事件引継簿ひきつぎぼ


 或る冬の朝のことであった。
 重い鉄材とセメントのブロックである警視庁の建物は、昨夜来の寒波かんぱのためにすっかり冷え切っていて、早登庁はやとうちょうの課員の靴の裏にうってつけてあるびょうが床にぴったりこおりついてしまって、無理に放せば氷を踏んだときのようにジワリと音がするのであった。朝日は、今ようやく向いの建物の頭をかすめて、低いそしてほの温い日ざしを、南向きの厚い硝子ガラスの入った窓越しにこの部屋へ注入して来た。
 そのとき出入口の重い扉がぎいと内側に開いて、えたあから顔の紳士が、折鞄を片手にぶら下げて入って来た。
 課員たちは一せいに立上って、その紳士に向って朝の挨拶あいさつをのべた。みんなの口から一せいに白い息がはきだされて、部屋の方々に小さなにじが懸った。紳士は一番奥まで行って、まだ誰も座っていない一番大きな机の上に鞄をぽんと投げ出し、それから後を向いて帽子掛に、鼠色の中折帽子をかけ、それからくびから白いマフラーをとってから、最後に鼠色ねずみいろの厚いオーバァを脱いで引懸けた。それから身体をひねって、大机にくっついている回転椅子をすこし後にずらせて、その上に大きな尻を落着かせたのであった。かくして警視田鍋良平たなべりょうへい氏は、例日の如くちゃんと課長席におさまったのである。
 少女の給仕が、ふちのかけた大湯呑おおゆのみに、げんのしょうこをせんじた代用茶を入れてほのぼのと湯気だったのを盆にのせ、それを目よりも上に高く捧げて持って来た。課長は彼女がその湯呑を、いつもと同じに、硯箱すずりばこ未決みけつ既決きけつの書類ばことの中間に置き終るまで、じっと見つめていた。
 少女の給仕が、振分け髪の先っぽに、猫じゃらしのように結んだ赤いリボンをゆらゆらふりながら、戸口近い彼女の席の方へ帰って行くのを見送っていた田鍋課長は、突然竹法螺たけほらのような声を放って、誰にいうともなく、
「あーア、昨夜から、何か変ったことはなかったかア」
 と、顔を正面に切っていった。そして手を延ばして大湯呑をつかむと、湯気のたつやつを唇へ持っていった。やぶ障子しょうじに強い風が当ったような音をたてて彼はつのげんのしょうこをすすった。近来手強てごわい事件がないせいか、どうも腸の工合がよろしくない。
 ばたんと机に音がして黒表紙の帳簿ちょうぼが課長の前に置かれた。「事件引継簿ひきつぎぼ第七十六号」と題名がうってある。課長は大湯呑を左手に移し、右手の太い指を延ばして帳簿の天頂てっぺんから長くはみ出している仕切紙をたよりにして帳簿のまん中ほどをぽんと開いた。その頁には、昨日の日附と夕刻の数字とが欄外らんがいに書きこんであり、本欄の各項はそれぞれ小さい文字でうまっていた。
“――省線山手線内廻り線の池袋駅停り電車が、同駅ホーム停車中、四輌目客車内に、人事不省じんじふせいの青年(男)と、その所持品らしき鞄(スーツケースと呼ばれる種類のもの)の残留せるを発見し届出あり、目白署に保護保管中なり。住所姓名年齢不詳ふしょうなるも、その推定年齢は二十五歳前後、人相服装は左の如し……”
 課長はそのあとの文字を、目で一はけ、さっといただけでやめ太い指で紙をつまんで、次の頁をめくった。
 次の頁は空白ブランクだった。
(さっぱり商売にならんねえ)
 と、課長は、刑事時代からの口癖になっている言葉を、口の中でいってみた。ぽたりとかすかな音がした。茶色のえきの玉が空白の頁の上に盛上って一つ。課長は大湯呑を目よりも上にあげて、湯呑の尻を観察した。それからその尻を太い指でそっとでてみた。指先は茶色の液ですこしれた。課長はすこし周章あわてて茶碗を下に置きかけたが、机に貼りつめている緑色の羅紗ラシャの上へ置きかけて急にそれをやめ、大湯呑は硯箱すずりばこの蓋の上に置かれた。
 課長の仕事は、まだ終っていなかった。事件引継簿の頁の上にはげんのしょうこの液の玉が盛上っていた。課長は、机の引出から赤い吸取紙を出して、茶色の水玉の上に置いた。吸取紙は丸く濡れた。その吸取紙を課長が取ってみると、帳簿の上の水玉は跡片あとかたなく消え失せていた。課長の当面の仕事は終った。
 おれの次の仕事は、何時になったら出来てくるのであろうか――と、課長は背のびをしながら、両手を頭の後に組んだ。


   失踪しっそうの博士


 いつもなら、そういう面会人は必ず応接室へ入れるのが例になっていたが、今日ばかりは特別の扱いで、課長はいそいそと席から立って指図さしずをし、その面会人を自分の机の横の席へ通させたのである。ちょうどその日のお昼前のことであった。
 面会人は臼井うすい藤吾という姓名の青年であり、この臼井青年を紹介して来たのは、課長と同郷の大先輩である元知事目賀野めがの俊道氏であった。しかし課長は、この大先輩に対し、あまり尊敬の念を持合わしてはいなかった。
「実は重大人物が行方不明となりましたものですから、特に課長さんの御尽力ごじんりょくすがりたいと存じまして、目賀野閣下かっかから紹介して頂いたような次第でございます」
 青年臼井は、ポマードで固めた長髪を奇妙に振りながら、近頃の青年にしては珍らしく鄭重ていちょうな言葉で挨拶をしたのだった。青年の赤いネクタイが、その睡眠不足らしいれぼったいまぶたや、かさかさに乾いた黄色っぽい顔面とが不釣合に見えた。
(目賀野氏はもはや閣下ではない筈ですが……)と皮肉をいってやりたくなった田鍋課長だったけれど、それは差控さしひかえることにして、
「どういう人物だか、詳しくお話下さらんので、われわれには正体が分りませんが、とにかく家出人の捜査申請そうさしんせいは本庁でも毎日受付けて居りますから、どうぞ届書とどけしょを出されたい」
 と返答をした。
「いや、これは失礼をいたしました。故意にその人物の素性すじょうなどを隠そうとしたものではなく、その人物が如何なる人であるかを説明するには相当長い説明がりますので、とりあえず重大人物と申上げたわけでありまするが……」
「お話中ですが、われわれは非常に多忙でありますし、かつまた非常に重大事件を数多抱えて居りますために、なるべくつまらんことでわれわれをわずらわさないように願いたい。いやもちろん目賀野先生の紹介状に対して敬意を表しないというわけではありませんが、とにかく本課では目下数多の重大事件を抱えこんでいる――今も申した通りですが、例えば某研究所から二百グラムというおびただしいラジウムが盗難に遭い目下重大問題を惹起じゃっきしていまして、本課は全力をあげて約四十日間捜索そうさくを継続していますが、今以て何の手懸りもない――迷宮めいきゅう入り事件くさいですがね、これは……、それだとか次は……」
「お話中を恐れ入りますが、他の重大事件には私は殆んど関心を持って居りませんので。はい、只々ただただ重大人物博士の失踪しっそうについて非常なる憂慮ゆうりょと不安と焦燥しょうそうとを覚えている次第でございます」
「失踪事件ならば、先刻も御教えしたとおり家出人捜査申請しんせいをせられたい」
「それは分って居ります。しかしですな、その博士はあまりに重大なる人物でありまして、普通の失踪捜査申請などをしていたのでは間に合わないのでございます。いわんや博士においては家出せられるほどの事情は痕跡こんせきほども持って居られない。従ってこれは博士を誘拐ゆうかいしたと見なければならないはなはだ重大刑事事件であります。はたしてしからば、刑事部捜査課長たる足下そっかが当然陣頭に立って捜査せらるべき筋合のものであると確信いたします」
一体いったい誰ですか、その重大人物博士とやらいうのは……」
赤見沢あかみざわ博士のことです。あの有名な実験物理学の権威けんい、そして赤見沢ラボラトリーの所長、万国ばんこく学士院会員、それから……いや、後は省略しましょう。ここまで申せば、課長さんも赤見沢博士の重大人物たることをよく御了解ごりょうかいになるでしょう」
「もちろんです」課長は勢い上、そうこたえなければならなかった。「赤見沢先生が失踪されたとは、これは初耳ですな。それは何時いつのことですか」
「昨夜以来、おやしきへお帰りがない。お邸と申しましても、それはラボラトリーの一室ですが……。私は昨夜はお目にかかる約束になっていたので博士の御帰りを待って居りましたが、ついに博士はお帰りにならず、本日午前十時になっても姿をお現わしになりません。それ故にこれは大変だと思い――今までそんな約束ちがいは一度もありませんでしたからな――それで目賀野閣下に御相談をし、こちらへ駈付かけつけましたような訳です。如何です。昨夜何か都下において血腥ちなまぐさき事件でもございませんでしたでしょうか」
 臼井はきりのように鋭く問い迫る。
「昨夜はきわめて静穏せいおんでしたな。報告するほどの事件は一つもなかった。いや、正確に申せば只一件だけあった。深夜しんや池袋駅どまりの省線電車の中に、人事不省になった一人の男が鞄と共に残っていたというだけのことです」
「えっ、鞄と仰有おっしゃいましたか」
「ああ、鞄――それはスーツケースらしいですが、それが車内に残留していたので、その人事不省の人物の所持品じゃろうと……」
「その人事不省の男というのは、どんな男でしたか。年齢はどのくらい……」
「二十五前後の青年男子だと報告して来ています」
「ああ、それじゃ違う。赤見沢博士はたしか本年六十五歳になられる老体ろうたいなんですからね」
「それはお気の毒」
 と課長はいって、事件引継簿を書類ばこ既決きけつの函の中へ、ばさりと投げ入れた。


   仔猫こねこかい


 面会人臼井は、なかなか尻を上げようとはしなかった。
「これは一つ、今日只今課長さんによく認識して頂かねば、僕は帰れません。そもそも赤見沢博士の重大性なるものは……」
粗茶そちゃですが、どうぞ」
 少女の給仕が茶を入れて持って来て、臼井の前に置き課長の大湯呑にはげんのしょうこをつぎ足して来た、課長は客に粗茶をどうぞとすすめたわけだ。
「ああ結構です」と臼井はのない茶に咽喉のど湿しめし、「早く分って頂くために、そうですなあ、ああそうだ、仔猫こねこのお話をしましょう」
「仔猫?」
「そうです。猫の子ですなあ」
 課長の前の既決書類函から書類を取出していた少女の給仕は、猫の子問答のおかしさにえられなくなって、書類を抱えると大急ぎで後向きになって、すたすたと戸口の方へ駆出かけだした。
「猫の子がどうしたというんです」
「課長さん。僕が博士を始めて訪問したときに、その部屋に仔猫がいたんです。僕はびっくりして腰を抜かしそうになりました」
「君はよほど猫ぎらいと見える。ははは」
「いや違う。総じて猫というものは僕は大好きなんです。だから普通では猫又ねこまたを見ようが腰を抜かす筈がない。だからそのときはおどろきましたよ、実に……なぜといってその仔猫がですね、ちゅうにふらふら浮いているじゃないですか、びっくりしましたね」
「どうしてまたその仔猫は宙に浮いていたのですか。天井てんじょうからひもでぶら下げてでもあったのですか」
「そんなことなら、僕はきゃッなどとはずかしい声を出しやしません。その仔猫たるや、紐でぶら下げられたのでもなく、風船で吊上つりあげられているのでもなく、宙にふわふわと……」
「それは本当の猫じゃないのでしょう」
「本当の猫です。あとで僕はさわってみましたから、知っています。もっともこの仔猫は赤い腹掛はらかけをしていましたがね」
「腹掛のせいじゃないでしょう、宙をふわふわやるのは……」
「さあどうですかなあ。とにかく赤見沢博士という大学者は仔猫を宙に浮かせるような奇妙な実験をしてみせる、恐るべき人物です」
「それは魔法かな、奇術きじゅつかな」
「奇術でしょうな。博士はそのときいっていました。これは正しい学理に基く一つの実験なんだ。決してこの猫は化け猫ではないと説明されたんです」
「君はその種を知っているのでしょう。さあ聞かせて下さい」
 田鍋課長は、先刻せんこくとすっかり立場をかえ、臼井の語るのを催促さいそくした。
「僕には分りません」臼井はそういった。本当に知らないのか、それともわざと説明を逃げたのか分りかねる。「とにかくそういう重要人物なんですから、ぜひとも一刻も早く赤見沢博士を探し出して頂きたい」
「うーむ」
 課長はうなった。わが命令を出すのは極めて容易よういであるが、そういう奇術師だか理学者だか分らない変な人物を探し出すのに大掛りなことをやって、後でものわらいにならないであろうかどうかを心配した。
 課長の返事はなかなか出て来なかった。その間、臼井青年はしきりにかきくどいた。課員が、課長の前の未決書類函へ帳簿を入れていった。それは、さっきからそのへんをまごまごしている黒表紙の事件引継簿であった。
「とにかく……まあとにかく、私から係へよく話をして置きましょう。それで、博士の人相書や――写真があれば更にいいですね――それから失踪の時刻やそのときの服装、その他参考になる事柄を出来るだけたくさん書いて私の許まで提出されたい。私としては出来得るかぎりの御便宜をはかるでありましょう。どうぞ目賀野先生へよろしく」
 そういわれれば誰でも面会のおわりへ来たことに気がつくものである。臼井青年は、いい足りなさそうな顔付で、その部屋を出て行った。
 臼井の姿が部屋から消えると、課長はその途端とたんに彼から頼まれたことを一切忘れてしまった。これは永年に亙る課長の修養の力でもあったり且又かつまた習慣でもあった。“ものごとを記憶するよりは、出来るだけ忘れよ”という金言があったと確信している田鍋課長であった。
 だが課長は、間もなく臼井から頼まれたことをはっきり思い出さないわけにはいかない運命のもとにあった。それは彼が忠実に未決書類函へ手を延ばし、黒表紙の引継簿の仕切紙の挟まっているところを開いて読んだときに、そうなったからである。
 その頁は、昨夜の池袋駅事件につき、第二報告書が赤インキで書き入れてあって、
“――前記姓名未詳みしょうの男は、二十五歳前後の青年にあらずして、実は六十五歳前後の老人なること判明せり。かく判明せる原因は、がい要保護人を署内(目白署)に収容せる後に至りて、該人物が巧妙なるかつらかむり居たることを発見せるにる。なお、同人所有のものと思われる鞄は、赤革のスーツケースにして、大きさに不相応なる大型の金具及び把手ハンドルそなえ居り、その蓋を開きみたるに、長さ二尺ばかりの杉角材が四本と古新聞紙が詰めありたるほかめぼしきものも、手懸てがかりとなるものも見当らず。
 一方、前記要保護人は、収容後十時間をるも未だ覚醒かくせいせず、体温三十五度五分、脈搏みゃくはく五十六、呼吸十四。その他著しき異状を見ず。引続き監視中なり。――”
 とあったので、課長はそれと気付き、立去った臼井青年の後を課員に追わせたが、遂に彼の姿を見つけることが出来なかった。課長としては、果して目白署に保護中の当人と赤見沢博士とが同一人だかどうかは不明だが、年齢としがちょうど博士と合うので、そんと思っても、行ってみてはどうかと臼井にすすめるつもりだったのである。


   研究生すみれ嬢


 臼井は、ぼんくらではなかったと見え、その足ですぐ目白署を訪ねている。
 やっぱり、赤見沢博士であった。
 彼は署の電話を借りて、とりあえず目賀野に知らせた。目賀野はおどろいて、すぐ博士を引取りに行くからといった。
 それから一時間ほどして、目賀野は医師やら博士のめいの秋元千草という麗人れいじんや博士の助手の仙波学士を伴い、自動車で駆けつけた。そして一札いっさつを入れ、人事不省じんじふせいの博士と遺留いりゅうかばんとを内容物もろとも引取っていったのであった。
 博士を護って、一行は目黒めぐろ行人坂の博士邸へ入った。
 雑用係の川北老夫妻と、研究生小山すみれ嬢とがびっくりして博士の帰邸を迎えた。
 目賀野の指図さしずで、臼井は出迎えた人々をつかまえて話をした。
「わしは存じて居りましたでがす」と川北老はいった。「先生さまが変装なすって、そっとお出懸でかけになるところをたしかに見て居りました。はい、トランクをお持ちになっていましたなあ。おお、このトランクに違いありません。色といい形といい大きさといい……。先生さまは外出なされるとき必ず若い男になってお出懸けなさるんで、これは昨夜にかぎったことではございません。そのこみ入った理由わけはわし如き者に分ろうはずはございません。お出懸け先でございますか、それは全く存じません。先生さまは、じいや、これからどこへ行ってくるぞなどと仰有おっしゃるお方じゃございませんもんな。……坂をのぼって目黒駅の方へお出でなさったことだけは間違いねえでがす」
 博士の昨夜の行動についてしゃべったのはこの川北老だけであった。他の妻君のお綱婆さんも、小山研究嬢も、共になんにも語らなかった。
 臼井は、目賀野の指図で、もう一つの重大申入れを留守番の人々に行った。
「実は、僕はこの前からしばしばこちらへ伺って博士に或る物の御製作をお願いしてあったんだ。昨日はその出来上ったものを僕のもとへお届け下さるお約束の日だった。博士はこのトランクに入れて、僕のところへ向われたんだが、その途中であのような病態びょうたいとなられた……」
 そういっているときに、目賀野が連れていた医師が入って来て、博士の容態ようだいについて報告した。目下麻痺まひ症状がつづいている。その原因は不明である。しかし急変はないと思うから、当分このままにそっと寝かして置くがよろしく、次第によって明日か明後日から滋養浣腸じようかんちょうなどを始めることにしたいというのだった。目賀野は目くばせをして、医師をこの部屋から去らせた。そして臼井の腰の上をひじでついた。
「……そこでですね」と臼井は小山研究生と川北老夫妻へ気ぜわしく話しかけた。「このトランクとその中身とを、僕に預けていただきたいんですがなあ。もちろん博士が意識を回復されればそのとき改めて博士に申入れるつもりですが、それまでのところを、僕に預けておいて頂きたい。そしてかねがねその代償として博士にお支払いすることになっていた金十万円也を、今ここに置いて参りますから、それならあなた方も承諾して下されやすいと思う。ね、いいでしょう」
 そういって臼井は、十万円の紙幣束さつたばを三人の方へ差出した。三人はとりのようにびっくりして、すみへ固まって相談をはじめた。
 やがて相談がまとまったと見え、三人は臼井の方へ戻って来た。川北老が代表者となって折衝せっしょうの任にくものと見えた。果然彼は発言した。
「とりあえずわしら留守番の者が相談ぶったんですが、その大金はお預りしますまい。その代り品物の何と何とを持って行かれるか、その品目を書いた借用証を一札入れていって下せえ。小山さんもそういわっしゃるだ」
 臼井の眼が小山すみれ嬢の方へ動いた。すみれ嬢は猫のように大きな目をじっとえて、臼井の顔をにらみかえした。
「承知しました。そうしましょう」臼井は目賀野の信号によって、そのように返事をした。それから小机の上に紙を延べて借用証を書き始めたが、その品目を書くについてトランクをあける必要にぶつかった。開いて中を見せれば、すみれ嬢の大きい目は臼井の脳髄を突き刺してしまうだろう。彼は、そうした。
「ええー、よくごらん下さい」
 すみれ嬢は、トランクの中をめんばかりにして入念にゅうねんに改めた。彼女が用を終って顔をあげたのを見ると、そのおもてにはほっとした色があった。
「よくごらんになりましたね。品書は、一つトランク、一つ木材四本、一つ新聞紙若干じゃっかん、以上――でいいですね」
 すみれ嬢が川北老に目配せをしたので、川北老が、「はい。それでようがす」
 と返事をした。
 臼井は記名捺印なついんをして、その預り証を川北老に手渡した。川北老はそれをすみれ嬢に見せ、嬢がうなずくと、それを八つにたたんで、胸のポケットにしまってボタンをかけた。
 取引は終った。
 目賀野と臼井は挨拶をして、玄関を出た。待たせてあった自動車の中には、さっき活躍した医師と、若い男女が各一人待っていた。その若い男女は、さっき目白署において、博士の姪の秋元千草と博士の助手たる仙波学士と名乗った二人であったが、この二人はこのさわぎを他処よそに自動車を下りもせず、ぽかんとしていた。それもその筈、実は両人は博士の姪でもなく助手でもなく、目賀野が便宜べんぎ上連れて来た脇役の人物であったのだ。その便宜とは、もちろん署から疑いを持たれることなしに、博士と鞄とを引取ることにあった。
 こうなると目賀野という人物は、なかなか油断のならない重要人物であることが知れて来るが、彼の本来の面目は次の章において一層よく知れよう。


   秘密地下室


 省線田端たばた駅を下りて西側に入り、すぐ右手の丘をのぼり切るとそこに目賀野邸があった。
 鞄を護衛した目賀野たちの自動車が、邸内にすべりこんだ。
 玄関にとびだして来た書生が三名。自動車の扉が明いて、ぴょんととび下りたは目賀野であった。
「さあ、こっちへ寄越せ」
 と、目賀野が伸ばす手に、車内から続いて現われた臼井が例の鞄を手渡す。
「おい臼井。お前だけ、わしについて来い。外の奴は、邸のまわりを厳重に警戒してれ」
 目賀野はそういいすてて、鞄を大事に片手にぶら下げて、どんどん奥へ入っていった。臼井は遅れまいと、そのあとを追う。
 自動車から最後に下りた草枝と千田が、顔を見合わせてにやりと笑った。二人は連れ立って、別の小玄関から上にあがった。
 目賀野は、廊下をどんどん鳴らして、奥へ奥へと入っていった。一等奥に、洋間があった。彼はポケットから鍵束を出して鍵を探していたが、やがてその一つを鍵穴に入れて廻した。
 重い扉は、始めて開いた。
 目賀野は鞄を持って、中へ入った。
「臼井。うしろを閉めろ」
「はい」
 扉が閉められた。と、自動式にじょうがぴしんと掛った。
 この洋間には、窓が一つもなかった。しかし天井からは豪華なシャンデリアが下って、あたりを煌々こうこうと照らしていた。大理石のマンテルピース、一つの壁には大きな裸体画、もう一つの壁には印度更紗サラサが貼ってあった。立派な革椅子に、チーク材の卓子など、すこぶる上等な家具が並んでいて、床をおお絨氈じゅうたんは地が緋色ひいろで、黒い線で模様がついていた。
 隅のところに、上から見ると三角形になっている隅の飾戸棚があった。目賀野はその戸棚の硝子戸ガラスどをあけた。洋酒壜が並んでいた。
 その中は、瓢箪ひょうたんを立てたような青い酒壜があった。目賀野はその酒壜の首をつかむと外に出し、もう一方のいた手を戸棚の奥へ差入れた。そして何か探しているらしかったが、すると突然、裸体画のはいった大きな額縁がくぶちが、ぐうっと上にあがったと思うと、そのあとにぽっかりと四角い穴が開いた。そしてその穴の中に、地下室へ続いているらしい階段の下り口が見えた。
「臼井。その鞄を持って、こっちへ下りて来てくれ。鞄は大切に取扱うんだぞ」
「はい、承知しました」
 目賀野のあとについて、臼井は鞄を持って秘密の階段を下へ降りていった。
 下には十坪ほどの秘密室があった。この外にも倉庫や地下道や抜け穴などがあった。目賀野自慢のものであった。
「さあ、鞄をここへ載せて……そしていよいよ赤見沢博士謹製きんせい摩訶まか不思議なる逸品いっぴんの拝観と行こうか」
 目賀野は、童のようににこにこ顔だ。
 臼井が鞄を卓上へ載せる。
「開いていいですね」
「ああ、あけてくれ。丁重ていちょうあつかえよ」
「はあ」
 臼井は、鞄についている金色の小さい鍵を使って、そのスーツケースを開いた。
 鞄の中には杉の角材かくざいと見えるものが四本と、新聞紙と見えるものが十四五枚とが入っていることは、さっき調べたとおりであった。
「さっきは、ひやひやしたよ。これを調べているうちに一件がもそもそ動き出しやしないかなあと思ってね」
「はあ」
「とにかく、ひどく心配させたが、これをこっちへ引取ることが出来たのは非常な幸運だった。――いや、君の骨折ほねおりも十分に認める。さあ、その材木みたいなものを、外に出したまえ。そっと卓子へ置くんだよ。乱暴に扱うと、急に跳ねだすかもしれないからなあ」
 目賀野は、なんだか訳のわからない無気味なことをしゃべって大恐悦だいきょうえつていであった。
 臼井は、鞄の中から角材を出した。四本とも皆出して、卓子の上にそっと置いた。また新聞紙も皆出した。鞄の中は空っぽになった。
「さあ、これでいい訳だ。おい臼井、その鞄を閉じてくれ」
 目賀野の命令どおり、臼井は鞄の蓋をばたんと閉めた。
 目賀野の顔は、いよいよ緊張に赭味あかみを増した。彼の目は鞄にくぎづけになっている。
 が、そのうち彼の目は疑惑にくもりをびて来た。
「どうもおかしい。鞄はおとなしい。おかしいなあ。……ああ、そうか。臼井。その鞄に鍵をかけてみろ」
 臼井は命ぜられるとおりに、鞄の錠に鍵を入れて、錠を下ろした。
 鞄は卓上に於て、再び熱烈な目賀野の視線を浴びることとなった。
 四五分経つと、目賀野の顔がすこしあおざめた。彼は鞄の傍へ寄ると、いきなり鞄を持上げ、力いっぱい振った。
 それがすむと、彼は鞄をもう一度、そっと卓子の上へ置いた。それから、じっと鞄を注視ちゅうしした。
 彼は小首をかしげた。
 もう一度鞄を抱きあげると、上下左右へ激しく振った。それがすむと、卓子の上へ戻した。但しこんどは鞄を横に寝かせて置いた。
 彼は腕組をして、鞄を睨据にらみすえた。
 一分二分三分……彼の顔はこわばった。と、彼はその鞄を手にとるが早いか、どすんと臼井の足許へ投げつけた。
「な、なにをなさるんです」
 臼井の顔も蒼くなった。
「ばかッ。この鞄は、ただの鞄じゃないか。こんなものをありがたく受取って来て、どうするつもりか」
 目賀野は、満身朱盆しゅぼんのようになって、臼井を怒鳴どなりつけた。
「ただの鞄だと断定するのは、まだ早すぎると思います。もっとよく研究してみるべきではないでしょうか」
「駄目だ。これだけ色々とやってみても、がたりともせんじゃないか。ただの鞄に過ぎないことは明白めいはくだ。赤見沢博士謹製のものならこんなことはない」
「おかしいですね。……博士はこの鞄と共に警察署へ保護されていたんで、間違いはない筈なんですがね。それとも……」
 と、臼井はしばらく自分のおでこを指先でつまんで考えこんでいたが、そのうちに彼は指を角材の方へ指した。
「ああ、これだ。この杉の角材ですね。この中に博士の仕掛があるのですよ。閣下の御註文ごちゅうもんのとおり鞄にして置くと目に立つという心配から、仕掛はこの角材の中にめて邸から持ち出されたんじゃあないでしょうか。いや、それに違いないです。そうでもなければ、ねえ閣下、鞄の中に杉の角材などを大事そうにしまっておくわけがないですよ」
 臼井は、勇敢なる説を立てて、目賀野を説服せっぷくにかかった。
「杉の角材の中に仕掛があるというのか。それはどうも信ぜられないね。しかし念のためだ、調べてみろ」
 目賀野は臼井を督励とくれいして、四本の杉の角材を手にとるやら耳のところまで振ってみるやら、それから目方を考えてみるやらして、さまざまな診察を試みたが、その結果は、杉の角材であるという以外の化物ではなさそうであった。
「貴様のいうことは出鱈目でたらめだ」
 目賀野は再び激昂げきこうに顔をあかくし始めた。
「待って下さい。博士の仕掛は、この角材の中にしっかり入っているんでしょうから、この角材をなたで割ってみましょう」
 臼井は、部屋の隅のはこの中から鉈を出して来て、角材をぽかりとたてに二つに割った。それから中を調べた。が、それは杉の角材であるに十分であったが、他の何物をも隠していなかった。
 臼井は、次々に残りの角材をぽかりぽかりと割ってみた。すべては、只の角材であるという以外に、何の新発見もなかった。
「それ見ろ。なんにもないじゃないか。貴様は恩知らずだ。底の知れない鈍物どんぶつだ。ああ貴様のような奴は、もうわしのところへは置いておけない。とっとと出て行け」


   不意討ふいうち


 臼井の顔が、酒に酔った人のように真赤になる。目賀野の顔色はすごいまでにあおい。
「こんなにまでして貴方につくしているのが分らんですか」
 臼井が残念そうに声をふり絞った。
「わしの命令から逸脱いつだつするような者をこのまま黙って許しておけると思うか。事の破綻はたんはみんな貴様のよけいなことをしたのに発している。こんな鞄が何に役立つ。この材木は一体何だ。風呂桶ふろおけの下で燃すのが精一杯の値打だ」
「そんな筈はないんですがなあ。もっと慎重によく調べさせて下さいよ」
「その必要はない。何もかもおれには分っとる。おまけに博士をあんなに生けるしかばねにしてしまって。……わしの計画は滅茶滅茶めちゃめちゃじゃないか」
「博士は外出時に変装するということを貴方が僕に注意しなかったのが、そもそも手落ちですよ」
「博士のラボラトリーの前から警戒監視すべきが当然だ。しかるに貴様は骨を惜んで田端駅で待っていた。横着者おうちゃくものめ。そして博士が到着しないと分ると、そこで初めて目黒へ駆けつけた。そのときはもう後の祭だ。博士はもの言わぬ人となって目白署へ収容され……そうだ、まだ貴様にいうことがあった。貴様は田鍋のところでよけいなことをしゃべったな。知っているぞ、ちゃんと知っている。博士の部屋へ入ると、猫の子が宙に浮いてばたばたやっていたと喋ったろう。それから博士に仕事を頼んだことまでべらべら喋っちまったんだろう。どうだ、それに違いなかろう」
「それは……それは、そういわないとあの場合、捜査課長の心を動かすことが出来なかったからです」
「バカ。捜査課長にあれを連想せしめるような種を提供して、わしの方は一体どうなると思うんだ。田鍋のやつは、勘は鈍いが、あれで相当克明こくめいでねばり強いから、そのうちにはきっと一件を感づくに違いない。そうなったら……ああ、そうなったら万事休ばんじきゅうすだ。わしの最後の一線が崩れ去るのだ。憎い奴だ、貴様は……」
「まだ投げるのは早いです。打つべき手は、まだいくらでもありましょう。こんどは間違いなくやります。一命をなげうってやります。命令して下さい」
「貴様に対する信用はゼロなんだが……よしもう一度使ってやる。いいか、こうするんだ。田鍋のところへ行くんだ。さっきの十万円で買収だ。買収に応じなかったら田鍋の奴を早いところ誘拐ゆうかいしてしまえ」
「はい」
 と、電話が外から懸って来た。
 目賀野は電話器を取上げた。彼は簡単な返事をして電話を切った。彼の奥歯がぎりぎりと鳴っていた。
「臼井、早くしろ。十万円はその書類棚の上に入っているから、開いて出したまえ」
「はあ」
 臼井は書類棚のところへ行った。と、彼の脳天のうてんにはげしい一撃が加わって、彼は意識を失ってしまった。
 目賀野は、ほっと一息ついて、手にしていた丸い盆を、隅の卓子へかえした。それから隣室へ通ずる扉を開いて、大声で呼んだ。すると、いつぞやの若い男と女とが、奥からとび出して来た。それを見ると、目賀野はいった。
「一時この邸から退去せにゃならなくなった。千田はこの臼井をかついで霊岸橋れいがんばしへ行って、辰馬丸に乗込んですぐ出てくれ。行先はいしまきだ、草枝はもんぺをはいてわしといっしょに来てくれ。松戸へ出てから、すこし歩くことにするからなあ」
 そういっているとき、天井に取付けてある高声器が、がらがらと雑音を出してから、ひとりで喋りだした。
「警視庁の自動車が門前に停りました。三人の紳士が今玄関に立ってベルを押しています。一番えらそうな紳士はねずみ色のオーバーを着た大男です……」
 そこまで聞くと、目賀野は万事を悟った。
「捜査課長の田鍋が来たんだ。さすがに早く気がついたな。さあ千田、今のうちに地下道を通って長屋から出て行け。草枝は裏から抜け出ろ。そして松戸の駅前の丸留の家で待っているんだ。もんぺはそこで借りりゃいいぞ」
 目賀野はそういって命令を伝えると、彼自身は隣室へとびこんで、ばたりと扉を閉じた。


   鞄の怪談


 田鍋課長一行は、一向要領を得ないで、目賀野氏が留守だという邸から引揚げた。もし課長が、今しがたそこの地下室での出来事を勘づいていたら、そのように温和おとなしく帰りはしなかったろう。
 目賀野は行方不明となった。だが、田鍋は別に大して重要と思わないから、捜査命令を出しはしなかった。その代り彼は赤見沢博士の容態ようだいには十分の警戒を払い、専門の警察医を附添わせた。
 こうして、何だか正体しょうたいの分らないこの妙な事件は、田鍋課長側と目賀野側との間に喰いちがいのあるままでそれから先を別々に進行していった。
 臼井は、あれから船に乗せられると間もなく正気づいたが、自分が船内に軟禁なんきんされている身の上であることを、千田から話されて知った。こうなれぼ当分温和しくしているより仕方がない。そのうちに千田や船員が油断ゆだんをするだろうから、脱出も出来ようと考えた。但し脱出したのがよいか、しないで辛抱していた方が安全か、これはとくと考えてみなければならない問題だと思った。
 ちょうどその頃、東京に一つのふしぎな噂が流れはじめた。それは怪談の一種であるとして取扱われていた。人影もない深夜しんやの東京の焼跡やけあとの街路を、一つのトランクかばんがふらりふらりと歩いていた、そのトランクを手に下げている人影も見当らないのに、トランクだけが宙をふわりふわりとれながら向こうへ行くのを見たというのだ。
 もし事実なら、奇々怪々ききかいかいなる出来事だといわなければならぬ。
 その怪事の目撃者というのは、焼跡に建っている十五坪住宅の主人で、昼間は物品のブローカーをしている人だったが、その人が夜中かわやへ入って用を足しながら何気なく格子の外をのぞいた、折柄おりから二十日あまりの月光が白々と明るく一面の焼跡と街路を照らしていたが、そこへ突然かのトランクが現われて、主人の目の前をすたすたゆらゆらと通り過ぎていったのだそうな。
寝呆ねぼけていたんじゃねえよ。へん、この世智辛せちがらい世の中に誰が寝呆けていられますかというんだ。信用しなきゃいいよ。とにかくおれは、ちゃんとこの二つの眼で鞄の化物を見たんだから……」
 と、その目撃者はたいへん自信に充ちて放言ほうげんしたという。
 だが、およそ常識のある者なら、かの自称目撃者の言葉を信じようとはしないだろう。奴凧やっこだこや風船なら知らぬこと、重いトランクが横に吹き流れて行くとは思われない。
 では、トランクの幽霊ゆうれいか。トランクに霊あるをいまだ聞いたことがない。
 結局この噂話は、一篇の笑話と化して笑殺しょうさつされるようになったが、その頃、また別の噂が後詰ごづめのような形で伝わり始めた。それはやっぱり鞄変化へんげに関するものであった。
 何でも新宿の専売局跡の露店ろてん街において、昼日中ひるひなかのことだが、ゴム靴などを並べて売っている店に一つの赤革の鞄が置いてあったが、この鞄がどうしたはずみか、ゆらゆらと持上って、ゴム靴の海の上をすれすれに往来へ出ていったのである。店番をしていた若者はびっくりして後をけた。幸いその鞄は隣の店の前あたりにうろうろしていたので、かの店員は鞄に追いついて、左右の手をもって鞄の両脇からき留めたのである。これは重大な事柄であると後に分ったことであるが、そのときかの店員が鞄を取り押えたときの筋圧感きんあつかんはといえば、一向鞄を取り押えたような気がせず、なんだか幕に手をかけて引いたように感じたよしである。つまり非常に軽々と感じ、そして少し遅れて慣性かんせいのようなものをも感じたというのである。
 その店員の感想にはもう一つ附加えるべきものがあった。それは彼が手を取押えたトランクの横腹から、そのトランクの把柄はへいへ移し、トランクをさげたときのことであるが、彼はずっしりとしたトランクの重さを急に感じたというのである。それはなんだかにわかにトランクの中へ或る重い物が入ったように感じたのである。そこで彼は念のためトランクをゴム靴を並べてあるその上に置くと、トランクの懸金かけがねをひらいて開けてみた。が、トランクの中には何も入っていなかった。全くからっぼであったのだ。
 彼は拳固げんこをこしらえると自分の頭をごつんと一撃してからそのトランクの口をめて再び店の一隅へ並べた。
 しばらくは何事もなかった。
 ところがそれから二三十分経ったと思われる後のこと、例のトランクは再び、のそのそと店から外へしていったのである。店員はそれを見て知っていた。そのトランクを後から抱き停めなければ損をするおそれがあるという気持と、気味がわるくて手が出せないという気持が、彼の心の中で闘いを始めた。そのうちに鞄は往来へ飛び出し、彼の眼界から失せた。そこで彼の心の中に怫然ふつぜんと損得観念が勝利を占め、彼はゴム靴の海を一またぎで躍り越えて往来へ飛び出した。そのとき彼はなぜか声が出なかったそうである。大声で叫んで人々を集めればよろしかったのにもかかわらず、なぜか無言のままだった。それは多分、そのとき軽率けいそつに叫び声をあげて人々にこの事件を知らせたが最後、結局は彼自身の頭が変になっていたんだなどと後に指摘されることになってはいやだと思ったらしいのである。
 トランクはどこへ行ったろう。
 店員はそれを発見するのに大して骨を折らなかった。その赤革のトランクは、金色の金具を午後の太陽の反射光でまぶしく光らせながら、広い道路を半分ばかり渡り、地上約三尺ばかりの高度を保って、なおも向いの側の人道へ辿たどりつこうとしていた。
 と、左の方から一台のトラックが疾走しっそうして来て、っという間にそのトランクに突きあたった。トランクは、フットボールのようにはじかれて上へ舞いあがった。と思う間もなく下へ落ち始めた。するとその下へトラックの車体がすうっと入って来て、トランクを受け留めた。そのトラックはからであった。そのトラックは、始めトランクに突き当ったそれだった。かくしてそのトラックは速力をゆるめることなしに、店員にガソリンの排気はいきをいやというほど引掛ひっかけて遠去とおざかっていってしまったのである。
 店員は、トラックの番号をおぼえることさえ忘れて、呆然ぼうぜんと立ちつくしていた。なんという気味のわるいトランクだろう。ぶたのように跳ねあがり、通りすがりのトラックへとびこんで逃げてしまいやがった。これで、今朝、顔色のわるいカーキ服の男から三百円で買い取った品物をなくして、三百円丸損となってしまったぞと、大いにうらめしく思った。
 この話が、誰から誰へとなく拡がって行ったのである。


   怪異かいいは続く


 東京朝夕新報の朝刊八頁の広告欄に、気のついた人ならば気になったであろうところの三行広告が二つ並んで出ていた。
紛失ふんしつ、赤革トランク、特別美かつ大なる把柄はへいあり、拾得届出者に相当謝礼、姓名在社三二五番
 もう一つは、次のとおりであった。
○紛失、赤革トランク、特別美且大なる把柄あり、拾得届出者に莫大ばくだい謝礼、姓名在社三二六番
 つまり両方とも赤革トランクを返してくれと訴えているものだった。
 前日トラックの運転手は、空トラックを店のガレージの前に停め、車体の点検を行ったとき、ふしぎなことに、後の荷置き場のすみに赤革トランクがさかさになって置かれてあるのを発見した。彼はそれを下へ下ろし、開いても見たが全然見覚みおぼえのないものだった。
 そのうちに朋輩ほうばいの誰彼がそのまわりに集って来た。そしてこのようなすてきな鞄を何処で手に入れたのかと知りたがった。
 かの運転手は早速返事をして途中までしゃべったが、そこであとの言葉をみこんだ。そしてにわかに彼は一つの創作をひねりだしてそれを以て返事にそうとしたとき、支配人の酒田が割込んで来て、その鞄を欲しがった。結局、運転手はその鞄を百円札五枚で支配人に譲り渡した。売った方も買った方もにこにこしていた。
 酒田はその鞄を手にぶら下げて、そこから程遠からぬところにある彼の邸へ歩いて帰った。彼は目下やもめ暮しであった。家族たちはまだ疎開そかい先にくぎづけのままだった。東京のこの家には、家政婦の老婆が一人仕えているだけだった。
 酒田はその鞄を持って帰ると、押入を開いて、下の段の奥へ押込んだ。そしてすぐふすまを閉めた。どういうわけでそうしたのか明瞭めいりょうでないが、多分あまり安く値切って買ったのが気になっていたのかもしれない。
 夕食後、彼は居間に引籠ひきこもった。例の鞄を押入から出して、絨氈じゅうたんの上に置いて開いた。それから彼は箪笥たんすの引出をあけて中からなまめかしい婦人の衣類を取出し、それを一々電灯の灯の近くへ持っていって眺め、指先で布地をつまみ且つ匂いをいだ。そして二種類にけて積んでいったが、その一方を例の鞄の中へていねいに入れ始めた。長襦袢ながじゅばんもあるし、錦紗きんしゃもあるし、おめしもあり、丸帯もあり、まるで花嫁御寮ごりょうの旅行鞄みたいであった。その上にも彼は、隅の金庫を開いて中から取出した貴金属細工のついた帯留おびどめや指環の箱、宝石入りのブローチの箱、腕環うでわの箱などをその鞄の中、ほどよきところへ押込んだ。最後に特別になまめかしい鹿ぢりめんの長襦袢を上にのせ、それから鞄の蓋をしめたのであるが、ぎゅうぎゅうに詰まっているので蓋は外に向って太鼓腹たいこばらのようにふくらんだ。そのあとで彼、酒田は意外なことを発見して強く舌打したうちをした。
「ちょッ。この鞄には、鍵が二箇もぶら下っているのに、肝腎かんじん錠前じょうまえがついていないじゃないか。見かけによらず、とんだインチキものだ。ええッ、腹が立つ!」
 鍵はあれども鍵穴がない。これでは仕様しようがない。折角せっかくトランクに詰めて、明日は横浜へ売りに行こうという寸法だったが、鍵のかからないトランクでは、あっちへ持っていったり、こっちへ預けたりしているうちにあぶないことになりそうだ。だが、折角ぎっしり詰めこんだものを、他のトランクに移すのは面倒めんどうだ、今夜はこのままにして、後は明日のことにしようと、闇屋やみやの旦那はこのところいささか過労のていにて、寝椅子の上へ身体をのせた。
「旦那さま。もうここの戸締とじまりをいたしてよろしゅうございましょうか」
 婆やの声である。
 酒田が、めておくれというと、婆やさんは硝子ガラス戸をあけて、長い廊下をほうきでさらさらとき出し、それから戸袋のところへ行って板戸を一枚一枚繰り出し始めたのである。そのとき勝手の方で電話のベルが鳴りだした。婆やさんはそれに気づいて勝手の方へけこんで行く。やがて婆やさんが再び駆け出して来て、酒田へ電話を取りつぐ。そこで酒田は寝椅子ねいすからむっくり起上って、婆やと共に勝手の方へ行く。電話機は勝手の廊下の隅にあって、そこは暗いので、婆やさんは電灯を急いでりかえなければならなかった。
 こうして僅か十分足らずの時間、お座敷の方を空虚くうきょにして置いただけで、電話が終ると酒田と婆やさんとは再びお座敷の方へ戻って来て、婆やさんは雨戸あまどの残りを戸袋からり出すし、酒田はラジオをちょっとひねって、そして男女合唱がとび出して来ると、すぐスイッチをひねって消し、それから煙草をつけて安楽椅子へ腰を下ろしたんだが、たちまち彼はバネ仕掛の人形のようにとびあがった。
「あれッ、ここに置いてあったトランクが見えないぞ。……トランク、どこへ持って行った?」
 それからの騒ぎを一々克明にここに写しているいとまはない。とにかくかのトランクは煙のように消えてしまったのである。庭の植込みに隠れていたかもしれない泥坊どろぼう詮議せんぎや、一応は疑われた婆やさんのこと、酒田の物忘れについての疑惑ぎわくなど、いろいろのことが入りくんでややこしくなったのであるが、誰しもまさかトランクが悠々と絨氈の上から腰をあげ、明け放しの硝子戸の間から、朧月夜おぼろづきよの戸外へと彷徨さまよい出たものとは思わず、その事実を推理し得た者はなかったのである。
 それからそのトランクはどういう出来事にぶつかったか。
 外濠そとぼりの堤の松の下の暗闇くらやみを連れだって行く若い女と男とがあった。女は男に対して強硬な態度をとって、男を引放してずんずん足を早めていた。その女はやがて――そのままで推移せば男のために締め殺されて、枯草の上に身を横たえなければならないのであったが、運命のくすしき足取は、女の生命を危局の寸前に救った。それは今やねずみに向って躍りかかろうとする猫の如きその男の腰に、どすんと突き当った赤革のトランク一箇――女は生命を捨てずに済んだ。男は荒療治あらりょうじを決行するに及ばなかった。男も女も、一応妖異よういに対する恐怖心を起しかかったが、それは慾心によって簡単に撃退された。開いた鞄の中のすごい内容物はあらゆる問題を解決した。女は急に男に対してやさしくなり、そしてその鞄を二人で守って男のアパートへ入り、同棲どうせい生活の第一夜を絢爛けんらんと踏み出すことに両人の意見は完全なる一致をみたのであるが、この詳細もここにくだくだしく描写しているいとまはない。
 それよりは問題はトランクの運命にある。そのトランクは翌朝両人が目ざめてみると、たしかにそこに置いた筈の夜具のすそのところには見当らず、両人は目を皿にして部屋中をい廻ったがどこにもなく、そこで両人互いに相手を邪推じゃすいして立廻りへと移行したが、両人が相手の顔をじて天井へ向けたときに、そこにぴったり吸いついている前夜のトランクを両人が同時に発見した。そこで両人は再び協力し、誰がトランクを天井のさんに釘をうってそれへ引掛けたかを怪しみながら、机に椅子を積み重ね、箒や蝙蝠傘こうもりがさやノックバットまで持ちだしてそのトランクを下ろそうと試みた。そのうちにどうした拍子ひょうしかトランクの蓋が開いて、その中身が五彩ごさいの滝となって下に落ちて来た。両人がそれにとびついて、かき集めている間に、トランクは明いた窓から黙って外へ飛び出していった。
 トランクの後を追って書きつけていると際限さいげんがないので、しばらくトランクから離れた話をしようと思う。


   帆村探偵登場


 冬日の暖くさしこんだ硝子ガラス窓の下に、田鍋たなべ捜査課長の机があった。課長と相対しているのは、長髪のてっぺんから地肌じはだがすこし覗いている中年の長身の紳士だった。無髭無髯むしむぜんの顔に、細い黒縁くろぶち眼鏡めがねをかけ、脣が横に長いのを特徴の、有名なる私立探偵帆村荘六ほむらそうろくだった。一頃から思えば、この探偵も深刻にふけて見える。
「猫の子が宙を飛べるものなら、鞄が宙を飛んだって、仔猫の場合以上にふしぎだとはいえないわけですね」
「いや帆村君、それは違うだろう。猫の子が宙を飛ぶのは許さるべきとしても、せいなき鞄が宙を飛ぶのは怪談だよ。その怪談におびやかされてわが五百万の都民は枕を高うしてねむれないと山積する投書だ。あれあのかごを見たまえ」と課長は、二つ三つ向こうの部下の机上を指す。それはもっともな風景を見せていた。
「怪談ということでは、この事件の解決はちょっとむずかしいですよ。物理学で行くなら、仔猫も鞄も同じ格です。そしてそらに飛ぶ場合も考えられないことはない。課長さん、そのことについて赤見沢博士の助手の何とかいう婦人にただしてみましたか」
「だめだ、あの小山すみれは。ああいう女は、一旦依怙地えこじとなったら、殺されてもしゃべらないものだ。赤見沢はさすがにそれを心得て雇っている。沈黙女史は今のところそっとして置くしかない。しかし――帆村君。生もない鞄がなぜ飛び得ると考えるのか、怪談以外の考え方に於て……。ねえ君、林檎りんごも落ちるよ、星も落ちる、猿も木から落ちる」
「万有引力が正常普通に作用するかぎり、それはその通りです。猫の子が宙を飛び、鞄がくうを走るためには、それらの物体に万有引力と反対の方向に作用する相当の力が働いていると断定して間違いないわけでしょう。課長さん、これに答えて下さい」
「さあ、わしには分らんね、全く……」
「万一に考えられることは、特別の浮力です。物体が空気の中にあるために、自分が排除はいじょする容積だけの空気の重量に等しい浮力が、万有引力と反対方向に働いているのですが、こんなことは断るまでもない常識事です。そしてその浮力が仔猫の場合に於ても、鞄の場合に於ても万有引力に比して殆んど省略し得る程度の微小びしょうなる力です。これはこれで片づいたとして第二に考えられることは……」
「頭の痛くならんようにしゃべることはできないものかね」
「ごもっともです。……それでそれは――第二に考えられることは、万有引力常数を変えてしまうこと。第三には第三の物体を誘致ゆうちきたって、それによる引力を、万有引力以上にき目を持たせること。それから第四に、アインシュタインの設定した万有引力テンソルを……」
「待った。もうたくさん」
「第四は、今の場合論じなくてもすみますから、横へどけて」
「みんな横へどけて、怪談へ戻ろうじゃないか」
「とんでもない。要するに、第二又は第三の素因そいんによって、仔猫が宙を飛び、鞄が空を走るものと推定し得られないことはない。赤見沢博士のユニークな頭脳はそれを装置化することに成功したのではないか。仔猫が飛び鞄が走るは、その装置化の成功を語っているのではないか。しからばもはや鞄が深夜しんや焼跡やけあとをうろつこうと、真昼のビル街をかすめようと問題ではない。そうでしょうが……」
「いや、おかしいよ。鞄は必ずしも空中を泳いでばかりはいない。神妙に下に落着いていることもある」
「そんなことは仕掛の工合ぐあいでどうにでもなりますよ。たとえぼ、鞄の把柄を手に持って鞄を下げているときには、スイッチがはずれるようになっていて異変いへんは起らない。しかし把柄が握られていないときはスイッチが入って、鞄は例の素因そいんにより万有引力にまさって浮きあがる――つまり鞄とその中身との重さが一枚の羽毛ほどの重さに変わってしまう。そういうわけでしょうな」
「実際に出来るのかね、そんな仕掛が……」
「発明が出来れば、あとは仕掛を作ることなんかきわめて容易よういですよ」
「ふうん、そんな鞄がどんどん現れて管下一円かんかいちえんおびやかすことになれば、わし達は鞄狩りに手一杯となり、他の仕事が出来なくなるだろう。とにかく怪談にせよ引力にせよ、一大事件だ。早いところその核心かくしん摘出てきしゅつして、犯人を検挙せにゃいかん」
「犯人というほどのものじゃないでしょうに。それに赤見沢博士は今も人事不省じんじふせいを続けていて、何一つ出来ない」
「わしは赤見沢が真実不能者かどうか、厳重に監視をしている。ついでに、あの女も小使夫婦も見張っている。赤見沢たちの犯行は、例の臼井という若僧や前知事の目賀野が出て来れば分ると思うんだが、どういうわけか彼等は姿を見せん。それはなぜだろうか、どうも分らない」
「その臼井氏や目賀野氏の行方こそ、即急そっきゅうに突きとめなければならないですね。それから、鞄は一日も早く取り押えなければならない。それと例の仔猫です。あの仔猫はどうなったか、あれはぜひ突き留めなければならないですね」
「はあ、仔猫か。あんなものは大したことはあるまい」
「いや、そうじゃないですよ。あれこそ最も重視すべきものだ」
「もうそろそろ本格的にけ猫になる頃だという意味かね」
「あの助手女史が保管していないでしょうか」
「あっ、そうか。よし、白状させてみる。不都合な奴だ」


   名探偵ノート


 その夜、田鍋課長と部下二名は、帆村荘六をまじえて、ひそかに赤見沢博士の研究所をして出発した。このことは絶対に秘密裡ひみつりに行われた。捜査課長ともあろうものが、私立探偵の手を借りたなどという風評ふうひょうがたっては、田鍋警視ははなはだ困るのであった。
 もっとも課長は、今夜の行動を、役所の用事とはしないで、お化け鞄と猫又ねこまたに興味を持つ帆村荘六を援助するための特別行動である――と、彼の部下二名に説明してあった。
 帆村は、お化け鞄については、前章に述べたような見解をしていた。しかし彼は、この鞄の素性すじょうについてまだ突き留めていないことは、田鍋課長の場合と同じだった。
 だが彼が、この事件に異常な興味を持って、解決に一生懸命の努力を払っていることは誰の目にも明白であり、従ってそのお化け鞄についての考察については、誰よりも深いものがあり、そのことを田鍋課長もはっきり認めていたればこそ、こうして帆村荘六のうしろについて行く気にもなったのである。正直な話が、課長としては、このお化け鞄事件ぐらいやりにくい事件は、本庁に奉職以来に一度も先例のないものだった。
 今夜の行動は、帆村の示唆しさするところに従って、田鍋課長が蹶起けっきしたという形になっていたが、実のところ課長としては何等自信のあることではなかった。行きあたりばったりに何かつかめるかもしれない、とにかく助手の小山すみれをしぼってみれば何か出て来やしないか――ぐらいの予想しか持っていなかった。
 これに対して帆村荘六の方は、ずっとたしかな筋として、今夜の行動を割り出しているのだった。すなわち帆村の考察によれば、まず第一に、お化け鞄の誕生は赤見沢博士の研究所に違いないから、どうしてもそこをもっと詳しく調べる必要がある。まことに彼はその研究所へ一度も足を踏み入れたことがないのであるから、今夜はぜひ入って調べてみたい。
 第二に、あのお化け鞄の製作を注文したのは元知事の目賀野であることは、臼井の話から想像がつくが、目賀野は一体その鞄をどんな目的に使用するつもりであったか、そのことは注文主として当然赤見沢博士に語ったことであろうし、従ってその製作の助手をつとめた小山すみれ女史にも全部又は一部が通じられている筈である。一体その目的は何であるか。それが分ればこの事件の解決はずっと早くなろう。また、それが分れば、或いはこの事件は更に重大なる特性を曝露ばくろして前代未聞ぜんだいみもんの大事件に発展するのではなかろうか。これは永年探偵等をつとめて来た帆村の第六感であった。
 それから第三に、お化け鞄と、赤見沢博士が電車の中で後生大事に抱えていた鞄――その中には杉の角材四本などが入っていた方の鞄――この両者の関係が、まだはっきりしないのであるが、これもなかなか重大問題だと思う。なぜなればこの問題には、赤見沢博士の遭難事件が関係している。つまり赤見沢博士が怪漢かいかんのために襲撃されたのは、お化け鞄を持っていたことによるらしく思われる節がある。博士はお化け鞄を怪漢のために奪われたのではあるまいか。そしてその代りとして、只の鞄が博士の昏睡体こんすいたいの横に置かれてあり、共に目白署に収容されたのではないか。
 帆村は、この二つの鞄を区別して考えていた。係官の中には、両者を同一の鞄とし、それが時には普通の鞄であり、また時には化けるのだと考えているようであったが、帆村はこの二つが別物べつものだとしていた。それを区別するのに最もはっきりしている点は、赤見沢博士の昏倒こんとうしているそばにあった鞄には、ちゃんと鍵がかかるようになっていたのに対し、かのお化け鞄を手にしたことのある人々の話によると、そのお化け鞄には鍵がかからない、つまり錠前がついていない。それともう一つは、お化け鞄には特別に立派な把柄がついているとのことであった。
 もし出来るなら、この二つの鞄を並べてみればよく分るのであるが、今はそんなことが出来ない。お化け鞄は相変らず神出鬼没しんしゅつきぼつだし、目賀野たちが出頭して引取っていった只の鞄の方は、目賀野たちと共に目下行方不明とある。
 もう一つ、帆村が特に重大視じゅうだいししていることがあった。それは案外誰も大して気にかけていないことであったが、例の「赤革トランク紛失」の新聞広告のことであった。
 あの三行広告は、同じ日の同じ新聞の広告欄に、同じような文句でもって、二つの広告が並んでいた。「拾得届出者に相当謝礼」と書いてある「姓名在社三二五番」と、もう一つは「拾得届出者に莫大謝礼」と書いてある「姓名在社三二六番」との二つだった。
 一体これは何者が出した広告なのであろうか。帆村が調べたところでは、前者は「葛飾かつしか区新宿二丁目三八番地松山」が出したものであり、後者は「板橋区上板橋五丁目六二九番地杉田」が出したものであった。それらの番地を当ってみたところ松山という家も杉田という家もちゃんとあったけれど、その当人はこの広告主ではなく、本当の広告主は別にあった。それに頼まれて名前を貸しただけのことで、その当時毎日何回か、連絡の人が尋ねて来たそうだが、もうこの頃は来なくなったそうである。そして連絡に来た者は、松山の場合には、長屋のお内儀かみさんふうの女であったそうだし、杉田の場合は、目の光の鋭い、そしていやに丁重ていちょうな口のきき方をする商人体の者だったという。そこまでは分っているが、その先のところは帆村にも調べがついていない有様ありさまだ。
 一体何者だろう、この二人の広告主は?
 このことについては、帆村は田鍋捜査課長にも報告して、その注意を喚起かんきした。課長は帆村ほどこの問題を重大視はしていない。そしてこの二人の広告主の一人は、博士を昏倒こんとうせしめ、お化け鞄を奪った姓名未詳の兇賊きょうぞくであり、もう一人は例の目賀野であろうと考えていた。
 だが帆村は、田鍋課長と考えをことにしていた。
 広告主の一人は目賀野だと課長は推定している。しかし帆村は、そうでないと思っていた。なぜならば、目賀野ならば一度もそのお化け鞄を手にとって見たことがないから「特別美かつ大なる把柄あり」などというその鞄の特徴を知っているはずがない。だから目賀野ではないと思われる。
 しからば二人の広告主は何者か。
 酒田であろうか、外濠そとぼりの松並木の下を歩いていた男であろうか。いやいや、そのどっちでもない。新聞広告の出たのは、彼らがお化け鞄に始めてめぐり合ったどりもずっと以前のことになる。
 トランクをトラックに受取って走ったそのトラックの運転手でもないことは、彼が酒田と満足すべき取引をしたことを考えれば、すぐに分る。では、新宿の露店ろてんで、この鞄を店に並べて売っていた店員であろうか。いや、彼でもなさそうである。なぜならば三行広告代金と鞄の値段とは殆んど同じであるので、広告を出したとて大抵たいてい戻って来ないことが分っているのに広告をする筈がないと思われる。
 すると、広告主はもっと以前から、このお化け鞄に関係していた人物に違いない。この十五坪住宅の主人が夜かわやの窓から何気なにげなく外を見たところ、トランクが月の光に照らされて、ひとりで道を歩いていたという東都怪異譚とうとかいいたんの始まり――あの頃さらに以前の関係者に相違ない。
 一体、誰と誰であろう。
 一人は、田鍋課長の指摘してきしたとおり、多分お化け鞄を博士から奪った兇賊であろうと思われる。しかしこのことも、博士が意識を恢復かいふくして、遭難談をくわしく述べてくれる日までお預けとしなければなるまい。今一人の人物については、全く五里霧中ごりむちゅうである。
 が、この二人の正体を突きめさえすれば、この事件の解決は一層早くなるものと、帆村は確信し、いま推理を懸命に働かせている最中なのであった。
 なにさま、帆村探偵の考え方は、田鍋課長のそれとは大分違っている。


   深夜の研究室


 やみまぎれて、四名は赤見沢研究所の建物の壁際かべぎわにぴったり取付いた。
 時刻は午後十一時であった。
 研究所のすべての窓は真暗まっくらであった。みんな寝てしまったであろうかと始めは思ったけれど、窓の一つからすこしれているので、一同はそれを目当めあてにしてその窓下へ身をひそめたわけである。
 ジイイイ……と、妙な音が、室内にしている。
 中をのぞこうとしたが、窓が高い。
 そこで田鍋の部下二名が台の代りになり、帆村と課長を肩車に乗せた。この珍妙ちんみょうな形でもって、透間すきまを通して窓の中を覗いた。
 カーテンの隙間から、室内の模様をうかがうことが出来た。
「おやア……」
「あッ」
 帆村も田鍋課長も、思わずおどろきの声を発して、あわててあとの声をのみこんだ。
 室内には、まことにふしぎな光景が展開していた。
 その部屋は、赤見沢博士の研究室の一つで、多数の器具機械がごたごたと並んでいた。そしてそこに三人の人物が居た。
 そのうちの一人は、助手の小山すみれ女史であって、彼女がそこに居ることには格別かくべつ愕きはしない。
 もう一人は、若い男であった。かなり背の高い、立派な顔立の青年であって、にこやかな笑いをたたえて、小山すみれの方を見つめている。
 この男の顔を見て愕いたのは帆村荘六ではなく、田鍋課長であった。
(はてな。この女たらしの男は、どこかで見たことがあるぞ)
 たしかに課長の記憶の中にある男であった。しかしどこで見た男だったか、すぐにはそれを思出すことが出来なくて、課長はいらいらして来た。帆村はこの青年の顔に、何の記憶も持っていなかった。ただ、小山すみれ嬢とはおよそ反対の立派な男子で、皮肉な対照たいしようをなしていると感じたことであった。が、しかし、彼はあまりながくこの美貌びぼうの青年に見惚みとれていることが出来なかった。というのは、残るもう一人の人物が、彼の注意力の殆んど全部を吸取ってしまったからである。そのことは、田鍋課長にとってもまた同様であった。
(あれは赤見沢博士に相違ないが、一体どういうわけで博士はここにいるんだろうか)と帆村は不審ふしんの目をぱちくり。課長の方は(誰が赤見沢博士を病院から出したんだろうか、わがはいの許可を得もしないで……。何奴どいつが出したか、しからんやつどもだ)
 と、かんかんになって、頭から汗が出て来た。
 その赤見沢博士は、肘懸椅子ひじかけいすもたれ、頭を後の壁につけていたが、その恰好がへんにぎこちなかった。博士はまだ意識混沌こんとんとしているので、あのような恰好をしているのであろうが、両眼を大きく明けているのが、ちとに落ちかねる。
 そのときであった。小山すみれが脚立きゃたつから下りて、二本の綱を引張って、赤見沢博士の傍へ来た。その綱は、天井かられていた。よく見ると、天井には滑車かっしゃがとりつけてあり、綱はそれに掛っていて、上下自在になっていることが分った。
 小山女史は、その綱の一本を、いきなり赤見沢博士のくびにぐるぐるっと巻きつけた。顔色一つ変えないで……。美貌びぼうの男は、あいかわらずにこにこ笑っている。小山嬢は綱に結び目をつくると二三歩うしろへ身を引いて、もう一方の綱をぐんぐんと下にたぐった。すると博士の頸にからみついている綱がぴーンと張った。それでも小山嬢は、自分の手にある綱をぐんぐんと下にたぐった。博士の身体が椅子から浮きあがった。小山嬢が綱をたぐるたびに、博士の身体は上へ吊りあげられた。博士の絞首刑こうしゅけいである。それを自らの手によって行っている小山すみれの顔は、始めと同じく無表情で、悔恨かいこんの色もなければ憎悪ぞうおの気も見えない。
 とうとう赤見沢博士は、背広姿のまま、室内にぶら下った。博士の足が、実験台よりもすこし高くなったところで、小山嬢は、手にしていたつなを壁際の鉄格子てつごうしにしっかりと結びつけた。そして首吊り博士の下までやって来て、美貌の男の方へ何とかいって、博士の足を指した。
 田鍋課長は先刻からおどろきの連続で、息が詰まるおもいだった。かねて怪しいとにらんでいた小山すみれが、博士の首に綱をかけてくびり殺すところをまざまざと見せられ、全身の血は逆流した。現行犯にしても、これほど鮮かに恐ろしい現行犯を見たことは、今までにないことだった。彼は、自分が部下の肩車に乗っていることを忘れて、窓を叩き割ろうとして、帆村にめられた。
「ちょっと、静かに……」
 帆村は、室内を指した。
 小山嬢は博士のズボンを手にとって、ズボンのすそを持ち上げた。
 奇怪なことに、そのズボンにはあしが入っていなかった。つまりズボンだけであった。
 小山嬢は、実験台の下にしゃがむと、間もなく台の上に大きな靴を持出した。彼女はそれを博士のズボンの下のところへ持っていって、靴をはかせるような恰好かっこうをしてみせ、それから靴をまた台の上へ置いた。博士にその靴をはかせるつもりらしいが、ズボンだけで足のない博士が、どうしてそんな重い靴をはくことが出来るだろうかと、田鍋課長は気がかりであった。
 小山嬢は、その靴を指して、美貌の青年の顔を見上げた。青年はうなずいた。小山嬢は靴の中をあけて見せた。中には何やら詰まっていた。それは何かの小型の器械であるらしく、小さい部分品が組合わせられていた。そんなものが入っていては、靴の中に足を突込むことが出来ないではないかと、田鍋課長はさらに気がかりになった。
 小山嬢の指は敏捷びんしょうに動いて、その部分品を一々指した。彼女はそれについて説明しているらしいが言葉はさっぱり分らない。しかし帆村は、その小型器械が、無電装置であることに気がついた。
 小山嬢は、もう一つの靴の中からも、別の器械を取出した。その器械は、著しい特徴があるので、帆村にはすぐ分った。それは放射能ほうしゃのう物質から出る放射線を捕えて、その放射線の強さを検出する計数管けいすうかんの装置であった。
(無電装置と放射線計数管と――妙なのが靴の中にしまってある?)と、帆村は首をひねった。田鍋課長には、そんなことは分らないので、どうしてあんなものを靴の中に入れてあるのか、あれでは足が入るまいなどと、そんなことばかりを心配していた。
 小山嬢は、靴を手にぶら下げた。そして指をしきりに動かして、計数管と無電装置との間に連絡のあることを示したのち、靴をいじっていたが、靴のフックのところに突然赤い豆電球がついた。
 すると、殆んど同時に、靴の底から熊手くまでのようなものがとび出して、下に向って開いた。その恰好は、がんじきをつけた雪靴にどこか似ていた。その熊手ようのものは、かにのように爪をひろげ、びくびくふるえていたが、そのうちにその爪がだんだん内側へ曲って来て、ついには靴の下で何物かをがっちりと抱きしめたような恰好となった。
 小山嬢は、そうなった靴をしきりにさしあげて、美貌の青年の注意を喚起かんきしている風に見えた。すると青年は感激の面持おももちで、つと小山嬢の方に寄ると、靴もろとも両手でぐっと抱きしめた。青年の腕の下にある小山嬢の顔が、急にあおくなり、それからこんどは赤くなった。彼女のしっかり閉じられたまぶたの下に大きな眼玉がごろんと動くのが見えた。彼女は恍惚境こうこつきょうに入っているらしい。
 青年が腕をいて小山嬢を離すと、彼女は靴を持ったまま傍の椅子の上へ、へたへたとくずれるように腰をおとし、しばらくは動こうともせず、口もきかなかった。
(無電装置と放射線計数管と浚渫機しゅんせつきとを備えている靴――とは、妙な靴があったものだ。一体この三題噺さんだいばなしみたいなものをどう解くべきであろうか)
 帆村は、小山嬢がまだ持続する恍惚境からめやらぬのを見やりながら、心のなかにメモをとった。
 そのうちに小山嬢は、やっと正気に戻ったと見え、靴をかかえて椅子から立上った。
 彼女はその靴のひもを、博士のズボンの下端かたんにまきつけてしばった。ズボンが靴をはいたように見える。
 それがすむと、小山嬢は、飾椅子にゆわきつけてあった綱をほどき、宙に首吊くびつりを演じている博士の身体を下におろし、前のとおり肘懸ひじかけ椅子に腰を掛けさせた。博士の死体は、綱を首にまきつけたまま、目をかっといて、天井を見詰めている。
 小山嬢は、美貌の青年に向って手真似てまねと共に何事かを命じた。すると青年は、くるっと後を向いた。青年の顔は、今や窓外から室内をうかがう帆村と田鍋課長の方へ正面を切った。
(あっ、そうだ、思い出したぞ。あの若僧わかぞうとは、この前、R大学研究所で会ったことがある。二百グラムのラジウムの盗難事件が起ったあの研究所だ。たしかあの若僧は、そのラジウム保管室の向い側の何とか研究室の助手で、彼は事件当時、あやしい女性がその保管室からあわてくさって出て行くのを見たと証言したんだ。なんという名前だったかな。ええと、万沢といったかな。……)
 田鍋課長は、えらいことを思い出した。彼の胸の中は、今や沸々ふつふつ沸騰ふっとうを始めた。しかし帆村はそんなことを知らない。


   美しき闖入者ちんにゅうしゃ


 田鍋課長の知っていることを帆村は知らず、帆村の知っていることで田鍋課長の知らぬことがあり、両人肩を並べて窓の中をのぞんでいるところは奇観きかんだった。
 後を向いて、ごそごそやっていた小山嬢が、くるりとこっちへ向き直ったと思うと、彼女の手に一疋の仔猫こねこがあった。それをきっかけに美貌の青年も、廻れ右をして、仔猫を見ることを許された。
 小山嬢は、ほおのあたりにいきいきとして血の色を見せながら、その仔猫を抱いて、博士の首吊くびつり死体のそばへ寄った。そして博士の服の胸を開くと、その中へ仔猫を入れて、しばらくなにかごそごそやっていた。そのうちにそれが終ったと見え、彼女は博士の胸のボタンをかけて身を引いた。
 するとふしぎなことが起った。博士の死体が椅子からふらふらと立上ると見るや、なおそれはふわふわ上へ上って行く。博士の首にからみついている綱がだらりと下へ下る始末。そのうちに博士の死体は、頭を天井にこつんとぶつけ、天井に吸いついたようになってしまった。両脚――いや両のズボンに重い靴をくっつけたのが、ぶらんぶらんと振子運動をつづけている。
 帆村は、たまりかねたように、課長の首へ手をかけて引き寄せた。
「あっ、苦しい。一度下りて下さい」
「こっちもそう願いたい」
 叫んだのは帆村ではなく、帆村と課長を肩車にせている二人の部下だった。それにはかまわず、帆村は課長の耳にささやいた。
「今見たでしょうね、あの仔猫を……。仔猫を博士の人形の中に入れると、あのとおり博士の人形はふわふわと空中に浮きあがって天井に頭をつかえてしまった」
「ええッ、あれは人形か。人形だったのか」
 課長は唖然あぜんとして、目を天井へやる。
「田鍋さん。あの女はやっぱり猫又ねこまたを隠していたんですよ。そして博士の人形を作ったり、その他へんな装置をつけたりして、一体何をするのか、このへんで中へ踏込ふみこんだら、どうです」
「うん。しかし、もうすこし見ていよう」
「課長。一度下りて下さい、肩の骨が折れそうだから」
「これ大きな声を出すな。家の中へ聞えるじゃないか」
 上と下との掛け合いが、だんだん尖鋭化せんえいかして来たおりしも、思いがけないことが、室内において起った。
 というのは、突然に――全く突然に、どこからとび出したのか、一人の若い女人にょにんが、部屋の隅に現われた。彼女の手にはピストルが握られていた。ピストルは小山すみれと美貌びぼうの青年とに交互こうごに向けられている。
 美貌の青年が両手をあげた。小山嬢もそのあとから、しなびた両手をあげた。小山嬢はひたいに青筋をたてて憤慨ふんがい面持おももちで突然闖入ちんにゅうしたる背の高い美女をにらみつけている。美貌の青年は、にやりと笑っている。
 美女は、しずかに歩をはこんで、博士の人形をゆわえている綱に、空いている方の手をかけた。彼女はその綱をひいて、博士の人形を室外に持出す様子を示した。
 そのとき、美女はわずかのすきを作った。
 と、実験台の下の腰掛が、風をって美女の胸のあたりをおそった。が、それは美女が咄嗟とっさに身をかわしたので、うしろの扉にあたって、扉を開いただけに終った。
 ズドン。
 銃声がとどろく。硝子ガラスこわれる音。悲鳴ひめい途端とたんに又もや腰掛がぶうんとうなりを生じて美女の顔を目懸めがけて飛ぶ。これは美貌の男の防禦手段だった。――が、このときどこからともなく煙がふきだしたと思ったら、カーテンが一瞬いっしゅんほのおと化した。めらめらぱちぱちと、すごい火勢かせいに、研究室はたちまち火焔地獄かえんじごくとなり、煙のなかに逃げまどう人の形があったが、その後のことは、帆村も田鍋課長も見極みきわめることが出来なかった。突然窓から吹きだした紅蓮ぐれんの炎に、肩車担当の二警官はびっくり仰天ぎょうてん、へたへたとその場に尻餅しりもちをついたからである。帆村と課長は、はずみをくらって大きく投げだされ、腰骨をいやというほど打って、しばらくは起上ることが出来なかった。
 そのうち火勢はずんずんひろがって、赤見沢博士のラボラトリーはすっかり火に包まれてしまい、手のつけようもなくなったが、それは研究室内にあった油と薬品が、このように火勢を急に強めたものに違いなかった。
 課長が帆村たちと共に再び立上り、燃える建物をいくたびもぐるぐる廻って警戒につとめると共に、機会があれば、中へとびこんで何か目ぼしい品物を取出そうとあせったけれど、ついに研究室の方には入ることが出来なかった。そしてかの美貌の男か、美女か、小山すみれかに行逢ゆきあえば、直ちに補えるつもりでいたけれど、結局この重要なる三人の人物をむなしくいっしてしまった。
 けつけた消防隊の手で、完全に火が消されると、間もなくあかつきが来た。
 課長は、焼跡を丹念たんねんに調べた。
 その結果、一箇の無残むざんな焼死体が発見せられた。背骨からしてすぐ判定がついて、犠牲者ぎせいしゃは気の毒な研究生小山すみれであることが分った。しかし美貌の男も美女も、現場に骨を残していなかった。
 また仔猫の骨もなかった。帆村がさっき異常なる興味を覚えた妙な器具の入っている靴も、焼跡の灰の中には見当らなかった。
 この博士ていの火が消えた後で、田鍋課長と帆村荘六とは、焼跡に立って、意見の交換をした。互いに知っている事実を語り合った結果、
「田鍋さん。これは面白くなりましたよ。化け鞄事件と、ラジウム盗難事件との間に密接な関係があるということが分って来たじゃありませんか」
 と、帆村がいえば、田鍋課長は、
「どうもそういうことらしいね。しかしラジウムとお化け鞄と、どういうつながりになっているか見当がつかんが、君は何か思いあたることがあるかね」
「そのことだが、僕の考えでは、あの盗難とうなんったラジウムは、今どこか知らんが、かくちょっと手の届かない場所にあるんだと思うんですね。それでさ、あの万沢まんざわとかいう男が小山すみれ嬢をそそのかして、仔猫利用の吊上つりあげ装置を作らせたんだと解釈かいしゃくする」
「どうしてそうなるのかね」
「博士の人形も焼けちまい、すみれさんも焼け死んだので、はっきりしたことは分らないけれど、あの博士の人形は猫又の浮力――というか重力消去装置の力というか、それを利用しで浮き上る力を持たせてある。靴に仕掛けた放射線計数管は、ラジウムの在所ありかを探すための装置だ。無電の機械は、計数管に現われる放射線の強さを放送する。それからもう一つ、あの人形には電波を受けて、靴の下に仕掛けてある浚渫機しゅんせつきみたいな、何でもごっそりさらい込む装置――あの装置を動かせるようになっているんだと思う。つまり電波による操縦そうじゅうで浚渫機を動かすんだ。これだけのものを、あの人形は持っていたと思う」
「そんなものを、どうする気かな」
「そこでだ、悪漢あっかん一味は、あれを持ち出して人形を歩かせ、計数管の力を借りて、ラジウムの在所を確かめる。
人形がちょうどラジウム二百グラムの容器の上に来たとき、放射線の強さは最大となるから、そのとき悪漢一味は電波を出して、あの靴の下に仕掛けた浚渫機を働かせる。つまりごっそりと、ラジウムの容器を、あの浚渫機のつめの間にさらえ込むのさ」
「ふうん、なるほど」
「それからこんどは、例の猫又の力を借りて、人形ごとずっと上へ浮き上らせるわけなんだが、僕にも分らないのは、重力消去装置の力を借りる必要のあるラジウムのかくし場所とは一体どこなんだか、見当がつかないんだ」
「はてな、一体どこなんだかね。そういうへんな人形の力を借りなければ取出せない場所というと……」
 田鍋課長にも、全く見当がつかなかった。


   椿つばきの咲く島


 椿の花咲く大島の岡田村の灯台とうだいのわきにある一本の大きな松の木のこずえに、赤革のトランクがひっかかっていた。
 それを発見したのは、早起きをしてがけっぷちで遊んでいた官舎かんしゃの子供たちだった。それからみんなに知れわたって、騒ぎは絶頂ぜっちょうに達した。
「誰があんな高いところまで登って、鞄をくくりつけでいったろう。不審ふしんなことだ」
 まことに不審のいたりであった。それを探究たんきゅうすべく、灯台の職員で、身の軽い瀬戸さんという中年の人と、その配下はいかの平木君という青年とが、身をていしてその松の木をよじ登って行った。
 両人は松の枝にひっかかっている鞄を、枝から取外とりはずすと、把柄になわをしばりつけて、鞄を下へぶら下げて下ろした。下に集っていた連中はその鞄が下りてくるのを興味ぶかく見守っていた。その鞄の中から、赤いひもが二本ぶらぶらとれているのが、甚だ奇妙きみょうであったのと、その鞄が地面へつくと同時に、あたりが急にへんにくさくなったことが特記せらるべきだった。
 松の木をよじ登った両人も下りて来て、その鞄が半分は自分たちのもののような顔で鞄のそばへ近づいたが、その臭気しゅうきには顔をしかめずにはいられなかった。
「瀬戸さん。えらいものを下ろして来たな」
「なんじゃろうかなあ、この臭いのは……」
「その鞄の中が怪しいなあ。へんなものが入っているんじゃよ。女の生首なまくびかなんかがよ」
おどかしっこなしよ」
「鞄から出ている赤い紐な。それは若い女の腰紐じゃぞ。その腰紐が、先がけて切れているわ。それにさ、紐の先んところが赤黒くそまっているが、血がこびりついているんじゃないのかい」
 書記の青木が、とがった口吻くちぶりから、気味のわるい言葉を次々にいた。立合いのしゅうは、いいあわせたように二三歩後へ下った。
「よおし、何が入っているか、一つ鞄をあけてくれよう」
「よしなよ、気味が悪い。海へ捨てちまいな」
 瀬戸の妻君がいった。
「鞄をあけてから捨ててもおそくはないだろう。もし紙幣さつが百万円も入っていてみな、わしらの大損だよ」
「ははは、慾が深いよ、工長こうちょうさんは……」
 その鞄が簡単にあかなかった。鞄の金具がどうかしているらしかった。そのうちにも臭気はいよいよぷんぷんとたまらなく人々の鼻を刺戟しげきしたので、立合いの衆は気が短かくなり、とうとうおのを持ち出して、鞄の金具をたたった。
 鞄はぱくりと開いた。みんなはわれちに中をのぞきこんだ。顔をしかめる者、ぺっぺっとつばを吐く者。中には仔猫の死骸しがいが入っていた。それと赤い紐が一本……。
 靴の先と棍棒こんぼうとで、鞄はがけを越して海へ。
 その鞄は、執念しゅうねん深いというのか、海上をただよううちに海岸へ漂着ひょうちゃくした。元村もとむら桟橋さんばしのすぐそばであった。
 警官が聞きこんで、その鞄を検分けんぶんに来た。彼は東京からの指令しれいおぼえていたので、早速さっそく「それらしきもの漂着す」と無電を打った。
 折返し、新しい指令が来た。警官たちは忙しくなった。旅館は一軒のこらず臨検りんけんをうけた。
 その結果、目賀野が見つかって、飛行機で到着したばかりの田鍋課長の前へ呼び出された。
 目賀野は、その鞄と無関係であることを主張した。いわんや殺人事件などは思いもよらないと抗弁こうべんした。
 三日間、のべつに取調とりしらべがつづけられ、目賀野が陳述ちんじゅつした重要事項は、次のようなことであった。
「別に悪いことをしたおぼえはありません。君も知っているとおり、昔からわしは曲ったことは大嫌いだ。……しかし、ちょっとよくは出した。例のラジウム二百グラムの入った鉄の箱が、この三原山の噴火口ふんかこうの中に投げこんであると耳にしたもんだから、なんとかそれを取出そうと思ってね。いや、取出せばそのすじへ届けるつもりだった、本当です。しかし世間をっといわせたかった。そこで思いついたのが、赤見沢博士の研究だ。重力消去の実験に成功していることをわしは知っていたので、博士にそれを使った一種の起重機きじゅうきの製作を依頼したのです。そのトランクは、すなわちその品物だったかもしれない。いや、その種の試作品だったかもしれない。要するにその装置を噴火口の中へ投げ入れておくと、火口底かこうていにおいてたくみにラジウムの入った鉄函てつばこを吸いつけ、あとは重力消去によって噴火口をのぼり、上へ現われ、わが手に入るという計画だった。なまの人間じゃ、とても火口底へは下りられないんでね。……が、その博士がわしのところへ来てくれる約束の日に、途中であの事件にって、あんなことになるわ、そばにあったトランクは、早いところ何者かによってりかえられていたので、わしはすっかり失敗してしまった。たったこれだけのことです。すこしも怪しい点はない。元村へ来て泊っていたのも、別な手段でラジウムを取出す方法を研究に来たわけで、あのトランクには関係がないです。これはよく分ってもらわにゃ大迷惑おおめいわくだ。……臼井はどこへ行ったか知らん。船に乗っていたが、その後脱走したそうで、わしは知らん」
 この陳述によって、あらまし筋は分って来たようである。
 つまるところ、目賀野は本事件の主役ではなく、その傍系ぼうけいのドンキホーテみたところのある人物に過ぎないのだ。
「例のラジウム二百瓦が三原山の噴火口に投げこんであることは、いつ誰からいたか」
 課長は、最も重大なるところを突込つっこんだ。
「そのことかね。それはあの臼井が、いつだったか、密書みっしょを拾ったんだ。その密書に簡単ながら、そういう意味のことが書いてあった。その密書は臼井が持っている。わしではない」
「その密書の差出人さしだしにんは誰か。また受取人は誰なのか」
「名前ははっきり書いてなかった。ただ、差出人の名前に相当するところには、矢を二つぶっちがえた印がしてあった」
「矢を二本ぶっちがえた印が、ふうん。そして受取人の方には……」
「受取人の名前に相当する場所には、三本足の黒いからすの絵が書いてあった」
「何という、三本足の黒い烏の絵が?」
 と、課長は驚愕きょうがくの色をかくしもせずに叫んだ。
「どうした課長。烏の絵になぜそんなにおどろくのか。一体[#「一体」は底本では「体」]それは誰のことなんだ」
 目賀野はいい気になって反問はんもんした。
「それはおそるべきぞくのしるしだ。烏啼天駆うていてんくという怪賊があるが知っているかね」
「ああ、怪賊烏啼か。烏啼のことなら聞いたことがあるが、若いくせに神出鬼没しんしゅつきぼつの悪漢だってね。一体どんな顔をしているのかな、その烏啼というやつは……」
「それがよく分らない。烏啼と名乗なのる彼に会った者は誰もない。しかし脅迫状きょうはくじょうなどで、烏啼天駆の名は誰にも知れわたっている」
「捜査課長ともあろう者が、そんなぼやぼやしたことで、御用がつとまると思うのか」
「何をいう。いい気になって……」
 課長は目賀野を元の留置場りゅうちじょうへ戻した。


   怪賊かいぞく烏啼うてい


 そのあとで課長は溜息ためいきばかりついていた。この二つの事件に、怪賊烏啼天駆うていてんくが関係しているとは、目賀野の話で始めて分った。そうなると、これはますます事が面倒めんどうになってくる。ありとあらゆる検察力を発揮はっきしないと、烏啼を引捕えることは出来ない。しかし、一体どこから手をつけていいか、分別ふんべつがつかない。こういうときに帆村が居てくれれば、どんなに力になってくれるか分らない。が、彼にはこの事を知らせずに、この大島へ来てしまったことが後悔こうかいされた。
 だが、その帆村が、ひょっくりと課長の前に現われたもんだから、田鍋はおどろきつよろこんだ。彼は早速さっそく、この事件に烏啼天駆が関係していることを帆村に語って、帆村の助力をもとめた。
「それはいいことが分ったもんです。いや実は、僕が今日飛行機でここへ飛んで来たのは、本庁からの依頼で、あなたに手紙を持って来たのです。さあ、これを読んで下さい」
 と、帆村は内ポケットから手紙を出して、課長に渡した。それは課長の次席にいる主任の芥川あくたがわ警部からのものだった。手紙の内容は、これまたおどろきの一つだった。
「えっ、赤見沢博士が昏睡状態こんすいじょうたいからめたというか。そして君は博士に会って話をして来たって?」
「そうなんです。その結果、いろいろと分って来ましたよ。第一に、博士はあの晩、ただの鞄の中に、例のお化け鞄――つまり重力消去装置の仕掛けてある立派な把柄のついている鞄を入れて、電車に乗ったんだそうです。決して角材かくざいや古新聞紙は入れなかったといいます。つまり賊は、博士の鞄とそっくりの鞄を用意し、その中に角材を入れて、二重鞄と同じ位の重量とし、博士の鞄とりかえるつもりだったらしい。博士は言明げんめいしています、自分が座席に座っていると、よく似た鞄を持った乗客が近寄って来て、博士の前に立ったそうです」
「そやつが怪しい!」
「そうです。誰が聞いても怪しいやつですが、そのとき博士は大いに要慎ようじんして、自分の持っている鞄をうばわれまいとして、一生懸命かかえこんだそうです。すると怪しい乗客のれである若い女が博士の方へ身体をおっかぶせるようにのしかかって来て、女のひざが博士の膝を強く押した、すると急に博士は気が遠くなってしまったんだそうです」
「どうしたのだろう」
「女の膝から博士の膝へ、或る麻薬まやくの注射がほどこされたんでしょうね。博士は、そういえばちくりとしたようだといっています。――それから博士は、意識の朦朧もうろうたるうちにも、膝の間にはさんでいた鞄がりかえられるのに気がついたそうです。しかし声を出そうにも手をあげようにも、どうにもならなかったそうです。そしてそのうちに何もかも分らなくなった……」
「怪しい奴は、すると男と女と二人組なんだね」
「そうなんです。これがすこぶる重大な事柄ことがらなんですが、田鍋さん、博士はその男女の顔をよくおぼえているといって、人相を話してくれましたが、男も女もなかなか目鼻のととのった美しい人物だったといいますよ」
「えっ、何という。美男美女だって?」
「正に美男美女なんです。そしてそれがですよ、ほら博士邸が焼けた晩ね、あの晩に研究室にいて小山すみれを相手にしていた若い美貌の男――万沢とかいいましたね――あの男とそれから後にピストルを持って現われた美人がありましたね、あの女と、この両人りょうにんらしいのですよ」
「ふーん、そうか」
 田鍋課長は、満面を朱盆しゅぼんのようにあかくして、膝を叩いてうなった。
「ね、課長さん。さっきあなたからうかがった話から誘導ゆうどうすると、その美貌の男こそ、烏啼天駆うていてんくでなければならないと思うんですが、課長さんの意見は如何ですか」
 帆村は、大胆なことをいった。
「そうかもしれない。いや、それに違いない。あれが烏啼なら、あのとき逃がすんじゃなかった。で、女は何者か」
「それが分らないのです。しかしですよ、この事件の主軸しゅじくには、二つの者が功を争っていることは、僕も察していました。例えばあの紛失鞄の新聞広告のことですね。
あの広告主の一人は烏啼天駆であり、もう一人はやっぱりあの女だったんですよ」
「ふうん、なるほど、そういえばそうかもしれない」
「あの二人は、時に一緒になって働きました。その例は、博士から鞄をうばったときなんかがそれです。それでいて、二人は大いににらっていたんですね。だから博士邸のピストルさわぎも起った。あれはお化け鞄が紛失したのに困った烏啼が、小山すみれをそそのかして、猫又を利用した新規の起重装置をこしらえるように頼んだ。それが完成したので、持って帰ろうとしたところを、例の女がぎつけて、あばれこんだという訳なんでしょう」
「そうだ、それに違いない。するとわがはい大迂回だいうかいをやっていたわけだ。ちえッ、いまいましい」


   天罰てんばつ下る


 事件は、そこまではけた。
 当局は警戒網けいかいもうを三原山のまわりに厳重にかためめぐらした。
 その一方、大学に懇請こんせいして、火口底かこうていに果してラジウム二百グラムが投げこまれてあるのかどうかをしらべて貰った。これは案外苦もなく分った。たしかにラジウムは火口底の南寄りの岩の間にあることが確認された。
 しかし、そのラジウムを取出す方法はちょっと簡単には出来そうもないことが分り、当局は未だに警戒の陣をゆるめないで番をしている。なにしろその後、烏啼の消息しょうそくがさっぱり分らないので、油断ゆだんはならないとのことであった。
 帆村はもうラジウム事件には、大した興味を持っていない。しかし田鍋課長が、彼に自慢らしく語ったところでは、烏啼はあのR大学の研究所のラジウム保管室の向いの研究室の助手にけこんでいて、あのラジウムをたくみにぬすみ出した。それから彼は、かねて連絡をつけてあった看護婦の秋草あきくさに渡した。秋草はそれを持って出て、ぼう飛行場へ急行し、烏啼の一味である矢走という男をして、その品物を飛行機でもって三原山の噴火口に投げおとさせたと認める。例の美男美女というのは、この烏啼と秋草らしいといわれる。研究所の同僚たりし人々は、確かに彼ら二人を、美男美女と認めているから、間違いないと、田鍋課長はいささか得意で、椅子いすの背にふんりかえった。
 帆村の興味は、そんなことよりも、大島の松の木にひっかかっていたお化け鞄と猫又の死骸と血染ちぞめ細紐ほそひもが、何を語っているか、それを解くことにかかっていた。
 その年の春、ひどい海底地震が相模湾さがみわん沖合おきあいに起り、引続いて大海嘯おおつなみが一帯の海岸を襲った。多数の船舶が難破なんぱしたが、その中の一隻に奇竜丸きりゅうまるという二百トンばかりの船があって、これは大島の海岸にうちあげられ、大破たいはした。また乗組員の半数が死傷した。
 この奇竜丸の救援におもむいた官憲は、はからずも、この船の構造や、乗組員の様子に疑惑ぎわくを持ち、厳重に取調べた結果、この船こそ怪賊烏啼天駆うていてんくの持ち船だと分り、そして天罰てんばつとはいえ重傷を負っている烏啼を、遂に他愛たわいなく引捕ひっとらえた。
 このことは早速東京へ無電で連絡され、田鍋課長は再びこの大島へ急行して、烏啼を受取った。
 烏啼はもう観念したものと見え、すべてをべらべらとしゃべった。
 彼の行動は、大体帆村の推理したところに一致していた。しかし烏啼がその後秋草と争って、ついに猫又もお化け鞄も共に自分の手に入れ、それを奇竜丸に持ち込んだばかりか、秋草の自由を束縛してこの船に乗せてしまったことが分った。それから後はずっと海上生活をしていたものだから、この二人の行方は陸上を監視していただけでは知れなかったはずである。
 その烏啼は、海上生活を送りながら、なんとかして大島へ上陸し、三原山の火口底から例のラジウムを取出そうと、機会の来るのをねらっていたが、当局の警戒がすこぶる厳重なため、その目的を達することが出来ないでいた。
 ところが或る日、秋草が実に大胆なる脱走を試みた。
 彼女は、烏啼の部下数名を、たくみなる手段によって籠絡ろうらくすると、その力を借りて、猫又とお化け鞄とを盗み出させ、それから細紐ほそひもで自分の手首をしばって、猫又を入れたお化け鞄に結びつけ、鞄の把柄を下へ押し下げた。すると猫又の浮力ふりょくと、お化け鞄の浮力とによって、鞄は秋草の身体を下にぶら下げたまま宙に浮きあがった。船は依然として走っているものだから、鞄にぶら下った秋草の身体は見る見るうちに船を離れた。
 これに気がついた乗組員が、急いで烏啼に知らせたので、烏啼は顔色をかえて船橋せんきょうへ上った。そして秋草の身体の流れていったと思う方向へ船を戻した。
 だが、折柄おりから空に月はあれど夜のことだから、ついにそれを発見することが出来なかったという。
 この烏啼の告白によって、猫又の死骸とお化け鞄と血染めの細紐の謎がようやく解けそめた。そのようにして秋草は脱走をはかったが、彼女はぐんぐん上空へ引き上げられて息がえたものと思う。そのうちに彼女の身体を吊下つりさげている紐が切れ、下へ落ちてしまったのであろう。おそらくそれは広い海の中であったことと思われる。彼女の繊細せんさいなる手首が紐でこすられて血が出、それが紐の切れ端に残ったことは確かだ。こうして彼女は、遂に敗れて一命いちめいを失ったものらしい。
 臼井は今も行方が知れない。
 それから最後に特筆大書とくひつたいしょしておくべきは、田鍋課長が目賀野を証人として、烏啼に会わせたところ、目賀野がびっくりして烏啼を指して叫んだ。
「やッ、貴様は千田じゃないか」
 烏啼は、繃帯ほうたいを巻いた頭をすこし起こして、ふふんと笑った。
「貴様が千田なら、おい話せ、わしのめいの草枝はどこへれていった」
 千田と草枝が一組となって、いつも目賀野の下で働いていたことは、ずっと前から知られている。
「おれは知らんよ。課長に願って、細紐に残っているあの女の血にたずねてみたがよかろう」
 と、烏啼はいって、むこうを向いてしまった。
 そんなことから、目賀野の姪の草枝こそ、看護婦秋草のことであり、彼女が或るときは烏啼に協力しながら、後には烏啼と張合ってラジウムやお化け鞄やお化け猫の争奪に生命をけたことが判明した。
 これで、鞄らしくない鞄の話は、すべて終ったわけであるが、気の毒なのは赤見沢博士である。博士は研究所を火災かさいで失って、どうにも復興ふっこうの見込みが立たず、あたら英才えいさいいだいて不幸をたんしているという。しかし博士のことだから、そのうちにもっと何かいい手段を考え出すことだろう。博士が、この次に、重力消去装置をどんな方面に活用するかは、非常に興味あることだと思う。

底本:「海野十三全集 第13巻 少年探偵長」三一書房
   1992(平成4)年2月29日初版発行
※「深夜の研究室」において、小山嬢が綱を結びつけたところは、「壁際の鉄格子」と「飾椅子」の二つが示してある。矛盾しているが、底本のママとし、本文中には注記しなかった。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年7月21日公開
2006年7月27日修正
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