あまり暑いので、津田は洗面所へ顏を洗ひに行つた。洗面所には大きい窓があつたが、今日はどんよりして風ひとつない。むしむしした午後である。
「津田さん、お電話ですよ」
 津田が呆んやり窓の外を眺めてゐると、女給仕が津田を呼びに來た。オフイスへ戻つて卓上の電話へ耳をあてると、
「津田さん? 津田さんでいらつしやいますか?」
 と、女の優しい聲がしてゐる。
「私、くみ子です……御無沙汰してをります。今日、東京へ出て參りましたの……」
 初めは誰かと耳をそばだててゐた津田の瞼に、かつてのくみ子の顏が大きく浮んで來た。
「あのね、いま、私、丸ビルまで來てゐますの、下の竹葉で御飯を食べたとこなんですけど、ねえ、あの、一寸、お會ひ出來ませんでせうか?」
「…………」
「怒つていらつしやる? ごめんなさい、――でも、お會ひして、色々聞いて戴きたいンですの……」
 津田は腕時計を眺めた。丁度二時だ。いまごろのんびりと晝飯を食つてゐるくみ子の樣子を考へて、津田は何だか不快な氣持ちだつたが、それでも久しく逢はないくみ子に、何となく自分も逢ひたい氣持ちである。
「珍らしいこともあるもンですね。――ぢやア、まア、一寸うかがひませう……」
 受話機を戻して、上着をひつかけると、津田は隣席の櫻井に一寸頼んで、くみ子の待つてゐる地階の竹葉へ降りて行つてみた。
(何年になるかな……あれから、丸二年は經つてゐるな)
 津田が竹葉へはいつて行くと、窓ぎはのボツクスにくみ子がにこにこ笑つてゐた。細かな花模樣の青い着物に、白博多の帶が清楚せいそにぱつとまばゆかつた。
「來てなんか下さらないと思ひましたわ……」
 津田が腰をおろすと、くみ子が遠慮さうにさう云つた。
「いつたい、何時出て來たんです?」
「さつき、まだ荷物も驛へ預けつぱなしですの、――當分、私、東京にゐようと思つてゐるんですけど……」
「水害はどうでした?」
「ええ、ありがたうございます。とてもひどかつたのですけど、私のところは大丈夫だつたの、貴方の處は如何でした?」
「僕のところは山の手だから大丈夫ですよ」
 くみ子はハンドバツクから薄むらさきのハンカチを出して、それを少時しばらく擴げたりたたんだりしてゐた。今度の上京に就いては、何か深い事情があるらしく、ハンカチをもてあそんでゐるくみ子の指が時々震へてゐる。
「今夜は何處へ泊るんです?」
「別に何處つてあてなんかないんですけど、女學校時代の友達の家へ行かうかしらんと思うてますの……」
 周次は心のうちにざまをみろと云ひたいものがあつたが、それでも、そのざまをみろのうちにも、一筋や二筋のみれんはないでもない。――やがて、周次は、東京驛へくみ子を待たしておいて自分はオフイスへ戻つて行つた。さうして會計のところへ行つて少しばかりの金を借りて、帽子を取つて外へ出たけれど、周次は今だにくみ子に戀々としてゐる自分がをかしくて、歩きながらも妙に意氣地のない氣持ちを感じてゐる。
 アスフアルトは白く乾いて、驛の前の街路樹も何だか暑つくるしさうに森閑としてゐる。周次は會計で借りて來た金の胸算用をしながら、くみ子を何處へ連れて行つたものかと考へてゐた。遠い昔、新聞の遊覽案内をみて、くみ子と二人で多摩川へ遊びに行つたことを彼はふつと思ひ出してゐた。その家は割烹旅館のやうな家構へで、庭さきに汚れた池があり、白い野茨のいばらが垣根にいつぱい咲いてゐたりした。
(逢つても、別れてもみれんなのだから、いつそ……)
 周次は一年も逢はないうちに、少しぼつてりと太つてきてゐるくみ子を、何となく憎々しく考へてもゐる。
 驛ではくみ子が、待合室の入口で待ち疲れたやうに立つてゐた。
「やア、どうも遲くなつて……雜用があつたものだから、ごめんなさい」
「あんまり遲いので、私、すつぽかされるのんか思ひましたわ……」
「まさか、貴女ぢやあるまいし……」
「まア、あんなこと……でも、もう五時ですわ」
「何處へ行きますか?」
「何處でもよろしわ……貴方のとこへ行つたら、お母樣お怒りになるでせう」
「そりア怒りますよ。とても怒るですよ」
「さうでせうね。――そんなにお母樣はお怒りになつていらつしやる?」

       ○

 二人が多摩川の旅館へ着いたのは七時頃だつた。すつかり黄昏れてしまつて、どんよりした月が出てゐた。
 座敷へ通ると、近頃改築したのか、縁側も柱も新しく木の香がぷんとただようてゐた。朝鮮簾のそばに朱塗りの大きい食卓があつて、水色麻の座蒲團が二ツ、食卓の兩側へ凉しげにならべてある。床には桔梗の花を描いた軸がさがつてゐて、古銅に赤いグラジオラスが活けてあつた。
「隨分安つぽい家になつたんだなア……」
 周次がカンカン帽を床へ置いて縁の籐椅子へ腰をかけると、くみ子も立つたなりそつと四圍を眺めてゐる。庭には樋がつくつてあるのか、水の滴る音もしてゐる。女中が冷い麥茶を運んで來た。
「まだ、夕飯を食べてゐないんだけど、何かみつくろつて持つて來て下さい。ついでにビールもほしいな……」
 女中が浴衣を擴げながら、二人に着替へて風呂はどうかと訊いてゐる。周次は浴衣に着替へてさつさと風呂にはいりに行つた。風呂は鑛泉なのか藥臭い匂ひがしてゐた。
 何の爲に二人でこんなところへ來たのか、周次は自分でも妙な氣持ちだつたが、どんなに遲くなつても、兎に角、自分だけは歸らうと思ふのだつた。――女の方から勝手に去つておいて、いまさら、また、自分からよりを戻す氣にはどうしてもなれない。周次は自分で自問自答しながら、のびのびと廣い浴槽にひたつて眼をとぢてゐた。
 くみ子の良人の義太郎が、この二月に急性肺炎で亡くなつたことも知つてゐたが、周次は別にくやみ状も出さなかつた。

 周次は初めてくみ子に會つたのは大阪の叔父の家である。商人の娘で、女學校を出たばかりだが、周次の嫁にどうかと云ふことで、周次は母と大阪へ行つたついでに叔父の家でくみ子とみあひをしたのだつた。
 周次が二十四、くみ子が十八の秋だつた。叔父の家の裏の茶席で、周次はくみ子から茶をたててもらつて飮んだ。茶の流儀は何も知らなかつたけれど、周次は美しいくみ子の姿に、掌の寶玉のやうないとしいものを感じて、茶の苦味さ、菓子の美味さも云ひやうのない愉しさだつた。周次はそれから、一ヶ月あまりも大阪の叔父の家にゐたのだ。
 云はば許婚いひなづけのやうな間柄になつた二人は、日がへりで奈良や京都にも遊びに行つたりした。周次が東京へ戻つて來ると、くみ子もすぐ東京へ遊びに來たりして、周次の家へ一週間も寢泊りしてゐたり、周次は勿論、母にも、くみ子のあどけなさは愉しいこのましさだつたのだ。
 年が明けて、二月早々には結婚式をしたらどうかと、周次の方で大阪の叔父へ相談の手紙を出した時、折返して來た叔父の手紙には、藪から棒に、くみ子のことはあきらめてくれるやうにと云ふ文面が書いてあつた。
 周次は何のことだかさつぱり判らなかつたので、周次の母がひとりでわざわざ大阪へ自分から樣子をききに出向いて行つたりもした。――大阪へ出向いて行つた母は、軈て間もなくぷんぷん怒りながら戻つて來て、
「あんな、あはうな娘、もうあきらめた方がよろし、なんぼう、何かて、胸くその惡い……急に一寸した金持の家から縁談があつてなア、くみ子さんの親ごはん達が、どうしてもその方へくみ子さんやらはりたいンやと、――あほらしい、こんな莫迦くさい話がほかにありますかいな……」
 と、無性に大阪の叔父夫婦までを意氣地がないとののしつてゐるのであつた。勿論、周次も内心吃驚せずにはゐられなかつた。
 何時だつたか、くみ子が風邪をひいて東京で二日ばかり寢ついたことがあつた。もう、明日は起きてもいいと醫者に云はれた晩、周次は會社のかへりにコロラドの月なんかのレコードを買つて來て、くみ子に聽かせてやつたりしたことがある。母は夕方から芝の方へ用事に出向いてゐたし、女中も臺所をしてゐてひつそりした夜だつた。二人は何と云ふこともなく自然に手をとりあつてゐた。自然な子供同士のやうなしぐさだつたが、軈て結婚式を持つ二人には、何かしこりのとれたやうな、そんな晴々しいものがお互ひの心にあつた。
 そのきつくやうな思ひ出のあるくみ子が、八田義太郎と云ふ實業家の家へ急に嫁入つてゆくと云ふことは、周次には何としても信じられない事だつた。しかも不思議なことには、京都の大學では周次と同じ法科で、卒業もいつしよだつた八田義之の兄だと云ふことをきき、妙なつながりを感じずにはゐられない。
 風呂からあがつて、座敷へ戻つて行くと、くみ子も、別な風呂へ案内されたのか、浴衣姿で、鏡臺の前に坐つてゐた。
「暑いのね……」
「むしむしして厭ですね……」
 食卓には食事の用意が出來てゐて、女中が冷えたビールを持つてはいつて來た。周次は心のうちで、女連れで來てゐる自分ををかしがりながら、それでも悠々と床の間へ坐つた。鯉のあらひ、瀧川豆腐、野菜のすまし汁、そんなものが、いかにもよそよそしく食卓に並んでゐる。
「お月樣が出てゐます……」
 女中がビールをつぎながら、ふつとすだれごしに外を覗いてゐる。蟲がぢいぢいと鳴きたててゐる。ビールが終ると、女中は給仕をくみ子に頼んで廊下へ出て行つた。

       ○

「私ね、繼母への義理で八田へ行つたやうなものですわ。一日だつて幸福な日はなかつたし、ああして亡くなるのも、浴びるやうに飮んだお酒のたたりですわ……」
「そんなに飮んだんですか?」
「ええ、とても、あんな酒飮みつて紳士ぢやありませんね――義之さんと正反對なんですもの……」
「義之君、元氣ですか?」
「ええ、とても。いま滿洲へ行つてらつしやいますのよ。此間いらしつたの……」
「へえ、……滿洲へね……」
「貴方のおうはさよくしていらつしたわ……」
 周次は皮膚の澄んだぼてぼてとふとつたくみ子の胸のあたりを眺め、胸のときめきを感じてゐた。
「今日はここへ泊りますか? 僕は飯でも濟んだらぼつぼつ歸りますよ……」
 食事を終つて、周次が暑い暑いと籐椅子のところへ行くと、くみ子はしよんぼりと團扇をつかひながら、
「あら、お歸りになるんですか?――私、疲れてしまつてもうどこへも動きたくないの……よかつたら泊つていらつしやらない?」
「ははははは……泊つたところで、僕が困りますよ。明日は早いですからね。どうです? 一寸川べりでも歩いて、それから、一應市内へ歸らうぢやありませんか。友達の家はどこなんです?」
「私ね、本當は、東京で何かして働きませうと出て來たんですの……二三日こんな處でゆつくり躯を休めて、それから友達のところへ行つてもいいのですわ」
「ぢやア、さうなさい。――でも僕は歸りますよ……」
 サスペンタアを肩へ引つかけて立ちあがると、くみ子は恨めしさうな表情で周次を眺めながら、
「だつて、色々お話があるんですけどねえ……」
 と、泣きさうな聲で云ふのだつた。
「僕は、ここまで來たことだつて、自分で、一寸もてあましてるんですよ。――惡いけど僕は歸ります……」
「ええ、よく判りますわ。でも……だつたら、私も歸りますわ……」
 軈てくみ子も默つて次の部屋へ行き、しゆうしゆうと帶の音をさせてゐた。――十一時頃、二人は新宿まで戻つて來た。くみ子は牛込の藥王寺町に友人の家があると云ふので、周次はひとまづくみ子を藥王寺町まで送つて行つた。路地の入口で別れると、周次は更けた町を肴町の電車通りの方へぼつぼつ歩いて行つた。
 男の見榮だか何だか知らないけれど、(あんな女なんか何でえ)と思ひつつも、何だか殘念なおもひも殘つて來る。何の爲めにくみ子が自分に逢ひたがつたのか、おぼろ氣に判るやうだつたが、おめおめとくみ子に乘ぜられる氣持ちはみぢんもない。
 東中野へ着いたのは一時ちかかつた。
 四五日前に來たばかりの若い女中が起きて耳門くゞりを開けてくれた。
「お母さん、もう寢た?」
「はい、さつきおやすみになりました……お起しいたしませうか?」
「まアいい。二階は蚊帳を吊つたかい?」
「はい、さつきお吊りしておきました」
 周次が二階へ上がつてゆくと、蚊帳の裾をはらふやうな凉しい風が吹いてゐた。ああ吾家の風だな……多摩川ではむしむししてゐたけれど、吾家はこんなに凉しい風が吹く。周次は縁側の手すりへY襯衣シヤツやづぼんをひつかけながら、裸になつていつた。
 月がはつきりしてゐる。小さい月だつたが庭のすずかけの梢の向うにまるで置いたやうに澄んでゐた。
「お浴衣をどうぞ……お風呂はどうなさいますか?」
 東京訛りのある低い聲だつたが、何となく誘はれる聲音だつた。小柄で鼻の横にほくろがあつて、眼の大きい娘だ。
「暑いねえ……」
 周次が暑いねと云ふと、女中のツヤは周次を見上げるやうにして、
「とても暑いんで、私、さつき水道の水を浴びましたの……」
「へえ、そりやあ、でも毒だよ……」
「でも、今日は特別に暑いんでございませうね」
「ツヤは訛りがあるけど、何處だい、國は? 新潟?」
「いいえ信州でございます……」
「へえ、信州、さうかねえ……」
「信州つても小諸なんでございますよ」
「小諸、そりやアいい處だね。――何だつたかな、小諸なる古城のほとり雲白くつて歌があつたな……山國のひとは誠實があつていいよ……」
 周次が蚊帳へはいると、ツヤが枕元へ水を持つて來た。周次は煙草をのまなかつたが、水は好きでよく飮んだ。
「おやすみなさいませ……」
 ツヤが忍び足で階下へ降りて行つた。周次は寢ながら、くみ子との出逢ひの事を考へてゐた。
(何も彼も、最早、遠きひとだよ)
 遠くでサアチライトが光つてゐる。稻妻のやうな青い光芒が、自分の家の屋根までかすめて行つてゐるのか、縁側の向うの空にさつと銀河が走つて行く。

       〇

 二三日して、くみ子から會社へあてて周次へ手紙が來た。

 先日はたいへん有難うございました。
 ああして會つて戴けました事うれしい事でございます。良人が亡くなり、自分一人になつてみると、つくづくこれからの私の生涯が怖ろしいものに思へて參ります。
 しうととも折れ合ひませんのは勿論、私がゐては餘計者のやうに云はれますので、私は里へ戻つて參りましたが、ここでも繼母はゝとはうまく參りませんでした。私にはいこひの場所も、泣く場所もないのです。東京へ出て、友達の家へ參りましたが、ここへも私は居辛く、昨日、ある知人の紹介で、私は内幸町にある小さい商事會社の事務員になることが出來ました。月給は四拾圓です。
 當分、何とかやつてゆくつもりでございます。今日、四谷鹽町に小さいアパートをみつけました。明日引越します。表記の處でございます。是非一度お出かけ下さいますやうに。末筆ながらお母上樣へよろしく。

 周次は、くみ子も落ちつく處へ落ちついたのかと吻つとする氣持ちだつた。一度は結婚のところまで寄り添つてゆきながら、どんな早瀬のかげんか、ふつと思ひもよらない遠くへはなればなれになつてしまつた二人である。――周次は、くみ子と別れ別れになつて、女も一人二人は知つたが、それは通りすがりの風のやうなもので、今に至るまで、平々凡々の生活だつたのだ。母と女中と自分の生活が、さう不自由なものでもなかつたし、新しい女中は、周次の生活にとつて、近景に花を添へたやうな感じをもたらせてくれた。
「お母さん、今度の日曜日、どこかへ行きませうか?」
 夕方、早々と歸つて母と食卓についた周次が、新聞を見ながらさう云つた。
「さうね、何處でもいいわ……何かおいしいものを食べさせる處がよろしね。水のそばか何かで……」
「ぢやア、家を閉めて皆で行くかな……」
「何處へ行く?」
「多摩川つていい處ですか? 私、まだ行つたことがないんですけど……」
 ツヤが硝子皿にさうめんをよそひながらそんなことをきいた。梅模樣の紺の浴衣に、紅い帶がツヤによく似合ふ。
「何だ、多摩川を知らないのかい? 莫迦だなア……」
「莫迦だなアつて云ふけど、周ちやん、私かて知らないのよ……」
「はア、さうですか……ぢやア、皆で一つ、そこへ行きませう? 別に大した處ぢやないけど――東京つて、さてとなると、行くところがないんでねえ」

 日曜日。
 朝から蝉が鳴きたててよく晴れた日だつた。周次達は電車で朝早く多摩川へ行つた。ツヤは川床の露出した枯れたやうな川の景色に失望したらしく、
「まア、ここが多摩川でございますか」
 と、何度も同じことを聞いてゐる。三人は堤をおりて、廣い雜草の河原をつつ切つて、船の茶店へはいつて行つた。流石に凉しい風が吹く。四五日前の雨でほんの少し水量がましたのか、澤山泳ぎに來てゐる連中がゐた。
「泳ぎたいなア、ツヤは泳げるの?」
「ええ、私、山國ですから、こんな川なんかなら自信がございます……」
「自信がある、おやおや、ぢやア、海水着を借りてやるから泳いだらいいだらう……」
 後から泳ぎますと云ふので、周次は母とツヤを船へのこして、自分は河上の方へ泳ぎに行つた。向岸は櫻並木で葉櫻には、蝉が燒けつくやうに鳴きたててゐた。
 水は肌に冷く、空の青さが川面に暗く石油を流したやうに寫つてゐる。まるで少年の日にかへつたやうに、周次はときどき耳に唾をつめながら、水の中へぐつともぐつたりした。或る川底では、水流が二つになつてゐたり、ぬめぬめした藻が、晝の陽を寫して、みどりの水面に白い影を寫してゐたりした。むれるやうな草の匂ひがする。――急に身近かに女の笑ひ聲がした。
 周次がざあつと水面へ頭を持ちあげると、赤い海水着を着たツヤが、まるで女學生のやうにハツラツと泳いでゐた。白い美しい肌だつた。腕や脚のふくらみが子供の手足のやうにぶくぶくしてゐる。
「何時來たんだ?」
「いま……」
(いま)と云ふぞんざいな言葉が、周次には可愛かつた。
「うまいんだねえ……」
「だつて、子供の頃、よく泳いだんですもの……」
「ぢやア、もつと河上へ行かう……」
「競爭しませうか?」
「生意氣云つてる……お母さんはどうしてる?」
「晝寢なさいますんですつて、空氣枕を借りて、さしあげときました」
 二人は水流にさからつて、河上へ河上へと泳いで行つた。百舌鳥もずのやうなけたたましい鳥が堤の草藪に鳴きたててゐる。蛙も地蟲も鳴いてゐる。――ツヤがぐんと躯を空に向けかへた。疲れたのか、手をやすめたすきに、ぐつと河下へツヤは二三米押し流されてゐる。周次との距離は二三米が四五米になり、何か氣力もなく呆んやり流されてゐるかたちだつた。周次は急いでバツクをしてツヤへ追ひついてゆき、ツヤの躯を岸へ押して行つた。
「どうした?」
「疲れちやつたわ」
「莫迦だなア、無理をするからだよ……」
 周次はぐつたりしてゐるツヤを抱いて、陽が燒けつくやうにあたつてゐる草の上へツヤを抱きあげてやつた。
「疲れたのか?」
「冷いでせう? 水が……」
「うん」
「やつと、何だかほかほかいい氣持ち……」
「唇が紫色してるよ。莫迦な奴だなア、そんなに力まなくつたつて……」
 周次が冷たくなつたツヤの腕をさすつてやると、ツヤはぢつと周次の手を眺めながら大粒な涙をあふれさしてゐた。
「どうした?」
「どうもしない……」
「どうもしない? だつて泣いてるぢやないか……」
「どうもしなくつたつて涙の出たくなる時あるわよ……」

       ○

 夕飯は、何時かくみ子と行つた割烹旅館で食べた。汚れた池もこはしてしまつて、縁側の下へきれいな流れが引きこんであり、擴げられた庭には噴水があがつてゐた。階下の凉しい部屋だつた。三人とも浴衣に細帶姿の遠慮のない恰好で食卓についてゐた。
「ツヤは泳げるのかい?」
 母が訊いた。
「いいえ……」
 ツヤが赧くなつてゐる。男に向つては豹の如く、女に向つては猫の如しのツヤの轉心ぶりに、周次は内心驚き呆れながら、女の種類も色々あるものだと思つた。
 女心は羽毛のやうだと云ふけれど、くみ子が結婚まぎはに、八田へ嫁いでいつたのも、このいまのツヤの轉心に、何か一脈通じたものがあるやうに思へた。
「苦しいか」と云へば、無造作に、「うん」とこたへたツヤが、母の前では、顏を赧めてはにかんでゐる。周次にはそれが一種の魅力でもあつた。
「多摩川つて夜がいいんでございませうね。あら螢が……」
 縁側へ大きな螢がすつと飛んで來て、すだれへとまつてゐる。給仕に出た女中が、山から螢を取りよせて庭へ放してあるのだと教へてくれた。
 晴れた美しい夜だつた。
 歸りは三人で川邊を歩いてみたが、時々ツヤはそつと周次の腕に凭れて來る。
(どんな男にも、平氣でこんな事をしてゐた女かも知れないな……)
 周次は、さう思ひながらも、晝間の、柔い躯を抱いた感觸が忘れられなかつた。

 家へは八時頃歸つた。
 メロンの包みを抱いて、くみ子がさはらの垣根のそばにきまり惡さうに立つた待つてゐた。母は初めは不快さうだつたが、それでもお上りなさいと云つてゐる。
 黒い明石に黄ろい帶が凉しさうだつた。
 座敷へ上ると、くみ子は如何にもなつかしさうに四圍を眺めてゐる。
「ちつとも變りませんのね。昔の通りね」
「僕は部屋の位置を替へるのあまり好かないから……」
「お母さまもお元氣で……」
「東京へ出て來てなさるンですつて? ほんまですかいな?」
「ええ、ほんとですの……でも、近いうちに一寸大阪へ戻りますのよ。――だつて、私が主人のもの全部取つてしまつたなんて、裁判沙汰になつちやつたんですのよ……」
「へえ、そりやまた大變ですねえ……」
「でも、をばさま、――私、いまになつて罰があたつたと思ひますわ……」
「何で?」
「どうしてだつて……」
 ツヤは冷たい紅茶を運んで來た。何時の間に白粉を塗つたのか。ツヤは綺麗に化粧してゐた。
「今日はどこかへいらつしやいましたの?」
「ええ、久しぶりの日曜やさかい、このひと、今日は奮發してくれはつて、家ぢゆうで多摩川へ行きましたの――」
「ああ、多摩川、あすこ、いい處ですわね……」
 くみ子がちらりと周次を眺めた。ツヤが宿屋で貰つて來た小さい團扇で蛾を追つてゐる。くみ子は、手荒く蛾を叩きつけてゐるツヤの手元をぢつとみてゐた。
「まア、女子はんの苦勞も、旦那さんの亡くなんなさつたことでとどめをさしますさかい。もう、自分で一人食へたら、呑氣に獨身でいつた方が得だつせ。私かて、もう十三年やけど、呑氣やつたなア……」
 母が、とどめをさすと云ふ言葉に妙に力を入れて云つてゐる。
「ええ、でもをばさま、うちかて、まだ二十でつせ……心細いわ……」
「さうかも知れんなア……そやけど、まア、當分は尼さんになるのもええもんでつせ」
 くみ子は默つて扇子をつかつてゐた。
 周次は二階へ着替へに行つた。すぐツヤが上つて來た。
「ねえ、多摩川の螢をみせてあげませうか?」
「とつて來たのかい?」
「うん」
 ツヤは子供のやうな亂暴な返事をして、たもとから紙へつつんだ澤山の螢を出してみせた。赤い尻尾をした螢が、すぐピンと羽根を擴げて暗い方へさつと四五匹飛んで行つた。

底本:「女優記」新潮社
   1940(昭和15)年8月13日発行
   1940(昭和15)年9月8日40版
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年8月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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