北原君。折角の御頼みだが、僕は十数年来の日記帳手帳の大半を東京の震災で失つたからパンの会の詳しいことはいま確実に思ひ出すことが出来なくなつた。それでも丁度明治四十二年と、四十三年との日記が残つてゐたから、そのうちに記されてゐる分だけを拾ひ出して見よう、尤も日記もあまりていねいには附けてないから脱けてゐるところが多い。
 四五年前まではあの時代を懐しいことに思ひ、時々回想したが、今はもうあまり時が隔つてしまひ、大して興味を感じない。
 何でも明治四十二年頃、石井、山本、倉田などの「方寸」を経営してゐる連中と往き来し、日本にはカフエエといふものがなく、随つてカフエエ情調などといふものがないが、さういふものを一つ興して見ようぢやないかといふのが話のもとであつた。当時我々は印象派に関する画論や、歴史を好んで読み、又一方からは、上田敏氏が活動せられた時代で、その翻訳などからの影響で、巴里の美術家や詩人などの生活を空想し、そのまねをして見たかつたのだつた。
 是れと同時に浮世絵などを通じ、江戸趣味がしきりに我々の心を動かした。で畢竟パンの会は、江戸情調的異国情調的憧憬の産物であつたのである。
 当時カフエエらしい家を探すのには難儀した。東京のどこにもそんな家はなかつた。それで僕は或日曜一日東京中を歩いて(尤も下町でなるべくは大河が見えるやうな処といふのが註文であつた。河岸になければ、下町情調の濃厚なところで我慢しようといふのであつた。)とに角両国橋手前に一西洋料理屋を探した。最初の二三回はそこでしたが、その家があまり貧弱で、且つ少しも情趣のない家であつたから、早く倦きてしまつて、その後に探しあてたのは、小伝馬町の三州屋といふ西洋料理屋だつた。ここはきつすゐの下町情調の街区で古風な問屋が軒を並べてゐる処で、其家はまた幾分第一国立銀行時代の建築の面影を伝へてゐる西洋館であつたから、我々は大に気に入つた。おかみさんが江戸つ子で、或る大会の時には葭町の一流の芸者などを呼んでくれて、我々は美術学校に保存してある「長崎遊宴の図」を思ひ出して、喜んだものである。
 その後深川の永代橋際の永代亭が、大河の眺めがあるのでしばしば会場になつたのである。
 また遥か後になつて小網町に鴻の巣が出来「メエゾン、コオノス」と称して異国がつた。
 わかいと云ふものは好いもので、その頃は皆有頂天になり而もこの少し放逸な会合に、大に文化的意義などを附して得意がつたものである。
 次に日記にのつてゐるだけの会合を抜萃して見よう。

 明治四十二年(一九〇九)一月九日、土。パンの会があつた。どこか処は忘れた。その夜森博士邸に観潮楼歌会があつて、パンに出席した二三人の人がそこに行つた。
 夜になつて雪が降つた。
(その月の十三日には上野の精養軒で青揚会が開かれた。上田敏氏が何か演説せられたと見え、予の日記には「上田氏怪気焔」と書いてある。)
(予はその月の十八日に、手こずつてゐた南蛮寺門前がやつと出来上つた。それで急いでそれを美濃紙に清書して、夜森博士邸を訪ね博士に之を示すと、それを閲読したあとで博士がはははははと笑れた。)

 同年二月十三日、土。パンの会があつた。処は分らぬ。伊上凡骨の処で木板を習つてゐるルンプといふ独逸人を神田の安田旅館に尋ね、それを一緒につれて行つた。

 同年三月十三日、土。パンの会。多分両国のこちら側の何とかいふ西洋料理の二階だつたであらう。ルンプも出席した。又珍らしいことに荻原守衛も来会した。また遅くなつてから島村盛助も来た。
 此夜は遅くなつて皆で万世橋の近くの佐々木旅館といふのに宿泊した。倉田白羊が「京都の浅井忠先生の弟子たちで、先生の法事の帰りで遅くなつたからとめて下さい」と頼んで宿めて貰つた。予は今迄他家に宿泊したことがなかつたからこの一夜不安であつた。

 同年三月廿七日、土。パンの会。場処は不明。やはり同じ西洋料理であつたらう。「赤と緑の硝子より公園を見る」といふことが書いてあるから、或は誤かも知れない。石井柏亭の曰く「如何に巴里に於て遊楽するか」(何でも英語の本であつた)を東京で行らう。云々。たしかにさういふのがこの頃のパン会の気分であつた。
(この月の五日には観潮楼歌会があつて、佐々木博士、吉井、北原、與謝野、伊藤、古泉、斎藤、平野、上田、諸氏が集つた。この歌会の最も盛んであつた時である。)

 同年四月十日。深川永代橋畔永代亭でパンの大会を開く。此日には上田敏氏も上京中で出席せられ、皆で酒を強ひ是非巴里の歌を聴かせて下さいと云ひ、上田氏も余儀なく立つて何か短い仏蘭西語の歌一曲を歌はれた。また演説もされた。予は氏の口から南蛮寺に対する言葉を聞いて大に感激した。
 永井氏の「フランス物語」の話、湯浅氏の模写のベラスケスなどについてみんなが話しあつたと記録せられてゐる。
 この時のパンの有様は今もよく記憶に残つてゐるが、詳しく書くのはめんどくさい。なんでも予は女の首を三つ大きく描いたアフイシユを用意して行つて、入口のつき当りの衝立に貼つた。出口清三郎氏といふ画家が当日出席せられたやうに覚えてゐるが、今はどうしてゐられるか。
 この日パンの会を社会主義の会と誤認して刑事が二人来たといふ噂も立つて、今でも皆本当だと考へてゐる。たしかにそんな人二人がゐて隣の日本室で酒を飲んでゐたが、果して噂の通りであつたかどうかは疑はしい。
 このかへりに、酒に酔つた山本鼎と倉田白羊とが永代橋の欄干からアアチのてつぺんへ攀ぢ登りそこから河へ小便をしたりして皆をはらはらさせた。

 同年四月十日。パンの会。多分小人数の会であつたらう。
(同年五月二十一日。北原われわれの雑誌に「屋上庭園」といふ名を付ける。)

 パンの会も段々認められて来て同年十一月廿七日、土曜日の有楽座の自由劇場(多分ボルクマンの初演)のはねた後東洋軒で「渋谷村の連中、岩野氏、蒲原氏、島崎氏、」それにわれわれのパン会の一部とが、総勢廿五人ばかり、岩村氏の音頭にてシヤンパンを抜いたりなどした。

 明治四十三(一九一〇)年、二月七日。パンの会。山崎来り二人にてアフイシユをかく。予は異国情調にてかく。山崎は会には行かず。又パンの大提灯を作る。
 会場は三州屋。定連のほかには藤島氏、鈴木鼓村氏、與謝野氏、水野葉舟、安成、その他ずゐぶん大勢であつたが詳しく日記にしるされてゐない。

 同年二月廿七日、パン例会。集まるものは高村、石井、小山内、北原、吉井、長田の少人数であつた。
 此日屋上庭園の二号が発売禁止になつたといふ知らせを得る。

 同年十一月廿日。パン大会、三州屋。長田、柳、吉井、猿之助、南、高村、永井、山崎、谷崎、武者小路、小宮、島村、柏亭、青山、一平其他大勢。
 此会は黒わく事件といふので有名であつた。それは「長田秀雄君の入営を祝す」と大書したびらに黒わくを附けたのを高村君が持つて来て壁にかけた。萬朝報の記者が唯一人来て居た。誰も知人がなく相手にされなかつたものだから憤慨して、翌日の同新聞の論説欄にこの事を掲げてひどくこの会を攻撃したのである。
 パンの会も此時最高潮に達したのであつた。その後段々と衰へた。

(その時代の空気を示す為めに一寸追記する。十一月廿六日、神田青柳にて古書即売会。北斎絵本東遊、六円五十銭。吉原青楼年中行事、四十五円。駿河舞、五円。西鶴好色一代男、三冊、百円。元禄十六年板(?)松の葉、帙入美本、十四円。哥麿七変人、三枚百円。豊広浮絵、五円。
 見物一浮世絵を見ながら連れの人に曰ふのには「あの似顔なざあ、子供のおもちやになつてたのでさあねえ。」
黒田清輝のまだ盛に活飛した時代で、白馬会には其「荒苑斜陽」など出た。)

 明治四十四年(一九一一)にはパンの会は段々落寞なものになつてしまつた。
 二月の十二日には浅草のヨカロウで開き、そこのかみさんが演説などした。

 同年六月五日、月。神田の新しく出来た(都とか云つた)西洋料理屋でパンの会を催した。この日には内田魯庵氏も出席せられた。ドストウエフスキイの事、甎のことなどに就いて語られたと記されてある。小山内君がどこかで酔つて来て大元気であつた。生田、島村、喜熨斗、平出、萱野の諸氏が御定連でない出席であつた。黒田、島崎両氏からはしやんと断りの葉書が来た、この二人はいつもきちやうめんだと皆で話し合つた。
 萱野が内田氏をつかまへてオスカア・ワイルドのエツセイのことを論ずる調子はわきから見ると少しきざであつたなどと書かれてゐる。
 何とかいふ遊人風の人が入つて来て、知る人もないのに卓上演説を始めるといふやうなこともあつたらしい。
 当時日本に来てゐた独逸のグラアザア氏が、自分たちは出席は出来ないがと言つて百合の花籠を贈つてよこした。

 予はパンの会の為めにしばしば案内状の板下を作つた。それだの貴君や吉井の詩集の挿絵の板下など皆火事にやけてしまつたから、もし持つてゐるならくれ給へ。
(一九二六、一二、二)

底本:「日本の名随筆 別巻3 珈琲」作品社
   1991(平成3)年5月25日発行
底本の親本:「木下杢太郎全集 第一三巻」岩波書店
   1982(昭和57)年7月
入力:加藤恭子
校正:菅野朋子
2000年11月22日公開
2005年12月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。