一

 東京新聞七月三十一日号に、火野葦平の「文芸放談」第二回がのっている。「同人雑誌の活溌化」がトピックである。
 このごろの出版不況で、文芸雑誌のいくつかが廃刊した。そして、雑誌を廃刊し、また経営不振におちいった出版社は、ほとんど戦後の新興出版社であり、「老舗はのこっている」。
 出版不況は、戦後の浮草的出版業を淘汰したと同時に、同人雑誌の活溌化をみちびき出している。「先輩たちが同人雑誌を守って十年十五年と修業したのち、やっと文壇に出られた」そのような「同人雑誌本来の面目にかえる日が来たことを」火野葦平はよろこびとしている。「文学の道場として、また文壇への登龍門として、同人雑誌の貴重さに及ぶものはない。」「先輩たちは」「そこで骨身をけずる修業をした。」「そして老舗となる素地を蓄えたのである」「戦後のハッタリ精神とヤミの没落は文学の面でも象徴的であった」火野葦平は文学に対する同人雑誌の任務、出版関係が「昔にかえった」ことを慶祝している。
 戦後の出版界の空さわぎは、出版社というものが、つまりはブローカー的存在であって、自分が何一つ生産手段をもってなくても、当る原稿をとることさえ成功すれば、相当の利ざやを掠めとることが出来たからである。戦時中、大軍需会社の下うけをやっていて、小金をためたような小企業家が、さて、敗戦と同時に、何か別途に金をふやす方法をさがした。軍部関係で闇に流れた莫大な紙があった。戦後、続出した新興出版事業者は、ほとんど例外なしに、この敗戦おきみやげたる紙の操作によって出発した。これらの事実については火野葦平のみならず、軍と「民間」との消息に通じた多くの人がもとより無智であろうはずはなかった。
 まったく、「バクロウが牛の掘り出しものでもさがすように」新人が売り出された。現代文学の素質は戦後になってから戦時中の荒廃をとりもどすどころか、実名小説にまで低下して来た。一九三三年に石坂洋次郎が、左翼への戯画としてかいた「麦死なず」と、一九五〇年に三好十郎が書いた「ストリップ・ショウ・殺意」とを見くらべれば、現代文学の傾斜が明瞭にわかる。そして、この「殺意」と「三木清における人間の研究」「たぬき退治」とは、それのかかれる精神の状況において連関がある。このような作品は、決して民主的な精神が率直に評価されている時代には書かれもしないしジャーナリズムが買いもしない。
 文学に関心をもつすべての人々は、こんにちの日本文学の多くがこれでも文学であろうかという疑いを抱いている。人間として生きている何かの意味の感じられる文学をもとめている。小説は、退屈まぎらしによむものとしている人々でも、まずいタバコを軽蔑するように、どれもこれも同じようなジャーナリズム文学には、うんざりしているのである。
 文学がボロイ仕事でないと理解されることはむしろ理の当然である。そして、商業主義と文学の修業とは両立しがたい本質の差をもっているから、金にならなくても、文学の勉強はやめられない意味で、同人雑誌への関心がたかまったことも、たしかに「わるくない現象」である。『新日本文学』の編集委員会は、原稿料の極端にやすいこと、或は金の出せないことについて、従来のような経済主義一点ばりで非難され、冷視されることも、いくらか減ってゆくかもしれない。
 商品生産を目標としない文学の研究と発表場面がより増してゆくという点で、同人雑誌の活溌化は日本の現実のうちで何の非難されるところもないわけだけれども、火野葦平の文章をよんだ読者の心には、いくつかの疑問が生じはしなかったろうか。
 火野葦平は、文学、出版の現象において老舗の権威が恢復され「昔にかえった」その一つのこととして同人雑誌の活溌化にもふれている。「昔にかえった」火野葦平の社会的よろこびの感情の底は深いものであって、この「文芸放談」第三回は、その点でつよく感じさせるところがあった。火野葦平が同人雑誌の活溌化にふれて語っている自身の、陰忍自重四年の間待った甲斐あるこんにちのよろこびは、いかにも意味がふかい。首相は朝鮮での事件を、「天佑である」とよろこんでいる。そのこころに通じるものがあるようで、火野葦平、林房雄、今日出海、上田広、岩田豊雄など今回戦争協力による追放から解除された諸氏に共通な感懐でもあろうか。
 東京新聞にのった火野の文章のどこの行をさがしても、「昔にかえった」出版界の事情「老舗がのこっている」こんにちの状況に、最近三年の間強行されつづけて来た言論圧迫の影響と結果を見ようとされていない。ゆうべ(八月一日)NHKの街頭録音は、「政党は選挙公約の実現に努力したか」という題目であった。「はい、そこにいらっしゃるお若い方」と指されて答えた人は自由党支持者であったが、意見として、自由党は少し言論の圧迫をしすぎると思います、と答えた。自由党の支持者で、同じ意見をのべた人がもう一人あった。常識にうつっているこの現実は、作家たる火野葦平によって、おのれとともに「昔にかえった」姿としてだけとりあげられている。
 民主的出版物の編集が、ひとり合点で、不馴れであるし拙劣である上に、第三者に真の努力を感じさせるだけの迫力を欠いているということは、出版文化委員会の席上で、しばしば発言されたことであった。出版の仕事は客観的な現実のうちにさらされている事業だから、特殊なえこひいきをして弁解になるものではないし、「立場」の正当性ばかりで成立することでもない。それはそれとして自身の存在をたたかい、確立をかちとらなければならない。すべての人民の事業はきびしく同じ現実にさらされている。
 その点では、民主出版事業の自己批判がたゆみなくもとめられるのである。しかし、すべての善意の民主的出版社が自身の拙劣さとひとりよがりだけの原因で、経営破綻したものだろうか。たとえば「民報」がつぶれたのは、編集が下手だったからではなかった。金がない、という原因からばかりでのことでもなかった。もとより読者の支持がなかったから、つぶれたのではなかった。苦闘していた「民報」の最後に打撃を加えた出火事件の真相に対して、官憲はどんな調査をしただろう。
 のこっている老舗の一つが、依然として講談社であり、そのすべての講談社的特性において残存していることは、日本の現代に何を語るだろう。戦争の年々に老舗たる貫録を加え、「信ずるところあって筆を守って来た」或る種の作家のもちのよさが、こんにち証明されるとしたらそれは日本の人民の生活と文学とに対して、何を告げるものだろうか。

          二

 匿名批評家にアトムA・B・Cとあり、小原壮助という一つの獅子頭を三人のひとがかぶっている。小原壮助1/3が、七月十五日東京新聞の「大波小波」に「出版の自由か不自由か」という一文をかかげた。
『新日本文学』六月号が掲載した、「サガレンの文化」の中で、ソヴェト同盟の権力の下では同人雑誌を出すことを許されないということを知った、「同人雑誌こそ新しい文学の唯一の温床であるのに、それを欠く革命後のソ連文学がシーモノフにせよ」「『虹』にせよ、全く大衆小説で第二のゴルキーが出ないのも、かかる出版の自由(すなわち不自由)のもたらす成果であろう」と結ばれている。
『新日本文学』六月号「サガレンの文化――転換期の一断面」埴原一丞の文章の小原壮助に着目されている部分ではこうかいている。一九四七年、豊原市に二十人位の文学志望者があって、新聞『新生命』を中心に樺太文学協会をつくろうということになった。第一回会合が新生命社でもたれ、「サガレン文学」を出すことにきめたが、新聞社主筆ミシャロフ少佐が、それを禁じた。理由をきくと次のように答えられた。「それは同人雑誌の形式です。ロシアにも以前、革命前にはありましたが、今はありません。芸術は社会のもので、個人のものでありません。同人雑誌は個人のものにする恐れがあります」
 そして、六月号の『新日本文学』を読んでいる人に、くだくだしくくりかえすまでもなく、埴原一丞は、ミシャロフ少佐の説明として、資本主義の下での出版と社会主義社会での出版の方法が、どのようにちがうかをのべている。労働者農民の文学好きな人たちは、どのようにして職場からの通信員となり、大衆場面で文学的成長をとげてゆくかという過程にふれている。サガレンでは経験されなかったらしいが、一九三〇年ごろからソヴェトでは自立劇団と少数民族劇団が年に一度モスクワで演劇オリムピアードを開いて、一年間の成果を評価しあう。そのような労農通信員ラブセルコルのルポルタージュ・コンクール、小説コンクールももたれ、優秀な作品は出版される。すべての出版物は、特別なもののほか、いつもルポルタージュや小説、詩のための場面を、大衆の中からの執筆者に向って開放している。現代の若い作家の大多数は、そのような道をとおって成長して来ている。
 小原壮助は、社会主義社会では大衆的な場面を通って、一人の若ものが作家として成長して来るというプロセスに対して全然懐疑的であり、否定的である。「大衆の批判というものがどんなものか、我国の場合で考えても、志賀直哉と吉川英治を国民大衆の討議にかければ、後者が選ばれること論をまたない」と。
 小原壮助が、社会機構や生活感情のすべての、まるでちがう「我国の場合」を躊躇なく例としてひいて来ていることは注目される。たしかに「我国の場合で考え」ると、吉川英治が一位をしめるかもしれない。わたしたちは、一九四九年度の毎日文化賞のための世論調査の結果として、第一位が長崎の永井隆「この子をのこして」であり、第何位かに吉川英治を見出したのであったから。しかし、この一つの事実は、その事実が結論されて来るまでの条件として他のもう一つの予備的事実をふくんでいる。それは一九四九年度の調査のために、毎日新聞は一九四七年度の調査にあらわれた特に読書率の低い地方を対象としたということである。大都市よりも農村に。組織労働者の多いところより、全体として自覚ある労働者のすくない地方、政治的覚醒の著しいと見られていない地方を対象とした。
 毎日新聞のこの方法は、何回かの調査のうちに或る均衡を見出そうとするある試みであったかもしれないが、文化賞のための具体的根拠とはなり得なかった。文学の委員会は、それらの調査のどこにもあらわれていない「中島敦全集」とその出版社に文化賞を与えることに決定したのであった。このことは毎日文化賞そのものの社会的文化的意義の動揺を語っている。文化賞の対象の選定にあたって、「老舗」ののれんが物をいう反民主性に屈伏することであるのに、おどろかずにはいられまいと思う。
「同人雑誌」でさえあればそれが新しい文学の温床なのではなくて、旧来の文壇気質やジャーナリズムの現代文学の空虚さにあきたりない何かのつよい生活的文学的欲求があり、その表現として商品性に抵抗する同人雑誌があらわれてこそ、同人雑誌としての意義がある。昭和のはじめに簇出した『文芸時代』『近代生活』『文芸都市』その他は、資本主義の社会の生活と文学の中で個人的な展開を試みなければならなかった人々の同人雑誌であった。したがって、それらの人々の文学上の流派が――新感覚派にしろ、新心理主義にしろ、当時に何かアッピールするものがあったために、商業ジャーナリズムの上に流通するようになるとともに、同人雑誌の中に自然の生存競争が生じ、数名の「老舗」と、歴史の波間にかくされる他の数名とを生んで来た。火野葦平が「文壇登龍門」とし、「道場」という同人雑誌も、そこから現在の文壇有名人の大部分が出て来ているというならば、その底には、それらの同人雑誌が当時にもっていた何かの前進性、敢て試みる文学上の何かの勇気があったわけであった。
 小原壮助は、ソヴェトに同人雑誌を発行する自由がないという面だけにひどくとらわれて、いちずに、「同人雑誌こそ新しい文学の唯一の温床」と強調している。しかし、新しい文学とは何であろうか。「バクロウが牛の掘りだしものをさがすように」ジャーナリズムに見つけ出され、製造された新人の多くが、本質的に新しい文学を創る力をもつものでなかったことを、火野葦平はむしろ、欣然として認めている。小原壮助の実体の明かでない同人雑誌尊重の論を、火野葦平の「同人雑誌本来の姿」に関する説明とあわせよんだひとは、「新しい文学の唯一の温床」たる同人雑誌が、もし火野葦平の考えるようなものであるならば、それは、全く「昔のとおり」文壇ギルドへの立ちがえりであり、先輩、後輩間の封建的な格づけに従属することであるのにおどろかされるであろうと思う。

          三

 現代文学は創作方法において、益々行きづまって来ていて、文壇とジャーナリズムの文学意識では、打開するに道も見出しにくい有様になった。
 一人一派的な文学上の独創性を求めて、同人雑誌によるとしても、徒労であるにすぎない。何故なら、こんにちわたしたちにとって最も重要なのは、戦後五年間の日本で、誰の目にもおおいがたくすりかえられて来た反民主的な諸力に対して、わたしたちの生活と文学は、どのようにたたかいつづけてゆくか、というプログラムをもっているか、もっていないかの問題であるから。最近数年間、労働者階級は、ともかく自分たちの階級として組織された闘争力をもっていた。階級の自主的な文化の課題として文学が語られていた。現在、この網目は、ずたずたに切られ破られつつある。集団として経済、政治、文化の問題をとりあつかい、より社会化されつつあった言説の反面に、同じテムポで成熟するひまのなかった新しい労働者階級の人間性――階級的人格形成の問題がのこされていることは、こんにちただ、文学の問題に止る現実ではない。
 有形無形の集団力によって働いて来た生活が、孤立させられたとき、その心理は複雑で、多く自分というものの再発見、再確認が行われる。その再発見、再確認の過程で、その人の運命と階級の運命のために、どのように望ましい力として自己を再発見するか、ということは、簡単に保証できない。その人の階級的人間性が、どのように階級としての理由によって覚醒されているかということに多くの比重がかかって来る。階級の文学を、組合主義、目先の効用主義一点ばりで理解するように啓蒙されて来た人があるとすれば、その人は街の角々に貼り出されていた矢じるし目あてに機械的に歩かせられて来ていたようなものだから、一夜の大雨ですべての矢じるしが剥がれてしまったある朝、当然わが行手に迷う当惑に陥る。階級的人間形成の道としての政治、文学の教育は、つけられた矢じるしをたよりに、かけ声かけて走る人々ばかりをつくることではないわけだった。権力とその結托者たちの残虐性によって、どのような孤立におかれようとも、世界の人民としての階級連帯の感覚、その文学としての人民としての人民的世界性を見失わない一個の階級人として構成された存在、その方向へ自主的に発展してゆく可能を与えるものであるはずではなかったろうか。
 現在民主的な新しい文学を念願して、そのために生活的にも文学的にも努力している人々の間に、いくつもの同人雑誌が発刊されている。最近出ているこれらの同人雑誌には共通な一つの特色が見られる。それは、これらの同人雑誌は、一九二五、六年ごろ川端康成その他十九名の同人によって発刊された『文芸時代』のように、「新感覚派」という一つの文学流派を旗じるしとしていないという点である。また「『戦旗』創刊と対立するもの」(伊藤整「新興芸術派と新心理主義文学」近代文学八月)として、『近代生活』『文芸都市』が、「非左翼的同人雑誌のうちの最も有力な作家を集めてつくった集団」を目ざして、創刊されているのでもないということである。特集ルポルタージュ「鋳物の街・川口の表情」「地の平和の緑樹園、安行植木苗木地帯を往く」などで、生活的・文学的感覚を社会的にひろめ深めてゆこうと努力している点で注目をひいている『埼玉文学』にしろ、同人たちは、より人間らしい社会生活の確保と、その文学の確立のために尽力してゆくという大きくて永続的な人民的努力のうちに、埼玉在住の人々の各種各様の文学的傾向と素質とをつつんで、民主的方向に発展させようと志している。会の運営は民主的な会議制を原則とすると明記していることも、旧い文壇の先輩、後輩のしきたりにとらわれたり、ひきにたよったりする文学的卑屈さを排そうとする性格をあらわしているように見える。同人雑誌であってもその中で積極的な能力を示す、人々のヘゲモニーのもとに一つのせまい文壇的流派にあつめようとするよりも、むしろ、これまで、より細分された文学愛好者グループとして、旧い文学と文壇潮流からうけて来ている個性の偏倚や文学観のかたよりを解放しようとする方向にある。一定の成功を示しているか、それともまだ緒についたばかりであるか、というちがいはあるにしろ、こんにち、人民生活の独立と自由と平和をねがって、文学もその心の叫びとし、行動と信じている人々の間で、同人雑誌は、少くとも在来の文壇とジャーナリズムの上に「老舗」たらんとする「文壇の登龍門」や「道場」ではない。
〔一九五〇年十一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「新日本文学」
   1950(昭和25)年11月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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