あらすじ
永禄末年の京都、南蛮寺《なんばんじ》の門前には、様々な人々が集います。不思議な噂が絶えない南蛮寺ですが、ある母子は、そこで息子が行方不明になってしまいます。息子の行方を捜す母は、南蛮寺に引き込まれていくように、奇妙な出来事に巻き込まれていきます。その一方で、南蛮寺の怪しげな雰囲気に惹きつけられた人々も、それぞれ思いを抱きながら、運命の歯車に翻弄されていきます。
 登場人物
童子、順礼等        舞妓白萩
千代            伊留満喜三郎
常丸            学頭
菊枝            所化しよけ長順
老いたる男及び行人二三   所化乗円、其他学僧
うかれ男          老いたる侍


永禄末年のこと。但風俗は必しも史実にらず、却つて今人の眼に親うするものとす。秋の日、暮がた。後景は京都四条坊なる南蛮寺なんばんじの高き石垣。そが中ほどよりやや上手に寄りて門。その扉開かれてあり。門内の広場に木立、そを透きてほのかに堂見ゆ。門前の街道に童子等集る。
童子等。(唄。)
夕やけ小やけ。
摩訶陀まかだの池の
さんしよの魚は
きらきら光る。
玻璃びいどろのふらすこ
ちんたの酒は
きらきら光る。
鐘が鳴る。鐘がなる。
寺の御堂みだう
十字のかね
きらきら光る。
わかき姉妹の順礼御詠歌ごえいかうたひながら下手より登場。姉なるは盲目めしひなり。
姉の順礼 (程よき所に立留り、もの怪しむ気はひ。)何やらあやしい音がするがのう。この近くに海でもあるかいのう。
妹の順礼 何の、んねや。京の都には海があるもんかの。
姉の順礼 そんなら河の音か。そや無けりや風かいのう。わしや滅相めつさう草臥くたぶれた。今日の宿はまだかいなあ。
妹の順礼 そやつてんねや。さきからまだ一里とも来やせぬわ。
姉の順礼 何処ぞで歌うたふ声が聞えるやうやのう。
妹の順礼 姉や。此処ここは立派な寺やんどの。何様ぢや知らぬけれども拝んで行かうよ。
姉の順礼 さうかいな。お寺ならば善う拝んで行かうのう。
姉妹門内を覗ひつつ、
妹の順礼 何ていふお寺やろ。遠くに、遠くに立派な本堂さまが見えるわかいよ[#「わかいよ」はママ]
姉の順礼 ああ、わしも一目見たいのう。
妹の順礼 や。姉や。烏が。烏が。姉や。はれ烏があんなに来たよ。――お日様がもうお隠れやるかいな。――西の天が赤なつた。はれ、血のやうに赤なつたわ。姉や。烏が仰山ぎやうさん来た。寺の屋根へとまつたは。はれ屋根が青うく光つてきた。海のやうに光つて来たわ。
姉の順礼 何ていふお寺かいなあ。
妹の順礼 これ。そこなよ。この御寺みでらは何といふ寺かいの。
第一の童子 (さげすむがごとき貌にて。)名など知らぬわ。
妹の順礼 和子わこは知らぬかいな。
第二の童子 おらも知らぬわ。ははははは。
妹の順礼 ほほ、此土地にんで居やるのに、名も知らぬとは賢い子等やの。
第一の童子 此御寺おてらの名を知るものは京中にはおぢやらぬわ。たつて知りたくば中の伴天連ばてれんに聞いて来やれ。ははははは。
妹の順礼 我等わがらは他国のものやほどに教へてくれいのう。
第一の童子 このお寺は唯のお寺ではあらない。
妹の順礼 唯のお寺や無いとて、坊様が住むお寺やろがな。
第一の童子 その坊様はまことの人間ではあらない。
妹の順礼 ほほ、真の人間で無いのやら、そんなら天狗てんぐ様かいのう。
第一の童子 いやいや、天狗てんぐ様でもあらない。もつとしいものぢや。
妹の順礼 分つた。そんなら、そりや狸やろが。
第一の童子 狸でもおぢやらぬわい。
妹の順礼 お時どのよ。もうはやう行かうよ。わしも奈何どうやら気味わるうなつて来た。
第一の童子 この寺の方丈様はうぢやうさまは、おらはまだ見ないが、みんなのいふて居ることにや、髪の毛が鼠の毛で、手の爪が熊の爪ぢや。
第二の童子 それで身の丈が一丈をも超えて、手の甲にこけらが生えておぢやるさうぢや。
第一の童子 其くせ声は鳩のやうで、ぐはう、ぐはう、ぐはう、ぐはうと啼く稀有けぶな方丈様ぢゃ。
日かげ傾く。南蛮寺の鐘鳴りはじむ。
第一の童子 あれ鐘がなる。鐘がなる。みんな早うのうよ。――お主達ぬしだちも早うなないと、見よ、今に南蛮寺の門に食はれるぞよ。恐いぞ、恐いぞ。昨日きのふ一昨日をととひも人が食はれたさうぢや。皆、去なうよ。去なうよ。
妹の順礼 お時どのよ。我等わがらも早う行かうよ。
皆々退場。暫く素舞台。遠くにて再び夕やけの唄。
    *     *     *     *
千代(年わかき母)、その子常丸下手より物語りつつ登場。
常丸 そんなら、その黒い魚は何処どこに棲んでゐるのぢやえ。
千代 人のしんの臓の中に居るのぢや。
常丸 それが奈何どうして外へ出るのぢやらうな。
千代 その黒い魚には羽がえて、鳥よりも速う、空へ飛んでゆくといふことぢや。
常丸 それから奈何するのぢやえ。
千代 河ぢやろが、山ぢやろが、海ぢやろが、日輪ぢやろが、何処へでも飛んでゆくのぢや。その魚が空を蔽へば、日も曇つて、そらの森に赤児が泣く。
常丸 空に奈何して赤児が泣くのぢやえ。
千代 とほいい、遠いい、父様ととさまや、ばば様、ぢぢ様の国にまゐりたいといふて泣く。
常丸 ととさまの国にえ?――母様かかさま、父様の国は空天竺そらてんぢくにおぢやるのかいなあ。
千代 空の、空の、大空の、夜摩やまの国といふところに、ぢぢ様も、父様も、また死んだ其方そなたの妹も、みんな仲ようくらいておぢやると、最勝寺様が申された。
常丸 かか様。何といふ国ぢやつたかな。
千代 かか様もうは知らぬが、夜摩の国とか申された。
常丸 その夜摩の国にわしも行きたいわいな。
千代 あれ滅相な、滅相なこと。その国にはな、五つの眼ある恐ろしい犬が居て、小さい子供には行かれぬ所ぢや。
常丸 (歩み渋りながら。)わしや其国に行きたいわいな。
千代 こや、常丸。そのやうに聞きわけうては、もはや何処いづくへも連れてゆかぬぞや。あれ、入日にも間近いさうな。急いで参りませう。
常丸 その五つの眼の犬とは、どのやうに恐ろしいものぢやえ。
千代 まあさ、其の話はあとくはしうするさかいに、早うまゐりませう。
常丸 母様今日のお会式ゑしきは面白うおぢやつたのう。わしやあのやうに面白うおぢやつたのは、生れてから今日が始めてぢや。わしやまだ見ておぢやりたかつたのに。わしうちへ帰るはいやぢや。
千代 まあ、此子としたことが――そのやうな事いふものは、あの恐ろしい犬めがさらつてゆきますぞや。家ではばば様が待つておぢやらう程に、早う参らうわいな。
母なる人の友、菊枝、上手より来りてこの母子おやこれちがひ、
菊枝 はれ、待ちやれいのう。お前は千代さまぢやおぢやらぬかいな。
千代 あれ、これは菊枝さまさうな。な所でお遇ひました。
菊枝 お前は何処どこからのお帰りぢや。
千代 今日は最勝寺さまの御会式ぢやさかいに、死んだ娘と、この子の父御ててご供養くやうしておぢやつた。さと母様かかさまきつう止めるゆゑ、つい遅うなつて、只今帰るところぢや。してお前は何処からぢやえ。
菊枝 さて其事ぢや。わらははな、近ごろいかい苦労をしておぢやつた。それ、お前も存じよりの黒谷の加門様の妹娘のことぢやが、あの娘が気がふれてな。
千代 はれ、まあ。
菊枝 ぎざぎざ針を植ゑたる金具もて、われとわが胸を十字にい傷つけ……
千代 はれ、まあ。
菊枝 その揚句には親達も、男子おとな女子をなごも見さかい無う切り付くるのぢや……
    *     *     *     *
二人の女の会話のうちに、常丸、母の傍より離れて南蛮寺の門に近づき、つくづくと内を覗う。やがて小さき常丸の声にて、
常丸 ほんまかえ。ほんまかえ。ほんまに嘘ではあらないと云ふのぢやな。……何ぢや。もつと、もつと、もつと面白い所ぢやてや。いやいやれは嘘ぢやらうわ。わしが今日見た地獄の機関からくりより、もつと面白いものはから天竺にも決しておぢやらぬわ。……何、秋でも冬でも牡丹の花が咲いておぢやるてや。え。われら父上も、……あの可愛かはいい妹も生きておぢやるてや。……ま白い象も棲んでおぢやるてや。嘘ぢや。……何、ほんまぢや? そんなら起請か、かけもするてや、し、天も地も照覧あれ、指かけ小かけ、嘘云ふものは手の指腐され、好し、そんならつて見よう。嘘ぢややら、指十本腐るぞよ。……(常丸門内に入る。二人の女未だ気付かず。)
    *     *     *     *
千代 まあ、ほんまに夫れはけしいことぢや。今年は何やら可厭いやな年ぢや。出来秋ぢや、出来秋ぢやと云うて米は不作。
菊枝 加旃それにまた加茂川の大水おほみづ。――わらはが隣の祖母様ばばさまは、きつい朝起きぢやが、この三月みつきヶ程は、毎朝毎朝、一番鶏も啼かぬあひだけしい鳥の啼声を空に聞くといふし、また人の噂では、先頃さきごろ摂津住吉の地震なゐ強く、社の松が数多く折れ倒れたといふこと……。
千代 ほんまに気味わろいことぢやのう。あれ、また話で時をつぶいた。妾は今日は急ぐほどに、之で御免蒙りませう。お前も精々からだを大事にしや。命あっての物種ぢやのう。さらばまたの日に会ひませう。
菊枝 それなら祖母様にもよろしう云うて下され。
二人相別る。菊枝は下手より退場。たちまち千代けたたましく、
千代 はれ、まあ、常丸。常丸。……はて、常丸としたことが、やよ、常丸。常丸。――(ふらふらと門に歩み寄り、内を覗ひながら。)はて悪いことを致いた。ここが南蛮寺の門ぢやとは、つひぞ気付かいでおぢやつたが……さてはこの門めが、中に引込んだと見ゆるよ……。
千代、逡巡ためらひながら二三歩門内に進み入り、『常丸、常丸』と呼ばう。答なし。憂はしげに、再び門外に出づ。
千代 四辺あたりには人も見えぬ。はて奈何したものでおぢやらうな。中に入るのもうしろめたし……。
思付きたるさまに、急ぎ内より離れ来り、往来に立ち止まり、下手の方を呼ばう。
千代 おおい、おおい。さきにゆく菊枝どのいのう。菊枝どのいのう……はれ、聞えぬげな。(つまづくが如く、二足三足下手の方に歩みよりて。)おおい、おおい。菊枝殿いのう。(右手を挙げてさしまねく。)あ、やうやう聞こえたさうな。やれ、うれしや。なう、喃、菊枝どのいのう。早う、早う、菊枝どのいのう。
此時老いたる男下手より来りてこの様を怪しむ貌。
老いたる男 やいの。其方そなたはけたたましう何を呼ばうのぢや。(額に手をかざして、下手の方を眺めやり、また此方こなたを向きて。)何が起つたのぢや。
千代 われら、われら……われら常丸がさらはれておぢやつた。
老いたる男 何ぢや。何が拉はれたてや。
千代 われら常丸ぢや。われら小さいの子ぢや。
老いたる男 はて、さて、今時この都に鷲の鳥はおぢやるまいと思うたが。
千代 いや鷲の鳥ではおぢやらぬ。鷲の鳥ではおぢやらぬ。
老いたる男 鷲の鳥でおぢやらぬなら手長猿かいのう。
千代 いやいやそれでもおぢやらぬ。
老いたる男 さらばお山の女取めとりでもおぢやつたかいのう。
千代 人さらひぢや。人さらひぢや。
老いたる男 何。人さらひとは近頃面妖なことぢや。何処どこから来て、の方角に隠れてたかの。
千代 (泣きながら)何処からも来ぬ。何処へも行かぬ。
老いたる男 其方そなたは泣いてばかりおぢやつては、しやほに分らぬわ。
千代 (大声にて。)あの南蛮寺が拉つたのぢや。
菊枝戻り来る。
菊枝 何ぢや。何ぢや。何ぢや。
千代 南蛮寺がわれら常丸を拉つておぢやつた。
菊枝 はれ!(気絶す。)
老いたる男 (独白)あれ、あれ、また一つ事が殖えた。女子をなごといふものは理が分らいで困るものぢや。――(菊枝に。)やいの、女子よ。南蛮寺が人を拉らふわけはしやほにおぢやらぬ。――(千代に。)おらはな、この女子を介抱しておぢやるさかいに、其方は早やう行て、寺の内に其方が子を捜してやれ。何も不思議があるものか。不思議は皆心からくものぢや。疑心暗鬼ぢや。何も恐ろしい事はおぢやらぬさかいに、早う行て子を捜しておぢやれ。子等は法会ほふゑの唄にな、聞きれておぢやるやろ。
千代 ほんまにけしうはないお寺か。
老いたる男 なかなか、なかなか。
千代 さらばあの中に天狗のやうな人食人ひとくひびとがおぢやるといふは、ありやほんまに虚事そらごとでおぢやるかいな。
老いたる男 何の、そのやうな事がおぢやるものか。くどい女子ぢや。な。この世の中に天狗、人食人などはおぢやらぬわい。ありや、南蛮の坊主共ぢや。日もはや暮れる。早う行ておぢやれ。(千代門内に入る。)
老いたる男 やいの、知らぬ女子よ。早う目をさましや。いやさ、正気に帰りおれと申すにな。やれ、女子よ。(女の背を打つ。)
菊枝 あ、あ、あ、あれ、あれ。まだ大きな蛇体じやたいが。蛇体が……
老いたる男 愚な女子ぢや。早う正気に帰られい。な。女子よ。邪心を以て見るが故に、藁をうて造りたる縄も蛇体と見えるのぢや。
菊枝 それぢやと云うて……今の蛇体は?……
この間に、南蛮寺の門扉内より音もなく自から閉まる。
老いたる男 は。やれ、やれ。内なる門を鎖す男よ。やよ、男よ。そのは今少時しばしがほど明けて置かれよ。やよ。少時が程ぢや。(怒りて。)はれ。内に人が入りておぢやるといふにな。(門全く閉さる。内より女の声聞こゆ。)
女の声 あれ、あれ、あれ、あれえ。
老いたる男 (両手もて門の扉を押し試みつつ。)誰ぢや。門番の男よ。扉を開けよといふに。え。開けぬ積りか。何。開けぬ。いや、いや、屹度きつと開けぬ積りぢやな。好し、それなら此方こなたにもする術があるぞよ。――(菊枝に。)やいの、女子よ。そなたは少時しばらく此処に待つておぢやれ。――何、此方にもする術があるぢやまで。――おらきこの附近あたりに住まふものぢや。われら家にて持つて来るものがおぢやるわ。少時しばしがほどここに待たれよ。
菊枝 わらは一人が此処にかえ?
老いたる男 何、一人にてはいやぢやと申すか。
菊枝 さにてもおりないが、……妾は恐やの。
老いたる男 何のこと。何のこと。あれ向ひから男子おとなが大勢来るわい。そんならほんのしばしがほどぢや。(去)
行人二三下手より登場。
菊枝 まをし、まをし、そこな方々よ。今此処に恐しい事が起り候よ。
第一の人 何ぢや、恐ろしい事とは。
菊枝 あの、南蛮寺が人を拉うておぢやつたのぢや。
第二の人 何。南蛮寺が人を拉つておぢやつたと言やるか。やれ、それまことか。誓文せいもんか。
菊枝 何で妾がこの年齢としして、やくない嘘をつきませうや。
第一の人 して何処いづくの誰が拉はれたのぢや。
菊枝 妾の知辺しるべぢや。お千代母子おやこがさらはれておぢやつたのぢや。
第二の人 やあれ、やあれ、恐ろしい事ぢや。むかしまつかう南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
第一の人 あれ見よ。最早もはや空に星が出そめたさうな。
第二の人 急ぎまゐらうよ。(行人行きすぎむとす)
菊枝 まをし、まをし、方々よ。今妾のつれが来るほどに、いま少時しばらく此処に止まり候へ。妾一人にては物おそろしや。こはや。
行人等 我等も急ぎの用事がおぢやるわ。
菊枝 さても無情つれなの人々候ぞや。
行人なほも行き去らむとす。たちまち下手の方賑はしき唄の声(楽屋にてはやし)。若きうかれ男、舞妓白萩。つづきて屋号を染めたる提灯を持つ男。はいまだとぼされず。登場。
うかれ男 (扇子もて膝をうち拍子とりとり、唄。)
鐘さへ鳴れば なうとおしやる。ここは仏法東漸の源、初夜後夜の鐘は いつも鳴る。
ははははは。(白萩に)何とて人立ひとだちがすることぢや。
白萩 さればいの、わたしも案じて居たのぢやわいの。
提灯を持ちたる男 (ひそかに)此処は南蛮寺ぢや。
うかれ男 何ぢや。南蛮寺ぢや。へへ、ははははは。
提灯を持ちたる男 笑ひ事では御座りませぬぞよ、早う参りませう。
うかれ男 南蛮寺なりや恐いことはおりない。
白萩 あのくれの鐘は、寺の深いの底から湧いてくるといふは真かいなあ。
うかれ男 (故更に厳粛の貌を装ひ)や、それこそは邪法の内秘、吉利支丹きりしたん宗門の真言しんごん軽々かろがろしうは教へられぬ。したが白萩よく聞きや。おもとゑんじはまこと心底の胸から出やるか、乃至ないしは唇のおもてからか。いやさ、それを告げいでは、ちやくと教へられぬわい。
白萩 知らぬ、知らぬ、教へなうてもよいわいな。
うかれ男 はてさて、これきつい返答。――(忽ち側を向き大声)こりや!
さきよりこの一群に、着きつ、離れつ随ひ来れる油売、実は伊留満いるまん喜三郎、油桶は持たで、青き頭巾かぶれる。叱咤せられ、袖かざしてすさる。
うかれ男 はていぶかしい男共をのこどもぢや。
白萩 あの男なら、とうから我等の後にいて参りました。気味わろいことぢやわいな。
うかれ男 何の、け、措け。
忽ち寺の内に遠波とほなみのごとき、奇しき妙音楽起る。(羅曼的ろまんちつしゆなる西洋管絃楽)、さきに行き去らむとせし人々も踵を返す。
第一の人 何ぢや、賑かな楽声がくじやうぢや。
第二の人 寺の中に何かおぢやるさうな。
第一の人 何ぞ珍らしい異宗の祭典と見えるよな。のぞいて見たいものぢや。
第二の人 なれども門は閉されたり。はて、如何いかが致いてか内を見る工夫はおぢやるまいかな。
伊留満喜三郎 (突然門扉の内にかがみて)やいの、やいの、みなの衆よ。ここの門のとびらに細い隙がおぢやつたぞや。はれ、見られい。や、何とまあ美しい絵ぢや。唐、天竺は愚か、羅馬ろおま以譜利亜いげりやにも見られぬ図ぢや。桜に善う似たうるはしい花のの間に、はれ白象が並んでおぢやるわ。若い女子等が青い瓶から甘露かんろんでおぢやるわ。赤い坊様ぼんさまぢや。噴泉ふきあげからさらさらと黄金が流るる。真昼のやうに日が照るわ。はれ、見られい、見られい。はねの生えた可愛い稚子ちごが舞ひながらおぢやつたわ。はれ、皆が一斉に祈を上げておぢやるわ。
楽声快活に、敬虔に、やがて急激に、やや誘惑的に、更にまた憂鬱に。
菊枝 して、して、……あの千代どのもおぢやるかいな。
伊留満喜三郎 千代殿とは何ぢや。何処の人ぢや。
菊枝 まだ二十五とはならぬ女子ぢや。なれども二人の母人ははびとぢや。その妹の子はこの春死んでおぢやつたのぢや。
伊留満喜三郎 おぢやるわ。おぢやるは。それもおぢやるわ。
菊枝 せがれの常丸どのもおぢやるかいのう。
伊留満喜三郎 おぢやるとも、おぢやるとも、みんなおぢやるわ。
菊枝 はれ。お祭を見ておぢやるかいのう。何とまあおとましい人々ぢや。此方こなたきつう案じておぢやつたのになあ。
伊留満喜三郎 いや、皆はもう神さまになつて、美しい翼が生えておぢやるのぢや。はれ、うるはしい行列ぢや。歌唄うておぢやるわ。
菊枝 何とたはけた事をいふ人ぢや。妾はさきから、まことか、真かと聞いておぢやつたのに。おとましいことぢや。
伊留満喜三郎 はれ黒い尼達が来ておぢやつた。日が曇つた……。
うかれ男 やい。油売奴あぶらうりめ。そこ退きやれ。――や、や、如何にも此処に細い隙間があるわ。やれ、やれ、それがしも一つ覗いて呉れむず。
白萩 見えたかいなあ。何ぞ見えたかいなあ。
うかれ男 善う見える。善う見える。はれ、いつはりの底が善う見える。
白萩 ほんまに何が見えるぞいなあ。
うかれ男 南蛮寺の台所が善う見えるわい。聞きや。はれ。や、何とも云へぬ名香みやうがうのかをり、身も心も消ゆるやうぢや。四方には華の瓔珞やうらく、金銀、錦の幡天蓋はたてんがい※(「王+(「毒」のあしが「母」)」、第3水準1-88-16)たいまいの障子、水晶のみす。まつたそが中の御厨子みづしの本尊、妖娟たをやかなる天女の姿、匂ひやかなる雪の肌、たば消ちなむ目見まみの霞……造りも造りたる偽の御堂よな。(門扉の隙より目を離し、唄ふがごとき調子にて)さて、偽りとは知りながら悟られぬのがそれ何やらの道。なう[#ルビの「なう」は底本では「のう」]、白萩小女郎、昔の人は秀句しうくくな。
白萩 あれまたいやらしいたはむれごと。
うかれ男 何でそれがしがいふことが戯言たはむれごとであらうぞや。戯れごととはお許等もとらのいふことぢや。いとし、恋しも口の先、腹の内には舌出いて、いやさ(唄。)
千たびももたびおしやるとも、なるまじものをうつつなの其方そなたや、われにぬしある、思ひとまれよ。
などと、はは、南蛮寺の玄関で、誰やらがよい歌唄うておぢやつたわ。
白萩 あれまた人をなぶるわいなあ。
伊留満喜三郎 (再び門扉に倚りたるが、突然声高に)波羅葦増はらいそぢや、波羅葦増ぢや。
第三の人 真か、まことか。
伊留満喜三郎 じええずすまりや波羅葦増雲はらいそう。波羅葦増雲。
門内の楽声更にさかんになる。忽ち下手に人声。やがて嚮の老いたる男大なるかけやもちて出づ。
老いたる男 此方にもするすべがあるのぢや。
菊枝 やれやれ、おやぢさま。久しう待たしておぢやつたなあ。
老いたる男 されば皆の者よ。そこ退のきやれ。そこ退きやれ。やい、危いわえ。(門内楽声む。老いたる男、携へ来れる大槌を挙げて烈しく門扉をうつ。)――はら、やいの、おう。はら、やいの、おう。(人々怪しき驚愕の声出しつつ眺む。老いたる男少時槌の手を休めて、人々を顧みながら)皆の衆は、などて、さはもだしておぢやるぞや。念仏申さぬか。念仏申さぬか。――(再び槌を取りあげ)南無帝釈たいしやく四天王、五道冥官みやうくわん、日本伊勢大神宮、八幡大菩薩、春日大明神其他氏神うぢがみ、南無阿弥陀仏。はら、やいの、おう、南無阿弥陀仏。はら、やいの、おう、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。――(汗を流し、いたくつかれたる様に手を休めつつ)や。さても堅い扉ぢやわい。
    *     *     *     *
下手より五六の学僧(学頭、所化しよけ長順、所化乗円其他)登場。何れも黒き衣、黒き頭巾。又長き杖を持つ。但し先頭の所化乗円は『妙法院』と記されたる提灯を持ちたり。提灯には燈ともさる。群ぬちややにさはがし。
学頭 やよ、人々、何とてさは雑言致すぞ。
さはぎ次第に高まる。
学頭 何とてさは雑言致すぞと申すにな。
第一の所化 所化長順が気が狂うてござる。
学頭 何とな?
第一の所化 所化長順が気が狂うてござる。
長順 否とよ。ふつつに狂ひなどは致さぬ。
第一の所化 (長順に)御宗門を疑ふが、狂はいで何としようぞ。
長順 ふつつに狂ひなどは致さぬ。
第一の所化 その証拠あかしが立つか。
長順 立たいでか。わが申開まをしひらきはこのやうぢや。(長順腕より数珠を外し、地上に抛ちて足もて踏む。)
第一の所化 とつ。仕おつたな。(皆々呆れ怒るこなし)
乗円 (憂はしげに、長順に向ひ)御宗門を足蹴あしげに致いたな。
長順 足蹴は愚か、矢を向け申すわ。
第一の所化 やい。よくもほざいたな。はは、御宗門に弓引くと申すからは必定新たなる見証けんしようが付いたであらうな。
長順 見証なんどとは事をかしや。釈迦牟尼せいきやぼち畢竟ひつきやう愚人、苦労性なる摩訶陀の王子、天台智者は大法螺吹おほぼらふき、まつた伝教は山師の支店でみせ
第一の所化 黙り召され!
長順 何とて黙らうぞ。仏陀の教は嘘八百、人をだまいて可惜あたらしき若き命をむざむざと枯木の如くちさす教……(やうやう夢幻的になり)それがし在家の折柄は蝴蝶は花に舞ひ戯れ、鳥が歌へばわが心、君の心もうちなごみ(小唄の節になりて)花の降る夕暮は、思へど思はぬ振りをして、なう、思ひやせに痩せ候ひしが……(再び我に返りたるが如く)教観けうくわん二門が何の真諦しんたい、三観十乗が何の悟道さとりそれがし山に入りてより、四年四月よとせよつきは日夜撓まず勤行ごんぎやう苦行、ひたすらに頓漸とんぜん秘密の理を追へども……(また咏嘆の調にて)かの日の幸に比べむ幸なく、わがき人に似る神も……
乗円 長順真に正気でか※(疑問符感嘆符、1-8-77)
長順 正気で無うて何としようぞ。
第一の所化 聞きしにまさる長順が乱心。今は堪忍の時ならず。(杖もて長順を打たむとす。乗円之をかばふ。)
乗円 ま、ま、待つて下されい。之は長順の正気では御座りませぬ。必定ひつぢやう悪魔波旬はじゆん仕業しわざ。……(忽ち南蛮寺の門に気付きて)あれ、此処は邪法の窟宅くつたく、南蛮寺の門前なるよな。さてこそ必定邪法の手練てれん……
長順 ……あれ唄が聞こえるわ。いとしい人が呼ぶさうな……
乗円 (憂はしげに)長順、長順。其方はまた迷うたさうな。修行が足りぬぞよ、修行が足りぬぞよ。
長順 乗円、其方もわが心はえむまいな。(心弱く乗円の腕にもたれる。)
忽ち南蛮寺の前にてけたたましき響す。沙門の一行門前なる群集に近づく。
老いたる男 (再び大槌もて門扉をうつ。)はて、さてしい扉ぢや。え、まだかや。まだかや。うん、や、ほい。南無阿弥陀仏。はら、やいの、おう。南無阿弥陀仏。え、まだかや。まだかや。はら、やいの、おう。南無阿弥陀仏。
老いたる男、最後の一撃をなさむとする所に、忽ち眩暈めくるめき倒れ、槌は手を離れて地上に落つ。
門内楽声(たとへば独逸国リヒヤルト、ストラウスがツアラツストラの曲の末段の如き)嵐の如く高まる。
菊枝 (うち驚きて)や。これは。おやぢさまいのう。
伊留満喜三郎 (菊枝をさへぎり)見やれ、こりや神罰ぢや。南蛮寺の罰ぢや。
菊枝 何と、それは真かいなあ。
伊留満喜三郎 大神でいゆすの威力の恐ろしさを、遅かりしな、今覚りしか。もとより不信の極悪人ごくあくびと、此儘に打ち捨て置き、風来犬ふうらいいぬにな食す可きなれど、今日は異例の情をもて、さんたまりやに祈りを上げ蘇生よみがへらして呉れむずらむ。(老いたる男の傍に進み寄り口に呪文を唱ふ。老いたる男目ざむ。)
伊留満喜三郎 何と、老耄おいぼれ、正気に帰つたか。
老いたる男 (いぶかしげに四下あたりを見廻はす貌)ここは何処いづこぢや、何処ぢや。
伊留満喜三郎 ここは四条の真ン中ぢや。南蛮寺の門前ぢや。
老いたる男 (驚き逃げ去らむとして)何ぢや。南蛮寺の門前ぢやてや。
伊留満喜三郎 こや、逃げ無いでも可いわ。心を落付けいやい。某誠心を籠めて大神に祈りたれば汝が罪は許されたり。――(衆に向ひ)貴き御堂の門扉を撃ち天主の威霊を汚す罪によりて、思ふだにも恐ろしき彼の暗黒のいんへるの、解けば即ち焦熱地獄のその底に落ちゆく可き所なるを、でいゆす御教みをしへこの国に入りてより、未だもなき事なれば、無智盲昧まうまい[#「盲昧」はママ]蒼民たみくさの疑ひ怪しむそれ故に、心にもなき大罪に陥らむを憐み、それがし祈念をこらしたれば彼の罪も許されたのぢや。皆々有り難き御恵の御礼申上げたがからうぞ。――さんたまりやさんたまりや波羅葦増雲善主麿はらいそうぜんしゆまろ
皆々さんたまりやじええずすまりやなどよぶ。
うかれ男 やあれ、やあれ。そこな痴人しれびと、知らぬまねして聞いてあれば片腹いたい妄言綺語まうごんきご
伊留満喜三郎 何、妄言綺語とな。雑言も程こそあれ、世にも恐ろしき神の威霊の近きしるしを今見ざるか。かかる賤しき油売の姿にわが身をつしてあれば、貴き言葉ことばも疑はるるなれ――(伊留満喜三郎俄に油売の服装を脱ぎて緑の地に金糸の縁飾をとりたる邪宗門僧侶の職服にかはる。右手に高く金色の十字架像をかざす。)今までは包みこそれ、何か隠さむ。われこそ真は大神でいゆすしもべ伊留満いるまんあんとにゆすでおぢやるぞ。
人々たじろぐ。或は『じええずす、まりや』などよぶ。
伊留満喜三郎 それわが神でいゆすは天地六合の唯一神、宇宙万象の能造の主、天地空寂のうちに万象を造り、かるが故に日月星宿光を放つて、明歴々として東湧西没の時を違へず、地には千木万草あつて、飛鳥落葉の期を誤たず。百万の烝民じようみんくこの神を拝するときは死後生を波羅葦増雲の楽園にく。然るに、耳目あれども此神を知らず、みだりに神徳をそこなふものは、即ちいんへるのの苦淵に沈む。そもそも波羅葦増の国と申すは、四時花咲き、鳥歌ひ、果実ときなく実り、生あれども死なく、明あれども暗なく、悔なく、迷なく、苦なく、禍なく、白象鰐魚びやくざうがくぎよも人に戯れ、河水甘露の味を宿して、白檀蘆薈びやくだんろくわいのかをり園に満ちたり。せにしものはここ見出みだされ、求むるものはここに備はり、家兵燹へいせんに焼かるる憂なく、愛するつまを戦場に死せしめず、和楽の和雅音わげおん大空に棚引いたり。如何に人々、今こそ波羅葦増雲近づけり。時に遅るな、祈を上げよ。おおらつしよおおらつしよさんたまりや。死後生天しやうてん波羅葦増雲善主麿。
人々或は之に和す。門内には法悦信楽ほふえつしんげう妙音楽めうおんがく(中世の宗教楽)。所化乗円提灯を翳して伊留満に迫る。
乗円 伊留満あんとにゆすと申すは其方そなたか。
伊留満喜三郎 如何にも伊留満あんとにゆす此方このはうぢや。
乗円 咄、此老狐らうこみだりに愚民をたぶらかし居るな。
伊留満喜三郎 何とて人を誑らかさうや。
乗円 然らば借問しやもんす。でいゆす天地を造りしとは真か。
伊留満喜三郎 説くにや及ぶ。
乗円 さらば其でいゆすをば誰が造りしぞ。
伊留満喜三郎 でいゆすこそは天地の唯一神ゆゐいつしん。誰も造りしものはおぢやらぬ。
乗円 は、は、でいゆすを造りしものが無うて、でいゆすく天地万象を造りしとな。然らばでいゆすは即ち五塵ごぢんくわい五蘊ごうんの泉、憎愛簡択ぞうあいかんたくの源とこそ見ゆれ。
伊留満喜三郎 然らば問はむ。如何なるか是れ仏法。
乗円 即心即仏そくしんそくぶつ
伊留満喜三郎 如何なるか是れ即心即仏。
乗円 即心即仏。
伊留満忽ち隠し持ちたる短刀を抜いて、乗円が胸に閃かす。
伊留満喜三郎 如何なるか是れぶつ
乗円 (平然として)法性は之れ無知亦無得むちやくむとく無色亦無受相行識むしきやくむじゆさうぎやうしき
うかれ男 (つと進み伊留満の手を押へて)宗論に刃物三昧は卑怯なるぞ。
伊留満喜三郎 (うかれ男に引かれて二足三足、後へ退すさりながら)無知亦無得とは珍らしや。本来空ならばなどて天地万象が生ぜむや。
乗円 諸法空相、不生不滅ふしやうふめつ不垢不浄ふくふじやう、不増不減。
伊留満喜三郎 何と諸法が空相とや。烏滸をこがましき似非経文えせきやうもんよな。本来諸法が空相なら、何ぞくうを空ずるの相あらむや。誠や大神でいゆすは之れ天地能造の主、人類の起源。抑も天地虚曠晦冥、でいゆす光あれと呼べば即ち光あり。人あれといへば即ち人あり。諸人何ぞこの大神をあがめざるや。何ぞ猥りに神威を疑ひ、大神の怒、天地滅尽、じゆいそぜらるの時来らむを恐れざるや。何ぞてしひりいないるを取り自ら己が身を打つて懺悔礼拝ざんげらいはいせざる。何ぞさんたくるすひて、ひとへおらつしよを唱へざる。波羅葦増雲近づけり。祈りを上げよ。おおらつしよおおらつしよさんたまりや
伊留満高く金十字架を頭上に捧げ、ひたすらに聖頌を唱ふ。門内の楽曲、厳粛豊麗なる寺院楽律よりやうやう神秘奇峭なる近世的問題楽曲に移る。四下やうやうさわがしくなる。
第一の人 あれ伴天連ばてれんが妖術を始めたぞ。
第二の人 何ぢや妖術ぢやてや。
舞台やうやく赤くかすみ来り、後景なる寺の石垣模糊もことして遠く退き、人々の形も朦朧として定かならず。楽音の旋律更に激越想壮[#「想壮」はママ]の度を加へ、之に諧和せざる梵音はた三絃の声も、囂々がうがうとして亦その中にじる。
乗円 遠離一切顛倒夢想ゑんりいつさいてんだうむさう
伊留満喜三郎 ろうだつとどみのむおむねすでんと
乗円 究竟涅槃くきやうねはん
忽ち所化長順群より離れ、舞台の中央に来り、舞妓白萩にすれ違ひ、
長順 ふつ、其方そなたは……
白萩袖を翳して退く。これより長順は白萩を追ひ之にからむ。うかれ男その間に入りて之を妨ぐる仕草。この三人の間に往々また伊留満の姿現はる。右手に高く金十字架を捧ぐ。金の十字架煌々と光る。沙門等は下手のかた、程よき所に立ち並ぶ。楽声、沙門、伊留満等の祈祷唱讃の声、諸人の驚き叫ぶ声、紛々囂々ととだえとだえにひびらぐ。
長順 ふつ。其方はお鶴どのではござらぬか。
白萩 さういふお前は源さまか。
長順 あな、珍らしや、お鶴どの其方はまめでおぢやつたか。
白萩 あれなつかしや源さま。
長順 最早其方はこの世にはおりないものと思ひあきらめ……
白萩 怨めしや源さま。
うかれ男 やよ白萩、時が遅うなるわ、早やうまからうと申すにな。
長順 (回想に耽るが如く夢幻的に、)の時其方は全盛の歌ひ、殊に但馬守殿が執着のおもひ者、われは貧しき沙門の小忰こせがれ、どうせ儘ならぬ二人の中、思ふがまよひと人にもいはれ、
白萩 お前はあむまり独合点ひとりがてん……
長順 え、ままよ、さうなりや人をも殺し、われも死に、無間むげん地獄に落ちば落ちと、暗夜やみよの辻にもさまよひしが……
白萩 源さまお前もあむまりな、などて一言その事をわたしに明してくれなんだ……
長順 思へば女一人のために、身を殺さむは、さすが世間の手前、人の思はくも恥かしく、此世ながらの梵涅槃ぼんねはん桑門さうもんの道に入りもしたれ、そなたと分れて四年よとせの間……
白萩 わたしや夜昼泣いて泣いて……
うかれ男 早う去なうと申すにな。
白萩 あれくどい衆ぢや。帰りたくば一人で行なしやんせいなあ。
長順 始めは山の金鼓きんこの音、梵音楽ぼんのんがくを珍らしみ、勤行唱讃に耽りしが……
白萩 そんならお前は、わしのことはうち忘れてか……
長順 止観の窓を押し開き、四教の奥に尋ね入れば、無明むみやうの流れは法相の大円鏡智と変りはすれ……
白萩 ……はれ。
長順 幼き時ゆこがれたる、ほの珍らかにいと甘き、いとあえかにもなつかしき『不可思議』の目見まみは我胸よりまつたく消えうせ、のこれるは氷の如きくうの影。――(演説の調にて)法相真如しんによといふといへども之れ仏陀乃至伝教等沙門の頭を写したる幻の塔、夢の伽藍、どうせ人の頭より出たるほどのもの故、学んで悟られぬ筈はおりない。悟といふはやくない徒労。わが望むところは彼の『不可思議』、解けがたき命の謎、一たび捨てにたる無明煩悩ぢや。天台乃至伝教はわが胸中のこの宝を盗みたる、いはば物取強盗ぢや。宗門を蹴らいで何としようぞ。
    *     *     *     *
所化等 (遠くの方にて)羯諦ぎやあてい、羯諦、波羅羯諦はらぎやあてい波羅僧羯諦はらそうぎやあてい
伊留満喜三郎 (前方に立ち現はれ)おらつしよおらつしよぐろりやはとりえひりおゑぬぴりてゆいさんくと
    *     *     *     *
忽ち門内沈痛悲壮なるゐおろんちえろそろ
長順 (舞踊の間に黒き法衣を脱ぎ華美なる姿となる)あれ、南蛮寺の中にしき響きがしておぢやるわ。(奥よりゆきて)あの響ぢや、あの響ぢや。わがこがるるはあの響ぢや。白萩はやうおぢやれ、あの響ぢや。あの響ぢや。
伊留満喜三郎 べねぢくちゆすどみにすでゆすいすらえるぜじゆきりすてさんたまりや
遠き方に、再びかすかに童子等が夕やけの唄。舞台、紅色の靄はやうやう消えゆきて、さびしき青色の光となる。後景の石垣再び鮮かに前に出づ。門内の楽音も亦ややに静まりゆく。忽ち上手に気味わるき人声。
声 やい、こりや、こりや、喜三郎よ。
褐色の衣。袴の股立ももだち高く取つたる、年老い痩せ屈みたる侍、大刀の柄に手をかけつつ上手より登場。
老いたる侍 (憤怒の相貌恐ろしく、手も体もうち顫へつつ)やい、喜三郎よ。其方そちはよつくもまた此処ここへ来ておぢやつたな。
伊留満喜三郎 (十字架にて眼をかばひながら)や、叔父上か。
老いたる侍 只今其方そちの母御はな……え、思ふだに涙がこぼれるわ……其方の不孝をう、怨み、怨み死にに死んでおぢやつたのぢや。
伊留満喜三郎 ええ。母人が死なれたとや。
老いたる侍 不孝者奴!
伊留満喜三郎 (首うなだれ、思ひ沈むこなし、ややありて―独白)この大神の御為めには、母も捨て、妻、子も捨てよと……ええ、聖経にも記されておぢやるわ――叔父上!
老いたる侍 不孝の罪はまだしもあれ、けがらはしき異国の邪法に迷ひ、あまつさへ、猥りに愚人を惑はすとは……
伊留満喜三郎 え、惑はすとな……
老いたる侍 ……不、不、不便ふびんながら其方の命は、父御ててごに代りこの叔父が……え、思ひ知れ、天の罰ぢや。
老いたる侍、忽ち刀を抜いて伊留満の首を落す。四囲あたりの人々、皆驚き恐れ『人殺ぢや、人殺ぢや』などいひつつ逃れ去る。沙門等、長順、白萩のみのこる。
老いたる侍 (刀の血を拭ひ、鞘に納めながら、四下の人は眼にも入らざるが如く、つぶつぶと独語ひとりごつ。)……御先祖ごせんぞへの申訳ぢや……御、御、御先祖への申訳ぢや……(よろめきつつ再び上手の方より去。)
第一の所化 (一歩前に踏み出し乍ら)やれ、口惜くちをしや、南蛮寺の妖術めにばかされておぢやつたとは。
長順 (夢中に老いたる侍の後を追ひゆきて)お侍、と待たれい。
第一の所化 (忽ち長順のえりを捉へて)こや、長順。
長順 離しやれ、そこ離しやれい。
第一の所化 おぬしは血相かへて何する積りぢやえ。
長順 ふむ、何を隠さう――いたづらに俗世間の義理人情に囚へられ、新しき教の心もえさとらぬ俗人ばら、あの老耄の痩首丁切ちよんぎり、吉利支丹宗へわが入門の手土産てみやげにな致さむ所存。
第一の所化 何と、吉利支丹へ入門とな。
長順 新しき不可思議をそれがしは望むのぢや。
第一の所化 やあい、同学衆よ。長順が吉利支丹へ改宗ぢやと申し居るわ。
所化等 え、邪宗へ改宗ぢやてや。
再び門内に楽声。あこがるるが如きろまんちつしゆの曲節。
長順 おおあの声にあくがるるのぢや。
乗円 (痛ましき顔容をなして)長順!(長順眼差を落す。)
学頭 如何に方々、長順が堕落の程はもはや一毫の疑もれぬ所ぢや。容捨は無用ぢや。棒を与へよ。
第一の所化 長順今ぞ思ひ知れ!(杖を以て打たむとす。)
乗円 (之を遮りて)ま、ま、待たれい、方々、第一のしもとはこの乗円に任されよ。――やよ、長順。煩悩六根の為めに妨げられたる其方そちの心では、わがことはえ分るまいが、古き法類ぢや、少時しばしわがいふことを聞かれよ。其方とわれとはふとしたる奇縁により、兄弟も及ばざる交を結びたりしが、かの時誓ひし言の葉は、まだえ忘れは致すまいがな。
長順 ふつ。
乗円 大恩教王の御教は日月輪にちぐわつりんの如く明かれども、波羅密多はらみたの岸は遠く、鈍根痴愚の我等風情に求道の道は中々の難渋、それ故に互にいさめ励まし、過あれば戒めらし、よしやあゆみは遅からうとも、いやさ精進懈怠しやうじんけたいはあるまいと、誓ひし言葉を覚えて居やるか。
長順 如何にも忘れは致さないが……
乗円 さらば長順。無慙なれども其方そなたが止観を曇らする邪見の源を断ち呉れむず。南無阿弥陀仏。(右手にて腰なる如意を取り、長順の額を打つ。)護法のしもと、斬魔の剣ぢや。
所化等『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と唱へ乍ら、杖を以て長順を打つ。舞妓白萩をろをろとして之をかばふ。長順倒る。やがて沙門の一行、列をなして上手の方に退く。
第一の所化 (長順を顧みつつ)やい、長順、荘厳光明の究竟道くきやうだう、般若波羅密多には行きもせえで、女人によにんの袖に隠るるとは、はて、さて、おぬしたちに善う似合うた邪宗門の勤行よな。
衆僧列をなしおもむろに上手より去らむとす。
学頭 白衆等聴説はくしゆうとうちやうせつ黄昏無常偈くわうこんぶしやうけい
所化等 此日己過しじつきくわ命即衰減べいせきすゐげん如少水魚じよせうすゐぎよ斯有何楽しいうからく
長順 (傷に呻きながら後へより衆僧に呼びかく。)やよ、人々。などて、いたづらに古人の教にちやくしておぢやるのぢや。此不思議を見ざるか。この不可思議を。
門内の悲しき楽音に交はりて小鐘声。
所化等 諸衆等、当勤精進たうきんせいしん如救頭燃じよきうとうてん但念苦空たんでんくこう無常勤慎ぶしやうきんしん莫放逸ばくはういつ
長順 (蹌踉よろめきながら立ち上りて、南蛮寺の門扉に至り倚る。)おお、この不可思議に酔はいで、何の妙、実相がおぢやらうものか。心の底に生まるる赤児の声は、いつもこの不可思議にこがれて泣くのぢや。
所化等のうち、或は首をめぐらして長順を顧るものあり。
学頭 (所化等に)天魔波旬の誘惑まどはしに、方々は心を労すると見ゆるな。
長順 新なる不可思議の泉にあこがれて泣くのぢや。(倒る)
学頭 衆生無辺誓願度しゆじやうむへんせいぐわんど、煩悩無辺誓願断、法門無尽誓願知、無上菩薩誓願証。
所化等 南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。(沙門等ことごとく上手より去。)
白萩 源さま。――あれ源さまとしたことが、もう声は聞こえぬさうな。まをし源さま。源さまいのう。
長順 (立ち上らむとする如くにして、また倒れ伏す。)おお、この不可思議にこがるるわ、不可思議にこがるるわ。(声次第に弱る。)
白萩 あれ、源さま。まだ言葉は聞こえるかいのう。源さま。源さま。
長順 (細く目を見開き)お鶴どのか。
白萩 (泣き伏しながら)あい、鶴ぢやわいのう。
長順 やよ、お鶴どの。四辺あたりに人は見えぬかいな。
白萩 (四下を見廻して)いやいや、誰も見えぬわいな。今宵は月も出ぬさうな。
長順 やよ、お鶴どの。もそつとちか其方そなたの耳を貸しや。
白萩 あい。
長順 (言葉を改めて)やよ、鶴。昔其方そなたに恋ひこがれた、あの時の心がいとしいわい、あの時あの恋がかなうたなら、何も不可思議は欲しうは無かつたのぢや。(長順瞑目す)
門内の鐘声、小鐘声を以て終る。
(明治四十二年二月)

底本:「現代日本文學大系 25 与謝野寛・与謝野晶子・上田敏・木下杢太郎・吉井勇・小山内薫・長田秀雄・平出修 集」筑摩書房
   1970(昭和45)年4月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第13刷発行
※底本に見る送り仮名の不統一は、ママとした。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:福岡茂雄
校正:松永正敏
1998年6月28日公開
2006年3月20日修正
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