さて、いよいよ話が決まりましたその夜、父は私に向い、今日までは親のそばにいて我儘わがままは出来ても、明日からは他人の中に出ては、そんな事は出来ぬ。それから、お師匠様初め目上の人に対し、少しでも無礼のないよう心掛け、何事があっても皆自分が悪いと思え、申し訳や口返しをしてはならぬ。一度師のもとへ行ったら、二度と帰ることは出来ぬ。もし帰れば足の骨をぶち折るからそう思うておれ。
 うちに来るは師匠より許されて、盆と正月、一年に二度しかない。またこの近所へ使いに来ても、決して家に寄る事ならぬ。家へ帰るのは十一年勤めて立派に一人前の人に成って帰れ。……とこういい聞かされました。
 そして、父は再び言葉を改め、
「今一ついって置くが、中年頃に成っても、決して声を出す芸事は師匠が許しても覚えてはならぬ。お前の祖父はそのために身体を害し、それで私は一生無職で何んの役にも立たぬ人になった。せめてお前だけは満足なものになってくれ」と涙を流して訓誡されました。
 この事だけは私は今によく覚えております。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:山田芳美
校正:土屋隆
2006年1月15日作成
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