一

志賀の鼻を出離れても、内海とかはらぬ静かな凪ぎであつた。舳の向き加減で時たまさし替る光りを、蝙蝠傘に調節してよけながら、玄海の空にまつ直に昇る船の煙に、目を凝してゐた。艫のふなべり枕に寝てゐて、しぶき一雫うけぬ位である。時々、首を擡げて見やると、壱州イシユウらしい海神ワタツミ頭飾カザシの島が、段々寄生貝ガウナになり、鵜の鳥になりして、やつと其国らしい姿に整うて来た。あの波止場ハトバを、此発動機のアネさんの様な、巡航汽船が出てから、もう三時間も経つてゐる。大海オホウミの中にぽつんと産み棄てられた様な様子が「天一柱アメノヒトツバシラ」と言ふ島の古名に、如何にもふさはしいといふ聯想と、幽かな感傷とを導いた。
土用過ぎの日の、傾き加減になつてから、波ばかりぎら/\光る、蘆辺浦アシベウラに這入つた。目の醍めた瞬間、ほかにも荷役に寄つた蒸汽があるのかと思うた。それ程、がらにない太い汽笛を響して、前岸の瀬戸の浜へかけて、はしけの客を促して居る。博多から油照りの船路に、乗りアグねた人々は、まだ郷野浦ガウノウラ行きの自動車の間には合ふだらうかなどゝ案じながらも、やつぱりおりて行つた。
島にもかうした閑雅が見出されるかと、行かぬ先から壱岐びとに親しみと、豊かな期待を持たせられたのは、先の程まで、私の近くに小半日むっつりと波ばかり眺めて居た少年であつた。福岡大学病院の札のついた薬瓶を持つて居る様だから、多分、投げ出して居た、その繃帯した脚の手術を受けに行つて居たのであらう。膝きりの白飛白シロガスリの筒袖に、ぱんつの様な物をつけて、腰を瓢箪くびりに皮帯で締めてゐた。十六七だらう。日にも焦けて居ない。頬は落ちて居るが、薄い感じの皮膚に、少年期の末を印象する億劫さうな瞳が、でも、真黒に瞬いてゐた。船室へ乗りあひの衆がおりて行つて後も、前後四時間かうして無言に青空ばかり仰いでゐる私のソバに、海の面きり眺めてゐた。
時々頭をモタげると、いつも此少年の目に触れた。大学病院へ通つてゐましたか、ぐらゐの話を、人みしりする私でもしかけて見たくなつた程、好感に充ちた無言ムゴンギヤウであつた。島の村々を、※[#「魚+昜」、90-10]・干し鰒買ひ集めに、自転車で廻る小さい海産物屋の息子で、丁稚替りをさせられてゐる、と言つた風の姿である。其でゐて、沖縄に四十日ゐて、渋紙から目だけ出してゐる様な、頬骨の出張つた、人を嘲る様に歯並みの白く揃うた男女の顔ばかり見て暮した目のせゐか、東京の教養ある若者にも、ちよつとない静けさだと思つた。なる程、壱岐には京・大阪の好い血の流れが通うてゐる。早合点に、私は予定の二十日ハツカは、気持ちよく、島人と物を言ひ合ふ事の出来さうな気を起してゐた。
此島では、つひ七十年前まで、上方の都への消息に「もしほたれつゝ」わびしい光陰の過し難さを訴へてやつた人たちが住んでゐた。「愍然想リンギヨギヤつてくれせや」と磯藻の様になづさひ寄る濃いナサケに、欠伸を忘れる暇もあつた。幾代の、さうした教養ある流され人の、潮風あたる石塔には、今も香花を絶さぬ血筋が残つてゐる。此静かな目は、海部アマや、寄百姓ヨリビヤクシヤウの心理をつきとめても、出て来るものではないだらう。「島の人生」に人道の憂ひを齎した流人ルニンたちは、所在なさと人懐しみと後悔のせつなさとを、まづ深く感じ、此を無為の島人に伝へたであらう。
此島人が信じてゐる最初のやらはれ百合若ユリワカ大臣以来、島の南に向いた崎々には、どの岩も此岩も、思ひ入つた目ににじむ雫で、濡れなかつたのはなからう。都びとには概念であつた「ものゝあはれ」は、沖の小島の人の頭には、実感として生きてゐた。少年の思ひ深げな潤んだ瞳は、物成モノナリのとり立てにせつかれたゞけでは、島の世間に現れようがなかつた。其は憧れに於て恋の如く、うち出したい事に於ては文学を生む心に近づいたものである。
だが、其が民謡の形となるには、別の事情が入り用であつた。島には其要件が調うてゐなかつた。島の開発は、わりあひに遅れてゐた。唄も楽器も踊りも、地方ヂカタで十分芸道ゲイタウ化した時代であつた。特殊な伝統もない島の芸術は、皆、百姓と共に寄つて来た。祭礼も宴会も儀式も、必しも歌謡を要せなくなつた時代に始まつた文明は、後々までも、固有の歌を生まないものである。動機もあり、欲求もあつて、其様式がなかつたのである。地方ヂカタから伝はる唄を謳ふ位では、其が新しい音楽を孕み、文学を生み落す懸け声にはならなかつた。悲しんでも、其を発散させる歌もない心は、愈、瞳を黒くした。夏霞の底に動かぬ島山の木立の色の様に、静かに沈んで、凝つて行つた。
八木節のはやつた年であつた。又、私も「かれすゝき」のはやり唄を、二三日前、長崎の町で聞いた時分であつた。心の底に湧き立つ雲の様な調子を、小唄の拍子にでも表さねば、やり場のない様な気分の年配である。まだ病後のをつくうさが残つてゐるのかと思ふと、尠くとも目をあげた顔には、一面、若い快さを湛へてゐるではないか。ふなべりにかけた腕も、投げる脚、折り立てた膝も、すべて白飛白が身に叶ふ如くさつぱりと、皮帯のきりゝとした如く凜として居る。よい家・よい村・よい社会を思はせる純良な、少年の身のこなし、潤んだ目に、まづ島人の感情と礼譲とを測定した事であつた。
私の空想が、とんでもない方へ行つてゐる間に、此若者の姿が見えなくなつた。※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68)ふなまどの下から、両方へ漕ぎ別れて行つた二艘の一つに、黒瞳の子は薬瓶のはんけちの包みをさげて、立つてゐる。瀬戸の岸へ帰るのだ。此島にゐる間に、復此壱岐びとの内界を代表した目の主に、行き会ふこともあるだらうか。幾年にもない若々しい詩人見たいな感情をおこして居ると、旅の心がしめつぽくなつて来る。そんなことはよしにして、まあ初めて目に入る、島国の土地の印象を、十分にとり込まう。

     二

裏から見た港の町の寂しい屋並みの上に、夏枯れ色の高い岡が、かぶさりかゝつてゐる。ウシトラが受けた山陰ヤマカゲの海村には、稍おんもりとカゲりがさして来た。まだ暗くなる時間ではないがと※(「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1-91-13)ノゾきこむ機関室のぼん/\時計は、五時に大分近よつたと言ふまでゞある。少し雲の出て来た様子で、蹄鉄形カナグツガタの入り海の向う側の鼻の続きの漁師レフシ村は、まともに日を受けて、かん/\と照らされ出した。此黄いろい草の岡にも、強い横日がさして来た。其山の上へ、白い道がうね/\と登つて行つて居り、ぽつ/\と小さな墓が散らばつて見える。二三个処、旧盆過ぎて、まだなごりの墓飾りがちら/\する。絵巻物のまゝの塔婆の目に入るのも、なほ此海島に続いてゐる、古風にひそやかな生活を思はせ顔である。其阪道を、自転車が一台乗りおろして来た。あの上は台地だと言ふ事が察せられる。此が十分二十分とは言はない間、見上げて居た高台の崖の側面の村の全面に動いた物の、唯一つである。かう思うて来ると、島の社会のカソけさに、心のはりつめて来るのが感じられる。
花やかな色で隈どつた船が二艘、大分離れて、碇を卸してゐるのは、烏賊釣りに来てゐる天草の家船エンベだ、と教へてくれた。其は、機関の湯を舷に汲み出して、黒い素肌を流して居る船員の心切ぶりだ。出稼ぎに来て、近海で獲つた魚類は、皆壱州の三つ浦――郷野浦・勝本と此蘆辺――で捌いて、金に換へる。其で、目あての獲物が脇の方へ廻る時分になると、対馬へなり、地方ヂカタへなり行つて、復そこで稼ぐ。壱岐のれふしだつて、やつぱりさうであつた。対馬から朝鮮かけて、漁期には村を出払つて、行つてゐる。土地に始中終しよつちゆう居て、近海ばかりをせゝくつてゐるのは、蜑の村の人たちである。其でも近年は、朝鮮近海へ出て行く者も出来た。
こんな話を聴いてゐる中に、地方行きの荷役をすませ、きまつた時間のありだけ、悠々と息を入れてゐた火夫は、なた豆のきせるたばこ入れに挿んで、立ち上つた。
海鴉と言ふ鳶に似た鳥が、蚊を見る様に飛び違ふ中を、ほと/\と汽鑵の音立てゝ、磯伝ひに、島を南にさがつて行つた。ひやついて来たのは、風が少し出たのである。船の大分横ぶれし出したのは、波が立つて来たのである。今晩あたりは一荒ヒトアれ来るかなあなどゝ、まだ船に残つてゐた客は、あがる支度を整へて、甲板へ出て来て、噂しあうた。
島の東岸、箱崎・筒の磯には、黒い岩と、灌木の青葉と、風にれ/\になつて、木の間に動く日の光りとが、既に、夕陽ユフカゲを催してゐた。日がちり/″\に縮まつて、波も沈んだ色に見え出す頃、金白礁カナシロセの薄雪のかゝつた様な岩肌が、かつきりと、目の前に浮んで来た。他国タビから来た人と見て、慇懃に、さつきから色々な話を持ちかけて来る六十恰好の夏外套着た紳士は、白い髭を片手間にしごいてゐる。此金白礁といふ岩は、壱州の廻りに幾つもある。海の中につき出た黒い岩などが、頭から三盆白でもふりかけた様になつてゐる。
『湯本温泉の沖にあるのが、一番見事なので、此を「雪の島」と言うてゐます。昔の本には、壱岐の事を「ゆき」と書いてあるさうです。箱崎の神主の祖先の調べた、壱岐続風土記と言ふ書物は御覧か。村々の役場や、好事家が借り出したきり返さず、其あとの家にも、欠本のまゝになつてゐます。なに、東京の内閣文庫で、完本を見た。なる程、向うにもあることはあるさうです。が、地理に関した点ばかりのゴクき書きで、役には立たぬ本だと、島から東京へ調べに行つたものが申しました。
郡役所の手で一つにとり寄せたら、と仰言るか。尊卑を弁へて、礼儀正しいわりには、自由思想がありましてね。昔から、町人なら町人、百姓・漁師なら百姓・漁師で、其仲間中の礼儀を守つて居りますし、其腰の低さ、語の柔かさ、とてもよそホカには見られますまい。此は、当国へ渡つた流され人が、大抵身分のよい、罪状も悪くなかつたもので、上方の長袖、殊に、房主が多かつたものですから、其感化です。寺に住みついたのもあり、村方に預けられたのもありますが、島の人の教育は、大抵、流人がしてくれたのです。モトからもわりあひに、純良な住民ではあつた様です。
九州や中国の大名の一族の逃げこんで来たのもあります。そんなのがあちこちの小高い場処に御館所オタチシヨを開いて、タチを構へ、配下の者を支配してゐました。其外、唯のより百姓があり、町人があり、海部アマがありしますが、一触ヒトフレ・一字の親しみは、非常なものです。御館の下の村でも、御館の主の外は、平等であつた。まして、其以外の階級では、誰が上の下のと言ふ区別は、あまりなかつたのです。士分の制度もありましたが、此は旧郷士を平戸藩で認めて、とり立てたのです。其が後々には、藩の財政からわり出して、士分の者を作ることになりました。一定の金額を上納した者、海産物(主として鯨・鰒・海藻)の事情に通じて、才幹のある算筆に達した者、さう言つた者を、平戸物産局配下の役人として、士分扱ひをして、八十石以下の給分をくれたのでした。此が物産の為一方の、謂はゞ藩の手代見た様な者に過ぎないのです。平戸の城代は、郷野浦のウヘ武生水ムシヤウヅおたち山に来てゐたのですが、此とは何の交渉もありません。
古い意味の士分の家に対しては、歴史的に関係のある村方・浦方の人々は尊敬を失ひませんでした。が、新しい物産の為の士分の者に対しては、別段、主従・親方子方の感情も持ちませんでした。其に此処では、班田制度が、尠くとも戦国以後、ずつと行はれてゐたものと見えますが、此をわりと言うて、明治七八年まで続いてゐました。浦方の町人や蜑は、職の上から平等ですし、田を班けられる村方の百姓は、均しくわりあてられる事になつて、二十三年目位には、一切の事情が元に戻るのでした。其で、仲間うちには、極近代までは富みが平均してゐましたし、競争嫉妬など言ふ事がなかつたのです。其で自然、士分の人にも平等に近い態度で接し、仲間どうしは、勿論高下なくつき合うて居ました。
其が、さうした流民から得た謙譲の教へを、まともにとり込んだ素地になつたのです。どうも、私どもさへ、優美でもあり、平和でもあると誇りに感じます。譬へば、他人の家へ行つて、暇を告げる時の挨拶に言ふ「おきばりまつせ」「おいざと」などが、其です。夜戻る時は、「お寝敏イザトく」と、農村生活に夜の災を相戒める慣用句「おいざと」を使ひますし、唯の場合には、近所へ出かけても「おきばりまつせ」です。「お気張りませ」でありまして「努力して、家業に服し給へ」と言う風に、考へられてゐる様です。が、此は「努力して餐飯を加へよ」の意で「元気を出して、益健康にいらつしやい」の義だつたらしいのです。かうした旧生活の俤が、いまだに残つてゐる位です。昔から続けた組織以外の新しい階級などは、頭に入りにくいと見えます。だからマウ一息、郡役所の権威は身に沁みない様です。』

     三

もう船は、島の南側に廻つてゐた。見るから暗礁カクレバエの多かり相な、石田・初山の前海である。気ぜはしない震動を船体全体に響かしながら、走つてゐる。
『違ひましたら、お免しまつせ。黒崎の神官さまの、東京にお出でる兄息子様でおいでまつせんか。』
瞬間、とんでもない人違ひに当惑させるやうな、だしぬけの問ひをかけながら、話仲間に割りこんで来たのは、四十そこ/\の湯帷子ユカタがけの、分けた頭に手入れの届いてゐる点だけで、相当な身分を思はせる人だ。私は「いゝえ」と答へる下から、その私のとり違へられた当人が、一面識のある人なのに考へ当つた。私のなぢみ深い学生の兄さんで、くろうと好みの新聞の、而も、経済方面に務めてゐる人である。
かうしたことで、さびれた輪廓を、私の心に劃しつゝ居る此島から、あゝした専門の人も出たのかなあ。こんなこみ入つたことを、咄嗟の聯想に思ひ浮べた。私を初めての島渡りだと知つた、此中年の良い闖入者は、もう暗くなりかけた見上げる様な崖の入り込みを、あち見こち見して「此辺では、御座りませんでしたらうか」と老体の方に相談かける様な調子で言ひかけながら「ちよつと見えまっせんが、柱モト岩といふのが、どれ/\あなたのお持ちの地図の――と、こゝに載つてますね。此岩が、ちようどあのあたりになるのですが、一度見たきり長くなるので」と言ひながら、聞かしてくれた話が、ハヤ、蒼茫として来た波の上にも、聴き耳立てゝ、相槌うつ者が居る、そんな心持ちを起させた。此気分の、私に促した不思議な幻想がとぎれない中に、もう来た。駆逐艦が二艘かゝつてゐる川尻の様な処から、長い水道を這入つて行つた。郷野浦である。外光の中で、人顔も見えぬ位になつても、町にはまだ、電気が来ぬらしい。泊り舟の一つに、蚊やりの燃え立つてゐるのだけが、何の聯絡もなく、古い国、古い港に来たなあ、と言ふ感じを唆つた。
はしけに移つて、乗つたかと思ふと、すぐ岸の石段にあげられた。私に、壱岐の島の民間伝承を調べる機会と、入費とを作つてくれたのは、此島を出た分限者ブゲンシヤで、島の教育の為に、片肌も両肌も袒いでかゝつてゐる人である。此人の教へてくれた宿屋へ、両手に持つた大きな旅かばんを、搬んでくれる車も見えなかつた。船の上り場の立て石の陰から「お荷物持ちまっしゅか」と声をかけて、歩き寄つた女の人があつた。船の中の少年を、五十前後のお婆さんにした様な全体の感じ、お歯黒をつけた口元、背中にちんまり結んだ帯の恰好、よほど暗くなつた、屋並みはづれの薄明りで、はつきり見てとつた様な気がする。此人に荷物を負はせて、案内させながら、道々、豊かな予期がこみあげて来るのを、圧へきることが出来なかつた。再、此島こそ、古い生活の俤が、私の採訪に来るのを、待ち迎へてゐてくれたのだ、といふ気がこみ上げて来た。其先ぶれが、あの少年となり、蘆辺浦の風景となり、東京戻りの壱州人とのとり違へとなり、此中婆さんとなつて、私の心に来てゐるのだ、と言ふ気がして、此港の町の狭い家並みに、見る物すべてにタノモしい心が湧いた。
私の宿は、郷野浦の町を見おろす台地の鼻にあつた。座敷の縁に出て、洋服のづぼん吊りを外してゐる時に、町の上のくわつと明るくなつたのは、電気が点いたのである。けれども私の部屋には、電燈がなかつた。次の間にも、玄関にもない。竹の台らんぷが、間もなく持ち出された。私の前に坐つて、飯をよそうてくれる若い下女の顔。茲にも亦、柔らいだ古い輪廓と、無知であつて謙徳を示すまなざしとが備つてゐた。下女は、私の問ふに連れて、色々な話を聞かせた。
下女の家は、郷野浦から、阪一つ越えた麦谷ムギヤといふ処にあつた。旧盆には、麦谷念仏と言ふ行事が行はれた。引率者の下に島渡りした、御館配下の古い村々以外の、新しいより百姓等の作つた在処々々では、此処へ霊祭りに来たのであつた。さうして、島の村々の歴史の目安となる念仏修行も、今は他村からは勤めに来なくなり、島の故老――恐らく二代三代前の者――すら、麦谷念仏の由来を知らぬ様になつて居た。
下女は又、河童が人間の女にばけて、お館の殿と契りを結んで、子を生んだ後、見露されてカハに飛び入り、海へ帰つた水界の信太妻シノダツマの話を伝へる、殿川トノカハ屋敷の古いカハの、今も麦谷にあることを告げた。壱岐名勝図誌で準備しておいた知識ではあるが、此国へ来ると、まだ其地に臨まない先に、実感らしいものに浮き彫りせられて、其原因が捉へられさうな処まで、ちらつき出す刺戟を感じた。明日は麦谷から渡良の蜑の村を訪ねよう。かう思ひながら、蚊帳を跳ねてほんのり黴の匂ふ、而し糊気の立つた蒲団の上に、身を横にした。

     四

此国は、生き島である。生きてあちらこちらに動いた島であつた。其故に、島の名もいきと言ひはじめたのである。神様が、此島国を生みつけられた始め、此動く島が、海の中にある事故、繋ぎ留めて、流れて了はぬ工夫をせられた。八本の柱を樹てゝ、其に綱で結んで置いたのである。其柱は折れ残つて、今も岩となつてゐる。バシラと言ふのが、其である。いまだに、八本共に揃うてゐる。渡良の大島・渡良の神瀬カウゼ・黒崎の唐人神タウジンガミの鼻・勝本の長島・諸津・瀬戸・八幡の鼻・久喜の岸と、八个処に在る訣である。
此中神瀬のが一番大きく、久喜のは柱モト岩とも言ふ。唐人神の鼻のは、要塞地帯に包まれて了うたから、もう見に行くことも出来ない。其柱の折れた為、綱も断れて、島は少しづゝ、海の上を動いて、さら(漂)けて居るのである。時々出る、年よりたちの悔み言には、一層の事、筑前の国にけといたら、よかつたらうに、と言ふ事である。折れ柱の名は、今も言ひながら、もう此伝へは、私に聞かした人以外、島の物識り・宿老も口を揃へて、そんな話は聞いたこともないと言うた。唯、神が島を生まれた時と言ひ、壱岐の島の神名「天一ッ柱」の名が、折れ柱に関係あり相なのが、後代の合理化を経て居るのではないか、と思はれる点である。
島の生きて動くこと、繋ぎ留めた柱の折れたこと、其が岩につて残つたこと、此等は民譚としては、珍らしく神話の形を十分に残して居るものと言へる。童話にもならず、英雄の怪力譚には、ならねばならぬ導縁が備つてゐるにも拘らず、さうもならずに居たのは、不思議である。百合若大臣の玄海ジマは、壱岐の国だと称して、英雄譚がゝつた物語は、皆、百合若に習合せられてゐる国である。
他の地方では、非常に断篇化してゐるあまのじやくの童話が、壱岐ではまだ神話の俤を失はずにゐる。昔「此世一生、上月夜」で、暗夜といふものゝなかつた頃、五穀豊熟して、人は皆、米の飯に小菜(間引き菜)の汁を常食してゐた。米も麦も黍も粟も皆、沢山の枝がさして、枝毎に実が稔つた。田畑の畔に立つて「来い/\」と招くと、米でも、豆でも皆自ら寄つて来て、手を卸さずとも、とり入れが出来た、と言ふ、そんなよい世の中であつた時、あまんしやぐめが其を嫉んで、一々枝をこき取つて、茎の頭にだけ残して置いた。豆をしごき忘れたので、此だけは枝が多く出る。さうして最後に、黍をこき上げた時、其葉で掌を切つた。其血が、黍の葉について、赤い筋が出来たのだ。又、田や畠に、雑草の種を蒔いて歩いた。新城シンジヤウで種袋の口が逆さになつて、皆、こぼれて了うた。其為、新城の畠は、雑草が多くて作りにくいのである。
神様――竹田番匠と言ふ――が、壱岐の島を段々、造つて行つて、竟に、けいまぎ崎の処から対岸の黒崎かけて地続きにしようとして、藁人形を三千体こしらへ、此にオコナひをかけ、はたらく様にして、一夜の中に造り上げようとした。あまんしやぐめが、其邪魔をしようと、一番鶏の鳴きまねをした。たけたの番匠が「けいまぎ(掻い曲げ)うっちょけ(ウチ置け)」と叫んだ。其で、とう/″\為事は出来上らなかつた。其橋の出来損ねが入り海に残つた。けいまげ崎である。
此話は、到る処に類型の分布してゐるもので、鬼や天狗などが、今一息の処で鶏が鳴いた為、山・谷・殿堂を作り終へなかつた、と言ふ妖怪譚に近いものとして、残つてゐる。壱岐のには、神――土木工事だから名高い番匠にしたのだ――と精霊との対照が明瞭である。国作りの形も海岸だけに、はつきりしてゐる。竹田番匠は北九州では、左甚五郎に代る程の伝説の名工なので、壱岐の島中にも、此人の作だと言ふ塔婆・建築がある。島では、たつたのばんじようだの、古くはたくたのばんしようなどゝ言ふ。
話し手によつては、鶏の鳴きまねをしたのは、番匠即神であつた。あまんしやぐめが一夜の中に、橋を渡して了うたら、島人を皆取つて殺してもよいと言ふ約束だつたのだとも言うてゐる。
藁人形は、神或はあまんしやぐめが、最後に、海と山と川(井)とにてんでに行けと言うたので、それ/\があたろ(河太郎)になつた。海に千疋、山に千疋、川に千疋のがあたろが居るのは、此為である。又があたろの手をひつぱれば抜けるのは、藁人形の手の、さしこんであつたからだ。此河童の手が人に奪はれ易いことゝ、藁人形が河童になつたと言ふ型は、古くもあり、全国的でもある。あいぬ人さへ、藁人形と水精みんつちとの事を言うてゐる。同じ西海岸の柄杓江の伝へにも、竹田の番匠と言はず、天神様だとして、同じ形式を言うてゐた。
よほど国引き神話に近づいて居るし、あまんしやぐめの嫉みも、童話に危く堕ち相な境目を示してゐる。折れ柱伝説なども、此神と精霊との争ひから、折れて出来たと言ふ形であつたのかも知れない。

     五

神降臨の譚も、色々になつてゐる。東岸筒城八幡のある辺では、八幡様、西岸の中部では、神功皇后だと言ひ、稍北によると、天神様だといふ。が、皆昔ある日の夜、船を著けて上られたものとしてゐる。此は祭りの夜、神来臨の形を、神人・巫女が毎年行うた処から出たもので、神話と其に伴うた祭礼の行事なのであつた。現に此国の住吉神社では、軍越クサゴエの神事と称する祭事に、神人が、神の威厳を以て、島の中を巡つて、呪法を行ふ事になつてゐる。此神幸の一行に遭ふのは、死を以て罰せられるものとして、避けてゐる。
処が、来住の古いことを誇つてゐる家筋では、大晦日の夜の事としたのが多い。大晦日の夜、春の用意をしてゐる時に、神が来臨せられたので、其まゝで御迎へした。其以来此一党では、正月に餅を搗かぬの、め飾りをせぬのと言ふ。又、其変化して多く行はれる形は、本土から家の祖先が来た時が、大晦日の夜で、正月の用意も出来ないで、作つて居た年縄トシナハを枕に寝て、春を迎へた。或は、餅を搗く間がなかつたとも言ふ。其で、其子孫一統、正月の飾りや、喰ひ物を作らぬのだ、と説いてゐる。此は皆、富士筑波・蘇民将来の話よりも、古い形なのである。
壱岐の国中の神社は、大体、此海から来られた神と、白鳥となつて空を飛んで来て、翼を休められた遺跡に祀つたのと、水死の骸となつて漂ひついた祟り神を斎ひこめたと言ふのと、神体が漂着したと言ふ社と四通りである。皆海を越えて来た神なる事を示してゐる。此四つの形の神は、海のあなたから、週期的に来臨する神の信仰の分岐したものに過ぎないのである。
春の用意なしに正月をする家筋は、本土にも多いが、神の来る夜に、迎へる家々の人々の、特殊な役目の家婦又は女児の外は、謹んで隠れてゐた風習の近世の合理化を経たのが、一つの原因である。春の喰ひ積みや、しめ・松の飾りを用ゐ、山草をつける風は、海から来る神の信仰の衰へた後、山から来る神に附随して行はれた様式で、村や家によつては、行はない処もあつた。其が、世間の風習にとり残された形になつた時代に、合理的な説明をくつゝける様になつて行つたのである。宮廷及び皇族では、正月松飾りをせられない。此亦、同じ理由であつた。
かうした、民譚や風習をこめた民間伝承に説明を加へて、一続きに置きなほして見ると、此国の生活が、可なり古い姿に踏み止つてゐる事が知れさうだ。
畏れ多い話だが、神功皇后の鎮懐石でも、筑前に在つたものは、巨大な二箇の石で、万葉集にまで大きさが記されてゐる。裳に挿ませられた、と言ふ書き方が婉曲すぎたので、胎中天皇御出生の途を塞がれた、と言ふ古い考へ方は忘れられた様で、腹圧への様に思はれてゐる。壱岐へ来て聞くと、其石を撤して棄てられたから、尊い王子は此時、出現ましましたのである。壱州の先覚者の中には、こんな伝へを材料にして、応神天皇壱岐誕生説を組み立てよう、とさへした人がある。九州子負原の石の二つあつた理由は、手間は要るが、説明は出来る。おほゝとをほとなど言ふ、かけまくも畏き御名の方がお出でになつたのも、かうした信仰から、英雄・女傑の資格の一つ、と考へる様な事もあつたことを示してゐる。万葉にすら判然せぬ事を、島の粗い趣味には、いまだ原義を残す古さがあつた。其石は今も、勝本の聖母シヤウモ神社の北の浜に落ち散つてゐる。白い石の尖つた先に、赤く染つた部分があると言ふ。此は、小さな石である。
国の史官が大事件として、とり扱うた史書の上の事実も、凡俗生活をくり返す、ぢべたに喰つゝいた様な人々の上には、一時の出来事として、頭を掠めたゞけで、通り去つてしまふ。蒙古軍が来て、今の島人の脈管に、此島根生ひの血の通はないまで、古い住民を根こそぎに殺して行つたと言はれてゐる。此には、大分の誇張を考へに入れてかゝらねばなるまいが、ともかくも、あんな大事件のあつた痕跡は、誰の頭の隅にも、残つてはゐない。蒙古軍の伝説はあつても、皆、昔からの鬼の話の飜訳に過ぎなかつた。李白の襄陽歌が、其だ。晋代の羊公の碑が、丘の上に台石の飾りも風化して、苔が生えてゐる。こんな状を見て、何とも感じないのは、昔、さうした謝恩の碑を建てた民の子孫であつた。物が残つてゐても、時が立てば忘れもし、印象も薄らいで行く。大嵐の様に通り過ぎた一度きりの史実が、其子孫或は其世近く移り住んだ人たちの、次の代あたりからは、もうすつかり忘れられた。さうして、もつとずつと古くから続いた、歴史よりも力強い年中行事だけが、記憶の底にこびりついてゐるのだ。彼等の歴史は、合理的に考へた民間伝承の起原説明だけであつた。あつたことゝ言ふよりは、なかつた事の反覆せられて、あつた以上の力を持つて、ある時代まで生活様式を規定した事のなごりなのであつた。
壱州の民は、対岸の九国・中国から来た者の末が多い事は知れる。今残つてゐる民間伝承の如きも、或は、其々の郷貫から将来したものも勿論あらう。が併し、壱岐の島に最古くから居残つた村々の伝承が、此島に来住した新渡民の間に、ある日常行為の規定を持つて来た事も考へてよい。土地についた物の授受、地名・道路・神精霊の所在からはじめて、特殊様式の上に、存外多くの模倣・継承が行はれた。神に就ての考へ方なども、恐らく、後世あつた如く、海の彼岸から来る神ばかりを信じた民ばかりではなかつたであらう。其が段々、一つの傾向に進んで行つたものである。五島・平戸・天草・山陰・山陽の辺土、北九州の海村、対馬・隠岐に亘る島々の中、伝承の上から見れば、五島に最類似を持つてゐる。けれども、今伝へる如く、五島の移民が島の再建の率先者と言ふ風には、考へられない。長い武家の世に、次第に渡つて来た民の外に、古く五島に別れ、茲に居ついて、更に、一部分の対馬へ行く者を見送つた人々の伝承が、近古五島から将来したものゝ様な貌をしてゐる事もあるであらう。

     六

もつと驚くべきことは、壱岐の島に伝へて居さうな予期を持つて行つて、すつかり失望させられた、壱岐の海部の占ひであつた。壱州に行はれた後世の占ひは、陰陽師配下の唱門師等の伝へたものであつた。海部なども、二部落あるが、片方の八幡蜑と言ふのは、極の近代移住したものらしく、壱州東海岸一帯の海の外潜くことは免されて居なかつた。渡良ワタラ小崎コザク蜑と言ふのは、筑前志賀島から来たと言ふ伝へがあつて、壱州を囲む海全体に権利を持つてゐた。此とて、所謂秀手ホツテウラへと称せられた亀卜に熟した、壱岐の海部の後と言ふことが出来ないもので、やはり、近代の移住と言ふべきであらう。
上代の壱岐の海部は、氓び絶えたか、退転したか、職替へをしたかの三つの中であらうが、私は、第三の方を重く見てゐる。壱州の民は、わりの班田を受ける事の出来るのと出来ないのとの二種の群居に分れてゐた。浦に住んで、漁業・航海業を認められてゐた町方の人は、其代り、わりを受ける事は出来なかつた。唯、今ある武生水村郷野浦の端、山陰にある本居モトヰの村は、郷野浦の本拠なのであるが、此はれふし村とは言ふが、蜑に近い扱ひを受けてゐた。班田に与る事の出来ないと言ふのも、稼業の性質として、田が作られないからではない。片手間に農作をする例は幾らもある。自家の収獲なる海産物を持つて出て商ふ事から、蜑の家の女は次第に商業に専門になつて、男蜑ばかりの小崎の様な形式が生じた。男は潜きの外に、いざり(沖漁)に熟して、蜑よりも漁師に傾く。
壱州では、町方マチカタ町人でない村方百姓の中、浦に沿ふ村では、わりを受けながら、漁業をも兼ねてゐた。町方で、商買のない者も多かつた。わりも与へられないのだから、村方へ卵を買ひ出しに行つたりして、商買に似た事もやつたりして、口過ぎした者もあつた。新田を開いて、わり以外に地を持つ事は許されてゐた事などから見ても、大体血統的に町人・百姓の資格が極つて居て、土地の所有権は先天的のものと考へられて居たのだ。だから、町人と村方百姓の漁業を営む者との間の区別の立ちにくい事情の者でも、村に生れた資格として、わりを受け得たのである。
島の町人の職業は、前に挙げた位の単純なものであつた。工業の方面の諸職は、志原の百姓に多かつたことを見ても、町人の範囲は極めて狭く、土地の所属決定した後代に移住した者又は、本来土地に関係のない生業を持つた者、海岸の除地に仮住してゐる者として、政治的交渉を持つことの殆なかつた者――元は、毫もなかつた――此等の群居民が、村をなし、土地の政治の支配を受ける様になつても、田はわられなかつた。此は、蜑の団体から発達したことを見せてゐるのだ。町人の普通の者で、身分の低いものを見れば、蜑との繋りが見えよう。村方の並みの百姓と同格で、町役を勤めることの出来ぬ階級をかこにん(水子人)と言ひ、又浦人とも言ふ。平戸侯の参覲には、水子カコとして、船役を命ぜられた。町人の代表階級なる、浦人が徴発せられる公役の船方なのを見ても、漁業は副業として発達したものなのが訣る。だから、浦人から分化した町人全体に、元の形は、蜑だつた姿が見えると言うてよいと思ふ。
二つの町方の町人とても、壱岐の海部の末と言ふことは出来ない。だが、小崎・八幡の蜑よりも古く、住み着いた者の後が、シンになつてゐることは断言出来る。結局、壱岐の海部の占ひは、唯書物の上だけの事になつて了うたのである。書物の上の名高い二つの事がらも、何の痕も残らぬ島の上に、何の関係もない日本武尊を言うたり応神天皇を説いたりするのも、其事蹟に似よりのある伝承が、久しく行はれて居た為、其に固有名詞を附与して、過去の信仰行事の固定か廃絶かした後、歴史的確実性を持たせようとするやうになつて来た為なのだ。村人の知識範囲に在るか、或は、多少歴史的妥当性の感じられる人や物を当てはめたと見る外はない。
壱岐の島でおもしろいことは、こんな小さな島――島の少年が、本土で受けた、此方の海岸から、投げたぼうるが彼方の海に落ちるだらう、と言ふ冷かしを無念がつた、と言ふ誇張した話も、此島を漫画化した程度の適切さを感じる小さな島国の中で、一つの系統の民間伝承が、色々な過程を示してゐる事である。ある村では、現に神幸が行はれてゐる。其半里と離れない処では、民譚化を遂げて、神幸の夜に、神に敬礼せなかつた草の、呪はれて、馬さへ喰はぬ藻になつた、と言ふ様な形になつた。其と入り海を隔てた村では、其型で神名だけが替つてゐて、ある家筋の正月行事との関係を説いてゐる。かと思ふと、東岸の村には、又神が入れ替つて、同様な話が伝はり、其一里と隔らぬ西の村には、神が歴史上の人物ではなく、家の祖先に替つて、壱州移住第一夜の事実を、今もとり行ふのだ、と言うてゐる。おなじ海の彼岸から来た神が、名高い番匠となつてゐる。左甚五郎と山姥との争ひの民譚にも似てゐる。
前に述べた原因は、今一つ奥を説かねばならぬ。海から来る神は、建築物を中心として、祝福の呪言を述べるのであつた。其で、建築に与る人が神に仮装して、普請始めなどに出た習慣が出来た。後世、番匠等が玉女壇を設けたり、標立の柱や、大弓矢などを飾つて、儀式を行ふのも、此からである。新室のほかひに来た神と神に仮装した後代の番匠との聯絡が忘れられて、飛騨の匠や竹田の番匠など言ふ、建築の名人の名を神に代入したのである。此神がえびす神になつてゐる中部東岸の村の信仰は、其神の性格と名称との変化を、最自然に伝へたもので、此神に対する京都辺での平安末からの理会でも、えびす神と言ふ事になつて来てゐる。
かうした変化の色々な段階を見せたのは、村々の伝承が、一つの標準を模倣して来ながら、又村の個性を守り、其為に局部の改造が行はれて行き又、尊重する部分が村によつて違うて来る為、廃続の様子がめい/\変つて来たからである。年中行事なども家々村々によつて、壱岐移住後の変化も、明らかに見られる。フレが違ひ、村が替ると、細かい約束が非常に違つて来る。
方言などは、其村々の本貫を示してゐる傾向が著しいが、音価の動揺・音勢点の相違・音韻の放恣な離合・発声位置の不同などから、表面非常な相違があつても、実は根元一つと見えるものも多い。単語の相違は固より多いが、此は流人の影響が非常にある。
又、音韻矯正・中央語採用などが、村々別々に行はれてゐる。此も勘定に入れてかゝらねばならぬ。殊に、蜑村の語は、島人にも訣らぬと謂はれてゐるが、単語の相違よりも、発音位置が標準発音とは大変な相違を示してゐる。放恣な離合によつて、音の約脱が盛んに行はれてゐるのである。
へんぶり<へいぬぶり<はひのぼり(這上り=上框)
くまじん<くまぜむ<くまぢぇもん(熊治右衛門)
まつらげる<まつりあげる(献上)
しまりぶし<しまいぶし<しめぃぶし<しめぐし(標串)

     七

私は、壱岐の文明に、三つの時を違へて渡来したものゝ、大きな影響を見てゐる。即、第一唱門師、第二盲僧、そして、第三は前に述べた流人である。
唱門師は陰陽師配下の僧形をした者である。其が段々、陰陽師と勝手に名宣り、世間からも、法師陰陽師などゝ言はれる様になつた。唱門師は大寺の奴隷の出身であるが、後には、寺の関係は薄くなつて行つた者もある。陰陽配下の卜部が宮廷神事に関係して、段々斎部の為事を代理する様になつて行つた。此卜部が勢力を持つ様になつて、神事が段々陰陽道化して、区別のつきにくいまで結合して行つた。
卜部がことほぎを掌つて、斎部のほかひに代るやうになつてからは、淫靡な詞章や演出が殖えて行つた。又、この卜部の祝言や演出が、宮廷外にも行はれて行つた。「千秋万歳」と言ふのが、其であつて、宮廷の踏歌の節のことほぎから出たものである。
卜部の仕丁は、固定した家筋があつたのではなく、四个国の海部から抜くのであつたが、後世は、海部の卜部はなくなつて、神祇官で、卜部氏の配下に、世襲の奴隷の様な形の者が出来た。卜部は陰陽道にも関係があつたから、神道と陰陽道とを兼ね行ふ姿になつた。
卜部氏の下の奴隷は、旧桜町の二个処に居て、叡山との関係は忘れて了うたやうになり、陰陽師の下であるが、同時に、卜部氏を通じて、吉田流の神道方式をも行うた。卜部としての為事は千秋万歳といふ名称で行ひ、中臣祓だけを大事にして、禊を頼まれる時には、陰陽師を名のつた。而も、仏法の関係を忘れては居ずして、所属した寺の仏の縁起や本地物語其他を謡ひ、「翁」を舞うたりした。其時の名が唱門師で、総体に言ふ場合も唱門師であつたらしい。此連衆の翁が、曲舞とも謂はれ、寺の縁起の演奏から出た白拍子舞も曲舞とおなじものなのであつて、千秋万歳にして、白拍子・曲舞を兼ねてゐたのである。此等は皆、千秋万歳の翁ぶりから分化したもので、幸若舞も曲舞の流であるが、亦、疑ひもなく、千秋万歳から出たものであつた。幸若舞の女舞から江戸の女歌舞妓が生れ、猿若も亦幸若の流らしい。
唱門師は、後世の演劇・舞踏・声楽の大切な生みの親である。其と共に、陰陽道・神道を山奥・沖の島まで持ち歩いた。
私は、唱門師の一部が、修験道にも関係して居たのではないかと思ふ。山伏祭文の如きは、卜部系統の物であつて、陰陽師として、祓の代りに、山の神霊に向つて胸中極秘の事を言出コチヅる。日本古代の峠の神に対した方式を、懺悔サンゲと言ふ形に理会して、表白した。其が祭文節の元なる山伏祭文を生んだのだ。唱門師で、同時に、山伏であつた様な団体が、新しい地を開発して土豪となり、諸侯の国に入つては傭兵となつて働き、呪術で敵を調伏し、又常には、芸を演じたりして仕へた。豪族の庶流の人々、亡びた国主の一族などが、かうした形式で渡り歩いた。
唱門師の壱岐へ来たのは、古い事らしい。唯今の島の社々の昔の神主は、凡、陰陽師であつて、裕福なる者は、吉田家の免許状下附を願うて、両様の資格を持つてゐた。だが、大抵は陰陽師配下のものゝ末である。陰陽道では、職神シキジン――即、役霊――の事を、後にみさきとも称へてゐた。処が、壱州に来た陰陽師の徒は、みさきを傭ふのに、簡単な方便があつた。其は、やぼさと言ふ島に多く居る精霊を、呪力で駆使する事にした。
壱岐には矢保佐・矢乎佐など言ふ社が、今も多くあり、昔は大変な数になる程あつた。近代では、どうした神やら訣らなくなつてゐるが、香椎の陰陽師の後の屋敷に一个処、みさき明神と称へて祀つてゐて、古くはやはり、やぼさであつた。志原には、陰陽師の屋敷のある岡続きに、以前崇めたと言ふやぼさが一个処ある。対馬にやぼさと言うてゐるのは、岡の上の古墓で、より神とも言ふ相である。古墓の祖先の霊で、るからのより神であらう。さすれば、壱岐に数多いやぼさは元古墓で、祖霊のゐる処と考へてゐたのが、陰陽師の役霊として利用せられる様になつたり、其もとが段々、忘却せられて来たのだらう。
やぼさの崇敬が盛んであつたことは、陰陽師の勢力のあつたことを示すものである。此徒が、陰陽師・唱門師として「島の人生」に統一の原理を教へ、芸術の芽を栽ゑて置いたことは、察せられる。志原の神主の祀る一个処には、行器の形を土で焼いた祠が据ゑてあつた。
島に僧侶の入つたのは、わりに新しい様だ。其為、島に学問の起るのは遅れた。島人の間に、今も伝つて居る百合若説経といふ戯曲は、舞の本・古浄瑠璃のではなく、いちじよと言ふいちこの類の者が語るものである。琵琶弾き盲僧も此を語るが、正式にはしない。箱崎の芳野家の「神国愚童随筆」といふ本に、壱岐の神人の事を書いて、命婦イチは女官の長で、大宮司・権大宮司の妻か娘かゞなるとある。さすれば、いちは陰陽師の妻が巫女なる例である。
いちじよやぼさ社に常に参ると言ふ。百合若説経は、弓を叩いて「神よせ」を誦した後に唱へる。さうやつて居る中に、生霊・死霊等が寄つて来ると言ふ。いちじよと陰陽師との関係から考へると、百合若説経は、唱門師が持つて来たものらしく、五説経其他の古い説経よりも「三度の礼拝浅からず」など言ふ句をくり返して、正式に説経らしい形を存してゐる。昔は、いちじよの唱へる説経がもつとあつた様だが、今では残つてもゐないし、いちじよ自身も知らない。
此外に、志原の翁は「寅童丸」と言ふ説経らしいものを諳誦して、伝へて居る。伝来は不明であるが、十二段草子系統の稍進んだ形で、古浄瑠璃小栗判官などにも似てゐるけれど、其よりは古めかしい。文の段・忍びの段・百人斬りの段などを、誦み上げるやうにして、聞かしてくれた。百人斬りは、かなりしつかりとして、力ある上に、笑はせる様な文句も這入つてゐる。此も、或はさうした系統の物かと思ふが、訣らない。
忍びの段は、屋敷・庭の叙景など細やかに、古風な姿を見せてゐるが、姫の枕元に行つてからの動作が優美でない。姫の髪の毛を分けて手に捲いて、此を琴の様に弾いて、姫を怒らせる様な事を言うたり、かたらひを遂げる処なども子供らしくて、鄙びた譬喩を使うたりしてゐる処などは、説経の改刪の径路を思はせる。
書かれた根本を語る中に、色々な入れコトを交へて来たのが、又書きとられて根本の異本が出来て来る。さうした物を、比老人も読んで覚えたものらしい。此上は幾ら尋ねても、根本の有無、口伝か書物からの記憶か、そんな事も、話を外して言うてはくれなかつた。寅童丸の語り物を知つたのは、島中に、此人一人だから、大切にする考へなのであらう。まさか、若い時分に、今は故人のいちじよの一人から深秘の約束で教へられた、と言ふやうなものでゞもあるまい。
浄瑠璃史家は、十二段草子の前に「やすだ物語」と言ふ因幡薬師の縁起を説いたものが、今一つあつて、其が浄瑠璃の最初だらうと言ふ。併し、説経は長い伝統ある物で、安居院アグヰの「神道集」なども、説経の古い形のもので、語つたものに相違なく、やはり一つの浄瑠璃であつたのだ。浄瑠璃節が固定するまでには、其系統の物語は段々あつたと見てよからう。舞の詞なども、唱門師の手にあつたものだから、浄瑠璃化せぬ訣はない。
浄瑠璃は恐らく元、女の語るもので、曾我物語などの様に、瞽女が語つたものであらう。其に仏教の唱導的意義が加つて居ない間は、まだ浄瑠璃の定義に入らないのだと思ふ。盲僧・瞽女の代りに、唱門師・巫女の夫婦が、夫は舞の地の詞として語り、妻は舞から独立した詞章として、舞の詞なども語つたので、巫女の謡ふ詞の方がもてはやされたのだらう。而も、舞の詞を謡ふだけでなく、女が進んで舞を舞ふ様になつたのは、変態ではあるが、詞章よりも舞の方が主として演ぜられる端を開いたのだ。其系統から、妻が演ずる幸若舞々と、神事舞より演じない夫の神事舞々との対偶が出来て来た。この様に夫婦ともに伝統的家職を持つといふことは、唱門師が始めではないかと思ふ。
延年舞・田楽を演じたのも、皆、唱門師であらう。天台説経を伝へた唱門師が、千秋万歳の詞章の習熟から次第に説経文句を固定させて来た。だから、古い時代の説経は、白拍子縁起の様な物の外に、口頭の話の少しく文飾を加へた様なものもあつたであらう。天草本平家物語を見ても知れる様に、既成文章・新作詞章・新作口語文と言ふ様な形が出来て、江戸初期の口語文の物語が出来たとも言へよう。
浄瑠璃と説経との根本の区別を言へば、浄瑠璃は現世利益、説経は来世転生を語るものと言へよう。浄瑠璃は主人公が女で、仏讃歎よりも、人情描写に傾いてゐ、説経は主人公が男で、娑婆の苦患を経て、転生するものである。かう言ふ大きな区別があつたのを、今残る書物では、訣らなくなつたものか。古い説経には、男女に厚薄はない。神道集の釜神・子持山・甲賀三郎の如きである。
浄瑠璃は其名から見れば、薬師仏の効験によつて、業病平癒した一部の懺悔物語でなければならぬ。だから、かたは者や業病の者の謡うた浄瑠璃如来霊験物語など言ふ「地蔵菩薩物語」類の書物で、盲目が自ら謡ふ職で、此を諷ふのは、都合よいが、安田物語などより、もつと古い浄瑠璃があつた筈だと思ふ。癩病平癒物語・餓鬼本復物語・跛行歩物語・唖発語物語、かうした物語があり、また新浄瑠璃が出来て、薬師仏に関係の全般的でない申し子の姫の一生を述べたのだ。思へば、浄瑠璃十二段草子といふ名も、十二段に綴つた一種の浄瑠璃曲の義らしい。
浄瑠璃姫の庵室といふものゝ多くあるのは、現世利益の浄瑠璃を語つて歩いた女があつたことを示し、其浄瑠璃は旧浄瑠璃曲で、死んだ浄瑠璃姫が蘇生するとでも言ふ風な物語であつたのであらう。曾我物語は、虎御前の転身と考へられる瞽女が語り歩いたのと、同様だらう。薬師信仰の時代が、地蔵信仰の時代の次に来た。病者遺棄の風に苦しんだ社会が生んだ信仰であらう。
現世でめでたしが浄瑠璃、来世を信頼するのが説経である。次に自分の歴史を語る懺悔物語がある。
なほ又、病者の自叙は浄瑠璃、そして恋愛・悪行等は祭文と、凡、区別せられる。
唱門師は、此島では優秀な地位を占めたから戸数も非常に多かつた。
山伏も茲に関聯して説いて見よう。彦山の山伏の勢力範囲なる故、後世は専ら其山伏の横暴に苦しんで、此を殺して埋めたと言ふ山伏塚が多いが、中には、山伏の築いた壇の類もあるであらう。唯、さうした修験道の行儀喧しい時代以前に、呪術に達したから、山伏の形を以て、自由に土地を求めて歩いた時代を考へて見ると、無頼の徒・山伏・傭兵・らつぱかぶき者・芸能・唱門師の有髪の者・千秋万歳、――かうした自在な形で、移り歩いたらしい。名護屋山三郎の様なのは、かぶき者・無頼漢で、芸能のあつた――其為、幸若舞の詞も、お国に伝へたらしい――傭兵風の流れ者でもあつたのだ。かうした行者側の勝つた唱門師一派或は、地方の神主・寺主の豪族が、新興の諸侯等に負けて、脱走した者なども往来した事は考へられ、又、かうした方面から、神職に転じた者もあつて多くは館の主となつたのが、此人々であらう。
盲僧は寺の乏しかつた島の村々に、一種の説明を設ける様な形で、此を配置し、本土の檀那寺に似た権利を持たせた。恐らく、江戸時代の耶蘇教禁制の結果、かうした変態な施設をしたのであらう。其為、盲目は、邪宗門徒探索の為遣されたのだ、など言ふ様になつた。其だけ、耶蘇教に替るものとして、此を与へたのだから、をかしい。地神経を弾くのが中心行事で、其儀式次第を考へると、唱門師の神道より、稍、仏教臭味の多い、山伏の行法にも近づいてゐるものであつた。
其儀式次第は、荒神祓へとも言うて、正式にすれば、可なり時間がかゝり相だ。荒神の真言から始めて、経を色々と読む。其間に島求め・延喜さん・琵琶の本地などゝ言ふ厳粛な物語がある。延喜さんと言ふのは、逆髪と蝉丸の事らしい。島求めは島を求めて、壱岐に落ちつく由来である。
荒神の真言といふのは、一種の祭文で、陰陽師の系統の、滑稽を交へた禁止の箇条を列ねる。其は、家又は田畠の害物に命令するもので、人に対しても、為てはならぬ事を挙げてゐる。田楽の詞章の戒め詞や、太秦牛祭りの祭文などゝよく似たものである。
荒神祓へがすむと、くづれを語る事がある。此が「島の人生」をどれだけ潤し、世間の広さ、年月の久しさを考へさせたか訣らない。
盲僧が百合若伝説を語ると、変が起る、と伝へてゐる。畢竟、重要視しての事かと思はれるが、陰陽師・巫女イチ側のもの故、忌んでの事なのかも知れない。くづれは、正式な平家物語物でもない様で、盛衰記と称へて、長門合戦を語つてゐる。其外は、大抵説経である。
初午の日には、招かれて「稲荷ネンじ」をする。其時は、琵琶で※(「口+穢のつくり」、第3水準1-15-21)コンクワイを弾く。此は葛の葉説教の中の文句であるが、説経を読む感じで唱へる様である。が、此は説経から出て、名高い芝居唄になつて、地唄の本にも出て、今に上方端唄として謡はれる。此説経の文句が芝居唄に採られたのは、元禄期であつた。盲僧が琵琶を三味線と持ち替へて、小唄・端唄を謡ふ座頭となつたのは、よく訣る様に思ふ。経を弾くに止らないで、本地物語を語ることが、直に、説経を唱へることになる。くづれの説経の中の小唄から出た部分や、其が著しく俗化した卑陋な端唄がゝつたものをも謡ふ様になつて来る。大体、祭文系統の呪言は、卑猥・醜悪・非礼な文句が多いのである。だから、盲僧がくづれどころか、小唄・端唄などの、世間流行のものまでも、三味線にとり入れて来た径路は明らかである。
説経其他の物語をくづれと卑しむけれど、平家物語だつて一種の説経なのだ。経を諷誦する時の伴奏の楽器を、説経にもおし拡げて使うたまでゞある。だから、古くは、説経は発生的に琵琶を伴うてゐた。義経記なども説経の系統であつた。曾我物語は楽器が違ふ点からだけでも、浄瑠璃系統だ、と言へるのだ。琵琶弾きが三味線にかけて語つたのは、浄瑠璃であらう。説経は尚暫く、琵琶を守つてゐる間に、時代に残されて、遅れ馳せに三味線に合せたと見ればよい。此が室町末の状態であつたらう。
説経の演芸化しきらない間は、琵琶を棄てなかつたであらう。三味線を手にした説経太夫が座を組む様になつて、盲僧の弾く説経までが、卑しいものと感ぜられ出した。勿論、盲僧等の諷誦する説経も旧説経でなく、演芸化し、詞章を現代化したものになつて来たのである。
盲目は祓への後で、呪言及び叙事詩を唱へた。其は明らかに、ほかひ人の演出順序を示してゐる。ほかひ人は祓への呪言の後で、神聖な叙事詩を語つた。其後に、直会ナホラヒの座で、新しい叙事詩か、古くして権威のなくなつた唯の歴史、古人の哀れでもあり、おもしろくもある伝承などを語り聞かせたであらう。其が、ほかひ人から卜部へ、卜部から千秋万歳へ、千秋万歳は同時に唱門師曲舞でもあり、幸若舞でもあつた。新猿楽記を見ても、千秋万歳のサカほかひと共に、琵琶法師も出てゐるから、夙く演芸化した盲僧もあつたのだ。盲僧が千秋万歳と同じ荒神祓へをして、屋敷を浄める様になる前に、ちやんと、演芸順序や其根本観念が融合してゐたのであつた。だから、琵琶弾きを傍証とし、唱門師を解剖して見ることは、比較研究法の上から、誤りではないのである。

底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
※「昭和二年九月頃草稿」の記載が底本題名下にあり。
※底本では「訓点送り仮名」と注記されている文字は本文中に小書き右寄せになっています。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2007年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。