三月十五日は三・一五の記念日だから共産党の公判を傍聴に行こうとお友達○○○さんに誘われました。わたしはこれまで新聞で公判のことをときどき読んでいましたが、どうもよく本当の様子が分りませんでした。正直に云うとこわいもの見たさのような気もあって○○○さんと一緒に東京地方裁判所へ出かけました。
 分りにくい建物の細い横のようなところから廊下をとおって、先ず公衆待合室というところへ行きました。外見は立派な役所に似ず薄暗いきたないところに床几が並んでいます。そこにもう二十人近い男女のひとが来ていましたが、初めてこういうところへ来て私が珍しく感じたことは、来ている人の多くが元気な眼つきをして互に挨拶したり話しをしたりして、ちっとも普通に裁判所と云うおっかないところに来ているようでもなくのびのびしていることでした。私は馴れないからショールを手にもって立っていたら○○○さんが「こっちで傍聴券貰いましょう」というのでついて行くと、又妙な階子段をのぼって、行けそうにもない衝立のすき間のようなところを抜けて、今度は石敷の大階段のある広いところへ出ました。そのガランとした廊下にテーブルを出して二人の巡査の見張っているところで傍聴券を貰いました。何にもききません。右手に証人の控室というのがあって、そこに、さっき薄暗い控室にいたひともやがて来ました。○○○さんが私に「ちょっとあれが渡政のおかあさんよ」というのを見ると風邪でもひいているのでしょう、のどを白い布でまき、縞の着物を着た半白の五十越したおばさんが、蒼白いけれどそれは晴れやかな若々しい様子で隣の、これもなかなかしゃんとした小母さんと話しています。やや乱れかかった白髪と、確かり大きい口元や体のこなしに漂っている若々しさとの対照が、つよく私の眼にのこりました。
 やがて巡査が入って来て、小さく切った紙を一枚ずつそこにいる人々にくばって歩きました。その紙に住所姓名職業年などを書くのだそうです。○○○さんが帯の間にはさんで持って来ていた鉛筆でそれぞれ書き込み、職業というところでゆきつまりました。失業中なのです、(何と書こうかしら)と云ったら○○○さんが「失業と書きなさいよ。貴女がわるいんじゃあるまいし」と云うので、失業と書きました。さっき紙をわけた巡査がその紙をうけとって書いてあることをよんでから、「一寸立って下さい」と云い、立つと袂をいじったり、帯をなでたりして軽く身体検査をやります。若い男のひとが鳥打帽をかぶっていたら、それをぬがせて、手の中に揉んでしらべました。
 その室から今度は大階段に向っての廊下にみんな二列に立ちました。そして、病院の廊下のような感じのあるところから公判廷に入りました。
 私は、これまでこんな熱心さで振りかえっているいくつもの人々の顔というものは見たことがありません。党員たちは裁判官の並んでいる下のところに幾側にも並んで腰をかけているのですがズックリと顔をこっち入って来る傍聴人の群の方へふり向け、或る人は互に合点うなずき合って挨拶しているし、そうでない人も実に眼を張って入って来るものを眺めているのです。私は、可笑しなことですけれど、その瞬間、自分もみんなと知り合いのものであるような近しい気がしました。
 党員の人たちは普通の着物です。一段高いところにちょこなんと首だけ出して、古くさい法官帽に涎かけのような模様のついた服を着た裁判官がパラ・パラ着席しています。看守や巡査が多勢います。丹野せつ子やその他二人ばかりの婦人闘士の姿も見えます。
 傍聴人が席についてしまうと、宮城裁判長が、鼻にかかった声で不明瞭に何か云いました。すると党員の中から一人の男のひとが立ち上り堂々と演説をはじめました。杉浦啓一でした、「この間の選挙のとき獄内で、立候補したひとよ」と○○○さんが教えてくれました。杉浦啓一は力づよい、飾りない言葉で第四年目の三・一五を記念し、ブルジョア・地主のひどい政府が、どんなに党員たちを苦しめるか、死ねがしに扱うか、いやいや現に党員の誰とかを警察のコンクリートの床になげつけて殺した事実をあげて、政治犯人即時釈放を要求しました。監獄の病舎は、南側の日当りのいい方はただ歩く廊下にしてあるのだそうです。日の当らない北側だけが病室にあてられているときいて、私は憎らしい気がしました。四年間に二十七名の党員たちが死んだ[#「死んだ」は底本では「死んた」]のだそうです。よくバスの車掌さんなんかで警察へつかまると、スパイが迚も拷問し、しかも女として堪えられないような目にあわす話をききますが、みんなそれは嘘でない証拠がここにあると思いました。
 監獄では何ぞというと懲罰をくわすのだそうです。革命記念日にくしゃみをしたと云って懲罰をくったと杉浦啓一が云ったら、みんなドッと笑い傍聴人まで笑いましたが、法官帽の連中はどんよりした顔で別に笑いもしません。大体気力のない様子です。
 杉浦啓一が、革命の完成の日を見ないで敵の手に倒れた二十七名の同志に、謹で敬意を表すと云ったとき、私は何だか体が寒いようになりました。
 次に、又宮城裁判長が眠たげな声で何かいうと、今度は絣の着物を着た若い男の人が小さい机を前にして立ち上りました。それは高岡只一という人です。裁判長が、高岡只一がモスコウの共産大学にいた間に何をしていたかと一言云ったらモスコーの学生生活の一番の特長は、それがいつでも大衆の活々した日常生活と結びついているところにあると云うはじまりで、細かくソヴェト同盟の失業と搾取のない労働者の生活、政治上の権利、ソヴェト同盟の工場学校、労働者クラブ、社会保険のことなどを演説しました。
 この高岡という闘士は十一歳の時から硝子工場でちゃんとした寝どこさえ与えられず働き、後旋盤工として働いていたのだそうです。そういう経験をもっていて労働者農民の国ソヴェト同盟の暮しを見たのだから、プロレタリアートの国ソヴェト同盟では、国庫全額負担の失業手当があり、養老保険があり、小学校から大学まで労働者にとっては無料であると語る時、なみなみでない情熱が感じられ、私は自身失業の身ではあり、思わずのり出して聴き入りました。ソヴェト同盟の工場には工場学校があって、そこでは本当にプロレタリアの技術を高めるために勉強がされている。十六歳までの青年は六時間以上の労働はすることなく、しかもそのうち三時間は工場学校で勉強して、六時間分の給料を貰うのだそうです。勿論女も男と同じ労働に対しては同一の賃銀で、産前産後四ヵ月の有給休暇を貰う。無料の産院がある。そして、昔はブルジョアや貴族がもっていた別荘を、今は労働組合の「休養の家」として、そこへ休暇にゆく。「では、何故ソヴェト同盟において、労働者はかくの如く生活するかと云えば、政権を労働者がとっているからである」そう高岡只一は云いました。聞いていて全くだと思わずにはいられませんでした。ただ一つ、工場学校を比べて見ただけでも、ブルジョア国の工場学校とソヴェト同盟の工場学校との違いはどうでしょう! ソヴェト同盟では、本当に強い、社会主義の世の中を建設してゆく闘士をつくるための工場学校です。日本の工場学校と云えば体のいい徒弟養成所か、さもなければ製糸所の女工さんなどをプロレタリアの女として目ざまさない為に、いろんなブルジョアくさい女学校の型ばかりの真似をして、役にも立たない作文だの、活花だの、作法だので労働の中から自ずと湧く階級的な心持を胡魔化すのです。さもなければ、後藤静香の勤労学校のようにひどい山師の儲け仕事なのです。
 それから又、高岡只一はソヴェト同盟の裁判と監獄についても語りました。ソヴェトの裁判が公開であるということ、監獄が、後れた労働者をよい労働者に仕上げて出すためのところと考えられているということ、獄衣などないこと等、こまかく一つ一つ日本の有様とひき比べての演説は実に聞いていて飽きません。たとえば共産党の公判が、一応は公開だが、真実は暗黒裁判であると杉浦啓一も高岡只一も云いましたが、私にもそれはそうだと思われました。このようにためになり、あますところなくソヴェト同盟について、プロレタリアが政権をとったらどういう世の中になるかということを話されるのを、大衆が職場から団体で押しかけてでも来て聴けるとしたらどんなでしょう! また、この眼で凋びた顔をして可笑しげな帽子をのせているブルジョア裁判官と、雄々しくプロレタリアの幸福のために闘う闘士たちの姿とを比べて見たとき、われわれの心に湧くのはどんな力でしょう! いろんな新聞は、宮城裁判長が大変偉そうに書いているが、それは事実でないということが暫く公判をきいていると私でさえ分りました。何と云うか、てんで相手ではないんです。高岡只一がモスコーで支那人かと思われた。と云うといろいろ為になる陳述の間は質問一つせず静まりかえっていた宮城裁判長が、例の鼻にかかった声で「ヨーロッパで日本人が支那人に間違えられるのは珍しいこっちゃない。どこででもそうだ」とやっと半畳を入れます。すると高岡只一はすぐ「そうだそうですね。しかしモスコーで、労働者が支那人かときくのは、他のブルジョア国でのように軽蔑してきくのではない。支那革命に対してそれだけソヴェト同盟の大衆が注意を払い支持しているということの証拠である」と、はっきり大衆の立場から、裁判長の半畳を訂正します。もう何とも裁判長は音が立たないのです。高岡只一が凡そ四時間に亙って陳述した間、裁判長はただ数度小さい言葉尻をとらえて、それで威厳でも示そうとするようにこけ脅しめいた文句を云いましたが、誰も問題にしていない。威厳は裁判長にはないのです。党員たちの態度の方に威厳があると感じました。共産党の公判は公開ではあるが、勤労大衆に便利な日曜日には開廷されません。勤めがすんでから傍聴へ職場から動員されるように夜公判がひらかれることもありません。新聞では、こんどの帝国主義戦争がはじまってから、公判記事をまるでのせない日さえあるように狡く立ちまわっています。党員たちの闘争力と大衆の力で、形ばかりの公開公判をやっていてもブルジョア政府は、たじたじの姿を見せたくないから、公判廷の小さいこと! きっと大勢押しよせれば入れ切れないというのを口実につかうでしょう。
 私は、始めのこわいものみたさのような心持はなくなり、逆に、なぜわたし達のような働く婦人まで共産党というとおっかないもののように思わされていたかという訳がまざまざわかったように思いました。共産党がこわいのは、私たちにとってではないのです、搾取している彼等にとってこそこわい力なのです。
 渡政のおっかさんは最前列に腰かけて、時々愉快そうに笑ったり、キッと注意をかたむけたりして一つもきき洩すまいとしています。私は、演説の間思わず本当にそうだ! と手をたたきたくなったので困りました。どんな工面をしても働く婦人が公判をききにゆかないという法はないと思いました。だって、そうではありませんか。この頃わたしたちが本当にききたいと思うような講演会で中止にならないことはありません。公判で堂々と話される演説には、どんなにはっきり云われても、中止! はないのです。これだけでも、わたしらの教わることは話のほかです。
 私は失業中で切ない暮しですが、傍聴にはこれから出来るだけ度々来ようと決心しました。私を失業させたのはこのブルジョア社会です。私はそれとどんなに闘うかというやりかたを少しでも、闘士たちの闘争ぶりから学ぼうと決心したのです。あの人々は命がけで、私達が毎日闘っているものと闘っていてくれるのです。
 生意気のようですが、みなさんもどしどし傍聴に出かけたらいいと思います。もうじき四・一六の記念日ですから、私達はかたまって大勢で押しかけたいと思っています。
〔一九三二年四月〕

底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
初出:「働く婦人」日本プロレタリア文化連盟
   1932(昭和7)年4月号
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年8月14日作成
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