抽斎は自ら奉ずること極めて薄い人であった。酒は全く飲まなかったが、四年前に先代の藩主信順に扈随して弘前に往って、翌年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。煙草は終生喫まなかった。遊山などもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。ただ好劇家で劇場にはしばしば出入したが、それも同好の人々と一しょに平土間を買って行くことに極めていた。この連中を周茂叔連と称えたのは、廉を愛するという意味であったそうである。
抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を購うと客を養うとの二つの外に出でなかっただろう。渋江家は代々学医であったから、父祖の手沢を存じている書籍が少くなかっただろうが、現に『経籍訪古志』に載っている書目を見ても抽斎が書を買うために貲を惜まなかったことは想い遣られる。
抽斎の家には食客が絶えなかった。少いときは二、三人、多いときは十余人だったそうである。大抵諸生の中で、志があり才があって自ら給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。
抽斎は詩に貧を説いている。その貧がどんな程度のものであったかということは、ほぼ以上の事実から推測することが出来る。この詩を瞥見すれば、抽斎はその貧に安んじて、自家の材能を父祖伝来の医業の上に施していたかとも思われよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはいられない。試みに看るが好い。一瞬の如くに過ぎ去った四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才伸を以て妥に承けられるはずがない。伸るというのは反語でなくてはならない。老驥櫪に伏すれども、志千里にありという意がこの中に蔵せられている。第三もまた同じ事である。作者は天命に任せるとはいっているが、意を栄達に絶っているのではなさそうである。さて第四に至って、作者はその貧を患えずに、安楽を得ているといっている。これも反語であろうか。いや。そうではない。久しく修養を積んで、内に恃む所のある作者は、身を困苦の中に屈していて、志はいまだ伸びないでもそこに安楽を得ていたのであろう。
抽斎はこの詩を作ってから三年の後、弘化元年に躋寿館の講師になった。躋寿館は明和二年に多紀玉池が佐久間町の天文台址に立てた医学校で、寛政三年に幕府の管轄に移されたものである。抽斎が講師になった時には、もう玉池が死に、子藍渓、孫桂山、曾孫柳が死に、玄孫暁湖の代になっていた。抽斎と親しかった桂山の二男庭は、分家して館に勤めていたのである。今の制度に較べて見れば、抽斎は帝国大学医科大学の教職に任ぜられたようなものである。これと同時に抽斎は式日に登城することになり、次いで嘉永二年に将軍家慶に謁見して、いわゆる目見以上の身分になった。これは抽斎の四十五歳の時で、その才が伸びたということは、この時に至って始て言うことが出来たであろう。しかし貧窮は旧に依っていたらしい。幕府からは嘉永三年以後十五人扶持出ることになり、安政元年にまた職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これを以て償うことは出来なかった。謁見の年には、当時の抽斎の妻山内氏五百が、衣類や装飾品を売って費用に充てたそうである。五百は徳が亡くなった後に抽斎の納れた四人目の妻である。
抽斎の述志の詩は、今わたくしが中村不折さんに書いてもらって、居間に懸けている。わたくしはこの頃抽斎を敬慕する余りに、この幅を作らせたのである。
抽斎は現に広く世間に知られている人物ではない。偶少数の人が知っているのは、それは『経籍訪古志』の著者の一人として知っているのである。多方面であった抽斎には、本業の医学に関するものを始として、哲学に関するもの、芸術に関するもの等、許多の著述がある。しかし安政五年に抽斎が五十四歳で亡くなるまでに、脱稿しなかったものもある。また既に成った書も、当時は書籍を刊行するということが容易でなかったので、世に公にせられなかった。
抽斎の著した書で、存命中に印行せられたのは、ただ『護痘要法』一部のみである。これは種痘術のまだ広く行われなかった当時、医中の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作った数種の書の一つで、抽斎は術を池田京水に受けて記述したのである。これを除いては、ここに数え挙げるのも可笑しいほどの『四つの海』という長唄の本があるに過ぎない。但しこれは当時作者が自家の体面をいたわって、贔屓にしている富士田千蔵の名で公にしたのだが、今は憚るには及ぶまい。『四つの海』は今なお杵屋の一派では用いている謡物の一つで、これも抽斎が多方面であったということを証するに足る作である。
然らば世に多少知られている『経籍訪古志』はどうであるか。これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園と分担して書いたものであるが、これを上梓することは出来なかった。そのうち支那公使館にいた楊守敬がその写本を手に入れ、それを姚子梁が公使徐承祖に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになった。その時幸に森がまだ生存していて、校正したのである。
世間に多少抽斎を知っている人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた『経籍訪古志』があるからである。しかしわたくしはこれに依って抽斎を知ったのではない。
わたくしは少い時から多読の癖があって、随分多く書を買う。わたくしの俸銭の大部分は内地の書肆と、ベルリン、パリイの書估との手に入ってしまう。しかしわたくしはかつて珍本を求めたことがない。或る時ドイツのバルテルスの『文学史』の序を読むと、バルテルスが多く書を読もうとして、廉価の本を渉猟し、『文学史』に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないといってあった。わたくしはこれを読んで私かに殊域同嗜の人を獲たと思った。それゆえわたくしは漢籍においても宋槧本とか元槧本とかいうものを顧みない。『経籍訪古志』は余りわたくしの用に立たない。わたくしはその著者が渋江と森とであったことをも忘れていたのである。
わたくしの抽斎を知ったのは奇縁である。わたくしは医者になって大学を出た。そして官吏になった。然るに少い時から文を作ることを好んでいたので、いつの間にやら文士の列に加えられることになった。その文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるようになってから、わたくしは徳川時代の事蹟を捜った。そこに「武鑑」を検する必要が生じた。
「武鑑」は、わたくしの見る所によれば、徳川史を窮むるに闕くべからざる史料である。然るに公開せられている図書館では、年を逐って発行せられた「武鑑」を集めていない。これは「武鑑」、殊に寛文頃より古い類書は、諸侯の事を記するに誤謬が多くて、信じがたいので、措いて顧みないのかも知れない。しかし「武鑑」の成立を考えて見れば、この誤謬の多いのは当然で、それはまた他書によって正すことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これに優る史料はない。そこでわたくしは自ら「武鑑」を蒐集することに着手した。
この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江氏蔵書記」という朱印のある本に度々出逢って、中には買い入れたのもある。わたくしはこれによって弘前の官医で渋江という人が、多く「武鑑」を蔵していたということを、先ず知った。
そのうち「武鑑」というものは、いつから始まって、最も古いもので現存しているのはいつの本かという問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類の書を「武鑑」の中に数えるかという、「武鑑」のデフィニションを極めて掛からなくてはならない。
それにはわたくしは『足利武鑑』、『織田武鑑』、『豊臣武鑑』というような、後の人のレコンストリュクションによって作られた書を最初に除く。次に『群書類従』にあるような分限帳の類を除く。そうすると跡に、時代の古いものでは、「御馬印揃」、「御紋尽」、「御屋敷附」の類が残って、それがやや形を整えた「江戸鑑」となり、「江戸鑑」は直ちに後のいわゆる「武鑑」に接続するのである。
わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの「武鑑」に対する知識は日々変って行く。しかし今知っている限を言えば、馬印揃や紋尽は寛永中からあったが、当時のものは今存じていない。その存じているのは後に改板したものである。ただ一つここに姑く問題外として置きたいものがある。それは沼田頼輔さんが最古の「武鑑」として報告した、鎌田氏の『治代普顕記』中の記載である。沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられているエラルヂックを、我国に興そうとしているものと見えて、紋章を研究している。そしてこの目的を以て「武鑑」をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。即ち『治代普顕記』の一節である。沼田さんは幸にわたくしに謄写を許したから、わたくしは近いうちにこの記載を精検しようと思っている。
そんなら今にるまでに、わたくしの見た最古の「武鑑」乃至その類書は何かというと、それは正保二年に作った江戸の「屋敷附」である。これは殆ど完全に保存せられた板本で、末に正保四年と刻してある。ただ題号を刻した紙が失われたので、恣に命じた名が表紙に書いてある。この本が正保四年と刻してあっても、実は正保二年に作ったものだという証拠は、巻中に数カ条あるが、試みにその一つを言えば、正保二年十二月二日に歿した細川三斎が三斎老として挙げてあって、またその第を諸邸宅のオリアンタションのために引合に出してある事である。この本は東京帝国大学図書館にある。
わたくしはこの正保二年に出来て、四年に上梓せられた「屋敷附」より古い「武鑑」の類書を見たことがない。降って慶安中の「紋尽」になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかし可笑しい事には、外題に慶安としてあるものは、後に寛文中に作ったもので、真に慶安中に作ったものは、内容を改めずに、後の年号を附して印行したものである。それから明暦中の本になると、世間にちらほら残っている。大学にある「紋尽」には、伴信友の自筆の序がある。伴は文政三年にこの本を獲て、最古の「武鑑」として蔵していたのだそうである。それから寛文中の「江戸鑑」になると、世間にやや多い。
これはわたくしが数年間「武鑑」を捜索して得た断案である。然るにわたくしに先んじて、夙く同じ断案を得た人がある。それは上野の図書館にある『江戸鑑図目録』という写本を見て知ることが出来る。この書は古い「武鑑」類と江戸図との目録で、著者は自己の寓目した本と、買い得て蔵していた本とを挙げている。この書に正保二年の「屋敷附」を以て当時存じていた最古の「武鑑」類書だとして、巻首に載せていて、二年の二の字の傍に四と註している。著者は四年と刻してあるこの書の内容が二年の事実だということにも心附いていたものと見える。著者はわたくしと同じような蒐集をして、同じ断案を得ていたと見える。ついでだから言うが、わたくしは古い江戸図をも集めている。
然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中に所々考証を記すに当って抽斎云としてあるだけである。そしてわたくしの度々見た「弘前医官渋江氏蔵書記」の朱印がこの写本にもある。
わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思った。そしてどうにかしてそれを確めようと思い立った。
わたくしは友人、就中東北地方から出た友人に逢うごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状を遣って問い合せた。
或る日長井金風さんに会って問うと、長井さんがいった。「弘前の渋江なら蔵書家で『経籍訪古志』を書いた人だ」といった。しかし抽斎と号していたかどうだかは長井さんも知らなかった。『経籍訪古志』には抽斎の号は載せてないからである。
そのうち弘前に勤めている同僚の書状が数通届いた。わたくしはそれによってこれだけの事を知った。渋江氏は元禄の頃に津軽家に召し抱えられた医者の家で、代々勤めていた。しかし定府であったので、弘前には深く交った人が少く、また渋江氏の墓所もなければ子孫もない。今東京にいる人で、渋江氏と交ったかと思われるのは、飯田巽という人である。また郷土史家として渋江氏の事蹟を知っていようかと思われるのは、外崎覚という人であるという事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事に精しい佐藤弥六さんという老人で、当時大正四年に七十四歳になるといってあった。
わたくしは直接に渋江氏と交ったらしいという飯田巽さんを、先ず訪ねようと思って、唐突ではあったが、飯田さんの西江戸川町の邸へ往った。飯田さんは素と宮内省の官吏で、今某会社の監査役をしているのだそうである。西江戸川町の大きい邸はすぐに知れた。わたくしは誰の紹介をも求めずに往ったのに、飯田さんは快く引見して、わたくしの問に答えた。飯田さんは渋江道純を識っていた。それは飯田さんの親戚に医者があって、その人が何か医学上にむずかしい事があると、渋江に問いに往くことになっていたからである。道純は本所御台所町に住んでいた。しかし子孫はどうなったか知らぬというのである。
わたくしは飯田さんの口から始めて道純という名を聞いた。これは『経籍訪古志』の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかった。
切角道純を識っていた人に会ったのに、子孫のいるかいないかもわからず、墓所を問うたつきをも得ぬのを遺憾に思って、わたくしは暇乞をしようとした。その時飯田さんが、「ちょいとお待下さい、念のために妻にきいて見ますから」といった。
細君が席に呼び入れられた。そしてもし渋江道純の跡がどうなっているか知らぬかと問われて答えた。「道純さんの娘さんが本所松井町の杵屋勝久さんでございます。」
『経籍訪古志』の著者渋江道純の子が現存しているということを、わたくしはこの時始めて知った。しかし杵屋といえば長唄のお師匠さんであろう。それを本所に訪ねて、「お父うさんに抽斎という別号がありましたか」とか、「お父うさんは「武鑑」を集めてお出でしたか」とかいうのは、余りに唐突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。
わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問い合わせてもらうことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。
二、三日立って飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江終吉という甥があって、下渋谷に住んでいるというのである。杵屋さんの甥といえば、道純から見れば、孫でなくてはならない。そうして見れば、道純には娘があり孫があって現存しているのである。
わたくしは直に終吉さんに手紙を出して、何時何処へ往ったら逢われようかと問うた。返事は直に来た。今風邪で寝ているが、なおったらこっちから往っても好いというのである。手跡はまだ少い人らしい。
わたくしは曠しく終吉さんの病の癒えるのを待たなくてはならぬことになった。探索はここに一頓挫を来さなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思って、この隙に弘前から、歴史家として道純の事を知っていそうだと知らせて来た外崎覚という人を訪ねることにした。
外崎さんは官吏で、籍が諸陵寮にある。わたくしは宮内省へ往った。そして諸陵寮が宮城を離れた霞が関の三年坂上にあることを教えられた。常に宮内省には往来しても、諸陵寮がどこにあるということは知らなかったのである。
諸陵寮の小さい応接所で、わたくしは初めて外崎さんに会った。飯田さんの先輩であったとは違って、この人はわたくしと齢も相若くという位で、しかも史学を以て仕えている人である。わたくしは傾蓋故きが如き念をした。
初対面の挨拶が済んで、わたくしは来意を陳べた。「武鑑」を蒐集している事、「古武鑑」に精通していた無名の人の著述が写本で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、その写本に弘前の渋江という人の印がある事、抽斎と渋江とがもしや同人ではあるまいかと思っている事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。
外崎さんの答は極めて明快であった。「抽斎というのは『経籍訪古志』を書いた渋江道純の号ですよ。」
わたくしは釈然とした。
抽斎渋江道純は経史子集や医籍を渉猟して考証の書を著したばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証の迹を手記して置いたのである。上野の図書館にある『江戸鑑図目録』は即ち「古武鑑」古江戸図の訪古志である。惟経史子集は世の重要視する所であるから、『経籍訪古志』は一の徐承祖を得て公刊せられ、「古武鑑」や古江戸図は、わたくしどもの如き微力な好事家が偶一顧するに過ぎないから、その目録は僅に存して人が識らずにいるのである。わたくしどもはそれが帝国図書館の保護を受けているのを、せめてもの僥倖としなくてはならない。
わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗るわたくしと相似ている。ただその相殊なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい差別がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁なるヂレッタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視て忸怩たらざることを得ない。
抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの比ではなかった。迥にわたくしに優った済勝の具を有していた。抽斎はわたくしのためには畏敬すべき人である。
然るに奇とすべきは、その人が康衢通逵をばかり歩いていずに、往々径に由って行くことをもしたという事である。抽斎は宋槧の経子を討めたばかりでなく、古い「武鑑」や江戸図をも翫んだ。もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人の袖は横町の溝板の上で摩れ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間にみが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。
わたくしはこう思う心の喜ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽斎の何人なるかを知らずに、漫然抽斎のマニュスクリイの蔵※者[#「去/廾」、U+5F06、24-15]たる渋江氏の事蹟を訪ね、そこに先ず『経籍訪古志』を著した渋江道純の名を知り、その道純を識っていた人に由って、道純の子孫の現存していることを聞き、ようよう今日道純と抽斎とが同人であることを知ったという道行を語った。
外崎さんも事の奇なるに驚いていった。「抽斎の子なら、わたくしは織っています。」
「そうですか。長唄のお師匠さんだそうですね。」
「いいえ。それは知りません。わたくしの知っているのは抽斎の跡を継いだ子で、保という人です。」
「はあ。それでは渋江保という人が、抽斎の嗣子であったのですか。今保さんは何処に住んでいますか。」
「さあ。大ぶ久しく逢いませんから、ちょっと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知っているものがありましょうから、近日聞き合せて上げましょう。」
わたくしは直に保さんの住所を討ねることを外崎さんに頼んだ。保という名は、わたくしは始めて聞いたのではない。これより先、弘前から来た書状の中に、こういうことを報じて来たのがあった。津軽家に仕えた渋江氏の当主は渋江保である。保は広島の師範学校の教員になっているというのであった。わたくしは職員録を検した。しかし渋江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長幣原坦さんに書を遣って問うた。しかし学校にはこの名の人はいない。またかつていたこともなかったらしい。わたくしは多くの人に渋江保の名を挙げて問うて見た。中には博文館の発行した書籍に、この名の著者があったという人が二、三あった。しかし広島に踪跡がなかったので、わたくしはこの報道を疑って追跡を中絶していたのである。
此に至ってわたくしは抽斎の子が二人と、孫が一人と現存していることを知った。子の一人は女子で、本所にいる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にいる終吉さんである。しかし保さんを識っている外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかった。
わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟を詳にしようとした。外崎さんは記憶している二、三の事を語った。渋江氏の祖先は津軽信政に召し抱えられた。抽斎はその数世の孫で、文化中に生れ、安政中に歿した。その徳川家慶に謁したのは嘉永中の事である。墓誌銘は友人海保漁村が撰んだ。外崎さんはおおよそこれだけの事を語って、追って手近にある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出して贈ろうと約した。わたくしは保さんの所在を捜すことと、この抜萃を作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。
外崎さんの書状は間もなく来た。それに『前田文正筆記』、『津軽日記』、『喫茗雑話』の三書から、抽斎に関する事蹟を抄出して添えてあった。中にも『喫茗雑話』から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしはその中に「道純諱全善、号抽斎、道純其字也」という文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしと訓ませたのだそうである。
これと殆ど同時に、終吉さんのやや長い書状が来た。終吉さんは風邪が急に癒えぬので、わたくしと会見するに先って、渋江氏に関する数件を書いて送るといって、祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をした叔父の住所等を報じてくれた。墓は谷中斎場の向いの横町を西へ入って、北側の感応寺にある。そこへ往けば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけである。血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。この二人の同胞の間に脩という人があって、亡くなって、その子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であって、三軒の家は頗る生計の方向を殊にしている。そこで早く怙を失った終吉さんは伯母をたよって往来をしていても、勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいたそうである。そのうち丁度わたくしが渋江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんの女冬子さんが病死した。それを保さんが姉に報じたので、勝久さんは弟の所在を知った。終吉さんが住所を告げてくれた叔父というのが即ち保さんである。是においてわたくしは、外崎さんの捜索を煩すまでもなく、保さんの今の牛込船河原町の住所を知って、直にそれを外崎さんに告げた。
わたくしは谷中の感応寺に往って、抽斎の墓を訪ねた。墓は容易く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立っている。「抽斎渋江君墓碣銘」という篆額も墓誌銘も、皆小島成斎の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛して刪除したものだそうである。『喫茗雑話』の載する所は三分の一にも足りない。わたくしはまた後に五弓雪窓がこの文を『事実文編』巻の七十二に収めているのを知った。国書刊行会本を閲するに、誤脱はないようである。ただ「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志を訪うと訓ませてあるのに慊なかった。『経籍訪古志』の書名であることは論ずるまでもなく、あれは多紀庭の命じた名だということが、抽斎と森枳園との作った序に見えており、訪古の字面は、『宋史』鄭樵の伝に、名山大川に游び、奇を捜し古を訪い、書を蔵する家に遇えば、必ず借留し、読み尽して乃ち去るとあるのに出たということが、枳園の書後に見えておる。
墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、また「一女平野氏出」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が保さんの事だそうである。また平野氏の生んだ女というのは、比良野文蔵の女威能が、抽斎の二人目の妻になって生んだ純である。勝久さんや終吉さんの亡父脩はこの文に載せてないのである。
抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。その一には「性如院宗是日体信士、庚申元文五年閏七月十七日」と、向って右の傍に彫ってある。抽斎の高祖父輔之である。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年十月廿六日」と彫ってある。抽斎の父允成である。その間と左とに高祖父と父との配偶、夭折した允成の女二人の法諡が彫ってある。「松峰院妙実日相信女、己丑明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、庚戌寛政二年四月十三日」とあるのは、允成の初の妻田中氏、「寿松院妙遠日量信女、文政十二己丑六月十四日」とあるのは、抽斎の生母岩田氏縫、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年甲寅三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「曇華水子、文化八年辛未閏二月十四日」とあるのも、並に皆允成の女である。その二には「至善院格誠日在、寛保二年壬戌七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年甲寅三月十日」と彫ってある。至善院は抽斎の曾祖父為隣で、終事院は抽斎が五十歳の時父に先って死んだ長男恒善である。その三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深信士、天明四甲辰二月二十九日」としてあるのは、抽斎の祖父本皓である。「智照院妙道日修信女、寛政四壬子八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻登勢である。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母渋江氏、安永六年丁酉五月三日死、享年十九、俗名千代、作臨終歌曰」云々としてあるのは、登勢の生んだ本皓の女である。抽斎の高祖父輔之は男子がなくて歿したので、十歳になる女登勢に壻を取ったのが為隣である。為隣は登勢の人と成らぬうちに歿した。そこへ本皓が養子に来て、登勢の配偶になって、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、渋江氏の血統は一たび絶えた。抽斎の父允成は本皓の養子である。次に某々孩子と二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子だそうである。その四には「渋江脩之墓」と刻してあって、これは石が新しい。終吉さんの父である。
後に聞けば墓は今一基あって、それには抽斎の六世の祖辰勝が「寂而院宗貞日岸居士」とし、その妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし、五世の祖辰盛が「寂照院道陸玄沢日行居士」とし、その妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻比良野氏が「照院妙浄日法大姉」とし、同岡西氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあったが、その石の折れてしまった迹に、今の終吉さんの父の墓が建てられたのだそうである。
わたくしは自己の敬愛している抽斎と、その尊卑二属とに、香華を手向けて置いて感応寺を出た。
尋いでわたくしは保さんを訪おうと思っていると、偶女杏奴が病気になった。日々官衙には通ったが、公退の時には家路を急いだ。それゆえ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両渋江と外崎との三家へ、度々書状を遣った。
三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために闕くべからざる資料があった。それのみではない。終吉さんはその隙に全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語ってもらいたいと頼んだのである。叔父甥はここに十数年を隔てて相見たのだそうである。また外崎さんも一度わたくしに代って保さんをおとずれてくれたので、杏奴の病が癒えて、わたくしが船河原町へ往くに先だって、とうとう保さんが官衙に来てくれて、わたくしは抽斎の嗣子と相見ることを得た。
気候は寒くても、まだ炉を焚く季節に入らぬので、火の気のない官衙の一室で、卓を隔てて保さんとわたくしとは対坐した。そして抽斎の事を語って倦むことを知らなかった。
今残っている勝久さんと保さんとの姉弟、それから終吉さんの父脩、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、山内氏五百の生んだのである。勝久さんは名を陸という。抽斎が四十三、五百が三十二になった弘化四年に生れて、大正五年に七十歳になる。抽斎は嘉永四年に本所へ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。
終吉さんの父脩は安改元年に本所で生れた。中三年置いて四年に、保さんは生れた。抽斎が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一、脩も四歳になっていたのである。
抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなったから、保さんはその時まだ二歳であった。幸に母五百は明治十七年までながらえていて、保さんは二十八歳で恃を喪ったのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から先考の平生を聞くことを得たのである。
抽斎は保さんを学医にしようと思っていたと見える。亡くなる前にした遺言によれば、経を海保漁村に、医を多紀安琢に、書を小島成斎に学ばせるようにいってある。それから洋学については、折を見て蘭語を教えるが好いといってある。抽斎は友人多紀庭などと同じように、頗るオランダ嫌いであった。学殖の深かった抽斎が、新奇を趁う世俗と趨舎を同じくしなかったのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に市川小団次の芸を「西洋」だといってある。これは褒めたのではない。然るにその抽斎が晩年に至って、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教えることを遺言したのは、安積艮斎にその著述の写本を借りて読んだ時、翻然として悟ったからだそうである。想うにその著述というのは『洋外紀略』などであっただろう。保さんは後に蘭語を学ばずに英語を学ぶことになったが、それは時代の変遷のためである。
わたくしは保さんに、抽斎の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、僅に二歳であった保さんが、父に「武鑑」を貰って翫んだということを聞いた。それは出雲寺板の「大名武鑑」で、鹵簿の道具類に彩色を施したものであったそうである。それのみではない。保さんは父が大きい本箱に「江戸鑑」と貼札をして、その中に一ぱい古い「武鑑」を収めていたことを記憶している。このコルレクションは保さんの五、六歳の時まで散佚せずにいたそうである。「江戸鑑」の箱があったなら、江戸図の箱もあっただろう。わたくしはここに『江戸鑑図目録』の作られた縁起を知ることを得たのである。
わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を、箇条書にしてもらうことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで『独立評論』に追憶談を載せているから、それを見せようと約した。
保さんと会見してから間もなく、わたくしは大礼に参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、直に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここにわたくしの説く所は主として保さんから獲た材料に拠るのである。
渋江氏の祖先は下野の大田原家の臣であった。抽斎六世の祖を小左衛門辰勝という。大田原政継、政増の二代に仕えて、正徳元年七月二日に歿した。辰勝の嫡子重光は家を継いで、大田原政増、清勝に仕え、二男勝重は去って肥前の大村家に仕え、三男辰盛は奥州の津軽家に仕え、四男勝郷は兵学者となった。大村には勝重の往く前に、源頼朝時代から続いている渋江公業の後裔がある。それと下野から往った渋江氏との関係の有無は、なお講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。
渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国那須郡大田原の城主たる宗家ではなく、その支封であろう。宗家は渋江辰勝の仕えたという頃、清信、扶清、友清などの世であったはずである。大田原家は素一万二千四百石であったのに、寛文五年に備前守政清が主膳高清に宗家を襲がせ、千石を割いて末家を立てた。渋江氏はこの支封の家に仕えたのであろう。今手許に末家の系譜がないから検することが出来ない。
辰盛は通称を他人といって、後小三郎と改め、また喜六と改めた。道陸は剃髪してからの称である。医を今大路侍従道三玄淵に学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽越中守信政に召し抱えられて、擬作金三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は宝永と改元せられた年である。師道三は故土佐守信義の五女を娶って、信政の姉壻になっていたのである。辰盛は宝永三年に信政に随って津軽に往き、四年正月二十八日に知行二百石になり、宝永七年には二度日、正徳二年には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。この時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守信寿の世になっていた。辰盛は享保十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。出羽守信著の家を嗣いだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年を享くること七十一歳である。この人は三男で他家に仕えたのに、その父母は宗家から来て奉養を受けていたそうである。
辰盛は兄重光の二男輔之を下野から迎え、養子として玄瑳と称えさせ、これに医学を授けた。即ち抽斎の高祖父である。輔之は享保十四年九月十九日に家を継いで、直に三百石を食み、信寿に仕うること二年余の後、信著に仕え、改称して二世道陸となり、元文五年閏七月十七日に歿した。元禄七年の生であるから、四十七歳で歿したのである。
輔之には登勢という女一人しかなかった。そこで病革なるとき、信濃の人某の子を養って嗣となし、これに登勢を配した。登勢はまだ十歳であったから、名のみの夫婦である。この女壻が為隣で、抽斎の曾祖父である。為隣は寛保元年正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称の玄春を二世玄瑳と改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳の未亡人として遺された。
寛保二年に十五歳で、この登勢に入贅したのは、武蔵国忍の人竹内作左衛門の子で、抽斎の祖父本皓が即ちこれである。津軽家は越中守信寧の世になっていた。宝暦九年に登勢が二十九歳で女千代を生んだ。千代は絶えなんとする渋江氏の血統を僅に繋ぐべき子で、あまつさえ聡慧なので、父母はこれを一粒種と称して鍾愛していると、十九歳になった安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十歳、登勢が四十七歳の時である。本皓には庶子があって、名を令図といったが、渋江氏を続ぐには特に学芸に長じた人が欲しいというので、本皓は令図を同藩の医小野道秀の許へ養子に遣って、別に継嗣を求めた。
この時根津に茗荷屋という旅店があった。その主人稲垣清蔵は鳥羽稲垣家の重臣で、君を諌めて旨に忤い、遁れて商人となったのである。清蔵に明和元年五月十二日生れの嫡男専之助というのがあって、六歳にして詩賦を善くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清蔵は子を士籍に復せしむることを願っていたので、快く許諾した。そこで下野の宗家を仮親にして、大田原頼母家来用人八十石渋江官左衛門次男という名義で引き取った。専之助名は允成字は子礼、定所と号し、おる所の室を容安といった。通称は初玄庵といったが、家督の年の十一月十五日に四世道陸と改めた。儒学は柴野栗山、医術は依田松純の門人で、著述には『容安室文稿』、『定所詩集』、『定所雑録』等がある。これが抽斎の父である。
允成は才子で美丈夫であった。安永七年三月朔に十五歳で渋江氏に養われて、当時儲君であった、二つの年上の出羽守信明に愛せられた。養父本皓の五十八歳で亡くなったのが、天明四年二月二十九日で、信明の襲封と同日である。信明はもう土佐守と称していた。主君が二十三歳、允成が二十一歳である。
寛政三年六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日に和三郎寧親が支封から入って宗家を継いだ。後に越中守と称した人である。寧親は時に二十七歳で、允成は一つ上の二十八歳である。允成は寧親にも親昵して、殆ど兄弟の如くに遇せられた。平生着丈四尺の衣を著て、体重が二十貫目あったというから、その堂々たる相貌が思い遣られる。
当時津軽家に静江という女小姓が勤めていた。それが年老いての後に剃髪して妙了尼と号した。妙了尼が渋江家に寄寓していた頃、可笑しい話をした。それは允成が公退した跡になると、女中たちが争ってその茶碗の底の余瀝を指に承けて舐るので、自分も舐ったというのである。
しかし允成は謹厳な人で、女色などは顧みなかった。最初の妻田中氏は寛政元年八月二十二日に娶ったが、これには子がなくて、翌年四月十三日に亡くなった。次に寛政三年六月四日に、寄合戸田政五郎家来納戸役金七両十二人扶持川崎丈助の女を迎えたが、これは四年二月に逸という女を生んで、逸が三歳で夭折した翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成の納れた室は、下総国佐倉の城主堀田相模守正順の臣、岩田忠次の妹縫で、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。
縫は享和二年に始めて須磨という女を生んだ。これは後文政二牛に十八歳で、留守居年寄佐野豊前守政親組飯田四郎左衛門良清に嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年十一月八日に生れたのが抽斎である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これから後には文化八年閏二月十四日に女が生れたが、これは名を命ずるに及ばずして亡くなった。感応寺の墓に曇華水子と刻してあるのがこの女の法諡である。
允成は寧親の侍医で、津軽藩邸に催される月並講釈の教官を兼ね、経学と医学とを藩の子弟に授けていた。三百石十人扶持の世禄の外に、寛政十二年から勤料五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加え、八年にまた五人扶持を加えられて、とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。中二年置いて文化十一年に一粒金丹を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で、毎月百両以上の所得になったのである。
允成は表向侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任を蒙ることが厚かったので、人の敢て言わざる事をも言うようになっていて、数諫めて数聴かれた。寧親は文化元年五月連年蝦夷地の防備に任じたという廉を以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。いわゆる津軽家の御乗出がこれである。五年十二月には南部家と共に永く東西蝦夷地を警衛することを命ぜられて、十万石に進み、従四位下に叙せられた。この津軽家の政務発展の時に当って、允成が啓沃の功も少くなかったらしい。
允成は文政五年八月朔に、五十九歳で致仕した。抽斎が十八歳の時である。次いで寧親も八年四月に退隠して、詩歌俳諧を銷遣の具とし、歌会には成島司直などを召し、詩会には允成を召すことになっていた。允成は天保二年六月からは、出羽国亀田の城主岩城伊予守隆喜に嫁した信順の姉もと姫に伺候し、同年八月からはまた信順の室欽姫附を兼ねた。八月十五日に隠居料三人扶持を給せられることになったのは、これらのためであろう。中一年置いて四年四月朔に、隠居料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。
允成は天保八年[#「八年」は底本では「八月」]十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻縫は、文政七年七月朔に剃髪して寿松といい、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなった。夫に先つこと八年である。
抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと保さんがいう。これは母五百の話を記憶しているのであろう。父允成は四十二歳、母縫は三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋というのは橋の名ではなくて町名である。当時の江戸分間大絵図というものを閲するに、和泉橋と新橋との間の柳原通の少し南に寄って、西から東へ、お玉が池、松枝町、弁慶橋、元柳原町、佐久間町、四間町、大和町、豊島町という順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡って、少し東へ偏って行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になっている。この通の東隣の筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になっている。わたくしが富士川游さんに借りた津軽家の医官の宿直日記によるに、允成は天明六年八月十九日に豊島町通横町鎌倉横町家主伊右衛門店を借りた。この鎌倉横町というのは、前いった図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、北の方河岸に寄った所にある。允成がこの店を借りたのは、その年正月二十二日に従来住んでいた家が焼けたので、暫く多紀桂山の許に寄宿していて、八月に至って移転したのである。その従来住んでいた家も、余り隔たっていぬ和泉橋附近であったことは、日記の文から推することが出来る。次に文政八年三月晦に、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したということが、日記に見えている。元柳原町は弁慶橋と同じ筋で、ただ東西両側が名を異にしているに過ぎない。想うに渋江氏は久しく和泉橋附近に住んでいて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移ったのであろう。この元柳原町六丁目の家は、拍斎の生れた弁慶橋の家と同じであるかも知れぬが、あるいは抽斎の生れた文化二年に西側の弁慶橋にいて、その後文政八年に至るまでの間に、向側の元柳原町に移ったものと考えられぬでもない。
抽斎は小字を恒吉といった。故越中守信寧の夫人真寿院がこの子を愛して、当歳の時から五歳になった頃まで、殆ど日ごとに召し寄せて、傍で嬉戯するのを見て楽んだそうである。美丈夫允成に肖た可憐児であったものと想われる。
志摩の稲垣氏の家世は今詳にすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは相貌の立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであろう。この身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じていなくてはならない。わたくしはここに清蔵が主を諫めて去った人だという事実に注目する。次に後允成になった神童専之助を出す清蔵の家庭が、尋常の家庭でないという推測を顧慮する。彼は意志の方面、此は智能の方面で、この両方面における遺伝的系統を繹ぬるに、抽斎の前途は有望であったといっても好かろう。
さてその抽斎が生れて来た境界はどうであるか。允成の庭の訓が信頼するに足るものであったことは、言を須たぬであろう。オロスコピイは人の生れた時の星象を観測する。わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界の列宿を数えて見たい。しかし観察が徒に汎きに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限って観察することとしたい。即ち抽斎の師となり、また年上の友となる人物である。抽斎から見ての大己である。
抽斎の経学の師には、先ず市野迷庵がある。次は狩谷斎である。医学の師には伊沢蘭軒がある。次は抽斎が特に痘科を学んだ池田京水である。それから抽斎が交った年長者は随分多い。儒者または国学者には安積艮斎、小島成斎、岡本况斎、海保漁村、医家には多紀の本末両家、就中庭、伊沢蘭軒の長子榛軒がいる。それから芸術家及芸術批評家に谷文晁、長島五郎作、石塚重兵衛がいる。これらの人は皆社会の諸方面にいて、抽斎の世に出づるを待ち受けていたようなものである。
他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々の中には、現に普く世に知れわたっているものが少くない。それゆえわたくしはここに一々その伝記を挿もうとは思わない。ただ抽斎の誕生を語るに当って、これをしてその天職を尽さしむるに与って力ある長者のルヴュウをして見たいというに過ぎない。
市野迷庵、名を光彦、字を俊卿また子邦といい、初め窓、後迷庵と号した。その他酔堂、不忍池漁等の別号がある。抽斎の父允成が酔堂説を作ったのが、『容安室文稿』に出ている。通称は三右衛門である。六世の祖重光が伊勢国白子から江戸に出て、神田佐久間町に質店を開き、屋号を三河屋といった。当時の店は弁慶橋であった。迷庵の父光紀が、香月氏を娶って迷庵を生せたのは明和二年二月十日であるから、抽斎の生れた時、迷庵はもう四十一歳になっていた。
迷庵は考証学者である。即ち経籍の古版本、古抄本を捜り討めて、そのテクストを閲し、比較考勘する学派、クリチックをする学派である。この学は源を水戸の吉田篁に発し、斎がその後を承けて発展させた。篁は抽斎の生れる七年前に歿している。迷庵が斎らと共に研究した果実が、後に至って成熟して抽斎らの『訪古志』となったのである。この人が晩年に『老子』を好んだので、抽斎も同嗜の人となった。
狩谷斎、名は望之、字は卿雲、斎はその号である。通称を三右衛門という。家は湯島にあった。今の一丁目である。斎の家は津軽の用達で、津軽屋と称し、斎は津軽家の禄千石を食み、目見諸士の末席に列せられていた。先祖は参河国苅屋の人で、江戸に移ってから狩谷氏を称した。しかし斎は狩谷保古の代にこの家に養子に来たもので、実父は高橋高敏、母は佐藤氏である。安永四年の生で、抽斎の母縫と同年であったらしい。果してそうなら、抽斎の生れた時は三十一歳で、迷庵よりは十少かったのだろう。抽斎の斎に師事したのは二十余歳の時だというから、恐らくは迷庵を喪って斎に適いたのであろう。迷庵の六十二歳で亡くなった文政九年八月十四日は、抽斎が二十二歳、斎が五十二歳になっていた年である。迷庵も斎も古書を集めたが、斎は古銭をも集めた。漢代の五物を蔵して六漢道人と号したので、人が一物足らぬではないかと詰った時、今一つは漢学だと答えたという話がある。抽斎も古書や「古武鑑」を蔵していたばかりでなく、やはり古銭癖があったそうである。
迷庵と斎とは、年歯を以て論ずれば、彼が兄、此が弟であるが、考証学の学統から見ると、斎が先で、迷庵が後である。そしてこの二人の通称がどちらも三右衛門であった。世にこれを文政の六右衛門と称する。抽斎は六右衛門のどちらにも師事したわけである。
六右衛門の称は頗る妙である。然るに世の人は更に一人の三右衛門を加えて、三三右衛門などともいう。この今一人の三右衛門は喜多氏、名は慎言、字は有和、梅園また静廬と号し、居る所を四当書屋と名づけた。その氏の喜多を修して北慎言とも署した。新橋金春屋敷に住んだ屋根葺で、屋根屋三右衛門が通称である。本は芝の料理店鈴木の倅定次郎で、屋根屋へは養子に来た。少い時狂歌を作って網破損針金といっていたのが、後博渉を以て聞えた。嘉永元年三月二十五日に、八十三歳で亡くなったというから、抽斎の生れた時には、その師となるべき迷庵と同じく四十一歳になっていたはずである。この三右衛門が殆ど毎日往来した小山田与清の『擁書楼日記』を見れば、文化十二年に五十一歳だとしてあるから、この推算は誤っていないつもりである。しかしこの人を迷庵斎と併せ論ずるのは、少しく西人のいわゆる髪を握んで引き寄せた趣がある。屋根屋三右衛門と抽斎との間には、交際がなかったらしい。
後に抽斎に医学を授ける人は伊沢蘭軒である。名は信恬、通称は辞安という。伊沢氏の宗家は筑前国福岡の城主黒田家の臣であるが、蘭軒はその分家で、備後国福山の城主阿部伊勢守正倫の臣である。文政十二年三月十七日に歿して、享年五十三であったというから、抽斎の生れた時二十九歳で、本郷真砂町に住んでいた。阿部家は既に備中守正精の世になっていた。蘭軒が本郷丸山の阿部家の中屋敷に移ったのは後の事である。
阿部家は尋で文政九年八月に代替となって、伊予守正寧が封を襲いだから、蘭軒は正寧の世になった後、足掛四年阿部家の館に出入した。その頃抽斎の四人目の妻五百の姉が、正寧の室鍋島氏の女小姓を勤めて金吾と呼ばれていた。この金吾の話に、蘭軒は蹇であったので、館内で輦に乗ることを許されていた。さて輦から降りて、匍匐して君側に進むと、阿部家の奥女中が目を見合せて笑った。或日正寧が偶この事を聞き知って、「辞安は足はなくても、腹が二人前あるぞ」といって、女中を戒めさせたということである。
次は抽斎の痘科の師となるべき人である。池田氏、名は※[#「大/淵」、U+596B、48-5]、字は河澄、通称は瑞英、京水と号した。
原来疱瘡を治療する法は、久しく我国には行われずにいた。病が少しく重くなると、尋常の医家は手を束ねて傍看した。そこへ承応二年に戴曼公が支那から渡って来て、不治の病を治し始めた。廷賢を宗とする治法を施したのである。曼公、名は笠、杭州仁和県の人で、曼公とはその字である。明の万暦二十四年の生であるから、長崎に来た時は五十八歳であった。曼公が周防国岩国に足を留めていた時、池田嵩山というものが治痘の法を受けた。嵩山は吉川家の医官で、名を正直という。先祖は蒲冠者範頼から出て、世々出雲におり、生田氏を称した。正直の数世の祖信重が出雲から岩国に遷って、始て池田氏に更めたのである。正直の子が信之、信之の養子が正明で、皆曼公の遺法を伝えていた。
然るに寛保二年に正明が病んでまさに歿せんとする時、その子独美は僅に九歳であった。正明は法を弟槙本坊詮応に伝えて置いて瞑した。そのうち独美は人と成って、詮応に学んで父祖の法を得た。宝暦十二年独美は母を奉じて安芸国厳島に遷った。厳島に疱瘡が盛に流行したからである。安永二年に母が亡くなって、六年に独美は大阪に往き、西堀江隆平橋の畔に住んだ。この時独美は四十四歳であった。
独美は寛政四年に京都に出て、東洞院に住んだ。この時五十九歳であった。八年に徳川家斉に辟されて、九年に江戸に入り、駿河台に住んだ。この年三月独美は躋寿館で痘科を講ずることになって、二百俵を給せられた。六十四歳の時の事である。躋寿館には独美のために始て痘科の講座が置かれたのである。
抽斎の生れた文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでいたはずである。年は七十二歳であった。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。遺骸は向島小梅村の嶺松寺に葬られた。
独美、字は善卿、通称は瑞仙、錦橋また蟾翁と号した。その蟾翁と号したには面白い話がある。独美は或時大きい蝦蟇を夢に見た。それから『抱朴子』を読んで、その夢を祥瑞だと思って、蝦蟇の画をかき、蝦蟇の彫刻をして人に贈った。これが蟾翁の号の由来である。
池田独美には前後三人の妻があった。安永八年に歿した妙仙、寛政二年に歿した寿慶、それから嘉永元年まで生存していた芳松院緑峰である。緑峰は菱谷氏、佐井氏に養われて独美に嫁したのが、独美の京都にいた時の事である。三人とも子はなかったらしい。
独美が厳島から大阪に遷った頃妾があって、一男二女を生んだ。男は名を善直といったが、多病で業を継ぐことが出来なかったそうである。二女は長を智秀と諡した。寛政二年に歿している。次は知瑞と諡した。寛政九年に夭折している。この外に今一人独美の子があって、鹿児島に住んで、その子孫が現存しているらしいが、この家の事はまだこれを審にすることが出来ない。
独美の家は門人の一人が養子になって嗣いで、二世瑞仙と称した。これは上野国桐生の人村岡善左衛門常信の二男である。名は晋、字は柔行、また直卿、霧渓と号した。躋寿館の講座をもこの人が継承した。
初め独美は曼公の遺法を尊重する余に、これを一子相伝に止め、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にいた時、人が諫めていうには、一人の能く救う所には限がある、良法があるのにこれを秘して伝えぬのは不仁であるといった。そこで独美は始て誓紙に血判をさせて弟子を取った。それから門人が次第に殖えて、歿するまでには五百人を踰えた。二世瑞仙はその中から簡抜せられて螟蛉子となったのである。
独美の初代瑞仙は素源家の名閥だとはいうが、周防の岩国から起って幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となった。それに業を継ぐべき子がなかったので、門下の俊才が入って後を襲った。遽に見れば、なんの怪むべき所もない。
しかしここに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田京水である。
京水は独美の子であったか、甥であったか不明である。向島嶺松寺に立っていた墓に刻してあった誌銘には子としてあったらしい。然るに二世瑞仙晋の子直温の撰んだ過去帖には、独美の弟玄俊の子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ、独美の血族たる京水は宗家を嗣ぐことが出来ないで、自立して町医になり、下谷徒士町に門戸を張った。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立していたのである。
種痘の術が普及して以来、世の人は疱瘡を恐るることを忘れている。しかし昔は人のこの病を恐るること、癆を恐れ、癌を恐れ、癩を恐るるよりも甚だしく、その流行の盛なるに当っては、社会は一種のパニックに襲われた。池田氏の治法が徳川政府からも全国の人民からも歓迎せられたのは当然の事である。そこで抽斎も、一般医学を蘭軒に受けた後、特に痘科を京水に学ぶことになった。丁度近時の医が細菌学や原虫学や生物化学を特修すると同じ事である。
池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであったか。従来痘は胎毒だとか、穢血だとか、後天の食毒だとかいって、諸家は各その見る所に従って、諸証を攻むるに一様の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異気だとして、いわゆる八証四節三項を分ち、偏僻の治法を斥けた。即ち対症療法の完全ならんことを期したのである。
わたくしは抽斎の師となるべき人物を数えて京水に及ぶに当って、ここに京水の身上に関する疑を記して、世の人の教を受けたい。
わたくしは今これを筆に上するに至るまでには、文書を捜り寺院を訪い、また幾多の先輩知友を煩わして解決を求めた。しかしそれは概ね皆徒事であった。就中憾とすべきは京水の墓の失踪した事である。
最初にわたくしに京水の墓の事を語ったのは保さんである。保さんは幼い時京水の墓に詣でたことがある。しかし寺の名は記憶していない。ただ向島であったというだけである。そのうちわたくしは富士川游さんに種々の事を問いに遣った。富士川さんがこれに答えた中に、京水の墓は常泉寺の傍にあるという事があった。
わたくしは幼い時向島小梅村に住んでいた。初の家は今須崎町になり、後の家は今小梅町になっている。その後の家から土手へ往くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸の北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。
わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。枕橋を北へ渡って、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内の末寺の庭にある墓をも一つ一つ検した。日蓮宗の事だから、江戸の市人の墓が多い。知名の学者では、朝川善庵の一家の墓が、本堂の西にあるだけである。本堂の東南にある末寺に、池田氏の墓が一基あったが、これは例の市人らしく、しかも無縁同様のものと見えた。
そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃作ったもので、いろは順に檀家の氏が列記してある。いの部には池田氏がない。末寺の墓地にある池田氏の墓は果して無縁であった。
わたくしは空しく還って、先ず郷人宮崎幸麿さんを介して、東京の墓の事に精しい武田信賢さんに問うてもらったが、武田さんは知らなかった。
そのうちわたくしは『事実文編』四十五に霧渓の撰んだ池田氏行状のあるのを見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、その墓が向島嶺松寺にあることを記してある。素嶺松寺には戴曼公の表石があって、瑞仙はその側に葬られたというのである。向島にいたわたくしも嶺松寺という寺は知らなかった。しかし既に初代瑞仙が嶺松寺に葬られたなら、京水もあるいはそこに葬られたのではあるまいかと推量した。
わたくしは再び向島へ往った。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を徘徊して捜索したが、嶺松寺という寺はない。わたくしは絶望して踵を旋したが、道のついでなので、須崎町弘福寺にある先考の墓に詣でた。さて住職奥田墨汁師を訪って久闊を叙した。対談の間に、わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると、墨汁師は意外にも両つながらこれを知っていた。
墨汁師はいった。嶺松寺は常泉寺の近傍にあった。その畛域内に池田氏の墓が数基並んで立っていたことを記憶している。墓には多く誌銘が刻してあった。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になったというのである。わたくしはこれを聞いて、先ず池田氏の墓を目撃した人を二人まで獲たのを喜んだ。即ち保さんと墨汁師とである。
「廃寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。
「墓は檀家がそれぞれ引き取って、外の寺へ持って行きます。」
「檀家がなかったらどうなりますか。」
「無縁の墓は共同墓地へ遷す例になっています。」
「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家の後は今どうなっているかわかりませんか。」こういってわたくしは憮然とした。
わたくしは墨汁師にいった。池田瑞仙の一族は当年の名医である。その墓の行方は探討したいものである。それに戴曼公の表石というものも、もし存していたら、名蹟の一に算すべきものであろう。嶺松寺にあった無縁の墓は、どこの共同墓地へ遷されたか知らぬが、もしそれがわかったなら、尋ねに往きたいものであるといった。
墨汁師も首肯していった。戴氏独立の表石の事は始て聞いた。池田氏の上のみではない。自分も黄檗の衣鉢を伝えた身であって見れば、独立の遺蹟の存滅を意に介せずにはいられない。想うに独立は寛文中九州から師隠元を黄檗山に省しに上る途中で寂したらしいから、江戸には墓はなかっただろう。嶺松寺の表石とはどんな物であったか知らぬが、あるいは牙髪塔の類ででもあったか。それはともかくも、その石の行方も知りたい。心当りの向々へ問い合せて見ようといった。
わたくしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年の初になった。墨汁師の新年の書信に問合せの結果が記してあったが、それは頗る覚束ない口吻であった。嶺松寺の廃せられた時、その事に与った寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家がなかったらしい。当時無縁の墓を遷した所は、染井共同墓地であった。独立の表石というものは誰も知らないというのである。
これでは捜索の前途には、殆ど毫しの光明をも認めることが出来ない。しかしわたくしは念晴しのために、染井へ尋ねに往った。そして墓地の世話をしているという家を訪うた。
墓にまいる人に樒や綫香を売り、また足を休めさせて茶をも飲ませる家で、三十ばかりの怜悧そうなお上さんがいた。わたくしはこの女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名にはいうが、その地面には井然たる区画があって、毎区に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家の中には池田という家はない。池田という檀家がないから、池田という人の墓のありようがないというのである。
「それでも新聞に、行倒れがあったのを共同墓地に埋めたということがあるではありませんか。そうして見れば檀家のない仏の往く所があるはずです。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあった寺が取払になって、こっちへ持って来られた仏です。そういう時、石塔があれば石塔も運んで来るでしょう。それをわたくしは尋ねるのです。」こういってわたくしは女の毎区有主説に反駁を試みた。
「ええ、それは行倒れを埋める所も一カ所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てて遣る人はございません。それにお寺から石塔を運んで来たということは、聞いたこともございません。つまりそんな所には石塔なんぞは一つもないのでございます。」
「でもわたくしは切角尋ねに来たものですから、そこへ往って見ましょう。」
「およしなさいまし。石塔のないことはわたくしがお受合申しますから。」こういって女は笑った。
わたくしもげにもと思ったので、墓地には足を容れずに引き返した。
女の言には疑うべき余地はない。しかしわたくしは責任ある人の口から、同じ事をでも、今一度聞きたいような気がした。そこで帰途に町役場に立ち寄って問うた。町役場の人は、墓地の事は扱わぬから、本郷区役所へ往けといった。
町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かっていた。そこでわたくしは思い直した。廃寺になった嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の来なかったことは明白である。それを区役所に問うのは余りに痴であろう。むしろ行政上無縁の墓の取締があるか、もしあるなら、どう取り締まることになっているかということを問うに若くはない。その上今から区役所に往った所で、当直の人に墓地の事を問うのは甲斐のない事であろう。わたくしはこう考えて家に還った。
わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だということを知った。そこで友人に託して、府庁では嶺松寺の廃絶に関してどれだけの事が知り得られるか、また警視庁は墓所の移転をどの位の程度に監視することになっているかということを問うてもらった。
府庁には明治十八年に作られた墓地の台帳ともいうべきものがある。しかし一応それを検した所では、嶺松寺という寺は載せてないらしかった。その廃絶に関しては、何事をも知ることが出来ぬのである。警視庁は廃寺等のために墓碣を搬出するときには警官を立ち会わせる。しかしそれは有縁のものに限るので、無縁のものはどこの共同墓地に改葬したということを届け出でさせるに止まるそうである。
そうして見れば、嶺松寺の廃せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地に遷されたというのは、遷したという一紙の届書が官庁に呈せられたに過ぎぬかも知れない。所詮今になって戴曼公の表石や池田氏の墓碣の踪迹を発見することは出来ぬであろう。わたくしは念を捜索に絶つより外あるまい。
とかくするうちに、わたくしが池田京水の墓を捜し求めているということ、池田氏の墓のあった嶺松寺が廃絶したということなどが『東京朝日新聞』の雑報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて問うたのを聞き知ったものであろう。雑報の掲げられた日の夕方、無名の人がわたくしに電話を掛けていった。自分はかつて府庁にいたものである。その頃無税地反別帳という帳簿があった。もしそれがなお存しているなら、嶺松寺の事が載せてあるかも知れないというのである。わたくしは無名の人の言に従って、人に託して府庁に質してもらったが、そういう帳簿はないそうであった。
この事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教を乞うた人は頗る多い。初にはわたくしは墓誌を読まんがために、墓の所在を問うたが、後にはせめて京水の歿した年齢だけなりとも知ろうとした。わたくしは抽斎の生れた年に、市野迷庵が何歳、狩谷斎が何歳、伊沢蘭軒が何歳ということを推算したと同じく、京水の年齢をも推算して見たく、もしまた数字を以て示すことが出来ぬなら、少くもアプロクシマチイフにそれを忖度して見たかったのである。
諸家の中でも、戸川残花さんはわたくしのために武田信賢さんに問うたり、南葵文庫所蔵の書籍を検したりしてくれ、呉秀三さんは医史の資料について捜索してくれ、大槻文彦さんは如電さんに問うてくれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往ってくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によって知ったが、恐らくは郷土史の嗜好あるがために、踏査の労をさえ厭わなかったのであろう。ただ憾むらくもわたくしは徒にこれらの諸家を煩わしたに過ぎなかった。
これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあったのは、富士川游さんと墨汁師とのお蔭である。わたくしは数度書状の往復をした末に、或日富士川さんの家を訪うた。そしてこういうことを聞いた。富士川さんは昔年日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓に詣でた。医学史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、当時墓について親しく抄記したものだというのである。惜むらくは富士川さんは墓誌銘の全文を写して置かなかった。また嶺松寺という寺号をも忘れていた。それゆえわたくしに答えた書に常泉寺の傍と記したのである。是においてかつて親しく嶺松寺中の碑碣を睹た人が三人になった。保さんと游さんと墨汁師とである。そして游さんは湮滅の期に薄っていた墓誌銘の幾句を、図らずも救抜してくれたのである。
弘福寺の現住墨汁師は大正五年に入ってからも、捜索の手を停めずにいた。そしてとうとう下目黒村海福寺所蔵の池田氏過去帖というものを借り出して、わたくしに見せてくれた。帖は表紙を除いて十五枚のものである。表紙には生田氏中興池田氏過去帖慶応紀元季秋の十七字が四行に書してある。跋文を読むに、この書は二世瑞仙晋の子直温、字は子徳が、慶応元年九月六日に、初代瑞仙独美の五十年忌辰に丁って、新に歴代の位牌を作り、併せてこれを纂記して、嶺松寺に納めたもので、直温の自筆である。
この書には池田氏の一族百八人の男女を列記してあるが、その墓所はあるいは注してあり、あるいは注してない。分明に嶺松寺に葬る、または嶺寺に葬ると注してあるのは初代瑞仙、その妻佐井氏、二代瑞仙、その二男洪之助、二代瑞仙の兄信一の五人に過ぎない。しかし既に京水の墓が同じ寺にあったとすると、徒士町の池田氏の人々の墓もこの寺にあっただろう。要するに嶺松寺にあったという確証のある墓は、この書に注してある駿河台の池田氏の墓五基と、京水の墓とで、合計六基である。
この書の記する所は、わたくしのために創聞に属するものが頗る多い。就中異とすべきは、独美に玄俊という弟があって、それが宇野氏を娶って、二人の間に出来た子が京水だという一事である。この書に拠れば、独美は一旦姪京水を養って子として置きながら、それに家を嗣がせず、更に門人村岡晋を養って子とし、それに業を継がせたことになる。
然るに富士川さんの抄した墓誌には、京水は独美の子で廃せられたと書してあったらしい。しかもその廃せられた所以を書して放縦不覊にして人に容れられず、遂に多病を以て廃せらるといってあったらしい。
両説は必ずしも矛盾してはいない。独美は弟玄俊の子京水を養って子とした。京水が放蕩であった。そこで京水を離縁して門人晋を養子に入れたとすれば、その説通ぜずというでもない。
しかし京水が後能く自ら樹立して、その文章事業が晋に比して毫も遜色のないのを見るに、この人の凡庸でなかったことは、推測するに難くない。著述の考うべきものにも、『痘科挙要』二巻、『痘科鍵会通』一巻、『痘科鍵私衡』五巻、抽斎をして筆授せしめた『護痘要法』一巻がある。養父独美が視ること尋常蕩子の如くにして、これを逐うことを惜まなかったのは、恩少きに過ぐというものではあるまいか。
かつわたくしは京水の墓誌が何人の撰文に係るかを知らない。しかし京水が果して独美の姪であったなら、縦い独美が一時養って子となしたにもせよ、直に瑞仙の子なりと書したのはいかがのものであろうか。富士川さんの如きも、『日本医学史』に、墓誌に拠って瑞仙の子なりと書しているのである。また放縦だとか廃嗣だとかいうことも、此の如くに書したのが、墓誌として体を得たものであろうか。わたくしは大いにこれを疑うのである。そして墓誌の全文を見ることを得ず、その撰者を審にすることを得ざるのを憾とする。
わたくしは独撰者不詳の京水墓誌を疑うのみではない。また二世瑞仙晋の撰んだ池田氏行状をも疑わざることを得ない。文は載せて『事実文編』四十五にある。
行状に拠るに、初代瑞仙独美は享保二十年乙卯五月二十二日に生れ、文化十三年丙子九月六日に歿した。然るに安永六年丁酉に四十、寛政四年壬子に五十五、同九年丁巳に六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十二でなくてはならない。齢を記するごとに、殆ど必ず差っているのは何故であろうか。因にいうが過去帖にもまた齢八十三としてある。そこでわたくしはこの八十三より逆算することにした。
晋の撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子善直というものを挙げて、「多病不能継業」と書してある。その前に初代瑞仙が病中晋に告げた語を記して、八十四言の多きに及んである。瑞仙は痘を治することの難きを説いて、「数百之弟子、無能熟得之者」といい、晋を賞して、「而汝能継我業」といっている。
わたくしはいまだ過去帖を獲ざる前にこれを読んで、善直は京水の初の名であろうと思った。京水の墓誌に多病を以て嗣を廃せらるというように書してあったというのと、符節は合するようだからである。過去帖に従えば、庶子善直と姪京水とは別人でなくてはならない。しかし善直と京水とが同人ではあるまいか、京水が玄俊の子でなくて、初代瑞仙の子ではあるまいかという疑が、今に迄るまでいまだ全くわたくしの懐を去らない。特に彼過去帖に遠近の親戚百八人が挙げてあるのに、初代瑞仙のただ一人の実子善直というものが痕跡をだに留めずに消滅しているという一事は、この疑を助長する媒となるのである。
そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水が刺ってあるのを見ては、忌憚なきの甚だしきだと感じ、晋が養父の賞美の語を記して、一の抑損の句をも著けぬのを見ては、簡傲もまた甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美、二世瑞仙晋、京水の三人の間に或るドラアムが蔵せられているように思われてならない。わたくしの世の人に教を乞いたいというのはこれである。
わたくしは抽斎の誕生を語るに当って、後にその師となるべき人々を数えた。それは抽斎の生れた時、四十一歳であった迷庵、三十一歳であった斎、二十九歳であった蘭軒の三人と、京水とであって、独り京水は過去帖を獲るまでその齢を算することが出来なかった。なぜというに、京水の歿年が天保七年だということは、保さんが知っていたが、年歯に至っては全く所見がなかったからである。
過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、字を信卿といって寛政九年八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年に三十六歳で歿した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。法諡して宗経軒京水瑞英居士という。
これに由って観れば、京水は天明六年の生で、抽斎の生れた文化二年には二十歳になっていた。抽斎の四人の師の中では最年少者であった。
後に抽斎と交る人々の中、抽斎に先って生れた学者は、安積艮斎、小島成斎、岡本况斎、海保漁村である。
安積艮斎は抽斎との交が深くなかったらしいが、抽斎をして西学を忌む念を翻さしめたのはこの人の力である。艮斎、名は重信、修して信という。通称は祐助である。奥州郡山の八幡宮の祠官安藤筑前親重の子で、寛政二年に生れたらしい。十六歳の時、近村の里正今泉氏の壻になって、妻に嫌われ、翌年江戸に奔った。しかし誰にたよろうというあてもないので、うろうろしているのを、日蓮宗の僧日明が見附けて、本所番場町の妙源寺へ連れて帰って、数月間留めて置いた。そして世話をして佐藤一斎の家の学僕にした。妙源寺は今艮斎の墓碑の立っている寺である。それから二十一歳にして林述斎の門に入った。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。そうして見ると、抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であった。これは艮斎が万延元年十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。
小島成斎名は知足、字は子節、初め静斎と号した。通称は五一である。斎の門下で善書を以て聞えた。海保漁村の墓表に文久二年十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽斎の生れた文化二年には甫めて十歳である。父親蔵が福山侯阿部備中守正精に仕えていたので、成斎も江戸の藩邸に住んでいた。
岡本况斎、名は保孝、通称は初め勘右衛門、後縫殿助であった。拙誠堂の別号がある。幕府の儒員に列せられた。『荀子』、『韓非子』、『淮南子』等の考証を作り、旁国典にも通じていた。明治十一年四月までながらえて、八十二歳で歿した。寛政九年の生で、抽斎の生れた文化二年には僅に九歳になっていたはずである。
海保漁村、名は元備、字は純卿、また名は紀之、字は春農ともいった。通称は章之助、伝経廬の別号がある。寛政十年に上総国武射郡北清水村に生れた。老年に及んで経を躋寿館に講ずることになった。慶応二年九月十八日に、六十九歳で歿した人である。抽斎の生れた文化二年には八歳だから、郷里にあって、父恭斎に句読を授けられていたのである。
即ち学者の先輩は艮斎が十六、成斎が十、况斎が九つ、漁村が八つになった時、抽斎は生れたことになる。
次に医者の年長者には先ず多紀の本家、末家を数える。本家では桂山、名は元簡、字は廉夫が、抽斎の生れた文化二年には五十一歳、その子柳、名は胤、字は奕禧が十七歳、末家では庭、名は元堅、字は亦柔が十一歳になっていた。桂山は文化七年十二月二日に五十六歳で歿し、柳は文政十年六月三日に三十九歳で歿し、庭は安政四年二月十四日に六十三歳で歿したのである。
この中抽斎の最も親しくなったのは庭である。それから師伊沢蘭軒の長男榛軒もほぼ同じ親しさの友となった。榛軒、通称は長安、後一安と改めた。文化元年に生れて、抽斎にはただ一つの年上である。榛軒は嘉永五年十一月十七日に、四十九歳で歿した。
年上の友となるべき医者は、抽斎の生れた時十一歳であった庭と、二歳であった榛軒とであったといっても好い。
次は芸術家及芸術批評家である。芸術家としてここに挙ぐべきものは谷文晁一人に過ぎない。文晁、本文朝に作る、通称は文五郎、薙髪して文阿弥といった。写山楼、画学斎、その他の号は人の皆知る所である。初め狩野派の加藤文麗を師とし、後北山寒巌に従学して別に機軸を出した。天保十一年十二月十四日に、七十八歳で歿したのだから、抽斎の生れた文化二年には四十三歳になっていた。二人年歯の懸隔は、概ね迷庵におけると同じく、抽斎は画をも少しく学んだから、この人は抽斎の師の中に列する方が妥当であったかも知れない。
わたくしはここに真志屋五郎作と石塚重兵衛とを数えんがために、芸術批評家の目を立てた。二人は皆劇通であったから、此の如くに名づけたのである。あるいはおもうに、批評家といわんよりは、むしろアマトヨオルというべきであったかも知れない。
抽斎が後劇を愛するに至ったのは、当時の人の眼より観れば、一の癖好であった。どうらくであった。啻に当時において然るのみではない。是の如くに物を観る眼は、今もなお教育家等の間に、前代の遺物として伝えられている。わたくしはかつて歴史の教科書に、近松、竹田の脚本、馬琴、京伝の小説が出て、風俗の頽敗を致したと書いてあるのを見た。
しかし詩の変体としてこれを視れば、脚本、小説の価値も認めずには置かれず、脚本に縁って演じ出す劇も、高級芸術として尊重しなくてはならなくなる。わたくしが抽斎の心胸を開発して、劇の趣味を解するに至らしめた人々に敬意を表して、これを学者、医者、画家の次に数えるのは、好む所に阿るのではない。
真志屋五郎作は神田新石町の菓子商であった。水戸家の賄方を勤めた家で、或時代から故あって世禄三百俵を給せられていた。巷説には水戸侯と血縁があるなどといったそうであるが、どうしてそんな説が流布せられたものか、今考えることが出来ない。わたくしはただ風采が好かったということを知っているのみである。保さんの母五百の話に、五郎作は苦味走った好い男であったということであった。菓子商、用達の外、この人は幕府の連歌師の執筆をも勤めていた。
五郎作は実家が江間氏で、一時長島氏を冒し、真志屋の西村氏を襲ぐに至った。名は秋邦、字は得入、空華、月所、如是縁庵等と号した。平生用いた華押は邦の字であった。剃髪して五郎作新発智東陽院寿阿弥陀仏曇と称した。曇とは好劇家たる五郎作が、音の似通った劇場の緞帳と、入宋僧然の名などとを配合して作った戯号ではなかろうか。
五郎作は劇神仙の号を宝田寿来に承けて、後にこれを抽斎に伝えた人だそうである。
宝田寿来、通称は金之助、一に閑雅と号した。『作者店おろし』という書に、宝田とはもと神田より出でたる名と書いてあるのを見れば、真の氏ではなかったであろう。浄瑠璃『関の扉』はこの人の作だそうである。寛政六年八月に、五十七歳で歿した。五郎作が二十六歳の時で、抽斎の生れる十一年前である。これが初代劇神仙である。
五郎作は歿年から推算するに、明和六年の生で、抽斎の生れた文化二年には三十七歳になっていた。抽斎から見ての長幼の関係は、師迷庵や文晁におけると大差はない。嘉永元年八月二十九日に、八十歳で歿したのだから、抽斎がこの二世劇神仙の後を襲いで三世劇神仙となったのは、四十四歳の時である。初め五郎作は抽斎の父允成と親しく交っていたが、允成は五郎作に先つこと十一年にして歿した。
五郎作は独り劇を看ることを好んだばかりではなく、舞台のために製作をしたこともある。四世彦三郎を贔屓にして、所作事を書いて遣ったと、自分でいっている。レシタションが上手であったことは、同情のない喜多村庭が、台帳を読むのが寿阿弥の唯一の長技だといったのを見ても察せられる。
五郎作は奇行はあったが、生得酒を嗜まず、常に養性に意を用いていた。文政十年七月の末に、姪の家の板の間から墜ちて怪我をして、当時流行した接骨家元大坂町の名倉弥次兵衛に診察してもらうと、名倉がこういったそうである。お前さんは下戸で、戒行が堅固で、気が強い、それでこれほどの怪我をしたのに、目を廻さずに済んだ。この三つが一つ闕けていたら、目を廻しただろう。目を廻したのだと、療治に二百日余掛かるが、これは百五、六十日でなおるだろうといったそうである。戒行とは剃髪した後だからいったものと見える。怪我は両臂を傷めたので骨には障らなかったが痛が久しく息まなかった。五郎作は十二月の末まで名倉へ通ったが、臂のだけは跡に貽った。五十九歳の時の事である。
五郎作は文章を善くした。繊細の事を叙するに簡浄の筆を以てした。技倆の上から言えば、必ずしも馬琴、京伝に譲らなかった。ただ小説を書かなかったので、世の人に知られぬのである。これはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年の十二月に、五郎作の長文の手紙が売に出たと聞いて、大晦日に築地の弘文堂へ買いに往った。手紙は罫紙十二枚に細字で書いたものである。文政十一年二月十九日に書いたということが、記事に拠って明かに考えられる。ここに書いた五郎作の性行も、半は材料をこの簡牘に取ったものである。宛名の堂は桑原氏、名は正瑞、字は公圭、通称を古作といった。駿河国島田駅の素封家で、詩及書を善くした。玄孫喜代平さんは島田駅の北半里ばかりの伝心寺に住んでいる。五郎作の能文はこの手紙一つに徴して知ることが出来るのである。
わたくしの獲た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。臂を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「研ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自らおるわけではないが、これを蜀山らの作に比するに、遜色あるを見ない。庭は五郎作に文筆の才がないと思ったらしく、歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むようなる仮名書して終れりといっているが、此の如きは決して公論ではない。庭は素漫罵の癖がある。五郎作と同年に歿した喜多静廬を評して、性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めりといっている。風流をどんな事と心得ていたか。わたくしは強いて静廬を回護するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術論に詩的という語の悪解釈を挙げて、口を極めて嘲罵しているのを想い起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子を観ることを好んで、奈何なる用事をも擱いて玄関へ見に出たそうである。これが風流である。詩的である。
五郎作は少い時、山本北山の奚疑塾にいた。大窪天民は同窓であったので後にるまで親しく交った。上戸の天民は小さい徳利を蔵して持っていて酒を飲んだ。北山が塾を見廻ってそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、その人物が小さくおもわれるといった。天民がこれを聞いて大樽を塾に持って来たことがあるそうである。下戸の五郎作は定めて傍から見て笑っていたことであろう。
五郎作はまた博渉家の山崎美成や、画家の喜多可庵と往来していた。中にも抽斎より僅に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑を質すことにしていた。五郎作も珍奇の物は山崎の許へ持って往って見せた。
文政六年四月二十九日の事である。まだ下谷長者町で薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋お七のふくさというものを見せに往った。ふくさは数代前に真志屋へ嫁入した島という女の遺物である。島の里方を河内屋半兵衛といって、真志屋と同じく水戸家の賄方を勤め、三人扶持を給せられていた。お七の父八百屋市左衛門はこの河内屋の地借であった。島が屋敷奉公に出る時、穉なじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬のふくさに、紅絹裏を附けて縫ってくれた。間もなく本郷森川宿のお七の家は天和二年十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に情人と相識になって、翌年の春家に帰った後、再び情人と相見ようとして放火したのだそうである。お七は天和三年三月二十九日に、十六歳で刑せられた。島は記念のふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。そして祐天上人から受けた名号をそれに裹んでいた。五郎作は新にふくさの由来を白絹に書いて縫い附けさせたので、山崎に持って来て見せたのである。
五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であった好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年の生で、抽斎の生れた文化二年には七歳になっていた。歿したのは文久元年十二月十五日で、年を享くること六十三であった。
石塚重兵衛の祖先は相模国鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、下谷豊住町に住んだ。世粉商をしているので、芥子屋と人に呼ばれた。真の屋号は鎌倉屋である。
重兵衛も自ら庭に降り立って、芥子の臼を踏むことがあった。そこで豊住町の芥子屋という意で、自ら豊芥子と署した。そしてこれを以て世に行われた。その豊亭と号するのも、豊住町に取ったのである。別に集古堂という号がある。
重兵衛に女が二人あって、長女に壻を迎えたが、壻は放蕩をして離別せられた。しかし後に浅草諏訪町の西側の角に移ってから、またその壻を呼び返していたそうである。
重兵衛は文久元年に京都へ往こうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であった。抽斎の生れた文化二年には、重兵衛は七歳の童であったはずである。
重兵衛の子孫はどうなったかわからない。数年前に大槻如電さんが浅草北清島町報恩寺内専念寺にある重兵衛の墓に詣でて、忌日に墓に来るものは河竹新七一人だということを寺僧に聞いた。河竹にその縁故を問うたら、自分が黙阿弥の門人になったのは、豊芥子の紹介によったからだと答えたそうである。
以上抽斎の友で年長者であったものを数えると、学者に抽斎の生れた年に十六歳であった安積艮斎、十歳であった小島成斎、九歳であった岡本况斎、八歳であった海保漁村がある。医者に当時十一歳であった多紀庭、二歳であった伊沢榛軒がある。その他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であった。
抽斎が始て市野迷庵の門に入ったのは文化六年で、師は四十五歳、弟子は五歳であった。次いで文化十一年に医学を修めんがために、伊沢蘭軒に師事した。師が三十八歳、弟子が十歳の時である。父允成は経芸文章を教えることにも、家業の医学を授けることにも、頗る早く意を用いたのである。想うに後に師とすべき狩谷斎とは、家庭でも会い、師迷庵の許でも会って、幼い時から親しくなっていたであろう。また後に莫逆の友となった小島成斎も、夙く市野の家で抽斎と同門の好を結んだことであろう。抽斎がいつ池田京水の門を敲いたかということは今考えることが出来ぬが、恐らくはこれより後の事であろう。
文化十一年十二月二十八日、抽斎は始て藩主津軽寧親に謁した。寧親は五十歳、抽斎の父允成は五十一歳、抽斎自己は十歳の時である。想うに謁見の場所は本所二つ目の上屋敷であっただろう。謁見即ち目見は抽斎が弘前の士人として受けた礼遇の始で、これから月並出仕を命ぜられるまでには七年立ち、番入を命ぜられ、家督相続をするまでには八年立っている。
抽斎が迷庵門人となってから八年目、文化十四年に記念すべき事があった。それは抽斎と森枳園とが交を訂した事である。枳園は後年これを弟子入と称していた。文化四年十一月生の枳園は十一歳になっていたから、十三歳の抽斎が十一歳の枳園を弟子に取ったことになる。
森枳園、名は立之、字は立夫、初め伊織、中ごろ養真、後養竹と称した。維新後には立之を以て行われていた。父名は恭忠、通称は同じく養竹であった。恭忠は備後国福山の城主阿部伊勢守正倫、同備中守正精の二代に仕えた。その男枳園を挙げたのは、北八町堀竹島町に住んでいた時である。後『経籍訪古志』に連署すべき二人は、ここに始て手を握ったのである。因にいうが、枳園は単独に弟子入をしたのではなくて、同じく十一歳であった、弘前の医官小野道瑛の子道秀も袂を聯ねて入門した。
抽斎の家督相続は文政五年八月朔を以て沙汰せられた。これより先き四年十月朔に、抽斎は月並出仕仰附けられ、五年二月二十八日に、御番見習、表医者仰附けられ、即日見習の席に着き、三月朔に本番に入った。家督相続の年には、抽斎が十八歳で、隠居した父允成が五十九歳であった。抽斎は相続後直ちに一粒金丹製法の伝授を受けた。これは八月十五日の日附を以てせられた。
抽斎の相続したと同じ年同じ月の二十九日に、相馬大作が江戸小塚原で刑せられた。わたくしはこの偶然の符合のために、ここに相馬大作の事を説こうとするのではない。しかし事のついでに言って置きたい事がある。大作は津軽家の祖先が南部家の臣であったと思っていた。そこで文化二年以来津軽家の漸く栄え行くのに平ならず、寧親の入国の時、途に要撃しようとして、出羽国秋田領白沢宿まで出向いた。然るに寧親はこれを知って道を変えて帰った。大作は事露れて捕えられたということである。
津軽家の祖先が南部家の被官であったということは、内藤恥叟も『徳川十五代史』に書いている。しかし郷土史に精しい外崎覚さんは、かつて内藤に書を寄せて、この説の誤を匡そうとした。
初め津軽家と南部家とは対等の家柄であった。然るに津軽家は秀信の世に勢を失って、南部家の後見を受けることになり、後元信、光信父子は人質として南部家に往っていたことさえある。しかし津軽家が南部家に仕えたことはいまだかつて聞かない。光信は彼の渋江辰盛を召し抱えた信政の六世の祖である。津軽家の隆興は南部家に怨を結ぶはずがない。この雪冤の文を作った外崎さんが、わたくしの渋江氏の子孫を捜し出す媒をしたのだから、わたくしはただこれだけの事をここに記して置く。
家督相続の翌年、文政六年十二月二十三日に、抽斎は十九歳で、始て妻を娶った。妻は下総国佐倉の城主堀田相模守正愛家来大目附百石岩田十大夫女百合として願済になったが、実は下野国安蘇郡佐野の浪人尾島忠助女定である。この人は抽斎の父允成が、子婦には貧家に成長して辛酸を嘗めた女を迎えたいといって選んだものだそうである。夫婦の齢は抽斎が十九歳、定が十七歳であった。
この年に森枳園は、これまで抽斎の弟子、即ち伊沢蘭軒の孫弟子であったのに、去って直ちに蘭軒に従学することになった。当時西語にいわゆるシニックで奇癖が多く、朝夕好んで俳優の身振声色を使う枳園の同窓に、今一人塩田楊庵という奇人があった。素越後新潟の人で、抽斎と伊沢蘭軒との世話で、宗対馬守義質の臣塩田氏の女壻となった。塩田は散歩するに友を誘わぬので、友が密に跡に附いて行って見ると、竹の杖を指の腹に立てて、本郷追分の辺を徘徊していたそうである。伊沢の門下で枳園楊庵の二人は一双の奇癖家として遇せられていた。声色遣も軽業師も、共に十七歳の諸生であった。
抽斎の母縫は、子婦を迎えてから半年立って、文政七年七月朔に剃髪して寿松と称した。
翌文政八年三月晦には、当時抽斎の住んでいた元柳原町六丁目の家が半焼になった。この年津軽家には代替があった。寧親が致仕して、大隅守信順が封を襲いだのである。時に信順は二十六歳、即ち抽斎より長ずること五歳であった。
次の文政九年は抽斎が種々の事に遭逢した年である。先ず六月二十八日に姉須磨が二十五歳で亡くなった。それから八月十四日に、師市野迷庵が六十二歳で歿した。最後に十二月五日に、嫡子恒善が生れた。
須磨は前にいった通、飯田良清というものの妻になっていたが、この良清は抽斎の父允成の実父稲垣清蔵の孫である。清蔵の子が大矢清兵衛、清兵衛の子が飯田良清である。須磨の夫が飯田氏を冒したのは、幕府の家人株を買ったのであるから、夫の父が大矢氏を冒したのも、恐らくは株として買ったのであろう。
迷庵の死は抽斎をして狩谷斎に師事せしむる動機をなしたらしいから、抽斎が斎の門に入ったのも、この頃の事であっただろう。迷庵の跡は子光寿が襲いだ。
文政十二年もまた抽斎のために事多き年であった。三月十七日には師伊沢蘭軒が五十三歳で歿した。二十八日には抽斎が近習医者介を仰附けられた。六月十四日には母寿松が五十五歳で亡くなった。十一月十一日には妻定が離別せられた。十二月十五日には二人目の妻同藩留守居役百石比良野文蔵の女威能が二十四歳で来り嫁した。抽斎はこの年二十五歳であった。
わたくしはここに抽斎の師伊沢氏の事、それから前後の配偶定と威能との事を附け加えたい。亡くなった母については別に言うべき事がない。
抽斎と伊沢氏との交は、蘭軒の歿した後も、少しも衰えなかった。蘭軒の嫡子榛軒が抽斎の親しい友で、抽斎より長ずること一歳であったことは前に言った。榛軒の弟柏軒、通称磐安は文化七年に生れた。怙を喪った時、兄は二十六歳、弟は二十歳であった。抽斎は柏軒を愛して、己の弟の如くに待遇した。柏軒は狩谷斎の女俊を娶った。その次男が磐、三男が今の歯科医信平さんである。
抽斎の最初の妻定が離別せられたのは何故か詳にすることが出来ない。しかし渋江の家で、貧家の女なら、こういう性質を具えているだろうと予期していた性質を、定は不幸にして具えていなかったかも知れない。
定に代って渋江の家に来た抽斎の二人目の妻威能は、世要職におる比良野氏の当主文蔵を父に持っていた。貧家の女に懲りて迎えた子婦であろう。そしてこの子婦は短命ではあったが、夫の家では人々に悦ばれていたらしい。何故そういうかというに、後威能が亡くなり、次の三人目の妻がまた亡くなって、四人目の妻が商家から迎えられる時、威能の父文蔵は喜んで仮親になったからである。渋江氏と比良野氏との交誼が、後に至るまで此の如くに久しく渝らずにいたのを見ても、婦壻の間にヂソナンスのなかったことが思い遣られる。
比良野氏は武士気質の家であった。文蔵の父、威能の祖父であった助太郎貞彦は文事と武備とを併せ有した豪傑の士である。外浜また嶺雪と号し、安永五年に江戸藩邸の教授に挙げられた。画を善くして、「外浜画巻」及「善知鳥画軸」がある。剣術は群を抜いていた。壮年の頃村正作の刀を佩びて、本所割下水から大川端辺までの間を彷徨して辻斬をした。千人斬ろうと思い立ったのだそうである。抽斎はこの事を聞くに及んで、歎息して已まなかった。そして自分は医薬を以て千人を救おうという願を発した。
天保二年、抽斎が二十七歳の時、八月六日に長女純が生れ、十月二日に妻威能が歿した。年は二十六で、帰いでから僅に三年目である。十二月四日に、備後国福山の城主阿部伊予守正寧の医官岡西栄玄の女徳が抽斎に嫁した。この年八月十五日に、抽斎の父允成は隠居料三人扶持を賜わった。これは従来寧親信順二公にかわるがわる勤仕していたのに、六月からは兼て岩城隆喜の室、信順の姉もと姫に、また八月からは信順の室欽姫に伺候することになったからであろう。
この時抽斎の家族は父允成、妻岡西氏徳、尾島氏出の嫡子恒善、比良野氏出の長女純の四人となっていた。抽斎が三人目の妻徳を娶るに至ったのは、徳の兄岡西玄亭が抽斎と同じく蘭軒の門下におって、共に文字の交を訂していたからである。
天保四年四月六日に、抽斎は藩主信順に随って江戸を発し、始めて弘前に往った。江戸に還ったのは、翌五年十一月十五日である。この留守に前藩主寧親は六十九歳で卒した。抽斎の父允成が四月朔に二人扶持の加増を受けて、隠居料五人扶持にせられたのは、特に寧親に侍せしめられたためであろう。これは抽斎が二十九歳から三十歳に至る間の事である。
抽斎の友森枳園が佐々木氏勝を娶って、始めて家庭を作ったのも天保四年で、抽斎が弘前に往った時である。これより先枳園は文政四年に怙を喪って、十五歳で形式的の家督相続をなした。蘭軒に従学する前二年の事である。
天保六年閏七月四日に、抽斎は師狩谷斎を喪なった。六十一歳で亡くなったのである。十一月五日に、次男優善が生れた。後に名を優と改めた人である。この年抽斎は三十一歳になった。
斎の後は懐之、字は少卿、通称は三平が嗣いだ。抽斎の家族は父允成、妻徳、嫡男恒善、長女純、次男優善の五人になった。
同じ年に森枳園の家でも嫡子養真が生れた。
天保七年三月二十一日に、抽斎は近習詰に進んだ。これまでは近習格であったのである。十一月十四日に、師池田京水が五十一歳で歿した。この年抽斎は三十二歳になった。
京水には二人の男子があった。長を瑞長といって、これが家業を襲いだ。次を全安といって、伊沢家の女壻になった。榛軒の女かえに配せられたのである。後に全安は自立して本郷弓町に住んだ。
天保八年正月十五日に、抽斎の長子恒善が始て藩主信順に謁した。年甫て十二である。七月十二日に、抽斎は信順に随って弘前に往った。十月二十六日に、父允成が七十四歳で歿した。この年抽斎は三十三歳になった。
初め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆる詰越をすることになった。例に依って翌年江戸に帰らずに、二冬を弘前で過すことになったのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、豕の子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んで悶を遣った。抽斎が酒を飲み、獣肉をうようになったのはこの時が始である。
しかし抽斎は生涯煙草だけは喫まずにしまった。允成の直系卑属は、今の保さんなどに至るまで、一人も煙草を喫まぬのだそうである。但し抽斎の次男優善は破格であった。
抽斎のまだ江戸を発せぬ前の事である。徒士町の池田の家で、当主瑞長が父京水の例に倣って、春の初に発会式ということをした。京水は毎年これを催して、門人を集えたのであった。然るに今年抽斎が往って見ると、名は発会式と称しながら、趣は全く前日に異っていて、京水時代の静粛は痕だに留めなかった。芸者が来て酌をしている。森枳園が声色を使っている。抽斎は暫く黙して一座の光景を視ていたが、遂に容を改めて主客の非礼を責めた。瑞長は大いに羞じて、すぐに芸者に暇を遣ったそうである。
引き続いて二月に、森枳園の家に奇怪な事件が生じた。枳園は阿部家を逐われて、祖母、母、妻勝、生れて三歳の倅養真の四人を伴って夜逃をしたのである。後に枳園の自ら選んだ寿蔵碑には「有故失禄」と書してあるが、その故は何かというと、実に悲惨でもあり、また滑稽でもあった。
枳園は好劇家であった。単に好劇というだけなら、抽斎も同じ事である。しかし抽斎は俳優の技を、観棚から望み見て楽むに過ぎない。枳園は自らその科白を学んだ。科白を学んで足らず、遂に舞台に登って※子[#「木+邦」、U+6886、87-8]を撃った。後にはいわゆる相中の間に混じて、並大名などに扮し、また注進などの役をも勤めた。
或日阿部家の女中が宿に下って芝居を看に往くと、ふと登場している俳優の一人が養竹さんに似ているのに気が附いた。そう思って、と見こう見するうちに、女中はそれが養竹さんに相違ないと極めた。そして邸に帰ってから、これを傍輩に語った。固より一の可笑しい事として語ったので、初より枳園に危害を及ぼそうとは思わなかったのである。
さてこの奇談が阿部邸の奥表に伝播して見ると、上役はこれを棄て置かれぬ事と認めた。そこでいよいよ君侯に稟して禄を褫うということになってしまった。
枳園は俳優に伍して登場した罪によって、阿部家の禄を失って、永の暇になった。後に抽斎の四人目の妻となるべき山内氏五百の姉は、阿部家の奥に仕えて、名を金吾と呼ばれ、枳園をも識っていたが、事件の起る三、四年前に暇を取ったので、当時の阿部家における細かい事情を知らなかった。
永の暇になるまでには、相応に評議もあったことであろう。友人の中には、枳園を救おうとした人もあったことであろう。しかし枳園は平生細節に拘らぬ人なので、諸方面に対して、世にいう不義理が重なっていた。中にも一、二件の筆紙に上すべからざるものもある。救おうとした人も、これらの障礙のために、その志を遂げることが出来なかったらしい。
枳園は江戸で暫く浪人生活をしていたが、とうとう負債のために、家族を引き連れて夜逃をした。恐らくはこの最後の策に出づることをば、抽斎にも打明けなかっただろう。それは面目がなかったからである。矩の道を紳に書していた抽斎をさえ、度々忍びがたき目に逢わせていたからである。
枳園は相模国をさして逃げた。これは当時三十一歳であった枳園には、もう幾人かの門人があって、その中に相模の人がいたのをたよって逃げたのである。この落魄中の精しい経歴は、わたくしにはわからない。『桂川詩集』、『遊相医話』などという、当時の著述を見たらわかるかも知れぬが、わたくしはまだ見るに及ばない。寿蔵碑には、浦賀、大磯、大山、日向、津久井県の地名が挙げてある。大山は今の大山町、日向は今の高部屋村で、どちらも大磯と同じ中郡である。津久井県は今の津久井郡で相模川がこれを貫流している。桂川はこの川の上流である。
後に枳園の語った所によると、江戸を立つ時、懐中には僅に八百文の銭があったのだそうである。この銭は箱根の湯本に着くと、もう遣い尽していた。そこで枳園はとりあえず按摩をした。上下十六文の銭を獲るも、なお已むにまさったのである。啻に按摩のみではない。枳園は手当り次第になんでもした。「無論内外二科、或為収生、或為整骨、至于牛馬狗之疾、来乞治者、莫不施術」と、自記の文にいってある。収生はとりあげである。整骨は骨つぎである。獣医の縄張内にも立ち入った。医者の歯を治療するのをだに拒もうとする今の人には、想像することも出来ぬ事である。
老いたる祖母は浦賀で困厄の間に歿した。それでも跡に母と妻と子とがある。自己を併せて四人の口を、此の如き手段で糊しなくてはならなかった。しかし枳園の性格から推せば、この間に処して意気沮喪することもなく、なお幾分のボンヌ・ユミヨオルを保有していたであろう。
枳園はようよう大磯に落ち着いた。門人が名主をしていて、枳園を江戸の大先生として吹聴し、ここに開業の運に至ったのである。幾ばくもなくして病家の数が殖えた。金帛を以て謝することの出来ぬものも、米穀菜蔬を輸って庖厨を賑した。後には遠方から轎を以て迎えられることもある。馬を以て請ぜられることもある。枳園は大磯を根拠地として、中、三浦両郡の間を往来し、ここに足掛十二年の月日を過すこととなった。
抽斎は天保九年の春を弘前に迎えた。例の宿直日記に、正月十三日忌明と書してある。父の喪が果てたのである。続いて第二の冬をも弘前で過して、翌天保十年に、抽斎は藩主信順に随って江戸に帰った。三十五歳になった年である。
この年五月十五日に、津軽家に代替があった。信順は四十歳で致仕して柳島の下屋敷に遷り、同じ齢の順承が小津軽から入って封を襲いだ。信順は頗る華美を好み、動もすれば夜宴を催しなどして、財政の窮迫を馴致し、遂に引退したのだそうである。
抽斎はこれから隠居信順附にせられて、平日は柳島の館に勤仕し、ただ折々上屋敷に伺候した。
天保十一年は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁は抽斎が師友を以て遇していた年長者で、抽斎は平素画を鑑賞することについては、なにくれとなく教を乞い、また古器物や本艸の参考に供すべき動植物を図するために、筆の使方、顔料の解方などを指図してもらった。それが前年に七十七の賀宴を両国の万八楼で催したのを名残にして、今年亡人の数に入ったのである。跡は文化九年生で二十九歳になる文二が嗣いだ。文二の外に六人の子を生んだ文晁の後妻阿佐は、もう五年前に夫に先って死んでいたのである。この年抽斎は三十六歳であった。
天保十二年には、岡西氏徳が二女好を生んだが、好は早世した。閏正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである。翌十三年には、三男八三郎が生れたが、これも夭折した。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽斎が三十七歳から三十八歳になるまでの事である。わたくしは抽斎の事を叙する初において、天保十二年の暮の作と認むべき抽斎の述志の詩を挙げて、当時の渋江氏の家族を数えたが、ち来りち去った女好の名は見わすことが出来なかった。
天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。
この年に躋寿館で書を講じて、陪臣町医に来聴せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始て新に講師が任用せられた。初館には都講、教授があって、生徒に授業していたに過ぎない。一時多紀藍渓時代に百日課の制を布いて、医学も経学も科を分って、百日を限って講じたことがある。今いうクルズスである。しかしそれも生徒に聴かせたのである。百日課は四年間で罷んだ。講師を置いて、陪臣町医の来聴を許すことになったのは、この時が始である。五カ月の後、幕府が抽斎を起たしむることとなったのは、この制度あるがためである。
弘化元年は抽斎のために、一大転機を齎した。社会においては幕府の直参になり、家庭においては岡西氏徳のみまかった跡へ、始て才色兼ね備わった妻が迎えられたのである。
この一年間の出来事を順次に数えると、先ず二月二十一日に妻徳が亡くなった。三月十二日に老中土井大炊頭利位を以て、抽斎に躋寿館講師を命ぜられた。四月二十九日に定期登城を命ぜられた。年始、八朔、五節句、月並の礼に江戸城に往くことになったのである。十一月六日に神田紺屋町鉄物問屋山内忠兵衛妹五百が来り嫁した。表向は弘前藩目附役百石比良野助太郎妹翳として届けられた。十二月十日に幕府から白銀五枚を賜わった。これは以下恒例になっているから必ずしも書かない。同月二十六日に長女純が幕臣馬場玄玖に嫁した。時に年十六である。
抽斎の岡西氏徳を娶ったのは、その兄玄亭が相貌も才学も人に優れているのを見て、この人の妹ならと思ったからである。然るに伉儷をなしてから見ると、才貌共に予期したようではなかった。それだけならばまだ好かったが、徳は兄には似ないで、かえって父栄玄の褊狭な気質を受け継いでいた。そしてこれが抽斎にアンチパチイを起させた。
最初の妻定は貧家の女の具えていそうな美徳を具えていなかったらしく、抽斎の父允成が或時、己の考が悪かったといって歎息したこともあるそうだが、抽斎はそれほど厭とは思わなかった。二人目の妻威能は怜悧で、人を使う才があった。とにかく抽斎に始てアンチパチイを起させたのは、三人目の徳であった。
克己を忘れたことのない抽斎は、徳を叱り懲らすことはなかった。それのみではない。あらわに不快の色を見せもしなかった。しかし結婚してから一年半ばかりの間、これに親近せずにいた。そして弘前へ立った。初度の旅行の時の事である。
さて抽斎が弘前にいる間、江戸の便があるごとに、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の出来事を、殆ど日記のように悉く書いたのである。抽斎は初め数行を読んで、直ちにこの書信が徳の自力によって成ったものでないことを知った。文章の背面に父允成の気質が歴々として見えていたからである。
允成は抽斎の徳に親まぬのを見て、前途のために危んでいたので、抽斎が旅に立つと、すぐに徳に日課を授けはじめた。手本を与えて手習をさせる。日記を附けさせる。そしてそれに本づいて文案を作って、徳に筆を把らせ、家内の事は細大となく夫に報ぜさせることにしたのである。
抽斎は江戸の手紙を得るごとに泣いた。妻のために泣いたのではない。父のために泣いたのである。
二年近い旅から帰って、抽斎は勉めて徳に親んで、父の心を安ぜようとした。それから二年立って優善が生れた。
尋いで抽斎は再び弘前へ往って、足掛三年淹留した。留守に父の亡くなった旅である。それから江戸に帰って、中一年置いて好が生れ、その翌年また八三郎が生れた。徳は八三郎を生んで一年半立って亡くなった。
そして徳の亡くなった跡へ山内氏五百が来ることになった。抽斎の身分は徳が往き、五百が来る間に変って、幕府の直参になった。交際は広くなる。費用は多くなる。五百は卒にその中に身を投じて、難局に当らなくてはならなかった。五百があたかも好しその適材であったのは、抽斎の幸である。
五百の父山内忠兵衛は名を豊覚といった。神田紺屋町に鉄物問屋を出して、屋号を日野屋といい、商標には井桁の中に喜の字を用いた。忠兵衛は詩文書画を善くして、多く文人墨客に交り、財を捐ててこれが保護者となった。
忠兵衛に三人の子があった。長男栄次郎、長女安、二女五百である。忠兵衛は允成の友で、嫡子栄次郎の教育をば、久しく抽斎に託していた。文政七、八年の頃、允成が日野屋をおとずれて、芝居の話をすると、九つか十であった五百と、一つ年上の安とが面白がって傍聴していたそうである。安は即ち後に阿部家に仕えた金吾である。
五百は文化十三年に生れた。兄栄次郎が五歳、姉安が二歳になっていた時である。忠兵衛は三人の子の次第に長ずるに至って、嫡子には士人たるに足る教育を施し、二人の女にも尋常女子の学ぶことになっている読み書き諸芸の外、武芸をしこんで、まだ小さい時から武家奉公に出した。中にも五百には、経学などをさえ、殆ど男子に授けると同じように授けたのである。
忠兵衛が此の如くに子を育てたには来歴がある。忠兵衛の祖先は山内但馬守盛豊の子、対馬守一豊の弟から出たのだそうで、江戸の商人になってからも、三葉柏の紋を附け、名のりに豊の字を用いることになっている。今わたくしの手近にある系図には、一豊の弟は織田信長に仕えた修理亮康豊と、武田信玄に仕えた法眼日泰との二人しか載せてない。忠兵衛の家は、この二人の内いずれかの裔であるか、それとも外に一豊の弟があったか、ここに遽に定めることが出来ない。
五百は十一、二歳の時、本丸に奉公したそうである。年代を推せば、文政九年か十年かでなくてはならない。徳川家斉が五十四、五歳になった時である。御台所は近衛経煕の養女茂姫である。
五百は姉小路という奥女中の部屋子であったという。姉小路というからには、上臈であっただろう。然らば長局の南一の側に、五百はいたはずである。五百らが夕方になると、長い廊下を通って締めに往かなくてはならぬ窓があった。その廊下には鬼が出るという噂があった。鬼とはどんな物で、それが出て何をするかというに、誰も好くは見ぬが、男の衣を着ていて、額に角が生えている。それが礫を投げ掛けたり、灰を蒔き掛けたりするというのである。そこでどの部屋子も窓を締めに往くことを嫌って、互に譲り合った。五百は穉くても胆力があり、武芸の稽古をもしたことがあるので、自ら望んで窓を締めに往った。
暗い廊下を進んで行くと、果してちょろちょろと走り出たものがある。おやと思う間もなく、五百は片頬に灰を被った。五百には咄嗟の間に、その物の姿が好くは見えなかったが、どうも少年の悪作劇らしく感ぜられたので、五百は飛び附いて掴まえた。
「許せ/\」と鬼は叫んで身をもがいた。五百はすこしも手を弛めなかった。そのうちに外の女子たちが馳せ附けた。
鬼は降伏して被っていた鬼面を脱いだ。銀之助様と称えていた若者で、穉くて美作国西北条郡津山の城主松平家へ壻入した人であったそうである。
津山の城主松平越後守斉孝の次女徒の方の許へ壻入したのは、家斉の三十四人目の子で、十四男参河守斉民である。
斉民は小字を銀之助という。文化十一年七月二十九日に生れた。母はお八重の方である。十四年七月二十二日に、御台所の養子にせられ、九月十八日に津山の松平家に壻入し、十二月三日に松平邸に往た。四歳の壻君である。文政二年正月二十八日には新居落成してそれに移った。七年三月二十八日には十一歳で元服して、従四位上侍従参河守斉民となった。九年十二月には十三歳で少将にせられた。人と成って後確堂公と呼ばれたのはこの人で、成島柳北の碑の篆額はその筆である。そうして見ると、この人が鬼になって五百に捉えられたのは、従四位上侍従になってから後で、ただ少将であったか、なかったかが疑問である。津山邸に館はあっても、本丸に寝泊して、小字の銀之助を呼ばれていたものと見える。年は五百より二つ上である。
五百の本丸を下ったのは何時だかわからぬが、十五歳の時にはもう藤堂家に奉公していた。五百が十五歳になったのは、天保元年である。もし十四歳で本丸を下ったとすると、文政十二年に下ったことになる。
五百は藤堂家に奉公するまでには、二十幾家という大名の屋敷を目見をして廻ったそうである。その頃も女中の目見は、君臣を択ばず、臣君を択ぶというようになっていたと見えて、五百が此の如くに諸家の奥へ覗きに往ったのは、到処で斥けられたのではなく、自分が仕うることを肯ぜなかったのだそうである。
しかし二十余家を経廻るうちに、ただ一カ所だけ、五百が仕えようと思った家があった。それが偶然にも土佐国高知の城主松平土佐守豊資の家であった。即ち五百と祖先を同じうする山内家である。
五百が鍛冶橋内の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じような考試に逢った。それは手跡、和歌、音曲の嗜を験されるのである。試官は老女である。先ず硯箱と色紙とを持ち出して、老女が「これに一つお染を」という。五百は自作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も済んだ。それから常磐津を一曲語らせられた。これらの事は他家と何の殊なることもなかったが、女中が悉く綿服であったのが、五百の目に留まった。二十四万二千石の大名の奥の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐにこの家に奉公したいと決心した。奥方は松平上総介斉政の女である。
この時老女がふと五百の衣類に三葉柏の紋の附いているのを見附けた。
山内家の老女は五百に、どうして御当家の紋と同じ紋を、衣類に附けているかと問うた。
五百は自分の家が山内氏で、昔から三葉柏の紋を附けていると答えた。
老女は暫く案じてからいった。御用に立ちそうな人と思われるから、お召抱になるように申し立てようと思う。しかしその紋は当分御遠慮申すが好かろう。由緒のあることであろうから、追ってお許を願うことも出来ようといった。
五百は家に帰って、父に当分紋を隠して奉公することの可否を相談した。しかし父忠兵衛は即座に反対した。姓名だの紋章だのは、先祖から承けて子孫に伝える大切なものである。濫に匿したり更めたりすべきものではない。そんな事をしなくては出来ぬ奉公なら、せぬが好いといったのである。
五百が山内家をことわって、次に目見に往ったのが、向柳原の藤堂家の上屋敷であった。例の考試は首尾好く済んだ。別格を以て重く用いても好いといって、懇望せられたので、諸家を廻り草臥れた五百は、この家に仕えることに極めた。
五百はすぐに中臈にせられて、殿様附と定まり、同時に奥方祐筆を兼ねた。殿様は伊勢国安濃郡津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂和泉守高猷である。官位は従四位侍従になっていた。奥方は藤堂主殿頭高の女である。
この時五百はまだ十五歳であったから、尋常ならば女小姓に取らるべきであった。それが一躍して中臈を贏ち得たのは破格である。女小姓は茶、烟草、手水などの用を弁ずるもので、今いう小間使である。中臈は奥方附であると、奥方の身辺に奉仕して、種々の用事を弁ずるものである。幕府の慣例ではそれが転じて将軍附となると、妾になったと見ても好い。しかし大名の家では奥方に仕えずに殿様に仕えるというに過ぎない。祐筆は日記を附けたり、手紙を書いたりする役である。
五百は呼名は挿頭と附けられた。後に抽斎に嫁することに極まって、比良野氏の娘分にせられた時、翳の名を以て届けられたのは、これを襲用したのである。さて暫く勤めているうちに、武芸の嗜のあることを人に知られて、男之助という綽名が附いた。
藤堂家でも他家と同じように、中臈は三室位に分たれた部屋に住んで、女二人を使った。食事は自弁であった。それに他家では年給三十両内外であるのに、藤堂家では九両であった。当時の武家奉公をする女は、多く俸銭を得ようと思っていたのではない。今の女が女学校に往くように、修行をしに往くのである。風儀の好さそうな家を択んで仕えようとした五百なぞには、給料の多寡は初より問う所でなかった。
修行は金を使ってする業で、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住いをして、役人に物を献じ、傍輩に饗応し、衣服調度を調え、下女を使って暮すには、父忠兵衛は年に四百両を費したそうである。給料は三十両貰っても九両貰っても、格別の利害を感ぜなかったはずである。
五百は藤堂家で信任せられた。勤仕いまだ一年に満たぬのに、天保二年の元日には中臈頭に進められた。中臈頭はただ一人しか置かれぬ役で、通例二十四、五歳の女が勤める。それを五百は十六歳で勤めることになった。
五百は藤堂家に十年間奉公した。そして天保十年に二十四歳で、父忠兵衛の病気のために暇を取った。後に夫となるべき抽斎は五百が本丸にいた間、尾島氏定を妻とし、藤堂家にいた間、比良野氏威能、岡西氏徳を相踵いで妻としていたのである。
五百の藤堂家を辞した年は、父忠兵衛の歿した年である。しかし奉公を罷めた頃は、忠兵衛はまだ女を呼び寄せるほどの病気をしてはいなかった。暇を取ったのは、忠兵衛が女を旅に出すことを好まなかったためである。この年に藤堂高猷夫妻は伊勢参宮をすることになっていて、五百は供の中に加えられていた。忠兵衛は高猷の江戸を立つに先って、五百を家に還らしめたのである。
五百の帰った紺屋町の家には、父忠兵衛の外、当時五十歳の忠兵衛妾牧、二十八歳の兄栄次郎がいた。二十五歳の姉安は四年前に阿部家を辞して、横山町の塗物問屋長尾宗右衛門に嫁していた。宗右衛門は安がためには、ただ一つ年上の夫であった。
忠兵衛の子がまだ皆幼く、栄次郎六歳、安三蔵、五百二歳の時、麹町の紙問屋山一の女で松平摂津守義建の屋敷に奉公したことのある忠兵衛の妻は亡くなったので、跡には享和三年に十四歳で日野屋へ奉公に来た牧が、妾になっていたのである。
忠兵衛は晩年に、気が弱くなっていた。牧は人の上に立って指図をするような女ではなかった。然るに五百が藤堂家から帰った時、日野屋では困難な問題が生じて全家が頭を悩ませていた。それは五百の兄栄次郎の身の上である。
栄次郎は初め抽斎に学んでいたが、尋いで昌平黌に通うことになった。安の夫になった宗右衛門は、同じ学校の諸生仲間で、しかもこの二人だけが許多の士人の間に介まっていた商家の子であった。譬えていって見れば、今の人が華族でなくて学習院に入っているようなものである。
五百が藤堂家に仕えていた間に、栄次郎は学校生活に平ならずして、吉原通をしはじめた。相方は山口巴の司という女であった。五百が屋敷から下る二年前に、栄次郎は深入をして、とうとう司の身受をするということになったことがある。忠兵衛はこれを聞き知って、勘当しようとした。しかし救解のために五百が屋敷から来たので、沙汰罷になった。
然るに五百が藤堂家を辞して帰った時、この問題が再燃していた。
栄次郎は妹の力に憑って勘当を免れ、暫く謹慎して大門を潜らずにいた。その隙に司を田舎大尽が受け出した。栄次郎は鬱症になった。忠兵衛は心弱くも、人に栄次郎を吉原へ連れて往かせた。この時司の禿であった娘が、浜照という名で、来月突出になることになっていた。栄次郎は浜照の客になって、前よりも盛な遊をしはじめた。忠兵衛はまた勘当すると言い出したが、これと同時に病気になった。栄次郎もさすがに驚いて、暫く吉原へ往かずにいた。これが五百の帰った時の現状である。
この時に当って、まさに覆らんとする日野屋の世帯を支持して行こうというものが、新に屋敷奉公を棄てて帰った五百の外になかったことは、想像するに難くはあるまい。姉安は柔和に過ぎて決断なく、その夫宗右衛門は早世した兄の家業を襲いでから、酒を飲んで遊んでいて、自分の産を治することをさえ忘れていたのである。
五百は父忠兵衛をいたわり慰め、兄栄次郎を諌め励まして、風浪に弄ばれている日野屋という船の柁を取った。そして忠兵衛の異母兄で十人衆を勤めた大孫某を証人に立てて、兄をして廃嫡を免れしめた。
忠兵衛は十二月七日に歿した。日野屋の財産は一旦忠兵衛の意志に依って五百の名に書き更えられたが、五百は直ちにこれを兄に返した。
五百は男子と同じような教育を受けていた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために新少納言と呼ばれたという一面がある。同じ頃狩谷斎の女俊に少納言の称があったので、五百はこれに対えてかく呼ばれたのである。
五百の師として事えた人には、経学に佐藤一斎、筆札に生方鼎斎、絵画に谷文晁、和歌に前田夏蔭があるそうである。十一、二歳の時夙く奉公に出たのであるから、教を受けるには、宿に下る度ごとに講釈を聴くとか、手本を貰って習って清書を見せに往くとか、兼題の歌を詠んで直してもらうとかいう稽古の為方であっただろう。
師匠の中で最も老年であったのは文晁、次は一斎、次は夏蔭、最も少壮であったのが鼎斎である。年齢を推算するに、五百の生れた文化十三年には、文晁が五十四、一斎が四十五、夏蔭が二十四、鼎斎が十八になっていた。
文晁は前にいったとおり、天保十一年に七十八で歿した。五百が二十五の時である。一斎は安政六年九月二十四日に八十八で歿した。五百が四十四の時である。夏蔭は元治元年八月二十六日に七十二で歿した。五百が四十九の時である。鼎斎は安政三年正月七日に五十八で歿した。五百が四十一の時である。鼎斎は画家福田半香の村松町の家へ年始の礼に往って酒に酔い、水戸の剣客某と口論をし出して、其の門人に斬られたのである。
五百は鼎斎を師とした外に、近衛予楽院と橘千蔭との筆跡を臨模したことがあるそうである。予楽院家煕は元文元年に薨じた。五百の生れる前八十年である。芳宜園千蔭は身分が町奉行与力で、加藤又左衛門と称し、文化五年に歿した。五百の生れる前八年である。
五百は藤堂家を下ってから五年目に渋江氏に嫁した。穉い時から親しい人を夫にするのではあるが、五百の身に取っては、自分が抽斎に嫁し得るというポッシビリテエの生じたのは、二月に岡西氏徳が亡くなってから後の事である。常に往来していた渋江の家であるから、五百は徳の亡くなった二月から、自分の嫁して来る十一月までの間にも、抽斎を訪うたことがある。未婚男女の交際とか自由結婚とかいう問題は、当時の人は夢にだに知らなかった。立派な教育のある二人が、男は四十歳、女は二十九歳で、多く年を閲した友人関係を棄てて、遽に夫婦関係に入ったのである。当時においては、醒覚せる二人の間に、此の如く婚約が整ったということは、絶てなくして僅にあるものといって好かろう。
わたくしは鰥夫になった抽斎の許へ、五百の訪い来た時の緊張したシチュアションを想像する。そして保さんの語った豊芥子の逸事を憶い起して可笑しく思う。五百の渋江へ嫁入する前であった。或日五百が来て抽斎と話をしていると、そこへ豊芥子が竹の皮包を持って来合せた。そして包を開いて抽斎に鮓を薦め、自分も食い、五百に是非食えといった。後に五百は、あの時ほど困ったことはないといったそうである。
五百は抽斎に嫁するに当って、比良野文蔵の養女になった。文蔵の子で目附役になっていた貞固は文化九年生で、五百の兄栄次郎と同年であったから、五百はその妹になったのである。然るに貞固は姉威能の跡に直る五百だからというので、五百を姉と呼ぶことにした。貞固の通称は祖父と同じ助太郎である。
文蔵は仮親になるからは、真の親と余り違わぬ情誼がありたいといって、渋江氏へ往く三カ月ばかり前に、五百を我家に引き取った。そして自分の身辺におらせて、煙草を填めさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。
助太郎は武張った男で、髪を糸鬢に結い、黒紬の紋附を着ていた。そしてもう藍原氏かなという嫁があった。初め助太郎とかなとは、まだかなが藍原右衛門の女であった時、穴隙を鑽って相見えたために、二人は親々の勘当を受けて、裏店の世帯を持った。しかしどちらも可哀い子であったので、間もなくわびがって助太郎は表立ってかなを妻に迎えたのである。
五百が抽斎に帰いだ時の支度は立派であった。日野屋の資産は兄栄次郎の遊蕩によって傾き掛かってはいたが、先代忠兵衛が五百に武家奉公をさせるために為向けて置いた首飾、衣服、調度だけでも、人の目を驚かすに足るものがあった。今の世の人も奉公上りには支度があるという。しかしそれは賜物をいうのである。当時の女子はこれに反して、主に親の為向けた物を持っていたのである。五年の後に夫が将軍に謁した時、五百はこの支度の一部を沽って、夫の急を救うことを得た。またこれに先つこと一年に、森枳園が江戸に帰った時も、五百はこの支度の他の一部を贈って、枳園の妻をして面目を保たしめた。枳園の妻は後々までも、衣服を欲するごとに五百に請うので、お勝さんはわたしの支度を無尽蔵だと思っているらしいといって、五百が歎息したことがある。
五百の来り嫁した時、抽斎の家族は主人夫婦、長男恒善、長女純、次男優善の五人であったが、間もなく純は出でて馬場氏の婦となった。
弘化二年から嘉水元年までの間、抽斎が四十一歳から四十四歳までの間には、渋江氏の家庭に特筆すべき事が少かった。五百の生んだ子には、弘化二年十一月二十六日生の三女棠、同三年十月十九日生れの四男幻香、同四年十月八日生れの四女陸がある。四男は死んで生れたので、幻香水子はその法諡である。陸は今の杵屋勝久さんである。嘉永元年十二月二十八日には、長男恒善が二十三歳で月並出仕を命ぜられた。
五百の里方では、先代忠兵衛が歿してから三年ほど、栄次郎の忠兵衛は謹慎していたが、天保十三年に三十一歳になった頃から、また吉原へ通いはじめた。相方は前の浜照であった。そして忠兵衛は遂に浜照を落籍させて妻にした。尋いで弘化三年十一月二十二日に至って、忠兵衛は隠居して、日野屋の家督を僅に二歳になった抽斎の三女棠に相続させ、自分は金座の役人の株を買って、広瀬栄次郎と名告った。
五百の姉安を娶った長尾宗右衛門は、兄の歿した跡を襲いでから、終日手杯を釈かず、塗物問屋の帳場は番頭に任せて顧みなかった。それを温和に過ぐる性質の安は諌めようともしないので、五百は姉を訪うてこの様子を見る度にもどかしく思ったが為方がなかった。そういう時宗右衛門は五百を相手にして、『資治通鑑』の中の人物を評しなどして、容易に帰ることを許さない。五百が強いて帰ろうとすると、宗右衛門は安の生んだお敬お銓の二人の女に、おばさんを留めいという。二人の女は泣いて留める。これはおばの帰った跡で家が寂しくなるのと、父が不機嫌になるのとを憂えて泣くのである。そこで五百はとうとう帰る機会を失うのである。五百がこの有様を夫に話すと、抽斎は栄次郎の同窓で、妻の姉壻たる宗右衛門の身の上を気遣って、わざわざ横山町へ諭しに往った。宗右衛門は大いに慙じて、やや産業に意を用いるようになった。
森枳園は大磯で医業が流行するようになって、生活に余裕も出来たので、時々江戸へ出た。そしてその度ごとに一週間位は渋江の家に舎ることになっていた。枳園の形装は決してかつて夜逃をした土地へ、忍びやかに立ち入る人とは見えなかった。保さんの記憶している五百の話によるに、枳園はお召縮緬の衣を着て、海老鞘の脇指を差し、歩くに褄を取って、剥身絞の褌を見せていた。もし人がその七代目団十郎を贔屓にするのを知っていて、成田屋と声を掛けると、枳園は立ち止まって見えをしたそうである。そして当時の枳園はもう四十男であった。尤もお召縮緬を着たのは、強ち奢侈と見るべきではあるまい。一反二分一朱か二分二朱であったというから、着ようと思えば着られたのであろうと、保さんがいう。
枳園の来て舎る頃に、抽斎の許にろくという女中がいた。ろくは五百が藤堂家にいた時から使ったもので、抽斎に嫁するに及んで、それを連れて来たのである。枳園は来り舎るごとに、この女を追い廻していたが、とうとう或日逃げる女を捉えようとして大行燈を覆し、畳を油だらけにした。五百は戯に絶交の詩を作って枳園に贈った。当時ろくを揶揄うものは枳園のみでなく、豊芥子も訪ねて来るごとにこれに戯れた。しかしろくは間もなく渋江氏の世話で人に嫁した。
枳園はまた当時纔に二十歳を踰えた抽斎の長男恒善の、いわゆるおとなし過ぎるのを見て、度々吉原へ連れて往こうとした。しかし恒善は聴かなかった。枳園は意を五百に明かし、母の黙許というを以て恒善を動そうとした。しかし五百は夫が吉原に往くことを罪悪としているのを知っていて、恒善を放ち遣ることが出来ない。そこで五百は幾たびか枳園と論争したそうである。
枳園が此の如くにしてしばしば江戸に出たのは、遊びに出たのではなかった。故主の許に帰参しようとも思い、また才学を負うた人であるから、首尾好くは幕府の直参にでもなろうと思って、機会を窺っていたのである。そして渋江の家はその策源地であった。
卒に見れば、枳園が阿部家の古巣に帰るのは易く、新に幕府に登庸せられるのは難いようである。しかし実況にはこれに反するものがあった。枳園は既に学術を以て名を世間に馳せていた。就中本草に精しいということは人が皆認めていた。阿部伊勢守正弘はこれを知らぬではない。しかしその才学のある枳園の軽佻を忌む心が頗る牢かった。多紀一家殊に庭はややこれと趣を殊にしていて、ほぼこの人の短を護して、その長を用いようとする抽斎の意に賛同していた。
枳園を帰参させようとして、最も尽力したのは伊沢榛軒、柏軒の兄弟であるが、抽斎もまた福山の公用人服部九十郎、勘定奉行小此木伴七、大田、宇川等に内談し、また小島成斎等をして説かしむること数度であった。しかしいつも藩主の反感に阻げられて事が行われなかった。そこで伊沢兄弟と抽斎とは先ず庭の同情に愬えて幕府の用を勤めさせ、それを規模にして阿部家を説き動そうと決心した。そして終にこの手段を以て成功した。
この期間の末の一年、嘉永元年に至って枳園は躋寿館の一事業たる『千金方』校刻を手伝うべき内命を贏ち得た。そして五月には阿部正弘が枳園の帰藩を許した。
阿部家への帰参がって、枳園が家族を纏めて江戸へ来ることになったので、抽斎はお玉が池の住宅の近所に貸家のあったのを借りて、敷金を出し家賃を払い、応急の器什を買い集めてこれを迎えた。枳園だけは病家へ往かなくてはならぬ職業なので、衣類も一通持っていたが、家族は身に着けたものしか持っていなかった。枳園の妻勝の事を、五百があれでは素裸といっても好いといった位である。五百は髪飾から足袋下駄まで、一切揃えて贈った。それでも当分のうちは、何かないものがあると、蔵から物を出すように、勝は五百の所へ貰いに来た。或日これで白縮緬の湯具を六本遣ることになると、五百がいったことがある。五百がどの位親切に世話をしたか、勝がどの位恬然として世話をさせたかということが、これによって想像することが出来る。また枳園に幾多の悪性癖があるにかかわらず、抽斎がどの位、その才学を尊重していたかということも、これによって想像することが出来る。
枳園が医書彫刻取扱手伝という名義を以て、躋寿館に召し出されたのは、嘉永元年十月十六日である。
当時躋寿館で校刻に従事していたのは、『備急千金要方』三十巻三十二冊の宋槧本であった。これより先き多紀氏は同じ孫思の『千金翼方』三十巻十二冊を校刻した。これは元の成宗の大徳十一年梅渓書院の刊本を以て底本としたものである。尋いで手に入ったのが『千金要方』の宋版である。これは毎巻金沢文庫の印があって、北条顕時の旧蔵本である。米沢の城主上杉弾正大弼斉憲がこれを幕府に献じた。細に検すれば南宋『乾道淳煕』中の補刻数葉が交っているが、大体は北宋の旧面目を存している。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。然るに幕府はこれを聞いて、官刻を命ずることになった。そこで影写校勘の任に当らしむるために、三人の手伝が出来た。阿部伊勢守正弘の家来伊沢磐安、黒田豊前守直静の家来堀川舟庵、それから多紀楽真院門人森養竹である。磐安は即ち柏軒で、舟庵は『経籍訪古志』の跋に見えている堀川済である。舟庵の主黒田直静は上総国久留利の城主で、上屋敷は下谷広小路にあった。
任命は若年寄大岡主膳正忠固の差図を以て、館主多紀安良が申し渡し、世話役小島春庵、世話役手伝勝本理庵、熊谷弁庵が列座した。安良は即ち暁湖である。
何故に枳園が庭の門人として召し出されたかは知らぬが、阿部家への帰参は当時内約のみであって、まだ表向になっていなかったのでもあろうか。枳園は四十二歳になっていた。
この年八月二十九日に、真志屋五郎作が八十歳で歿した。抽斎はこの時三世劇神仙になったわけである。
嘉永二年三月七日に、抽斎は召されて登城した。躑躅の間において、老中牧野備前守忠雅の口達があった。年来学業出精に付、ついでの節目見仰附けらるというのである。この月十五日に謁見は済んだ。始て「武鑑」に載せられる身分になったのである。
わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が手狭なために、五百の里方山内の家を渋江邸として届け出でたものである。
抽斎の将軍家慶に謁見したのは、世の異数となす所であった。素より躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になっていた建部内匠頭政醇家来辻元庵の如く目見の栄に浴する前例はあったが、抽斎に先って伊沢榛軒が目見をした時には、藩主阿部正弘が老中になっているので、薦達の早きを致したのだとさえ言われた。抽斎と同日に目見をした人には、五年前に共に講師に任ぜられた町医坂上玄丈があった。しかし抽斎は玄丈よりも広く世に知られていたので、人がその殊遇を美めて三年前に目見をした松浦壱岐守慮の臣朝川善庵と並称した。善庵は抽斎の謁見に先つこと一月、嘉永二年二月七日に、六十九歳で歿したが、抽斎とも親しく交って、渋江の家の発会には必ず来る老人株の一人であった。善庵、名は鼎、字は五鼎、実は江戸の儒家片山兼山の子である。兼山の歿した後、妻原氏が江戸の町医朝川黙翁に再嫁した。善庵の姉寿美と兄道昌とは当時の連子で、善庵はまだ母の胎内にいた。黙翁は老いて病に至って、福山氏に嫁した寿美を以て、善庵に実を告げさせ、本姓に復することを勧めた。しかし善庵は黙翁の撫育の恩に感じて肯わず、黙翁もまた強いて言わなかった。善庵は次男格をして片山氏を嗣がしめたが、格は早世した。長男正準は出でて相田氏を冒したので、善庵の跡は次女の壻横山氏※[#「塵」の「土」に代えて「辰」、U+9E8E、117-6]が襲いだ。
弘前藩では必ずしも士人を幕府に出すことを喜ばなかった。抽斎が目見をした時も、同僚にして来り賀するものは一人もなかった。しかし当時世間一般には目見以上ということが、頗る重きをなしていたのである。伊沢榛軒は少しく抽斎に先んじて目見をしたが、阿部家のこれに対する処置には榛軒自己をして喫驚せしむるものがあった。榛軒は目見の日に本郷丸山の中屋敷から登城した。さて目見を畢って帰って、常の如く通用門を入らんとすると、門番が忽ち本門の側に下座した。榛軒は誰を迎えるのかと疑って、四辺を顧たが、別に人影は見えなかった。そこで始て自分に礼を行うのだと知った。次いで常の如く中の口から進もうとすると、玄関の左右に詰衆が平伏しているのに気が附いた。榛軒はまた驚いた。間もなく阿部家では、榛軒を大目附格に進ましめた。
目見は此の如く世の人に重視せられる習であったから、この栄を荷うものは多くの費用を弁ぜなくてはならなかった。津軽家では一カ年間に返済すべしという条件を附して、金三両を貸したが、抽斎は主家の好意を喜びつつも、殆どこれを何の費に充てようかと思い惑った。
目見をしたものは、先ず盛宴を開くのが例になっていた。そしてこれに招くべき賓客の数もほぼ定まっていた。然るに抽斎の居宅には多く客を延くべき広間がないので、新築しなくてはならなかった。五百の兄忠兵衛が来て、三十両の見積を以て建築に着手した。抽斎は銭穀の事に疎いことを自知していたので、商人たる忠兵衛の言うがままに、これに経営を一任した。しかし忠兵衛は大家の若檀那上りで、金を擲つことにこそ長じていたが、んでこれを使うことを解せなかった。工事いまだ半ならざるに、費す所は既に百数十両に及んだ。
平生金銭に無頓着であった抽斎も、これには頗る当惑して、鋸の音槌の響のする中で、顔色は次第に蒼くなるばかりであった。五百は初から兄の指図を危みつつ見ていたが、この時夫に向っていった。
「わたくしがこう申すと、ひどく出過ぎた口をきくようではございますが、御一代に幾度というおめでたい事のある中で、金銭の事位で御心配なさるのを、黙って見ていることは出来ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすって下さいまし。」
抽斎は目をった。「お前そんな事を言うが、何百両という金は容易に調達せられるものではない。お前は何か当があってそういうのか。」
五百はにっこり笑った。「はい。幾らわたくしが痴でも、当なしには申しませぬ。」
五百は女中に書状を持たせて、ほど近い質屋へ遣った。即ち市野迷庵の跡の家である。彼の今に至るまで石に彫られずにある松崎慊堂の文にいう如く、迷庵は柳原の店で亡くなった。その跡を襲いだのは松太郎光寿で、それが三右衛門の称をも継承した。迷庵の弟光忠は別に外神田に店を出した。これより後内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立していて、彼は世三右衛門を称し、此は世市三郎を称した。五百が書状を遣った市野屋は当時弁慶橋にあって、早くも光寿の子光徳の代になっていた。光寿は迷庵の歿後僅に五年にして、天保三年に光徳を家督させた。光徳は小字を徳治郎といったが、この時更めて三右衛門を名告った。外神田の店はこの頃まだ迷庵の姪光長の代であった。
ほどなく光徳の店の手代が来た。五百は箪笥長持から二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸そうといった。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両を借ることが出来た。
三百両は建築の費を弁ずるには余ある金であった。しかし目見に伴う飲贈遺一切の費は莫大であったので、五百は終に豊芥子に託して、主なる首飾類を売ってこれに充てた。その状当に行うべき所を行う如くであったので、抽斎はとかくの意見をその間に挟むことを得なかった。しかし中心には深くこれを徳とした。
抽斎の目見をした年の閏四月十五日に、長男恒善は二十四歳で始て勤仕した。八月二十八日に五女癸巳が生れた。当時の家族は主人四十五歳、妻五百三十四歳、長男恒善二十四歳、次男優善十五歳、四女陸三歳、五女癸巳一歳の六人であった。長女純は馬場氏に嫁し、三女棠は山内氏を襲ぎ、次女よし、三男八三郎、四男幻香は亡くなっていたのである。
嘉永三年には、抽斎が三月十一日に幕府から十五人扶持を受くることとなった。藩禄等は凡て旧に依るのである。八月晦に、馬場氏に嫁していた純が二十歳で歿した。この年抽斎は四十六歳になった。
五百の仮親比良野文蔵の歿したのも、同じ年の四月二十四日である。次いで嗣子貞固が目附から留守居に進んだ。津軽家の当時の職制より見れば、いわゆる独礼の班に加わったのである。独礼とは式日に藩主に謁するに当って、単独に進むものをいう。これより下は二人立、三人立等となり、遂に馬廻以下の一統礼に至るのである。
当時江戸に集っていた列藩の留守居は、宛然たるコオル・ヂプロマチックを形っていて、その生活は頗る特色のあるものであった。そして貞固の如きは、その光明面を体現していた人物といっても好かろう。
衣類を黒紋附に限っていた糸鬢奴の貞固は、素より読書の人ではなかった。しかし書巻を尊崇して、提挈をその中に求めていたことを思えば、留守居中稀有の人物であったのを知ることが出来る。貞固は留守居に任ぜられた日に、家に帰るとすぐに、折簡して抽斎を請じた。そして容を改めていった。
「わたくしは今日父の跡を襲いで、留守居役を仰付けられました。今までとは違った心掛がなくてはならぬ役目と存ぜられます。実はそれに用立つお講釈が承わりたさに、御足労を願いました。あの四方に使して君命を辱めずということがございましたね。あれを一つお講じ下さいますまいか。」
「先ず何よりもおよろこびを言わんではなるまい。さて講釈の事だが、これはまた至極のお思附だ。委細承知しました」と抽斎は快く諾した。
抽斎は有合せの道春点の『論語』を取り出させて、巻七を開いた。そして「子貢問曰、何如斯可謂之土矣」という所から講じ始めた。固より朱註をば顧みない。都て古義に従って縦説横説した。抽斎は師迷庵の校刻した六朝本の如きは、何時でも毎葉毎行の文字の配置に至るまで、空に憑って思い浮べることが出来たのである。
貞固は謹んで聴いていた。そして抽斎が「子曰、噫斗之人、何足算也」に説き到ったとき、貞固の目はかがやいた。
講じ畢った後、貞固は暫く瞑目沈思していたが、徐に起って仏壇の前に往って、祖先の位牌の前にぬかずいた。そしてはっきりした声でいった。「わたくしは今日から一命を賭して職務のために尽します。」貞固の目には涙が湛えられていた。
抽斎はこの日に比良野の家から帰って、五百に「比良野は実に立派な侍だ」といったそうである。その声は震を帯びていたと、後に五百が話した。
留守居になってからの貞固は、毎朝日の出ると共に起きた。そして先ず厩を見廻った。そこには愛馬浜風が繋いであった。友達がなぜそんなに馬を気に掛けるかというと、馬は生死を共にするものだからと、貞固は答えた。厩から帰ると、盥嗽して仏壇の前に坐した。そして木魚を敲いて誦経した。この間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめなかった。来客もそのまま待たせられることになっていた。誦経が畢って、髪を結わせた。それから朝餉の饌に向った。饌には必ず酒を設けさせた。朝といえども省かない。には選嫌をしなかったが、のだ平の蒲鉾を嗜んで、闕かさずに出させた。これは贅沢品で、鰻の丼が二百文、天麩羅蕎麦が三十二文、盛掛が十六文するとき、一板二分二朱であった。
朝餉の畢る比には、藩邸で巳の刻の大鼓が鳴る。名高い津軽屋敷の櫓大鼓である。かつて江戸町奉行がこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津軽家が聴ずに、とうとう上屋敷を隅田川の東に徙されたのだと、巷説に言い伝えられている。津軽家の上屋敷が神田小川町から本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。貞固は巳の刻の大鼓を聞くと、津軽家の留守居役所に出勤して事務を処理する。次いで登城して諸家の留守居に会う。従者は自ら豢っている若党草履取の外に、主家から附けられるのである。
留守居には集会日というものがある。その日には城から会場へ往く。八百善、平清、川長、青柳等の料理屋である。また吉原に会することもある。集会には煩瑣な作法があった。これを礼儀といわんは美に過ぎよう。譬えば筵席の觴政の如く、また西洋学生団のコンマンの如しともいうべきであろうか。しかし集会に列するものは、これがために命の取遣をもしなくてはならなかった。就中厳しく守られていたのは新参故参の序次で、故参は新参のために座より起つことなく、新参は必ず故参の前に進んで挨拶しなくてはならなかった。
津軽家では留守居の年俸を三百石とし、別に一カ月の交際費十八両を給した。比良野は百石取ゆえ、これに二百石を補足せられたのである。五百の覚書に拠るに、三百石十人扶持の渋江の月割が五両一分、二百石八人扶持の矢島の月割が三両三分であった。矢島とは後に抽斎の二子優善が養子に往った家の名である。これに由って観れば、貞固の月収は五両一分に十八両を加えた二十三両一分と見て大いなる差違はなかろう。然るに貞固は少くも月に交際費百両を要した。しかもそれは平常の費である。吉原に火災があると、貞固は妓楼佐野槌へ、百両に熨斗を附けて持たせて遣らなくてはならなかった。また相方黛のむしんをも、折々は聴いて遣らなくてはならなかった。或る年の暮に、貞固が五百に私語したことがある。「姉えさん、察して下さい。正月が来るのに、わたしは実は褌一本買う銭もない。」
均しくこれ津軽家の藩士で、柳島附の目附から、少しく貞固に遅れて留守居に転じたものがある。平井氏、名は俊章、字は伯民、小字は清太郎、通称は修理で、東堂と号した。文化十一年生で貞固よりは二つの年下である。平井の家は世禄二百石八人扶持なので、留守居になってから百石の補足を受けた。
貞固は好丈夫で威貌があった。東堂もまた風人に優れて、しかも温容親むべきものがあった。そこで世の人は津軽家の留守居は双壁だと称したそうである。
当時の留守居役所には、この二人の下に留守居下役杉浦多吉、留守居物書藤田徳太郎などがいた。杉浦は後喜左衛門といった人で、事務に諳錬した六十余の老人であった。藤田は維新後に潜と称した人で、当時まだ青年であった。
或日東堂が役所で公用の書状を発せようとして、藤田に稿を属せしめた。藤田は案を具して呈した。
「藤田。まずい文章だな。それにこの書様はどうだ。もう一遍書き直して見い。」東堂の顔は頗る不機嫌に見えた。
原来平井氏は善書の家である。祖父峩斎はかつて筆札を高頤斎に受けて、その書が一時に行われたこともある。峩斎、通称は仙右衛門、その子を仙蔵という。後父の称を襲ぐ。この仙蔵の子が東堂である。東堂も沢田東里の門人で書名があり、かつ詩文の才をさえ有していた。それに藤田は文においても書においても、専門の素養がない。稿を更めて再び呈したが、それが東堂を満足せしめるはずがない。
「どうもまずいな。こんな物しか出来ないのかい。一体これでは御用が勤まらないといっても好い。」こういって案を藤田に還した。
藤田は股栗した。一身の恥辱、家族の悲歎が、頭を低れている青年の想像に浮かんで、目には涙が涌いて来た。
この時貞固が役所に来た。そして東堂に問うて事の顛末を知った。
貞固は藤田の手に持っている案を取って読んだ。
「うん。一通わからぬこともないが、これでは平井の気には入るまい。足下は気が利かないのだ。」
こういって置いて、貞固は殆ど同じような文句を巻紙に書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。
「どうだ。これで好いかな。」
東堂は毫も敬服しなかった。しかし故参の文案に批評を加えることは出来ないので、色を和げていった。
「いや、結構です。どうもお手を煩わして済みません。」
貞固は案を東堂の手から取って、藤田にわたしていった。
「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからはこんな工合に遣るが好い。」
藤田は「はい」といって案を受けて退いたが、心中には貞固に対して再造の恩を感じたそうである。想うに東堂は外柔にして内険、貞固は外猛にして内寛であったと見える。
わたくしは前に貞固が要職の体面をいたわるがために窮乏して、古褌を着けて年を迎えたことを記した。この窮乏は東堂といえどもこれを免るることを得なかったらしい。ここに中井敬所が大槻如電さんに語ったという一の事実があって、これが証に充つるに足るのである。
この事は前の日わたくしが池田京水の墓と年齢とを文彦さんに問いに遣った時、如電さんがかつて手記して置いたものを抄写して、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、何故に如電さんは平井氏の事を以て答えたか。それには理由がある。平井東堂の置いた質が流れて、それを買ったのが、池田京水の子瑞長であったからである。
東堂が質に入れたのは、銅仏一躯と六方印一顆とであった。銅仏は印度で鋳造した薬師如来で、戴曼公の遺品である。六方印は六面に彫刻した遊印である。
質流になった時、この仏像を池田瑞長が買った。然るに東堂は後金が出来たので、瑞長に交渉して、価を倍して購い戻そうとした。瑞長は応ぜなかった。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品を愛惜する縁故があるからである。
戴曼公は書法を高天に授けた。天、名は玄岱、初の名は立泰、字は子新、一の字は斗胆、通称は深見新左衛門で、帰化明人の裔である。祖父高寿覚は長崎に来て終った。父大誦は訳官になって深見氏を称した。深見は渤海である。高氏は渤海より出でたからこの氏を称したのである。天は書を以て鳴ったもので、浅草寺の施無畏の額の如きは、人の皆知る所である。享保七年八月八日に、七十四歳で歿した。その曼公に書を学んだのは、十余歳の時であっただろう。天の子が頤斎である。頤斎の弟子が峩斎である。峩斎の孫が東堂である。これが平井氏の戴師持念仏に恋々たる所以である。
戴曼公はまた痘科を池田嵩山に授けた。嵩山の曾孫が錦橋、錦橋の姪が京水、京水の子が瑞長である。これが池田氏の偶獲た曼公の遺品を愛重して措かなかった所以である。
この薬師如来は明治の代となってから守田宝丹が護持していたそうである。また六方印は中井敬所の有に帰していたそうである。
貞固と東堂とは、共に留守居の物頭を兼ねていた。物頭は詳しくは初手足軽頭といって、藩の諸兵の首領である。留守居も物頭も独礼の格式である。平時は中下屋敷附近に火災の起るごとに、火事装束を着けて馬に騎り、足軽数十人を随えて臨検した。貞固はその帰途には、殆ど必ず渋江の家に立ち寄った。実に威風堂々たるものであったそうである。
貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であったらしい。帆足万里はかつて留守居を罵って、国財を靡し私腹を肥やすものとした。この職におるものは、あるいは多く私財を蓄えたかも知れない。しかし保さんは少時帆足の文を読むごとに心平かなることを得なかったという。それは貞固の人と為りを愛していたからである。
嘉永四年には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒していた棠子が、痘を病んで死んだ。尋いで十五日に、五女癸巳が感染して死んだ。彼は七歳、此は三歳である。重症で曼公の遺法も功を奏せなかったと見える。三月二十八日に、長子恒善が二十六歳で、柳島に隠居していた信順の近習にせられた。六月十二日に、二子優善が十七歳で、二百石八人扶持の矢島玄碩の末期養子になった。この年渋江氏は本所台所町に移って、神田の家を別邸とした。抽斎が四十七歳、五百が三十六歳の時である。
優善は渋江一族の例を破って、少うして烟草を喫み、好んで紛華奢靡の地に足を容れ、とかく市井のいきな事、しゃれた事に傾きやすく、当時早く既に前途のために憂うべきものがあった。
本所で渋江氏のいた台所町は今の小泉町で、屋敷は当時の切絵図に載せてある。
嘉永五年には四月二十九日に、抽斎の長子恒善が二十七歳で、二の丸火の番六十俵田口儀三郎の養女糸を娶った。五月十八日に、恒善に勤料三人扶持を給せられた。抽斎が四十人歳、五百が三十七歳の時である。
伊沢氏ではこの年十一月十七日に、榛軒が四十九歳で歿した。榛軒は抽斎より一つの年上で、二人の交は頗る親しかった。楷書に片仮名を交ぜた榛軒の尺牘には、宛名が抽斎賢弟としてあった。しかし抽斎は小島成斎におけるが如く心を傾けてはいなかったらしい。
榛軒は本郷丸山の阿部家の中屋敷に住んでいた。父蘭軒の時からの居宅で、頗る広大な構であった。庭には吉野桜八株を栽え、花の頃には親戚知友を招いてこれを賞した。その日には榛軒の妻飯田氏しほと女かえとが許多の女子を役して、客に田楽豆腐などを供せしめた。パアル・アンチシパションに園遊会を催したのである。歳の初の発会式も、他家に較ぶれば華やかであった。しほの母は素京都諏訪神社の禰宜飯田氏の女で、典薬頭某の家に仕えているうちに、その嗣子と私してしほを生んだ。しほは落魄して江戸に来て、木挽町の芸者になり、些の財を得て業を罷め、新堀に住んでいたそうである。榛軒が娶ったのはこの時の事である。しほは識らぬ父の記念の印籠一つを、母から承け伝えて持っていた。榛軒がしほに生ませた女かえは、一時池田京水の次男全安を迎えて夫としていたが、全安が広く内科を究めずに、痘科と唖科とに偏するというを以て、榛軒が全安を京水の許に還したそうである。
榛軒は辺幅を脩めなかった。渋江の家を訪うに、踊りつつ玄関から入って、居間の戸の外から声を掛けた。自ら鰻を誂えて置いて来て、粥を所望することもあった。そして抽斎に、「どうぞ己に構ってくれるな、己には御新造が合口だ」といって、書斎に退かしめ、五百と語りつつ飲食するを例としたそうである。
榛軒が歿してから一月の後、十二月十六日に弟柏軒が躋寿館の講師にせられた。森枳園らと共に『千金方』校刻の命を受けてから四年の後で、柏軒は四十三歳になっていた。
この年に五百の姉壻長尾宗右衛門が商業の革新を謀って、横山町の家を漆器店のみとし、別に本町二丁目に居宅を置くことにした。この計画のために、抽斎は二階の四室を明けて、宗右衛門夫妻、敬、銓の二女、女中一人、丁稚一人を棲まわせた。
嘉永六年正月十九日に、抽斎の六女水木が生れた。家族は主人夫婦、恒善夫婦、陸、水木の六人で、優善は矢島氏の主人になっていた。抽斎四十九歳、五百三十八歳の時である。
この年二月二十六日に、堀川舟庵が躋寿館の講師にせられて、『千金方』校刻の事に任じた三人の中森枳園が一人残された。
安政元年はやや事多き年であった。二月十四日に五男専六が生れた。後に脩と名告った人である。三月十日に長子恒善が病んで歿した。抽斎は子婦糸の父田口儀三郎の窮を憫んで、百両余の金を餽り、糸をば有馬宗智というものに再嫁せしめた。十二月二十六日に、抽斎は躋寿館の講師たる故を以て、年に五人扶持を給せられることになった。今の勤務加俸の如きものである。二十九日に更に躋寿館医書彫刻手伝を仰附けられた。今度校刻すべき書は、円融天皇の天元五年に、丹波康頼が撰んだという『医心方』である。
保さんの所蔵の「抽斎手記」に、『医心方』の出現という語がある。昔から厳に秘せられていた書が、忽ち目前に出て来た状が、この語で好く表されている。「秘玉突然開出。瑩光明徹点瑕無。金龍山畔波濤起。龍口初探是此珠。」これは抽斎の亡妻の兄岡西玄亭が、当時喜を記した詩である。龍口といったのは、『医心方』が若年寄遠藤但馬守胤統の手から躋寿館に交付せられたからであろう。遠藤の上屋敷は辰口の北角であった。
日本の古医書は『続群書類従』に収めてある和気広世の『薬経太素』、丹波康頼の『康頼本草』、釈蓮基の『長生療養方』、次に多紀家で校刻した深根輔仁の『本草和名』、丹波雅忠の『医略抄』、宝永中に印行せられた具平親王の『弘決外典抄』の数種を存するに過ぎない。具平親王の書は本字類に属して、此に算すべきではないが、医事に関する記載が多いから列記した。これに反して、彼の出雲広貞らの上った『大同類聚方』の如きは、散佚して世に伝わらない。
それゆえ天元五年に成って、永観二年に上られた『医心方』が、殆ど九百年の後の世に出でたのを見て、学者が血を涌き立たせたのも怪むに足らない。
『医心方』は禁闕の秘本であった。それを正親町天皇が出して典薬頭半井通仙院瑞策に賜わった。それからは世半井氏が護持していた。徳川幕府では、寛政の初に、仁和寺文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、この本は脱簡が極て多かった。そこで半井氏の本を獲ようとしてしばしば命を伝えたらしい。然るに当時半井大和守成美は献ずることを肯ぜず、その子修理大夫清雅もまた献ぜず、遂に清雅の子出雲守広明に至った。
半井氏が初め何の辞を以て命を拒んだかは、これを詳にすることが出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都において焼失したといった。天明八年の火事とは、正月晦に洛東団栗辻から起って、全都を灰燼に化せしめたものをいうのである。幕府はこの答に満足せずに、似寄の品でも好いから出せと誅求した。恐くは情を知って強要したのであろう。
半井広明はやむことをえず、こういう口上を以て『医心方』を出した。外題は同じであるが、筆者区々になっていて、誤脱多く、甚だ疑わしき巻である。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供するというのである。書籍は広明の手から六郷筑前守政殷の手にわたって、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持って往った。正弘は公用人渡辺三太平を以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守胤統を以て躋寿館に交付せられた。この書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであろう。もし彫刻を命ぜられることになったら、費用は金蔵から渡されるであろう。書籍は篤と取調べ、かつ刻本売下代金を以て費用を返納すべき積年賦をも取調べるようにということであった。
半井広明の呈した本は三十巻三十一冊で、巻二十五に上下がある。細に検するに期待に負かぬ善本であった。素『医心方』は巣元方の『病源候論』を経とし、隋唐の方書百余家を緯として作ったもので、その引用する所にして、支那において佚亡したものが少くない。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁二人、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀安良法眼である。楽真院は庭、安良は暁湖で、並に二百俵の奥医師であるが、彼は法印、此は法眼になっていて、当時矢の倉の分家が向柳原の宗家の右におったのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加わっていた。
躋寿館では『医心方』影写程式というものが出来た。写生は毎朝辰刻に登館して、一人一日三頁を影模する。三頁を模し畢れば、任意に退出することを許す。三頁を模すること能わざるものは、二頁を模し畢って退出しても好い。六頁を模したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月朔に起って、二十日に終る。日に二頁を模するものは晦に至る。この間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。
半井本の『医心方』を校刻するに当って、仁和寺本を写した躋寿館の旧蔵本が参考せられたことは、問うことを須たぬであろう。然るに別に一の善本があった。それは京都加茂の医家岡本由顕の家から出た『医心方』巻二十二である。
正親町天皇の時、従五位上岡本保晃というものがあった。保晃は半井瑞策に『医心方』一巻を借りて写した。そして何故か原本を半井氏に返すに及ばずして歿した。保晃は由顕の曾祖父である。
由顕の言う所はこうである。『医心方』は徳川家光が半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸において瑞策に師事した。瑞策の女が産後に病んで死に瀕した。保晃が薬を投じて救った。瑞策がこれに報いんがために、『医心方』一巻を贈ったというのである。
『医心方』を瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にいた人で、江戸に下ったことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈ろうとしたにしても、よもや帝室から賜った『医心方』三十巻の中から、一巻を割いて贈りはしなかっただろう。凡そこれらの事は、前人が皆かつてこれを論弁している。
既にして岡本氏の家衰えて、畑成文に託してこの巻を沽ろうとした。成文は錦小路中務権少輔頼易に勧めて元本を買わしめ、副本はこれを己が家に留めた。錦小路は京都における丹波氏の裔である。
岡本氏の『医心方』一巻は、此の如くにして伝わっていた。そして校刻の時に至って対照の用に供せられたようである。
この年正月二十五日に、森枳園が躋寿館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。『医心方』校刻の事の起ったのは、枳園が教職に就いてから十カ月の後である。
抽斎の家族はこの年主人五十歳、五百三十九歳、陸八歳、水木二歳、専六生れて一歳の五人であった。矢島氏を冒した優善は二十歳になっていた。二年前から寄寓していた長尾氏の家族は、本町二丁目の新宅に移った。
安政二年が来た。抽斎の家の記録は先ず小さき、徒なる喜を誌さなくてはならなかった。それは三月十九日に、六男翠暫が生れたことである。後十一歳にして夭札した子である。この年は人の皆知る地震の年である。しかし当時抽斎を揺り撼して起たしめたものは、独地震のみではなかった。
学問はこれを身に体し、これを事に措いて、始て用をなすものである。否るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽して造詣の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径ちにこれを事に措こうとはしない。その々として年を閲する間には、心頭姑く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は此の如くにして始て贏ち得らるるものである。
この用無用を問わざる期間は、啻に年を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を累ぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが截然として二をなしている。もし時務の要求が漸く増長し来って、強いて学者の身に薄ったなら、学者がその学問生活を抛って起つこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。
わたくしは安政二年に抽斎が喙を時事に容るるに至ったのを見て、是の如き観をなすのである。
米艦が浦賀に入ったのは、二年前の嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に艦が再び浦賀に来て、六月に下田を去るまで、江戸の騒擾は名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑の準備を令した。動員の備のない軍隊の腑甲斐なさが覗われる。新将軍家定の下にあって、この難局に当ったのは、柏軒、枳園らの主侯阿部正弘である。
今年に入ってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘を以て大砲小銃を鋳造すべしという詔が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れていた抽斎も、ここに至って風潮の化誘する所となった。それには当時産蓐にいた女丈夫五百の啓沃も与って力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至った。
津軽順承は一の進言に接した。これを上ったものは用人加藤清兵衛、側用人兼松伴大夫、目附兼松三郎である。幕府は甲冑を準備することを令した。然るに藩の士人の能くこれを遵行するものは少い。概ね皆衣食だに給せざるを以て、これに及ぶに遑あらざるのである。宜く現に甲冑を有せざるものには、金十八両を貸与してこれが貲に充てしめ、年賦に依って還納せしむべきである。かつ今より後毎年一度甲冑改を行い、手入を怠らしめざるようにせられたいというのである。順承はこれを可とした。
この進言が抽斎の意より出で、兼松三郎がこれを承けて案を具し、両用人の賛同を得て呈せられたということは、闔藩皆これを知っていた。三郎は石居と号した。その隆準なるを以ての故に、抽斎は天狗と呼んでいた。佐藤一斎、古賀庵の門人で、学殖儕輩を超え、かつて昌平黌の舎長となったこともある。当時弘前吏胥中の識者として聞えていた。
抽斎は天下多事の日に際会して、言偶政事に及び、武備に及んだが、此の如きは固よりその本色ではなかった。抽斎の旦暮力を用いる所は、古書を講窮し、古義を闡明するにあった。彼は弘前藩士たる抽斎が、外来の事物に応じて動作した一時のレアクションである。此は学者たる抽斎が、終生従事していた不朽の労作である。
抽斎の校勘の業はこの頃着々進陟していたらしい。森枳園が明治十八年に書いた『経籍訪古志』の跋に、緑汀会の事を記して、三十年前だといってある。緑汀とは多紀庭が本所緑町の別荘である。庭は毎月一、二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村らを此に集えた。諸子は環坐して古本を披閲し、これが論定をなした。会の後には宴を開いた。さて二州橋上酔に乗じて月を踏み、詩を詠じて帰ったというのである。同じ書に、庭がこの年安政二年より一年の後に書いた跋があって、諸子録惟れ勤め、各部頓に成るといってあるのを見れば、論定に継ぐに編述を以てしたのも、また当時の事であったと見える。
わたくしはこの年の地震の事を語るに先って、台所町の渋江の家に座敷牢があったということに説き及ぼすのを悲む。これは二階の一室を繞すに四目格子を以てしたもので、地震の日には工事既に竣って、その中はなお空虚であった。もし人がその中にいたならば、渋江の家は死者を出さざることを得なかったであろう。
座敷牢は抽斎が忍びがたきを忍んで、次男優善がために設けたものであった。
抽斎が岡西氏徳に生せた三人の子の中、ただ一人生き残った次男優善は、少時放恣佚楽のために、頗る渋江一家を困めたものである。優善には塩田良三という遊蕩夥伴があった。良三はかの蘭軒門下で、指の腹に杖を立てて歩いたという楊庵が、家附の女に生せた嫡子である。
わたくしは前に優善が父兄と嗜を異にして、煙草を喫んだということを言った。しかし酒はこの人の好む所でなかった。優善も良三も、共に涓滴の量なくして、あらゆる遊戯に耽ったのである。
抽斎が座敷牢を造った時、天保六年生の優善は二十一歳になっていた。そしてその密友たる良三は天保八年生で、十八歳になっていた。二人は影の形に従う如く、須臾も相離るることがなかった。
或時優善は松川飛蝶と名告って、寄席に看板を懸けたことがある。良三は松川酔蝶と名告って、共に高座に登った。鳴物入で俳優の身振声色を使ったのである。しかも優善はいわゆる心打で、良三はその前席を勤めたそうである。また夏になると、二人は舟を藉りて墨田川を上下して、影芝居を興行した。一人は津軽家の医官矢島氏の当主、一人は宗家の医官塩田氏の若檀那である。中にも良三の父は神田松枝町に開業して、市人に頓才のある、見立の上手な医者と称せられ、その肥胖のために瞽者と看錯らるる面をば汎く識られて、家は富み栄えていた。それでいて二人共に、高座に顔をすことを憚らなかったのである。
二人は酒量なきにかかわらず、町々の料理屋に出入し、またしばしば吉原に遊んだ。そして借財が出来ると、親戚故旧をして償わしめ、度重って償う道が塞がると、跡を晦ましてしまう。抽斎が優善のために座敷牢を作らせたのは、そういう失踪の間の事で、その早晩還り来るを候ってこの中に投ぜようとしたのである。
十月二日は地震の日である。空は陰って雨が降ったり歇んだりしていた。抽斎はこの日観劇に往った。周茂叔連にも逐次に人の交迭があって、豊芥子や抽斎が今は最年長者として推されていたことであろう。抽斎は早く帰って、晩酌をして寝た。地震は亥の刻に起った。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まって、震動が漸く勢を増した。寝間にどてらを著て臥していた抽斎は、撥ね起きて枕元の両刀を把った。そして表座敷へ出ようとした。
寝間と表座敷との途中に講義室があって、壁に沿うて本箱が堆く積み上げてあった。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れ墜ちた。抽斎はその間に介まって動くことが出来なくなった。
五百は起きて夫の後に続こうとしたが、これはまだ講義室に足を投ぜぬうちに倒れた。
暫くして若党仲間が来て、夫妻を扶け出した。抽斎は衣服の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかった。
抽斎は衣服を取り繕う暇もなく、馳せて隠居信順を柳島の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往った。信順は柳島の第宅が破損したので、後に浜町の中屋敷に移った。当主順承は弘前にいて、上屋敷には家族のみが残っていたのである。
抽斎は留守居比良野貞固に会って、救恤の事を議した。貞固は君侯在国の故を以て、旨を承くるに遑あらず、直ちに廩米二万五千俵を発して、本所の窮民を賑すことを令した。勘定奉行平川半治はこの議に与らなかった。平川は後に藩士が悉く津軽に遷るに及んで、独り永の暇を願って、深川に米店を開いた人である。
抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返して見ると、住宅は悉く傾き倒れていた。二階の座敷牢は粉韲せられて迹だに留めなかった。対門の小姓組番頭土屋佐渡守邦直の屋敷は火を失していた。
地震はその夜歇んでは起り、起っては歇んだ。町筋ごとに損害の程度は相殊っていたが、江戸の全市に家屋土蔵の無瑕なものは少かった。上野の大仏は首が砕け、谷中天王寺の塔は九輪が落ち、浅草寺の塔は九輪が傾いた。数十カ所から起った火は、三日の朝辰の刻に至って始て消された。公に届けられた変死者が四千三百人であった。
三日以後にも昼夜数度の震動があるので、第宅のあるものは庭に小屋掛をして住み、市民にも露宿するものが多かった。将軍家定は二日の夜吹上の庭にある滝見茶屋に避難したが、本丸の破損が少かったので翌朝帰った。
幕府の設けた救小屋は、幸橋外に一カ所、上野に二カ所、浅草に一カ所、深川に二カ所であった。
この年抽斎は五十一歳、五百は四十歳になって、子供には陸、水木、専六、翠暫の四人がいた。矢島優善の事は前に言った。五百の兄広瀬栄次郎がこの年四月十八日に病死して、その父の妾牧は抽斎の許に寄寓した。
牧は寛政二年生で、初五百の祖母が小間使に雇った女である。それが享和三年に十四歳で五百の父忠兵衛の妾になった。忠兵衛が文化七年に紙問屋山一の女くみを娶った時、牧は二十一歳になっていた。そこへ十八歳ばかりのくみは来たのである。くみは富家の懐子で、性質が温和であった。後に五百と安とを生んでから、気象の勝った五百よりは、内気な安の方が、母の性質を承け継いでいると人に言われたのに徴しても、くみがどんな女であったかと言うことは想い遣られる。牧は特に悍と称すべき女でもなかったらしいが、とにかく三つの年上であって、世故にさえ通じていたから、くみが啻にこれを制することが難かったばかりでなく、動もすればこれに制せられようとしたのも、固より怪むに足らない。
既にしてくみは栄次郎を生み、安を生み、五百を生んだが、次で文化十四年に次男某を生むに当って病に罹り、生れた子と倶に世を去った。この最後の産の前後の事である。くみは血行の変動のためであったか、重聴になった。その時牧がくみの事を度々聾者と呼んだのを、六歳になった栄次郎が聞き咎めて、後までも忘れずにいた。
五百は六、七歳になってから、兄栄次郎にこの事を聞いて、ひどく憤った。そして兄にいった。「そうして見ると、わたしたちには親の敵がありますね。いつか兄いさんと一しょに敵を討とうではありませんか」といった。その後五百は折々箒に塵払を結び附けて、双手の如くにし、これに衣服を纏って壁に立て掛け、さてこれを斫る勢をなして、「おのれ、母の敵、思い知ったか」などと叫ぶことがあった。父忠兵衛も牧も、少女の意の斥す所を暁っていたが、父は憚って肯て制せず、牧は懾れて咎めることが出来なかった。
牧は奈何にもして五百の感情を和げようと思って、甘言を以てこれを誘おうとしたが、五百は応ぜなかった。牧はまた忠兵衛に請うて、五百に己を母と呼ばせようとしたが、これは忠兵衛が禁じた。忠兵衛は五百の気象を知っていて、此の如き手段のかえってその反抗心を激成するに至らんことを恐れたのである。
五百が早く本丸に入り、また藤堂家に投じて、始終家に遠かっているようになったのは、父の希望があり母の遺志があって出来た事ではあるが、一面には五百自身が牧と倶に起臥することを快からず思って、余所へ出て行くことを喜んだためもある。
こういう関係のある牧が、今寄辺を失って、五百の前に首を屈し、渋江氏の世話を受けることになったのである。五百は怨に報ゆるに恩を以てして、牧の老を養うことを許した。
安政三年になって、抽斎は再び藩の政事に喙を容れた。抽斎の議の大要はこうである。弘前藩は須く当主順承と要路の有力者数人とを江戸に留め、隠居信順以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしというのである。その理由の第一は、時勢既に変じて多人数の江戸詰はその必要を認めないからである。何故というに、原諸侯の参勤、及これに伴う家族の江戸における居住は、徳川家に人質を提供したものである。今将軍は外交の難局に当って、旧慣を棄て、冗費を節することを謀っている。諸侯に土木の手伝を命ずることを罷め、府内を行くに家に窓蓋を設ることを止めたのを見ても、その意向を窺うに足る。縦令諸侯が家族を引き上げたからといって、幕府は最早これを抑留することはなかろう。理由の第二は、今の多事の時に方って、二、三の有力者に託するに藩の大事を以てし、これに掣肘を加うることなく、当主を輔佐して臨機の処置に出でしむるを有利とするからである。由来弘前藩には悪習慣がある。それは事あるごとに、藩論が在府党と在国党とに岐れて、荏苒決せざることである。甚だしきに至っては、在府党は郷国の士を罵って国猿といい、その主張する所は利害を問わずして排斥する。此の如きは今の多事の時に処する所以の道でないというのである。
この議は同時に二、三主張するものがあって、是非の論が盛に起った。しかし後にはこれに左袒するものも多くなって、順承が聴納しようとした。浜町の隠居信順がこれを見て大いに怒った。信順は平素国猿を憎悪することの尤も甚しい一人であった。
この議に反対したものは、独浜町の隠居のみではなかった。当時江戸にいた藩士の殆ど全体は弘前に往くことを喜ばなかった。中にも抽斎と親善であった比良野貞固は、抽斎のこの議を唱うるを聞いて、馳せ来って論難した。議善からざるにあらずといえども、江戸に生れ江戸に長じたる士人とその家族とをさえ、悉く窮北の地に遷そうとするは、忍べるの甚しきだというのである。抽斎は貞固の説を以て、情に偏し義に失するものとなして聴かなかった。貞固はこれがために一時抽斎と交を絶つに至った。
この頃国勝手の議に同意していた人々の中、津軽家の継嗣問題のために罪を獲たものがあって、彼議を唱えた抽斎らは肩身の狭い念をした。継嗣問題とは当主順承が肥後国熊本の城主細川越中守斉護の子寛五郎承昭を養おうとするに起った。順承は女玉姫を愛して、これに壻を取って家を護ろうとしていると、津軽家下屋敷の一つなる本所大川端邸が細川邸と隣接しているために、斉護と親しくなり、遂に寛五郎を養子に貰い受けようとするに至った。罪を獲た数人は、血統を重んずる説を持して、この養子を迎うることを拒もうとし、順承はこれを迎うるに決したからである。即ち側用人加藤清兵衛、用人兼松伴大夫は帰国の上隠居謹慎、兼松三郎は帰国の上永の蟄居を命ぜられた。
石居即ち兼松三郎は後に夢醒と題して七古を作った。中に「又憶世子即世後、継嗣未定物議伝、不顧身分有所建、因冒譴責坐北遷」の句がある。その咎を受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈った。中に「菅公遇譖、屈原独清、」という語があった。
この年抽斎の次男矢島優善は、遂に素行修まらざるがために、表医者を貶して小普請医者とせられ、抽斎もまたこれに連繋して閉門三日に処せられた。
優善の夥伴になっていた塩田良三は、父の勘当を蒙って、抽斎の家の食客となった。我子の乱行のために譴を受けた抽斎が、その乱行を助長した良三の身の上を引き受けて、家におらせたのは、余りに寛大に過ぎるようであるが、これは才を愛する情が深いからの事であったらしい。抽斎は人の寸長をも見さずに、これに保護を加えて、幾どその瑕疵を忘れたるが如くであった。年来森枳園を扶掖しているのもこれがためである。今良三を家に置くに至ったのも、良三に幾分の才気のあるのを認めたからであろう。固より抽斎の許には、常に数人の諸生が養われていたのだから、良三はただこの群に新に来り加わったに過ぎない。
数月の後に、抽斎は良三を安積艮斎の塾に住み込ませた。これより先艮斎は天保十三年に故郷に帰って、二本松にある藩学の教授になったが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来昌平黌の教授になっていた。抽斎は彼の終始濂渓の学を奉じていた艮斎とは深く交らなかったのに、これに良三を託したのは、良三の吏材たるべきを知って、これを培養することを謀ったのであろう。
抽斎の先妻徳の里方岡西氏では、この年七月二日に徳の父栄玄が歿し、次いで十一月十一日に徳の兄玄亭が歿した。
栄玄は医を以て阿部家に仕えた。長子玄亭が蘭軒門下の俊才であったので、抽斎はこれと交を訂し、遂にその妹徳を娶るに至ったのである。徳の亡くなった後も、次男優善がその出であるので、抽斎一家は岡西氏と常に往来していた。
栄玄は樸直な人であったが、往々性癖のために言行の規矩を踰ゆるを見た。かつて八文の煮豆を買って鼠不入の中に蔵し、しばしばその存否を検したことがある。また或日海一尾を携え来って、抽斎に遺り、帰途に再び訪わんことを約して去った。五百はために酒饌を設けようとして頗る苦心した。それは栄玄が饌に対して奢侈を戒めたことが数次であったからである。抽斎は遺られた所の海を饗することを命じた。栄玄は来て饗を受けたが、色悦ばざるものの如く、遂に「客にこんな馳走をすることは、わたしの内ではない」といった。五百が「これはお持たせでございます」といったが、栄玄は聞えぬふりをしていた。調理法が好過ぎたのであろう。
尤も抽斎をして不平に堪えざらしめたのは、栄玄が庶子苫を遇することの甚だ薄かったことである。苫は栄玄が厨下の婢に生せた女である。栄玄はこれを認めて子としたのに、「あんなきたない子は畳の上には置かれない」といって、板の間に蓙を敷いて寝させた。当時栄玄の妻は既に歿していたから、これは河東の獅子吼を恐れたのではなく、全く主人の性癖のためであった。抽斎は五百に議って苫を貰い受け、後下総の農家に嫁せしめた。
栄玄の子で、父に遅るること僅に四月にして歿した玄亭は、名を徳瑛、字を魯直といった。抽斎の友である。玄亭には二男一女があった。長男は玄庵、次男は養玄である。女は名を初といった。
この年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であった。抽斎が平生の学術上研鑽の外に最も多く思を労したのは何事かと問うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起した国勝手の議だといわなくてはなるまい。この議のまさに及ぼすべき影響の大きさと、この議の打ち克たなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識していた所であろう。抽斎はまた自己がその位にあらずして言うことの不利なるをも知らなかったのではあるまい。然るに抽斎のこれを敢てしたのは、必ず内にやむことをえざるものがあって敢てしたのであろう。憾むらくは要路に取ってこれを用いる手腕のある人がなかったために、弘前は遂に東北諸藩の間において一頭地を抜いて起つことが出来なかった。また遂に勤王の旗幟を明にする時期の早きを致すことが出来なかった。
安政四年には抽斎の七男成善が七月二十六日を以て生れた。小字は三吉、通称は道陸である。即ち今の保さんで、父は五十三歳、母は四十二歳の時の子である。
成善の生れた時、岡西玄庵が胞衣を乞いに来た。玄庵は父玄亭に似て夙慧であったが、嘉永三、四年の頃癲癇を病んで、低能の人と化していた。天保六年の生であったから、病を発したのが十六、七歳の時で、今は二十三歳になっている。胞衣を乞うのは、癲癇の薬方として用いんがためであった。
抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善の胞衣を持って帰った。この時これを惜んで一夜を泣き明したのは、昔抽斎の父允成の茶碗の余瀝を舐ったという老尼妙了である。妙了は年久しく渋江の家に寄寓していて、毎に小児の世話をしていたが、中にも抽斎の三女棠を愛し、今また成善の生れたのを見て、大いにこれを愛していた。それゆえ胞衣を玄庵に与えることを嫌った。俗説に胞衣を人に奪われた子は育たぬというからである。
この年前に貶黜せられた抽斎の次男矢島優善は、纔に表医者介を命ぜられて、半その位地を回復した。優善の友塩田良三は安積艮斎の塾に入れられていたが、或日師の金百両を懐にして長崎に奔った。父楊庵は金を安積氏に還し、人を九州に遣って子を連れ戻した。良三はまだ残の金を持っていたので、迎えに来た男を随えて東上するのに、駅々で人に傲ること貴公子の如くであった。この時肥後国熊本の城主細川越中守斉護の四子寛五郎は、津軽順承の女壻にせられて東上するので、途中良三と旅宿を同じうすることがあった。斉護は子をして下情に通ぜしめんことを欲し、特に微行を命じたので、寛五郎と従者とは始終質素を旨としていた。驕子良三は往々五十四万石の細川家から、十万石の津軽家に壻入する若殿を凌いで、旅中下風に立っている少年の誰なるかを知らずにいた。寛五郎は今の津軽伯で、当時裁に十七歳であった。
小野氏ではこの年令図が致仕して、子富穀が家督した。令図は小字を慶次郎という。抽斎の祖父本皓の庶子で、母を横田氏よのという。よのは武蔵国川越の人某の女である。令図は出でて同藩の医官二百石小野道秀の末期養子となり、有尚と称し、後また道瑛と称し、累進して近習医者に至った。天明三年十一月二十六日生で、致仕の時七十五歳になっていた。令図に一男一女があって、男を富穀といい、女を秀といった。
富穀、通称は祖父と同じく道秀といった。文化四年の生である。十一歳にして、森枳園と共に抽斎の弟子となった。家督の時は表医者であった。令図、富穀の父子は共に貨殖に長じて、弘前藩定府中の富人であった。妹秀は長谷川町の外科医鴨池道碩に嫁した。
多紀氏ではこの年二月十四日に、矢の倉の末家の庭が六十三歳で歿し、十一月に向柳原の本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくしの所蔵の安政四年「武鑑」は、庭が既に逝いて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、庭の子安琢が多紀安琢二百俵、父楽春院として載せてあり、暁湖は旧に依って多紀安良法眼二百俵、父安元として載せてある。庭の楽真院を、「武鑑」には前から楽春院に作ってある。その何の故なるを詳にしない。
庭、名は元堅、字は亦柔、一に三松と号す。通称は安叔、後楽真院また楽春院という。寛政七年に桂山の次男に生れた。幼時犬を闘わしむることを好んで、学業を事としなかったが、人が父兄に若かずというを以て責めると、「今に見ろ、立派な医者になって見せるから」といっていた。幾もなくして節を折って書を読み、精力衆に踰え、識見人を驚かした。分家した初は本石町に住していたが、後に矢の倉に移った。侍医に任じ、法眼に叙せられ、次で法印に進んだ。秩禄は宗家と同じく二百俵三十人扶持である。
庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単に薬餌を給するのみでなく、夏は蚊を貽り、冬は布団を遣った。また三両から五両までの金を、貧窶の度に従って与えたこともある。
庭は抽斎の最も親しい友の一人で、二家の往来は頻繁であった。しかし当時法印の位は太だ貴いもので、庭が渋江の家に来ると、茶は台のあり蓋のある茶碗に注ぎ、菓子は高坏に盛って出した。この器は大名と多紀法印とに茶菓を呈する時に限って用いたそうである。庭の後は安琢が嗣いだ。
暁湖、名は元、字は兆寿、通称は安良であった。桂山の孫、柳の子である。文化三年に生れ、文政十年六月三日に父を喪って、八月四日に宗家を継承した。暁湖の後を襲いだのは養子元佶で、実は季の弟である。
安政五年には二月二十八日に、抽斎の七男成善が藩主津軽順承に謁した。年甫て二歳、今の齢を算する法に従えば、生れて七カ月であるから、人に懐かれて謁した。しかし謁見は八歳以上と定められていたので、この日だけは八歳と披露したのだそうである。
五月十七日には七女幸が生れた。幸は越えて七月六日に早世した。
この年には七月から九月に至るまで虎列拉が流行した。徳川家定は八月二日に、「少々御勝不被遊」ということであったが、八日には忽ち薨去の公報が発せられ、家斉の孫紀伊宰相慶福が十三歳で嗣立した。家定の病は虎列拉であったそうである。
この頃抽斎は五百にこういう話をした。「己は公儀へ召されることになるそうだ。それが近い事で公方様の喪が済み次第仰付けられるだろうということだ。しかしそれをお請をするには、どうしても津軽家の方を辞せんではいられない。己は元禄以来重恩の主家を棄てて栄達を謀る気にはなられぬから、公儀の方を辞するつもりだ。それには病気を申立てる。そうすると、津軽家の方で勤めていることも出来ない。己は隠居することに極めた。父は五十九歳で隠居して七十四歳で亡くなったから、己も兼て五十九歳になったら隠居しようと思っていた。それがただ少しばかり早くなったのだ。もし父と同じように、七十四歳まで生きていられるものとすると、これから先まだ二十年ほどの月日がある。これからが己の世の中だ。己は著述をする。先ず『老子』の註を始として、迷庵斎に誓った為事を果して、それから自分の為事に掛かるのだ」といった。公儀へ召されるといったのは、奥医師などに召し出されることで、抽斎はその内命を受けていたのであろう。然るに運命は抽斎をしてこのヂレンマの前に立たしむるに至らなかった。また抽斎をして力を述作に肆にせしむるに至らなかった。
八月二十二日に抽斎は常の如く晩餐の饌に向った。しかし五百が酒を侑めた時、抽斎は下物の魚膾に箸を下さなかった。「なぜ上らないのです」と問うと、「少し腹工合が悪いからよそう」といった。翌二十三日は浜町中屋敷の当直の日であったのを、所労を以て辞した。この日に始て嘔吐があった。それから二十七日に至るまで、諸証は次第に険悪になるばかりであった。
多紀安琢、同元佶、伊沢柏軒、山田椿庭らが病牀に侍して治療の手段を尽したが、功を奏せなかった。椿庭、名は業広、通称は昌栄である。抽斎の父允成の門人で、允成の歿後抽斎に従学した。上野国高崎の城主松平右京亮輝聡の家来で、本郷弓町に住んでいた。
抽斎は時々譫語した。これを聞くに、夢寐の間に『医心方』を校合しているものの如くであった。
抽斎の病況は二十八日に小康を得た。遺言の中に、兼て嗣子と定めてあった成善を教育する方法があった。経書を海保漁村に、筆札を小島成斎に、『素問』を多紀安琢に受けしめ、機を看て蘭語を学ばしめるようにというのである。
二十八日の夜丑の刻に、抽斎は遂に絶息した。即ち二十九日午前二時である。年は五十四歳であった。遺骸は谷中感応寺に葬られた。
抽斎の歿した跡には、四十三歳の未亡人五百を始として、岡西氏の出次男矢島優善二十四歳、四女陸十二歳、六女水木六歳、五男専六五歳、六男翠暫四歳、七男成善二歳の四子二女が残った。優善を除く外は皆山内氏五百の出である。
抽斎の子にして父に先って死んだものは、尾島氏の出長男恒善、比良野氏の出馬場玄玖妻長女純、岡西氏の出二女好、三男八三郎、山内氏の出三女山内棠、四男幻香、五女癸巳、七女幸の三子五女である。
矢島優善はこの年二月二十八日に津軽家の表医者にせられた。初の地位に復したのである。
五百の姉壻長尾宗右衛門は、抽斎に先つこと一月、七月二十日に同じ病を得て歿した。次で十一月十五日の火災に、横山町の店も本町の宅も皆焼けたので、塗物問屋の業はここに廃絶した。跡に遣ったのは未亡人安四十四歳、長女敬二十一歳、次女銓十九歳の三人である。五百は台所町の邸の空地に小さい家を建ててこれを迎え入れた。五百は敬に壻を取って長尾氏の祀を奉ぜしめようとして、安に説き勧めたが、安は猶予して決することが出来なかった。
比良野貞固は抽斎の歿した直後から、連に五百に説いて、渋江氏の家を挙げて比良野邸に寄寓せしめようとした。貞固はこういった。自分は一年前に抽斎と藩政上の意見を異にして、一時絶交の姿になっていた。しかし抽斎との情誼を忘るることなく、早晩疇昔の親みを回復しようと思っているうちに、図らずも抽斎に死なれた。自分はどうにかして旧恩に報いなくてはならない。自分の邸宅には空室が多い。どうぞそこへ移って来て、我家に住む如くに住んでもらいたい。自分は貧いが、日々の生計には余裕がある。決して衣食の価は申し受けない。そうすれば渋江一家は寡婦孤児として受くべき侮を防ぎ、無用の費を節し、安んじて子女の成長するのを待つことが出来ようといったのである。
比良野貞固は抽斎の遺族を自邸に迎えようとして、五百に説いた。しかしそれは五百を識らぬのであった。五百は人の廡下に倚ることを甘んずる女ではなかった。渋江一家の生計は縮小しなくてはならぬこと勿論である。夫の存命していた時のように、多くの奴婢を使い、食客を居くことは出来ない。しかし譜代の若党や老婦にして放ち遣るに忍びざるものもある。寄食者の中には去らしめようにも往いて投ずべき家のないものもある。長尾氏の遺族の如きも、もし独立せしめようとしたら、定めて心細く思うことであろう。五百は己が人に倚らんよりは、人をして己に倚らしめなくてはならなかった。そして内に恃む所があって、敢て自らこの衝に当ろうとした。貞固の勧誘の功を奏せなかった所以である。
森枳園はこの年十二月五日に徳川家茂に謁した。寿蔵碑には「安政五年戊午十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書してあるが、この年月日は家定が薨じてから四月の後である。その枳園自撰の文なるを思えば、頗る怪むべきである。枳園が謁したはずの家茂は十三歳の少年でなくてはならない。家定はこれに反して、薨ずる時三十五歳であった。
この年の虎列拉は江戸市中において二万八千人の犠牲を求めたのだそうである。当時の聞人でこれに死したものには、岩瀬京山、安藤広重、抱一門の鈴木必庵等がある。市河米庵も八十歳の高齢ではあったが、同じ病であったかも知れない。渋江氏とその姻戚とは抽斎、宗右衛門の二人を喪って、五百、安の姉妹が同時に未亡人となったのである。
抽斎の著す所の書には、先ず『経籍訪古志』と『留真譜』とがあって、相踵いで支那人の手に由って刊行せられた。これは抽斎とその師、その友との講窮し得たる果実で、森枳園が記述に与ったことは既にいえるが如くである。抽斎の考証学の一面はこの二書が代表している。徐承祖が『訪古志』に序して、「大抵論繕写刊刻之工、拙於考証、不甚留意」といっているのは、我国において初て手を校讐の事に下した抽斎らに対して、備わるを求むることの太だ過ぎたるものではなかろうか。
我国における考証学の系統は、海保漁村に従えば、吉田篁が首唱し、狩谷斎がこれに継いで起り、以て抽斎と枳園とに及んだものである。そして篁の傍系には多紀桂山があり、斎の傍系には市野迷庵、多紀庭、伊沢蘭軒、小島宝素があり、抽斎と枳園との傍系には多紀暁湖、伊沢柏軒、小島抱沖、堀川舟庵と漁村自己とがあるというのである。宝素は元表医師百五十俵三十人扶持小島春庵で、和泉橋通に住していた。名は尚質、一字は学古である。抱沖はその子春沂で、百俵寄合医師から出て父の職を襲ぎ、家は初め下谷二長町、後日本橋榑正町にあった。名は尚真である。春沂の後は春澳、名は尚絅が嗣いだ。春澳の子は現に北海道室蘭にいる杲一さんである。陸実が新聞『日本』に抽斎の略伝を載せた時、誤って宝素を小島成斎とし、抱沖を成斎の子としたが、今にるまで誰もこれを匡さずにいる。またこの学統について、長井金風さんは篁の前に井上蘭台と井上金峨とを加えなくてはならぬといっている。要するにこれらの諸家が新に考証学の領域を開拓して、抽斎が枳園と共に、まさに纔に全著を成就するに至ったのである。
わたくしは『訪古志』と『留真譜』との二書は、今少し重く評価して可なるものであろうと思う。そして頃日国書刊行会が『訪古志』を『解題叢書』中に収めて縮刷し、その伝を弘むるに至ったのを喜ぶのである。
抽斎の医学上の著述には、『素問識小』、『素問校異』、『霊枢講義』がある。就中『素問』は抽斎の精を殫して研窮した所である。海保漁村撰の墓誌に、抽斎が『説文』を引いて『素問』の陰陽結斜は結糾の訛なりと説いたことが載せてある。また七損八益を説くに、『玉房秘訣』を引いて説いたことが載せてある。『霊枢』の如きも「不精則不正当人言亦人人異」の文中、抽斎が正当を連文となしたのを賞してある。抽斎の説には発明極て多く、此の如き類はその一斑に過ぎない。
抽斎遺す所の手沢本には、往々欄外書のあるものを見る。此の如き本には『老子』がある。『難経』がある。
抽斎の詩はその余事に過ぎぬが、なお『抽斎吟稿』一巻が存している。以上は漢文である。
『護痘要法』は抽斎か池田京水の説を筆受したもので、抽斎の著述中江戸時代に刊行せられた唯一の書である。
雑著には『晏子春秋筆録』、『劇神仙話』、『高尾考』がある。『劇神仙話』は長島五郎作の言を録したものである。『高尾考』は惜むらくは完書をなしていない。
『※語[#「衛/心」、U+39A3、165-14]』は抽斎が国文を以て学問の法程を記して、及門の子弟に示す小冊子に命じた名であろう。この文の末尾に「天保辛卯季秋抽斎酔睡中に※言[#「衛/心」、U+39A3、165-15]す」と書してある。辛卯は天保二年で、抽斎が二十七歳の時である。しかし現存している一巻には、この国文八枚が紅色の半紙に写してあって、その前に白紙に写した漢文の草稿二十九枚が合綴してある。その目を挙ぐれば、煩悶異文弁、仏説阿弥陀経碑、春秋外伝国語跋、荘子注疏跋、儀礼跋、八分書孝経跋、橘録跋、沖虚至徳真経釈文跋、青帰書目蔵書目録跋、活字板左伝跋、宋本校正病源候論跋、元板再校千金方跋、書医心方後、知久吉正翁墓碣、駱駝考、、論語義疏跋、告蘭軒先生之霊の十八篇である。この一冊は表紙に「※[#「衛/心」、U+39A3、166-6]語、抽斎述」の五字が篆文で題してあって、首尾渾て抽斎の自筆である。徳富蘇峰さんの蔵本になっているのを、わたくしは借覧した。
抽斎随筆、雑録、日記、備忘録の諸冊中には、今已に佚亡したものもある。就中日記は文政五年から安政五年に至るまでの三十七年間にわたる記載であって、然たる大冊数十巻をなしていた。これは上直ちに天明四年から天保八年に至るまでの五十四年間の允成の日記に接して、その中間の文政五年から天保八年に至るまでの十六年間は父子の記載が並存していたのである。この一大記録は明治八年二月に至るまで、保さんが蔵していた。然るに保さんは東京から浜松県に赴任するに臨んで、これを両掛に納めて、親戚の家に託した。親戚はその貴重品たるを知らざるがために、これに十分の保護を加うることを怠った。そして悉くこれを失ってしまった。両掛の中にはなお前記の抽斎随筆等十余冊があり、また允成の著す所の『定所雑録』等約三十冊があった。想うにこの諸冊は既に屏風襖葛籠等の下貼の料となったであろうか。それとも何人かの手に帰して、何処かに埋没しているであろうか。これを捜討せんと欲するに、由るべき道がない。保さんは今にるまで歎惜して已まぬのである。
『直舎伝記抄』八冊は今富士川游君が蔵している。中に題号を闕いたものが三冊交っているが、主に弘前医官の宿直部屋の日記を抄写したものである。上は宝永元年から下は天保九年に至る。所々に善云と低書した註がある。宝永元年から天明五年に至る最古の一冊は題号がなく、引用書として『津軽一統志』、『津軽軍記』、『津陽開記』、『御系図三通』、『歴年亀鑑』、『孝公行実』、『常福寺由緒書』、『津梁院過去帳抄』、『伝聞雑録』、『東藩名数』、『高岡霊験記』、『諸書案文』、『藩翰譜』が挙げてある。これは諸書について、主に弘前医官に関する事を抄出したものであろう。
『四つの海』は抽斎の作った謡物の長唄である。これは書と称すべきものではないが、前に挙げた『護痘要法』と倶に、江戸時代に刊行せられた二、三葉の綴文である。
『仮面の由来』、これもまた片々たる小冊子である。
『呂后千夫』は抽斎の作った小説である。庚寅の元旦に書いたという自序があったそうであるから、その前年に成ったもので、即ち文政十二年二十五歳の時の作であろう。この小説は五百が来り嫁した頃には、まだ渋江の家にあって、五百は数遍読過したそうである。或時それを筑山左衛門というものが借りて往った。筑山は下野国足利の名主だということであった。そして終に還さずにしまった。以上は国文で書いたものである。
この著述の中刊行せられたものは『経籍訪古志』、『留真譜』、『護痘要法』、『四つの海』の四種に過ぎない。その他は皆写本で、徳富蘇峰さんの所蔵の『※語[#「衛/心」、U+39A3、168-8]』、富士川游さんの所蔵の『直舎伝記抄』及已に散佚した諸書を除く外は、皆保さんが蔵している。
抽斎の著述は概ね是の如きに過ぎない。致仕した後に、力を述作に肆にしようと期していたのに、不幸にして疫癘のために命を隕し、かつて内に蓄うる所のものが、遂に外に顕るるに及ばずして已んだのである。
わたくしは此に抽斎の修養について、少しく記述して置きたい。考証家の立脚地から観れば、経籍は批評の対象である。在来の文を取って渾侖に承認すべきものではない。是において考証家の末輩には、破壊を以て校勘の目的となし、毫もピエテエの迹を存せざるに至るものもある。支那における考証学亡国論の如きは、固より人文進化の道を蔽塞すべき陋見であるが、考証学者中に往々修養のない人物を出だしたという暗黒面は、その存在を否定すべきものではあるまい。
しかし真の学者は考証のために修養を廃するような事はしない。ただ修養の全からんことを欲するには、考証を闕くことは出来ぬと信じている。何故というに、修養には六経を窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証に須つことがあるというのである。
抽斎はその『※語[#「衛/心」、U+39A3、169-9]』中にこういっている。「凡そ学問の道は、六経を治め聖人の道を身に行ふを主とする事は勿論なり。扨其六経を読み明めむとするには必ず其一言一句をも審に研究せざるべからず。一言一句を研究するには、文字の音義を詳にすること肝要なり。文字の音義を詳にするには、先づ善本を多く求めて、異同を比讐し、謬誤を校正し、其字句を定めて後に、小学に熟練して、義理始て明了なることを得。譬へば高きに登るに、卑きよりし、遠きに至るに近きよりするが如く、小学を治め字句を校讐するは、細砕の末業に似たれども、必ずこれをなさざれば、聖人の大道微意を明むること能はず。(中略)故に百家の書読まざるべきものなく、さすれば人間一生の内になし得がたき大業に似たれども、其内主とする所の書を専ら読むを緊務とす。それはいづれにも師とする所の人に随ひて教を受くべき所なり。さて斯の如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大道微意に通達すること必ず成就すべし」といっている。
これは抽斎の本領を道破したもので、考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何に縁って修養して好いか分からぬことになるというのである。さて抽斎の此の如き見解は、全く師市野迷庵の教に本づいている。
迷庵の考証学が奈何なるものかということは、『読書指南』について見るべきである。しかしその要旨は自序一篇に尽されている。迷庵はこういった。「孔子は堯舜三代の道を述べて、其流義を立て給へり。堯舜より以下を取れるは、其事の明に伝はれる所なればなり。されども春秋の比にいたりて、世変り時遷りて、其道一向に用ゐられず。孔子も遣つては見給へども、遂に行かず。終に魯に還り、六経を修めて後世に伝へらる。これその堯舜三代の道を認めたまふゆゑなり。儒者は孔子をまもりて其経を修むるものなり。故に儒者の道を学ばむと思はゞ、先づ文字を精出して覚ゆるがよし。次に九経をよく読むべし。漢儒の注解はみな古より伝受あり。自分の臆説をまじへず。故に伝来を守るが儒者第一の仕事なり。(中略)宋の時程頤、朱熹等己が学を建てしより、近来伊藤源佐、荻生惣右衛門などと云ふやから、みな己の学を学とし、是非を争ひてやまず。世の儒者みな真闇になりてわからず。余も亦少かりしより此事を学びしが、迷ひてわからざりし。ふと解する所あり。学令の旨にしたがひて、それ/″\の古書をよむがよしと思へり」といった。
要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証に由って至るより外ないと信じたのである。固よりこれは捷径ではない。迷庵が精出して文字を覚えるといい、抽斎が小学に熟練するといっているこの事業は、これがために一人の生涯を費すかも知れない。幾多のジェネラションのこの間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の由るべきものがないとすると、学者は此に従事せずにはいられぬのである。
然らば学者は考証中に没頭して、修養に遑がなくなりはせぬか。いや。そうではない。考証は考証である。修養は修養である。学者は考証の長途を歩みつつ、不断の修養をなすことが出来る。
抽斎はそれをこう考えている。百家の書に読まないで好いものはない。十三経といい、九経といい、六経という。列べ方はどうでも好いが、秦火に焚かれた楽経は除くとして、これだけは読破しなくてはならない。しかしこれを読破した上は、大いに功を省くことが出来る。「聖人の道と事々しく云へども、前に云へる如く、六経を読破したる上にては、論語、老子の二書にて事足るなり。其中にも過猶不及を身行の要とし、無為不言を心術の掟となす。此二書をさへ能く守ればすむ事なり」というのである。
抽斎は百尺竿頭更に一歩を進めてこういっている。「但論語の内には取捨すべき所あり。王充書の問孔篇及迷庵師の論語数条を論じたる書あり。皆参考すべし」といっている。王充のいわゆる「夫聖賢下筆造文、用意詳審、尚未可謂尽得実、況倉卒吐言、安能皆是」という見識である。
抽斎が『老子』を以て『論語』と並称するのも、師迷庵の説に本づいている。「天は蒼々として上にあり。人は両間に生れて性皆相近し。習相遠きなり。世の始より性なきの人なし。習なきの俗なし。世界万国皆其国々の習ありて同じからず。其習は本性の如く人にしみ附きて離れず。老子は自然と説く。其れ是歟。孔子曰。述而不作。信而好古。窃比我於老彭。かく宣給ふときは、孔子の意も亦自然に相近し」といったのが即ちこれである。
抽斎は『老子』を尊崇せんがために、先ずこれをヂスクレヂイに陥いれた仙術を、道教の畛域外に逐うことを謀った。これは早く清の方維甸が嘉慶板の『抱朴子』に序して弁じた所である。さてこの洗冤を行った後にこういっている。「老子の道は孔子と異なるに似たれども、その帰する所は一意なり。不患人不己知及曾子の有若無実若虚などと云へる、皆老子の意に近し。且自然と云ふこと、万事にわたりて然らざることを得ず。(中略)又仏家に漠然に帰すると云ふことあり。是れ空に体する大乗の教なり。自然と云ふより一層あとなき言なり。その小乗の教は一切の事皆式に依りて行へとなり。孔子の道も孝悌仁義より初めて諸礼法は仏家の小乗なり。その一以貫之は此教を一にして執中に至り初て仏家大乗の一場に至る。執中以上を語れば、孔子釈子同じ事なり」といっている。
抽斎は終に儒、道、釈の三教の帰一に到着した。もしこの人が旧新約書を読んだなら、あるいはその中にも契合点を見出だして、彼の安井息軒の『弁妄』などと全く趣を殊にした書を著したかも知れない。
以上は抽斎の手記した文について、その心術身行の由って来る所を求めたものである。この外、わたくしの手元には一種の語録がある。これは五百が抽斎に聞き、保さんが五百に聞いた所を、頃日保さんがわたくしのために筆に上せたのである。わたくしは今漫に潤削を施すことなしに、これを此に収めようと思う。
抽斎は日常宋儒のいわゆる虞廷の十六字を口にしていた。彼の「人心惟危、道心惟微、惟精惟一、允執厥中」の文である。上の三教帰一の教は即ちこれである。抽斎は古文尚書の伝来を信じた人ではないから、これを以て堯の舜に告げた言となしたのでないことは勿論である。そのこれを尊重したのは、古言古義として尊重したのであろう。そして惟精惟一の解釈は王陽明に従うべきだといっていたそうである。
抽斎は『礼』の「清明在躬、志気如神」の句と、『素問』の上古天真論の「恬虚無、真気従之、精神内守、病安従来」の句とを誦して、修養して心身の康寧を致すことが出来るものと信じていた。抽斎は眼疾を知らない。歯痛を知らない。腹痛は幼い時にあったが、壮年に及んでからは絶てなかった。しかし虎列拉の如き細菌の伝染をば奈何ともすることを得なかった。
抽斎は自ら戒め人を戒むるに、しばしば沢山咸の「九四爻」を引いていった。学者は仔細に「憧憧往来、朋従爾思」という文を味うべきである。即ち「君子素其位而行、不願乎其外」の義である。人はその地位に安んじていなくてはならない。父允成がおる所の室を容安室と名づけたのは、これがためである。医にして儒を羨み、商にして士を羨むのは惑えるものである。「天下何思何慮、天下同帰而殊塗、一致而百慮」といい、「日往則月来、月往則日来、日月相推而明生焉、寒往則暑来、暑往則寒来、寒暑相推而歳成焉」というが如く、人の運命にもまた自然の消長がある。須く自重して時の到るを待つべきである。
「尺蠖之屈、以求信也、龍蛇之蟄、以存身也」とはこれの謂であるといった。五百の兄広瀬栄次郎が已に町人を罷めて金座の役人となり、その後久しく金の吹替がないのを見て、また業を更めようとした時も、抽斎はこの爻を引いて諭した。
抽斎はしばしば地雷復の初九爻を引いて人を諭した。「不遠復无祗悔」の爻である。過を知って能く改むる義で、顔淵の亜聖たる所以は此に存するというのである。抽斎はいつもその跡で言い足した。しかし顔淵の好処は啻にこれのみではない。「回之為人也、択乎中庸、得一善、則拳拳服膺、而弗失之矣」というのがこれである。孔子が子貢にいった語に、顔淵を賞して、「吾与汝、弗如也」といったのも、これがためであるといった。
抽斎はかつていった。「為政以徳、譬如北辰、居其所、而衆星共之」というのは、独君道を然りとなすのみではない。人は皆奈何したら衆星が己に共うだろうかと工夫しなくてはならない。能くこれを致すものは即ち「矩之道」である。韓退之は「其責己也重以周、其待人也軽以約」といった。人と交るには、その長を取って、その短を咎めぬが好い。「無求備於一人」といい、「及其使人也器之」というは即ちこれである。これを推し広めて言えば、『老子』の「治大国、若烹小鮮」という意に帰著する。「大道廃有仁義」といい、「聖人不死、大盗不止」というのも、その反面を指して言ったのである。己も往事を顧れば、動もすれば矩の道において闕くる所があった。妻岡西氏徳を疎んじたなどもこれがためである。幸に父に匡救せられて悔い改むることを得た。平井東堂は学あり識ある傑物である。然るにその父は用人たることを得て、己は用人たることを得ない。己はその何故なるを知らぬが、修養の足らざるのもまた一因をなしているだろう。比良野助太郎は才に短であるが、人はかえってこれに服する。賦性が自ら矩の道にっているのであるといった。
抽斎はまたいった。『孟子』の好処は尽心の章にある。「君子有三楽、而王天下、不与存焉、父母倶存、兄弟無故、一楽也、仰不愧於天、俯不於人、二楽也、得天下英才、而教育之、三楽也」というのがこれである。『韓非子』は主道、揚権、解老、喩老の諸篇が好いといった。
これらの言を聞いた後に、抽斎の生涯を回顧すれば、誰人もその言行一致を認めずにはいられまい。抽斎は内徳義を蓄え、外誘惑を却け、恒に己の地位に安んじて、時の到るを待っていた。我らは抽斎の一たび徴されて起ったのを見た。その躋寿館の講師となった時である。我らは抽斎のまさに再び徴されて辞せんとするのを見た。恐らくはそのまさに奥医師たるべき時であっただろう。進むべくして進み、辞すべくして辞する、その事に処するに、綽々として余裕があった。抽斎の咸の九四を説いたのは虚言ではない。
抽斎の森枳園における、塩田良三における、妻岡西氏における、その人を待つこと寛宏なるを見るに足る。抽斎は矩の道において得る所があったのである。
抽斎の性行とその由って来る所とは、ほぼ上述の如くである。しかしここにただ一つ剰す所の問題がある。嘉永安政の時代は天下の士人をして悉く岐路に立たしめた。勤王に之かんか、佐幕に之かんか。時代はその中間において鼠いろの生を偸むことを容さなかった。抽斎はいかにこれに処したか。
この間題は抽斎をして思慮を費さしむることを要せなかった。何故というに、渋江氏の勤王は既に久しく定まっていたからである。
渋江氏の勤王はその源委を詳にしない。しかし抽斎の父允成に至って、師柴野栗山に啓発せられたことは疑を容れない。允成が栗山に従学した年月は明でないが、栗山が五十三歳で幕府の召に応じて江戸に入った天明八年には、允成が丁度二十五歳になっていた。家督してから四年の後である。允成が栗山の門に入ったのは、恐らくはその後久しきを経ざる間の事であっただろう。これは栗山が文化四年十二月朔に七十二歳で歿したとして推算したものである。
允成の友にして抽斎の師たりし市野迷庵が勤王家であったことは、その詠史の諸作に徴して知ることが出来る。この詩は維新後森枳園が刊行した。抽斎は啻に家庭において王室を尊崇する心を養成せられたのみでなく、また迷庵の説を聞いて感奮したらしい。
抽斎の王室における、常に耿々の心を懐いていた。そしてかつて一たびこれがために身命を危くしたことがある。保さんはこれを母五百に聞いたが、憾むらくはその月日を詳にしない。しかし本所においての出来事で、多分安政三年の頃であったらしいということである。
或日手島良助というものが抽斎に一の秘事を語った。それは江戸にある某貴人の窮迫の事であった。貴人は八百両の金がないために、まさに苦境に陥らんとしておられる。手島はこれを調達せんと欲して奔走しているが、これを獲る道がないというのであった。抽斎はこれを聞いて慨然として献金を思い立った。抽斎は自家の窮乏を口実として、八百両を先取することの出来る無尽講を催した。そして親戚故旧を会して金を醵出せしめた。
無尽講の夜、客が已に散じた後、五百は沐浴していた。明朝金を貴人の許に齎さんがためである。この金を上る日は予め手島をして貴人に稟さしめて置いたのである。
抽斎は忽ち剥啄の声を聞いた。仲間が誰何すると、某貴人の使だといった。抽斎は引見した。来たのは三人の侍である。内密に旨を伝えたいから、人払をしてもらいたいという。抽斎は三人を奥の四畳半に延いた。三人の言う所によれば、貴人は明朝を待たずして金を獲ようとして、この使を発したということである。
抽斎は応ぜなかった。この秘事に与っている手島は、貴人の許にあって職を奉じている。金は手島を介して上ることを約してある。面を識らざる三人に交付することは出来ぬというのである。三人は手島の来ぬ事故を語った。抽斎は信ぜないといった。
三人は互に目語して身を起し、刀のに手を掛けて抽斎を囲んだ。そしていった。我らの言を信ぜぬというは無礼である。かつ重要の御使を承わってこれを果さずに還っては面目が立たない。主人はどうしても金をわたさぬか。すぐに返事をせよといった。
抽斎は坐したままで暫く口を噤んでいた。三人が偽の使だということは既に明である。しかしこれと格闘することは、自分の欲せざる所で、また能わざる所である。家には若党がおり諸生がおる。抽斎はこれを呼ぼうか、呼ぶまいかと思って、三人の気色を覗っていた。
この時廊下に足音がせずに、障子がすうっと開いた。主客は斉く愕きた。
刀のに手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の端近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に見遣った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
五百は僅に腰巻一つ身に著けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜えていた。そして閾際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ち升っている。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。
五百は小桶を持ったまま、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を把って鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。
熱湯を浴びた二人が先に、に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。
五百は仲間や諸生の名を呼んで、「どろぼう/\」という声をその間に挟んだ。しかし家に居合せた男らの馳せ集るまでには、三人の客は皆逃げてしまった。この時の事は後々まで渋江の家の一つ話になっていたが、五百は人のその功を称するごとに、慙じて席を遁れたそうである。五百は幼くて武家奉公をしはじめた時から、匕首一口だけは身を放さずに持っていたので、湯殿に脱ぎ棄てた衣類の傍から、それを取り上げることは出来たが、衣類を身に纏う遑はなかったのである。
翌朝五百は金を貴人の許に持って往った。手島の言によれば、これは献金としては受けられぬ、唯借上になるのであるから、十カ年賦で返済するということであった。しかし手島が渋江氏を訪うて、お手元不如意のために、今年は返金せられぬということが数度あって、維新の年に至るまでに、還された金は些ばかりであった。保さんが金を受け取りに往ったこともあるそうである。
この一条は保さんもこれを語ることを躊躇し、わたくしもこれを書くことを躊躇した。しかし抽斎の誠心をも、五百の勇気をも、かくまで明に見ることの出来る事実を湮滅せしむるには忍びない。ましてや貴人は今は世に亡き御方である。あからさまにその人を斥さずに、ほぼその事を記すのは、あるいは妨がなかろうか。わたくしはこう思惟して、抽斎の勤王を説くに当って、遂にこの事に言い及んだ。
抽斎は勤王家ではあったが、攘夷家ではなかった。初め抽斎は西洋嫌で、攘夷に耳を傾けかねぬ人であったが、前にいったとおりに、安積艮斎の書を読んで悟る所があった。そして窃に漢訳の博物窮理の書を閲し、ますます洋学の廃すべからざることを知った。当時の洋学は主に蘭学であった。嗣子の保さんに蘭語を学ばせることを遺言したのはこれがためである。
抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去ったのである。この公認を贏ち得るまでには、蘭法医は社会において奮闘した。そして彼らの攻撃の衝に当ったものは漢法医である。その応戦の跡は『漢蘭酒話』、『一夕医話』等の如き書に徴して知ることが出来る。抽斎は敢て言をその間に挟まなかったが、心中これがために憂え悶えたことは、想像するに難からぬのである。
わたくしは幕府が蘭法医を公認すると同時に抽斎が歿したといった。この公認は安政五年七月初の事で、抽斎は翌八月の末に歿した。
これより先幕府は安政三年二月に、蕃書調所を九段坂下元小姓組番頭格竹本主水正正懋の屋敷跡に創設したが、これは今の外務省の一部に外国語学校を兼たようなもので、医術の事には関せなかった。越えて安政五年に至って、七月三日に松平薩摩守斉彬家来戸塚静海、松平肥前守斉正家来伊東玄朴、松平三河守慶倫家来遠田澄庵、松平駿河守勝道家来青木春岱に奥医師を命じ、二百俵三人扶持を給した。これが幕府が蘭法医を任用した権輿で、抽斎の歿した八月二十八日に先つこと、僅に五十四日である。次いで同じ月の六日に、幕府は御医師即ち官医中有志のものは「阿蘭医術兼学致候とも不苦候」と令した。翌日また有馬左兵衛佐道純家来竹内玄同、徳川賢吉家来伊東貫斎が奥医師を命ぜられた。この二人もまた蘭法医である。
抽斎がもし生きながらえていて、幕府の聘を受けることを肯じたら、これらの蘭法医と肩を比べて仕えなくてはならなかったであろう。そうなったら旧思想を代表すべき抽斎は、新思想を齎し来った蘭法医との間に、厭うべき葛藤を生ずることを免れなかったかも知れぬが、あるいはまた彼の多紀庭の手に出でたという無名氏の『漢蘭酒話』、平野革谿の『一夕医話』等と趣を殊にした、真面目な漢蘭医法比較研究の端緒が此に開かれたかも知れない。
抽斎の日常生活に人に殊なる所のあったことは、前にも折に触れて言ったが、今遺れるを拾って二、三の事を挙げようと思う。抽斎は病を以て防ぎ得べきものとした人で、常に摂生に心を用いた。飯は朝午各三椀、夕二椀半と極めていた。しかもその椀の大きさとこれに飯を盛る量とが厳重に定めてあった。殊に晩年になっては、嘉永二年に津軽信順が抽斎のこの習慣を聞き知って、長尾宗右衛門に命じて造らせて賜わった椀のみを用いた。その形は常の椀よりやや大きかった。そしてこれに飯を盛るに、婢をして盛らしむるときは、過不及を免れぬといって、飯を小さい櫃に取り分けさせ、櫃から椀に盛ることを、五百の役目にしていた。朝の未醤汁も必ず二椀に限っていた。
菜蔬は最も莱を好んだ。生で食うときは大根おろしにし、烹て食うときはふろふきにした。大根おろしは汁を棄てず、醤油などを掛けなかった。
浜名納豆は絶やさずに蓄えて置いて食べた。
魚類では方頭魚の未醤漬を嗜んだ。畳鰯も喜んで食べた。鰻は時々食べた。
間食は殆ど全く禁じていた。しかし稀に飴と上等の煎餅とを食べることがあった。
抽斎が少壮時代に毫も酒を飲まなかったのに、天保八年に三十三歳で弘前に往ってから、防寒のために飲みはじめたことは、前にいったとおりである。さて一時は晩酌の量がやや多かった。その後安政元年に五十歳になってから、猪口に三つを踰えぬことにした。猪口は山内忠兵衛の贈った品で、宴に赴くにはそれを懐にして家を出た。
抽斎は決して冷酒を飲まなかった。然るに安政二年に地震に逢って、ふと冷酒を飲んだ。その後は偶飲むことがあったが、これも三杯の量を過さなかった。
鰻を嗜んだ抽斎は、酒を飲むようになってから、しばしば鰻酒ということをした。茶碗に鰻の蒲焼を入れ、些しのたれを注ぎ、熱酒を湛えて蓋を覆って置き、少選してから飲むのである。抽斎は五百を娶ってから、五百が少しの酒に堪えるので、勧めてこれを飲ませた。五百はこれを旨がって、兄栄次郎と妹壻長尾宗右衛門とに侑め、また比良野貞固に飲ませた。これらの人々は後に皆鰻酒を飲むことになった。
飲食を除いて、抽斎の好む所は何かと問えば、読書といわなくてはならない。古刊本、古抄本を講窮することは抽斎終生の事業であるから、ここに算せない。医書中で『素問』を愛して、身辺を離さなかったこともまた同じである。次は『説文』である。晩年には毎月説文会を催して、小島成斎、森枳園、平井東堂、海保竹逕、喜多村栲窓、栗本鋤雲等を集えた。竹逕は名を元起、通称を弁之助といった。本稲村氏で漁村の門人となり、後に養われて子となったのである。文政七年の生で、抽斎の歿した時、三十五歳になっていた。栲窓は名を直寛、字を士栗という。通称は安斎、後父の称安政を襲いだ。香城はその晩年の号である。経を安積艮斎に受け、医を躋寿館に学び、父槐園の後を承けて幕府の医官となり、天保十二年には三十八歳で躋寿館の教諭になっていた。栗本鋤雲は栲窓の弟である。通称は哲三、栗本氏に養わるるに及んで、瀬兵衛と改め、また瑞見といった。嘉永三年に二十九歳で奥医師になっていた。
説文会には島田篁村も時々列席した。篁村は武蔵国大崎の名主島田重規の子である。名は重礼、字は敬甫、通称は源六郎といった。艮斎、漁村の二家に従学していた。天保九年生であるから、嘉永、安政の交にはなお十代の青年であった。抽斎の歿した時、豊村は丁度二十一になっていたのである。
抽斎の好んで読んだ小説は、赤本、菎蒻本、黄表紙の類であった。想うにその自ら作った『呂后千夫』は黄表紙の体に倣ったものであっただろう。
抽斎がいかに劇を好んだかは、劇神仙の号を襲いだというを以て、想見することが出来る。父允成がしばしば戯場に出入したそうであるから、殆ど遺伝といっても好かろう。然るに嘉永二年に将軍に謁見した時、要路の人が抽斎に忠告した。それは目見以上の身分になったからは、今より後市中の湯屋に往くことと、芝居小屋に立ち入ることとは遠慮するが宜しいというのであった。渋江の家には浴室の設があったから、湯屋に往くことは禁ぜられても差支がなかった。しかし観劇を停められるのは、抽斎の苦痛とする所であった。抽斎は隠忍して姑く忠告に従っていた。安政二年の地震の日に観劇したのは、足掛七年ぶりであったということである。
抽斎は森枳園と同じく、七代目市川団十郎を贔屓にしていた。家に伝わった俳名三升、白猿の外に、夜雨庵、二九亭、寿海老人と号した人で、葺屋町の芝居茶屋丸屋三右衛門の子、五世団十郎の孫である。抽斎より長ずること十四年であったが、抽斎に一年遅れて、安政六年三月二十三日に六十九歳で歿した。
次に贔屓にしたのは五代目沢村宗十郎である。源平、源之助、訥升、宗十郎、長十郎、高助、高賀と改称した人で、享和二年に生れ、嘉永六年十一月十五日に五十二歳で歿した。抽斎より長ずること三年であった。四世宗十郎の子、脱疽のために脚を截った三世田之助の父である。
劇を好む抽斎はまた照葉狂言をも好んだそうである。わたくしは照葉狂言というものを知らぬので、青々園伊原さんに問いに遣った。伊原さんは喜多川季荘の『近世風俗志』に、この演戯の起原沿革の載せてあることを報じてくれた。
照葉狂言は嘉永の頃大阪の蕩子四、五人が創意したものである。大抵能楽の間の狂言を模し、衣裳は素襖、上下、熨斗目を用い、科白には歌舞伎狂言、俄、踊等の状をも交え取った。安政中江戸に行われて、寄場はこれがために雑沓した。照葉とは天爾波俄の訛略だというのである。
伊原さんはこの照葉の語原は覚束ないといっているが、いかにも輒ち信じがたいようである。
能楽は抽斎の楽み看る所で、少い頃謡曲を学んだこともある。偶弘前の人村井宗興と相逢うことがあると、抽斎は共に一曲を温習した。技の妙が人の意表に出たそうである。
俗曲は少しく長唄を学んでいたが、これは謡曲の妙に及ばざること遠かった。
抽斎は鑑賞家として古画を翫んだが、多く買い集むることをばしなかった。谷文晁の教を受けて、実用の図を作る外に、往々自ら人物山水をも画いた。
「古武鑑」、古江戸図、古銭は抽斎の聚珍家として蒐集した所である。わたくしが初め「古武鑑」に媒介せられて抽斎を識ったことは、前にいったとおりである。
抽斎は碁を善くした。しかし局に対することが少であった。これは自らめて耽らざらんことを欲したのである。
抽斎は大名の行列を観ることを喜んだ。そして家々の鹵簿を記憶して忘れなかった。「新武鑑」を買って、その図に着色して自ら娯んだのも、これがためである。この嗜好は喜多静廬の祭礼を看ることを喜んだのと頗る相類している。
角兵衛獅子が門に至れば、抽斎が必ず出て看たことは、既に言った。
庭園は抽斎の愛する所で、自ら剪刀を把って植木の苅込をした。木の中では御柳を好んだ。即ち『爾雅』に載せてあるである。雨師、三春柳などともいう。これは早く父允成の愛していた木で、抽斎は居を移すにも、遺愛の御柳だけは常におる室に近い地に栽え替えさせた。おる所を観柳書屋と名づけた柳字も、楊柳ではない、柳である。これに反して柳原書屋の名は、お玉が池の家が柳原に近かったから命じたのであろう。
抽斎は晩年に最も雷を嫌った。これは二度まで落雷に遭ったからであろう。一度は新に娶った五百と道を行く時の事であった。陰った日の空が二人の頭上において裂け、そこから一道の火が地上に降ったと思うと、忽ち耳を貫く音がして、二人は地に僵れた。一度は躋寿館の講師の詰所に休んでいる時の事であった。詰所に近い厠の前の庭へ落雷した。この時厠に立って小便をしていた伊沢柏軒は、前へ倒れて、門歯二枚を朝顔に打ち附けて折った。此の如くに反覆して雷火に脅されたので、抽斎は雷声を悪むに至ったのであろう。雷が鳴り出すと、蚊の中に坐して酒を呼ぶことにしていたそうである。
抽斎のこの弱点は偶森枳園がこれを同じうしていた。枳園の寿蔵碑の後に門人青山道醇らの書した文に、「夏月畏雷震、発声之前必先知之」といってある。枳園には今一つ厭なものがあった。それは蛞蝓であった。夜行くのに、道に蛞蝓がいると、闇中においてこれを知った。門人の随い行くものが、燈火を以て照し見て驚くことがあったそうである。これも同じ文に見えている。
抽斎は平姓で、小字を恒吉といった。人と成った後の名は全善、字は道純、また子良である。そして道純を以て通称とした。その号抽斎の抽字は、本※[#「箝」の「甘」に代えて「澑のつくり」、U+7C52、192-1]に作った。※[#「箝」の「甘」に代えて「澑のつくり」、U+7C52、192-1]、※[#「てへん+澑のつくり」、U+3A45、192-1]、抽の三字は皆相通ずるのである。抽斎の手沢本には※[#「箝」の「甘」に代えて「澑のつくり」、U+7C52、192-2]斎校正の篆印が殆ど必ず捺してある。
別号には観柳書屋、柳原書屋、三亦堂、目耕肘書斎、今未是翁、不求甚解翁等がある。その三世劇神仙と称したことは、既にいったとおりである。
抽斎はかつて自ら法諡を撰んだ。容安院不求甚解居士というのである。この字面は妙ならずとはいいがたいが、余りに抽象的である。これに反して抽斎が妻五百のために撰んだ法諡は妙極まっている。半千院出藍終葛大姉というのである。半千は五百、出藍は紺屋町に生れたこと、終葛は葛飾郡で死ぬることである。しかし世事の転変は逆覩すべからざるもので、五百は本所で死ぬることを得なかった。
この二つの法諡はいずれも石に彫られなかった。抽斎の墓には海保漁村の文を刻した碑が立てられ、また五百の遺骸は抽斎の墓穴に合葬せられたからである。
大抵伝記はその人の死を以て終るを例とする。しかし古人を景仰するものは、その苗裔がどうなったかということを問わずにはいられない。そこでわたくしは既に抽斎の生涯を記し畢ったが、なお筆を投ずるに忍びない。わたくしは抽斎の子孫、親戚、師友等のなりゆきを、これより下に書き附けて置こうと思う。
わたくしはこの記事を作るに許多の障礙のあることを自覚する。それは現存の人に言い及ぼすことが漸く多くなるに従って、忌諱すべき事に撞着することもまた漸く頻なることを免れぬからである。この障礙は上に抽斎の経歴を叙して、その安政中の末路に近づいた時、早く既に頭を擡げて来た。これから後は、これが弥筆端に纏繞して、厭うべき拘束を加えようとするであろう。しかしわたくしはよしや多少の困難があるにしても、書かんと欲する事だけは書いて、この稿を完うするつもりである。
渋江の家には抽斎の歿後に、既にいうように、未亡人五百、陸、水木、専六、翠暫、嗣子成善と矢島氏を冒した優善とが遺っていた。十月朔に才に二歳で家督相続をした成善と、他の五人の子との世話をして、一家の生計を立てて行かなくてはならぬのは、四十三歳の五百であった。
遺子六人の中で差当り問題になっていたのは、矢島優善の身の上である。優善は不行跡のために、二年前に表医者から小普請医者に貶せられ、一年前に表医者介に復し、父を喪う年の二月に纔に故の表医者に復することが出来たのである。
しかし当時の優善の態度には、まだ真に改悛したものとは看做しにくい所があった。そこで五百は旦暮周密にその挙動を監視しなくてはならなかった。
残る五人の子の中で、十二歳の陸、六歳の水木、五歳の専六はもう読書、習字を始めていた。陸や水木には、五百が自ら句読を授け、手跡は手を把って書かせた。専六は近隣の杉四郎という学究の許へ通っていたが、これも五百が復習させることに骨を折った。また専六の手本は平井東堂が書いたが、これも五百が臨書だけは手を把って書かせた。午餐後日の暮れかかるまでは、五百は子供の背後に立って手習の世話をしたのである。
邸内に棲わせてある長尾の一家にも、折々多少の風波が起る。そうすると必ず五百が調停に往かなくてはならなかった。その争は五百が商業を再興させようとして勧めるのに、安が躊躇して決せないために起るのである。宗右衛門の長女敬はもう二十一歳になっていて、生得やや勝気なので、母をして五百の言に従わしめようとする。母はこれを拒みはせぬが、さればとて実行の方へは、一歩も踏み出そうとはしない。ここに争は生ずるのであった。
さてこれが鎮撫に当るものが五百でなくてはならぬのは、長尾の家でまだ宗右衛門が生きていた時からの習慣である。五百の言には宗右衛門が服していたので、その妻や子もこれに抗することをば敢てせぬのである。
宗右衛門が妻の妹の五百を、啻抽斎の配偶として尊敬するのみでなく、かくまでに信任したには、別に来歴がある。それは或時宗右衛門が家庭のチランとして大いに安を虐待して、五百の厳い忠告を受け、涙を流して罪を謝したことがあって、それから後は五百の前に項を屈したのである。
宗右衛門は性質亮直に過ぐるともいうべき人であったが、癇癪持であった。今から十二年前の事である。宗右衛門はまだ七歳の銓に読書を授け、この子が大きくなったなら士の女房にするといっていた。銓は記性があって、書を善く読んだ。こういう時に、宗右衛門が酒気を帯びていると、銓を側に引き附けて置いて、忍耐を教えるといって、戯のように煙管で頭を打つことがある。銓は初め忍んで黙っているが、後には「お父っさん、厭だ」といって、手を挙げて打つ真似をする。宗右衛門は怒って「親に手向をするか」といいつつ、銓を拳で乱打する。或日こういう場合に、安が停めようとすると、宗右衛門はこれをも髪を攫んで拉き倒して乱打し、「出て往け」と叫んだ。
安は本宗右衛門の恋女房である。天保五年三月に、当時阿部家に仕えて金吾と呼ばれていた、まだ二十歳の安が、宿に下って堺町の中村座へ芝居を看に往った。この時宗右衛門は安を見初めて、芝居がはねてから追尾して行って、紺屋町の日野屋に入るのを見極めた。同窓の山内栄次郎の家である。さては栄次郎の妹であったかというので、直ちに人を遣って縁談を申し込んだのである。
こうしたわけで貰われた安も、拳の下に崩れた丸髷を整える遑もなく、山内へ逃げ帰る。栄次郎の忠兵衛は広瀬を名告る前の頃で、会津屋へ調停に往くことを面倒がる。妻はおいらん浜照がなれの果で何の用にも立たない。そこで偶渋江の家から来合せていた五百に、「どうかして遣ってくれ」という。五百は姉を宥め賺して、横山町へ連れて往った。
会津屋に往って見れば、敬はうろうろ立ち廻っている。銓はまだ泣いている。妻の出た跡で、更に酒を呼んだ宗右衛門は、気味の悪い笑顔をして五百を迎える。五百は徐に詫言を言う。主人はなかなか聴かない。暫く語を交えている間に、主人は次第に饒舌になって、光万丈当るべからざるに至った。宗右衛門は好んで故事を引く。偽書『孔叢子』の孔氏三世妻を出したという説が出る。祭仲の女雍姫が出る。斎藤太郎左衛門の女が出る。五百はこれを聞きつつ思案した。これは負けていては際限がない。例を引いて論ずることなら、こっちにも言分がないことはない。そこで五百も論陣を張って、旗鼓相当った。公父文伯の母季敬姜を引く。顔之推の母を引く。終に「大雅思斉」の章の「刑干寡妻、至干兄弟、以御干家邦」を引いて、宗右衛門が々の和を破るのを責め、声色共にしかった。宗右衛門は屈服して、「なぜあなたは男に生れなかったのです」といった。
長尾の家に争が起るごとに、五百が来なくてはならぬということになるには、こういう来歴があったのである。
抽斎の歿した翌年安政六年には、十一月二十八日に矢島優善が浜町中屋敷詰の奥通にせられた。表医者の名を以て信順の側に侍することになったのである。今なお信頼しがたい優善が、責任ある職に就いたのは、五百のために心労を増す種であった。
抽斎の姉須磨の生んだ長女延の亡くなったのは、多分この年の事であっただろう。允成の実父稲垣清蔵の養子が大矢清兵衛で、清兵衛の子が飯田良清で、良清の女がこの延である。容貌の美しい女で、小舟町の鰹節問屋新井屋半七というものに嫁していた。良清の長男直之助は早世して、跡には養子孫三郎と、延の妹路とが残った。孫三郎の事は後に見えている。
抽斎歿後の第二年は万延元年である。成善はまだ四歳であったが、夙くも浜町中屋敷の津軽信順に近習として仕えることになった。勿論時々機嫌を伺いに出るに止まっていたであろう。この時新に中小姓になって中屋敷に勤める矢川文一郎というものがあって、穉い成善の世話をしてくれた。
矢川には本末両家がある。本家は長足流の馬術を伝えていて、世文内と称した。先代文内の嫡男与四郎は、当時順承の側用人になって、父の称を襲いでいた。妻児玉氏は越前国敦賀の城主酒井右京亮忠の家来某の女であった。二百石八人扶持の家である。与四郎の文内に弟があり、妹があって、彼を宗兵衛といい、此を岡野といった。宗兵衛は分家して、近習小姓倉田小十郎の女みつを娶った。岡野は順承附の中臈になった。実は妾である。
文一郎はこの宗兵衛の長子である。その母の姉妹には林有的の妻、佐竹永海の妻などがある。佐竹は初め山内氏五百を娶らんとして成らず、遂に矢川氏を納れた。某の年の元日に佐竹は山内へ廻礼に来て、庭に立っていた五百の手を※[#「てへん+參」、U+647B、198-15]ろうとすると、五百はその手を強く引いて放した。佐竹は庭の池に墜ちた。山内では佐竹に栄次郎の衣服を著せて帰した。五百は後に抽斎に嫁してから、両国中村楼の書画会に往って、佐竹と邂逅した。そして佐竹の数人の芸妓に囲まれているのを見て、「佐竹さん、相変らず英雄色を好むとやらですね」といった。佐竹は頭を掻いて苦笑したそうである。
文一郎の父は早く世を去って、母みつは再嫁した。そこで文一郎は津軽家に縁故のある浅草常福寺にあずけられた。これは嘉永四年の事で、天保十二年生の文一郎は十一歳になっていた。
文一郎は寺で人と成って、渋江家で抽斎の亡くなった頃、本家の文内の許に引き取られた。そして成善が近習小姓を仰付けられる少し前に、二十歳で信順の中小姓になったのである。
文一郎は頗る姿貌があって、心自らこれを恃んでいた。当時吉原の狎妓の許に足繁く通って、遂に夫婦の誓をした。或夜文一郎はふと醒めて、傍に臥している女を見ると、一眼を大きく開いて眠っている。常に美しいとばかり思っていた面貌の異様に変じたのに驚いて、肌に粟を生じたが、忽また魘夢に脅されているのではないかと疑って、急に身を起した。女が醒めてどうしたのかと問うた。文一郎が答はいまだ半ならざるに、女は満臉に紅を潮して、偏盲のために義眼を装っていることを告げた。そして涙を流しつつ、旧盟を破らずにいてくれと頼んだ。文一郎は陽にこれを諾して帰って、それきりこの女と絶ったそうである。
わたくしは少時の文一郎を伝うるに、辞を費すことやや多きに至った。これは単に文一郎が穉い成善を扶掖したからではない。文一郎と渋江氏との関係は、後に漸く緊密になったからである。文一郎は成善の姉壻になったからである。文一郎さんは赤坂台町に現存している人ではあるが、恐くは自ら往事を談ずることを喜ばぬであろう。その少時の事蹟には二つの活きた典拠がある。一つは矢川文内の二女お鶴さんの話で、一つは保さんの話である。文内には三子二女があった。長男俊平は宗家を嗣いで、その子蕃平さんが今浅草向柳原町に住しているそうである。俊平の弟は鈕平、録平である。女子は長を鉞といい、次を鑑という。鑑は後に名を鶴と更めた。中村勇左衛門即ち今弘前桶屋町にいる範一さんの妻で、その子の範さんとわたくしとは書信の交通をしているのである。
成善はこの年十月朔に海保漁村と小島成斎との門に入った。海保の塾は下谷練塀小路にあった。いわゆる伝経廬である。下谷は卑※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、U+6EBC、201-2]の地なるにもかかわらず、庭には梧桐が栽えてあった。これは漁村がその師大田錦城の風を慕って栽えさせたのである。当時漁村は六十二歳で、躋寿館の講師となっていた。また陸奥国八戸の城主南部遠江守信順と越前国鯖江の城主間部下総守詮勝とから五人扶持ずつの俸を受けていた。しかし躋寿館においても、家塾においても、大抵養子竹逕が代講をしていたのである。
小島成斎は藩主阿部正寧の世には、辰の口の老中屋敷にいて、安政四年に家督相続をした賢之助正教の世になってから、昌平橋内の上屋敷にいた。今の神田淡路町である。手習に来る児童の数は頗る多く、二階の三室に机を並べて習うのであった。成善が相識の兄弟子には、嘉永二年生で十二歳になる伊沢鉄三郎がいた。柏軒の子で、後に徳安と称し、維新後に磐と更めた人である。成斎は手に鞭を執って、正面に坐していて、筆法を誤ると、鞭の尖で指し示した。そして児童を倦ましめざらんがためであろうか、諧謔を交えた話をした。その相手は多く鉄三郎であった。成善はまだ幼いので、海保へ往くにも、小島へ往くにも若党に連れられて行った。鉄三郎にも若党が附いて来たが、これは父が奥詰医師になっているので、従者らしく附いて来たのである。
抽斎の墓碑が立てられたのもこの年である。海保漁村の墓誌はその文が頗る長かったのを、豊碑を築き起して世に傲るが如き状をなすは、主家に対して憚があるといって、文字を識る四、五人の故旧が来て、胥議して斧鉞を加えた。その文の事を伝えて完からず、また間実に惇るものさえあるのは、この筆削のためである。
建碑の事が畢ってから、渋江氏は台所町の邸を引き払って亀沢町に移った。これは淀川過書船支配角倉与一の別邸を買ったのである。角倉の本邸は飯田町黐木坂下にあって、主人は京都で勤めていた。亀沢町の邸には庭があり池があって、そこに稲荷と和合神との祠があった。稲荷は亀沢稲荷といって、初午の日には参詣人が多く、縁日商人が二十余の浮舗を門前に出すことになっていた。そこで角倉は邸を売るに、初午の祭をさせるという条件を附けて売った。今相生小学校になっている地所である。
これまで渋江の家に同居していた矢島優善が、新に本所緑町に一戸を構えて分立したのは、亀沢町の家に渋江氏の移るのと同時であった。
矢島優善をして別に一家をなして自立せしめようということは、前年即ち安政六年の末から、中丸昌庵が主として勧説した所である。昌庵は抽斎の門人で、多才能弁を以て儕輩に推されていた。文政元年生であるから、当時四十三歳になって、食禄二百石八人扶持、近習医者の首位におった。昌庵はこういった。「優善さんは一時の心得違から貶黜を受けた。しかし幸に過を改めたので、一昨年故の地位に複り、昨年は奥通をさえ許された。今は抽斎先生が亡くなられてから、もう二年立って、優善さんは二十六歳になっている。わたくしは去年からそう思っているが、優善さんの奮って自ら新にすべき時は今である。それには一家を構えて、責を負って事に当らなくてはならない」といった。既にして二、三のこれに同意を表するものも出来たので、五百は危みつつこの議を納れたのである。比良野貞固は初め昌庵に反対していたが、五百が意を決したので、復争わなくなった。
優善の移った緑町の家は、渾名を鳩医者と呼ばれた町医佐久間某の故宅である。優善は妻鉄を家に迎え取り、下女一人を雇って三人暮しになった。
鉄は優善の養父矢島玄碩の二女である。玄碩、名を優といった。本抽斎の優善に命じた名は允善であったのを、矢島氏を冒すに及んで、養父の優字を襲用したのである。玄碩の初の妻某氏には子がなかった。後妻寿美は亀高村喜左衛門というものの妹で、仮親は上総国一宮の城主加納遠江守久徴の医官原芸庵である。寿美が二女を生んだ。長を環といい、次を鉄という。嘉永四年正月二十三日に寿美が死し、五月二十四日に九歳の環が死し、六月十六日に玄碩が死し、跡には僅に六歳の鉄が遺った。
優善はこの時矢島氏に入って末期養子となったのである。そしてその媒介者は中丸昌庵であった。
中丸は当時その師抽斎に説くに、頗る多言を費し、矢島氏の祀を絶つに忍びぬというを以て、抽斎の情誼に愬えた。なぜというに、抽斎が次男優善をして矢島氏の女壻たらしむるのは大いなる犠牲であったからである。玄碩の遺した女鉄は重い痘瘡を患えて、瘢痕満面、人の見るを厭う醜貌であった。
抽斎は中丸の言に動されて、美貌の子優善を鉄に与えた。五百は情として忍びがたくはあったが、事が夫の義気に出でているので、強いて争うことも出来なかった。
この事のあった年、五百は二月四日に七歳の棠を失い、十五日に三歳の癸巳を失っていた。当時五歳の陸は、小柳町の大工の棟梁新八が許に里に遣られていたので、それを喚び帰そうと思っていると、そこへ鉄が来て抱かれて寝ることになり、陸は翌年まで里親の許に置かれた。
棠は美しい子で、抽斎の女の中では純と棠との容姿が最も人に褒められていた。五百の兄栄次郎は棠の踊を看る度に、「食い附きたいような子だ」といった。五百も余り棠の美しさを云々するので、陸は「お母あ様の姉えさんを褒めるのを聞いていると、わたしなんぞはお化のような顔をしているとしか思われない」といい、また棠の死んだ時、「大方お母あ様はわたしを代に死なせたかったのだろう」とさえいった。
女棠が死んでから半年の間、五百は少しく精神の均衡を失して、夕暮になると、窓を開けて庭の闇を凝視していることがしばしばあった。これは何故ともなしに、闇の裏に棠の姿が見えはせぬかと待たれたのだそうである。抽斎は気遣って、「五百、お前にも似ないじゃないか、少ししっかりしないか」と飭めた。
そこへ矢島玄碩の二女、優善の未来の妻たる鉄が来て、五百に抱かれて寝ることになった、の母は情を矯めて、のない人の子を賺しはぐくまなくてはならなかったのである。さて眠っているうちに、五百はいつか懐にいる子が棠だと思って、夢現の境にその体を撫でていた。忽ち一種の恐怖に襲われて目を開くと、痘痕のまだ新しい、赤く引き弔った鉄の顔が、触れ合うほど近い所にある。五百は覚えず咽び泣いた。そして意識の明になると共に、「ほんに優善は可哀そうだ」とつぶやくのであった。
緑町の家へ、優善がこの鉄を連れてはいった時は、鉄はもう十五歳になっていた。しかし世馴れた優善は鉄を子供扱にして、詞をやさしくして宥めていたので、二人の間には何の衝突も起らずにいた。
これに反して五百の監視の下を離れた優善は、門を出でては昔の放恣なる生活に立ち帰った。長崎から帰った塩田良三との間にも、定めて聯絡が附いていたことであろう。この人たちは啻に酒家妓楼に出入するのみではなく、常に無頼の徒と会して袁耽の技を闘わした。良三の如きは頭を一つ竈にしてどてらを被て街上を闊歩したことがあるそうである。優善の背後には、もうネメシスの神が逼り近づいていた。
渋江氏が亀沢町に来る時、五百はまた長尾一族のために、本の小家を新しい邸に徙して、そこへ一族を棲わせた。年月は詳にせぬが、長尾氏の二女の人に嫁したのは、亀沢町に来てからの事である。初め長女敬が母と共に坐食するに忍びぬといって、媒するもののあるに任せて、猿若町三丁目守田座附の茶屋三河屋力蔵に嫁し、次で次女銓も浅草須賀町の呉服商桝屋儀兵衛に嫁した。未亡人は筆算が出来るので、敬の夫力蔵に重宝がられて、茶屋の帳場にすわることになった。
抽斎の蔵書は兼て三万五千部あるといわれていたが、この年亀沢町に徙って検すると、既に一万部に満たなかった。矢島優善が台所町の土蔵から書籍を搬出するのを、当時まだ生きていた兄恒善が見附けて、奪い還したことがある。しかし人目に触れずに、どれだけ出して売ったかわからない。或時は二階から本を索に繋いで卸すと、街上に友人が待ち受けていて持ち去ったそうである。安政三年以後、抽斎の時々病臥することがあって、その間には書籍の散佚することが殊に多かった。また人に貸して失った書も少くない。就中森枳園とその子養真とに貸した書は多く還らなかった。成善が海保の塾に入った後には、海保竹逕が数渋江氏に警告して、「大分御蔵書印のある本が市中に見えるようでございますから、御注意なさいまし」といった。
抽斎の心に懸けて死んだ躋寿館校刻の『医心方』は、この年完成して、森枳園らは白銀若干を賞賜せられた。
抽斎に洋学の必要を悟らせた安積艮斎は、この年十一月二十二日に七十一歳で歿した。艮斎の歿した時の齢は諸書に異同があって、中に七十一としたものと七十六としたものとが多い。鈴木春浦さんに頼んで、妙源寺の墓石と過去帖とを検してもらったが、並に皆これを記していない。しかし文集を閲するに、故郷の安達太郎山に登った記に、干支と年齢のおおよそとが書してあって、万延元年に七十六に満たぬことは明白である。子文九郎重允が家を嗣いだ。少い時疥癬のために衰弱したのを、父が温泉に連れて往って治したことが、文集に見えている。抽斎は艮斎のワシントンの論讃を読んで、喜んで反復したそうである。恐くは『洋外紀略』の「嗚呼話聖東、雖生於戎羯、其為人、有足多者」云々の一節であっただろう。
抽斎歿後第三年は文久元年である。年の初に五百は大きい本箱三つを成善の部屋に運ばせて、戸棚の中に入れた。そしてこういった。
「これは日本に僅三部しかない善い版の『十三経註疏』だが、お父う様がお前のだと仰った。今年はもう三回忌の来る年だから、今からお前の傍に置くよ」といった。
数日の後に矢島優善が、活花の友達を集めて会をしたいが、緑町の家には丁度好い座敷がないから、成善の部屋を借りたいといった。成善は部屋を明け渡した。
さて友達という数人が来て、汁粉などを食って帰った跡で、戸棚の本箱を見ると、その中は空虚であった。
三月六日に優善は「身持不行跡不埒」の廉を以て隠居を命ぜられ、同時に「御憐憫を以て名跡御立被下置」ということになって、養子を入れることを許された。
優善のまさに養うべき子を選ぶことをば、中丸昌庵が引き受けた。然るに中丸の歓心を得ている近習詰百五十石六人扶持の医者に、上原元永というものがあって、この上原が町医伊達周禎を推薦した。
周禎は同じ年の八月四日を以て家督相続をして、矢島氏の禄二百石八人扶持を受けることになった。養父優善は二十七歳、養子周禎は文化十四年生で四十五歳になっていた。
周禎の妻を高といって、已に四子を生んでいた。長男周碩、次男周策、三男三蔵、四男玄四郎が即ちこれである。周禎が矢島氏を冒した時、長男周碩は生得不調法にして仕宦に適せぬと称して廃嫡を請い、小田原に往って町医となった。そこで弘化二年生の次男周策が嗣子に定まった。当時十七歳である。
これより先優善が隠居の沙汰を蒙った時、これがために最も憂えたものは五百で、最も憤ったものは比良野貞固である。貞固は優善を面責して、いかにしてこの辱を雪ぐかと問うた。優善は山田昌栄の塾に入って勉学したいと答えた。
貞固は先ず優善が改悛の状を見届けて、然る後に入塾せしめるといって、優善と妻鉄とを自邸に引き取り、二階に住わせた。
さて十月になってから、貞固は五百を招いて、倶に優善を山田の塾に連れて往った。塾は本郷弓町にあった。
この塾の月俸は三分二朱であった。貞固のいうには、これは聊の金ではあるが、矢島氏の禄を受くる周禎が当然支出すべきもので、また優善の修行中その妻鉄をも周禎があずかるが好いといった。そしてこの二件を周禎に交渉した。周禎はひどく迷惑らしい答をしたが、後に渋りながらも承諾した。想うに上原は周禎を矢島氏の嗣となすに当って、株の売渡のような形式を用いたのであろう。上原は渋江氏に対して余り同情を有せぬ人で、優善には屁の糟という渾名をさえ附けていたそうである。
山田の塾には当時門人十九人が寄宿していたが、いまだ幾もあらぬに梅林松弥というものと優善とが塾頭にせられた。梅林は初め抽斎に学び、後此に来たもので、維新後名を潔と改め、明治二十一年一月十四日に陸軍一等軍医を以て終った。
比良野氏ではこの年同藩の物頭二百石稲葉丹下の次男房之助を迎えて養子とした。これは貞固が既に五十歳になったのに、妻かなが子を生まぬからであった。房之助は嘉永四年八月二日生で、当時十一歳になっていて、学問よりは武芸が好であった。
矢川氏ではこの年文一郎が二十一歳で、本所二つ目の鉄物問屋平野屋の女柳を娶った。
石塚重兵衛の豊芥子は、この年十二月十五日に六十三歳で歿した。豊芥子が渋江氏の扶助を仰ぐことは、殆ど恒例の如くになっていた。五百は石塚氏にわたす金を記す帳簿を持っていたそうである。しかし抽斎はこの人の文字を識って、広く市井の事に通じ、また劇の沿革を審にしているのを愛して、来り訪うごとに歓び迎えた。今抽斎に遅るること三年で世を去ったのである。
人の死を説いて、直ちにその非を挙げんは、後言めく嫌はあるが、抽斎の蔵書をして散佚せしめた顛末を尋ぬるときは、豊芥子もまた幾分の責を分たなくてはならない。その持ち去ったのは主に歌舞音曲の書、随筆小説の類である。その他書画骨董にも、この人の手から商估の手にわたったものがある。ここに保さんの記憶している一例を挙げよう。抽斎の遺物に円山応挙の画百枚があった。題材は彼の名高い七難七福の図に似たもので、わたくしはその名を保さんに聞いて記憶しているが、少しくこれを筆にすることを憚る。装頗る美にして桐の箱入になっていた。この画と木彫の人形数箇とを、豊芥子は某会に出陳するといって借りて帰った。人形は六歌仙と若衆とで、寛永時代の物だとかいうことであった。これは抽斎が「三坊には雛人形を遣らぬ代にこれを遣る」といったのだそうである。三坊とは成善の小字三吉である。五百は度々清助という若党を、浅草諏訪町の鎌倉屋へ遣って、催促して還させようとしたが、豊芥子は言を左右に託して、遂にこれを還さなかった。清助は本京都の両替店銭屋の息子で、遊蕩のために親に勘当せられ、江戸に来て渋江氏へ若党に住み込んだ。手跡がなかなか好いので、豊芥子の筆耕に傭われることになっていた。それゆえ鎌倉屋への使に立ったのである。
森枳園が小野富穀と口論をしたという話があって、その年月を詳にせぬが、わたくしは多分この年の頃であろうと思う。場所は山城河岸の津藤の家であった。例の如く文人、画師、力士、俳優、幇間、芸妓等の大一座で、酒酣なる比になった。その中に枳園、富穀、矢島優善、伊沢徳安などが居合せた。初め枳園と富穀とは何事をか論じていたが、万事を茶にして世を渡る枳園が、どうしたわけか大いに怒って、七代目賽のたんかを切り、胖大漢の富穀をして色を失って席を遁れしめたそうである。富穀もまた滑稽趣味においては枳園に劣らぬ人物で、臍で烟草を喫むという隠芸を有していた。枳園とこの人とがかくまで激烈に衝突しようとは、誰も思い掛けぬので、優善、徳安の二人は永くこの喧嘩を忘れずにいた。想うに貨殖に長じた富穀と、人の物と我物との別に重きを置かぬ、無頓着な枳園とは、その性格に相容れざる所があったであろう。津藤即ち摂津国屋藤次郎は、名は鱗、字は冷和、香以、鯉角、梅阿弥等と号した。その豪遊を肆にして家産を蕩尽したのは、世の知る所である。文政五年生で、当時四十歳である。
この年の抽斎が忌日の頃であった。小島成斎は五百に勧めて、なお存している蔵書の大半を、中橋埋地の柏軒が家にあずけた。柏軒は翌年お玉が池に第宅を移す時も、家財と共にこれを新居に搬び入れて、一年間位鄭重に保護していた。
抽斎歿後の第四年は文久二年である。抽斎は世にある日、藩主に活版薄葉刷の『医方類聚』を献ずることにしていた。書は喜多村栲窓の校刻する所で、月ごとに発行せられるのを、抽斎は生を終るまで次を逐って上った。成善は父の歿後相継いで納本していたが、この年に至って全部を献じ畢った。八月十五日順承は重臣を以て成善に「御召御紋御羽織並御酒御吸物」を賞賜した。
成善は二年前から海保竹逕に学んで、この年十二月二十八日に、六歳にして藩主順承から奨学金二百匹を受けた。主なる経史の素読を畢ったためである。母五百は子女に読書習字を授けて半日を費すを常としていたが、毫も成善の学業に干渉しなかった。そして「あれは書物が御飯より好だから、構わなくても好い」といった。成善はまた善く母に事うるというを以て、賞を受くること両度に及んだ。
この年十月十八日に成善が筆札の師小島成斎が六十七歳で歿した。成斎は朝生徒に習字を教えて、次で阿部家の館に出仕し、午時公退して酒を飲み劇を談ずることを例としていた。阿部家では抽斎の歿するに先だつこと一年、安政四年六月十七日に老中の職におった伊勢守正弘が世を去って、越えて八月に伊予守正教が家督相続をした。成善が従学してからは、成斎は始終正教に侍していたのである。後に至って成善は朝の課業の喧擾を避け、午後に訪うて単独に教を受けた。そこで成斎の観劇談を聴くことしばしばであった。成斎は卒中で死んだ。正弘の老中たりし時、成斎は用人格に擢でられ、公用人服部九十郎と名を斉うしていたが、二人皆同病によって命を隕した。成斎には二子三女があって、長男生輒は早世し、次男信之が家を継いだ。通称は俊治である。俊治の子は鎰之助、鎰之助の養嗣子は、今本郷区駒込動坂町にいる昌吉さんである。高足の一人小此木辰太郎は、明治九年に工務省雇になり、十人年内閣属に転じ、十九年十二月一日から二十七年三月二十九日まで職を学習院に奉じて、生徒に筆札を授けていたが、明治二十八年一月に歿した。
成善がこの頃母五百と倶に浅草永住町の覚音寺に詣でたことがある。覚音寺は五百の里方山内氏の菩提所である。帰途二人は蔵前通を歩いて桃太郎団子の店の前に来ると、五百の相識の女に邂逅した。これは五百と同じく藤堂家に仕えて、中老になっていた人である。五百は久しく消息の絶えていたこの女と話がしたいといって、ほど近い横町にある料理屋誰袖に案内した。成善も跡に附いて往った。誰袖は当時川長、青柳、大七などと並称せられた家である。
三人の通った座敷の隣に大一座の客があるらしかった。しかし声高く語り合うこともなく、矧てや絃歌の響などは起らなかった。暫くあってその座敷が遽に騒がしく、多人数の足音がして、跡はまたひっそりとした。
給仕に来た女中に五百が問うと、女中はいった。「あれは札差の檀那衆が悪作劇をしてお出なすったところへ、お辰さんが飛び込んでお出なすったのでございます。蒔き散らしてあったお金をそのままにして置いて、檀那衆がお逃なさると、お辰さんはそれを持ってお帰なさいました」といった。お辰というのは、後盗をして捕えられた旗本青木弥太郎の妾である。
女中の語り畢る時、両刀を帯びた異様の男が五百らの座敷に闖入して「手前たちも博奕の仲間だろう、金を持っているなら、そこへ出してしまえ」といいつつ、刀を抜いて威嚇した。
「なに、この騙り奴が」と五百は叫んで、懐剣を抜いて起った。男は初の勢にも似ず、身を翻して逃げ去った。この年五百はもう四十七歳になっていた。
矢島優善は山田の塾に入って、塾頭に推されてから、やや自重するものの如く、病家にも信頼せられて、旗下の家庭にして、特に矢島の名を斥して招請するものさえあった。五百も比良野貞固もこれがために頗る心を安んじた。
既にしてこの年二月の初午の日となった。渋江氏では亀沢稲荷の祭を行うといって、親戚故旧を集えた。優善も来て宴に列し、清元を語ったり茶番を演じたりした。五百はこれを見て苦々しくは思ったが、酒を飲まぬ優善であるから、よしや少しく興に乗じたからといって、後に累を胎すような事はあるまいと気に掛けずにいた。
優善が渋江の家に来て、その夕方に帰ってから、二、三日立った頃の事である。師山田椿庭が本郷弓町から尋ねて来て、「矢島さんはこちらですか、余り久しく御滞留になりますから、どうなされたかと存じて伺いました」といった。
「優善は初午の日にまいりましたきりで、あの日には晩の四つ頃に帰りましたが」と、五百は訝かしげに答えた。
「はてな。あれから塾へは帰られませんが。」椿庭はこういって眉を蹙めた。
五百は即時に人を諸方に馳せて捜索せしめた。優善の所在はすぐに知れた。初午の夜に無銭で吉原に往き、翌日から田町の引手茶屋に潜伏していたのである。
五百は金を償って優善を帰らせた。さて比良野貞固、小野富穀の二人を呼んで、いかにこれに処すべきかを議した。幼い成善も、戸主だというので、その席に列った。
貞固は暫く黙していたが、容を改めてこういった。「この度の処分はただ一つしかないとわたくしは思う。玄碩さんはわたくしの宅で詰腹を切らせます。小野さんも、お姉えさんも、三坊も御苦労ながらお立会下さい。」言い畢って貞固は緊しく口を結んで一座を見廻した。優善は矢島氏を冒してから、養父の称を襲いで玄碩といっていた。三坊は成善の小字三吉である。
富穀は面色土の如くになって、一語を発することも得なかった。
五百は貞固の詞を予期していたように、徐に答えた。「比良野様の御意見は御尤と存じます。度々の不始末で、もうこの上何と申し聞けようもございません。いずれ篤と考えました上で、改めてこちらから申し上げましょう」といった。
これで相談は果てた。貞固は何事もないような顔をして、席を起って帰った。富穀は跡に残って、どうか比良野を勘弁させるように話をしてくれと、繰り返して五百に頼んで置いて、すごすご帰った。五百は優善を呼んで厳に会議の始末を言い渡した。成善はどうなる事かと胸を痛めていた。
翌朝五百は貞固を訪うて懇談した。大要はこうである。昨日の仰は尤至極である。自分は同意せずにはいられない。これまでの行掛りを思えば、優善にこの上どうして罪を贖わせようという道はない。自分も一死がその分であるとは信じている。しかし晴がましく死なせることは、家門のためにも、君侯のためにも望ましくない。それゆえ切腹に代えて、金毘羅に起請文を納めさせたい。悔い改める望のない男であるから、必ず冥々の裏に神罰を蒙るであろうというのである。
貞固はつくづく聞いて答えた。それは好いお思附である。この度の事については、命乞の仲裁なら決して聴くまいと決心していたが、晴がましい死様をさせるには及ばぬというお考は道理至極である。然らばその起請文を書いて金毘羅に納めることは、姉上にお任せするといった。
五百は矢島優善に起請文を書かせた。そしてそれを持って虎の門の金毘羅へ納めに往った。しかし起請文は納めずに、優善が行末の事を祈念して帰った。
小野氏ではこの年十二月十二日に、隠居令図が八十歳で歿した。五年前に致仕して富穀に家を継がせていたのである。小野氏の財産は令図の貯えたのが一万両を超えていたそうである。
伊沢柏軒はこの年三月に二百俵三十人扶持の奥医師にせられて、中橋埋地からお玉が池に居を移した。この時新宅の祝宴に招かれた保さんが種々の事を記憶している。柏軒の四女やすは保さんの姉水木と長唄の「老松」を歌った。柴田常庵という肥え太った医師は、越中褌一つを身に着けたばかりで、「棚の達磨」を踊った。そして宴が散じて帰る途中で、保さんは陣幕久五郎が小柳平助に負けた話を聞いた。
やすは柏軒の庶出の女である。柏軒の正妻狩谷氏俊の生んだ子は、幼くて死した長男棠助、十八、九歳になって麻疹で亡くなった長女洲、狩谷斎の養孫、懐之の養子三右衛門に嫁した次女国の三人だけで、その他の子は皆妾春の腹である。その順序を言えば、長男棠助、長女洲、次女国、三女北、次男磐、四女やす、五女こと、三男信平、四男孫助である。おやすさんは人と成って後田舎に嫁したが、今は麻布鳥居坂町の信平さんの許にいるそうである。
柴田常庵は幕府医官の一人であったそうである。しかしわたくしの蔵している「武鑑」には載せてない。万延元年の「武鑑」は、わたくしの蔵本に正月、三月、七月の三種がある。柏軒は正月のにはまだ奥詰の部に出ていて、三月以下のには奥医師の部に出ている。柴田は三書共にこれを載せない。維新後にこの人は狂言作者になって竹柴寿作と称し、五世坂東彦三郎と親しかったということである。なお尋ねて見たいものである。
陣幕久五郎の負は当時人の意料の外に出た出来事である。抽斎は角觝を好まなかった。然るに保さんは穉い時からこれを看ることを喜んで、この年の春場所をも、初日から五日目まで一日も闕かさずに見舞った。さてその六日目が伊沢の祝宴であった。子の刻を過ぎてから、保さんは母と姉とに連れられて伊沢の家を出て帰り掛かった。途中で若党清助が迎えて、保さんに「陣幕が負けました」と耳語した。
「虚言を衝け」と、保さんは叱した。取組は前から知っていて、小柳が陣幕の敵でないことを固く信じていたのである。
「いいえ、本当です」と、清助はいった。清助の言は事実であった。陣幕は小柳に負けた。そして小柳はこの勝の故を以て人に殺された。その殺されたのが九つ半頃であったというから、丁度保さんと清助とがこの応答をしていた時である。
陣幕の事を言ったから、因に小錦の事をも言って置こう。伊沢のおかえさんに附けられていた松という少女があった。松は魚屋与助の女で、菊、京の二人の妹があった。この京が岩木川の種を宿して生んだのが小錦八十吉である。
保さんは今一つ、柏軒の奥医師になった時の事を記憶している。それは手習の師小島成斎が、この時柏軒の子鉄三郎に対する待遇を一変した事である。福山侯の家来成斎が、いかに幕府の奥医師の子を尊敬しなくてはならなかったかという、当年の階級制度の画図が、明に穉い成善の目前に展開せられたのである。
小島成斎が神田の阿部家の屋敷に住んで、二階を教場にして、弟子に手習をさせた頃、大勢の児童が机を並べている前に、手に鞭を執って坐し、筆法を正すに鞭の尖を以て指し示し、その間には諧謔を交えた話をしたことは、前に書いた。成斎は話をするに、多く伊沢柏軒の子鉄三郎を相手にして、鉄坊々々と呼んだが、それが意あってか、どうか知らぬが、鉄砲々々と聞えた。弟子らもまた鉄三郎を鉄砲さんと呼んだ。
成斎が鉄砲さんを揶揄えば、鉄砲さんも必ずしも師を敬ってばかりはいない。往々戯言を吐いて尊厳を冒すことがある。成斎は「おのれ鉄砲奴」と叫びつつ、鞭を揮って打とうとする。鉄砲は笑って逃る。成斎は追い附いて、鞭で頭を打つ。「ああ、痛い、先生ひどいじゃありませんか」と、鉄砲はつぶやく。弟子らは面白がって笑った。こういう事は殆ど毎日あった。
然るにこの年の三月になって、鉄砲さんの父柏軒が奥医師になった。翌日から成斎ははっきりと伊沢の子に対する待遇を改めた。例之ば筆法を正すにも「徳安さん、その点はこうお打なさいまし」という。鉄三郎はよほど前に小字を棄てて徳安と称していたのである。この新な待遇は、不思議にも、これを受ける伊沢の嫡男をして忽ち態度を改めしめた。鉄三郎の徳安は甚だしく大人しくなって、殆どはにかむように見えた。
この年の九月に柏軒はあずかっていた抽斎の蔵書を還した。それは九月の九日に将軍家茂が明年二月を以て上洛するという令を発して、柏軒はこれに随行する準備をしたからである。渋江氏は比良野貞固に諮って、伊沢氏から還された書籍の主なものを津軽家の倉庫にあずけた。そして毎年二度ずつ虫干をすることに定めた。当時作った目録によれば、その部数は三千五百余に過ぎなかった。
書籍が伊沢氏から還されて、まだ津軽家にあずけられぬほどの事であった。森枳園が来て『論語』と『史記』とを借りて帰った。『論語』は乎古止点を施した古写本で、松永久秀の印記があった。『史記』は朝鮮板であった。後明治二十三年に保さんは島田篁村を訪うて、再びこの『論語』を見た。篁村はこれを細川十洲さんに借りて閲していたのである。
津軽家ではこの年十月十四日に、信順が浜町中屋敷において、六十三歳で卒した。保さんの成善は枕辺に侍していた。
この年十二月二十一日の夜、塙次郎が三番町で刺客の刃に命を隕した。抽斎は常にこの人と岡本况斎とに、国典の事を詢うことにしていたそうである。次郎は温古堂と号した。保己一の男、四谷寺町に住む忠雄さんの祖父である。当時の流言に、次郎が安藤対馬守信睦のために廃立の先例を取り調べたという事が伝えられたのが、この横禍の因をなしたのである。遺骸の傍に、大逆のために天罰を加うという捨札があった。次郎は文化十一年生で、殺された時が四十九歳、抽斎より少きこと九年であった。
この年六月中旬から八月下旬まで麻疹が流行して、渋江氏の亀沢町の家へ、御柳の葉と貝多羅葉とを貰いに来る人が踵を接した。二樹の葉が当時民間薬として用いられていたからである。五百は終日応接して、諸人の望に負かざらんことを努めた。
抽斎歿後の第五年は文久三年である。成善は七歳で、始て矢の倉の多紀安琢の許に通って、『素問』の講義を聞いた。
伊沢柏軒はこの年五十四歳で歿した。徳川家茂に随って京都に上り、病を得て客死したのである。嗣子鉄三郎の徳安がお玉が池の伊沢氏の主人となった。
この年七月二十日に山崎美成が歿した。抽斎は美成と甚だ親しかったのではあるまい。しかし二家書庫の蔵する所は、互に出だし借すことを吝まなかったらしい。頃日珍書刊行会が『後昔物語』を刊したのを見るに、抽斎の奥書がある。「右喜三二随筆後昔物語一巻。借好間堂蔵本。友人平伯民為予謄写。庚子孟冬一校。抽斎。」庚子は天保十一年で、抽斎が弘前から江戸に帰った翌年である。平伯民は平井東堂だそうである。
美成、字は久卿、北峰、好問堂等の号がある。通称は新兵衛、後久作と改めた。下谷二長町に薬店を開いていて、屋号を長崎屋といった。晩年には飯田町の鍋島というものの邸内にいたそうである。黐木坂下に鍋島穎之助という五千石の寄合が住んでいたから、定めてその邸であろう。
美成の歿した時の齢を六十七歳とすると、抽斎より長ずること八歳であっただろう。しかし諸書の記載が区々になっていて、確には定めがたい。
抽斎歿後の第六年は元治元年である。森枳園が躋寿館の講師たるを以て、幕府の月俸を受けることになった。
第七年は慶応元年である。渋江氏では六月二十日に翠暫が十一歳で夭札した。
比良野貞固はこの年四月二十七日に妻かなの喪に遭った。かなは文化十四年の生で四十九歳になっていた。内に倹素を忍んで、外に声望を張ろうとする貞固が留守居の生活は、かなの内助を待って始て保続せられたのである。かなの死後に、親戚僚属は頻に再び娶らんことを勧めたが、貞固は「五十を踰えた花壻になりたくない」といって、久しくこれに応ぜずにいた。
第八年は慶応二年である。海保漁村が九年前に病に罹り、この年八月その再発に逢い、九月十八日に六十九歳で歿したので、十歳の成善は改めてその子竹逕の門人になった。しかしこれは殆ど名義のみの変更に過ぎなかった。何故というに、晩年の漁村が弟子のために書を講じたのは、四九の日の午後のみで、その他授業は竹逕が悉くこれに当っていたからである。漁村の書を講ずる声は咳嗄れているのに、竹逕は音吐晴朗で、しかも能弁であった。後年に至って島田篁村の如きも、講壇に立つときは、人をして竹逕の口吻態度を学んでいはせぬかと疑わしめた。竹逕の養父に代って講説することは、啻に伝経廬におけるのみではなかった。竹逕は弊衣を著て塾を出で、漁村に代って躋寿館に往き、間部家に往き、南部家に往いた。勢此の如くであったので、漁村歿後に至っても、練塀小路の伝経廬は旧に依って繁栄した。
多年渋江氏に寄食していた山内豊覚の妾牧は、この年七十七歳を以て、五百の介抱を受けて死んだ。
抽斎の姉須磨が飯田良清に嫁して生んだ女二人の中で、長女延は小舟町の新井屋半七が妻となって死に、次女路が残っていた。路は痘瘡のために貌を傷られていたのを、多分この年の頃であっただろう、三百石の旗本で戸田某という老人が後妻に迎えた。戸田氏は旗本中に頗る多いので、今考えることが出来にくい。良清の家は、須磨の生んだ長男直之助が夭折した跡へ、孫三郎という養子が来て継いでから、もう久しうなっていた。飯田孫三郎は十年前の安政三年から、「武鑑」の徒目附の部に載せられている。住所は初め湯島天沢寺前としてあって、後には湯島天神裏門前としてある。保さんの記憶している家は麟祥院前の猿飴の横町であったそうである。孫三郎は維新後静岡県の官吏になって、良政と称し、後また東京に入って、下谷車坂町で終ったそうである。
比良野貞固は妻かなが歿した後、稲葉氏から来た養子房之助と二人で、鰥暮しをしていたが、無妻で留守居を勤めることは出来ぬと説くものが多いので、貞固の心がやや動いた。この年の頃になって、媒人が表坊主大須というものの女照を娶れと勧めた。「武鑑」を検するに、慶応二年に勤めていたこの氏の表坊主父子がある。父は玄喜、子は玄悦で、麹町三軒家の同じ家に住んでいた。照は玄喜の女で、玄悦の妹ではあるまいか。
貞固は津軽家の留守居役所で使っている下役杉浦喜左衛門を遣って、照を見させた。杉浦は老実な人物で、貞固が信任していたからである。照に逢って来た杉浦は、盛んに照の美を賞して、その言語その挙止さえいかにもしとやかだといった。
結納は取換された。婚礼の当日に、五百は比良野の家に往って新婦を待ち受けることになった。貞固と五百とが窓の下に対坐していると、新婦の轎は門内に舁き入れられた。五百は轎を出る女を見て驚いた。身の丈極て小さく、色は黒く鼻は低い。その上口が尖って歯が出ている。五百は貞固を顧みた。貞固は苦笑をして、「お姉えさん、あれが花よめ御ですぜ」といった。
新婦が来てから杯をするまでには時が立った。五百は杉浦のおらぬのを怪んで問うと、よめの来たのを迎えてすぐに、比良野の馬を借りて、どこかへ乗って往ったということであった。
暫らくして杉浦は五百と貞固との前へ出て、の汗を拭いつついった。「実に分疏がございません。わたくしはお照殿にお近づきになりたいと、先方へ申し込んで、先方からも委細承知したという返事があって参ったのでございます。その席へ立派にお化粧をして茶を運んで出て、暫時わたくしの前にすわっていて、時候の挨拶をいたしたのは、兼て申し上げたとおりの美しい女でございました。今日参ったよめ御は、その日に菓子鉢か何か持って出て、閾の内までちょっとはいったきりで、すぐに引き取りました。わたくしはよもやあれがお照殿であろうとは存じませなんだ。余りの間違でございますので、お馬を借用して、大須家へ駆け付けて尋ねましたところが、御挨拶をさせた女は照のお引合せをいたさせた倅のよめでございますという返答でございます。全くわたくしの粗忽で」といって、杉浦はまたの汗を拭った。
五百は杉浦喜左衛門の話を聞いて色を変じた。そして貞固に「どうなさいますか」と問うた。
杉浦は傍からいった。「御破談になさるより外ございますまい。わたくしがあの日に、あなたがお照様でございますねと、一言念を押して置けば宜しかったのでございます。全くわたくしの粗忽で」という、目には涙を浮べていた。
貞固は叉いていた手をほどいていった。「お姉えさん御心配をなさいますな。杉浦も悔まぬが好い。わたしはこの婚礼をすることに決心しました。お坊主を恐れるのではないが、喧嘩を始めるのは面白くない。それにわたしはもう五十を越している。器量好みをする年でもない」といった。
貞固は遂に照と杯をした。照は天保六年生で、嫁した時三十二歳になっていた。醜いので縁遠かったのであろう。貞固は妻の里方と交るに、多く形式の外に出でなかったが、照と結婚した後間もなくその弟玄琢を愛するようになった。大須玄琢は学才があるのに、父兄はこれに助力せぬので、貞固は書籍を買って与えた。中には八尾板の『史記』などのような大部のものがあった。
この年弘前藩では江戸定府を引き上げて、郷国に帰らしむることに決した。抽斎らの国勝手の議が、この時に及んで纔に行われたのである。しかし渋江氏とその親戚とは先ず江戸を発する群には入らなかった。
抽斎歿後の第九年は慶応三年である。矢島優善は本所緑町の家を引き払って、武蔵国北足立郡川口に移り住んだ。知人があって、この土地で医業を営むのが有望だと勧めたからである。しかし優善が川口にいて医を業としたのは、僅の間である。「どうも独身で田舎にいて見ると、土臭い女がたかって来て、うるさくてならない」といって、亀沢町の渋江の家に帰って同居した。当時優善は三十三歳であった。
比良野貞固の家では、この年後妻照が柳という女を生んだ。
第十年は明治元年である。伏見、鳥羽の戦を以て始まり、東北地方に押し詰められた佐幕の余力が、春より秋に至る間に漸く衰滅に帰した年である。最後の将軍徳川慶喜が上野寛永寺に入った後に、江戸を引き上げた弘前藩の定府の幾組かがあった。そしてその中に渋江氏がいた。
渋江氏では三千坪の亀沢町の地所と邸宅とを四十五両に売った。畳一枚の価は二十四文であった。庭に定所、抽斎父子の遺愛の木たる柳がある。神田の火に逢って、幹の二大枝に岐れているその一つが枯れている。神田から台所町へ、台所町から亀沢町へ徙されて、幸に凋れなかった木である。また山内豊覚が遺言して五百に贈った石燈籠がある。五百も成善も、これらの物を棄てて去るに忍びなかったが、さればとて木石を百八十二里の遠きに致さんことは、王侯富豪も難んずる所である。ましてや一身の安きをだに期しがたい乱世の旅である。母子はこれを奈何ともすることが出来なかった。
食客は江戸若くはその界隈に寄るべき親族を求めて去った。奴婢は、弘前に随い行くべき若党二人を除く外、悉く暇を取った。こういう時に、年老いたる男女の往いて投ずべき家のないものは、愍むべきである。山内氏から来た牧は二年前に死んだが、跡にまだ妙了尼がいた。
妙了尼の親戚は江戸に多かったが、この時になって誰一人引き取ろうというものがなかった。五百は一時当惑した。
渋江氏が本所亀沢町の家を立ち退こうとして、最も処置に因んだのは妙了尼の身の上であった。この老尼は天明元年に生れて、已に八十八歳になっている。津軽家に奉公したことはあっても、生れてから江戸の土地を離れたことのない女である。それを弘前へ伴うことは、五百がためにも望ましくない。また老いさらぼいたる本人のためにも、長途の旅をして知人のない遠国に往くのはつらいのである。
本妙了は特に渋江氏に縁故のある女ではない。神田豊島町の古着屋の女に生れて、真寿院の女小姓を勤めた。さて暇を取ってから人に嫁し、夫を喪って剃髪した。夫の弟が家を嗣ぐに及んで、初め恋愛していたために今憎悪する戸主に虐遇せられ、それを耐え忍んで年を経た。亡夫の弟の子の代になって、虐遇は前に倍し、あまつさえ眼病を憂えた。これが弘化二年で、妙了が六十五歳になった時である。
妙了は眼病の治療を請いに抽斎の許へ来た。前年に来り嫁した五百が、老尼の物語を聞いて気の毒がって、遂に食客にした。それからは渋江の家にいて子供の世話をし、中にも棠と成善とを愛した。
妙了の最も近い親戚は、本所相生町に石灰屋をしている弟である。しかし弟は渋江氏の江戸を去るに当って、姉を引き取ることを拒んだ。その外今川橋の飴屋、石原の釘屋、箱崎の呉服屋、豊島町の足袋屋なども、皆縁類でありながら、一人として老尼の世話をしようというものはなかった。
幸に妙了の女姪が一人富田十兵衛というものの妻になっていて、夫に小母の事を話すと、十兵衛は快く妙了を引き取ることを諾した。十兵衛は伊豆国韮山の某寺に寺男をしているので、妙了は韮山へ往った。
四月朔に渋江氏は亀沢町の邸宅を立ち退いて、本所横川の津軽家の中屋敷に徙った。次で十一日に江戸を発した。この日は官軍が江戸城を収めた日である。
一行は戸主成善十二歳、母五百五十三歳、陸二十二歳、水木十六歳、専六十五歳、矢島優善三十四歳の六人と若党二人とである。若党の一人は岩崎駒五郎という弘前のもので、今一人は中条勝次郎という常陸国土浦のものである。
同行者は矢川文一郎と浅越一家とである。文一郎は七年前の文久元年に二十一歳で、本所二つ目の鉄物問屋平野屋の女柳を娶って、男子を一人もうけていたが、弘前行の事が極まると、柳は江戸を離れることを欲せぬので、子を連れて里方へ帰った。文一郎は江戸を立った時二十八歳である。
浅越一家は主人夫婦と女とで、若党一人を連れていた。主人は通称を玄隆といって、百八十石六人扶持の表医者である。玄隆は少い時不行迹のために父永寿に勘当せられていたが、永寿の歿するに及んで末期養子として後を承け、次で抽斎の門人となり、また抽斎に紹介せられて海保漁村の塾に入った。天保九年の生れで、抽斎に従学した安政四年には二十歳であった。その後渋江氏と親んでいて、共に江戸を立った時は三十一歳である。玄隆の妻よしは二十四歳、女ふくは当歳である。
ここにこの一行に加わろうとして許されなかったものがある。わたくしはこれを記するに当って、当時の社会が今と殊なることの甚だしきを感ずる。奉公人が臣僕の関係になっていたことは勿論であるが、出入の職人商人もまた情誼が頗る厚かった。渋江の家に出入する中で、職人には飾屋長八というものがあり、商人には鮓屋久次郎というものがあった。長八は渋江氏の江戸を去る時墓木拱していたが、久次郎は六十六歳の翁になって生存えていたのである。
飾屋長八は単に渋江氏の出入だというのみではなかった。天保十年に抽斎が弘前から帰った時、長八は病んで治療を請うた。その時抽斎は長八が病のために業を罷めて、妻と三人の子とを養うことの出来ぬのを見て、長屋に住わせて衣食を給した。それゆえ長八は病が癒えて業に就いた後、長く渋江氏の恩を忘れなかった。安政五年に抽斎の歿した時、長八は葬式の世話をして家に帰り、例に依って晩酌の一合を傾けた。そして「あの檀那様がお亡くなりなすって見れば、己もお供をしても好いな」といった。それから二階に上がって寝たが、翌朝起きて来ぬので女房が往って見ると、長八は死んでいたそうである。
鮓屋久次郎は本ぼて振の肴屋であったのを、五百の兄栄次郎が贔屓にして資本を与えて料理店を出させた。幸に鮓久の庖丁は評判が好かったので、十ばかり年の少い妻を迎えて、天保六年に倅豊吉をもうけた。享和三年生の久次郎は当時三十三歳であった。後九年にして五百が抽斎に嫁したので、久次郎は渋江氏にも出入することになって、次第に親しくなっていた。
渋江氏が弘前に徙る時、久次郎は切に供をして往くことを願った。三十四歳になった豊吉に、母の世話をさせることにして置いて、自分は単身渋江氏の供に立とうとしたのである。この望を起すには、弘前で料理店を出そうという企業心も少し手伝っていたらしいが、六十六歳の翁が二百里足らずの遠路を供に立って行こうとしたのは、主に五百を尊崇する念から出たのである。渋江氏では故なく久次郎の願を却けることが出来ぬので、藩の当事者に伺ったが、当事者はこれを許すことを好まなかった。五百は用人河野六郎の内意を承けて、久次郎の随行を謝絶した。久次郎はひどく落胆したが、翌年病に罹って死んだ。
渋江氏の一行は本所二つ目橋の畔から高瀬舟に乗って、竪川を漕がせ、中川より利根川に出で、流山、柴又等を経て小山に著いた。江戸を距ること僅に二十一里の路に五日を費した。近衛家に縁故のある津軽家は、西館孤清の斡旋に依って、既に官軍に加わっていたので、路の行手の東北地方は、秋田の一藩を除く外、悉く敵地である。一行の渋江、矢川、浅越の三氏の中では、渋江氏は人数も多く、老人があり少年少女がある。そこで最も身軽な矢川文一郎と、乳飲子を抱いた妻という累を有するに過ぎぬ浅越玄隆とをば先に立たせて、渋江一家が跡に残った。
五百らの乗った五挺の駕籠を矢島優善が宰領して、若党二人を連れて、石橋駅に掛かると、仙台藩の哨兵線に出合った。銃を擬した兵卒が左右二十人ずつ轎を挟んで、一つ一つ戸を開けさせて誰何する。女の轎は仔細なく通過させたが、成善の轎に至って、審問に時を費した。この晩に宿に著いて、五百は成善に女装させた。
出羽の山形は江戸から九十里で、弘前に至る行程の半である。常の旅には此に来ると祝う習であったが、五百らはわざと旅店を避けて鰻屋に宿を求めた。
山形から弘前に往く順路は、小坂峠を踰えて仙台に入るのである。五百らの一行は仙台を避けて、板谷峠を踰えて米沢に入ることになった。しかしこの道筋も安全ではなかった。上山まで往くと、形勢が甚だ不穏なので、数日間淹留した。
五百らは路用の金が竭きた。江戸を発する時、多く金を携えて行くのは危険だといって、金銭を長持五十荷余りの底に布かせて舟廻しにしたからである。五百らは上山で、ようよう陸を運んで来た些の荷物の過半を売った。これは金を得ようとしたばかりではない。間道を進むことに決したので、嵩高になる荷は持っていられぬからである。荷を売った銭は固より路用の不足を補う額には上らなかった。幸に弘前藩の会計方に落ち合って、五百らは少しの金を借ることが出来た。
上山を発してからは人烟稀なる山谷の間を過ぎた。縄梯子に縋って断崖を上下したこともある。夜の宿は旅人に餅を売って茶を供する休息所の類が多かった。宿で物を盗まれることも数度に及んだ。
院内峠を踰えて秋田領に入った時、五百らは少しく心を安んずることを得た。領主佐竹右京大夫義堯は、弘前の津軽承昭と共に官軍方になっていたからである。秋田領は無事に過ぎた。
さて矢立峠を踰え、四十八川を渡って、弘前へは往くのである。矢立峠の分水線が佐竹、津軽両家の領地界である。そこを少し下ると、碇関という関があって番人が置いてある。番人は鑑札を検してから、始て慇懃な詞を使うのである。人が雲表に聳ゆる岩木山を指して、あれが津軽富士で、あの麓が弘前の城下だと教えた時、五百らは覚えず涙を翻して喜んだそうである。
弘前に入ってから、五百らは土手町の古着商伊勢屋の家に、藩から一人一日金一分の為向を受けて、下宿することになり、そこに半年余りいた。船廻しにした荷物は、ほど経て後に着いた。下宿屋から街に出づれば、土地の人が江戸子々々々と呼びつつ跡に附いて来る。当時髻を麻糸で結い、地織木綿の衣服を著た弘前の人々の中へ、江戸育の五百らが交ったのだから、物珍らしく思われたのも怪むに足りない。殊に成善が江戸でもまだ少かった蝙蝠傘を差して出ると、看るものが堵の如くであった。成善は蝙蝠傘と、懐中時計とを持っていた。時計は識らぬ人さえ紹介を求めて見に来るので、数日のうちに弄り毀されてしまった。
成善は近習小姓の職があるので、毎日登城することになった。宿直は二カ月に三度位であった。
成善は経史を兼松石居に学んだ。江戸で海保竹逕の塾を辞して、弘前で石居の門を敲いたのである。石居は当時既に蟄居を免されていた。医学は江戸で多紀安琢の教を受けた後、弘前では別に人に師事せずにいた。
戦争は既に所々に起って、飛脚が日ごとに情報を齎した。共に弘前へ来た矢川文一郎は、二十八歳で従軍して北海道に向うことになった。また浅越玄隆は南部方面に派遣せられた。この時浅越の下に附属せられたのが、新に町医者から五人扶持の小普請医者に抱えられた蘭法医小山内元洋である。弘前ではこれより先藩学稽古館に蘭学堂を設けて、官医と町医との子弟を教育していた。これを主宰していたのは江戸の杉田成卿の門人佐々木元俊である。元洋もまた杉田門から出た人で、後建と称して、明治十八年二月十四日に中佐相当陸軍一等軍医正を以て広島に終った。今の文学士小山内薫さんと画家岡田三郎助さんの妻八千代さんとは建の遺子である。矢島優善は弘前に留まっていて、戦地から後送せられて来る負傷者を治療した。
渋江氏の若党の一人中条勝次郎は、弘前に来てから思いも掛けぬ事に遭遇した。
一行が土手町に下宿した後二、三月にして暴風雨があった。弘前の人は暴風雨を岩木山の神が崇を作すのだと信じている。神は他郷の人が来て土着するのを悪んで、暴風雨を起すというのである。この故に弘前の人は他郷の人を排斥する。就中丹後の人と南部の人とを嫌う。なぜ丹後の人を嫌うかというに、岩木山の神は古伝説の安寿姫で、己を虐使した山椒大夫の郷人を嫌うのだそうである。また南部の人を嫌うのは、神も津軽人のパルチキュラリスムに感化せられているのかも知れない。
暴風雨の後数日にして、新に江戸から徙った家々に沙汰があった。もし丹後、南部等の生のものが紛れ入っているなら、厳重に取り糺して国境の外に逐えというのである。渋江氏の一行では中条が他郷のものとして目指された。中条は常陸生だといって申し解いたが、役人は生国不明と認めて、それに立退を諭した。五百はやむことをえず、中条に路用の金を与えて江戸へ還らせた。
冬になってから渋江氏は富田新町の家に遷ることになった。そして知行は当分の内六分引を以て給するという達しがあって、実は宿料食料の外何の給与もなかった。これが後二年にして秩禄に大削減を加えられる発端であった。二年前から逐次に江戸を引き上げて来た定府の人たちは、富田新町、新寺町新割町、上白銀町、下白銀町、塩分町、茶畑町の六カ所に分れ住んだ。富田新町には江戸子町、新寺町新割町には大矢場、上白銀町には新屋敷の異名がある。富田新町には渋江氏の外、矢川文一郎、浅越玄隆らがおり、新寺町新割町には比良野貞固、中村勇左衛門らがおり、下白銀町には矢川文内らがおり、塩分町には平井東堂らがおった。
この頃五百は専六が就学問題のために思を労した。専六の性質は成善とは違う。成善は書を読むに人の催促を須たない。そしてその読む所の書は自ら択ぶに任せることが出来る。それゆえ五百は彼が兼松石居に従って経史を攻めるのを見て、毫も容喙せずにいた。成善が儒となるもまた可、医となるもまた不可なるなしとおもったのである。これに反して専六は多く書を読むことを好まない。書に対すれば、先ず有用無用の詮議をする。五百はこの子には儒となるべき素質がないと信じた。そこで意を決して剃髪せしめた。
五百は弘前の城下について、専六が師となすべき医家を物色した。そして親方町に住んでいる近習医者小野元秀を獲た。
小野元秀は弘前藩士対馬幾次郎の次男で、小字を常吉といった。十六、七歳の時、父幾次郎が急に病を発した。常吉は半夜馳せて医師某の許に往った。某は家にいたのに、来り診することを肯ぜなかった。常吉はこの時父のために憂え、某のために惜んで、心にこれを牢記していた。後に医となってから、人の病あるを聞くごとに、家の貧富を問わず、地の遠近を論ぜず、食うときには箸を投じ、臥したるときには被を蹴て起ち、径ちに往いて診したのは、少時の苦き経験を忘れなかったためだそうである。元秀は二十六歳にして同藩の小野秀徳の養子となり、その長女そのに配せられた。
元秀は忠誠にして廉潔であった。近習医に任ぜられてからは、詰所に出入するに、朝には人に先んじて往き、夕には人に後れて反った。そして公退後には士庶の病人に接して、絶て倦む色がなかった。
稽古館教授にして、五十石町に私塾を開いていた工藤他山は、元秀と親善であった。これは他山がいまだ仕途に就かなかった時、元秀がその貧を知って、を受けずして懇に治療した時からの交である。他山の子外崎さんも元秀を識っていたが、これを評して温潤良玉の如き人であったといっている。五百が専六をして元秀に従学せしめたのは、実にその人を獲たものというべきである。
元秀の養子完造は本山崎氏で、蘭法医伊東玄朴の門人である。完造の養子芳甫さんは本鳴海氏で、今弘前の北川端町に住んでいる。元秀の実家の裔は弘前の徒町川端町の対馬※蔵[#「金+蚣のつくり」、U+9206、243-12]さんである。
専六は元秀の如き良師を得たが、憾むらくは心、医となることを欲せなかった。弘前の人は毎に、円頂の専六が筒袖の衣を著、短袴を穿き、赤毛布を纏って銃を負い、山野を跋渉するのを見た。これは当時の兵士の服装である。
専六は兵士の間に交を求めた。兵士らは呼ぶに医者銃隊の名を以てして、頗るこれを愛好した。
時に弘前に徙った定府中に、山澄吉蔵というものがあった。名を直清といって、津軽藩が文久三年に江戸に遣った海軍修行生徒七人の中で、中小姓を勤めていた。築地海軍操練所で算数の学を修め、次で塾の教員の列に加わった。弘前に徙って間もなく、山澄は熕隊司令官にせられた。兵士中身を立てんと欲するものは、多くこの山澄を師として洋算を学んだ。専六もまた藤田潜、柏原櫟蔵らと共に山澄の門に入って、洋算簿記を学ぶこととなり、いつとなく元秀の講筵には臨まなくなった。後山澄は海軍大尉を以て終り、柏原は海軍少将を以て終った。藤田さんは今攻玉社長をしている。攻玉社は後に近藤真琴の塾に命ぜられた名である。初め麹町八丁目の鳥羽藩主稲垣対馬守長和の邸内にあったのが、中ごろ築地海軍操練所内に移るに及んで、始めて攻玉塾と称し、次で芝神明町の商船黌と、芝新銭座の陸地測量習練所とに分離し、二者の総称が攻玉社となり、明治十九年に至るまで、近藤自らこれを経営していたのである。
小野富穀とその子道悦とが江戸を引き上げたのは、この年二月二十三日で、道中に二十五日を費し、三月十八日に弘前に著いた。渋江氏の弘前に入るに先つこと二カ月足らずである。
矢島優善が隠居させられた時、跡を襲いだ周禎の一家も、この年に弘前へ徙ったが、その江戸を発する時、三男三蔵は江戸に留まった。前に小田原へ往った長男周碩と、この三蔵とは、後にカトリック教の宣教師になったそうである。弘前へ往った周禎は表医者奥通に進み、その次男で嗣子にせられた周策もまた目見の後表医者を命ぜられた。
袖斎の姉須磨の夫飯田良清の養子孫三郎は、この年江戸が東京と改称した後、静岡藩に赴いて官吏になった。
森枳園はこの年七月に東京から福山に遷った。当時の藩主は文久元年に伊予守正教の後を承けた阿部主計頭正方であった。
優善の友塩田良三はこの年浦和県の官吏になった。これより先良三は、優善が山田椿庭の塾に入ったのと殆ど同時に、伊沢柏軒の塾に入って、柏軒にその才の雋鋭なるを認められ、節を折って書を読んだ。文久三年に柏軒が歿してからは家に帰っていて、今仕宦したのである。
この年箱館に拠っている榎本武揚を攻めんがために、官軍が発向する中に、福山藩の兵が参加していた。伊沢榛軒の嗣子棠軒はこれに従って北に赴いた。そして渋江氏を富田新町に訪うた。棠軒は福山藩から一粒金丹を買うことを託せられていたので、この任を果たす傍、故旧の安否を問うたのである。棠軒、名は信淳、通称は春安、池田全安が離別せられた後に、榛軒の女かえの壻となったのである。かえは後に名をそのと更めた。おそのさんは現存者で、市谷富久町の伊沢徳さんの許にいる。徳さんは棠軒の嫡子である。
抽斎歿後の第十一年は明治二年である。抽斎の四女陸が矢川文一郎に嫁したのは、この年九月十五日である。
陸が生れた弘化四年には、三女棠がまだ三歳で、母の懐を離れなかったので、陸は生れ降ちるとすぐに、小柳町の大工の棟梁新八というものの家へ里子に遣られた。さて嘉永四年に棠が七歳で亡くなったので、母五百が五歳の陸を呼び返そうとすると、偶矢島氏鉄が来たのを抱いて寝なくてはならなくなって、陸を還すことを見あわせた。翌五年にようよう還った陸は、色の白い、愛らしい六歳の少女であった。しかし五百の胸をば棠を惜む情が全く占めていたので、陸は十分に母の愛に浴することが出来ずに、母に対しては頗る自ら抑遜していなくてはならなかった。
これに反して抽斎は陸を愛撫して、身辺におらせて使役しつつ、或時五百にこういった。「己はこんなに丈夫だから、どうもお前よりは長く生きていそうだ。それだから今の内に、こうして陸を為込んで置いて、お前に先へ死なれた時、この子を女房代りにするつもりだ。」
陸はまた兄矢島優善にも愛せられた。塩田良三もまた陸を愛する一人で、陸が手習をする時、手を把って書かせなどした。抽斎が或日陸の清書を見て、「良三さんのお清書が旨く出来たな」といって揶揄ったことがある。
陸は小さい時から長歌が好で、寒夜に裏庭の築山の上に登って、独り寒声の修行をした。
抽斎の四女陸はこの家庭に生長して、当時なおその境遇に甘んじ、毫も婚嫁を急ぐ念がなかった。それゆえかつて一たび飯田寅之丞に嫁せんことを勧めたものもあったが、事が調わなかった。寅之丞は当時近習小姓であった。天保十三年壬寅に生れたからの名である。即ち今の飯田巽さんで、巽の字は明治二年己巳に二十八になったという意味で選んだのだそうである。陸との縁談は媒が先方に告げずに渋江氏に勧めたのではなかろうが、余り古い事なので巽さんは已に忘れているらしい。然るにこの度は陸が遂に文一郎の聘を却くることが出来なくなった。
文一郎は最初の妻柳が江戸を去ることを欲せぬので、一人の子を附けて里方へ還して置いて弘前へ立った。弘前に来た直後に、文一郎は二度目の妻を娶ったが、いまだ幾ならぬにこれを去った。この女は西村与三郎の女作であった。次で箱館から帰った頃からであろう、陸を娶ろうと思い立って、人を遣して請うこと数度に及んだ。しかし渋江氏では輒ち動かなかった。陸には旧に依って婚嫁を急ぐ念がない。五百は文一郎の好人物なることを熟知していたが、これを壻にすることをば望まなかった。こういう事情の下に、両家の間にはやや久しく緊張した関係が続いていた。
文一郎は壮年の時パッションの強い性質を有していた。その陸に対する要望はこれがために頗る熱烈であった。渋江氏では、もしその請を納れなかったら、あるいは両家の間に事端を生じはすまいかと慮った。陸が遂に文一郎に嫁したのは、この疑懼の犠牲になったようなものである。
この結婚は、名義からいえば、陸が矢川氏に嫁したのであるが、形迹から見れば、文一郎が壻入をしたようであった。式を行った翌日から、夫婦は終日渋江の家にいて、夜更けて矢川の家へ寝に帰った。この時文一郎は新に馬廻になった年で二十九歳、陸は二十三歳であった。
矢島優善は、陸が文一郎の妻になった翌月、即ち十月に、土手町に家を持って、周禎の許にいた鉄を迎え入れた。これは行懸りの上から当然の事で、五百は傍から世話を焼いたのである。しかし二十三歳になった鉄は、もう昔日の如く夫の甘言に賺されてはおらぬので、この土手町の住いは優善が身上のクリジスを起す場所となった。
優善と鉄との間に、夫婦の愛情の生ぜぬことは、固より予期すべきであった。しかし啻に愛情が生ぜざるのみではなく、二人は忽ち讐敵となった。そしてその争うには、鉄がいつも攻勢を取り、物質上の利害問題を提げて夫に当るのであった。「あなたがいくじがないばかりに、あの周禎のような男に矢島の家を取られたのです。」この句が幾度となく反復せられる鉄が論難の主眼であった。優善がこれに答えると、鉄は冷笑する、舌打をする。
この争は週を累ね月を累ねて歇まなかった。五百らは百方調停を試みたが何の功をも奏せなかった。
五百はやむことをえぬので、周禎に交渉して再び鉄を引き取ってもらおうとした。しかし周禎は容易に応ぜなかった。渋江氏と周禎が方との間に、幾度となく交換せられた要求と拒絶とは、押問答の姿になった。
この往反の最中に忽ち優善が失踪した。十二月二十八日に土手町の家を出て、それきり帰って来ぬのである。渋江氏では、優善が悶を排せんがために酒色の境に遁れたのだろうと思って、手分をして料理屋と妓楼とを捜索させた。しかし優善のありかはどうしても知れなかった。
比良野貞固は江戸を引き上げる定府の最後の一組三十戸ばかりの家族と共に、前年五、六月の交安済丸という新造帆船に乗った。然るに安済丸は海に泛んで間もなく、柁機を損じて進退の自由を失った。乗組員は某地より上陸して、許多の辛苦を甞め、この年五月にようよう東京に帰った。
さて更に米艦スルタン号に乗って、この度は無事に青森に著した。佐藤弥六さんは当時の同乗者の一人だそうである。
弘前にある渋江氏は、貞固が東京を発したことを聞いていたのに、いつまでも到著せぬので、どうした事かと案じていた。殊に比良野助太郎と書した荷札が青森の港に流れ寄ったという流言などがあって、いよいよ心を悩まする媒となった。そのうちこの年十二月十日頃に青森から発した貞固の手書が来た。その中には安済丸の故障のために一たび去った東京に引き返し、再び米艦に乗って来たことを言って、さて金を持って迎えに来てくれといってあった。一年余の間無益な往反をして、貞固の盤纏は僅に一分銀一つを剰していたのである。
弘前に来てから現金の給与を受けたことのない渋江氏では、この書を得て途方に暮れたが、船廻しにした荷の中に、刀剣のあったのを三十五振質に入れて、金二十五両を借り、それを持って往って貞固を弘前へ案内した。
貞固の養子房之助はこの年に手廻を命ぜられたが、藩制が改まったので、久しくこの職におることが出来なかった。
抽斎歿後の第十二年は明治三年である。六月十八日に弘前藩士の秩禄は大削減を加えられ、更に医者の降等が令せられた。禄高は十五俵より十九俵までを十五俵に、二十俵より二十九俵までを二十俵に、三十俵より四十九俵までを三十俵に、五十俵より六十九俵までを四十俵に、七十俵より九十九俵までを六十俵に、百俵より二百四十九俵までを八十俵に、二百五十俵より四百九十九俵までを百俵に、五百俵より七百九十九俵までを百五十俵に、八百俵以上を二百俵に減ぜられたのである。そして従来石高を以て給せられていたものは、そのまま俵と看做して同一の削減を行われた。そして士分を上士、中士、下士に班って、各班に大少を置いた。二十俵を少下士、三十俵を大下士、四十俵を少中土、八十俵を大中士、百五十俵を少上土、二百俵を大上土とするというのである。
渋江氏は原禄三百石であるから、中の上に位するはずで、小禄の家に比ぶれば、受くる所の損失が頗る大きい。それでも渋江氏はこれを得て満足するつもりでいた。
然るに医者の降等の令が出て、それが渋江氏に適用せられることになった。本成善は医者の子として近習小姓に任ぜられているには違ない。しかしいまだかつて医として仕えたことはない。しかのみならず令の出づるに先だって、十四歳を以て藩学の助教にせられ、生徒に経書を授けている。これは師たる兼松石居が已に屏居を免されて藩の督学を拝したので、その門人もまた挙用せられたのである。かつ先例を按ずるに、歯科医佐藤春益の子は、単に幼くして家督したために、平士にせられている。いわんや成善は分明に儒職にさえ就いているのである。成善がこの令を己に適用せられようと思わなかったのも無理はない。
しかし成善は念のために大参事西館孤清、少参事兼大隊長加藤武彦の二人を見て意見を叩いた。二人皆成善は医として視るべきものでないといった。武彦は前の側用人兼用人清兵衛の子である。何ぞ料らん、成善は医者と看做されて降等に逢い、三十俵の禄を受くることとなり、あまつさえ士籍の外にありなどとさえいわれたのである。成善は抗告を試みたが、何の功をも奏せなかった。
何故に儒を以て仕えている成善に、医者降等の令を適用したかというに、それは想像するに難くはない。渋江氏は世儒を兼ねて、命を受けて経を講じてはいたが、家は本医道の家である。成善に至っても、幼い時から多紀安琢の門に入っていた。また已に弘前に来た後も、医官北岡太淳、手塚元瑞、今春碩らは成善に兼て医を以て仕えんことを勧め、こういう事を言った。「弘前には少壮者中に中村春台、三上道春、北岡有格、小野圭庵の如きものがある。その他小山内元洋のように新に召し抱えられたものもある。しかし江戸定府出身の少い医者がない。ちと医業の方をも出精してはどうだ」といった。かつ令の発せられる少し前の出来事で、成善が津軽承昭に医として遇せられていた証拠がある。六月十三日に、藩知事承昭は戦を大星場に習わせた。承昭は五月二十六日に知事になっていたのである。銃声の盛んに起った時、第五大隊の医官小野道秀が病を発した。承昭は傍に侍した成善をして小野に代らしめた。此の如く渋江氏の子が医を善くすることは、上下皆信じていたと見える。しかしこれがために、現に儒を以て仕えているものを不幸に陥いれたのは、同情が闕けていたといっても好かろう。
矢島優善は前年の暮に失踪して、渋江氏では疑懼の間に年を送った。この年一月二日の午後に、石川駅の人が二通の手紙を持って来た。優善が家を出た日に書いたもので、一は五百に宛て、一は成善に宛ててある。並に訣別の書で、所々涙痕を印している。石川は弘前を距ること一里半を過ぎぬ駅であるが、使のものは命ぜられたとおりに、優善が駅を去った後に手紙を届けたのである。
五百と成善とは、優善が雪中に行き悩みはせぬか、病み臥しはせぬかと気遣って、再び人を傭って捜索させた。成善は自ら雪を冒して、石川、大鰐、倉立、碇関等を隈なく尋ねた。しかし蹤跡は絶て知れなかった。
優善は東京をさして石川駅を発し、この年一月二十一日に吉原の引手茶屋湊屋に著いた。湊屋の上さんは大分年を取った女で、常に優善を「蝶さん」と呼んで親んでいた。優善はこの女をたよって往ったのである。
湊屋に皆という娘がいた。このみいちゃんは美しいので、茶屋の呼物になっていた。みいちゃんは津藤に縁故があるとかいう河野某を檀那に取っていたが、河野は遂にみいちゃんを娶って、優善が東京に著いた時には、今戸橋の畔に芸者屋を出していた。屋号は同じ湊屋である。
優善は吉原の湊屋の世話で、山谷堀の箱屋になり、主に今戸橋の湊屋で抱えている芸者らの供をした。
四カ月半ばかりの後、或人の世話で、優善は本所緑町の安田という骨董店に入贅した。安田の家では主人礼助が死んで、未亡人政が寡居していたのである。しかし優善の骨董商時代は箱屋時代より短かった。それは政が優善の妻になって間もなくみまかったからである。
この頃前に浦和県の官吏となった塩田良三が、権大属に陞って聴訟係をしていたが、優善を県令に薦めた。優善は八月十八日を以て浦和県出仕を命ぜられ、典獄になった。時に年三十六であった。
専六は兵士との交が漸く深くなって、この年五月にはとうとう「於軍務局楽手稽古被仰付」という沙汰書を受けた。さて楽手の修行をしているうちに、十二月二十九日に山田源吾の養子になった。源吾は天保中津軽信順がいまだ致仕せざる時、側用人を勤めていたが、旨に忤って永の暇になった。しかし他家に仕えようという念もなく、商估の業をも好まぬので、家の菩提所なる本所中の郷の普賢寺の一房に居し、日ごとに街に出でて謡を歌って銭を乞うた。
この純然たる浪人生活が三十年ばかり続いたのに、源吾は刀剣、紋附の衣類、上下等を葛籠一つに収めて持っていた。
承昭はこの年源吾を召し還して、二十俵を給し、目見以下の士に列せしめ、本所横川邸の番人を命じた。然るに源吾は年老い身病んで久しく職におりがたいのを慮って、養子を求めた。
この時源吾の親戚に戸沢惟清というものがあって、専六をその養子に世話をした。戸沢は五百に説くに、山田の家世の本卑くなかったのと、東京勤の身を立つるに便なるとを以てし、またこういった。「それに専六さんが東京にいると、後に弟御さんが上京することになっても御都合が宜しいでしょう」といった。成善は等を降され禄を減ぜられた後、東京に往って恥を雪ごうと思っていたからである。
戸沢がこういって勧めた時、五百は容易にこれに耳を傾けた。五百は戸沢の人と為りを喜んでいたからである。戸沢惟清、通称は八十吉、信順在世の日の側役であった。才幹あり気概ある人で、恭謙にして抑損し、些の学問さえあった。然るに酒を被るときは剛愎にして人を凌いだ。信順は平素命じて酒を絶たしめ、用帑匱しきに至るごとに、これに酒を飲ましめ、命を当局に伝えさせた。戸沢は当局の一諾を得ないでは帰らなかったそうである。
或時戸沢は公事を以て旅行した。物書松本甲子蔵がこれに随っていた。駕籠の中に坐した戸沢が、ふと側を歩く松本を見ると、草鞋の緒が足背を破って、鮮血が流れていた。戸沢は急に一行を止まらせて、大声に「甲子蔵」と呼んだ。「はっ」といって松本は轎扉に近づいた。戸沢は「ちと内用があるから遠慮いたせ」といって、供のものを遠け、松本に草鞋を脱がせて、強いて轎中に坐せしめ、自ら松本の草鞋を著け、さて轎丁を呼んで舁いて行かせたそうである。これは松本が保さんに話した事で、保さんはまた戸沢とその弟星野伝六郎とをも識っていた。戸沢の子米太郎、星野の子金蔵の二人はかつて保さんの教を受けたことがある。
戸沢の勧誘には、この年弘前に著した比良野貞固も同意したので、五百は遂にこれに従って、専六が山田氏に養わるることを諾した。その事の決したのが十二月二十九日で、専六が船の青森を発したのが翌三十日である。この年専六は十七歳になっていた。然るに東京にある養父源吾は、専六がなお舟中にある間に病歿した。
矢川文一郎に嫁した陸は、この年長男万吉を生んだが、万吉は夭折して弘前新寺町の報恩寺なる文内が母の墓の傍に葬られた。
抽斎の六女水木はこの年馬役村田小吉の子広太郎に嫁した。時に年十八であった。既にして矢島周禎が琴瑟調わざることを五百に告げた。五百はやむをえずして水木を取り戻した。
小野氏ではこの年富穀が六十四歳で致仕し、子道悦が家督相続をした。道悦は天保七年生で、三十五歳になっていた。
中丸昌庵はこの年六月二十八日に歿した。文政元年生の人だから、五十三歳を以て終ったのである。
弘前の城はこの年五月二十六日に藩庁となったので、知事津軽承昭は三之内に遷った。
抽斎歿後の第十三年は明治四年である。成善は母を弘前に遺して、単身東京に往くことに決心した。その東京に往こうとするのは、一には降等に遭って不平に堪えなかったからである。二には減禄の後は旧に依って生計を立てて行くことが出来ぬからである。その母を弘前に遺すのは、脱藩の疑を避けんがためである。
弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌わなかった。これに反して私費を以て東京に往こうとするものがあると、藩は已にその人の脱藩を疑った。いわんや家族をさえ伴おうとすると、この疑は益深くなるのであった。
成善が東京に往こうと思っているのは久しい事で、しばしばこれを師兼松石居に謀った。石居は機を見て成善を官費生たらしめようと誓った。しかし成善は今は徐にこれを待つことが出来なくなったのである。
さて成善は私費を以て往くことを敢てするのであるが、なお母だけは遺して置くことにした。これはやむことをえぬからである。何故というに、もし成善が母と倶に往こうといったなら、藩は放ち遣ることを聴さなかったであろう。
成善は母に約するに、他日東京に迎え取るべきことを以てした。しかし藩の必ずこれを阻格すべきことは、母子皆これを知っていた。約めて言えば、弘前を去る成善には母を質とするに似た恨があった。
藩が脱籍者の輩出せんことを恐るるに至ったのは、二、三の忌むべき実例があったからである。その首におるものは、彼の勘定奉行を罷めて米穀商となった平川半治である。当時此の如く財利のために士籍を遁れようとする気風があったことは、渋江氏もまた親しくこれを験することを得た。或人は五百に説いて、東京両国の中村楼を買わせようとした。今千両の金を投じて買って置いたなら、他日鉅万の富を致すことが出来ようといったのである。或人は東京神田須田町の某売薬株を買わせようとした。この株は今廉価を以て贖うことが出来て、即日から月収三百両乃至五百両の利があるといったのである。五百のこれに耳を仮さなかったことは固よりである。
当時藩職におって、津軽家をして士を失わざらしめんと欲し、極力脱籍を防いだのは、大参事西館孤清である。成善は西館を訪うて、東京に往くことを告げた。西館はおおよそこういった。東京に往くは好い。学業成就して弘前に帰るなら、我らはこれを任用することを吝まぬであろう。しかし半途にして母を迎え取らんとするが如きことがあったなら、それは郷土のために謀って忠ならざることを証するものである。我藩はこれを許さぬであろうといった。成善は悲痛の情を抑えて西館の許を辞した。
成善は家禄を割いて、その五人扶持を東京に送致してもらうことを、当路の人に請うて允された。それから長持一棹の錦絵を書画兼骨董商近竹に売った。これは浅草蔵前の兎桂等で、二十枚百文位で買った絵であるが、当時三枚二百文乃至一枚百文で売ることが出来た。成善はこの金を得て、半は留めて母に餽り、半はこれを旅費と学資とに充てた。
成善が弘前で暇乞に廻った家々の中で、最も別を惜んだのは兼松石居と平井東堂とであった。東堂は左下に瘤を生じたので、自ら瘤翁と号していたが、別に臨んで、もう再会は覚束ないといって落涙した。成善の去った翌年、明治五年九月十六日に東堂は塩分町の家に歿した。年五十九である。四女とめが家を継いだ。今東京神田裏神保町に住んで、琴の師匠をしている平井松野さんがこのとめである。
成善は藩学の職を辞して、この年三月二十一日に、母五百と水杯を酌み交して別れ、駕籠に乗って家を出た。水杯を酌んだのは、当時の状況より推して、再会の期しがたきを思ったからである。成善は十五歳、五百は五十六歳になっていた。抽斎の歿した時は、成善はまだ少年であったので、この時始て親子の別の悲しさを知って、轎中で声を発して泣きたくなるのを、ようよう堪え忍んだそうである。
同行者は松本甲子蔵であった。甲子蔵は後に忠章と改称した。父を庄兵衛といって、素比良野貞固の父文蔵の若党であった。文蔵はその樸直なのを愛して、津軽家に薦めて足軽にしてもらった。その子甲子蔵は才学があるので、藩の公用局の史生に任用せられていたのである。
弘前から旅立つものは、石川駅まで駕籠で来て、ここで親戚故旧と酒を酌んで別れる習であった。成善を送るものは、句読を授けられた少年らの外、矢川文一郎、比良野房之助、服部善吉、菱川太郎などであった。後に服部は東京で時計職工になり、菱川は辻新次さんの家の学僕になったが、二人共に已に世を去った。
成善は四月七日に東京に着いた。行李を卸したのは本所二つ目の藩邸である。これより先成善の兄専六は、山田源吾の養子になって、東京に来て、まだ父子の対面をせぬ間に死んだ源吾の家に住んでいた。源吾は津軽承昭の本所横川に設けた邸をあずかっていて、住宅は本所割下水にあったのである。その外東京には五百の姉安が両国薬研堀に住んでいた。安の女二人のうち、敬は猿若町三丁目の芝居茶屋三河屋に、銓は蔵前須賀町の呉服屋桝屋儀兵衛の許にいた。また専六と成善との兄優善は、ほど遠からぬ浦和にいた。
成善の旧師には多紀安琢が矢の倉におり、海保竹逕がお玉が池にいた。維新の初に官吏になって、この邸を伊沢鉄三郎の徳安が手から買い受けて、練塀小路の湿地にあった、床の低い、畳の腐った家から移り住んだ。独家宅が改まったのみではない。常に弊衣を著ていた竹逕が、その頃から絹布を被るようになった。しかし幾もなく、当時の有力者山内豊信等の斥くる所となって官を罷めた。成善は四月二十二日に再び竹逕の門に入ったが、竹逕は前年に会陰に膿瘍を発したために、やや衰弱していた。成善は久しぶりにその『易』や『毛詩』を講ずるのを聴いた。多紀安琢は維新後困窮して、竹逕の扶養を蒙っていた。成善はしばしばその安否を問うたが、再び『素問』を学ぼうとはしなかった。
成善は英語を学ばんがために、五月十一日に本所相生町の共立学舎に通いはじめた。父抽斎は遺言して蘭語を学ばしめようとしたのに、時代の変遷は学ぶべき外国語を易うるに至らしめたのである。共立学舎は尺振八の経営する所である。振八、初の名を仁寿という。下総国高岡の城主井上筑後守正滝の家来鈴木伯寿の子である。天保十年に江戸佐久間町に生れ、安政の末年に尺氏を冒した。田辺太一に啓発せられて英学に志し、中浜万次郎、西吉十郎等を師とし、次で英米人に親炙し、文久中仏米二国に遊んだ。成善が従学した時は三十三歳になっていた。
成善は四月に海保の伝経廬に入り、五月に尺の共立学舎に入ったが、六月から更に大学南校にも籍を置き、日課を分割して三校に往来し、なお放課後にはフルベックの許を訪うて教を受けた。フルベックは本和蘭人で亜米利加合衆国に民籍を有していた。日本の教育界を開拓した一人である。
学資は弘前藩から送って来る五人扶持の中三人扶持を売って弁ずることが出来た。当時の相場で一カ月金二両三分二朱と四百六十七文であった。書籍は英文のものは初より新に買うことを期していたが、漢書は弘前から抽斎の手沢本を送ってもらうことにした。然るにこの書籍を積んだ舟が、航海中七月九日に暴風に遭って覆って、抽斎のかつて蒐集した古刊本等の大部分が海若の有に帰した。
八月二十八日に弘前県の幹督が成善に命ずるに神社調掛を以てし、金三両二分二朱と二匁二分五厘の手当を給した。この命は成善が共立学舎に入ることを届けて置いたので、同時に「欠席聞届の委頼」という形式を以て学舎に伝えられた。これより先七月十四日の詔を以て廃藩置県の制が布かれたので、弘前県が成立していたのである。
矢島優善は浦和県の典獄になっていて、この年一月七日に唐津藩士大沢正の女蝶を娶った。嘉永二年生で二十三歳である。これより先前妻鉄は幾多の葛藤を経た後に離別せられていた。
優善は七月十七日に庶務局詰に転じ十月十七日に判任史生にせられた。次で十一月十三日に浦和県が廃せられて、その事務は埼玉県に移管せられたので、優善は十二月四日を以て更に埼玉県十四等出仕を命ぜられた。
成善と倶に東京に来た松本甲子蔵は、優善に薦められて、同時に十五等出仕を命ぜられたが、後兵事課長に進み、明治三十二年三月二十八日に歿した。弘化二年生であるから、五十五歳になったのである。
当時県吏の権勢は盛なものであった。成善が東京に入った直後に、まだ浦和県出仕の典獄であった優善を訪うと、優善は等外一等出仕宮本半蔵に駕龍一挺を宰領させて成善を県の界に迎えた。成善がその駕籠に乗って、戸田の渡しに掛かると、渡船場の役人が土下座をした。
優善が庶務局詰になった頃の事である。或日優善は宴会を催して、前年に自分が供をした今戸橋の湊屋の抱芸者を始とし、山谷堀で顔を識った芸者を漏なく招いた。そして酒闌なる時「己はお前方の供をして、大ぶ世話になったことがあるが、今日は己もお客だぞ」といった。大丈夫志を得たという概があったそうである。
県吏の間には当時飲宴がしばしば行われた。浦和県知事間島冬道の催した懇親会では、塩田良三が野呂松狂言を演じ、優善が莫大小の襦袢袴下を著て夜這の真似をしたことがある。間島は通称万次郎、尾張の藩士である。明治二年四月九日に刑法官判事から大宮県知事に転じた。大宮県が浦和県と改称せられたのは、その年九月二十九日の事である。
この年の暮、優善が埼玉県出仕になってからの事である。某村の戸長は野菜一車を優善に献じたいといって持って来た。優善は「己は賄賂は取らぬぞ」といって却けた。
戸長は当惑顔をしていった。「どうもこの野菜をこのまま持って帰っては、村の人民どもに対して、わたくしの面目が立ちませぬ。」
「そんなら買って遣ろう」と、優善がいった。
戸長はようよう天保銭一枚を受け取って、野菜を車から卸させて帰った。
優善は廉い野菜を買ったからといって、県令以下の職員に分配した。
県令は野村盛秀であったが、野菜を貰うと同時にこの顛末を聞いて、「矢島さんの流義は面白い」といって褒めたそうである。野村は初め宗七と称した。薩摩の士で、浦和県が埼玉県となった時、日田県知事から転じて埼玉県知事に任ぜられた。間島冬道は去って名古屋県に赴いて、参事の職に就いたが、後明治二十三年九月三十日に御歌所寄人を以て終った。また野村は後明治六年五月二十一日にこの職にいて歿したので、長門の士参事白根多助が一時県務を摂行した。
山田源吾の養子になった専六は、まだ面会もせぬ養父を喪って、その遺跡を守っていたが、五月一日に至って藩知事津軽承昭の命を拝した。「親源吾給禄二十俵無相違被遣」というのである。さて源吾は謁見を許されぬ職を以て終ったが、六月二十日に専六は承昭に謁することを得た。これは成善が内意を承けて願書を呈したためである。
専六は成善に紹介せられて、先ず海保の伝経廬に入り、次で八月九日に共立学舎に入り、十二月三日に梅浦精一に従学した。
この年六月七日に成善は名を保と改めた。これは母を懐うが故に改めたので、母は五百の字面の雅ならざるがために、常に伊保と署していたのだそうである。矢島優善の名を優と改めたのもこの年である。山田専六の名を脩と改めたのは、別に記載の徴すべきものはないが、やや後の事であったらしい。
この年十二月三日に保と脩とが同時に斬髪した。優は何時斬髪したか知らぬが、多分同じ頃であっただろう。優は少し早く東京に入り、ほどなく東京を距ること遠からぬ浦和に往って官吏をしていたが、必ずしも二弟に先だって斬髪したともいいがたい。紫の紐を以て髻を結うのが、当時の官吏の頭飾で、優が何時までその髻を愛惜したかわからない。人はあるいは抽斎の子供が何時斬髪したかを問うことを須いぬというかも知れない。しかし明治の初に男子が髪を斬ったのは、独逸十八世紀のツォップフが前に断たれ、清朝の辮髪が後に断たれたと同じく、風俗の大変遷である。然るに後の史家はその年月を知るに苦むかも知れない。わたくしの如きは自己の髪を斬った年を記していない。保さんの日記の一条を此に採録する所以である。
この年十二月二十二日に、本所二つ目の弘前藩邸が廃せられたために、保は兄山田脩が本所割下水の家に同居した。
海保竹逕の妻、漁村の女がこの年十月二十五日に歿した。
抽斎歿後の第十四年は明治五年である。一月に保が山田脩の家から本所横網町の鈴木きよ方の二階へ徙った。鈴木は初め船宿であったが、主人が死んでから、未亡人きよが席貸をすることになった。きよは天保元年生で、この年四十三歳になっていた。当時善く保を遇したので、保は後年に至るまで音信を断たなかった。これより先保は弘前にある母を呼び迎えようとして、藩の当路者に諮ること数次であった。しかし津軽承昭の知事たる間は、西館らが前説を固守して許さなかった。前年廃藩の詔が出て、承昭は東京におることになり、県政もまた頗る革まったので、保はまた当路者に諮った。当路者は復五百の東京に入ることを阻止しようとはしなかった。唯保が一諸生を以て母を養わんとするのが怪むべきだといった。それゆえ保は矢島優に願書を作らせて呈した。県庁はこれを可とした。五百はようよう弘前から東京に来ることになった。
保が東京に遊学した後の五百が寂しい生活には、特に記すべき事はない。ただ前年廃藩前に、弘前俎林の山林地が渋江氏に割与せられたのみである。これは士分のものに授産の目的を以て割与した土地に剰余があったので、当路者が士分として扱われざる医者にも恩恵を施したのだそうである。この地面の授受は浅越玄隆が五百の委託によって処理した。
五百が弘前を去る時、村田広太郎の許から帰った水木を伴わなくてはならぬことは勿論であった。その外陸もまた夫矢川文一郎と倶に五百に附いて東京へ往くことになった。
文一郎は弘前を発する前に、津軽家の用達商人工藤忠五郎蕃寛の次男蕃徳を養子にして弘前に遺した。蕃寛には二子二女があった。長男可次は森甚平の士籍、また次男蕃徳は文一郎の士籍を譲り受けた。長女お連さんは蕃寛の後を継いで、現に弘前の下白銀町に矢川写真館を開いている。次女おみきさんは岩川氏友弥さんを壻に取って、本町一丁目角にエム矢川写真所を開いている。蕃徳は郵便技手になって、明治三十七年十月二十八日に歿し、養子文平さんがその後を襲いだ。
五百は五月二十日に東京に着いた。そして矢川文一郎、陸の夫妻並に村田氏から帰った水木の三人と倶に、本所横網町の鈴木方に行李を卸した。弘前からの同行者は武田代次郎というものであった。代次郎は勘定奉行武田準左衛門の孫である。準左衛門は天保四年十二月二十日に斬罪に処せられた。津軽信順の下で笠原近江が政を擅にした時の事である。
五百と保とは十六カ月を隔てて再会した。母は五十七歳、子は十六歳である。脩は割下水から、優は浦和から母に逢いに来た。
三人の子の中で、最も生計に余裕があったのは優である。優はこの年四月十二日に権少属になって、月給僅に二十五円である。これに当時の潤沢なる巡回旅費を加えても、なお七十円ばかりに過ぎない。しかしその意気は今の勅任官に匹敵していた。優の家には二人の食客があった。一人は妻蝶の弟大沢正である。今一人は生母徳の兄岡西玄亭の次男養玄である。玄亭の長男玄庵はかつて保の胞衣を服用したという癲癇病者で、維新後間もなく世を去った。次男がこの養玄で、当時氏名を更めて岡寛斎といっていた。優が登庁すると、その使役する給仕は故旧中田某の子敬三郎である。優が推薦した所の県吏には、十五等出仕松本甲子蔵がある。また敬三郎の父中田某、脩の親戚山田健三、かつて渋江氏の若党たりし中条勝次郎、川口に開業していた時の相識宮本半蔵がある。中田以下は皆月給十円の等外一等出仕である。その他今の清浦子が県下の小学教員となり、県庁の学務課員となるにも、優の推薦が与って力があったとかで、「矢島先生奎吾」と書した尺牘数通が遺っている。一時優の救援に藉って衣食するもの数十人の衆きに至ったそうである。
保は下宿屋住いの諸生、脩は廃藩と同時に横川邸の番人を罷められて、これも一戸を構えているというだけでやはり諸生であるのに、独り優が官吏であって、しかも此の如く応分の権勢をさえ有している。そこで優は母に勧めて、浦和の家に迎えようとした。
「保が卒業して渋江の家を立てるまで、せめて四、五年の間、わたくしの所に来ていて下さい」といったのである。
しかし五百は応ぜなかった。「わたしも年は寄ったが、幸に無病だから、浦和に往って楽をしなくても好い。それよりは学校に通う保の留守居でもしましょう」といったのである。
優はなお勧めて已まなかった。そこへ一粒金丹のやや大きい注文が来た。福山、久留米の二カ所から来たのである。金丹を調製することは、始終五百が自らこれに任じていたので、この度もまた直に調合に着手した。優は一旦浦和へ帰った。
八月十九日に優は再び浦和から出て来た。そして母に言うには、必ずしも浦和へ移らなくても好いから、とにかく見物がてら泊りに来てもらいたいというのであった。そこで二十日に五百は水木と保とを連れて浦和へ往った。
これより先保は高等師範学校に入ることを願って置いたが、その採用試験が二十二日から始まるので、独り先に東京に帰った。
保が師範学校に入ることを願ったのは、大学の業を卒うるに至るまでの資金を有せぬがためであった。師範学校はこの年始て設けられて、文部省は上等生に十円、下等生に八円を給した。保はこの給費を仰がんと欲したのである。
然るに此に一つの障礙があった。それは師範学校の生徒は二十歳以上に限られているのに、保はまだ十六歳だからである。そこで保は森枳園に相談した。
枳園はこの年二月に福山を去って諸国を漫遊し、五月に東京に来て湯島切通しの借家に住み、同じ月の二十七日に文部省十等出仕になった。時に年六十六である。
枳園はよほど保を愛していたものと見え、東京に入った第三日に横網町の下宿を訪うて、切通しの家へ来いといった。保が二、三日往かずにいると、枳園はまた来て、なぜ来ぬかと問うた。保が尋ねて行って見ると、切通しの家は店造で、店と次の間と台所とがあるのみで、枳園はその店先に机を据えて書を読んでいた。保が覚えず、「売卜者のようじゃありませんか」というと、枳園は面白げに笑った。それからは湯島と本所との間に、往来が絶えなかった。枳園はしばしば保を山下の雁鍋、駒形の川桝などに連れて往って、酒を被って世を罵った。
文部省は当時頗る多く名流を羅致していた。岡本況斎、榊原琴洲、前田元温等の諸家が皆九等乃至十等出仕を拝して月に四、五十円を給せられていたのである。
保が枳園を訪うて、師範生徒の年齢の事を言うと、枳園は笑って、「なに年の足りない位の事は、己がどうにか話を附けて遣る」といった。保は枳園に託して願書を呈した。
師範学校の採用試験は八月二十二日に始まって、三十日に終った。保は合格して九月五日に入学することになった。五百は入学の期日に先だって、浦和から帰って来た。
保の同級には今の末松子の外、加治義方、古渡資秀などがいた。加治は後に渡辺氏を冒し、小説家の群に投じ、『絵入自由新聞』に続物を出したことがある。作者名は花笠文京である。古渡は風采揚らず、挙止迂拙であったので、これと交るものは殆ど保一人のみであった。本常陸国の農家の子で、地方に初生児を窒息させて殺す陋習があったために、まさに害せられんとして僅に免れたのだそうである。東京に来て桑田衡平の家の学僕になっていて、それからこの学校に入った。齢は保より長ずること七、八歳であるのに、級の席次は迥に下にいた。しかし保はその人と為りの沈著なのを喜んで厚くこれを遇した。この人は卒業後に佐賀県師範学校に赴任し、暫くして罷め、慶応義塾の別科を修め、明治十二年に『新潟新聞』の主筆になって、一時東北政論家の間に重ぜられたが、その年八月十二日に虎列拉を病んで歿した。その後を襲いだのが尾崎愕堂さんだそうである。
この頃矢島優は暇を得るごとに、浦和から母の安否を問いに出て来た。そして土曜日には母を連れて浦和へ帰り、日曜日に車で送り還した。土曜日に自身で来られぬときは、迎の車をおこすのであった。
鈴木の女主人は次第に優に親んで、立派な、気さくな檀那だといって褒めた。当時の優は黒い鬚髯を蓄えていた。かつて黒田伯清隆に謁した時、座に少女があって、良久しく優の顔を見ていたが、「あの小父さんの顔は倒に附いています」といったそうである。鬢毛が薄くて髯が濃いので、少女は顋を頭と視たのである。優はこの容貌で洋服を著け、時計の金鎖を胸前に垂れていた。女主人が立派だといったはずである。
或土曜日に優が夕食頃に来たので、女主人が「浦和の檀那、御飯を差し上げましょうか」といった。
「いや。ありがたいがもう済まして来ましたよ。今浅草見附の所を遣って来ると、旨そうな茶飯餡掛を食べさせる店が出来ていました。そこに腰を掛けて、茶飯を二杯、餡掛を二杯食べました。どっちも五十文ずつで、丁度二百文でした。廉いじゃありませんか」と、優はいった。女主人が気さくだと称するのは、この調子を斥して言ったのである。
この年には弘前から東京に出て来るものが多かった。比良野貞固もその一人で、或日突然保が横網町の下宿に来て、「今著いた」といった。貞固は妻照と六歳になる女柳とを連れて来て、百本杙の側に繋がせた舟の中に遺して置いて、独り上陸したのである。さて差当り保と同居するつもりだといった。
保は即座に承引して、「御遠慮なく奥さんやお嬢さんをお連下さい、追附母も弘前から参るはずになっていますから」といった。しかし保は窃に心を苦めた。なぜというに、保は鈴木の女主人に月二両の下宿代を払う約束をしていながら、学資の方が足らぬがちなので、まだ一度も払わずにいた。そこへ遽に三人の客を迎えなくてはならなくなった。それが余の人ならば、宿料を取ることも出来よう。貞固は己が主人となっては、人に銭を使わせたことがないのである。保はどうしても四人前の費用を弁ぜなくてはならない。これが苦労の一つである。またこの界隈ではまだ糸鬢奴のお留守居を見識っている人が多い。それを横網町の下宿に舎らせるのが気の毒でならない。これが保の苦労の二つである。
保はこれを忍んで数カ月間三人を待した。そして殆ど日々貞固を横山町の尾張屋に連れて往って馳走した。貞固は養子房之助の弘前から来るまで、保の下宿にいて、房之助が著いた時、一しょに本所緑町に家を借りて移った。丁度保が母親を故郷から迎える頃の事である。
矢川文内もこの年に東京に来た。浅越玄隆も来た。矢川は質店を開いたが成功しなかった。浅越は名を隆と更めて、あるいは東京府の吏となり、あるいは本所区役所の書記となり、あるいは本所銀行の事務員となりなどした。浅越の子は四人あった。江戸生の長女ふくは中沢彦吾の弟彦七の妻になり、男子二人の中、兄は洋画家となり、弟は電信技手となった。
五百と一しょに東京に来た陸が、夫矢川文一郎の名を以て、本所緑町に砂糖店を開いたのもこの年の事である。長尾の女敬の夫三河屋力蔵の開いていた猿若町の引手茶屋は、この年十月に新富町に徙った。守田勘弥の守田座が二月に府庁の許可を得て、十月に開演することになったからである。
この年六月に海保竹逕が歿した。文政七年生であるから、四十九歳を以て終ったのである。前年来復弁之助と称せずして、名の元起を以て行われていた。竹逕の歿した時、家に遺ったのは養父漁村の妾某氏と竹逕の子女各一人とである。嗣子繁松は文久二年生で、家を継いだ時七歳になっていた。竹逕が歿してからは、保は島田篁村を漢学の師と仰いだ。天保九年に生れた篁村は三十五歳になっていたのである。
抽斎歿彼の第十五年は明治六年である。二月十日に渋江氏は当時の第六大区六小区本所相生町四丁目に居した。五百が五十八歳、保が十七歳の時である。家族は初め母子の外に水木がいたばかりであるが、後には山田脩が来て同居した。脩はこの頃喘息に悩んでいたので、割下水の家を畳んで、母の世話になりに来たのである。
五百は東京に来てから早く一戸を構えたいと思っていたが、現金の貯は殆ど尽きていたので、奈何ともすることが出来なかった。既にして保が師範学校から月額十円の支給を受けることになり、五百は世話をするものがあって、不本意ながらも芸者屋のために裁縫をして、多少の賃銀を得ることになった。相生町の家は此に至って始て借りられたのである。
保は前年来本所相生町の家から師範学校に通っていたが、この年五月九日に学校長が生徒一同に寄宿を命じた。これは工事中であった寄宿舎が落成したためである。しかもこの命令には期限が附してあって、来六月六日に必ず舎内に徙れということであった。
然るに保は入舎を欲せないので、「母病気に付当分の内通学御許可相成度」云々という願書を呈して、旧に依って本所から通っていた。母の病気というのは虚言ではなかった。五百は当時眼病に罹って苦んでいた。しかし保は単に五百の目疾の故を以て入舎の期を延ばしたのではない。
保は師範学校の授くる所の学術が、自己の攻めんと欲する所のものと相反しているのを見て、窃に退学を企てていた。それゆえ舎外生から舎内生に転じて、学校と自己との関係の一段の緊密を加うることを嫌うのであった。
学校は米人スコットというものを雇い来って、小学の教授法を生徒に伝えさせた。主として練習させるのは子母韻の発声である。発声の正しいものは上席におらせる。訛っているものは下席におらせる。それゆえ東京人、中国人などは材能がなくても重んぜられ、九州人、東北人などは材能があっても軽んぜられる。生徒は多く不平に堪えなかった。中にも東京人某は、己が上位に置かれているにもかかわらず、「この教授法では延寿太夫が最優等生になる」と罵った。
保は英語を操い英文を読むことを志しているのに、学校の現状を見れば、所望にう科目は絶てなかった。また縦い未来において英文の科が設けられるにしても、共に入学した五十四人の過半は純乎たる漢学諸生だから、スペルリングや第一リイダアから始められなくてはならない。保はこれらの人々と歩調を同じうして行くのを堪えがたく思った。
保はどうにかして退学したいと思った。退学してどうするかというと、相識のフルベックに請うて食客にしてもらっても好い。また誰かのボオイになって海外へ連れて行ってもらっても好い。モオレエ夫婦などの如く、現に自分を愛しているものもある。頼みさえしたら、ボオイに使ってくれぬこともあるまい。こんな夢を保は見ていた。
保は此の如くに思惟して、校長、教師に敬意を表せず、校則、課業を遵奉することをも怠り、早晩退学処分の我頭上に落ち来らんことを期していた。校長諸葛信澄の家に刺を通ぜない。その家が何町にあるかをだに知らずにいる。教師に遅れて教場に入る。数学を除く外、一切の科目を温習せずに、ただ英文のみを読んでいる。
入舎の命令をばこの状況の下に接受した。そして保はこう思った。もし入舎せずにいたら、必ず退学処分が降るだろう。そうなったら、再び頂天立地の自由の身となって、随意に英学を研究しよう。勿論折角贏ち得た官費は絶えてしまう。しかし書肆万巻楼の主人が相識で、翻訳書を出してくれようといっている。早速翻訳に着手しようというのである。万巻楼の主人は大伝馬町の袋屋亀次郎で、これより先保の初て訳したカッケンボスの『米国史』を引き受けて、前年これを発行したことがある。
保はこの計画を母に語って同意を得た。しかし矢島優と比良野貞固とが反対した。その主なる理由は、もし退学処分を受けて、氏名を文部省雑誌に載せられたら、拭うべからざる汚点を履歴の上に印するだろうというにあった。
十月十九日に保は隠忍して師範学校の寄宿舎に入った。
矢島優はこの年八月二十七日に少属に陞ったが、次で十二月二十七日には同官等を以て工部省に転じ、鉱山に関する事務を取り扱うことになり、芝琴平町に来り住した。優の家にいた岡寛斎も、優に推挙せられて工部省の雇員になった。寛斎は後明治十七年十月十九日に歿した。天保十年生であるから、四十六歳を以て終ったのである。寛斎は生れて姿貌があったが、痘を病んで容を毀られた。医学館に学び、また抽斎、枳園の門下におった。寛斎は枳園が寿蔵碑の後に書して、「余少時曾在先生之門、能知其為人、且学之広博、因窃録先生之言行及字学医学之諸説、別為小冊子」といっている。わたくしはその書の存否を審にしない。寛斎は初め伊沢氏かえの生んだ池田全安の女梅を娶ったが、後これを離別して、陸奥国磐城平の城主安藤家の臣後藤氏の女いつを後妻に納れた。いつは二子を生んだ。長男俊太郎さんは、今本郷西片町に住んで、陸軍省人事局補任課に奉職している。次男篤次郎さんは風間氏を冒して、小石川宮下町に住んでいる。篤次郎さんは海軍機関大佐である。
陸はこの年矢川文一郎と分離して、砂糖店を閉じた。生計意の如くならざるがためであっただろう。文一郎が三十三歳、陸が二十七歳の時である。
次で陸は本所亀沢町に看板を懸けて杵屋勝久と称し、長唄の師匠をすることになった。
矢島周禎の一族もまたこの年に東京に遷った。周禎は霊岸島に住んで医を業とし、優の前妻鉄は本所相生町二つ目橋通に玩具店を開いた。周禎は素眼科なので、五百は目の治療をこの人に頼んだ。
或日周禎は嗣子周策を連れて渋江氏を訪い、束脩を納めて周策を保の門人とせんことを請うた。周策は已に二十九歳、保は僅に十七歳である。保はその意を解せなかったが、これを問えば周策をして師範学校に入らしむる準備をなさんがためであった。保は喜び諾して、周策をして試験諸科を温習せしめかつこれに漢文を授けた。周策は後生徒の第二次募集に応じて合格し、明治十年に卒業して山梨県に赴任したが、幾もなく精神病に罹って罷められた。
緑町の比良野氏では房之助が、実父稲葉一夢斎と共に骨董店を開いた。一夢斎は丹下が老後の名である。貞固は月に数度浅草黒船町正覚寺の先塋に詣でて、帰途には必ず渋江氏を訪い、五百と昔を談じた。
抽斎歿後の第十六年は明治七年である。五百の眼病が荏苒として治せぬので、矢島周禎の外に安藤某を延いて療せしめ、数月にして治することを得た。
水木はこの年深川佐賀町の洋品商兵庫屋藤次郎に再嫁した。二十二歳の時である。
妙了尼はこの年九十四歳を以て韮山に歿した。
渋江氏ではこの年感応寺において抽斎のために法要を営んだ。五百、保、矢島優、陸、水木、比良野貞固、飯田良政らが来会した。
渋江氏の秩禄公債証書はこの年に交付せられたが、削減を経た禄を一石九十五銭の割を以て換算した金高は、固より言うに足らぬ小額であった。
抽斎歿後の第十七年は明治八年である。一月二十九日に保は十九歳で師範学校の業を卒え、二月六日に文部省の命を受けて浜松県に赴くこととなり、母を奉じて東京を発した。
五百、保の母子が立った後、山田脩は亀沢町の陸の許に移った。水木はなお深川佐賀町にいた。矢島優はこの頃家を畳んで三池に出張していた。
保は母五百を奉じて浜松に著いて、初め暫くのほどは旅店にいた。次で母子の下宿料月額六円を払って、下垂町の郷宿山田屋和三郎方にいることになった。郷宿とは藩政時代に訴訟などのために村民が城下に出た時舎る家をいうのである。また諸国を遊歴する書画家等の滞留するものも、大抵この郷宿にいた。山田屋は大きい家で、庭に肉桂の大木がある。今もなお儼存しているそうである。
山田屋の向いに山喜という居酒屋がある。保は山田屋に移った初に、山喜の店に大皿に蒲焼の盛ってあるのを見て五百に「あれを買って見ましょうか」といった。
「贅沢をお言いでない。鰻はこの土地でも高かろう」といって、五百は止めようとした。
「まあ、聞いて見ましょう」といって、保は出て行った。価を問えば、一銭に五串であった。当時浜松辺で暮しの立ちやすかったことは、これに由って想見することが出来る。
保は初め文部省の辞令を持って県庁に往った。浜松県の官吏は過半旧幕人で、薩長政府の文部省に対する反感があって、学務課長大江孝文の如きも、頗る保を冷遇した。しかし良久しく話しているうちに、保が津軽人だと聞いて、少しく面を和げた。大江の母は津軽家の用人栂野求馬の妹であった。後大江は県令林厚徳に稟して、師範学校を設けることにして、保を教頭に任用した。学校の落成したのは六月である。
数月の後、保は高町の坂下、紺屋町西端の雑貨商江州屋速見平吉の離座敷を借りて遷った。この江州屋も今なお存しているそうである。
矢島優はこの年十月十八日に工部少属を罷めて、新聞記者になり、『魁新聞』、『真砂新聞』等のために、主として演劇欄に筆を執った。『魁新聞』には山田脩が倶に入社し、『真砂新聞』には森枳園が共に加盟した。枳園は文部省の官吏として、医学校、工学寮等に通勤しつつ、旁ら新聞社に寄稿したのである。
抽斎歿後の第十八年は明治九年である。十月十日に浜松師範学校が静岡師範学校浜松支部と改称せられた。これより先八月二十一日に浜松県を廃して静岡県に併せられたのである。しかし保の職は故の如くであった。
この年四月に保は五百の還暦の賀延を催して県令以下の祝を受けた。
五百の姉長尾氏安はこの年新富座附の茶屋三河屋で歿した。年は六十二であった。この茶屋の株は後敬の夫力蔵が死ぬるに及んで、他人の手に渡った。
比良野貞固もまたこの年本所緑町の家で歿した。文化九年生であるから、六十五歳を以て終ったのである。その後を襲いだ房之助さんは現に緑町一丁目に住んでいる。
小野富穀もまたこの年七月十七日に歿した。年は七十であった。子道悦が家督相続をした。
多紀安琢もまたこの年一月四日に五十三歳で歿した。名は元、号は雲従であった。その後を襲いだのが上総国夷隅郡総元村に現存している次男晴之助さんである。
喜多村栲窓もまたこの年十一月九日に歿した。栲窓は抽斎の歿した頃奥医師を罷めて大塚村に住んでいたが、明治七年十二月に卒中し、右半身不随になり、此にって終った。享年七十三である。
抽斎歿後の第十九年は明治十年である。保は浜松表早馬町四十番地に一戸を構え、後また幾ならずして元城内五十七番地に移った。浜松城は本井上河内守正直の城である。明治元年に徳川家が新にこの地に封ぜられたので、正直は翌年上総国市原郡鶴舞に徙った。城内の家屋は皆井上家時代の重臣の第宅で、大手の左右に列っていた。保はその一つに母をおらせることが出来たのである。
この年七月四日に保の奉職している静岡師範学校浜松支部は変則中学校と改称せられた。
兼松石居はこの年十二月十二日に歿した。年六十八である。絶筆の五絶と和歌とがある。「今日吾知免。亦将騎鶴遊。上帝賚殊命。使爾永相休。」「年浪のたち騒ぎつる世をうみの岸を離れて舟漕ぎ出でむ。」石居は酒井石見守忠方の家来屋代某の女を娶って、三子二女を生ませた。長子艮、字は止所が家を嗣いだ。号は厚朴軒である。艮の子成器は陸軍砲兵大尉である。成器さんは下総国市川町に住んでいて、厚朴軒さんもその家にいる。
抽斎歿後の第二十年は明治十一年である。一月二十五日津軽承昭は藩士の伝記を編輯せしめんがために、下沢保躬をして渋江氏について抽斎の行状を徴さしめた。保は直ちに録呈した。いわゆる伝記は今存ずる所の『津軽藩旧記伝類』ではあるまいか。わたくしはいまだその書を見ざるが故に、抽斎の行状が采択せられしや否やを審にしない。
保の奉職している浜松変則中学枚はこの年二月二十三日に中学校と改称せられた。
山田脩はこの年九月二日に、母五百に招致せられて浜松に来た。これより先五百は脩の喘息を気遣っていたが、脩が矢島優と共に『魁新聞』の記者となるに及んで、その保に寄する書に卯飲の語あるを見て、大いにその健康を害せんを惧れ、急に命じて浜松に来らしめた。しかし五百は独り脩の身体のためにのみ憂えたのではない。その新聞記者の悪徳に化せられんことをも慮ったのである。
この年四月に岡本況斎が八十二歳で歿した。
抽斎歿後の第二十一年は明治十二年である。十月十五日保は学問修行のため職を辞し、二十八日に聴許せられた。これは慶応義塾に入って英語を学ばんがためである。
これより先保は深く英語を窮めんと欲して、いまだその志を遂げずにいた。師範学校に入ったのも、その業を卒えて教員となったのも、皆学資給せざるがために、やむことをえずして為したのである。既にして保は慶応義塾の学風を仄聞し、頗る福沢諭吉に傾倒した。明治九年に国学者阿波の人某が、福沢の著す所の『学問のすゝめ』を駁して、書中の「日本は爾たる小国である」の句を以て祖国を辱むるものとなすを見るに及んで、福沢に代って一文を草し、『民間雑誌』に投じた。『民間雑誌』は福沢の経営する所の日刊新聞で、今の『時事新報』の前身である。福沢は保の文を采録し、手書して保に謝した。保はこれより福沢に識られて、これに適従せんと欲する念がいよいよ切になったのである。
保は職を辞する前に、山田脩をして居宅を索めしめた。脩は九月二十八日に先ず浜松を発して東京に至り、芝区松本町十二番地の家を借りて、母と弟とを迎えた。
五百、保の母子は十月三十一日に浜松を発し、十一月三日に松本町の家に著いた。この時保と脩とは再び東京にあって母の膝下に侍することを得たが、独り矢島優のみは母の到著するを待つことが出来ずに北海道へ旅立った。十月八日に開拓使御用掛を拝命して、札幌に在勤することとなったからである。
陸は母と保との浜松へ往った後も、亀沢町の家で長唄の師匠をしていた。この家には兵庫屋から帰った水木が同居していた。勝久は水木の夫であった畑中藤次郎を頼もしくないと見定めて、まだ脩が浜松に往かぬ先に相談して、水木を手元へ連れ戻したのである。
保らは浜松から東京に来た時、二人の同行者があった。一人は山田要蔵、一人は中西常武である。
山田は遠江国敷智郡都築の人である。父を喜平といって、畳問屋である。その三男要蔵は元治元年生の青年で、渋江の家から浜松中学校に通い、卒業して東京に来たのである。時に年十六であった。中西は伊勢国度会郡山田岩淵町の人中西用亮の弟である。愛知師範学校に学んで卒業し、浜松中学校の教員になっていた。これは職を罷めて東京に来た時二十七、八歳であった。山田も中西も、保と同じく慶応義塾に入らんと欲して、共に入京したのである。
保は東京に著いた翌日、十一月四日に慶応義塾に往って、本科第三等に編入せられた。
同行者の山田は、保と同じく本科に、中西は別科に入った。後山田は明治十四年に優等を以て卒業して、一時義塾の教員となり、既にして伊東氏を冒し、衆議院議員に選ばれ、今は某銀行、某会社の重役をしている。中西は別科を修めた後に郷に帰った。
保は慶応義塾の生徒となってから三日目に、万来舎において福沢諭吉を見た。万来舎は義塾に附属したクラブ様のもので、福沢は毎日午後に来て文明論を講じていた。保が名を告げた時、福沢は昔年の事を語り出でてこれを善遇した。
当時慶応義塾は年を三期に分ち、一月から四月までを第一期といい、五月から七月までを第二期といい、九月から十二月までを第三期といった。保がこの年第三期に編入せられた第三等はなお第三級といわんがごとくである。月の末には小試験があり、期の終にはまた大試験があった。
森枳園はこの年十二月一日に大蔵省印刷局の編修になった。身分は准判任御用掛で、月給四十円であった。局長得能良介は初め八十円を給せようといったが、枳園は辞していった。多く給せられて早く罷められんよりは、少く給せられて久しく勤めたい。四十円で十分だといった。局長はこれに従って、特に耆宿として枳園を優遇し、土蔵の内に畳を敷いて事務を執らせた。この土蔵の鍵は枳園が自ら保管していて、自由にこれに出入した。寿蔵碑に「日々入局、不知老之将至、殆為金馬門之想云」と記してある。
抽斎歿後の第二十二年は明治十三年である。保は四月に第二等に進み、七月に破格を以て第一等に進み、遂に十二月に全科の業を終えた。下等の同学生には渡辺修、平賀敏があり、また同じ青森県人に芹川得一、工藤儀助があった。上等の同学生には犬養毅さんの外、矢田績、安場男爵があり、また同県人に坂井次永、神尾金弥があった。後の二人は旧会津藩士である。
万来舎では今の金子子爵、その他相馬永胤、目賀田男爵、鳩山和夫等が法律を講ずるので、保も聴いた。
山田脩はこの年電信学校に入って、松本町の家から通った。陸の勝久が長唄を人に教うる旁、音楽取調所の生徒となったのもまたこの年である。音楽取調所は当時創立せられたもので、後の東京音楽学校の萌芽である。この頃水木は勝久の許を去って母の家に来た。
この年また藤村義苗さんが浜松から来て渋江氏に寓した。藤村は旧幕臣で、浜松中学校の業を卒え、遠江国中泉で小学校訓導をしていたが、外国語学校で露語生徒の入学を許し、官費を給すると聞いて、その試験を受けに来たのである。藤村は幸に合格したが、後に露語科が廃せられてから、東京高等商業学校に入ってその業を卒え、現に某々会社の重役になっている。
松本町の家には五百、保、水木の三人がいて、諸生には山田要蔵とこの藤村とが置いてあったのである。
抽斎歿後の第二十三年は明治十四年である。当時慶応義塾の卒業生は世人の争って聘せんと欲する所で、その世話をする人は主に小幡篤次郎であった。保はなお進んで英語を窮めたい志を有していたが、浜松にあった日に衣食を節して貯えた金がまたきたので、遂に給を俸銭に仰がざることを得なくなった。
この年もまた卒業生の決口は頗る多かった。保の如きも第一に『三重日報』の主筆に擬せられて、これを辞した。これは藤田茂吉に三重県庁が金を出していることを聞いたからである。第二に広島某新聞の主筆は、保が初めその任に当ろうとしていたが、次で出来た学校の地位に心を傾けたために、半途にして交渉を絶った。
学校の地位というのは、愛知中学校長である。招聘の事は阿部泰蔵と会談して定まり、保は八月三日に母と水木とを伴って東京を発した。諸生山田要蔵はこの時慶応義塾に寄宿した。
保は三河国宝飯郡国府町に著いて、長泉寺の隠居所を借りて住んだ。そして九月三十日に愛知県中学校長に任ずという辞令を受けた。
保が学校に往って見ると、二つの急を要する問題が前に横わっていた。教則を作ることと罰則を作ることとである。教則は案を具して文部省に呈し、その認可を受けなくてはならない。罰則は学校長が自ら作り自ら施すことを得るのである。教則の案は直ちに作って呈し、罰則は不文律となして、生徒に自力の徳教を誨えた。教則は文部省が輒く認可せぬので、往復数十回を累ね、とうとう保の在職中には制定せられずにしまった。罰則は果して必要でなかった。一人の※違者[#「言+圭」、U+8A7F、295-5]をも出さなかったからである。
長泉寺の隠居所は次第に賑しくなった。初め保は母と水木との二人の家族があったのみで、寂しい家庭をなしていたが、寄寓を請う諸生を、一人容れ、二人容れて、幾もあらぬに六人の多きに達した。八田郁太郎、稲垣親康、島田寿一、大矢尋三郎、菅沼岩蔵、溝部惟幾の人々である。中にも八田は後に海軍少将に至った。菅沼は諸方の中学校に奉職して、今は浜松にいる。最も奇とすべきは溝部で、或日偶然来て泊り込み、それなりに淹留した。夏日袷に袷羽織を著て恬として恥じず、また苦熱の態をも見せない。人皆その長門の人なるを知っているが、かつて自ら年歯を語ったことがないので、その幾歳なるかを知るものがない。打ち見る所は保と同年位であった。溝部は後農商務省の雇員となり、地方官に転じ、栃木県知事に至った。
当時保は一人の友を得た。武田氏名は準平で、保が国府の学校に聘せられた時、中に立って斡旋した阿部泰蔵の兄である。準平は国府に住んで医を業としていたが、医家を以て著れずに、かえって政客を以て聞えていた。
準平はこれより先愛知県会の議長となったことがある。某年に県会が畢って、県吏と議員とが懇親の宴を開いた。準平は平素県令国貞廉平の施設に慊なかったが、宴闌なる時、国貞の前に進んで杯を献じ、さて「おは」と呼びつつ、国貞に背いて立ち、衣を搴げて尻を露したそうである。
保は国府に来てから、この準平と相識になった。既にして準平が兄弟になろうと勧めた。保は謙って父子になる方が適当であろうといった。遂に父子と称して杯を交した。準平は四十四歳、保は二十五歳の時である。
この時東京には政党が争い起った。改進党が成り、自由党が成り、また帝政党が成って、新聞紙は早晩これらの結党式の挙行せらるべきことを伝えた。準平と保とは国府にあってこういった。「東京の政界は華々しい。我ら田舎に住んでいるものは、淵に臨んで魚を羨むの情に堪えない。しかし大なるものは成るに難く、小なるものは成るに易い。我らも甲らに似せて穴を掘り、一の小政社を結んで、東京の諸先輩に先んじて式を挙げようではないか」といった。この政社の雛形は進取社と名づけられて、保は社長、準平は副社長であった。
抽斎歿後の第二十四年は明治十五年である。一月二日に保の友武田準平が刺客に殺された。準平の家には母と妻と女一人とがいた。女の壻秀三は東京帝国大学医科大学の別科生になっていて、家にいなかった。常は諸生がおり、僕がおったが、皆新年に暇を乞うて帰った。この日家人が寝に就いた後、浴室から火が起った。唯一人暇を取らずにいた女中が驚き醒めて、烟の厨を罩むるを見、引窓を開きつつ人を呼んだ。浴室は庖厨の外に接していたのである。準平は女中の声を聞いて、「なんだ、なんだ」といいつつ、手に行燈を提げて厨に出て来た。この時一人の引廻がっぱを被た男が暗中より起って、準平に近づいた。準平は行燈を措いて奥に入った。引廻の男は尾いて入った。準平は奥の廊下から、雨戸を蹴脱して庭に出た。引廻の男はまた尾いて出た。準平は身に十四カ所の創を負って、庭の檜の下に殪れた。檜は老木であったが、前年の暮、十二月二十八日の夜、風のないに折れた。準平はそれを見て、新年を過してから薪に挽かせようといっていたのである。家人は檜が讖をなしたなどといった。引廻の男は誰であったか、また何故に準平を殺したか、終に知ることが出来なかった。
保は報を得て、馳せて武田の家に往った。警察署長佐藤某がいる。郡長竹本元※[#「にんべん+暴」、U+5124、298-2]がいる。巡査数人がいる。佐藤はこういうのである。「武田さんは進取社の事のために殺されなすったかと思われます。渋江さんも御用心なさるが好い。当分の内巡査を二人だけ附けて上げましょう」というのである。
保は彼の小結社の故を以て、刺客が手を動したものとは信ぜなかった。しかし暫くは人の勧に従って巡査の護衛を受けていた。五百は例の懐剣を放さずに持っていて、保にも弾を填めた拳銃を備えさせた。進取社は準平が死んでから、何の活動をもなさずに分散した。
保は『横浜毎日新聞』の寄書家になった。『毎日』は島田三郎さんが主筆で、『東京日々新聞』の福地桜痴と論争していたので、保は島田を助けて戦った。主なる論題は主権論、普通選挙論等であった。
普通選挙論では外山正一が福地に応援して、「毎日記者は盲目蛇におじざるものだ」といった。これは島田のベンサムを普通選挙論者となしたるは無学のためで、ベンサムは実は制限選挙論者だというのであった。そこで保はベンサムの憲法論について、普通選挙を可とする章句を鈔出し、「外山先生は盲目蛇におじざるものだ」という鸚鵡返の報復をした。
これらの論戦の後、保は島田三郎、沼間守一、肥塚龍らに識られた。後に横浜毎日社員になったのは、この縁故があったからである。
保は十二月九日学校の休暇を以て東京に入った。実は国府を去らんとする意があったのである。
この年矢島優は札幌にあって、九月十五日に渋江氏に復籍した。十月二十三日にその妻蝶が歿した。年三十四であった。
山田脩はこの年一月工部技手に任ぜられ、日本橋電信局、東京府庁電信局等に勤務した。
抽斎歿後の第二十五年は明治十六年である。保は前年の暮に東京に入って、仮に芝田町一丁目十二番地に住んだ。そして一面愛知県庁に辞表を呈し、一面府下に職業を求めた。保は先ず職業を得て、次で免罷の報に接した。一月十一日には攻玉社の教師となり、二十五日には慶応義塾の教師となって、午前に慶応義塾に往き、午後に攻玉社に往くことにした。攻玉社は社長が近藤真琴、幹事が藤田潜で、生徒中には後に海軍少将に至った秀島某、海軍大佐に至った笠間直等があった。慶応義塾は社頭が福沢諭吉、副社頭が小幡篤次郎、校長が浜野定四郎で、教師中に門野幾之進、鎌田栄吉等があり、生徒中に池辺吉太郎、門野重九郎、和田豊治、日比翁助、伊吹雷太等があった。愛知県中学校長を免ずる辞令は二月十四日を以て発せられた。保は芝烏森町一番地に家を借りて、四月五日に国府から還った母と水木とを迎えた。
勝久は相生町の家で長唄を教えていて、山田脩はその家から府庁電信局に通勤していた。そこへ優が開拓使の職を辞して札幌から帰ったのが八月十日である。優は無妻になっているので、勝久に説いて師匠を罷めさせ、専ら家政を掌らせた。
八月中の事であった。保は客を避けて『横浜毎日新聞』に寄する文を草せんがために、一週日ほどの間柳島の帆足謙三というものの家に起臥していた。烏森町の家には水木を遺して母に侍せしめ、かつ優、脩、勝久の三人をして交る交るその安否を問わしめた。然るに或夜水木が帆足の家に来て、母が病気と見えて何も食わなくなったと告げた。
保が家に帰って見ると、五百は床を敷かせて寝ていた。「只今帰りました」と、保はいった。
「お帰かえ」といって、五百は微笑した。
「おっ母様、あなたは何も上らないそうですね。わたくしは暑くてたまりませんから、氷を食べます。」
「そんならついでにわたしのも取っておくれ。」五百は氷を食べた。
翌朝保が「わたくしは今朝は生卵にします」といった。
「そうかい、そんならわたしも食べて見よう。」五百は生卵を食べた。
午になって保はいった。「きょうは久しぶりで、洗いに水貝を取って、少し酒を飲んで、それから飯にします。」
「そんならわたしも少し飲もう。」五百は洗いで酒を飲んだ。その時はもう平日の如く起きて坐っていた。
晩になって保はいった。「どうも夕方になってこんなに風がちっともなくては凌ぎ切れません。これから汐湯に這入って、湖月に寄って涼んで来ます。」
「そんならわたしも往くよ。」五百は遂に汐湯に入って、湖月で飲食した。
五百は保が久しく帰らぬがために物を食わなくなったのである。五百は女子中では棠を愛し、男子中では保を愛した。さきに弘前に留守をしていて、保を東京に遣ったのは、意を決した上の事である。それゆえ能く年余の久しきに堪えた。これに反して帰るべくして帰らざる保を日ごとに待つことは、五百の難んずる所であった。この時五百は六十八歳、保は二十七歳であった。
この年十二月二日に優が本所相生町の家に歿した。優は職を罷める時から心臓に故障があって、東京に還って清川玄道の治療を受けていたが、屋内に静坐していれば別に苦悩もなかった。歿する日には朝から物を書いていて、午頃「ああ草臥れた」といって仰臥したが、それきり起たなかった。岡西氏徳の生んだ、抽斎の次男は此の如くにして世を去ったのである。優は四十九歳になっていた。子はない。遺骸は感応寺に葬られた。
優は蕩子であった。しかし後に身を吏籍に置いてからは、微官におったにもかかわらず、頗る材能を見した。優は情誼に厚かった。親戚朋友のその恩恵を被ったことは甚だ多い。優は筆札を善くした。その書には小島成斎の風があった。その他演劇の事はこの人の最も精通する所であった。新聞紙の劇評の如きは、森枳園と優とを開拓者の中に算すべきであろう。大正五年に珍書刊行会で公にした『劇界珍話』は飛蝶の名が署してあるが、優の未定稿である。
抽斎歿後の第二十六年は明治十七年である。二月十四日に五百が烏森の家に歿した。年六十九であった。
五百は平生病むことが少かった。抽斎歿後に一たび眼病に罹り、時々疝痛を患えた位のものである。特に明治九年還暦の後は、殆ど無病の人となっていた。然るに前年の八月中、保が家に帰らぬを患えて絶食した頃から、やや心身違和の徴があった。保らはこれがために憂慮した。さて新年に入って見ると、五百の健康状態は好くなった。保は二月九日の夜母が天麩羅蕎麦を食べて炬燵に当り、史を談じて更の闌なるに至ったことを記憶している。また翌十日にも午食に蕎麦を食べたことを記憶している。午後三時頃五百は煙草を買いに出た。二、三年前からは子らの諌を納れて、単身戸外に出ぬことにしていたが、当時の家から煙草店へ往く道は、烏森神社の境内であって車も通らぬゆえ、煙草を買いにだけは単身で往った。保は自分の部屋で書を読んで、これを知らずにいた。暫くして五百は烟草を買って帰って、保の背後に立って話をし出した。保はかつ読みかつ答えた。初てドイツ語を学ぶ頃で、読んでいる書はシェッフェルの文典であった。保は母の気息の促迫しているのに気が附いて、「おっ母様、大そうせかせかしますね」といった。
「ああ年のせいだろう、少し歩くと息が切れるのだよ。」五百はこういったが、やはり話を罷めずにいた。
少し立って五百は突然黙った。
「おっ母様、どうかなすったのですか。」保はこういって背後を顧みた。
五百は火鉢の前に坐って、やや首を傾けていたが、保はその姿勢の常に異なるのに気が附いて、急に起って傍に往き顔を覗いた。
五百の目は直視し、口角からは涎が流れていた。
保は「おっ母様、おっ母様」と呼んだ。
五百は「ああ」と一声答えたが、人事を省せざるものの如くであった。
保は床を敷いて母を寝させ、自ら医師の許へ走った。
渋江氏の住んでいた烏森の家からは、存生堂という松山棟庵の出張所が最も近かった。出張所には片倉某という医師が住んでいた。保は存生堂に駆け附けて、片倉を連れて家に帰った。存生堂からは松山の出張をも請いに遣った。
片倉が一応の手当をした所へ、松山が来た。松山は一診していった。「これは脳卒中で右半身不随になっています。出血の部位が重要部で、その血量も多いから、回復の望はありません」といった。
しかし保はその言を信じたくなかった。一時空を視ていた母が今は人の面に注目する。人が去れば目送する。枕辺に置いてあるハンカチイフを左手に把って畳む。保が傍に寄るごとに、左手で保の胸を撫でさえした。
保は更に印東玄得をも呼んで見せた。しかし所見は松山と同じで、この上手当のしようはないといった。
五百は遂に十四日の午前七時に絶息した。
五百の晩年の生活は日々印刷したように同じであった。祁寒の時を除く外は、朝五時に起きて掃除をし、手水を使い、仏壇を拝し、六時に朝食をする。次で新聞を読み、暫く読書する。それから午餐の支度をして、正午に午餐する。午後には裁縫し、四時に至って女中を連れて家を出る。散歩がてら買物をするのである。魚菜をも大抵この時買う。夕餉は七時である。これを終れば、日記を附ける。次でまた読書する。倦めば保を呼んで棋を囲みなどすることもある。寝に就くのは十時である。
隔日に入浴し、毎月曜日に髪を洗った。寺には毎月一度詣で、親と夫との忌日には別に詣でた。会計は抽斎の世にあった時から自らこれに当っていて、死にるまで廃せなかった。そしてその節倹の用意には驚くべきものがあった。
五百の晩年に読んだ書には、新刊の歴史地理の類が多かった。『兵要日本地理小志』はその文が簡潔で好いといって、傍に置いていた。
奇とすべきは、五百が六十歳を踰えてから英文を読みはじめた事である。五百は頗る早く西洋の学術に注意した。その時期を考うるに、抽斎が安積艮斎の書を読んで西洋の事を知ったよりも早かった。五百はまだ里方にいた時、或日兄栄次郎が鮓久に奇な事を言うのを聞いた。「人間は夜逆さになっている」云々といったのである。五百は怪んで、鮓久が去った後に兄に問うて、始て地動説の講釈を聞いた。その後兄の机の上に『気海観瀾』と『地理全志』とのあるのを見て、取って読んだ。
抽斎に嫁した後、或日抽斎が「どうも天井に蝿が糞をして困る」といった。五百はこれを聞いていった。「でも人間も夜は蝿が天井に止まったようになっているのだと申しますね」といった。抽斎は妻が地動説を知っているのに驚いたそうである。
五百は漢訳和訳の洋説を読んで慊ぬので、とうとう保にスペルリングを教えてもらい、ほどなくウィルソンの読本に移り、一年ばかり立つうちに、パアレエの『万国史』、カッケンボスの『米国史』、ホオセット夫人の『経済論』等をぽつぽつ読むようになった。
五百の抽斎に嫁した時、婚を求めたのは抽斎であるが、この間に或秘密が包蔵せられていたそうである。それは抽斎をして婚を求むるに至らしめたのは、阿部家の医師石川貞白が勧めたので、石川貞白をして勧めしめたのは、五百自己であったというのである。
石川貞白は初の名を磯野勝五郎といった。何時の事であったか、阿部家の武具係を勤めていた勝五郎の父は、同僚が主家の具足を質に入れたために、永の暇になった。その時勝五郎は兼て医術を伊沢榛軒に学んでいたので、直に氏名を改めて剃髪し、医業を以て身を立てた。
貞白は渋江氏にも山内氏にも往来して、抽斎を識り五百を識っていた。弘化元年には五百の兄栄次郎が吉原の娼妓浜照の許に通って、遂にこれを娶るに至った。その時貞白は浜照が身受の相談相手となり、その仮親となることをさえ諾したのである。当時兄の措置を喜ばなかった五百が、平生青眼を以て貞白を見なかったことは、想像するに余がある。
或日五百は使を遣って貞白を招いた。貞白はおそるおそる日野屋の閾を跨いだ。兄の非行を幇けているので、妹に譴められはせぬかと懼れたのである。
然るに貞白を迎えた五百にはいつもの元気がなかった。「貞白さん、きょうはお頼申したい事があって、あなたをお招いたしました」という、態度が例になく慇懃であった。
何事かと問えば、渋江さんの奥さんの亡くなった跡へ、自分を世話をしてはくれまいかという。貞白は事の意表に出でたのに驚いた。
これより先日野屋では五百に壻を取ろうという議があって、貞白はこれを与り知っていた。壻に擬せられていたのは、上野広小路の呉服店伊藤松坂屋の通番頭で、年は三十二、三であった。栄次郎は妹が自分たち夫婦に慊ぬのを見て、妹に壻を取って日野屋の店を譲り、自分は浜照を連れて隠居しようとしたのである。
壻に擬せられている番頭某と五百となら、旁から見ても好配偶である。五百は二十九歳であるが、打見には二十四、五にしか見えなかった。それに抽斎はもう四十歳に満ちている。貞白は五百の意のある所を解するに苦んだ。
そこで五百に問い質すと、五百はただ学問のある夫が持ちたいと答えた。その詞には道理がある。しかし貞白はまだ五百の意中を読み尽すことが出来なかった。
五百は貞白の気色を見て、こう言い足した。「わたくしは壻を取ってこの世帯を譲ってもらいたくはありません。それよりか渋江さんの所へ往って、あの方に日野屋の後見をして戴きたいと思います。」
貞白は膝を拍った。「なるほど/\。そういうお考えですか。宜しい。一切わたくしが引き受けましょう。」
貞白は実に五百の深慮遠謀に驚いた。五百の兄栄次郎も、姉安の夫宗右衛門も、聖堂に学んだ男である。もし五百が尋常の商人を夫としたら、五百の意志は山内氏にも長尾氏にも軽んぜられるであろう。これに反して五百が抽斎の妻となると栄次郎も宗右衛門も五百の前に項を屈せなくてはならない。五百は里方のために謀って、労少くして功多きことを得るであろう。かつ兄の当然持っておるべき身代を、妹として譲り受けるということは望ましい事ではない。そうして置いては、兄の隠居が何事をしようと、これに喙を容れることが出来ぬであろう。永久に兄を徳として、その為すがままに任せていなくてはなるまい。五百は此の如き地位に身を置くことを欲せぬのである。五百は潔くこの家を去って渋江氏に適き、しかもその渋江氏の力を藉りて、この家の上に監督を加えようとするのである。
貞白は直に抽斎を訪うて五百の願を告げ、自分も詞を添えて抽斎を説き動した。五百の婚嫁は此の如くにして成就したのである。
保はこの年六月に『横浜毎日新聞』の編輯員になった。これまではその社とただ寄稿者としての連繋のみを有していたのであった。当時の社長は沼間守一、主筆は島田三郎、会計係は波多野伝三郎という顔触で、編輯員には肥塚龍、青木匡、丸山名政、荒井泰治の人々がいた。また矢野次郎、角田真平、高梨哲四郎、大岡育造の人々は社友であった。次で八月に保は攻玉社の教員を罷めた。九月一日には家を芝桜川町十八番地に移した。
脩はこの年十二月に工部技手を罷めた。
水木はこの年山内氏を冒して芝新銭座町に一戸を構えた。
抽斎歿後の第二十七年は明治十八年である。保は新聞社の種々の用務を弁ずるために、しばしば旅行した。十月十日に旅から帰って見ると、森枳園の五日に寄せた書が机上にあった。面談したい事があるが、何時往ったら逢われようかというのである。保は十一日の朝枳園を訪うた。枳園は当時京橋区水谷町九番地に住んでいて、家族は子婦大槻氏よう、孫女こうの二人であった。嗣子養真は父に先って歿し、こうの妹りゅうは既に人に嫁していたのである。
枳園は『横浜毎日新聞』の演劇欄を担任しようと思って、保に紹介を求めた。これより先狩谷斎の『倭名鈔箋註』が印刷局において刻せられ、また『経籍訪古志』が清国使館において刻せられて、これらの事業は枳園がこれに当っていたから、その家は昔の如く貧しくはなかった。しかしこの年一月に大蔵省の職を罷めて、今は月給を受けぬことになっているので、再び記者たらんと欲するのであった。
保は枳園の求に応じて、新聞社に紹介し、二、三篇の文章を社に交付して置いて、十二日にまた社用を帯びて遠江国浜松に往った。然るに用事は一カ所において果すことが出来なかったので、犬居に往き、掛塚から汽船豊川丸に乗って帰京の途に就いた。そして航海中暴風に遭って、下田に淹留し、十二月十六日にようよう家に帰った。
机上にはまた森氏の書信があった。しかしこれは枳園の手書ではなくて、その訃音であった。
枳園は十二月六日に水谷町の家に歿した。年は七十九であった。枳園の終焉に当って、伊沢徳さんは枕辺に侍していたそうである。印刷局は前年の功労を忘れず、葬送の途次柩を官衙の前に駐めしめ、局員皆出でて礼拝した。枳園は音羽洞雲寺の先塋に葬られたが、この寺は大正二年八月に巣鴨村池袋丸山千六百五番地に徙された。池袋停車場の西十町ばかりで、府立師範学校の西北、祥雲寺の隣である。わたくしは洞雲寺の移転地を尋ねて得ず、これを大槻文彦さんに問うて始て知った。この寺には枳園六世の祖からの墓が並んでいる。わたくしの参詣した時には、おこうさんと大槻文彦さんとの名を記した新しい卒堵婆が立ててあった。
枳園の後はその子養真の長女おこうさんが襲いだ。おこうさんは女流画家で、浅草永住町の上田政次郎という人の許に現存している。おこうさんの妹おりゅうさんはかつて剞氏某に嫁し、後未亡人となって、浅草聖天横町の基督教会堂のコンシェルジェになっていた。基督教徒である。
保は枳園の訃を得た後、病のために新聞記者の業を罷め、遠江国周智郡犬居村百四十九番地に転籍した。保は病のために時々卒倒することがあったので、松山棟庵が勧めて都会の地を去らしめたのである。
抽斎歿後の第二十八年は明治十九年である。保は静岡安西一丁目南裏町十五番地に移り住んだ。私立静岡英学校の教頭になったからである。校主は藤波甚助という人で、雇外国人にはカッシデエ夫妻、カッキング夫人等がいた。当時の生徒で、今名を知られているものは山路愛山さんである。通称は弥吉、浅草堀田原、後には鳥越に住んだ幕府の天文方山路氏の裔で、元治元年に生れた。この年二十三歳であった。
十月十五日に保は旧幕臣静岡県士族佐野常三郎の女松を娶った。戸籍名は一である。保は三十歳、松は明治二年正月十六日生であるから十八歳であった。
小野富穀の子道悦が、この年八月に虎列拉を病んで歿した。道悦は天保七年八月朔に生れた。経書を萩原楽亭に、筆札を平井東堂に、医術を多紀庭と伊沢柏軒とに学んだ。父と共に仕えて表医者奥通に至り、明治三年に弘前において藩学の小学教授に任ぜられ、同じ年に家督相続をした。小学教授とは素読の師をいうのである。しかし保が助教授になっていたのは藩学の儒学部で、道悦が小学教授になっていたのはその医学部である。道悦も父祖に似て貨殖に長じていたが、終生主に守成を事としていた。然るに明治十一、二年の交、道悦が松田道夫の下にあって、金沢裁判所の書記をしていると、その留守に妻が東京にあって投機のために多く金を失った。その後道悦は保が重野成斎に紹介して、修史局の雇員にしてもらうことが出来た。子道太郎は時事新報社の文選をしていたが、父に先って死んだ。
尺振八もまたこの年十一月二十八日に歿した。年は四十八であった。
抽斎歿後の第二十九年は明治二十年である。保は一月二十七日に静岡で発行している『東海暁鐘新報』の主筆になった。英学校の職は故の如くである。『暁鐘新報』は自由党の機関で、前島豊太郎という人を社主としていた。五年前に禁獄三年、罰金九百円に処せられて、世の耳目を驚した人で、天保六年の生であるから、五十三歳になっていた。次で保は七月一日に静岡高等英華学校に聘せられ、九月十五日にまた静岡文武館の嘱託を受けて、英語を生徒に授けた。
抽斎歿後の第三十年は明治二十一年である。一月に『東海暁鐘新報』は改題して東海の二字を除いた。同じ月に中江兆民が静岡を過ぎて保を訪うた。兆民は前年の暮に保安条例に依って東京を逐われ、大阪東雲新聞社の聘に応じて西下する途次、静岡には来たのである。六月三十日に保の長男三吉が生れた。八月十日に私立渋江塾を鷹匠町二丁目に設くることを認可せられた。
脩は七月に東京から保の家に来て、静岡警察署内巡査講習所の英語教師を嘱託せられ、次で保と共に渋江塾を創設した。これより先脩は渋江氏に復籍していた。
脩は渋江塾の設けられた時妻さだを娶った。静岡の人福島竹次郎の長女で、県下駿河国安倍郡豊田村曲金の素封家海野寿作の娘分である。脩は三十五歳、さだは明治二年八月九日生であるから二十歳であった。
この年九月十五日に、保の許に匿名の書が届いた。日を期して決闘を求むる書である。その文体書風が悪作劇とも見えぬので、保は多少の心構をしてその日を待った。静岡の市中ではこの事を聞き伝えて種々の噂が立った。さてその日になると、早朝に前田五門が保の家に来て助力をしようと申し込んだ。五門は本五左衛門と称して、世禄五百七十二石を食み、下谷新橋脇に住んでいた旧幕臣である。明治十五年に保が三河国国府を去って入京しようとした時、五門は懇親会において保と相識になった。初め函右日報社主で、今『大務新聞』顧問になっている。保は五門と倶に終日匿名の敵を待ったが、敵は遂に来なかった。五門は後明治三十八年二月二十三日に歿した。天保六年の生であるから、年を享くること七十一であった。
抽斎歿後の第三十一年は明治二十二年である。一月八日に保は東京博文館の求に応じて履歴書、写真並に文稿を寄示した。これが保のこの書肆のために書を著すに至った端緒である。交渉は漸く歩を進めて、保は次第に暁鐘新報社に遠かり、博文館に近いた。そして十二月二十七日に新報社に告ぐるに、年末を待って主筆を辞することを以てした。然るに新報社は保に退社後なお社説を草せんことを請うた。
脩の嫡男終吉がこの年十二月一日に鷹匠町二丁目の渋江塾に生れた。即ち今の図案家の渋江終吉さんである。
抽斎歿後の第三十二年は明治二十三年である。保は三月三日に静岡から入京して、麹町有楽町二丁目二番地竹の舎に寄寓した。静岡を去るに臨んで、渋江塾を閉じ、英学校、英華学校、文武館三校の教職を辞した。ただ『暁鐘新報』の社説は東京において草することを約した。入京後三月二十六日から博文館のためにする著作翻訳の稿を起した。七月十八日に保は神田仲猿楽町五番地豊田春賀の許に転寓した。
保の家には長女福が一月三十日に生れ、二月十七日に夭した。また七月十一日に長男三吉が三歳にして歿した。感応寺の墓に刻してある智運童子はこの三吉である。
脩はこの年五月二十九日に単身入京して、六月に飯田町補習学会及神田猿楽町有終学校の英語教師となった。妻子は七月に至って入京した。十二月に脩は鉄道庁第二部傭員となって、遠江国磐田郡袋井駅に勤務することとなり、また家を挙げて京を去った。
明治二十四年には保は新居を神田仲猿楽町五番地に卜して、七月十七日に起工し、十月一日にこれを落した。脩は駿河国駿東郡佐野駅の駅長助役に転じた。抽斎歿後の第三十三年である。
二十五年には保の次男繁次が二月十八日に生れ、九月二十三日に夭した。感応寺の墓に示教童子と刻してある。脩は七月に鉄道庁に解傭を請うて入京し、芝愛宕下町に住んで、京橋西紺屋町秀英舎の漢字校正係になった。脩の次男行晴が生れた。この年は抽斎歿後の第三十四年である。
二十六年には保の次女冬が十二月二十一日に生れた。脩がこの年から俳句を作ることを始めた。「皮足袋の四十に足を踏込みぬ」の句がある。二十七年には脩の次男行晴が四月十三日に三歳にして歿した。陸が十二月に本所松井町三丁目四番地福島某の地所に新築した。即ち今の居宅である。長唄の師匠としてのこの人の経歴は、一たび優のために頓挫したが、その後は継続して今日に至っている。なお下方に詳記するであろう。二十八年には保の三男純吉が七月十三日に生れた。二十九年には脩が一月に秀英舎市が谷工場の欧文校正係に転じて、牛込二十騎町に移った。この月十二日に脩の三男忠三さんが生れた。三十年には保が九月に根本羽嶽の門に入って易を問うことを始めた。長井金風さんの言に拠るに、羽嶽の師は野上陳令、陳令の師は山本北山だそうである。栗本鋤雲が三月六日に七十六歳で歿した。海保漁村の妾が歿した。三十一年には保が八月三十日に羽嶽の義道館の講師になり、十二月十七日にその評議員になった。脩の長女花が十二月に生れた。島田篁村が八月二十七日に六十一歳で歿した。抽斎歿後の第三十五年乃至第四十年である。
わたくしは此に前記を続いで抽斎歿後第四十一年以下の事を挙げる。明治三十三年には五月二日に保の三女乙女さんが生れた。三十四年には脩が吟月と号した。俳諧の師二世桂の本琴糸女の授くる所の号である。山内水木が一月二十六日に歿した。年四十九であった。福沢諭吉が二月三日に六十八歳で歿した。博文館主大橋佐平が十一月三日に六十七歳で歿した。三十五年には脩が十月に秀英舎を退いて京橋宗十郎町の国文社に入り、校正係になった。修の四男末男さんが十二月五日に生れた。三十六年には脩が九月に静岡に往って、安西一丁目南裏に渋江塾を再興した。県立静岡中学校長川田正澂の勧に従って、中学生のために温習の便宜を謀ったのである。脩の長女花が三月十五日に六歳で歿した。三十七年には保が五月十五日に神田三崎町一番地に移った。三十八年には保が七月十三日に荏原郡品川町南品川百五十九番地に移った。脩が十二月に静岡の渋江塾を閉じた。川田が宮城県第一中学校長に転じて、静岡中学校の規則が変更せられ、渋江塾は存立の必要なきに至ったのである。伊沢柏軒の嗣子磐が十一月二十四日に歿した。鉄三郎が徳安と改め、維新後にまた磐と改めたのである。磐の嗣子信治さんは今赤坂氷川町の姉壻清水夏雲さんの許にいる。三十九年には脩が入京して小石川久堅町博文館印刷所の校正係になった。根本羽嶽が十月三日に八十五歳で歿した。四十年には保の四女紅葉が十月二十二日に生れて、二十八日に夭した。これが抽斎歿後の第四十八年に至るまでの事略である。
抽斎歿後の第四十九年は明治四十一年である。四月十二日午後十時に脩が歿した。脩はこの月四日降雪の日に感冒した。しかし五日までは博文館印刷所の業を廃せなかった。六日に至って咳嗽甚しく、発熱して就蓐し、終に加答児性肺炎のために命を隕した。嗣子終吉さんは今の下渋谷の家に移った。
わたくしは脩の句稿を左に鈔出する。類句を避けて精選するが如きは、その道に専ならざるわたくしの能くする所ではない。読者の指を得ば幸であろう。
山畑や霞の上の鍬づかひ
塵塚に菜の花咲ける弥生哉
海苔の香や麦藁染むる縁の先
切凧のつひに流るゝ小川かな
陽炎と共にちらつく小鮎哉
いつ見ても初物らしき白魚哉
牡丹切て心さびしき夕かな
大西瓜真つ二つにぞ切れける
山寺は星より高き燈籠かな
稲妻の跡に手ぬるき星の飛ぶ
秋は皆物の淡きに唐芥子
手も出さで机に向ふ寒さ哉
物売の皆頭巾着て出る夜哉
凩や土器乾く石燈籠
雪の日や鶏の出て来る炭俵
塵塚に菜の花咲ける弥生哉
海苔の香や麦藁染むる縁の先
切凧のつひに流るゝ小川かな
陽炎と共にちらつく小鮎哉
いつ見ても初物らしき白魚哉
牡丹切て心さびしき夕かな
大西瓜真つ二つにぞ切れける
山寺は星より高き燈籠かな
稲妻の跡に手ぬるき星の飛ぶ
秋は皆物の淡きに唐芥子
手も出さで机に向ふ寒さ哉
物売の皆頭巾着て出る夜哉
凩や土器乾く石燈籠
雪の日や鶏の出て来る炭俵
明治四十四年には保の三男純吉が十七歳で八月十一日に死んだ。大正二年には保が七月十二日に麻布西町十五番地に、八月二十八日に同区本村町八番地に移った。三年には九月九日に今の牛込船河原町の家に移った。四年には保の次女冬が十月十三日に二十三歳で歿した。これが抽斎歿後の第五十二年から第五十六年に至る事略である。
抽斎の後裔にして今に存じているものは、上記の如く、先ず指を牛込の渋江氏に屈せなくてはならない。主人の保さんは抽斎の第七子で、継嗣となったものである。経を漁村、竹逕の海保氏父子、島田篁村、兼松石居、根本羽嶽に、漢医方を多紀雲従に受け、師範学校において、教育家として養成せられ、共立学舎、慶応義塾において英語を研究し、浜松、静岡にあっては、あるいは校長となり、あるいは教頭となり、旁新聞記者として、政治を論じた。しかし最も大いに精力を費したものは、書肆博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約百五十部の多きに至っている。その書は随時世人を啓発した功はあるにしても、概皆時尚を追う書估の誅求に応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたといわざることを得ない。そして保さんは自らこれを知っている。畢竟文士と書估との関係はミュチュアリスムであるべきのに、実はパラジチスムになっている。保さんは生物学上の亭主役をしたのである。
保さんの作らんと欲する書は、今なお計画として保さんの意中にある。曰く本私刑史、曰く支那刑法史、曰く経子一家言、曰く周易一家言、曰く読書五十年、この五部の書が即ちこれである。就中読書五十年の如きは、啻に計画として存在するのみではない、その藁本が既に堆を成している。これは一種のビブリオグラフィイで、保さんの博渉の一面を窺うに足るものである。著者の志す所は厳君の『経籍訪古志』を廓大して、古より今に及ぼし、東より西に及ぼすにあるといっても、あるいは不可なることがなかろう。保さんは果して能くその志を成すであろうか。世間は果して能く保さんをしてその志を成さしむるであろうか。
保さんは今年大正五年に六十歳、妻佐野氏お松さんは四十八歳、女乙女さんは十七歳である。乙女さんは明治四十一年以降鏑木清方に就いて画を学び、また大正三年以還跡見女学校の生徒になっている。
第二には本所の渋江氏がある。女主人は抽斎の四女陸で、長唄の師匠杵屋勝久さんがこれである。既に記したる如く、大正五年には七十歳になった。
陸が始て長唄の手ほどきをしてもらった師匠は日本橋馬喰町の二世杵屋勝三郎で、馬場の鬼勝と称せられた名人である。これは嘉永三年陸が僅に四歳になった時だというから、まだ小柳町の大工の棟梁新八の家へ里子に遣られていて、そこから稽古に通ったことであろう。
母五百も声が好かったが、陸はそれに似た美声だといって、勝三郎が褒めた。節も好く記えた。三味線は「宵は待ち」を弾く時、早く既に自ら調子を合せることが出来、めりやす「黒髪」位に至ると、師匠に連れられて、所々の大浚に往った。
勝三郎は陸を教えるに、特別に骨を折った。月六斎と日を期して、勝三郎が喜代蔵、辰蔵二人の弟子を伴って、お玉が池の渋江の邸に出向くと、その日には陸も里親の許から帰って待ち受けていた。陸の浚が畢ると、二番位演奏があって、その上で酒飯が出た。料理は必ず青柳から為出した。嘉永四年に渋江氏が本所台所町に移ってからも、この出稽古は継続せられた。
渋江氏が一旦弘前に徙って、その後東京と改まった江戸に再び還った時、陸は本所緑町に砂糖店を開いた。これは初め商売を始めようと思って土著したのではなく、唯稲葉という家の門の片隅に空地があったので、そこへ小家を建てて住んだのであった。さてこの家に住んでから、稲葉氏と親しく交わることになり、その勧奨に由って砂糖店をば開いたのである。また砂糖店を閉じた後に、長唄の師匠として自立するに至ったのも、同じ稲葉氏が援助したのである。
本所には三百石取以上の旗本で、稲葉氏を称したものが四軒ばかりあったから、親しくその子孫について質さなくては、どの家かわからぬが、陸を庇護した稲葉氏には、当時四十何歳の未亡人の下に、一旦人に嫁して帰った家附の女で四十歳位のが一人、松さん、駒さんの兄弟があった。この松さんは今千秋と号して書家になっているそうである。
陸が小家に移った当座、稲葉氏の母と娘とは、湯屋に往くにも陸をさそって往き、母が背中を洗って遣れば、娘が手を洗って遣るというようにした。髪をも二人で毎日種々の髷に結って遣った。
さて稲葉の未亡人のいうには、若いものが坐食していては悪い、心安い砂糖問屋があるから、砂糖店を出したが好かろう、医者の家に生れて、陸は秤目を知っているから丁度好いということであった。砂糖店は開かれた。そして繁昌した。品も好く、秤も好いと評判せられて、客は遠方から来た。汁粉屋が買いに来る。煮締屋が買いに来る。小松川あたりからわざわざ来るものさえあった。
或日貴婦人が女中大勢を連れて店に来た。そして氷砂糖、金米糠などを買って、陸に言った。「士族の女で健気にも商売を始めたものがあるという噂を聞いて、わたしはわざわざ買いに来ました。どうぞ中途で罷めないで、辛棒をし徹して、人の手本になって下さい」といった。後に聞けば、藤堂家の夫人だそうであった。藤堂家の下屋敷は両国橋詰にあって、当時の主人は高猷、夫人は一族高の女であったはずである。
或日また五百と保とが寄席に往った。心打は円朝であったが、話の本題に入る前に、こういう事を言った。「この頃緑町では、御大家のお嬢様がお砂糖屋をお始になって、殊の外御繁昌だと申すことでございます。時節柄結構なお思い立で、誰もそうありたい事と存じます」といった。話の中にいわゆる心学を説いた円朝の面目が窺われる。五百は聴いて感慨に堪えなかったそうである。
この砂糖店は幸か不幸か、繁昌の最中に閉じられて、陸は世間の同情に酬いることを得なかった。家族関係の上に除きがたい障礙が生じたためである。
商業を廃して間暇を得た陸の許へ、稲葉の未亡人は遊びに来て、談は偶長唄の事に及んだ。長唄は未亡人がかつて稽古したことがある。陸には飯よりも好な道である。一しょに浚って見ようではないかということになった。いまだ一段を終らぬに、世話好の未亡人は驚歎しつつこういった。「あなたは素人じゃないではありませんか。是非師匠におなりなさい。わたしが一番に弟子入をします。」
稲葉の未亡人の詞を聞いて、陸の意はやや動いた。芸人になるということを憚ってはいるが、どうにかして生計を営むものとすると、自分の好む芸を以てしたいのであった。陸は母五百の許に往って相談した。五百は思の外容易く許した。
陸は師匠杵屋勝三郎の勝の字を請い受けて勝久と称し、公に稟して鑑札を下付せられた。その時本所亀沢町左官庄兵衛の店に、似合わしい一戸が明いていたので、勝久はそれを借りて看板を懸けた。二十七歳になった明治六年の事である。
この亀沢町の家の隣には、吉野という象牙職の老夫婦が住んでいた。主人は町内の若い衆頭で、世馴れた、侠気のある人であったから、女房と共に勝久の身の上を引き受けて世話をした。「まだ町住いの事は御存じないのだから、失礼ながらわたしたち夫婦でお指図をいたして上げます」といったのである。夫婦は朝表口の揚戸を上げてくれる。晩にまた卸してくれる。何から何まで面倒を見てくれたのである。
吉野の家には二人の女があって、姉をふくといい、妹をかねといった。老夫婦は即時にこの姉妹を入門させた。おかねさんは今日本橋大坂町十三番地に住む水野某の妻で、子供をも勝久の弟子にしている。
吉野は勝久の事を町住いに馴れぬといった。勝久はかつて砂糖店を出していたことはあっても、今いわゆる愛敬商売の師匠となって見ると、自分の物馴れぬことの甚しさに気附かずにはいられなかった。これまで自分を「お陸さん」と呼んだ人が、忽ち「お師匠さん」と呼ぶ。それを聞くごとにぎくりとして、理性は呼ぶ人の詞の妥当なるを認めながら、感情はその人を意地悪のように思う。砂糖屋でいた頃も、八百屋、肴屋にお前と呼ぶことを遠慮したが、当時はまだその辞を紆曲にして直に相手を斥して呼ぶことを避けていた。今はあらゆる職業の人に交わって、誰をも檀那といい、お上さんといわなくてはならない。それがどうも口に出憎いのであった。或時吉野の主人が「好く気を附けて、人に高ぶるなんぞといわれないようになさいよ」と忠告すると、勝久は急所を刺されたように感じたそうである。
しかし勝久の業は予期したよりも繁昌した。いまだ幾ばくもあらぬに、弟子の数は八十人を踰えた。それに上流の家々に招かれることが漸く多く、後には殆ど毎日のように、昼の稽古を終ってから、諸方の邸へ車を馳せることになった。
最も数往ったのはほど近い藤堂家である。この邸では家族の人々の誕生日、その外種々の祝日に、必ず勝久を呼ぶことになっている。
藤堂家に次いでは、細川、津軽、稲葉、前田、伊達、牧野、小笠原、黒田、本多の諸家で、勝久は贔屓になっている。
細川家に勝久の招かれたのは、相弟子勝秀が紹介したのである。勝秀はかつて肥後国熊本までもこの家の人々に伴われて往ったことがあるそうである。勝久の初て招かれたのは今戸の別邸で、当日は立三味線が勝秀、外に脇二人、立唄が勝久、外に脇唄二人、その他鳴物連中で、悉く女芸人であった。番組は「勧進帳」、「吉原雀」、「英執着獅子」で、末に好として「石橋」を演じた。
細川家の当主は慶順であっただろう。勝久が部屋へ下っていると、そこへ津軽侯が来て、「渋江の女の陸がいるということだから逢いに来たよ」といった。連の女らは皆驚いた。津軽承昭は主人慶順の弟であるから、その日の客になって、来ていたのであろう。
長唄が畢ってから、主客打交っての能があって、女芸人らは陪観を許された。津軽侯は「船弁慶」を舞った。勝久を細川家に介致した勝秀は、今は亡人である。
津軽家へは細川別邸で主公に謁見したのが縁となって、渋江陸としてしばしば召されることになった。いつも独往って弾きもし歌いもすることになっている。老女歌野、お部屋おたつの人々が馴染になって、陸を引き廻してくれるのである。
稲葉家へは師匠勝三郎が存命中に初て連れて往った。その邸は青山だというから、豊後国臼杵の稲葉家で、当時の主公久通に麻布土器町の下屋敷へ招かれたのであろう。連中は男女交りであった。立三味線は勝三郎、脇勝秀、立唄は坂田仙八、脇勝久で、皆稲葉家の名指であった。仙人は亡人で、今の勝五郎、前名勝四郎の父である。番組は「鶴亀」、「初時雨」、「喜撰」で、末に好として勝三郎と仙八とが「狸囃」を演じた。
演奏が畢ってから、勝三郎らは花園を観ることを許された。園は太だ広く、珍奇な花卉が多かった。園を過ぎて菜圃に入ると、その傍に竹藪があって、筍が叢り生じていた。主公が芸人らに、「お前たちが自分で抜いただけは、何本でも持って帰って好いから勝手に抜け」といった。男女の芸人が争って抜いた。中には筍が抽けると共に、尻餅を擣くものもあった。主公はこれを見て興に入った。筍の周囲の土は、予め掘り起して、鬆めた後にまた掻き寄せてあったそうである。それでも芸人らは容易く抜くことを得なかった。家苞には筍を多く賜わった。抜かぬ人もその数には洩れなかった。
前田家、伊達家、牧野家、小笠原家、黒田家、本多家へも次第に呼ばれることになった。初て往った頃は、前田家が宰相慶寧、伊達家が亀三郎、牧野家が金丸、小笠原家が豊千代丸、黒田家が少将慶賛、本多家が主膳正康穣の時であっただろう。しかしわたくしは維新後における華冑家世の事に精しくないから、もし誤謬があったら正してもらいたい。
勝久は看板を懸けてから四年目、明治十年四月三日に、両国中村楼で名弘めの大浚を催した。浚場の間口の天幕は深川の五本松門弟中、後幕は魚河岸問屋今和と緑町門弟中、水引は牧野家であった。その外家元門弟中より紅白縮緬の天幕、杵勝名取男女中より縹色絹の後幕、勝久門下名取女中より中形縮緬の大額、親密連女名取より茶緞子丸帯の掛地、木場贔屓中より白縮緬の水引が贈られた。役者はおもいおもいの意匠を凝したびらを寄せた。縁故のある華族の諸家は皆金品を遺って、中には老女を遣したものもあった。勝久が三十一歳の時の事である。
勝久が本所松井町福島某の地所に、今の居宅を構えた時に、師匠勝三郎は喜んで、歌を詠じて自ら書し、表装して貽った。勝久はこの歌に本づいて歌曲「松の栄」を作り、両国井生村楼で新曲開きをした。勝三郎を始として、杵屋一派の名流が集まった。曲は奉書摺の本に為立てて客に頒たれた。緒余に『四つの海』を著した抽斎が好尚の一面は、図らずもその女陸に藉って此の如き発展を遂げたのである。これは明治二十七年十二月で、勝久が四十八歳の時であった。
勝三郎は尋で明治二十九年二月五日に歿した。年は七十七であった。法諡を花菱院照誉東成信士という。東成はその諱である。墓は浅草蔵前西福寺内真行院にある。原ぬるに長唄杵屋の一派は俳優中村勘五郎から出て、その宗家は世喜三郎また六左衛門と称し現に日本橋坂本町十八番地にあって名跡を伝えている。いわゆる植木店の家元である。三世喜三郎の三男杵屋六三郎が分派をなし、その門に初代佐吉があり、初代佐吉の門に和吉があり、和吉の後を初代勝五郎が襲ぎ、初代勝五郎の後を初代勝三郎が襲いだ。この勝三郎は終生名を更めずにいて、勝五郎の称は門人をして襲がしめた。次が二世勝三郎東成で、小字を小三郎といった。即ち勝久の師匠である。
二世勝三郎には子女各一人があって、姉をふさといい、弟を金次郎といった。金次郎は「己は芸人なんぞにはならない」といって、学校にばかり通っていた。二世勝三郎は終に臨んで子らに遺言し、勝久を小母と呼んで、後事を相談するが好いといったそうである。
二世勝三郎の馬喰町の家は、長女ふさに壻を迎えて継がせることになった。壻は新宿の岩松というもので、養父の小字小三郎を襲ぎ、中村楼で名弘の会を催した。いまだ幾くならぬに、小三郎は養父の小字を名告ることを屑しとせず、三世勝三郎たらんことを欲した。しかし先代勝三郎の門人は杵勝同窓会を組織していて、技芸の小三郎より優れているものが多い。それゆえ襲名の事は輒く認容せられなかった。小三郎は遂に葛藤を生じて離縁せられた。
是において二世勝三郎の長男金次郎は、父の遺業を継がなくてはならぬことになった。金次郎は親戚と父の門人らとに強要せられて退学し、好まぬ三味線を手に取って、杵勝分派諸老輩の鞭策の下に、いやいやながら腕を磨いた。
金次郎は遂に三世勝三郎となった。初めこの勝三郎は学校教育が累をなし、目に丁字なき儕輩の忌む所となって、杵勝同窓会幹事の一人たる勝久の如きは、前途のために手に汗を握ること数であったが、固より些の学問が技芸を妨げるはずはないので、次第に家元たる声価も定まり、羽翼も成った。
明治三十六年勝久が五十七歳になった時の事である。三世勝三郎が鎌倉に病臥しているので、勝久は勝秀、勝きみと共に、二月二十五日に見舞いに往った。居は海光山長谷寺の座敷である。勝三郎は病がとかく佳候を呈せなかったが、当時なお杖に扶けられて寺門を出で、勝久らに近傍の故蹟を見せることが出来た。勝久は遊覧の記を作って、病牀の慰草にもといって遣った。雑誌『道楽世界』に、杵屋勝久は学者だと書いたのは、この頃の事である。三月三日に勝三郎は病のいまだえざるに東京に還った。
三世勝三郎の病は東京に還ってからも癒えなかった。当時勝三郎は東京座頭取であったので、高足弟子たる浅草森田町の勝四郎をして主としてその事に当らしめた。勝四郎は即ち今の勝五郎である。然るに勝三郎は東京座における勝四郎の勤ぶりに慊なかった。そして病のために気短になっている勝三郎と勝四郎との間に、次第に繕いがたい釁隙を生じた。
五月に至って勝三郎は房州へ転地することを思い立ったが、出発に臨んで自分の去った後における杵勝分派の前途を気遣った。そして分派の永続を保証すべき男女名取の盟約書を作らせようとした。勝久の世話をしている女名取の間には、これを作るに何の故障もなかった。しかし勝四郎を領袖としている男名取らは、先ず師匠の怒が解けて、師匠と勝四郎との交が昔の如き和熟を見るに至るまでは、盟約書に調印することは出来ぬといった。この時勝久は病める師匠の心を安んずるには、男女名取総員の盟約を完成するに若くはないと思って、師家と男名取らとの間に往来して調停に努力した。
しかし勝三郎は遂に釈然たるに至らなかった。六月十六日に勝久が馬喰町の家元を訪うて、重ねて勝四郎のために請う所があったとき、勝三郎は涙を流して怒り、「小母さんはどこまでこの病人に忤う気ですか」といった。勝久は此に至って復奈何ともすることが出来なかった。
六月二十五日の朝、勝三郎は霊岸島から舟に乗って房州へ立った。妻みつが同行した。即ち杵勝分派のものが女師匠と呼んでいる人である。見送の人々は勝三郎の姉ふさ、いそ、てる、勝久、勝ふみ、藤二郎、それに師匠の家にいる兼さんという男、上総屋の親方、以上八人であった。勝三郎の姉ふさは後に、日本橋浜町一丁目に二世勝三郎の建てた隠居所に住んで、独身で暮しているので、杵勝分派に浜町の師匠と呼ばれている人である。
この桟橋の別には何となく落寞の感があった。病み衰えた勝三郎は終に男名取総員の和熟を見るに及ばずして東京を去った。そしてそれが再び帰らぬ旅路であった。
勝久は家元を送って四日の後に病に臥した。七月八日には女師匠が房州から帰って、勝久の病を問うた。十二日に勝久は馬喰町と浜町とへ留守見舞の使を遣って、勝三郎の房州から鎌倉へ遷ったことを聞いた。
九月十一日は小雨の降る日であった。鎌倉から勝三郎の病が革だと報じて来た。勝久は腰部の拘攣のために、寝がえりだに出来ず、便所に往くにも、人に抱かれて往っていた。そこへこの報が来たので、勝久はしばらく戦慄して已まなかった。しかし勝久は自ら励まして常に親しくしている勝ふみを呼びに遣った。介抱かたがた同行することを求めたのであった。二人は新橋から汽車に乗って、鎌倉へ往った。勝三郎はこの夕に世を去った。年は三十八であった。法諡を蓮生院薫誉智才信士という。
九月十二日に勝久は三世勝二郎の柩を荼所まで見送って、そこから車を停車場へ駆り、夜東京に還った。勝三郎が歿した後に、杵勝分派の団結を維持して行くには、一刻も早く除かなくてはならぬ障礙がある。それは勝三郎の生前に、勝久らが百方調停したにもかかわらず、宥されずにしまった高足弟子勝四郎の勘気である。勝久は鎌倉にある間も、東京へ帰る途上でも、須臾もこれを忘れることが出来なかった。
十三日の昧爽に、勝久は森田町の勝四郎が家へ手紙を遣った。「定めし御聞込の事とは存じ候へども、杵屋御家元様は御死去被遊候。夫に付私共は今日午後四時御同所に相寄候事に御坐候。此際御前様御心底は奈何に候哉。私存じ候には、同刻御自身の思召にて馬喰町へ御出被成候方宜敷候様存じ候。田原町へ一寸御立寄被成候て御出被成度存じ候。さ候はゞ及ばずながら奈何様にも御都合宜敷様可致候。先は右申入候。」田原町とは勝四郎に亜ぐ二番弟子勝治郎の家をいったのである。勝治郎は昨今病のために引き籠って、杵勝同窓会をも脱けている。
勝四郎の返事には、好意はありがたいが、何分これまでの行懸上単身では出向かれぬといって来た。そこで十造、勝助の二人が森田町へ迎えに往くことになった。
馬喰町の家では、この日通夜のために、亡人の親戚を始として、男女の名取が皆集まっていた。勝久は浜町の師匠と女師匠とに請うに、亡人に代って勝四郎を免すことを以てした。浜町の師匠は亡人の姉ふさ、女師匠は三十六歳で未亡人となった亡人の妻みつである。二人の女は許諾した。そこへ勝四郎は出向いて来て、勝三郎の木位を拝し、綫香を手向けた。勝四郎は木位の前を退いて男女の名取に挨拶した。葛藤は此に全く解けた。これが明治三十六年勝久が五十七歳の時の事で、勝久は始終病を力めてこの調停の衝に当ったのである。勝久が病の本復したのはこの年の十二月である。
杵勝同窓会はこれより後乖の根を絶って、男名取中からは名を勝五郎と更めた勝四郎が推されて幹事となり、女名取中からは勝久が推されて同じく幹事となっている。勝四郎の名は今飯田町住の五番弟子が襲いでいる。一番弟子勝四郎改勝五郎、二番勝治郎、三番勝松改勝右衛門、四番勝吉改勝太郎、五番勝四郎、六番勝之助改和吉である。
二世勝三郎の花菱院が三年忌には、男女名取が梵鐘一箇を西福寺に寄附した。七年忌には金百円、幕一帳男女名取中、葡萄鼠縮緬幕女名取中、大額並黒絽夢想袷羽織勝久門弟中、十三年忌が三世の七年忌を繰り上げて併せ修せられたときには、木魚一対墓前花立並綫香立男女名取中、十七年忌には蓮華形皿十三枚男女名取中の寄附があった。また三世勝三郎の蓮生院が三年忌には経箱六個経本入男女名取中、十三年忌には袈裟一領家元、天蓋一箇男女名取中の寄附があった。これらの文字は、人があるいはわたくしの何故にこれを条記して煩を厭わざるかを怪むであろう。しかしわたくしは勝久の手記を閲して、いわゆる芸人の師に事うることの厚きに驚いた。そしてこの善行を埋没するに忍びなかった。もしわたくしが虚礼に瞞過せられたという人があったら、わたくしは敢て問いたい。そういう人は果して一切の善行の動機を看破することを得るだろうかと。
勝久の人に長唄を教うること、今にるまで四十四年である。この間に勝久は名取の弟子僅に七人を得ている。明治三十二年には倉田ふでが杵屋勝久羅となった。三十四年には遠藤さとが杵屋勝久美となった。四十三年には福原さくが杵屋勝久女となり、山口はるが杵屋勝久利となった。大正二年には加藤たつが杵屋勝久満となった。三年には細井のりが杵屋勝久代となった。五年には伊藤あいが杵屋勝久纓となった。この外に大正四年に名取になった山田政次郎の杵屋勝丸もある。しかしこれは男の事ゆえ、勝久の弟子ではあるが、名は家元から取らせた。今の教育は都て官公私立の学校において行うことになっていて、勢集団教育の法に従わざることを得ない。そしてその弊を拯うには、ただ個人教育の法を参取する一途があるのみである。是において世には往々昔の儒者の家塾を夢みるものがある。然るにいわゆる芸人に名取の制があって、今なお牢守せられていること