海野十三敗戦日記

海野十三




空襲都日記(一)



はしがき

 二週間ほど前より、帝都もかねて覚悟していたとおり「空襲される都」とはなった。
 米機B29の編隊は、三日にあげず何十機も頭上にきて、爆弾と焼夷弾の雨をふらせ、あるいは悠々と偵察して去る。
 味方の戦闘機の攻撃もはげしくなり、地上部隊の高射撃もだいぶんうまくなった。被害は今までのところ軽微である。
 これからさらに空襲は激化して行くであろう。そこで特に、この「空襲都日記」をこしらえ、後日の用のため、記録をとっておくことにした。
    昭和十九年十二月七日
海野 十三  


   これまでのことを簡単に

◯昭和十九年十一月一日に、米機の初空襲があった。少数機だった。偵察のためと思われた。(※マリアナ基地からのB29、東京を初偵察)
 一万メートルあたりを飛来、味方戦闘機が出動したが間に合わず、高射砲もさっぱり当たらなかった。敵機は悠々と退散した。白い飛行雲をうしろに引きながら。

◯こんなことになったのも、サイパン島をはじめテニアン島、大宮島(グアム島)が敵の手に渡ったためである。
 うわさによると、敵はB29を発出させるために、サイパン島の外まで埋め立て、滑走路を長くして、実施しているそうである。

◯アメリカの放送は「B29ではない」と言っている。しかし何という種類の機であるかは言わない。B32ではないかという説、PBXの一つではないかという説がある。それはB24の改良型で、長距離偵察用として試験製作中のものだという。とにかく、銀色の巨体に、四つの発動機をつけ、少なくとも三百ノットの速力で高々度を飛んで行く敵機であった。
 本格的な空襲は、昭和十九年の十一月二十四日から始まった。(※マリアナ基地からのB29約70機、東京を初爆撃)この日(欠字)に警報が出たが、間もなく空襲警報となった。敵の編隊は伊豆半島方面より侵入、なお後続部隊ありという東部軍管区情報は、今日の空襲が本格的であることを都民に知らせた。「東部軍管区情報」を都民が非常に期待するようになったのは、この日からだといっていい。
 高射砲が鳴りだし、待避の鐘が世田谷警察署の望楼から鳴りだした。英(ひで)(※海野夫人)や松ちゃん(※海野家のお手伝いさん)などがまだぐずぐずしているのを叱りつけるようにせきたてて防空壕内に入れる。
 この壕は、昭和十六年一月に一千円ばかり費やして作った。檜材のフレームを横に並べて、同じ檜材のボルトナットで締めた上、紙を巻いてアスファルトを塗り、これを何回かくりかえし、地中に埋めたもの。階段、二ヵ所の出入口、ハシゴ、床および腰掛け、換気孔などのととのったもので、今となっては得がたいもの。あのとき作っておいてよかったと思う。十四人ぐらいは大丈夫楽に入っていられる。
 皆を中へ入れ、私は入口の階段に腰をかけて、壕内より見える四分の一の空を注意し、かつラジオの出す警報その他や、敵の爆撃の音や、味方の機や砲の音、待避の鐘の音などを注意していることにした。壕内は暖いが、この階段のところはやや寒い。板も冷える。直接土に接しているためであろう。
 子供たちは待避中元気であり、わあわあさわいでいて、心配していた私は安心した。大家(※萩原喜一郎、隣家)さんの長男の亮嗣君(二年生)と二女のしょう子ちゃんも入ってくるので、皆は一層元気よくわあわあさわぐ。
 大人の方は「あ、待避の鐘が鳴った」とか「情報だ、静かになさい」とか「今聞こえる音は爆弾だろうか、味方の高射砲だろうか」などと、ちょっと表情を固くすることもあったが、それ以外はいろいろと雑談に花を咲かせて元気がよろしい。この分なら心配なしと、私は安心した次第。

 十一月二十四日来襲の敵機は七十機内外で、爆弾は七十発ぐらい、あとは焼夷弾だった。ねらったところの第一は、三鷹の中島飛行機工場らしく、二十発の爆弾と焼夷弾一発が命中した。建物十七、八棟が倒壊、死者二百名、傷者三百名ということだった。
 次の被害顕著なるところは荏原区であったが、これは前者にくらべるとたいしたことはない。しかし戸越公園とか、雪ケ谷か洗足だったかの発電所などに落ち、地上線が半分不通となった。
 そのほか川崎で石油のドラム缶が百二十個ぐらい燃えた由。
 また、荻窪、鷺宮附近にバラバラ落下弾があり、千葉県へも落ちた由。
 要するに被害の横綱は中島であったが、他は軽微だった。

 昭和十九年十二月十日
◯午後七時半ごろ、警報鳴る。晴夜だ。家族を壕へ入れる。敵は二機だ。帝都の西方(わが家は帝都西部に位置する(※東京都世田谷区若林町))より北方へ抜けたが、また引返してきた。珍しく高射砲が鳴りだした。
「壕へ入ってよかった」と誰かがいう。
 かなりたくさん発砲した。あとで情報は「一機に命中確実」と伝えた。「よかった」と寝床の中から、皆がいった。
 残る一機は南方へ去った。

 十二月十一日
◯萩原さんの防空壕は、大工さんが入り、棚なども吊った由。亮嗣君はいつもうちの壕へきていたのに、このごろこなくなった。
◯夜半、午前二時半ごろ警報出る。伊豆方面より敵一機北東侵入。一機のこと故、子供は起こさないでおき、家内の灯管(※灯火管制。夜間、敵機の来襲に備えて、灯りを遮ったり落としたりすこと)とラジオと壕の点灯だけを用意しておく。
 晴夜にして、既に十一日過ぎの三日月は東天にかかり、星はきらきらと天空に輝き、寒々としている。高射砲が鳴りだした。
 離室への廊下から東南の方を見ると、わが照空灯が十数条、大井町の上空と思われるところへ集まっており、それよりやや左にぱらぱらと火の粉のようなものが落下して行く。それは敵機の投下した焼夷弾だ。憎むべき敵と、ふんがいする。
 やがて音も光も消え、元のような深夜の空となった。本屋の寝床へ入って寝る。

 十二月十二日
◯毎夜のごとく敵機がくる。きまって一機または二機で、せいぜい二隊位だ。昨夜と今暁二度起こされた。癪にさわる。ねむい。寒い。二度目は家族は起こさず、自分だけで一応灯管を見て廻った。
 きょうは起きたが、身体が変調だ。敵はいわゆる神経戦と疲労戦とでやってくるものだろうが、たしかにそれは一応成功している。しかしこっちも考え直して、もっといい対策を講じ、アメリカの手にのらないようにしなければならぬ。とりあえず夜分の当直は私が引受け、そして早寝をすることにしよう。
◯二度の空襲とも、夢のなかで空襲を見ていた。初めのときは、敵が毒ガスをまいたところで目がさめた。その毒ガスがいっこうに私の呼吸を苦しくさせないので「ははあ、これは夢だわい」と、目をさましたのであった。二度目は、貨車一台ほどの油脂焼夷弾がこっちのビルヘ落ち、そこら中に火をふりまき、私はたぶん晴彦(※長男)を連れ、二人ともハダシゆえ近所へ長靴を借りに行ったところで、本もののプーが鳴り、目がさめた。
 私は神経がするどい方であり「警報を聞きのがしてはならぬ」と思って眠るので、こんな夢を見るのであろうが、ひとつ眠り方を変えなければならないと思う。
◯隣組の防火班長さん、なかなか実直な人で、うちの小路までいつでも「警報解除」を告げにきてくれる。この人も、二度目のときにはこなかった。寒いし、眠いし、それにたいしたことではないので、班長さんには無理をしてもらわぬ方がいい。

 十二月十三日
◯名古屋、清水あたりへ敵機来襲。「地上施設に損害を受けた」という発表があったので、心配している。この日は、帝都へは四、五機ぐらいであった。ねえや(※お手伝いさん)のお父さんがきていて、初めてこの招かざる客を見る。
 暁の三時に、また敵機一つ来る。毎夜つづけてくる。六日以来ずっとだ。夜の当番は、私がやることにした。敵もこず、警報だけ出て、寒さにぶるぶるふるえるだけで、おしまいだった、今晩は……。

 十二月十六日
◯珍らしく昨夜は米機きたらず、したがって起きずに済んだ。六日以来毎夜きていたものがこないと、ちょっと調子はずれの形。人間は環境になじむ性質が強いと感じた。
◯夜分起きるのは私一人と、当直をきめたが、まず少数機侵入のときはこれで十分だと思う。十五日の暁方の空襲のときは、西南西の林越しにちらちらと火が見えた。てっきり焼夷弾が落ちて、こっちに横流れに流れてくるものと思い、壕を出て垣根からのびあがって透かしてみたところ、焼夷弾にあらずして照明弾だった。それもかなりの遠方に見えた。
◯昼間、敵機の爆撃音がすごくなり、味方の高射砲もどんどん撃ちまくるとなれば、恐怖心もどこかへ吹っとんでしまって「おのれ、敵の奴め、味方よ、撃て撃て!」と敵愾心(てきがいしん)で身体中が火のように燃える。
◯良太(※甥)君の宿所附近二百メートルのところに爆弾一発落下し、畠に大きな穴をあけたが、附近の家に被害なく、ガラスも割れなかったという。畠はやわらかいから、爆発してもその爆風は土壌の圧縮によって相当のクッションになるらしい。
◯護国寺裏の町に爆弾が落ちて、壕内に入れておいた二歳と五歳の幼児が圧死し、母親は見張中であって助かった由。壕が家屋に近いことは不可。壕の屋根がしっかりしていないことは不可。
◯焼夷弾は左図のごとし。燃えるテープをひいている由。
(※カット「焼夷弾の図」入る。16-上段)
◯風呂屋は従来十六時より二十三時までの営業だったのが、近ごろは十五時から十八時までとなったため、大混雑の由。
 風呂屋はガラス張りの部分が大きく、夜の灯火管制がやれないためだというが、ひとくふうあってほしいものだ。
◯うちの便所灯がつけ放しで、裏の田中さんから注意を二回受ける。私の見廻りもよくないわけで、これからは、警報発令とともに消してまわることにした(電球をひねる)。
◯夜中にまた警報。起きてみたら雪であった。ハッと心配したことは、家屋から壕内へ引いてあるコードのことであった。第四種線がないので、コードを使ってある。しかしこれでは濡れるとすぐピリピリ感電するので、過日用心のため、その上にセロファンに糊のついたテープを巻き、さらにその上から油紙(といっても昔のものとは違い、あぶないものだ)を細く切って巻いておいた。果たしてこれでもつかどうかと案じ、さらにその上にエナメルを塗ることにした。エナメル塗はコードが垂直に垂れる部分しかやってなかったので、私はこの雪で心配したわけだ。しかしどうしようもないので、そのまま放っておいた。
 朝になってコードにさわって調べてみたら、案外ちゃんとしているので、安心した。そして早速残りの部分にエナメルを塗った。どうやらこれで当分は大丈夫のようである。

 十二月二十五日
◯昨夜はクリスマスの前夜だから、敵機はこないんじゃないかと思っていたところ、午前二時半になってちゃんとやってきた。しかも三回やってきて廷べ四機。五時四十分にようやく警報解除となる。一回は南方に焼夷弾を落としていった。敵の戦意も相当のものじゃ。
◯夜間の空襲はせいぜい一時間でケリがついたのが、一昨日から敵は三回つづけてきて三時間半ばかりを稼いで行くので、こっちはまた眠り方の変更をしなければならなくなった。
 昨夜は原稿を書き了えて床に入ったのが十時過ぎ。どうせ敵はくるだろうと、そのままの服装で寝る。きたのが午前二時半。服装の関係で、起きるのは楽だ。敵機去り、警報の解けたのが午前五時四十分。もう朝の放送は始まっており、空が東よりの半分だけ白んでいた。そのまま防空壕で眠る。寝苦しくて、身体が痛い。あっちこっち寝返りを打っているうちに、英が起こしにきた。「もう十時を過ぎましたよ」と上から声がかかる。いつの間にか四時間ほど眠ったわけだった。壕から外へ出ると、ぶるぶるっと寒い。
田口※三郎氏のB29の爆音聞き分け方の放送が始まり、つづいている。難解だ。普通の人には、あれではわかるまい。述べ方に工夫がほしい。日本の学者というと、なぜこのように人に伝授の仕方が拙いのだろう。飛行士の養成に手間どり、生産増大の出来ないのも、皆こんなところに大きな原因がひそんでいるのだと思う。
 私の場合は、放送を聞いているうちに少しずつわかってくるような気がするが、要するに説明はまずい。いい放送なんだが、惜しいことだ。
◯防空壕の中の夢で、敵機から焼夷弾を投下されるところをみている。ばかな話だ。
◯目下の私の服装は次(※底本では「次」は「下」)図のごとし。
(※カット「服装の図」入る。17-下段)

 十二月二十七日
◯一昨夜と昨夜とは敵機の来襲もなく、珍らしいことであった。おかげで暖かく寝られた。その後放送で初めて知ったが、二十五日夜八時にサイパン島へわが航空隊が突撃した由なり。そのために相手はこられなくなったわけ。私達はいい気持で寝、代りに勇士たちが死地にとび込み、そのうちの何人かは散華する。貴い代償だ。一夜の暖睡の貴さよ。眠っていては相済まぬ。いや眠らせて頂いて、起きたら散華の勇士たちの成仏せられるよう働かねばなるまい。
◯きょう二十七日、果して敵機はやってきた。こないだの二十五日のクリスマスの晩を滅茶々々にしてやったお返しであろう。アメリカ兵ときたら、いつでもこのお返しをするのが習慣だ。こちらとしては二十六日の開院式(※第八十六通常議会)のこともあり、ちと気の毒ではあるが叩かずにはいられなかったのだ。それをハラを立てるとは何ごとだ――といったところで、この理屈が相手にわかる筈はなし。
◯きょうの空襲は、先頭編隊が静岡県に入り、それから西進し、名古屋方面を襲うかのごとく見せておいて、急に反転して東進を開始し、京浜地区に侵入した。まず例によって荻窪の飛行機工場のあたりへ投弾した。いったん西進し、反転東へ向かって帝都を襲撃するという一つの戦法を取ったつもりであろうが、こっちでは油断なく、いつでもいらっしゃいであるからすこしもおどろかぬ。
◯実際に「西進」と聞いた私は、原稿を書きだした。すると「反転東進」の情報が入り、しかも数編隊ありということなので、これはこっちへくるなと思い、表の八畳に腎臓病で寝ている昌彦(※三男)を防空壕に入れるよう家人へ注意したのであった。
◯ねえやのお父さん、この前も昼空襲を体験、きょうもまた体験、病治って戻ってきたよねちゃんは初の体験、どうかなあと気をつけて観察していたが、やっぱり落着いているので安心する。
◯きょうも敵の一機がひどく煙をひいて、編隊に遅れたばかりか、ついに東南方向に水平錐もみにはいったのをみて、大いにうれしかった。近ごろにないうれしさであった。下の町でもどっと歓声があがる。うちの壕からも、子供や大人がみんな飛びだして、わあわあと大喜び。それからあと、もっと敵機がこないかと待ち遠しく感じた。
◯その編隊の二番機も薄いながら煙を曳いていた。煙曳き機は二機見た。
◯爆煙か火災の煙か知れないが、荻窪と中野の方にあがっていたが、まもなく薄れた。
◯七時の大本営発表「五十機来襲、十四機撃墜(内不確実五機)、損害を与えたるもの二十七機、わが損害四機(体当たり二機を含む)」相当の戦果だ。
◯きょう空襲中の情報に「相当戦果をあげている。なお戦果拡大中」とあって、大いに都民の士気があがった。

  錐もみて墜つる敵機や暮の空
  錐もみの敵機に沸くや暮の町
  敵一機錐もみに入る空の寒さ
  墜ちかかる敵機の翼に冬日哉
  錐もみの敵機に凍土解けにけり
  錐もみの敵機や冬日うららかや

◯いつも夜中、警報中に「おい、灯(あ)かりついとるぞ!」「灯かり消せ!」とどなり立てている丘の下の町に、きょうはどっと歓声があがるのを聞いた。いつも怒鳴っていた人も、どなられた人も、ともに声を合わせて万歳を叫んでいた。

  墜ちかかる敵機は冬陽を散らしけり
     〃   の翼に冬陽散る
     〃   の撥ねし冬陽哉

 十二月二十八日
◯きょう午後一時半ごろ、高射砲音轟く。外へ出てみると、一機北方の空に西から東へ雲を曳いている。眼鏡でみれば、まさしく敵機なり。ただし警報出でず。
 あとで言訳のような東部軍管区情報が出る。
◯午後三時十五分、珍らしく警報が出、ついで空襲警報となる。朝から高橋先生が来ておられ、また江口詩人氏が原稿料(「日章旗」創刊号の)を持ってきてくださったので、何はともあれ防空壕へと裏へ御案内し、はいっていただく。この日敵機三編隊計九機位が関東北部をうろうろしていて、帝都へはなかなか近よらず。そのうちに情報が出て「敵機は依然として、関東北部を旋廻中なり。薄暮時期帝都に侵入のおそれあり、警戒を要す」とのべた。さあ松ちゃんが驚いて「敵百五十機が関東北部で廻っていて、こっちへ入ってくる」とあわてふためく。こっちは訳がわからず、いろいろ問答しているうちに「薄暮時期」が「百五十機」と聞こえたとわかり、大笑いとなった。
 しかし後刻、萩原さん(隣家)のおじいさんが野菜をもってきてくれたとき「いま百五十機くるってね」と話しかけられて、おやおやここにも早呑込みがいると驚いたが、なるほど「薄暮時期」と「百五十機」とは言葉が似ており、間違えるのは無理ない。このぶんではずいぶんあちこちで間違えることと思う。情報はもっとやさしくすべきである。いつも小むずかしくいう軍人の頭の具合にも困ったものである。目で見る字と、耳から聞く言葉とに大きな隔たりがあることぐらい、わかっていさそうなもの、大衆相手の情報なんだから、大衆向きにして出すよう考えるのが当然だ。と思う識者はいないのか、識者がいても自分の責任範囲外のときは言わないのか。長年言い古され、すでにうるさいほど指摘された官軍民一体化総蹶起(そうけっき)のガンはここにあると言わざるを得ない。

 十二月二十九日
◯きのう岡東(おかとう)(※岡東浩。海野の神戸一中時代の友人。三菱商事勤務。麻布に居住)夫人がきて、「さっき警報発令前に、麻布十番へ焼夷弾が落ちた」と話して行った。きょう博文館の新青年女史がきて「あれは十番のカーブを電車が急に通った時に高音を発し、それが警防団員の耳に焼夷弾が落ちたように響いたものです」と訂正した。時節柄、神経過敏の度もいよいよきつくなってきた。
◯うちの女房も、情報が「少数機」と言ったのを「五十機」と聞き違えた。きのうのきょうだから、おかしい。
◯「帝都住宅の地下室化」を提唱す。つまり敵弾で遅かれ早かれ焼かれてしまうであろうから、焼けるのを待つよりいっそのこと、その前に自分の手で破壊し、その資材を利用して少数間を有する地下室をつくれというのである。投書の形にして毎日新聞文化部の久住氏へ送る。(なおこの際思いきって生活の簡素化をはかれとも記した)

 十二月三十一日
◯一昨夜、敵三回目の空襲には油断があったらしく、両国、柳橋辺がちょっと燃えた模様。
 もっとも、あのときは前に警報解除が出、それに情報を加えて「まだ一目標あり、警戒中」と警報したのを、警報解除に安心しすぎて寝てしまったらしく思われる。「正確なる判断」が要望される。
◯昨夜は珍しく敵機来らず。たぶんいつものように十時ごろに一回、一時ごろに第二回目、第三回は三時ごろくると思っていたのに、一回もこなかった。わが航空隊がサイパンへなぐり込みをかけた故か。それとも敵の方で歳末新年は生活に忙しいせいか。
 私は壕に寝て、暁を迎えた。壕に寝るは寒く、身体が痛い。暁前の寒さがひとしおこたえる。目下下痢気味なのは、あるいは壕で冷えたせいか。
◯酒の特配に喜びなし。酒を呑まないためだ。煙草の特配に喜びなし、煙草は吸わないためだ。正月がくるというのに、一体何の喜びがあると身辺をふりかえったのに、三つの喜びがあった。一つは去る二十七日の敵機錐もみ撃墜のこと、第二は敵米英、ことに米の生産補充陣が大消費に喘ぎだしたというニュースしきりなること、第三に家族一同無事なること。

 一月一日(昭和二十年)
◯「一月ではない、十三月のような気がする」とうまいことをいった人がある。
◯昨大みそか夜も三回の来襲。皆一機宛。しかも警報の出がおそく、壕まで出るか出ないかに焼夷弾投下、高射砲うなる。

  敵機なお頭上に在りて年明くる
  ちらちらと敵弾燃えて年明くる
  焼夷弾ひりし敵機や月凍る

◯伊東福二郎君来宅。去る二十七日の空襲に、彼の家の三軒隣りの前の五間道路に、敵爆弾が落ちたとのこと。両側の家の一方は模型飛行機店で店だけこわれ、他方の家は半分吹きよじれた。人の損害は、前の防空壕に一方より圧力がかかって壕がくずれ、上からは土砂が落ち、赤ちゃん一名圧死。
 道路をつきぬけて破裂した敵弾は、径十センチばかりの水道鉄管をふきあげ、それが路上に電柱の如く突っ立ち、あたりは水にて池の如し、という。また三千ボルトの高圧線切断し、そのスパークが、瓦斯管の破損個所から出る瓦斯に引火して燃え出した。
 伊東君の家の南側ガラス(爆弾は南側におちた)は全部こわれたが、紙を貼って置いたので、粉々にはならなかったが、やっぱりとび散った。二階のガラスは大丈夫とのこと。
 半ねじれの家では七十の老人が、いったん壕に入りながら貴重品を思い出して家にもどり、その途端やられた。しかし落ちた屋根も、縁側が下におち、老人の身体をその間にはさんだので助かったという。
 ラジオ受信機は、断線個所が多かった。やわらかい土地だから、地震のように震動がつよかったためだろう。
 附近では爆弾破裂の音を聞いた人が殆んどなく、しゅるしゅるという音だけは聞いたそうな。近いところでは案外音がしないという話があるが、それに適中する。
 近所の人もわりあい落着いている由。この際引越しても輸送がうまく行かないこと、敵弾に当たれば運が悪いとあきらめようという気持、自分のところは大丈夫だという気持などがプラスに動いているらしい。
 附近に四発落ちた。荻窪の中島工場(まだほとんど無傷)を狙ったそれ弾か、荻窪駅を狙ったのか、それとも桃井第二国民学校を狙ったのか、それが分らないとのこと。
 とにかく伊東君一家の安泰を祈るや切なるものがある。
◯練馬では、一度掘れた爆弾孔を埋めたのに、後ほど又同じところに落弾し穴を明けた。もう埋める気がしなくなったそうな。

 一月四日
◯一日、二日、三日の夜は空襲なく、おかげでゆっくり眠れた。しかし三日は名古屋方面に九十数機の来襲あり、また四日は台湾、沖縄へ艦載機延べ五百機来襲。
◯サイパンを爆砕したというのに、敵機はその直後にとび立って、九十数機で堂々とやって来るのだ。台湾や琉球へも敵の機動部隊が近づき空襲をかける。こっちの機なきをすっかり知って、なめている態度がよく分る。しかし事実ゆえ仕方がない。忍耐精励、時を待つしかない。

  気にしまいとすれどもきょうの吹雪かな

◯「富士」編輯局(へんしゅうきょく)の木村健一氏が来宅。去る十二月十二日夜、雑司ケ谷墓地附近へ敵機が投弾して火災が生じたが、そのとき木村氏は用があって附近を通行中だった。身は焼夷弾の海の中におかれたため、大奮闘し、焼夷弾の処置や、火災を起こしかけた墓茶屋の消火に従事し、それより急を防護本部に知らせるなど大活躍した。仲々の殊勲であり、又貴重なる体験である。彼の談話の中から重要な点をあげてみると――
◯焼夷弾(油脂)はたしかに座金の方を手袋のままつかむことが出来る。
◯いやによく火は燃え、手袋についたり衣服についたりするが、ワセリンみたいな油が燃えているだけで熱くはない。もみ消せば消える。水では駄目。
◯靴で踏み消せば靴がだめになる。火叩きは有効。
◯落ちた瞬間、あたりは火の海となる。そのとき呆然自失してはいけない。
◯火事になりそうなものを早く消し、道路上のものは放っておくがよい。
◯漏光があったのを、敵が投弾目標にしたことは明白。
◯手を負傷した者まで担架で運ぶのはどうかと思う。
◯カンフルばかり医師はうつ。
◯焼夷弾の座金に直撃されて負傷した者が続出した。自分は幸いに助かった。(コンクリート塀のうしろにかくれた為、あとで考えるとこれがよかった)
◯墓地だけに八十発おちていた。
◯焼夷弾のカゴの大座金は、厚さ二センチ位の大きい丸盆の大きさ。二階から屋根をぬいて階下におち、あるいは平屋(ひらや)の屋根を通って床下にまで落ちる力があるという。
◯火がピラピラ見えているうちに、実弾の方はすでに下に落ち、ぱあっと発火する。
◯時限装置らしきものも落ちていた。
     ※
◯昨夜吉岡専造(※朝日新聞社カメラマン。一九四二(昭和十七)年に海野が海軍報道班員として従軍した際、共にラバウルに)君が来てくれ快談中、第二の珍客山田誠君が来宅。その山田君の家は玉川等々力(とどろき)。この前の投弾のとき、山田君の隣組だけは投弾なく、周囲の全隣組に落下した由。
◯二軒建の家の一方では八発の焼夷弾と戦い、やっと消したと思うと、隣りの家に落ちたものが燃えさかり、戸棚よりぷうっと火をふき出して燃えてしまったという。
 隣家では細君と子供が、押入内に入っていて落弾に注意を払わなかった由。
◯毎夜八十戸だ、二百戸だと焼ける。
◯中島工場は356、宮城は57の地図を、敵が用意している。
◯昨一月三日の名古屋の空襲に、市内はかなり焼けた由。敵はいよいよ本性をあらわし、焼払い投弾の挙に出てきたと伝えられるが、果してそうか。
◯雑司ケ谷の場合、家人が電灯をつけはなしで風呂へ行ったため、警報が出ても消す人がなく、戸口には錠が下りている。これが目標になったという。

 一月五日
◯名古屋を去る三日に爆撃した敵機は、わが空軍に行手をさえぎられた結果、目標へ直進できず、そのため爆弾と焼夷弾を市街に投下し、二千戸を焼いたという。
◯B29の爆音が放送されたが、実物とちがう事甚だしく、参考にするには骨が折れる。

 一月八日
◯去ル五日ニ気ガ附イタコトデアルガ、イツノ間ニカ左眼ガワルクナッテイルノダ。黒点ガ見エ、強イ光デ網膜ガヤケタトキノ感ジガアリ、且ツチラチラト電線ノ雑音ミタイナモノガ盛ンニ動クノデアル。
 ソウイエバ昨年ノ暮空襲デクライ外ヘ出タトキ、左ノ眼ガイヤニ暗イ感ジガシタシ、マタ室ニイテモ変デ、左ノマツ毛に目ヤニデモツイテイルノデハナイカト気ニシタ事ガアッタガ、ソノコロカラ悪カッタラシイ。厄介ナコトデアル。併シ目ハワルクトモ戦ウゾ。
◯敵機は、昨日はとうとう来なかった。一昨日もその前も、午後九時頃に来て、次は暁の五時過ぎに来た。前のように午前一、二時頃にこなくなった。これでこの頃、だいぶ身体が楽をしている。

 一月九日
◯「読売報知」へ投稿の「軍情報と数字」がきょう掲載された。
◯敵機は昨夜も来なかった。どうしたのだろうか。こっちはよく寝られてよかったが、敵の様子が気にかかる。
◯午後一時四十分、警戒警報発令。久し振りに昼間の空襲となる。
 四編隊のほかに一又は二機の別動隊がある。そのうちに後続の数機は中部軍管区へ入る。情報が出て間もなくプーと鳴って、空襲警報解除となる。「あれ、もう解除か。あっさりした空襲だな」と壕を出る。ようやくこんな気持のところまで来た。空襲始まりのあの頃とはたいした変りようだ。
◯東北東の空中に、敵機群から白いものが落ちはじめた。敵機の燃料タンクか、味方の戦闘機かとひやひやする。わからず、そのうちに見ている双眼鏡の中に一機もえて真紅になっておちるのがある。前見た戦闘機かとひやっとしたが、かなり形が大きいので、敵機とも見えた。どうぞ敵機であるようにと祈る。
◯後刻、陽子(※次女)が学校(山脇高女)より帰って来て、真赤になって敵機が落ちた事、それが途中で空中分解してばらばらになった事を話す。私が「本当にあれは敵機か」と真剣に訊けば、陽子「だってずいぶん大きい飛行機だったんですもの」「そうか、よし、よし」と、私は大機嫌であった。
◯眼疾あるために、空を見れば一面に水玉があらわれ、また視力も落ちていて(おまけにややミストあり)今日ははっきり味方機の活動を見る事が出来なくて残念だった。
◯昌彦(※三男、病臥中)に初めて敵機(二機)を見せる。よろこんでおった。
◯この日敵機が関東北部へ向かったというので、さては小泉、太田の中島飛行機工場へ行ったかと舌打ちしたが、そのうちに敵機隊は南下を開始した。爆弾は関東北部で落として来たのか、それとも帝都へ落としたのか、詳(つまびら)かならず。
◯防空に立つと小便がちかい。冷えてぼうこうカタルを起こしつつあるのか、それとも……。

 一月十一日
◯昨夜と今晩の二回の敵空襲では、ちょうど我家上空を飛んだ。今までにないことである。しかも両回とも同じコースを通った。
 この日高射砲を盛んに射ったが、多くは後過ぎて駄目。たいへん冷える夜だった。敵機が照空灯につきさされながらも、わが砲弾と六百万都民を尻目に悠々と帰って行くので、さらに寒さを感ずる。夜間戦闘機の武勲もほとんど新聞に出ない。

 一月十二日
◯昨夜モ敵三回来襲ス、薄雪アリ冷雨時ニ落チ冷エ込ムコト甚シ、遠方ニ男女ノ警防団員ノ声ス、皇土ヲ護ル当代ノ人々ナリ、感涙ヲ禁ジ得ズ。
◯今日慶大病院眼科ノ桑原博士ノ診察ヲ受ケタリ Augiospasmus retinae なる由。当分手当ヲ受ケルコトトナリタリ。ナオルヤナオラヌヤ今後ノ観測ニ俟ツ外ナキラシイ。「頭ヲ使ウナ、精神ノ安静ハ薬以上ニ効果アリ」ト言ワル、頭脳稼業ノ吾等ニハ痛イコトナリ。

 一月十四日
◯敵機、一昨夜も昨夜も来ず。どうしやがったろう。

 一月十九日
◯敵機昨夜も帝都に来らず、どうしたかと思っていたところ、放送によると昨日来阪神へ三回も来、今暁も来たし、朝九時頃も来た由。続いて午後になってB29、八十機が阪神初空襲を行なう。その前に関東と名古屋方面へ少数機で牽制して、それから入る。いくら牽制しても阪神へ入ることは見え透いている。
 帝都、名古屋の前例に鑑み、阪神の重要工場は疎開を完了していたかどうか。川西航空機は如何? 神戸製鋼は如何?
◯一昨日、永田(※長女、朝子の婿の永田徹郎海軍大尉)の新世帯のある八日市場へ行き泊った。十八日帰った。
◯祖母、伊予より十八日突然帰る。

 一月二十六日
◯眼が悪くなってから、書くことがかなりの大仕事となり、書けなくなった。
◯空襲は名古屋、阪神方面に移行し、このところ東京は昼も夜も警報から遠のいている。おかげで夜も温く寝られるわけで、今のうちに過日来の疲労をとりかえして置かねばならぬ。

 二月三日
◯今夜、節分なり。晴彦と暢彦(※次男)に年男をやらせる。元気で二人声を揃えて、「敵撃滅、鬼は外」とやり、ぱらぱらと大豆をまく。
◯敵機、この頃東京襲撃がとかくとぎれ勝ちなり。昼間の大空襲も停頓しているらしい。何か変化を見せるな。何でも出してこい。
◯目下敵アメリカの発表せる損害は七十何万。これは動員兵員の六分四厘。前大戦でアメリカは八分の損害を出している。今次の戦域は前のそれに比べて東西両域にわたり、激闘の程度も比較にならぬ程ひどい。故に前記の数字は出鱈目(でたらめ)で、多分百二十万か百三十万はいかれているのだろう。来れ来れ。いくらでもやっつけてやるぞ。そうすれば、こっちが紐育(ニューヨーク)へ進軍するときは非常に楽になる。


 二月五日
◯空襲ハ昨四日、九十機ヲ以テ神戸ニ、十五機ヲ以テ三重県ニ行ナイシト。埠頭ヲ狙イ、南西部市街等ニ火災起リシ由ナリ。


 二月十日
◯本日は朝から敵機がちょろちょろ入って来ると思ったら、二時頃から九十機来襲、ただし帝都をぬけて関東北部へ行って投弾した。
「我方地上施設ニ若干ノ損害アリ」との大本営発表である。たぶん太田、小泉等の中島飛行機製作所がやられたのであろう。
 あそこがやられるであろうことは、前々から分っていた。また数日前も敵機がきょうと同じコースで二度も入って来ている。熊谷の陸軍特攻隊も手ぐすねひいていた筈。むざむざやられるようなことはあるまいと思うが、「若干ノ損害」とは気になる。
 また一方に於いて疎開もやっていたはずだから、うまく行けば案外建物をこわしたに止まるやも知れず、いくら神経ののろくさい軍官民の指導者たちも、今度はちゃんとやっておいてくれたろうと思うが、さあ信用はまだまだ致しかねるをいかにせんや。
◯戦果発表「十五機撃墜す」――十一日午後三時。


 二月十一日
◯荻窪や京浜街道附近の友人たちが移転を希望し、世田谷に望みを持って、家を探してくれと頼んで来るのが多い。まことに尤(もっとも)もなことである。しかし世田谷はなかなか家が手に入らない。誰しも安全地帯と思っているせいであろう。
 が、昨日今日、二軒ばかり明きそう。一軒はもう敷金と家賃を払込んで置いた。二十五円という安い家だ。しかし「早く見に来なさい」と知らせて置いた友人はいっこう来らず、今度は入り手ありやと心配する立場となっている。

 二月十二日
◯慶応病院へ行く途中、省線(※JRとなった国電の旧称)千駄ケ谷駅へ電車がついたとき警報が出る。一機来たらしい。この敵機、わが制空機部隊によって撃墜され、銚子の向こうの海へ落ちたと発表あり、みんなうれしがる。一機来て、こうはっきり墜としたのは、これが最初である。
 午後七時頃、敵一機来襲。西からきて帝都を東にぬけ、関東を旋廻して東方へ去る。朝方の味方機の消息を調べに来たのであろう。
◯徹ちゃん(※娘婿の永田徹郎海軍大尉)転勤の由。今の香取航空基地より、鹿児島県下の辺ピなところへ行くことになったという。

 二月十三日
◯徹ちゃん、香取航空基地より親子を連れて、寸暇に顔を出してくれる。十五日はいよいよ九州へ飛行機で出発とのこと。十一時頃来て、二時半頃戻って行く。多分国分か鹿児島らしいという。

 二月十五日
◯敵B29、六十機名古屋地区へ主力を、また三重県の宇治山田、浜松、静岡へも分力を以て来襲す。
 東京へは七十三機ばかり来た。横浜方面と思われる方向で、えらい音がして地面がふるえた。(戸塚区へ投弾した事が、あとで分った)
◯戦果、十七機に損害を与う。わが方一機未帰還。

 二月十六日
◯艦載機延べ一千機で関東、東海地区へ来襲。
戦闘機 F4Fワイルドキャット

1500P

最大SP
500km
1500―
1800km
13mm機銃

戦闘機 F6Fヘルキャット

2000H

600km
1850km
13×3

戦闘機 F4Vコルセア

2000K

500km
13×2
 逆カモメ型W

軽爆機 SBD3ダイドントレス

 複


1500
7×2
13×2
450kg

軽爆機 SB24カーチスヘルダイバー

450km
1450

軽爆機 PBFグラマン・アベンジャー

2名
or
4名

440km
13×3
600kg
1ton
 胴太


◯朝七時、まだ寝床にいたとき、警報鳴りひびく。この早さに、さてはと思う間もなく、東部軍管区情報が出て「敵小型機約五十機、南方より本土へ近接中」と伝えた。いよいよ敵機動部隊来ると、はね起きて万端を指図す。敵機はすぐには帝都へ来らず、主として房総方面の飛行部隊や軍事施設を攻撃し始めた。子供たちは敵機を見たというが、私は遂に見ずじまい。
 午後五時迄に四度空襲警報が出て、四度とけた。しかし警戒警報は夜に入るもとけず。
 帝都に入ったのは三、四編隊にすぎなかったが、わが地上火器は盛んに射った。あんなに射って弾丸がなくなりはしまいかと思う位に。
◯情報で伝えられた編隊の数は約三十であった。それで五百機位とにらんだが、発表は一千機内外ということであった。
◯房総、ヨコスカ、茨城の飛行場や軍事施設に対しては相当長時間攻撃した。本土上陸の企図か? 小笠原のどこかへ上陸の前提か?
◯発表によると敵機動部隊は十数隻の空母によるものといわれる。なお戦艦、空母を含む三十数隻の敵艦隊は硫黄島を攻撃中。
◯敵はビラをまいた。(茨城地区に)大東亜戦争に於いて最初。
◯放送は「明日も敵襲あるべし。敵機はふえるであろう」とのべる。
◯防空総本部、宮地直邦放送。

・米は、欧州戦の当初焼夷弾を5%使ったが、今は60%位使っている。ドイツの工業都市の破壊は、爆弾によるに非ずして、焼夷弾による火災のためである。(テルミット)
・火焔噴射弾。
・時限爆弾。(数時間乃至数分後に爆発)
・大型焼夷弾。(炸薬も相当入っている)

◯徹ちゃんはどうしているか? まだ健在ならば、今夜は勇躍、敵機動部隊へ突込むだろう。飛行機が焼かれていれば口惜しいだろう。武運長久を祈ってやまぬ。朝子(※長女、永田徹郎海軍大尉夫人)も気が気であるまい。
◯運通省通告。しばらく東京及ヨコハマ着の切符発売停止(軍の者をのぞく)また京浜通過者の切符も同様なり。省線電車も売らぬ。今夜は省線電車は十時半にて終業し、約一時間半くりあげる。
高粱(コーリャン)の入りし米ながら、漸く今日配給となる。(十二日のものが十六日におくれた)
◯明日も一千機来るか、今度は都市攻撃をやりはせぬか――と予想する気持は、あまりいいものでない。さりながら実際に会うと、「なんだこれ位か」と期待外れがするもの、そして慣れて行くものである。東京は広い。なかなか命中とか、焼尽しとはならない。命中して一家散華すれば、これ仏の慈悲だと思うのである。生命あるかぎりは、敵と戦い、敵の攻撃を無効にし、そして敵を倒さん。

  敵千機大西風に吹かれけり
  敵千機大西風を喫しけり
  敵千機大西風の味如何

 二月十七日
◯昨夜は敵機来襲はなかったが、暁が来ると、判を押したように午前七時警戒警報となり、敵小型機二十数機の房総半島侵入を報ず。けさは昨日よりやや落着いて、冷水摩擦を始めていたら空襲警報となる。身心をすがすがしくして、神棚を仰いで祈念す。徹郎君を始め、富藤順大尉、武田光雄大尉等の武運長久を祈願す。
 折から朝は赤飯そっくりの高粱入り飯なり。「これは芽出度いぞ」と思わず声が出る。
◯敵襲は昨日同様、烈化す。今日は京浜地区に侵入する編隊がふえた。東京見物を土産にするつもりか、それとも茨城千葉等の飛行場や軍事施設を攻撃完了というのか。
◯すさまじい空戦の音、地上火器の入り乱れる音、それにまじってどこかの群の喊声が聞こえる。爆弾らしい地響きもちょいちょいした。消防サイレンも聞こえる。
 私は目が悪い上に、今日は快晴で小さい戦闘機を見分けにくいため、一機も敵機の姿をしかと認めなかった。ただ音響ばかりは、いやというほど耳にした。
◯午後一時半を過ぎると敵襲は下火になった。昨日敵は三時迄休んだようである。三時を過ぎたが敵勢進攻の模様見えず、午後四時すこし前に警報が解ける。今日は前触れだけで終了したわけだ。
◯敵の機動部隊は逃げたらしいが、戦果はどうなのか。
◯英、一生懸命防空頭巾を縫う。盗人を捕えて縄をなうの類なり。そして造って見て、自分がかぶるのかと思うと、気が変わって誰かにゆずってしまう。主婦はどこでもそういうものらしい。
◯放送によれば、「昨日の撃墜戦果は百四十七機、損害五十機以上。大型艦一隻撃沈、わが自爆未帰還機六十一機」なりという。
◯世田谷代田へ敵機が墜ちて行くのを近所の人はほとんど皆見ている。うちは林の中ゆえ、見えなかった。
◯盛んに横穴を掘れと宣伝す。
◯午後六時二十分の大本営発表が、硫黄島戦を報ず。「昨日来、敵は上陸意図をあらわし、戦艦五隻、巡洋艦六隻、輸送船等多数あり。これに対してわれは攻撃を加え、戦艦一隻轟沈、巡洋艦二隻、船型未詳二隻、撃沈ほかの戦果をあげたり」徹郎君はこの方へ出かけたもののように思われる。武運を祈るや切なり、徹郎君しっかり、しっかり。

 二月十八日
◯昨夜来B29の侵入、一機宛だが四回も来た。けさは果して艦載機の来襲がなく、八時五十分頃まで朝寝をした。
◯朝子、突然リュックを肩に庭の方から入ってくる。英、まず愕(おどろ)き、大声をあげる。茶の間にいた陽子と私とは縁側へ駈出した。
◯まず徹ちゃんのことを聞いたが、徹ちゃんは十七日(昨日)飛行機で九州へ出発した由。隊の兵曹が昨夜電話をかけてくれたそうだ。まずは安心する。
◯朝子はけさ五時頃出て列車にのったが、千葉で降ろされるという話が、千葉まで来ると両国まで行くことになったのだという。これもよかった、早く事情が分って安心した。
◯戦果三種発表。あの比島沖での攻撃の外、硫黄島沖の戦果大いにあがる。また昨日の敵艦載機撃墜百一機と発表、またその前の十六日の撃墜にも二十数機追加あり、結果約三百機の敵機をやっつけ、敵の手持の千二百機の四分の一を倒したことになる。
◯運通省の列車と省線電車の制限は、本日より撤廃され、また小包の制限も同じく撤廃。ラジオで一般へ通告された。
◯この夜は静かで楽しい団欒(だんらん)。茶の間では昌彦以外の子供四人とねえや二人が朝子を囲み、八畳では英と養母とに昌彦も加わって、話に花が咲いているらしい。私はこれから募兵紙芝居の執筆にかかろうかと思いながらコタツのぬくもりに少しとろとろしかかっているところ。時計が七時を打った。

 二月十九日
◯午後二時四十五分、突然B29、百機の帝都来襲となった。私にとっては少々不意打だ。家人はわりあいのんびり構えている。先日の艦載機千機の来襲で、千機という新記録を体験してからは、百機ぐらいは恐ろしくないらしい。そこで追いたてるようにしてフスマ障子をあけさせ、水筒等を運び入れ、昌彦も壕内へ移させる。
◯この日ラジオが停電で黙ってしまい、東部軍管区情報が途中で伝わらなくなり、敵機隊の動勢は耳で爆音等をさぐる外なくなり、ちょっと心細い想いがした。ダムでもやられたかと思ったが、三十分ほどして回復したので、まあよかったと思う。鉱石受信機を組立てておく必要を感ず。忙しいので当分つくれまいが、いずれやってみようと思う。検波器がないが、代りに安全カミソリの歯と猫ひげでやってみるか。
◯この日、とうとう硫黄島に上陸された。
◯十五、十六、十七、十九と五日間のうち四ヵ日空襲つづきで、日の経つのが速いこと。

 二月二十五日(土)
◯硫黄島も激闘、マニラも激闘。徹ちゃんどうしたか、未だに便りなし。気に懸ってはいるが、家人には一言も言わずにいる。朝子も今家に居ることだし。
◯午前四時半「横鎮(よこちん)(※横須賀鎮守府。鎮守府は、海軍の根拠地に置かれた機関)情報」というのが珍しく出て「敵機動部隊が本土に近接しあり云々」と放送する。
◯果して午前七時半より警報発令となる。きょうは曇天。しかもだんだん暗くなって、雪となる。先日の雪がまだ消えないのに、また新雪積もる。その間に警報飛ぶ。敵艦載機はたいがい茨城千葉の方にいて、京浜地区まで来るのは少ないが、午後一時半B29の大挙来襲の徴ありと警告が出た。やがて間もなく来襲す。雪中を皆も防空壕に入る。盲爆故、時間の過ぎるのを待つ外なし。
◯編隊は十四を数えた。大体いつもの経路で、やや北方を西から東へ通過したが、中には頭上を通る隊もあって癪にさわる。最後に近い一編隊の落とした弾は、さらさらさらと音を長くひいて東の方に落ち、炸裂するのを耳にした。さらさらさらは、今日初めて耳にした。
 あとで北方から黒く焼けた紙らしいものが、はらはらと盛んに落ちて来た。火事の焼屑か、B29の落とした導火線の焼けかすか。
 今日敵は焼夷弾と爆弾の混投を行ない、相当火災も起こったようで、「官民必死の敢闘により消火中云々」と放送された。
 雪は夕方に入ってもますます降りしきり、家族は空襲中煮てあった昆布巻でうまく飯をたべ、あとはタドンを入れて炬燵(こたつ)のまわりに集まる。

 三月三日
◯道又さんの話によれば、神田は須田町から両国まで焼けたという。主婦の友社の安居さんの話では、駿河台の美津濃から神田橋の方へ向け、焼けて筒抜けとなったという。
 上富士前から神明町ヘ。浅草橋駅、上野は駅から御徒町駅へかけて左側が全部なくなり、右方は日活館を残して、丸万や翠松園やみんな焼けたという。御徒町から両国が見えるともいうし、厩橋まで何にもないともいう。仲見世の東側、松屋のところまでがなくなったともいう。
 これがみな、去る二月二十五日の雪の日のB29、百三十機の爆撃のためである。憎みてもあまりあるB29。しかし焦土と化すのは、前から分っていたことだ。それは仕方がないとして、何か手を打つべきだったと思うが、手ぬかりはなかったであろうか。

 三月四日
◯朝警報鳴る。七時半だ。さては艦載機であるか、いや艦載機にしては早すぎる。それに今朝は曇っていてお生憎さまだと思って耳を澄ましていると、B29が一機ずつ四つの侵入。そして主力の方は東海地区へ入ったというのだ。
◯安心していると、とつぜん空襲警報発令、山梨地区上を十数機編隊のB29が東進中と放送。これはいかんと寝床から出る。女房に昌彦を防空壕に入れろという。が女房は昌彦のそばに添伏していて、「いや、ここにいる」と頑張る。腎臓炎で旧臘から臥床の昌彦、昨日来熱があるので、動かしたがらないのはもっともである。が、そのうちに後続部隊の侵入を報じて来る。女房やっと決心して、昌彦を黄色い毛布にくるんで防空壕へかかえて行く。
◯敵は盛んにやって来た。四つ位の梯団(ていだん)であるらしい。最も近かったのは、どこか場所は分らないが、どこん、どこん、どこん、と続けざまに爆声聞え、壕の板がびりびりと鳴りひびいた。
◯報道放送によると、百五十機なりという。警報解除一時間にして、相当大きな火災も全部消えたという。
◯早耳の報道によれば、今日は尾久や日暮里附近がかなりやられたという話。
◯敵機去っていくばくもなく、また雪がぽたぽた降り来る。三度目の大雪か。
◯岡東浩君来る。ツナ缶、飴、化粧用クリームを貰う。うちからはねぎ、にんじん、馬鈴薯、かぶを少し分ける。徹ちゃんの置いていってくれた角壜のサントリー・ウイスキーが、このよき友を大いによろこばす。なんとかなるものなら、もっとこの友に飲ませたいものだ。
◯弟佑一の会社が焼けた(二月二十五日)と手紙でいってくる。末広町に店を構えたばかりだったのに、気の毒な。またもや憤激のタネが出来た。こんなタネばかりふえ、それと反対に「ざまみやがれ、敵め」ということができないのが残念である。
◯「グルー政権」という言葉がちょいちょい聞こえるようになった。けしからん。
◯この頃の敵の焼夷弾の二割は爆発物がはいっているという。それで焼ける面積が多いのだという。また、それを知らせては誰も初期防火をしないので、知らせてないのだともいう。それはけしからん話であるが、この話はこれまでにも耳にしたことがある。
◯朝子の友達の鈴木さんのそのまたお友達が、この前有楽町の爆撃のときあそこを歩いていたが、爆弾の落ちる音を耳にして、これはいけないと思い、遂に思い切って「伏せ」をした。ところがその直後に爆弾は至近距離に落ちて爆裂したが、伏せたおかげで身に微傷も負わなかった。
 ところが、あたりを見まわすと、そばに長靴をはいた脚が二本立っていた。脚だけである。その上がない。思い出したのは、自分が伏せをしたとき、横を陸軍の将校が通ったが、その人が今はこの脚だけとなったという事。その上の方はどうしたかと思って見まわしたが、それはどこにも見えなかったという。
◯この有楽町では、鉄カブトをかぶった首がころころ転っていたという。防空壕から首だけ出していたので、首だけやられたのであろうという話。しかし本当はそうではなく、立っていて、首だけ爆風にやられたのであろう。
◯いつも大慈さんから頂いていた宗一郎さんの奥さんの御里で、水飴の製造をやっていられたお家が焼けたそうな。やっぱり二月二十五日。お家はやっぱり神田にあったという。
◯牛肉二貫匁が入るというルートの話がこの前あったが、この店もやっぱり二月二十五日に焼けた由。二・二五爆撃はかなりひびく。

 三月九日
◯去る三月五日、敵は午前零時から二時まで、十機が一機ずつ帝都へ侵入した。めずらしいことである。
 その翌日には、同様の型式で大阪方面へ侵入した。
 新聞は「これこそ夜間大編隊来襲のウォーミング・アップなり」と報じ、一般の注意を喚起した。
 そのうち、月の明るい晩にやるつもりであろう。しかし当分はまっくらで、敵には盲爆以外の手なし。
◯爆撃の直後、身近かにとんで来たものはすてきなケシゴムたくさん、百円札の束、反物など。これは鈴木さんの友達の話である。
◯首がとびこんで来て、われに向かい丁重に挨拶をしたという話もあるとて、村上先生大いに笑う。
◯艦載機来襲以来、待避壕はかなりものものしくなった。相当土をかぶり、ふたのないものは数を減じた。しかしまだまだである。

 三月十日
◯昨夜十時半警戒警報が出て、東南洋上より敵機三目標近づくとあり。この敵、房総に入らんとして入らず、旋廻などをして一時間半ぐらいぐずぐずしているので、眠くなって寝床にはいったら、間もなく三機帝都へ侵入の報あり、空襲警報となり、後続数目標ありと、情報者は語調ががらりと変わる。起きて出てみれば東の空すでに炎々と燃えている。ついに、大空襲となる。
◯発表によれば百三十機の夜間爆撃。これが最初だ。
◯折悪しく風は強く、風速十数メートルとなる。

 三月十三日
◯昨暁名古屋が大挙B29の夜間爆撃を受けた。東京夜襲より二日後で、ピッチをあげている。今度は風が強く、全く利敵風であった。
◯十日未明の大空襲で、東京は焼死、水死等がたいへん多く、震災のときと同じことをくりかえしたらしい。つまり火にとりまかれて折重なって窒息死するとか、橋の上で荷物を守っていると両端から焼けて来て川の中へとび込んだとか、橋が焼けおち川へはまったとか、火に追われて海へ入り、水死又は凍死したとか、川へ入ったが岸に火が近づいたので対岸へ泳いで行くと、そこも火となり水死したとかいう話が下町の方にたくさんあり、黒焦死体が道傍に転り、防空壕内で死んで埋っているのも少くないとの事である。
◯この前の雪の日の盲爆(二・二五)に八万の罹災者を生じたが、今度はその数倍らしい。
◯今日は三日月だが、罹災者の姿痛々しく、街頭や電車内に見受ける。軍公務通勤者以外は切符を売らない。
◯三月十日に焼けた区域は随分広いらしい。
 わかっているものだけでも、九段上、番町界隈、銀座一丁目より築地ヘ。新橋駅より新橋演舞場の方へかけて、白金台町附近、高樹町、霞町、浅草観音さま本堂、本郷三丁目より切通坂へかけて、秋葉原界隈、田園調布界隈、司法省、茅場町、日本橋白木屋、高島屋の地下町の方面は次々と焼けたらしい。
◯読売新聞の記事に、罹災区と引受区との表が出ているが、これにより罹災区が十区ある。しかし、この中には麹町区は焼けながら入って居らぬことからみて、もっと多数の区がやられていることは明白だ。


(罹災区) (収容区)
 日本橋   赤 坂
 荒 川   大 森
 下 谷   世田谷
 京 橋   目 黒
 深 川   四 谷
 本 郷   中 野
 浅 草   杉 並
 向 島   板 橋
 本 所   王 子
 城 東   荏 原
―――――――――――
以上二十区
麹、麻、小、牛、芝、神、
豊、渋、足、葛、品、蒲、
渋、江、淀


◯若林国民学校へも罹災者一千名を収容、新校舎に入る。暢彦も十三日までで、あとやすみ。晴(※晴彦)は当分登校。
◯偕成社も焼け落ちた。出版企画中の「成層圏戦隊」もこれにて無期延期。
◯吉祥寺駅にて山東先生にお目にかかる。
(※カット「先生の恰好」入る。35-下段)
◯報道班員の身分証明書で切符を買って通る。「報道班員」は近来誰でも知っていてくれるので、早分かりがするようだ。
◯見舞状を出す。今村、朝、摂津、久生、荒木。
◯味噌の配給がとまった。罹災者へまわしたためとある。この隣組の清水、友野両家へも罹災者が入って来られた由。
◯昨夜、疎開すべきや否やについて英と協議す。但し決まらず。
◯昨夜、ねえやの米ちゃん、松ちゃんを解雇し、親もとへかえす。来る十五日頃、こういう人達へ徴用があるとかで、両人がことのほか心配している故、英が解雇の決意をしたものである。今は朝子がいるのですこしはいいが、二十日に朝子も鹿児島へ行くので、そのあとは忙しくなろう。


 三月十四日
◯浅草へ行って三月十日の空襲のあとを見る。震災に比べて、延焼の時間が短かかったので(震災は三日間で焼け、今度は六時間位で焼けた)惨害もひどかったことがうなずける。こんなに焼けているとは思わなかった。浅草寺の観音堂もない、仁王門もない、粂(くめ)の平内殿は首なし、胸から上なし、片手なしである。五重塔もない。
◯吾妻橋のタモトに立って眺めると、どこもここも茫々の焼野原。
◯象潟二丁目の或る隣組では、四十五人の人員が二十人しか生存していない。
◯水の公園では押されて人々が倒れると、その上に将棋だおしとなって多勢が圧死し、そこへ火が来て、一層凄絶なこととなった。佐川のおばさんは、かかる折、息子とつないでいた手を放して倒れて下敷となり、息子さんの懸命の努力に拘らず母を救い出し得ず、そのままとなった由。
◯大正震災のときは、それでもかなり今戸の川ぷちに家が残ったものだ。今度は完全に焼けてしまった。痔の神様ももちろんなし。
◯浅草の田中さん、早期に言問橋を渡って左折し(牛の御前と反対方向)そこで助かった。但しその一廓を残し、ぐるりは焼けた。
◯厩橋の常田久子も、赤ちゃんを背にしてにげ、新大橋の下に何時間もがんばって、ようやく二つの命を拾った由。
◯浅草は稲荷町から上野駅前へかけて焼け残っている。他に人家を見ず。
◯二時間半歩いて上野駅へ達した長蛇のような女工さんの群あり、集団引越だそうな。

 三月二十一日→二十六日
◯朝子を鹿児島へ送っていった。往復六日間、列車に乗りづめ。
◯鹿児島は最近敵機動部隊の来襲を受けたばかりのところで、各家とも城山に横穴掘り、また家財を焼かないための地窖(あなぐら)掘りに忙しい。しかし町はどこも焼けたところを見なかった。人心も東京にくらべればすこぶるのんびりして見えた。
 永田のお父さんとお母さんとで、この忙しさの中に餅をついてくださった。もち粟(あわ)の餅、ことにうまし。お土産にももらっていく。
◯鹿児島でレモンを売っているのをみつけて十五個買った。一個十四銭ほど、やすい、そしてうまい。
◯桜島へ敵機が二機とか四機とか衝突し、燃えていたそうな。
◯鹿児島行の列車で、沖縄本島へ帰る少尉さんに馴染みとなる。「いずれ来るでしょう、しかし今は内地の方々には済まんようないい生活をしていますよ、砂糖も酒もふんだんにありまして、砂糖などすぐ一キロぐらい、ペロリと甞(な)めてしまうです……」など、話の上手な親しみ深い勇士だった。内地へ連絡に来て、これから鹿児島に入り、飛行機で飛んで行くのだという。まだ四、五日はかかるといっていた。
 沖縄のこの前二回の艦載機の来襲の話も聞いた。「敵の奴、飛行場の偽飛行機や偽戦車に銃撃をくりかえすのですよ。戦車があまり焼けないので、こっちから決死隊を一人出し、油をもたせてやって一台を焼きました。すると敵の奴よろこびやがって、それからのこりの戦車へ来るわ来るわ……」などという朗らかな話や、近く敵襲の警報が入ると、滑走路に小屋を運搬していって建て、村落と化して敵の目をごま化す話など、たいへん面白かった。この勇士は、門司から鹿児島行の列車で私たち両人をたいへん世話してくれた。(敵は沖縄本島へ二十日に上陸した。この勇士殿は帰れたかどうか?)
◯往路、車中より神戸の南部の工場地帯が今もなお炎々と燃えつづけているのを見て、「畜生、かたきをうつぞ」と心に叫ばしめた。帰途は車窓が山側に位していたので肝腎の南側の方は見られなかった。しかし山側を見ていると、須磨迄は大丈夫であったが、林田区に入ると俄然(がぜん)大きく焼けていた。三菱電機の研究所のあった建物も焼けていた。湊川新開地も焼け、福原も焼けていた。市電の南側が少し残って、神戸駅迄に及んでいる。
 裁判所焼け、となりの市庁は無事。それから東へ行って北長狭の辺、三宮の辺が焼けていた。県庁は残っているが、菊水は空し。惜しいことだ、あのコレクションは。さらに東へ行って元神戸一中に至るあたりが焼け、グラウンドで延焼を喰いとめている様子。
 さらに東へ行って、御影が焼けている。線路ぞいに焼けていて、元の朝永の家も焼けてしまったように見える。
 岡東の話では、一中も三中も焼けたというが、とにかく山の手は静かに残っていて、なつかしい神戸の面影を見せていた。
◯大阪はどこが焼けているのか車窓からは見えず。(話によると西区、天王寺区、大正区等が焼けた由)
◯名古屋も案外たくさん残っている。その前夜また空襲があったのだそうだが、車内で夜を明かした私たちは知らなかった。熱田の辺も、山側は大した被害なし。
◯無事空襲の間をぬけて帰りつく。
◯上海から帰って来たある人の奥さんからパンをもらった。カラカラに乾いたパンであるが、これ一個七十三円という。(奥さんにおにぎり二つ進呈したそのお礼なり)

 四月二日
◯今暁、敵大編隊来襲。立川方面へ投弾す。照明弾と時限爆弾を落としたのは今回が初めて。
 時限爆弾は三十分位後に爆発する。長いものは翌日になって、どんどんと硝子窓をひびかせて爆発していた。
 帝都に被害なし。

 四月四日
◯例の丑満時(うしみつどき)、敵大編隊来襲す。はじめ大部分は関東北部へ行ったのであるが、帰りに帝都を北から南へ抜け、低い雨雲の下に眠っている帝都を爆撃した。多くは爆弾。それに時限弾も混入。その上焼夷弾もあった。地響きはする、雨戸、硝子はとびそうに鳴る。このすごい響きは、雨雲が低いためにすごい反響を起したもの。雷鳴のときに似ていた。
 感じでは、どうやらうちが中心になっているらしく、東西南北めちゃめちゃに投弾されたように思い、キモを冷やしたが、夜が明けて聞いてみると世田谷に投弾はなく、近いところでも新宿のあたりらしい。今度は横浜、川崎もやられたらしい。渋谷―池袋間も不通。ヨコスカ線は大塚から出ているらしい。桜木町附近相当被害ありし模様。
 いつも牛乳を貰いに行く国分寺の牧場も、前のやつに一方をやられ、今度のに反対側をやられ、自分のところだけは安全だったが、すさまじい跡が見えたと、養母が帰って来ての話。

 四月七日
◯本日朝七時四十分に警報。「敵大編隊来襲、八時二十分頃本土着のヨテイ」と。
 すぐ警戒に立つ。用意万端ととのえたが、敵機は仲々来らず(後で考えると、敵はカムフラージュに錫箔(すずはく)をまいたらしい、そしてそのかげに集結するためかなり時刻がたったらしい)やっと九時半頃百機ばかりの大編隊となって南より北へとぶ。
◯高射砲はかなり南で射撃を開始し、わが家上空に近づいたときには、もう撃ち方やめとなる。
 それに代って味方の戦闘機の攻撃は激化し、たちまち一機煙をはきだし、そのうちにふらふらし、空中分解して火の塊となる。万歳を叫ぶ。他の一機も機首を下にして、田中さんの右はずれの森の彼方に落ちた(三鷹方面)。その他煙を出した戦闘機四機ばかりあり。憎々しき敵の大編隊を北へ見送る。
 今日は英、晴、暢、それに亮嗣さんも垣根を越して田中さんの地所でこれを観戦す。昌彦も、落下傘が下りるのを壕から顔を出して見た。この落下傘、敵かと思ったが、あとでわかったところによれば陸軍の中尉(山田少尉ともいう)で、野砲連隊の近くに降り、電線にひっかかったが、顔面の少負傷で助かり、部隊へ収容されたという。
◯ラジオの停電で、途中より戦況不明となる。ただし十一時頃、空襲警報は解除となった。
◯大本営発表によれば、本日の敵機は「南方基地より発出せるもの、帝都附近へは百二十機、名古屋へは百五十機が来襲せり」と。
◯内閣は一昨日、辞表を提出した。小磯内閣は果してかけ声をかけただけで終り。三月十日の空襲の市街大延焼にて、疎開強化令を出して混乱を生ぜしめた失政軽からず。さらに四月五日、ソ連は日ソ中立条約存続の意志なきことを通告し来り(来年四月二十五日期限)、その余波もくらった形に見える。
 小磯内閣の退陣に当たり印象に残ったのは、米内海軍大臣の朗々たる声と率直な物の言い方、杉山陸軍大臣の年齢に似ぬ元気な、そして円い物の言い方、町田ノンキナトウサン無任相のぼんやりした顔、前田運通相の悪相、緒方国務相の疲れた顔、まずそんなところなり。こういう仕事をせぬ内閣は早く代わるに限る。思えば、今は亡き前文相二宮中将が、組閣間もなく国民学校第二学期の始まっていることを十日も忘れての放送に、大きなケチがついたように感じたが、それは本当であった。
 鈴木貫太郎海軍大将は、枢府(※天皇の諮問機関、枢密院の異称)議長の任にあったが、今度大命を拝した。七十八歳の高齢と聞くが、日本の国はどうしてこう年寄の御厄介にならないとたっていけないと、重臣たちは考えるのであろうか。腑に落ちない。今までそれで散々失敗していながら、戦時下最終の内閣を組立てるのだといわれながら、この老人の顔に出られては、われらの士気もあがらない。
 しかし一説によると、鈴木大将は最も永く天皇の御そば近くに仕えていたので、聖旨を理解し奉ることこの人に及ぶはなく、それで今度選ばれたのだと見る向きもある。
 それが本当なら、肯(うなず)けることだ。しかしこの鈴木大将に御願いしなければならぬほど、日本には逞しい政治家がいないのであろうか。青年日本の姿は遂に見られないのであるか。残念至極である。

 四月九日
◯建物疎開で、町の変貌甚し。三軒茶屋より渋谷に至る両側に五十メートル幅で道を拡げるというが、それを今盛んにやっていて、大黒柱に綱をつけ、隣組で引張って倒している。そして燃料がたくさん出来、手伝いに来た人達に与えている。雨が降っているが春雨だ、たいして苦にならぬ。
 外食者用食堂(※戦時下食糧統制の一環として配給された、外食券を利用する食堂。現金があっても、券がなければ食べられなかった)とか、銀行とか、配給所が、疎開延期で残っている。
 各部隊から兵隊さんが出て手伝っている。壊した家屋は、やはり焚木用として隊へ持ちかえる。
◯停留場や駅の風景を見れば、三月十日前後や三月二十日前後(これは疎開強化、国民学校授業停止の発表があった頃)に比べると、だいぶ静かになったようだ。
◯新首相、鈴木貫太郎大将は、昨夜新任挨拶を放送した。「政治には素なり、八十に垂んとする老躯をひっさげて、諸君の陣頭に立つは、自ら鑑みて悲壮の感あるも、大命を拝せし以上は陣頭に立ちて突進せん、諸君はわが屍をのり越えて進撃せられたし、但し大いに若返ってやります」といった要旨。なお記者に所懐を語って曰く、「勝てると思う。日露役のときも重臣は勝てることはおろか、多分負けると考えていた。万が一にも敵を撃退し得ないかも知れぬと考えていた。だが頑張りが勝ったのだ。硫黄島が玉砕、占領されたことも負けとは思わぬ。敵アメリカに対し、精神的に大恐怖を与えたのがわが戦果で、この点勝ったといってよい」などと、勝てる自信を述べていた。
◯昨八日十七時、大本営発表で久方ぶりに軍艦マーチと陸軍マーチが響く。沖縄本島周辺にここ旬日あまり群って退かぬ敵艦船群に対し、わが特攻水上隊及航空隊が突入し、わが水上隊も戦艦一、巡一、駆三を撃沈した。かくて敵艦十五隻撃沈、十九隻撃破、その他未確認のもの少からずという戦果を掲げ、ために敵艦船は遂に沖縄本島の周辺から逃げだしたとある。リスボン経由の外電も六日、七日のわが猛攻を伝えているし、島上の敵軍も「ここは地獄を集めた地獄だ。あと二週間これが続けば、この戦は悲劇に終ろう」と悲鳴をあげている由。そのままには受取り兼ねるが、すさまじい戦闘がいよいよ始まり、決戦の決を見るのももうわずかの後に迫ったことを思わせる。
 尚水上艦隊の特攻隊はこれが初めて。特に戦艦の特攻隊とは、戦闘の壮観、激烈さが偲ばれ、武者ぶるいを禁じ得ない。

 四月十三日
◯アメリカ大統領のルーズベルト急死す。脳溢血と発表された。
 日本時間にして、彼の死は十三日の金曜日に当る。

 四月十四日
◯昨夜二十三時頃、わが横鎮は関東海面に警報を出したが、果して敵一機は房総に入り、つづいて敵大挙し、三月十日以来の帝都市街夜間爆撃となった。
 敵はルーズベルトの死に関連して、この挙をあえてなしたものと見受ける。
◯大本営発表によれば、来襲機は百七十機で、四時間にわたり波状投弾し、焼夷弾の前に爆弾を投じた。
 宮城大宮御所の建物にも損傷あり、まもなく消し止めた。両陛下と皇太后陛下は御無事とのこと。明治神宮は本殿と拝殿とが炎上した。鈴木首相の放送に「敵は計画的にこの暴挙をなした」とある。
◯ラジオ報道によると、豊島、板橋、王子、四谷が、もっとも多く燃えた由。しかし死傷者は少ないとの事である。去る三月十日の空襲は死傷がひどく、昨日も四十七ヵ所で三十五日の供養が行なわれ、僧侶は巻ゲートルで、トラックにのって廻ったそうである。
◯本日の省線不通箇所は、上野→池袋→新宿間、新宿→荻窪間、神田→市ケ谷見附間、池袋→赤羽間、もう一つ足立区方面(わすれた)。
◯昨夜の炎上の状況は左図の如くであった。
(※カット「手書きの地図」入る。41-下段)
◯戦果の発表、撃墜四十一機、損害を与えしもの約八十機なり。
◯四月十一日の午前のへんな爆撃は今度の予習だったかも知れない。
◯あのときは一トン爆弾を、荻窪の中島本社へ落とした由である。
◯昨夜の軍情報はすっきりしなかった。「後続機に対して警戒中なり[#「警戒中なり」に傍点]」というナマぬるい放送をして置きながら、間もなく「大挙来襲に敢闘せよ」と出し、空襲警報を発令した。そのときは第一機が投弾して、もう市街は炎々と燃えていたのである。
◯今朝、余燼(よじん)が空中に在るせいか、天日黄ばんで見えたり。

 ◯焼け跡も疎開も知らぬ桜哉 
 ◯分解の敵機も散るや花の雲 

◯去る四月五日、永田徹郎大尉の奮戦談が新聞に出た。その前日とその日の朝のラジオでも放送したとか。徹ちゃんの健闘はうれし。毎朝その武運長久を一同して祈っているのだ。(輸送船一隻撃沈)その前に戦艦二隻やったらしい(朝子の手紙によると)。
 その後、朝子の手紙が来て、四月五日これから出撃する主人を送っているとあり、気を揉んでいる様子が見えるようだ。きょう手紙にて激励をして置いた。
◯都電運転系統は現在左の通り動いている。

△品川→日本橋 △三田→日比谷 △目黒→日比谷 △五反田→金杉橋 △渋谷→金杉橋 △渋谷→青山一丁目 △渋谷→六本木 △中目黒→金杉橋 △四谷三丁目→泉岳寺 △四谷三丁目→浜松町 △新宿→荻窪

◯列車乗車制限(軍公務、緊急要務者以外は乗車券を発売せず)

◯東海道線=東京→小田原 ◯中央線=東京→大月 ◯東北線=東京→小山 ◯高崎線=大宮→熊谷 ◯常磐線=日暮里→土浦


 四月二十七日
◯この日記をしばらく休んだ。休んだわけは忙しさのためと、空襲の閑散化のため。といっても、帝都空襲が閑散化したわけであって、B29の日本空襲が減ったわけではない。むしろこのごろは毎日、九州の飛行場を爆撃に来るという執拗(しつっこ)さ、熱心さである。わが特攻隊の出鼻を挫(くじ)かんためであることはいう迄もない。
◯さて、休んでいた間にも、帝都への大爆撃はあった。それは去る四月十五日深更より十六日暁へかけての夜間爆撃で、蒲田、荏原、品川、大森をやられ、大小の工場がほとんど全滅したとのことだ。なおこのとき川崎もかなりの被害があった。
◯蒲田の工場は当然疎開したものと思っていたが、欲ばっていて親工場へ吸収される値段の吊上げを試みつつあり、そしてやられて元も子もなくしたものが軒並だ。個人工場の損失ではない、国家の大損失であり、猫の手さえ借りたい刻下の沖縄大決戦の折柄、戦力をそぐこと甚しい。
◯吉田晴児の工場も焼けたらしい。協電舎もそうらしい。橋本さんの広辺電気もそれ。枚挙にいとまあらずである。
◯去る四月二十五日の新聞に、被害の総合結果の発表あり。
 東 京  五十万戸  二百十万人
 大 阪  十三万戸  五十一万人
 名古屋  六万戸   二十七万人
 神 戸  七万戸   二十六万人
 これ下村新情報局総裁の手腕のあらわれと見える。
 此の発表で、帝都に関しては「三月十日は不幸にして風が余りに強かったため、同日だけでも焼失戸数や火災による死傷者数は相当にのぼった」こと「大部分焼失した区域は、浅草、本所、深川、城東、向島、蒲田」であり、「その他相当焼けた区は下谷、本郷、日本橋、神田、荒川、豊島、板橋、王子、四谷、大森、荏原、品川」である。
「川崎市は市街の大部分を焼失」
「大阪では西成区、西区、南区、北区、天王寺区、湊区、浪花区、大正区が被害が大きい」
 名古屋では「千種区、東区、中区、熱田区、昭和区、中村区、中川区が被害大きい」
 神戸では「兵庫区、湊区、湊東区の大部分を焼失した。また葺合、神戸、須磨、林田、灘の一部分焼失」
◯四月十五日、十六日の夜間空襲のときはちょうど神戸の益三兄さんが泊っていて、これを見物した。その前の豊島区などの焼けたときほど大きくは見えなかったが、初め品川上空に照明弾を落としてそれからずんずん東へ南へひろがり、駒沢のが一番近く、そこへ落ちる頃はこれはいよいよ来るかなと思わせた。
◯大橋のバス通りのすぐ左側に於いて千軒ばかり焼けた。
◯大橋の、こっちから行くと左側の堤防に不発弾がおち、電車は大橋→渋谷間が五、六日止まり、その間歩かせられた。
 最後に工兵隊が出て、爆発させたが、そのときの工兵隊はがけ下を覗くためにこんなものを用いて居た。
(※カット「手書きの図」入る。44-上段)
◯天皇陛下御宸念(しんねん)。忝(かたじけな)くも金一千万円也を戦災者へ下賜せらる。
◯賀陽宮、山階宮、東久邇宮の三宮家も御全焼。
◯明治神宮本殿、拝殿も焼失。千百数十発の焼夷弾のかす[#「かす」に傍点]が発見されたという。
大下宇陀児(おおしたうだる)(※推理小説家)邸も焼けたと角田(喜久雄)(※小説家)君より聞き、見舞に行った。涙をのむのに骨を折りながら、奥さんと二時間あまり話した。彼は大元気で、家にも帰らず、町の皆さんといっしょに焼あとに起居しつつ、復興につとめている由。防空壕へ衣類を入れてあったためこれが助かったが、他のものはほとんど一物もとり出さなかったという。
 当夜、このあたりに旋風が起こり、町の人々を一層恐怖させたとの話。大下邸のすぐそばの焼けた大ケヤキの高い梢の上に、バケツやトタン板がちょこんとのっているのも、それを物語る跡である。
 また池袋の武蔵野線のホームのトタン屋根が、変な具合にめくれていて、車中より私は首をひねったが、これも旋風のためとわかった。
 大下君は、残留せる四百名の人々をはげまし「新雑司ケ谷村」を建設するつもりで活躍しており、昨二十六日の毎日新聞にその記事が出た。好漢病気にならなければよいが、とそれを祈っている。
◯それ以来私はのどを痛め、風邪をこじらし、ずっと家に引込んでいる。
◯九州連日爆撃に、鹿児島の家のことと、永田夫妻の安否を心配している。前にはこっちが心配せられ、今はこっちがあっちを心配しつづけている。
 去る日、鹿児島の家の向隣に爆弾がおちたそうで、永田家も損じたらしい。しかし「住むにさしつかえありません」とお母さんから報じて来たところを見ると、相当塀や瓦をやられたことと思う。

 五月一日
◯先日来二度朝、立川へB29が大挙来襲、昨日などは硫黄島からP51、百機も参加した。
 一度つづけさまの爆裂音を聞いた。あとは穏かになり、時々実戦の音を西方の曇天に聴くのみ。
◯昨日、千葉県大和田の鷹の台クラブへ行き、ロッカー中のクラブやバッグ、靴などをとりに行ったが、すでに盗まれてしまっていてなにひとつとてもない。手ぶらで戻る。
 船橋にも、前のようにハマグリ、アサリの売店はない。ポツン(玉もろこしのはぜたるもの)二、三十入り、一袋三十五銭で売っているのを十個買って帰る。
◯それにしても、両国から平井に至る間、左右見渡すかぎりの焼野原で、数千本の煙突から煙の出て居るのは僅々七、八本に過ぎず、工業生産力の低下に今さらながら慄然とし、敗戦的観念に追いつめられてしまった。
◯ベルリンはあと五分の一を余すのみ。ヒムラー内相より英米へ降服申入れありしとの噂立つ。
 木村毅氏の曰く「イギリスではヒットラーが昨年七月の爆弾事件で死んだという説を盛んに言いふらしているぜ。今居るヒットラーは贋者(にせもの)だというんだ」
 私はいった。
「それが真偽いずれにしても、興味ある報道ですね」
◯ラジオ報道は、ムッソリーニ総帥が遂にイタリアの反乱軍の手によって殺害されたと伝う。
◯モロトフ氏、急いで桑港(サンフランシスコ)会議より引揚げ、モスクワに帰る。イーデンはまだうろうろしている様子だが、これもいずれ帰るであろう。
◯ベルリン陥落乃至はドイツ休戦申入れをめぐって、英米ソの間にまた一波瀾ありそうだ。
◯ドイツ亡ばんとす。巷間「ドイツはかわいそうですね」「ヒットラー総統はあそこまでやったのに」「ドイツ軍、ヒットラー・ユーゲント、ベルリン男女市民軍、みな悲壮な戦(いくさ)をしますね」と言い、「ドイツも亡びます。いよいよ世界中が日本へ攻めかけ、イタリアやドイツのようにするのでしょうね、ああどうしましょう」と悲たんし恐怖する者をほとんど見かけない。
◯K氏曰く、「僕は生来楽天家かしらんが、この戦争は日本の勝だと信じている。ヨーロッパはもうすぐ食糧で大破綻を生ずると思う。アメリカも食糧でたいへんらしい。食糧で反枢軸国はまず敗北相をあらわしはじめるよ」
◯先日F君の話によると、まだ風船爆弾はあがっているよし。
 アメリカでも報道厳禁だそうだから、かなり被害があるらしい。

 五月二日
◯昨五月一日、ヒットラー総統はベルリンに於ける戦闘指揮の位置に於いて死去し、後任としてデーニッツ提督を任命したという。
 その新総統はハンブルグから全国に放送し、共産主義に対する戦争の継続を宣言し、米英軍といえども共産主義に加担する者は容赦せず、と宣した。
 その放送より私の受けとったものは、デーニッツ氏の米英への秋波である。
 かねてドイツ海軍内部には、反抗等の暴動ありと伝えられている。その分子がヒットラー総統及びヒムラー内相を暗殺することあらば、ドイツはナチの色を払拭し、休戦するであろうとの情報が存在した。
 これとあれとを相関して考え、とにかくヨーロッパに於けるドイツ軍の対米英ソ戦争は終ったのだと思う。
 日独伊防共協定も、これが終幕である。あとは大東亜戦争のみが残り、そして継続することは確かである。
 但しその他の新事態、新争闘の発生するであろうことは当然であり、大東亜戦争のみがこの世界にひとり進行するのでないことは疑いない。
 戦争もこれからが本舞台だ。世界の情勢もこれからがいよいよ複雑化する。しっかりやらなくてはならない。そして長生きして世界の移り変わりをよく見極めたいものである。
◯四月に於けるわが収入は、金五十二円八十銭であった。大学卒業後今日までに於ける最低収入の月であった。記憶に値する。
(この日記終り)  



空襲都日記(二)




 この騒然たる空の下、事実を拾うはなかなか困難であり、それを書きつけるは一層難事であるが、私としては出来るだけ書き残して行きたいと思う。

 昭和二十年五月二日
   ヒットラー総統死去のラジオ報道を聴いた夜
海野 十三  



 五月三日
◯ドイツ・ベルリンの戦闘の終局、ヒトラー総統の戦死、デーニッツ新総統の就任、米、英、ソ、それぞれの休戦に関する報道ぶりなど、目まぐるしい欧州のニュースの連発である。ゲッペルス宣伝相は自殺したとソ連は発表した。リッペントロップ外相とゲーリング元大ドイツ元帥のことはすこしも出て来ない。ヒムラー内相のことはデーニッツ新総統が不服従の烙印を捺(お)し、ヒムラー氏の対米英休戦申入れを許さずとしたとある。
 いずれにしろ、ドイツも遂に無条件降服の外ないのであろう。
 今夕、鈴木総理大臣はこれにつき放送した。趣旨は分り切ったことである。若い声だが、原稿をとちるところなど老衰が見えるようである。
 ドイツ大使スターマー氏も声明を発表した。「ヒットラー総統は死んだ」から始まって、総統が死に臨み、側近からデーニッツ提督を後継に選んだ炯眼(けいがん)と熱意とを指摘し、そして「ドイツ人は故人の意志を奉じて邁進精進することに於いて、世界に稀なる民族である」こと、「故総統によってまかれたる種は、将来きっと花を咲かせ実を結ぶであろう」と述べ、そして最後に「故総統は日本のよき友であり、且つ日本人崇拝者であった」と結んだ。
 もう影はうすかったがムッソリーニ統帥も殺され、得意絶頂のルーズベルトは急死し、今またヒットラー総統戦死して、世界の巨名者ぞくぞく斃る。
 チャーチル、スターリン氏はまだ斃れないかと興味に富んだ目が、両人のうしろをしきりに追駈けている。神のみぞ知りたもう。
◯串良の朝子(※長女)より来信。二十三日発の速達が十一日目についた。「私たちは元気です。主人は家に帰って来ませんが、下士官の方に会ったら、隊で元気で居られますといわれました」とあって、一安心した。
 串良も敵の上陸の噂でかなり動揺しているらしい。朝子、大なる覚悟のほどをのべていた。
 二十六日より六日間、南九州をB29の大群が連爆したのが気にかかるが、この方の手紙が来るのは、まだ十日位先となることであろう。
 皆の無事を祈ってやまない。

 五月五日
◯昨四日、慶大病院へ行ったが、もう大分いいから、しばらく(通院を)休んではどうかといわれた。或る程度まで治り、そして或る程度以上は治らぬことがわかったので、それに従って休むことにした。
 いい散歩課業がなくなった。これからは体操と歩行とにつとめることにしよう。
◯タケノコ、きょうは湊邦三氏と岡東へ頒ける。今年の冬はいつまでも寒かったので出来悪し。うちはタケノコのちらし飯。豆かす入りも「ぐ」の数が一つふえたと解して楽しむ。ほかに椎茸(イヨ産)、にんじん、はす(奥山さんからのいただきもの)を入れる。
 奥山さんへも一ぱいさし上げて、おじさんから「ごちそうさま」とよろこばれる。
◯ドイツ軍、各地にてどんどん降服中。
◯沖縄にて、わが反撃きつし。タラカン島へ上陸せし敵増強中。
◯今日はB29が約二百機近く来襲し、内地各地へ投弾。広島も初めて大空襲を受く。
◯東京は、心ならずも穏やかなり。心ならずというのは、九州等来襲ひんぴんたる土地のわが同胞に対し相済まぬと思う意味なり。
◯久し振りにわが作品放送、子供の時間「潜水島」の第一夜、つづきは明晩。

 五月七日
◯昨日、焼跡の大下(宇陀児)邸二度目の訪問。今度は氏に会えた。焼跡に立ち、町会の人と立話をしている氏の後頭部一面が真っ白であるのを発見して、涙を催した。
◯しかし、大下五丁目町会長の熱情は、残留三百五十名という帝都内に珍らしい高率で、バラックや壕舎があたりに群立し、再起の意気込みすさまじく、日本人かなと感じ入った。
 菜園にはすでに芽も青々と出ているし、風呂二つも今明日より入れるそうだし、髪床も数日うちに開店のよし。
◯附近に焼夷弾の筒が十数本、一邸内に固まっているところを見せて貰い、慄然とした。
◯目白警察へ畳のことで用あって行く氏と、目白駅の手前で別れた。氏も奥さんも、ともに元気なのは、うれしい。
◯大下邸もこの前とは変わり、きれいに片づき、既に種もまいてあるそうな。この家の塀が千金の値あり。
◯今日は裏の防空壕の上に、庭の敷石(実は小石をセメントで固めたもの)をずらりと敷き、敵機の機銃弾に対し、いささか強き壁とした。焼夷弾筒も防げる見込みである。晴(※晴彦、長男)(※暢彦、次男)よく働く。
 田中さんの義ちゃんや、もう一軒の田中君の子供たちも仲々よく働いてくれる。
◯一昨夜は敵襲あるかと思われたし、実際に空襲警報も出たのであるが、入って来たのは三機だけで、こともなかった。
 九州はもうこの十日間に八連爆か九連爆で、飛行場附近を盛んにやっているらしい。鹿児島からも串良からも手紙が来ず、わからない。
 また瀬戸内海等ヘ、機雷投入を二日つづけてやった。きょうは尾道と四国との連絡船が停まったと出ていた。PB2Yらしい飛行艇も、房州の附近へ姿を現わし、高度五百メートルで船を攻撃したという。
 タラカン島へ米軍が、ラングーンヘ英軍が上陸している。
 しかしわが特攻隊、今度はつづいて猛攻をつづけ、既に沖縄周辺で撃沈破せる艦船の数は五百隻を超えた。この勢いでつづかせたいもの。
◯去る四日「疎開応急措置要綱」が発表された。老幼病人のほかは、都外へ疎開まかりならぬと決められた。これで腰が落ちつくことであろう。

 五月八日
◯第四十一回目の大詔(たいしょう)奉戴日(ほうたいび)。主婦之友の安居氏来宅中に警戒警報が出て、十一時半空襲警報となる。B29、十数機と、そのあとP51、六、七十機が来襲した。
 千葉、茨城方面を行動し、一部は帝都へ入ったというが、雲低く遂に機影を見ず。友軍機の八機編隊で警戒する姿が頼母(たのも)しく見えた。
◯外電によれば、ゲッペルス博士は官邸に於いて、夫人と子女四人と共に、毒物を服んで死んだとある。ヒットラー総統及びゲーリング元大ドイツ元帥の死体は見当たらず、ソ連軍躍起となって捜索中。ヒットラー総統は二十五日重傷を負い、一日ついに死去したという(三十日ともいう)。そして最後の輸血を拒み、ドイツ国民への愛を示したといわれる。
◯今日は「くろがね会」より稿料百円、主婦之友より百七十六円持って来てくれ、合計二百七十六円収入となる。昨四月は全収入合計五十二円八十銭だった。これだけでも入ってくれると、やっぱり作家生活はありがたいものだと思うようになる。四月の支出は千円とすこしであった。

 五月十九日
◯あまり日記を書かなかったのは、東京方面がずっと穏やかであったためだ。
 今日は九十機が立川方面へ来たが、雲が厚くて盲爆に終ったらしい。
 去る十四日(五日前)は名古屋へ四百機のB29が来襲して、同機多数来襲の記録を作った。

 南方基地からの敵大型機来襲記録
      (三月以降少数機来襲を含まず)
  (月日) (時刻) (機数) (目的地)
  3月4日  朝    一五〇  東京
    5日  未明    一〇  東京
        夜      七  関西
    10日  未明   一三〇  東京
    12日  未明   一三〇  名古屋
    13日  夜     九〇  大阪
    17日  未明    六〇  神戸
    19日  未明   百数十  名古屋
    25日  未明   一三〇  名古屋
    27日  朝    一五〇  九州北部
        夜   六、七十  同
    30日  夜     二〇  名古屋、伊勢湾
    31日  未明    三〇  瀬戸内海、北九州
        朝    一七〇  九州
  4月2日  未明    五〇  東京西北
    4日  未明    五〇  関東北部、京浜
        同     一〇  静岡
        同     三〇  京浜市街地
    12日  朝 相当数の数編隊 関東地区
    13日  夜    一七〇  東京市街
    15日  夜    二〇〇  京浜西南部
    17日  昼   七、八〇  鹿屋、太刀洗
    18日  朝     八〇  鹿児島、宮崎、熊本
        同     二〇  太刀洗
    21日  朝    一八〇  主力九州南部、一部九州北部
    22日  朝    一〇〇  宮崎、鹿児島
    24日  朝    一二〇  主力立川、一部清水、静岡
    26日  朝     六〇  宮崎、大分
        同     三〇  山口、福岡
        同     四〇  宮崎
    27日  朝    一五〇  鹿児島、宮崎
    28日  朝    一三〇  同
    29日  朝    一〇〇  同
    30日  朝     六〇  大分、宮崎、鹿児島
  5月3日  夜    十数機  阪神
    4日  朝   三十数機  四国、近畿
        同    十数機  関門地区
        同     五〇  大分、長崎
    5日  朝     三〇  大分、福岡
        同    一一二  四国、中国
        昼     三八  鹿児島
        夜   二十数機  瀬戸内海
    7日  朝     六〇  大分、鹿児島
    8日  朝  二十九目標  四国、九州
    10日  朝     三〇  松山、御前崎
        同    三五〇  大分、山口、広島
    11日  朝     六〇  阪神
        同     二五  北九州
        昼   十六目標  鹿児島、宮崎、四国西南部
    14日  朝    四〇〇  名古屋

 今度は東京市街爆撃に四百機が廻ってくるだろうと、皆覚悟しているが、まだ来ない。
 名古屋は昼間の強襲に加え、翌夜にはさらに百機が来襲した。
 名古屋地方は、来襲頻度が多いわりに、被害がすくないのは、防空、防火の用意よろしく、天井などは早くから取除いてあったためである。
 しかし四百機の来襲で、金鯱(きんしゃち)の名古屋城天守閣も焼失した。大きな建築物の受難時代である。敵は三キロ焼夷弾を使い出した。
◯このごろ壕内へ持込むものは、次のようなものだ。
 御神霊、財産に関する書類、写真機、平常洋服、蒲団、昌彦(※三男、腎臓病で横臥中)の尿壜、衣料リュック。
◯沖縄地上戦況は数日前より重大化す、との報道。又とられるのか、と憂鬱になる。
 今後は一体どうするのか。
 分っているじゃないか――というわけだが。
◯この頃「しかし」という言葉がいやになった。ラジオの報道で、初めいい話を聞かせておいて「しかし」と来る。このあとは、あべこべの悪材料悲観材料の展開だ。「しかし」がいやになったゆえん。
◯昨日来た映配南方局米本氏の話に「このごろ作家のところへ原稿依頼を三十本出しても、返事の来るのは七、八本です。みなさん疎開とか、よそで別の仕事をやっていらっしゃるのですね」と。
 然り、わが二十三名生存の挺身隊(※一九四二(昭和十七)年一月から五月にかけて、海野は海軍報道班文学挺身隊員として従軍)も、東京在住者は十二名。十一名は地方に在り。挺身隊がこれである。况んや他の文士に於いてをや。

 五月二十日(日)
◯岡東来る。彼のためにとっておいた「暁」五袋とキングウイスキー少量、それから野菜は玉ねぎ一貫匁とごぼう二本位、岡東は缶詰四個とバター一封度(ポンド)をくれる。
 二人の話はあいかわらず食うこと、飲むこと、喫うこと、壕の話、戦況などに終始する。実際この頃はこんな話さえしていれば種はつきない。
 それにしてもお互いに腹を減らしているのだ。
「ジャガイモを腹一ぱい食べたい」と岡東はいう。加藤さんが会社から帰るとき電車の中で押されても、腹がへっていて押しかえす力がないという。きょう枝元老人から手紙が来て(企画用紙送り来る)「この用紙を届けに行くべきながら、お粥腹(かゆばら)で歩けないので、郵便にします」と断りの文句があった。
 自分もこの二、三日腹が減ってかなわず、なんということもなく廊下トンビ(※用もないのに廊下をうろつき回ること)をくりかえしていて、おやと気がつく。子供は騒いでいないのに、おやじの私がこのていたらくでは困ったものだと赧(あか)くなる次第である。
 もっとも、昼は雑炊二わんであるので、減るのも無理はない。
◯昨日も今日も、一機侵入の敵機めが爆弾を落として行く。昨日は日本堤の消防署に命中、今日は東京湾の海中に命中。
◯閑院宮殿下が薨去(こうきょ)された。
◯目下マリアナ基地にはB29が六百機位いる見込み。

 五月二十三日
◯連日天候わるく、雨の降らぬことなし。敵機もいっこうにやって来ない。
 電車に乗っても、防空頭巾を持っているのがまず三割程度。人間というものは、鋭敏なりとほめるべきか、それとも面倒くさがりやだとけなすべきか、それとも、油断をするな、と声をかけるべきか。
◯今日は雨降りなれど、ちと気温上る。すなわち十六度となる。昨日は十三度どまり。天候漸く恢復の兆あり。
◯昨日は畠をこしらえ、加藤完治(※満蒙開拓移民の指導などに当たった、明治―昭和期の農本主義者)さんの話にならい、甘藷(かんしょ)の皮を植えてみる。
(※カット「甘藷植えの図」入る。54-上段)
◯昨夜は、初めて写真の引伸ばしというものをする。成功した。出来てみれば成功とかなんとかいうほどのものならず、簡単に行った。
 この頃写真の現像、焼付、引伸ばし、みんな自分でやっている。
◯陸軍軍需本廠研究部へ売却することとなった学術書籍及び雑誌を、今日先方からとりに見える。学生さんが三人、そのうちの一人は良太(※甥)君だから笑わせる。
 午前と午後と二度、雨の中を重い風呂敷包を背負って帰った。さぞ腹が減ることと同情したが、何の風情もない。わずかに一切れの手製パンに、先日岡東より貰った小岩井のバターをつけ、砂糖なしの紅茶を出して、気をまぎらして貰った。

 五月二十四日
◯零時二十八分に関東海面に警戒警報が出た。「数目標」という。英(※夫人)と一緒に起き出て、まず二人は支度する。そのうちに関東地方に警戒警報が出た。皆を起こして支度をさせる。また重要物件を防空壕へ入れる。水をあちこちへ置き、水道へゴム管をつなぐ。そのうちに空襲警報となる。一同防空壕に入る。
◯もうこのときは品川あたりが燃えていた。一番機の投弾だ。「また品川か」と思ったが、今夜はきっと違った狙いでやってくると察していた。品川が初まりで、渋谷の方へ伸びて来るかと思った。二番機、三番機と、少しずつ北へ寄って来る。いよいよそのとおりらしい。
◯激しいB29の焼夷弾攻撃が始まった。三千メートル位に降下している。照空灯の光の中にしっかり捉えられている。ものすごく地上砲火が呻り出す。永い間ためてあった砲弾を打出すといったような感じである。
 月のある夜空を、火災の煙が高く高くのぼって行く、その煙雲のふちはももいろに染まっている。
 川開きのような、下がってくるオーロラのような焼夷弾の落下である。
◯撃墜されるB29が火達磨(ひだるま)となって尚飛んでいるすさまじさ。そのうちに空中分解をしたり、そのまま石のように燃えつつ、落ちて行く。闇の方々より、拍手と歓声が起こる。そして地上防空活動も、士気大いにあがった。
◯放送でも「今日の敢闘は賞讃に値いする」といった。
◯焼けたところはよくわからぬが、千駄ケ谷もやられた由。夜ほのぼのと明ける。

 五月二十五日
◯五反田の電気試験所のまわりがひどく焼け、電気試験所は一部が焼けたと、昨日中川(※中川八十勝、電気試験所時代の同僚)君が報せてくれた。そこで今日は自著十一冊を手土産として、同部へ見舞に出かけた。
◯電車は、昨日までは、大橋―渋谷間が不通で、省線は新宿―品川―東京間が不通であったが、今日は渋谷まで行くし、省線も五反田まで行く。が、省線電車は五反田の手前でエンコをしてしまい動こうともしない。そこで飛降りて堤下に至り、路をあるく。もちろん日野校をはじめ界隈は焼野原であった。五反田の焼跡風景も、浅草上野の焼跡風景も、同じであることに気がついた。
◯電気試験所は第一部が全焼していた。新館、旧館各棟は異状なしであった。裏門前一帯もすべて焼けつくし、第二日野校ももちろん丸焼けである。そしてアスファルトの上に焼夷弾が十四、五発つきささっているのは、胸にこたえる風景であった。同校の防火壁だけが厳然と焼け残り、その両側は空であるのも異様な風景であった。
◯米国飛行士一名、五部の元蓄電池室の裏へ降りし由。石井君たちが捕虜とした。ピストル二丁、弾丸二十発位、持っていた。まず後手を縛したる上、桜の木のところへ連れていって、木に上下をしっかり縛りつけたという。当人は至極温和しかったそうだ。
◯後藤睦美君が、バラスト管の代用品をこしらえてくれた。
 同君の一家も痩せてくるので、浜松へ疎開するそうだ。
◯空襲警報となる。P51、約六十機と嚮導(きょうどう)のB29、二機。しかし機影を見ず。

 五月二十六日
◯昨二十五日夜は風が強かった。ふと目がさめると「いかなる攻勢にあうとも敢闘を望む……」と放送をしている。警報にも気がつかなかったらしい。又ラジオの情報も分らなかったらしいのだ。英と相談して起きる。と、空襲警報のサイレンが鳴り出したので、少々面喰らう。
◯初めは房総東方からきて、品川あたりへ投弾したので、「ハハア、また品川が狙われたか」と思っていると、その数十機が過ぎたとたん、西方からぞくぞく侵入し来たB29の大群。それが今夜は、まさにわが家上空を飛んで東方・渋谷方面へ殺到し、やるなと思う間もなく同方面に焼夷弾の集中投下を見る。例のとおり華やかな火の子はオーロラの如く空中に乱舞し、はらはらと舞い落ちる。従来より最も近いところに落下する。
 そうするうちに、南の方へもぞくぞく落ち出したが、また北方・中野方面にもひんぴんと落下し、かなり近い。これは警戒を要すると思っているうちに西の方へもばらばら落ち出し、東西南北すっかり焼夷弾の火幕で囲まれてしまった。
 が幸いにも、若林附近はまだ一弾も落ちない。敵は百五十機位もう侵入したことになった。西方の田中さんの畑に晴彦と共に出て空を見ていると、二子玉川あたりの上空を越えてぞくぞく後続機が一機宛こっちへ侵入してくる。其の方向はすべてこっちへ向いているのだ。これはいよいよ来るわいと思った。
 すると果して轟音を発して、山崎や若林のお稲荷さんの方が燃え出し、つづいて萩原さんの竹藪の向こうに真赤な火の幕が出来、三軒茶屋方面へ落下したことが確実となった。
 わが夜間戦闘機も盛んに攻撃している。たいがいわが家の西方で邀撃(ようげき)。
 晴彦に「あれは危いぞ!」とこっちへ向いた一機を指した折しも、ぱらぱらと火の子がB29の機体の下から離れたのがわが家よりやや西よりの上空。「いかんぞ!」と言うのと、ゴーッと怪音が頭上に迫ったのと同時だった。晴彦に待避を命じて小さくなった。焼夷弾の落下地点に耳をそばだてていると、佐伯さんのあたりに轟然と落下し、あたりに太い火柱が立った。婦人たちの悲鳴、金切声など同時に起きる。
「萩原さんのところだ!」「奥山さんだ!」「松原さんだ!」との声々に、見ると、立木が燃えている。立木ならたいしたことなしと思いつつ、我家を見まわったが、幸いに事なし。
「菅野さんへ焼夷弾落下、燃えています!」叫び声が聞こえた。これはいよいよ始まったかと思って門の前へ出て見たが、火は見えず。裏へまわって英に防空壕の一方を埋めさせることにして、そのあと陽子(※次女)と晴彦と協力し、かねて積んであった土の箱をおろそうとしたが、なかなか重くて動かない。やっと引おろして埋めにかかったが、土が足りそうもない。時間はかかる。病気中の昌彦(※三男)におばさんと暢彦(※次男)をつけて、裏手の林へ避難させる。
 私は表へ廻った。と、相変らずすごく落ちる。もう音響にも火の色にも神経が麻痺して何ともない。屋根の上に何かが落ちて、どえらい音がした。焼夷弾ではなさそうだ、火が見えなかったから。
(翌朝見たら、油脂焼夷弾の筒の外被と導線管であった。いずれも一メートルのもので、外被は英のすぐそばへ落ち、導線管は私のうしろへ落ち、大地に深い溝を彫っていた)。
 私は幾度も家を見廻ったが、異状なし。よって表に近い松の木の下の素掘りの穴に、出来るだけの物を入れて、土を被せてやろうと思った。
 まずわが部屋の引出しを投げ込んだ。それから皆の寝ていた蒲団を投げ込み始めたが、これがとても重く感じられた。その間にも火の子がうちへ入るので目は放されず、おまけに風下にいるので、七、八軒向こうの火勢がまともに吹きつけ、煙はもうもう、息をするのが苦しくなる。
 ラジオも、アルバムも、本も、辞典も入れた。ミシンを出したが、重くて自由にならず、庭に放り出して逆さにした。足の方が上だ。これは金属製だから、すぐには焼けまいと思う。
 壕はまだ半分ふさがっただけだが、これ以上物を入れるのはやめにした。そう欲ばっても――と思ったのと、いつまでもこんなことばかりしていられないからだ。
 まだ土をかけていないのに気づいてそれを始めた。裏からクワをとって来たが、土にぶっつけても跳ねかえるだけ。やむなくクワの根本を持って土をかく。この方がいくらか楽だ。
 心臓が止まりそうになる。時々休んだ。休んでいると元気も力も回復することが分った。
 一人ではとても駄目であると思い、誰か子供一人をつれて来たいと裏へまわる。裏でも盛んに土をかけていた。ようやく大きい穴がふさがり、今度は小さい穴にかかっていたが、土が足らないという。
 あとは英と晴彦にまかせ、陽子を伴って門の方へ引返す。と、多勢の人が煙の中から門へ入って来た。見ると菅野さん、羽山さん、松原さんたちである。
「どうしました?」「火が迫っています、今のうちに逃げないとあぶない」銀行の支店長をしている菅野さんが言う。
「まだ大丈夫ですよ、頑張れば喰いとめられますよ」「いや、もういけません、佐伯さんの方と、高階さんの方の火とが、両方からこっちへ押して来て、息がつまりそうです」
 婦人たちは口々に、早く待避せねばたいへんだとわめいている。私は逃げるつもりはなかった。「それでは家の裏から田中さんの畑へお逃げなさい。あそこなら大丈失ですから」教えてやると、昔ぞろぞろと家の庭を通って姿を消した。十人近い同勢である。松原大佐夫人が無言で、小さい身体を一行のあとに運んでいるのを見た。
 その前菅野さんの家は四ヵ所もえあがり、それはようやく消しとめたが、菅野さんは屋根へあがって消火しているうちに屋根からすべりおち、地上にしばらく伸びて口もきけなかった由。それ以来菅野さんは戦意を喪失しているようにみえた。
 一同が去ったあと、私たちはなおも火の子と煙と戦っていた。
 焼夷弾は幾度となく頭上にまかれたようだが、奮闘している身は、気がつかない。
 そのうちに少し明るくなってきた。煙がうすれ、風向きが変わって、呼吸も楽になった。これなら何とか危機を脱せそうだと、やっと希望をもちだしていると、空襲警報の解除が、伝えられてきた。電気はとっくに切れてしまったので、ラジオが鳴らず、口頭伝達である。一時間ばかりが、奮闘の絶頂であった。
 あたりはまだ炎々と撚えている。真西は最も盛んだ。あとでわかったことだが、豪徳寺東よりの軍の材木置場が燃えているせいだった。
 最も近火だった南の高階さんの向こうの火も余燼(よじん)だけとなった。
 一同相寄り「まあよかった」と、よろこぶ。
 近所からもそれぞれ顔が出る。いつの間にか皆家へ戻っていて、それぞれの部署を守って敢闘した由。さすが日本人である。
 私が「大丈夫、消せます。頑張りましょう!」といった一語が、隣組の人達によほど響いたことがわかった。菅野さんの若い人たちなどは初めから避難反対だったが、両親の命令で一緒に避難したが、私がそういったことやら、うちの子供が一生懸命土をかけて活動しているのを見て、これでは避難もしていられぬと、すぐ自宅へ引返したという話であった。
 押入に残っていた蒲団を出して、一同仮寝につく。みな疲れと安心とで、ぐうぐう寝込む。
 夜中に声あり。出てみると水田君が見舞に来てくれた。眠い目をこすりながらしばらく話をする。自由ケ丘の方は今度は大丈夫なりとのこと。
 かくして夜は更けていった。というよりも暁を迎えたのであった。

 五月二十七日
◯夜は明け放たれた。起出てみたが、夢のような気がする。

 六月十日
(※以下、新聞の切抜き)
 敵機の本土爆撃は漸次(ぜんじ)頻繁(ひんぱん)、大規模となりつつあるが、四月十六日から五月三十一日までの空襲被害状況とその特色が、当局の調査によってまとめられた。
 それによると四月十六日以後一ヵ月間は、沖縄作戦を有利に導くため戦略爆撃を主とし、九州、四国方面の航空基地、あるいは航空機工場を目標としていたが、五月十四日以後再び大都市無差別爆撃を開始し、戦略的効果をねらうに至り、五月十四、十七日名古屋に、二十三、二十五日東京、二十九日横浜に来襲した。
 この空襲で注目されるのは、二十九日の横浜爆撃で従来の夜間爆撃戦法をやめ、午前の晴天時に来襲していることで、六月一日の大阪爆撃と併せ考える時、今後敵は白昼の無差別爆撃を行なうことが予想される。
 また他の特色としては、
(一)多数戦闘機の護衛を伴い来襲し(二)港湾水路に機雷敷設(三)宣伝ビラ散布の執拗な努力をしていることなどである。さらに警戒を要することは衛星都市ないし中都市、交通の中心地に爆撃を加える傾向のあることである。
 四月十六日から五月三十一日までの空襲で、皇居、赤坂離宮、大宮御所も災厄を受けたが、大宮御所の場合は夜間爆撃とはいえ、月明の中で広大な御苑の樹林、芝生のほとんど全部が焼けただれるほどに焼夷弾を投下したことは、単なる無差別爆撃でなく特別な意図を抱く行為であることは明らかである。
 このほか熱田神宮本殿、日枝神社、松蔭神社、東郷神社なども災厄を受け、寺院では増上寺、泉岳寺等も爆撃された。
 病院では、慶応病院、鉄道病院、済生会病院、松沢病院、青山脳病院、名古屋城北病院、県立脳病院など。
 学校では慶応大学、早稲田大学、文理科大学、東京農大、一高、成城学園、日大予科、女子学習院を初め中学、国民学校多数。
 文化的遺産では名古屋城天守閣、黒門、日比谷図書館、松村図書館など多数。
 とくに二十三、二十五日の東京空襲では秩父宮、三笠宮、閑院宮、東伏見宮、伏見宮、山階宮、梨本宮、北白川宮の各宮邸、東久邇宮鳥居坂御殿、李鍵公御殿などが災厄を受け、
 公共施設では外務省、海軍省、運輸省、大審院、控訴院、特許局、日本赤十字社の一部ないし大部の焼失をみたほか、
 帝国ホテル、元情報局、海上ビル、郵船ビル、歌舞伎座、新橋演舞場なども一部ないし大部を焼失した。
 なお同期間内の大都市空爆被害は、東京全焼二十五万七千戸、戦災者約百万人、名古屋全焼三万六千戸、戦災者約十一万、横浜十三万二千戸、戦災者約六十八万人と推定され、この期間中に静岡、浜松にも相当被害あり、九州、四国、山陽方面にも戦略爆撃による被害があった。

 B29機来襲
 三月  二千機
 四月  二千五百機
 五月  三千機
 5/29 横浜 B29、五百機 P百機 正午頃
     大阪東部、北部、尼ケ崎へ
     神戸東部、芦屋 B29、三百機
 6/9 尼ケ崎、明石 B29、百三十機 朝
 6/10 日立、千葉、立川 B29、三百機 P51、七十機 朝
 6/11 立川 P51、六十機 正午頃

 六月十一日
◯昨日も今日も敵機は来襲。いずれも白昼である。ただし、我家の方には投弾せず、もっぱら立川と溝ノ口か狛江らしい方面へ落として行った。昨日はB29、三百機で、日立や千葉へも行った。そして硫黄島発のP51を七十機伴なっていた。折柄、臨時八十七議会を開会中で、戦時緊急措置法案上程の最中だったが、議会は午前中休会のやむなきであった。
 今日はP51ばかり六十機、また立川ヘ。
 これらは本格上陸作戦の直接準備と解すべきか、私は、まだ少し早いと思う。
 とにかく千葉にはもはや八十万ぐらいの精兵が集っているらしく、いつでも敵を迎えうつ体制とはなっている。しかしまだ現地の姿は静かに見える。
◯武井さんという律義で正直な大工さんを中川君の妻君が紹介してくれ、前から鶏舎や炬燵(こたつ)など作ってもらっていたが、この前の五月二十五日の空襲の翌日(二十七日)ふらりと姿を我家へ現わしてくれた。実は女房から「裏の防空壕の入口の木が地上一尺ほどはみ出しているので、これを切ってほしいから、手がすいていたら来てほしい」と手紙を出して置いたので、見に来てくれた訳。
 ところが武井さんの顔を見ると、地下物置が作りたくなり、武井さんも「それは必要だ」といってくれたので、急に話がまとまって建造にかかった。材料は物置をこわした。二軒のうち一軒は、萩原さんのものを買取ることにした。これ以外に柱二十本、トタン板十坪が入用。これは梅月さんに頼む。梅月さんも「この頃は穴掘りばかりやっているから掘ってあげましょう」といってくれ、すべてがとんとん拍子で、たった五日間で、二坪の壕舎が、鶏小屋の前に完成した。全くたいへん調子のよいことであり、これにて安心、衣類、蒲団、書籍その他を入れた。
 この間二週間ばかり、私は子供たちを手伝わせたりして、ずっと運搬整理などの力仕事をしたので、たいへん痩せたといわれた。
 もうその方は片づいたのであるが、まだ忘れものがあって、思いついてはまた入れている。
 日用品は誠に大切で、夜はしまって寝なければならず、朝には必要となるので、出したり入れたりの日課がふえた。
 昨十日昼間のB29、三百機来襲には、蒲団などを入れて、ふうふういった。これには目下不在中の同宿者たる中川(※八十勝)君と良太(※朝永)君のものを担ぎ入れるのに、相当骨を折ったからである。敵機が去ったので、出さねばならぬ段取りとなったが、腹も減って、昼飯を一時間早く請求、これでようやく力を出して取出すことが出来た。
 中川君、昨日広島より帰京している筈のところ、今日夕刻に至るも、まだその姿を見せず。昨日の空襲で豊橋―掛川間が不通となった事故のための延着かと思っていたが、この分ではそうでもなさそうに見える。
◯昨日、日大山田君来宅、過日陸軍軍需本廠研究部へ売却した技術科学書及び雑誌代として、金四百六円七十銭を届けてくれた。
◯今日関東配電の鈴木老が、電灯線不通の状況を見に来てくれた。高階さんの向こうのところでポールやトランスが焼け、柱が燃え折れているので、やっぱり当分通電はむずかしいらしい。

 七月十四日
◯前誌より一ヵ月以上経った。なぜこの日記を書かなかったのかと考えてみる。忙しさのためだったといえよう。その忙しさの原因は、空襲対策の整理のため、仕事のため、殊に講演出張のため。
◯沖縄は去月二十日を以て地上部隊が玉砕し、二十六日にはそれが発表された。「天王山だ、天目山だ、これこそ本土決戦の関ケ原だ」といわれた沖縄が失陥したのだ。国民は、もう駄目だという失望と、いつ敵が上陸して来るか、明日か、明後日か、という不安に駆りたてられている。
 果して天王山だったのか、関ケ原だったのか。それは尚相当の時日を貸さなければ判定できないが、この天王山だの関ケ原などという用語が、あまり感心出来ないものであることは確かだ。それは国民の戦力敵愾心(てきがいしん)を集結させるために余儀ない強い表現であったかもしれないが、今度のように沖縄がとられてしまったとなると、もうあとは戦っても駄目だ、日本の国はおしまいだという失望におちいって、動きがとれなくなる。これは困ったことだ。
 当局はそれに困ってか、沖縄は天王山でも関ケ原でもなかった。そんなに重要でない。出血作戦こそわが狙うところである――という風に宣伝内容を変えてもみたが、これはかえって国民の反感と憤慨とを買った。そんならなぜ初めに天王山だ、関ケ原だといったのだと、いいたくなるわけだ。
 これに対して、鎌倉円覚寺管長の宗海和尚はこういっている。「沖縄は天王山であり、関ケ原である。あれはとられたが、ぜひとも奪還しなければならぬ、それほど沖縄は重要なのである、という風に持って行くべきじゃ」この説まことに尤もである。最近では遠藤長官が、この奪還論を掲げるに至った。
◯昨十三日午前零時頃、久方ぶりに敵B29、五十機京浜地区を夜襲し、川崎、鶴見を爆撃した。爆弾と焼夷弾とを投下したが、折柄豪雨で、そのために発生せる火災は間もなく消えてしまった。敵のためにはお気の毒を絵にかいたようであった。
◯七月一日より五日まで、山梨県下に甘藷二十七億貫植付の激励講演をして廻った。甲府市には二日、三日、四日といた。その二日後の六日夜にはB29の大編隊が来て、市を八、九割焼いてしまった。きわどいところであった。
 甲府はこの上もない安全地帯だと思っていたが、来てみると、地下一尺五寸にして水が出て、防空壕が深く掘れず、山国ゆえ食糧の移入困難の恐れもあり、加えて陸軍大学等の諸官衙(が)がここへ疎開している上に軍隊がたくさん居るので、食糧事情は一層困難だということであった。もちろん家も空部屋もなく、旅館で部屋のとれないことは甲府の名物だとあった。
 私が甲府を離れた七月四日に、ようやく建物疎開をすることが決まったばかり。すべては油断があり、遅すぎた。しかし空襲が一度もなかったこの市民たちを、大いに緊張せしめる事の出来なかったのは、何としても知事以下の努力の足らざるところと思われる。
 県庁も、駅も、郵便局も、警察署も焼け残ったそうで、その奮闘はたいしたものであったというが、それだけが焼残っただけでは困る。町が焼けずに残らねば何にもならぬ。
◯七月八日は栗橋の吉田修子さんの婚礼があり、目下入営中の戸主・卓治さんの心持もあり、私はその式に列した。それから平磯へいって講演をしたが、それが九日。十日は早目に帰京するつもりでいたところ、朝五時半から敵機動部隊が鹿島洋、九十九里浜沖から艦載機をぶんぶんとばすので、夕刻まですっかり平磯館に閉じこめられてしまった。
 ロケット弾を放つ小癪な敵機を見た。平磯館の裏は飛行場であるから、盛んに銃撃があった。しかしたいてい敵機が帰りがけの駄賃に撃っていった。
 平磯では取締りがやかましく、皆防空壕に入れといったり、町をあるいていると叱りつけたり、こんな小さな町がそう神経質にならずともと私は思ったが、誰の心理も自分のところが狙われているのだと信ずることには変わりはないようだ。
 午後五時四十分平磯発の汽車で、松村部長と共に帰京の途についたが、これが十二時間ぶりに動き出した初列車。水戸から上野へ走る列車はがらがら空いていて、乗客一人当たり六席か七席もあった。
 渋谷からは歩いて帰る。渋谷着は午後十一時十分であったが、玉川線は十時半が終車ゆえ、歩くしかない。焼跡の間の一本道を大坂上にかかったとき、警戒警報が発令された。あまり灯火を消す風も見えず、憲兵隊の漏灯をはじめ、民家にもコウコウたる点灯の洩れているのを見る。焼跡だからとの油断らしい。大橋に至り、焼けていない目黒方面を見ると、灯火管制は完全であった。焼跡住民の士気弛緩は慨(なげ)かわしい。
 帰宅までに二度、お巡さんから誰何(すいか)された。リュックの中の品物について訊問を受ける。それが大鯛であり、防空頭巾をかぶせてもまれるのを防いであるので、余計に大きく見える。この鯛は貰って来たものである事や、空襲下の平磯からようやく開通の列車で帰って来たことなどを話して、諒解して貰った。
◯中小都市の爆撃が始まり、猖獗(しょうけつ)を極めている。そのさきがけは、五月二十九日の横浜市への五百機来襲であった。
◯御影の益兄さん一家も、芦屋、御影、神戸東部の濃密爆撃のため、全焼した。しかし一同無事。
 姉さんと圭介君は、益兄さんの勤務している広島の近くへ行くし、咲ちゃんと修ちゃんは御影へ残ることとなり、それぞれの友人の宅に置いて貰う。ほかに良ちゃん(※朝永良太)はうちに下宿中、洋二君は商船学校に在学中で、一家六分離した状態となった。
◯親類ですでに戦災せるは、牛込岩松町の山中作市氏一家、ほかに樋口(中野)、中条(代々幡)、常田(厩橋)である。
◯清水も過日、濃密夜爆を受けたという。羽部家は如何かと案じているが、たぶん大丈夫だと思う。町はずれにあるからそう思うのである。
◯偶然焼け残ったというところはない。懸命の努力で消火したればこそ焼け残ったのである。
◯本十四日、敵機動部隊は再び艦載機で攻撃を開始した。時刻は同じ五時半より。地域は主として東北方面である。

 七月十五日
◯昨十四日は釜石が敵艦隊のため艦砲射撃を受けた。本州艦砲射撃の最初である。
◯昨十四日は、二次のKB(きどうぶたい)来襲。主として東北及北海道南部。
◯やはり昨日、森村義行君を玉川電車の一列行列の中に見出す。聞けば「焼けたよ」との事、「ファベルをすっかり焼いて残念だ」といっていた。ファベルとは独逸の鉛筆のことである。うちにあるのを少し分けてあげると約束した。

 七月十六日
◯森村義行君を瀬田へ訪問。気の毒になる。
◯東部三十三部隊。

 七月二十一日
◯最近のB29は、一機にて入り来り、大型爆弾や焼夷弾を投下する。今日も昼頃来て、うちの南方に焼夷弾を落として行った。
◯昨日の嵐に、近海行動中の敵機動部隊もさぞゆられたことじゃろう。
◯本日地下物置のものをすっかり出して乾す。昨日の嵐に、大分浸水したからである。これもアメリカのお蔭かと、憤慨しながら力を出す。

 七月二十六日
◯一昨日、中部以西へB29、七百機、その他小型機合計二千機来襲す。これまでの記録破りの賑かさなり。折柄、ポツダムに於いてスターリン、トルーマン、チャーチルの三頭会談を開催中であり、その宣伝効果をねらったものと報道される。わが方の飛行機さっぱり応戦せず、ただ地上砲火によって反撃したのみ。
◯清水の羽部さんも過日戦災したことが判明した。鎌倉のおばあちゃんからの知らせがあったからである。だいぶあわてたらしく、澄子さんもいいもんぺやシャツを着るのを忘れて、一等みすぼらしいもののまま焼け出されたとか。全く気の毒。敵への憤激は日に日につのるが、さてこっちは空へ手が届かず、まことに残念。地道ながら努力して戦力を盛りかえすしかない。
 ちなみに一家は茨城県太田へ移ったという話だが、この太田は日立よりやや北方、海岸ではないが海に近く、あまり安全とは申されない。しかしお互いさまに縁故先に適当なのがなく、それに差し当たり食糧が果してうまく手に入るかという問題があるので、危険でも何でも縁故へ落ちついて、まず食べられる安心を求めるのである。食はなにしろ皆が毎日のことだから大変な仕事であり、問題である。
◯昨夜B29、五十機ばかりが午後十時頃より京浜地区に侵入、主として川崎を爆撃した。折柄満月であったが、煙がだんだん高く天空にのぼり、せっかくの月の光を消してしまった。ふと「鵜飼」を思い出した。
 零時半頃には、「最終機」などの言葉が警報に出る。まだ数十機そこそこであるから「最終機」などと安心していられないように思ったが、電探ではたしかに押さえているんだから正確、まもなく空襲警報解除となり続いて警戒警報も解除となり、そして寝た。
 川崎にまだ焼けるところが残っていたかと不思議な気持。
◯夜半敵機来襲に、身のまわり品や机の周囲のものを見廻して、防空壕に入れるべきものは何々ぞと考えると、どれもこれも大切――というよりも重宝なものばかりであるにはまごつく。
 確かに防空壕に入れておいた筈のものが、いつの間にか、また手もとにずらりと並んでいるのには驚く。つまり、日々の生活のために必要だとあって、壕から取出して来て使い、そのままになってしまったものが、だんだんふえて来たわけである。さてこそ日用品というものは大切であり、重宝なわけ。万年筆一本、ナイフ一挺、メモ一冊なくなっても不便この上ないわけ。われわれの生活様式も一段と工夫を積まねばならぬ。

 七月二十九日
◯昨日は岡東浩がえらくなったというので、招待してくれた。どうえらくなったのかわからぬが、とにかくうれしい話で、土産ともお祝ともつかずジャガイモの包をもって家を出かけた。玉川電車を渋谷で下りて、都電に乗ろうとして、渋谷から天現寺、四の橋行きはありますかと聞いたところ、今はやっていないとの事、なるほどそうであったかと、新橋行で行くことにする。くる電車もくる電車も素通りで、八、九回目にようやく乗れたが、一列に並んでいる人達何の苦情も言わず。心得がいいというか、よく心得ているというか、おとなしい都民達だ。
 宮益坂を電車はのぼる。「明治天皇御野立所」と書いた神社跡が左にある。この奥の社殿は形もなし、こま狗だかお狐さんかの石像が二つ、きょとんと立っている。
 渋谷郵便局もすっかり焼けたままになっている。一階の事務をとっていたところは、腰板からしてない。あれはコンクリかと思っていたが、木であったことがこれでわかった。
 古本屋もすっかり跡片なし。あの夥しい埃の積んだ本が皆焼けたかと長歎した。新本にちょっとさわると、本のあつかい方がよくないといってえらく叱りつける本屋があったが、この本屋も跡片なし。渋谷から青山の通りを経て赤坂見附まで全くよく焼けたもの。古くからの、そして充実した町であっただけに灰燼(かいじん)に帰した今日、口惜しさがこみあげてくる。
 材木町で下りて、歩き出した。南浦園も外側の支那風のくりぬきのある塀だけが残っている。あの粋な築山(つきやま)も古木も見えず。支那風のくりぬきから中をのぞけば、奥の方に桃色の腰巻が乾してあるのが目についた。僅かに南浦園のかおりがする。
 角に消防署があるところで左へ曲って仙台坂へ出るつもりであるが、行けども行けどもその消防署が見えぬ。そこで心細くなって、右側にバラックを建てて住んでいる家へ声をかけて聞くと、ていねいに教えてくれた。「すっかり焼けて町の様子が変わっていますがな……」とその老人は元気な声で語った。
 消防署は焼けずにあったが、私の考えた二倍以上も道のりがあるように感じたのはふしぎである。そのあたりへ行って、初めて家が焼けないで残っている。その古いごたごたした家並を見ると、なんだか変な気持になった。残ってよかったと思うよりもこれも一緒に焼けてしまえばもっときれいになったろうにと、妙なことをちょっと考えた。焼跡は案外きれいである。そして広々と見晴らせて、明治以前の江戸の土地の面影がしのばれて気持ちがよい。
 岡東の家にたどりついた。すでに朝倉、加藤両氏が到着していて、酒宴が始まっていた。たいへんな御馳走で、目をまわした。酒もかなりある様子。酒を飲まぬ私は、意地きたなく食いすぎて腹をこわすまいぞ、近頃食いなれないものを口にして腹をいためまいぞ、と自分に言い聞かせつつ、いろいろと御馳走になった。
 あとで鳥や肉やの御馳走をそう思い出さず、イカの塩からとトマトの味がひどくうれしくて、忘れかねた。
 八時過ぎたとき、誰かがもう失礼しないと都電がおしまいになるのではないかといった。まだ八時過ぎたばかりで、都電の赤電(※終電の別称)がある筈はあるまいと思っていると、岡東が時計を見て、ああ、そろそろ急がなくては……という。本当かいと聞けば、この頃の都電は八時半頃で終車となる由。これには驚いた。先ごろ玉川線が十時半終車になったので、甚だ早すぎると思ったが、都電が八時半位で赤電になるなら、玉川線はまだましの方だ。
 客三人と岡東父子との五名で、仙台坂を二の橋の方ヘ下りて行く。
 坂上の交番は先日廃止になったばかりだったが、おまわりさんが三人も入って勤務している。こわふしぎと聞けば、岡東の話に、先々月二十五日にこの附近一帯が焼けてしまってからは、お巡りさんの交番も数がうんとすくなくなったらしく、再びここが開かれたのだという。
 仙台坂を少し下って行くと、右側に米内海軍大臣の仮寓(かぐう)があった。米内さんの家は原宿だったが焼け、それ以来ここに来て居られる由。
 そこを過ぎるともう焼野原。月もまだ出ぬ暗闇ながら、ひろびろと焼野原がつづいているのがわかる。
 坂の途中に、電灯を煌々(こうこう)とつけて土木工事をやっている。近づくと兵隊さんの姿もあり、兵舎のようなものもある。土木工事の小屋にしては今どきたいしたぜいたくなもの、といぶかっていると、これは地下道を掘っているのだった。ゲリラ戦用の地下道で、麻布一番から霞町へ抜ける長いものだという話。ヘえ、そうかいと私は目を見張って改めて現状を見直した。煌々たる電灯の光に、墓石が白く闇にうき出して林立しているのが見えた。亡者たちが、「わしらの眠っている下を掘るのですよ、わしらもいよいよ戦列につきましたわい、はははは」といっているようだ。
 坂下へおりて、停留所に佇む。とたんにラジオが警報を伝える。伊豆地区に警戒警報が出たらしい。
 折柄、電車のへッドライトがこっちへ向かって来る。古川橋まで駈けて、それに乗る。五反田行だ。
 岡東父子の顔が、闇の中に残る。
 電車は走り出したが、魚籃(ぎょらん)のところで東京地区の警報発令、車内は全部消灯する。それから全然無灯で闇の中を電車は走る。
 日吉坂下で架線の断線があり、停まってしまう。どうなる事かと心配していると、案外早く電気が来て、また動き出す。
 清正公前から明治学院の前を通り、五反田へ向かって電車は闇をついて走る。あぶなかしくもあり、何となく勇しくもある。戦闘前進中のようで……。
 雉ノ宮の坂を下るとき、右方に電気試験所の焼跡があるので、何か見えるかと思って窓から闇を透かしたが、何も見えない。いや見えた、灯が一つ。不用意の灯、試験所の宿直がそうなら呑気すぎる。
 電車は五反田駅前でぴたりと停る。「はい十銭」「はい定期です」乗客はおとなしく、車掌も「気をつけてくださいよ。足もとが暗いですから」といつになく親切だ。下におりたが、さて駅の改札はどこだかわからぬ。焼けてしまった上に、まっくらだからである。
 ようやく見つけて、女駅員に声をかける。「切符はどこで売っていますかね」「着駅で払って下さい」で通してくれる。「階段はどこ?」「まっすぐ行って右ですよ、右の壁を伝(つたわ)っていってください」なるほど、と壁をさぐりながら行く。ようやく見当がついた。階段より上がれば、高いホームの上は、案外空が明かるい。乗客が温和(おとな)しく電車を待っている。電車は間もなくホームへ入って来た。乗客がぎっしり詰まっていた。
 渋谷で降りる。朝倉、加藤両氏は帝都線であるから、そこで別れる。
 玉川線のホームに入ると、電車が一台待っている。「柴栗さん」というアダ名の張りきり助役さんが、声を張りあげてまっくらなホームにくりこんでくる乗客を整理している。「この電車は玉川行です。下高井戸行の方もこれに乗って下さい。警報がどうなるかわかりませんから、すこしでも先に行っておいて下さい」と、時宜に通じた注意を出している。
 くらやみの中に、ぎゅうぎゅうつめられる。能率がわるい。ひどく押される。三軒茶屋で降りて、乗替えを待つ。
 電車はなかなか来ず。そのうちB29の爆音が近づいて来る。「そらB公だ」と空を仰ぐが見えない。そのうちに遠ざかっていった。しばらくして、また爆音が近づく。「単発だ。味方機だよ」と誰やらが呟(つぶや)く。もうすっかり耳の訓練の出来ている都民たちだ。
 電車はまだこない。乗客たちは待ちあぐんで皆ホームに腰を下ろし、足をレールの方へ出し腰を据えた。
 夜気が冷えびえと頬のあたりへ忍びよる。太子堂の焼残った教会の塔が浮かんで見える。月がようやく東の空にのぼりはじめたらしい。夜空は大分明かるさを増した。

 七月三十日
◯昨夜は天竜川口で、敵米艦隊の艦砲射撃がかなりあったらしい。
◯きょうは早暁から艦載機飛来。夕方に終ったかと思ったが、夜に入っても三十機ばかり押しよせた。

 八月九日(その一)
◯去る八月六日午前八時過ぎ、広島へ侵入したB29少数機は、新型爆弾を投下し、相当の被害を見たと大本営発表があった。これは落下傘をつけたもので、五、六百メートル上空で信管が働き、爆発する。非常に大きな音を発し、垂直風圧が地上のものに対して働くばかりか、熱線を発して灼(や)く。日本家屋は倒壊し、それによる被害者は少なくなかった。熱線は、身体の露出部に糜爛(びらん)を生じ、また薄いシャツや硝子は透過して、熱作用を及ぼすのである。
 広島の死傷者は十二万人という。これは逓信省(ていしんしょう)へ入った情報である。右新型爆弾の惨虐性につき、新聞論調は大いに攻撃するところがあった。
 新聞発表は八月八日であったが、この日は対策が示されなかった。李※公殿下も御戦死(七日)爾来一機のB29も油断ならずとして、壕内待避をする事となった。
「敵は、新型弾使用開始と共に、各種の誇大なる宣伝を行ない、既にトルーマンの如きも新型爆弾使用に関する声明を発しているが、これに迷う事なく、各自はそれぞれの強い敵愾心をもって、防空対策を強化せねばならぬ」とA新聞はこの日の報道を結んでいる。
◯わが家の措置としては、情報判断により、つとめて裏の防空壕に入ること、表の地下物置は蒲団をかぶるようにし、上からの爆風に耐えるよう何か考えること(畳を重ねて上に置くことも一つ)、素掘壕の上に何か置くこと(大本箱を置くことも一つ)、素掘壕をもっと深く、かつ横穴式に掘ってみる事、もう一つは疎開のことを考え直すこと。尚もし家屋が倒壊すれば、その資材を使って、地下家屋を建てる事にすればよろしい。
 心配の一つは、農作物がこれによってやられるであろうから、今年の米の収穫は非常に減少する事であろう。そのための食糧対策として、イモ系のものをたくさん作って置く必要がある。その他の保存食糧の入手についても、努力せねばならぬ。
 積極的対策としては、飛行機増産により、敵機を侵入させぬよう努める事が肝要。
(昨夜あたりは、いつになく味方夜間戦闘機が相当数出て、上空を警戒していた)
◯敵が追い追いと新しい威力を備えた新兵器をくり出す事は、かねて予想された事であって、今さら驚くに当たらない。日本がサクラの爆薬をもち、風船爆弾をくり出し、特攻隊を有するのに対し、アメリカはB29だけというわけにも行くまいではないか。もともとアメリカは科学技術について一流の国であり、近来はそれを世界一の水準にあげるべく努力して来たわけで、現在その実力はほぼこの目標近くに達している。そういう敵アメリカが、今まで新兵器を出さなかった事はふしぎなくらいである。
 新兵器は一応恐るべき力を発揮するが、それは出現の最初の時期だけと、それについての宣伝力の及ぶ或る期間だけのことである。その対策がとられ、人々が用心深くなり、その結果被害がだんだん減少して来ると、その新兵器の実力以下に評価される時代が必ず出てくる。
 V一号(※ドイツの開発した、有翼のロケット爆弾機)出現当時のロンドンその他の混乱はたいへんなものであったが、それの対策が出来ると共に、市民は平静さをとり戻し、被害は少なくなった。わが特攻隊の出現は敵陣を大恐怖せしめたが、今ではいろいろの対策がとられて、或る程度の効果をあげている。すなわち特攻隊の通路に三重四重に戦闘機隊の網をはる事、弾幕を完全なものにするため船舶の対空砲火を増大する事、内地の航空基地の攻撃激化、B29等による本土空爆の強化、これに附帯した謀略戦などである。
 また本土上陸戦がわが特攻隊のために被害甚大となるのを予想して、これを当分見合わせ、また空中よりの攻撃を強化する。右にのべた八月六日の広島市に初投下せる新型熱線有傘爆弾もこの一つの現われと見るべきである。
「さあ新兵器が現われたぞ、大変だ、大変だ」と、そう心臓をどきどきさせていては、敵がよろこぶばかりである。よろしく国民は一つの宿題を寄こされたつもりで、それと正面から取組み、それぞれの工夫において被害を最小限度化すべきである。
 政府及び軍部に対して希望するのは、よろしく士気を昂揚するようなことをやってもらいたいことである。たとえばB29を国民の目の前で撃墜するが如きことである。
◯闇値
 本は五倍乃至十倍
 米一俵千五百円
 砂糖一貫目七百円乃至千円
 下駄三十六円
 煙草「光」十本十五円
 軽井沢の生活費一人三千円乃至一万円

 八月九日(その二)
◯「今九日午前零時より北満及朝鮮国境をソ連軍が越境し侵入し来り、その飛行機は満州及朝鮮に入り分散銃撃を加えた。わが軍は目下自衛のため、交戦中なり」とラジオ放送が伝えた。
 ああ久しいかな懸案状態の日ソ関係、遂に此処に至る。それと知って、私は五分ばかり頭がふらついた。もうこれ以上の悪事態は起こり得ない。これはいよいよぼやぼやしていられないぞという緊張感がしめつける。
 この大国難に最も御苦しみなされているのは、天皇陛下であらせられるだろう。
 果して負けるか? 負けないか?
 わが家族よ!
 一家の長として、お前たちの生命を保護するの大任をこれまで長く且ついろいろと苦しみながら遂行して来たが、今やお前たちに対する安全保証の任を抛棄するの已(や)むなきに至った。
 おん身らは、死生を超越せねばならなくなったのだ。だが感傷的になるまい。お互いに……。
 われら斃(たお)れた後に、日本亡ぶか、興るか、その何れかに決まるであろうが、興れば本懐この上なし、たとえ亡ぶともわが日本民族の紀元二千六百五年の潔ぎよき最期は後世誰かが取上げてくれるであろうし、そして、それがまた日本民族の再起復興となり、われら幽界に浮沈せる者を清らかにして安らかな祠(ほこら)に迎えてくれる事になるかもしれないのである。
 此の期に至って、後世人に嗤(わら)わるるような見ぐるしき最期は遂げまい。
 わが祖先の諸霊よ! われらの上に来りて倶(とも)に戦い、共に衛(まも)り給え。われら一家七名の者に、無限不尽の力を与え給わんことを!
◯夕刻七時のニュース放送。「ソ連モロトフ人民委員は昨夜モスクワ駐在の佐藤大使に対し、ソ連は九日より対日戦闘状態に入る旨の伝達方を要請した」由。事はかくして決したのである。
 これに対し、わが大本営は、交戦状態に入りしを伝うるのみにて、寂(せき)として声なしというか、静かなる事林の如しというか……
 とにかく最悪の事態は遂に来たのである。これも運命であろう。二千六百年つづいた大日本帝国の首都東京が、敵を四囲より迎えて、いかに勇戦して果てるか、それを少なくとも途中迄、われらこの目で見られるのである。
 最後の御奉公を致さん。
  今日よりは かえり見なくて
   大君の 醜(しこ)の御楯(みたて)と
  出で立つ われらは
◯暢彦が英に聞いている。
「なぜソ連は日本に戦争をしかけて来たの?」
 彼らには不可解なことであろう。
 ふびんであるが、致し方なし。

 八月十日
◯今朝の新聞に、去る八月六日広島市に投弾された新型爆弾に関する米大統領トルーマンの演説が出ている。それによると右の爆弾は「原子爆弾」だという事である。
 あの破壊力と、あの熱線輻射とから推察して、私は多分それに近いものか、または原子爆弾の第一号であると思っていた。
 降伏を選ぶか、それとも死を選ぶか? とトルーマンは述べているが、原子爆弾の成功は、単に日本民族の殲滅(せんめつ)にとどまらず、全世界人類、否、今後に生を得る者までも、この禍に破壊しつくされる虞(おそ)れがある。この原子爆弾は、今後益々改良され強化される事であろう。その効力は益々著しくなる事であろう。
 戦争は終結だ。
 ソ連がこの原子爆弾の前に、対日態度を決定したのも、うなずかれる。
 これまでに書かれた空想科学小説などに、原子爆弾の発明に成功した国が世界を制覇するであろうと書かれているが、まさに今日、そのような夢物語が登場しつつあるのである。
 ソ連といえども、これに対抗して早急に同様の原子爆弾の創製に成功するか、またはその防禦手段を発見し得ざるかぎり、対米発言力は急速に低下し、究極に於いて日本と同じ地位にまで転落するであろう。
 原子爆弾創製の成功は、かくしてすべてを決定し、その影響は絶対である。
 各国共に、早くからその完成を夢みて、狂奔、競争をやってきたのだが、遂にアメリカが第一着となったわけだ。
 日本はここでも立ち遅れと、未熟と、敗北とを喫したわけだが、仁科(※芳雄。原子核の研究に取り組み、理化学研究所に日本初のサイクロトロンを建設した物理学者)博士の心境如何? またわが科学技術陣の感慨如何?

 八月十一日
◯海作班(※海軍報道班文学挺身隊)第三準備会にて我家に集合。倉光(俊夫)、間宮(茂輔)、角田(喜久雄)、湊(邦三)、村上(元三)、鹿島(孝二)、摂津(茂和)、小生の八名集まる。
 今日は宿題を検討する予定なりしが、それよりもソ連の参戦、原子爆弾のことの方が重大となったので、このことを検討す。
「天皇に帰一し奉れ」という湊君の説、「生きぬいて作家として新しき日本を作る基礎をつくれ」という間宮君の説、いずれもまじめで真剣。
「全員戦死だ」と最後に倉光君が口を開く。「時と所を異にして……」。一同感慨無量。
◯夜半、盛んに起される。最後に侵入の一機も、原子爆弾を抱いてくるかもしれぬとて「とくに警戒を要す」と放送がある。しかし何事もなく、くたびれ果てて、泥のように眠った。むし暑い夜。

 八月十二日
◯十日米英、首都において緊急会議開催と、朝刊が報じている。和平申し入れが討議されているものと思われる。
 いかなる条件を付したかわからぬが、国体護持の一点を条件とするものらしいことが、新聞面の情報局総裁談などからうかがわれる。
 午後二時迄に、その返答が米英から届くそうだと、新田君が来ていう。
◯とにかく、遂にその日が来た。しかも突然やって来た。
 どうするか、わが家族をどうするか、それが私の非常な重荷である。
◯女房にその話(※家族全員で死ぬこと)をすこしばかりする。「いやあねえ」とくりかえしていたが、「敵兵が上陸するのなら、死んだ方がましだ」と決意を示した。
 それならばそれもよし。ただ子供はどうか?
 子供も、昨日のわが家の集会を聞いたと見え、ある程度の事情を感づいているらしい。「残っているものを食べて死ぬんだ」といったり「敵兵を一人やっつけてから死にたい」という晴彦。
 青酸加里の話まで子供がいう。私はすこし気持ちがかるくなったり、胸がまた急にいたみ出したりである。
 暢彦(※次男)は学校で最近「七生報国(しちしょうほうこく)(※七たび生まれ変わって、国に報いるの意)」という言葉を教わって来たので、しきりにそれを口にする。私も「七生報国」と書いて、玄関の上にかかげた。
◯自分一人死ぬのはやさしい。最愛の家族を道づれにし、それを先に片づけてから死ぬというのは容易ならぬ事だ。片づける間に気が変になりそうだ。しかしそれは事にあたれば何でもなく行なわれることであり、杞憂(きゆう)であるかもしれぬ。

 八月十三日
◯朝、英(※夫人)と相談する。私としてはいろいろの場合を説明し、いろいろの手段を話した。その結果、やはり一家死ぬと決定した。
 私は、子供達のことを心配した。ところが英のいうのに、かねてその事は言いきかしてあり、子供たちは一緒に死ぬことにみな得心しているとのことに、私は愕(おどろ)きもし、ほっとした。そして英からかえって「元気を出しなさいよ」と激励された。
 事ここに決まる。大安心をした。
 しかしそうなると、どっと感傷が湧き出るとともに、さらになお、何かの誤りが責任者の私になきやと反省され、完全に朗かにはなりきれなかった。
 この夜も、よく眠れなかった。

(※この日、海野がしたためた遺書を、以下に引く)

 遺 書
一、事態茲ニ至ル
 大御心ヲ拝察シ恐懼言葉ヲ識ラズ
一、佐野家第十代昌一ヲ始メ妻英、長男晴彦、二男暢彦、三男昌彦、二女陽子ノ六名、恐レ乍大君ニ殉ズルコトヲ御許シ願フ次第也
一、一族憤激シ、絶頂ニ在ルモ、倶ニ抱キ朗顔ヲ見交ハシテ、此ノ世ヲ去ル
 魂魄此土ニ止リテ七生報国ヲ誓フモノナリ
一、時期急迫ノ為メ、親族知己友人諸兄姉ニ訣別スル余裕無カリシヲ遺憾ニ思フ、乞フ恕セヨ
一、御近所ノ皆々様、御挨拶モ申サズ、日頃ノ御礼言モ申述ベズ、御先へ参リマス御無礼ヲ何卒悪シカラズ御宥恕下サイ、御多幸ヲ祈ッテ居リマス
一、我等ノ遺骸ハ其ノ儘御埋メ捨テヲ乞フ、竹陵ノ眠ヲ覚マシ給フ勿レ、合掌
一、遺品等ノ処置ハ御面倒乍ラ左記親族或ハ知人ノ誰方カノ手ニテ然ルベク御処分相成度

 神崎昌雄殿(英ノ実兄)
  世田谷区世田谷一ノ一〇二七
 小泉佑一殿(昌一ノ実弟)
  豊島区千早町二ノ一七
 朝永良夫殿(甥)
  同居中
 永田徹郎殿
  香川県観音寺海軍航空基地気付
  ウ三三八士官室
 永田朝子殿(娘)
 永田正徳殿(婿ノ父)
  鹿見島市天保山町五八
 岡東 浩殿
  麻布区本村町二六
 中川八十勝殿
  同居中
 村上勝郎先生(友人)
  若林町四〇〇
 萩原喜一郎殿(大家サン)
 山岡荘八殿(友人)
  若林町一一〇
 大下宇陀児殿(友人)
  豊島区雑司ケ谷五ノ七一二
 柴田 寛殿(友人)
  世田谷区三軒茶屋一三一
 以上

 右 東京都世田谷区若林町一七九
    佐野昌一
(※引用、終わり)

 八月十四日
◯万事終る。
◯湊(邦三)君と街頭で手を握りあって泣く。
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降伏日記(一)

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 序 昭和二十年八月
 
「空襲日記」変じて「降伏日記」と化す。
 新聞、会話等に於ても、意識してか無意識のうちにか「皇国降伏」の文字を使いたがらぬようであるが、それはいけないことだ。今やわれわれ日本人は、降伏者として――米英ソ中四国その他に降伏した者として十分に自識すべきである。この自識に徹底せざるときは、恐れ多くも詔書にお示しになった御教えから逸脱し、国際信義にもとり、世界平和と新しき問題たる地球防衛に欠くるところあり、また、日本民族の美点と生長とを芟除(さんじょ)することになる。
 もちろん苦難忍辱(にんじょく)のこの途である。一通りや二通りの覚悟ではつとめ切れない。日記を書くのも反省以て新しい勇気を起こさんためである。

 八月十五日
◯本日正午、いっさい決まる。(※戦争終結の詔勅を放送)恐懼(きょうく)の至りなり。ただ無念。
 しかし私は負けたつもりはない。三千年来磨いてきた日本人は負けたりするものではない。
◯今夜一同死ぬつもりなりしが、忙しくてすっかり疲れ、家族一同ゆっくりと顔見合わすいとまもなし。よって、明日は最後の団欒(だんらん)してから、夜に入りて死のうと思いたり。
 くたくたになりて眠る。

 八月十六日
◯湊君、間宮君、倉光君くる。湊君「大義」を示して、われを諭す。
◯死の第二手段、夜に入るも入手出来ず、焦慮す。妻と共に泣く。明夜こそ、第三手段にて達せんとす。
◯良ちゃん、しきりに働いてくれる。

 八月十七日
◯昨夜から、軍神杉本五郎中佐の遺稿「大義」を読みつつあり、段々と心にしみわたる。天皇帰一、「我」を捨て心身を放棄してこそ、日本人の道。大楠公が愚策湊川出撃に、かしこみて出陣せる故事を思えとあり、又楠子桜井駅より帰りしあの処置と情況とを想えとあり。痛し、痛し、又痛し。
◯昨夜妻いねず、夜半に某所へ到らんとす。これを停めたる事あり。
 妻に「死を停まれよ」とさとす。さとすはつらし。死にまさる苦と辱を受けよというにあるなればなり。妻泣く。そして元気を失う。正視にたえざるも、仕方なし。ようやく納得す。われ既に「大義」につく覚悟を持ち居りしなり。

 八月十八日
◯井上(康文)、鹿島(孝二)君来宅。
◯熱あり、ぶったおれていたり。

 八月十九日
◯村上(元三)君来宅。
◯岡東浩君来る。うれし。
◯ようやく気もだいぶ落付く。されど、考えれば考えるほど苦難の途なり。任はいよいよ重し。
◯夜半、忽然として醒め、子供をいかにして育てんとするかの方途を得たり。長大息、疲労消ゆ。有難し、有難し。
◯けさ、広鳥惨害写真が新聞に出た。

 八月二十日
◯熱は少しく下がりしようなるも、体だるし。英(※夫人)も疲労し、やつれ見え、痛々し。しかし今日割合い元気になりぬ。
◯宮様(※東久邇宮稔彦首相)又もや御放送。
◯「大義」を村上先生(医師)へ、「大義抄」を奥山老士へ貸す。
◯「維摩経新釈」を読みはじむ。

 八月二十四日
◯昨夜より今朝迄、十二時間に亘りて雷鳴つづく。
◯防空総本部より発表あり。敵爆弾による死者二十六万人(うち原子爆弾死者九万人)負傷四十万人。罹災者九百万人。これは樺太、台湾を除く人口の六分の一に当たる。都市戦災八十市、うち大半焼失せるもの四十四市なりと。
◯遠藤長官発表して曰く「戦前の飛行機生産高は月産五百機、昨十九年六月は三千機、本年になって工場疎開や爆撃熾烈の中にも一千台を維持し得たり」と。
◯米機、明日よりわが本土に監視飛行を開始する。
◯疲労まだ恢復せず、無理に起きている病人の如し。
◯電灯の笠を元どおりに直す。防空遮蔽笠(ボール紙製)を取除き、元のようなシェードに改めた。家の中が明るくなった。明るくなったことが悲しい。しかし光の下にしばらく座っていると、「即時灯火管制を廃して、街を明るくせよ」といわれた天皇のお言葉が、つよく心にしみてきて、涙をおさえかねた。
◯いかなる事ありとも、外出のときはやはりもんぺをはくべし、と命令し置く。
◯暗幕はそのままにして置く。外から覗かれぬよう、また時にはあたりを暗くして置く必要ありと、思いしが故である。
◯手紙を書くことを極力ひかえつつあり。

 八月二十六日
◯昨二十五日、果して米軍機、監視飛行を始める。台風気味の低雲をついて、全身を鉛色に塗ったグラマン、二機以上の編隊でしきりに飛ぶ。子供はよろこぶ。
◯天候のため、連合軍の上陸は、四十八時間順延となった由。
◯十七日信州では「陸海軍に降伏なし、日本航空隊司令官」と伝単(※宣伝ビラ)をまいたそうな。
◯井上康文(※口語自由詩で、民衆の現実を描こうとした、「民衆派」の詩人)君の詩、昨二十五日夜放送さる。いやな気がした。われら当分筆を執るまい。
◯中川八十勝君、昨夜郷里広島へ出発。家族は大竹ゆえ、たぶん心配はないと思うが、友人、知己、親戚など広島に多く、この方が気がかりと見える。広島の死者は三万から九万にふえた。負傷は十六万だった。二十五万の広島でこれだけの死傷が一時に発生したのであるから、そのときの惨状は地獄絵巻そのものであったろう。誰かその画を描き、アメリカ、イギリスなどへ贈呈してはどうかと思う。
◯今日は放送二つを聴いて、洗心させられた。一つは陸軍大臣下村大将の「陸軍軍人及び軍属に告ぐ」の平明懇切なる諭(さとし)、もう一つは頭山秀之氏の「新日本への発足」という話で、日本の負けたのは敗戦のはじらいと苦しさを知らざりしによるとなし、この上は堂々と負けて、責任ある支払いをなし、敗戦という宝物を生かして行こうという。涙が出て来て仕方がなかった。両氏とも、昔なら検閲にひっかかる底のつっこんだ話をした。こうなくてはならない、本当のものを発見し、自覚し活用するには。
◯海野十三は死んだ。断じて筆をとるまい。口を開くまい。辱かしいことである。申訳なき事である。

 八月二十八日
◯本日、厚木へ米先遣部隊、空輸にて着陸す。テンチ大佐以下百五十名。
◯その前日に、十七隻の米艦相模湾に入港。本日は約七十隻にふえ、戦艦ミズーリ号(※降伏文書の調印式場として使われた)もその中に在り。
◯B29やグラマンが屋根すれすれに飛びまわる。そのたびに窓から首を出してみる。子供は屋根へのぼる。
◯朝、村上君来宅ありし。

 八月二十九日
◯広島の原子爆弾の惨害は、日と共に拡大、深刻となる模様である。その日は別に何でもなかった人が、何でもないままに東京に戻って来た。するとだんだん具合がわるくなり、食事がのどにとおらなくなることから始まって変になり、医師にかかった。医師がしらべてみると白血球が十分の一位に減り、赤血球は三分の二に減じていた。そのうちに毛髪がぬけ始め、背中にあったちょっとした傷が急に悪化し、そして十九日目に死んでしまった。解剖してみると、造血臓器がたいへん荒されており、骨髄、膵臓、腎臓などがいけなかった。これは放射物質による害そのものであり、原子爆弾は単に爆風と火傷のみならず、放射物質による害も加えるものであることが証明された。
 これは東大都築外科の都築(※正男)博士が、丸山定夫一座(※移動演劇隊桜隊。広島滞在中、原爆に遭う)の女優、仲さんを手当てしての結果である。
 なお博士は二十年前、アメリカのレントゲン学会で、これに関した報告を出したことがある。レントゲンをウサギに三時間かけると全部死ぬ。二時間かけると、二週間後までに九割死ぬというのである。米人はそんな場合は実際には起こり得ないと、非実際なるを嗤(わら)ったが、今日原子爆弾によってその研究報告の値打ちが燦然と光を増したわけである。

 八月三十一日
◯あの日以来読んだ本。杉本中佐遺稿の「大義」山岡荘八君著「軍神杉本中佐」江部鴨村著「維摩経新釈」、「名作文庫」、「芭蕉の俳句評註」。そしていま涙香(黒岩)先生の「幽霊塔」を読みつつある。
◯三十日以来、米機うるさく屋根の上を飛びまわる。監視飛行かもしれぬが、ちとうるさきことである。もっと高空を飛んだらよかろうに。屋根すれすれを飛び居る。
◯復員兵が厖大なる物資を担って町に氾らんしている。いやですねえという話。それをきいた私も、大いにいやな気がした。しかし今日町に出て、実際にそれを見たところ、ふしぎにいやな感じがしなかった。しなかったばかりか、気の毒になって涙が出てしようがなかった。十八歳ぐらいの子供のような水兵さん、三十何歳かの青髯のおっさん一等兵、全く御苦労さま、つらいことだったでしょうと肩へ手をかけてあげたい気持がした。

 九月二日
◯本日午前九時十五分、東京湾上の米戦艦ミズーリ甲板上にて、わが全権重光(※葵)外相、梅津(※美治郎)参謀総長は、連合軍総司令官マッカーサー元帥らの前に進みて、降伏調印を終る。
 かくて建国三千年、わが国最初の降伏事態発生す。
◯この日雨雲低く、B29其の他百数十機、頭上すれすれに、ぶんぶん飛びまわる。
◯サイパン放送局の祝賀音楽聞こえる。
 アナウンサーは「今上陛下」という言葉を使う。あたり前のことであるものの、最初ちょっと意外に感じた。
◯降伏文書調印に関する放送も、二度聞くともうたくさんで、三度目、四度目はスイッチを切って置いた。飯がまずくなる。

 九月三日
◯朝の放送は、やっぱり降伏文書調印の報道であろうと思い、聞かず。昼の報道より聞き始む。
◯北村小松君来宅。
◯夜の報道にて、スターリンの対日終戦祝賀の演説が伝えられる。前夜聞いたトルーマン大統領のそれと並べてみて、敗戦国のわれわれのみじめさを感ず。
◯農村に米なく、大さわぎになるとか。今度からの供出は、多分承知しまいであろうと思われるとの事。そうなれば一大事だ。
◯今夜の清瀬一郎(※弁護士、政治家。戦後、公職追放処分を受けるが、東京裁判では東条英機の主任弁護士となる)氏の放送の要旨。「原子爆弾が人道に反し、国際条約に反することは歴然たり。こういうものを使用せる者こそ、戦争犯罪者であると思うが、それをどう処置するのか、今晩は議論するつもりはない。その被害の真相を今度の臨時議会において発表されんことを望む。そうすれば世界中へこの事が知れるであろう」
 私も思う。なぜ、原子爆弾をいきなり使ったか、降伏しなければ投下する、と予告しなかったのか。私はこの点が合点が行かぬ。その予告の下に投下すれば、アメリカ側ももっと寝覚めがいい筈であったろうに。
 原子爆弾で広島に起こった地獄図絵を画いて、アメリカはじめ各国へ配ってはどうかと思う。そしてかかる惨虐行為が再び行なわれないようにしたい。
◯私が曳かれることは確実だ。ドイツでは九万人が曳かれた。自分のことは、すでに「死」を思いたったときから覚悟の上だが、わが家族の上に果していかなる悲運が下るであろうか。それを思うと、胸がふさがる。何とか工夫して遁がしたらよいか、隠したらよいか、いや一同泰然として死ぬのがよいのであろう。わが祖先の諸霊も、われらの殉難を見守り給え。われらが万一卑怯なる心を持たんとしたるときには叱責し、且つ激励をなし給え。

 九月九日
◯昨八日、米軍初めて帝都内に進駐す。米大使館をはじめ、代々木練兵場、麻布三連隊なり。
◯満州、樺太、朝鮮北部はたいへんな混乱、暴行なりと伝えられる。

 九月十二日
◯東条英機大将を戦争犯罪人として米軍が拘引に行ったところ、自殺をはかり失敗。

 九月二十四日
◯アメリカ合衆国日本州の感深し。誠に東京は、その感いちじるしきものあり。
 しかしアメリカ軍の諸事業(アメリカ軍のためのもの)は、いずれも適切なものばかり。私がかつて戦争中、大いに進言、力説したところのものが、今アメリカ軍によって行なわれるのを見て感慨無量だが、お役人や軍人指導者達もさぞや別の意味で感慨無量であろう。とにかく人間研究を怠り、民生を尊重せず、熊さん八つぁんを奮い立たせるように持って行かないで大戦争を経営した彼らは確かに愚かであった。

 十月七日
◯あまり日記を書く気持も起こらない。世情は滔々(とうとう)と移り変わりつつあり。
 目下幣原(しではら)(※喜重郎)内閣陣痛中なり。(十月九日内閣成立)
 それよりも気になるのは食糧事情であり、配給はいよいよ微力となった。過日の台風によって本年は稲が遅い開花期をやられて不作確実となり、朝鮮、台湾、満州を失ったのに加えて泣き面に蜂のていである。
 庶民は盛んに買出しに出かけるが、その内情を聞けば、預金はもう底が見え、交換物資の衣料、ゴム靴、地下足袋等ももうなくなろうとし、いよいよ行詰まりの一歩手前の観ある。やがては買出しも出来なくなるものと思われる。配給などが適正に行なわれなくなれば、次にくるものは何か。恐るべし。

 十月十九日
◯もうほとんど諦めていた徹郎君のことが、本日突然好転した。鹿児島から二通の手紙が来たのである。十月二日と同七日に差出した二通の手紙だ。それによると徹ちゃんは既に鹿児島に帰郷していて、防空壕こわしや薪割りに時間を潰しているとのこと。朝子(※長女)はもちろん無事。だいぶ腹がとび出して来て、まだ生れぬ子供が盛んに動く由。「まあよかった」と、英も大よろこび。誰の口からも歌がとび出す。ここ二ヵ月ぶりのこの通信に、一家は蘇り、笑声も聞こえる。もう安心だ。神棚にみあかしをとぼしてお礼を申上げる。
 朝子が上京し得ぬことに英は大残念であるが、今日のあのたいへんな輸送状態では、仕方があるまい。徹ちゃんは近く上京するとある。もうすぐ顔が見られ話が聞けると「腕白弟妹ども」は大よろこびである。
 快適な時間を持てるようになったことをしみじみうれしく思う。

 十月二十一日
 戦災無縁墓の現状が毎日新聞にのっている。
 雨に汚れた白木の短い墓標の林立。「無名親子の墓」「娘十四、五歳、新しき浴衣を着す」「深川区毛利町方面殉死者」などと記されている。
 仮埋葬は都内六十七ヵ所。既設は谷中、青山のみ。あとは錦糸、猿江、隅田、上野等の大小公園や、寺院境内、空地などに二、三千ずつ合葬
 錦糸公園   一万二千九百三十五柱
 深川猿江公園 一万二千七百九十柱
 を筆頭に、合計七万八千八百五十七柱(姓名判明セルモノ、八千五十三柱)。

 十月二十八日
◯光文社の創刊する「光」に、わが文「原子爆弾と地球防衛」出る。
◯過日より清水市の安達嘉一君、鴨の綿貫英助先生、福島県の河野広輝君、長野県の小栗虫太郎(おぐりむしたろう)(※小説家)君来宅。昨夜は清宮博君も来宅、麻雀をす。近頃旧友の来宅ひんぴんたるは、戦争終了の事態をはっきり反映し、うれしともうれし。

 十月二十九日
◯イーデン前イギリス外相は二十六日、リーズ大学で次の如く演説した。
「世界は疑いなく非常に危険の只中にあり。原子爆弾の警告があるにもかかわらず、すべての国民はいがみ合っている。第三次世界大戦は、人類の滅亡を意味するであろう」

 十一月十四日
◯朝来より血痰ありしが、夜に入りて少々念入りに赤き血を吐く。

 十一月十八日
◯徹郎君より長文の手紙来る。目下の心境を綴りて悲憤す。同情にたえず。
◯起きる。喀血はようやくおさまりたるもののごとし。
◯庭に月光白し。
 もう空襲もなく、静かなり。終戦するなどとは、あの頃全く思わざりしが……。
◯臥床中読みたるもの、左の如し
 一、子規著「仰臥漫録」その他
 二、寺田(寅彦)先生「地球物理学」
 三、Minute Mysteries
 四、江戸怪談小説
   怪談全書、英草帋
 五、「空間と時間」(途中)
 六、涙香著「白髪鬼」

 十一月二十日
 昨日渉外局発表によるに、左記諸氏、戦争犯罪人として収容せられし由(十七日巣鴨刑務所)
 荒木 貞夫  大将
 南  次郎  大将
 松井 石根  大将
 小磯 国昭  大将
 真崎 甚三郎 大将
 本庄  繁  大将(自決)
 松岡 洋右  氏
 白鳥 敏夫  氏
 鹿子木 員信 氏
 久原 房之助 氏
      外一名(計十一名)
 本庄大将は自決。

 十一月二十三日
◯きょうは晴彦(※長男)の誕生日。例により晴天なり。
野菜と魚の※がとれて今日で三日目。魚の配給日が二日おくれて今日になったが、すずき一片が金十七円也。これではどうしても手が出ないと、うちの隣組では棄権。せっかくの晴彦の誕生日も、これでは魚を祝ってやれない。そこでこの前買っておいた鮭缶をあける。白い御飯とごぼうとにんじんの精進揚げに、英の心づくしこもる。皆うまいうまいとたべる。

 十一月二十四日
◯ビタミンCの注射液がついに皆無となったので、やむを得ず探しに町へ出る。
◯浅草へ初めに行く。三月十日の空襲から二日後に行って以来のこと。小本堂出来、朱塗りの色も鮮やか。本堂建立のため、金五円也を寄進す。
◯仲見世はいうに及ばず、境内いたるところにつまらん物の店と、あやしき食い物店とあり、その数無慮二、三百軒。こっちも釣りこまれ、つまらぬものを買い込む。
 しかし浅草の景気がいいのは、この敗戦の秋に頼母しい事である。
 こういう人達の中から、新日本が生まれ出るかと思えば、感慨無量である。
◯小伝馬町から人形町、蛎殻町へかけて焼け残ったのは、奇蹟のように見えた。
◯カヤバ橋の焼け跡で、イモを出して昼食をとる。片手にアルミの凸凹水筒あり。目の前の食堂には、まぐろさしみ一人前金五円の大貼札があって、二十四、五人が列をなしていた。
◯きょうの買物
 ヘアピン 二十四本        六円
 鍋穴直し             一円
 箸 二組             三円六十銭
 カレー粉 三袋          五円二十銭(一円八十銭宛)
 薬(エーデー五百粒)       三十七円五十銭
 みかん 十二個          十円
 雑誌三冊、絵本一冊        二円九十銭
◯きょう見た売物
 魚 ほうぼう 十尾(浅草)    十円
 〃 冷凍サバ 一尾(蛎殻町)   三円
 〃 すずき百匁(日本橋三越前)  十五円
  くらかけ橋傍
 猿また(絹)           三十七円
 綿靴下              十円
 綿ハンカチーフ          十円
  人形町
 地図 一枚            五円
  浅草
 短靴               六百円
 ゴム長              六百円
 同エナメルなし          三百五十円
 リンゴ 三個           十円
◯三越で女歌手に笑むルンペン紳士。
◯品物多々、値段高し。札(さつ)びら切る人見えず。今の値頃では、とても俸給生活者には駄目。浅草で札(さつ)がとんでいるのは、おでん店だけのようである。
 だが、この活況こそ、敗戦日本を盛りかえす一つの新しい生命の芽ばえであろう。
 新しい品、高級な品、ちがった種類の品などが、次々にフットライトを浴びて、舞台に現われるだろう。

 十二月三日
◯午後三時の放送は、マ司令部が新に五十九名の「戦争犯罪人容疑者」を逮捕すべき旨、日本政府へ命令したとある。
 その顔触れの中には梨本宮をはじめとし、広田、平沼両重臣あり、その他財閥、軍閥、言論界の有力者あり。氏名左の如し、
◯梨本宮守正王
◯平沼騏一郎、広田弘毅
◯有馬頼寧、後藤文夫、安藤紀三郎、井田磐楠、菊地武夫、水野錬太郎
◯本多熊太郎、天羽英二、谷正之、青木一男、藤原銀次郎、星野直樹、池田成彬、松坂広政、中島知久平、岡部長景、桜井兵五郎、太田耕造、塩野季彦、下村宏
◯鮎川義介、郷古潔、大倉邦彦、津田信吾、石原広一郎
◯畑俊六、秦彦三郎、佐藤賢了、河辺正三、中村修人、西尾寿造、島田駿、後宮淳、牟田口廉也、石田乙五郎、上砂政七、木下栄市、納見敏市、大野広一、高地茂朝、小村順一郎
◯高橋三吉、小林躋造、豊田副武
◯進藤一馬、四王天延孝、笹川良一、古野伊之助、池崎忠孝、徳富蘇峰、大川周明、太田正孝、正力松太郎、横山雄偉、児玉誉士夫
 以上五十九名
◯蘇峰翁の所感詩一篇あり
 血涙為誰振 丹心白首違 滄桑転瞬変 八十三年非

 十二月七日
◯けさのラジオは、ついに近衛公、木戸侯らにも逮捕命令が出たことを伝えた。
 近衛文麿公、木戸幸一侯、酒井伯、大河内正敏、伍堂卓雄、緒方竹虎、大達茂雄、大島浩、須磨大使の九人
◯大島大使は昨日アメリカから船で日本へ着いたばかり。

 十二月十六日
◯近衛文麿公、本日朝服毒自殺す。
◯世田谷名物ボロ市、昨日と今日と開く。今日行ってみたが、人出にぎやか。十円で一山のみかん(小さいのが二十個位)、一本五十銭のイモ飴、一皿二円から十円のおでんなどがみられた。
 屋根のある家に、新乾(ほ)し海苔(のり)とて、近頃にない色黒く艶よろしいものを発見、一帖八円のもの五帖買求めて土産にした。ほかにみかん十円。
 高村悟君と、読売の元の講演部長小西民治氏とに行き会った。御両所とも敗残兵の如しだが、自分もまた御両所以上にひどい姿である。日本の現状をまざまざと二人の友人の上に見た。
 梅蘭荘という中華料理屋が、ソバ屋のあとに出来ていた。目を見はらせる。しかし客はなく、総じて飲食店に客影はなし。かつてのボロ市では、飲食店が大繁昌したものだったが。

 十二月二十日
◯昨日は山田誠君来宅。二日がかりで用意したおでんを、家族一同と共に囲んで食べた。
◯東宝からの招きで、世田谷通りの例の梅蘭荘で御馳走になり、わが胃袋をおどろかせた。本日の会合の目的は、来年の東宝の特殊技術映画「文化都復興」の技術的相談を受けたもので、山崎謙太氏と大いに談じた。
◯英、一昨日から口の右下におできが出来、苦しんでいる。ゲリゾンをのんだり、アルバジルをつけたり膏薬を貼ったり、諸策を講じているが、まだ治癒のきざしはない。
◯特別配給の「光」三十本に、多少ゆったりとタバコをふかす。
◯本年もあと十日。

 十二月三十一日
◯ああ昭和二十年! 凶悪な年なりき。言語道断、死中に活を拾い、生中に死に追われ、幾度か転々。或は生ける屍となり、或は又断腸の想いに男泣きに泣く。而も敗戦の実相は未だ展開し尽されしにあらず、更に来るべき年へ延びんとす。生きることの難しさよ!
 さりながら、我が途は定まれり。生命ある限りは、科学技術の普及と科学小説の振興に最後の努力を払わん。
◯ラジオにて寛永寺の除夜の鐘の音を聞く。平和来。昨年は「敵機なお頭上に来りて年明くる」と一句したりけるが、本年は敵機もなく、句もなく、寝床にもぐり込む。
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降伏日記(二)

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   序
   
  禿筆をふるいて降伏日記を書きつづけん
    昭和二十一年元旦
海野十三  


 一月一日
◯快晴也好新年。
 されど記録になき乏しき食膳の新春なり。されどされど食膳に向えば雑煮あり、椀中餅あり鳥あり蒲鉾(かまぼこ)あり海苔あり。お重には絶讃ものの甘豆あり、うちの白い鶏の生んだ卵が半分に切ってあり、黄色鮮かなり。牛蒡(ごぼう)蓮(はす)里芋(さといも)の煮つけの大皿あり、屠蘇(とそ)はなけれど配給のなおし酒は甘く子供よろこびてなめる。
  私五十、妻三十八
  陽子十六、晴彦十四
  暢彦十二、昌彦十
◯子供は一円五十銭にて買い来りし紙鳶(たこ)をあげてよろこびしが、遂に自作を始めたり。
◯坪内和夫君年始に第一の客として入来。
◯楽ちゃんも年始に。
◯夜子供のため、凧に絵をかく。矢の根五郎を鳥居清忠の手本によりてうつす。
◯国旗を掲ぐ。
◯畏くも詔書慎発。(※天皇、神格化否定の詔勅。いわゆる人間宣言)民主々義を宣せらる。

 一月二日
◯快晴。
◯自分の部屋を大掃除す。雑巾も使う。
◯凧が十五も出来て、次々に絵をかく。達磨(だるま)あり蛸(たこ)あり般若(はんにゃ)あり。
◯本日年賀の客なし。
◯麻雀二回戦。

 一月三日
◯快晴。
◯すべて静かに、日頃の雑音も聞えず。また凧の絵を描く。
◯年賀客。小野富弥君(小学校同級生)、吉岡専造君。

 一月四日
◯初仕事に懸る。大日本画劇の紙芝居脚本『蚤(のみ)の探偵』十二景。
◯朝、湯殿で洗面のとき咳をして腰の筋をちがえ痛くてやり切れない。
◯ふしぎに暖く、十一度なり。
◯后七時の放送に、マ司令部発の二重大指令を報ず。官公職就任禁止及び排除(※公職追放)と、国体(※超国家主義団体)解散令なり。
 総選挙を前にして本令の施行は頗る効果的なり、政治及び政府要員は殆んど完全に旧態を切開せらる。進歩党の如きは首脳部を根こそぎ持って行かれる。
 幣原内閣も改造か総辞職の外なく一嵐なり。
 共産党は本令を更に拡張し地主や下級官吏等に及ばしむべしと論ず。
 戦敗国なれば、斯く入れ替るべきは当然にして、日本政府自らなすべかりし事なるをマ司令部によりて断行されたるは笑止なれども、そこが敗戦国の虚脱ぶりならん。宮仕えがいやにて昭和十三年逓信省(ていしんしょう)を去りし私として本令の施行は何等興味なし。
◯萩原大祖母さん、昨夜死去。享年八十歳。お悔みに行く。(香奠(こうでん)金四拾円)
◯小栗虫太郎、信州より出て来る。うちへ泊る。談尽きず。彼、大元気なり、雄鶏社の話もスラスラ行きけるよし。
◯その前に木々高太郎(きぎたかたろう)(※探偵小説家、生理学者。本名は、林髞)氏来宅。久振りに将棋を囲む事四回、三勝一負。
 この友は益々公私共に溌溂(はつらつ)活躍中。

 一月十日
◯新聞に、マ司令部のスポークス・マンと新聞記者との省内会合席上、出版界の話が出たと伝う。近く処理あるべく、執筆者も亦(また)適宜処断あるやに伝う。
 これも然方なし、勝てば官軍、負くればなり。
◯岸本大尉始めて来宅、徹(※永田徹郎。長女朝子の婿。元、海軍大尉)ちゃんの奮戦ぶりをちょっぴり伺う。
◯偕成社の名作少年小説に「探小」を入れることはきまった。同社復興のため、私は同情執筆を快く承諾したわけだが、他の友人に執筆をすすめるためには、その条件では困るので申入れをした。
◯講談社の稿料十円より二十円へあがる。
◯探偵小説雑誌案いろいろとあり、筑波書林のものは既に発足した。乱歩(※江戸川乱歩。探偵小説家)さんのところへ持込まれた他のものは断った由。但し乱歩氏は平凡社へそれを申入れるとの事。
◯水谷(※準)君も昨年博文館を退社したる由。博文館はあの社長さんではもう駄目だ。そして戦争中編輯(へんしゅう)局長たりし水谷君のためにも退社はよろしい。いずれいいところから礼を厚くして招聘があろう。しかし当分作家へ復帰してもらいたいと思っている。
◯大下(※宇陀児)君は町会長が忙しく、書けないで困っているらしい。どこか執筆場を求めたがっているようだが、町会長をしている間は所詮駄目だろう。それともハッキリさせて政治家へ前進するも悪からず。しかし私たちは作家専門に戻るを希望する。
◯乱歩さんは相変らず老人ぶって引込んでいるのは遺憾である。しかし色気は皆無というには非ず、一年一作で十分たべられるというものをやりたいとのべていると、小栗虫太郎が帰って来ての話だ。これは大いによろしい。
◯虫太郎今夜は乱歩氏邸へとまって明朝信州へかえる予定。
◯多田君岳父旧臘七十三歳で長逝。孝行息子たる彼は感心なものである。
◯「光」の丸尾君来宅。一頁探偵小説と電気常識講座とを頼まれた。

 一月十二日
◯旧臘二十九日、鵬原正広(湊山小学校同級生)は梅田線にて乗車のとき、人に押されてホームより電車の下に落ち、電車はそのまま発車し、両脚轢断、頭部裂傷にて憤死した。その旨夫人愛子さんより悲歎の言葉を以て通知あり、驚愕且つ暗然とした。
 同じく級友小野君も東松原線にてレールヘ落ち頭に裂傷を負いし由。

 二月二日
◯昨日雪が降り出して夕方までに二三寸は積ったが、夜になると熄(や)んだ。
 そして今日は陽がさし出でたので、どんどん溶けて行く。うちへ来て下さるお客さま方に全くお気の毒なる道の悪さだ。
◯一月は遂に過ぎた。前半は正月休みで、応接に忙しかったし、後半は原稿で殆んど隙のないほどの忙しさであった。
 原稿の依頼も仲々数を加えて、うれしさから苦しさへも移行の形勢である。江戸川さんが宣伝してくれたので、「一頁もの犯人探し」の注文が押しよせた。
 今日は「高利翁事件」という三十枚ほどの本格ものを書き終えたが、本格ものは色気に乏しく、取りかかりのところなどは全く書いている方でも苦痛であるが、いよいよ肝腎の要点である推理のところへ来ると、さすがに面白さが湧き立つ。
 こういう本格探偵小説――というよりも推理小説といった方がよろしかろう――が、どの程度に読者を吸収するか、今度はまだ分っていないがあまり期待は出来ない。しかし心から面白がってくれるファンの数が少しでも殖えればいいことである。
 面白さに乏しくとも、書くのに骨が折れても、当分はこの推理小説一本槍にて進むこととし、いわゆる情痴犯罪のエログロには手を染めまいと思っている。江戸川、小栗、木々などの諸友の考えもここに在るので、私もその仲間の一人として、そういう方針をぶちこわさない決心だ。
◯近く、時事通信社甲府支局版に、連載科学小説「超人来る」を書くことに決りそうである。これは全体の筋を予(あらかじ)めはっきり決めて置いた。
 従来のものは、始めと終りと、その狙い位は決めてかかるが、途中のところは自由に残して置いて、書くときの楽しみにして置いたものだ。そういう考えは一応いいのだが、さて書いて行くと、自然、イージーゴーイングになって、筋の発展性に乏しく、テンポに精彩が欠けてくるため、失敗となったことが少くなかった。今度のものはそれを未然に防ぐために、筋をすっかり決めてしまったのだ。従って書いて行くに従って自由性がなく、固着が情熱をよび起すに至らない欠点はあるであろうが、それと並行して、又いくつかの利点も生じるだろうと予測している。
◯過日、共同制作ということについて角田喜久雄(※小説家)君と話合った。私は一つのやり方を示し、同君の批判を乞うて置いた。これも勉強の一つとして、ぜひ一度は実行に移してみたいと思う。
◯朝子(※長女)、去ル一月二十六日十八時三十五分、男子ヲ分娩、共ニ元気ノ旨、只今(十六時)鹿児島ノ徹チャンヨリ入電。コッチノ一同躍リアガッテ喜ブ。
私「とうとうお爺さんお婆さんになったぞ」
(※夫人)「女の子の名前だけしか書いて送らなくて損をしたね。こんどは皆揃って東京へ来てくれるのが楽しみだ」
(※陽子、次女)「電報と声がしたんで、あたしが玄関へあまり勢よくとび出していったもんだから、郵便局の人が笑っていたわよ」
(※暢彦、次男)「ヘえ。じゃあ郵便局の人、中を読んで知っていたんだよ」
晴彦(※長男)「やっぱりおれのいったとおり、ちゃんと男の子だ」
昌彦(※三男)「わしはおじさんだ」
◯「育郎」という名前がついた由。七百八十五匁。

 二月八日
◯雪あがり、どんどん融け始む。
◯いよいよ時事通信甲府版の「超人来る」執筆を始む。第一回を漸く書きたるのみ。
◯昼間停電、うちを始め四軒だけの停電と分る。蒲田氏のところにてヒューズの太いのを入れしため電柱上のキャッチのヒューズ切れと覚えたり。当日おひる頃同氏邸にて工事なし、電気を切りしらしく松原氏ヘ「お宅は停電しませぬか」ときき合わせたるナッパ服の人ありとの事。
 右につき、英(ひで)、松原夫人行きて話をなせしが、蒲田夫人仲々これを承服せず、雪のため切れしものにて宅に失敗はなしとの強論ありしが、結局昼間のナッパ服の人現われ、キャッチを直して午後六時半頃、電気つく。
◯佑さんのところの「蝿男」出版につき、初校をなす。(自由出版社)

 二月十二日
◯小栗虫太郎二月九日夕六時脳溢血にて倒れ翌十日午前九時死去す、断腸痛惜の至りなり、花を咲かす一歩手前にて、巨星の急逝は痛恨の次第なり。
  雪折れの音凄じや大桜
 享年四十六歳。
 新探偵雑誌LOOKに、江戸川さんと共に追悼文を書く。

 二月十七日
◯本日よりモラトリヤム(※金融緊急措置令。新円発行、旧円預金は封鎖)施行。
 その他関係法令として物価制限令や隠匿物資供出令なども出る。これにて本当に物価が下ってくれればいいが、どうなるのであろうか。
 物価の落着くまでの混乱、事業の縮小、もし支払制限令の金にて食えず、飢餓に陥ったらどうなるのか、例によって財閥、指導階級等の脱法行為如何などと、いろいろ気になることばかり。

 四月十一日
◯預金封鎖、支払制限令、それから財産申告。再び物価価格統制にて物はかくれ、五百円の新円生活にては両面から苦しくなった。そこへ加えて食糧危機がいよいよ目の前にあらわれ、米は十日も配給おくれ。
 六月には大危機が来るという話だが、その二ヶ月も前にこうして危機は到来して居り、政府は無策無為。そして新円は、旧円六百億円を二百億円にくいとめたのも束の間にて、今や二百五十億。毎日四億円ずつ放出されている現状では月末には二百八十億円になろう。大衆をきゅうきゅう追いつめながら、一方には会社や資本家にはどっと新円を下ろさせる銀行の不徳と政府の反民主政策は呆れる外ない。
 どこへ行くか、新日本。そして日本人大衆。
◯昨日は選挙。東京二区は三名連記である。友人作家の石川達三君と、社会党の三軒茶屋の鈴木茂三郎氏と、自由党の東洋経済新報社長の石橋湛山氏とに投票した。
◯晴彦は去る九日首尾よく都立十二中(千歳中)の入学試験に合格した。英と共に心配半歳、漸く芽出度(めでたく)解決して、ぐったりと疲労を覚えた。
◯原稿料は封鎖支払だと大蔵省は決めた。そして各社は封鎖小切手ばかりをよこす。まことに張合のないことである。一方、われら自由職業者へは一ヶ月五百円を封鎖より下ろすことが出来るのと、家族六人につき八百円(今月からは六百円に減少)とを下ろすのと合計千三百円で生活をしなければならぬが、迚(とて)もそれではやりかねる。客が来れば煙草も出さねばならぬし、茶もわかさねばならず、原稿用紙を買い、速達料を払い、炬燵(こたつ)を電気でやるなど、皆、新円にてするしかない。しかも向うから貰うものが悉(ことごと)く封鎖ではかなわない。
 そうなると人情で、どうも書くのに張合が出て来ない。
 そのうちにぼつぼつ新円でくれるところが出て来た。一部を新円で、他を封鎖小切手でくれるところもある。何千円也の封鎖小切手を貰っても紙屑同様にて一向ありがたみが感ぜられないのに対し、たとえ百円なりでも新円を貰うと、たいへんうれしい。
 従って新円稿料のところと、封鎖稿料のところとがあると、仕事についても進行速度も張合もその出来ぶりまでが違ってくる。あさましいともさもしいともいえることではあるが、しかしやはりこれは人情であろう。
 五月六月遅配と欠配、食糧難深刻、餓死者続出、附近の家々も最後の最悪の事態に陥つ、泪なしには見られず聞かれず。

 六月七月小喀血の事
◯六月二十九日正午過ぎ、痰が赤くなり始め、それより小喀血。
 五日ほどして起きたり。
 ところが七月七日の午前一時頃痰が赤くなりはじめ、就寝せるも睡りやらず、しきりに痰出でて目がさめ、そのうちに午前四時頃喀血す。従来に比して多量にして、盛んなるときは紙にもとり能わず。洗面器にも吐く暇なく、息つまりそうにて胸がごとごといいてそのまま血をのみこみたり。村上先生来診、応急措置をいたされ、咳とめ注射のおかげにて陶然となりぬ。この喀血は三日間相当ありて全量二百グラム位かと覚えたり。村上先生毎日三度来宅、懇切なる手当をつくされ、その甲斐ありて十日目には血痰も消えたり。十四日目より床上に起き上る事を許されしが、この二週間例年になき発熱の日つづきたること故、寝ていることの辛さ、ことに枕に頭をつけての食事は、機関車の中にあるの想いにて苦しきことなりき。(※前妻のたか子は、一九二六(大正十五)年に結核で死亡。看病に当たった海野も感染し、いったんは回復したが、一九四二(昭和十七)年に海軍報道班員として南方に派遣された際、再発していた)

 七月二十六日
◯異状なし。
◯朝、常田君漢口(ハンコウ)よりかえりて初めて来訪あり、話を聞く。精神力と幸運にて、かぼそき方の身体の所有者たる君は助かったり。(目下、千葉県)
◯安達君来り、かつぶしを土産にくれる。
◯女房大分よろし。安達君が私を叱りて軽挙を戒めるのでたいへん御きげんなり。
◯育郎ちゃん、ちょうど生後半年。今、うちに在り、元気にて、ひっくりかえりて腹匐(はらば)う事を覚えたり。父親の徹郎君は過日広島へ赴き、新就職。

 七月二十七日
◯浪速書房「心臓の右にある男」の校正後半出る。

 八月一日
◯B29、三十機編隊にて上空を飛ぶ。沖縄とガム島よりの米部隊なりと。昨年の爆撃の味は未だ新たなり。今日は安心して空をうちながめたり。さすがに大きなる飛行機なる哉。皆々鉄格子につかまり、午飯を忘れて見上げたり。
◯颱風去りたるも、驟雨しきりなり。たちまち庭も路も川となる。

 八月四日(日)
◯順調なり。
◯加藤戒三氏、見舞に来てくれる。牛の血から製したブルテイン第一号壱缶を寄贈される。血の損失に痛い私にはありがたい贈物なり。
◯蒼鷺幽鬼雄(※海野の別ペンネーム)の第二作「血染の昇降機」を書き始める。

 八月五日
◯漸く暑気回復せんとす。われ順調なり。
◯昨夜の夢、椎茸飯、長野先生の授業にサボして口実に困り居る所を。
◯来客
 松竹事業部宝田氏
  シナ戦線五ヶ年の話。右耳朶、心臓横にうけた弾丸及迫撃砲破片の話などを。
  「東京怪賊伝」の原稿を渡す。
 西日本新聞社の氏家氏
  サイエンスのパズル入稿の催促。
 明治書院
  「おはなし電気学」の補遺原稿の催促。
 偕成社の矢沢氏
「まだらの紐」の内金を持参あり。偕成社の近情を聴く。社長の所業に対して好意的なる苦言を呈せん事を思い、あとに池田氏へ手紙にて拝談す。
 夜に入りて出版の用にて竹田清治君来。折から停電。未筆稿の印税前渡し持参の連らく。
◯昌彦少し具合わるし、昨日よりなり。

 八月六日
◯広島へ原子爆弾投下の一周年なり。昨年を思い、この一年間を偲び感慨尽きず。
◯昌彦、心臓を苦しがる、村上先生の急来診を乞いて注射にておさまりけり、少々熱あり。
◯昨夜の月。マンマル。
◯原稿執筆仲々進まず、漸く数枚也。
◯「地獄一丁目」などかいて夜に入りて子供をおどかしてよろこぶ。

 八月八日(金)
◯昨日薬をもらいそこねて、今朝は薬抜きなり。
◯写真機屋さん来る。小型映画のセメントとフィルム二本とオシスコップ届けてくれる(九十五円)。岡東君より預かり中の映写機をテストす。モーターの廻転せざりしもの、油を入れてやっと回復する。
◯「小国」の原稿、蒼鷺もの第二回の「血染の昇降機」を書き了える。三十枚で、さっぱりまとまらず。書き直したが香しからず後味わるし。
◯朝、自由出版より電話あり、来る十五日の会合につき問合はありたるも断わる。
◯松竹事業部野口氏よりの招宴と観劇もまた断る。病気ゆえなり。
◯帆苅氏来宅、「報知新聞」が来る八月十三日より夕刊新聞として復活の由にて、連載物語を書いてほしいとの事。この新聞は雑誌的新聞にて、東京の夕刊新聞全部を食ってしまおうという計画のよし。
 三枚半一回にて六十回位。とにかく引受ける。「超人来る」を書かんと思う。
◯偕成社の矢沢氏来宅。「まだらの紐」の小見出をまだつけてないので気の毒をする。
◯元青葉の十一分隊長池田忠正氏より手紙が届く。氏は目下鉱山事務所にて働いていられる。

 八月二十七日
◯徹郎、朝子、育郎の三名、広島へ出立す。同宿の中川夫人と芳子ちゃんもいっしょなり。
 英も私も育郎坊やを放すこと別れる事が甚だつらいのだが、どうにもならぬ。坊やは、七月三日より本日まで約五十余日滞留し、その間にかなり身体は伸び体重は殖え、下歯二本生え、えんこが出来るようになり、人の顔が十分覚えられるようになり、いい顔が出来るようになりしなり。
 広島には、カゴシマより上り居らるるカゴシマのおじいさん在り、さぞよろこばるる事ならむ。この上は、広島にて新しき職業がうまく道にのらんことを祈るのみ。

 九月十日
◯朝顔を見るのがたのしみ。きょうはくれない[#「くれない」に傍点]とるり[#「るり」に傍点]との二つ。
◯長野新聞の上田氏の雑誌に科学小説「青い心霊」を書くことになり、かきはじめた。二百枚の予定にて、今日は五十回を第一回として提出のつもり。
◯一星社出版用として「名立の鬼」の一冊を整理する。一星社の若主人は五年間出征していた青年にて、私の愛読者の由。お父さんが児童もの出版をやって居られるが、今度は復員して息子さんは大人ものをやる事になり、角田君と私のところへ来られた由。面識もないわけだが、私は何かこしらえないでは、すまない気がして、あえて引うけた次第である。
◯昌彦の夜の咳、とまらず。
◯中川夫人と芳子ちゃん、広島より帰宅。

 九月十一日
◯けさの朝顔は、ことし植えた中で一番うつくしい空色と白とのしぼり[#「しぼり」に傍点]が咲いた。これで二輪目である。
◯徳川さんの「自伝」をたのしく三十分ばかり読み、あと大事に次の日へとっておく。
◯時代社の中村さんが来宅、第一回の「鬼火族」の稿料を届けて下さる。創刊号はまた一月おくれて十一月からとなった由。
◯四日市場の加瀬氏来る。沖縄第百号を一貫匁ばかりお土産に持って来てくれる。
◯久保田氏の発足を支援して「地中魔」一冊を整理してまとめる。外に「のみの探偵」と「月世界探険」であるが、この二つ、かなり手を入れた。因(ちなみ)に白楊社という名で立つよし。
◯田久保氏(元海軍少佐、青葉二分隊長)来宅。大いになつかしい。

 十一月十七日(日)
◯十月中旬より血痰が出て、静養していたが、本月上旬にはとまり、今は治っている。この数日急に寒くなり、風邪をひいたらしく、ゆうべは熱が出、脈が多くなったので、アスピリン〇・五瓦(グラム)をのんだ。今朝は寒気もなく、気温もいくらか逆戻りして温くなったらしく、雨が降り出した。
◯今朝、柴田氏を訪問の予定のところ、雨となったので、電話で断った。
◯陽子は山脇のバザーで、昨日と今日いそがしい。今朝はたくさん芋をふかして学校へ持っていった。模擬店の「若松」の係だそうだが、その売品の材料に使うらしい。何でも「若松」のお嬢さんが同級にいるとかで、その縁の出店らしい。昨日生菓子を持ってかえって来て一つくれたが、まず甘い方であって、幻滅のおそれはなきものだった。
◯きょうは午後から武田光雄君が来宅せらるる旨、昨夜電話があった。元「青葉」航海士時代に私が乗艦四十五日、そして知り合いになったわけだが、サボ島沖の海戦にて重傷、帰朝して軍医学校に入院、それからなおって又出陣。それから終戦となり、幸いに一命は全うしたので、東京帝大の経済学部へ入学して目下勉強のところ。同君の父君は元海軍大将、元外相、元日鉄会長の豊田貞治郎氏である。
◯きょうの「朝日新聞」の報道に、中国の映画俳優が戦犯として裁判にかけられていると記事があった。
◯日本では、地方官公吏の追放の実施でさわいでいる。電産のストライキは、末広巌太郎博士へ一任となったらしい。全教組は教全組とは別歩調にて文相へ「六百円最低承認に欺瞞あり」と申入れたる由。生産いよいよ低調。政治家はいないのか。憂国の士はいないのか。
◯「狐塚事件」という小説を、もう十日も机上に置いて書いているが、まだ半分しか書けない。しかも全部でたった三十枚ものなんだが。
◯弟佑一、十日ほど前より休養中にて、一ヶ月間静養を医師よりすすめられたる由。血沈が多いとのこと。富久子君が昨日電話をかけて来て始めて知ったわけだが、富久子ちゃんの話によると「血沈が一時に百ミリ位」という。これは信ぜられないが、とにかく働き過ぎの故であろうと思う。私も病体の時、弟の病は気になる。
◯荒木夫人、田中君を養子に迎える件を白紙に戻して、胃潰瘍をなおすために、甲州下部温泉へ向う。

 十一月十八日
◯岡東弥生さん、飯田氏へ嫁ぎたり。
◯朝子育郎両人昨十月下旬、徹郎君所在の広島へ移る。(カゴシマより)

 十一月二十六日
◯朝、風少しありしが、三軒茶屋まで散歩にゆきしところ渋谷への引返し電車ありければ、うっかり乗ってしまう。当然渋谷へ出たり。上通りより道玄坂の右側を通りて下りる。戦災の焼あとに店続々と出来てものすごき勢いなり。古本三冊を買う。「日本書道家辞典」と「禅語辞典」と、森於菟(もりおと)(※解剖学者。随筆家)氏の「解剖台に凭(よ)りて」なり。合計九十五円。餅菓子を売る店を見ているうちに九ケ箱入のものを買いたり。七十五円なり。

 十一月二十七日
◯夜来大雨。
◯炬燵にて引籠もる。
◯「自警」編輯(へんしゅう)部の前川氏来、五回続きの連載探偵小説の執筆の依頼を受く。
◯東京裁判、リチャードソン大将を証人に、真珠湾事件等につき明かにす。
(ラジオ受信機を村上先生のお家にさし上げしに雑音しきりなりとかにて、ちょっと聞きにゆく。そのとおりなり。この項二十六日なり)
◯夜、若林国民学校の根本先生(昌彦の先生)来宅。全教組のスト問題と学校の寄付金問題につき明日学校にて理事評議員会あるとかにて伝えに来られしもの。病中につき欠席する旨返事をし、その他につき意見を交換せり。要は教育改革第一、先生の待遇改善問題第二なり。
◯電話五四三一番にかわる由なり。

 十一月二十八日
◯朝、上町まで行く。この日春の如く暖かなり。銀杏樹真黄色になりて美しく落葉地に敷く。また渋柿の鈴なりが遠景に見えてこれまた美し。
 古本屋にて石原純(※理論物理学者。科学思想家)博士の「科学教育論」と古い本で「科学探偵術」というのを買う。合計二十五円。
 かえりに松蔭神社前駅の前の古本屋にて、延原(※謙)氏が要るという事なりしブルドックドラモントの「フォアラウンド」を買う。三十五円なり。
◯小栗虫太郎君の「有尾人」と「地軸二万哩」の二冊を検読す。朱線にて為すべきところ方々ある外、全く復刊出来ざるもの五つばかりあり。了後それぞれ博文館及び小栗未亡人に手紙にて知らせたり。
◯今日の速達便にて、又々白亜書房なるもの探偵小説選集を出すとかとて、参集方を頼み来たる。姫田余四郎氏の名にてなり。もちろん私は病身ゆえ失礼するつもり。
◯水谷準君より来翰。延原氏夫妻へわれわれよりの贈物は、江戸川さんと小生とにて八百円位の座蒲団を贈ることにしてくれとの事なり。承諾の旨、返事す。実物さがしはこっちがこの病体ゆえ、すまぬ事ながら江戸川さんへお願いの事とする。
◯英、この数日、毎日の如くはげしい頭痛にて寝込む。昨日と今日とは睡眠剤のドルシンを〇・二グラムずつのみたり。(英の希望によりて)
◯私は昨日の雨にて、のどの加減はたいへんよくなったが、こんどは鼻をやられたらしく、しきりにくしゃみ出、洟(はな)をずるずるいわせる仕儀となった。
 これが風邪の第三回の開幕なり。
 昨年とちがって、今年はなぜこう風邪ばかりひくのか訳がわからず。昨年よりはずっと肥っているし、抵抗力もあるはずなんだが。もっとも精神力は非常に低下していることが自分にもよく分っている。

 十一月二十九日
◯鼻風邪いよいよひどく、昨夜は枕をぬらした。咽喉もいたい。
◯朝子より来翰。
◯「科学世界」の九・十月号と十一月号来る。安達嘉一君が科学文化協会の事務次長となりて最初の編集のものなり。新清にして仲々よろしく、就中(なかんずく)「原子力の将来」についての木村氏の記事と、マ司令部のROX氏の寄稿に大いに感動す。この旨、安達君へ手紙を認めた。
◯読者ウィークリーに「鼠色の手袋」八枚を書く。
◯力書房の田中氏、原稿用紙を持って来てくれる。
 松平維石の「キカ」の原稿を托した。
◯福田義雄君と吉水君来宅。ペニシリンの事、加藤ヨシノさんの肺炎のことなど話をする。

 十一月三十日
◯はや十一月も暮れんとす。
◯きょうは晴曇にて寒し。一日炬燵の中にいたり。
◯午後、血を吐く。気道より出たるか肺の中より出たるかはっきりしないが、相当固まっていて指でこすっても崩れない部分さえあったので、気道の方ではないかと思われる。村上先生来診。念のためとトロンボーゲン5ccを注射。
◯愛育社の「電気」を少し書く。
◯江戸川さんより速達あり、延原氏へ贈る座蒲団は、江戸川さんと小生の連名とする事に相談あり。値は一千円位。小生病気につき現品見つけ方及び送り方は全部江戸川さんを煩わすこととなる。
 なお、家の中の仕事といえども、やり過ぎるなと注意あり、返事を認めて、そのことよく守りましょうと申し送った。
 向う一年、ピッチを下げて、最低の仕事をし、最低の生活を保証せん。

 十二月十六日
◯昨日と今日とぼろ市なり。私だけ行かず。諸品高きよし。昨年は蜜柑の山だったが、今年は少き由。暢彦はサーカスを亮嗣さんと見てきたそうだ。入場料一円五十銭。小屋がつぶれて大さわぎをしたという。算術をする犬が一番面白かったと。
◯風寒し。炬燵にこもって、例のとおり仕事。十三枚を書いたところで、つかれを覚えてやめる。烏啼ものの「いもり館」である。
◯昨日は「自警」のための連載探偵小説「地獄の使者」の第一回を書きあげ、今日前川氏に渡した。
◯宇田川嬢「振動魔」の印票を届けられる。二十五日迄に捺してほしいとの事なり。
◯「川柳祭」寄贈をうく。徳川さん、正岡氏、吉田機司氏などを熟読す。
◯きょうは鎌倉の郁ちゃんの婚礼の日。招待を受けたが、この病体にて鎌倉まで行きかねるし、英(ひで)も出したくない。いずれ永日こっちの健康の自信のついたときに二人してお祝品を持って伺うことにしていたが、鎌倉のオバアチャンから電報が来て警告があったので、おばあさんを心配させては気の毒この上なしと思い英に相談し、きょうのうちに祝状と金を祝品代として鎌倉へ送ることとした。同時に咲ちゃんの祝も同様にして送る。
 この秋以来、婚礼甚だ多し。こっちにはいささかこたえるが(ふところ)、まことに芽出たきことである。吉田機司氏の句に、
  女みなはらんだ終戦一年目
◯福田義雄君来宅。ちかごろの真空管はゲッターの研究が進んで、真空化が実に手軽になった由。送信術でも二十五ケ一台を三十分にて排気作業完成し完封するので、一日にこれを二十回もくりかえし得るという。一日に一個宛出来ればいい方だった大正十年頃のことを思えば、うたた感慨無量なり。
◯ラジオの伝えるところによれば、アメリカでは天然色映画「最後の爆弾」が完成せし由。長崎への原子爆弾投下もうつされていると。

 十二月二十一日
◯今暁四時、熊野沖に大地震あり、和歌山、高知、徳島、被害甚だし。東京ではゆるやかな水平動永くつづきたり。

 十二月二十四日
◯電話がかわる。永年借りていた四五四五番よ、さよならで、新しく自分のものとなりしものは五四三一番。

 十二月二十五日
◯英と私の合同誕生日祝にて、にぎり寿司をつくる。マグロ、イカ、タコ、シメサバ、タイラガイにて近頃になき豪華のもの。みなみな腹一杯たべる。

 十二月二十七日
◯いやに暖し。
◯朝、千代ちゃん来る。
◯おひる頃に橋本茂助氏と三男君来宅。炭をもって来て下さる。哲男の熱、少し下がりし由。シズエさんの婚礼は十二月二十一日に新郎の郷里にて盃してすみし由。

 十二月二十八日(土)
◯暮なれどのんびりなり。皆することがないから(金がないので)自然のんびりするなり。来客も皆尻長なり。いつもの慌しい暮に比べると、のんびりだけはうれしいが、その底にあるものは好ましからず。
◯夜、竹田君来宅。「超人来る」二十三枚を始めて渡す。酒煙草に三千円かかるので、生活費として女房に二千円しか渡せない、そこで女房が酒と煙草をやめてくれれば代用食をくわないですむのにといわれ、閉口すとなげいてかえる。

 十二月二十九日(日)
◯痰常体なり。昨夜のは歯から出たものと分る。
◯温さのこりて凌ぎよし、晴れて来る。
◯日曜なれば、暮も静かなり。川柳を繙(ひもと)くうちに昼となる。子供達、昨日の餅にて腹ふくれの態なり。
◯角田氏来宅。木々(※高太郎)邸の集りに出かける前によってくれしわけ。行けぬわけを申す。海苔五帖(渋谷百貨街)いただく。少しやつれ見ゆ。お子達、肺炎のあと蛔虫(かいちゅう)にて又いためつけられしとなり。
◯松平維石君来宅。原稿のことにていろいろと難儀な身の上ばなしを聞く。わが体験をはなし激励し置きたり。
◯延原さんが誘いに寄ってくれる。これも「自信なし自重したい」と弁じて謝す。江戸川さんの返金を頼んだ。きょうは蒲田で脱線して混み、そしてオーバーの釦(ボタン)をとられたため品川で乗換るのを見合わせて東京駅まで乗り、そこで乗客がすいたので床をさがして傷だらけになった釦をひろいあげた由。英が糸にてつける。
◯自由出版の使者来る。
◯開明社のお使い来る。「火星探険」が出来て六十部届けられた。印税の一部も。
◯エホンの稲垣さん来宅。自園でとれた南京豆一袋いただく。子供の大好物なり。原稿料を持参せられ、又次のものを頼まる。それと共に橋本哲男君の原稿をかえされ、意見を陳(の)べられた。甚だ参考になること故、近く哲男君へ伝えようと思う。
◯ふじ書房の近藤氏来宅。どうして居らるるか、素人のこと故、或いは失敗せられしかとこの間うちから心配していたところなので、うれしく会う。スローモーらしいが、仕事はまず順調にいっていると聞き安堵した。私の本は来年にまわるので、その挨拶に来られしわけ。

 十二月三十一日(火)
大三十日(おおみそか)の特徴は、速達の原稿料払いが三つ四つもつづいたこと、荒木さんが印税を持って来て、これが終りであった。
 こっちも最終の払いをすませた。小為替と小切手で二万二千円ばかり、現金にて五千円ほど手許にのこった。
◯岡東浩君来宅。葡萄液と角ハムとキャンデー四つとを貰った。
 こちらはめじまぐろ[#「めじまぐろ」に傍点]で、少しばかりあった酒を出す。そしてニュージランドのオクス・タンの缶詰をあける。たいへん美味しいとよろこんでくれる。この缶詰は半年もあけずに辛抱していたものである。
◯萩原氏はこの家を売るという。財産税を支払うに金がないためであるという。この家を買ってくれと頼まれているが、四十三坪あって、値段は十五万円位と最初の噂であったが、もっとあげるつもりかもしれない。十万円ならなんとか出せると思うが、十五万、二十万では仲々たいへん、いろいろな無理な工作を要し、且つ無一文となるから、そんなに出して買いたくなし。都合によれば、はなれをのこして本屋だけを買い、家族の居住を確保しようと方針を定めた。
◯ヤミ屋と華僑とが街を賑かにして賑からしくやっているが、大多数の国民はそのそばを素通りするだけだ。恐ろしくはっきりと区別のついた別の世界がわれらの傍に出来た。こんなにはっきりと二つの世界が出現したのは始めての経験だ。松飾りも買わない正月(ヤミ屋をわざわざよろこばせてなにになるか)、かまぼこ[#「かまぼこ」に傍点]もきんとん[#「きんとん」に傍点]も街には売っているが、うちにはない正月(高いだけではなく粗悪で、とても買って来て届けられないと魚屋さんがいう)、汁粉屋だ中華料理だ酒だ何だと街には並んでいるが、そっちへは近づきもしない正月(ちがった世界の人々のために用意されたものであろう)――前の正月は、何にもなくてあっさりしていたが、こんどの正月はものがたくさんあって、しかもそれは買えないか、インチキもので手出しをすると腹がたつ、いやな正月である。昔、話に聞いた上海(シャンハイ)、北京(ペキン)やイタリヤの町風景と東京も同じになったわけである。しかし、これから先の正月は、更にそれが激化するのではなかろうか。
◯ラジオを聴きながら寝る。菊田一夫構成の「五十年後の今日の今日」の苦しさよ。そのうち除夜の鐘がなり出す、東叡山寛永寺のかねがよく入っていた。
[#改段]

昭和二十二年
 一月一日(曇)
◯五十一歳。英は三十九歳。
 陽子十七歳。晴彦十五歳。
 暢彦十三歳。昌彦十一歳。
 養母六十五歳。
◯英、頭痛にて寝込む。
◯例により、炬燵の船長相つとむ。
◯賀状もちらほら入っている。横溝(※正史。探偵小説家)君の手紙を例によりたのしみにして一番おしまいに披(ひら)く。私の処女作「電気風呂の怪死事件」が昭和三年の春の『新青年』に出た頃の秘話(?)を始めてきかしてくれ、なつかしくなること一通りでない。
◯高橋栄一先生夫妻、モーニングに、奥さまは狐の襟巻というりゅうとしたる姿にて年賀に来て下さり、俄かにあたりが眩しく光を放ち出し、これにてようやく新年らしくなった。先生夫妻は麻布本村町の岡東浩君の宅へ転入されしは今から十日ほど前のこと。その礼などいわれる。
◯坪内和夫君来賀。いつも元旦に来てくれる和夫君。一年増しに立派になり、まことにうれしくなつかしく、三十五歳にて逝かれし故坪内信先生の面影がふと一閃、わが目前を過ぎて見ゆるような気がする。地下で先生もにこにこ笑っていられるに違いない。
◯村上勝郎先生、例によって来診、ビタミンB1[#「1」は下付き小文字]とCの注射も亦例の如し。大三十日以来腹ヤミにて、夜も元旦朝も起され、たいへんだった由。巷に汎濫する食料品のいかがわしさ以て知るべし。
◯夜は親子六人、八畳の炬燵を囲んで、雑誌や動物あわせに賑かに更けて行く。いいお正月だ。何はなくとも、また前途に何があろうとも、今夜ばかりは。
◯江戸川乱歩氏は几帳面に一号館書房の印税割あてを送って来て下さる。二千八百二十六円也。これ本年初収入なり。


 一月二十三日
◯新春以来漸く冬籠り生活に落着く。
◯血痰は週に一度は必ずあり、但しまもなく消えてしまう。以前のように四日も五日も続くわけにもあらず、又量もそのように多くもなく、中蚯蚓(みみず)の三分の一ぐらいなり。この頃夜間の咳少しくあることもあれど、一体に無し。喀血と称するほどのものに遭わざるは楽なり。
◯この家(若林一七九)を買ってくれと萩原の喜市さんが話に来る。財産税仕払に金が要る由。
◯高橋栄一先生(晴彦の元の先生)を岡東のうちへ世話して間借に及んだところ、このほど岡東の家が進駐軍に接収されることになり、二月十二日までに立退きを命ぜられ、上を下へのさわぎなり。友のために暗涙にむせぶ。入るは中国人なりと。
◯織田作之助、三十五歳にて死す。
◯ザラ紙一嗹(れん)八百円は安い方。千円も千二百円もの呼値さえあり。雑誌社悲鳴をあぐ。しかし一般に出版業者は強気なり。もっとも蜜柑四個が十円のこのごろ、一冊十五円の本はきわめて安し。
◯新春以来の執筆原稿次のとおり。
 “黒猫”に「予報省」二十七枚
 “自警”に「地獄の使者」第二回分二十五枚
 “少年”に「科学探偵と強盗団」の第一回二十二枚
 “少年クラブ”に「珍星探険記」の第一回二十三枚
 “サン、フォトス映画部”のための立案「掌篇探偵映画」
 “函館新聞社”の“サンライズ”の随筆「炬燵船長」六枚
 “エホン”の「そら とぶ こうきち」の七枚
 計百二十四枚。
◯双葉山、呉清源のついている璽光様(じこうさま)、金沢にてあげられる。(※新興宗教、璽宇教教祖璽光尊、幹部の元横綱双葉山、棋士呉清源ら、食糧管理法違犯により二十一日に逮捕)
◯佑さん病気なおりて本日より出社。
◯小川得一氏、ウラジオに健在なりと自宅へ往復ハガキ来る。家族狂喜。さりもありぬべし。

 六月四日
◯四ヶ月ほどこの日記をつけずに暮したが、この間にいろいろなことがあった。
◯まず弟佑一君が死んだ。三月二日のこと。病名は結核性脳膜炎。発病後三週間余にて、あわただしく逝った。あんな善人に、天はなぜ寿命をかさないのかと、私は恨めしく思った。戒名は佑光良円居士。
◯私の病体は、一応落着いていたように見え、四月にちょっと失敗して赤いものを出した。
◯一月には血痰が十二日、二月には七日、三月は四日位に減っていたが四月七日に小喀血(十cc位)。
 すっかり自信を失う。この原因はよくは分らないが、三軒茶屋にて見つけて買って戻った百間随筆全輯六巻を、一番大きな本棚のその上に並べたが、そのとき患部のある左の方の手を使ったためかと思う。
 しかし例の如く村上勝郎先生のお手当と、女房のきびしき心づかいにて、まもなくとめた。
 それから一ヶ月半病床生活を送った。
 四月二十三日に血痰が出た。それ以来今日まで、血痰が二三度出た。もう来客にお目にかかっている。
 五日ほど前から散歩を始め、三日間つづけて外出した。それも遠方ではなく世田谷一丁目か、三軒茶屋迄位のところ。しかるに三日目の翌日、血痰を出したので、あとはとりやめとする。
 ひびの入った硝子器のように、全くなさけない脆弱な躰である。
 どうして血痰が出るのか。患部に血管が露出していて、それから出血することは分っているが、そこから出血させないようにするにはどうしたらいいのか。何を慎んだらいいのか。
 左手を使って高いところへ重いものを持上げることが悪いのは、よく分っている。こんなことは殆んどしない。
 なるべく左手を使うこともひかえているが、ときに使う。だが、それは大した使い方ではない故、影響なしと思う。
 咳がいけないことは分っている。なるべく咳をしまいとする。しかし咳は自分でとめることは出来ない。咳は胸の中に痰がたまったときとか、咽喉に炎症があるときなど、自然に起るもので、意志の力では停めがたい。
 しかし咳が喀血や血痰の基だと思うから、それをむりにも停めようとする。かくて訓練の結果、いくぶんは停められるようになる。
 しかしそれは幾分であって、咳がいよいよ出始めると、どうしようもない。それを、同じ咳を出すにしてもなるべく小さい咳を出そうとして苦しい努力をする。修業と同じだ。全くやり切れない。しかし修業を積むと、すこしは咳を緩和出来るらしいことに気をよくして元気を出す。
 くさめはいけないと分っている。くさめが出そうになり、いよいよそれが出るまでには若干時間があるので、出そうになると、鼻を指でこすったり、鼻をくすくすいわせたりして、極力くさめをもみ消すのである。これは修練の結果、七割ぐらいは成功。
 遂にくさめが出るに及んでも、それを出さないように最後まで抑止する。
 その結果、妙な音響を発する。鼻と口とを抑えてくさめをするからである。鼻孔を出来るだけ細くしてくさめをするからである。うっかりきもちよくくさめをすると、そのあとで胸の中で血管が切れやしなかったかと、たいへん心配になり、くさってしまう。
 歩くことがいけないのであろうか。歩くと、はあはあ息を切るから、それが肺の活動を大きくしていけないのであろうか。
 喋ることの悪いのは、よく分っている。喋れば肺を活動させ、そして咳がつぎつぎに出て、更に肺をゆすぶりあげることになる。
 喋りたくはない。しかし病体で引籠り中のところ、親しい友が来てくれればどうしても喋りたくなる。
 仕事の方の客は、用談だけだから、短くてすむ。親しい友ほど、長話になる。それだから親しい友と逢うことはさけなければならないことがよく分っている。だが、私はそれだけは頬かむりして、逢うことにしている。親しい友と語らずして、何んの生甲斐があろうか。そして友から受ける精神的活力は、闘病療養のためにこの上もない貴重なくすりなのだ。
 いろいろ喀血出血の原因を考えたが、何分にも自分は生理学や病理学には素人であって、本尊をつかんでいるかどうか分らない。ただ一つの自信は、自分の躰であるから、いつもよく観察しているので、こうもあろうかと推察に自信がついてくることである。
 要するに、出血喀血の原因動機にはいろいろあり、そして同時に、出血喀血の原因動機ははっきり区別出来ないということだ。で、喀血出血の原因となるべき諸行について日常極度に恐れを抱いて暮すということは、如何がなものかと思う。いくら咳をしても血管が切れないこともあれば、ちょっとした咳でぷつんと切れることもあるのであろう。
 だからそんな心配をしているのは阿呆というべきであろう。もちろん無茶をしてはいけないが、こうしたら喀血出血するか、ああしては赤いものが出るぞと、神経過敏に恐怖観念に駆立てられていることはよろしくないのだと思う。
 ところが、夜分、停電で真暗な寝床にいたり、夜中に胸の工合が変で目がさめたときなど、どうにも仕様のない恐怖の谷底へつきおとされるのである。
 とにかく私は、いろいろと解析し、その都度結論をたて、それをあんばいして時に応じあれやこれやとテストをし、一生けんめいに最もよい対策と心構えをつかもうとして努力している次第である。



底本:「海野十三全集別巻2 日記・書簡・雑纂」三一書房
   1993(平成5)年1月31日第1版第1刷発行
底本の親本:「海野十三敗戦日記」橋本哲男編、講談社
   1971(昭和46)年7月24日第1刷発行
※ノート2冊に書き残された「空襲都日記」と「降伏日記」は、筆者の死後、海野と親交のあった橋本哲男氏によって編まれ、「海野十三敗戦日記」として出版された。同書では、1944(昭和19)年12月7日から翌年5月2日まで分を「空襲都日記」、5月3日から1945(昭和20)年12月31日までを「降伏日記」としている。
三一書房版の全集編纂にあたって、別巻2の責任編集者となった横田順彌氏は、「海野十三敗戦日記」を底本としながらも構成をあらため、同書の「空襲都日記」を「空襲都日記(一)」、「降伏日記」の内、1945(昭和20)5月3日から8月14日までを、「空襲都日記(二)」、残りを「降伏日記(一)」とした。さらに、英夫人よりあらたに提供を受けた1946(昭和21)年1月1日から翌年6月4日までの分を「降伏日記(二)」として増補した。
このファイルの作品名は、「海野十三敗戦日記」としたが構成は、三一書房版の全集に従った。講談社版には橋本哲男氏による解説「愛と悲しみの祖国に」があるが、全集同様、本ファイルにも同文は収録していない。
入力者注による体裁の記述も、全集版に基づいて行っている。ただし全集では、大幅に割愛してあったルビを、本ファイルでは補った。講談社版には橋本哲男氏が注を付しており、全集もこれをなぞっていたが、本ファイルでは新たに入力者注として付け直した。これらの作業にあたっては、講談社版を参考にさせていただいた。
※1945(昭和20)年8月13日に海野が認めた遺書を、本ファイルでは同日付けの日記の末尾に付した。
入力:青空文庫
校正:伊藤時也
ファイル作成:野口英司
2001年1月13日公開
2012年12月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


底本:「海野十三全集別巻2 日記・書簡・雑纂」三一書房
   1993(平成5)年1月31日第1版第1刷発行
底本の親本:「海野十三敗戦日記」橋本哲男編、講談社
   1971(昭和46)年7月24日第1刷発行
※ノート2冊に書き残された「空襲都日記」と「降伏日記」は、筆者の死後、海野と親交のあった橋本哲男氏によって編まれ、「海野十三敗戦日記」として出版された。同書では、1944(昭和19)年12月7日から翌年5月2日まで分を「空襲都日記」、5月3日から1945(昭和20)年12月31日までを「降伏日記」としている。
三一書房版の全集編纂にあたって、別巻2の責任編集者となった横田順彌氏は、「海野十三敗戦日記」を底本としながらも構成をあらため、同書の「空襲都日記」を「空襲都日記(一)」、「降伏日記」の内、1945(昭和20)5月3日から8月14日までを、「空襲都日記(二)」、残りを「降伏日記(一)」とした。さらに、英夫人よりあらたに提供を受けた1946(昭和21)年1月1日から翌年6月4日までの分を「降伏日記(二)」として増補した。
このファイルの作品名は、「海野十三敗戦日記」としたが構成は、三一書房版の全集に従った。講談社版には橋本哲男氏による解説「愛と悲しみの祖国に」があるが、全集同様、本ファイルにも同文は収録していない。
入力者注による体裁の記述も、全集版に基づいて行っている。ただし全集では、大幅に割愛してあったルビを、本ファイルでは補った。講談社版には橋本哲男氏が注を付しており、全集もこれをなぞっていたが、本ファイルでは新たに入力者注として付け直した。これらの作業にあたっては、講談社版を参考にさせていただいた。
※1945(昭和20)年8月13日に海野が認めた遺書を、本ファイルでは同日付けの日記の末尾に付した。
入力:青空文庫
校正:伊藤時也
ファイル作成:野口英司
2001年1月13日公開
2012年12月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について

本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。

田口※三郎氏
第4水準2-78-35 李※公殿下 野菜と魚の※がとれて