文章というものも生きているものだから、時代の空気といつも微妙なつながりをもって動いていると思う。
 一二年前から、誰にでもわかりやすい文章で、物を書くべきであるという気風がおこって来ている。もとより文章は、書いたひとが読者につたえたい何ものかを持っているからこそ、文字にあらわしてそれが普遍化することを求めるのだから、そういう本来の性質から云って、どういう時代にも、分りにくくて結構だという建てまえで書かれた文章は、おそらく無かったであろう。
 近頃、文章にわかりやすさの求められて来ている傾向は、従来のそういう一般的な必要が改めて認識されて来ているという単純な原因ばかりではないように見える。今の文章の平易さへの傾向のうしろには、これまでの日本の知識階級がもちつづけて来ていた知識なり、考えかたなり、生活態度、ひいては物の云いかたとしての文章に対して、一種の批評が生じて居るということが関係している。これまで日本の知識人は外国かぶれが多すぎたという概括的な判断が一部にあって、ああ云うまわりくどいような文章は日本の文章の系統ではないという反撥があって、そこで、日本らしい、はっきりした、小学校さえ出ていれば誰にでもわかる文章というようなことが云われていると思われる。そして、文章が内容なしで一行だって書かれるものでないから、文章の上でそういう時局風な主張をもっている場合、その文章のなかみもおのずから形式と一致したものをもっているのが、実際である。この傾向は、文章道の上での、よしあしの問題から、その当初に於てはるかに歩み出した現実の一面の必要を示しているものであった。其故わかり易い文章によって、そういう事物の表現を必要とする読書層の実質を、文化的に高めて行こうとするよりも、先ずその層の程度に適応して行って、そこで一定の或るまとまりに入れられたものの云い方考えかたを導こうとする態度が示された。その態度は、そういう文章を書く人々の感情に或る気負ったものをもたせて、そういう人々の文章には、独特の調子の張りがあり、一言で云えば勇ましいような断言的な口調をもっている。心に恃むところがある、ということをジェスチュアとして持っている文章である。
 そういう種類の文章のもう一つの特徴は、文章が粗大の傾きをもっていることである。大いに堂々と云われている結論なり断定なりが、十分精密強固な客観的事実の綜合の結果として、そう云われざるを得ないものであったことを文章のなかで自然と納得させて行く、という魅力、説得力を欠いている。文筆上の軍需景気とユーモアをもってゴシップに現れている武藤貞一という人が思い出されるのは、単なる偶然ではなかろう。
 日本の文脈ということについて極端にさかのぼってだけ考える人々の間には、漢語で今日通用されている種々の名詞や動詞を、やまとことばというものに翻訳し、所謂原体にかえした云いかたで使わせようという動きもある。果して、現実の可能の多い方法であろうか。日本というものの独自性の或る面、外来語でも何でもいつしか自国語にしてしまって、便利なように訛りさえして、日常の便利につかうところに、寧ろ示されてさえいると思えるが如何だろう。
 文章のわかりやすさ、無制限に数の多い漢字を整理し、複雑な仮名づかいを単純にして、子供たちの負担を軽くし、日本語の世界化によい条件をつくろうとしている国語国字改良の運動もある。これは、ジェスチュアの多い、勇ましい、そしてわかりやすい文章の続出という時代的な潮流に或る刺戟をうけつつ、その傾向とは異って、学問的に解決して行こうとする努力を示しているのである。
 作家では山本有三氏、歴史家では羽仁五郎氏などが、文化に対する良心から、自身の著作に漢字の制限と仮名使いの単純化を実行して居られる。作家、評論家などの間に比較的この技術上の関心がひろがって行かないのは、それらの人々が自分たちの職業的な習慣のなかで独善的であるというよりは、仮名づかいという純技術上の問題以前の問題により深い関心を求められているからだろうと思う。つまり、今日わかりやすい文章の必要は誰にもわかることとして、内容としてどういうわかりやすさが、真に日本の文化の成長のために必要であるかということを、考えていないものは無いと思う。文章は人間によって書かれるものだから嘘も書こうと思えば書ける。それだからこそ、文章を書く人々の真実性、人間としての善意が、常に新たな光の下で見直されなければならないのである。
〔一九三九年九月〕

底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
初出:「読書と人生」
   1939(昭和14)年9月号
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年11月30日作成
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