢやまあよかつた。何しても蒲團へ寢かせた方がえゝな、暖まりせえすりや段々よくなつぺから」南の亭主は數分時の前から二人を衷心より狼狽せしめた事件の簡單な説明を聞いた時いつた。
「衣物濡れたやうだな、脱せたらよかつぺ、それに酷く汚れつちやつたな」亭主はいつて捲つた蒲團へ手を當て見た。
「此ら暖くつてえゝ鹽梅だ、冷させちやえかねえ」彼は掛蒲團をとつぷり蓋した。
「さうだな衣物は焙る間仕やうねえなそんぢや褞袍でも俺ら家から持つて來つとえゝな、此の蒲團だけぢや暖まれめえこら」彼は少し權威を有つた態度でいつた。狹い小屋の焚火は消えて居た。怪訝な容子をして遠ざかつて居た與吉が落葉を足して暫く燻ぶらした。
「汝また、それ、おつう見てやれ」勘次は與吉に注意の言葉を殘して驅け出して行つた。
「蒲團も持てらば持つて來た方がえゝな」南の亭主の聲は段々に大粒に成つて飛んで居る雪の亂れの中に消え行く勘次の後から追ひ掛けた。
勘次は二人を加へて勢ひづけられた手を敏活に動かして、まだ暖まつて居る蒲團へそつと卯平を横へた。卯平の冷たい身體には、落葉の火でおつぎが焙つた褞袍と夫から餘計な蒲團とが蔽はれた。卯平の微かな呼吸が段々と恢復して來る。勘次はどん/\と落葉や麁朶を焚いた。彼は其の時雪の林に燃料を探すことの困難なことを顧慮する遑さへ有たなかつたのである。
午後になつて此の例年にない雪も歇んだ。空が左もがつかりしたやうにぼんやりした。おつぎが騷いだ心も靜まつて又水を汲みに出た時、釣瓶の底は重く成つて抑へた鍵の手から外れようとして居た。後の竹の林はべつたりと俛首れた。冬のやうにさら/\と潔い落やうはしないで、濕ひを持つた雪は竹の梢をぎつと攫んで放すまいとして居る。竹は苦しい呼吸をするやうに小さな枝が一つづゝぴらり/\と動いて其の壓迫から遁れようと力めつゝある。北から見れば白い柱であつた樹木の幹も悉皆以前の姿に成らうとしてずん/\と雪を轉がした。庭から先の桑畑は唯一杯に白い。地上數寸の深さに雪は積つて居た。桑畑の端の方に薹に立つた菜種の少し黄色く膨れた蕾は聳然と其雪から伸び上つて居る。其處らには枯れた蓬もぽつり/\と白い褥に上體を擡げた。頬白か何かゞ菜種の花や枯蓬の陰の淺い雪に短い臑を立てゝ見たいのか桑の枝をしなやかに蹴つて活溌に飛びおりた。さうして又枝に移つた。
後の田圃では、水こけの惡い田には降つてる内から雪は溶けつゝあつたので、畦畔が殊更に白い線を描いて目に立た。其處にも堀の邊の赤い實の錆びた野茨の枝に堅に成つたり横に成つたりして、ずん/\と消え行く雪を悦ぶやうに頬白がちよん/\と渡つた。夕方には田圃の白い線も途切れ/\に成つた。何處の梢も白い物を止めないで疲れたやうに濡て居た。雪は悉く土に落ついて畢つた。其落ついた雪を突き扛げて何處の屋根でも白い大きな塊のやうに見えた。枯木の間には殊更それが明瞭と目に立つた。黄昏の煙が蒼く割れた空へ吸はれて靜かな日は暮れた。
卯平はすや/\と呼吸を恢復した儘で口は利かない。ぴしや/\と飛沫の泥を蹴りつゝ粟幹の檐からも雪の解けて滴る勢ひのいゝ雨垂が止まないで夜に成つた。其の夜南の女房は蒲團を二枚肩に掛けて持つて來た。一つには義理が濟まぬといふので卯平の容子を見に來たのである。其れは二度目であつた。手ランプもない闇い小屋の内に暫く語つて女房が去つた後、與吉は卯平の裾へ潜らせた。おつぎは其の一枚の蒲團を掛けて卯平に添うて身を横たへた。勘次は土間へ筵を敷いて他の一枚の蒲團を被つてくる/\と身を屈めた。彼は足を伸ばした儘上體を擡げて一度闇い床の上を見た。ぴしや/\と落ちる涓滴が暫く彼の耳の底を打つた。
次の日は朝からきら/\と照つた。暖かい日光は勘次の土間まで偃つた。地上は凡て軟かな熱度を以て蒸された。物陰に一夜保つてゆつくりした雪が慌てゝ溶けた。土がしつとりとして落ちつけられた。
卯平は目を開いた。彼は不審相にあたりを見た。執念く土にひつゝいて居た冬が、蒸されるやうな暖かさに居たゝまらなく成つて倉皇と遁げ去つた後へ一遍に來た春の光の中に彼は意識を恢復した。彼は寒さが骨に徹する其の夜のことを明瞭に頭に泛べて判斷するのには氣候の變化が餘りに急激であつた。彼は其の間人事不省の幾時間を經過した。
彼は與吉の無意識な告口から酷く悲しく果敢なくなつて後で獨で泣いた。憤怒の情を燃すのには彼は餘に彼れて居た。然し自分でも其の時、自分の身に變事の起らうとすることは毫も豫期して居なかつた。彼は圍爐裏の側で、夜の寧ろ冷い火にあたりながらふと氣が變つてついと庭へ出た。彼は何かゞ足に纏つたのを知つた。手に取つて見たらそれは荒繩であつた。彼はそれからどうしたのか明瞭に描いて見ようとするには頭腦が餘りにぼんやりと疲れて居た。
彼は勘次の庭に立つた。彼は荒繩が手に在つたことを心づいた時、の木の低い枝にそれを引掛けようとして投げた。彼の不自由な手は暗夜に其の目的を遂げさせなかつた。彼は幾度投げても徒勞であつた。身を切るやうな北風が田圃を渡つて、それを隔てようとする後の林をごうつと壓へては吹き落ちて、彼の手の運動を全く鈍くして畢つた。軈て後の林の梢から斜に雪が吹きおろして來た。卯平は少時躊躇しての木の根に其の疲れた身を倚せた。暫くして彼は雪が冷たく自分の懷に溶て不愉快に流れるのを知つた。彼はそれから身體が固まるやうに思ひながら、疎い白髮の梳られるのをも、微に感覺を有した。の聲が耳に遠く聞えて消滅するのを知つた。彼は遂にうと/\と成つて畢つた。更に數十分間其の儘に忘られて居たならば彼は其の時自分が欲したやうに冷たい骸から蘇生らなかつたかも知れなかつた。勘次の冴えた目が隙間から射す白い雪の光に欺かれておつぎを水汲みに出した。さうして卯平は救はれたのである。
「爺どうした、心持惡かねえか、はあ」とおつぎは卯平が周圍を見た時耳へ口を當てゝいつた。
「動かねえでろ爺、喰べてえ物でもねえか」おつぎは復た軟かにいつた。卯平は只點頭いた。
「おとつゝあ、そんでもちつた確乎してか」勘次は其の尾に跟いて聞いた。ほつと息をついたやうな容子は勘次の衷心からの悦びであつた。
「おとつゝあ、火傷は痛えけまあだ」勘次は直に後の言辭を續けた。
「枕はおつゝけらんねえな」卯平は軟かな目を蹙めるやうにした。
勘次はふいと駈け出して暫く經つて歸つて來た時には手に白い曝木綿の古新聞紙の切端に包んだのを持つて居た。彼はそれを四つに裂いて、醫者がしたやうに白い練藥を腿の上でガーゼへ塗つて、卯平の横頬へ貼つた曝木綿でぐる/\と卷いた。彼は與吉にさへ白い藥を惜しんで醫者から貰つた儘藏つて置いたのであつた。卯平は凝然として勘次の爲る儘に任せた。不器用な少し動けば轉け相な繃帶であつたが夫でも勘次の目には心丈夫であつた。彼は自分の恐怖を誘うた瘡痍が白い快よい布を以て掩ひ隱されたのと、自分の爲べき仕事を果し得たやうに感ぜられるのとで心が俄に輕くすが/\しくなつた。卯平もどうなることか確とは分らぬながら心の内では悦んだ。
勘次は又何處へか出た。彼は只心がそは/\として容易くは落つかなかつた。
軟かな春の光は情を含んだ目を瞬きしながら彼の狹い小屋をこまやかに萱や篠の隙間から覗いて卯平の裾にも偃つた。卯平は暫く目を瞑つた儘で居たが復たぱつちりと目を開いた。側にはおつぎが坐つて居た。
「おつう」と卯平は低い聲で喚んだ。
「何でえ」おつぎは又耳へ口を當てた。卯平は右の手を出して蒲團の上へ伸して
「熱ぼつてえから一枚とつてくんねえか」力ない縋るやうな聲でいつた。
「本當に暖く成つたんだよなあ日輪まで酷く眩ぽくなつたやうなんだよ」おつぎは例の少し甘えるやうな口吻で一枚の掛蒲團をとつた。
「此の蒲團は板ツ端見てえなんだよなあ、此れとつた方が爺は輕く成つてよかつぺなほんに、さう云つても暖くなるつちやえゝもんだよ、俺ら作日等見てえぢやどうすべと思つたつきや」おつぎは掛蒲團を四つにして卯平の裾へ置いた。
「彼岸過ぎて斯うだことつちや俺ら覺えてからだつで滅多にやねえこつたから此れから暖く成るばかしだな、麥も一日毎に腰引つ立たな」卯平は稍快よげにいつた。
「俺ら家の麥は今ん處ぢや村落でも惡かねえんだぞ、俺らそんだが先の頃ら畑耕あな厭だつけな本當に、おとつゝあにや深く耕へ、深く耕あねえぢや肥料したつて役にや立たねえからなんて怒られてなあ」
「うむ、畑や深くなくつちや收穫んねえものよそら、俺らあ壯の頃にや此間のやうに淺く耕あもんだた思あねえのがんだから、現在ぢやはあ、悉皆利口んなつてつから俺らがにや分んねえが」
「深く耕つちや逆旋毛立てる見てえで行りつけねえぢやなんぼ大儀えかよなあ、そんだが俺ら今ぢや、汝の方が俺れより深えつ位だなんておとつゝあにや云はれんのよ」
「大儀えにもよそら、そんでも汝りや能くやんな、以前は女に三年作らせちや畑は出來なくなるつちつた位だ」
「そつから俺ら幾らも耕えねえんだよ此の頃らそんでもさうだに大儀えた思はなくなつたがな俺らも」おつぎがいふのを卯平は又軟かに目を蹙めるやうにして聞きながら、輕く成つた掛蒲團を足の先で裾の方へこかして少し身動きをした。おつぎは其の時ちらと出した卯平の手を始めて氣がついたやうに
「爺は手も痛くしてんだつけな、そんぢや先刻藥貼つて貰あとこだつけな」おつぎは卯平の手先を手にして見た。
「こつちはそれ程だひどかねえやそんでもなあ」おつぎは安心したやうにそつと手を放した。
勘次は忙しげな容子をして歸つた。彼は蒲團を二三枚疊んだ儘帶で脊負つて來た。
「どうしてえおとつゝあ、昨夜はそんでも寒かなかつたつけゝえ」彼は荷物を卯平の裾の方へ卸して胸で結んだ帶を解きながらいつた。
「熱ぼつてえつて今蒲團一枚とつた處なんだよ」おつぎは横合からいつた。
「うむ、さうだ、此の蒲團は返さなくつちやなんねえから」勘次は獨語して
「どうしたおとつゝあ、藥貼つてちつたよかねえけ」彼は復白い曝木綿を見ていつた。
「うむ、枕おつゝかるやうに成つたからえゝこたえゝに」卯平のいふのを聞て勘次は幾らか矜を以て又白い木綿を見た。
「おとつゝあ、喫べてえ物でもねえけえ、俺ら明日川向さ行つて來べと思ふんだ」勘次はまだ幾らか心に蟠りがあるといふよりも、こそつぱい處が取れ切らないやうで然も力めて機嫌をとるやうな容子であつた。
「うむ」と卯平はいつて唾をぐつと嚥んだ。
「格別はあ、喫べてえつち物もねえが」彼の目には又改めて軟かな光を有つた。
「そんぢやおとつゝあ水飴でも買つて來てやつたらよかつぺな、與吉げ隱して置けば何でも有んめえな」おつぎは更に卯平を顧みて
「なあ爺、其の方がよかつぺ」といひ掛けた。卯平は其の蹙めるやうな目で微かに點頭いた。
「おとつゝあ、どうせ茶漬茶碗も要つから茶碗買つてそれさ水飴入えて繩で縛つて來う、さうすつとえゝや」
「さうでも何でもすびやな」
「それに、明日行つたら又藥貰つて來う、爺が手さも貼つてやんなくつちや仕やうねえぞ」
「俺ら云はんねえでも藥は氣ついてたのよ」勘次はおつぎのいふのを迎へて聞いた。彼の三尺帶には其の時もぎつと括つた塊があつた。其財布の僅な蓄へは此數日間にどれ程彼を救つたか知れなかつた。彼はまだ幾らかの日用品を求める餘力を有して居た。彼は開墾の賃錢を手にすることが出來ればといふ望みが十分にあつた。只彼は目下其の幾部分でも要求することが、自分の火が燒いた其の主人の家に對して迚も口にするだけの勇氣が起されなかつたのである。
二八
勘次は午餐過になつて復た外に出た。紛糾かつた心を持つて彼は少し俛首れつつ歩いた。暖かな光は畑の土の處々さらりと乾かし始めた。殊更がつかりしたやうにしをたれた櫟の枯葉もからからに成つた。凡ての樹木は勢づいて居た。村落の處々にはまだ少し舌を出し掛けたやうな白い辛夷が、俄にぽつと開いて蒼い空にほか/\と泛んで竹の梢を拔け出して居た。只蒿雀は冬も春も辨へぬやうに、暖かい日南から隱氣な竹の林を求めて低い小枝を渡つて下手な鳴きやうをして、さうして猶且日南へ出て土をぴよん/\と跳ねた。凡ての心は暖かな光の中に融けて畢はねばならなかつた。
勘次は依然として俛首れた儘遂に隣の主人の門を潜つた。燒趾は礎を止めて清潔に掻き拂はれてあつた。中央の大きかつた建物を失つて庭は喬木に圍まれて居る。赭く燒けた杉の木を控へてからりとした庭は、赤土の斷崖の底に沈んだやうに見える。蒼い空を限つて立つた喬木の梢が更に高く感ぜられた。勘次は怕ろしい異常な感じに壓せられた。隣の主人の家族は長屋門の一部に疊を敷いて假の住居を形づくつて居た。主人夫婦は勘次の目からは有繋に災厄の後の亂れた容子が少しも發見されなかつた。主人夫婦の曇らぬ顏が只管恐怖に囚へられた勘次の首を擡げしめた。殊に内儀さんの迎へて聞く態度が、彼のいひたかつた幾部分を漸くに打ち明けしめた。
「お内儀さん、こら運の惡い者な仕やうありあんせんね」彼は憐れに聲を投げ掛けた。彼の災厄の後にしみ/″\と斯ういふことを聞いてくれる者は内儀さんの外にはまだなかつたのである。
「そんだが此れお内儀さん等家からなんぞ見た日にや爪の垢だからわし等なんざ辛えも悲しいもねえ噺なんだが」彼は自分の不運を訴へるのに、自分一身のことより外は何物も其の心に往來しては居なかつた。彼はふと自分の火が燒いたことを思つた時、酷く自分のことのみをいつて畢つたのが濟まないやうな心持がしてならなかつた。
「まあ惜しいといへば紙一枚でも何だが、これ、家は直ぐにも建てれば建つんだが、樹が惜しいことをしたつて云つてるのさ、それだが此れもそんなことを云つたつて仕方がないがね」内儀さんは聳然と立ては居るが到底枯死すべき運命を持つて居る喬木の數本を端近に見上ていつた。遠く落ち掛けた日が劃然と其の梢に光つた。勘次の顏は蒼くなつてぐつたりと頭を垂れた。彼は暫く沈默を保つた。
「どうしたね、私も氣のつかないことをして居たが、お前も丸燒で仕やうあるまいが少しは錢でも持つて行くかね」内儀さんは勘次の心を推察したやうにいつた。
「へえ」勘次の首は更に俛れた。彼の目は潤んだ。
「わしもはあ、そんならなんぼ助るかも知れあんせんが、お内儀さん處ささう云つて來る譯にも行がねえで」と勘次は亂れた頭髮へ手を當てゝ媚びるやうな容子をしていつた。
「それだがお前にやる位ならどうにか成るから心配しなくつても好いよ」
「わしも此れ、罰當つたんでがせう、さう思ふより外有りあんせんから」勘次は暫く間を措いて
「わしも嚊こと因果見せて罪作つたの惡りいんでがせう」彼の聲は沈んだ。
「お内儀さん、わしどんな形にか家も建てなくつちやなんねえから、そん時や家族の極りもつけべと思つてんですが、お内儀さん又わしこと面倒見ておくんなせえ、わし等野郎も其内はあ大く成つて來つから學校もあとちつとにして百姓みつしら仕込むべと思つてんでがすがね」
「さうかえ」内儀さんは慰めるやうにいつた。
「お内儀さん親不孝だなんちな、親が警察へでも願つて出なけりや巡査ばかしぢやどうすることも出來ねえもんでござんせうかね」勘次は先刻からの噺の内にも何だか後から物に襲はれるやうな容子が止まなかつたが遂に斯ういつた。
「さうさね、巡査だつて無闇にどうかするといふこともないんだらうと思ふやうだがね」内儀さんは意外な面持でいつた。
「此れからはあ、わしも爺樣こと面倒見べと思ふんでがすがね、今ツからでもお内儀さん間合ねえこたありあんすめえね」
「さうだよ、老人なんていふものは少しの加減なんだから、まあ心配させないやうにした方が好いよ、さういつちや何だが後幾らも生きるんぢやなしねえ」
「へえさうでがすよ、昨日等ツからちつと柔え言辭掛けつとうるしがつて居んですから、それからわし野郎げ貰つて來た火傷の藥も貼つてやつたんでさ、藥足んなく成つちやつたから醫者樣さ行つて來べと思つたつけが、今日は午後で居めえと思ふから明日にすべと思つて止めたのせ、明日行つたら水飴でも買つて來てやれなんておつうも云ふもんでがすからね」
「火傷したなんて聞いたつけがそれでも家へ連れて來てかね」
「へえ」勘次は其の佛曉のことをどうしてか内儀さんがまだ知らぬらしいのでほつと息をついたが又自分から恥ぢて、簡單に瞹昧に斯ういつた。
「お内儀さん、こうちつとでもよくねえ錢へえつちや末始終はどうしてもえゝこたありあんすめえね」勘次は更にまた酷く懸念らしい容子をして突然に聞いた。
「さうさねえ」内儀さんは勘次の心持が明瞭とは分らないので氣の乘らぬやうにいつた。
「そんだがお内儀さんさうえ錢は自分のげ役に立てせえしなけりやどうしても違えあんすべえね」勘次は内儀さんに分つても分らなくても、そんなことを考へる餘裕がなかつた。彼は只自分の心配だけを底から蓋から打ち傾けて畢はねば堪へられなかつたのである。
「さうだが、それもどういふ筋の錢だか分らないがそりや使つちやいかないんだらうさね」
「そんぢやお内儀さん他人の錢なくしたのなんぞ發見けても知らねえ容子なんぞして、後で遣んな盜つた見てえで變な時や、何でかで落ことした丈の物でもやればそれでも違えあんすべね」勘次は少し自分のいふことの内容を打ち明けるやうにいつた。
「默つて居ればそれつ切なんだが」彼は獨喉の底でいつた。
「そりやそんなことしないで發見けた物なら其儘返すのが本當だよ」内儀さんは聲は低かつたがきつぱりいつた。勘次の惑うた心の底にはそれがびりゝと強く響いた。
「そんぢやお内儀さんそれ返して又其の外にも何とかしたら冥利の惡りいやうなことも有りあんすめえな」彼は情なげな目で内儀さんをちらりと見ていつた。
「そんなこた仕なくつたつて何もよかりさうなもんだね」内儀さんは勘次の餘りに懸念らしい容子に疾から心づいたことがあつた。内儀さんは暫く聞かなかつた彼の盜癖に思ひ至つた。然し彼が自分から甚だしく悔いつゝあるらしいのを心に確めて強ひては追求しようといふ念慮も起し得なかつた。勘次は只不便に見えた。内儀さんはふと思ひ出して少しばかりの銀貨を勘次の側へ竝べて
「そりやさうと、お前も家族の極りをつける積だつていふんだが、まあどうする積なんだね」と靜に聞いた。
「さうでござんすね」勘次はぐつたりと俛首れて言辭の尻が聞きとれぬ程であつた。深い憂が顏面の皺に強く刻んだ。
「わしも此れ……」と彼は微かにいつたのみで沈默を續けた。彼は内儀さんの前にどうしても述なければならないことに其心が惑亂した。彼はぽうつとして目が昏まうとした。遠く喚ぶやうで然も近い聲の爲に彼が我に返つた時
「それぢやお前、まあ此錢を藏つたらどうだね」と内儀さんが促したのであつた。衷心から困つたやうな彼に向つて内儀さんはもう追求する力を有なかつた。
「誠にどうもお内儀さん」彼は財布を帶から解いて出した時酷く減つて畢つたやうに感じて、其の財布を外から一寸見て首を傾けた。彼は又財布の底の錢を攫み出して見た。燒趾の灰から出て青銅のやうに變つた銅貨はぽつ/\と燒けた皮を殘して鮮かな地質が剥けて居た。彼はそれを目に近づけて暫く凝然と見入つた。彼は心づいた時俄に怖れたやうに内儀さんを顧つてじやらりと其の錢を財布の底へ落した。(完)