あらすじ
久坂葉子は、自分の意志で名付けられ、存在を認められた。作家を目指し、島尾敏雄氏に師事し、雑誌「VIKING」に作品を発表する。十八歳の彼女は、芥川賞候補に選ばれるなど、華々しいデビューを飾る。しかし、その後は、さまざまな苦難に直面する。恋愛の失敗、仕事の迷い、そして深刻な病気。それでも彼女は、筆を執り続ける。彼女の作品は、その苦悩と葛藤、そして生きようとする強い意志を映し出す。しかし、彼女は、自身の作品に悩み、絶望する。そして、久坂葉子を葬ろうと決意する。
 今からざっと三年半前、一九四九年の夏前に、久坂葉子は、この世に存在しはじめた。人間の誕生は、偶然に無意識のうちに、それでいておごそかに行われるものだと思う。しかし、この名前は、自分の意識的な行為によって名附けられ、誕生を強いたのであった。この名を、原稿用紙の片隅に記した時は、私一人しか認めることの出来ない名前であったのだから、確かに、この世に存在し得たものではなかった。誰かが認めなければ、その物体の存在価値など、零であるのだ。
 その時、雨が降っていたように思う。私は女学校の時の友人につれられて、島尾敏雄氏の六甲の家を訪問した。それ以前から、私は小説を書いたり詩をノートのはしくれに鉛筆書きしたりしていて、ほんの少し、文学らしいものへの動きは、周囲の人達に感づかれていたのだ。父が俳句をやっていた影響で、登水という号を父からもらい、句会に列席したことなどあるが、それは約半年位で、自ら、俳句をつくることをよしてしまっていた。その後、本名で、詩を投稿し、その一つは「百世」、その一つは「文章倶楽部」に、送ったものは必ず残るといった調子で、本屋の店頭に、わが名を見出したこともあったのだ。けれど、その前者はつぶれ、後者は、あほらしくなり、書いたものは、どこにも出さず山積時代が、三カ月程つづいていた。ところで、その友人が、私をあわれだとみたのか、島尾氏に、こんな女が居るんだと語ったらしく、それならVIKINGにおいで、ということで、私は、島尾敏雄氏なるものも、VIKINGなるものも、まったく御存知ないままに、三十枚ばかりの小説をもって、六甲へ行ったわけなのだ。その小説は、アカンとされたのだが、私が、はじめて、久坂葉子なる名前を附したもので、一週間位して、第二作、「入梅」を、島尾氏のところへ持って行き、それがVIKINGにのったのだ。
 島尾氏は無口な人であった。だから、私は、傍のベッドに、キョトキョトしていた赤ん坊ばかりをみて居り、かわいいですね、位は云ったように記憶している。二度目の訪問は、私一人であったから、余計、その対面は、かたくるしく、縁側の椅子に、浅くこしかけていた私は、膝の上のぼろぼろのハンドバッグを、一度ならず二度程、ガシャンと落した。
 八月の最終日曜日。私は、彼と共に、VIKINGの例会に出席した。阪急にのって、高槻の御寺までゆく間、一言も喋らなかったようである。車中、彼は、さらの木綿の風呂敷を膝の上において、本をよんでいた。私は、えんじ色と紺色のその風呂敷が、先生に似つかわしくないものだ、と思っていた。
 広い、がらんとしたお寺の座敷で、私は、焼酎なるものをはじめて飲んだ。そして、久坂葉子と紹介された時、かつて経験したことのない、照れくささを感じたものだ。だから、私は煙草をやたらに吸った。大きな声でわめく連中を目の前にしながら、なる程、これが小説を書く人達かいな、と思った。それ迄、私は小説家など全く縁遠い存在であったのだ。当時、私は十八歳であった。会は終ったようでなかなか終らない。すると、いつの間にか、私の膝の上に、重みが加わった。これが富士正晴氏の小さな頭であったのだ。私は、恐怖で胸の中がガンガンした。が持前の気取根性で平気をよそおっていた。冗談の一言位云ったのかも知れない。二次会に、駅の近所でビールを飲んだ。私の隣に庄野潤三氏が腰かけた。彼は、私に名刺をそっとよこして、手紙を下さいと云った。そして、あなたの名刺をくれませんか、と云った。私は、持ってませんとこたえた。しかし、名刺をつくる必要性があるということに気がついて、それは甚だよろこばしい発見であった。(だから翌日、私は、久坂葉子の名刺印刷をたのみに出かけたのだ)
 終電車で、私は神戸へ帰った。岸本通夫氏が、送って来てくれた。殆ど喋らなかった。
 私は、小説を書いて発表出来る機会が来たことに胸がはずんだ。そして、書いたものは島尾氏のところへ運んだ。
「入梅」がのった。その例会は、阪大の中の一室で行われた。いろんな批評をもらった。
「こいつは来々年の芥川賞候補になるであろう」
 と富士正晴氏がつぶやいた。私は苦笑した。芥川賞候補なるものは、十年位書いてなきゃなれるものじゃないと思っていたからだ。けれど嬉しかったに違いない。その後、私は、毎号小説を発表した。その年の暮、私は、はじめて、久坂葉子さんと、新聞記者から電話をもらった。私の記事を出すと云うのだ。私は、電話口でことわった。何故なら、その企画が、絵や舞踊やピアノをやっている令嬢の絵巻とか云うテーマだそうで、私は、その中に加入されたと云うことを、甚だ侮辱にとって、ガチャリと受話器を置いた。「入梅」から、四作目が、「落ちてゆく世界」という七十枚の小説である。これは、VIKINGにのる前に、島尾氏の紹介で、若杉慧なる人に会い、彼がみせて下さいと持ってゆかれた。(島尾氏が直接若杉氏に手渡されたようでもある)暮であったか正月であったか、とにかく寒い日に、私は若杉氏の家を訪問した。彼の目は、蛇のようだと思った。そして、VIKING族の方が、よっぽど愉快だと感じた。若杉氏は、「落ちてゆく世界」を書きなおせ、そして文芸首都におくるようにと云われた。(その題は若杉氏がつけたものである。私は、そんな気のきいた題はつけていなかったようだ)はい、と云って帰宅し、清書して、東京へおくり、あかんと云われてかえされたのが二月末。それをそのまま、V誌にのせたのだ。偶然、その作が、作品社の八木岡氏の目にとまり、五月末に、電報が来た。「作品」春夏号に掲載すると云うのである。私は、よろしくたのむと電報を打った。それが、「ドミノのお告げ」と題されて、「作品」に発表されたのが、七月のはじめである。正直なところ、V誌に発表されるのと、印刷文字で発表されるのと、別に区別された新しい感激はなかった。然し、原稿料なるものがはいると思った時、少なからず、一人前になれそうな気がした。八月に、私が上高地・乗鞍の旅を終えて帰宅して数日、前田純敬氏より、芥川賞候補作に、「ドミノのお告げ」が選ばれたという速達が来た。びっくりした。「入梅」以来一年たつかたたぬかである。然も、四作目なのである。喜びよりも、えらいこっちゃと心配になって来た。と云うのは、私は、何気なく書いて来たので、書くということに何の論理も持っていなかったからである。多くの作家のように、自分の作品を云々する言葉も勇気も勿論なかったのだ。私は、あわてふためいた。だが一週間後、選外の発表を新聞でみた。何故かほっとした。入選出来るものではないと思っていたのだ。それに、私は、今でもそうであるが、「ドミノのお告げ」を自分の代表作だとは思っていない。好ましくない作品なのだ。ところで、文芸春秋に、丹羽氏のチャーチル会の女優の絵だとか云う批評を発見した時には、大へん怒りを感じた。皮膚でもって、字づらだけで作品をみている、と思ったのだ。然し、辻氏の「異邦人」をよんで、はるかに、私の作品より高いところにあるものだとは感じた。
 候補になったことは、確かに私に何かの刺戟を与えた。でも、作品社の稿料がはいらなかったので、わが家では、偉そうな顔は出来なかった。家族から反対された出発であったから、猶更、私は口惜しかった。家族に対してのみ、どうだい、と云う顔がしたかったのである。だが私は、売れる見込みも注文もないのに、実によく書きまくった。「灰色の記憶」に着手したのもその頃である。今にみとれと思いはじめた。親父とは度々口論をした。小説家なんかは、余程の才能がなきゃなれるものじゃない。それより、お前の幸福のためには結婚して、女らしい生き方をしたらよいのだ、と。斯うなれば、意地である。どんな苦労をしても、何とかやってみせると断言した。親父を遂にだまらせてしまったのだ。親父に対するつらあての気持で、私は、その後新聞関係から、記事を写真をと云われると、こころよく承知をした。親父は渋い顔をしていた。その年の十二月、私は生まれてはじめて、原稿料五百円をもらった。神戸新聞のコントである。大きな顔をして、家族へ菓子を買って帰った。その頃、私は喫茶店につとめていた。一週間に、二度か三度、手伝いに行っていた。一日働いたら三百円であった。休みの日は、朝から、インキ壺と原稿用紙をもって、CIEの図書館へ通った。ストーブがあって暖いのである。一時間に十枚位のスピードで、やたらむたらに書きまくった。私は、何故書くのか、殆ど考えようとしなかった。単純な意味では、家族に対するつらあてだったろう。では、何を書くのか。それも深くは考えなかった。けれど、女流作家のものをよんで、彼女等が描く女にひどく反撥していたから、私の書くものは、たいてい女を描いていた。あらゆる角度から女を解剖してみようと考えた。「灰色の記憶」なども、自分の今までふんで来た道程を、忠実に文章に表現しようとするよりも、一人の女性の、幼年期から少女期から、成長してゆく様を描こうとしたのであった。富士氏からは、よい作品だと云われたが、V会では、綴り方教室だとやっつけられた。私は、ドミノよりはるか以上にこの作品に愛着を感じている。しかし、二度と現在よみかえしはしてない。「灰色の記憶」は、その後清書して、井上靖氏が、ぜひよみたいと云われたので、東京へ送った。彼は、すぐれた作品だと、文学界へ推薦してくださった。然しボツになったのである。私は、灰色をかいて発表して、自分には、技巧の訓練がまるでないのだということを知り、何だか自分に、おそろしくむかっ腹をたてて、VIKINGを脱退してしまった。その前に、島尾、庄野、前田諸氏はやめている。然し私の脱退した理由は、私自身の感情の波で、V誌に肌があわなかったのではない。雨が降っていた。私は富士氏と握手をして、市民教室を出てバスに乗った。ひどくバスの中で泣いた。孤独になって、もう一度やりなおそうと、悲痛な決心をしたものの、途端に、V会脱退を後悔したものだ。それから暫く、私の空白時代である。私は、クラブ化粧品の広告部に、月六千円で嘱託にやとわれた。そしてすぐ、NJBへ月七千円で嘱託にやとわれた。私は、ガタガタした生活をはじめた。前者の仕事は、嘘をいかにうまくほんとらしく思われるかということで、化粧品を片っぱしから讃美し、その化粧をほどこしたら、あなたは、クレオパトラのようになれるんだ、ということを、簡単な文句でかくのだ。だが私は、半年つとめていて、一つも仕事をしなかった。一週間に二度か三度、デスクの前にすわり、外国の雑誌をぺらぺらめくり、一時間したら帰っていた。それでも月給をくれたのだから有難い話だ。さて、後者の仕事は、はじめ、保険の外交員のようなことをしていた。放送をおたのみしますと、デザイナーや美容師にたのむのだ。彼女等はとびきり上等の服をきこんでいたが、とびきり下等な人間共であった。田中千代女史だけは別格である。大した傑物だと、私は頭をさげたが。一向に面白くなく、唯、ばたばたするだけのことであったから、一カ月もするうちに私は飽きてしまった。で、仕事をかえてもらったのが、これ又、大へんなあきれた話。有名な小説の朗読用脚色である。女の一生を女の半生にしてしまい、ルージンをきき物に化けさせる。最も最初にもらった仕事は、源氏物語を十五分で語らせるという、冒険ものであった。女性教養文庫の朗読は、放送以来半年位、私の仕事である。明日迄とか明後日迄とか注文され、自宅へ帰って徹夜仕事で、十五分ずつに区ぎり、明日のおたのしみをつくるのである。私の小説は、どうぞ、こんな目に会いませんようにと思ったものだ。その他、子供の童話劇を数本つくった。人のものをアレンジすることを嫌う私は、すべてオリージナルでやった。演出もした。ラジオとは、あきれたものだとアイソがつきた。私の才能は、ラジオ向に出来ていなかったので、暫くすると、童話劇など久坂は出来ないんだ、というレッテルがはられたらしい。私も、嫌で仕方がなかった。何度もやめようと思った。第一の原因は、ますます小説がかけなくなったからである。その頃、二つ程、かいたものは、今だってよむにたえない。富士氏のところへ持って行って、大馬鹿野郎としかられたものだ。彼は、私をじっとみつめながら、ラジオと縁をきれ、とぼそっと云った。はいと私はこたえたが、丁度、クラブで御払い箱になった私は、収入の点で、やはりNJBにくっついていたかった。その上、私は、一生のうちに、もう二度とくりかえさないだろう程の大恋愛の最中だったのだ。ラジオに関係のある人だったから、辞めるわけにはゆかない。私は、小説が書けない、何も出来ない状態のまま、NJBに通っていた。そして、彼との媾曳あいびきだけで生きていた。他に何も考えなかった。未来のことも、仕事のことも、すべて無理矢理に、私は自分で考えるなと強いたのだ。たしかに私は、大いなる誤算をしたわけだ。恋愛はとんだ結末になりかけた。私は、何でもいいから私だけの仕事をしたいとのぞんだ。偶然、又新日報という新聞が出来、最初の連載小説をたのまれた。一回千円の契約で、年内中に二十回分を渡した。一月四日から、奥村隼人氏のさしえで、「坂道」は発表されて行った。ごたごたした感情と、ごたごたした生活を送っていたため、実に荒いまずい小説だと自分で感じながら、とにかく書いたものが、たかが地方のヤボな新聞であれ、発表されてゆくことが、何らかの気やすめになったのである。ところが、この新聞は、四十五回の私の小説が終った途端、廃刊になり、稿料は二万円もらわずじまいになってしまった。もっとどんどんさいそくしたらよかったのに、恋愛の破局と共に、私は、九州の果てへ旅立ったのであった。二月のはじめ頃であった。前年の秋、東京や箱根へ遊び、一月には、白浜や龍神を訪ねたのだが、その時の晴やかな気分とは全く違って、重くるしさと苦しさで一ぱいになって、西へむかったのである。私は、仕事も恋愛もほうり出して、田舎の小学校の先生にでもなろうとした。しかし、広島で女学校の先生に説教され、九州をあちこち放浪するうちに、都会へ舞い戻りたい衝動にかられ、見事に、又、ふらりと帰ったのである。そしていよいよどうにもならず、薬をのんで自殺をはかった。蘇生した。その揚句、肺病になったのである。肺病は半年間の療養を宣言された。最初肋膜をわずらい、二週間絶対安静、一カ月安静を強いられた。だが、私は煙草を吸い、読書をし、ペンをもとった。「華々しき瞬間」は、ふとんの上でかかれたのである。たん壺を傍に、体温計を枕許に、そして、三時間毎に熱をはかりながら、ものすごいスピードで書きはじめた。書く前に、私は、ボーヴォワールの「招かれた女」をよんでいた。彼女の小説はある意味で私の創作の方向をかためてくれたようにも思われた。一つの存在の価値は、他の存在によってはじめて認められるのだということを、私は「華々しき瞬間」に於いて試みたのだ。勿論、そればかりではない。誰でももっている、相反した感情の動きを、とらえてみようとした。百五十枚の原稿を、私はすぐに富士氏の許へ送った。その返事はボロクソだったのだ。それでも私はくじけず、書きなおしてみた。それがVILLON第一号に掲載されたのだ。その後、私はよく書きまくった。そしてVIKINGにも復帰し、古い原稿を整理しては発表して行った。あらたに、二百枚近くの小説も書いた。そのうち、病気はなおってしまったのである。丁度、五月頃書いた戯曲がきっかけで、神戸に演劇研究所なるものが誕生し、私は別に、大した興味もなかったのだが、ずるずるひきこまれて、恢復した途端から、いそがしく動きまわらねばならない状態になった。病気中に作曲を志し、それにも夢中になりかけたが、もともと根気のない私は、ハーモニーというむつかしい問題で作曲を断念した。久坂葉子は、病気以後、わずかに活躍した。詩の朗読会なるものをおっぱじめ、それは、失敗に終ったけれど、一カ月の間はいそがしく専念した。さて、VILLONの、「華々しき瞬間」、の問題にかえろう。この小説が、確かに、久坂葉子を死亡させなければならないと強いたのである。多くの人の批評(酷評)がこたえて私は、小説を書くことを断念しようと思ったのではない。私は、大へんな苦しみでこの作品を書きあげたことが馬鹿々々しくなったのである。たしかに、白紙の原稿用紙にむかう時は、書かなければおさまらない衝動にかられる。短いものを、一息に、その衝動の引力でもって書いてしまうこともある。今迄、私の多くの作品は、そんな状態でうまれた。安産であった。出来たての子が阿呆にしろ善人にしろ安産であった。しかし、「華々しき瞬間」に於いては、すこぶる難産であったのだ。難産して生まれたものは、大きなあやまちのしろ物であったのだ。どうして、苦しんでまでして書かなきゃならないのか、もう私は意地をはるのをよそう。私はこの道に才能がないことをはっきり知ったようだ。どんなに苦心をして作ったものでも、その作品が駄目な場合、その苦心は無駄骨折なんだ。だから、苦心作だとか力作だとか云われるのは、ひょっとしたら、侮辱されているのかも知れない、と考えたのだ。しかし、私の勝気さは、華々しきを発表した後にうけたショックで、すぐに書くことをよさなかった。そして、「孕む」という小説をかきはじめた。二三行。もうその先が出て来ないのだ。何度も二三行、がくりかえされた。かつて、書きかけの原稿をまるめてしまうという経験のない私であったのだ。それなのに書けない。何故苦しんでまで、原稿用紙に字をうずめねばならないのか、と頭の方で手に疑問をもちかけるのだ。それが五日つづいた。私は、決心した。久坂葉子を葬ろう。私は、小さな白木の箱をつくり、白布で掩い、勿論その中は久坂葉子の名前のあるすべての紙片をつめこむのだ。そして、焼こう。線香をたてよう。ブラームスの四番をかけて、もう二度と蘇生させないようにしよう、と決心したのだ。三年半の久坂葉子の生命であった。久坂葉子の存在のおかげで得をしたのは、映画好きの私が、試写会の招待券なるものを頂戴したにすぎない。多くの知人を得たことは、得であったようで、あまり結果的にみてよかったことはない。私は久坂葉子の死亡通知をこしらえ、その次に葬式をするのだ。弔文をよもう。
 お前は、ほんとに馬鹿な奴だ、と。
〈昭和二十七年十一月〉

底本:「久坂葉子作品集 女」六興出版
   1978(昭和53)年12月31日初版発行
   1981(昭和56)年6月30日6刷発行
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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