床屋の話が出たついで故、ちょっと話しましょう。当時の髪結床かみゆいどこは、今のようにざっぱりしたものではなく、特にこういう源空寺門前といったような場末では、そりゃ、じじむさいものでした。
 源空寺門前という一町内には、床屋が一軒、湯屋ゆやが一軒、そば屋が一軒というようにチャンと数が制限され、その町内の人がそのお華客とくいで、何もかも一町内で事が運んだようなものであります。で、次の町内のものが、その床屋へ飛び込むと、変な顔をして謝絶ことわったりしたものです。
 床屋はちょっと今のクラブのような形で、一町内の寄り合い所なり遊び場でありました。
 床屋の主人は何んでも世話を焼いて、此所ここで話が決まるという風。お祭礼まつりの相談、婚礼の話――夫婦別れの悶着もんちゃく、そんなことに床屋の主人は主となって口を利いたものです。
 床屋は土間どまで、穴の明いた腰かけの板に客が掛け、床屋は後にまわって仕事をする。側に鬢盥びんだらいというものがあって、チョイチョイ水をつけ、一方の壁には鬢附け油が堅いのとやわらかいのとを板に附けてある。客は毛受けうけという地紙じがみなりの小板を胸の所へささげ、月代さかやきを剃ると、それを下で受けるという風で、今と反対に通りの方へ客は向いていた。
 夜分やぶんは土間から、一本の木製の明り台が立っていて燈心の火が細くともされていた。でも、結構、それで仕事は出来たもの。すべて何店によらず、小さな行燈あんどん一つを店先に置いて、それで店の人の顔も見えれば、書き附けの字も見えたものだ。明るさにおいても、ちっとも今とは違いはしなかった。燈火ともしびが明るくなればなるほど、人間の眼が暗くなるので、昔はそれでよかったものです。

 湯屋では、八ケンというものが男湯と女湯との真ん中にいていた。柘榴口ざくろぐちくぐって這入はいるのです。……柘榴口というのは、妙な言葉だが、昔から、鏡磨かがみとぎ師は柘榴の実を使用つかったもの、古い絵草子などにも鏡ぎの側には柘榴のがよくいてある……でその名の意は、かがみ入る(鏡入る)の洒落しゃれから来たもの、……むかしはすべてこうなことをいったものです。
 床屋は大人おとなが三十二文、子供は二十四文、湯屋は八文であった。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:山田芳美
校正:土屋隆
2006年1月15日作成
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