私は、いろんなものを持っている。
 そのいろんなものは、私を苦しめるために活躍した。私の眼は、世間や自然をみて、私をかなしませた。私の手足も徒労にすぎないことばかりを行って、私をがっかりさせた。考えるという働きも、私を恐怖の淵につれてゆき、さかんに燃えたり、或いは、静寂になったりする感情も、私をつかれさせただけである。
 しかし、その中でたった一つ、私は忘却というものが、私を苦しめないでいたことに気がついた。忘却が私を生かしてくれていたのだ。そして私は、まがりくねった道を、ある時は、向う見ずにつっ走り、ある時は、うつむきながらとぼとぼあるいて来た。それなのに、突然今日、私はふりむくことをした。何故だろうか。もやもやした煙で一ぱいの中から、わざわざたどって来た道を見付け出さないでは居られない衝動にかられた。つまり、記憶を呼び戻そうとするのである。忘却というものを捨てようとしているのである。忘却を失ったら私は生きてゆけないというのに。
 私は、死という文字が私の頭にひらめいたのを見逃さなかった。飛行機にのって、さて自爆しようという時に、一瞬に、過ぎ去った思い出が、ずらずらと並べたてられるのだ、ということを、私は度々人から聞いたことがある。私は今、死に直面しているのではない。が突然、発作的に起った私のふりむきざまが、死を直感し、運命というような、曖昧なものにちがいないけれども、それが、私の胸をきつくしめつけた。
 私は、だんだん鮮かに思い出してゆく。おどけた一人の娘っ子が、灰色の中に、ぽっこり浮んだ。それは私なのである。私のバックは灰色なのだ。バラ色の人生をゆめみながら、どうしても灰色にしかならないで、二十歳まで来てしまった。そんなうっとうしいバックの前でその娘っ子が、気取ったポーズを次々に見せてくれるのを私は眺めはじめた。もうすでに幕はあがっている。

 男の子、女の子、そして次に生まれた赤ん坊は、澄子と名附けられた。まるまる太った、目鼻立の大きい赤ん坊は、自分の名前が、自分と似つかわしくないと思ったのか、片言葉ながら、自分をボビと呼び、それに従って、大人たちも、ボビチャマとよんだ。右手のおや指をいつも口からはなさないでいる三歳の私が、そのボビであった。
 明治の御代に、一躍立身出世をした薩摩商人の血と、小さな領地を治めていた貧乏貴族の血とが、私の体をこしらえあげた。
 私の父は、その頃、曽祖父の創業した、工業会社の重役をしており、私の母は、上品なきれい好きの江戸っ子であったから、私の襁褓おむつは常に清潔でさらさらしていたらしい。それに、外出好きの母であったから、私に一人、つきっきりの乳母が居り、一日中面倒をみてくれていたのだから、私の涎掛よだれかけも、きれいな縫取のあるのが、たえずかえられていたにちがいない。乳母は太っており真白の肌をしていた。両方の乳房が重たく垂れており、私は、右手の指をしゃぶりながら、その柔かいあたたかい乳房を左手でいじくりまわしていた。夜、眠る時も、父母は私の傍に居らず、乳母の両乳の間に顔を押しつけて眠っていた。

 その頃、生まれつきよわかった兄のために、紀州の海岸に別荘を借りた。兄、姉、私と、すぐ後に生まれた弟と、乳母と女中が海岸の別荘に生活するようになった。真白で広い浜辺の端に、高い石がけの平家があり、私はそこで波の音を四六時中きいていた。ひる間はその波音が退屈しのぎであり、いろんな夢を思い起させたりしたが、夜中にふと目をさますと、それは恐しい魔物の声のように思えた。そんな時、私はしくしくと泣き出して、乳母の乳房に耳を押しつけた。
 こまかい白い砂地は、私を無性によろこばせた。汀をぺたぺた素足で歩く。と、すぐにその足あとは波に消されてしまう。どんなにゆっくり、じわっと足あとをつけても、すぐにそれはあとかたなく波のためにさらわれてしまう。今日こそは、波にさらわれまいとし、その小さな念願をくりかえしながら、次第に汀で遊ぶことが退屈になり、私はお魚や、貝がらをあつめたり、磯の間に、ぶきみな形の小石をひろったりした。それは大切に、廊下に並べられたり、お菓子の空箱にしまいこまれたりした。
 毎朝、五時に、ほら貝が鳴る。私達は女中の手にぶらさがって、ほら貝の鳴っているところへゆく。漁師が海から帰って来て、獲物のせり市があるのだ。私は生臭いその空気を好んでいた。大きな台があって、其処に、がらがらした声のおっさん達が、竹べらにチョークで何やら記して伏せて置いたり、ひらいたりしている。私は、荒っぽいその中に、びくびく動いているおさかなを、別に同情もしないでみていた。真赤な血が垂れる。自分の爪のような鱗がとぶ。私の殊に好きなさかなは、蛸であった。必ず、その丸く吸いつくところへ手をもってゆき、小さな指で、強くひっぱられることに興味を抱いた。たくさんの穴へ一本一本の指をいちいち吸いつかせる。そうしているうちに、邪魔だとしかられる。しかし太いお腹に毛糸であんだぶあつい腹巻をして、黒い長ぐつをはせた漁師達に、私は肉親以上のしたしみを抱いていた。
 毎日、新しいおさかなを、あれがいい、これが好きだと選んで持ってかえる。それが、朝の仕事の一つであった。家へかえると、まめ粥が煮てある。このあたりの風習に従って、小さな豆の実と葉をかげ干しにしたものを、おかゆにまぜて煮くのだということは、後で知ったのであるが、それに、漬物と味噌汁とがきまって出される。小さな茶碗に、風船の絵がついていて、私はそれを大へんかわいがっていた。
 日中、畠でとんぼやかえるをつかまえることもした。指の間に、とんぼの羽をはさんで、両手一ぱいになると空たかく逃がしてやる。そして又くりかえす。勿論、私自身で、とんぼをつかまえることは出来ないから、田舎の少年や、おばさん達にとってもらい、私はわらぞうりをつっかけて、兄達にまじってたんぼ道を歩いた。
 親からはなれて寂しいとは少しも思わなかった。そうした田舎の人達の素朴な感情の中に、私は伸び伸びと育った。
 けれども、教育のためには、田舎の生活はプラスしないという親の意見で、大分、丈夫になった兄と共に、兄弟達は都会へひき戻された。海岸の別荘は、夏間だけ借りることになった。
 両親の許へかえって私は、その日から、厳しい躾を母から与えられた。私は急に臆病になり、じけた性格になってしまった。他の兄弟は、割合すぐに都会の空気になじんで御行儀よくなったけれど、私はどうしても田舎の生活がこいしく、人や雑音の多いことが、嫌でたまらないでいた。母は私のイナカモンを恥かしがった。私は幼稚園へゆかされるようになった。大人の先生は母よりも厳しかった。お祈りをきらって、小さな部屋に監禁されたり、お庭へ放り出されたりした。私は、よく泣いたけれど、おしまいには、そうされることが、何か偉いもののように思われて、平気で、うすぐらい鍵のかかった小さな部屋の中で、おはじきやあやとりをしていたり、お庭の塀を登って、すぐ近い自分の家へ逃げかえって来たりした。すると母は私を倉の中へ押し込めた。私は、冷い床の上にすわって何時間もあやまらなかった。
 幼稚園が、あまりひどい折檻をするので、乳母は、私をかわいそうだと云い、母と口論して、遂に幼稚園をやめさせてもらった。母は私を放任してしまった。別に、母に対して甘える気持もなく、かえって放任されたことを私は喜んでいた。手あたり次第に本をみることも、三番目の私から出来るようになったのだ。廊下を走ることも私がやってのけた。はいったらいけないと云われている、父の書斎や客間にねそべることもした。元気をとりもどした私は、手あたり次第に事件を起すことを好んだ。その時分から、平凡な退屈な生活が堪えられない苦痛であったのだろうか。
 椅子の上に立ち上ってみたり、マントルピースの上の石像をさわってみたり、階段の手すりを持たないであがり降りしようとしたりした。けれども私は、粘りっこい根気がなかったから、出来ないとなるとすぐ又他のことに手をつけた。
 しかし斯うした生活は長くつづかなかった。というのは、私は大人をしん底からうらみ、決してだまされはしまいぞ、という警戒心が起ったからである。その日から、私は、むっつりとした陰気な子になってしまった。
 ある日、それはたしか晴れていただろう。母と女中の手にひかれて、K百貨店へはじめてお買物のお供をさせられた。私は珍らしげに、いろんな形や色をみた。母は何を買ったのかわからなかったが、そのうち私は、洋服地の売場へお供した。と、すぐ目の前に大きな人形がくるくるとまわっている。私はすっかりそれに魅了されて、その前にじっと棒立になっていた。女中が傍に居り、母は何やら又そこで買物をして戻って来たが、私はどうしてもマネキンからはなれようとしない。さあ、帰りましょうとうながされても、嫌、あれ持ってかえるの、と私は云い張ってきかない。しまいには泣き出して、あれがほしいんだ、とさけび通した。母はほとほと困ってしまうし、支配人も、もみ手をしながら、他の玩具を私に与えて機嫌をとろうとする。がどうしても、あの人形がほしいのだ、と私は云い張る。じゃ、マネキンの部屋へ連れて行ったらきっと恐しがっていやになるでしょう、と母は支配人にたのみ、私はそのうすぐらい部屋にはいりこんだ。そこには、首のちぎれたのや手足がバラバラになったのやら、婦人や子供やいろんな大きさのがならべてある。私は、大人たちの計画通りには行かなかった。ますますその不気味なボディーに愛着を感じ、今度は、その倉庫の、裸の婦人に抱きついてはなれない。その人形は、表情も固かったし、手足も細く、私の頬ぺたに、その足が冷たく感じたのだけれど、私は妙に好きでたまらない。母は、私の尋常でないことをおそらく恥じたのに違いない。泣きさけぶ私は、両手を母と女中にひっぱられながら無理に百貨店を出されてしまった。電車にのっても泣きやまない私に、
「東京の御土産にパパに買って来て頂きましょう」母は優しい声で云った。
 私はやっと確かに約束をさせて、丁度、一週間後に東京へ出張した父の帰りを指折かぞえて待った。父は一カ月に一度位、東京へ出張した。そして必ずお土産に兄弟に一冊ずつ本を買って来てくれた。私の弟は、私のために放任主義がつづいて、自由に何でもよんだりみたりすることが出来たので、四歳の時から本に親しんだ。彼が、天才あつかいにされ、神童呼ばわりにされたのも、私の恩恵であったのに、私はそのため随分ひけ目を感じてしまうことも度々起ったのだ。
 父を出むかえに、その頃、出張は必ずつばめの白線のある車で、日曜の朝着くことになっていたから、母と子供達は自動車で迎えに行った。私は、あの大きな人形と毎晩一しょに眠れるんだと、胸をときめかしながらプラットホームに待ちかまえていた。ところが、父は革鞄の他に何も持っていない。
「パパ、お人形は?」
 私は、おかえりあそばせ、も云わない先にきいた。
「この中だよ、お家へかえってから」
 私は屹度、手足がばらばらに取りはずし出来るようになっており、革鞄の中にきちんとはいっているのだろうと、踊る心を押えて家へ帰った。鞄をあけて、兄弟は中を一斉にのぞきこんだ。読書ぎらいの兄は、又本かと云うような顔付で包を受けとった。姉はきれいな英語の漫画の本であった。ところが私には、四角い箱がわたされた。それは、あのお人形の首だけしかはいっていない位の大きさであった。私はそれでも、わずかな希望でもって、その包みをほどいた。中にありふれた人形がよこたわっていた。小さな胸に、あんな憤りを感じたことはそれ迄なかった。私はいきなりその西洋人形の髪の毛をひっつかみ柱にぶっつけた。ママーと云ってその人形の頭は砕けた。
「パパは嘘おっしゃったの、ママも嘘おっしゃったの、ボビはわかったの、わかったの」
 その日から、私はもう大人達を信じなくなった。そして、自分の心の中をすっかり閉ざして誰にもみせないようにしてしまった。そして又大きな裸の人形と眠るゆめが、やぶれてしまったという失望と――その頃はもう、乳母の乳房をいじることは、弟の手前、出来なかったのである――大人に欺されたという腹いせとが、私を妙にこじれさせ、恐しいことには嘘をついてもよいのだという気持が、もこもこと起き上って来たのである。そしてその一種の嘘が、空想したり想像したりするたのしみをつくらせた。私は平気で自分をつくり話の主人公にして、弟や女中に話をしてきかせた。
「ねえ、きいて頂戴、ボビはねエ。遠い遠いお国で生まれたの、ママもパパもなかったのよ。たくさんの木があって、兎や鹿がボビを育てたのよ」
 私は毎日ちがった話をつくり出した。そうして出鱈目な話をしてみせることがどんなに愉快なことであるかを知った。小さな頭一ぱいに、お星様やお花畠をおもい、美しい人達――それがどうしてもあのマネキンの裸像であったのだ――が踊ったり歌ったりしていた。

 私は、大人達が親切にしてくれることを喜ばなかった。私の家は、大家族であり、父の兄弟は分家していなかったし、祖母が健在であったから、お正月だとか、祖父の命日だとかには必ず、大勢の人達が集った。そんな時、私も、きちんとした身なりをさせられ、御挨拶せねばならない。ところが私は、大人のおほめ言葉を真に受けなかったし、物をくれようとしても、それが何かの手であるように思えたから受けとらないで、大人も、私をひんまがった子だと自然目もくれないようになった。それに、弟が派手な存在であったのだ。弟は母の容貌に似ており、愛くるしく気品があった。大伯母や叔父達はみな弟をかわいがった。
「アンダウマレノミコト、って知ってる?」
 これが、五歳にならない弟の作ったナゾナゾだった。
「誰方でしょう。どんな神様?」
 大人達がきく。
「あんネ、ヤスダセイメイのことさ」
 大人達は本心驚いた。人の話をきいたり、新聞のふりがなをそろそろよみはじめていたらしい。私には、そのからくりが、何のことだかさっぱりわからないでいた。
 私は弟がもてるのをこころよく思わなかった。しかし口喧嘩をしても負ける。腕でいってもまかされる。私は余計に、ふさぎこんでしまっていたのである。
 お正月。祖母一人住んでいる大きな御家に、私は従兄妹達と会ったりすることもいやであった。私は、広い庭の隅で、マネキンの絵ばかりかいて独りぽつねんとしていた。私は、自分がかなしくてたまらなかった。そして、何という不幸なかわいそうなものだろうと思っていた。いや、無理に悲劇を捏造しようとしていたのかも知れない。私は、屹度、ままっ子なんだ。私は次第にそういうひねくれた気持がかさんで行った。姉の少女小説を女中によんできかせてもらいながら、主人公が自分のような気さえして、涙一ぱいためてしまったこともあった。私は、自分を悲劇の中に生かし、自分のためにかなしんだのだけれど、決して自分以外のものには同情しないでいた。
 トリチャン、ワンチャン、ウサギチャン
 そんな動物が、子供のために飼育されていたけれど、私は、籠の四十雀にもカナリヤにも見むきもしなかった。

 その頃、小児麻痺をして脚がびっこだった姉に、日本舞踊を習わせるといいという人があり、母の趣味ではなかったが、大きな袂のある着物をきた姉は、毎週二度位程御師匠さんのところへ通っていた。私は乳母と共に度々お供をするうちに、自分も習いたくなって弟子入りするようになった。小学校へゆく前の年である。それからもう一つ、これは母の趣味でもって、やはり姉に少し遅れて、ピアノを習いはじめた。私には舞踊の方が興味があって、どんどん上達した。わけもわからない色恋物を、首をしなしなまわしたり、それと共に、自然に色っぽい目付をしてみせたりして踊った。(これは無意識にそうなっていたのであろうか、とにかく、当時の写真に焼付かれている私の目は、はなはだコケティッシュであるのだ)。お師匠さんはきびしく私に教えた。
「つるつるしゃん、つてしゃんりんしゃん、それお腰、やりなおし、そら御手」
 腰を上手に折れば、五本の指がすきまだらけになり、目付を上手にすれば、口がぽかんとあく。
「下のお嬢さんは筋がおありなさる。きっと名取りにさせてみまっせ、ええおしなつくんなさる」
 お師匠さんは、しかりつけながら私を可愛がってくれた。長唄の好きな乳母は、それを大層喜んだけれど、母はあまり嬉しそうではなかった。かむろ、藤娘、私は高い舞台ですぐに発表会に出演するようになった。
 一方、ピアノは姉の方が好きであった。これは又、なめるようにやさしい先生が、あまり練習をしないのにさっさと弾いてゆく私を、
「ボビチャマは、素質がおありになるわ、ねえママ様、ボビチャマの音はとってもきれいですこと。本当にのばしておあげするわ、わたくしも張合がございますわ」
 と又称讃した。この辺りから、私はひがみっ子ながら自信が出て来て、御稽古ごとで、大人の舌をまいてやろうと思うようになった。悲劇の捏造がしばらく停止したのはこの頃であろうか。おじけながらも、かえってそれが負けぬ気となり意地っぱりとなり傲慢さともなったのである。
 金ボタンのついた白いケープを着て、私は小学校の門をくぐった。私の父もこの学校を出身しており、私は、兄妹につらなって、歓迎されるように入学したのであった。しかし、かなしいことが一つあった。年寄った看護婦さんが、
「お嬢さんは母乳ですか牛乳ですか」
 と母に尋ねたらしい。とにかく、
「殆ど、牛乳でございますの」と母が云ったように覚えている。これが、ふたたび私のままっ子だということを裏付けしたように、そのとき、ひどく悲しく思ったことが、はっきり胸に残っている。そして、金ボタンをくるくるまわして、みっともないと叱られたこともその時だったらしい。
 私は家庭に対して愛着がなかったから、小学校へゆくことがさして苦にもならなかった。大人達には親しめなかったけれど、同じ年輩の子供達にはすぐ仲良くなり、餓鬼大将ぎみであった。よみ方の読本は、はじめっから最後の頁まで、すらすらよむことが出来たし、簡単な数字のタシヒキは兄や姉の傍らで自然に覚えてしまっていたから、ちっとも勉強しないでも、いいお点を取ることが出来た。
 人がわからないことが、自分にはわかる。これは幼い心に植えつけられた優越の喜びであった。けれども、私を押さえつける不愉快なものが一つあった。それは秩序ということであった。

 二列に並んで、ハイ御挨拶。マワレ右。何度も何度もくりかえされる。私は背がひくかったので、前の方に並んでいた。朝、校庭で行われる朝会の時から、ランドセルを背負って校門を出る時間まで、今までの生活と違った窮屈さである。両手をあげて前へならえをする時、私のところでいつもゆがんだ。まっすぐに並ぶことがどうしても厭なのである。たやすいことに違いないのだが、私は、先生になおされるまできちんと並ぶことをしなかった。教場では他所見をする。御遊戯は型にはまった廻転や歩みばかりで面白くない。御行儀が悪いとしかられる。そんなことが続いて私はすっかり疲れてしまったのである。私はそこで嘘をつけばいいのだということを思い出した。
「センセ、オテテガイタイノ」
 私は手を揚げるべき時にそう云った。先生は私の云い分をすぐに通してくれた。とにかく、私は名門の子供であり、学校の名誉でもあったのであろう。
 家へかえると勉強などしないで、絵本をみたり、相変らずお話をつくってきかせたりした。御稽古ごとはどんどん進んだ。然し、私はやはり型にはまった形をつくることをいやがりだした。私はレコードをかけて勝手に振つけをしたり、でたらめなメロディをつくってピアノの練習曲はおさらいしなかった。しかし、その我儘な振舞がかえってよかったのである。大人達は、私を天才的だと云った。私は、ますます調子にのって来た。そうして二年生に昇った頃、私は、恐しいことをするようになった。盗みである。充分に鉛筆やノートをあてがわれ、不自由するものは何一つなかったのに、私は盗むことに非常な快楽を発見した。私は、机を並べていた友達にそのことを訴え、忽ち仲間にしてしまった。私とその女の子は、毎日のように、文房具屋へ遊びにゆき、きれいな麦わらの箱や、小さな飾り花をとって来た。盗むということが悪いとは知らなかった。堂々とそれをみせびらかして英雄気取になっていた。小さい木の机の中には、たくさんの分取品がたまった。私はそれを級友にわけ与えて喜んだ。盗むことの喜びは、試験をカンニングすることまでに延長した。悪友の隣の女の子は、宿題をきちんとして来て、私のために毎朝みせてくれたし、試験の時、盗み見しても寛容な精神でいてくれた。その時分、私は数字に対して大へんな恐怖を持ち出した。カケ算やワリ算がはじまるようになったのである。数字が、キイキイと音をたてて黒板にならべられる。私はどうしてもわからない。何故こうなるのだろうか。不思議さで一ぱいで、それが恐しさにかわったのである。サンジュツの時間です。となると私の胸はひしゃがれてしまう。わからないことはきらいなのである。そうして私は数字を憎むまでになった。しかし、とにかく、不正行為だとは知らないで、堂々と行うカンニングのおかげで私は悪い点をとらずにいた。好きな学課は、つづり方や図画であった。つづり方の時間には必ずのように、私のものがみなの前で披露され、私は得意になっていた。それに、よみ方は、小さい時からの、オハナシしましょうのおかげで、決して棒よみをせず、独特の節をつけてよんだりすることが、先生に高く買われた。だから学芸会だの、おひな祭りなどには、講堂の舞台上で活躍をした。年に二回あるピアノの会や、踊りの会で、私は自然舞台度胸が出来ており、そのことが、だんだん大人に対する警戒心をほどいてくれ、それに、英雄気取りが、私に大した自信をつけてくれたのか、こわいものなしの児童であった。大勢の友達が私の家へ遊びに来た。子供部屋におさまることがきらいな私は、立入禁ずの客間へみんなを連れこんで、クッションを投げとばしたりソファの上をとびこえたりした。それから好きなあそび場は、押し入れの中であった。ナフタリンのにおいと、ほこりっぽいわたのにおいが、私を喜ばせた。戸をぴったりしめこんで、真くらな中で、女の子を裸にさせたこともある。やはり、マネキンを抱いて眠りたい夢のつづきであったわけなのだ。英雄の命令通りに、大人しい女の子は短いスカートをとりはずした。私は、その白い乳くさいにおいのする肌をさわって、感傷的にさえなった。

 私の母は、私が学校から帰っても家にいることは殆どなかった。母の会だとか、友の会だとか、そんな会にはいっていて、絶えず外の用事ばかりをしていた。弟が肺炎で、生死の間を彷徨している時でさえ、家に居なかったということを、大きくなって乳母から度々きかされたことがある。楽天的な性質らしく、それに、お針をしたり、台所で食事の用事をすることを好まないのか、ついぞそういう母の姿をみたことがなかった。
「お家へかえったら、お母様、唯今かえりました、と云うのです」
 先生がそう云った時、私は大へん物悲しい表情をして、
「ママはおうちに居ないの」
 と訴えたことがあった。しかし、その物悲しい表情というのは、あきらかにジェスチャーであり、母に対する思慕など、少しもなかった。かえって家に居ない方が、自由に遊ぶことが出来てよいのである。
 母をますます愛さなくなった原因がその頃又一つ起った。二階の御納戸に、あけしめするのにギイーッとなるたんすがあり、その中に紺地にうさぎの絵のついた御召があった。母は時折それを着た。たしか冬頃着ていたようだから――というのは、その上に黒い羽織をはおると兎が一匹みえなくなるのを悲しく思っていたからである――袷だったのだろうか、それを私は大へん好んでいた。そうして、「ボビが大人になったら、そのおめしものいただくのよ」
 と姉や乳母に度々宣言した。母も、約束してくれていた。ところがいつの間にか、その着物がなくなってしまった。母はそれを着ないのである。そっと、ギイーツとたんすをあけてみたけれど、中にはいっていない。或日、私は母にたずねてみた。
「あああの御召もの、あれは、カザリイン先生がアメリカへ帰られる時さしあげたの」
 母は何気なくそう云った。カザリイン先生は幼稚園の園長さんだった。私は青い目と、うぶ毛の密生した赤白い皮膚を、その時非常に嫌悪していた。で、自分の最愛の着物を、きらいな先生にあげてしまった母をうらめしく思い、又ここで、約束を破った大人を、心の底から憎んだのである。然し、この母は、私の綴り方や、ピアノの音を好んでくれた。そして、母を好きだと思う時が、全くないものでもなかった。母は花が好きであったから、私を連れて、御客様をおまねきしたりする時は、殊に遠い温室のある花屋まで買いに行った。私は、むっとする強い花の香りに酔い心地になって、いろんな幻想を思い起した。そんな時、母は必ず、
「ボビ、どのお花好き」
 とたずね、私の撰んだ花を必ず買ってくれるのだ。私は、その時母をいい人だと思った。お花の束をもって帰り、きりこのガラスの瓶や、まがりくねった焼物の壺にその花をいれるのを傍でみていた。はさみをパチンパチンとならすのが、私の心を踊らせた。母は余った花を小さく切りそろえて、私に与えた。私はそれを、姉と二人の勉強部屋――私達は人形や本や切り抜きの絵のはってある西向の部屋を斯う呼んでいた――に飾った。

 その頃、私は冬になるとよく病気をした。廊下続きのおはなれには、常に誰か兄弟が寐ていたけれど、私のは一番長かったようだ。クリスマスの晩、ホテルの家族会へ、毎年招かれてゆくならわしになっていたのだが、私はその一週間前あたりから床につくことがさだめられているように、風邪や肺炎をおこした。クリスマスのために、外套から靴まで新調してもらうのだったけれど、それをきちんと枕許に置いて、
「もうじきクリスマスですよ、もうじきよくなりますよ」
 と、年とった医者のさしだす苦い薬をのまされた。ピンクのひらひらのついた洋服が、陰気な消毒くさい六畳の間にぶらさがっていたことをはっきり思い出す。そのピンクの年は、春まで寐ていたのだった。私の枕許には折紙でこしらえたくす玉が一ぱい天井からぶらさがっており、時折、その長い垂れさがった紙ひもが頬をなでた。私は又、寐ている間、看護婦の唄う流行歌を覚えた。母は、子供の前で絶対に歌ってならないと命じていたが、吸入器の掃除をしたり、枕許の整理をする時、自然にその白い上衣をきている彼女の口から、
「銀座の柳の下で……」
 がとび出すのだった。私は、すぐそれを覚えて、何かしら切ない気持にもなってみた。

 病気をしていない時は、相変らずの英雄生活がつづいた。支那事変や関西風水害が起った頃である。凡そ、自分以外のことには無関心であったから、その頃の子供達は兵隊さんや従軍看護婦に憧れはじめたものだが、私は一向に興味がなかった。日の丸の旗をかいて、停車場や波止場に送りに行ったこともあるが、戦争がきらいだということもなく、善悪の判断などわかる筈もなかった。――相変らず私は、ある種のスリルを満喫していた。
 そのうちに、踊りの稽古が、あまり派手好みでない母に、少々面倒にもなったのか、姉の脚も、すっかり人目にわからなくなったので、共々、私までやめさせられてしまった。ピアノは、やさしいソナタ位弾けるようになっていた。別に努力もせず気まぐれに弾いていた。
 しかし、ここにふたたび私の心はぴっしゃんこにつぶれてしまう時が来た。
 ある放課後、私は五人の女の児をひきつれて大きな御邸の前へ来た。庭にテニスコートがあり、そのあちら側にたくさんのけしの花が咲き乱れている。私はそれがほしくてたまらなかった。他の女の児達もほしがった。金網越しにそれを眺めていた。私は遂に決心して、ランドセルとおべんとう箱を、矢庭に道路へ投げすてると、金網を登りすばしこく越えはじめた。真剣な十の眼が、両手でしっかり金網をつかんだ間に並んでみえた。私は身がるに飛びこんだ。白いラインが殊更にくっきりと私の眼を射た。私は何か非常に重大な責務をあびているような感じがして、腰をかがめて走り出した。すぐに、けしのむらがりまで到達した。私は、紫や赤や白の花を、六本折った。私はふりかえってにっこと笑うと、その花束をしっかり握ってかけ戻った。その時、急に女の児達は走り去った。
「センセ、センセヤー」
 がたがたと鞄の中で筆箱がなった。子分は親分を捨てて行ったのだ。私は、もう金網を越える元気もなく悄然とたっていた。先生がやって来た。受持の長い顔の男の先生だった。
「何しているの」
 私は、つかんでいた花をみた。すると、二三枚しか花びらはついておらず、芯だけのこった丸坊主頭が六本ぐんなりなって手の中にあった。ふりかえった。白いラインに並行して、赤や紫のその花びらが点々と散っていた。私は突然泣き出した。先生は棒切れで、金網の戸の内側の鍵をたやすくあけて、私をひっぱり出した。

 今までのすべての悪事は露見した。私は、なかなか謝らなかった。
「ほしいからとったの」
 くりかえして私は云った。
「お母さんに云いつけます」
 この言葉で私はすっかりまいってしまい、平謝りに謝った。先生は、私の机の中にのこっていたものを一切文具屋に返しに行ってくれた。私はその日から、立派な金銀の甲冑をはがされた武士のようになってしまった。休み時間に遊ぶ気もなく、ひとりしょんぼりしていた。もう誰も私を尊敬してくれず、取りまいてもくれなかった。試験をみせてくれる友達も居なくなった。
 しかし、私は規則をまもらないことや、嘘をつくことは、やめられなかった。そのため私は教場でたびたびたたされた。頭の上に、重い謄写版の鑢をのせられ、一時間中黒板の横にたったこともあった。しかし別に恥しいとは思わなかったし、たたされながら、他のことをかんがえていた。
 その頃の私のたしなみの一つに、物を誇張して人に伝えることがあった。学校で生じた些細なことを、引伸しくりひろげて家の人達に話す。父や母は面白く或いは悲しげにそれをきく。自分の出来事でも、それを非常に強調するのであった。遠足に行って冒険をした。岩崖をはい上った。階段から飛び降りそこねて脚を打った。近所の子供が蛇を私の首にまきつけた。運動場を十ぺんかけまわった。こんなことが夕食の時もち出されて賑やかにした。
 私達のクラスで一番よく出来る男の子が、或る日、岩波の本をよんでいた。その年頃には、みな大きな形の絵入りの大きな活字の本ばかりよんでいるのに、彼一人、父の書斎に並んでいる、内容がいかにもむつかしいような岩波文庫をよんでいたのに対して、私は大きな尊敬をいだいた。しかしその本は私も今まで読んでいたアンデルセン童話集であったのだ。私は家へかえって、漱石の坊ちゃんだと父に告げた。何故、そんなことにわざわざ嘘をつくのか、その原因はわからないままに、大人が驚く姿を喜んだ。

 私の家は、子供四人に、女中が三人、乳母と両親の家族であり、部屋数も随分あったけれど、古びていて何かと不便であったので、大規模に改築することを、水害の翌年行うことになった。新しい木の柱の臭いや、うすいおが屑は、私に、海辺の毎日を思い起させた。大工さんと、船頭さんとの間に、何か似通った一つの魅力があった。毎日学校からかえると工事場へ行って邪魔にならないように仕事をみていた。二階に私と姉の部屋として新しく日本間と洋間が出来、離れの陰気な病室は、やはり二間つづきの兄の部屋になおされたし、応接間はすっかり壁紙が代わり、ベランダがつけられた。母は、私と姉の部屋に、きれいな飾り戸棚のついた箪笥を二つ並べてくれた。洋間の方には、椅子と机と本箱を新調してくれた。そして壁紙の撰択や、カーテンの布地は子供の好みにしてくれた。私は、うすねずみ色の地模様のかべ紙に、ピンクのカーテンをしたいと望んだ。姉はクリーム色に緑のカーテンをかけたいと云い張った。結局、壁はクリームになり、カーテンはピンクになり、デンキスタンドのシェードに、姉はみどり、私はうすねずみ色に花のとんだのを母は与えてくれた。急に何だか一人前になったような気がして、その当座はいくらか勉強に精出したようであった。しかし、算術の出来のわるさは、ずっとつづいて、それが、数学と呼びかえられるようになって、もっとひどくなったのである。
 改築の御祝いに、お友達を呼ぶことになった。その頃、東京から転校して来たアイノコがクラスにいたが、私は彼女がとても好きになり――というのは、私の悪事を知らないという安心感があったのであろうか――たった一人彼女を家へ招いた。歯ぎれのよい江戸っ子で、派手なアメリカ風の気のきいた洋服をきており、顔立は西洋人形みたいだったから、母はこの娘が大へん気に入った。
 それに、ピアノが弾けて、然も、所望すると、さっさと弾く。無邪気な社交家であった。
「オバチャマ、コノオ洋服、アリーノママガネエエ、ミシンデヌッテクダサッタノオ」
 自分のことを、アリー、アリーと呼んでいた。何か、胸のあたりにスモックがたくさんしてあったようだった。私は母に、あれと同じものをこしらえてと何度も頼み、やっとこしらえてもらってそれを着たら、アリーのようになれるという想像をすっかりぶちこわし、鏡の前で着たっきり二度と手を通さなかった。アリーは色が白く、うぶ毛が密生していて、目が青かった。私はまゆ毛も、目も、顔色もくろかった。そうして、すんなりした長い脚のアリーに比べて、私はずんぐり太っちょだった。
「ゴキゲンヨウ」
 アリーのこの挨拶が又、母を喜ばせた。母は度々およびするようにと私によく云った。私はアリーの皮膚が好きだった。それはあのカザリイン先生と同じ系統でありながら、年寄と子供では日本人以上に大へんな違いがあることを知った。何となく柔い感じで、手をつないでいたり、肩をくんで歩いたりする時、私は胸をときめかした。私は、アリーを一度裸にしてみたいと思った。しかし、私はもう命令する勇気がなかった。
 十二月にはいると毎年の例で私はピアノの会に出た。優しい先生は四十人位の御弟子を持っていた。私と姉とが最も古参で、ダイヤベリイとかいう曲を――これは作曲家の名前かもしれない――二人最後に連弾した。それから私は、トオイシンホニイのコンダクターにもなった。ジングルベルを、タンバリンやカスタネットや大鼓やトライアングルで合奏した。白いタフタアの洋服の上に、その時は黒いベルベットのチョッキをつけて棒をふった。私は非常な名誉と自信を感じ、一段高いところで演奏者をヘイゲイした。たくさんの花束が送られた中に、アリーからのがあった。それが、ふじ色一色の温室咲きのスイトピーであった。蘭だとかばらだとか、高価な花とちがうのに、その一色だけが気に入って母も共にうれしがっていた。その日、アリーは長く垂らしたくり色の髪に、大きな白いリボンをつけていた。私達の年頃の人は、みんな、チョンチョンに髪を切っていたが、その日から私も髪をきらずにのばしはじめた。が、これにも失望してしまった。何故なら、私の髪はごわごわしていて、耳がかくれる頃までのばしたものだが、彼女のように、ふわっと波うってはいなかったのだ。そうして涙をのんでふたたびちょんぎってしまった。
 彼女は私をかわいがってくれた。言葉の影響か、私より年上に感じられた。彼女は、カトリックの信者であり、首からクルスを吊っていた。私は何故か、それだけは真似したいとは思わなかった。私の家が仏教であり、しかし仏壇はなく、――何故なら、本家に位牌が安置されておりそこで毎月法要がいとなまれていた――そのかわり、母が金光教信者であったから、二階の北の間は神様の部屋と呼ばれ、祭壇があった。そして、小さい時から、私達子供は神様のおかげで生きているとされ、毎朝毎夕、柏手をうっていた。で、カトリックというものがどんなものだか知らず、きっと幼稚園の時のように、長いお祈りがあるものと、はじめっから嫌悪していた。彼女はたびたび教会へ行くことを勧誘した。きれいなカードがもらえるとか、マザーがお菓子をくれるとか。けれど私は好きな彼女の云うことのうち、これだけは承知しなかった。アリーのおかげと例の悪事露見の影響か――悪事という言葉に私はいささかの反駁がないのではないけれど、衆目の認めるところそれはやはり悪事にちがいないのだ――私は大人しい子になった。遊び時間、アリーと私は校庭の隅っこでコチョコチョ話しこんだ。私のゆめみたいな話をアリーは喜んできいてくれた。彼女の糸切歯と目立って大きい頬のほくろを私は毎日あかず眺めていた。
 規則をみだすことは、アリーがきらっていた。だから私は、次第に従順な子供になって行った。教場でも大人しくなり、宿題もきちんとして来るようになった。家へかえると、本ばかりよんでいた。私は西洋のおとぎ話より、講談ものを好んだ。さむらいや、悪者やおひめ様や町人の娘が、血を流したり、殺されたりするのが面白かった。それから、永年愛読したのは、相馬御風の、一茶さんや、良寛さんや、西行さん、であり、西行法師は、清水次郎長と共に熱愛した。
 父は俳句を詠み、絵をたしなんだ。私や他の兄弟は、句会に列席して、俳句をつくったり、何かの紀念日には、掛軸や額の大きさの紙に、寄書をした。父は私を殊に愛してくれた。夕方、玄関のベルがなると、みんな一斉に出迎えにゆく。
「ボビは?」
 私が少しでもおくれてゆくと、父はそう問うていた。毎日出迎えに行くのが億劫で、一度、卵のからに、墨で顔をかき、五つ並べて玄関に置いていた。
「今日は、出迎えしないでいいの」
 そう云って、皆に出むかえを禁じた。父が帰って来て、それに立腹し、母は、私の似顔が上手だとほめてくれた。しかし、翌日からは、元通り、畳に手をついて御挨拶し、父の帽子を帽子掛に飛び上ってかけた。
 私は家中の人気者になっていた。おどけてみせることを好んでいた。その頃には、大人から裏切られたかなしさや、かなしさから生まれた警戒心は殆どほぐされていた。そして、ママコであるなど考えもしなくなっていた。私は、普通の少女になり、平凡な生徒になっていた。

 紀元二千六百年というはなはだにぎやかな年が来た。提灯行列や花電車やいろいろな催しがほとんど年中行われた。何故こんな御祭さわぎをするのか子供心に不思議であった。私にとって、二千五百九十九年も、六百年も大差なかった。年を一つとっただけであり、数字嫌いな私には、何年か、何日かということさえ、面倒なことであった。
 四年生になると、男女別々の組になった。そのことが、何だか大人の一歩手前まで来たように思われて胸がときめいた。アリーと同じ組になれるように、私は毎日神様にお願いし、それがかなえられた。二学期に私は級長になった。そのことが又私を英雄気分にさせた。分列行進というのが毎週のように行われ、組の先頭にたって行進し、カシラーミギをかけた。唯一つ、この役目で辛いことがあった。それは、べんとうをたべる前に、教壇へたち、勅語や教訓を級友達に先だって大声でそらんじることであった。私は、暗誦がちっとも出来なかった。その頃、未だ九九がすらすらと云えなく、減算なども十指を使っている位だったから、長い勅語など、到底覚え切れなかった。私は短い、孝経の抜萃や明治天皇の御製ばかりをとなえていた。ある日、先生から、青少年にたまわりたる勅語や教育勅語もするように命ぜられた。私は口だけ動かし、皆の大声で唱えるあとから、チョボチョボついていった。それが堪らなく私の気持をかなしませ、家へかえって一生懸命暗誦ばかりしたが仲々覚えられなかった。

 その頃の遊びで私を有頂天にさせたのは劇ごっこである。手まりやお手玉は、不器用な私は下手であり、いつも仲間はずれであった。劇ごっこは私の作った遊びで、ストーリーをこしらえておかないで、出鱈目に台詞のやりとりをしながら結末をつくるのであった。この遊びに賛成してくれたのは、アリーや他四五人の友達であり、ボール紙でかんむりを使ったり、お面をかいたりして、放課後になると壇上へたって、同じことを繰返しながら、それがだんだん変った話になってゆくのを喜んだ。
 そのうちに又、私のはしゃいだ気分を抑えつけてしまうことが起きた。家の向いにある教会の御葬式と、巡礼と、アリーが大人になったことであった。
 ある日、教会で女学院の先生の告別式があった。お天気が悪くぽつぽつ雨が降り出していたように思うが、とにかくアスファルト道の両側にずらりと列んだ紺色のセーラを着た大勢の女学生が、まるで歌をうたっているように大声でないているのである。ランドセルを背負った私は、門口にたってその光景を半分物珍しげに半分おどろきながらみていた。近親にも、知合いにもまだ死んだ人がその時の記憶になかったから、死がそんなにいたましいものだとは知らなかった。みているうちにわけがわからぬままに急にかなしくなって、もらい泣きをした。家の中へ飛び込むと、
「死んだらどうなるの、死んだらどうなるの」
 と女中達にききまわった。彼女達は、手をまげてゆらしながら、お化けになるんだと教えた。後で、母にきいた時、
「いい子は神様のところ。悪い子は、針の山や火の海を越えてゆくの」
 ときかされた。そして女中がお化けになると云ったんだと告げたら、母は女中達に叱っていた。私は針の山を歩く自分を想像した。火の海を泳ぐ自分を想像した。しかし、悪い子とはどんな子であり、いい子は誰であるというその限界がちっともわからないでいた。唯、その先生の死の事件は、私を少し又、悲劇的にさせた。
 巡礼が通ったのは、その事件直後であった。日蓮宗の坊さん達が、長い行列をつくって、太鼓をたたいたり鉦を鳴したりして通ってゆくのを、夕ぐれ裏口でみていた。一つかみの御米を鉢の中に入れると、私の顔をじっとみつめながら御経をよみ出した。私もやっぱり御坊さんの顔をみながら西行さんのように感じた。けれどすぐ坊さんは立去ってしまい、何かその行列の中に云い知れぬさみしさを感じたのだ。
 アリーが大人になったのは翌年の一月頃だった。とにかく、長い休暇があって――それが休暇か、病気欠席か、はっきりしないが――ひょっくり学校に顔を出した時、まっ先に目についたのがアリーであった。アリーは急に脊丈がのび、ジャンパースカートをはいている腰のあたりがふくよかであった。そうして、大腿まで出していた短いスカートがうんとのばされ、膝のあたりに妙に静かにゆれていた。私はその恰好にびっくりしてしまった。
「アリーちゃん、かわったねえ」
 私は慨嘆した。アリーは意味ある含み笑いをして、私の知らないことを細々教えてくれた。私はどうしても信じられなかった。学期はじめの体格検査の時に、アリーはふっくらしたお乳を私にみせた。私はそれを思いきりつかんだ。アリーはいたいのだと叫び声をあげた。その時から私はアリーに今までのように親しくすることが出来なくなった。そして、だんだんアリーを敬遠するようになった。アリーも又、私なんかと喋っても面白くないというような顔付をして、殆ど口もきかなくなってしまった。私は、少女らしい感傷にふける毎日を送った。何カ月かたって初夏が来た頃、自分の両方のお乳もふくらんでくることに気がついた。ほんの少しのふくらみであり、寝床にはいってさわってみると飛び上るほど痛かった。私はいつまでも子供でいたいのに、と必死になってねがってみたりした。

 最上級の一歩手前になった私達は、学校の仕事のおすそわけをいただいて、級の中から四五人、赤い腕章をつけることになり、私も辛うじてその中にはいった。腕章をつけることが大へん嬉しくて、家へ帰っても取りはずさなかった。担任の先生は、大人しい若い男の人だった。で私達は教室でさっぱり真面目にしなかった。ノートの後側から、紙をびりびり破ってゆき、それに手紙をかいて、授業中渡し合ったり、先生が黒板の方をむかれる度に、御べんとうを口の中へ投げ入れたりした。それから、少しずつ恋愛小説をよみ出した。三階のよく日のあたる三方窓の教室の隅で、単行本や雑誌を交換し合った。
 私はその秋に、一年上の男生徒に好意を持ちはじめた。彼は支那風の大きな邸宅に住む坊ちゃんで青白い顔をしていた。学芸会に独唱をしたり劇に出たりした。その声が、りんりんとしており講堂の隅で下稽古の時こっそりきいて夢中になってしまった。ラクダ色のセエータの下に真白い清潔なシャツをつけており腕時計をはめていた。小学生で腕時計をはめたりする人は極まれであった。私は、廊下で行き合ったりする時、ピカッと光るその時計が、彼を非常に偉いもののように仕立て上げるのを感じた。そのうち、彼の持物を掠奪してみたい気持になった。時計。それはあまり貴重品でそれに掠奪すればすぐにわかってしまう。で、私は筆箱にはいっているちびた鉛筆をろうと思った。何か、常に彼の持っているものを身につけていたいと思ったからなのだ。ある放課後、私は彼の学級の前へ一人で偵察に行った。六年生はいつも居残りをして、入試の勉強をしていたのだ。私は、すりガラスの窓を細目にあけて中の様子をみた。十数人の男の子が、黒板にかかれた算術の問題を解いていた。その中に私はすぐに彼を発見した。しかし、ドアをあけてはいって行ってはみつかってしまう。私は、廊下を行ったり、来たりして考えていた。小一時間もたった頃、ドヤドヤと部屋から人が出て来た。校庭へ出てキャッチボールをするのだということがわかった。私は階段を降りてゆく彼等を見送ってから、廊下に人影がいないことをたしかめると、するりとドアの中へはいった。彼のすわっていた場所へ来ると彼はきちんと後かたづけしており、名前のはいった黒いランドセルが机の横にかけてあった。私はいそいでそれをあけた。やっぱり黒い革の筆入があり、その中には万年筆もはいっていた。私は、緑のヨット鉛筆を一本ぬいて手ばやくポケットへ入れた。十五六センチあり、滑かにけずられていた。私は彼の字もみたいと思った。で、ノオトを一冊出した。四角い字で読方の下しらべがしてあった。私は、一番字のつまっている頁を一枚破って四角くたたむと又ポケットへしまいこんだ。その時、誰かはいって来る人の足音をきいた。私は、胸がじんじん鳴るのを感じながら机と机の間に身を低めた。それは、学校中で一番恐しい彼の担任の先生であった。彼は、先生の大きな机に着くと、何か調べ物をはじめた。進退窮まって、私はじっとしていなければならなかった。しかし、彼の調べ物の分量は随分多いようだった。屹度、生徒が運動場からもどって来るまでここに居るのだ。私は不安な気持がまして来た。私は、決死の覚悟でそろそろ歩み出した。机や椅子にあたらぬように身をかがめて這うように戸口に近づいた。先生は、むつかしい顔をして赤鉛筆で何か記入していた。私はやっと、先生のところから一番遠い距離の、後側の扉の下へ来た。ドアは閉っていた。私は又思案にくれた。が、いきなりたつと同時にドアをあけ、さっと廊下へ出ると一目散に階段のまがり角まで来た。
「誰だ」
 という怒号をきいた。その時は、私はすでに階下に近いところへ飛んで降りて来ていた。一階の廊下を素知らぬ顔をしてゆっくり歩いた。運動場へ出た。彼が球を高く高く放り上げる姿をみた。ポケットの中へ手を突込んで鉛筆と紙切れをしっかり掴んだ。
 その事件は、幸い誰にも発見されずに済んだ。私は、眠る時、枕カバーの中に、紙切れと鉛筆とを入れてやすみ、朝になるとランドセルの片隅にそれをしまい込んだ。
 時々学校で彼に遇い、その度に私はふっとうつむいてしまった。しかし、その感情は長く続かなかった。私達が、螢の光を唄って彼等が卒業してしまい、彼の姿をみつけることが出来なくなると、もう、あの紙片は屑箱の中へほうりこまれ、鉛筆は、使いはたしたか、失ったかしてしまった。すでに私の心の中に彼は住んではおらなかった。
 割合によい成績で進級し最上級生になった私は、初めて一しょの級になった首席を通している女の子に好意を持ちはじめた。帰る方向が一しょなので自然親しく口をきくようになり私は彼女の云うことすることを尊敬した。そして彼女と机を並べて勉強するようになった。彼女に近よろうと思うばかりに、よく学んだ。宿題や下しらべもやって来た。だいたい彼女は何でもよく出来たが、特別にずばぬけてよいものを持っては居なかった。細かい字をかちかちノートにかきつめ、地図や理科の絵をきわめて美しくかいていた。又、御裁縫や手工も上手かった。私は縫うことは全くきらいであり完成したものは殆どなかった。人がまっすぐ同じ縫目を連ねてゆくのが不思議にさえ思えた。私が縫うと、針目はよたよた逼いまわっており、間に袋が出来たり襞が出来たりした。糊付けの仕事でも、ふたと身をきっちり合せることが出来なかった。が、それでも、彼女に馬鹿にされないようにと、乳母にこっそり仕立ててもらって学校へ持って行ったりした。
 彼女に好意を持ったために、私は時々ほめてもらう位の優秀な学童になったが、一つだけ彼女から面倒なものをもらいうけた。それは、近眼である。授業中に彼女はそっと眼鏡を出して黒板の字を写した。私はそれが羨しくてたまらなかった。飴色の平凡なつるの眼鏡であったが、私はそれを掛ける時の恰好や、少し目を細めて遠方を凝視みつめる顔にひどく愛着を抱いた。彼女はノートに字をかく時、うつぶせになっているのかと思う位の姿勢で書いていた。私はそれを無理に真似をし、例の何でも御願いばかりする神様に、眼鏡がかけられますようにと祈ったりした。効果てき面、私は二カ月もたった一学期の終り頃、本ものの近視になってしまった。瞼の上がぷくっととび出し、遠くをみる時は、目と目の間に皺を入れなければならなくなった。私は待望の眼鏡をかってもらった。飴色のあたり前の型の眼鏡で、授業中、先生が黒板に字をかかれると、隣の彼女と共にそっと机の下へ手を入れて眼鏡をとり出し、しかめ面しながらそれを低い鼻の上へのせた。
 彼女の家は、立派な構えで、庭にテニスコートがあった。私や彼女の兄弟は其処でうまとびをしたり、ボール遊びをした。又、家の中もたくさんの間があり、彼女の部屋は、ほたるの絵の壁紙であった。小さなこけし人形や千代紙や、封筒や便箋を蒐集することが好きであった彼女は、それを少しずつ私にわけてくれた。学校に居ても、私と彼女は大変親しかった。しかしひとたび勉強のことになると、彼女はガリガリ虫で、私に一点負けたと云って口惜しがっていた。尤も、私が一点勝ったということはたった一度であり、常に私は勝を譲歩せねばならない破目にあった。[#「あった。」は底本では「あった」]

 丁度、いよいよ戦争らしい戦争になった頃である。防空頭巾やもんぺを作った。日本は非常な勝ち戦であり、私達は、フィリピンを真赤にぬり、南洋の小さい島まで地図の上に日章旗を記入することを命ぜられた。大詔奉戴日という記念日が毎月一回あり、その日は長い勅語を低頭してうかがった。入試にぜひ暗記せねばならないと云われたが、私は遂に二行位しか覚えられなかった。戦争の目的。戦争のために我々は何をすべきか。そんなことをくりかえして勉強した。必勝という声は幼い私達のはらわたに難なくひびきはいって、偉人といえば東条英機を挙げなければならなかった。私が実際の入試の折に、あなたの敬う人はと尋ねられ、清水次郎長と西行法師とこたえたことは、まことに女として戦時の現代女性として申し訳ないことだったかも知れぬ。
 父は専ら悲観説であった。戦争のことを決して容易く考えていなかった。私は学校で教えられる戦争必勝説に感化され、父の考えに歯がゆくも思った。ママパパがいけなくて、お父様、お母様、にしたのもその頃だった。先生にしかられ家中で改めることに決議したのだった。

 学校では毎朝、エイヤエイヤと号令かけながら冷水摩擦が行われた。全校の生徒が運動場にずらりと並んで上半身裸になり、手拭で皮膚を赤くした。小さい子供ならともかく、成熟しかかっている上級生徒のむきだしの恰好は如何に戦争中とは云え見よいものではなかったが殆ど強制的であり命令であった。そのために、お乳のつかみ合いをやったりする奇妙な遊びが流行した。
 しかし、戦争の影響は、私にとってそれ程大きくも重要でもなかった。未だ、批判力もなく解釈づけることも出来なかったわけだ。それより他に私に与えられたあるものがあった。私の心の動き方はすっかり変り、そしてほぼ、定められるようになったのだ。それは仏教というまるで今まで無関心な世界である。
 担任の先生が真宗の熱心な信者であった。私は忽然と南無阿弥陀仏に魅かれて行った。南無阿弥陀仏を唱えることによって、私は救われるのだ。私はいろんな苦難からのがれられるのだと思い込んだ。しかし、私は、私の行って来た盗みや、横暴なふるまいに対して懺悔しようとか、詫びようとかいう気持は少しも起らなかった。唯、私は、ひたすらに称号を唱え、ひそかに数珠を持つようになった。私の家の宗教の禅宗と、私がはいりかけた信仰の真宗とが、どんな立場であるかは全く未知であったから、私は法事で御寺へ詣っても、南無阿弥陀仏をとなえた。教理を知ろうとしても知る術もなく、又、本をよんでもわかる筈は勿論なかった。やさしく書いた名僧伝などをよむ位で、それも、その奇話や珍話にひかれたのかも知れない。尼僧の生活にあこがれを抱きはじめた。それまで、自分は大人になったら何になろうかなど、少しも考えていなかったから、私の最初の希望が、剃髪入門である。西行を愛していた私が、この時、更に深く彼に傾倒しはじめたのは云うまでもない。山家集を註釈づきでよみはじめた。もののあわれということが、はっきりつかめないままにも何かしら、悲しいのでもなく、落胆でもなく、しょげかえるものでもない。意味の深いものであるように、その輪郭をぼんやりながらつかみかけた。西行法師は私の心の中に随分根をおろした。そして私は真剣になって尼さんになろうと決心していた。
 私は人と没交渉になってしまった。隣の彼女も私とはなれた。一度、彼女の家へ遊びに行った折、私のあげたハンカチーフが、しわくちゃになって屑箱にほうりこまれてあるのを発見した。私は瞬間、非常に悲しい気持になったけれど、決して彼女を恨みもせず、それが必然的なように思えて自然彼女から遠のいてしまった。私は学業にはげむ時よりも、仏教のことをかんがえている時間の方が更に長く、ひとりぼっちになっても平気でさみしがらなかった。
 人からどんなに侮りをうけても嘲笑されても、一つのことを信じておれば心は常に平静であり動揺する気配さえ全くないことを私は自分に発見出来た。人は私を変り者だとか、てらっているだとか、傲慢だとかいろんな解釈をつけて非難した。数珠を腕にからませることは、みっともないとも母に云われた。しかし、かえって人々の反対が、私の信仰を強くしたのかも知れない。とにかく、半年の間は、私は迷うことさえしなかった。

 卒業式が来た。感傷的な別れの歌の旋律や、読み上げられる言葉などに、私のまわりの女の子はしくしくと泣き出した。私は涙さえ忘れていた。人が別れたり或いは死んだりすることは当然の出来事のように思われていたのだ。小学校の門を出てすぐに入学試験が行われた。それは日だまりがまだ恋しい気候であった。私は近所の私立の学校へ受験した。姉と別の、程度の低い学校であった。山の中腹にある新しい建築の歴史の浅い学校であった。
 襞の多い長い紺色のスカートを着た女学生が、私達を順番に面接の部屋へ案内してくれた。彼女達は何故か不潔に見えた。前へかがみながらゆっくり歩く姿勢や、うすい膜をはった中から出すようなその音声や、やたらに止ピンの多い長い髪の毛などが、優美である筈なのに私には不潔なものだとしか思えなかった。口答試問ばかりで四つの部屋があり、第一の部屋が、校長の面接であった。
「何故、この学校を選びましたか」
 私は即座に近いからだと答えた。彼は苦笑した。めでたく入学出来てからきいたのであるが、近いから来たと云ったのは私一人で、それが随分無礼なことだったらしい。
 数学の問題は案の定間違えた。膝の上へ数字を指でかきながらやっと云いなおして、よろしいと云われた。後はだいたい出来たようであった。
 合格発表もみにゆかなかった。落ちる不安は全くなかったからである。四月になって手提げカバンを持ち家から十分とかからない女学校へ毎日通い出した。朝、私は皆が登校する二時間前に学校へ来ていた。ぞろぞろ並んで歩くことは非常な苦痛であったからだ。そうして、しんとした教室へ鞄を置くと一段と高いところにある運動場へのぼり、朝礼台に寐そべって、街をみおろした。つまりそれは健康な習慣であったのだ。私は、強い信念や高い誇を更に増すことが出来た。広い場所に一人で、乱雑な街を大手ひろげて抱くことが、私にとって又新しく起った英雄的な喜びであった。しかし、その男性のような強がりな気持と、数珠を持ち阿弥陀にすがる気持とが、両極から私をしめつけて来て苦しみ出しはじめたのはまもない頃であった。丁度、盗難事件が起り、朝はやく来ることを禁じられるようになったので、私の習慣はなくされ、したがってだんだん片一方の極へ自分を動かせるようにもなった。
 私は友達を得ることは出来なかった。私立のこの学校のモットーは、しとやかに、さわやかに、ということであったから、まことに静かな女性達ばかりが私の附近に居るような気がして親しめなかった。別に友達がほしいとも思わなかったし、かえって、孤独であることが私の持つ第一に挙げられるべき個性のように思っていた。私は入学早々幹事になった。免状をもらって一年間号令をかける役を仰せつかった。朝礼では先頭にたっておらねばならなかった。私の声は低音で響きがあったから他の級長より目立って号令らしい号令であった。私にとってこの有難い役目で唯一つ迷惑なことは人数をかぞえることであった。朝、笛がなると整列させて、組の出席人員と、欠席人員を報告せねばならなかった。副級長と二人で後の方まで数えてゆく。私はどうしても、一、二三四……で二倍する――二列縦隊であるから――計算が出来ず、チューチュータコカイナ、そして左指一本折り、又、チューチュータコカイナで二本目を折り重ねてかぞえなければわからなかった。それに、在籍人員から出席人員をマイナスすることが容易じゃなく、報告する前に数秒かかって口の中でくりかえし計算し、電車の事故などで遅刻者が多い時など、どうしても副級長に計算してもらわねばならなかった。私の数学に対する頭脳は、小学校三年程度であった。戦争が激しくなるにつれてすっかり女学校も軍隊式になって来、号令やら直立不動やら、このしとやかである女学生もいささかすさんでは来ていた。私は一分として動かずにたっていることが苦しくてそのためたびたびしかられた。又、歩調をとって歩くことも大儀であったから、教練(軍人が来て、鉄砲の打ち方などならう必習時間があった)や体操の時間には列外へ出されたり居残りさされたりして何度も何度もやりなおしを命ぜられた。幹事たる資格は全くないようであるが、私は責任感だけは人一倍強く、いさぎよい位に、罪を一人で背負うことは平気であった。ここが、級友や教師に買われたのかも知れない。
 その頃は防空壕を掘ったり、土をはこんだり、畠でいもをこしらえたり、正式の教室内の授業より、作業の方が週に何時間も多く、戦時でやむないとはいえ非常な労働であった。私はよく働いた。名誉ある役目がら、しなければならなかったし、信仰の精神が、働くことの喜びを私に強制したのかもしれない。数珠を右腕にまく私は、教師や生徒から変人あつかいをうけていた。それに私は口のまわりにひげが生え出していた。母は幼い頃から子供の顔をそらないように床屋に命じていたので(私達は月に一回、床屋が出張して来て日のあたるヴェランダで、消毒のにおいのするヴァリカンを首すじにあてられることを習慣としていた)うぶ毛が顔中密生していたのだが、私のは殊に濃く、それが女学校へ入った頃から目立って来ていたのだった。まゆ毛は左右太く大きく真中で堂々と連結しており、上脣のまわりのは波うつ程であったのだ。同級生から笑われた。何故そらないのかと云われた。私は、その理由からも、かわった人だ、と思われた。私はこっそり父の安全カミソリで、眉毛と口のまわりの毛をそり落した。まゆ毛はかたちんばになり、猶更わらわれた。カミソリの効果は逆であり、ますます濃い毛がニョキニョキと生え、私は遂に剃っても剃っても追いつかずに断念してしまう気持になった。そして髪の毛さえ手入れしなくなった。三つ編みにしたり、おさげにしたり、肩のへんでゆらゆらさせることが面倒で、朝起きても櫛を使うことは滅多になかった。ガシャッと大きなピン一つでとめて、後からみればまるで嵐が起っているように見えるらしかった。
 もんぺをはいて防空鞄をさげ、防空頭巾やゲートルや三角巾や乾飯をその中へつめて毎日持ち歩いた。未だ国土来襲は殆どなく、夏の間は、近くの海岸へ泳ぎに行ったり山登りをしたりすることが出来た。顔や手足は真黒になり、私の身体は健康であったけれど、秋になる頃から、私の持続していた南無阿弥陀仏の信仰があまりにもたやすすぎ、かえってそれが不安になりはじめた。私はもっと苦しまねばならない、もっとこらしめを受けねば救われないと思い始めた。称号を唱えながら唱えている自分がはっきりした存在になり、没我の境地にはいれなくなった。私は私を意識することが、私と仏の距離を遠くした。私は禅の本にふれてみた。菩提寺の和尚に話をきいた。大乗か小乗か、自力か他力か、私はこの岐路で相当考えなおしはじめた。心の平和は失われていた。しかし私の年齢の頭脳で、はっきりした確信をつかむことは不可能であった。私は気分をその迷いの中から他の方向へ転じさせた。絵を画くことであった。父と共に南画を習いはじめ、仏画や風景をやたらにかきなぐりながら、そこに一つの宗教的な平静さを見出すことが出来た。しかし、数珠だけはなす気にならなかった。東洋的な感覚に魅かれて行った私は、ピアノを弾くことを止してしまった。人の作曲したものを、どんな感情で作ったかもわからずに、自分がそれを弾くことは馬鹿げているような気さえした。母に泣きつかれ、先生に懇願されたが、近所の人達の口がうるさいという理由にして、――鳴物禁止時代になっていた――その代り、お茶とお花とを絵と共に習いはじめた。お茶は性に合わず、同じことをくりかえしで縛られるのに嫌気がさし、お花は、その師匠は進歩的な人で、自分勝手に活けてみることをさせてくれたので、絵と共に長くつづいた。創作することは面白かった。盛物と云って、野菜や果物をもりあわせることは非常にたのしみなことであった。私は、山でひろった木の根や、石ころを並べたりして、毎日のように床の間のふんいきを変えた。
 戦争はいよいよはげしくなった。体の病弱な姉は休学して、三つ県を越した南の小さな島へ療養にゆき、つづいて弟も疎開したが私は居残って女学校へ通っていた。母は度々その島と往復し、魚や米を土産に持ってかえった。乳母は姉達についてその島へいったっきりであった。工場へ出勤している兄と、一人になった女中と、国民服をきて丸坊主になった父と、簡素な生活になっていた。ごたごたしたうちに進級し、私はひきつづき幹事を命令された。その上、家が学校の近所である理由から、学校を守るために帰宅した後でも警報が鳴れば登校し、たくさんの役合を仰せつかるようになり、自習する暇も、考える時さえ縮められていった。戦争、戦争、そのことが一時も頭をさらず絶えず神経がピリピリしていた。父は二三年前より喘息が発病し、彼岸の頃になると決ったように起り、戦争や会社の任務の影響でそれがだんだんひどくなって来ていた。――父はこの戦争に対して非常に悲観的であった。
 凡そ自分の感情を奔放に発揮することの出来ない時であり、女学生達は萎縮してしまっていた。私は少ない二三の友達と小説をよむことで小さな夢を持った。学校で小説を読むことは禁じられていたが、新聞紙でカバーし、休み時間や放課後ひそかによんだ。そして、恋愛ということに非常な関心を持ちはじめた。
 四月のまだうすら寒い頃であった。閑散とした本屋で、雑誌をぱらぱらめくりよみしていた時、私はある一頁の右上にある写真をみて、自分がひきずられてゆくような感じを抱いた。それは特攻隊で戦死をした海軍士官の写真であった。今までは壮烈な死を遂げた勇士の報道に、大した感動もなかったのに、偶然ここに見出したその人の写真に、戦争という意識を抜きにしてひきずられたのだった。彼と何処かで会ったことのあるような気がした私はその雑誌を買い、その頁を破った。そしてその記事は一行もよまないで、その写真をじっとみていた。たしかに会ったことがあるのだと信じるようになった。それは、私の心に描いていた男性の面影と同じものであった。白い手袋をはめたがっしりした手を握ったような感触まで仮想し、それを信じ始めた。妙な感情であった。私は彼に恋愛感情を抱いているのだと思い込んだ。幼い頃よりの、おかしな想像力と、悲劇を捏造したがる趣味とが、忽然と又出現したのだった。真暗にした応接間のソファの上で寐ころびながら、彼の名前を呼びつづけたりした。それに、その時分流行していたコックリさんに、私の愛している人は誰ですか、とおうかがいをたてたら、彼の名が指された。私はますます彼に対する変な恋愛を深めて行った。
 学校での労働はますばかりであった。日曜日も作業があり、馬糞を荷車につんで運んだり、畠仕事や防空用水の水汲みなどをやった。勉強の時間はわずかになり、英語は全くなくなってしまった。数学は相変らず出来が悪く、級長は看板か、と毎時間しかられた。裁縫もその通りで、どんなにきれいに縫ってみたいと思っても何度も何度もほどきなおしをせねばならなかった。
 しかし私は真面目な生徒として先生間にもてていた。役目がらの義務観念より仕方なく真面目さを装わなければならなかったというだけで、自分自身拘束された身動きとれぬ恰好があわれっぽいとも感じた。やはり、規律とか秩序が窮屈であった。以前のように、なに臆するところなく飛びまわりたいという気持は絶えずあったわけなのだ。しかしもうその頃、子供の領域を脱していたから、縦横無尽に動くことは出来ないのだという諦めも半分あった。
 私の隣の席に熱心なカトリック信者がいた。アリーよりももっと独断的な信仰の持主で、私をしきりにカトリックへとひっぱった。教会へゆく人は教会へゆく度に一人ずつ信者をふやす義務があるようにさかんに彼女は級友を勧誘していた。私は二三度数会へゆき、マザーと話をした。公教要理は滑稽だったし、神父の説教は矛盾していた。戦争中の宗教は政府からの弾圧があるのか云い度くないことを云わねばならず、云い度いことを黙っておらねばならない教会の立場であったのかもしれない。その頃だったか、もっとそれ以後だったかはっきりしないが、教会で選挙運動があった。神父が説教の半ばに、推薦演説をはじめたのである。これには全く顔負けしてしまった。私は、カトリックの教理をつかまないまでに教会行はやめてしまった。しかし、仏教の信仰もまた徹底しておらず、碧巌録や、歎異抄や、神の話をあれこれよんだが、勿論、解らないままであった。又精神修養の講話もききに行った。蟻や羽虫を気合いで仮死状態にすることも覚え、運動場で実演をみせたりした。
 疎開する者が増し、組の人員も目立って減って行った。夏すぎになると戦争は悪化してゆき、不安なサイレンを度々きかなければならなかった。授業は殆どと切れ、きまった時間にきまった仕事を仕上げるのが無理になって来た。
 ある日、警報下のことである。私は情報部員であったから、ラジオの傍で筆記していた。その日に限って、それがどんな動機もないのに私は自分の惨死姿を頭のすみに、うろうろ浮ばせた。三四年前、死ということをはじめて知った時、私は別に深刻にかんがえるだけの知識を持っていなかったし、自分が死に直面しているとは勿論思わないでいたのだが、この時は、何かせっぱつまったものを感じた。ラジオの報道はさっぱり耳にはいらない。決して死への恐怖ではない。唯、私が死ぬ、私は死ぬ、という三四年前よりもっと具体的な、死に対する衝動であった。私はじっとしておられない。私は死から逃れようとする本能的な感情が、突然、紙や鉛筆をうっちゃって表へとびだす行動に現われた。私は死に度くない。私は生きておりたい。死がおそろしいのではない。けれど私は自分の命を愛しているのだ。生徒達は壕にはいっていた。私は人の居ない運動場を走りぬけ山の方へ突進して行った。別に、山の方は弾丸が来ないからというような常識的な考えは持っていなかった。唯、じっとしておられない感情で走り出したのだ。高い山の崖下へ来た。走りつづけることは肉体的に不可能であった。笹むらへ身を投じた。私は眼を閉じてうつぶせになったまま、走り度い精神と、走ることが出来ない肉体との交錯を感じた。私は、人間が戦争のために不自然な死に方をすることに対して別に何も感じてはいなかった。唯、一人自分の死に対してだけ思いつめた。
 何時間そうやっていたのだろうか。私は考えながらうとうと眠りだした。私は手足を太い縄でしばられるゆめをみた。私は眠りながら数珠をひっぱった。手くびからはずれないで細いより糸はぷつんと切れた。こまかい玉がくさむらにころがった。私はそれがゆめなのか事実なのか判断つかぬままにうすらさむい夕刻まで気づかずにいた。
 学校では大騒ぎになったらしい。人員点呼をせねばならない人が居なくなったのだからすぐに捜索がはじめられたのだろう。私の名を呼ぶ声がきこえた。私はそれでもじっとしていた。崖下に女の体操の教師の姿がみえた。彼女は私をみつけた。私の防壁頭巾は真黒で朱色のひもがついているので殊に目立つのだった。
「まあ、どうしたというんです、一体」
 私は何も云わずに彼女の後に従った。
 私はその女教師から主任の手へまわされた。主任は、出っ歯のスパルタ式教育と自称するいかめしい男の歴史の教師であった。彼は、私の責任や義務を追求した。私はだまったまま彼の肩越しに暗くなる窓外をみていた。彼はいらいらして来て、矢継早に質問を浴びせかけた。私は更に無言のまま、叱られているとさえ思われない状態でいた。私は、右手と左手とを前で握りしめた。数珠はなかった。私ははっとした。
「その姿勢は何だ」
 彼は私の両手をつかみ両脚の側面へ、まっすぐ伸ばさせた。私は直立したまま口を開こうとしなかった。いきなり頬に強い刺戟を感じた。私はよろよろとなり思わず膝をついた。
「たてれ」
 私はたたなかった。痛いという表情をして涙までこぼしてみせた。説諭することはかまわないが、生徒に手をふれてはいけないという学校の規則があった。彼は反則して私を撲ったのだった。彼はそれに気がついたらしく五分位した時、いやどうも、と口の中でもぞもぞいうなり扉をガシャンとしめて出て行った。私はすぐに部屋をとび出して家へかえった。
 父の喘息に転地をすすめる人がいて一週間程前から、姉達の島へ父は母と共に養生に出かけて留守であり、女中が一人、広い家を守っていた。兄と二人、うすぐらい電灯の下で沈黙のまま食事をした。私は、その翌日から登校する気になれず、二三日無届けで家にごろごろしていたが、学校から調べが来るという情報が生徒よりはいったので、一週間欠席届を出して親達のいる小さな島へ旅立つことにした。女中は心配だと云った。私はふりきって、兄には無断のまま朝早く弁当と防空鞄をぶらさげて電車にのった。田舎まわりの電車に、二三度乗換えなければならなかった。しかも連絡しておらず、一時間近くも待合すこともあった。買出しの人で電車はぎっしりつまっており、ドアにぴったり胸を押しつけられたまま、百姓女の髪の毛のむれた臭いや、生臭い着物の臭気で呼吸するのも不愉快な状態を三時間もつづけねばならなかった。目を閉じて私はドアの横のたての手すりに手をかけていた。うつらうつらしていた時、私はふと自分の手の上に冷やっとした感触を瞬間的に感じ、つづいて又、その温度がだんだん暖まってゆきながら、強くかたいように感じて来た。私はうすく目を開けた。手であった。男の手であった。ごつごつした大きな黒い手で、私の手の上にしっかりその手は重ねられていた。私はその手から胸へ上体へと目を移し顔まで来た。戦闘帽をかぶった工員風の若い男であった。私は自分の手をその手の中から脱出させることを試みた。すると更に強い抵抗をもって握りしめられた。私はおそろしくなった。けれどもそのままじっとしていなければならなかった。私はその感触の中から次第に快いものを感じるようになった。私はふたたび目を閉じた。私は上体をその男の反対側にねじって手だけを彼の方にさし出しているような恰好で、次の乗換えの駅まで来た。その男も降りて何の感傷もなくさっさと違ったホームへ階段を降りて行った。
 小さな箱のガタガタの電車にまたのりかえて、今度はポンポン蒸気船に二時間近くゆられた。島や岬や入江の間を、油をながして船はすすんでゆく。都会風のたった一人の娘っ子を、田舎の学生や男達はじろじろとみる。私は巾一米半位の上甲板に寐ころんで、空と雲と風のにおいにひたっていた。のどかな秋の夕ぐれであり、時折、ぴしゃっとしぶきのあがるのをみながら、孤独だということのさみしさを一人前に知ったような心になって、頬に涙をつたわせたりした。私は両手をにぎりしめた。先刻の男の手が頭の中に蜘蛛のようにはびこっていた。私は急に不潔なものにふれたような気持になって、水の面へ精一杯はげしい唾をはいた。白いあぶくは船の後へ流れて行った。
 あたりがまっ暗になってしまった頃、こわれかかった汽笛が鳴った。目の前の島の船着場に小さなあかりがみえた。村の子供達が、手をふっている姿がだんだん大きくなって私を不思議そうにみる表情まではっきりわかって来た。私は肩に鞄をぶらさげて、ピチャピチャぬれている船着場にとび降りた。八十軒しかない村なので、姉達のところを子供にきくとすぐに私が下娘であることを知り、小声で、スミチャーンと呼んで私の荷物を持ち先立って案内してくれた。みんな姉の友達なのである。一人の十すぎの娘は、私の着ふるした洋服を仕立て直して着ていた。トシチャンが仕立ててくれたの。姉の名を親しげによんでいた。
 父は私の突然の来訪を不審がり何かかんかと質問を発した。母は、私がきっと肉親の情愛を慕って来たのだろうと勝手な解釈をしてよろこんだ。乳母は一人旅の私を驚いた。姉と弟は私を唯いらっしゃいと迎えた。
 私は自分の行動を反省してみた。私は責任ある自分の学校での位置をかんがえた。しかし、私は自分の感情に従うことをあたり前なのだと一時的な結論を下した。白米と魚のさしみを食べて私は旅の疲れにぐっすり眠り込んだ。
 翌朝目をさました私はこれからどうしようとも思わず、姉と弟と村の子供と散歩をした。私の中に、もう仏教的な安心感もなく、恋を恋したあの戦死者への想いも失せていた。私は宙にういているような自分に叱責を与えることもしなかった。戦争だとか、必勝の信念だとか、そんなものも私の中に存在しなかった。
 てんま船にのって向岸の海岸まで遊びに出た。姉は巧みに艫をこいで田舎の歌をうたった。私は姉や弟や父母に自分の静かでない心境が現れることをおそれ、ひたかくしにかくして頬笑んでいた。しかし、この島にいても私の気持は落つくことが出来なかった。肉親への虚偽の笑いは苦行であった。私は学校が五日間休みだからと云う理由にしていたのだが、三日目には帰ると云い出し、母と二人で神戸へ戻って来た。母はその翌々日に島へむかった。私は久しぶりで登校し、又もや主任教師に二時間たたされて説諭をたまわった。私は幹事をやめさせてくれと懇願した。然しそれはきき入れてもらえなかった。私はその日から、号令や伝達や作業にいそしまねばならなかった。粗食と疲労で肉体はげっそりしてしまい、その上、戦争のために、国家のためにという奉仕的な気持をすっかり失っていたことが余計体に影響し、私は作業中に度々卒中を起して休養室で寐なければならなかった。私の生命に対する強い愛着を、まるで捨ててしまえという自分以外の力。戦争や、その影響をうけた教育など。耳にきこえるもの、言葉、目でみるもの、文字。それらが、皆私の反対の位置であり、私を苦しめた。私はそこからうまれたひどい虚脱状態の後、私一個の生命に対して愛やあわれや深い意味ある感動を、全く失ってしまうことが、かえって、私の生命をひっぱっていてくれるように思えばよいのだと考えなおした。

 年があらたまって、上級生は次々と動員されて出て行った。三学期に新しい国語の教師をむかえた。女の独身の情熱家であった。私は彼女の浅黒い粘り強い皮膚に異様な魅力を感じた。彼女は頭髪を一まとめにして後で束ね、眉間にいつも皺をよせ、なまりのある語調で(九州人であることはじきにその言葉でわかったのである)高村光太郎の詩を朗読した。その詩は九軍神に捧げられた勇しい詩であった。
 彼女の手に触れたいと思っていた私は、ある授業時間の始まる前、故意に出席簿を先に持って来ており、それを教壇のところにたっている彼女の前へうやうやしく持って出た。
「ああ、探したのですよ、教員室にないかと……」
「失礼しました。ちょっとしらべ度いことがありましたので」
 私は細長い形のうすい出席簿を彼女の手の上にのせた。素早く右手をのばして彼女の指先にふれてみた。何気なく。しかし、その瞬間、非常につめたいその指先の感触が、私の手から胸の方へいきおいよく走った。私は一礼すると座席についた。彼女は栄養が足らないのだ。一人故郷をはなれて自炊しているんだから。私はそんな空想をしながら彼女の激烈な言葉や、黒板にチョークをたたきつけるようにしてかかれた大きな文字を、心に沁みこませた。しかしその内容にはあまり興味はなかった。
 彼女と懇意になりたく思いながらその機会をねらっていた。ある朝、私は登校する時、偶然彼女と並ぶようになった。彼女は思ったより背が低く、しかも胴長であった。紺色のもんぺの膝のところに四角い継ぎがしてあった。小さい縫目であった。私のもんぺの膝のところにもつぎがあたっていた。茶色のもんぺに紺色の布が黒い大きなずぶずぶした縫目であてがわれてあり、ところどころがういたりつれたりしていた。
「あなた、おもしろいね、このつぎ」
 語尾をいちいちはっきり区切って彼女はくつくつと笑った。私は、はあ、とつぶやいた。
「ああ、さむいね、やっぱりさむいね」
 道が大きくカーヴしたところで、北っ風にぶつかりながら、彼女は元気よくそう云った。私は又、はあ、と云った。何も云う事がなかった。
 次の機会、それは路上であった。突然、空襲警報がなり、道の防空壕に私と彼女は、警防団の人達の命令で他の通行客と押づめになりながらいそいではいった。私は彼女の手と握り合っていた。彼女の呼吸が近くできこえ乾草のようなにおいを感じた。
「故郷はいいよ。松原があって、しろおい砂浜があるの。田園があって、森や鎮守様や。あなた、都会っ子ねえ、そうでしょう」
 私は、私も田舎育ちであり、そこも又、白砂だったことを告げた。
「ああそう。たび、したいねえ」
 天井にぶつかりそうになりながら、頭をくっつけ合わせて小声で喋った。彼女は、私に遊びに来るようにと告げた。そして、小さな手帖の紙に、地図と番地とをしるして私の手に握らせた。私は、明日の日曜日は作業のない日だから伺いますと云った。解除になって、私と彼女は壕の上で別れた。
 翌朝、私はにぎり飯や飴玉を持って彼女の下宿先へ訪問した。彼女は縁先で、梅の花を竹筒にさしていた。彼女の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)し方は乱暴で、三本の梅の枝がつったっていた。私は苦笑した。彼女は旅行記念の手帖をみせてくれた。俳句や和歌や淡墨の絵があった。ひるまで、私と彼女は絵をかいた。彼女は般若の面を荒々しく画いて私にくれた。私は観音のプロフィールと梅の木とを、半折に配置してやはり墨だけでかき、彼女に捧げた。
「うれしいね。私は……。私、学年があらたまると故郷へかえるの、時々眺めてあなたを思い出すの」
 私は、ぜひ神戸に居てほしいとは懇願しかねた。彼女はやはり肉親の許へ帰るのが当然であり、私がひきとめても仕方ないことであった。それに、教師は教授するのではなく、共に工場で働くためのものでしかなかったからだ。
「私、神や仏を信じてない。私、自分を信じているの」
 近くの山へ散歩した時、ふっと彼女はそう云った。
「唯、寺や仏像が好きだけ。あなた、仏教信者? 教員室で噂きいた。……」
「何もかもわからなくなってしまって……わからないままにかえって強くなったみたい。わたし、数珠を捨てたの……」
「自信を持つことね。自信をもつことよね」
 彼女は私の手をにぎりしめた。それはごつごつした男のような手であった。
 彼女は学期の終りに、辞職の挨拶をして九州へかえって行った。
 学期があらたまると殊更私はいそがしくなった。そのまま幹事を任命され、いよいよ工場へ出陣することとなった。誓書、といういさましい文章を講堂でよみあげた。とにかくいそがしいことが、私の自分勝手ななやみのはけ口にもなり、自然、なやみもわすれてしまうようにもなったのではあったが、度々神戸も空襲され、すぐ近所まで焼け跡になり、死傷者が続出すると、私の心の隅に、ふたたび死ということが、鮮明に刻みこまれるようになった。私は真白の数珠を右腕につけた。死がおそろしいのではなかった。死を常に意識するようになり生きているということに何らかの意味を持たせたいと思った。私はこの頃、自分は罪を犯したものである、と思うようになった。それは瑣細な罪であったかも知れないが、小さな胸にはそれだけのことでも大きな負担であったのだ。私は、自分を罰さなければならないと思った。そして、死の後の世界をはっきりと感じるようになった。私には、地獄極楽があるということは人間にとって大へんな不幸だと思った。生きている間、悪事を働いても、死んでから位、苦しみたくないようになりたいものだと考えた。それは虫のよすぎる話である。私は毎夜、火の中にたっている自分や、針の山をあるいている自分の夢をみた。これは苦悩であり、私の罪への罰則かもしれないとも思った。私は、仏への信仰によって救われたいと思った。
 空襲がひどくなり、父母や姉や弟達は、すっかり神戸へ引揚げて来た。何故なら、誰か一人家族が死ぬようなことになるなら、一しょに居り度いと考えたのであろう。一時でも、顔を見合わせている方が安心だと姉は云った。私は毎朝早く起き、水をかぶり、南無阿弥陀仏を唱えた。大乗の道は私には最初からあまりに苦難であったから結局私は称号によって救われることをのぞんだ。くるしみたくはない。これは当然考えられるべきことであった。
 電車に乗って工場へゆく、工場は航空機の部分品をつくるところであった。私達はそこで手先の仕事をした。豆粕や高粱の[#「高粱の」は底本では「高梁の」]はいった弁当や糸のひいたパンをたべた。空襲警報がなると、十分間走って山の壕まで行った。五月のよく晴れた日、工場地帯を爆撃された。山の壕でもかなりひどいショックを受けた。私は壕から十米もはなれた小さな神社の社務所でラジオをきいて、メガホンで報知していた。しかし、頭上に爆撃をうけているのだから報知する必要はないのである。それにすぐラジオは切れてしまった。主任教師は大きな木にかじりついてふるえていた。あの恐しく強がりな彼がまあ何と不恰好なと、もう一人の報道係と苦笑した。しかしその女の子も恐しいと云って壕へかけて行った。私は仕方なく、ガラスがふきとんで危いので、草原の庭へ出て、寐ころんで本をよみ出した。私には、空襲や爆撃は恐しくはなく、それより自分の罪に対する罰の方が恐しかったのである。私はたしか尾崎紅葉の小説をよんでいた。「二人女房」だったと思う。小説をよんでいる間私は夢中にその作品にとびこんでいた。私はかなり長い間であったろうか、それをひとりよんでいた。空襲はおさまり、時々、破裂音がお腹の皮をよじり、生徒の泣き声がしていた。私は、ふと傍に泥のついた軍靴を発見した。主任教師である。私の下から見上げた視線と、彼の黒ぶちの眼鏡越しに光る視線がぶちあたった。いきなり彼は私の本を足でけった。私はかっとして立ち上り、教師をにらみつけた。
「何たることだ、職務を忘れて小説をよんどるとは……」
 私は本を拾おうとした。
「きいているのか」
 続く怒号。ふと木の間よりみれば、生徒は整然と並んでこちらをみている。私は仕方なく詫びた。詫びることは簡単であった。教師は本を自ら拾い、その題字をみて更にぶるぶる怒った。
「こんな本をよんでいいと思うのか……」
 その本は彼の手に固く持たれ、返してくれなかった。私は、自分の場所へ戻って、生徒の人数を数え、報告した。
 工場も被害をうけた。鉄道も三本ともストップしてしまった。私は、四里の道のりを、線路づたいに歩いてかえった。
 翌日から工場は仕事がなかった。電気がつかないし、仕事の原料がもう他の工場から送ってこないのであった。それに、毎日空襲で山へ避難せねばならなかったから、殊更、何をしに工場へ通うのやらわからなかった。毎日、通勤の生徒の数が減って行った。丁度、その頃、学校の建物の大半も焼けてしまっていた。私達は交替で焼跡整理に学校へ行った。赤くなった壁や釘のささった焼板や、ガラスの溶けたのをよりわけてその後を畠にした。極度の肉体的な労働は、もうその頃には、さほど苦にはならなかったが、働くことが無駄であるような気がした。何故なら、もうみんな死ぬ日が近づいているのにと考えたからだ。
 六月の夜半に大きな空襲があり、私達の住み馴れた生家はすっかり焼けてしまった。私は、自分の家に何の未練もなかった。其処にある思い出は、凡そ罪の重なりであり、不快な臭いの満ちた事件ばかりであったから。
 物干台へ出て、父と二人で市内の焼けてゆくものをみていた。それは全く壮観であった。ざあっという音と共に、殆ど飛ぶように階下へ降りた。もうあたりは火になっていた。足許で炸裂する焼夷弾の不気味な色や音。弟と女中と姉と私は、廊下を行ったり来たりした。母は祭壇の中の、みてはならないものとしてある金色の錦の袋をもっていた。父は悄然とたっていた。
「こわい、こわいよ!」
 泣きさけぶ弟はぴったり私に体をよせてふるえていた。やっとの思いで表の道路へ飛び出ることが出来た。消火することは全く不可能である。兄は工場の夜番で戻っていなかった。乳母は田舎に残っていた。私達は不思議に死に直面しながら死ぬのだとは思えないでいた。そして感傷にひたっている余裕さえなかった。道路には大勢の避難民が、ぞろぞろ歩いていた。私達も何処へという目的もなく歩き出した。何時間かたって空襲がおさまった時、父は会社へ出かけて行った。私達は同じ県下の、電車で四五十分はなれた田舎にいる祖母のところへ、その朝から歩いて昼すぎにやっとたどりついた。母と私はトラックにのって夕刻又神戸へ引かえした。焼土はまだくすぼっていた。父は執事や叔父達と其処で後始末の打合せをしていた。金庫が一つ横だおれになっていた。ピアノの鉄の棒が、ぐんにゃりまがって細い鉄線がぶつぶつ切れになっていたし、電蓄も、電蓄だと解らぬ位に残骸のみにくさを呈していた。本の頁が、風がふく毎に、ばらばらくずれて行った。私は何の感傷もなくそれ等の物体の不完全燃焼を眺めた。その日から、本家の邸に移り住むことになった。郊外の堂々とした石壁の家であり、本家の伯父は、祖母の疎開先へいれ代りに移った。
 そこで私達は、父の妹の未亡人と、その娘、息子と、遠い親類の焼出され家族七人と、混雑した生活を送るようになった。
 朝弁当を持って出ると、級友の罹災調べや、学校との連絡や、もうすっかりやけた工場は自然立消えになっていたので、その時の給料の配布や、日中はそんなことをしていそがしい時を送った。用務以外の時は、友達と話ばかりをしていた。親しい友達といっても、心の底から打ちとけて喋ることの出来ない私は、絶えず自分をポーズさせて本当のことは云わなかった。いり豆の鑵をそばに置いて、寝ころびながらsexの話に戦争も時代も忘却したこともある。これは悲しい話であった。何故なら、男性への接近は絶対に遮断されていたゆがめられた青春であったから、胸の中に燃え立つもののはけ口がなかったのだ。焼けっ原を見降しながら、山崖の草いきれの中で私達はゆめをみた。現実とは凡そかけはなれたものでしかなかった。日がくれると、私は仮屋へ戻った。計量機の上へ丼をのせ、ほとんど豆ばかりの御飯をついで、大勢の家族はいそいで食べた。日曜日は家の焼跡の整理をした。金庫の中の真珠はすっかり変色してしまっていた。ダイヤやプラチナはぜんぶ政府に提供していたから、真珠位が宝飾品として手許にのこっていたのに、それももう使うことも売ることも出来なくなっていた。父の大事にしていた陶器類は、二三無事であったが、それも、水をいれればもってしまう花瓶や茶碗であった。私の絵の印は、二三コ汚れたまま土の中から出て来た。それは喜ばしい発見であった。絵をかくことをはじめた。それから大勢の家族で句会もはじめた。梅雨の時分の毎夜であった。しかし又、二カ月して八月の六日の空襲でその邸も焼けてしまった。
 丁度、兄が入隊した晩であった。制服に日の丸の旗を斜にかけ、深刻な顔付で敬礼して駅頭にたった兄へ、私は肉親への愛情のきずなを感じた。兄弟の中で一番兄と気があっていたから両親以上に慕っていた。その夜は、何もしないですぐに床の中に入っていたのだが、空襲警報がなるまで起き上らないでいた。殆どそのしらせと同時に飛行機や焼夷弾の音を耳にした。私はベッドからころがり落ち、まるい蚊帳に足を奪われながら、寐まきの上にもんぺを着て階下の大勢の人のところへはしって降りた。その間、何分か数えられぬ位のあわただしさであった。そしてすぐに家を出た。立派な日本館と西洋館とが鍵形になった邸ではあったが、愛着などあろう筈はなく弾が落ちない前にもう逃げはじめた。一行十六人の群は、川堤を行ったり来たりして弾の落ちて来るのをさけた。あたりのお邸はどんどん燃え出し、今捨てて来た家も共に見事に炎上し始めた。山の方へ行っても弾はふって来る、南の方から火の手が揚がる。うろうろしながら、森林のある焼け残った家へ避難した。一時間位、ここで死ななければならないのだと覚悟をきめて、庭石にすわっていた。私の口からは御念仏が自然にもれた。母はのりとをあげていた。今度こそ焼け死ぬだろうと思った。私はみにくい死体を想像した。焼けこげになったもの、水ぶくれになったもの、裸のもの、衣服がちぎれて肉体にひっついているもの、私は既に多くの死体を目撃していた。霊魂を信じなければと私は思っていた。私は自分の死体の中から離れてゆくものを想像した。それは、まっ黒のたどんによく似たものであった。水晶のように光り輝いている魂ではなかった。私は必死になって念仏を唱えながら、そのたどんの黒さがうすらんで来、だんだん透明になるような気がして来た。私はひるまず、「ナンマンダブ」をとなえた。ふっと我にかえった時、あたりは静かになって来ていた。飛行機は去り、炸裂音も、その間隔がだんだん長くなって、思い出したように、あちこちで鋭い音を発し、わずかな震動が身体にひびいた。
 私は死からまぬがれたことを知った。私は念仏を中止した。その日、私達の家族はちりぢりになって二、三人ずつ人の家に泊った。私は体の節々の痛みを忘れてぐっすり眠りつづけた。
 翌日、やっと一軒の疎開後の空屋に父母姉妹と叔母家族と一しょに移り住んだ。七人の遠い親類は田舎の方へ別れて行った。空虚な生活がはじまった。一週間、言葉を発することも厭うようにお互に顔をみるだけでいた。姉も弟も従姉も病気になった。疲労と極度の恐怖から食事をすることも出来ない有様であった。ソ聯が反対側に加わり、原子爆弾が広島と長崎に落ち、そして敗戦の日が来た。十四日の晩に父は家族を集めてそのことを伝えた。私達は更に何も語らなかった。深い感動もなかった。私は、戦争が終ったということをそんなに喜びもしなかった。私の生命に青信号が与えられたかも知れないが、戦争にこじつけて、ある精神的な苦痛の忘却や逃避も容易に可能であったし、考えなければならない自己の行動をそのまま放って置くことを平気でしていたのが、急に、時間や心の余裕が生まれたので、それが、かなり自分自身をみつめることを強いたのだ。私は、それが決して喜びではなかった。かえって大きな苦痛であった。今まで少し考え少し苦しみ、それにはっきりとした解釈をつけないままに通して来た。戦争が、中途半端な結論しか私に持つことをゆるさなかった。仏教に対しても、死に対しても、つきつめるだけつきつめることは出来なかった。それは、案外、楽なことであった。私は、ここで自分が何を為すべきかを考えねばならなかった。
 私の父は銃殺されるかもしれないと云った。そして神経衰弱に罹ったように、絶えずいらいらしていた。確かに沈鬱な家庭であった。大豆をゴリゴリひいたり、道端の草をゆでたり、そんなこと以外はお互に何か考えているような表情で笑いもなく毎日を送った。
 一カ月して兄が帰り、そのことだけは皆喜んだ。私は暇な時間を嫌った。学校がはじまった。校長や主任教師の演説は耳に入らなかった。全くそれは滑稽なほどおろおろした宙に浮いた話であった。英語が復活し、焼けのこった講堂を四つに仕切って授業が行われた。然し、焼跡作業や、壕くずし、(一年前に血みどろになってこしらえたもの)や防空設備のいろいろな物体をこわすことが殆どの日中の時間をしめていた。
 選挙でもってふたたび幹事になった私は、仕方なくよく働かねばならなかった。私は数珠を持ち念仏を唱えていた。それは考えることをする前の空虚さを満たす努力でもあった。読書もするようになった。しかしそれは一向に頭にはいらなかった。学校の行きかえりの電車は大へんな混雑であり、窓から乗り降りすることが何度もあった。荒々しい感情が街にみなぎっていた。しかしその中に虚無的な香りもかなり強かった。私はぎゅうぎゅう体を押されながら、人の談話をかなしい気持できいていた。だんだん家庭内では落ちつきと静けさがただようようになった。父は公職追放されただけで、銃殺など懸念することはなかった。週に一度句会をやり、その日はたのしみの一つであった。又、その借家にピアノが置かれていた。私は楽譜なしに、その時その時だけのメロディをつくってたのしんだ。けれど二カ月位してその家の主が帰って来るというので、私達は会社の寮にしていたある御邸の部屋を間借りすることになった。もともと私達の家庭では親子の間でも感情を抑制する躾がほどこされているようであったから、親類と同居するようになってもさして気兼に感じないで生活出来た。目前にやって来る冬支度や、命日の食べ物のやりくりやらで秋の夜長はどんどん過ぎて行った。戦後日がたつにつれ、私は考えるようになって来た。自分の生活に目的がないことはさみしいことだと思った。当時、もう尼になり度いとは思わなくなっていた。何故なら私は非常に人間愛に渇え、人間を愛したいとばかり思うようになっていたのだ。人と人との接触の中に、私は喜びや生甲斐を発見するのだろうと考えた。誰かを愛して居り度いと思った。そして自分の愛情に応えてほしいとのぞんだ。私は兄の友達や、電車通学で会う若い人に気持を奪われてみたいと念じたけれど、誰もかも魅力はなかった。
 学校はだんだん学校らしくなって来た。女性同志の恋愛ごっこのようなものが急に流行しはじめた。リボンを頭につけたり、定期入の中に写真をしのばせたり、制服がそろわないので私服のゆるしがあるままに、色彩がだんだん華やかになって来た。私は女らしさに欠けており、又体裁をかまわないことを一種の誇のように思っていたから、相変らず戦争中の作業衣ともんぺを着て頭髪はもしゃくしゃにしていた。ところがそういった風貌が宝塚の男役のように女性から慕われた。同級生達から毎日のように、ピンクやブルーの封筒を渡され、涙っぽいつづけ字の手紙をよまされた。私は手紙をかく事を好んでいたのですぐ乱暴な字でノートの端くれに返事をかいた。それ等の女性に対して何ら興味はなかったものの、手紙をかくたのしみだけで大勢の人と交際しはじめた。私の学校での生活は目立って注目を浴びるようになった。私は少しずつ活気づいて来て幼い時からの倣慢不敵さがにょきにょきと表面にあらわれ始めた。そして事件をもてあそぶようになって来た。何か毎日自分の身辺に新しいかわったことをこしらえたいと思い、それが自分に不利有利を考えないで唯その事件を面白がった。しかし数珠と私ははなれないでいた。数珠を巻いている事は大した信仰でなくなっていたけれど、私ははなさないでいた。習慣的であり、腕時計のようなものであった。

 学期があらたまり、私は幹事をつづけ、民主主義の産物である自治会等の役もひきうけるようになった。私は何でもぽんぽん云ってのけた。それは愛校心とか、自由主義思想とかいう名目の下ではなく、面白いからであった。しかし私達の要求は殆ど学校当局にはきき入れてもらえず職員会議で一応相談の上という逃げ口上ですべて校長の独断で事ははこばれた。それでも私には大した影響はないと考えていたから、又何かの事件を持ち出してはその話を呈供することを喜んでいた。学校復興のバザーだとか学芸会音楽会がしきりにもよおされるようになった。私は劇に出たり、独唱したりピアノをひいたり自作のうたを舞台の裏でうたったり(――何という心臓の強かったことだろう――)平気でやり、又人気を集めた。机や手提げカバンの中に贈物や手紙の類が舞いこんでいる。私の姿を廊下で追いまわしたりする人や、私の体にぴったり体をひっつけて泣き出す人や、私は別にうるさがらないで、それぞれ御礼の返事を出した。妙な快楽であった。その頃、やっと一軒家がみつかって、私達の家族だけ其処へ引移っていた。それは学校のすぐ下で、焼けた家からも近くであった。私は二階の半坪の洋間に、本棚と机をいれてやっと椅子を動かすことが出来るだけの狭さを喜んでいた。私は毎晩、四五通の手紙を書かなければならなかった。
 その中に一人、女の教師の手紙があった。彼女は、以前私がその皮膚を愛した国語の教師の後を引ついでやはり国語文法を教えてくれていた。彼女には何の魅力も持たなかった。彼女は肥満した肉体をころがすように教場へはいって来て、よく透る声で古文をよんだ。アナウンサーになればよいのにと級長達と共に云っていた位、珍らしくはっきりしたそして暖みのある声であった。彼女は私によく居残りを命じ、山へ散歩しようと勧誘した。私はお供しながら、翻訳小説を静かに語ってくれたり、美しい詩を暗誦してくれたりする彼女の後に従って歩いた。ある国語の時間、一人ずつ五分聞演説をさせられた。私は喋ることを得手としていた。何でもいいから喋らなければならない。自分の幼い時に起った話、空襲の話、家の話、出席簿の順番に私があたり、私は自分のことは喋りたくないと云って何かペスタロッチと吉田松陰のことを喋ったようだった。とにかく、よみかきそろばん、という口調のよい言葉を大層嫌っていたので、その言葉をくそみそにやっつけたように思う。彼女は憎々しく私の意見に反対した。私はそれに反駁するだけの知識を持っていなかったので無表情のまま眼を引きつり上げて彼女の顔をみた。その日の放課後、彼女は私のその時の表情がかわいかったと私に告げた。私は少しばかりの憤りを感じたが黙っていた。彼女はしばしば私に手紙をよこすようになった。私は彼女に、気随に書いた詩や雑文をみせて批評を乞うた。彼女は私の詩を愛してくれた。けれど、彼女は私の数珠をきらった。
「ゆめをみるの、あなたの手が、血みどろになった手だけが、私を追いかけてくるの、その手に数珠がきらりと光る。私は毎夜、そんなゆめをみるの」
 彼女は私に数珠などはずしてしまえと度々云った。私は離さなかった。
 彼女は一人で学校の礼法室の片隅に自炊していた。私はその部屋で日が沈むまで寐ころびながら彼女と二人で話をした。職員室の間では、私と彼女の関係があまり目立ちすぎるというので私は主任から叱られ、彼女は校長から注意された。私は別に彼女を愛したのではない。しかし彼女は話題が豊富であり、話の仕方が上手かったし、その声にふれることはたのしいことであった。それに、私は人に甘えることを今まで知らなかった。家庭に於いても、常に礼儀や服従を守らなければならなかったし、母は一段と高いところの人であったのだ。だから私は彼女に時たま御馳走してもらったり――それは南瓜の御菓子だとか、重曹が後口にぐっと残る蒸しパンであった――髪の毛をくしけずってもらったりすることが大きな喜びであった。その頃、私の家は財産税などで、だんだん土地を手ばなしたり家財道具を売りはなしはじめたりしていた。そうして父は衰弱し神経をふるわせてばかりいたし、兄が胸を患いはじめたり、姉の婚期が近づいたりして、ごったがえしていた。一家だんらんなど言葉で知っていてもどんなものかわからなくなっていた。帰宅して食事を採り、黙って各々の部屋へ引揚げ、寐る時刻になると勝手にふとんを敷いて寐てしまう。子供達は二階、父母は階下。そして各自に何が起ろうと全く知らない状態であった。子供は親のやり方に一切口出しは出来なかった。たとえば一つの物品を売るにしても、父の消極的な態度で損ばかりしていたけれど、一言でも文句を云えば父は怒り、親を侮辱するなと云った。私達子供は家産がどの位残っていてどんな風な経済状態にあるのかは知らなかった。唯、焼けた私の生家の土地も、本家の邸跡も、六甲の別荘も人手に渡っているらしかった。人の気持が金銭の問題で荒れて来るということは大へん歎かわしいと思った。それに私が女学校を出てから、先生になり度いから上級学校へ行かせてくれと頼んだ時、父母は真向に反対し、女は家で裁縫や料理をするものだとしぶしぶ肯定させられてしまう事件があった。丁度その前に、身体がよくなった姉も更に医者になり度いから医専へ行き度いという申出を拒否されていた。そんなことが益々親子の感情を対立させ疎遠させた。私の姉は、数学が飛びぬけてよく出来、夜通しでも、三角や因数分解をとくことがたのしみの一つだという位、女性に珍しい理科系の頭脳の持主であった。数字をみれば嘔吐したくなる私とは気持の上でも合う筈がなかった。姉はすぐに計算し、計算の上で行動した。私は無鉄砲向う見ずに気分のままで行動した。そしてお互に衝突しながら、衝突した途端に自分をひきさげ、奥までつっこんで行こうとはしなかった。姉もエゴイストであり私もエゴイストであった。
 家庭内の不和を私はかの女の教師に告げて、自分の位置をどうすればよいのか相談した。彼女は常識的に親の意見に従うべきだといつも云った。私は腹立しく思ったが、別に彼女と喧嘩はしなかった。
 そのうちに、学校で私にとって大きな問題が勃発した。一学期の終り近い倫理の時間であった。教師払底の時で、倫理を教える人は教頭という名目だけの凡そ倫理とかけはなれている音楽の教師であった。私は彼を心から軽蔑していた。というのは音楽をやりながら音楽的な感覚を持たない人であったから。彼はピアノをガンガン鳴らした。まるでタイプライターを打っているようだった。又彼のタクトはメトロノームと寸分の変りなく、拍子だけでその中に感情は全くはいっていなかった。その人が、勤続十何年のために教頭の位置にあり、倫理――公民と呼ぶ時間――を教えるのは全く滑稽であった。
 私は彼が黒板に、善悪や意識だとか行動だとかいう文字をかき、それを説明するのをノートにとるのさえ馬鹿げているような気がして、いつも他のことを考えていた。その日もぼんやりしていると、突然、これから二十分間に自己の行為を反省し、善悪を理性で判断し、悪だと思った点を紙に書いて提供せよ。それを倫理の試験の代りにすると云ったらしい。紙がくばられた。私は隣の生徒に何事だと問うた。彼女は彼の云った言葉を忠実に私に伝えた。私は立ち上った。私は立てつづけにべらべらと喋った。私は絶対に嫌だと何度も云ったのだ。生徒はざわついた。彼は渋い顔をした。
「何のためにそんなことをするんですか」
 彼は自己反省は大切なことである、と簡単に云った。私は反省は自分だけでやるものだと云い張った。そしてそれを試験がわりにするなどもっての他だと云った。私の言葉に、彼は更に怒号し、命令だと云った。私はどうしても受け入れないとつっぱった。そして最後には、
「失礼ですが、懺悔僧でもないあなたが、四五十人もの生徒の懺悔をききただしてその負担がどんなに大きいかお気附きじゃありませんか。私は自分の行為は自分で処理します。あなたに告白したところで何にもなりますまい。自分の悪い行為を人に告げてその苦しみが軽くなるようには私には思えません。しかもです、あなたは、たかが音楽教師にすぎないじゃありませんか」
 私はそんなことを長々と喋ったように思われる。彼はピリピリと眉を動かし他の教場にまできこえる位の大声で私をののしった。私はかっとなってますます反対を押し通しだした。他の級友の中で、二三人が私を支持した。
「日記は人にみせるものではありません」
 私へ毎日手紙をくれる瞳の大きい背の低い子がそう云った。他の大勢は半ば彼をおそれ半ばこの事件に時間がつぶれることを喜ぶような表情で私と教師の顔を見比べていた。私は自分の熱い頬に涙が垂れるのを知った。これは少女的な興奮の涙であった。
「悪趣味ですね、人の悪なる行為をききたいとは……」
 私はへんな笑いを浮ばせながら、涙声で云った。私は自分の罪をふっと目の前に浮ばせた。窃盗。カンニング。偽った行動や言葉。私は椅子にどっかり腰をおろした。
「先生。今あなたの満足がゆくように、私が従順に書いたとすれば、答案紙をひろげたあなたは驚愕と恐怖とそして後悔、そうです。あなたは自分の行為に後悔してしまう。たとえば、私が、淫売行為をしたとする……」
 組の中では大きな笑い声が発散した。しかし、この言葉を知らない人の方が多かった。教師は、私にあきれて物が云えないというような表情で私の顔を凝視していた。
「あなたは答案紙に勿論、可、あるいは不可とつけるでしょう。私の心理も、私の行為の動機も知らないで。唯、不可とつけるあなたは、実に無責任なことです。あなたがそこで若し、倫理の教師として考えることをしたならば、不可をつける前に、自分の責任が大きすぎて後悔するでしょう。感情的なおどろきおののきの後で……」
 彼は、非常な怒りでチョークを投げつけ、このことは一時おあずけだというような曖昧な言葉をのこして出て行った。
 私のこの事件はすぐに学校中ひろまった。私に対する生徒の眼がすっかり変ってしまった。私は不良少女だということになった。教員室では私の導き方をどうすればよいかと論議されていることをかの国語の女教師より耳にした。私は主任から又叱責をうけた。
 学期が終り、通知簿の公民のところに、良としてあったことは私は全くおかしくてたまらなかった。
 不良少女は二学期になってもその名は消えなかった。私のファンはだんだん減って行った。あの事件の時、私の意見に賛成した少女だけは私にまだ、すみれの花のカードなどくれた。私はゴヤの絵のような彼女をかわいがった。私はだんだん学校に興味を持たなくなった。そしてつまらない学課の体操や裁縫や商業の時間は殆ど欠課した。体があまり丈夫でなく、戦時中の疲労がその頃になって出て来て、私は歩くことさえ苦痛であったから、医者の診断を出して時々の欠課を大目にみてもらっていた。私は休養室で寐ながら、青空をみていた。小さな翻訳小説をふとんの中に押し入れてよんだりした。だんだん大胆になって、早退し、帰りに古い洋ものの活動写真をみに行ったりした。不良少女はほんものになって来た。私は一日学校をさぼって京都の寺院を訪ねたりすることもした。家には内緒で欠席届をかいて出した。私は、空気が自分の体に痛みを与えるように感じだした。秋の空気は真空のようであった。私は自分が生きてゆくことが非常に不安になりだした。何故生きるんだろうかと考えた。そこには何も幸福らしい幸福は発見出来なかった。私は、勝手気儘に生きたいと思いながら、それが不可能であることを知っていた。規則。法律。そして、未だに封建的な固いからをかぶっている家庭。学校での興味のない生活。数学をといても、商業の形式をならっても私とは凡そかけはなれた無理な勉強であった。私は何も喜びを見出すことが出来なくなった。束縛を嫌い、しかもその束縛からぬけ出る方法を知らなかった。私は、自分の感情だけで自由奔放に生きてゆきたいのだ。それなのに、家庭。学校。社会。すべて自分の感情を抑制し、無視し、自分らしい自分を伸ばすことが出来ないで生活しなければならない。人間とは、何とつまらない生活をしているのだろう。私は何事もする元気を失った。私は数珠を最期的に手から捨てた。私はすでに、神や仏を信じてはいなかった。称号を唱える刹那に於いても、不安と疑いの念がむくむくと心から湧いていた。私はすべてから虚脱状態にはいってしまった。私は仏教の書物を売ってしまった。そのわずかなお金で私は街に出た。街といっても戦後の殺風景なバラック建の店屋である。そして闇市。ここには中国人の濃い体臭と、すえた食物の臭いがぎっしりつまって細い道の両側は喧噪としか思われなかった。私は何か欲しいものはないかと考えた。何もなかった。夕ぐれ、私は絶望と混迷と疲労とで家にかえった。その日から、私は死にたいという衝動的な欲望が連続して頭の中をからまわりした。私は学校をずっと休んだ。国語の教師や、友達が見舞いに来た。私は、死にます、と云った。彼女等は冗談でしょう、と云った。私も苦笑した。死ぬ手段を考慮しておらなかった。私は首をくくろうと思った。「にんじん」の一場面が頭に浮んだ。私は、二三日後、それをこころみた。然し死ねなかった。私の行動に気付いた肉親達は私を警戒した。説諭もうけた。親は、自分達が苦労して育てたということをくりかえしくりかえし云った。そのことが私を余計腹立しくさせた。私は、しかし、死ぬ死ぬと云ったまま一週間死なないでいた。私は死ぬことも出来ないのだった。死ねば、死体がのこるだけだと思っていたけれども、唯、死ぬ方法が見当らなかったのだ。
 私の手許に、生きて下さい、という手紙がたくさん舞いこんだ。田舎へ帰ってしまっていた前の国語の教師からも、
――私は何もあなたを慰め、あなたを説き伏せることは出来ない。でも、どうか、生きていて下さい。生きていて下さい。――
と云って来た。友達からは、
――あなたが死んでしまったということを想像した時、私はもう泣く涙さえないでしょう。あなたと御目にかかれるだけが私の幸福なんですもの。私をかわいそうだと思って頂戴。――
 太った国語の教師からは、
――常識を嫌うあなたをわかることは出来ますが、あなたの才能のためにも生きてほしい。もう少し、あなた自身をかわいがっておやりなさい。――
 この手紙は一番滑稽とさえ思われた。私自身を愛することなど、どうして出来よう。私には、世の中や人々や常識を嫌悪すると同じ位、自分自身を嫌悪しているのだし、自分に若し才能があるとしてもそれは生きてゆく上に何の役立もせぬものだから。
 白雲や気儘気随に空を飛ぶ
この掛軸を常に居間にかかげている私の好きなある婦人からは、
――夫にさきだたれて十三年。孤独の中に生きているのです。誰かを愛して、心から熱愛して、そのために生きること。あなたも愛することです。――
 という紫の紙にかかれた手紙が来た。死んだ人を愛しながらまだ生きてゆくという彼女の生命の血が、私には不思議にさえ思われた。彼女は、私の友達の母であり、その友達以上に私と親しくしていた。未亡人もやはり、世の常識をきらっていた。そして、自分は今まで白雲のように生きて来たのだと云っていた。彼女は彼女の恋愛のため、家から縁をたたれ、たった一人の夫のみで生きて来たのだったと云った。私にとっては、亡夫にあやつられている魂のない人形のように思えるのだった。そして、ちっともそう云った生活は自由でないと思った。無形の力に縛られているのに、彼女はそれを苦しまないでいる。まだ恋愛を知らない私は彼女の気持を理解することは到底出来ないでいた。
 私を除いての家族会議が毎夜行われているようだった。私は学校へ行かないし、親にとってみれば今までかつてない事件だったろう。私はどうなってもいいと思って毎日ごろごろ寐ころんでいた。
 母の意志で、私は大阪にある音楽学校へゆかされるようになった。もう後五カ月で卒業だという間際である。私は変った世界に飛びこまされることを拒否出来なかった。或いは其処に何か見出すかも知れないという淡い期待があったわけなのだ。私は始め聴講生という名目ではいった。ピアノと声楽とを修めるのだった。私は殆ど手がかたくなってしまっていたし、練習曲をしていなかったからまるで何もひけなかった。隣の教会のぼろぼろのピアノで毎日下さらいをせねばならなかった。朝、通学に二時間たっぷりかかる。そして、小さな練習室にはいってガンガン鳴らす。音楽理論や作曲法や実技がある。そして又二時間たっぷりかかって帰る。
 その生活は最近の女学校生活の時より、もっと不愉快であった。凡そ音楽的な感覚のふんいきと云うものは見られなかった。私はよく狂人にならないことだと不審に思った。防音装置がたしかでない練習室なので、隣や向いの部屋のピアノの音が絶えず耳にはいる。バッハやショパンやエチュードが、ごったがえしになっている。だからそれぞれ、ピアニッシモはそのままフォルテを継続してひかねばならない。戦争中のあの弾の音よりも、もっとかなしい音である。それにピアノはがたがたで狂っている。私は他の生徒が平気なのが不思議で仕方なかった。音楽ではなかった。街の雑音の方がまだしも音楽的であった。私は一週間目に行く気がしなくなった。作曲法や理論の時間だけ顔を出し、他の日は毎日大阪で映画をみてかえった。朝家を出て、かの未亡人のところで一日遊んでいることもあった。冬休みが始まると同時に私はその学校もよしてしまった。私は神経衰弱になっていた。熟睡することが出来ず絶えずバッハのインヴェンションが頭の中にぐるぐるまわっていた。楽譜をよむことさえ出来なかった。何故ならば、五本の線が波打ってみえ、そこに踊っている黒い玉は不均等な姿勢でみえかくれした。私は楽譜を床へたたきつけ、ピアノにさよならを宣言した。母は私の一流ピアニストとしての舞台の姿を常に心に描いていたのだと云って歎いた。しかし、私の精神状態では、これ以上ピアノと取組むことは不可能であることを認め、強制すれば、又自殺しようという気になることを恐れて私を暫く自由にさせることを父や兄と相談の上でゆるしてくれた。私は、わずかなお金をもらっては、郊外へ散歩に出かけた。そして、詩ばかりをよんだ。朔太郎を私は愛した。その頃、詩をつくることもした。ある詩人が私の詩をみて、朔太郎が好きですね、と云った。それほど私は朔太郎にふれ、朔太郎から何ものかを受けていた。私は単身上京した。しかし流暢なアクセントになじめないですぐに帰って来た。私はやはり死に度いと思っていた。感傷ではなかった。唯、私は苦しみから逃避したかった。苦しみなんか、その年齢で全くナンセンスだと常識家の兄は嘲笑した。しかし、私の年齢でその苦しみは絶大のものであった。私は、自分の思う通りに生きてゆきたいと思い、それが不可能であることを理解していたのだ。それに私には力がなかった。根気や忍耐することが出来なかった。私は私流の考えで、戦争中の自分が羨しいとさえ思った。あの頃の余裕のない生活の方がまだしも楽であった。私は自分を磨滅させるようないそがしさがほしいと思った。いそがしさに自分の存在がなくなれば結構だと思った。自分を意識しないで生きてゆけるなら、それは最も楽なことだと考えた。私は就職を希望した。父母は真向から反対した。彼等には、どっしりと居据っている門構えが、頭の中に消えていなかった。御家の恥辱。これが第一の反対意見であり、又私の感情的に瞬間のスリルを求めて社会に出ようとしていることは不真面目だと叱られた。私はその希望が不真面目だか、真面目だか、私自身判断は下しかねた。あたり前に云えば、女学校を自発的に中退したのも不真面目かも知れないし、学校中、欠課や欠席をして、映画をみたり、京都や奈良を散策したことはやはり不真面目。それに、私は喫煙するようになっていた。これは未成年であるから、最も法律にふれる位の問題。私の今までの行動は、客観的に考えれば、不真面目と云われることばかりである。しかし、その時、その時、私は自分の行為に対して自分の感情は非常に真実であったことは確かなのだ。真面目に自分を考えている。今度の勤めたいというのも、生きなければならないという無条件の標語を無理につくりだして、そのために就職することが必要になったわけだから私には私独特の云いわけがあるのだ。私は、父母に内緒で新聞広告を切抜き就職口を探して来た。履歴書をかいて、ある羅紗問屋に面会にゆき給仕になった。もう、父母は唖然としたまま私に何らの口出しをしなかった。大寒の最中であった。よれよれの紺の上衣を着、ほこりっぽいズボンをはいた私の青い皮膚はかさかさしており、目はどんより曇り、眉間や唇の端は、たびたび、ぴりぴりとけいれんし、あの子供の頃の英雄ぶりは、微塵もみられなかった。当時、十六歳である。

「失業者が、毎日の食べるものも食べられないで、職業安定所の前にうろついているのをみたことがあるかね、ふん」
 これが私に与えられた店員の最初の言葉であった。勤続十年の太った女秘書が、私をかばってくれた。
「石岡さん、そんな考え方はいけないわよ。いいとこのお嬢さんでも、どしどし、社会へ出る経験しなくちゃ」
 有難い誤解であった。私は勇気のある社会見学の近代女性として、彼女の眼にうつったらしい。
 社長の実弟で低能に近い、「分家さん」と呼称するところの重役は、私をうっとしい娘だと云った。しかし私は、にっこり笑ってみせる術をすぐに覚え、彼から忽ち気に入られた。
 その日から私は忠実ぶりを発揮した。戦災にあって残った倉庫を改良し事務所にしているほこりっぽいところを、毎朝殆ど一人で掃除をした。この会社のおえらえ方は、みな丁稚上りであったから、細いことにいちいち気付いて、若いものはしかられ通しであった。私の仕事は、掃除と御茶汲みと新聞をとじたり郵便物を整理したりの雑用であり、おもに秘書の命令で働きまわった。
 指先が真っ赤になり、がさがさの手がじんじんする頃、他の女店員達は通勤する。そうして申訳に箒やはたきをもったり、花の水かえをやる。おひる近くになると、七輪に火をおこして、おべんとうを暖めたり、火鉢に火をつぎ足したりする。得意先や、日本一だという毛織物会社の人が来ると、――この会社の一手販売をしている卸売業なのである――上等の御茶を、上等の茶器を使って出す。お湯はたえずたぎらせておかねばならない。濃すぎても、うすすぎても、日本一の毛織物の人達は堂々と文句をいう。下っ端の若僧でも、こちらの重役は平身低頭している。寒い受付にすわっていて、彼等がやって来ると、
「マイド、ドウモ」
 と挨拶する。名前でもきこうものなら、大へんな見幕である。昼間から麻雀のサーヴィスや御馳走をする。近くの料理屋へ交渉にゆく。芸者共が、シャチョウハーンと、ことこと下駄を鳴らしてはいって来ても、丁寧に扱わなければならない。彼女等は、私よりも会社へ奉仕しているらしい。
 所属の部所が私には与えられていなかったから、タイピストは私に、コッピーのよみあわせをしてくれと頼みに来るし、営業の人は、使い走りを命令し、会計は、銀行ゆきをしてくれという。毎日のいそがしさは、五時から六時までもつづく。労働基準法など、てんで問題にされていないから、勿論残業手当など出る筈がない。
 さして私は疲れを感じないでいた。ひっきりなしに行われる肉体の労働で、私自身の存在の価値や生き方を考えてみる余裕は、戦時中より更になかった。これは結構なことであった。人との挨拶の仕方や、電話の応答は二三日でのみこんでしまえたから、緊張して気遣いで疲れることはなかった。それに叱られても、他の女の子達のように、めそめそ泣くことは出来なかった。上役からも下っ端からも私はかわいがってもらえた。すれていなくて、ハイハイと云って何でもする。私は別に心から、彼等を敬愛し、昔気質の旦那への忠実をもって働いたわけではなかったが、私の内面を見事にカヴァーしてしまうこと位、その時はなんなくやれたのである。
 会社がひけると、仲間の店員と、うどんやおでんを食べに行ったり、映画をみたりした。家へかえると、家族とあまり口ききもせずに寐てしまった。
 毎日、非常にたのしいのではなかったが、とにかく月給をもらうための生活は、一つのはりがないでもなかった。千五百円の初給であった。私はそれで、煙草代も、コーヒ代も、絵の本をかったり、芝居をみたりすることも十分に出来た。煙草は、小使いのおばさんのところでよく喫んだ。彼女も大の愛煙家であったから。秘書の老嬢に発見されたら、勿論説諭かクビであったろうけれど、幸い、それ程多く喫まないでいられたから無事であった。丸坊主にした若い男の子達は、よく私に煙草をたかりに来た。彼等はガリ版の猥らな本を私に貸してくれたり、そんな話独特の冗談や陰語を教えてくれたりした。私の想像する恋愛と彼等の抱いている恋愛感情とのひらきに戸惑いすることもあった。そして、わずかな失望と、それでいて彼等に対する興味とを持った。しかし、私は、会社に拘束されており今までのように事件を起すことは不可能であった。最も窮屈な生活の中で、私は窮屈さに馴れ、麻痺され、諦めのようなものを得た。感情を押し殺すことを平気で行うことに、別だん、矛盾だとも思えなくなり、行動することもだんだん打算的になった。
 三月になって、私達の学年は卒業した。その時、私の卒業証書も家に託送された。その事実を知ったのは、例の国語の女教師の口からであり、母は証書を私に披露しなかった。そのことで、級友達はすっかり私とはなれてしまった。他に、家庭の事情で退学した生徒がいたが、私より後のことであったのに免状はもらえなかったということが、余計に問題になったそうである。私は、紙切一枚が、それほど貴重なものだとその頃思っていなかったから、別段ほしいとねがっていたわけではない。かえって自分から退学したことに妙な誇に似たものを抱いていたから、自分の人格を無視された大人達の策略に腹立しくさえ思った。職員会議で問題になったそうである。しかし、私の父がかつて有名人であり、学校には寄附をしており、理事という席にいた関係上、校長の殆ど独断的な意見で私に証書が送られたのであった。このことは私を不愉快にした。しかし、すぐ忘れることが出来た。いそがしい毎日の仕事のおかげである。国語の教師は、私の居ない学校は張合いがないと云って辞職して故郷へかえってしまった。私は、学校や友達と全く絶縁された位置を、さみしいとも思わなかったし、後悔もしていなかった。
 物価高で、毎月のように月給は昇った。私は小さな陶器の灰皿を買ったりしてたのしんだ。女でありながら、御化粧したりしないことを小使いのおばさんが不審がった。
「ちっと、口紅でもぬんなはれ」
 私がよく働くのでとりわけ私をかばってくれる彼女はそう云った。私は、頭髪に電気をかけ、ぽおっと御化粧をはじめた。分家さんは、にたにたと私の顔をみながら笑った。彼はいつも口をななめにあけて大きな机にぼんやりすわっていた。彼は、私より以上に数学が出来なかった。てれくさそうに、ゆっくり算盤と指をつかって、昼飯のやき飯の代金を私に手渡したりした。彼は怒りっぽく、怒鳴りつけることが度々あった。どもりで、唾液をそこらにまき散らす癖があった。
「わしのパイプ、パパパイプは」
 これは毎日必ずのように彼の口からとび出す用事であった。ライターもたばこもそうであった。私は、暇があると彼の様子を観察していた。パイプの置き場所を覚えていてそっと教えてあげた。教え方がはやすぎても気に入らなかった。彼の知合いの電話番号を暗記していて、――というのは、彼は決して自分で控えておくことをしなかった。――これは即座にこたえるようにしていた。女店員の中で一番彼の気質をしって彼の命令に動くことが出来たのは私一人であった。私は彼を大へん憎悪しながら彼の間抜けた表情に一種の愛着を感じていた。土曜日のひるなど、派手な着物をきて彼を訪ねてくる奥さんと食事に出かける姿を頬笑ましい気持で見ていた。彼のお叱りをうけるのは私が一番多かったけれどその暴君ぶりがかえって私には親しみやすく叱られながらも彼のためには何でもしてあげた。
 秘書と私は仲良く出来た。彼女は社長室でよく、キャッキャッと社長とふざけていたがひとたび社長室より出ると、大した威厳でもって、会計課長にも営業の重要人物にもどんどん命令し、年寄った彼等は表面へいこらしていた。老嬢のヒステリーはしばしば起った。太ったお尻をふりまわしながら怒り散らした。彼女の雑用は私にまわされていたので度々社長室へはいることが出来た私は、彼女の社長前の、甘ったれた言葉が滑稽に思われた。ドア一つのへだたりで巧みに自分の表情の動きから、音声に至るまですっかり変えることの出来る彼女をみているのは興味の一つであった。嫉妬やそしりはたえずくりかえされていた。それにまた、誰と誰とが仲が良すぎるとか、誰がひがんでいるとやらそんな小さなことが仕事の上にも影響して秘書から社長へ筒抜けであることや、社長がそんなことまでに干渉するということが馬鹿げているとさえ思われながら、そんなことが出世に大きなひびきがあることを知った。私は一番年少者であったし誰とも事件をまき起さないでいたけれど、後からはいってくる女の子達よりいつも末席におかれていた。それは、事務能力がなかったからである。簿記も算盤も出来なかった。タイプライターも打てず、布地をいじることも知らなかった。私は別に、後から追い抜いてゆく同僚に嫉妬しなかった。末席は一番多忙でありながら、これ以上おちるところがない安定感があった。いつまでたっても玄関脇の机と受付けの角で立ったり坐ったりしていた。来客者には評判がよかった。言葉が流暢であったからであろう。学校で演説したり、又幼い頃から、言葉の躾が喧しかったせいで、苦労しなくても、敬語を使うことが出来た。
 多忙の五カ月がすぎた。はじめてボーナスという大きな袋を社長から手渡され、両親や兄弟や、例の友達のお母さんに贈り物をした。お金をもらうことと、人に物を与えることの喜びが、このころの生活の張合いでもあったわけなのだ。
 そのうち、丸坊主の大岡少年が私にとりわけ親切にしてくれるのに気がついた。度々、お使いの行きかえりに偶然会ったり、夕立がすぎるまで他所の軒先で並んで一こと二こと喋ったりすることがあった。大岡少年は顔中吹出物だらけの田舎者であった。ある日、倉庫の地下室を他の少年達もまじえて整理をしていた。五時をまわっており、埃と湿気と布地の中のかびくさい臭いとの中で、品物をまとめたり片附けたり、藁くずを一ぱいかぶりながら働いていた。大岡少年は梯子の上にのっかり、私は下から彼の手へ、小さな包みを手渡していた。彼の両脚に濃い毛がまいており、ぞうりをつっかけた素足の指の爪は真くろに垢がたまっていた。
 よいしょ。よいしょ。と云いながら、その呼吸とかけ声が、私の頭上にいきおいよく感じるのを、半分うっとりしながらきいていた。彼のランニングシャツはうすねずみ色に汗と垢がしみついており、体を伸ばす度に、たくましい皮膚と脊柱がみえた。荷物の受け渡しに手先がふれ合った。ガサガサした固い指で、やはり爪垢が一ぱいたまっていた。
 最後の小包を手渡す時、私はこれでおしまいであることを告げながら、しばらく、彼の手先と荷物と自分の手先が動かない位置にあることを知った。私は、いきなりぱっと面映い気持を押えられないで無邪気に舌を出して手をはなした。彼はそれを、巧みに放り上げると、そこから、私の上へ飛び降りようとした。私は体をさけようともせず、彼の躍動的な瞬間のポーズにみとれた。どかっと、自分の肩に重みを知った時、彼の唇と私の唇は反動的にわずかふれ合った。私は急にいらだたしい気がして五六歩小走りして他の少年達のところへ来た。
「もうわたしんとこ済んだの。手伝ったげる」
 彼等の間にはいって、私は荷物の整理をはじめた。大岡少年は、首にぶらさげた手拭で顔をふきふきやって来て私と同様黙って仕事の手伝いを始めた。
 そのことがあってから、何かしら彼と喋る時は意識してしまい、他の誰かが私達の動作を見守っていないかという懸念をたえず心の中に置いていた。私は彼のたくましい体にすくなからずひかれていた。時々、彼と退社後、闇市のうすぐらい電燈の下で、お好み焼を食べたり、油っこいうどんを汗かきながらすすったりした。田舎出の少年は、おそるべき健啖ぶりであった。彼は、冷いのみものや、氷菓子を好まなかった。鉄板にじいじい音をたてて焼かれる丸いかたまりを、卵起しのような四角いブリキで――こてというそうだが――大胆に切り目をつけて、ぱくつく彼の口もとを私ははしゃいだ気持で眺めていた。
 大岡少年と私のことは噂にのぼらなかった。彼は人の注目の的になるはずがない位みにくい容貌であり滑稽なほど間抜けてもいた。皆がさわぎたてるのは、復員して帰店した二十七八の社員や、ふっくらした赤ら顔の少年達であったから。私は、彼が目上の人に叱られている時は、きいていないふりをしていた。彼は毎日何回となく、気がきかん、とあっちこっちから怒鳴られていた。私は出来るだけ彼をかばって、一度に三つ四つも仕事を頼まれている時は、自分の部所をはなれてまで手伝った。そのために、私も叱られてしまうこともあった。ポケットに手をつっこんで、ぽやっと事務所の隅々を眺めている分家氏は、時々私と大岡少年の口をきいているさまに、ゆがんだ口許をさらにひんまげて、おかしな笑いを洩らした。私は、分家氏と目が会うと、必ず、はじらいの微笑をつくり上げて、愛想よく首をかしげた。彼は私を気に入っていた。
 街に、うすいウールや毛糸が出はじめる頃、突然、大岡少年は東京の支店へ転勤させられることになった。別に取立てて理由はなく、半年位たてば、交代に、三つの支店へ派遣されることになっていた。彼は、さみしそうでもなく、一人一人の社中の人に挨拶をした。私の前でも、真面目な顔でお辞儀をし、小さな包みを机の下の私の両手の上にのっけた。私が挨拶される一番しまいの者であったから彼はさっさと部屋を出ていった。小さな包みは、記念品とかいた新聞紙につつまれた外国製の口紅であった。外観と中身とが、とっ拍子もなくかけはなれているのに、私は微笑みをもらした。何か字をかいたものがないかとたんねんに新聞紙をひろげなおしてみたが、四角いペンの字で、記念品とかいただけしかみあたらなかった。折紙大の新聞紙の切れはしは、ありふれた証券日報のふるいのであり何の暗示めいた文字も見当らなかった。口紅は金色のケースにはいっていた。闇屋から買ったらしく高価なアメリカ製であったが、底を右にまわすと、びっくりするような牡丹色があらわれた。私は思わずふき出すと同時に、軽い失望を感じた。この色は、自分の好みと凡そはなれたものであった。然し、彼は、金色のケースと牡丹色とを好んでいるように思った。それは、あのお好み焼の重量感と似通っていた。彼はきっと多くの種類の中から特にこの色を選んだにちがいなかった。私は、彼の心根を嬉しく受け取ることが出来た。
 帰宅の折、私はその色を口の上に丹念にぬった。私の唇は、ぎらぎらとどぎつく光った。そして小使い室で荷物をまとめている大岡少年のところへもう一度会いに行った。
「さっき、ありがとう。お元気でね。出張してかえって来ることが度々あるわよ。その時、又会いましょうね。私、何にもあげるものないし、月給日が明後日で、お財布もさみしいのよ。だけど、これ、あげるわ」
 私は、ハンドバッグの中の小さな鏡を彼に手渡した。出張すると、髪の毛をのばしてよい命令が降りるのである。彼は、素直に受けとって、簡単に、サイナラと云った。私の顔をみながら、口紅の色に気がついたのやらつかないのやら、無感動無表情であった。
 帰り途。私は、ふっとかなしいものが胸の奥底から湧き上ってくるのを感じた。
 翌日から、又いつもの通り、朝早く出勤して掃除をした。彼の贈り物の口紅は、どうしてもつける気がしなかった。日本製の安物の目立たない赤さの方を私は好んでいた。
 会社の生活は毎日きまったようなことばかりであった。仕事にすっかり馴れてしまうとそのうちにやっぱり自分を強く意識しはじめるようになって来た。私は時々机に倚ったままぼんやり考えることをはじめた。その都度叱られながら、だんだん来客や電話に怠慢になって来た。会計課の老人が、お札を三度も四度も数え直すことや、一銭でも神経を使って、ビリビリ叱言を言ったり、不用になった紙切れまできちんとピンでとめ、しまいこんでいることや、営業課の若い人達が、耳に鉛筆をはさんで、朝から晩まで算盤をがちゃがちゃ云わせたり、カーボン紙を四五枚はさんで、ガリガリ鳴らして積出しの書類に数字をかきこんだりすることや、輸出部ではサンプルのコストをタイプで幾部も打ちこんだり、又、秘書の老嬢は、要領よく社長の車を私用に使ったり、重役は、昔からの習慣で、もみ手とぺこぺこ腰をさげることを誰に対してもやってみせたり、若い女の子はお化粧の方法と俳優の好き嫌いを暇があれば喋り合っていることや、少年達は、一番いそがしく自転車使いや労働をしながらその合間に、ターザンや西部劇の真似をやったり、それに社長は、時々、昼間っから、妾宅へ出かけて行ったり――これは秘書がのこらず知っており、私は特別の恩沢をうけて拝聴させられるのである――名前をきいても黙っている女の人から電話がきたり……。
 こんなことの毎日が、私にとって大へんな興味であったのに、だんだんそれは何でもないことになって来て、ただ一人だけ、分家氏の一挙手一投足が私の注意をひいていた。
 ある夕方、彼が白痴のような口許に、火のついていない煙草をくわえてぶらぶら街を歩いているのに出遇った。ポケットにいつも手をつっこんでいた。両脚を外側へ出し、お腹をつき出して歩く癖があった。遠くからすぐに彼だと判明した。私は、会社から帰りであったので、一応髪の毛をときなおし、少し化粧をしていた。ややして彼は私に気がついた。
「かえりか、会社終ったんか」
 横柄に問うた。私は笑ってうなずいた。
「ついてこい」
 彼は命じた。私は二三歩後を女中のような気持になって大人しく従った。露地を二つ三つまがって奥まった格子戸の家の前へ来た。彼は、さっさと靴をぬいで――決して紐をとくことをしなかった。――座敷の方へあがった。私は躊躇して玄関でたっていた。
「ふみ、ふみ居るか……」
 頭髪をきれいにアップにゆいあげた若い女中が、べたべたとお白粉をぬりたくった顔を廊下からひょいと出し、分家氏と私とに愛想のよい笑いを送った。
「酒、してくれ……あがれ」
 私と彼女に一度に彼は命令した。私はうすぐろくなったサンダルを隅っこの方にならべると女中の招じる部屋、つまり彼がどっかりあぐらをかいている六畳の青畳の上へ近よった。
「はいってこんか」
 私は真中の朱塗りの机の手前にちんまりすわった。
「煙草吸うんやろ、わかっとる」
 彼は、白いセロファンの下に、くっきり赤い丸のある煙草の箱をポケットから放り出した。私は一本つまんで口にくわえた。
「ふん」
 彼は、笑いとも溜息ともつかないものをはくと、わざわざ自分のライターを私の顔に近づけてくれた。夕飯にはまだ少しはやかったので、御客は他に誰もいなかった。バラック立の安ぶしんの天井から、白い障子ばりの電燈の笠が目立ってうつくしかった。とっくりと、小さな鉢とお箸がまもなく運ばれた。先刻の女中が、彼と私とにお酒をついだ。
「おいふみ。これに云うなよ」
 彼は親指をみせた。社長のことだと感知した。
「おまえも黙っとれ」
 私にむかって上目使いに命令した。私は私と彼が差向いで御酒をのんでいる様子がとてつもなくおかしいものに思われてにやにやしていた。彼は多くは喋らなかった。私も黙って後から運ばれて来たおすしを食べた。ほんのり酔いを感じた。
「分家さん、何で御馳走してくれはんの」
 私は、わざと大阪弁を使って問うた。
「ふふん」
 彼は満足げに笑っていた。彼のとろんとした目がだんだん鋭くすわって来た。外がうすぐらくなり電気が点いた。
「おおきにごちそうさん。私、かえらしてもらいます」
 私は両手をついて会釈した。
「かえらさへんぞ」
 彼は私をきっと睨めつけた。そうしていきなり私の手を机の上でひっぱった。おちょくとお箸がころがった。
 それから、あの青や黄や赤のごてごてにぬられた表紙絵の大衆雑誌の小説と同じような情景が私の傍で、しかも私もふくみこんで行われようとした。私は抵抗した。朱塗の机はがたがたと隅の方へ押しやられていた。
「分家さん、はなして、はなしてよ」
 私は小声でそう云った。木綿の洋服の脇のスナップが音をたててはずれた。
「いやらしいひと、やめて」
 私は精一ぱいの力を出して彼の腕をつかみ彼の上体を押しのけた。そんなことが二三度くりかえされた。急に彼はおじけたように部屋の隅にあおむけにころがった。
「ふん、大岡とやりおったくせに、ちゃんと知っとるぞ」
 私はいきなりむらむらと怒りがこみあげた。
「分家さん、冗談にもそんなこと、いやな」
 気弱になった彼に私はがみがみと云った。
「ふん」
 彼は例の口許から例の発音をした。
「分家さん、さ、かえりましょう。みっともない。まだうすあかるいしするのに。それに、ええ奥さんがおってやないの」
 私は、彼を精神的変質者であろうと、もともと思っていた。私は彼の手をひっぱって起した。彼は私のするままにしていた。私は、ワイシャツの釦をかけ、ネクタイを結びなおしてあげた。彼の奥さんは気性の勝った人でひどいヒステリーであることを秘書からきいていた。彼が又、彼の奥さんの云うなりになっていることも知っていた。彼はいい年をして子供っぽい面を持っており、さみしがっている様子に私は同情していた。私は酔いしびれた彼の手をひっぱって玄関へ降りた。
「くく、くつべら」
 彼は怒鳴った。私は、ほっとした思いで手早く彼の右のズボンのポケットから、くつべらを出して彼の足を靴の中へすべりこませた。
 翌日、彼はおひる頃ふらふら出社した。私は熱いお茶を濃い目にいれて机の傍へ持って行った。彼は何も云わず、又私の顔をみもしなかった。私は今までより一層彼のために気を使って忠実に働いた。会社の人達から唯社長の弟であるというだけに思われ、全くの無能力者である軽蔑をたえずうけていることにあわれみを持っていたわる気持を行動にあらわした。
 会社の生活は、私の一日の大部分を占領しており、家族と殆ど疎遠になっていた。いつの間にか、姉が恋愛をしており、それが結婚まで発展するようになって、私ははじめて自分の家での自分の位置に気がつくようになった。それは冬近い日曜と祭日のつづいた頃である。姉は華燭の典をあげた。相手は金持ちの青年紳士であった。

 突然、私は自分がいろいろなことに抵抗して生きていることを苦痛に思った。ある日、雨がかなり降っている午後であった。雨の日は来客が比校的少なくて受付は閑散であった。不要になった書類を裏がえして、いたずら書をしていた時のことである。殆ど突発的に私は自分の力がなくなってしまったことに気付いた。空虚な日常のように思えた。ロボットのような自分であると考えた。今まで逆流の中に身をささえて力強く給仕をしているとみせかけていたことが滑稽になって来た。わざわざ抵抗しなくてもよいものを。そうすることは自分からわざわざ苦痛を受けようとしていることなのだ。
 衝動的に、私は死への誘惑を感じた。分家氏への愛情も凡そ無駄なナンセンスなことである。姉への嫉妬――私は姉が自分の意志を通して、幸福(これはその時そう感じたにすぎないが)な結婚をしたことに対して無性に腹立しく思っていた。私には恋愛すら出来ない。人を愛しても私は愛されない。愛される資格のようなものは皆無である。姉は容姿も美しく、頭脳だってきびきびしている。それに、女らしさと女のする仕事を何でもやってのける。きちんと学校を卒業し、体だって丈夫になっている。それにどうだ。私ときたら学校も中途半端。給仕という職務にたずさわっており、しかも優しさだとか献身的な愛情をこれっぱかしも持っていない。――これすら馬鹿げ果てている。
 私は会社がひけるとあの未亡人の家を訪れた。
「おばさん、私は又死にたくなっちゃった。もう何もかもいや。私、本当に何にも執着ないの、欲求もないの、自分がみじめすぎるわ、これ以上生きてくことは。それは無駄ね。私もう働くこともいやだし、じっと静かに考えることもいや。自然を眺めてることだって出来ないし、人と接触して、愛したりすることも私には大儀なのよ。死んじまう。さっぱりするわ」
 彼女は、私の上っついた言葉をはくのに優しいまなざしでみまもっていてくれた。
「あなたのいいようになさいよ」
 彼女は私に煙草をすすめ、自分も長い煙管でゆるやかな煙をはいた。私は、ピアノの蓋を乱暴にあけると、ショパンの別れの曲を弾き出した。感傷じみた自分の行為が喜劇的に思われた。私は同じモチーフのくりかえしを何度もつづけながら
「全く複雑のようで簡単ね。死ぬ人の心理なんて。死ぬ動機だって一言で云いあらわせてよ。死にたいから死ぬの。何故って? 理窟づけられないわ。生理的よ。衝動的よ。泣く、笑う、死ぬ、みんな同じだわ。他愛のない所作でしょうよ」
 ピアノの音と自分のはき出す言葉とが、堪えられなくなると私はパタンと蓋をしめ、いそいで帰る支度をはじめた。
「おばさん、さよなら。きみちゃん、さよなら」
 きみちゃんとは私の級友。彼女は始めから終りまで黙っていた。
 オーヴァーの襟をたてて電車にのり、五分して電車を降り、薬屋へよった。「劇」とかいてある赤印の薬を四十錠買って家へ戻った。
 私はほがらかに一人おくれて食事を済ませた。狭い一人の部屋にはいると机の中から便箋を取り出した。最後の芝居がしたかった。私は架空の愛人への手紙をかいた。私の死因が失恋であるように自分をしたて上げた。いろんな、ラヴ・ストーリーの中から、気のきいた言葉を抽出しそれを羅列した。架空の愛人はいろんな人になった。ひんまがった口許や、脂ぎった肩や脊や、道づれの大きな瞳の学生や、自分の知っておらない顔までが、そのイリュージョンの中にあった。
 私は、さいころをふった。たった一つのさいころを、奇数が出たら、私は即座に薬をのもうと自分に云いきかせながらふってみた。一が出た。私はコップに水をくんで来て、薬全部をのんだ。私は、寐着にきかえる暇もなくふとんの上によこたわり、二枚のかけぶとんを首までかけた。その時、階下で電話の鈴がなった。まもなく、母が階下から声をかけた。
「ボビ。御電話よ」
「もう寐たと云って……」
 私は辛うじてそう云った。頭ががんがん鳴り、動悸ははげしく打った。体中がしびれてぐるぐるまわっているような気がした。すぐに私はもう何も感じなくなっていた。
 自殺するということも、死んでしまうことが出来なかったということも、これは全く喜劇であると考えたのは数日後であった。
 完全に五十時間の私を記憶していない。唯、人の話によると、七転八倒し、苦しみもがき、嘔吐し、自分の髪の毛をひっちぎり、よく云われる生きながらの地獄であったそうな。
 気がついた時、私の耳にラジオがきこえた。
「ヘ短調ね」
 私は口の中で呟いたようだったけれど、声には出なかった。脚も手も動かそうとしても動かない。傍に医者が私の表情をみまもっているのがぼんやりみえた。私は生きていることをうっすらと感じた。私は目を閉じてうす笑いを浮べた。その笑いは自嘲とも得心ともつかぬものであった。二三時間たったのであろうか。私は体全体のいたみを感じはじめた。片手をゆっくり動かし、もう一方の腕をさわった。皮膚の凸凹が注射の跡であることを知った。その手で肢体にもふれた。更に多くの凸凹にふれた。熱が相当たかかったし、頭痛や腰痛がかなり激しかった。目の上に、うすい膜がはられたように、みるものが全部灰色がかってみえた。ひっきりなしに、喉の渇きを感じ、水呑みの先に口をくわえたまま、冷い水をお腹まで通すことを続けた。
 それは夕方から晩にかけてであった。
 翌日、大部意識もはっきりして自分の存在が、ひどくあわれっぽく感じた。父母や兄弟の顔がみえた。私は字がみたかった。しかし机下にもって来てもらった新聞は、二重にも三重にもなって六号活字でさえ判読出来なかった。上体を起して窓の外をみた。風が、ぴりぴり窓ガラスにあたっている様と、桜の木や楓の葉が殆ど落ちている様とが目新しく映った。
 私の捏造した遺書は既によまれているとみえて、兄は私の恋愛を詮索しようとした。それに対して母は自分の唇を押え、そんな詮索はよせと兄に示した。私は、何故かくっくっと笑った。どうして、そんなことまで偽らねばならないのであったろうか。殊更周囲の誤解を招くようなことを自分から強いてみせつけるなどは、自分自身全く常識で判断しかねた。私は白い敷布と、枕下のガーベラ(これはあの未亡人の御見舞いだということを母からきいた)と自分の体とがまるで不調和のように感じた。
 数日後思ったのである。あの日、私が未亡人の家へ行きさえしなければ、又、電話さえかからねば――未亡人からの電話であった。――家中の人が翌朝まで私のことに気付かなかったに違いない。そうすれば私は死んでいたかも知れない。別に慄然としたわけではない。唯、こういう運命的な出来事がひどく滑稽に思われた。自殺することは、今までのあらゆる抵抗の最もちぢめられたしかも最も大きなものである筈なのに、抵抗する力を失ってよくも生への抵抗を試みたものだと自分で苦笑した。筆と硯を持ってこさし、ちり紙の上にいたずら書を始めたのはその又翌日であった。私は無感動であった。おめおめ生きかえった自分に恥辱を感じなかったし、こんな事件を起して申訳ないという殊勝な気持も起らなかった。空虚は、その事件前よりかなり私の心を占めていた。でたら目な文章を大きな文字で天井をむいたまま筆をすべらした。
 医者は毎日二回来て、私に注射した。年寄りの付添さんが午後にやって来て私の体をさすった。一週間もそうしてすぎた。私は杖をついて歩くことが出来るようになった。家族は私の死に対して何の口出しもしなかった。私の机の中は元のままで遺書だけ取り除いてあった。私はすぐに又死にたいという衝動は起らなかった。もうどうでもよく、生きることと同じように死ぬことさえ面倒に思われた。年があらたまってからも私はそんな気持を抱いたまま会社へ出ていた。分家氏にも既に毛頭の興味なく、他に新しく入社した若い子達に何ら心動かされなかった。私は唯、命ぜられたことをやるだけであった。以前程、給料袋をうれしいとも思わなかったし、人に物を与えて優越感も抱かなかった。給料をもらうことは当然のような気がし、人に与えることは自分をよくみせたいというへんな虚栄だと思ってやめてしまった。そのうちに、私の肉体が非常に疲れやすくなって来ていることに気付いた。朝の掃除が過度の労働に感じた。バケツを持って二三歩あるくと動悸がする。お盆の上に茶碗をのっけて客前へ運ぶことすら、腕に苦痛をおぼえた。私は階段からこけたり、薬鑵をひっくりがえしたり、何度も粗相をくりかえした。頭痛が絶えずしており、微熱すら伴っていた。医師の診断をうけた私は、急性の軽い胸部疾患であることを知った。私は会社を辞することを命ぜられた。三カ月は療養せねばならなかった。別に病気をおそれる気持もなかった。唯、斯うしろと云われたままに動くことが出来るようになっており、自分の意志表示をすることは面倒であった。いや意志すらなかったに違いない。
 三月の末、私は退職手当金のわずかと、その月の給料をもらい、社長以下にぺこぺこ別れの挨拶をして会社をやめた。分家氏は、又よくなったら来てほしい、と云ってくれた。秘書は私に人形をくれた。小使のおばさんは、よう働いてくれた、と何度もくりかえした。私が入社した時、皮肉を云った石岡さんは、
「やっぱりかよわいお嬢さんでしたね」
 と云った。別段私はその言葉を何のひびきも持たないできくことが出来た。
 私は自分の皮膚が青く艶を失っており、胸のへんがげっそりくぼみをつくっていることにたいして気を留めなかった。退職金で二カ月はぶらぶら出来ると考えた。別に絶対安静をしなければならないほどではなく、毎日、ビタミンの注射をする程度で、薬も服用していなかった。レントゲンにあらわれたかげの部分はさして広くもなく、神経を使わないでおればすぐに熱も降りた。私は退屈な時間をもてあましながら、読書も映画も強いてとっつきたくもなく、たわむれに絵をかいたりしてその間だけはわずかな慰みを見出していた。世間と急に没交渉になってしまったことは、別にさみしいとは思わなかった。人と人との愛情よりも、空気や自然の色彩の間を愛していることの方が私にはよいように思い始めた。
 生き返ったことが不思議ではなく、一つの経験をしたというほか何の感慨もなく、体をこわしたことも、その原因をただす気さえ起らず、運命的なもののように思われた。流れに身を置いて、その流れてゆく方向に同じように流されてゆく自分を知った。いままでのたえずくりかえしていた事件に疲れたのかもしれない。身も心もアヴァンチュールを求めるほどの活溌さや自信を失ってしまっていた。情熱など更になかった。今まで着ていた衣をぬぎすてて、枯淡の世界へはいるのだと気付いた。いさぎよくはいってゆくのでもなく、そうかと云って若さに未練をもつこともなかった。唯なんとなく枯淡をあくがれたにすぎない。物慾も消えてゆく。強いてひたすらに思ってみたりすることも興味ない。まだ二十歳まで二三年あるというのに、私はひっつめ髪をし、黒っぽい服を着、化粧すらしないで家に引籠っていた。
 家族は私の変貌に半信半疑の目をむけていた。しかし一種の落つきのようにみえる私の態度に安心もしている様子であった。
 私はその頃、はじめてのように自分が女であることを意識しはじめた。いや、それまででも、会社に通っている頃、何となく化粧して手鏡にうつる自分の顔を観察してみたり、歩く時の姿勢に気を配ったりしたものだが、本質的に女性ということの内部へはふれていなかった。私は時折日本の女流作家の随筆など拾いよみした。けれど、そこに見出される女性は全く精神的にアブノーマルであるか、そうでないものは、あまりにも生活にむすびついた唯、身の周辺に刺戟された女性をしか、発見出来ないでいた。もっと奥底に流れるものを知りたがったのに、それ等は私を満足させなかった。
 私は自分をみたり、母親や女の人達の考えることや行動に注意してゆくうちに、それが滑稽なほど、男性や或いは生活によって巧みに動かされ、丸くなったり四角くなったりすることに気付いた。特殊な場合があったとしても、それは世間的に通用しなく、弱さを無理にカヴァーして意地をはっているようにしか思えなかった。私は両者ともひどく軽蔑した。そして自分をもその中にふくみこんで自己嫌悪した。
 女が鏡をみるのは、自分をみると同時に、自分がどんなにみえるのかを見るためだ、とある作家が云っていた。私には、それぞれの女性が、たえず自分がどんなにみえるかのために、あらゆるポーズを試みているように思われた。女が其の恋愛をしてみたところで、それは真の恋愛をしているその瞬間の快楽よりも、そうすることの得意さ、人の目に映じる自分の姿に対する自己満足にすぎないように思われた。(それが女性の快楽であるかもしれないが)今まで、涙ながして何度もみた恋愛映画に於いても、私は思いかえしてみて、そこにあらわれたいろいろの女性は悉くそう云った自己満足のように思われた。それがハッピーエンドにならなくとも、女は又、その悲劇であることを誇らしげに吹聴し、苦しみもだえることは、苦しみもだえてみせることであるにちがいなく、恋愛でない場合にしても、女流作家が小説をかいて発表するのも、女代議士が立候補するのも、同じように本当の自分をはきだすのではなく、自分を幾重にも誇張してみせるように思われた。私はそのことにがっかりした。そして、自分が礼讃したい女性は皆無であり、ついで自己嫌悪の状態が続いた。
 宿命的な諦めをもって私は表面での女らしさを保持しようと何日か後に思い当った。私は、家庭の仕事にいそしんだ。体も次第に回復して来た。洗濯や料理のあけくれに、家族はますます私に安心した。
「矢張り女だね」
 兄達はそう云った。私は唯笑っていた。早くあたり前の結婚をして、従順らしくし生活に追われて毎日を送る。そうなりたいと念った。いや、そうなるより他ないと思っていた。自分で自分を発揮するだけの自信を取り戻したにせよ、もう私にはそうすることに興味をもたなかった。
 それから一年。それは、今までの目まぐるしい生活にひきかえ、静かな淡々としたものであった。私は、お花を活けてみたり、陶器をならべて幾時間もその肌をみつめていたり、時には夕ぐれの山手街を散歩したりした。
 諦めが私をそうさせた。激しい奔放な性格がけずりとられてゆくのと比例して、大きな喜びもなかった。原始的なものへの郷愁が私を慰めた。私は自分を技巧してみることもしなかったし、神経をいらだたせることもなかった。
 孤独な生活であった。しかし孤独のさみしさが、私には苦しみでなくなっていた。かえってそのさみしさが一種のメランコリイの幸福感でもあった。若白髪が急にふえたのもその頃である。
 はきすてたい自分、憎悪する自分。それがこうまで無反応になってしまえば、仕方がないで済ますことが出来るのだと苦笑もした。
 その間、家の生活状態は次第に売るものもつきて来、全くの収入のない心細さと、昔の生活に対する執着などが交錯して、父は年よりも十も老いこけてしまい、毎夜の食事に交わす言葉も荒れて来た。父には父の虚栄があった。子供には子供の虚栄があった。それは全く逆の位置の虚栄であった。
 何か為さねばならない。商売したっていい。
 子供達はそう思う。お金を得れば自分達の小さな贅沢がみたされる。父は反対した。人にぺこぺこ頭をさげることはどうしても出来ない。それに困っている様子を世間にみせれば銀行の信用も失ってしまう。この提議は子供達に不可解である。そんな理由は父の独断的な解釈であり、やはり父なりの切りかえの出来ない古い頭の虚栄が何も出来させないのだと思う。衝突が度々起った。然し絶対的な権利は父にあった。焼けのこった倉庫にある品物はこっそり持出された。決して売ったのだとは云わない。運ばれて行ったのだ、と父は云う。そうこうするうちに、住んでいる家も売る状態になり、同じ市中の親類と同居するようになった。
「どうも戦後移った家は不便でしてね、それに同居の方が何かと都合いいし、ここは又、街へ出るにも歩いてゆけて……」
 父の人への挨拶はきいていて苦笑せざるを得なかった。
 売るものはつきた。もうこれも売ってしまったのだから。品数が減ってゆく度に、そう云いながら、三度の食事はあたり前にとれる状態を保持することは出来ていた。
 戦時中と戦争後の数カ月を共にした父の妹の家族と、それに祖母をまじえた生活がはじまった。私の精神と同じように、終止符をうってしまった家族の生活であった。
 もう一カ月後はわからない。本当にどうなっているかわからない。目の前の庭の部分も人手にわたっていたし、唯一の家宝であった掛軸も御出馬なさった。しかし、各自に各自の焦燥を抱いている筈であるのに、それは行動には現われないで表面は至極静かになっていた。父と子供達の意見のはき合いは駄弁にすぎないことに気付いたからである。

 こうした日常。こうした自己。二つとも未来はなかった。自分がどうなるであろうか、それを考えることは強いてしなかった。
 時代はどんどんかわってゆく。然し、私は停滞した感情と思考と日常をおくっている。これは私の懶惰であろうか。

 気取ったポーズはしばらく動かないでいたのだが、そのポーズがいくら楽な姿勢であったとしてもいつのまにか又、そこに疲れと窮屈さを見出してしまうものだ。梅雨あけの日光のようにふたたび私は動き出していた。ぎらぎらひかる。早いテンポでまわり出す。二十歳まで。それから二十歳まで私は高くすっきり舞い上ったり、醜悪な寝ころびざまや、急カーヴに堕落したり、又はい上ったりをくりかえした。しかし私はそれを克明に記憶していない。いや記憶していたところで私の現在に近くなればなるほど逆にその私が逃げ出して行く気配をみせる。私はあわててそいつをつかまえようとして力一ぱい手をのばしてふれるのだが、それはくらげのようにつるりと私の手からぬけ出てしまう。
 私の試みは失敗に終った。発作的に起った私のふりむきざまは後少しというところで今の私にぴったり結合することが出来なかった。
 つまり私は死なないでいる。鮮明に今の私に過去の私が連絡したならば、私は容易に死ぬことが可能であるように解釈していたのだ。運命的な死期が近よって来て、いきなり又急回転して遠ざかってしまったのに違いない。勝手な解釈かもしれない。然し私は一つの失望と一つの安堵を感じた。
 私は昨日の私をつかむことが出来ないでいる。昨日の私のポーズの裏付けるものを知ることが出来ないでいる。しかし、私が又何年か生をうけて、その時の自分が現在或いは現在に到達する少し前の自分からかなりの距離が生じた時に、ふたたび私は灰色の記憶をつづけることが出来るであろう。
 結末のないお芝居の幕が降りようとした。その幕が降りきらないうちに観客はあくびをして立ち上った。幕は中途半端なところで中ぶらりんに垂れていた。
〈昭和二十五年〉

底本:「久坂葉子作品集 女」六興出版
   1978(昭和53)年12月31日初版発行
   1981(昭和56)年6月30日6刷発行
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年5月27日作成
2011年10月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。