あらすじ
労働者の吉田は、蒸し暑い夏の夜、工場のピケッチングに向かうため寝不足で悩んでいた。そんな時、警察官の中村が深夜に訪ねてくる。中村は吉田を署に連れて行かなくてはならないというが、吉田には事情がある。彼は家族を案じ、子供を連れて行くことを決意する。吉田は、自分の運命と、家族の未来、そして社会主義運動への思いを胸に、中村と共に署へと向かう。
 夏の夜の、払暁に間もない三時頃であった。星は空一杯で輝いていた。
 寝苦しい、麹室のようなムンムンする、プロレタリアの群居街でも、すっかりシーンと眠っていた。
 その時刻には、誰だって眠っていなければならない筈であった。若し、そんな時分に眠っていない者があるなら、それは決して健康な者ではない。又、健康なものでも、健康を失うに違いない。
 だが、その(時刻)は眠る時刻であったが、(時代)は健康を失っていた。
 プロレタリアの群居街からは、ユラユラとプロレタリアの蒸焼きの煙のような、見えないほてりが、トタン屋根の上に漂うていた。
 そのプロレタリア街の、製材所の切屑見たいなバラックの一固まりの向うに、運河があった。その運河の汚ない濁った溜水にその向うの大きな工場の灯が、美しく映っていた。
 工場では、モーターや、ベルトや、コムベーヤーや、歯車や、旋盤や、等々が、近代的な合奏をしていた。労働者が、緊張した態度で部署に縛りつけられていた。
 吉田はその工場に対してのある策戦で、蒸暑い夜を転々として考え悩んでいた。
 蚊帳の中には四つになる彼の長男が、腐った飯粒見たいに体中から汗を出して、時計の針のようにグルグル廻って、眠っていた。かますの乾物のように、痩せて固まった彼の母は、寝苦しいものと見えて、時々溜息をついていた。
(一体どうするのが、俺には一番いいのだろう)
 彼は、暑さにジタバタする子供の寝顔を、薄暗い陰気な電燈の光に眺めた。
(一番いいのは、俺が首を吊ってしまうことだ!)(だが此年寄のおふくろは? 三人目の子供を産むために、下の児を連れて県病院の施療病室にいる女房は? 此二人の可愛いい男の子と、それから今度生れる赤ん坊とは? それはどうなるんだ? どうして生きて行くんだ? オイ!)
 吉田は大きな溜息をついた。両方の手で拳を固く拵えて、彼の部厚な胸を殴った。
(だが、何とも為方はないさ。俺がよしんば死なないにした処で、――今度の事――で監獄に打ち込まれるとしたらどうだ! 死んだのと同じことになるじゃないか。いっそのこと……)
「おまい、寝られないのかい? 又早く出かけなけゃならないのにねえ」
 おふくろは弱い声で云った。「お母さんも眠れないんですか。わしは今までグッスリ眠ったんですよ。腹の具合は少しはいいですか?」
(腹の具合が良かろう筈がねえじゃないか、医者にもかけねえ、薬も飲まさせねえ、軟かい滋養分も食べさせない、その代りに子供の守をさせてる! 地獄だ! 自分で看護婦が入用な、垂れ流しの老人に、子供の守をさせる。死ぬまで車を引っ張る馬のように、死ぬまで苦労を背負わせるんだ。子供が七輪の炭火の上に倒れても、よう起さないで泣き出してしまう老人に、――畜生! 俺は一体どうなればいいんだ。ああ、――明日も早いから――とおふくろは云ってる。明日俺の出かけるのは、工場の前のピケッチングじゃないか! ふうっ!)
 彼は、音のしないように髪の毛をひっ掴んだ。そして憎ったらしく、検束者をでもするように、やけに引っ張った。髪の毛は汗でねばねばしていて、ふて腐れたように手にザワザワ捲きついて来た。
 ――吉田さん、吉田さん。――
 暑苦しいために明けっ放した表から、誰かが呼んだ。
 吉田はハッとした。
(来やがった。遂々来やがった。何時だ、三時だな、畜生! 寝込みを踏み込みやがったな)
 彼は、本能的に息を詰めた。そして耳を兎のようにおっ立てた。
「どなた?」
 おふくろが、喘ぐように云ったのと、吉田が、「しっ」と押し殺すような声で云ったのと同時であった。
(為様がない、おしまいだ。これで片がつくんだ。奴等が一段ずつ位と月給が上って、俺たちゃ立ち腐れになるんだ)
「誰だい?」
 彼は、大きな声で呶鳴った。
「中村だがね、ちょっと署まで来て貰いたいんだ」
――誰だい――と呼ぶ吉田の声が、鋭く耳を衝いたので、子供が薄い紙のような眠りを破られた。
「父ちゃあん!」
 子供の食い取ってしまいたいような、乳色の手が吉田の頸にしがみついた。
「おお、いい子、いい子、泣くんじゃねえ。誰が来たって、どいつが来たって、坊を渡すこっちゃねえからな」
 彼は、子供を確り抱きしめた。そしてとりたての林檎のように張り切った小さな頬に、ハムマーのようにキッスを立て続けにぶっつけた。
 M署の高等係中村は、もう、蚊帳の外に腰を下して、扇子をバタバタ初めていた。
「今時分、何の用事だい? 泥棒じゃあるめえし、夜中に踏み込まなくたって、逃げも隠れもしやしねえよ」
(此儘行ったんじゃ困る。家中に二十銭しかない。二十銭では何ともならない。何とか都合しといてからでないといけない。おふくろも子も乾上っちまう。さて)
 吉田は、そう考えることによって、何かのいい方法を――今までにもう幾度か最後の手段に出た方がいい、と考えたにも拘らず、改めて又、――いい方法を、と、それが汗の中にでもあるように汗みどろになって、全速力で考え初めた。だが、汗は出たが、いい考えが浮く筈がなかった。
「明日でもいいでしょう、と云ったんだが、どうしても直ぐにって署長の命令だからね、済まないが、直ぐに来て貰いたいんだ。直ぐに帰すからね」
 中村は、こう云うと、又煽ぎ立てた。
(へ、すぐに帰す! 極り文句を云ってやがらあ)
「何しろ夜中じゃしようがないよ。子供を手離せないもんだからな。嬶が病院に行ってるから、一人は俺が見てやらなけゃ、ならないんだよ。まあ、朝まで待って呉れよ」
 子供は、吉田と中村との話を、鋭く聞いていた。そして、自分が生れると直ぐの年から、母親の背に縛りつけられて、毎年、警察や、裁判所や、監獄の門を潜ったことを思い出した。
「父ちゃん、いやだよ。行っちゃいやだよう」
 泣き声と一緒に、訴えるような声で叫んで、その小さな手は、吉田の頸に喰い込むように力強くからまった。
 人生の、あらゆる不幸、あらゆる悲惨に対して殆んど免疫になってはいた吉田であった。不幸や悲惨の前に無力に首をうなだれる吉田ではなかった。どんな困難な境遇に立っても客観的な立場を守って、的確な判断と作戦とを誤らなかった彼ではあった。彼の心の中にどっしりと腰を下して、彼に明確な針路を示したものは、社会主義の理論と、信念とであった。
(俺だけじゃないんだ! 三千の兄弟たちが、あの光り輝く工場の中の部署についている三千の兄弟たち、あの工場以外のどの工場にも、労働者街にも溢れている、全プロレタリアの均しく背負っている苦痛なんだ。全てのプロレタリアが此苦痛に負けた時、どうなるんだ! 勝て! 俺一人位はいいだろう、と云う怯懦の中から、全プロレタリアの陣営が総崩れになるんだ。起て! 此子供のためにも! 俺が子供に贈物にする事の出来そうな唯一の望みは、プロレタリア解放運動の上にかかっているんだ!)
「ああ、行きゃしないよ。坊やと一緒に行くんだからね。些も心配する事なんかないよ。ね、だから寝ん寝するの、いい子だからね」
「吉田君、早く来て呉れないと困るね 待っ……」
 中村は口を噤んだ。
「ハハハハハ。誰かが待ってるのかい。いいよ。待ってる方は痺れを切らしても、逃げると云う事はないからね。今行くよ」
「お前、又長くなるのじゃあるまいね」
 病み疲れた、老い衰えた母は、そう訊ねることさえ気兼ねしていたのだが、辛抱し切れなくなって、囁くように言った。
「大丈夫ですよ。お母さん、直ぐ帰って来ますよ、坊やを連れて行って来まさ」
(大丈夫ですよ、向うの気の済むまで居て来ますよ。気休めに坊やだけ、向うまで連れて行ってやりますけれどね)と云う方が真実であった。
 勿論、直ぐ帰れる筈のない事は、吉田には分り切っていた。劃時代的な二つの階級間の闘争が、全市から全日本××の相互の階級を総動員して相対峙していたのだ。それは国際階級戦の一つの見本であった。
「連れて行ってくれる! ね、父ちゃん。坊やを連れて行って呉れるの。公園に行こうね。お猿さんを見に行こうね。ね、そしてお芋をやろうね」
「ああ、いいとも、公園に行くんだ。そして公園でおとなしくお猿さんと遊ぼうね」
「公園に行こうね、おしゃるしゃんとあそぼうね」
 子供は、吉田の首に噛りついたまま、おしゃるしゃんと遊ぶことを夢に見ながら、再び眠った。
(六時まで待とう。六時までにはきっと何かの情報があるだろう。依田が来るだろう。そうすれば、依田に顛末を知らす事が出来る、その上で行こう、六時にはピケッチングの交替になる時間なんだから、どうしてもそれまでは待たなければならない)
 中村は「困るなあ、困るなあ」と呟きながら、品物でも値切るように、クドクドと吉田を口説いた。
 吉田の老い衰えた母は、蝸牛かたつむりのように固くなって、耳に指で栓をして、息を殺していた。
 ひどい急坂を上る機関車のような、重苦しい骨の折れる時間が経った。
 毎朝、五時か五時半には必ず寄る事になっている依田は、六時になるに未だ来なかった。
 ――依田君。六時まで、三時から君を待ったが、来ないから、僕はM署へ持って行かれることにする。いずれは君にもお鉢が廻るんだろうが、兎に角警戒を要する。皆やられたんじゃ仕方がないからな。それから、こんな事は云えた義理ではないんだが、僕の留守の者たちの事も気にかかる。若し、出来ればおふくろや子供の面倒を見てやって貰いたい。自重健闘を祈る。――

 吉田は、紙切れに鉛筆で走り書きをして、母に渡した。
「これを依田君に渡して下さい。私はちょっと行って来ますから。心配しないで下さいね。大丈夫だから」
 老母の眼からは、涙が落ちた。
 吉田は胸が痛かった。おそろしい悲しみと、歯噛みしたいような憤怒とが、一度に彼の腹の底からこみ上げて来た。
 が、吉田はすべての感情を押し堪えて、子供を背中に兵児帯で固く縛りつけて、高等係中村と家を出た。
 子供は、早朝の爽やかな空気の中で、殊に父に負ぶさっていると云う意識の下に、片言で歌を唄いながら、手足をピョンピョンさせた。
――一九二六、一一、二六――

底本:「日本プロレタリア文学全集・8 葉山嘉樹集」新日本出版社
   1984(昭和59)年8月25日初版
   1989(平成元)年3月25日第5刷
初出:「不同調」
   1927(昭和2)年1月号
※底本の親本(初出)の伏せ字は、底本では編集部によって復元され、当該の箇所には×が傍記されています。
入力:林 幸雄
校正:伊藤時也
2010年1月26日作成
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